阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「桃澤池奇怪」
[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)を添えた。]
「桃澤池奇怪《ももざはいけ の きくわい》」 駿東郡上窪村桃澤池にあり。「風土記」云《いはく》、『駿河郡桃澤、桃澤池、東西三里、南北四里程、出二于鮮一、又令ㇾ栖二鴻雁鸛鶴鴨鷺名禽一池島有ㇾ神、所ㇾ祭二鳴澤女神一也。土俗、以二兒夜啼一、祈二此社一、其忽驗如ㇾ巡ㇾ掌、曰二鳴神一云云。』。今は祈る者ありとも聞えず。
[やぶちゃん注:先に「風土記」(既出既注であるが、正規の「風土記」ではない、怪しいものだが、本記載は、国立国会図書館デジタルコレクションの現行の複数の「駿河風土記」を調べたが、見当たらない)の引用部を推定で訓読する。原文は、送り仮名が一箇所あるのみで、かなり不全であるから、自然流で補ってある。一部の読点を句点に代えた。
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駿河郡《するがのこほり》桃澤《ももざは》、桃澤池《ももざはのいけ》、東西三里、南北四里程、鮮《あざや》かに出で[やぶちゃん注:景観がくっきりと見通せるさまであろう。]、又、令ㇾ鴻《こうのとり》・雁《かり》・鸛《こふのとり》・鶴《つる》・鴨《かも》・鷺《さぎ》の名禽《めいきん》[やぶちゃん注:名だたる鳥たち。]を栖《す》めしむ。池の島、神、有り、所ㇾ鳴澤《なきさは》の女神を祭《まつり》せむなり。土俗に、「兒《こ》の夜啼《よなき》を以つて、此の社《やしろ》に祈れば、其れ、忽ち、驗《しるし》、掌《たなごころ》を巡《やすん》ずる[やぶちゃん注:「手のひらを合わせて祈るやいなや、立ちどころに平癒する」の意であろう。]がごとくなれば、『鳴明神《なきみやうじん》』と曰《まう》す。」と云云《うんぬん》。
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この「桃澤池」は不詳であるが、既に、三つ前の本「卷之二十四下」冒頭の「神木鳴動」に「桃澤」は出る。しかし、ここは、愛鷹山の南東の山麓であり、このような大きな池は見出せない(「ひなたGIS」を見よ)。しかし、そちらでは、「安倍郡鯨《くじら》か池」、現在の静岡県静岡市葵区下(しも)に現存する「鯨ヶ池」(グーグル・マップ・データ)、及び、「淺畑池」(グーグル・マップを見ると、鯨ヶ池の南南東に、現在、「麻機遊水池」、及び、周辺に池様のものが、複数、点在するので、同一場所を、「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、ここに広大な「淺畑沼」が確認出来る)という「池」が出る。と言っても、「東西三里、南北四里程」もの池沼ではない。但し、後者の「淺畑池」は、近世には、「鯨ヶ池」よりも遙かに広大な「沼」であった可能性が高いから、位置に甚だ問題があるが、私はここを一つの候補としたい気がしている。しかし、駿東郡で水鳥が多く棲息している湿原であるならば、やはり既出の『「卷之二十四上」「富士沼水鳥の怪」』に出る「浮島原」が、俄然、第一候補となろうと思う。
因みに、この「鳴澤女神」というのは、原型は「泣澤女神」(なきさはめ)である。別名を「啼澤女神」「哭澤女命(なきさはめのみこと)」など呼ぶ。ウィキの「ナキサワメ」によれば、『国産み・神産みにおいて』「いさなき」『(伊邪那岐)』と「いさなみ」『(伊邪那美)との間に日本国土を形づくる数多の子を儲ける。その途中、』伊邪那岐『が火の神である』「かぐつち」『(迦具土神)を産むと』『陰部』(ほと)『に火傷を負って亡くなる。「愛しい私の妻を、ただ一人の子に代えようとは思いもしなかった」と』伊邪那岐『が云って』伊邪那美『の枕元に腹這いになって泣き悲しんだ時、その涙から成り出でた神は、香具山の麓の丘の上、木の下におられる。この神がナキサワメである』。奈良県橿原市にある『畝尾都多本』(うねおつたもと)『神社に泣沢という井戸があり、その井戸が御神体として祀られている』。『この事から、ナキサワメは大和三山の一つである香具山の麓の畝傍から湧き出る井戸の神様ということになる。井戸の中には、ナキサワメが流した涙があるといわれている。その井戸には、和歌が残っている』。これは、「万葉集」の「卷第二」で(二〇二番)、素性は不明の奈良時代の皇女である檜隈女王(ひのくまのおほきみ)の詠歌で、
或る書の反歌一首
哭澤(なきさは)の
神社(もり)に神酒(みき)すゑ
禱祈(いの)れども
わご大君(おほきみ)は高日(たかひ)知らしぬ
である。以下、ウィキの訳。
『泣沢神社の女神に神酒を捧げて、薨じられた皇子の延命を祈っているのに、皇子はついに天を治めになってしまわれた。』で、『その左注に』、
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右一首、「類聚歌林」に曰はく、桧隈女王の泣澤神社を怨(うら)むる歌といへり。「日本紀」を案(かむが)ふるに云はく、「十年丙申[やぶちゃん注:六九六年。]の秋七月辛丑の朔(つきたち)の庚戌(かうじゆつ)、後(のち)の皇子尊(のちのみこのみこと)、薨(かむあが)りましぬといへり。
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『と記されている。 これは、持統天皇十年』(六九六年)『に、妃である』『ヒノクマオオキミ』(檜隈女王)『が再生の神に神酒を捧げタケチノミコ(高市皇子)の延命を祈ったのに、蘇ることなかったという、ナキサワメを恨む和歌である』。この神の『神名は「泣くように響き渡る沢」から来ているという説がある。また、「ナキ」は「泣き」で、「サワ」は沢山泣くという意味がある。「メ」とあるので女神である』。『江戸期の国学者、本居宣長は』、「古事記傳」で、『「水神」「人命を祈る神」、平田篤胤は「命乞いの神」と称するなど、水の神、延命の神として古代より信仰を集めている』。『太古の日本には、巫女が涙を流し死者を弔う儀式が存在し、そのような巫女の事を泣き女という。この儀式は死者を弔うだけではなく魂振りの呪術でもあった。泣き女は神と人間との間を繋ぐ巫女だった。ナキサワメは泣き女の役割が神格化したものとも言われており、出産、延命長寿など生命の再生に関わる信仰を集めている。また、雨は天地の涙とする説があり降雨の神様としても知られている』とある。
さて。ここで、何故、この富士山山麓に近い位置に、この「鳴澤女神」が祀られていたのかを考えるに、全く根拠はないのだが、私は、この短い「風土記」の記事の文字列と音通から、
――富士山の轟き渡る噴火の際の「鳴」や、溶岩の流れる「澤」を神威と捉えた、この辺りの往昔の人々が、この「泣澤女神」の音通から、習合させたものではないか?――
と感じた。而して、小児の「夜泣き」の病いを癒すというのも、
――実際には、噴火の「夜」の鳴動(鳴き)を封じて呉れる神から転じて、日常的な音通の、嬰児の「夜泣き」封じの祈願に転訛されたものではないか?――
と思い至った。何らの伝承や学術的裏打ちはないから、私の思い付きに過ぎない。大方の御叱正を俟つものではある。
なお、この本文の内容を、いろいろ調べてみたものの、ロクなものはなかったのだが、一つ、目が止まったものがあった。それは、国立国会図書館デジタルコレクションで「桃澤池」を検索していた中で見つけたもので、「加賀志徴 下編」(森田平次著・昭和四四(一九六九)年石川県図書館協会刊)の「卷十」の「石川郡」の「夜啼きの松」の一節である。以下に示す。因みに、本書は歴史的仮名遣で、以下は正規表現である。
《引用開始》
○夜啼きの松 額谷村[やぶちゃん注:現在の石川県金沢市額谷(ぬかだに:グーグル・マップ・データ)周辺と思われる。]。○此谷川の川緣なる山上にあり。小兒の夜泣きする時は、此松の皮を取り來りて枕邊に置けば、必止るといへり。おかなる由緣にや詳ならず。○按ずるに、惣國風土記。駿河郡桃澤池の條に、池島有ㇾ神。所ㇾ祭鳴澤女神也。土俗以二兒夜啼一祈二此社一。其忽驗如ㇾ巡ㇾ掌。曰二鳴神一。とあり。此はかの笠明神に瘡痛の事を祈る如く、鳴澤女てふ神名より起りたる俗諺なるべし。源平盛衰記卷二十六に、平相國出生の事を記して、此子生れてより夜泣する事不ㇾ懈[やぶちゃん注:「おこたらず」。頻りに夜泣きして止まない。]。忠盛大きに歎きけり。我實子ならば里へも放し度思ひけれども、勅定を蒙り申けり。證誠殿[やぶちゃん注:「しやうせいでん」。熊野本宮神社にある式場神殿。]の御殿に戶を推開き[やぶちゃん注:「おしひらき」。]、御託宣とおぼしくて一首の歌あり。『夜泣すと忠盛たてよみどり子は淸くさかゆる事あれ[やぶちゃん注:二重鍵括弧閉じるは、ない。]と。悅の道に成つて、黑目に付たりければ、夜泣ははや止みにけり。云々。
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最後の「悅の道に成つて、黑目に付たりければ、」の意味は、私にはよく判らない。恐らくは、『託宣の歌を受けることが出来たので、忠盛は悦(えつ)に入って、不安だったために、目が白黒していたのが、晴眼となった(すっかり安心した)ので、』という意味か。さても。この森田氏の解釈は、まあ、穏当ではあろうが、失礼乍ら、わざわざ、本話や「源平盛衰記」の引用を事大主義的に引いて示すほどのこともないようには思う。因みに、なるほど、「駿河風土記」に出ないはずだ。これは、別な「惣領駿河風土記」なんだな。しかし、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の写本版を調べたが、載ってなかった。写本だから、しゃあないか。いい加減、飽きた。これまでとする。]
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