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2025/06/13

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「箭柄墳の奇事」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点の変更や追加をし、記号を加えた。但し、漢文部はいじっていない。]

 

 「箭柄墳《やがらづか》の奇事」 駿東郡柏原《かしはばら》驛にあり。今、其墳蹟《つかあと》、詳《つまびらか》ならず。「風土記」云《いはく》、

『駿東郡栢原、箭柄墳。白鳳年中、有一樵翁、食ㇾ芝絕ㇾ粒、恰如仙客、齡歷九旬、其步行一日期二百里、隣國自在也。白鳳十二年癸未十月朔、至原之巖窟、忽不ㇾ見其跡、行人成其奇異、所ㇾ殘所ㇾ携右手之箭柄而已、故國造擧ㇾ之埋其箭柄、曰二箭柄墳一。樵翁不ㇾ委二其姓氏一。云云。』。

 

[やぶちゃん注:この記事が書かれた時点で、この岩窟・「墳」=塚は消失していただけに、現行のネット上では、全く掛かってこない。取り敢えず、あったとする「柏原驛」であるが、これは、現在の静岡県富士市柏原(かしわばら)(グーグル・マップ・データ:読みは現行の読みで歴史的仮名遣で加えた)。但し、「ひなたGIS」で見ると、現行より東西に広いように感じられる。現行の位置だと、「浮島原」の湿田地帯である。凡そ「巖窟」があろうとも思われない。ここには、現在、「浮島ヶ原自然公園」(グーグル・マップ・データ航空写真)があり、これは、湾口・砂州の形成、及び、その内湾のラグーン化・低湿化した場所である。或いは、古くに、何らかの局所的地震・地殻変動・津波等による変貌が疑われる。

「風土記」既出既注。正規の「風土記」ではない、怪しいものである。因みに、国立国会図書館デジタルコレクションの「修訂駿河國新風土記(續篇)第一輯」(「駿河地志稿 駿東郡之部」(贄川良以著・贄川他石補綴・昭和九(一九三四)年志豆波多會刊・★謄写版★印刷)の「△郷名考」のここに、以下の記載がある。

   *

箭柄塚  舟津邊にありと云共さだかならず、今山伏塚と云あり、浮島二つ社女塚男塚と云

   

但し、これらの「塚」の記載を調べても、やはりネットでは見当たらない。しかし、この「船津」は「ふなつ」で、現在の富士市船津(グーグル・マップ・データ)で、旧駿東郡であり、「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、旧浮島沼の北東部に位置する。ここは愛鷹山の南西麓で、古くに「巖窟」があってもおかしくない場所である。さらに調べると、この地区には、「稲荷塚古墳」がある。「富士市」公式サイトの「浅間古墳から始まる富士の古墳文化」のページに、『古墳時代、浮島ヶ原の周辺では人々が活発に活動し、浅間古墳をはじめとする多くの古墳がつくられ、豊かな文化が育まれました』とあり、ずっと下に、「稲荷塚古墳」があり、『春山川東岸につくられた円墳【富士市指定史跡】』とあり、そこに『稲荷塚古墳の周辺は古墳の密集地帯』であるとある。そうだ! 「巖窟」とは「古墳」であると考えれば、納得が行くのだ! この附近が、この話の震源地であることは、最早、疑いがない!!

 以下、漢文部を推定で補助(御覧の通り、送り仮名が全くない)して、訓読しておく。句読点は私の判断で変更・追加した。

   *

 駿東郡(すんとうのこほり)栢原(かしはばら)、箭柄墳(やがらづか)。白鳳年中、一《ひとり》の樵翁《きこりのおきな》、有り。芝(し)を食ひ、粒(めし)を絕つ。恰(あたか)も仙客(せんかく)のごとく、齡(よはひ)九旬(くじゆん)を歷(ふ)るも、其の步-行(ありき)、一日(いちじつ)、二百里を期(き/ご)し、隣國(りんごく)なるとも、自在なり。白鳳十二年癸未(みづのとひつじ)十月朔(つひたち)、原(はら)の巖窟(ぐわんくつ)に至り、忽(たちま)ち、其の跡を見ず。行く人、其れ、「奇異」と成す。殘されしは、携へし所の右手の箭柄(えがら)のみ。故(ゆゑ)に、國造(くにのみやつこ)、之れを擧(とりあ)げて、其の箭柄を埋(うづ)む。「箭柄墳」と曰ふ。樵翁は、其の姓氏、委(くは)しからず。云云(うんぬん)。

   *

「白鳳年中」これは「日本書紀」に現われない私年号の一つ。通説では「白雉」(六五〇年〜六五四年)の別称・美称とされる。

「芝」「霊芝」でご存知の通り、実は、この「芝」と言う漢字は、まさに担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum を指す漢字として作られたものなのである。「シバ」ではなく、「神聖なキノコ」を示す漢語なのである。レイシに就いては、私の「日本山海名産図会 第二巻 芝(さいはいたけ)(=霊芝=レイシ)・胡孫眼(さるのこしかけ)」を参照されたい。所謂、仙人の常食物として知られる。

「九旬(くじゆん)」数え九十歳。

「二百里」ウィキの「里」によれば、「大宝律令」で「里 」は「五町」で「三百歩」と規定されてあった。『但し、当時の尺は、現存するものさしの実測によれば』、『曲尺』(譯〇・三センチメートル)『より』も二~三『%短いため、歩・町も同じ比率で短くなる』ため、『当時の』一『里はおよそ』五百三十三・五メートル『であったと推定されている』から、それで換算すると、百六・七キロメートルとなる。

「白鳳十二年癸未(みづのとひつじ)十月朔(つひたち)」「白雉」は五年で終わり、続く朱鳥(しゅちょう)は一年で終り、続く大宝も四年までであるから、慶雲元(七〇四)年となる(大宝四年五月十日改元)。しかし、慶雲元年の干支は「辛丑」で、合わない。干支を誤るものは史料としては使えないので、通常は、本記載自体が無効となるので、これでアウトだが、一応、言っておくと、この前後で「癸未」となるのは、遙か前の推古天皇三一(六二三)年と、遙か後の天武天皇一二(六八三)年で、話しにならない。

「右手の箭柄(えがら)」右手に杖代わりに常時持っていた長い弓矢の矢の篠竹で作った本体部分を指す。矢羽(やばね)・矢筈(やはず)・鏃(やじり)は附いていないものを指す。「延喜式」に載る「伊勢神寶征矢」の長さは附属部を含めて六十九・七センチメートルであるから、長さは充分、杖の代わりには、なる。敗残の武将などは、弓自体を杖代わりにしているから、矢柄でも十分である。

「國造(くにのみやつこ)」大化の改新以前における世襲制の地方官。地方の豪族で、朝廷から任命されてその地方を統治した。「大化の改新」(狭義には大化年間(六四五年~六五〇年)の改革のみを指すが、実際的には広義に大宝元(七〇一)年の「大宝律令」完成までに行われた一連の改革を含む)以後は廃止されたが、多くは郡司となって、その国の神事も司った。]

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