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2025/06/05

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「曾我祐成幽魂告苦」 / 「卷之二十四上」~了

[やぶちゃん注:底本はここから。長いので、段落・改行を成形し、句読点(変更・除去を含む)・記号を附加した。全体が連続しているため、注は、物によっては、文中に割注で入れるのが、五月蠅いものの、最適と判断した。

 なお、本篇を以って「卷之二十四上」は終わっている。]

 

 「曾我祐成幽魂告苦《そがのすけなりのいうこん くを つぐ》」  富士郡《ふじのこほり》不二山の裾野に有り。

 「甲越信戰錄」云《いはく》、「武田信玄公は人皇百五代、後柏原院《ごかしはばらゐん》大永六年[やぶちゃん注:一五二六年。但し、これは誤りである。信玄が生まれたのは大永元年十一月三日(ユリウス暦一五二一年十二月一日)である。これは、「甲越信戰錄」の筆者が後柏原天皇の崩御(大永六年四月七日(一五二六年五月十八日))年と錯誤したものである。]の御生れにて、御名を太郞殿と中ける。いか成事にや、二年の間、左の御手を開き給はず。父信虎公も、甚《はなはだ》、氣を痛め給ふに、惠林寺(ゑりんじ)の快川(くわいせん)和尙、御殿に出《いで》て、此君を見奉りて、

「必《かならず》、御按(ごあん)じ[やぶちゃん注:この場合は、「御案じ」の方が相応しい。「心配すること」である。]の義にはあらず、やがて、御手は開き給ふべし。御相を見奉るに、行末、愛度《めでたき》御まなじり、智仁兼備の御相にておはします也。昔、人皇三十二代用明天皇の御子、厩戶皇子[やぶちゃん注:聖徳太子。]、降誕有りて、二年の間、御手を開き給はず。月增花增《つきましはなまし》[やぶちゃん注:「月增」は「一と月二た月と、月が経つにつれて増す」、「花增」は「より優れた花」の意から「より好きな人・前の女にも増して愛する女」の意であるが、ここは、帝の寵愛ぶりを指すものであろう。]に抱き守りて、宮女等、大《おほい》におどろきしが、翌年の二月十五日に御手を開き給ふ。光明赫々《かくかく》として、佛舍利を持《もち》玉ひ、『南無佛々[やぶちゃん注:「々」は前の三字を繰り返すと考えて「なむぶつ なむぶつ」と読んでおく。]』と唱《となへ》玉ふ。是より『南無佛の舍利』と號し、攝州天王寺の金堂に納《をさめ》る處の舍利、是也。抑《そも》、此《この》舍利と申《まうす》は、天竺にて釋尊入滅の後《のち》、國王の御后※曼夫人《しやうまんぶにん》[やぶちゃん注:「※」は「勝」の異体字だが、そっくりなものがない。最も近いのは「グリフウィキ」のこれである。「勝曼夫人」は当該ウィキによれば、『勝鬘夫人(しょうまんぶにん、シュリーマーラー)は、古代インドの在家仏教徒。シュリーマーラーは「素晴らしい花輪」という意味で、勝鬘はそれを漢訳したもの。舎衛国(コーサラ国)の波斯匿王(はしのくおう)と彼の妃ある末利夫人(まりぶにん、マッリカー夫人)との娘』で、『阿踰闍(アヨーディヤー)国王の妃』。『経典』「勝鬘經」『の主人公で、釈迦に帰依した父母が勝鬘夫人の知恵が優れていることを理由に、仏に会うことを彼女へ勧める。両親からの手紙を読んだ勝鬘夫人が仏を称え救いを請うと、仏が姿を現して説法し、彼女もそれに応え誓願と説法を述べたと伝わる』という人物である。]、阿羅漢に請《こひ》て佛舍利を得、一生肌を放ち給はず、御臨終の時、手に握り、空《むなし》く成《なり》玉ふが、其後《そののち》、唐土《もろこし》へ生れ玉ふ。南嶽禪師[やぶちゃん注:「南嶽(岳)懐譲」(なんがくえじょう 六七七年~七四四年)は初唐から盛唐にかけての禅僧。出家して六祖慧能の門に入る。七一四年、南岳の般若寺観音堂に入って住すること三十余年、独自の禅風を興した。後世、この法系を「南岳下」と称した。諡号は大慧禅師(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。当該ウィキもよい。]、是也。又もや、佛舍利を握りて生れ出《いで》、經山寺[やぶちゃん注:調べた限りでは、彼の「維基百科」には、「後移居南嶽衡山觀音台」とあるので、これは「衡山の寺」の誤りのように思われる。識者の御教授を乞う。]に在りて、弘《ひろ》く法を說《とき》玉ふ。遷化《せんげ》の時、件《くだん》の舍利を握り、「東方有緣。」と申《まうして》て終り玉ひ、日本に生れ玉ふ時は、佛法扶桑の開祖、聖德太子、是也[やぶちゃん注:これは、おかしい。聖徳太子の生年は敏達天皇三年一月一日(五七四年二月七日)で南嶽禪師の生没年より百年も前である。]。かゝる例《ため》しもおはしませば、若君、御手の開かざるも、究めて名將の御しるしにて候はん。」

と申けり。

 果して、左の御手、ひらけしに、金の龍の目貫[やぶちゃん注:刀や槍の目釘のこと。鎌倉以降、頭(かしら)と座の飾りと、釘の部分を離して、別の位置に付けるようになり、釘の部分を「真目貫(まことめぬき)」・「目釘」と称し、飾りの金物を目につく箇所につけて「空目貫(そらめぬき)」と称した。ここは後者。]を、片々(かたがた)、持《もち》玉ふ。

「快川の判詞《はんし》、符節を合するが如し。」

と、御父、御喜悅也。

 其後、臨濟の沙門某、諸國を巡り、東海道を通り、富土の裾野を打詠め、終日《ひねもす》遊行《ゆぎやう》せし程に、日は西に入《いり》て、其夜は廣野に臥《ふせ》ぬ。

 勿論、三衣一鉢《さんえいつぱつ》[やぶちゃん注:行脚僧が具備することとされる「三衣(さんえ)」(「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣を指し、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製したもの)・大衣(だいえ。「鬱多羅僧衣」(うったらそうえ)とも言い、七条の袈裟で上衣とするもの)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指す)と托鉢。呆れたことに、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『江戸怪異綺想文芸大系 第五巻』(高田衛監修・堤邦彦/杉本好伸編)の「近世民間異聞怪談集成」(二〇〇三年刊初版)に所収する同パート(堤邦彦氏校訂)では、『三夜一鉢』となっていて、注も何もついてない! この本、他の作品の別人の校訂でも、とんでもないミスだらけで、腹が煮えくり返ったものだったが、一万八千円もするこの本、買わぬがマシだぜ! ホンマに!!]、樹下石上《じゆかせきじやう》の出家なれば、更に驚く事、なし。一木《いちぼく》のもと成る石上に安坐して、一心を將動《しやうどう》せず[やぶちゃん注:揺るがすことなく。]、坐禪觀法《くわんほふ》の風《かぜ》、凉々《りやうりやう》として、水、淸く、時に夜も更渡《ふけわた》り、北斗も寒き芒原《すすきはら》の露、ふみしだき來《きた》る者、有り。

 いまだ壯年の姿にて、狩衣の袖もしほれて、申やう、

「此所《このところ》は夜《よ》、嵐、つよく、露に濡れ給はん事、痛はし。我等が草の扉《とぼそ》に御供申《まうし》奉らむ。」

と。

 沙門も、是を悅び、彼《かの》男と諸共に、草を分行《わけゆ》く事、三町[やぶちゃん注:三百二十七メートル。]計りにして、庵《いほり》、有り。是《ここ》に入《いり》て、世の中の事など談話するに、何國《いづく》ともなく、

「曳々《えいえい》。」

と鯨波を上げ、四方の熖火《えんくわ》、盛りに燃上《もえあが》る。

 彼《かの》男、色、靑くなり、

「はや、迎《むかへ》の參りし。」

と、太刀を橫たへて出行《いでゆく》に、僧も

『不思議。』

と眼《まなこ》を見開き、

「き」

と見てあるに、姿は見えず、只、叫聲《さけびごゑ》のみ也。

「扨《さて》は。修羅の街にくるしむ者どもよ。」

と、淚を流し、一心に讀經す。

 暫くありて、物音、靜《しづま》り、彼男、弱々として、立歸《たちかへ》る。

 其時、僧の曰《いはく》、

「只今の有樣は、修羅の戰《いくさ》也《なり》。いかなる罪業《ざいごふ》にて、浮《うか》みもやらず、かヽる苦みを受玉ふぞや。」

 彼男、頭《かしら》を上げ、

「耻《はづ》かしき事ながら、それがしこそは、曾我の十郞祐成が昔の姿にて候。」

といふ。

「扨は。建久四年、此所にて工藤祐經を討《うち》玉ひし十郞殿なるか。御舍弟の五郞殿も同じ苦《くるし》みを受《うけ》給へるか。」

 彼男、

「いや。弟時致《ときむね》は母の詞に隨ひ、幼年より箱根山にて育られ、常に御經を讀誦し候、法華の功力《くりき》にて、再び此世に生れ出《いで》、今、甲州の大守と仰《あふが》れ候也。其しるしこそ、是也。」

と、金の龍の目貫を取出《とりいだ》し、

「片々《かたがた》は時致が持《もち》て生れ候也。」

と沙門に渡し、

「それがしは、露ばかりも善根なく、現世《げんせ》に作る其罪にて、長く、くるしむ。修羅道を、たすけ玉へ、御僧《おんそう》。」

といふも松吹《まつふく》風、庵も、うせて、草村《くさむら》なり。

 沙門も奇異の思ひをなし、翌日より、「法華」を營み、念頃《ねんごろ》に弔ひ、即《すなはち》、善福寺に、二の石碑を建つ。法名、

――高宗院峰岩良雪大禪定門 祐成――

――鷹嶽院士山良富犬禪定門 時致――

 其後、彼沙門、甲州に來り、惠林寺にて此事を物語る。

 快川和尙は、覺へ有る金の目貫なれば、沙門より、もらひ、直《ただち》に御殿に上り、右の物語を委《くはし》く申《まうし》て、金の目貫を差上《さしあぐ》る。

 御大將も大《おほき》に驚き、目貫を合せ、御覽有るに、一對と成けり。

 扨こそ、信玄公は、曾我の時致が生れかはりとは申せし也。猶《なほ》も、信玄公、曾我一門の菩提の爲に一寺を建立し給ふ。是、今の萬年山大仙寺也。兄弟の墓所、今に有り。當寺の寶物「金龍の目貫」は、此由來也。云云』。

 按《あんず》るに、祐成兄弟、父の爲、苦心する事、凡《およそ》十八年、天、其《その》孝心を憐み導《みちびき》て、祐經を此野に討たしむ。

 何ぞ、善根なしと、いはむ。

 時致、又、至孝のみに非ず、義を守るの男也。

 信玄、實《まこと》に時致が再來ならば、行跡《ぎやうせき》、正しかるべきを、佞奸《ねいかん》にして、非義、多し。再生ならざる事、必《ひつ》せり。

 佛者、猥《みだ》りに說をなして、稀世《きせい》の孝子を恥かしむ。

 惡《いく》むべきの、甚敷《はなはだしき》もの也。

 

          ――(卷二十四上終り)――

 

[やぶちゃん注:最後の「――(卷二十四上終り)――」は原本にはなく、編者によるものであるが、一応、添えておいた。

「甲越信戰錄」サイト「信州デジタルコモンズ」(県立長野図書館が運用するデジタル・アーカイブ・システムに、参加機関が所蔵している古文書や書籍、写真、絵図・地図、映像などをデジタル化して記録保存し、これを公開・提供する画像閲覧サービス)の「甲越信戦記」に一『頁目に「甲越信戦記」とあるが、その後の表記はすべて「甲越信戦録」と改まっている。甲越信戦録は、江戸後期に書かれたとされる武田信玄、上杉謙信による川中島の戦いを題材とした全八巻の軍記。作者不詳で、写本によって読み継がれた。この写本は全八巻分を一冊にまとめている。徳川家光が上杉家に命じて書かせ、実録と認めた合戦の記録「甲越信戦録」を柱とし、「武田三代記」「甲陽軍艦」を基にこの書を書き上げた旨を記し、武田・上杉の来歴、山本勘助と弟重頼の修行から軍師としての働き、各陣営の計略や駆け引き、信玄と謙信の一騎打ちや激しい交戦の様を両軍を代表する忠臣たちの働きや逸話も交えながら綴る。和睦の破棄のいきさつなどから信玄の仁の少ないことを嘆き、一方で謙信の仁の心が厚いことを讃えてもいる。最後は両家和睦して』十八『年に及んだ戦いが終結し、民百姓は安堵したと締めくくる』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの「實録甲越信戰錄」(上)西沢喜太郞編・明治一六(一八八三)年・信陽書肆 松葉軒刊)のここから、以上の当該部を視認出来る。また、長野市の綜合サイト「川中島の戦い」の『戦記「甲越信戦録」』があり、その『戦記「甲越信戦録」巻の三』のページの「一.晴信公は曽我五郎再来のこと」で、以上の話が、現代語で語られてある。

「快川和尙」快川紹喜(かいせんじょうき ?~天正一〇(一五八二)年)は臨済僧。美濃国土岐氏の出身。妙心寺第二十七世仁岫宗寿(じんしゅうそうじゅ)の法を嗣ぐ。美濃国南泉寺・崇福寺の住持となるが、同国の伝燈寺が引き起こした国内の禅刹統轄権を巡る争いで、国を出、甲斐国に行き、国分寺に住したが、武田信玄の帰依を受け、恵林寺(グーグル・マップ・データ)の住持となる。信玄の道号「機山」は快川の与えたものである。天正九(一五八一)年、大通智勝の国師号を朝廷から受けた。信玄没後、織田信長が武田勝頼を攻めた際、一山の僧と共に三門上に籠もり、焼死した。その時の「安禪必ずしも山水を須(もち)ひず、心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」の辞世の語は有名である(以上は、朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」を参考にした。当該ウィキが詳しいので、見られたい。

 さて。後半の修羅道に堕ちた曾我祐成の話であるが、曾我兄弟仇討ちについては、私の「北條九代記 富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討 パート1〈富士の巻狩り〉」

「北條九代記 富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討 パート2〈曾我兄弟仇討ち〉 了」

で「吾妻鏡」の原文も引き、詳細に記してあるので、そちらを参照されたい(古い電子化注なので、正字不全があったが、このために、昨日、補正しておいた)。

 また、この怪奇談は、私の電子化物では、延宝五(一六七七)年に京の松永貞徳直系の貞門俳人荻田安静(おぎたあんせい ?~寛文九(一六六九)年:姓は「荻野」とも)の編著になる、

「宿直草卷五 第四 曾我の幽靈の事」

が古く、よい。因みに、それをインスパイアしたものと推定される、正体不明の章花堂なる著者の元禄一七(一七〇四)年板行になる浮世草子怪談集の、

「金玉ねぢぶくさ卷之四 冨士の影の山」

もある。前者の方が、ぐだぐだと装飾テンコ盛りした後者よりも、お勧めではある。見られたい。

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