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2025/05/11

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「富士山北麓鼠怪」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号を附加した。]

 

 「富士山北麓鼠怪」 富士郡富士山の北麓にあり。「東鑑」云《いはく》。『治承四年十月二十五日、俣野五郞景久、相駿河國目代橘遠茂カ軍勢、爲ㇾ襲武田一條等源氏ヲ一、赴甲斐國。而昨日及昏黑之間、宿スル富士北麓之處、景久並郞從、所ノㇾ帶スル百餘張ノ弓ノ弦、爲ㇾ鼠被食ヒ切ラ一畢。仍テ失思慮之刻、安田三郞義定、工藤庄司景光、同子息小次郞行光、市川別當行房、聞石橋被ㇾ遂合戰、自甲州發向スル之間、於彼志太山、相景久等、各廻ラシㇾ轡飛矢攻責景久、挑刻、景久等依テㇾ絕ツニ、雖ㇾ取ルト太刀、不ㇾ能禦矢石、多ㇾ之、安田已下之家人等、又不ㇾ免、然而景久令雌伏逐電。云云』。奇と云べし。

 

[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」では、何の注も附していないが、「東鑑」(=「吾妻鏡」)のこの記事、「治承四年十月」とあるのは、「治承四年八月」の誤りである。以下、原本(『國史大系』)と対照し、当日のカットされている頭の箇所を補い(実際には上記の記事の後も続くが、そこはカットした)、また、送り仮名が不全なので、適宜、送り仮名・難読と思われる箇所に読みを添えてオリジナルに訓読する(所持する訓読本二種を参考した)。

   *

小廿五日[やぶちゃん注:治承四年八月。ユリウス暦十一月十四日・グレゴリオ暦換算十一月二十一日。] 乙巳 大庭三郞景親、武衞の前途を塞(ふさ)がんが爲(ため)に、軍兵(ぐんぺう)を分かちて、方々の衢(ちまた)に、關、固(かた)む。

俣野五郞景久、駿河國の目代(もくだい)橘遠茂が軍勢を相具(あひぐ)し、武田・一條等の源氏を襲はんが爲に、甲斐國(かひのくに)に赴く。而るに、昨日、昏黑(こんこく)に及ぶの間、富士北麓に宿するの處、景久幷びに郞從(らうじゆう)、帶(たい)する所の百餘張(ちやう)の弓弦(ゆづる)、鼠の爲に喰ひ切られ畢(をは)んぬ。仍(よ)つて思慮を失ふの刻(きざみ)、安田三郞義定・工藤庄司景光・同子息小次郞行光・市川別當行房、石橋に於いて合戰を遂げらるる事を聞き、甲州より發向の間(あひだ)、波志太山(はしたやま/はしだやま)に於いて景久等に相逢ふ。各(おのおの)、轡(くつわ)を𢌞(めぐ)らし、矢を飛ばし、景久を攻め責む。挑み戰ひ、刻(とき)を移す。景久等(ら)、弓弦を絕つに依つて、太刀を取ると雖も、矢石(しせき)を禦ぎ能はず。多く、以つて、之れに中(あた)る。安田已下(いか)の家人(けにん)等、又、劔刃(やいば)を免かれず。然れども、景久、雌伏(しふく)せしめて、逐電すと云々。

   *

鎌倉市研究をしている私には、登場人物は孰れも馴染みの人物であるから、注は附さない。悪しからず。何人かは、ウィキの「波志田山合戦」のリンク先で判る。

「波志太山」は前記リンク先でも記されてあるが、比定地が定かでない。平凡社「日本歴史地名大系」によれば、『波志太山』『はしだやま』『山梨県:南都留郡波志太山』『甲斐・駿河国境付近にあった山名。比定地については、現足和田(あしわだ)村と鳴沢(なるさわ)村にまたがる足和田山(一三五五メートル)、現静岡県沼津市の愛鷹(あしたか)山(一一八八メートル)などとする説のほか、波志太山は八朶山で漠然と富士山麓をさすという理解もある。治承四年(一一八〇)八月二五日、石橋(いしばし)山(現神奈川県小田原市)へ向かおうとする安田義定・工藤景光・工藤行光・市川行房らの甲斐源氏と、甲斐に攻め入ろうとした俣野景久・駿河目代橘遠茂軍との戦闘がここで行われ』、『甲斐源氏が勝利している(吾妻鏡)』とある。]

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