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2025/06/30

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 呉茱萸

 

Gosyuyu

 

ご しゆゆ

        和名加波波之加美

呉茱萸

 

ウヽ チユイ イユイ

 

本綱呉茱萸今𠙚𠙚有之江淮四川猶多木髙𠀋餘皮青

綠色枝柔肥葉長而皺似椿而闊厚紫色三月開紅紫花

七八月結實於梢頭纍纍成簇而無核嫩時微黃至熟則

深紫有粒大者小者二種小者入藥爲勝懸其子於屋辟

鬼魅

子【辛温有小毒】 浮而降陽中陰也【足太陰經血分及少陰經厥陰經氣分】其用

 有三去胸中逆氣滿塞【一】止心腹感寒㽲痛【二】消宿酒

 爲白豆蔲之使【三】也皆取其散寒温中燥溼解鬱之功

 而已陳久者良不宜多用恐損元氣

 九月九日折茱萸以揷頭或用絳囊盛茱萸以繫臂上

 登髙飮菊花酒則能辟惡氣【見風土記及統齋諧記】

△按吳茱萸本朝古有之今絕無


 おほたら  越椒 欓子 辣子 藙【音毅】

 食茱萸 榝【音殺】 艾子 和名於保太良

 

本綱食茱萸南北皆有之其木亦甚髙大有長及百尺者

枝莖青黃上有小白㸃葉類油麻其花黃色子叢簇枝上

綠色其味辛辣蜇口惨腹【蜇音浙螫也ヒリツク也慘音參酷毒也痛也】

實【辛苦有小毒】 功同呉茱萸力少劣爾【此與呉茱萸一類二種也】

 以椒欓薑爲三香入食物中用之而今貴人罕用之

△按食茱萸亦古者本朝有之今無乎

 

   *

 

ご しゆゆ

        和名、「加波波之加美《かははじかみ》」

呉茱萸

 

ウヽ チユイ イユイ

 

「本綱」に曰く、『呉茱萸は、今、𠙚𠙚《しよしよ》に、之れ、有り。江淮《かうわい》[やぶちゃん注:長江と淮水(黄河と長江の間を東西に流れる第三の大河。下流にある湖で二手に分かれ、放水路は黄海に注ぎ、本流は長江に繋がる。現代では「淮河」と呼称する)。]・四川に、猶を[やぶちゃん注:ママ。]、多し。木の髙さ、𠀋餘《じやうよ》。皮、青綠色。枝、柔にして、肥へ[やぶちゃん注:ママ。]、葉、長《ながく》して皺(ちぢ)み、椿(チヤンチン)[やぶちゃん注:双子葉植物綱ムクロジ目センダン科 Toona 属チャンチン Toona sinensis 本邦の椿(つばき=藪椿:ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ Camellia japonica )とは全く縁がない。これは、本プレジェクトの「卷第八十三 喬木類 椿」で、最初の迂遠な考証で明らかにしてあるので、見られたい。]に似て、闊(ひろ)く、厚く、紫色。三月に、紅紫≪の≫花を開く。七、八月、實を梢の頭《かしら》に結ぶ。纍纍《るいるい》として、簇《むらがり》を成して、核《さね》、無し。嫩《わか》き時、微黃、熟するに至《いたり》ては、則《すなはち》、深紫なり。粒、大なる者、小《ちさ》き者、二種、有り。小き者、藥≪に≫入《いれて》、勝《すぐ》れりと爲《なす》。其《その》子《み》、屋《おく》に懸《かく》れば、鬼魅《きみ》を辟《さ》く。』≪と≫。

『子【辛、温。小毒、有り。】』『浮《うき》て、降《くだ》る。陽中の陰なり【足の「太陰經」の血分、及び、「少陰厥陰經」の氣分≪なり≫。】。其の用、三つ、有り。胸中の逆氣滿塞《ぎやくきまんそく》を去る【一つ。】。心腹の感寒・㽲痛《こうつう》[やぶちゃん注:急性の腹痛。]を止む【二つ。】。宿酒《ふつかよひ》を消し、「白豆蔲《びやくづく》」[やぶちゃん注:インド産のショウガ科の植物アモムム・スブラトゥム(単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科アモムム属 Amomum subulatum )の果実。別に本邦では「しろづく」(現代仮名遣「しろずく」)とも呼ぶ。]の使《し》と爲《す》る【三つ。】なり。皆、其《それ》、寒を散じ、中《ちゆう》を温め、溼《しつ》を燥《かは》かし、鬱を解《かい》するの功を取るのみ。陳久《ちんきう》なる者[やぶちゃん注:採取から時間が経った古い物。]、良し。≪但し、≫多く用《もちひる》≪は≫、宜しからず。恐らくは、元氣を損《そんず》≪ればなり≫。』≪と≫。

『九月九日、茱萸を折りて、以《もつて》、頭《かしら》に揷(さ)し、或《あるいは》、絳(もみ)[やぶちゃん注:色名。深紅色。]の囊(ふくろ)を用《もちひ》て、茱萸を盛り、以《もつて》、臂《ひぢ》の上に繫《つなぎ》て、髙《たかき》に登り、菊花酒《きくくわしゆ》を飮めば、則《すなはち》、能く、惡氣《あくき》を辟く【「風土記《ふうどき》」[やぶちゃん注:後で示すが、中国の晋代の書物であるから、「ふどき」とは読まないでおく。]及び「續齋諧記」に見ゆ。】。』≪と≫。

△按ずるに、吳茱萸、本朝、古《いにし》へは、之《これ》、有《あり》て、今は、絕《たえ》て、無し。


 おほだら  越椒 欓子《たうし》 辣子《らつし》

       藙【音「毅《キ》」。】 榝【音「殺」。】

       艾子《がいし》

       和名、「於保太良《おほだら》」。

 食茱萸

 

「本綱」に曰はく、『「食茱萸《しよくしゆゆ》」は、南北に、皆、之《これ》、有り。其《その》木≪も≫亦、甚だ、髙大にして、長さ、百尺に及《およぶ》者、有り。枝・莖、青黃[やぶちゃん注:確かに原本もそうなっているが、「青黃」では緑色になってしまうので、これは、「枝」が「青」で、「莖」が「黃」の意ではなかろうか? と思ったのだが、当該種カラスザンショウ(注で詳細に後掲する)の複数の画像(グーグル画像検索「カラスザンショウ 枝 葉」を見ると、茎は黄色のものも見えるものの、これは、太く木化したもので、多くの枝・葉は「緑」であるものが多い。葉は紅葉すると黄色だが、これは「青黃」で「綠」のことと採るのが無難なようである。「本草綱目」では、以下、「青黃(色)」という表現が頻繁に出るからでもある。]、上に、小≪さき≫白㸃、有り。葉、「油麻《ゆうま》」に類す[やぶちゃん注:胡麻(ゴマ)。双子葉植物綱シソ目ゴマ科ゴマ属ゴマ Sesamum indicum の葉(グーグル画像検索)とカラスザンショウのそれは、葉がちょっと広過ぎるが、似ているといえば、似ていると言えなくもない。しかし、私なら、「同類である」とは逆立ちしても言わないな。]。其《その》花、黃色。子、枝≪の≫上に叢-簇《むらがりな》す。綠色。其《その》味、辛-辣《から》く、口を蜇《さす》。腹を惨《いたむる》』≪と≫。【「蜇」は音「浙《セツ》」。「螫(さ)す」なり。「ひりつく」[やぶちゃん注:「ヒリヒリする」。]なり。「慘」は音「參《サン》」。「酷《むごき》毒《どく》」なり。「痛《いたし》」なり。】[やぶちゃん注:カタカナが用いられているから言うまでもないが、この割注は良安が附したものである。]

『實【辛苦。小毒、有り。】』『功、呉茱萸に同《おなじく》して、力《ちから》、少《すこし》、劣れるのみ【此れ、呉茱萸と一類二種なり。】』≪と≫。

『椒《せう》・欓《たう》・薑《きやう》を以《もつて》、「三香《さんかう》」と爲《なし》、食物の中に入《いれ》て、之《これ》≪を≫用ふ。而≪れども≫、今、貴人、之《これ》≪を≫用ること、罕《まれ》[やぶちゃん注:「稀・希」に同じ。]なり。』≪と≫。

△按ずるに、「食茱萸」も亦、古《ふるく》は、本朝、之《これ》、有《あれども》、今、無《なき》か。

 

[やぶちゃん注:「呉茱萸」は、

双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ゴシュユ属ホンゴシュユ Tetradium ruticarpum var. officinale

とする。これは、東洋文庫訳の本文で『呉茱萸(ミカン科ホンゴシュユ)』とすることウィキの「ゴシュ」を見たところ、『ゴシュユ』を

ゴシュユ属ゴシュユ Tetradium ruticarpum

としつつ、『シノニムEuodia ruticarpa 』とした後に、『別名ニセゴシュユ』「偽茱庾」であろう)とすることから、「ニセ」でない「ホン」の方が正しいのではあるまいか? と、まず、踏んだことによる。

しかし、やはり、最も信頼のおける「跡見群芳譜」の「農産譜」の「ごしゅゆ(呉茱萸)」を見るに、『シュユ属 』『(呉茱萸 wúzhūyú 屬)には、東』『アジア』と『東南アジア・ヒマラヤに』九『種がある』とされ(ホソバハマセンダンが、二度、出ており、それでは、十種になってしまうので、シノニムとして整理した。完全引用していないのは、学名が斜体になっていないためである。なお、太字は私が附した)、

Tetradium austrosinense(シノニム:Euodia austrosinensis :『華南呉茱萸』:『兩廣・雲南産』

Tetradium calcicola(『石山呉茱萸』:『廣西・雲貴産』)

イヌゴシュユ Tetradium danielli(シノニム:Euodia danielliiTetradium baberi :『臭檀・異花呉茱萸』:『陝西・湖北・四川産』)

Tetradium fraxinifolium (『無腺呉萸・稜子呉萸』:『雲南・チベット・ヒマラヤ産』)

ホソバハマセンダン Tetradium glabrifolium(シノニム:Tetradium taiwanense:『楝葉呉茱萸・檫樹・臭辣樹・獺子樹・野呉芋・山辣子』:『河南・陝西・華東・臺灣・兩湖・兩廣・四川・貴州・雲南・東南アジア・ヒマラヤ産』)

ハマセンダンTetradium fraxinifolium var. glaucum(シノニム:Euodia glauca :日本の『本州三重以西・四国・九州・琉球・臺灣産』)

ゴシュユ Tetradium ruticarpum(シノニム:Euodia ruticarpaEuodia bodinieri Euodia var. bodinieri:『波氏呉茱萸』・『呉茱萸』

ホンゴシュユTetradium ruticarpum var. officinale(シノニム:Euodia officinalis :『石虎・呉芋』)

Tetradium trichotomum(シノニム:Euodia trichotoma :『牛枓呉萸・牛糺樹・茶辣・山呉萸』:『廣西・四川・貴州・雲南・ベトナム産』)

が掲げられてあった。ところが、同ページでは、別に、『漢名を茱萸』(『シュユ』:『zhūyú)と言うものには、次のものがある』とされて(リンクは同サイトの独立ページ。写真有り)、

サンシュユ(山茱萸) Cornus officinalis

ゴシュユ(呉茱萸)Tetradium ruticarpum(シノニム:Evodia rutaecarpa

カラスザンショウ(食茱萸・Zanthoxylum ailanthoides

とあり、『中国で歴史的に茱萸と呼び、その実を』九『月』九『日に食ってきたものは、食茱萸』であると、明確な説明があった。これによって、やはり、

◎ゴシュユ属ゴシュユ Tetradium ruticarpum

が正しいようである。序でに、以上から、

附録の「食茱萸」は、現行では、当該ウィキによれば、

ミカン科サンショウ属カラスザンショウ変種カラスザンショウ Zanthoxylum ailanthoides var. ailanthoides

で決まりである。

ウィキの「ゴジュユ」によれば、『ゴシュユ(学名:Tetradium ruticarpum )とはミカン科の植物の一種。(シノニム Euodia ruticarpa )。別名ニセゴシュユ』。『中国中~南部に自生する落葉小高木。日本では帰化植物。雌雄異株であるが』、『日本には雄株がなく果実はなっても種ができない。地下茎で繁殖する』。八『月頃に黄白色の花を咲かせる』。『本種またはホンゴシュユ(学名 Tetradium ruticarpum var. officinale 、シノニム Euodia officinalis )の果実は、呉茱萸(ゴシュユ)という生薬である。独特の匂いと強い苦みと辛味を有し、強心作用、子宮収縮作用などがある。呉茱萸湯、温経湯などの漢方方剤に使われる』。『有効成分はインドールアルカロイドのエボジアミン(evodiamine)、ルテカルピン(rutaecarpine)』、『ヒゲナミン(higenamine)、シネフリンなど』とある。「維基百科」の「吳茱萸」には、『温暖な地域に植生する。中国では、主に揚子江以南の地域に分布する』とある。その「歴史」の項には、「神農本草經」・「名醫別錄」及び、唐代の陳藏器の説、宋代の蘇頌の説、明代の本「本草綱目」の李時珍の説が、短く紹介されてあり、全体も、以上の本邦のウィキよりも遥かに詳しい。

 序でに、「食茱萸」相当の、本邦の「カラスザンショウ」のウィキも引いておく(注記号はカットした)。『山地や海岸近くに生える』。『サンショウと違ってアルカロイドを含むので、イヌザンショウ』(先行する「第八十九 味果類 蔓椒」を見よ)『とともにイヌザンショウ属(Fagara)に入れる場合がある』。『アゲハチョウ科のチョウの食草になっている』。『中国名は「椿葉花椒」「食茱萸」。学名の「 ailanthoides 」は、「シンジュ( Ailanthus )』(ムクロジ目ニガキ科ニワウルシ属 Ailanthus 。ウルシ(ウルシ科)とは全くの別種で、ウルシのようにかぶれる心配はない)『のような(-oides)」の意味』。『日本では本州(下北半島の脇野沢以南)、四国、九州、沖縄、小笠原諸島に分布する。日本国外では、朝鮮半島南部、中国、台湾、フィリピンなどに分布する。沿岸地や山野に普通に生える。特に伐採跡などの裸地にいち早く伸び出して葉を広げる先駆植物である』。『落葉広葉樹の高木で、高さは』十五~二十五『メートル』『にもなる。上方で枝を大きく横に広げる樹形になる。樹皮は灰褐色で、短くて鋭いトゲがあり、老木では』疣『状になってトゲの痕が残る。若い枝は緑色や紅紫色で無毛で、枝にもトゲが多い。葉は』一『回奇数羽状複葉。葉の形状はニワウルシ/シンジュ(神樹)に似る。小葉は広披針形で、普通のサンショウに比べて』、『はるかに大きな葉をつける。葉の裏は白っぽい。サンショウ同様、葉には油点があり、特有の香りがある』。『花期は』七~八『月。雌雄異株。花は小さく、枝の先に多数』、『咲く。紅紫色の球形をした実をつけて黒い種が露出し、特有の香りを持つ。実は辛味があるが』、『サンショウほどではない。冬でも枯れた果実が枝先に残ることもある』。『冬芽は半球形で小さな鱗芽で、芽鱗は』三『枚ある。枝先に仮頂芽をつけ、側芽は枝に互生する。葉痕は大きく目立ち、維管束痕が』三『個つく』。『サンショウ属の他の種に比べ、葉がはるかに大きいため、類似種との区別ができる。また、他の大柄な羽状複葉をつける樹木とは、幹のトゲと葉のにおいで区別できる』。『本種を食草とするチョウにはカラスアゲハ、ミヤマカラスアゲハ、モンキアゲハ、ナミアゲハ、オナガアゲハ、クロアゲハがある』。以下、「日本の利用」の項。『普通食用にはしないが、若芽・若葉は天ぷらにすることがある。清涼感のある独特の風味の蜂蜜がとれるので、蜜源植物ともされる。また、葉を駆風、果実を健胃薬とし、枝はサンショウ同様』、『すりこぎとしても使用されている。刺部の数が多いことからサンショウの物とは区別ができる』とあった。

 なお、以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の「呉茱茰」(ガイド・ナンバー[079-14a]以下)の長い記載のパッチワークであり、附録の「食茱萸」は、その項に次ぐ独立項「食茱萸」(ガイド・ナンバー[079-20a]以下)のパッチワークである。

『足の「太陰經」の血分、及び、「少陰經厥陰經」』東洋文庫訳の後注に、両者の解説がある。但し、「本草綱目」の記載が不全なのか、一部で補足が行われている。しかし、訳文と後注に相違があっておかしな箇所がある。前者の『足の「太陰肺經」は、『巻八十九蜀椒の注一参照。』とある。私の「第八十九 味果類 蜀椒」の「手足の太隂」の注で、そこに『身体をめぐる十二経脈の一つ』とし、『足の太陰肺経は足の親指の末からおこり、脚の内面を上り腹部に入って肺に連なり腎につながる。さらに横隔膜を通って咽喉から舌に行く。支脈は胃部から分かれて心臓に達する。』とある。その次の「少陰經厥陰經」は「少陰經」を分離し、訳では、『足の』『小陰経』とありながら、『足の少陰腎経』となっており(訳と違う)、『足の小指の下から足の裏を通って内股へ上り、腎に入って膀胱(ぼうこう)に連なる。もう一つは腎から肝を通って肺に入り、咽喉・舌までのぼる。もう一つは肺から出て心に連なり胸へ入る。』とある。而して「厥陰經」については、訳を『足の』『厥陰経』とし、注では『足の厭陰肝経』とし(訳と違う)、『足の拇指(おやゆび)の先から内股をのぼって陰部へ入り、下腹部から肝・胆に連なる。さらに側胸部から咽喉のうしろを通って眼に出て頭頂へ上る。もう一つは肝から肺、そこから下って胃に至る。』となっている。

「逆氣滿塞」東洋医学では、気は体内で一定の方向に流れていると考えられており、通常、気は上半身から下半身へ、また、体表から内臓へと下降する流れが正常とされる。この「逆氣」は、気が逆流し、上半身に気が滞り、「のぼせ」・動悸・頭痛・「めまい」などの症状を引き起こし、下半身は冷えやすくなる傾向を示すそうである。「滿塞」は、「みぞおちのつかえ」や「胸脇苦満」(肋骨弓の下の季肋部から脇腹にかけて膨満感・圧迫感・苦痛を感じる状態を指す)といった症状を指す。

「九月九日、茱萸を折りて、以《もつて》、頭《かしら》に揷(さ)し、或《あるいは》、絳(もみ)[やぶちゃん注:色名。深紅色。]の囊(ふくろ)を用《もちひ》て、茱萸を盛り、以《もつて》、臂《ひぢ》の上に繫《つなぎ》て、髙《たかき》に登り、菊花酒《きくくわしゆ》を飮めば、則《すなはち》、能く、惡氣《あくき》を辟く」「重陽の節句」に行われる「登高」(とうこう)の行事である。漢文で杜甫の七言律詩「登高」で何度も教えたものだ。サイト「中国語スクリプト」のこちらを見られたい。当該ウィキより、そこにある「重陽の節句」のページ(同サイト内リンク)が遙かに詳しく、よい。

「風土記《ふうどき》」東洋文庫訳の巻末の書名注に、『晋の』武将『周拠』(しゅうしょ二三六年~二九七年)『撰。歳事記的史料を多く含む地誌。中国南部の記述が多い。原本は亡佚。』とある。

「續齋諧記」南朝梁の官僚・文人・歴史家であった呉均(六九年~五二〇年)によって書かれた志怪小説集。

「按ずるに、吳茱萸、本朝、古《いにし》へは、之《これ》、有《あり》て、今は、絕《たえ》て、無し。」「東邦大学 薬学部付属 薬用植物園」の「ゴシュユ」には、『中国原産の雌雄異株の落葉低木です。日本には江戸時代』、『享保年間』(一七一六年から一七三六年まで)『に小石川植物園に植えられ、これから株分けされて各地に広まりました。しかし渡来したのは雌株だけなので、種子のない果実しかできません』。『それより以前』、(九一八)『年に著された「本草和名」では、日本名はカラハジカミとしています。当時は乾燥果実を中国から生薬として導入していたものが、ハジカミと呼ばれていた山椒に似ていることから“唐の国の山椒”の意でカラハジカミとなったのでしょう。樹高は』三メートル、『葉は対生、楕円形の葉は先が急に尖がり、葉柄、歯の裏には柔毛があります。花期は初夏、円錐花序をだして白い小さな花をつけます。しかし日本には雄株が無いので』、『結実はしませんが、紫褐色の蒴果となります。種子はなくても果実は薬用となります』とある。この良安の謂いは、後者の渡来した漢方薬を勘違いしたものであろうか? 「植生していたのに、今は、ない」ったあ、どの口で言うかねぇ? 良安さんよ! 医師・本草家として、およそ、サイテーだぜ!

「欓《たう》」カラスザンショウを指す。

「薑《きやう》」単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ショウガ Zingiber officinale

『按ずるに、「食茱萸」も亦、古《ふるく》は、本朝、之《これ》、有《あれども》、今、無《なき》か』不審。カラスザンショウは本邦に分布するぜ? 良安さんよ?

2025/06/28

甲子夜話卷之八 27 御能のとき、觀世新九郞、𪾶りて老松を半ば打たる事

8―27 御能(おのう)のとき、觀世新九郞、𪾶(ねぶ)りて「老松(おいまつ)」を半ば打(うち)たる事

 

 小技曲藝(こわざきよくげい)も、上達に至(いたり)ては理外(りがい)なることもある也。

 壬午(みづのえうま/じんご)三月、御大禮(ごだいれい)二日目、御能のとき、小鼓打(こつづみうち)の觀世新九郞【豐綿(とよつら)。】、「翁」の頭取(とうどり)をうちたり。脇鼓(わきつづみ)は其弟總三郞なり。

 御能、畢(をは)り、歸宅して、總三郞[やぶちゃん注:「そうさぶらう」か。]始(はじめ)、弟子などを呼集(よびあつ)め、新九郞、云(いふ)よう[やぶちゃん注:ママ。]、

「我、是(これ)まで頭取をうちたること數十度(すじゆうたび)、然(しか)るに、今日の如く出來宜(よろ)しと覺へしこと、なし。因(より)て、心、甚(はなはだ)悅(よろこ)ばしければ、汝等を饗(きやう)せん。」

とて、酒・吸ものなど、出(いだ)して相共(あひとも)に歡飮(くわんいん)せり。

 酒、酣(たけなは)なるとき、新九郞、曰(いはく)、

「脇能『老松』のとき、この喜(よろこび)ゆゑか、思はず、『𪾶りたり。』と覺へて、しばし、恍惚たり。驚(おどろき)、寤(さむ)れば、其舞(そのまひ)の三段目の所にてありける。仕手(シテ)拍子を蹈(ふむ)に心づきて、三段の頭打(かしらうち)にて取續(とりつづ)きたり。」

と語れり、と。

 然(さ)れば、其前(そのまへ)は夢中にてうちゐたるが、練熟(れんじゆく)の極(きはみ)にて擊節(げきふし)の違(たが)はざるも、上手(じやうず)故(ゆゑ)なるべし。

 

■やぶちゃんの呟き

「壬午三月、御大禮」当初、私は、辞書的な狭義の意味での「御大禮」と採って、『この干支は月の前にあるので、年号のそれでしか採れないのだが、静山が誕生から逝去する間に、「壬午」の年に天皇の即位は見当たらない。静山の生まれる前も調べたが、ない。不審。静山の誤りかと思われる。』と注していたのだが、私は能楽には詳しくないので、本篇全体について、私の最大の秘蔵っ子――というより私が柏陽高校で最初に三年間ずっと担任をした若き親友――にして能楽に詳しい彼に、書いた記事を見て貰ったのだが、何よりまず(太字は私が附した)、『静山が甲子夜話を書き始めた直後の』(彼は文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜に執筆を開始した)文政五(一八二二)『年が壬午にあたります。時に将軍は家斉。後』の天保八)一八三七)『年に将軍の地位に着くことになる家慶が』、この文政五『年壬午の年のまさに』三『月』五日に『正二位、内大臣に昇叙されているようです』ウィキの「徳川家慶」によれば(太字は私が附した)、『将軍継嗣の段階で内大臣に任官したのは徳川秀忠以来の出来事であ』り、『世子であった家慶』『の官位も異例の高位のものとなった』とある)。『この祝いの席上での演能であるかと推測します』とメールで伝えて呉れた。而して、小学館「日本国語大辞典」を見ると(太字・下線は私が附した)、「大礼」には『国家・朝廷の重大な儀式。即位・立后などの類』とあり、さらに、見たところ、後に『大礼能』(ここでは「たいれいのう」の清音の見出しである)があり、そこに、『江戸時代、将軍家に大礼があった時、あったときに催された能。町入能(まちいりのう)。』とあるのを見つけた(濁音と清音の違いは、しばしば、正規の儀式と、それに附属する儀式を差別化する際に、古くからあった風習である)。されば、彼の示してくれたものが、この「御大禮」であることは、間違いない。因みに、事実、「御大禮」という語が使用された、まさに家斉のケースに就いて、サイト「慶應義塾大学文学部古文書室」内の「展示会」の「御引移御用掛御役人付 天保八年版」があり、その「知る」に、『江戸幕府11代将軍徳川家斉(1773-1841)から12代家慶(1793-1853)への代替わりにあたって行われた様々な儀式に関し、御用掛となった大名・幕臣、朝廷からの使者に任じられた公家等を一覧にしたものである。徳川家斉が天保842日に隠居すると、家慶が徳川将軍家を相続して大納言から左大臣に昇進、同年9月の将軍宣下で正式に征夷大将軍となった。将軍の世継ぎ(世子)として江戸城西丸に居住していた家慶は、大御所となった家斉と入れ替わる形で本丸へ移ることとなった。表題にある「御引移御大礼」』(☜)『はその儀式を指している。家斉は大御所となったのちも実権を握り、その側近が政治を左右したことから、「西丸御政事」とも呼ばれた。政治の実権も家斉の移動とともに、西丸へ移ったのである。本資料冒頭に名前がみえる「水野越前守」は、家斉の死後、「天保の改革」の名で知られる幕政改革に着手する老中水野忠邦(1794-1851)である』とあり、「見る」の「展示画像一覧」のここの左上二番目の扉に「御大禮御用掛御役人附」(☜)(「掛」は異体字表記)とあるのを見出した。因みに、長いので引用はしないが、ネットで調べた中では、サイト「能楽を旅す。」の「コラム」の「能が江戸幕府の儀式に欠かせない式楽となるまで」も大いに参考になるので、是非、読まれたい。

「觀世新九郞【豐綿(とよつら)。】」調べてみると、小鼓観世家十世で享和三(一八〇三)年時点で、当時の家元であった。この年で、静山は数え四十四歳である。

「頭取」能で、「翁」(おきな)・「三番叟」(さんばそう)を上演する際、小鼓方三人のうち、中央に座る主奏者。

「脇能」「デジタル大辞泉」によれば、本来、「翁」の次に演じられ、『「翁」の脇』の意から、かく言う能の分類の一つを指す。正式の五番立ての演能で、最初に上演される曲であり、神などをシテとする。神能(かみのう)・脇能物・初番目物。

「擊節」原義は「節」は「叩いて拍子をとる竹の楽器」の意。ここは、鼓を叩いて拍子をとることを指す。

 なお、教え子は、本篇の内容について、『それにしても佳い話です。江戸時代の人々が小鼓のリズムに感じることのできた恍惚を、もう現代の我々は感じることはできないでしょう』と添えつつ、さらに、追加のメールでは、『この話、真実であると確信します。私の経験から言うのですが、そもそも能は夢見心地に浸る時に最も強烈な陶酔を引き起こします。理性や意識が働いているうちは』、『まだダメです。私が今まで最も深く酔った瞬間は、うたた寝から』、『ふと』、『目覚めた瞬間、眼前に静かにたゆたう《羽衣》の序の舞でした』と添えて呉れた。

 これで、この注は完璧なものとなった。彼に心から御礼申し上げるものである。

2025/06/26

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 畨椒

 

Tougarasi

 

たうがらし   畨者南畨之

        義也

畨椒

        俗云南蠻胡椒

        今云唐芥子

 

 

草本花詩譜云畨椒叢生白花子儼如禿筆頭味辛色紅

甚可觀子種

△按畨椒出於南蠻慶長年中此與煙草同時將來也中

 𬜻亦太明之末始有之故本草綱目未載之今立于椒

 薑之右二月下種葉如柳而小亦似胡椒木葉而柔叢

 生枝脆𠙚𠙚多栽之或栽盆中玩賞之五月開小白花

 結子有數品如筆頭如椎子如櫻桃如椑柹或攅生或

 向上皆生青熟赤【或有黃赤色者】中子如茄子仁甚辣麻唇舌

 或噎得火則愈烈生熟用少投羹中或和未醬食之有

 微香能進食【性大温多食之動火發瘡墮胎】能治行人胼胝【畨椒燒末拌飯糊傅】

又能治小鳥之病養樊中者或脹或糞閉不餌啄者急用

 畨椒剉浸水令吞其水則活【屢試之有効】畨椒近來之物誰

 人始用之耶殊不理所推

食畨椒噎者急吃沙糖則解之或吃濃未醬汁亦佳

 

   *

 

たうがらし   「畨」とは「南畨」の

        義なり。

畨椒

       【俗に云ふ、「南蠻胡椒」。

        今、云ふ、「唐芥子」。】

 

 

「草本花詩譜」に云はく、『畨椒、叢生して白き花。子《み》、儼《おごそか》に「禿筆《とくひつ》」の頭《かしら》[やぶちゃん注:毛筆の擦り切れた筆先。]のごとし。味、辛《からし》。色、紅《くれなゐ》。甚だ、觀るべし。子《さね》を種(う)へる。』≪と≫。

△按ずるに、畨椒は、南蠻に出づ。慶長年中[やぶちゃん注:一五九六年から一六一五年まで。]、此れと煙草(たばこ)と、同時≪に≫將來≪せる≫なり。中𬜻にも亦、太明《たいみん》[やぶちゃん注:明代。]の末《すゑ》、始《はじめ》て、之れ、有る。故《ゆゑ》、「本草綱目」、未だ、之《これ》≪を≫載せず。今、「椒《せう》」・「薑《きやう》」の右に立≪てたり≫。二月、種を下《くだ》す[やぶちゃん注:植える。]。葉、柳のごとくにして、小《ちさ》く、亦、胡椒の木《き》の葉に似て、柔かな《✕→かにして》、叢生《さうせい》して、枝、脆(もろ)し。𠙚𠙚《しよしよ》に、多く、之れを栽《う》ふ。或《あるい》は、盆中に栽《うゑ》て、之れを玩賞す。五月、小≪き≫白花を開き、子を結ぶ。數品《すひん》、有り、筆の頭のごとく、椎子《しゐ[やぶちゃん注:ママ。]》のごとく、櫻-桃(ゆすら)のごとく、椑柹(さるがき)のごとく、或は、攅生(すゞなり)、或は、上に向《むき》して、皆、生《わかき》は、青、熟せば、赤し【或いは、黃赤色の者、有り。】。中≪の≫子《さね》、茄子《なす》の仁《にん》のごとく、甚だ、辣《から》し。唇・舌を麻(しびら)かし、或は、噎(む)せる。火《ひ》を得れば、則《すなはち》、愈《いよ》いよ[やぶちゃん注:最初の「いよ」はないが、送り仮名で繰り返しの「〱」があるので、かく、した。]烈(はげ)し。生・熟≪ともに≫用《もちひ》て、少し、羹《あつもの》≪の≫中に投じ、或は、未-醬(みそ)に和(ま)ぜて、之≪れを≫食へば、微香《びかう》、有り、能く食を進む【性、大温。多く之れを食へば、火《くわ》を動かし、瘡《かさ》を發し、胎《はららご》を墮《おろす》。】。能《よく》、行人《かうじん》の胼-胝(まめ)を治す【畨椒、燒きて、末《まつ》にして、飯糊《めしのり》に拌《まぜ》、傅《つ》く。】。

又、能く、小鳥の病を治す。樊《かご》[やぶちゃん注:鳥籠。]の中に養《か》ふ者、或は、脹《ふく》れ、或《あるいは》、糞、閉《へいし》、餌を啄《ついば》まざる者、急《すみやか》に畨椒を用《もちひ》、剉《きざみ》、水に浸《ひた》して、其《その》水を吞ましめば、則《すなはち》、活す【屢(《しば》しば[やぶちゃん注:同前で、最初の「しば」はないが、送り仮名で繰り返しの「〱」があるので、かく、した。])、之れを試みるに、効、有り。】。畨椒は、近來の物、誰人《たれびと》が、始《はじめ》て、之れを用《もちひる》にや。殊《こと》に理《ことわりの》推す所にあらず。

畨椒を食《くひ》て噎《むせ》る者、急《すみやか》に沙糖を吃《きつ》すれば、則《すなはち》、之《これ》、解す。或は、濃(こ)き未醬汁《みそしる》を吃して、亦、佳し。

 

[やぶちゃん注:椒」(=「蕃(蠻)椒」)は日中ともに、

双子葉植物綱キク亜綱ナス目ナス科トウガラシ属トウガラシ(唐辛子・蕃椒) Capsicum annuum

である。「維基百科」の同種「一年生辣椒」を見よ。本邦の当該ウィキを引く(注記号はカットした。非常に記載が長いので、本記載に拘わらない可能性が高い世界的な種については、断らずに省略、或いは、項目リンクのみとした箇所が複数ある。太字・下線は私が附した)。『ナス科トウガラシ属の多年草または低木(日本など温帯では一年草)。また、その果実のこと。メキシコ原産(南米アンデス地方という説もある)。果実は、辛味のある香辛料(唐辛子)または野菜として食用にされる』。『広義にはトウガラシ属をトウガラシと総称することがあるが、ここでは主に C. annuum 』一『種について述べる』。『和名トウガラシは唐(中国)から伝わった辛子(辛いたね)の意味である。ただし、「唐」は漠然と「外国」を指す言葉で』、唐朝を指すのでも、『中国経由ということで』も『ない。別名では、ナンバン、コウライコショウ、ナンバンコショウともよばれる。異名の「ナンバン」(南蛮)は』、十六『世紀ごろに南蛮船によりポルトガル人が日本へ伝えたといわれるところから名付けられたものである』。『植物種としてのトウガラシ(学名: Capsicum annuum )には辛みのある辛味種と辛みがない甘味種があり、一般に「トウガラシ」とよばれるものは辛味種のほうを指している。具体的には、果肉が薄く』、『甘味があるベル形の中果種を「ピーマン」、甘味がある果肉が厚い大果種を「パプリカ」とよび、辛味のない小果種を「シシトウガラシ」(シシトウ)、辛味があり香辛料として使われる小果種を「トウガラシ」とよんで区別している』。『英名はchili pepper(チリ・ペッパー)、仏名はpiment commum(ピモン・コムム)、伊名ではpeperoncino(ペペロンチーノ)、中国語では辣椒(らっしょう、Làjiāo ラーチァオ)と言う』。『学名では、属名 Capsicum はギリシア語で「箱」や「袋」を意味する caspa が語源で、袋状の果実の形状に由来する。異説には「噛む」を意味する kapto が語源との説もある。また種小名の annuum は、「一年生の」植物の意味である』。『温帯では一年草で、熱帯では多年草でやや低木(灌木)状になる。世界の温帯から熱帯の広い地域で栽培されている。植物学上は、トウガラシはピーマン』(トウガラシ属トウガラシ栽培品種ピーマン Capsicum annuum var. 'grossum')・『パプリカ』(トウガラシの栽培品種の一つ、又は、その品種を原料とする香辛料の名称。本邦では肉厚で辛みがなく甘い Capsicum annuum 'grossum' の品種を指す語である)・『シシトウガラシ』(植物学的にはピーマンと同種で中南米原産)『と同種の植物に分類され、ピーマン・パプリカ・シシトウ』ガラシ『ともトウガラシの栽培品種である』。『草丈はふつう』七十~八十『センチメートル』『ほどの草本だが、基部は木質化する。茎は多数に枝分かれし、全体に無毛である。葉は互生。柄が長く卵状披針形、葉の先は尖り』、『全縁』である。『花期は』七~十一『月ごろで、白い花を付ける。花弁には斑点が見られない。花の後に上向きに緑色で内部に空洞のある細長い』五センチメートル『ほどの実がなる。果実は熟すると、一般に赤くなる。品種によっては丸みを帯びたものや短いもの、色づくと黄色や紫色になるものもある。種子の色は、淡黄白色から黄色になる』。『実の皮も種子も辛みがある。辛味成分カプサイシン』(capsaicin)『は種子の付く胎座』(英語:placenta:植物の子房中の胚珠の接する部分のこと)『に最も多く含まれており、トウガラシは胎座でカプサイシンを作り出している。トウガラシの種子にはカプサイシンがほとんど含まれていないため、種子だけを食べると辛味を全く感じない。カプサイシンは果皮にも含まれるが、胎座ほど多くない』。『シシトウガラシなどの甘い品種は辛い品種と交配が可能である。甘い品種の雌蕊に辛い品種の花粉を交配してできた実は(胎座は甘い品種なので)甘いが、この種子から育った実の胎座は辛くなることがある。従って、辛い品種と甘い品種を植えるときはなるべく距離を置くように注意することが必要である』。『中南米の熱帯アメリカ地域が原産とされる。栽培の起源地はメキシコだと考えられていて、メキシコ中部で紀元前』六五〇〇年~五〇〇〇『年頃の栽培型が出土している。アメリカ大陸の各地では、約』二千『年以上前から栽培が行われていた。南米ペルーでは』一『世紀頃の遺跡からトウガラシ模様が入った織物が発見されている。インカ人はトウガラシをアヤ・ウチュ(「辛辣な者」の意)神として崇拝していた』。『ヨーロッパへは、アメリカ大陸に到達したクリストファー・コロンブスが』一四九三『年にスペインへ持ち帰ったことにより、ヨーロッパ全域に広がった。以後、シルクロードを経て、インドや中国に伝わる』。十六『世紀に伝わったインドではヒハツ』(コショウ属 ヒハツ (畢撥)Piper longum 『やコショウに取って代わり、インド料理の味を大きく変えるほど急速に普及した。トウガラシは』十五『世紀に中南米からヨーロッパに紹介されてから』、二百五十『年足らずで』、『ほとんど世界中に広まった。トウガラシは』十九『世紀になるまでアルプスの北側では』、『あまり食べられてこなかった(この地域では辛味を加える食材としては、寒冷な気候でも栽培しやすいマスタード』(mustard;フウチョウソウ(風蝶草)目アブラナ目アブラナ科アブラナ属セイヨウカラシナ変種カラシナ Brassica juncea var. cernua や、アブラナ科シロガラシ属シロガラシ Sinapis alba の種子やその粉末に、水や酢、糖類や小麦粉などを加えて練り上げた調味料)『やホースラディッシュ』(アブラナ科セイヨウワサビ属セイヨウワサビ  Armoracia rusticana)『の』方『が今でも好まれている)』。『日本への伝来は、安土桃山時代以降の16世紀から』十七『世紀頃に複数のルートで同時期に伝わったとされ』、天正二〇(一五九二)『年の豊臣秀吉による朝鮮出兵のときに種子が導入されたという説や』、戦国時代の天文一一(一五四二)『年にポルトガル人によってタバコとともにトウガラシが伝来したという説がある。江戸時代中期から広く栽培されるようになった。江戸時代までは辛味がある品種しかなく、明治時代になって欧米から辛味のない品種(シシトウガラシ)が導入されて、当初は「甘トウガラシ」と呼んでいた』。

以下、「品種」の項が続き、「日本特産種」の項もあるが、それらさえもネットで調べると、中国と江戸中期の本文には、必要性が疑われるように思われたので、リンクのみにする。

以下、「栽培」の項。『露地栽培では、ふつう春に種をまき、夏から秋にかけて果実を収穫する。高温性があり、栽培適温は』摂氏二十五~三十『度、夜間は』十五『度以上、地温は』二十五『度前後とされる。生育後期は低温に対して強さがあり、晩秋ごろまで生育する。過湿には弱く、根はピーマンよりも繊細であることから、排水性がよい土壌での栽培に適している。一般には、完熟した果実を収穫して、雨の当たらない風通しのよいところに吊して乾燥させてから利用する。未熟果は青トウガラシとして爽やかな辛みを楽しむことができる』。『苗作りは育苗箱に』一センチメートル『間隔で種をまき、日中』二十~三十『度、夜間は』十五『度以上に保温養生して発芽させ、本葉が』一『枚出たころに育苗ポットに移植して、本葉』八~九『枚ぐらいになるまで育苗する。畑は元肥に堆肥などを十分にすき込んで畝をつくり、地温を上げるために黒色ポリフィルムなどでマルチングをして、初期育成の促進に役立てる。苗の植え付けは、畝のマルチに穴を開けて』四十五センチメートル『前後の間隔で行い、早めに支柱を立てて倒伏防止をはかる。定植後の半月後に最初の追肥を行い、以後は』十五~二十『日ごとに畝の周囲の土に肥料を混ぜ込んで土寄せを行う。植え付けから』四十五『日後くらいに収穫期が始まり、葉トウガラシにするときは果実が』四~五センチメートル程度『になったころに株ごと引き抜いて、葉もむしり取って利用する。成熟果は、開花後』五十~六十『日後がたつと』、『実が赤く熟する。株ごと引き抜いて収穫し、軒下などに吊して乾果にしたら』、『随時』、『利用できる』。

以下、「用途」の項。『食用にするのは主に果実で、世界中で香辛料として使われていて、日本人にも深くなじみがある。辛味があり』、『香辛料として使用される辛味種と、辛味がないかほとんどない代わりに』、『糖度が高く、主に野菜として食される甘唐辛子(甘味種)がある。熟して赤い辛味唐辛子のこと赤唐辛子といって、別名「鷹の爪」と呼ばれる、乾燥されたものを使うのが一般的である。また、未熟果で緑色をしている辛味唐辛子は青唐辛子といって、タイなどのアジア諸国でよく使われる。甘味種は、品種や栽培環境によって果実に辛味が出る場合がある。辛味種は、赤唐辛子は刺激的な辛味を持ち、特に種子に強い辛味があり、青唐辛子のなかにはシシトウガラシのような味わいを持つものもある』。品種「伏見辛」(ふしみから)『の葉のように、葉の部分を食用にできる品種もあり、特有の芳香と苦味、ピリッとした辛さが好まれ、佃煮やしそ巻きになどに使われる』。『食材としての旬は夏』七~九月『で、赤唐辛子は鮮やかな赤色で、皮につやと張りがあるもの』が、『青唐辛子は、形が揃って緑色が濃いものが良品とされる』。『辛味種は、赤唐辛子でも青唐辛子でも様々な調味料が作られていて、料理に刺激的なメリハリをつける香辛料として、炒め物、パスタ料理、漬物など、幅広く使用される。また』、『甘味種は、煮物、揚げ物などにして、そのものの味を楽しむ料理に使われる。唐辛子を揚げ物に使うときは、実の中の空気が膨張して破裂してしまうので、実は切って使うか、あらかじめ穴をあけておく。葉を使うときは灰汁(アク)が少ないため、下茹でする必要はない』。また、『花をつけた頃から実が未熟な頃にかけて茎ごと収穫し、葉物野菜の葉唐辛子として利用される』。

以下、小項目「薬用」の項。『果実は香辛料として有名だが、食欲増進、消化促進、健胃、唾液分泌促進作用、皮膚刺激作用があり、薬用として使われることがある。秋に果実が赤熟したものを採集して、陰干ししたものを蕃椒(ばんしょう)か辣椒(らっしょう)、または唐辛子と称している。一般用漢方製剤には配合されていないが、主に辛味性健胃薬や筋肉痛、しもやけなどの局所刺激薬として用いられている。日本薬局方では、アルコールなどを加えてチンキにした、トウガラシチンキの製薬原料としている。腰痛、筋肉痛、肩こり、リュウマチ、関節痛、神経痛にトウガラシチンキを塗る。エキスにして温湿布剤に配合したり、筋肉痛、凍傷、養毛に使われたりする』。『民間療法では、食欲がないときや消化がよくないとき、胃腸が冷えているときの腹痛・下痢などに、細かく刻んだ唐辛子を薬味(香辛料)として用いる。足のしもやけ予防に、靴の中のつま先部分に、ガーゼなどに唐辛子』一~二『個を包んで入れておく。神経痛、しもやけの外用薬でトウガラシチンキを作るときは、唐辛子を刻み、約』三『倍量の』アルコール三十五『度のホワイトリカーに約』、一ヶ『月漬けて、患部に塗る。ただし、トウガラシチンキは温める効果が強いため、患部が冷えていることを確認してから塗るなど』、『用法には注意を要する』。

以下、「虫・抗菌効果」の項。『トウガラシには防虫効果がある事が古くから知られており、書物の保存、ひな人形、五月人形などの物品保存などにも使用されてきた。箪笥などの衣装箱に入れておけば、防虫剤になる。また』、『米の保存など食品保存に用いられていた事もある。かつては、倉庫などで唐辛子の粉を火にくべて、ネズミ駆除にも用いられていた。トウガラシを焼酎に漬け込んで害虫忌避効果がある自然農薬を作る菜園家もいる。トウガラシをアブラナ科、ネギ科、キク科の野菜畑のあちこちに植えておいて、害虫よけにする利用法もある』。『アルコール抽出した成分には』、『種の細菌の増殖を抑制する抗菌効果が有るとする報告があるが、乾燥加工した物品では保存中や流通加工工程中で増殖するカビによって、カビ毒に汚染される可能性が指摘されている』。

以下、「栄養素と辛味成分」の項。『トウガラシの果実は全体の約』七十五『%が水分で構成されており、栄養素は比率の多い順で可食部』百グラム『あたり』、『炭水化物』十六・三グラム『が最も多く、たんぱく質』三・九グラム、『脂質』三・四グラム、『灰分』一

・四グラム『と続く。果皮には辛味成分のカプサイシンやデヒドロカプサイシン、赤色素のカプサンチン、黄色素のβ-カロテンのほか、ルチン、ビタミンB1B2Cなどを含んでいる。そのほかには、アデニン、ベタイン、コリン、ジヒドロカプサイシン、ホモカプサイシン、クリプトキサンチン、ルテイン、クリプトカプシンなどが含まれる』。『カプサイシンは非揮発性で、皮膚や粘膜につくと炎症などを起こす、作用の激しい成分である。ただし、注目に値する様々な機能性をもっていることがわかっており、血管を広げて血行をよくして身体を温める作用や、唾液分泌量を増やして食欲を増進させて消化吸収を助ける作用があり、さらに中枢神経を刺激して副腎ホルモンのひとつアドレナリンの分泌量を増やして代謝を活発にする働きもあるとされる。調理にトウガラシを使うと、ヒトが味の塩気の物足りなさを感じにくくなり、食塩の使用量を減らせる効果を得られることについては、カプサイシンそのものが食塩要求量を減らすという研究報告もある。このカプサイシンの割合を示す値はスコヴィル値』(Scoville scale)『と呼ばれ、カプサイシンの含有量と割合の高低を測定する上でその単位は無くてはならないものとなっている』。『トウガラシにはβ-カロテンが豊富で、生にはビタミンCも豊富に含まれている。他の野菜に比べてビタミン・ミネラル類を含む割合は圧倒的に多いが、使われ方から』、『実際に口に含む量はごく少量であるから、栄養源としては期待できない』。『トウガラシの一種、シシトウガラシの栄養成分はピーマンとほぼ同じで、カロテンやビタミンCが豊富に含まれる。トウガラシの葉や葉柄の部分を食用する葉唐辛子は、緑黄色野菜であり、カロテンやビタミンCを多量に含む』。現在の『日本の主産地は、栃木県、徳島県、千葉県、岐阜県などで、シシトウガラシの場合では、高知県、千葉県、和歌山県、岐阜県などがある。海外から日本へは、主に中国、タイなどの産地から輸入されている』。以下、「近縁種」の項だが、省略する。

 なお、以上の引用の「草本花詩譜」は、東洋文庫の書籍注に、『本文に汪躍鯉の撰とあるも不明。『画譜』の中の『草木花譜』の一巻のことであろうか。『八種画譜』の中では『新鐫』(しんせん)『草本花詩譜』となっている。』とある。ここで言っている「画譜」は「八種畫譜」で、明の黄鳳池の編。「唐詩五言畫譜」・「新鐫六言唐詩畫譜」・「唐詩七言畫譜」・「梅竹蘭菊四譜」・「新鐫木本花鳥譜」・「新鐫草本花詩譜」・「唐六如畫譜」・「選刻扇譜」から成るものを指す。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここで、黄鳳池編「新鐫草本花詩譜」が視認でき、当該部は、図が、ここの左丁で、解説が、ここの右丁である。字を起してみると、

   *

 

叢生白花子儼如禿

筆頭味辛色紅

可觀子種

   *

とあり、そのままに引用していることが判る。

「櫻-桃(ゆすら)」良安が偏愛する双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa 当該ウィキを参照されたい。

「椑柹(さるがき)」双子葉類植物綱ツツジ目カキノキ科カキノキ属カキノキ変種ヤマガキ Diospyros var. sylverstris

であると、私は「卷第八十七 山果類 椑柹」で、かなり苦労して考証した。そちらを見られたい。

2025/06/25

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 畢澄茄

 

Hittyouka

[やぶちゃん注:本種は蔓性植物であるため、支えの支柱二本が描かれてある。] 

 

ひてうきや 毗陵茄子

      【皆番語也】

畢澄茄

 

[やぶちゃん注:「てう」はママ。歴史的仮名遣は「ちよう」でよい。]

 

本綱畢澄茄海南諸畨皆有之蔓生春開白花夏結黒實

與胡椒一類二種【大腹子與㯽榔相近耳】

實【辛温】下氣消食暖脾胃止嘔吐噦逆治痘瘡入目羞明

 生瞖者【畢澄茄末吹少許入鼻中三五次効】


やまこせう

山胡椒

本綱山胡椒似胡椒而色黒顆粒大如黒豆味辛大熱破

滯氣主心腹冷痛

 

   *

 

ひてうきや 毗陵茄子《ひりやうかし》

      【皆、番語《ばんご》なり。】

畢澄茄

[やぶちゃん注:「畨語」は「蠻語」に同じ。]

 

「本綱」に曰はく、『畢澄茄《ひつちやうか》は海南の諸畨、皆、之れ、有り。蔓生して、春、白≪き≫花を開き、夏、黒≪き≫實を結ぶ。胡椒と一類二種なり【「大腹子《だいふくし》」と「㯽榔《びんらう》」と相ひ近きのみ。】。』≪と≫。

『實【辛、温。】』『氣を下し、食を消《しやう》≪し≫、脾胃を暖め、嘔吐・噦逆《えつぎやく/しやくり》を止め、痘瘡≪の≫目に入《いり》て、明を羞(は)ぢ、瞖(かゝりもの)を生ずる者を治す【畢澄茄の末《まつ》を、少しばかり、鼻の中へ吹き入れ、三、五次《じ》[やぶちゃん注:三回から五回ほどその処理をすると。]、効《かう》あり。】。』≪と≫。


やまこせう

山胡椒

「本綱」に曰はく、『山胡椒《さんこせう》は、胡椒に似て、色、黒く、顆-粒(つぶ)の大いさ、黒豆のごとく、味、辛《しん》≪にして≫、大熱。滯氣《たいき》を破り、心腹≪の≫冷痛を主《つかさ》どる。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:この「畢澄茄」は、

双子葉植物綱モクレン亜綱コショウ目コショウ科コショウ属ヒッチョウカ Piper cubeba

である。私は全く知らない種であった。さればこそ、当該ウィキを念入りに引く(注記号はカットした)。『ヒッチョウカ(畢澄茄』『)またはクベバは、コショウ属植物の』一『種である。またその乾燥果実の生薬名。その果実と精油のために栽培される。主にジャワ島とスマトラ島で育てられ、そのためにジャワ長胡椒と呼ばれることがある。果実は成熟前に摘み取られ、注意深く乾燥される。商品のヒッチョウカは乾燥したベリーから成る。見た目はコショウと似ているが、柄が付いており、英名の "tailed pepper" の由来となっている。乾燥した果皮は』皺『が寄り、その色は灰色がかった茶色から黒まで多岐にわたる。種子は硬く、白色で油分が多い。ヒッチョウカの香りは心地よく、香りが良いとされ、味は刺激的な辛さで、鼻を突き、わずかに苦く、持続性がある。オールスパイスあるいはオールスパイスとコショウを足して』二『で割ったような味とされている』。『ヒチョウカはアラブとの交易により』、『インドを介してヨーロッパへ伝わった。「Cubeb」という名称はアラビア語のkabāba』『由来であり、古フランス語のquibibesを経由している。ヒッチョウカはそのアラビア語名で錬金術の書籍で言及されている。ジョン・パーキンソン』(John Parkinson:一五六七年~一六五〇年:イギリスの偉大な薬剤師であり、植物学者・博物学者・造園家。詳しくは当該ウィキを見られたい)『は著書』「植物の世界」(‘ Theatrum Botanicum ’)『において』、一六四〇『年頃にポルトガル王がクロコショウ( Piper nigrum )を奨励するためにヒッチョウカの販売を禁止した、と述べている。医学的使用のために』十九『世紀のヨーロッパで』、『しばらく復活したが、以後のヨーロッパの市場からは実質的に消えている。西洋ではジンおよび紙巻きたばこのための香料として、インドネシアでは食品の香辛料として使われ続けている』。『紀元前』四『世紀、テオプラストス』(ラテン文字転写:Theόphrastos:紀元前三七一年~紀元前二八七年:古代ギリシアのレスボス島生まれの哲学者・博物学者・植物学者。当該ウィキによれば、『植物研究における先駆的な功績から「植物学の祖」と呼ばれる。アリストテレスの同僚』にして『友人で、逍遙学派の主要人物の一人であった。アリストテレスの次に、リュケイオンの学頭を務めた』とある)『はkomakonに言及し、シナモンとカシアと共に芳香菓子の原料に含めた。ギヨーム・ビュデとクラディウス・サルマシウス(英語版)はkomakoncubebと同一視した。これはおそらくcubebのジャワ語名kumukusとの類似性からである。これは、テオプラストスの時代よりも前の時代のジャワとギリシャの貿易の奇妙な証拠として見られている。ジャワ人の栽培者らは、実を熱湯処理して殺菌することで』、『この』蔓『植物を他の場所では栽培できないようにして、交易の独占を守っていたため、ギリシア人が他の場所から入手したとは考えにくい』。中国の『唐』の『時代に、ヒッチョウカはシュリーヴィジャヤ王国』(インドネシア・マレー半島・フィリピンに大きな影響を与えたスマトラ島のマレー系海上交易国家。漢音写では「室利佛逝」とする。また、アラブの資料では「ザバック」「サバイ」「スブリサ」の名でみられる。王国の起源ははっきりしないが、七世紀にはマラッカ海峡を支配して東西貿易で重要な位置を占めるようになった。位置は、参照した当該ウィキを見られたい)『から中国へもたらされた。インドでは、kabab chini、すなわち「中国のcubeb」と呼ばれるようになった。これはおそらく中国人がその交易に一枚かんでいたためであるが、中国との交易において重要な物品であったためである可能性がよりありえそうである。中国では、同じ語源のサンスクリット語のvilengavidangaと呼ばれた』。医薬学書「海樂本草」『の作者である李珣』(りしゅん:八八一年頃~九三〇年頃:唐末期に生まれた前蜀の薬学者・文学者)『はクロコショウと同じ木に生』え『ると考えた。唐の医者は、食欲増進、祛邪、髪色を濃くする、身体を芳香で満たすためにヒッチョウカを処方した。しかしながら、ヒッチョウカが中国で調味料として使われたことを示す証拠は存在しない』。九『世紀に編纂された』「千夜一夜物語」『は、不妊のための治療薬としてヒッチョウカに言及している。これはアラブでは既に医療目的のために使われていたことが示している。ヒッチョウカは』十『世紀頃にアラブ料理に取り入れられた』。十三『世紀末に書かれた』かのマルコ・ポーロの「東方見聞録」『はヒッチョウカや他の価値のある香辛料の生産地とジャワを説明している』。十四『世紀、ヒッチョウカは』フランスの『ルーアンと』ドイツの『リッペの商人によってコショウの名前で穀物海岸からヨーロッパへと輸入された』。アラゴン連合王国の『フランシスコ修道会の作家フランセスク・アシメニス』(Francesc Eiximenis:『による暴食の実例を挙げた道徳物語は、世俗的な聖職者の食生活を描いたもので、入浴後に卵の黄身にシナモンとヒッチョウカを加えた奇妙な調合物をおそらく媚薬として摂取している』。『ヒッチョウカは、中国の人々によって』、『そうであったように、ヨーロッパの人々によって』、『悪魔を退けると考えられていた』。十七『世紀末にエクソシスム』(ラテン語:exorcismus。「悪魔祓い」・「悪霊払い」・「祓魔(ふつま)」)『の方法について書いたカトリック司祭ルドヴィコ・マリア・シニストラリは、インキュバス(夢魔)を追い払うための香の材料にヒッチョウカを含めた。今日でも』イタリアのフランシスコ会司祭で著作家のルドヴィコ・マリア・シニストラリ(Ludovico Maria Sinistrari:一六二二年~一七〇一年)の記した『香の調合法は』、『ネオペイガニズム』(当該ウィキによれば、(英語:neopaganismneo-paganism)で、「復興異教主義」と訳される『多種多様な現代の宗教的な運動』を指し、『特にヨーロッパにキリスト教が布教され、信仰される以前の土着の宗教や自然崇拝的なペイガニズム』(『古典ラテン語:pāgānus:「田舎」・「素朴」、後に「民間人」の意。四世紀の初期キリスト教徒が、ローマ帝国で多神教やユダヤ教以外の(一神教を含む)宗教を信仰していた人々に対して初めて使った言葉で、多神教や異教徒の一神教の信仰を広く包括して指し、その信条によって影響されたものに用いられる包括的な用語である)『作家らによって引用され、これらの作家の一部はヒッチョウカを恋の小袋や呪文で使うことができると主張している』。『販売が禁止された後、ヒッチョウカの料理での使用はヨーロッパで劇的に減少し、医学的な応用のみが』十九『世紀まで続いた』。二十『世紀初頭、ヒッチョウカはインドネシアからヨーロッパとアメリカ合衆国へ定期的に出荷されていた。交易は次第に年間』百三十五『トン』『まで減少し』、一九四〇『年より後に実質的な意味において終わっ』ている。

以下、「化学成分」の項。『乾燥したヒッチョウカの果実は、モノテルペン類』、『セスキテルペン類』等、『ならびにクベボール』『から構成される精油を含む』。『揮発性油のおよそ』十五%『は水と一緒にヒッチョウカを蒸留することによって得られる。液体成分のクベベンは化学式C15H24を持ち、α-クベベンとβ-クベベンがある。これらはアルケン部分の位置のみが異なっており、二重結合が環内(』五『員環部分)にあるのがα-クベベン、環外にあるのがβ-クベベンである。薄い緑色の粘性のある液体で暖まる木のような、わずかに樟脳様の芳香を持つ。水と共に精留後、あるいは保存中、ヒッチョウカの樟脳の菱形結晶が沈殿する』。『クベビン(C20H20O6)はヒッチョウカ中に存在する結晶性固体であり』、一八三九『年』『に』『発見された。これはクベベンから、あるいは精油を蒸留後に残った果肉から調製されるかもしれない。この薬物は、ガム』、『脂肪油、リンゴ酸のマグネシウムおよびカルシウム塩と共に、およそ』一『%のクベブ酸(cubebic acid)とおよそ』六『%の樹脂を含む』。

以下、「使用」の項。『民間療法における歴史』では、『中世のアラブの薬草医は大抵錬金術を熟知しており、ヒッチョウカはal butmの水を調製する時にkababaという名前で使われた。イングランドにおけるヒッチョウカの近代の使用は淋病の治療のためであり、その殺菌作用は大いに価値があった。ウィリアム・ワイヤット・スクワイア(William Wyatt Squire)は』一九〇八『年に、ヒッチョウカの果実が「泌尿生殖器の粘膜に対して特異的に作用する。淋病の全ての段階に与えられる」と書い』ている。一九二一『年に印刷された』イングランドの‘ The National Botanic Pharmacopoeia ’(「国立植物薬局方」)『は、ヒッチョウカが「flour albus』(「白帯下(しろたいげ)」:女性の膣から分泌される「おりもの」のこと)『のための素晴らしい治療薬」であったと記した』。以下、「料理」の記載。『ヨーロッパでは、ヒッチョウカは中世期に高価な香辛料の』一『つであった。肉の香り付け』『として粉にされたり、ソースで使われたりした。中世のレシピはアーモンドミルクと数種類の香辛料からなる「sauce sarcenes」』(サラセン人のソース)『を作るのにヒッチョウカを含めている。芳香菓子類として、ヒッチョウカは砂糖漬けにされたり丸ごと食べられたりした。ヒッチョウカ、クミン、およびニンニクを浸出させた酢であるOcet Kubebowyは』十四『世紀のポーランドにおいて肉のマリネのために使われた。ヒッチョウカは香りの良いスープの風味を増すために使うことができる』。『ヒッチョウカはアラブを経由してアフリカに到達した。モロッコ料理では、ヒッチョウカは香りの良い料理や』、一種の『パン菓子で使われる。また、名高い混合香辛料ラスエルハヌート』(Ras el hanout:チュニジア・アルジェリア・モロッコを含むマグリブで見られるミックス・スパイス。名前はアラビア語で「店頭」を意味し、「店が提供する最良のスパイス」であることを意味する。肉や魚に擦り込んだり、クスクス・パスタ・コメ等に混ぜて料理に用いる。ここは当該ウィキに拠った。モロッコで実際に使ったが、なかなかに美味かった)『の原料の一覧で見られることがある。インドネシア料理、特にインドネシアのグライ』『(カレー)では、ヒッチョウカが頻繁に使用される』。

以下、「紙巻きたばこと酒」の記載。『ヒッチョウカは喘息、慢性咽頭痛、および花粉症のための紙巻きたばこの一種で頻繁に使用された。クベブたばこを好んだ』SFや冒険小説で知られるアメリカの小説家『エドガー・ライス・バローズ』(Edgar Rice Burroughs:一八七五年~一九五〇年)『は』、「もし、これほど多くのクベブを吸っていなかったとしたら、「ターザン」は存在していなかったもしれない。」『とおどけて述べた。Marshall's Prepared Cubeb Cigarettesが人気のあるブランドで、第二次世界大戦中まで製造されるだけの売り上げがあった』。二〇〇〇『年、クベバ油はノースカロライナ州健康福祉局のタバコ予防管理部局によって発表されたたばこの添加物の一覧に含められた』。『ボンベイ・サファイア・ジンはヒッチョウカやギニアショウガを含む植物で風味付けされる。このブランドは』一九八七『年に始められたが、その製造者はこれが』一七六一『年に遡る秘密のレシピに基づいていると主張している。辛くてヒリヒリする味を持つウクライナのコショウ風味の焦げ茶色のホリルカであるペルツォフカは』、『ヒッチョウカとトウガラシを付け込んで作られる』。また、『ヒッチョウカはパチョリ』(英語:patchouli:              双子葉植物綱シソ目シソ科ミズトラノオ属パチョリ Pogostemon cablin :ハーブの一種で、インド原産。主に精油(パチョリ油)に加工されて利用される。古くから香や香水に用いられている。その名前はタミル語で「緑の葉」を意味する「パッチャイ・イライ」に由来する。「パチュリ」「パチュリー」とも音訳され、漢方ではパチョリの全草を乾燥させたものを「霍香」(カッコウ)と称し、「霍香正気散」などの漢方薬に用いる。以上は当該ウィキに拠った)『の精油の混ぜ物』『として使われることがあり、パチョリの使用者は注意が必要である。同様に、ヒッチョウカは同属の別種 Piper baccatumPiper caninum で混ぜ物をされる』とあった。

 なお、以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の「畢澄茄」(ガイド・ナンバー[079-13a]以下)のパッチワークである。

「大腹子《だいふくし》」時珍は「大腹子」を独立種としているが、これは、並置する「榔《びんらう》」の果皮を製した漢方名である。それは、先行する「卷第八十八 夷果類 檳榔子」で考証してあるので見られたい。

「痘瘡≪の≫目に入《いり》て、明を羞(は)ぢ、瞖(かゝりもの)を生ずる者」これは、天然痘の病原体が眼に侵入し、瞼が激しく腫れて開けることが出来ない状態や、目は開いているが、視野に「瞖(かゝりもの)」=カスミが生じている病態を指す。

「山胡椒(やまこせう)」「《さんこせう》」これはコショウとは縁のない、爪楊枝で知られるところのクロモジの近縁種である、モクレン亜綱クスノキ(樟・楠)目クスノキ科ハマビワ(浜枇杷)属アオモジ(青文字) Litsea cubeba である。当該ウィキによれば、『果実にはレモンのような芳香と辛味があり、ショウガノキやコショウノキともよばれる。南アジアから日本(本州南部から南西諸島)を含む東アジア南部、東南アジアに分布する。精油を多く含み、中国では精油生産のために栽培され、また果実や種子は生薬や香辛料として利用される』とあり、『バングラデシュ、チベット、中国南部、本州西部、九州西南部、南西諸島、台湾、インドシナ半島、マレー半島、スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島に分布する』。『本州では岡山県、山口県に分布していたが、近年では西日本(愛知県以西)の都市部周辺を中心に分布を広げている』。『成長速度が極めて速く、明るい場所で生育し、先駆樹の性質をもつ』。『若い個体でも実をつけ、また萌芽更新しやすく再生力が強い』。『果実からは重量比』三~七『%ほどの精油が抽出され、精油の主成分はゲラニアール』。『ネラール』・『D-リモネン』・『で』、『この精油は食品や化粧品の香料、アロマオイル、ビタミンAEKの原料などとして利用されている』。『これらの用途のため栽培されており、中国ではアオモジ精油の年間生産量は』二千『トンに達』する。『乾燥した果実は、漢方において駆風薬、利尿薬、去痰薬、刺激薬、健胃薬、鎮静薬として利用される』。『果実以外にも、樹皮、葉、根を民間薬に用いることもある』。『種子』『にはレモンのような柑橘系の香りとほのかな辛み・渋みがあり、台湾原住民であるタイヤル族は馬告(マーガオ)とよんで古くから香辛料として利用している』。『また、未熟な果実は、サラダやピクルスに利用されることがある』。『材には芳香があり、爪楊枝などの材料とされる』。『また、早春の花の少ない時期の生花として、広く利用されている』。『「アオモジ」の名は、幹や枝の緑色であり、近縁種のクロモジのように黒くならないためとされる』。『中国名は山雞椒、山胡椒』(☜)、『山蒼樹など』とある。「維基百科」の同種も見られたい。]

2025/06/24

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「白狐裂死」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「白狐裂死《びやくこ さけ しす》」 安倍郡《あべのこほり》賤機山《しづきやま》にあり。傳云《つたへいふ》、永祿三年五月、志豆波多山《しずはたやま》惣社《さうしや》の檀上に於て、千歲《せんざい》の白狐、己《おの》れと胸《むね》裂《さけ》て死す。諸人、是を評して、「今川家の不祥《ひしやう》。」とす。果して同月十九日、尾州鳴海《びしうなるみ》桶狹間《をけはざま》の陣營に於て、義元、討死《うちじに》し、家風、衰ふ、云云。

 

[やぶちゃん注:「賤機山」前の条を見よ。

「志豆波多山惣社」前の条の私の注の「神殿」を見よ。

「永祿三年」一五六〇年。

「同月十九日、尾州鳴海《びしうなるみ》桶狹間《をけはざま》の陣營に於て、義元、討死し、家風、衰ふ」知られた「桶狭間の戦い」。当該ウィキによれば、永禄三年五月十九日(ユリウス暦一五六〇年六月十二日)『に尾張国知多郡桶狭間での織田信長軍と今川義元軍の合戦』。二万五千『人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が本陣を奇襲、または正面から攻撃し』、『今川義元を討ち取った』。『戦後、東海地方を制圧していた今川家が没落する一方、織田信長は尾張を完全統一したうえ畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。松平元康(徳川家康)は三河で独立を回復して信長と清洲同盟を締結し、これが戦国時代の転機となった』とある。「家風、衰ふ」というのは、これより以降、今川家は徳川氏・武田氏・後北条氏などの侵略を受けて衰退し、江戸時代には子孫が高家として僅かに家名を残したに過ぎなかった。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「志豆機山奇瑞」

[やぶちゃん注:底本はここから。記号(変更も含む)を添え、段落・改行を成形した。]

 

 「志豆機山奇瑞《しづはたやま きずい》」 安倍郡志豆機山にあり。

「類聚國史」云《いはく》、

『仁德天皇四十年壬子冬、令下三紀角宿禰、狩駿河國安弁郡、志豆旗山、及夕陽非常之光輝出山上、列卒爲怪異一、于ㇾ時神殿鳴動、而鳥獸逢失害ㇾ百數ㇾ之、有赤翼之雉而不ㇾ動、集紀角宿禰屯帳、捕テㇾ之奏スㇾ之、終百濟之役。云云。又云。嵯峨天皇、弘仁三年壬辰正月十五日、駿河國安弁郡志豆波多山、椎根山、連綿而鳴動スルヿ二時計、自惣社神殿一流淸光、至虛冥、其彩色如紅霓、暫時光暉皈神殿。四月五日、渤海之朝使入貢、未曾有之貢也。故從四位下直、請三善孰兼卜ㇾ之、惣社之瑞光如ㇾ合スルカㇾ符、故六月十五日、叙正一位ラル二安弁郡、益頭郡之兩郡、神官神戶、賜ㇾ祿各有ㇾ差。云云。』。

「落照露言抄」云、

『永祿十一年十二月十七日、志豆機山、鳴動して、流光、充滿する事、東西、恰《あたか》も幾行《いくぎやう》の紅霓《こうげい》の如し。國、擧《あげ》て、怪異とす。云云。』。社記に見えたり。

 

[やぶちゃん注:「志豆機山」現在の賤機山(しずはたやま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「神殿」現在の静岡浅間(しずおかあさま)神社(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『鎮座地の賤機山(しずはたやま)は、静岡の地名発祥の地として知られ、古代より神聖な神奈備山としてこの地方の人々の精神的支柱とされてきた。6世紀のこの地方の豪族の墳墓であるとされている賤機山古墳(国の史跡)も、当社の境内にある。また、静岡市内には秦氏の氏寺である建穂寺、秦久能建立と伝えられる久能寺など当社の別当寺とされる寺院があり、その秦氏の祖神を賤機山に祀ったのが当社の発祥であるともいわれている』とある。

 まず、「類聚國史」(編年体である六国史の記事を中国の類書に倣って分類再編集した歴史書。菅原道真の編纂により、寛平四(八九二)年に完成)の漢文部を推定訓読する。一部は訓点無き箇所を返って読み、送り仮名・読みも勝手に新たに添え、また、句読点にも大幅に変更を加え(明らかにおかしな箇所がある)、改行・段落を成形した。

   *

 仁德天皇四十年壬子(みづのえね/じんし)冬[やぶちゃん注:機械換算西暦三六二~一三六三年。]、紀角宿禰(きのつののすくね)[やぶちゃん注:当該ウィキによれば、『武内宿禰の子で、紀朝臣(皇別の紀氏)およびその同族の伝説上の祖とされる。対朝鮮外交で活躍した人物である』とある。]をして、駿河國(するがのくに)安弁郡(あべのこほり)[やぶちゃん注:安倍郡に同じ。]、志豆旗山(しづはたやま)に狩りせしむ。

 夕陽(ゆうやう)に及び、常に非ざる光輝(くわうき)、山上(さんじやう)に出で、列卒(れつそつ)、

「怪異。」

と爲(な)す。

 時に、神殿、鳴動し、而して、鳥獸、失害(しつがい)に逢ふ。百(ひやく)を以(もつ)て、之れを數(かぞ)ふ。

 赤き翼(つばさ)の雉(きぎす)有りて、動かず。

 紀角宿禰、屯-帳(とねり)を集めて、之れを捕へて、之れを奏(そう)す。

 終(つひ)に「百濟(くだら)の役(えき)」[やぶちゃん注:一般には「白村江(はくすきのえ)の戦い」を指すが、時代がずっと後で、合わない。]、有り。云云(うんぬん)。

 又、云ふ。

 嵯峨天皇、弘仁三年壬辰(みづのえたつ/じんしん)正月十五日[やぶちゃん注:ユリウス暦八一二年三月一日。グレゴリオ暦換算三月五日。]、駿河國安弁郡志豆波多山、椎根山(しいねやま)、連綿として鳴動すること、二時(ふたとき)ばかり、惣社(そうしや)の神殿より、一流(いちりう)の淸光(せいくわう)、虛冥(きよめい)に至る。其の彩色、紅霓(こうげい)のごとく、暫時にして、光暉、神殿に皈(かへ)る。

 四月五日、渤海の朝使(てうし)、入貢(にふこう)、未だ曾つて有らざるの貢なり。

 故(かれ)[やぶちゃん注:「故に」と同義。]、從四位下、直ちに、三善孰兼[やぶちゃん注:読み不詳。陰陽師である。「孰」の字は怪しい。「敦」か? 仮にそうだとするなら、「みよしのあつかね」か。しかし、そのフル・ネームの陰陽師は見当たらない。]に請(こ)ひ、之れを卜(ぼく)すに、惣社の瑞光、符(ふ)を合(がつ)するがごとし。

 故(かれ)、六月十五日、正一位に叙し[やぶちゃん注:先の「惣社」に対して官位を与えたことを指す。]、安弁郡・益頭郡(ましずのこほり)[やぶちゃん注:後者は古代から駿河国の西部南端に位置した郡。]の兩郡(りやうこほり)を寄(よ)せらる。神官・神戶(かんべ)、祿を賜(たまは)ること、各(おのおの)、差(つかは)し、有り。云云。

   *

「落照露言抄」江戸時代に書かれた軍記物「浪合記」(「並合記」とも)の別名。南北朝時代の尹良(ゆきよし)親王と、その子良王の二人を主人公としたもの。]

2025/06/23

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 胡椒

 

Kosyou

 

[やぶちゃん注:図の右上に「倭」(本邦種)の文字があって苗木が描かれてあるが、但し、調べる限りでは、インド産のコショウは、中国を経て、奈良時代に伝来しているので、特に中国産のものとの違いを示しているものではない。但し、コショウ属には複数あるので、異種である可能性を考慮して、かく添えたもので、それは、良安の評言の中にも感じられ、現行の植物学的、或いは、世界的な異種分布を考えれば、極めて正当な添え辞である。上方左には、その「倭」の胡椒の実の「粒」のキャプションとともに三個体が描かれてある。下方には、同種が蔓性植物であるために行われる棚を用いた栽培のさまが描かれている。]

 

こしやう   昧履支

 胡椒

      【胡者西戎之名雖

       非椒類因其辛似

       椒名

       之】

フウツヤ

[やぶちゃん字注:下方の割注(これは、「本草綱目」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の「胡椒」(「維基文庫」の当該部をリンクした)の『釋名』に『昧履支』とした後に『蚊時珍曰、胡椒、因其辛辣似椒、故得椒名、實非椒也。』と記してあるのを、良安が手を加えたものであるが、何故か、最後の「之」が、改行されてしまっている。これは、彫師が誤ったものとしか思われない。訓読では、前に繋げた。

 

本綱胡椒出摩伽陀國今南畨諸國皆有之其苗蔓生莖

極柔弱作棚引之葉長一寸許扁豆山藥軰正月開黃白

花結實纏藤而生狀如梧桐子亦無核生青熟紅青者更

辣四月熟五月采收曝乾乃皺其葉晨開暮合合則褁其

子於葉中今遍中國食品爲日用之物也

實【辛大温】 下氣温中去痰除臟腑中風冷殺一切魚肉鼈

 蕈毒蓋純陽之物腸胃寒濕者宜之熱病人動火傷氣

 時珍自少嗜之歳歳病目而不疑及也後漸知其弊遂

 絕之目病亦止纔食一二粒卽便昏澀病咽喉口齒者

 亦宜忌之

△按胡椒阿蘭陀商舶將來之畨陀國之產最良蘓門荅

 剌交趾母羅加次之近頃有撒種生者其樹髙二三尺

 葉似畨椒葉而厚不靭亦似千葉梔子葉四月開小白

 花秋結子生熟與異國之產無異伹枝莖雖纎弱不蔓

 之屬葉亦大異也蓋此不胡椒小天蓼也灌木類

 天蓼下可考合

 胡椒辛氣入鼻則嚏故誤物入鼻孔不出者傍撒胡椒

 末令嚏則隨出

 

   *

 

こしやう   昧履支《まいりし》 

胡椒

      【「胡」とは、「西戎《さいじゆう》」の名。

       椒類《せうるゐ》に非ずと雖も、其の辛

       さ、椒に似るに因りて、之れを名づく。】

フウツヤ

 

「本綱」に曰はく、『胡椒は摩伽陀國《マガダこく》に出づ。今、南畨《なんばん》の諸國、皆、之れ、有り。其《その》苗《なへ》、蔓生《つるせい》して、莖、極《いはめ》て柔弱≪なれば≫、棚を作り、之れを引く。葉の長さ一寸許《ばかり》、扁豆《へんづ》・山藥《さんやく》の軰《はい》のごとし。正月、黃白《わうはく》の花を開き、實を結ぶこと、藤《かづら》[やぶちゃん注:蔓。]を纏(まと)ひて、生ず。狀《かたち》、「梧桐《ごとう》」の子《み》のごとく、亦、核《さね》、無し。生《わかき》は青く、熟≪せ≫ば、紅《くれなゐ》なり。青き者は、更≪に≫辣《から》し。四月に熟す。五月に采り、收《をさ》め、曝乾《さらしほ》して、乃《すなはち》、皺(しは)む。其《その》葉、晨《あした》に開き、暮《くれ》に合《がつ》す[やぶちゃん注:萎(しぼ)む。]。合する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、其の子を、葉の中に褁《つつ》む。今、遍(あまね)く、中國の食品、日用の物と爲《なす》なり。』≪と≫。

『實【辛、大温。】』『氣を下し、中《ちゆう》を温め、痰を去り、臟腑の中《なか》の風冷を除き、一切≪の≫魚・肉・鼈《すつぽん》・蕈《きのこ》の毒を殺《さつ》す。蓋し、純陽の物、腸胃・寒濕の者、之《これ》、宜《よろ》し。熱病の人、火《くわ》を動《うごか》し、氣を傷《きづつく》る。時珍[やぶちゃん注:自称。]、少(わか)き時より[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、之れを嗜(す)く。歳歳《さいさい》、目を病《や》む。而《しかれ》ども、疑《うたがひ》及ばざるなり。後《のち》、漸《やうか》く其《その》弊(ついへ[やぶちゃん注:ママ。])を知り、遂《つひ》に之《これ》を絕(た)ち、目の病《やまひ》≪も≫亦、止む。纔《わづか》に一、二粒を食《くふ》≪のみにても≫、卽《すなはち》便《すなは》ち、昏-澀(かす)む。咽喉・口・齒を病む者、亦、宜しく、之《これ》、忌むべし。』≪と≫。

△按ずるに、胡椒、阿蘭陀《オランダ》商舶《しやうはく》、之れを將來《しやうらい》す。畨陀國《バンダこく》の產、最《もつとも》良し。蘓門荅剌《ソモタラ》[やぶちゃん注:スマトラのこと。]・交趾(カウチ)[やぶちゃん注:現在のヴェトナム北部。]・母羅加(モロカ)、之≪に≫次ぐ。『近頃、種を撒《まき》て生(は)へる者、有り。其《その》樹、髙さ、二、三尺、葉、「畨椒(たうがらし)」の葉に似て、厚く、靭(しな)へず。亦、「千-葉《やへ》の梔子(くちなし)」の葉に似たり。四月、小≪さき≫白≪き≫花を開《ひらき》て、秋、子を結ぶ。生《なま》・熟《じゆく》、與《ともに》、異國の產と異なること、無し。伹《ただし》、枝・莖、纎(ほそ)く弱《よはき》と雖《いへども》、蔓(つる)の屬ならず。葉も亦、大《おほい》に異《こと》なり。』云云《うんぬん》≪と≫。蓋し、此《これ》は、胡椒ならず、「小天蓼(こまたゝび)」なり。「灌木類」≪の≫「天蓼(またゝび)」の下《した》、考合《かんがへあはす》べし。

 胡椒は、辛氣《しんき》、鼻に入《いる》と、則《すなはち》、嚏(はなひ)る故《ゆゑ》、誤《あやまり》て、物、鼻の孔《あな》に入《いり》て、出《いで》ざる者、傍《かたはら》に胡椒の末《まつ》を撒(ま)きて嚏《はなひ》らしむれば、則《すなはち》、隨《したがひ》て、出づ。

 

[やぶちゃん注:★今回は、変則的に、良安の評言部に不審があるので、それを片付けてから、注に入ることとする。私の長年の「和漢三才圖會」の読者も、一読、不審に思うであろう箇所である。「」の部分である。今までの、サイトとブログで完遂している膨大な「動物部」でも、また、ブログで単発で行っている「和漢三才圖會抄」でも、そして、今まで三百十三記事に至っている本「植物部」でも、「云云」等という記載は、私の記憶する限り、一度もなかったからである。而して、東洋文庫訳には、ここ以下終りまでについて、以下の後注があるのである。

   《引用開始》

この部分は杏林堂版では次のようになっている。「わたしの家にもあるが、まだ三尺以上のものは見ない。小木でよく子を結ぶ。〔一般に倭方(わほう)の木香丸や阿伽陀円などという薬中に胡椒を入れるが、これは気を下し肺・胃を温める効があるからである。〕」

   《引用終了》

出版詳細が判っていないが、「和漢三才圖會」には、二つの版があり、杏林堂版は、通行本の五書肆名連記版を改稿したものとも思われる。私は、杏林堂版を所持していないので、「日本古典籍ビューア」のここで、当該部を視認し、以下に示すこととした。煩を厭わず、良安の評言部全部を本プロジェクトと同じ形式で示す。下線部が異なる箇所である。

   *

△按胡椒阿蘭陀商舶將來之陀國之產最良蘓門荅

 剌交趾母羅加次之近頃有撒種生者其樹髙二三尺

 葉似椒葉而厚不靭亦似千葉梔子葉四月開小白

 花秋結子生熟與異國之產無異伹枝莖雖纎弱不蔓

 之屬葉亦大異也予家亦有之未見過三尺者小木而

 能結子【凡倭方木香丸阿伽陀圓等薬中入用胡椒者以下氣溫中之功也】

 胡椒辛氣入鼻則嚏故誤物入鼻孔不出者傍撒胡椒

 末令嚏則隨出

   *

△按ずるに、胡椒、阿蘭陀《オランダ》商舶《しやうはく》、之れを將來《しやうらい》す。陀國《バンダこく》の產、最《もつとも》良し。蘓門荅剌《ソモタラ》[やぶちゃん注:スマトラのこと。]・交趾(カウチ)[やぶちゃん注:現在のヴェトナム北部。]・母羅加(モロカ)、之≪に≫次ぐ。近頃、種を撒《まき》て生(は)へる者、有り。『其《その》樹、髙さ、二、三尺、葉、「椒(たうがらし)」の葉に似て、厚く、靭(しな)へず。亦、「千-葉《やへ》の梔子(くちなし)」の葉に似たり。四月、小≪さき≫白≪き≫花を開《ひらき》て、秋、子《み》を結ぶ。生《なま》・熟《じゆく》、與《ともに》、異國の產と異なること、無し。伹《ただし》、枝・莖、纎(ほそ)く弱《よはき》と雖《いへども》、蔓(つる)の屬ならず。葉も亦、大《おほい》に異《こと》なり。』≪と≫。予が家も亦、之《これ》、有り。≪而れども、≫未だ、三尺≪を≫過《すぐ》者を見ず。小木《せうぼく》にして、能く、子を結ぶ【凡そ、倭方《わはう》の「木香丸《もくかうぐわん》」・「阿伽陀圓《あかだゑん》」等の薬中に胡椒を入《れ》用《もちふ》るは、以氣を下《くだ》し、中《ちゆう》を溫《あたたむ》るの功《かう》を以つてなり。】。

 胡椒は、辛氣《しんき》、鼻に入《いる》と、則《すなはち》、嚏(はなひ)る故《ゆゑ》、誤《あやまり》て、物、鼻の孔《あな》に入《いり》て、出《いで》ざる者、傍《かたはら》に胡椒の末《まつ》を撒(ま)きて嚏《はなひ》らしむれば、則《すなはち》、隨《したがひ》て、出づ。

   *

・「木香丸《もくかうぐわん》」江戸時代の売薬の名。植物の木香(双子葉植物綱キク目キク科ドロミアエア属モッコウ Dolomiaea costus 。インド北部原産の多年生草本。江戸時代には薬物として渡来していた。現在は雲南省や、本邦でも北海道で栽培が行われている)の根から製した腹痛の薬。

・「阿伽陀圓《あかだゑん》」万病に効く霊薬と言われた「阿伽陀」の名によって作られた丸薬。近世、大坂安堂寺町通の紐屋(薬店の屋号か)などで売薬として売られた。孰れも小学館「日本国語大辞典」に拠ったが、大坂安堂寺町通は江戸時代より組み紐の店があり、今もある。紐屋が、本業以外に、この薬を売っていたものか? 調べたが、判らなかった。

 さて、以上で、概ね、すっきりしたので、以下、普段の注に入ることとする。★

   

 この「胡椒」は、日中ともに、

双子葉植物綱モクレン亜綱コショウ目コショウ科コショウ属コショウ Piper nigrum

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした。必要を認めない箇所は基本、示さずに省略した。また、私は実際のコショウの植物体を見たことがないので、以上の本文と図と比較するために一部で同ウィキの画像をリンクした。太字・下線は私が附した)。『コショウ科コショウ属に属する』蔓『性植物の』一『種』(『図1a)、または』、『その果実を原料とする香辛料のこと(英:pepper図1b)である。インド原産であるが、世界中の熱帯域で広く栽培されている』。『果実には強い芳香と辛みがあり、香辛料としてさまざまな料理に広く利用され、「スパイスの王様」ともよばれる。精油が香気成分となり、アルカロイドのピペリン』(piperine)『やシャビシン』(Chavicine)『が刺激・辛味成分となる。果実の処理法などによって、黒胡椒(ブラックペッパー)や白胡椒(ホワイトペッパー)などに分けられる』。十五『世紀以降のヨーロッパの東方進出は、コショウ貿易による利益も関わっていた』。『コショウの英名は「pepper」であるが、これはサンスクリット語で同属別種であるヒハツ(インドナガコショウ)』(畢撥: Piper longum )『を意味する「pippali」に由来しており、古くに名前の取り違えが起こったと考えられている』。『トウガラシ』((唐辛子・蕃椒:キク亜綱ナス目ナス科トウガラシ属トウガラシ Capsicum annuum )『やオニシバリ』(鬼縛り:バラ亜綱フトモモ目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属オニシバリ Daphne pseudomezereum 果実は辛く、有毒)、『また』、『サンショウ』(ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum )『の果実を「胡椒」とよぶことがある』ので注意が必要である。蔓『性の木本(藤本=とうほん)であり、長さはときに』十メートル『以上になり、節は膨らみ、節から不定根を出して他物に絡み付く(図2ab)。葉は互生、葉柄は長さ』一~二センチメートル、『葉身は卵形から長卵形』で、十~十五センチメートル×五~九センチメートルで、『先端は尖り、無毛で革質、表面は光沢がある暗緑色、葉脈は掌状で』、五~七(或いは九)『脈、中央の脈は基部から』一・五~三・五センチメートル『の部分で分枝する(図2c)』。『野生株では単性花(雄花と雌花が別)をつけ』、『雌雄異株(雄花と雌花が別の個体につく)のものが多いが、栽培される系統のものは雌雄同株(雄花と雌花が同じ個体につく)であり、また様々な程度で両性花をつける。野生型では果実量が少ないが、栽培されるものでは両性花率が高い系統ほど果実量が多いことから、栽培の歴史の中でこのような系統が選択されてきたと考えられている。花期は』六~十『月(中国の場合)、穂状花序を形成し、花梗は葉柄とほぼ同長、花穂は長さ約』十センチメートル、『葉と対生状につく(図3a、』3『d)。苞は』箆(へら)『形から楕円形、およそ』三~三・五×〇・八ミリメートルで、『花被を欠く。雄しべは』二『個、花糸は太く短い(図3d)。雌しべの子房は球形、柱頭は』三~四(或いは五)『個(図3d)』。『果穂は長さ』十五~十七センチメートル『ほどになり』、五十から六十『個の果実からなる(図3b』、3『c)。個々の果実は核果』一『個の種子を含み、球形で直径』五~六ミリメートル。『未熟果実は緑色だが』、『これを天日干しすると黒色』となり、『熟した果実は赤色になる(3b、』3『c)。『染色体数は 2n = 48, 52, 104, 128 が報告されており、栽培の歴史の中で著しい染色体倍加が起こったと考えられ、また他種との交雑の可能性も示唆されている』。

以下、「分布」の項。『原産地はインド南西部マラバール地方とされるが、すでに紀元前』一『世紀ごろには東南アジア熱帯域で栽培されていたと考えられている』。二〇二〇『年時点では、東南アジア、アフリカ、中南米の熱帯域で広く栽培されている』。

以下、「香辛料」の項。『コショウの果実には強い芳香と強烈な辛みがあり、最もよく使われる香辛料(スパイス)の』一『つであるため、「スパイスの王様(king of spice)」ともよばれる。コショウの辛さは、塩辛さとは異なる辛さである。コショウは肉料理、魚料理、野菜料理、スープなどさまざまな料理に使われ、またハムやソーセージの製造にも利用される。他にもソースやケチャップなどの調味料の原材料ともなる』。

以下、「種類」の項。『コショウは収穫のタイミング(未熟果、完熟果)や乾燥方法、外皮(外果皮・中果皮)の除去などの違いにより、黒胡椒、白胡椒、青胡椒、赤胡椒の』四『種類に分けられる』。

・『黒胡椒、ブラックペッパー(黒コショウ、黒こしょう、black pepper)』

『完熟前の緑色の果実を収穫し、天日干しで乾燥させたものであり、黒色になる。湯通しした後に乾燥したり、薪を使って』燻(いぶ)す『こともある。乾燥の際、果皮(外果皮、中果皮)にシワが生じるが、剥がさず』、『そのまま使用する。中果皮には辛み成分が多く含まれており、香りと辛みが強いため、強い味の肉料理や青魚などとの相性がよいとされる。また、インドの伝統医学であるアーユルヴェーダにて高く評価されている』。

・『白胡椒、ホワイトペッパー(白コショウ、白こしょう、white pepper)』

『赤色に完熟した果実を収穫し』、一『週間ほど水に浸して発酵させた後、柔らかくなった外果皮・中果皮を除去したものである。核(種子とこれを包む硬い内果皮)のみからなり』、『外果皮・中果皮がないため、黒胡椒より』、『辛みは弱いが』、『異なる風味を持ち、魚料理やシチューなど素材の味が強くないものとの相性が良いとされる』。『人によっては白胡椒に不快臭を感じる事があるが、これは製造工程で果皮を水中で腐敗させる際に発生する物質に由来しており、流水中の処理により』、『臭みの発生を押さえることが報告されている。白胡椒は発酵食品でもあり、コーヒーやカカオのように発酵過程の調節で多様な風味をつくることが可能ともされる。一方で、黒胡椒の外果皮・中果皮を機械で剥がして白胡椒としたものもある。また』、『下記のように胡椒は薬用にも使われるが、その際には』、普通、『白胡椒が使われる』。

・『青胡椒、緑胡椒、グリーンペッパー(青コショウ、青こしょう、green pepper)』

『完熟前の緑色の果実を原料とするが、黒胡椒とは異なり』、『天日干しにはせず、ゆでてから塩蔵、またはフリーズドライ加工したもの。そのため、果実の色は緑色が残っている(図8)。さわやかな香りと辛みを特徴とする。料理に散らしてアクセントにしたり、香りを活かしてスープやサラダに加える。タイ料理では「プリックタイオーン」とよばれ、粒のまま炒め物に利用されることがある』。

・『赤胡椒、ピンクペッパー(赤コショウ、赤こしょう、pink pepper)』

『赤色に完熟した果実を収穫するが、白胡椒とは異なり』、『外果皮・中果皮をはがさずにそのまま塩蔵したものや』、『天日乾燥したもの。赤い外果皮はシワが入り(図9)、香りと辛みがマイルドであるとされる。ペルーなど南アメリカの料理で使用されることがある。ただし「ピンクペッパー」(pink pepper)は』、胡椒とは全く無縁な、『ウルシ科の辛みがない植物コショウボク』(胡椒木:ムクロジ目ウルシ科サンショウモドキ属コショウボク Schinus molle )『の果実を意味することが多い』(私のような「ウルシかぶれ」の体質者は或いは気をつけねばならんな。当該ウィキをリンクしておく)。

『コショウは様々な形態で利用され、ホール(原形の粒の状態、粒胡椒)、あらびき(粗挽き)、パウダー(粉末状)などが市販されている。また、使うたびにペッパーミルを用いてホールを挽いたほうが新鮮な風味を得ることができるとされる』。『異なる種類の胡椒を混ぜて使うこともあり、日本で市販品には黒胡椒と白胡椒を混合したものもある。また』、『塩などと混ぜた「味付塩こしょう」として市販されているものもある』。『コショウの消費期限は、製造方法や保管状況にもよるが、おおよそ』二~三『年である。挽いた後のものは、挽く前(ホール)より香味が飛びやすい。また「黒胡椒」「白胡椒」の乾燥させたものは、「青胡椒」「赤胡椒」といった乾燥させる前のものより長持ちしやすくなる。大航海時代など物流が発達する前は「青胡椒」「赤胡椒」は原産地での香辛料や食材として使用されていたのに対し、原産地から離れていたヨーロッパでは「黒胡椒」「白胡椒」が使用されていた。現在は物流が発達したことや世界各地でコショウの生産が行えるようになったこと、さらに各国の料理が世界中に広まっていることからこの区別はなくなっている』。以下、「薬用」の項。『コショウの果実にはアルカロイドであるピペリンなどが含まれており、薬効を期待した料理や外用薬に使われることがある。抗菌、食欲増進、消化促進、健胃、駆風、発汗促進、利尿、鎮痛などの作用があるとされ、食欲不振、消化不良、胃弱、嘔吐、下痢、腹痛、腹部膨満、歯痛などに使われる。また、抗がん作用、抗酸化作用、止瀉作用も報告されている。脂肪燃焼作用やエネルギー代謝の亢進によるダイエット効果、また他の成分の吸収率を高めることで一緒に摂取した医薬品の作用を増強する効果があるとして健康食品に使用されることもあるが、多量に摂取した場合に他の医薬品と相互作用を示すことから、健康被害が発生する可能性を否定できず注意が必要ともされる』。『アルカロイドであるピペリンやシャビシン、ピペラニン (piperapine)、これらの構成要素であるピペリジン(piperidine)などが辛み成分となり、また精油であるピネン(pinen)、リモネン(limonene)、カリオフィレン(caryophyllene)、ピペロナール(piperonal)などが香り成分となる。コショウでくしゃみが出るのは、辛味成分であるピペリンが鼻腔の神経を刺激するためである』。

以下、「産地」の項。『コショウはインド原産であるが、世界中の熱帯域で広く栽培されている』。二〇二一『年時点の生産量(ただしコショウ属の他種を含む)はベトナムが最大であり、以下ブラジル、インドネシア、ブルキナファソ、インドと続いている』とある。

 なお、以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の「胡椒」(ガイド・ナンバー[079-10a]以下)のパッチワークである。

「昧履支《まいりし》」これは、原拠は「本草綱目」の記載から、唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した「酉陽雜俎」(二十巻・続集十巻・八六〇年頃成立)の「續集」の「卷十八 廣動植之三」からである(「百度百科」の「昧履支」を見よ)。原文は「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、当該部の電子化されてある。一部に手を加えて示す。

   *

胡椒、出摩伽陀國、呼爲昧履支。其苗蔓生、極柔弱。葉長寸半、有細條與葉齊、條上結子、兩兩相對。其葉晨開暮合、合則裹其子於葉中。形似漢椒、至辛辣。六月採、今人作胡盤肉食皆用之。

   *

私は、同書を東洋文庫版の今村与志雄訳注で所持する。当該部の訳を引用する。

   《引用開始》

   胡椒(こしょう)。

 マガダ国に産出する。同地では、昧履支と呼ぶ。その苗は、蔓(つる)生で、きわめて

やわらかく弱い。葉の長さは、一寸半で、細い条(こえだ)があり、葉と同じである。条(こえだ)に子(み)を結び、両々相対する。その葉は、朝、開き、日が没すると、合わさる。その子(み)を葉のなかにつつむ。ぁ達は、漢椒に似ているが、たいへん辛(から)くひりひりする。六月、採取する。いまの人は胡盤肉をつくるとき、これを使用する。

   《引用終了》

今村先生の注を使用させて戴くと、「昧履支」は『現代中国語音 mei-li-či。これは胡椒を意味するサンスクリット、マリチャ maricamarica の転写である。なお、サンスクリットのマーガダ māgadha は、コショウ pepper の形容語である。インドのうち、とくにマガダ国 Maghda という地名に結びつけられる所以がある』とある。私の後注も参照のこと。

「漢椒」は『蜀椒のこと』とあるので、先行する「秦椒」及び「蜀椒」で示した通り、サンショウを指す。

「胡盤肉食」『胡は、唐代、外来の物をさす場合、一種 の接頭語として使用されたが、とくに、西域、イラン系の文物に用いられることが多い。もっとも、胡椒のようにインド産の物にも使われているから、その使用の仕方は、きゅうくつなところはなかった。胡盤肉食は、西域ふうの肉料理という意味らしい。胡椒は、その後、普及し、一六世紀、明代の李時珍(一五一八-一五九三年)のときには、「胡椒は、いま南番諸国および交趾、滇南[やぶちゃん注:現在の雲南省昆明以南の広大な地域を指す。]、海南の諸地はどこにもある……いまや中国の食品にゆきわたり、日用の物になった」というぐらいになっていた。』と述べておられる。

 以下、本文注に入る。

「西戎」中国が西方の異民族を呼んだ卑称。

「南畨」「南蠻」に同じ。同前で南方の異民族を呼んだ卑称。

「摩伽陀國《マガダこく》」当該ウィキによれば、ヒンディー語ラテン文字転写で「Magadha」(紀元前六八二年~紀元前一八五年)は『古代インドにおける十六大国の一つ。ナンダ朝のもとでガンジス川流域の諸王国を平定し、マウリヤ朝のもとでインド初の統一帝国を築いた。王都はパータリプトラ』(現在のビハール州の州都パトナ。グーグル・マップ・データ)とある。

「扁豆《へんづ》」マメ目マメ科マメ亜科インゲン連フジマメ(藤豆・鵲豆)属フジマメ Lablab purpureus 。東洋文庫訳では、割注で『(インゲンマメ)』とするが、誤り。マメ科インゲンマメ属インゲンマメ Phaseolus vulgaris で、全く異なる種である。何故、間違ったかは、判る。これを担当された清水淳夫氏は大阪生まれだからである。ウィキの「フジマメ」によれば、『関西ではフジマメをインゲンマメと呼び、インゲンマメはサンドマメと呼ばれている』とあるのである。

「山藥《さんやく》」これは、本来は漢方薬での呼称である。しかも、「本草綱目」であるから、単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya しか指さない。日本原産のヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica は厳密には含まない。但し、中国にも現在は非常な広域で分布はしており、その伝播の時期は判らない。

「梧桐《ごとう》」双子葉植物綱アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex 。先行する「卷第八十三 喬木類 梧桐」を見よ。

「母羅加(モロカ)」これは、現在のモルッカ諸島(英語:Moluccas/オランダ語:Molukken)=マルク諸島(インドネシア語:Kepulauan Maluku)、インドネシア共和国のセラム海とバンダ海に分布する群島のことであろう。当該ウィキによれば、『スラウェシ島の東、ニューギニア島の西、ティモール島の北に位置する。歴史的に香料諸島(スパイス諸島)』(☜)『として特に西洋人や中国人の間で有名であった』とある。

「小天蓼(こまたゝび)」『「灌木類」≪の≫「天蓼(またゝび)」』「コマタタビ」という種はないので、双子葉植物綱ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ Actinidia polygama の実のことを言っているとしか思われない。先行する「卷第八十四 灌木類 木天蓼」を見よ。]

2025/06/21

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 崖椒

 

Inuzannsyou2

 

のさんしやう  野椒

 

崖椒

       【俗此亦名犬山椒】

 

本綱崖椒葉大於蜀椒不甚香而子灰色不黑無光野人

用炒雞鴨食

椒紅【辛熱】 治肺氣上喘兼欬嗽

△按崖椒生原野其樹刺葉實皆類川椒伹葉稍大色深

 綠不潤開細花結子大如綠豆而攅生未紅熟而開口

 味苦微有椒氣其目黑而不光澤此亦名犬山椒凡物

 與某似而賤劣者皆稱犬稱烏【犬蠶豆犬綠豆鴉碗豆之類也】

[やぶちゃん字注:「某」は「グリフウィキ」のこの異体字(下方が「木」ではなく、「ホ」の字型)だが、表示出来ないので正字とした。]

 

   *

 

のさんしやう  野椒《やせう》

 

崖椒

       【俗、此れも亦、「犬山椒《いぬ

        さんせう》」と名づく。】

 

「本綱」に曰はく、『崖椒《がいせう》は葉、蜀椒《しよくせう》より大なり。甚《はなはだ》≪は≫香《かんばし》からずして、子《み》、灰色にして黑からず、光《ひかり》、無し。野人、用《もちひ》て、雞《にはとり》・鴨を炒《い》り、食ふ。』≪と≫。

『椒紅【辛、熱。】』『肺氣、上《のぼ》り、喘(すだ)き[やぶちゃん注:ぜいぜいと喘(あえ)ぎ。]、兼《かね》て、欬嗽《がいそう》[やぶちゃん注:咳(せき)。]を治す。』≪と≫。

△按ずるに、崖椒は、原野に生ず。其《その》樹、刺・葉・實、皆、川椒《せんせう》に類《るゐ》す。伹《ただし》、葉、稍《やや》、大にして、色、深綠。潤《うるほ》はず。細≪き≫花を開き、子を結ぶ。大いさ、綠豆(ぶんどう)のごとくにして、攅生《さんせい》[やぶちゃん注:群がって成り。]≪し≫、未だ紅熟ならずして、口を開く。味、苦《にがく》、微《やや》、椒《せう》≪の≫氣《かざ》、有り。其の目《たね》、黑くして、光澤ならず。此れも亦、「犬山椒」と名《なづ》く。凡《およそ》、物《もの》、某《ぼう》と似て、賤劣《せんれつ》なる者、皆、「犬《いぬ》」と稱し、「烏《からす》」と稱す【「犬蠶豆(《いぬ》そらまめ)・「犬綠豆(《いぬ》ぶんどう)・「鴉碗豆《からすのゑんどう》」の類《たぐゐ》なり。】。

 

[やぶちゃん注:これは、前項の「蔓椒」と同一の、

双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属イヌザンショウ(犬山椒)変種イヌザンショウ Zanthoxylum schinifolium var. schinifolium

である。私の注で引いた「拼音百科」の同種のページ「青花椒」の『别名』の中に『崖椒』があるからである。

 昨日から「漢籍リポジトリ」にアクセス出来ないので、「維基文庫」で示すと、「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の「崖椒」からのパッチワークである。

「川椒」良安が、安易に、この固有名詞を出すのは、おかしいし、現代の学術的視点からは間違っている。これは、先行する「秦椒」及び「蜀椒」で私が考証した通り、「川椒」は本邦には植生しない、

サンショウ属カホクザンショウ(華北山椒) Zanthoxylum armatum 

である。則ち、良安は見たことがないのに、葉・花・実の実態まで見たように語っているのだが、どうして、こんな記載が出来るんだヨッツ! アホンダラ!

「綠豆(ぶんどう)」マメ目マメ科マメ亜科ササゲ(大角豆・豇豆)属ヤエナリ(八重生) Vigna radiata の種子を指す。当該ウィキを見よ。後の「犬綠豆(《いぬ》ぶんどう)」も、その貧弱個体の卑称であろう。

「犬山椒」先行する「蔓椒 いぬさんしやう」を見よ。

「犬蠶豆(《いぬ》そらまめ)」この名の種は存在しない。マメ科ソラマメ(空豆・蚕豆)属ソラマメ Vicia faba の貧弱個体の卑称であろう。

「鴉碗豆《からすのゑんどう》」私が幼少期より好きな野草である、マメ科ソラマメ属オオヤハズエンドウ(大矢筈豌豆)亜種ヤハズエンドウ Vicia sativa subsp. nigra の異名「カラスノエンドウ」。当該ウィキを見よ。]

2025/06/20

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 蔓椒

 

Inuzansyou

 

いぬさんしやう 豬椒 豕椒

        彘椒 豨椒

        狗椒 金椒

蔓椒

        【和名鼬波之加美

         一云保曽木】

マン ツヤウ   今云以奴山椒

 

本綱蔓椒野生林箐閒枝軟如蔓子葉皆似椒山人亦食

實根莖【苦温】 治風寒濕痺四肢膝痛【煎湯蒸浴取汗】根治痔【燒末之服】


地椒

本綱地椒卽蔓椒之小者其苗覆地蔓生莖葉甚細花作

小朶色紫白因舊莖而生其子小味微辛土人以煑羊肉

食香美

實【辛温有小毒】 治淋渫腫痛可作殺蛀蟲藥

 

   *

 

いぬさんしやう 豬椒《ちよせう》 豕椒《しせう》

        彘椒《ていせう》 豨椒《きせう》

        狗椒《くせう》  金椒

蔓椒

        【和名は「鼬波之加美《いたちはじかみ》」。

         一《いつ》に云ふ、「保曽木《ほそき》。】

マン ツヤウ   今、云《いふ》、「以奴山椒《いぬさんせう》」。

 

「本綱」に曰はく、『蔓椒《まんせう》、林《はやし》・箐《せい》[やぶちゃん注:大規模な竹林。]の閒に野生す。枝、軟《やはらか》にして、蔓《つる》のごとく、子《み》・葉、皆、椒《せう》に似たり。山人、亦、之れを食ふ。』≪と≫。

『實根莖【苦。温。】』『風寒濕痺《ふうかんしつひ》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の後注に『風・寒・温の三つの邪気がまざりあい、身体を侵し』麻『痺を発するもの。悪寒して体はだるく、しびれ、心悸(き)して痺の証があらわれる』とある。]四肢≪の≫膝痛《ひじつう》を治す【煎じ湯にて蒸し浴びし、汗を取る。】。痔を根治す【燒きて末とし、之れを服す。】。』≪と≫。


地椒(ちしやう)

本綱に曰はく、『地椒は、卽ち、蔓椒の小なる者≪なり≫。其《その》苗、地を覆《おほ》ふて、蔓生《つるせい》す。莖・葉、甚だ、細く、花、小《ちさ》≪き≫朶《ふさ》を作《なし》、色、紫白。舊(ふる)き莖に因《よつ》て生ず。其《その》子、小《ちさ》く、味、微《やや》辛《からし》。土人、以《もつて》、羊肉を煑て、食ふ。香、美なり。』≪と≫。

『實【辛、温。小毒、有り。】』『淋渫《りんせつ》≪の≫腫痛[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に『(淋病の菌によっておこる腫痛)』とあるが、要は淋病の主症状で、主に性行為によって尿道・子宮頸管・喉などの粘膜に感染することで発症する。]を治す。≪また、≫蛀蟲《むしくひ》を殺す藥と作《な》すべし。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:これは、日中ともに、

双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属イヌザンショウ(犬山椒)変種イヌザンショウ Zanthoxylum schinifolium var. schinifolium

である。「拼音百科」の同種のページ「青花椒」によれば、『别名』は『野椒・天椒・崖椒・隔山消・山甲・狗椒・青椒・香椒子・王椒・小花椒・山花椒』とあり、『標高八百メートルまでの平野の疎らな森林・灌木・岩場などによく見られる。また、中国の武陵山脈以北と遼寧省以南の殆んどの省・地域、更に、北朝鮮と日本にも分布している。揚子江以北で産するこの種の小葉には、透明な腺点』(蜜・油・粘液などを分泌又は貯めておく小さな点状組織)『が多く、葉の毛はまばらで短いか、殆んど、無毛である。小葉は特に江蘇省と山東省で小さく、揚子江以南と武陵山脈以北で産するものの小葉は大きく、腺点は少ない。武陵山脈の南斜面(福建省南部・広東省・広西チワン族自治区を含む)で生産される植物の小葉は最も大きく、毛が密集している。葉の縁の鋸歯状の部分を除いて、その他の腺点は目立たない』とあった。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名、オオバイヌザンショウ、ホソバイヌザンショウ、コバノイヌザンショウともよばれる』。『和名「イヌザンショウ」の由来は、サンショウ』( Zanthoxylum piperitum )『に似るが、香りが弱く』、『香辛料にならないため、名に本物のサンショウに比べて役に立たないという意味の「イヌ」をつけたものである。中国名は「青花椒」』。『日本の本州(秋田・岩手県以西)、四国、九州と、朝鮮半島、中国に分布する。山地や山野の河原や林縁などに生える』。『落葉広葉樹の低木から小高木。高さは』一~三『メートル』『になる。樹皮は灰褐色で、若木は』瘤『状になったトゲがあるが、次第に少なくなる。成木の樹皮には縦に裂け目が入ってくる。若い枝は暗緑色や赤褐色で無毛、トゲが互生し、トゲが対生するサンショウと見分けられる。葉は奇数羽状複葉で互生し、小葉は長楕円形から広披針形で長さは』二~四『センチメートル』『ある。葉に腺点がある』。『花期は』七~八『月でサンショウよりも遅い。雌雄異株。枝の先に淡緑色の小花を多数つける。花は淡緑色で、花弁と萼片が』五『枚ずつつくのが』、『特徴で、サンショウには花弁がないのが相違点である。果期は』十『月。果実は楕円形状球形の蒴果で、紅紫色から紅褐色を帯び』、三『個の分果に分かれる。分果はほぼ球形で長さ』四~五『ミリメートル』『あり、熟しても淡緑色で、熟すと』二『つに裂けて、中から光沢がある黒色の種子を出す。種子は長さ』三~四ミリメートル『の楕円状の球形で、種皮は光沢があるが、種皮を剥くと黒色で表面に凹凸が並ぶ。葉や果実はサンショウほど香らない』。『冬芽は互生し、暗褐色の芽鱗』二、三『枚に覆われた小さな半球状をしており、葉痕のほうが大きい。枝先には仮頂芽がつく。葉痕は半円形や心形で、維管束痕が』三『個ある。しばしば枝先に果序が残る。果実を煎じた液や葉の粉末は漢方薬に利用される。樹皮や果実を砕いて練ったものは湿布薬になる』とある。

 以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の四項目の「蔓椒」のパッチワークである。

「地椒(ちしやう)」正しい歴史的仮名遣は「ちせう」。これは、サンショウとは全く無縁の、

キク亜綱シソ目シソ科イブキジャコウソウ(伊吹麝香草)属イブキジャコウソウ Thymus quinquecostatus

である。但し、時珍の記載は明らかに確信犯的記載であるから、何らかのコショウ属の個体を指しているようには見える。「維基百科」の同種の文字通りの「地椒」を見られたい。そこには、『中国本土の遼寧省・河北省・山西省・山東省・河南省などに分布する』とあった(日本への言及はない)。本邦の当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名、イワジャコウソウ、ナンマンジャコウソウ』(後者の「マンナン」はネットで調べたが、漢字不明。識者の御教授を乞う)。『茎は細く、地表を這い、よく分枝する。枝には短い毛があり、直立して高さは』三~十五センチメートル『になる。葉は茎に対生する。葉身は卵形から狭卵形で、先端は鈍頭、長さ』五~十ミリメートル、『幅』三~六ミリメートル『になり、縁は全縁になる。全体に芳香がある』。『花期は』六~八『月。枝の先端に短い花穂をつける。花冠は紅紫色の唇形で、上唇はわずかに』二『裂して直立し、下唇は』三『裂して開出する。萼は筒状鐘形の唇形となる。雄蕊は』四『本ある。果実は分果となり、やや扁平となる』。『和名は、伊吹山に多く産し、芳香があることから付けられた』。『日本では、北海道、本州、九州に分布し、海岸から高山帯までの日当たりの良い岩地に生育する。アジアでは、朝鮮、中国、ヒマラヤに分布する』。以下、三種の変種・品種が載る。

シロバナイブキジャコウソウ Thymus quinquecostatus f. albiflorus (別資料で、分布は北海道・本州・九州とあった)

ハマジャコウソウ Thymus quinquecostatus f. maritimus (別資料(学術論文)で、分布は本州(関東・東海・三重・福井)とあった)

ヒメヒャクリコウ Thymus quinquecostatus var. canescens (『葉にあらい毛があり、日本の北アルプスに』、稀『にみられる。アジアでは、樺太、ウスリーに分布する』)

以上である。]

2025/06/19

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「國分寺藥師佛奇」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)を添え、段落・改行を成形した。]

 

 「國分寺藥師佛奇」 安倍郡北安東村《きたあんどうむら》龍池山國分寺にあり。寺記云《いはく》、

『永祿十二年、武田晴信入道信玄、兵を當國に入《いる》るの時、當寺の本尊藥師佛を取《とり》て鑄潰《いりつぶ》し、火砲に用《もち》ゆ。其《その》首《かしら》、爍《と》けず、一夜の內に堂中に飛來《とびきた》る。今、猶《なほ》、首のみ、存せり。若《もし》、諸願ある人、是を擡《もたげ》る[やぶちゃん注:持ち上げる。]に、罪障深き者は、力あり共《とも》あがらず。云云』。

 奇成哉《きなるかな》、傳云《つたへていふ》、

「永祿兵災の後《のち》、寺地、年々に破壞して、本尊再建の力《ちから》なく、終《つひ》に木佛を彫《ほり》て本尊とす。」。

 

[やぶちゃん注:「龍池山國分寺」前の「國分寺大蛇呑經」を見よ。

「永祿十二年」一五六九年。この年の末、信玄は、再び、駿河侵攻を行い、駿府を掌握している。

「奇成哉傳」「近世民間異聞怪談集成」は書名としているが、こんな書は存在しないようであるので、以上のように訓読した。もし、あるというならば、是非、お教え戴きたい。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「國分寺大蛇呑經」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)添え、段落・改行を成形した。引用の漢文脈の中に、珍しく、一箇所、ルビがある。上附きで丸括弧で添えた。ここから「安倍郡」パートとなる。当該ウィキによれば、明治一二(一八七九)年に『行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では、概ね、静岡市葵区の大部分(春日・柚木・宮前町・長沼・古庄・瀬名・瀬名川・南瀬名町・東瀬名町・西瀬名町・瀬名中央・長尾・平山を除く。静岡駅周辺の住居表示実施地区の境界線は不詳)にあたる』。『駿河国府が置かれた地である』とある。旧郡域はリンク先の地図を見られたい。]

 

       安  倍  郡

 「國分寺大蛇呑經《こくぶんじ おろち きやうを のむ》」 安倍郡北安東村龍池山國分寺【東動院と號す。眞言高野山無量光院末、寺領八石。】、別堂にあり。「三代實錄」云《いはく》、

『貞觀十四年壬辰夏六月三十日己亥、駿河國國分寺別堂大蛇、呑般若心經卅一卷、復一軸、觀者以ㇾ繩結蛇尾、倒懸樹上小選(シバラク)乄吐ㇾ經、蛇落ㇾ地半死、俄而更生【下畧。】。同年秋七月二十九日丁酉、駿河國、蛇呑佛經之異、神祗官卜曰、

「當年冬、明年春、當國有失火疫癘之災。」。[やぶちゃん注:「當」の下には返り点「三」はないが、文脈から、「近世民間異聞怪談集成」にあるのを採用した。]」是日令下二國司鎭謝云云。[やぶちゃん注:現行の返り点では存在しない「下二」が使われている。これは、「近世民間異聞怪談集成」でもそうなっている。論理的にはおかしいものの、こうした返り点は古くはあったし、私には違和感はない。]」。

 大蛇の人を呑《のむ》事、往々、聞けり。未《いまだ》、經を呑事を聞かず。奇なる哉《かな》。

 

[やぶちゃん注:「安倍郡北安東村龍池山國分寺【東動院と號す。眞言高野山無量光院末、寺領八石。】、別堂にあり」現在の駿府城跡の北西外直近の静岡市葵区長谷町に現存する(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。ウィキの「駿河国分寺」を引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『真言宗醍醐派の寺院。山号は龍頭山。本尊は地蔵菩薩』。]『奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、駿河国国分寺の後継寺院といわれる。本項では、創建当時の寺跡として駿河国分寺跡を巡る議論についても解説するとともに、駿河国分尼寺についても解説する』。『静岡市中心部、駿河国総社の静岡浅間神社の東方約』四百五十『メートルの地に鎮座する』。『駿河国の国分寺については、古代における所在地は確定されていないが、中世には当地付近に「国分寺」を称する寺院があったことが知られる(ただし法統関係は定かでない)』。仁治三(一二四二)年(鎌倉時代前期。この年、四条天皇が正月に崩御し、後嵯峨天皇が即位しており、鎌倉幕府将軍は藤原頼経で、執権は、この年の六月に第三代北条泰時が逝去し、北条経時が就任した)『には』「惣社幷國分寺云云」『とあることから、同年頃には、惣社(静岡浅間神社)の側に存在したとされる』。『その後も』享禄三(一五三〇)年(事実上の戦国時代。後奈良天皇で、室町幕府の第十二代征夷大将軍は足利義晴)は、『の朱印状や』「言繼卿記」弘治二(一五五六)年(後奈良天皇。但し、翌年に崩御し、正親町(おおぎまち)天皇が即位している。室町幕府将軍は足利義輝)『条にも記載が見える。史料から、国分寺の子院である龍池山千灯院(泉動院[やぶちゃん注:本文の「東動院」はこれの誤字か、或いは、後に改名したものかも知れない。]/仙憧院)によって事実上継承されたと見られている』。『その後も、江戸時代を通じて「国分寺」を称する寺院が当地に存在したことは明らかで、その後裔が当寺と見られる』。『創建時の国分寺の位置は未だ明らかとなっていない。その中で最も有力視されるのが、静岡市駿河区大谷にある片山廃寺跡(国の史跡)』(現在の同大谷にある「片山廃寺跡瓦窯跡」の近くであろう)『である。この片山廃寺は塔跡が未発見であったため、国分寺説を否定して有度郡の地方豪族の私寺と見る説が挙げられているが』、二〇〇九年『の調査で塔跡と推定される版築』(はんち:土を建材に用い、強く突き固めて、堅固な土壁や建築の基礎部分を徐々に高く構築する工法を指す)『が見つかっており、国分寺の可能性を高めている。なお、この片山廃寺を国分寺跡と見ない説では、国分寺跡を静岡市葵区長谷町や駿府城内東北部に推測』している。『一方、後述の菩提樹院境内には国分寺の遺構とする説のある塔心礎が伝わっており、「伝駿河国分寺の塔心礎」として静岡市指定文化財に指定されている。その銘文から』、明和八(一七七一)年(第十代将軍徳川家治の治世)『に駿府城代武田信村から駿府城三の丸城代屋敷内の社の手水鉢として奉納されたものとされる。元々はいずれの寺院で使用されたのか明らかでないが、舎利穴の大きさは甲斐や伊豆の国分寺とほぼ同じになる。この心礎は、昭和』五(一九三〇)年『に日本赤十字社静岡支部の庭(現・静岡県総合福祉会館の位置)において発見され、昭和』二八(一九五三)年『に国分尼寺後裔と伝える菩提樹院に寄進された』。『国分尼寺についても、創建時の位置は明らかでない。太田道灌作といわれる』「慕景集」の嘉吉元(一四四一)年『の記事に』『國府尼寺菩樹院』『と見えることから、後継寺院は静岡市葵区沓谷』(くつのや)『の正覚山菩提樹院であるといわれるが、根拠に乏しく確証はない。菩提樹院』の『寺伝では、武田氏の駿河侵攻において兵火を受けたため、天正年間』(一五七三年~一五九二年)『頃に駿府城西方に再興されたという。その位置は常磐公園付近にあたるが』、昭和一五(一九四〇)『の大火で焼失したことにより、さらに現在地に移転した。この菩提樹院境内には、前述のように国分寺のものと伝える心礎が残っている』とある。

「三代實錄」「日本三代實錄」。六国史の第五の「日本文德天皇實錄」を次いだ最後の勅撰史書。天安二(八五八)年から仁和三(八八七)年までの三十年間を記す。延喜元(九〇一)年成立。編者は藤原時平・菅原道真ら。編年体・漢文・全五十巻。

 以下、漢文部を訓読する。今回は、国立国会図書館デジタルコレクションの「國文 六國史 第十」(武田祐吉・今泉忠義編・昭和一六(一九四一)年大岡山書店刊)の当該訓読部(左ページの最終行から)を参考にしたが、見てみると、本文に大きな異同が複数あるので、以上の訓読で読み変えた箇所がある。中略部分も補い、参考底本を参考にして改行・改段落を加えた。実は、後半部は参考底本では、飛んでいるここの左ページ四行目以降ので、そこも、最低、必要な部分(かなりカットされている)を加えた。

   *

 貞觀(ぢやうぐわん)十四年壬辰(みずのえたつ/じんしん)夏六月三十日己亥(つちのとゐ/きがい)[やぶちゃん注:清和天皇の御世。但し、この年は六月は小の月で「三十日はない。干支が合わないのは史料では価値が認められないから、調べてみると、前月五月三十日が「己亥」であるから、それで記すと、ユリウス暦八七二年七月九日、グレゴリオ暦換算で七月十三日である。それで採る。]、駿河國(するがのくに)國分寺の別堂に大蛇(おろち)、有り、「般若心經」卅一卷を復(あは)せて一軸と爲(な)ししを呑む。觀(み)る者、繩(なは)を以つて、蛇の尾に結び、倒(さかしま)に樹上(じゆじやう)の懸(か)く。小選(しばらく)して、經を吐き、蛇(へび)、地に落ちて、半(なかば)、死(し)に、俄(しばら)くして、更(また)、生きき。

 備後國(びごのくに)、連理(れんり)の樹(き)一(ひともと)を獲(え)き。

 同年秋七月、二十九(にじふく)日丁酉(ひのえとり/ていいう)[やぶちゃん注:この干支は正しい。ユリウス暦八七二年九月五日、グレゴリオ暦換算で九月九日。]、駿河國の蛇、佛經を呑みし異(しるまし[やぶちゃん注:奇怪な徴候・不吉な前兆。])、神祗官、卜(うら)して曰はく、

「當年の冬と、明年の春と、當國(そのくに)に、失火(しつくわ)・疫癘(えきれい)の災(わざはひ)、有り。」

と申(まう)しき。是(こ)の日、國司をして鎭謝(ちんしや)[やぶちゃん注:神霊をしずめなだめること。]せしめき。

   *]

2025/06/18

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「私雨」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)添え、段落・改行を成形した。なお、これで「駿東郡」のパートは終わっている。]

 

 「私雨《わたくしあめ》」 駿東郡足柄山《あしがらやま》にあり。傳云《つたへいふ》、

「天氣快霽《くわいせい》、外《ほか》一點の雲なき日といへども、此山、忽《たちまち》、雲、生じ、村雨《むらさめ》、降る。餘山《よざん》、猶《なほ》、晴明也。故に土俗、是を號《なづけ》て『私雨』と云《いへ》り。凡《およそ》、此《この》足柄山は、當郡竹の下村を境として、駿・相《さう》兩國に跨《またが》れり。故に茲《ここ》に記す。

 

[やぶちゃん注:「足柄山」ウィキの「金時山」によれば、読みは、「きんときやま」「きんときさん」で、『金太郎伝説や童謡「金太郎」の歌詞』の二『番』にある『足柄山の山奥で けだもの集めて相撲のけいこ……』『で知られる足柄山(あしがらやま)は、金時山から足柄山地の足柄峠にかけての山々の呼称である。山域の呼称であり、足柄山という単独の峰は存在しない』とある。「ひなたGIS」で示すとここで、一方、広域の足柄山地は、ウィキの「足柄山地」によれば、『神奈川県北西部に広がる丹沢山地と同県南西部の箱根山地の間にある標高』一千メートル『前後の小規模な山地であり、丹沢山地とは神縄断層および小菅沢断層、箱根山地とは内川断層によって境される』。『このように断層によって隔てられた山地であるが、丹沢山地や箱根山地の一部として扱われることも多い』。『山地中央部を流れる酒匂川によって北東部と南西部に分けられ、北東部は起伏の小さい地域、南西部は起伏の大きい山地となっている』。『いずれの地域も多くは』、『たおやかな地形となっているが、南部に位置する矢倉岳は石英閃緑岩の貫入岩体が浸食から取り残され』、『おにぎりを立てたような形となっており』、『足柄山地の象徴的な存在となっている』とある。因みに私は、神奈川県公立高校教師時代、若い頃と、終わりの頃に、ワンダフォーゲル部と山岳部の顧問をしたが、後者では、毎春は、金時山登山を常としていた。私は、ここから見る富士山が最も美しいと思う。グーグル・マップ・データのサイド・パネルの画像をリンクさせておく。

「竹の下村」現在の静岡県駿東郡小山町竹之下(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

2025/06/17

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 柚山椒

 

Yuzukosyou

 

ゆうさんしやう

 

柚山椒

 

本綱蘓頌曰東海諸島上有椒枝葉皆相似子長而不圓

甚香其味似橘皮島上麞鹿食其葉其肉自然作椒橘香

△按俗稱柚山椒者是也𠙚𠙚希有之枝葉子皆相似而

 其香氣似柚橘之類不上品伹其子長而不圓者少異

 而已

 

   *

 

ゆうさんしやう

 

柚山椒

 

「本綱」、蘓頌、曰≪はく≫、『東海諸島の上に、椒、有《あり》。枝・葉、皆、相《あひ》似て、子《み》、長《ながく》して、圓《まろ》からず。甚《はなはだ》、香《かほ》ふ[やぶちゃん注:ママ。]。其《その》味、「橘皮《きつぴ》」に似《にる》。島の上≪にては≫、麞-鹿《のろじか》、其の葉を食ふ。其の肉、自然に、椒・橘の香《か》を作《な》す。』≪と≫。

△按ずるに、俗、「柚山椒」と稱するは、是《これ》なり。𠙚𠙚《ところどころ》、希《まれ》に、之《これ》、有り。枝・葉・子、皆、≪山椒と≫相《あひ》似て、其の香氣、柚《ゆず》・橘《たちばな》の類《たぐゐ》に似たり。上品ならず。伹《ただし》、「其の子、長くして、圓かならず。」と云《いふ》は、少《すこし》、異《こと》なるのみ。

 

[やぶちゃん注:調味料としての「柚山椒」は私の欠かせないものだが、植物種としての「柚山椒」なるものは、ネット上では、如何にしても見出せない。従って、注は、一切、附せられない。東洋文庫訳もシカトしている。植物種として御存知の方は、是非、御教授を乞うものである。

 以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十の「果之四」「味類一十三種内附四種」の冒頭の「秦椒」の「集解」の一部である。

「橘皮」「第八十七 山果類 橘」の本文中の「橘皮」、及び、私の注の「枳実」及び「橘皮」を参照されたい。

「麞鹿」シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus。「獐(のろ)」とも。「ノロジカ」は哺乳綱鯨偶蹄目シカ科ノロ亜科ノロ属ノロ Capreolus capreolus 。漢字表記は「麕鹿」「麞鹿」麇鹿」「獐鹿」であるが、単に「ノロ」とも呼び、その場合は以上の「鹿」を除去した一字で通用する。ウィキの「ノロジカ」によれば、『ヨーロッパから朝鮮半島にかけてのユーラシア大陸中高緯度に分布する。中国では狍子』(パァォヅゥ:或いは単に「狍」)『と呼ばれる』。体長は約一~一・三メートル、尾長約五センチメートルと、『小型のシカ。体毛は、夏毛は赤褐色で、冬毛は淡黄色である。吻に黒い帯状の斑があり、下顎端は白い。喉元には多彩な模様を持つのがこの種の特徴である。臀部に白い模様があるが、雌雄で形は異なる。角はオスのみが持ち、表面はざらついており、先端が三つに分岐している。生え変わる時期は冬』。『夜行性で、夕暮れや夜明けに活発に行動する。食性は植物食で、灌木や草、果実などを食べる』とある。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麞(くじか・みどり) (キバノロ)」も参考になろう。]

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 冬山椒

 

Huzansyou

 

ふゆさんしやう 俗稱

 

冬山椒

 

 

本草蘇頌曰秦椒初秋生花秋末結實九月十月采之

△按有冬山椒者其葉大而冬實熟者此秦椒之別種也

 人以爲珍然不如夏山椒氣味佳者時珍未見之乎𧁨

 頌之說以爲不然者非也

 

   *

 

ふゆざんしやう 俗稱

 

冬山椒

 

 

「本草」に曰はく、『蘇頌が曰《いは》く、「秦椒、初秋、花を生じ、秋の末、實を結ぶ。九月、十月に、之≪を≫、采《とる》。」と云《いふ》[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]。

△按ずるに、「冬山椒」と云《いふ》[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]者、有り。其《その》葉、大にして、冬、實、熟する者、此れ、「秦椒」の別種なり。人、以《もつて》、珍と爲《なす》。然れども、「夏山椒」の氣味、佳なる者には、如《し》かず。時珍、未だ、之《これ》を見ざるや。𧁨頌《そしよう》の說を以《もつて》、「然《しか》らず」と爲《なす》は、非なり。

 

[やぶちゃん注:これは、良安にして珍しく(皮肉ではない。鎖国時代の彼にして、正しい種を、たまたま来訪した中国人の漢方に関わる又聞きででも基原植物について多少は聞いたものであったとしても、机上で中国の本草書の各種資料を基に、推理して現代の種名の正解を言い当てるのは、かなり難しいことだと言ってよい。しかも以下の引用を見るに、本邦で漢方生剤としてよく用いられてはいなかったようであるから、なおさらである)、正しい推定が図に当たったもので、日中共通種である、既出のカホクザンショウの変種である、

サンショウ属カホクザンショウ変種フユザンショウ(冬山椒) Zanthoxylum armatum var. subtrifoliatum

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした。太字は私が附した)。『名前の由来は冬でも葉を落とさないサンショウという意味』原種の『学名の』種小名“ armatum ”『は、「刺のある」の意味。冬でもわずかに葉を残す』。『中国、台湾、朝鮮半島、日本に分布する』。『日本では本州(関東地方以西)、四国、九州、沖縄の丘陵帯に分布する』。『暖地の山地に生える』『常緑広葉樹の低木』で、『樹高は』二~三『メートル』『ほど』(原種と同じ)。『雌雄異株だが』、『日本では雌株だけしか存在しない』(原種は雌雄ともに日本に植生する)。『樹皮は灰黒色で筋があり、こぶ状の大きなトゲの名残がある。若い幹の樹皮は皮目が多い。一年枝は赤褐色で、無毛または毛が残り、枝や葉柄の基部には対生するトゲがある。若い枝やトゲは同じ色合いで、白い葉痕が目立つ。葉は奇数羽状複葉で互生する。葉柄には翼がある。小葉は』三~七枚『の長楕円形。頂小葉が一番大きい。葉縁には鋸歯がつく』(原種の「サンショウ」のウィキには、『葉柄の基部に鋭い棘が』二『本ずつ対生してつくが、ときに単生するものや』、『突然変異で棘の無い株(実生苗)も稀に発生し得る』。『棘の無い「実山椒(雌木)」としては但馬国の朝倉谷(兵庫県養父市八鹿町朝倉地区)原産の「朝倉山椒」』(前項参照)『が特に有名であるものの』、それに限らず、『日本各地で棘の無いサンショウの栽培が見られる』とある)。『花期は』四~五『月ごろ。葉腋に』二~三『センチメートル』『の花序を出し、淡黄緑色の小さな花をつける。雌株だけで実をつける単為生殖で増える。果期は』八『月で』、十~十一『月には果実は赤く熟し』、二『つに分かれる。種子は黒色で直径約』五『ミリメートル』『ある』。『冬芽は裸芽で、幼い葉が小さく集まり、側芽は枝に互生する。葉痕には維管束痕が』三『個つく』。本邦では、『葉や実には芳香性が無いので、サンショウのように食用にはならないが、サンショウの接ぎ木の台木としては用いられる』とある。

 以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十の「果之四」「味類一十三種内附四種」の冒頭の「秦椒」の「集解」の一部である。既に当該項の全文を先行する「秦椒」の注で「本草綱目」の「秦椒」の項の全文を掲げてあるが、当該部は、

   *

頌曰今秦鳳明越金商州皆有之初秋生花秋末結實九月十月采之

   *

の抄録である。蘇頌(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)は北宋の科学者で宰相。「本草圖經」等の本草書があった。原本は散佚したが、「證類本草」に引用されたものを元にして作られた輯逸本が残る。時珍は彼の記載を「本草綱目」で、かなり引用している。而して、良安が引いているのは、「集解」の終りの時珍の記載の最終部で、

   *

蘇頌謂其秋初生花蓋不然也

   *

である。但し、軽々には、ここで蘇頌が言っているのが「冬山椒」であり、時珍が蘇頌が指示しているものが、「冬山椒」であり、良安がまた、同じく「冬山椒」と判断し、蘇頌が誤記している、と認めることは、そもそもが、「本草小目」の「秦椒」と「蜀椒」が、現代の研究に基づくと、複数の同一種の混淆記載であることが指摘されている以上、到底、不可能であることに注意されたい。

2025/06/16

葛デブリ掃討最終決戦を本日午前中独りで二時間決行!

折れた中木を梯子から切り倒し、頂上の葛骸骨も99%除去した! 体がガタガタになったが、達成感120%!

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 朝倉椒

 

Asakurazannsyou

 

[やぶちゃん注:下方の中央やや左位置に二つの花をつけた枝が、独立して添えて描かれてある。実は本図内にさわに実っている。]

 

あさくらさんしやう

 

朝倉椒

 

 

△按朝倉山椒始出於伹馬朝倉谷【其谷兩岸四五町閒皆椒樹也】丹波

 丹後多接其枝今人以爲丹波朝倉近頃奧州津輕之

 産亦顆大而氣味勝矣京師大坂人家雖接枝多不長

 經四五年者希也山椒之名𢴃此其樹無刺葉大而顆

 亦大於他椒夏月開小花其目光黒最美其子生者不

 佳可以枝接

椒紅 俗云乾山椒也常乾山椒辛味微而經月則變苦

 朝倉椒正赤而甚辛越年亦味不變伹忌觸人手此乃

 本草所謂蜀椒乎然蜀椒不𬜻結子朝倉椒有花亦無

 針蓋此一種因土地之異然耳

 凡蛇喜山椒樹來棲反鼻蛇最然矣


椒葅法

[やぶちゃん字注:「葅」は原文では、(くさかんむり)の左下は「メ」「メ」であるが、異体字にはないので、これとした。この字は「漬物」を意味する。

△按淹山椒六月用半熟者一升鹽三合和藏缾噐入水

[やぶちゃん字注:「缾」は原本では(へん)が「卸」の(へん)になっているが、誤刻と断じて訂した。この漢字は「瓶」と同字である。口が小さく、徳利(とっくり)に似た形をしている噐を指す。]

二升上安小木板而用小石畧壓之使椒不浮漂毎用取出以後亦如此否則變色味

 

   *

 

あさくらさんしやう

 

朝倉椒

 

 

△按ずるに、朝倉山椒《あさくらさんせう》は、始《はじめ》、伹馬《たじま》の朝倉谷《あさくらだに》に出づ【其の谷の兩岸、四、五町[やぶちゃん注:四百三十六~五百四十五メートル。]の閒、皆、椒樹《せうじゆ》なり。】。丹波・丹後に多《おほく》、其の枝を接《つ》ぎ、今の人、以《もつて》、「丹波の朝倉」と爲《なす》。近頃、奧州津輕(つがる)の産、亦、顆《つぶ》、大にして、氣味、勝《まさ》れり。京師・大坂の人家に枝を接ぐと雖《いへども》、多《おほ》≪くは≫長《ちやう》ぜず、四、五年を經る者、希《まれ》なり。「山椒」の名、此《これ》に𢴃《よる》[やぶちゃん注:ここは、平野平地ではなく、山や谷間の地で、よく成長することに由来する名であることを言っているのである。]。其《その》樹、刺《とげ》、無く、葉、大にして、顆《たね》も亦、他《ほか》≪の≫椒《せう》より、大なり。夏月、小≪さき≫花を開く。其の目《み》[やぶちゃん注:「實」。]、光り、黒《くろ》≪くして≫、最≪の≫美なり。其の子生(みば)への者は、佳《か》ならず。枝を以≪つて≫接《つ》ぐべし。

「椒紅《せいこう》」は、俗、云《いふ》「乾山椒(ひさんしやう)」なり。常《つね》の乾山椒は、辛味、微にして、月を經れば、則《すなはち》、變じて、苦(《に》が)し。朝倉椒は、正赤にして、甚だ、辛く、年を越《こえ》ても亦、味、變ぜず。伹《ただし》、人の手を觸《ふる》ふを忌む。此《これ》、乃《すなはち》、「本草≪綱目≫」に所謂《いはゆ》る、「蜀椒《しよくせう》」か。然れども、蜀椒は、𬜻《はな》、さかずして、子《み》を結ぶ。「朝倉椒」は、花、有《あり》て、亦、針、無し。蓋し、此れ、一種にして、土地の異に因《より》て然《しかる》のみ≪ならん≫。

 凡そ、蛇(へび)、山椒の樹を喜《よろこび》て來《きた》り、棲《すむ》。反鼻蛇(くちはみ《へび》)[やぶちゃん注:有鱗目クサリヘビ科マムシ(蝮)亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii の異名。]、最も然り。


椒葅法(づけさんしやう)

△按ずるに、山椒を淹(つ)けるに、六月、半熟の者を用《もちひ》て、一升≪に≫鹽三合、和《わ》して、缾-噐(つぼ)に藏(をさ)め、水二升、入《いれ》て、上に、小《ちさ》き木板《きいた》を安《やすん》じ、小石を用て、畧《ほぼ》、之れを壓(お)し、椒をして、浮《うき》漂《たゞよ》はざらしめ、用る毎《ごと》に、取出《とりいだし》、以後、亦た、此《かく》のごとくす。否(しからざ)れば、則《すなはち》、色・味を變ず。

 

[やぶちゃん注:「朝倉」山「椒」は、当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『朝倉山椒(あさくらさんしょ)』現代仮名遣では、ネット検索では多くは「あさくらさんしょう」ではなく「あさくらさんしょ」である。但し、後に示すように正式な和名品種の学名は「アサクラザンショウ」で、濁る。ところが、「あさくらざんしょう」と濁る読みは流通を含み、ネット上には見当たらない。例外例らしいものは、栽培用の接木用の「朝倉実山椒」で、これは素直に読むなら、「あさくらみざんしょう」と読んでいる可能性が高いと私は思う『は、兵庫県養父市特産の山椒。毎年』六『月から』七『月にかけてと』、九『月の、年』二『回の収穫時期がある。但馬地方の地域ブランドとしての名称は「朝倉さんしょ」であるとある。『論文と現地調査から朝倉山椒の原産地は今瀧寺』(現在の兵庫県養父市八鹿町(ようかちょう)今滝寺(こんりゅうじ):グーグル・マップ・データ)で、『発祥の地が』、そこの東直近の『養父市八鹿町朝倉』(グーグル・マップ・データ)『とされている』。『柑橘系の爽やかな香りと、さっぱりと柔らかな辛みが特徴的な山椒で、枝に棘がなく、実が多くつく。全国で栽培されている山椒の多くは、この朝倉山椒の中からとくに大きな実のなる苗木を交配し、品種改良したものとなっている』。『文献にみえる最古の記録は、慶長』一六(一六一一)年九月二十六日、『生野奉行』(いくのぶぎょう:織田信長・豊臣秀吉、及び、江戸幕府により置かれ、「生野銀山」を管理した。享保元(一七一六)年、同銀山の産出量減少のため、「生野代官」に組織変更された)『の間宮新左衛門が駿府城にいた徳川家康に献上したことを伝える記録で、朝倉の集落で多く栽培されていたことから「朝倉山椒」と記録したものとみられる。また、寛永年間』(一六二四年~一六四四年)『のある年』、十一月二日『に、出石』(いずし:兵庫県豊岡市内)『出身の名僧と知られる沢庵和尚が、松平阿波守』(阿波徳島藩第二代藩主蜂須賀忠英(ただてる))『に朝倉山椒を一折を贈った記録が残る』。さらに『先立つこと』、天正一四(一五八六)年『には、豊臣秀吉が焦がした山椒を白湯に入れて飲み、風流だと喜んだとも伝えられ、山椒は高貴な身分の者への献上品として好まれたとみられる。江戸時代には出石藩、篠山藩などから、枝付きの房のままの成熟した山椒を袋や箱に入れて幕府へ献上された』。『江戸時代になると、俳諧、狂歌で朝倉山椒が題材となっている』。延宝六(一六七五)年『には狂歌で半井朴養』(なからいぼくよう:本業は幕医)が、

 朝倉や木の丸粒の靑山椒

という一首を詠じている、とあった。

 無論、これは本邦のサンショウの品種であり、学名は、

アサクラザンショウ Zanthoxylum piperitum f. inerme

である。ウィキの「サンショウ」の「系統品種」の

『アサクラザンショウ(朝倉山椒、Z. piperitum (L.)DC forma inerme (Makino) Makino)』の項には、

『突然変異で現れた、棘の無い栽培品種をいう』。『江戸時代から珍重されていた』。『実生では雌雄不定で』、且つ、『棘が出てくるので、主に雌株を接ぎ木で栽培した物を朝倉山椒として販売している』とあった。なお、実はネットで調べたところでは、

――別名に「ブドウンショウ(葡萄山椒)」がある――

という記載があったのだが、このウィキでは

   *

『ブドウザンショウ(葡萄山椒)

アサクラザンショウから派生した系統とされる。小さいものの、枝に棘がある。樹高が低く、果実が大粒で葡萄の房のように豊産性であるため、栽培に適している』。『雌株を接ぎ木で栽培している。』

   *

とあった。但し、学名を添えていない

『「椒紅《せいこう》」は、俗、云《いふ》「乾山椒(ひさんしやう)」なり。常《つね》の乾山椒は、辛味、微にして、月を經れば、則《すなはち》、變じて、苦(《に》が)し。朝倉椒は、正赤にして、甚だ、辛く、年を越《こえ》ても亦、味、變ぜず。伹《ただし》、人の手を觸《ふる》ふを忌む。此《これ》、乃《すなはち》、「本草≪綱目≫」に所謂《いはゆ》る、「蜀椒《しよくせう》」か。然れども、蜀椒は、𬜻《はな》、さかずして、子《み》を結ぶ。「朝倉椒」は、花、有《あり》て、亦、針、無し。蓋し、此れ、一種にして、土地の異に因《より》て然《しかる》のみ≪ならん≫』地域性個体変異説は誤り。既に前の「蜀椒」の私の注で述べた通り、「蜀椒」は冒頭の「秦椒」と同じ、

サンショウ属カホクザンショウ(華北山椒) Zanthoxylum armatum 

である。

「凡そ、蛇(へび)、山椒の樹を喜て來《きた》り、棲。反鼻蛇(くちはみ《へび》)、最も然り」私は嘗つて、宅地の一画に永らく大きなサンショウの木があったが、ヘビやマムシ云々という事実はない(その比較的近くに巨大なアオダイショウが今も巣を作っているが、サンショウの木に近づいたことは、ない。また、以上の話は、私は全く聴いたことがない。しかし、「YAHOO!知恵袋」のここで、『少し前に 山から採ってきた山椒の木を玄関先の花壇に植えました。ところが、年寄りに「山椒にはまむしが来るので 玄関はやめた方がいい、山の畑に植えろ!」と言われました。本当なんでしょうか? 私は、山椒の葉などを料理に使いたいので いつでも、とって使えるところがいいと思ったのですが・・・』という問いに対し、ある応答では、『マムシの臭(匂)い・・・嗅いだ事がありますか?(野山でマムシに出会うと、一種独特の臭いがします)。よく「マムシの臭い≒山椒の匂い」に例えられます。(「鮎の匂い≒西瓜の匂い」と同様、感じ方には個人差があります)。山椒を植えたからといって、マムシが寄って来るというのは迷信だと思いますが、一部の園芸種を除く山椒には、鋭い棘があります。人の往来の多い玄関先に植えると、棘による思わぬ事故が・・・。その辺を心配した迷信かも知れませんネ。(以下略)』と応じており、「ベストアンサー」の「ねずみ1番さん」のそれには、『うちは山の林の中にありまして、近所の家の縁側にはマムシ焼酎の大瓶が並んでいたりするんですけど(つまりそこらじゅうにマムシがいる)、我が家のテラスのど真ん前に山椒の木を植えてありますが、テラスでマムシを見たことはありません。庭の端のほうには居ると思います。「草やぶ化」していて長靴なしでは歩けませんから。山椒にイモムシ・ケムシがつくと、たった一日で驚くほど食べ尽くされてしまうそうです。姉が東京のアパートのベランダで被害に遭ったそうです。うちは野鳥がいっぱい来るみたいだから(関心がないから、しっかり観察していない)それで無事なんだと思います。実際、時々高い木の上から小鳥が飛んできて、山椒の木に2~3羽とまっています。トゲトゲなのに。「庭に小鳥を呼ぼう」みたいな本を買ってきて餌台みたいなのを作ったら、山椒の木を守ってもらえるかもしれませんね。全般的に無責任口調ですみません。山椒の木が一本あると料理に便利ですよね。山の畑が遠いのでしたら、そこまで離れたところに植えるのは残念ですね。葉を大量に摘んで佃煮にしても美味しいですよ♪(余談)って言うかこの回答丸ごと余談です。』とあった。一応、「アホ臭」と思いながらも、ネット検索を続けたが、生物学的に相互の親和性を記す記事は皆無であった。

2025/06/15

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「小龍爲佛身」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)添え、段落・改行を成形した。]

 

 「小龍爲佛身《しやうりゆう ぶつしんと なる》」 駿東郡某の村にあり。

 「風土記」云《いはく》、

『駿河郡古家靑龍寺、寄田二十七束二畝半二毛田、朱鳥元年丙戌十月、役小角點小龍而爲佛躰、故曰二靑龍寺一云云。』。

古家は鄕名《がいめい》也。按《あんず》るに、人、信じても、得難きは佛果《ぶつくわ》也。然《しか》るを、小角いか成《なる》法力《はふりき》の有《あり》てか、小龍をたやすく佛《ほとけ》とはなしたる、實《げ》に奇と云《いふ》べし。

 

[やぶちゃん注:「風土記」の漢文部を推定訓読しておく。これは、通常の「駿河風土記」である。

   *

 駿河郡《するがのこほり》古家《ふるいへ》靑龍寺《せいりゆうじ》、寄田《よりだ》二十七束《そく》二畝半《ほはん》二毛田《にもうだ》、朱鳥(しゆてう/すてう/あかみとり)元年丙戌(ひのえいぬ)十月、役小角《えんのおづぬ》、小龍を點《てん》じ、而して佛躰《ぶつたい》と爲《な》す。故《ゆゑ》、「靑龍寺」と曰ふ。云云《うんぬん》。

   *

「駿東郡某の村にあり」「駿河郡古家靑龍寺」当初、「富士宮市」公式サイト内の「柚野の地名について」(「柚野」は「ゆの」と読む)に、『古代の富士郡の地名を記したものとして』「倭名類聚抄」『という平安時代中期に作られた漢和・百科事典があります』。『これによれば、富士郡は当時「島田(しまだ)・小坂(おさか)・古家(ふるいえ)・蒲原(かんばら)・馬家(うまや)・大井(おおい)・久武(くに)・姫名(ひな)・神戸(かんべ)」の』九『つの郷と呼ばれる地域にわかれていました。ただ』、『具体的にどの郷が現在のどこにあたるのかは書かれていません』とあり、同定は難しいかと思ったのだが、「青龍寺」で調べると、御殿場市に現存する寺が確認出来たため、「御殿場静岡 役行者 龍 仏身 青龍寺 御殿場」で調べたところ、「静岡県:歴史・観光・見所」「御殿場市: 青竜寺」のページに、『青竜寺(御殿場市)概要:』『護法山青龍寺は静岡県御殿場市増田に境内を構えている臨済宗建長寺派の寺院です。青竜寺の境内に作庭された池に浮ぶ蓮青竜寺境内に植樹された大木と石碑青龍寺の創建は飛鳥時代に修験道の祖とされる役行者(役小角)によって開かれたのが始まりとされます。総門は切妻、本瓦葺き、一間一戸、四脚門。本堂は木造平屋建て、入母屋、銅瓦棒葺き、平入、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。山門は宝形屋根、銅板葺き、上層部鐘撞堂、外壁は柱のみの吹き放し、高欄付き、下層部は袴腰、外壁は下見板張り縦押縁押え、鐘楼門形式。落ち着いた境内には苔むした石段があり正面には珍しい袴腰造の鐘楼門が建っています。山号:護法山。宗派:臨済宗建長寺派。本尊:阿弥陀如来。』とあったので、役行者所縁の寺は静岡に複数あるようだが、まず、ここがそれと断定してよいと思われる。現在の静岡県御殿場市増田(ましだ)のここにある(グーグル・マップ・データ)。

「寄田」これは「寄るところの寺領持ちの田圃」の意味でとっておく。

 さて、調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの「駿河國新風土記 富士山、附錄、第九」「第十輯」(扉標題(活字印刷)・駿河/新庄道雄著・出雲/足立鍬太郞訂・昭和九(一九三四)年志豆波多會刊・但し、本文はガリ版刷(但し、一部は印字が薄いが、かなり読み易い)の、ここから書かれてある「役小角」(左丁七行目冒頭に四角で「役小角」とある)の長い記載の、ここの右丁の二行目以降に、「風土記」の記事が記され、さらに次のコマまで書かれてあるので見られたい。活字に起こすことも考えたが、これと言って、この底本の電子化については、注に相当な時間と労力をかけている割には、読者のエールも極めて少ないので、やらない。悪しからず。

2025/06/14

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「桃澤池奇怪」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)を添えた。]

 

 「桃澤池奇怪《ももざはいけ の きくわい》」 駿東郡上窪村桃澤池にあり。「風土記」云《いはく》、『駿河郡桃澤、桃澤池、東西三里、南北四里程、出于鮮、又令ㇾ栖鴻雁鸛鶴鴨鷺名禽池島有ㇾ神、所ㇾ祭鳴澤女神也。土俗、以兒夜啼、祈此社、其忽驗如ㇾ巡ㇾ掌、曰鳴神云云。』。今は祈る者ありとも聞えず。

 

[やぶちゃん注:先に「風土記」(既出既注であるが、正規の「風土記」ではない、怪しいものだが、本記載は、国立国会図書館デジタルコレクションの現行の複数の「駿河風土記」を調べたが、見当たらない)の引用部を推定で訓読する。原文は、送り仮名が一箇所あるのみで、かなり不全であるから、自然流で補ってある。一部の読点を句点に代えた。

   *

 駿河郡《するがのこほり》桃澤《ももざは》、桃澤池《ももざはのいけ》、東西三里、南北四里程、鮮《あざや》かに出で[やぶちゃん注:景観がくっきりと見通せるさまであろう。]、又、令ㇾ鴻《こうのとり》・雁《かり》・鸛《こふのとり》・鶴《つる》・鴨《かも》・鷺《さぎ》の名禽《めいきん》[やぶちゃん注:名だたる鳥たち。]を栖《す》めしむ。池の島、神、有り、所ㇾ鳴澤《なきさは》の女神を祭《まつり》せむなり。土俗に、「兒《こ》の夜啼《よなき》を以つて、此の社《やしろ》に祈れば、其れ、忽ち、驗《しるし》、掌《たなごころ》を巡《やすん》ずる[やぶちゃん注:「手のひらを合わせて祈るやいなや、立ちどころに平癒する」の意であろう。]がごとくなれば、『鳴明神《なきみやうじん》』と曰《まう》す。」と云云《うんぬん》。

   *

この「桃澤池」は不詳であるが、既に、三つ前の本「卷之二十四下」冒頭の「神木鳴動」に「桃澤」は出る。しかし、ここは、愛鷹山の南東の山麓であり、このような大きな池は見出せない(「ひなたGIS」を見よ)。しかし、そちらでは、「安倍郡鯨《くじら》か池」、現在の静岡県静岡市葵区下(しも)に現存する「鯨ヶ池」(グーグル・マップ・データ)、及び、「淺畑池」(グーグル・マップを見ると、鯨ヶ池の南南東に、現在、「麻機遊水池」、及び、周辺に池様のものが、複数、点在するので、同一場所を、「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、ここに広大な「淺畑沼」が確認出来る)という「池」が出る。と言っても、「東西三里、南北四里程」もの池沼ではない。但し、後者の「淺畑池」は、近世には、「鯨ヶ池」よりも遙かに広大な「沼」であった可能性が高いから、位置に甚だ問題があるが、私はここを一つの候補としたい気がしている。しかし、駿東郡で水鳥が多く棲息している湿原であるならば、やはり既出の『「卷之二十四上」「富士沼水鳥の怪」』に出る「浮島原」が、俄然、第一候補となろうと思う。

 因みに、この「鳴澤女神」というのは、原型は「泣澤女神」(なきさはめ)である。別名を「啼澤女神」「哭澤女命(なきさはめのみこと)」など呼ぶ。ウィキの「ナキサワメ」によれば、『国産み・神産みにおいて』「いさなき」『(伊邪那岐)』と「いさなみ」『(伊邪那美)との間に日本国土を形づくる数多の子を儲ける。その途中、』伊邪那岐『が火の神である』「かぐつち」『(迦具土神)を産むと』『陰部』(ほと)『に火傷を負って亡くなる。「愛しい私の妻を、ただ一人の子に代えようとは思いもしなかった」と』伊邪那岐『が云って』伊邪那美『の枕元に腹這いになって泣き悲しんだ時、その涙から成り出でた神は、香具山の麓の丘の上、木の下におられる。この神がナキサワメである』。奈良県橿原市にある『畝尾都多本』(うねおつたもと)『神社に泣沢という井戸があり、その井戸が御神体として祀られている』。『この事から、ナキサワメは大和三山の一つである香具山の麓の畝傍から湧き出る井戸の神様ということになる。井戸の中には、ナキサワメが流した涙があるといわれている。その井戸には、和歌が残っている』。これは、「万葉集」の「卷第二」で(二〇二番)、素性は不明の奈良時代の皇女である檜隈女王(ひのくまのおほきみ)の詠歌で、

   或る書の反歌一首

 哭澤(なきさは)の

   神社(もり)に神酒(みき)すゑ

  禱祈(いの)れども

    わご大君(おほきみ)は高日(たかひ)知らしぬ

である。以下、ウィキの訳。

『泣沢神社の女神に神酒を捧げて、薨じられた皇子の延命を祈っているのに、皇子はついに天を治めになってしまわれた。』で、『その左注に』、

   *

右一首、「類聚歌林」に曰はく、桧隈女王の泣澤神社を怨(うら)むる歌といへり。「日本紀」を案(かむが)ふるに云はく、「十年丙申[やぶちゃん注:六九六年。]の秋七月辛丑の朔(つきたち)の庚戌(かうじゆつ)、後(のち)の皇子尊(のちのみこのみこと)、薨(かむあが)りましぬといへり。

   *

『と記されている。 これは、持統天皇十年』(六九六年)『に、妃である』『ヒノクマオオキミ』(檜隈女王)『が再生の神に神酒を捧げタケチノミコ(高市皇子)の延命を祈ったのに、蘇ることなかったという、ナキサワメを恨む和歌である』。この神の『神名は「泣くように響き渡る沢」から来ているという説がある。また、「ナキ」は「泣き」で、「サワ」は沢山泣くという意味がある。「メ」とあるので女神である』。『江戸期の国学者、本居宣長は』、「古事記傳」で、『「水神」「人命を祈る神」、平田篤胤は「命乞いの神」と称するなど、水の神、延命の神として古代より信仰を集めている』。『太古の日本には、巫女が涙を流し死者を弔う儀式が存在し、そのような巫女の事を泣き女という。この儀式は死者を弔うだけではなく魂振りの呪術でもあった。泣き女は神と人間との間を繋ぐ巫女だった。ナキサワメは泣き女の役割が神格化したものとも言われており、出産、延命長寿など生命の再生に関わる信仰を集めている。また、雨は天地の涙とする説があり降雨の神様としても知られている』とある。

 さて。ここで、何故、この富士山山麓に近い位置に、この「鳴澤女神」が祀られていたのかを考えるに、全く根拠はないのだが、私は、この短い「風土記」の記事の文字列と音通から、

――富士山の轟き渡る噴火の際の「鳴」や、溶岩の流れる「澤」を神威と捉えた、この辺りの往昔の人々が、この「泣澤女神」の音通から、習合させたものではないか?――

と感じた。而して、小児の「夜泣き」の病いを癒すというのも、

――実際には、噴火の「夜」の鳴動(鳴き)を封じて呉れる神から転じて、日常的な音通の、嬰児の「夜泣き」封じの祈願に転訛されたものではないか?――

と思い至った。何らの伝承や学術的裏打ちはないから、私の思い付きに過ぎない。大方の御叱正を俟つものではある。

 なお、この本文の内容を、いろいろ調べてみたものの、ロクなものはなかったのだが、一つ、目が止まったものがあった。それは、国立国会図書館デジタルコレクションで「桃澤池」を検索していた中で見つけたもので、「加賀志徴 下編」(森田平次著・昭和四四(一九六九)年石川県図書館協会刊)の「卷十」の「石川郡」の「夜啼きの松」の一節である。以下に示す。因みに、本書は歴史的仮名遣で、以下は正規表現である。

   《引用開始》

○夜啼きの松  額谷村[やぶちゃん注:現在の石川県金沢市額谷(ぬかだに:グーグル・マップ・データ)周辺と思われる。]。○此谷川の川緣なる山上にあり。小兒の夜泣きする時は、此松の皮を取り來りて枕邊に置けば、必止るといへり。おかなる由緣にや詳ならず。○按ずるに、惣國風土記。駿河郡桃澤池の條に、池島有ㇾ神。所ㇾ祭鳴澤女神也。土俗以兒夜啼此社。其忽驗如ㇾ巡ㇾ掌。曰鳴神。とあり。此はかの笠明神に瘡痛の事を祈る如く、鳴澤女てふ神名より起りたる俗諺なるべし。源平盛衰記卷二十六に、平相國出生の事を記して、此子生れてより夜泣する事不ㇾ懈[やぶちゃん注:「おこたらず」。頻りに夜泣きして止まない。]。忠盛大きに歎きけり。我實子ならば里へも放し度思ひけれども、勅定を蒙り申けり。證誠殿[やぶちゃん注:「しやうせいでん」。熊野本宮神社にある式場神殿。]の御殿に戶を推開き[やぶちゃん注:「おしひらき」。]、御託宣とおぼしくて一首の歌あり。『夜泣すと忠盛たてよみどり子は淸くさかゆる事あれ[やぶちゃん注:二重鍵括弧閉じるは、ない。]と。悅の道に成つて、黑目に付たりければ、夜泣ははや止みにけり。云々。

   *

最後の「悅の道に成つて、黑目に付たりければ、」の意味は、私にはよく判らない。恐らくは、『託宣の歌を受けることが出来たので、忠盛は悦(えつ)に入って、不安だったために、目が白黒していたのが、晴眼となった(すっかり安心した)ので、』という意味か。さても。この森田氏の解釈は、まあ、穏当ではあろうが、失礼乍ら、わざわざ、本話や「源平盛衰記」の引用を事大主義的に引いて示すほどのこともないようには思う。因みに、なるほど、「駿河風土記」に出ないはずだ。これは、別な「惣領駿河風土記」なんだな。しかし、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の写本版を調べたが、載ってなかった。写本だから、しゃあないか。いい加減、飽きた。これまでとする。]


2025/06/13

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「箭柄墳の奇事」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点の変更や追加をし、記号を加えた。但し、漢文部はいじっていない。]

 

 「箭柄墳《やがらづか》の奇事」 駿東郡柏原《かしはばら》驛にあり。今、其墳蹟《つかあと》、詳《つまびらか》ならず。「風土記」云《いはく》、

『駿東郡栢原、箭柄墳。白鳳年中、有一樵翁、食ㇾ芝絕ㇾ粒、恰如仙客、齡歷九旬、其步行一日期二百里、隣國自在也。白鳳十二年癸未十月朔、至原之巖窟、忽不ㇾ見其跡、行人成其奇異、所ㇾ殘所ㇾ携右手之箭柄而已、故國造擧ㇾ之埋其箭柄、曰二箭柄墳一。樵翁不ㇾ委二其姓氏一。云云。』。

 

[やぶちゃん注:この記事が書かれた時点で、この岩窟・「墳」=塚は消失していただけに、現行のネット上では、全く掛かってこない。取り敢えず、あったとする「柏原驛」であるが、これは、現在の静岡県富士市柏原(かしわばら)(グーグル・マップ・データ:読みは現行の読みで歴史的仮名遣で加えた)。但し、「ひなたGIS」で見ると、現行より東西に広いように感じられる。現行の位置だと、「浮島原」の湿田地帯である。凡そ「巖窟」があろうとも思われない。ここには、現在、「浮島ヶ原自然公園」(グーグル・マップ・データ航空写真)があり、これは、湾口・砂州の形成、及び、その内湾のラグーン化・低湿化した場所である。或いは、古くに、何らかの局所的地震・地殻変動・津波等による変貌が疑われる。

「風土記」既出既注。正規の「風土記」ではない、怪しいものである。因みに、国立国会図書館デジタルコレクションの「修訂駿河國新風土記(續篇)第一輯」(「駿河地志稿 駿東郡之部」(贄川良以著・贄川他石補綴・昭和九(一九三四)年志豆波多會刊・★謄写版★印刷)の「△郷名考」のここに、以下の記載がある。

   *

箭柄塚  舟津邊にありと云共さだかならず、今山伏塚と云あり、浮島二つ社女塚男塚と云

   

但し、これらの「塚」の記載を調べても、やはりネットでは見当たらない。しかし、この「船津」は「ふなつ」で、現在の富士市船津(グーグル・マップ・データ)で、旧駿東郡であり、「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、旧浮島沼の北東部に位置する。ここは愛鷹山の南西麓で、古くに「巖窟」があってもおかしくない場所である。さらに調べると、この地区には、「稲荷塚古墳」がある。「富士市」公式サイトの「浅間古墳から始まる富士の古墳文化」のページに、『古墳時代、浮島ヶ原の周辺では人々が活発に活動し、浅間古墳をはじめとする多くの古墳がつくられ、豊かな文化が育まれました』とあり、ずっと下に、「稲荷塚古墳」があり、『春山川東岸につくられた円墳【富士市指定史跡】』とあり、そこに『稲荷塚古墳の周辺は古墳の密集地帯』であるとある。そうだ! 「巖窟」とは「古墳」であると考えれば、納得が行くのだ! この附近が、この話の震源地であることは、最早、疑いがない!!

 以下、漢文部を推定で補助(御覧の通り、送り仮名が全くない)して、訓読しておく。句読点は私の判断で変更・追加した。

   *

 駿東郡(すんとうのこほり)栢原(かしはばら)、箭柄墳(やがらづか)。白鳳年中、一《ひとり》の樵翁《きこりのおきな》、有り。芝(し)を食ひ、粒(めし)を絕つ。恰(あたか)も仙客(せんかく)のごとく、齡(よはひ)九旬(くじゆん)を歷(ふ)るも、其の步-行(ありき)、一日(いちじつ)、二百里を期(き/ご)し、隣國(りんごく)なるとも、自在なり。白鳳十二年癸未(みづのとひつじ)十月朔(つひたち)、原(はら)の巖窟(ぐわんくつ)に至り、忽(たちま)ち、其の跡を見ず。行く人、其れ、「奇異」と成す。殘されしは、携へし所の右手の箭柄(えがら)のみ。故(ゆゑ)に、國造(くにのみやつこ)、之れを擧(とりあ)げて、其の箭柄を埋(うづ)む。「箭柄墳」と曰ふ。樵翁は、其の姓氏、委(くは)しからず。云云(うんぬん)。

   *

「白鳳年中」これは「日本書紀」に現われない私年号の一つ。通説では「白雉」(六五〇年〜六五四年)の別称・美称とされる。

「芝」「霊芝」でご存知の通り、実は、この「芝」と言う漢字は、まさに担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum を指す漢字として作られたものなのである。「シバ」ではなく、「神聖なキノコ」を示す漢語なのである。レイシに就いては、私の「日本山海名産図会 第二巻 芝(さいはいたけ)(=霊芝=レイシ)・胡孫眼(さるのこしかけ)」を参照されたい。所謂、仙人の常食物として知られる。

「九旬(くじゆん)」数え九十歳。

「二百里」ウィキの「里」によれば、「大宝律令」で「里 」は「五町」で「三百歩」と規定されてあった。『但し、当時の尺は、現存するものさしの実測によれば』、『曲尺』(譯〇・三センチメートル)『より』も二~三『%短いため、歩・町も同じ比率で短くなる』ため、『当時の』一『里はおよそ』五百三十三・五メートル『であったと推定されている』から、それで換算すると、百六・七キロメートルとなる。

「白鳳十二年癸未(みづのとひつじ)十月朔(つひたち)」「白雉」は五年で終わり、続く朱鳥(しゅちょう)は一年で終り、続く大宝も四年までであるから、慶雲元(七〇四)年となる(大宝四年五月十日改元)。しかし、慶雲元年の干支は「辛丑」で、合わない。干支を誤るものは史料としては使えないので、通常は、本記載自体が無効となるので、これでアウトだが、一応、言っておくと、この前後で「癸未」となるのは、遙か前の推古天皇三一(六二三)年と、遙か後の天武天皇一二(六八三)年で、話しにならない。

「右手の箭柄(えがら)」右手に杖代わりに常時持っていた長い弓矢の矢の篠竹で作った本体部分を指す。矢羽(やばね)・矢筈(やはず)・鏃(やじり)は附いていないものを指す。「延喜式」に載る「伊勢神寶征矢」の長さは附属部を含めて六十九・七センチメートルであるから、長さは充分、杖の代わりには、なる。敗残の武将などは、弓自体を杖代わりにしているから、矢柄でも十分である。

「國造(くにのみやつこ)」大化の改新以前における世襲制の地方官。地方の豪族で、朝廷から任命されてその地方を統治した。「大化の改新」(狭義には大化年間(六四五年~六五〇年)の改革のみを指すが、実際的には広義に大宝元(七〇一)年の「大宝律令」完成までに行われた一連の改革を含む)以後は廃止されたが、多くは郡司となって、その国の神事も司った。]

2025/06/11

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 蜀椒

 

Syokusyou

 

しよくしやう  巴椒 川椒

        漢椒 南椒

        蓎藙 㸃椒

蜀椒

        【巴蜀川漢皆

          地之名也】

      【和名奈留波之加美

シヨ ツヤ゚ウ 一名不佐波之加美】

 

本綱蜀椒初出於蜀國【今號四川】今𠙚𠙚人家多作園圃種之

其木髙四五尺似茱萸而小有針刺葉堅而滑四月結子

無花伹生于枝葉間顆如小豆而圓皮紫赤色肉厚皮皺

其子光黑如人之瞳子故謂之椒目他椒子雖光黑亦不

似之

椒紅【辛温有毒】 手足太隂右腎命門氣分之藥稟五行之氣

 而生葉青皮紅花黃膜白子黒其氣馨香其性下行能

 使火熱下達不致上薫芳艸之中功皆不及之

 凡人嘔吐服藥不納者必有蚘在膈閒蚘聞藥則動動

 則藥出而蚘不出伹於嘔吐藥中加炒川椒十粒良蓋

 蚘見椒則頭伏也 又能可收水銀 畏欵冬防風附

 子

椒目【苦寒】 利小便治十二種水種脹満及腎虛耳鳴聾

△按蜀國今號四川生於彼地草木皆佳種也故川椒川

 芎川烏頭川黃連川楝子之名據此入藥椒紅亦宜用

 川椒在本朝可用朝倉椒

 

   *

 

しよくしやう  巴椒《はせう》 川椒《せんせう》

        漢椒 南椒

        蓎藙《たうき》 㸃椒《てんせう》

蜀椒      

        【巴・蜀・川・漢、皆、

         地の名なり。】

      【和名、「奈留波之加美《なるはじかみ》、

シヨ ツヤ゚ウ 一名、「不佐波之加美《ふさはじかみ》。】

[やぶちゃん注:「椒」の『しやう』は良安の誤った慣用読み。前の「秦椒」の私の注意書きを参照されたい。なお、以下の項目でも同じなので、これは繰り返さないので、注意されたい。「巴・蜀・川・漢」東洋文庫訳の後注に、『いずれも現在の四川地方の呼称。蜀は四川省の古の国名。漢は四川省西部の地域(成都・広漢・潼(とう)川)、巴は四川省東部の地域(重慶・虁(き)州・順慶・閬(ろう)中)。川とは巴蜀の総称。』とある。則ち、これらは各個的な地名の羅列なのではなく、現在の古い広域としての「四川地方」の古名、及び、その内の歴史的・地方的な国名・地方名を披歴羅列したものである。この内、「広漢」は現在の四川省徳陽市南西部に位置する県級市としてあり、「潼川」は潼川府で、宋から民国の初年にかけて、現在の四川省中部に設置された管轄としての府名。「虁州」は唐詩ではお馴染みで、唐代に現在の四川省東部の奉節県におかれた州名。揚子江中流の有名な「三峡の険」の入り口に相当する。「順慶」は四川省南充市の市轄区である順慶区に残り、「閬中」は四川省南充市に位置する県級市で、四川省を南北に重慶市へと流れる嘉陵江の河畔にある。古くからの中心都市で水運の街として栄え、現在は国家歴史文化名城に指定されている。「巴蜀」広義の四川地方の非常に古い地名であり、具体的には「巴」は現在の重慶一帯を、「蜀」は現在の成都一帯を中心とした古地名である。流石に、いちいち示すほど、私はお目出度くない。グーグル・マップ・データの四川省をリンクさせておくので、各自、確認されたい。]

 

「本綱」に曰はく、『蜀椒、初《はじめ》、蜀の國に出づ。【今は「四川」と號す。】今、𠙚𠙚《ところどころ》、人家、多《おほく》園圃《えんぽ》[やぶちゃん注:果樹・野菜を植えて育てる所と、田畑を指す。]に作《なし》、之れを種《うう》。其の木、髙さ、四、五尺。茱萸《しゆゆ》に似て、小《ちさく》、針刺《はりとげ》、有り。葉、堅《かたく》して、滑《なめらか》≪なり≫。四月、子《み》を結《ぶ》≪も≫、花、無《なく》して、伹《ただ》、枝葉の間に生ず。顆(つぶ)、小豆《あづき》のごとくして、圓《まろく》、皮、紫赤色。肉、厚く、皮、皺《しは》≪し≫。其の子、光《ひかり》、黑《くろく》して、「人の瞳《ひとみ》の子《たま》」のごとし。故に、之れを、「椒目《せうもく》」と謂ふ。他《ほか》の椒《せう》≪の≫子、光、黑なりと雖も、亦、之れに、似ず。』≪と≫。

『椒紅《せうこう》【辛、温。毒、有り。】』『手足の太隂・右腎命門《うじんめいもん》の氣分の藥≪なり≫。五行の氣を稟《う》けて、生ず。葉は青く、皮は紅《くれなゐ》。花は、黃、膜は白、子は黒。其《その》氣、馨香《けいかう》≪たり≫[やぶちゃん注:良い匂いが漂う。]。其の性、下行して、能《よく》、火熱をして、下達《かたつ》せしめ、上薫《じやうくん》致させしめず。芳艸《はうさう》の中《うち》、功、皆、之れに及ばず。』≪と≫。

『凡そ、人、嘔吐して、藥を服し、納《をさ》まらざる者、必《かならず》、蚘《むし》[やぶちゃん注:ヒト寄生虫(但し、ここでは日和見感染の種も含むとすべきであろう)を指す。]、有《あり》て、膈《かく》[やぶちゃん注:漢方では、現代医学の「横隔膜」ではなく、主に「胸の壁」・「胸腹の境界」を指し、臓腑の機能を司る上で重要な役割を持つ部位を指す。]の閒《あひだ》に在《あり》。蚘、藥を聞けば、則《すなはち》、動《どう》ず。動ずれば、則、藥は出《いで》て、蚘、出でず。伹《ただし》、嘔吐の藥中に於《おい》て、炒《い》≪れる≫川椒《せんせう》[やぶちゃん注:「秦椒」の異名。「秦椒」を参照のこと。]十粒を加へて、良し。蓋し、蚘、椒を見れば、則ち、頭《かしら》、伏《ふ》≪すれば≫なり。』『又、能《よく》、水銀を收《をさ》む。』『欵冬《かんとう》・防風・附子《ふし》を畏《おそ》る。』≪と≫。

『椒(さんせう)の目(め)【苦、寒】』『小便を利し、十二種の水種・脹満《ちやうまん》[やぶちゃん注:腹部が膨張する症状。]、及《および》、腎虛・耳鳴《みみなり》・聾《らう》を治す。』≪と≫。

△按ずるに、蜀の國は、今、四川と號す。彼の地に生ずる草木、皆、佳《よき》種なり。故、川椒・川芎《せんきゆう》・川烏頭《せんうづ》・川黃連《せんわうれん》・川楝子《せんれんし》の名、此《これ》に據る。藥≪に≫入《いる》る椒紅(しざんせう)も亦、宜しく、川椒を用ふべし。本朝に在りては、朝倉椒《あさくらざんしやう》を用ふべし。

 

[やぶちゃん注:本種同定は、既に、前回の「秦椒」の引用の考証、及び、後の私の最終比較同定で、★「秦椒」と同じ

サンショウ属カホクザンショウ(華北山椒) Zanthoxylum armatum 

であることを既に述べてあるので、そちらを見られたい。

 なお、 なお、以上の本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の冒頭から二つ目の「蜀椒」からのパッチワークである。

「奈留波之加美《なるはじかみ》」「不佐波之加美《ふさはじかみ》」所持する平凡社「世界大百科事典」の「サンショウ(山椒)」の「利用」の項に(コンマは読点に代えた)、『サンショウは古くから食用、薬用とされてきた。はじめは〈はじかみ〉と呼ばれたが、同じようにしんらつ』(辛辣)『味をもつショウガが伝来すると、それを〈くれのはじかみ〉と呼び、サンショウは〈なるはじかみ〉〈ふさはじかみ〉と呼んで区別するようになった』とあった。

「茱萸《しゆゆ》」とあるが、これは本邦では、バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus のグミ類を指すのであるが、サンショウ類とは似ても似つかないのは一目瞭然であり、では何かと言うと、東洋文庫訳で、割注を附して、『茱萸(後出、呉茱萸)』とある通りで、この後の九項目の「吳茱萸(ごしゆゆ)」に相当するものである。私は既に、「卷第八十四 灌木類 山茱萸」で登場し、私の注も附してある。一部を削り、表記にも手を加え、それを掲げておく。

   *

「吳茱萸《ごしゆゆ》」「ごしゅゆ」はムクロジ目ミカン科ゴシュユ属ゴシュユ Tetradium ruticarpum である。当該ウィキによれば、『中国』の『中』部から『南部に自生する落葉小高木。日本では帰化植物。雌雄異株であるが』、『日本には雄株がなく』、『果実はなっても種ができない。地下茎で繁殖する』。八『月頃に黄白色の花を咲かせる』。『本種またはホンゴシュユ(学名 Tetradium ruticarpum var. officinale、シノニム Euodia officinalis )の果実は、呉茱萸(ゴシュユ)という生薬である。独特の匂いと強い苦みを有し、強心作用、子宮収縮作用などがある。呉茱萸湯、温経湯などの漢方方剤に使われる』とあった。漢方薬剤としては平安時代に伝来しているが、本邦への本格的渡来はこれまた、享保年間(一七一六年から一七三六年まで)とされる

   *

というのが、それである。

「手足の太隂」東洋文庫訳の後注に、『身体をめぐる十二経脈の一つ。手の太陰肺経は胃のあたりからおこり、大腸に連なり上行して肺に入る。ついで喉頭をめぐり、横に出て肢の下にくる。そこから腕の内面を通って手の親指の末端に至る。支脈は腕の下部から分かれて第二指の先端に至る。足の太陰肺経は足の親指の末からおこり、脚の内面を上り腹部に入って肺に連なり腎につながる。さらに横隔膜を通って咽喉から舌に行く。支脈は胃部から分かれて心臓に達する。』とある。

「右腎命門《うじんめいもん》」東洋文庫訳の後注に、『右腎のことを命門という。命門とは元気の根源という意味。』とある。

「十二種の水種」東洋文庫訳の後注に、『水腫は体内に水液が溜っておこる病症。風水・皮水・正水・石水・黄水・心水・肝水・肺水・肺水・腎水・陰水・陽水。』とある。

「川芎《せんきゆう》」センキュウ。セリ科の草木。その根茎が頭痛などの薬剤になる。薬用として栽培された』とある。当該ウィキによれば、『中国北部原産で秋に白い花をつける』『多年草』(セリ目セリ科ハマゼリ属)『センキュウCnidium officinaleの根茎を、通例、湯通しして乾燥したもので』、『本来は芎窮(きゅうきゅう)と呼ばれていたが、四川省のものが優良品であったため、この名称になったという。日本では主に北海道で栽培される。断面が淡黄色または黄褐色で、刺激性のある辛みと、セロリに似た強いにおいがある。主要成分としてリグスチリド』(Ligustilide)『などがあげられる』。『現在の分析では鎮痙剤・鎮痛剤・鎮静剤としての効能が認められ、貧血や月経不順、冷え性、生理痛、頭痛などに処方されて』おり、『漢方では』「当帰芍薬散」に『配合され』、『婦人病』、所謂「血の道」の『薬として』、『よく用いられる』とあった。

「川烏頭《せんうづ》」「烏頭」は猛毒で知られるキンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum を指す。種にもよるが、致命的な毒性を持ち、狩猟や薬用に利用されてきた歴史がある。

「川黃連《せんわうれん》」「黃連」はキンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica の髭根を殆んど除いた根茎を乾燥させたもの。

「川楝子《せんれんし》」漢方で、ムクロジ目センダン科センダン属トウセンダン  Melia toosendan の果実を指す。詳しくは、「卷第八十三 喬木類 楝」の私の長い引用注を見られたい。

「朝倉椒《あさくらざんしやう》」次の同名の項を参照されたい。ここでは、メンドクサイのでAIのデータを引いておく。『朝倉山椒は、兵庫県養父市八鹿町朝倉が発祥とされる山椒で、柑橘系の爽やかな香りが特徴です。江戸時代には徳川家康に献上されたこともあると伝えられ、その風味の良さで知られています。トゲがなく、大きな実がなり、辛みが後にひきにくいという特徴があります。』とある。]

2025/06/10

サイト版「尾形龜之助 詩集 色ガラスの街 〈初版本バーチャル復刻版〉」を正字補正した

サイト版「尾形龜之助 詩集 色ガラスの街 〈初版本バーチャル復刻版〉」を遅まきながら、正字補正を行い、全体のレイアウト等、細部に手を加えた。ことの序でに、底本に差し込みでサーヴィスされてあった彼のサインを以下に掲げておく。

Oagata

 

2025/06/09

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「釜化河伯」

[やぶちゃん注:底本はここ。句読点の変更や追加をし、記号を加えた。]

 

 「釜化河伯《かま かつぱに かす》」 駿東郡德倉村《とくらむら》狩野川《かのがは》にあり。傳云《つたへいふ》、此川の東に淵あり。「釜が淵」と云《いふ》。往昔《わうじやく》、此池の山王の社《やしろ》に、大釜《おほがま》、二《ふたつ》あり。或時、盜賊、來《きたつ》て其一《ひとつ》を取り、途中、あやまつて、此川に落《おと》せり。是より、釜、化して河伯となる。「遊方名所畧」云《いはく》、『釜淵、沼津ヨリ一里有釜淵駿河新宿路傍畠中有大釜二一。俗傳云、賴朝富士牧獵時、所ㇾ鑄也。時有竊ㇾ之荷擔而行者、重不ㇾ堪其任川中、此釜有ㇾ靈、遂爲水中主、故云爾。一釜又有畠中云云』。

 

[やぶちゃん注:「遊方名所畧」元禄一〇(一六九七)年刊。作者・書誌不詳。この引用の訓点は不全であるので、ここで、私が訓読文を試みておく。

   *

『釜淵(かまがふち)。沼津より一里、釜淵、有り。駿河新宿の路傍の畠中に、大釜、二つ有り。俗傳に云はく、「賴朝、富士の牧獵(まきれう)の時、鑄(い)さするなり。時に、之れを竊(ぬす)み、荷として擔(にな)ひ行く者、有り。重くして其の任に堪へずして、之れを川中に捨つ。此の釜、靈、有り、遂に水中の主(あるじ)と爲(な)れり。故に、云ふのみ。一つの釜、又、畠中(はたなか)に有り云云(うんぬん)』。

   *

「駿東郡德倉村狩野川」現在の静岡県駿東郡清水町(しみずちょう)。「ひなたGIS」で示す。狩野川に河童が棲息していると記す記事は、複数、見られるが、ここに記されている――釜が河童になる――という話を見出すことは出来なかった。河童が持ってきた瓶の話は、河津町(かわずちょう)であるが、サイト「スーちゃんの妖怪通信」の「河童の瓶[かめ]」を見られたい。但し、本記事との関連性は、全く、ない。]

小泉八雲「若返りの泉」(『ちりめん本』原英文+藪野直史拙訳)――これを以って、私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」は、唯一の来日以後の全作品の電子化訳を完遂した。――

[やぶちゃん注:本作が第一書房版「小泉八雲全集」に収録されていないことは、既に述べた。なお、今回、調べた結果、この謎を孕んだ作品について、優れた考証を展開しておられる石井花氏の論文「 小泉八雲とちりめん本――『若返りの泉』の成立過程を中心に――」(『ヘルン研究』第四号・富山大学ヘルン(小泉八雲)研究会・二〇一九年三月刊・「富山大学学術情報リポジトリ」のここでPDFで入手可能・論文+資料編)を、まず読まれるにしくはない、ことが判ったので、是非、読まれたい。従って、原拠探索や、死後に刊行された経緯等も、そちらに詳しい。石井氏の骨折りに敬意を表し、ここでは、そうした背景への注は、一切、行わない。

 以下、サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらのラベル「富山大学蔵書」蔵書番号「1230124737」の画像、及び、そこにリンクされた二番目のもの英文を参考底本とし、英語嫌いな私の拙訳を添えた。一切の他者の訳したものを参考にすることなく、完全にオリジナルなものである。

 

[やぶちゃん注:表紙。]

 

JAPANESE FAIRY TALE

 

THE FOUNTAIN

            OF  YOUTH

 

Rendered into English

   by Lafcadio Hearn

 

[やぶちゃん注:裏表紙。奥附相当ページ。邦文は縦書。紙質の関係上、字のように見えるところもあるが、判読出来ず、本来の意味を想到出来ないので、空欄とした箇所があり、また、旧字か新字か判読出来ない場合は、旧字を採用した。]

 

All Rights Reserved

Hasegawa,

Tokyo

 

 著作權所有

大正十一年十二月十日 㐧一版發行

同十四年十一月十日 㐧二版印刷

 

 英 譯 者

   故 ラフカヂオ ヘルン

 

 編輯幷発行者

     長谷川武次郞

 

 印 刷 者

     西 宫 與 作

  右同所

 

[やぶちゃん注:以下、本文。“Readered”のミス・スペルはママ。本文冒頭の“L”は原本では二行目にかけて配された特大活字である。]

 

 

THE FOUNTAIN OF YOUTH

 

Readered into English by

LAFCADIO HEARN

━━━━

LONG, long ago there lived somewhere among the mountains of Japan a poor woodcutter and his wife. They were very old, and had no children. Every day the husband went, alone to the forest to cut wood, while the wife sat weaving at home.

 

   One day the old man went further into the forest than was his custom, to seek a certain kind of wood; and he suddenly found himself at the edge of a little spring he had never seen before. The water was strangely clear and cold, and he was thirsty; for the day was hot, and he had been working hard. So he doffed his huge straw-hat, knelt down, and took a long drink.

 

   That water seemed to refresh him in a most extraordinary way. Then he caught sight of his own face in the spring, and started back. It was certainly his own face, but not at all as he was accustomed' to see it in the bronze mirror at home. It was the face of a very young man! He could not believe his eyes. He put up both hands to his head which had been quite bald only a moment before, when he had wiped it with the little blue towel he always carried with him. But now it was covered with thick black hair. And his face had become smooth as a boy's: every wrinkle was gone. At the same moment he discovered himself full of new strength. He stared in astonishment at the limbs that had been so long withered by age: they were now shapely and hard with dense young muscle. Unknowingly he had drunk of the Fountain of Youth; and that draught had transformed him.

 

First he leaped high and shouted for joy; then he ran home faster than he had ever run before in his life. When he entered his house his wife was frightened; because she took him for a stranger; and when he told her the wonder, she could not at once believe him. But after a long time he was able to convince her that the young man she now saw before her was really her husband; and he told her where the spring was, and asked her to go there with him.

   Then she said: "You have become so handsome and so young that you cannot continue to love an old woman; so I must drink some of that water immediately. But it will never do for both of us to be away from the house at the same time. Do you wait here, while I go." And she ran to the woods all by herself.

   She found the spring and knelt down, and began to drink. Oh! how cool and sweet that water was! She drank and drank and drank, and stopped for breath only to begin again.

   Her husband waited for her impatiently; he expected to see her come back changed into a pretty slender girl. But she did not come back at all. He got anxious, shut up the house, and went to look for her.

    When he reached the spring, he could not see her. He was just on the point of returning when he heard a little wail in the high grass near the spring. He searched there and discovered his wife's clothes and a baby, a very small baby, perhaps six months old.

   For the old woman had drunk too deeply of the magical water; she had drunk herself far back beyond the time of youth into the period of speechless infancy.

   He took up the child in his arms. It looked at him in a sad wondering way. He carried it home,murmuring to it, thinking strange melancholy thoughts.

━━━━

 

[やぶちゃん注:この後には、“JAPANESE FAIRY TALE SERIES.”(「日本の妖精譚シリーズ」)“ENGLISH EDITTION”(「英語版」)と標題し、“ON CRLPE PAPER WITH ILASTRAYTIONS IN COLOURS.”(「カラー版挿絵附きの『縮緬(ちりめん)本』」)という添え辞を持った“1”番から“22”番までのリストが載るが、それは電子化しない。

 次が、原本の裏表紙で、鉞(まさかり)に海石榴の花枝を結び付けた挿絵が中央にあり、右手下に絵師の署名があるが、私には読めない。私の書道に堪能な教え子同士の御夫婦に判読を依頼してあるので、それを待って、捜索してみようと思っている。

 以下、私の拙訳であるが、本邦を舞台としたおとぎ話の形式であることを鑑みて、本邦の同型の語彙や文体に似せたものにしてある。無論、読者は子どもであることを考えて、全体のコンセプトは、小泉八雲の訳したワン・フレーズには束縛さない形で読点を入れたり、時に文を切り、敬体の近代的な口語型とした(翻案にはならないように細心の注意はした積りであるが、英文はシチュエーションを、子どもたちに判るようには十全に叙述していないので、私がその部分を添えておいた。いや、今や、小学生でも英文の方がよく読めてしまうのだろうが)。子どもが読むことを考慮して、読みを大幅に入れ、シチュエーションが判るように一部の表現を附加した(間接表現を直接表現にして改行した箇所もある)。実際、展開上、中には、一段落でなく、段落を新たにした方がいいと強く思う箇所もあったが、それは、八雲先生の呼吸として、厳に守った。但し、本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」で電子化したものに合わせ、漢字は正字を用い、歴史的仮名遣を用いた。なお、本文の冒頭にあるものは、表紙と同じものであるので、カットした。]

 

◆藪野直史オリジナル譯

 

 日本(につぽん)のおとぎばなし集(しゆう)

       若返(わかがへ)りの泉(いづみ)

 

  ラフカディオ・ハーン による

             英語譯(えいごやく)

 

 

 昔々(むかしむかし)、日本の山の奥(おく)に、貧(まづ)しい樵(きこ)りと、そのおかみさんが住んでゐました。彼ら二人は、たいさう年老(お)いてをり、子どもも、をりませんでした。おぢいさんは、每日、おばあさんが家で機織(はたお)りをしてゐる間(あひだ)、獨(ひと)りで、森へ、木を伐(き)りに行きました。

 或(あ)る日のことです。おぢいさんは、とある木を探(さが)すため、何時(いつも)より更(さら)に森の奥深(おくぶか)くまで行きました。すると、突然(とつぜん)、今まで見たこともない、小さな泉(いづみ)に辿(たど)り着(つ)きました。

 そこの泉の水は、不思議なほど澄(す)んでゐて、冷たいのです。おぢいさんは喉(のど)が渇いてゐました。暑(あつ)い日でしたし、一所懸命(いつしよけんめい)に働いてゐたからです。そこで、おぢいさんは大きな麥藁帽子(むぎわらばうし)を脫(ぬ)ぎ、跪(ひざまづ)いて、一氣(いつき)に水を飮みました。

 その水は、おぢいさんが吃驚(びつく)りするほど、元氣づけて吳(く)れたやうでした。

 ところが、その時、おぢいさんは、泉に、ちらと映(うつ)つた自分の顏(かほ)を見て、思わず、泉のたもとに引き返しました。それは、確(たし)かに自分の顏ではあつたのですが、家の銅(あかがね)で出來た鏡(かがみ)で見慣(みな)れてゐる顏とは、これ、全(まつた)く違(ちが)つてゐたからです。それは、とても若い男(をとこ)の顔だつたのです! おぢいさんは、自分の目が信じられませんでした。おぢいさんは兩(りやう)の手で、頭を押さえてみました。ほんの少し前までは、何時(いつ)も持ち步(ある)いてゐる小さな手拭(てぬぐ)ひを頭を覆(おほ)つたばかりで、すつかり禿(は)げ上がつてゐたはずだつたからなのです。しかし、今は、何んと、濃(こ)い黑髮(くろかみ)に覆(おほ)はれてゐたのです。そして、おぢいさんの顏はといふと、少年のやうに滑(なめ)らかになつてゐて、皺(しは)は消えてゐたのでした。同時に、おぢいさんは、自分が新しい力(ちから)に滿(み)ち滿ちてゐることにも氣づきました。おぢいさんは、嘗(か)つては、あんなに堅(かた)くて不自由だつた手足を、驚(おど)いて見つめてゐました。年を取つたことで、すつかりしなびてゐた腕(うで)は、今や、若く張(は)りのある筋肉(きんにく)の形(かたち)を見せて、がつしりしてゐるのでした。おぢいさんは、知らず知らずのうちに、「若返りの泉」を飮んでゐたのです。そして、その、水のわづかな一杯(いつぱい)が、おぢいさんの姿を、すつかり變(かへ)たのでした。

 まづ、おぢいさん――もう、「おぢいさん」ではないので、「彼(かれ)」と言ひませうね。――彼は、高く飛(と)び上がり、よろこびの叫び聲(ごゑ)を擧(あ)げました。――それから、生まれてこの方(かた)、そんな速(はや)さで走つたことのない驚くべき速さで、家まで走つて歸つたのです。家に入(はひ)ると、おばあさんは、彼を『見知らぬ他所者(よそもの)ぢや。』と思ひ、怯(おび)えました。彼が、自分が感じた驚(おどろ)きを話しても、おばあさんは、直(す)ぐには信じられませんでした。しかし、長い時間をかけて、彼は、おばあさんに、今、目の前にゐる若い男が、本當(ほんたう)におばあさんの夫(をつと)であるおぢいさんだ、といふことを納得(なつとく)させることが出來ました。さうして、泉の場所を敎へ、

「一緖(いつしよ)に行かう。」

と誘(さそ)ひました。

 すると、おばあさんは言ひました。

「あなたはすつかり若く美しくなられましたから、この年老いたばあさんを愛し續(つづ)けることは出來ません。だから、私は、すぐ、その水を飮まなければなりません。でも、私たち二人(ふたり)が一緖(いつしよ)に家を離れるのは物騷(ぶつさう)で出來ません。私が行つて歸つて來るまで、ここで待つてゐて下(くだ)さいな。」

 さうして、おばあさんは、獨りで森へ走つて行きました。

 おばあさんは、彼(か)の泉を見つけると、跪(ひざまづ)いて、水を飮み始めました。

「ああつ、この水は、なんて冷たく、甘いのでせう!」

と、おばあさんは、飮み、そして、飮み、ひたすら、飮み、息をつくための一度(ひとたび)の休みさへ、もどかしさうに、再(ふたた)び、飮み始めたのでした。

 さて、彼女の夫は、彼女が歸つて來るのを、待ち焦がれてゐました。――『きつと、美しい、細(ほつ)そりとした娘になつて、戾ってくる。』と待ちに待つてゐました。しかし、幾(いく)ら待つてゐても、彼女は一向(いつかう)に戾(もど)つて來ないのでした。夫は心配になつて、しつかりと家の戶締(とづ)まりをして、彼女を探しに出かけました。

 泉に辿(たど)り着いた時、彼女の姿は見えませんでした。立つたまま、何處(どこ)を見渡(みわた)して見ても、見えません。仕方(しかた)なく、彼が丁度(ちやうど)、家に戾(もど)ろうとしたその時、泉の近くの背の高い叢(くさむら)の中から、小さな泣き聲が聽(き)こえて來ました。彼が、其處(そこ)を探して見たところが、おばあさんの着てゐた衣服(いふく)と、赤(あか)ん坊(ばう)を見つけました。――それはそれは、とても小さな赤ん坊で、生まれて六ヶ月くらいの赤ん坊だつたのです。

 さうです、おばあさんは、泉の魔法(まはう)の水を飮(の)み過ぎてしまつたのでした。若い頃を遙(はるか)に越え、喋(しやべ)ることも出來ない赤ん坊の時間に到(いた)る時まで、彼女は、すつかり醉(よ)ひ痴(し)れてしまつてゐたのでした。

 彼は赤ん坊を腕に抱き上げました。赤ん坊は悲しさうに、不思議そうに、彼を見詰(みつ)めてゐました。彼は赤ん坊に何かを囁(ささや)きつつ、奇妙で、もの哀(がな)しい思ひを巡(めぐ)らせながら、家へと、連れて歸つたのでした。

 

 

2025/06/08

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「神木鳴動」

[やぶちゃん注:底本はここ。句読点の変更や追加をし、記号を加えた。]

 

駿 國 雜 志 卷之二十四下

         阿 部 正 信 編 揖

 

        怪   異

       駿  東  郡

 「神木鳴動」  駿東郡《すんとうのこほり》上窪村《かみくぼむら》桃澤《ももざは》の社《やしろ》にあり。傳云《つたへいふ》。「慶長十七年正月三日、當社の神木《しんぼく》、鳴動する事、夥《おびただ》し。此日、富士川、洪水、安倍郡鯨《くじら》か池[やぶちゃん注:ママ。]、溢《あふ》れ、淺畑池《あさはたいけ》に注ぎ入《いる》。當郡松永濱、沼津浦邊、大浪して、獵船數十艘、破損す。是、神木、怪をなして、水災を告《つげ》給ふならん。土俗、云《いはく》、『桃澤神社、今、愛鷹明神とす。云云。』。」。

 

[やぶちゃん注:「駿東郡上窪村桃澤」現在の静岡県駿東郡長泉町桃沢(ももざわ)。「ひなたGIS」で示した。桃沢川の下流に「元長窪」や「上長窪」の地名も確認出来る。

「桃澤の社《やしろ》にあり」先の前の「ひなたGIS」の最初の位置を考えるなら、グーグル・マップ・データ航空写真の「愛鷹山水神社」であろうか。

「慶長十七年正月三日」グレゴリオ暦一六一七年二月四日。

「安倍郡鯨《くじら》か池」静岡県静岡市葵区下(しも)に現存する「鯨ヶ池」(グーグル・マップ・データ)。由来は、「FNNプライムオンライン」の「テレビ静岡」の調査による『「鯨ヶ池」 池なのにクジラ? 静岡随一の名水といわれた池は大正天皇も訪れていた』が素晴らしい!

「淺畑池」グーグル・マップを見ると、鯨ヶ池の南南東に、現在、「麻機遊水池」、及び、周辺に池様のものが、複数、点在するので、同一場所を、「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、ここに広大な「淺畑沼」が確認出来る。

「當郡松永濱」「ひなたGIS」では、精査して見たが、この名の浜はなかった。しかし、「當郡」とあり、これは、パートが「駿東郡」であること、並置するのが「沼津浦邊」であることから、これは、沼津に近いと考えて探すと、沼津市の東直近に、沼津市内の「松長」があった。現行では、この地区に「片浜海岸」(グーグル・マップ・データ)があるから、これであろうか?

「愛鷹明神」「愛鷹」「愛鷹明神」を名乗る神社は、現在、この広域に、実に十二社もある。] 

2025/06/07

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 目録・秦椒

 

[やぶちゃん注:以下の「目録」(表記はママ)は、上方の項目の読みは、そのままに示した(歴史的仮名遣の誤りはママ。清音の箇所は濁音化していない)。下方の附属項のルビのカタカナ表記はそのままで丸括弧で示した。]

 

  卷之八十九

   味果類

 

秦椒(さんしやう) 椒樹皮(サンシヤウノカハ)

蜀椒(しよくのはしかみ)

朝倉椒(あさくらさんしやう)

冬山椒(ふゆさんしやう)

柚山椒(ゆさんしやう)

蔓椒(いぬさんしやう)

崖椒(のさんしやう)

胡椒(しやう)

畢澄茄(ひてうさや) 山胡椒

畨椒(たうがらし)

吳茱萸(ごしゆゆ)

食茱萸(おほたら)

鹽麩子(ふし)

醋林子(さくりんし)

(ちや)

蠟茶(ろふちや)

孜兒茶(がいじちや)

茶湯(ちやのゆ)

皐蘆(なんばんちや)

 

 

和漢三才圖會卷第八十九

      攝陽 城醫法橋寺島良安尚順

  味果類

 

Kahokuzansyou

 

[やぶちゃん注:右下に裂けた実の五個体が描かれ、「椒紅」とキャプションが添えてある。]

 

さんしやう  花椒 大椒

       檓【音毀大椒】

秦椒

       椒𣐹𣒏【並同】

        玆消切音焦

唐音     今俗作枡非也

シン ツヤ゚ウ  名山椒

 

本綱秦椒始産于秦故名今𠙚𠙚可種最昜蕃行其葉對

生尖而有刺四月生細花五月結實生青熟紅大於蜀椒

其目亦不及蜀椒目光黑也伹秦地亦有蜀椒蘇㳟曰秦

[やぶちゃん字注:「㳟」は「恭」の異体字だが、見慣れないので、訓読では「恭」に代える。]

椒樹葉及莖子都似蜀椒伹味短實細爾然宗奭及時珍

曰其實大於蜀椒

椒紅【辛温有毒】 除風邪温中堅齒髮明目久服好顏色耐老

 古今醫統云花椒以帯目未開口者用碎土拌和入浄

 缾中宻封口倒置地上於南檐有日色𠙚晒着至春分

[やぶちゃん字注:「檐」は原本では(つくり)が「簷」であるが、表示出来ないので、「檐」とした。また、「春分」は原書(中文サイト「中醫笈成」の「古今醫統大全」

の「花木類第二」に当たったところ、『花椒 以帶目未開口者,用碎土拌和,入淨瓶中,密封口倒置地上,於南檐有日色處曬』(「さらす」と同義)『著,至春初撒畦中,則粒粒皆出。』とあり、「春初」は引用の誤りであることが判明したので、訓読では訂した。

 撒畦中則粒粒皆出凡椒紅口閉者有毒殺人

△按秦椒乃常名山椒者也以蘇秦之說可爲當山谷多

 有之也樹髙五六尺不直其葉似槐葉而青綠色對生

 尖有丫冬凋落其枝多刺三月生嫩芽謂之木芽入羹

[やぶちゃん注:「丫」は原本では「了」であるが、誤刻と断じて、「丫」とした。東洋文庫訳も「丫」となっている。]

 及酒中有佳香四月開細花青白色五月結實攢生青

 色謂之青山椒味辛香佳藏鹽水越年辛味不變也六

 月熟黃紅色採大者曝乾純赤開口謂之椒紅藏之包

 黑反古紙則味不變備前瓷坩亦可也然越年者辛味

 失苦生殊小顆者名平椒唯青時可食乾之不佳往昔

 所謂秦之地乃今陝西也

椒樹皮 剥木去麁皮曝乾販之用時浸水刮去內白肌

 鹽漬或以醬油煮乾食之味辛鹹微香美僧家最賞之

 山城鞍馬山之產皮薄味勝丹波但馬及遠州山中野

 州二荒山皆多出之

食椒噎甚者不能言悶亂【急令開口吹入人息於咽則安或爐灰少許舐則佳凉水亦可】

 

   *

 

さんしやう  花椒《くわせう》 大椒

       檓【音「毀」。大椒。】

秦椒

       椒・𣐹・𣒏【並びに同じ。】

        「玆」「消」の切。音「焦」。

唐音     今、俗、「枡」に作るは、非なり。

シン ツヤ゚ウ  山椒《さんせう》と名づく。

 

「本綱」に曰はく、『秦椒《しんせう》[やぶちゃん注:歴史的仮名遣に於いては、「椒」の現代仮名遣「ショウ」は、歴史的仮名遣では「セウ」であって、「シヤウ」ではない。しかし、良安の「椒(しやう)」の読みが示されているものは、目録でも、標題の「さんしやう」でも、この「秦椒」だけでなく(但し、以下の「椒紅」には、良安は「ひさんせう」(「紅山椒」の当て訓)を当てては、いる)、以下の項でも、ほぼ一貫して「しやう」であることから、その誤った彼の思い込みの慣用読みを総て私が訂正することは、本電子化ポリシー上、正当な行為とは思われない。しかし、それに合わせて、ルビのない「椒」に対しても、私が「しやう」を使用することは、誤りである以上、私には許されないと考えるし、その気も、全く、ない。されば、私が添えた読みでは、正しい歴史的仮名遣で「せう」を用いる。それでこそ、以下の項目でも良安の慣用読みの誤りが、読者に明確に常に認知されるからである。]は、始《はじめ》て、秦に産す。故、名づく。今、𠙚𠙚、種《う》うべし。最《もつとも》蕃行《ばんぎやう》し昜《やす》し[やぶちゃん注:繁殖しやすい。]。葉、對生す。尖りて、刺《とげ》、有り。四月に細≪かなる≫花を生じ、五月、實を結ぶ。生《わかき》は青く、熟せば、紅《くれなゐ》にして蜀椒《しよくせう》より大なり。其の目《み[やぶちゃん注:実。]》も亦、蜀椒の目の光り黑きに及ばざるなり。伹《ただし》、秦の地にも亦、蜀椒、有り。蘇恭《そきやう》の曰《いはく》、「秦椒の樹・葉、及び、莖・子《み》、都(すべ)て、蜀椒に似たり。伹《ただし》、味、短《みじか》く[やぶちゃん注:及ばず。]、實≪も≫細《こまか》なるのみ。」≪と≫。然《しか》るに、宗奭《そうせき》、及《および》、時珍の曰く、「其の實、蜀椒より大なり。」と。』≪と≫。

『椒紅(ひさんせう)【辛、温。毒、有り。】』『風邪を除き、中《ちゆう》[やぶちゃん注:中胃。脾胃。]温《あたた》め、齒・髮を堅くし、目《め》を明にして、久《ひさし》く服すれば、顏色を好くし、老《おい》に耐《たふ》。』≪と≫。[やぶちゃん注:検証すると、ここで「本草綱目」の引用は終わっている。

「古今醫統」に云はく、『花椒、目《み》[やぶちゃん注:先行する「本草綱目」の引用中の『目《み[やぶちゃん注:実。]》』に同じ。]を帯《おび》、未だ口を開かざる者を以て、碎≪ける≫土を用≪ひて≫、拌-和(かきま)ぜ、浄《きよらな》缾《かめ》の中に入《いれ》、宻《みつ》に口を封じて、倒《さかさ》まに地上に置《おき》、南≪の≫檐《のき》≪の下の≫日《ひ》≪の≫色《いろ》の有《ある》𠙚[やぶちゃん注:太陽光線が直接に射す所。]に於《おい》て晒-着《さらしつ》け[やぶちゃん注:陽に晒し続けて。]、春≪の≫初≪め≫に至《いたり》て、畦《あぜ》≪の≫中に撒(ま)けば、則《すなはち》、粒粒《つぶつぶ》、皆、出づ。』≪と≫。[やぶちゃん注:以下は良安の補足と推定される。]『凡そ、椒紅≪の實の≫、口《くち》、閉《とづ》る者、毒、有りて、人を殺《ころす》。』≪と≫。

△按ずるに、秦椒《さんせう》は、乃《すなは》ち、常≪には≫「山椒《さんせう》」と名《なづく》る者なり。蘇秦の說を以《もつ》て當れりと爲《なす》べし。山谷に、多く、之れ、有るなり。樹の髙さ、五、六尺。直(す)ぐならず。其の葉、槐《えんじゆ》の葉に似て、青綠色。對生して、尖《とがり》て、丫《また》、有り。冬、凋み落つ。其の枝、刺《とげ》、多《おほし》。三月、嫩芽《わかめ》を生ず。之れを「木芽(《き》のめ)」と謂ふ。羹(にもの)、及《および》、酒≪の≫中に入《いれ》、佳き香、有り。四月、細≪かなる≫花、開《ひらき》、青白色。五月、實を結ぶ。攢生《さんせい》して[やぶちゃん注:群がって生え。]青色≪たり≫。之れを「青山椒《あをざんせう》」と謂く《✕→謂ふ》。味、辛《からく》、香《かほり》、佳し。鹽水《しほみづ》に藏《ざう》すること、年を越《こえ》て、辛味《からみ》、變せざるなり。六月、熟して、黃紅色。大なる者を採《とり》て、曝乾《さらしほせ》≪ば≫、純赤≪たり≫。口を開く。之れを「椒紅《しやうこう》」と謂ふ。之れを藏《ざうす》るに、黑き反--紙(ほうぐ)に包≪めば≫、則《すなはち》、味、變せず。備前の瓷-坩(つぼ)も、亦、可なり。然れども、年を越《こえ》る者は、辛味(からみ)、失せて、苦(にがみ)、生ず。殊に、小顆(こつぶ)なる者、「平椒(ひんしやう)」と名づく。唯《ただ》、青き時、食ふべし。之れを乾≪かすと≫、佳ならず。往-昔《むかし》、所謂《いはゆ》る、秦の地は、乃《すなはち》、今の陝西《せんせい》なり。

椒樹皮(さんしやうのかは) 木を剥(はぎ)て、麁皮《あらかは》を去り、曝-乾《さらしほし》て、之≪れを≫販《うる》。用《もちひ》る時、水に浸し、內の白≪き≫肌を刮(こそ)げ去《さり》、鹽に漬け、或《あるい》は、醬油≪を≫以《もつて》、煮《に》、乾《かはかして》、之れを食ふ。味、辛鹹《しんかん》[やぶちゃん注:辛く塩辛いこと。]・微香《びかう》≪ありて≫、美なり。僧家、最《もつとも》、之≪れを≫賞す。山城鞍馬山の產、皮、薄く、味、勝れり。丹波・但馬、及《および》、遠州の山中、野州《しもつけ》二荒山《ふたらさん》、皆、多《おほく》、之れ、出《いづ》。

椒を食《くひ》て、噎(むせ)て甚しき者は、言《ものいふ》こと、能《あたは》ず、悶亂《もんらん》す【≪その時は≫急《ただちに》に、口を開きしめて、人の息を咽《のど》に吹き入≪るれば≫、則ち、安《やす》し。或いは、爐≪の≫灰、少許《すこしばかり、》舐《なめ》れば、則ち佳なり。凉水《りやうすい》も亦、可なり。】。

 

[やぶちゃん注:「秦椒」は、小学館「日本国語大辞典」によれば、『ミカン科の植物、サンショウ・イヌザンショウ・フユザンショウなどの異名』とあった。しかし、これは日本語での話であり、そのままには受け入れられない。本邦では、まず、

双子葉植物綱ムクロジ(無患子)目ミカン科Rutaceaeサンショウ(山椒)属サンショウ Zanthoxylum piperitum

が代表種として認識されており、良安の勝手な「山椒」は、まず、これを第一としていいだろうとは思われる。以下、

サンショウ属イヌザンショウ(狗山椒)変種イヌザンショウ Zanthoxylum schinifolium var. schinifolium (又は、変種ではなく、Zanthoxylum schinifolium

サンショウ属カホクザンショウ(華北冬山椒)変種フユザンショウ Zanthoxylum armatum var. subtrifoliatum

も挙げておく。しかし、『秦椒《さんせう》は、乃《すなは》ち、常≪には≫「山椒《さんせう》」と名《なづく》る者なり』と言ってしまった良安は完全アウトである。

「本草綱目」で言う「秦椒」はサンショウ Zanthoxylum piperitum ではない

のである。それは、「維基百科」の「秦椒」に三つの意味を並置し、

   *

〇ナス目ナス科トウガラシ属トウガラシ Capsicum に属するトウガラシ類である。

〇ミカン科の植物「花椒」の果実である。

〇ミカン科サンショウ属( Zanthoxylum 属)の小型落葉樹である「竹叶花椒」である。

   *

とあり、以下、香辛料のトウガラシ類をピックアップした解説で、『主に秦嶺山脈で生産される「花椒」(=唐辛子)、例えば、鮮やかな赤い色で有名な「大紅袍」や、七月中旬に熟す「七月袍」などを指す。この地域の唐辛子は、辛い料理を好むことで知られる四川省の人々に売られている』とあるのである。他の中文百科も総てが、この立場を取っている。しかし注意しなくてはならないのは、

◎現代中国では「椒」は、第一義にサンショウ類ではない広義の「トウガラシ」であり、次に、

◎広義の「サンショウ属の果実の名称」であり、

◎最後に「竹叶花椒」を指すのである。

   ★

やっと核心に踏み込めた。而して、

この「竹叶花椒」はサンショウ属カホクザンショウ(華北山椒) Zanthoxylum armatum なのである。

   ★

さて、本邦のウィキの「カホクザンショウ」を見よう(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『カホクザンショウ(華北山椒』『英名:Sichuan pepper)は、中国のミカン科サンショウ属の落葉低木である。日本原産のサンショウ(山椒)とは同属異種に当たる』。『一般には中国名である花椒で知られ、日本語読みで「はなしょう」もしくは「かしょう」、中国語読みで[xwátɕjɑ́u](拼音: huājiāo)と発音され、「ホアジャオ」とも呼ばれる。また、日本の山椒と区別して四川赤山椒、四川山椒、中国山椒、中華山椒などとも呼ぶ』。『果皮は食用、薬用である。痺れるような辛さを持つ香辛料として、中国料理、特に四川料理では多用する。「花椒」のほか』、『蜀椒(しょくしょう)』「目録」で判る通り、次の立項は「蜀椒」である『椒紅(しょうこう)』(☜本文に出る。以下同じ)『などとも呼ばれ、漢方では健胃・鎮痛・駆虫作用があるとされる』。『一般的によく使われる「花椒」』(☜)『は、カホクザンショウの実が熟すると、木に赤い花が咲いたようにも見えるので、これが由来となっている』。『細かくは、実の大きさと色によって、大きく赤い大椒(だいしょう)、別名大紅袍(だいこうほう)・獅子頭(ししがしら)と、小振りで黄色い小椒(しょうしょう)、別名小黄金(しょうおうごん)に分けられ、実の採集時期によって秋椒(しゅうしょう)と伏椒(ふくしょう)に分けられる』。『英語ではSichuan pepper, Szechuan pepper, Chinese prickly-ash, Flatspine prickly-ashなどとも呼ばれる』。『漢の』「爾雅」の「釋木」『に見える古名に檓』(☜)『(き、拼音:huǐ)、大椒(だいしょう)』(☜)『がある』。『前漢の馬王堆漢墓から出土した医書に椒と称し』、『薬用に供されていた』。『後漢代の』「神農本草經」中卷「木部中品」『に秦椒(しんしょう)』(☜)『中巻木部下品には蜀椒(しょくしょう)の名称がみられる』。『後漢の』「說文解字」『には椒の異体字である「茮」(ショウ、拼音:jiāo)の字体で収載されており、「茮莍也」との説明がある』。『北魏の』「齋斉民要術」『は「植椒編」を設け、栽培、利用についての記述がある』。『明の』「本草綱目」『「果之四」に秦(秦嶺山脈)に産が始まる花椒と注記した秦椒と、蜀椒を記載』し、『前者の別名を大椒とするが、いずれも産地名と組み合わせた呼称であり、別種であるかは不明。産地名を付した呼称は、他に巴椒(はしょう)・川椒(せんしょう)・南椒(なんしょう)・漢椒(かんしょう)などある』。「本草綱目」『は蜀椒の別名として点椒(てんしょう)も記載』する。『なお、現代中国語の「秦椒」にはトウガラシの意味もある』。『サンショウは雌雄異株だが、カホクザンショウでは雌雄同体で雄株はないと見られている。樹高は』七メートル『ほどになる。枝には鋭い棘が』二『本ずつ付く。葉は互生、奇数羽状複葉。長さ』八~十四センチメートル『ほど』。五~十一『対の小葉は』一~二センチメートル『の楕円形で縁は鋸歯状。裏は表に比べ白っぽい。花は』三~五『頃』、『開花し、直径』四~五ミリメートル『で黄緑色。果実の直径は』四ミリメートル『程度で、初めは緑色だが』七『月から』十『月頃に赤く熟し、裂開して中の黒い種子が落下する』。『サンショウ属を含むミカン科の木にはアゲハチョウの幼虫が付くことがある。アゲハチョウの幼虫は大食であり、小さな株なら』、一『匹で葉を食べ尽されて丸裸にされてしまうこともあるので注意が必要である』。『東アジア原産。中国では黒竜江省から広西チワン族自治区まで広く分布する。栽培もされており、四川省、河北省、山西省、陝西省、甘粛省、河南省などが主産地である』。現在は『中国の貿易商が、日本の山口県や大阪府泉佐野市にて青花椒の栽培を試みている』。『一部の同属異種の果皮をも「土花椒」などと称して、香辛料に使用される例がある』。以下、同属異種が列挙される。

Zanthoxylum piperitum (『サンショウ(山椒)。日本原産』。以下の本邦の「サンショウ」は同ウィキを、必ず、見られたい。ここでは、グダグダになって混同してしまうので引用しないが、良安の勘違いを批判的に認識するためには、先ず、そちらを見られたい

Zanthoxylum armatum  (シノニム:Zanthoxylum alatum :『 フユザンショウ(冬山椒)』)

Zanthoxylum schinifolium (『イヌザンショウ(犬山椒)。中国語で「香椒」。芳香がなく、棘が互生する。イヌザンショウの果実は黄緑から緑色で、「香椒子」「青椒」「青花椒」と呼ばれて精油を持ち、煎じて咳止めの民間薬に用いられる』)

Zanthoxylum bungei (『ツルザンショウ。中国語で「野山椒」「蔓椒」』)

Zanthoxylum beecheyanum (『ヒレザンショウ。沖縄県』)

Zanthoxylum simulans (『トウザンショウ(唐山椒)』)

Zanthoxylum argyi

Zanthoxylum avicennae (『中国語で「簕欓」「鷹不泊」。華南、ベトナム、フィリピン原産』)

Zanthoxylum ailanthoides (『カラスザンショウ(烏山椒)』)

Zanthoxylum americanum -(『アメリカザンショウ(アメリカ山椒)』)

Zanthoxylum fraxinoides

Zanthoxylum nispinum (『中国語で「竹葉椒」』)

Zanthoxylum nitidum (『テリハサンショウ(照葉山椒)』。『中国で「両面針」と称して薬用にされる。葉の中心線に沿って棘がある』)

Zanthoxylum micranthum (『中国語で「小花花椒」』)

Zanthoxylum integrifoliolum (『中国語で「蘭嶼花椒」』)

『果皮は、爽やかな香りと痺れるような辛味を持ち、花椒の名で呼ばれる香辛料である。四川料理、貴州料理、雲南料理、西北料理などで多用され、煮込み料理を中心に、炒め料理、蒸し料理など幅広い料理に使われる』。『特に、日本でも知られる麻婆豆腐や担担麺をはじめとする四川料理は、花椒の痺れるような辛さ(麻味)と唐辛子のピリっとした辛さ(辣味)のハーモニーである麻辣味が基本であり、花椒は欠かせない。日本国内の市場規模は』二〇一八『年で約』一『億円で、それまでの』四『年間で』二『倍以上に拡大した。果皮の乾燥粉末を料理の仕上げに使うことが多いが、果皮を植物油に漬けて成分を溶出させた花椒油(かしょうゆ)も使われる。粉末(挽きたてが望ましい)は香りに優れ、花椒油は辛味に優れるため、一つの料理で両方の使い方をすることもある』。『炒った塩と同量の花椒の粉末を混ぜたものを花椒塩(かしょうえん、ホアジャオイエン)と呼び、中国各地で揚げ物につけて食べるのに用いる』。『粉末を桂皮(シナモン)、丁香(クローブ)、小茴(フェンネルもしくはウイキョウ)、大茴(八角もしくはスターアニス)、陳皮(チンピ)などとブレンドしたものは五香粉(ごこうふん、ウーシャンフェン)と呼ばれ、食材の臭い消しなど下処理に多用される』。『砂糖、黒酢、豆板醤、練り胡麻、トウガラシ、ニンニク、ショウガ、ネギ、砕いたラッカセイなどと組み合わせた味は複雑で奇怪な味という意味で「怪味」(かいみ、グヮイウェイ 拼音: guàiwèi)と呼ばれるが、これに花椒の風味は欠かせない。タレは怪味だれ、怪味ソースなどとも呼ばれる』。『中国などでは豆豉や油脂などと配合した合わせ』、『調味料も多種』、『販売されている』。『全粒の花椒を大量に買うと、種子が果皮に挟まったものが』、『まれに混じることがあるが、これは』不味い『ので気付いたなら取り除くべきである』。『花椒が無い場合、日本のサンショウで代用できないことはないが』、『風味や辛さが大きく異なる』。『果皮には産地により差があるが約』一~九『%の精油成分を含む。主な精油成分はゲラニオール、リモネン、クミンアルコール、シトロネラールなど。油脂分ではパルミチン酸とパルミトレイン酸を多く含む。主な辛味成分はヒドロキシ-α-サンショオール(Hydroxy-α-sanshool)などのサンショオール誘導体とサンショアミド』である。『果皮は「花椒」、「椒紅(しょうこう)」と称して生薬としても用いられる。漢方で「花椒」は健胃、鎮痛、駆虫作用があるとされ、大建中湯、烏梅丸などに使われる』。「本草綱目」『は性味を「辛、温、有毒」とする。陰虚の患者、妊婦は忌避すべきとされる。授乳を終える時期に花椒を煎じ、砂糖を加えて飲むと、乳の分泌が抑えられ、乳房の張りも収まるとされる』。『また、中の黒い種子を「椒目」(しょうもく)と称し、煎じたり、粉砕して「水気腫満」(水腫)、「崩中」(子宮出血)、下り物の治療に用いた。利尿作用、鎮咳作用もある。主な成分はオレイン酸、パルミチン酸などの脂肪酸、リノール酸メチル、リノレン酸メチルなどの脂肪酸エステルで、モノテルペノイド、セスキテルペノイドも含む』。『日本薬局方では、サンショウの成熟した果皮で、種子をできるだけ除いたものを生薬・山椒(サンショウ)と規定している。このため花椒を日局サンショウとして用いることはできない』。『花椒の実は多くなることから、中国では古くより子孫繁栄の象徴と見られてきた。西周の詩歌を集めた』、「詩經」の「唐風」には、「椒聊之實 蕃衍盈升」『(椒聊の実は、繁って増え、上に昇る)と記されている。また、後漢の班固は』「西都賦」『で壁に花椒を塗った「椒房」を皇后の部屋としていると記し、子孫繁栄を願っていたことが窺える』とある。

 なお、 なお、以上の本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」「果之四」「味類一十三種内附四種」の冒頭の「秦椒」からのパッチワークであるが、いろいろと引用に問題を感じているので、長いが、以下に全文を手を加えて示す。下線部が、良安の引いた箇所(勝手に手を入れているので注意)である。彼のここでのパッチワークが、如何に危ういアクロバティックにして、グチャグチャの極みであることが判然とする。

   *

秦椒【本經中品】 校正【自木部移入此】

 釋名大椒【爾雅】花椒

 集解【别錄曰秦椒生㤗山山谷及秦嶺上或瑯琊八月九月采實弘景曰今從西來形似椒而大色黃黑味亦頗有椒氣或云卽今樛樹子樛乃豬椒恐謬恭曰秦椒樹葉及莖子都似蜀椒但味短實細爾藍田秦嶺間大有之頌曰今秦鳳明越金商州皆有之初秋生花秋末結實九月十月采之爾雅云檓大椒郭璞注云椒叢生實大者爲檓也詩唐風云椒聊之實繁衍盈升陸璣疏義云椒樹似茱茰有針刺葉堅而滑澤味亦辛香蜀人作茶吳人作茗皆以其葉合煮爲香今成臯諸山有竹葉椒其木亦如蜀椒小毒熱不中合藥也可入飮食中及蒸鷄豚用東海諸島上亦有椒枝葉皆相似子長而不圓甚香其味似橘皮島上麞鹿食其葉其肉自然作椒橘香今南北所生一種椒其實大於蜀椒與陶氏及郭陸之說正相合當以實大者爲秦椒也宗奭曰此秦地所産者故言秦椒大率椒株皆相似但秦椒葉差大粒亦大而紋低不若蜀椒皺紋爲髙異也然秦地亦有蜀椒時珍曰秦椒花椒也始產於秦今處處可種最易蕃衍其葉對生尖而有刺四月生細花五月結實生靑熟紅大於蜀椒其目亦不及蜀椒目光黑也范子計然云蜀椒出武都赤色者善秦椒出隴西天水粒細者善蘇頌謂其秋初生花蓋不然也】

 修治【同蜀椒】[やぶちゃん注:「本草綱目」の「蜀椒」は次項。]

 椒紅氣味辛温有毒【别錄曰生温熟寒有毒權曰苦辛之才曰惡苦蔞防葵畏雌黃】主治除風邪氣温中去寒痺堅齒髪明目久服輕身好顔色耐老増年通神【本經】療喉痺吐逆疝瘕去老血產後餘疾腹痛出汗利五臟【别錄】上氣欬嗽久風濕痺孟詵治惡風遍身四肢𤸷痺口齒浮腫搖動女人月閉不通産後惡血痢多年痢療腹中冷痛生毛髪滅瘢【甄權】能下腫濕氣【震亨】

 附方【舊六】膏痺尿多其人飲少用秦椒二分出汗蔕二分爲末水服方寸匕日三服類【傷寒要】手足心腫【乃風也椒鹽末等分醋和傅之良肘後方】損瘡中風【以麪作餫飩包秦椒於灰中燒之令熟斷開口封於瘡上冷卽易之【孟詵食療】】久患口瘡【大椒去閉口者水洗麪拌煮作粥空腹吞之以/飯壓下重者可再服以瘥爲度【食療本草】】牙齒風痛【秦椒煎醋含潄孟詵食療百蟲入耳椒末一錢醋半盞浸良久少少滴入自出【金續千方】】

   *

「蘇恭」初唐の官人で医師であった蘇敬(五九九年(隋の最末期)~六七四年)の別表記。当時の宋(現在の湖北地方の中にあった地名)の出身。朝議郎右監門府長史騎都尉。顯慶二(六五七)年に、六朝時代の医学者・科学者にして道教茅山派の開祖であった陶弘景の医学書「本草經集注」に誤りが多いことに鑑み、上奏して修正せんことを請い、同書の改訂案を仕上げた。これが現在の「唐本草」として「新修本草」に収録されている(「維基百科」の彼の記載他から作成した)。

「宗奭《そうせき》」北宋の官人で医学者・薬物学者であった寇宗奭(生没年未詳)。 北宋の名宰相寇準の曽孫と伝えられる。「萊公勳烈」の編集をしている。熙寧一〇(一〇七七)年に思州武城縣主簿に任ぜられ、以後、各地方の官吏を歴任した。特に本草医学に精通し、「本草衍義」二十巻(一一一六年完成)を撰述している。

「椒紅(ひさんせう)」引用に出たカホクザンショウの実である「花紅」「ホアジャオ」を指す。なお、現代の中国語では「紅椒」と書くと、トウガラシや赤色になったピーマンを意味するので、今度しないように注意が必要である。

「古今醫統」複数回既出既注だが、再掲すると、明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六)によって編纂された一種の以下百科事典。全百巻。「東邦大学」の「額田記念東邦大学資料室」公式サイト内のこちらによれば、『歴代の医聖の事跡の紹介からはじまり、漢方、鍼灸、易学、気学、薬物療法などを解説。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べている。分類された病名のもとに、病理、治療法、薬物処方という構成になっている』。『対象は、内科、外科、小児科、産婦人科、精神医学、眼科、耳鼻咽喉科、口腔・歯科など広範囲にわたる』とある。以下の引用は、「維基文庫」の「古今醫統大全/80」の「通用諸方 \ 花木類第二」に(漢字の一部に手を入れ、コンマを読点に代えた)、

  *

花椒以帶目未開口者、用碎土拌和、入淨瓶中、密封口倒置地上、於南檐有日色處曬着、至春初撒畦中、則粒粒皆出。

  *

とあるのを確認した。

「『凡そ、椒紅≪の實の≫、口《くち》、閉《とづ》る者、毒、有りて、人を殺《ころす》。』≪と≫」この部分、思うに、良安が、「本草綱目」の次の「蜀椒」の「修治」にある、

   *

椒紅氣味辛温有毒【别錄曰大熱多食令人乏氣喘促口閉者殺人[やぶちゃん注:以下、略。]】

   *

「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」から手を入れて引用した)から、勝手に持ってきたものと推定するものである。基本的に先の引用で判る通り、「秦椒」と「蜀椒」は同一とする見解があるので、まあ、いいとしても、安易に「殺人」というオトロしけない語を、安易に持ってくるというのは、医師として、指弾されるべきレベルの禁則行為である!

「槐《えんじゆ》」双子葉植物綱バラ亜綱マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 「卷第八十三 喬木類 槐」を見よ。

「木芽(《き》のめ)」「木の芽」。日本料理でサンショウの若葉を指す語である。香りが良く、辛みがあり、香辛料として用途が広い。吸物に浮かしたり、煮物の青みに添えたりする。刻んで味噌に入れた「木の芽味噌」は木の芽田楽や、木の芽和(あ)え等にする。三杯酢に混ぜた木の芽酢、付け焼きに振り込む木の芽焼などもある(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。ああっつ! 思い出すなぁ! 柏陽高校で、今は亡き菊池のとっつあん先生が、無理矢理にやらされたラグビー部の顧問から、ワンダーフォーゲル部に引き抜いて呉れた直前、丹沢山行で、とっつあんが、自然の木の芽を見つけて、手ずから、味噌和えにして食わせて呉れたのを! ほんと、美味かったなぁ

「平椒(ひんしやう)」不詳。識者の御教授を乞う。方言か?]

2025/06/05

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「曾我祐成幽魂告苦」 / 「卷之二十四上」~了

[やぶちゃん注:底本はここから。長いので、段落・改行を成形し、句読点(変更・除去を含む)・記号を附加した。全体が連続しているため、注は、物によっては、文中に割注で入れるのが、五月蠅いものの、最適と判断した。

 なお、本篇を以って「卷之二十四上」は終わっている。]

 

 「曾我祐成幽魂告苦《そがのすけなりのいうこん くを つぐ》」  富士郡《ふじのこほり》不二山の裾野に有り。

 「甲越信戰錄」云《いはく》、「武田信玄公は人皇百五代、後柏原院《ごかしはばらゐん》大永六年[やぶちゃん注:一五二六年。但し、これは誤りである。信玄が生まれたのは大永元年十一月三日(ユリウス暦一五二一年十二月一日)である。これは、「甲越信戰錄」の筆者が後柏原天皇の崩御(大永六年四月七日(一五二六年五月十八日))年と錯誤したものである。]の御生れにて、御名を太郞殿と中ける。いか成事にや、二年の間、左の御手を開き給はず。父信虎公も、甚《はなはだ》、氣を痛め給ふに、惠林寺(ゑりんじ)の快川(くわいせん)和尙、御殿に出《いで》て、此君を見奉りて、

「必《かならず》、御按(ごあん)じ[やぶちゃん注:この場合は、「御案じ」の方が相応しい。「心配すること」である。]の義にはあらず、やがて、御手は開き給ふべし。御相を見奉るに、行末、愛度《めでたき》御まなじり、智仁兼備の御相にておはします也。昔、人皇三十二代用明天皇の御子、厩戶皇子[やぶちゃん注:聖徳太子。]、降誕有りて、二年の間、御手を開き給はず。月增花增《つきましはなまし》[やぶちゃん注:「月增」は「一と月二た月と、月が経つにつれて増す」、「花增」は「より優れた花」の意から「より好きな人・前の女にも増して愛する女」の意であるが、ここは、帝の寵愛ぶりを指すものであろう。]に抱き守りて、宮女等、大《おほい》におどろきしが、翌年の二月十五日に御手を開き給ふ。光明赫々《かくかく》として、佛舍利を持《もち》玉ひ、『南無佛々[やぶちゃん注:「々」は前の三字を繰り返すと考えて「なむぶつ なむぶつ」と読んでおく。]』と唱《となへ》玉ふ。是より『南無佛の舍利』と號し、攝州天王寺の金堂に納《をさめ》る處の舍利、是也。抑《そも》、此《この》舍利と申《まうす》は、天竺にて釋尊入滅の後《のち》、國王の御后※曼夫人《しやうまんぶにん》[やぶちゃん注:「※」は「勝」の異体字だが、そっくりなものがない。最も近いのは「グリフウィキ」のこれである。「勝曼夫人」は当該ウィキによれば、『勝鬘夫人(しょうまんぶにん、シュリーマーラー)は、古代インドの在家仏教徒。シュリーマーラーは「素晴らしい花輪」という意味で、勝鬘はそれを漢訳したもの。舎衛国(コーサラ国)の波斯匿王(はしのくおう)と彼の妃ある末利夫人(まりぶにん、マッリカー夫人)との娘』で、『阿踰闍(アヨーディヤー)国王の妃』。『経典』「勝鬘經」『の主人公で、釈迦に帰依した父母が勝鬘夫人の知恵が優れていることを理由に、仏に会うことを彼女へ勧める。両親からの手紙を読んだ勝鬘夫人が仏を称え救いを請うと、仏が姿を現して説法し、彼女もそれに応え誓願と説法を述べたと伝わる』という人物である。]、阿羅漢に請《こひ》て佛舍利を得、一生肌を放ち給はず、御臨終の時、手に握り、空《むなし》く成《なり》玉ふが、其後《そののち》、唐土《もろこし》へ生れ玉ふ。南嶽禪師[やぶちゃん注:「南嶽(岳)懐譲」(なんがくえじょう 六七七年~七四四年)は初唐から盛唐にかけての禅僧。出家して六祖慧能の門に入る。七一四年、南岳の般若寺観音堂に入って住すること三十余年、独自の禅風を興した。後世、この法系を「南岳下」と称した。諡号は大慧禅師(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。当該ウィキもよい。]、是也。又もや、佛舍利を握りて生れ出《いで》、經山寺[やぶちゃん注:調べた限りでは、彼の「維基百科」には、「後移居南嶽衡山觀音台」とあるので、これは「衡山の寺」の誤りのように思われる。識者の御教授を乞う。]に在りて、弘《ひろ》く法を說《とき》玉ふ。遷化《せんげ》の時、件《くだん》の舍利を握り、「東方有緣。」と申《まうして》て終り玉ひ、日本に生れ玉ふ時は、佛法扶桑の開祖、聖德太子、是也[やぶちゃん注:これは、おかしい。聖徳太子の生年は敏達天皇三年一月一日(五七四年二月七日)で南嶽禪師の生没年より百年も前である。]。かゝる例《ため》しもおはしませば、若君、御手の開かざるも、究めて名將の御しるしにて候はん。」

と申けり。

 果して、左の御手、ひらけしに、金の龍の目貫[やぶちゃん注:刀や槍の目釘のこと。鎌倉以降、頭(かしら)と座の飾りと、釘の部分を離して、別の位置に付けるようになり、釘の部分を「真目貫(まことめぬき)」・「目釘」と称し、飾りの金物を目につく箇所につけて「空目貫(そらめぬき)」と称した。ここは後者。]を、片々(かたがた)、持《もち》玉ふ。

「快川の判詞《はんし》、符節を合するが如し。」

と、御父、御喜悅也。

 其後、臨濟の沙門某、諸國を巡り、東海道を通り、富土の裾野を打詠め、終日《ひねもす》遊行《ゆぎやう》せし程に、日は西に入《いり》て、其夜は廣野に臥《ふせ》ぬ。

 勿論、三衣一鉢《さんえいつぱつ》[やぶちゃん注:行脚僧が具備することとされる「三衣(さんえ)」(「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣を指し、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製したもの)・大衣(だいえ。「鬱多羅僧衣」(うったらそうえ)とも言い、七条の袈裟で上衣とするもの)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指す)と托鉢。呆れたことに、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『江戸怪異綺想文芸大系 第五巻』(高田衛監修・堤邦彦/杉本好伸編)の「近世民間異聞怪談集成」(二〇〇三年刊初版)に所収する同パート(堤邦彦氏校訂)では、『三夜一鉢』となっていて、注も何もついてない! この本、他の作品の別人の校訂でも、とんでもないミスだらけで、腹が煮えくり返ったものだったが、一万八千円もするこの本、買わぬがマシだぜ! ホンマに!!]、樹下石上《じゆかせきじやう》の出家なれば、更に驚く事、なし。一木《いちぼく》のもと成る石上に安坐して、一心を將動《しやうどう》せず[やぶちゃん注:揺るがすことなく。]、坐禪觀法《くわんほふ》の風《かぜ》、凉々《りやうりやう》として、水、淸く、時に夜も更渡《ふけわた》り、北斗も寒き芒原《すすきはら》の露、ふみしだき來《きた》る者、有り。

 いまだ壯年の姿にて、狩衣の袖もしほれて、申やう、

「此所《このところ》は夜《よ》、嵐、つよく、露に濡れ給はん事、痛はし。我等が草の扉《とぼそ》に御供申《まうし》奉らむ。」

と。

 沙門も、是を悅び、彼《かの》男と諸共に、草を分行《わけゆ》く事、三町[やぶちゃん注:三百二十七メートル。]計りにして、庵《いほり》、有り。是《ここ》に入《いり》て、世の中の事など談話するに、何國《いづく》ともなく、

「曳々《えいえい》。」

と鯨波を上げ、四方の熖火《えんくわ》、盛りに燃上《もえあが》る。

 彼《かの》男、色、靑くなり、

「はや、迎《むかへ》の參りし。」

と、太刀を橫たへて出行《いでゆく》に、僧も

『不思議。』

と眼《まなこ》を見開き、

「き」

と見てあるに、姿は見えず、只、叫聲《さけびごゑ》のみ也。

「扨《さて》は。修羅の街にくるしむ者どもよ。」

と、淚を流し、一心に讀經す。

 暫くありて、物音、靜《しづま》り、彼男、弱々として、立歸《たちかへ》る。

 其時、僧の曰《いはく》、

「只今の有樣は、修羅の戰《いくさ》也《なり》。いかなる罪業《ざいごふ》にて、浮《うか》みもやらず、かヽる苦みを受玉ふぞや。」

 彼男、頭《かしら》を上げ、

「耻《はづ》かしき事ながら、それがしこそは、曾我の十郞祐成が昔の姿にて候。」

といふ。

「扨は。建久四年、此所にて工藤祐經を討《うち》玉ひし十郞殿なるか。御舍弟の五郞殿も同じ苦《くるし》みを受《うけ》給へるか。」

 彼男、

「いや。弟時致《ときむね》は母の詞に隨ひ、幼年より箱根山にて育られ、常に御經を讀誦し候、法華の功力《くりき》にて、再び此世に生れ出《いで》、今、甲州の大守と仰《あふが》れ候也。其しるしこそ、是也。」

と、金の龍の目貫を取出《とりいだ》し、

「片々《かたがた》は時致が持《もち》て生れ候也。」

と沙門に渡し、

「それがしは、露ばかりも善根なく、現世《げんせ》に作る其罪にて、長く、くるしむ。修羅道を、たすけ玉へ、御僧《おんそう》。」

といふも松吹《まつふく》風、庵も、うせて、草村《くさむら》なり。

 沙門も奇異の思ひをなし、翌日より、「法華」を營み、念頃《ねんごろ》に弔ひ、即《すなはち》、善福寺に、二の石碑を建つ。法名、

――高宗院峰岩良雪大禪定門 祐成――

――鷹嶽院士山良富犬禪定門 時致――

 其後、彼沙門、甲州に來り、惠林寺にて此事を物語る。

 快川和尙は、覺へ有る金の目貫なれば、沙門より、もらひ、直《ただち》に御殿に上り、右の物語を委《くはし》く申《まうし》て、金の目貫を差上《さしあぐ》る。

 御大將も大《おほき》に驚き、目貫を合せ、御覽有るに、一對と成けり。

 扨こそ、信玄公は、曾我の時致が生れかはりとは申せし也。猶《なほ》も、信玄公、曾我一門の菩提の爲に一寺を建立し給ふ。是、今の萬年山大仙寺也。兄弟の墓所、今に有り。當寺の寶物「金龍の目貫」は、此由來也。云云』。

 按《あんず》るに、祐成兄弟、父の爲、苦心する事、凡《およそ》十八年、天、其《その》孝心を憐み導《みちびき》て、祐經を此野に討たしむ。

 何ぞ、善根なしと、いはむ。

 時致、又、至孝のみに非ず、義を守るの男也。

 信玄、實《まこと》に時致が再來ならば、行跡《ぎやうせき》、正しかるべきを、佞奸《ねいかん》にして、非義、多し。再生ならざる事、必《ひつ》せり。

 佛者、猥《みだ》りに說をなして、稀世《きせい》の孝子を恥かしむ。

 惡《いく》むべきの、甚敷《はなはだしき》もの也。

 

          ――(卷二十四上終り)――

 

[やぶちゃん注:最後の「――(卷二十四上終り)――」は原本にはなく、編者によるものであるが、一応、添えておいた。

「甲越信戰錄」サイト「信州デジタルコモンズ」(県立長野図書館が運用するデジタル・アーカイブ・システムに、参加機関が所蔵している古文書や書籍、写真、絵図・地図、映像などをデジタル化して記録保存し、これを公開・提供する画像閲覧サービス)の「甲越信戦記」に一『頁目に「甲越信戦記」とあるが、その後の表記はすべて「甲越信戦録」と改まっている。甲越信戦録は、江戸後期に書かれたとされる武田信玄、上杉謙信による川中島の戦いを題材とした全八巻の軍記。作者不詳で、写本によって読み継がれた。この写本は全八巻分を一冊にまとめている。徳川家光が上杉家に命じて書かせ、実録と認めた合戦の記録「甲越信戦録」を柱とし、「武田三代記」「甲陽軍艦」を基にこの書を書き上げた旨を記し、武田・上杉の来歴、山本勘助と弟重頼の修行から軍師としての働き、各陣営の計略や駆け引き、信玄と謙信の一騎打ちや激しい交戦の様を両軍を代表する忠臣たちの働きや逸話も交えながら綴る。和睦の破棄のいきさつなどから信玄の仁の少ないことを嘆き、一方で謙信の仁の心が厚いことを讃えてもいる。最後は両家和睦して』十八『年に及んだ戦いが終結し、民百姓は安堵したと締めくくる』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの「實録甲越信戰錄」(上)西沢喜太郞編・明治一六(一八八三)年・信陽書肆 松葉軒刊)のここから、以上の当該部を視認出来る。また、長野市の綜合サイト「川中島の戦い」の『戦記「甲越信戦録」』があり、その『戦記「甲越信戦録」巻の三』のページの「一.晴信公は曽我五郎再来のこと」で、以上の話が、現代語で語られてある。

「快川和尙」快川紹喜(かいせんじょうき ?~天正一〇(一五八二)年)は臨済僧。美濃国土岐氏の出身。妙心寺第二十七世仁岫宗寿(じんしゅうそうじゅ)の法を嗣ぐ。美濃国南泉寺・崇福寺の住持となるが、同国の伝燈寺が引き起こした国内の禅刹統轄権を巡る争いで、国を出、甲斐国に行き、国分寺に住したが、武田信玄の帰依を受け、恵林寺(グーグル・マップ・データ)の住持となる。信玄の道号「機山」は快川の与えたものである。天正九(一五八一)年、大通智勝の国師号を朝廷から受けた。信玄没後、織田信長が武田勝頼を攻めた際、一山の僧と共に三門上に籠もり、焼死した。その時の「安禪必ずしも山水を須(もち)ひず、心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」の辞世の語は有名である(以上は、朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」を参考にした。当該ウィキが詳しいので、見られたい。

 さて。後半の修羅道に堕ちた曾我祐成の話であるが、曾我兄弟仇討ちについては、私の「北條九代記 富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討 パート1〈富士の巻狩り〉」

「北條九代記 富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討 パート2〈曾我兄弟仇討ち〉 了」

で「吾妻鏡」の原文も引き、詳細に記してあるので、そちらを参照されたい(古い電子化注なので、正字不全があったが、このために、昨日、補正しておいた)。

 また、この怪奇談は、私の電子化物では、延宝五(一六七七)年に京の松永貞徳直系の貞門俳人荻田安静(おぎたあんせい ?~寛文九(一六六九)年:姓は「荻野」とも)の編著になる、

「宿直草卷五 第四 曾我の幽靈の事」

が古く、よい。因みに、それをインスパイアしたものと推定される、正体不明の章花堂なる著者の元禄一七(一七〇四)年板行になる浮世草子怪談集の、

「金玉ねぢぶくさ卷之四 冨士の影の山」

もある。前者の方が、ぐだぐだと装飾テンコ盛りした後者よりも、お勧めではある。見られたい。

2025/06/04

ブログ・カテゴリ「小泉八雲」の来日後の作品を一篇を除いて正字化不全修正と全面改訂を終了した

 

 今年秋の朝ドラ「ばけばけ」の関係かららしく、私の小泉八雲の作品群(私は2020年1月15日にブログ・カテゴリ「小泉八雲」――現在は全659記事――で、彼の来日後の作品集全十二冊総ての電子化注を完遂している(但し、理由は不明だが、旧第一書房版「小泉八雲全集」に収録されていない“ The Fountain of Youth ”(「若返りの泉」)は除く)。小泉八雲の来日後の以上の作品を活字で日本語で読めるのは、現在、私のこのカテゴリのみである)へのアクセスが有意に増えている。しかし、その大半は、Unicodeを使いこなすようになる前のものであったため、正字表現が甚だ不全である。されば、諸電子化注の合間に、少しずつ、古い物から、本気を出して、正字への変更を始めている。完全に視認で確認し、底本を確認して打ち換えるため、かなりの時間が必要であるが、ドラマの開始までには、その作業を終えたいと思っている。無論、ミス・タイプ(かなりあった)は無論のこと、読み直して、注に不満がある箇所も大幅に補正している(よくアクセスされる一部は、既に、多少は修正済みではある)。御希望を下されば、フライングして修正しようとも思っている(実際、二、三年前からそうしたメールを戴き、修正している)。

 視力の低下が進み、なかなか、物理的に時間が掛かるが、頑張りたい。無論、何より――私の愛する小泉八雲のために――である。

殆どの電子化は、底本が不全、或いは、私が日本人小泉八雲の電子化として相応しくないと判断したため、新たに、信頼出来る新底本に拠り、ゼロから検証した。

 なお、訳者によって、「!」「?」の後に一マス空ける仕儀を行っていない場合があったが(文が切れる場合は除く)、これは、やはり、躓くので、一字空けを恣意的に施した。その他、底本に再度、当たり、行空けが相応しいかどうかも、確認する。

 ★また、今回の作業では、若い読者や日本語が出来るものの、ネイティヴでない方(私が親しくしているネット上の友人には複数いる)を意識して、難読語や、意味で躓くと私が判断した(元は高校国語教師であったので、その辺りは敏感である。作品によっては、私の授業と同じく、朗読をして、そうした箇所を点検することとした)熟語や表現には、割注を入れた。私の年齢(現在六十八歳)以上の読者には五月蠅いと感じられることもあろうが、私の読者ターゲットは、明らかに私よりも若い読者を対象とするものだからである。新字新仮名でなくては読まない、読めない、という日本人が大半を占めたら、それこそ、小泉八雲先生は、淋しくなられるに違いないからである。

 以下の、「経過報告」は不定時に更新する。

 なお、私の正字化補正を甘く見られると、私の辛苦の努力が空しくなるので、言っておくと、例えば、「内」は「內」に、ちゃんと、変えているのである。正規表現を掲げるサイトでも、この「內」を用いていないところは、かなり多いと存ずる。

 但し、言っておくと、参考等として、リンクを張ったものは、事実上、いちいちは再検証していない。存在しても、アドレスが変更されている場合もあるが、既に存在しないものもあり、そこから引用したものを抹消して、またまた、その部分をソリッドに書き変えるのは、あまりにも時間が掛かり過ぎるからである。悪しからず。

   *

【経過報告2025年2月19日 8:30現在】
現在、「小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十章 美保の關にて (二) 附 折口信夫「鷄鳴と神樂と」(附注)」まで修正作業を終わった。
【経過報告2025年2月21日14:35現在】
以上の「知られぬ日本の面影」の「江ノ島巡禮」(全)を、再々度、検証したところ、不全箇所を発見し、補正した。「ゝ」と「〻」の混用に至るまで、総て、厳密に再現した。まず、「江ノ島巡禮」(全)については、まず、OKかと思われる。それ以降の再検証も、再々点検中である。
【経過報告2025年2月21日17:10現在】
「知られぬ日本の面影」の「私の極東に於ける第一日」(全)の再々校訂を終了した。
【経過報告2025年2月28日 8:15現在】
必要があって、『小泉八雲 落合貞三郎他訳「知られぬ日本の面影」の献辞及び「序」(附やぶちゃん注)』を全面改訂した。画像も追加した。
【経過報告2025年3月 4日12:40現在】 
「知られぬ日本の面影」の「第十九章 英語敎師の日記から」まで、補正を終了した。補正しながら、「(二十一)」を読み直し、またまた、落涙を禁じ得なかった。
【経過報告2025年3月 7日 8:45現在】
「知られぬ日本の面影」の 「第二十二章 舞妓について」(全六章分割)まで、補正を終了した。本文(プロローグを除く)を補正しながら再読して、またしても、滂沱してしまった。
【経過報告2025年3月11日 8:32現在】
「知られぬ日本の面影」の最終章「第二十七章 サヤウナラ」(全五章分割)の補正を終わり、取り敢えず、この「知られぬ日本の面影」の全補正を終わった。途中から、投稿原稿のブラウザを拡大して正字化修正をしたことから、その漏れは、かなり減衰したと思う。もし、私の注を含め、疑問に思われるものを発見された場合は、気軽に私にメールをお送り下さると、嬉しい。
【経過報告2025年3月11日10:18現在】
「知られぬ日本の面影」の「あとがき」(附やぶちゃん注)を、かなり、補正した。本篇に関わった三名の訳者によるもので、特に最後の大谷正信氏のものには、大谷氏に手書きで書いた、ハーンが日本に来るまでの経緯を語った、貴重な(他の小泉八雲の刊行物ではここでしか見られない)自筆年譜風の原文と、大谷氏による訳文が載る。未見の方は、是非、見られたい。
【経過報告2025年3月11日10:50現在】
小泉八雲の「神國日本」(戶川明三譯 附原文 附やぶちゃん注)の補正に入った。この電子化注は、小泉八雲の訳著作では、最も難渋した長編評論であり、されば、今までのように各章での経過報告は、しない。ある程度、ソリッドな複数章までで、補正状況を示すこととする。因みに、冒頭の「難解」は補正終了した。
【経過報告2025年3月15日 7:30現在】
思うところあって、「小泉八雲 ちん・ちん・こばかま (稻垣巖譯) / 底本「日本お伽噺」~了」と、序でだから、『柴田宵曲 妖異博物館 「小さな妖精」』を補正し、一部の注を書き変えた。但し、後に底本を変えて、再度、補正する。【2025年5月2日追記】底本を新たにして、全面改訂し、読みの一部を挿入した。
【経過報告2025年3月17日14:34現在】
小泉八雲の「神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(44) 大乘佛敎(Ⅲ) / 大乘佛敎~了」まで、補正を終了した。この最終章は、久々に正面から組み合ったが、やはり――聊か難物――であった。是非、読者諸君も挑戦されたい。
【経過報告2025年3月21日 9:35現在】
小泉八雲の「神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(100) あとがき(戶川明三) / 小泉八雲「神國日本」(戶川明三譯)附やぶちゃん注~完遂」まで、補正を終了した。私は、この電子化注テクストを作成するのに、実に、三年半かかった。今回の補正では、半ば頃から、補正スピードが急速になったが、これは、初回電子化の際、やっとUnicodeを使いこなせるようになっていたからであった(但し、「敎」等の不全や、私のミスタイプは複数あった)。どうか、リニューアルした、小泉八雲渾身の遺作であるこれを、是非、再読されんことを強くお薦めするものである。
【経過報告2025年3月21日11:28現在】
私の偏愛する小品「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月21日13:39現在】
「小泉八雲 草雲雀 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月21日14:58現在】
「小泉八雲 人形の墓 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。朗読してみて、思わず、涙が出た。
【経過報告2025年3月21日15:50現在】
「小泉八雲 門つけ (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月22日 7:02現在】
「生と死の斷片 小泉八雲(LAFCADIO HEARN)(田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月22日10:05現在】
「赤い婚禮 小泉八雲(LAFCADIO HEARN)(戶澤正保譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月22日10:40現在】
「小泉八雲 振袖 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月22日13:05現在】
「小泉八雲 因果話 (田部隆次譯)」(強力な注と原拠電子化を附してある)底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月22日17:12現在】
『小泉八雲 惡因緣 (田部隆次譯) 附・「夜窓鬼談」の「牡丹燈」』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月23日 7:30現在】
『小泉八雲 蟬 (大谷正信譯) 全四章~その「一」』底本を新たにして、全面改訂した。訳者註が、当該作の最後に纏めてあるのを、適切な箇所に移動しているため、午後五時から取り掛かったが、恐ろしく時間がかかった。専心しないと、厳しそう!
【経過報告2025年3月23日 9:00現在】
『小泉八雲 蟬 (大谷正信譯) 全四章~その「二」』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月23日10:54現在】
『小泉八雲 蟬 (大谷正信譯) 全四章~その「三」・「四」 / 蟬~全電子化注 完遂』底本を新たにして、辛うじて午前中に完遂した。
【経過報告2025年3月23日15:58現在】
「小泉八雲 夢魔觸 (岡田哲藏譯)」底本を新たにして、全面改訂した。私は、本作を、怪談としてではなく、ユングを先取りした、洞察に富んだ、深層心理学的・精神分析学的小佳品として、高く評価するものである。
【経過報告2025年3月24日10:15現在】
『小泉八雲 作品集「骨董」 (正字正仮名)全電子化注始動 / 幽靈瀧の傳說 (田部隆次譯)』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月24日11:08現在】
私が偏愛する「小泉八雲 茶碗の中 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。なお、私は既に『柴田宵曲 續妖異博物館 「茶碗の中」 附 小泉八雲「茶碗の中」原文+田部隆次譯』で、英文原文と原拠の電子化を行っているので、そちらも、是非、見られたい。
【経過報告2025年3月24日13:13現在】
「小泉八雲 常識 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。なお、私は既に 『柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その3) 附小泉八雲“ Common Sense ”原文+田部隆次譯』で、英文原文と原拠の電子化を行っているので、そちらも、是非、見られたい。
【経過報告2025年3月24日14:52現在】
「小泉八雲 生靈 (田部隆次譯) 附・原拠」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月24日15:44現在】
「小泉八雲 死靈 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月24日16:30現在】
『小泉八雲 おかめのはなし(田部隆次譯)/附・原拠「新撰百物語」卷二「嫉妬にまさる梵字の功力」(オリジナル翻刻・完全版)』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月24日17:08現在】
「小泉八雲 蠅のはなし  (大谷正信譯) 附・原拠」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月24日17:28現在】
「小泉八雲 雉子のはなし  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月25日 5:36現在】
『小泉八雲 忠五郞のはなし  (田部隆次譯) 附・原拠 / 「古い物語」~了』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月25日 7:50現在】
「小泉八雲 或女の日記 (田部隆次譯) 附・オリジナル注」底本を新たにして、全面改訂した。未読の方には、是非、読んで貰いたい作品である。
【経過報告2025年3月25日15:28現在】
「小泉八雲 平家蟹 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月26日 6:37現在】
「小泉八雲 螢  (大谷正信譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月26日 7:05現在】
「小泉八雲 露の一滴 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月26日10:40現在】
「小泉八雲 餓鬼 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月26日11:30現在】
「小泉八雲 尋常の事 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月26日14:10現在】
「小泉八雲 默想  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月26日14:10現在】
「小泉八雲 病理上の事  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月26日15:05現在】
「小泉八雲 眞夜中  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月26日16:23現在】
「小泉八雲 夢を食ふもの(田部隆次譯)~作品集「骨董」全篇電子化注完遂」底本を新たにして、全面改訂した。一部の作品は、殆んど修正が必要なかったため、ここに記さなかったものもあるが、「骨董」は全作品について底本を新たにし、全面改訂してある。
【経過報告2025年3月27日 5:35現在】
『小泉八雲「怪談」(戶川明三・大谷正信・田部隆次共譯)始動 / 原序』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月27日 8:24現在】
『小泉八雲「怪談」(戶川明三・大谷正信・田部隆次共譯)始動 / 原序』、及び、「小泉八雲 耳無芳一の話 (戶川明三譯)」底本を新たにして、全面改訂した。未明から始めたが、複数の関連リンク先の補正と、原拠の字起こしの検証をしたため、三時間もかかってしまった。【経過報告2025年3月28日 3:58現在】
「小泉八雲 をしどり (田部隆次譯) 附・原拠及び類話二種」底本を新たにして、全面改訂した。この話には、個人的に拘りがあるので、丑三つ時に目が覚めて、やりたくなった。
【経過報告2025年3月28日 6:01現在】
『小泉八雲 お貞のはなし (田部隆次譯) 附・原拠「夜窓鬼談」の「怨魂借體」のオリジナル訓読注』底本を新たにして、全面改訂し、原拠のテクストも再度、校正し、補正した。
【経過報告2025年3月28日 6:40現在】
「小泉八雲 姥櫻  (田部隆次譯) 附・原拠」底本を新たにして、全面改訂し、原拠のテクストも再度、校正し、補正した。
【経過報告2025年3月28日 7:41現在】
「小泉八雲 術數  (田部隆次譯) 附・原拠」底本を新たにして、全面改訂し、原拠のテクストをも追加した
【経過報告2025年3月28日 9:57現在】
『小泉八雲 鏡と鐘  (田部隆次譯) 附・原拠「夜窓鬼談」の「祈つて金を得」オリジナル電子化注』底本を新たにして、全面改訂した。【経過報告2025年3月28日10:56現在】
私が最も偏愛する「小泉八雲 食人鬼  (田部隆次譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。本篇は、既に何度か、修正していたのに、ミス・タイプが二箇所もあった。まさに『あ〻恥ぢ入ります、――甚だ恥ぢ入ります、――實に恥ぢ入ります』と独り、口に出していた…………
【経過報告2025年3月28日13:59現在】
「小泉八雲 貉 (戶川明三譯) 附・原拠「百物語」第三十三席(御山苔松・話)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月28日15:09現在】
「小泉八雲 ろくろ首  (田部隆次訳) 附・ちょいと負けない強力(!)注・原拠」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月28日15:45現在】
『小泉八雲 葬られたる祕密  (戶川明三譯) 附・原拠「新撰百物語」の「紫雲たな引密夫の玉章」』底本を新たにして、全面改訂した。因みに――残る正字化不全は、二百記事を切った――
【経過報告2025年3月29日 5:02現在】
「小泉八雲 雪女  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月29日 7:34現在】
『小泉八雲 靑柳のはなし  (田部隆次譯) 附・原拠「多滿寸太禮」の「柳情靈妖」』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月29日13:28現在】
「小泉八雲 十六日櫻  (田部隆次譯) 附・原拠」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月30日 6:36現在】
『小泉八雲 安藝之助の夢 (田部隆次譯) 附・原拠参考文・陳翰「槐宮記」(書き下し文)』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月30日 7:59現在】
「小泉八雲 力ばか (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月30日 8:42現在】
「小泉八雲 日廻り (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月30日 9:01現在】
「小泉八雲 蓬萊  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月31日 7:03現在】
昨日より、今朝にかけて、「小泉八雲 蟲の硏究 蝶 (大谷正信譯)」(三・四の三分割)を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月31日 8:04現在】
「小泉八雲 蟲の硏究 蚊  (大谷正信譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月31日10:04現在】
「小泉八雲 蟲の硏究 蟻 (大谷正信譯) / 蟲の硏究 蟻~了 / 作品集「怪談」~了」(二・三四・五・六・七の三分割)を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月31日15:39現在】
「小泉八雲 作品集「天の河緣起そのほか」始動 / 天の河緣起 (大谷正信譯) (その1)」底本を新たにして、全面改訂した。本篇は長いため四分割で電子化したものだが、当時の私の附した注に不満があったので、思いの外、時間が掛かった。
【経過報告2025年4月 1日10:01現在】
「小泉八雲 天の河緣起  (大谷正信譯) その4 / 「天の河緣起」~了」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 2日 6:53現在】
『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」  (大谷正信譯)』底本を新たにして、全面改訂した。今回、小泉八雲が使用した旧蔵原本の当該箇所を示して、ヴィジュアルに対照して読めるように補正した。されば、この作品、全十四章と後書きに分割してあるので、全部を終わるのには、少し時間が掛かりそうである。
【経過報告2025年4月 2日10:18現在】
『小泉八雲 化け物の歌 「五 ロクロクビ」  (大谷正信譯)』を同前で全面改訂した。一部の崩し字の判読を修正した。
【経過報告2025年4月 2日16:50現在】
『小泉八雲 化け物の歌 (後書き部)  (大谷正信譯) / 化け物の歌~了』を同前で全面改訂した。
【経過報告2025年4月 3日 6:04現在】
「小泉八雲 『究極の問題』  (大谷正信譯)」底本を新たにして、全面改訂した。好きな評論であるので(結構、佶屈聱牙)、午前三時前から始めて、三時間みっちり検証し、注もかなり手を加えた。
【経過報告2025年4月 3日 8:08現在】
『小泉八雲 鏡の少女  (大谷正信譯) 附・原拠「當日奇觀」卷之第五の「松村兵庫古井の妖鏡」(原本底本オリジナル版)』を同前で全面改訂した。注で示した別テクストも、総て、再補訂した。
【経過報告2025年4月 3日15:18現在】
『小泉八雲 伊藤則助の話  (大谷正信譯) 附・原拠「當日奇觀」の「伊藤帶刀中將、重衡の姬と冥婚」』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 4日 4:58現在】
小泉八雲の来日後の唯一の、若き日の異国での体験を綴った「小泉八雲 小說よりも奇  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 4日 8:04現在】
『小泉八雲 日本からの手紙  (大谷正信譯) / 作品集「天の河緣起そのほか」全オリジナル電子化注~完遂』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 4日12:44現在】
『昭和六(一九三一)年一月第一書房刊「學生版 小泉八雲全集」(全十二巻)第七卷の田部隆次氏の「あとがき」』底本を新たにしたことから標題を含め、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 4日14:07現在】
『昭和六(一九三一)年一月第一書房刊「學生版 小泉八雲全集」(全十二巻)第七卷の大谷正信氏の「あとがき」 / 同第七巻全電子化終了』底本を新たにしたことから標題を含め、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 4日16:52現在】
『小泉八雲 作品集「日本雜錄」始動 / 奇談 / 「約束」(田部隆次譯)』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 4日17:30現在】
「小泉八雲 破約  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 5日 5:38現在】
『小泉八雲 閻魔の庁にて  (田部隆次譯) (原拠を濫觴まで溯ってテッテ的に示した)』底本を新たにして、テツテ的に全面改訂した。
【経過報告2025年4月 5日 7:57現在】
「小泉八雲 果心居士  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 5日10:00現在】
『小泉八雲 梅津忠兵衞  (田部隆次譯) 附・原拠「通俗佛敎百科全書」上卷』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 5日11:09現在】
「小泉八雲 僧興義  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 5日14:40現在】
『小泉八雲 作品集「日本雜錄」 / 民間傳說拾遺 / 「蜻蛉」(大谷正信譯)の「一」』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 5日 7:44現在】
『小泉八雲 「蜻蛉」のその「二」・「三」  (大谷正信譯)』底本を新たにして、全面改訂した。無名の一句の作者を探り当てた。
【経過報告2025年4月 5日11:12現在】
『小泉八雲 「蜻蛉」のその「四」  (大谷正信譯)』を全面改訂した。複数の新知見を注で追加した。
【経過報告2025年4月 5日13:04現在】
『小泉八雲 「蜻蛉」のその「五」  (大谷正信譯) / 「蜻蛉」~了』を底本を新たにして、全面改訂した。注も、全体にブラッシュ・アップした。
【経過報告2025年4月 6日 8:17現在】
「小泉八雲 佛敎に縁のある動植物  (大谷正信譯) / その1」を全面改訂した。
【経過報告2025年4月 8日 9:57現在】
『小泉八雲 佛敎に緣のある動植物  (大谷正信譯) /その3 ~「佛敎に緣のある動植物」~了』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 8日11:18現在】
『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 序・一(「天氣と天象との歌」)』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 8日13:14現在】
『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 二(「動物に關した歌」)』を全面改訂した。
【経過報告2025年4月 8日16:01現在】
『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 三(「種々な遊戲歌」)』を全面改訂した。特に途中に入れてある私の注の一部を大幅にブラッシュ・アップした。
【経過報告2025年4月 9日 4:15現在】
『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 四(「物語の歌」)』を全面改訂した。
【経過報告2025年4月 9日 4:15現在】
『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 五(「羽子突歌と手毬歌」)』を全面改訂した。
【経過報告2025年4月11日 5:17現在】
『小泉八雲  (大谷正信譯) 六(「子守歌」)、及び、後書き部 / 日本の子供の歌~了』を全面改訂した。
【経過報告2025年4月11日 6:32現在】
「小泉八雲 橋の上  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月11日10:35現在】
「小泉八雲 お大の例  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。ひどいミス・タイプがあった。「お大さん」に心から謝罪しておく。
【経過報告2025年4月12日 4:12現在】
偏愛する小品「小泉八雲 海のほとりにて (大谷正信譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月12日 6:26現在】
勝れた漂流実話「小泉八雲 漂流  (大谷正信譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月12日 8:48現在】
「小泉八雲 乙吉の達磨  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月12日13:44現在】
『小泉八雲 日本の病院に於て  (田部隆次譯) / 作品集「日本雜記」全電子化注~了』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月12日16:16現在】
『小泉八雲作品集「影」 始動 / 献辞及び「珍しい書物からの話」の「和解」 附・原拠』底本を新たにして、全面改訂した。残る補正記事はブログ投稿記事数で七十數篇となった。
【経過報告2025年4月13日 5:07現在】
「小泉八雲 普賢菩薩の話  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月13日14:05現在】
「小泉八雲 衝立(ついたて)の乙女  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月13日14:56現在】
「小泉八雲 屍に乘る人  (田部隆次譯) / 原拠及びリンクで原々拠を提示」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月13日15:42現在】
「小泉八雲 辨天の同情  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月13日17:09現在】
『小泉八雲 鮫人(さめびと)の感謝  (田部隆次譯) 附・原拠 曲亭馬琴「鮫人(かうじん)」』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月14日 8:10現在】
『小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲藏譯) その「一」』底本を新たにして、全面改訂した。この作品、小泉八雲の作品では、かなり読み難い(意味を採り難い)作品であるので、かなり時間がかかりそうだ。今回、注を大幅に増やした。
【経過報告2025年4月14日14:17現在】
『小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲藏譯) その「二」』底本を新たにして、全面改訂した。表画像も、新底本から新たにトリミングして補正し、差し替えておいた。
【経過報告2025年4月14日15:30現在】
『小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲藏譯) その「三」と「四」 / 日本の女の名~了』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月15日11:30現在】
「小泉八雲 日本の古い歌  (大谷正信譯) ~ (その1)」底本を新たにして、全面改訂した。注を、より附加した。
【経過報告2025年4月15日13:38現在】
「小泉八雲 日本の古い歌  (大谷正信譯) ~(その2) / 日本の古い歌~了」底本を新たにして、全面改訂した。注を、より附加した。
【経過報告2025年4月15日14:30現在】
『小泉八雲 夜光蟲 (岡田哲藏譯) / これより作品集「影」の最終パート標題「幻想」に入る』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月15日15:33現在】
「小泉八雲 群集の神祕  (岡田哲藏譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月15日17:31現在】
「小泉八雲 ゴシック建築の恐怖  (岡田哲藏譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月16日 5:37現在】
「小泉八雲 夢飛行  (岡田哲藏譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月16日 7:58現在】
「小泉八雲 夢書の讀物  (岡田哲藏譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月16日 8:48現在】
『小泉八雲 一對の眼のうち  (岡田哲藏譯) / 作品集「影」全電子化注~了』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月16日 9:38現在】
『小泉八雲 作品集「靈の日本」始動 / 斷片 (田部隆次譯)』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月16日14:37現在】
「小泉八雲 香 (大谷正信譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。小泉八雲の日本での作品の中で、唯一、私が、当時、全く興味を持てなかった作品であったため、今回、校正したところ、ミス・タイプが異常に多かった。
【経過報告2025年4月16日15:55現在】
「小泉八雲 占の話 (田部隆次譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月17日 5:41現在】
「小泉八雲 蠶 (大谷正信譯)」を底本を新たにして――強力に――全面改訂した。残りの未修正記事は90を切った。
【経過報告2025年4月18日 7:18現在】
「小泉八雲 佛足石 (大谷正信譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。注をブラッシュ・アップした。かなり時間がかかった。
【経過報告2025年4月18日 7:18現在】
「小泉八雲 吠 (田部隆次譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月18日15:20現在】
「小泉八雲 小さな詩 (大谷正信譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。注をブラッシュ・アップした。
【経過報告2025年4月19日15:07現在】
「小泉八雲 佛敎に緣のある日本の諺 (大谷正信譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。訳に有意に省略があるのに呆れ果て、幾つかに就いては注でそれを指摘しておいた。
【経過報告2025年4月19日16:00現在】
「小泉八雲 暗示 (田部隆次譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月19日 4:55現在】
『小泉八雲 天狗の話 (田部隆次譯) / 作品集「靈の日本」電子化注~全完遂』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月20日 7:20現在】
「知られぬ日本の面影」の「あとがき」(附やぶちゃん注)に抜けていた(私が附すつもりですっかり忘れていた)訳者分担の表を、後刊(先行する底本にはない)の記載で追加した。
【経過報告2025年4月20日 8:51現在】
『昭和一一(一九三六)年十一月第一書房刊「家庭版小泉八雲全集」第七卷「あとがき」(大谷正信・岡田哲藏・田部隆次)』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月20日 9:33現在】
「小泉八雲作品集『異國情趣と囘顧』始動 / 献辞・序」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月20日12:35現在】
「小泉八雲 富士山 (落合貞三郞譯) / (その序)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月20日16:54現在】
『小泉八雲 富士山 (落合貞三郞譯) / その「三」・「四」・「五」・「六」(訳者は原作の七章構成を恣意的に六章構成に変えてしまっている) / 富士山~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月21日 7:26現在】
『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「一」・「二」』を底本を新たにして、全面改訂した。未明の午前三時から始めたが、原文との比較によって、小泉八雲・訳者大谷定信ともに誤っている箇所を、さらに見つけた結果、注改稿に、こんなに時間が掛かってしまった。画像も新しくした。
【経過報告2025年4月21日15:55現在】
『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「三」・「四」(カネタタキ)』を底本を新たにして、全面改訂した。案の定、これだけで、七時間近く掛かった。
【経過報告2025年4月23日 4:58現在】
『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「五」の「マツムシ」・「すずむし」』を底本を新たにして、全面改訂した。昨日は、午前中、自宅の斜面の葛の一大掃討作戦を独りで三時間行ったため、更新出来なかった。
【経過報告2025年4月23日 8:19現在】
『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「五」の「ハタオリムシ」・「うまおひ」・「キリギリス」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月23日10:14現在】
『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「五」の「クサヒバリ」・「キンヒバリ」・「クロヒバリ」』を底本を新たにして、全面改訂した。トンデモない誤った注を修正した。
【経過報告2025年4月23日14:00現在】
『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「五」の「コホロギ」・「クツワムシ」・「カンタン」 / 「五」~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月23日15:50現在】
『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「六」 / 「蟲の樂師」~了』を底本を新たにして、全面改訂した。最終段落の八雲の述懐に、再度、激しい衝撃を受け、暗澹たる思いに沈んでしまった。
【経過報告2025年4月24日 7:08現在】
「小泉八雲 禪の一問 (田部隆次譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月24日10:40現在】
先の、「小泉八雲 佛敎に緣のある日本の諺 (大谷正信譯)」の、『八二 死んだればこそ生きたれ』に重要な出典を追加した
【経過報告2025年4月24日13:29現在】
『小泉八雲 死者の文學 (大谷定信譯) / 「一」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月26日 9:40現在】
『小泉八雲 死者の文學 (大谷定信譯) / 「五」 / 「死者の文學」~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月26日14:32現在】
「小泉八雲 蛙 (大谷定信譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月27日 4:27現在】
「小泉八雲 月の願 (田部隆次譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。珍しく、ひらがなのタイプ・ミス(濁点等)三箇所と、同義熟語の熟語の漢字表記一字の誤記だけで、今までの中で、最速で補正が終わった。少しだけ、注を増補した。
【経過報告2025年4月28日 8:48現在】
『小泉八雲 初の諸印象 (岡田哲藏譯) / 作品集「異國情趣と囘顧」の「囘顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』を底本を新たにして、全面改訂した。注を大幅に増やした。未読の方は、訳文、佶屈聱牙なれば、御覚悟あれかし。
【経過報告2025年4月28日13:51現在】
「小泉八雲 美は記憶 (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月28日16:12現在】
「小泉八雲 美のうちの悲哀 (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。後半部で小泉八雲の引用した原文を、今回、発見したので、原文を掲げて、自動翻訳しておいた。
【経過報告2025年4月29日 6:30現在】
「小泉八雲 若さの香 (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月29日 7:45現在】
「小泉八雲 蒼の心理 (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月29日10:37現在】
「小泉八雲 晩歌 (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月29日16:40現在】
「小泉八雲 赤い夕日 (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月30日17:33現在】
「小泉八雲 身震ひ (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。一部の注を大幅に変更した。
【経過報告2025年5月 1日 8:05現在】
「小泉八雲 赤い夕日 (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 2日 6:46現在】
「小泉八雲 永遠の執着者 (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 2日 9:04現在】
『小泉八雲 化け蜘蛛 (稻垣巖譯) / 「日本お伽噺」所収の小泉八雲英訳作品 始動』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 2日10:48現在】
『小泉八雲 猫を畫いた子供 (稻垣巖譯)』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 2日13:38現在】
『小泉八雲 團子を失くしたお婆さん (稻垣巖譯)』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 2日16:07現在】
『第一書房昭和一二(一九三七)年三月刊「家庭版小泉八雲全集」(全十二卷)第六卷「あとがき」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 3日 4:20現在】
『小泉八雲 生神 (田部隆次譯) / 作品集「佛の畠の落穗」電子化注始動』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 3日14:00現在】
「小泉八雲 街頭より (落合貞三郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 3日15:10現在】
『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郞譯) / その「一」・「二」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 5日 2:25現在】
『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郞譯) / その「八」 / 京都紀行~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 5日 3:58現在】
「小泉八雲 塵 (落合貞三郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 5日 5:02現在】
『小泉八雲 日本美術に於ける顏について (落合貞三郞譯) / その「一」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 5日 9:28現在】
『小泉八雲 日本美術に於ける顏について (落合貞三郞譯) / その「五」・「六」 / 日本美術に於ける顏について~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 5日13:37現在】
『小泉八雲 大阪にて (落合貞三郞譯) / その「一」・「二」・「三」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 6日 5:54現在】
『小泉八雲 大阪にて (落合貞三郞譯) / その「六」・「七」 / 大阪にて~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 6日10:37現在】
「小泉八雲 日本の民謠に現れた佛敎引喩 (金子健二譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 6日16:38現在】
『小泉八雲 涅槃――總合佛敎の硏究 (田部隆次譯) / その「一」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 7日12:29現在】
『小泉八雲 涅槃――總合佛敎の硏究 (田部隆次譯) / その「五」 / 涅槃――總合佛敎の硏究~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 8日 7:27現在】
「小泉八雲 勝五郞の轉生 (金子健二譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。注を大幅に増補した。
【経過報告2025年5月 8日 8:49現在】
『小泉八雲 環中流轉相 (金子健二譯)  / 作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」~完遂』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 8日10:54現在】
『小泉八雲 作品集「心――日本內面生活の暗示と反響」始動 / (序)・停車場にて (田辺隆次譯)』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 9日 8:59現在】
小泉八雲 日本文化の神髓 (石川林四郞譯) / その「一」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 9日 9:58現在】
『本カテゴリ「小泉八雲」で電子化していない日本で書かれた一篇である小泉八雲の「若返りの泉」について視認可能とした事』を記事公開した。
【経過報告2025年5月 9日16:08現在】
小泉八雲 日本文化の神髓 (石川林四郞譯) / その「二」・「三」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月10日 6:20現在】
小泉八雲 日本文化の神髓 (石川林四郞譯) / その「四」・「五」 / 日本文化の神髓~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月10日 9:55現在】
「小泉八雲 旅行日記より (石川林四郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月10日14:49現在】
「小泉八雲 阿彌陀寺の比丘尼 (石川林四郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。……今、昨年末、旅した出雲で買った菓子の最後の一つを食べている。その名を「杣人(そまびと)好み 山の香」と言う……。
「小泉八雲 旅行日記より (石川林四郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月12日 7:30現在】
「小泉八雲 戰後雜感 (石川林四郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月12日 9:36現在】
「小泉八雲 お春 (石川林四郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月13日 5:47現在】
「小泉八雲 趨勢一瞥 (石川林四郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月13日 8:10現在】
「小泉八雲 業の力 (石川林四郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月14日 8:21現在】
『小泉八雲 保守主義者 (戶澤正保譯) / その「一」・「二」・「三」・「四」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月17日 5:34現在】
『小泉八雲 保守主義者 (戶澤正保譯) / その「五」・「六」・「七」・「八」/ 保守主義者~了』を底本を新たにして、全面改訂した。本改訂に時間がかかったのは、自宅の斜面に蔓延る驚異的な葛の富岳(私は勝手に「マチュピチュ」と呼んでいるが、まさに実際のそれそっくりに見えたからである。因みに、私は結婚式も新婚旅行もしていない(する必然性を感じなかったこと、というより、私自身が金を全く持っていなかった――銀行には三百八十五円しかなかった――からであり、何より、連れ合い(一つ年上で名古屋人の長女である)も「それでいい」と納得して呉れたからである。而して、直後に彼女が「夏休みに海外なら何処に行きたい?」(我々は高校国語教師であった)と聴かれたので、海外は江の島以外には行ったことがなかったので、「マチュピチュとナスカ」と答えたところ、その三ヶ月後、二週間に亙るペルー旅行に連れて行って呉れたのである)掃討作戦を間歇的にテッテ的に行ったことと、連れ合いと三十年前に行った堂ヶ島へ、再び、旅したためである。悪しからず。
【経過報告2025年5月18日 6:53現在】
「小泉八雲 薄暗がりの神佛 (戶澤正保譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。最後に今回追記した私の本作への感想について、読者の反応を是非お聞かせ下されば、幸いである。
【経過報告2025年5月18日16:11現在】
「小泉八雲 前世の觀念 (戶澤正保譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月19日12:14現在】
「小泉八雲 コレラ流行時に (戶澤正保譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月20日 7:29現在】
『小泉八雲 祖先崇拝に就いて (戶澤正保譯) / その「一」・「二」・「三」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月21日 8:03現在】
前掲の『小泉八雲 祖先崇拝に就いて (戶澤正保譯) / その「一」・「二」・「三」』であるが、どうもちゃんと再検証していない気が募って来たので(訳が、かなり私には日本語として読み難いことが気にかかっていたのに、それをしっかり読み下さずにいたことに、昨日の夕刻に気づいたため)、再度、全面改訂した。実は、昨日午前中、例の「葛のマチュピチュ」の最終攻撃として、山桜の上にゴッソり残った葛の残骸(私ら夫婦は「葛のデブリ」と呼称している)の半分を4・1メートル伐採機を駆使して陥落させるため、早急に上記を公開してしまったためである。
【経過報告2025年5月22日 6:52現在】
『小泉八雲 祖先崇拝に就いて (戶澤正保譯) / その「四」・「五」・「六」 / 祖先崇拜に就いて~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月23日 4:33現在】
『小泉八雲 きみ子 (戶澤正保譯)』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月24日21:52現在】
『小泉八雲 俗唄三つ (稻垣巖譯) / (序)と「『俊德丸』の唄」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月25日 9:47現在】
『小泉八雲 俗唄三つ (稻垣巖譯) / 「『小栗判官』の唄」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月25日10:25現在】
『小泉八雲 俗唄三つ (稻垣巖譯) / 「俗唄三つ」~了 / 作品集「心」~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月26日14:06現在】
『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集「東の國から」(正字正仮名版)始動/ 献辞・田部隆次譯「夏の日の夢」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月27日 5:04現在】
「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲) 九州學生 (田部隆次譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月27日12:28現在】
「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 博多にて (戶澤正保譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月28日 8:15現在】
「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 永遠の女性に就て (戶澤正保譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月29日 5:56現在】
「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 石佛 (戶澤正保譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年6月 2日 9:33現在】
『小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 柔術 (戶澤正保譯)/その「一」から「五」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年6月 2日 9:33現在】
『小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 柔術 (戶澤正保譯)/その「六」から「九」/「柔術」~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年6月 3日 6:42現在】
「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 叶へる願 (戶澤正保譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年6月 3日16:45現在】
「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 橫浜にて (戶澤正保譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年6月 4日 8:40現在】
『小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 勇子――追憶談 (戸澤正保譯) / 作品集「東の國から」全電子化注~了 / 来日後の作品集全電子化注完遂』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年6月 4日 9:06現在】
『第一書房昭和一二(一九三七)年二月刊「學生版小泉八雲全集」第五 田部隆次氏「あとがき」』を底本を新たにして、全面改訂した。

   *

 以上を以って、小泉八雲の来日後の作品集全十二冊総て(但し、理由は不明だが、旧第一書房版「小泉八雲全集」に収録されていない“ The Fountain of Youth ”(「若返りの泉」)は除く)の電子化注の全改訂を終わった。

   *

 以下、その後、来日前の「支那怪談」の訳文を総て(六篇)を電子化注してあるが、この校正は後にする。また、以上の“ The Fountain of Youth ”の拙訳電子化は、既に述べた通り、近いうちにやろうとは思っている。今まで、別に私が行っている全然関係ないテクスト電子化注を、この改訂のために、かなり疎かにしてきたので、今までのようには、シャカリキにはしない。悪しからず。ない、この記事も、標題を変え、今日の時制に書き変え、ブログ冒頭への配置を止める。

2025/06/03

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「富士山奇景」

[やぶちゃん注:底本はここから。段落・改行を成形し、読点を補った。]

 

 「富士山奇景」  富士郡不二山に有り。

 文政某の年六月、武州四谷𪉩町《よつやしほちやう》の住《ぢゆう》、刀屋彌六と云《いふ》者、不二に登山す。或夜、小屋を出《いで》て用便す。山中、悉く海の如く、其廣き事、限《かぎり》を知らず、見る內《うち》、所々に樓閣の形ち、顯《あらは》せり。奇として、內に入、又、出て、四方を見るに、雲、晴、月、明《あきらか》か也。云云。

 蜃氣等の登れるにや。

 富士郡吉原《よしわら》驛本陣、長谷川八郞兵衞貞秀云《いはく》、

「當郡印野村は山極《やまぎは》の根付也。此地に九十餘歲の老人、有り。此事を尋《たづね》しに、

『もや立《たち》、或《あるい》は、雨を催《もよほす》べき天氣には、霧、または、白雲《はくうん》の、海の如く見えぬるは、折節は、見及《みおよび》たりしが、樓閣の形など顯する事は、聞《きく》も及《およば》ず。すべて、不二山は、見る內、風景、種々に替るが故に、むかしより、畫人、多く眞寫を慾《ほつす》れども、終《つほ》に、かき得る者、なし。」

と云《いへ》り。

 樓閣の形を顯《あらは》するは、最《もつとも》稀世《きせい》の奇景也。云云。

 

[やぶちゃん注:「文政某の年六月」「六月」があるのは、文政元(一八一八)年(文化一五年四月二十二日(グレゴリオ暦一八一八年五月二十六日)改元)から、天保に改元する(陰暦十二月十日:グレゴリオ暦一八三一年一月))文政十三(一八三一)年まで。

「武州四谷𪉩町」江戸切絵図で確認した結果、グーグル・マップ・データの、この「新宿通り」の南北の道際に東西にあった。

「吉原驛本陣」ここ(グーグル・マップ・データ)。同宿駅の吉原宿下本陣(長谷川本陣)跡。

「長谷川八郞兵衞貞秀」「富士市立博物館」公式サイト内の「吉原宿の問屋役および年寄役の変遷について」によれば、文政五(一八二二)年の条に『八郎兵衛(長谷川)』とあり、そこに『これより天保』四(一八三三)年『まで勤続している記録がある』とあるのが、彼である。

「印野村」現在の静岡県御殿場市印野。「ひなたGIS」のここ。別に、グーグル・マップ・データ航空写真も添えておく。富士山の東南の裾野に当たる。]

2025/06/02

和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 畨蕉 / 卷第八十八 夷果類~了

 

Sotetu

 

[やぶちゃん注:右上に、「花初生」とキャプションした添書きがある。]

 

そてつ    華人呼曰鐵樹

        倭云蘇鐵

畨蕉

      【桄榔木亦名鐵樹同名異品也】

 

ハン ソヤ゚ウ

[やぶちゃん注:」は「番」の古い字体。東洋文庫訳では、総て「蕃」に書き変えてある。その方が確かに躓かずに読めるが、しかし、以下の「五雜組」の原本でも「」である以上、それで通す。「卷第八十四 灌木類 巵子」では、「蕃」の誤字として書き変えたのであるが、これには別に問題があるのである。それは現行では、台湾で「蕃蕉」と書いてバナナを意味するからである。

 

五雜組云相傳此樹從琉球來云種之能辟火患其葉似

鳳尾蕉而小其木麄巨葉宻比如魚刺將枯時以鐵屑糞

之或以䥫丁釘其根則復活蓋此樹水性金能生水也植

盆中不甚長一年纔落一下葉計長不能以寸亦不甚作

花余家畜二本三十年中僅見兩度花耳其花亦似芭蕉

而色黃不實

△按畨者外夷之稱其狀似鳳尾蕉故名畨蕉將枯者釘

 其根則活故倭曰蘇鐵【蘇者回生之義】原出於琉球而薩州多

 有之今𠙚𠙚植庭園及盆中貴重之大小皆可愛大者

 髙𠀋余徑尺余而皮有鱗甲如老松皮頂上生葉如桄

 榔椶櫚之軰其葉長二三尺深刻比比似魚刺兒樹生

 於根下大如拳亦鱗皮如本木然稍長至五六寸則生

 葉有一株七八子者性最畏寒濕冬月以藁包藏之四

 月將生新葉之前宜苅舊葉如中濕則朽急斫去朽𠙚

 宜栽之如輪切而無根亦能活一異也雖大木其根細

 如絲樹中心有白麫以作餠食亦如桄榔莎木麫之白

 麫可救饑

○琉球久米島之產葉細小宻比爲上大島爺山島之產

 葉粗大不宻爲次

○開花者希有之有花者不實有實者不花其花初無柎

 而木頂上脹起白色帶微青彷彿盛佛飯狀既長則花

 瓣厚硬至一二尺者似土筆菜綻者而不落花若生花

 宜急剪去否則新葉遲生

○結實者希有之其實生葉下有幕𮈔而連着之狀大小

 如栗有皺紋色如土朱𣾰而肉白中有仁乾則極堅

○冬月其根傍避尺許爲溝可漑鮮魚洗汁或糞汁古法

 培鐵屑釘鐵丁者如今不用

 泉州堺妙國寺有大木一株十七莖髙一𠀋五六尺同

 𠙚祥雲寺畨蕉亦次之他無比之者唯云薩州地如此

 者不乏近年土佐亦名木多


深山崖石上有加牟曾久草其莖葉畧似番蕉而株大似

 畨蕉椶櫚之軰僞以爲畨蕉嫩木然栽人家不活【出于石草】

 

   *

 

そてつ    華人、呼《よん》で曰ふ、「鐵樹《てつじゆ》」。

        倭、云ふ、「蘇鐵」。

畨蕉

      【桄榔木(たがやさん)、亦、「鐵樹」と名づく。

       同名異品なり。】

ハン ソヤ゚ウ

 

「五雜組」に云《いはく》、『相傳《あひつた》ふ、「此《この》樹、琉球より來《きた》る。」と。云《いは》く、之《これ》、種《うゑ》て、能《よく》、火患《くわかん》を辟《さ》く。」と。其の葉、「鳳尾蕉《ほうびせう》」≪と≫似て、小《ちさ》し。其《その》木、麄《あら》く、巨葉、宻(こまか)に比(なら)びて、魚(いを)の刺(えら)のごとく、將《まさ》に枯《かれ》んとする時、鐵屑《てつくづ》を以《もつ》て、之れに糞(こえ)し、或《あるい》は、䥫-丁(くぎ)を以て、其《その》根に釘(う)てば、則《すなはち》、復《また》、活《かつ》す。蓋し、此《この》樹、水性なり。金《きん》、能《よく》、水《すい》を生《せい》すればなり[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「五行相生」に基づく謂い。]。盆中に植《うゑ》、甚だ≪は≫長せず。一年、纔《わづか》に一≪枚の≫下葉《したば》を落《おとす》≪のみなり≫。計《はか》るに、長《ちやう》ずること、≪ただ≫≪一≫寸を以《もつて》すること≪のみにて≫、亦、甚《はなはだ》≪には≫花を作《なさ》ず。余[やぶちゃん注:著者である謝肇淛(しゃちょうせい)自身を指す。]が家に、二本を畜《つちか》ふ≪も≫、三十年中、僅《わづか》に兩度《りやうど》の花を見るのみ[やぶちゃん注:三十年の間、たった二度だけ、花をつけたに過ぎなかった。]。其《その》花、亦、芭蕉に似て、色、黃にして、實(《み》の)らず。』≪と≫。

△按ずるに、「畨」とは、外夷の稱《しやう》なり。其《その》狀《かたち》、「鳳尾蕉《ほうびせう》」に似たり。故《ゆゑ》、「畨蕉」と名《なづ》く。將に枯《かれ》んとする者、其《その》根に釘《くぎう》てば、則《すなはち》、活す。故、倭に、「蘇鐵」と曰ふ【「蘇」は、回生の義。】。原(もと)、琉球より出《いで》て、薩州に、多《おほく》、之《これ》、有り。今、𠙚𠙚《ところどころ》、庭園、及《および》、盆中に植ふ[やぶちゃん注:ママ。]。之《これ》を貴重≪と≫す。大小、皆、愛すべし。大なる者、髙さ、𠀋余。徑(わたり)、尺余≪に≫して、皮に、鱗甲、有《あり》て、老松≪の≫皮のごとく、頂上に葉を生じ、桄榔(たがやさん)・椶櫚(しゆろ)の軰《はい》≪の≫ごとし。其《その》葉、長《ながさ》、二、三尺。深き刻(きざみ)、比比《ひひ》として[やぶちゃん注:「並び連なっており」。]、魚刺(えら[やぶちゃん注:魚類の鰭の棘(とげ)ではなく、「鰓」の意。])に似たり。兒(こ)≪の≫樹、根の下《もと》に生ず。大いさ、拳(こぶし)のごとく、亦、鱗皮《うろこがは》、本木《ほんぼく》のごとく、然《しか》り[やぶちゃん注:「親の木の鱗のような木肌とそっくりである」の意。]。稍《やや》、長《ちやう》じて、五、六寸に至れば、則《すなはち》、葉を生《しやうず》。一株、七、八子の者、有り。性、最も寒・濕を畏《おそ》る。冬月、藁を以《もつて》、之れを包-藏《つつみかく》す。四月、將に新葉を生《しやうぜ》んとするの前、宜《よろ》しく、舊葉を苅るべし。如《も》し、濕に中《あた》れば、則《すなはち》、朽《くつ》る。≪其の時は≫急《きふ》に、朽《くち》たる𠙚を斫(はつ)り去《さる》。宜しく、之れを栽ふべし。輪切《わぎりのごとくにして》、根、無きも、亦、能《よく》活す。一異《いちい》なり[やぶちゃん注:一つの不思議である。]。大木と雖《いへども》、其の根、細く、絲《いと》のごとし。樹の中心に、白≪き≫麫《こな[やぶちゃん注:「粉」。]》、有り、以《もつて》、餠に作《つくり》て、食ふ。亦、桄榔・莎木麫《さもめん》の白≪き≫麫《こな》のごとく、饑《うへ》を救《すくふ》。

○琉球久米島の產、葉、細《ほそく》、小《ちさく》、宻比《みつひ》[やぶちゃん注:しっかりと密(みつ)に固まってあること。]≪にして≫、上と爲《なす》。大島[やぶちゃん注:奄美大島であろう。]・爺山(やゝま)島[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注では、『(八重山列島か)』とする。妥当であろう。]の產、葉、粗大にして宻ならず、次《つぎ》と爲《なす》。

○花を開く者、希《まれ》に、之れ、有り。≪然れども≫、花有る者、實(《み》の)らず、實の有る者は、花(《はな》さ)かず。其《その》花、初め、柎(がく)[やぶちゃん注:「萼」に同じい。]、無く、木の頂上、脹-起《ふくれおき》、白色にして、微青を帶《おぶ》。佛飯《ぶつぱん》を盛る狀《かたち》に彷-彿(さもに)たり。既に長ずれば、則《すなはち》、花瓣、厚く、硬く、一。二尺に至《いたり》ては、土--菜(つくし)の綻(ほころ)びたる者に似て、落花せず。若《も》し、花を生《しやうず》れば、宜《よろしく》、急ぎ剪-去《きりさる》べし。否-則(しからざる)時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、新葉、遲く生ず。

○實を結ぶ者、希《まれ》に、之れ、有り。其《その》實、葉下《はのした》に生じ、幕𮈔《まくいと》、有りて、連《つらな》り着くの狀《かたち》、大・小≪の≫栗《くり》のごとく、皺紋《しはのもん》、有り。色、「土朱𣾰(《どしゆ》ぬり)」のごとくにして、肉、白し。中に、仁《にん》、有り、乾《かは》く時は、則《すなはち》、極《きはめ》て堅し。

[やぶちゃん注:「土朱𣾰(《どしゆ》ぬり)」恐らく、「絵具屋三吉」公式サイト内の「[水干] 朱土」のページに、色合い画像を添えて、『「水」で精製し、「干」し上げてつくることから、水干絵具と呼んでいます。胡粉や黄土などに顔料で着色した、きめ細かい粒度の絵具です』とあるのが、それであろうと思われる。]

○冬月《とうげつ》、其《その》根の傍《かたはら》、尺許《ばかり》を避《さけ》て、溝を爲《つくり》、鮮魚の洗汁《あらひじる》、或《あるい》は、糞-汁《こやし[やぶちゃん注:そのまま読みたくないので、東洋文庫訳のルビを採用した。]》を漑《そそ》ぐべし。古法に「鐵屑《てつくづ》を培《つちかひ》、鐵丁《えつくぎ》を釘(う)つ」と≪あれども≫、如今《ぢよこん》は、用《もちひ》ず。

 泉州堺《さかひ》≪の≫妙國寺に、大木、有り。一株十七莖、髙さ一𠀋五、六尺。同𠙚《どうしよ》、祥雲寺の畨蕉も亦、之《これ》≪に≫次ぐ。他《ほか》≪には≫、之《これ》に比《ひし》たる者、無し。唯《ただ》、云《いふ》、薩州の地は、此《かく》のごとき者、乏(とぼ)し≪から≫ず≪と≫。近年は、土佐にも亦、名木、多し。


深山≪の≫崖石《がけいし》の上に、「加牟曾久(がんそく)」と云《いふ》[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]草、有り。其《その》莖・葉、畧《ほぼ》、番蕉に似て、株、大《おほき》く、畨蕉・椶櫚の軰に似《にる》。僞《いつはり》て、以《もつて》、「畨蕉の嫩木(わか《ぎ》)」と爲《なす》。然《しかれども》、人家に栽《うゑ》て≪も≫、活(つ)かず【「石草」に出《いだ》す。[やぶちゃん注:これは、十巻後の「卷九十八」の「石草類」の「崖椶」である。取り敢えず、国立国会図書館デジタルコレクションの当該項をリンクさせておく。因みに、東洋文庫訳では、本項訳文内割注で、『(カヤツリグサ科スゲ属タガネソウか)』と推定されてある(本巻と同じ竹島淳夫氏訳である)。これは単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属タガネソウ(鏨草) Carex siderosticta である(本邦のウィキをリンクさせておく)。確かに、「維基百科」の同種を見ると、「別名」の項に『崖棕』とはあった。この「棕」は「棕櫚」を表わす漢語である。ところが、その訳本文の最後で、竹島氏は割注で、『(良安がここに掲げた図は、オシダ科クサソテツのように見える)』としているのである(実は、リンク先のこの割注の前の本文の終りで、良安は、「蘇頌の図(「圖經本草」)は大いに異なり、本文と合わないので、図を改変した」と言っているのである)。しかもこの「クサソテツ」は、シダ植物門シダ綱コウヤワラビ科クサソテツ属クサソテツ(草蘇鉄) Matteuccia struthiopteris なのである! しかも、当該ウィキによれば、さらに、正直、厭だったけれど、ちょっと気になってしょうがないので、さらに少し調べてみると、小学館「日本国語大辞典」の『いと‐すげ【糸菅】』の項に、『カヤツリグサ科の多年草。各地の山中の半陰地に群生する。茎は高さ』十~二十『センチメートルほどの細い三角柱状。葉は柔らかく長さ』十~十五『センチメートルの糸状で、先が次第にとがり、下部はさやとなる。初夏、茎の頂に柄のある黄緑色の雄花穂を直立し、その下に一、二個の雌花穂を側生する。漢名は崖椶』(☜)とあるのを見出した。この「いとすげ」(糸菅)というのは、スゲ属イトスゲ Carex fernaldiana である(本邦のウィキをリンクさせておくが、そこには、正に『別名ガンソク』とあったのだ!!!)。まあ、「崖棕」から前者でいいとも言えるのだが、断定は出来ない。何より、「石草類」の「崖椶」に至るには、数年後になるが、そこで再度、考証してみる。……う~~、数年後の憂鬱が早くも見えてきたわい……。]】。

 

[やぶちゃん注:これは、

裸子植物門ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ Cycas revoluta

である。当該ウィキを引く(注記号は一部を除き、カットしたが、一部では勝手に同ウィキの画像をリンクした)。『ソテツ(蘇鉄、蘓鉄』『)は』『常緑樹の』一『種である。幹の頂端に大きな葉が多数密生する。外観はヤシ』(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科 Arecaceae)『や木生シダ』(現在のシダ植物は基本的に草本で、茎は地面を這うか、ごく短く立ち上がるが、「木生シダ」は、外見上、太い「幹」状のものがあり、ある程度の高さまで直立して育つものを指す。現生種はシダ植物門 Pteridophytaシダ綱 Pteridopsidaの内、ヘゴ目ヘゴ科ヘゴ属 Cyathea に属する種のみを指す)『に似ているが、系統的には全く遠縁であり、この類似性は他人の』空似『である。幹は、枯れ落ちた葉の基部が残って』鱗『状に覆われている。雌雄異株であり、雄株は細長い円柱状の小胞子嚢穂("雄花")を、雌株は大胞子葉が密生したドーム状の構造("雌花")を、それぞれ茎頂に形成する(図1)。大胞子葉について成熟した種子("")は赤朱色になる。根には窒素固定能をもつシアノバクテリア(藍藻)』(細菌 Bacteriaシアノバクテリア門 Cyanobacteria)『が共生しており、貧栄養地でも生育できる。九州南部から南西諸島、台湾、中国南部に分布する。ソテツを含めてソテツ類は、中生代』(約二億五一九〇万年前から約六六〇〇万年前)『から形態的にあまり変わっていないため、「生きている化石」ともよばれる』。『ソテツは、ソテツ類の中では、耐寒性があるため』、『鑑賞用に最も広く用いられており、世界中で植栽されている。その種子や幹には多量のデンプンが含まれるため、これを抽出して粥や味噌(蘇鉄味噌)など食用とすることがある。ただし、ソテツは』致死性の神経症状を齎すことがある『サイカシン』(Cycasin)『や』興奮毒性が疑わられ細胞損傷を惹起する『BMAA』(β-メチルアミノ-L-アラニン(β-Methylamino-L-alanine)『などの毒を含むため、食用とする際には』、『これを除く処理が必要となる』。『幹が柱状の常緑樹であり、高さ』一・五~八『メートル』、『幹の直径』二十~九十五『センチメートル』、『ふつう分枝しないが(図2a)、ときに多少分岐する(図2b, c)。ときに幹や根元から不定芽が生じる(図2d)。成長は遅いが』、五十『年で』四・五メートル『ほどになる。幹は、枯死した葉柄の基部が残って灰黒色のうろこ状に覆われている』(図e)。『他のソテツ類と同様、地表に特殊化した根(サンゴ状根)を形成し(図2f)、その中に窒素固定(窒素分子を植物が利用可能なアンモニアに変換する)を行うシアノバクテリア(藍藻)』(細菌 Bacteria シアノバクテリア門 Cyanobacteria )『が共生している』。四十~百『枚以上の葉が、茎頂にらせん状に密生している。葉は長さ』七十センチメートルから二メートルで、『幅』は二十~三十センチメートル、一『回』する『羽状複葉であり、葉軸に線形の小葉が多数(』六十~百五十『対)互生し、断面ではV字状につく』(図3a3b3c)。『葉柄は長さ』十~二十センチメートル、『両側に』六~十八『本のトゲがある(図5a)。葉柄と裏面には褐色の綿毛が密生する(3b)。複葉を構成する個々の小葉は長さ』八~二十センチメートル、『幅』四~八『ミリメートル』、『先端は尖り(触れると痛い)、全縁で縁は裏側(背軸側)に多少反り、表面は深緑色で光沢があり、裏面は淡緑色で軟毛がある』。『小葉の葉脈は中軸に』一『本のみあり、表面で窪み、裏面で隆起する。本州では、』六『月ごろと』九~十『月』頃の二『回』、『新葉が生じる』。『雌雄異株であり』、花期は五~八『月。ソテツでは』『雄花』・『雌花』『ともに、発熱することが報告されている(下記参照)』『雄花』『(小胞子嚢穂、雄性胞子嚢穂、雄錐、花粉錐)は茎頂に直立し、淡黄緑色、円柱状紡錘形、長さ』三十~七十センチメートル、『直径』八~十五センチメートル、『軸に』螺旋『状に配列した多数の鱗片(小胞子葉、雄性胞子葉、』、『雄しべ』)からなる(図4a, b)。小胞子葉は』三・五~六『×』一・七~二・五センチメートル、『三角形状』の楔『形で先端側が広がり、裏面(背軸面)に』三~四『個ずつ集まった花粉嚢が多数密生する(図4c)。花粉は楕円形、幅広い発芽溝がある。花粉放出後に』『雄花』『は枯れ、そのわきに新芽が生じて成長を再開する(仮軸成長)』。『雌花』『(種子錐)は、茎頂に密生した多数の大胞子葉(雌性胞子葉)からなる(図5a)。大胞子葉は黄色から淡褐色、褐色毛が密生してビロード状』で、『長さ』十四~二十二センチメートル、『先は羽裂し、柄に』二~八『個の直生胚珠が互生する(図5b, c)。風媒または虫媒(下記参照)。胚珠の珠孔から分泌された受粉滴に花粉が付着し、受粉滴とともに胚珠に取り込まれ、花粉管を伸ばして数』ヶ『月後に』螺旋『状に配列した』、『多数の鞭毛をもつ精子を放出する。この精子は』、明治二九(一八九六)『年、当時』の『東京農科大学(現』在の『東京大学農学部)の助教授であった池野成一郎』(せいいちろう)『によって、裸子植物ではイチョウに続く』二『例目として報告された(下記参照)。胚珠内には』、普通は二『個、ときに』三~五『個の造卵器が形成され』、十~十一『月に受精が起こる。受粉が終わると』、『大胞子葉』同士『が密着し、胚珠は外部から保護される。種子はやや扁平な卵形、およそ』四✕三センチメートル、『種皮外層は赤朱色で多肉質、中層は硬く石質、内層は薄く膜質(図5d』(これは種子であって、果実ではない)『)。結実後は』、『雌花』『の中心から成長を再開し(単軸成長)、普通葉または再び大胞子葉をつける。染色体数は 2n = 22』。『ソテツは、有毒な配糖体であるサイカシン(cycasin)やネオサイカシン(neocycasin)、マクロザミン(macrozamin)、および神経毒となる非リボソームペプチドであるβ-Nメチルアミノ-L-アラニン(β-methylamino-L-alanine, BMAA)を全体に含む。そのため、ソテツを食用とする場合は、これらの物質を除去する必要がある(下記参照)』。『サイカシンは、メチルアゾキシメタノール(methylazoxymethanol; MAM)とグルコースから合成される。摂取されるとMAMが遊離し、これがホルムアルデヒドとジアゾメタンへと分解され、急性中毒症状を起こし、また発癌性を示す。BMAAは興奮毒性を示し、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の原因になると考えられている』。『これらの物質の合成には、共生シアノバクテリアが関与していると考えられている』が、『ソテツは無菌状態でも BMAA を合成可能であることが報告されている』(以下の太字・下線は私が附した)。『ソテツは、ソテツ目』Cycadales『の中で日本に自生する唯一の種である。九州南部から南西諸島、台湾、中国南部(福建省)に分布する』(図7a,7b:前者は沖縄本島国頭村、後者は沖縄本島国頭村辺戸岬)『。中国南部では、かつては多く生育していたが』一九六〇『年代以降の生育環境の破壊や商業的採取によって大幅に減少し、現在では自生のものの有無は確かではないとされる。宮崎県串間市都井岬(図7c)が自生地北限とされるが、長崎県五島列島福江島のものも自生とする説がある。鹿児島県や宮崎県のソテツ自生地は、国の天然記念物に指定されている(下記参照)』。『主に海岸の風衝地や崖、原野などに生育し、特に石灰岩地に多い。根に窒素固定能をもつシアノバクテリアが共生しており、貧栄養の土地でも生育できる』。『ソテツは、風または昆虫によって花粉媒介される。ただし、風による花粉の散布能は低く、雄株から半径 』二メートル『以上では浮遊花粉は著しく減少し、また』雌花『を網かけして』、『昆虫を排除すると』、『雄の近傍にある個体以外では結実率が著しく低下する。送粉者である可能性がある昆虫として、与那国島では』ケシキスイムシ(「罌粟木吸」か)科Nitidulidae『の甲虫が報告されているが、ソテツ類のもう』一『つの科であるザミア科』Zamiaceae『で報告されているような送粉者の高い特異性は見られない。ソテツは』『雄花』、『雌花』『とも』、『強い臭気(揮発性物質であるエストラゴール』(Estragole)『などによる)を発し、これによって甲虫が誘引されると考えられている。また、ソテツは甲虫に対する報酬として食物(受粉滴、大胞子葉など)や繁殖場所を提供していると考えられている。ソテツの』『雄花』、『雌花』『は発熱し、それぞれ最大で外気温よりも』摂氏十一・五度、及び、八・三度『高くなることが知られており、これが臭気を強化していると考えられている。ザミア科では、強すぎる臭気や熱によって、花粉をつけた昆虫を高温の』『雄花』、『から追い出してより低温の』『雌花』『へ行くように仕向けるために』『雄花』『が』、『より』、『高温に発熱すると考えられている』。『ハシブトガラスやネズミによる種子散布が報告されている』。『熱帯アジア原産の蝶の』一『種であるクロマダラソテツシジミ(』黒斑蘇鉄小灰蝶:鱗翅目アゲハチョウ上科シジミチョウ科ヒメシジミ亜科ヒメシジミ族 Luthrodes属クロマダラソテツシジミ Luthrodes pandava 図8a)はソテツを含むソテツ類を食樹とするが、近年、南西諸島に定着し、ソテツを食害して問題となっており、また越冬はできないが』、『毎年』、『関東地方まで侵入している。また、東南アジア原産のカイガラムシ』(半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科 Coccoidea)『であるソテツシロカイガラムシ( Aulacaspis yasumatsui ; cycad aulacaspis scale, CAS図8b, c)は台湾においてソテツに大きな被害を与え、さらに』二〇二二『年には奄美大島で』、二〇二三『年には沖縄本島で生育が確認されている。また』、『このカイガラムシは、フロリダに植栽されているソテツにも被害を与えている』。『国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストでは』、二〇〇三『年版で近危急種に評価され、その後』、二〇〇九『年版で低危険種に変更された。日本では、ソテツは絶滅危惧等に指定されていないが、分布北限とされる宮崎県では保護上重要な種に指定されている』。『ソテツを含むソテツ類の全種は』、一九七七『にワシントン条約附属書II類に指定された(チャボソテツ Cycas beddomei のみは輸出入により制限がある附属書I類)。ただし、日本では承認を受ければ』、『ソテツを輸出することが可能である』。『日本では、国や自治体によって天然記念物等に指定されている自生ソテツや植栽されたソテツが多く、国指定の天然記念物としては、』二〇二三『年現在』、『以下のものがある(ソテツを含む植物群落全体の指定を除く)』(以下、リストは「保全状況評価」を参照されたい)。『南国情緒のある樹形や丈夫さ、高い環境適応能のため、ソテツ類の中では最も広く栽培されている。乾燥、潮風、大気汚染には強いが、寒さにはやや弱い。水はけが良い土質、日当たりと風通しが良い場所を好み、施肥や水やりをほとんど必要としない。日照不足や水のやりすぎは、根腐れを起こすことがある。小葉の先端が鋭く尖っているため、また人を含む動物に対して有毒であるため、植栽場所を考慮する必要がある。また、鉢植えや盆栽に利用されることもある』。『実生または幹から生じた不定芽を用いて殖やす。種子は播種後に発芽するまで乾かないように管理するが、発芽には少なくとも』二~三『ヶ月かかる。不定芽は、こぶし大になったものを幹から切り離して挿し木にして植える。植え付けは』五『月以降に行い、植え付けた際に水を充分に与える。定期的に剪定して古い葉は取り除く。病虫害は少ないが、上記のように、クロマダラソテツシジミやソテツシロカイガラムシが害を与えることがある』。『自生地である九州南部・南西諸島では、ソテツが多く植えられている』(写真有り)。『下記のように食用として利用され、また防風、防潮、侵食防止、畑の境界木、緑肥、燃料などの用途にも利用され、高度成長期以前には現在よりも多かった。自生地以外でも、世界中の暖温帯から亜熱帯域で主に観賞用に広く植栽されている』。『日本でも、関東以西では野外に植栽可能であり、各地の寺社、庭園、公園、学校、官公庁などに植えられている』。『やや寒冷な地では、冬になると』『防寒用に薦(こも)を巻いたり、新芽を残して葉を落とし、ワラで全体を覆うこともある』。『奄美大島などからは、観賞用や緑化用のソテツの種子が輸出されている』。『主にコスタリカやホンジュラスへ輸出されて苗木に仕立てられ、鉢植えや街路樹としてヨーロッパなどへ、砂漠緑化用にアフリカやオーストラリアへ再度輸出される』。『日本では、安土桃山時代以降に自生地以外でも庭園樹に使われてきたといわれ、島根県日御碕の福性寺境内にある大ソテツなど、天然記念物に指定されてきたものも少なくない』。『静岡県静岡市清水区の龍華寺』、『静岡県吉田町の能満寺』、『大阪府堺市の妙国寺のソテツ』『は、日本の三大ソテツとよばれる。妙国寺のソテツは織田信長によって安土城に移植されたが、妙國寺に帰りたいと夜泣きしたため、寺に戻されたという伝説がある』。『また』、「太閤記」『は、妙国寺のソテツは一度枯れかかったが、法華経を読んだことによって蘇ったという話を記している』(写真有り)。

 以下、「食用」の項。『ソテツは幹や種子にデンプンを多く貯めるため、南西諸島では古くから食用に利用されていた。しかし上記のようにソテツは全体にサイカシンやBMAAなどの毒を含むため、食用とする際には毒抜きが必要となる。毒抜きは非常に手間がかかり、表層を剥いだ幹や種子の胚乳を砕き、これを何度も何度も水にさらして有毒成分を分離する。また、茎を砕いてカビつけをし、むしろで覆って発酵させたのちに前記のようにデンプンを抽出することもあった。毒抜きが不完全であると、嘔吐や下痢などの中毒症状を示し、ときに意識不明、場合によっては死に至る。近年でも』、一九九九『年に愛媛県の中学校でソテツ種子を食して生徒が中毒になる事故が起きた』。『ソテツから抽出されたデンプンは、粥にしたり、団子、菓子、餅などに利用された。また、味噌(蘇鉄味噌; 下記)や醤油、焼酎の原料ともされた』。二十一『世紀現在では珍しい食材となっているが、第二次大戦後の高度成長期までは南西諸島において比較的一般的に利用されていた』。『幹よりも種子からの方が、デンプン抽出が容易であるため、幹を食用とする際には、種子をつくる雌株を避け、雄株が用いられていた』『また』、『花期』『には』、『雄花』『を持って』、『雌花』『につけて人工授粉を行って種子の増収を図ることもある(人工授粉の有無で収量は約)五『倍違うといわれる)。幹の食用利用は現在ではほとんど行われていないが、種子のデンプンは利用されることがある。奄美地方ではソテツの種子は「ナリ」とよばれるため、ソテツの種子を用いた粥は「ナリガユ」や「ナリガイ」、味噌は「ナリ味噌」とよばれる。またソテツの幹の芯の部分を用いた粥は「シンガイ」とよばれる』。『ソテツは味噌(蘇鉄味噌、ナリ味噌)の原料として利用されてきたが』、二〇二〇『年現在でも商業的な生産が行われている』。普通、『種子を二つ割りにして日乾し、種皮を除いて水洗したものを砕き、塩、麹とともに大豆、甘薯、米麦等を加えて発酵、熟成する。この過程でサイカシンなどソテツの毒は分解されるため、原料のソテツ種子の処理には上記のような毒抜きは行わないことがある。ソテツ味噌は』一『ヶ月ほどで食べ頃となり、味噌汁やお茶請けとされる』。『南西諸島では、古くから救荒食としてソテツが植栽されてきた』一七三四(享保一九)『年』(なお、琉球王国は中国の元号を使っていたので、正しくは清の雍正十二年である)『には、救荒植物としてソテツの植樹を奨励する琉球王府による布告があり、またその調理法も伝えられた。また』、十二『世紀の薩摩藩による奄美侵攻以来、奄美群島は薩摩藩の直接支配を受け、やがてサトウキビの栽培を強制されたため』、『しばしば日常的な食糧にも事欠くようになり、ソテツに対する依存度が高かった。そのため奄美群島ではソテツと深く関わった文化が見られ、「ソテツ文化」ともよばれる。そのようなソテツとの関わりは現代でも続いており、沖縄ではソテツが少なくなっているが』、二〇一二『年現在でも奄美大島ではソテツ畑の手入れに補助金が出ており、ソテツの利用や管理が続けられている』。『南西諸島では、飢饉の際にソテツを救荒食としていたが、正しい加工処理をせずに食べたことで食中毒により死亡する者もいた。特に、大正末期から昭和初期にかけて、農業や経済的状況、戦争関連恐慌、干魃や不作などにより』、『一部地方では重度の貧困と食糧不足に見舞われ、ソテツ食中毒で死者を出すほどの悲惨な状況にまで陥り、これを指して「ソテツ地獄」と呼ばれるようになった』。『ただし、「ソテツ地獄」は沖縄救済を訴えるジャーナリズムによる誇張を含む表現であり、上記のようにソテツは比較的身近な食材であったともされる』(この最後の部分は私は微妙に留保したい。因みに、ウィキの「ソテツ地獄」も、必ず、読まれたい)。『奄美大島では、珍しい食材として地域おこしに活用するため、』二〇一九『年現在』、『ソテツのデンプンを用いたうどん、天ぷら、餅、煎餅が製造されている』。『ソテツの種子は蘇鉄子(そてつし)や蘇鉄実(そてつじつ)とよばれる生薬となり、鎮咳、通経、健胃に用いられることがあったが、有毒であり、現在では利用されない。大正期には種子が薬用になるとして本土の大都市で販売されたが、誤った製法を用いたため中毒事故を起こす事もあった。また自生地では、民間薬として種子をつぶして外用薬としたり、除毒したものを内服薬とすることがあったが、その根拠となる成分は明らかではない』。『ソテツの葉は窒素など栄養分に富むため、水稲などの肥料として用いられていた。ただし、ソテツの使用量が多すぎると』、『根腐れやいもち病の原因になるとされ、耕耘も不便になることから』、『使用が避けられることもあった』。『乾燥させた種皮は、肥料としたり、魚を燻製する燃料とされたり、燃やした煙を蚊除けにしたりした』。『与論島、沖永良部島、喜界島など山林がない島では、ソテツの枯葉は重要な燃料であった』。『大島紬の泥染では、染まりが悪いと』、『ソテツの葉を入れて化学的作用を強くする場合がある。また、大島紬の代表的な柄である「龍郷柄(たつごうがら)」は、ソテツ(またはアダン』(単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科タコノキ属アダン Pandanus odorifer )『)をモチーフとしている』。『虫かごやまり、笛など子供の遊具の材料とされたこともあった』。『ソテツの葉は生花や装飾用としても利用されており、ヨーロッパではソテツの乾燥葉を漂白したものに染色して降誕祭や復活祭の飾りや花輪に利用している。奄美地方では』、明治二八(一八九五)年『から戦後にかけてヨーロッパにソテツの葉を輸出していた』。二〇〇〇『年現在では』、『千葉県の南房総地方でソテツが多く栽培され(おそらく大正時代に南西諸島から購入)ソテツの葉の出荷組合が存在し、主に東北地方以北に向け出荷されている』。『ソテツは南西諸島における民謡や、短歌、俳句に取り上げられ、また、島尾敏雄の』「ソテツ島の慈父」、『新崎恭太郎の』「蘇鉄の村」、『笹沢左保の』「赦免花は散った」、『南條範夫の』「鹿児島の蘇鉄」『など』、『ソテツを扱った小説もある。「蘇鉄」は、夏の季語である』。

 以下、「精子の発見」の項。『陸上植物における雄性配偶子は、コケ植物やシダ植物では鞭毛をもつ精子であるが、ほとんどの種子植物は鞭毛をもたない精細胞である。しかし、種子植物の中で、ソテツ類とイチョウのみは鞭毛をもつ精子を形成する』。明治三九(一八九六)年九月九日、『帝国大学農科大学(現 東京大学農学部)の助手であった平瀬作五郎によって、イチョウの精子が発見されたが、同大学の助教授であった池野成一郎はその重要性を直ちに理解し、これを発信したといわれる。また、池野自身はそれ以前からソテツに注目して鹿児島へ赴き研究を行っていたが、同』『年に、固定して東京へ持ち帰った試料から、ソテツの精子を発見した。イチョウおよびソテツにおける精子の発見は世界的に大きな反響を呼び』、明治四五・大正元年(一九一二)『年に』、『この功績に対して平瀬、池野両名に第』二『回学士院恩賜賞が授与された。当初、学士院は池野のみを候補者としていたが、池野が「平瀬がもらえないのであれば自分ももらうわけにはいかない」としたため、両名受賞となったと伝えられている』。『池野成一郎によるソテツ精子発見の際に用いられたソテツの株は、鹿児島県立博物館前に現存しており(鹿児島県指定天然記念物』『)、これから分譲された株が』、『小石川植物園の正門近くに植栽されている』。また、『平瀬作五郎がイチョウ精子発見に用いた木も、小石川植物園内に現存する』。

 以下、「名称」の項。『ソテツの樹勢が衰えたときには、鉄釘を打ち込んだり、根元に鉄くずを施すと蘇生するとの伝承があり、これが「ソテツ(蘇鉄)」の名の由来とされることが多い。ただし、下記の南西諸島での名称から派生した可能性も示唆されている。「蘇鉄」や「ソテツ」の表記は、古いものでは』「沖永良部島代官系圖」(一六八二年:清の康熙二一年/本邦の天和二年)、「大和本草」(宝永六(一七〇九)年)、「首里王府評定所條文」(一七三二年:清 の雍正一〇年/享保一七年)『などに見られる。鉄によってソテツの樹勢が回復するという記述は中国の書にも見られるが、中国でのこの植物の名は』「鐵樹」・「鐵蕉」・『「鳳尾蕉」などであり、古い文献に』「蘇鐵」『は見られないという。中国名の』「鐵樹」・「鐵蕉」『は、材が固いことに由来するとする説や、成長が極めて遅いことに由来するとする説がある。後者と関連して、念願が叶うことを「千年の鉄樹が開花する」と例えることがある』。『南西諸島においてソテツは極めて身近な植物であり』、『地域によってさまざまな呼称がある。同一市町村であっても、集落によって異なることが多い。「ヒトゥチ」には、「ヒトゥ(デンプン)の木」の意味があるとされる』(以下、各南西諸島での呼称が、多数、列記されるが、カットする)。『外観がヤシ(palm)に似ており、またデンプン(木から得られる食用デンプンはマレー語でサゴ(sago)とよばれる)が得られるため、英名では “sago palm”、“king sago palm”、“Japanese sago palm” などとよばれる。商業的に利用されているサゴの原料はほとんどサゴヤシ(ヤシ科)であり、サゴヤシも “sago palm” とよばれるが、特に “true sago palm” としてソテツとは区別することもある』。『学名である Cycas revoluta のうち属名の Cycas は、ギリシア語でドームヤシ』(ヤシ科Hyphaene Hyphaene coriacea )『を意味する koikas から変化した kykas に由来する。種小名の revoluta は、葉の小葉の縁が裏側に巻き込むことに由来する』。『台湾の個体群は、タイワンソテツ( Cycas taitungensis )としてソテツとは別種とされることがある(図14)。形態的には、小葉がより大きく、小葉間隔が広いこと、大胞子葉がより短く、種子がより大型である点で異なるとされる。しかし、分子形質、形態形質を用いた詳細な解析からは、同種とすべきことが提唱されている』『ソテツ属はいくつかの属内分類群に分けられるが、ソテツは』、一『種のみ(上記のタイワンソテツを分ける場合は』二『種)で Asiorientales 節(Cycas section Asiorientales J. Schuster (1932))に分類される』。『Asiorientales 節は、Panzhihuaenses 節(中国中南部に分布する Cycas panzhihuaensis のみを含む)とともに、ソテツ属内で最初に他と別れた系統であることが分子系統学的研究から示されている』とある。

「桄榔木(たがやさん)」この良安の読みはアウトである。「桄榔木」は、

〇単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科クロツグ(中文名:桄榔・桄榔子)属サトウヤシ Arenga pinnata (シノニム:Arenga saccharifera

で、和名に「たがやさん」としてあるが、

双子葉植物綱マメ目マメ科ジャケツイバラ(蛇結茨)亜科センナ属タガヤサン Senna siamea

ではないからである。

「鐵樹」は、先行する「卷第八十八 夷果類 桄榔子」で私が考証したように、『「桄榔は、卽ち、鐵樹《てつじゆ》なり」良安が、サトウヤシを知っていたとは、到底、思われない。異名に「木」=「鐵木」があるから、良安は本邦で「鐵」の字がつく「樹」である「鉄楓」を、それと同種であると勘違いしたのではないか?』として示した、

バラ亜綱ムクロジ目ムクロジ科カエデ属テツカエデ  Acer nipponicum

であると思われる。

『「五雜組」に云《いはく》、……』同書は複数回既出既注。初回の「柏」の注を見られたい。以下は「卷十」の「物部二」の一節である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書ここの左丁の七行目から、ここの右丁部分に当たる記述をパッチワークしたものである。以下に訓点を参考に、私が訓読したものを電子化して示す。一部で正字化し、記号を加えた。

   

「南州異物志」に載す「蕉」に、『三種、有り、最も甘好(かんこう)なる者、「羊角蕉」と爲す。其一は雞卵のごとく、其一は藕(はす)の子(み)のごとし。」と。此れ、皆、芭蕉のみ。今、閩(びん)、「廣蕉」、尙ほ、數種、有り。「美人蕉」、有り。樹・葉、皆、芭蕉に似て、稍(やや)なり。花を開くこと、殷紅、鮮麗、千葉にして、槌(つち)のごとく。數月を經て、凋謝(てうしや)せず[やぶちゃん注:花がしぼんで落ちることがない。]。摘(つみ)て瓶の中に置き、水を以つて、之れを漬(つ)ければ、亦、一兩月を經(ふ)べきなり。此の蕉、最も佳なり。書齋の中に、多く、之れを植う。「鳳尾蕉」、有り。其の木、麄(あら)く、巨(きよ)にして、葉の長さ、四、五尺、密(こま)かに比(なら)びて、魚の刺(えら)のごとく然(しか)り。髙き者、亦、丈餘。又、「番蕉」、有り。「鳳尾」に似て、小さく、相ひ傳ふ、「流求[やぶちゃん注:「琉球」に同じ。]より來たれる者なり。」と。云はく、「之れを種(う)うれば、能く火患(くわかん)を辟(さ)く。」と。

 「美人蕉」は、華(はなさ)きて、實(みの)らず。吳・越の中(うち)、此の種、無し。顧道行(こだうぎやう)先生、數本を移して、家園に至りて、之れを植う。花の時、朋親識(ひんほうしんしき)、賞(しやう)する者の雲のごとく、以-爲(おもへら)く、『從來、未だ、始めより見ざる。』と。先生、喜ぶこと、甚し。「美蕉」を以つて、其の軒(けん)に名づく[やぶちゃん注:自身の邸宅の名とした。]。今、復た、二十餘年、知らず、何如(いかん)となることを[やぶちゃん注:ここは送り仮名が上手く読めない。]。「番蕉」は、云はく、「是れ、水精なり。故に、能く火を辟(さ)く。」と。將に枯れんとする時、鐵屑を以つて、之れを糞(つちか)ひ、或いは、以つて、鐵丁(てつくぎ)を釘(う)てば、其の根、則ち、復(また)、活(い)く。蓋し、「金」、能く、「水」を生ずればなり。物性(ぶつしやう)の奇、此(か)くのごとき者、有り。盆中に植ゑ、甚だしくは長(ちやう)せず、一年、纔(わづか)に一つの下葉(したば)を落すのみ。計(はか)るに、長ずること、不寸(すん)を以つてすること、能(あた)はざるなり。亦、甚だしくは、花を作(な)さず。余(よ)が家に、二本を畜(つちか)ふ。三十年の中(うち)に、僅かに兩度(りやうど)の花を見るのみ。花も亦、芭蕉に似て、色、黃にして、實(みの)らず。

   

・「南州異物志」は三国時代の呉(二二二年~二八〇年)の万震が書いたものだが、原本は存在せず、後の宋の叢書「太平御覽」に佚文で残る。

・「美人蕉」単子葉植物綱ショウガ目バショウ科バショウ属ヒメバショウ(姫芭蕉) Musa coccinea 。異名を「美人芭蕉」・「花芭蕉」とする。分布は中国・ヴェトナム。サイト「GKZ 植物事典」の同種のページを見られたい。

・「顧道行先生」は、「維基文庫」の「送顧道行副憲山東六首 作者:李化龍 明」の注によれば、『顧大典,字道行,隆慶二年(1568年)進士。』とあり、彼が進士に登第した年は、謝肇淛が生まれた翌年である。

・「賔」は「賓」の異体字で「賓朋親識」は「客人が来て親しく御覧(御観賞)になられること」の意であろうと推定される。

   *

「鳳尾蕉《ほうびせう》」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ナツメヤシ属ナツメヤシ Phoenix dactylifera「卷第八十八 夷果類 無漏子」を参照されたい。

「桄榔(たがやさん)」ここはタガヤサンでよい。

「椶櫚(しゆろ)」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属シュロ Trachycarpus fortunei 'Wagnerianus'(シノニム:Trachycarpus wagnerianus )。「卷第八十三 喬木類 椶櫚」を参照のこと。

「莎木麫《さもめん》」「サゴヤシ(沙穀椰子)」の異名。ウィキの「サゴヤシ」によれば、『サゴヤシ(マレー語・インドネシア語 sagu・英語 sago + 椰子)とは、樹幹からサゴ(サクサク(食品))という食用デンプンが採れるヤシ科やソテツ目の植物の総称。サゴヤシ澱粉(サゴ)は東南アジアなどで食用とするほかソースの原料にもなる』とある。

「泉州堺《さかひ》≪の≫妙國寺に、大木、有り」大阪府堺市堺区にある日蓮宗広普山(こうふさん)妙國寺(グーグル・マップ・データ)に現存する。この寺は、幕末に起こった堺事件所縁の寺として知られる。寺に就いては、ウィキの「妙国寺」がよい。そこに、「霊木・大蘇鉄の伝説」があり、『境内の大蘇鉄は国指定の天然記念物である。樹齢』千百『年余といい、次のような伝説が残っている』。『織田信長はその権力を以って天正』七(一五七九)年、『この蘇鉄を安土城に移植させた。ある時、夜更けの安土城で一人、天下を獲る想を練っていた信長は庭先で妙な声を聞き、森成利(蘭丸)に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」とつぶやいていた。この怪しげな声に、信長は激怒し』、『士卒に命じ』、『蘇鉄の切り倒しを命じた。しかし』、『家来が刀や斧で蘇鉄を切りつけたところ』、皆、『血を吐いて倒れ、さしもの信長も祟りを怖れ』、『即座に妙國寺に返還した。しかし、もとの場所に戻った蘇鉄は日々に弱り、枯れかけてきた。哀れに思った日珖』(本寺の開山僧)『が蘇生のための法華経一千部を読誦したところ、満願の日に蘇鉄から宇賀徳正龍神が現れ、「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、報恩のため、男の険難と女の安産を守ろう」と告げた。そこで日珖が早速門前の鍛冶屋に命じて鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に蘇った。これにより徳正殿を建て、寺の守護神として宇賀徳正龍神を祀ることとした。爾来、これを信じる善男善女たちが安産を念じ、折れた針や鉄屑をこの蘇鉄の根元に埋める姿が絶えないという』とあった。なお、独立した「妙国寺のソテツ」のウィキもあるので見られたい。孰れにも、天然記念物のソテツの画像が載る。そちらによれば、『日本国内の植栽されたソテツの中でも最大規模のもので、幹が大小取り混ぜ』て、「十七莖」どころではない、『約』百二十『本もある巨大な株であ』る、とある。

「同𠙚《どうしよ》、祥雲寺」ここにある(グーグル・マップ・データ)臨済宗龍谷山祥雲寺。同寺のウィキの現在の「庭園」の画像の右手に、ソテツが見える。]

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