甲子夜話卷之八 27 御能のとき、觀世新九郞、𪾶りて老松を半ば打たる事
8―27 御能(おのう)のとき、觀世新九郞、𪾶(ねぶ)りて「老松(おいまつ)」を半ば打(うち)たる事
小技曲藝(こわざきよくげい)も、上達に至(いたり)ては理外(りがい)なることもある也。
壬午(みづのえうま/じんご)三月、御大禮(ごだいれい)二日目、御能のとき、小鼓打(こつづみうち)の觀世新九郞【豐綿(とよつら)。】、「翁」の頭取(とうどり)をうちたり。脇鼓(わきつづみ)は其弟總三郞なり。
御能、畢(をは)り、歸宅して、總三郞[やぶちゃん注:「そうさぶらう」か。]始(はじめ)、弟子などを呼集(よびあつ)め、新九郞、云(いふ)よう[やぶちゃん注:ママ。]、
「我、是(これ)まで頭取をうちたること數十度(すじゆうたび)、然(しか)るに、今日の如く出來宜(よろ)しと覺へしこと、なし。因(より)て、心、甚(はなはだ)悅(よろこ)ばしければ、汝等を饗(きやう)せん。」
とて、酒・吸ものなど、出(いだ)して相共(あひとも)に歡飮(くわんいん)せり。
酒、酣(たけなは)なるとき、新九郞、曰(いはく)、
「脇能『老松』のとき、この喜(よろこび)ゆゑか、思はず、『𪾶りたり。』と覺へて、しばし、恍惚たり。驚(おどろき)、寤(さむ)れば、其舞(そのまひ)の三段目の所にてありける。仕手(シテ)拍子を蹈(ふむ)に心づきて、三段の頭打(かしらうち)にて取續(とりつづ)きたり。」
と語れり、と。
然(さ)れば、其前(そのまへ)は夢中にてうちゐたるが、練熟(れんじゆく)の極(きはみ)にて擊節(げきふし)の違(たが)はざるも、上手(じやうず)故(ゆゑ)なるべし。
■やぶちゃんの呟き
「壬午三月、御大禮」当初、私は、辞書的な狭義の意味での「御大禮」と採って、『この干支は月の前にあるので、年号のそれでしか採れないのだが、静山が誕生から逝去する間に、「壬午」の年に天皇の即位は見当たらない。静山の生まれる前も調べたが、ない。不審。静山の誤りかと思われる。』と注していたのだが、私は能楽には詳しくないので、本篇全体について、私の最大の秘蔵っ子――というより私が柏陽高校で最初に三年間ずっと担任をした若き親友――にして能楽に詳しい彼に、書いた記事を見て貰ったのだが、何よりまず(太字は私が附した)、『静山が甲子夜話を書き始めた直後の』(彼は文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜に執筆を開始した)文政五(一八二二)『年が壬午にあたります。時に将軍は家斉。後』の天保八)一八三七)『年に将軍の地位に着くことになる家慶が』、この文政五『年壬午の年のまさに』三『月』五日に『正二位、内大臣に昇叙されているようです』(ウィキの「徳川家慶」によれば(太字は私が附した)、『将軍継嗣の段階で内大臣に任官したのは徳川秀忠以来の出来事であ』り、『世子であった家慶』『の官位も異例の高位のものとなった』とある)。『この祝いの席上での演能であるかと推測します』とメールで伝えて呉れた。而して、小学館「日本国語大辞典」を見ると(太字・下線は私が附した)、「大礼」には『国家・朝廷の重大な儀式。即位・立后などの類』とあり、さらに、見たところ、後に『大礼能』(ここでは「たいれいのう」の清音の見出しである)があり、そこに、『江戸時代、将軍家に大礼があった時、あったときに催された能。町入能(まちいりのう)。』とあるのを見つけた(濁音と清音の違いは、しばしば、正規の儀式と、それに附属する儀式を差別化する際に、古くからあった風習である)。されば、彼の示してくれたものが、この「御大禮」であることは、間違いない。因みに、事実、「御大禮」という語が使用された、まさに家斉のケースに就いて、サイト「慶應義塾大学文学部古文書室」内の「展示会」の「御引移御用掛御役人付 天保八年版」があり、その「知る」に、『江戸幕府11代将軍徳川家斉(1773-1841)から12代家慶(1793-1853)への代替わりにあたって行われた様々な儀式に関し、御用掛となった大名・幕臣、朝廷からの使者に任じられた公家等を一覧にしたものである。徳川家斉が天保8年4月2日に隠居すると、家慶が徳川将軍家を相続して大納言から左大臣に昇進、同年9月の将軍宣下で正式に征夷大将軍となった。将軍の世継ぎ(世子)として江戸城西丸に居住していた家慶は、大御所となった家斉と入れ替わる形で本丸へ移ることとなった。表題にある「御引移御大礼」』(☜)『はその儀式を指している。家斉は大御所となったのちも実権を握り、その側近が政治を左右したことから、「西丸御政事」とも呼ばれた。政治の実権も家斉の移動とともに、西丸へ移ったのである。本資料冒頭に名前がみえる「水野越前守」は、家斉の死後、「天保の改革」の名で知られる幕政改革に着手する老中水野忠邦(1794-1851)である』とあり、「見る」の「展示画像一覧」のここの左上二番目の扉に「御大禮御用掛御役人附」(☜)(「掛」は異体字表記)とあるのを見出した。因みに、長いので引用はしないが、ネットで調べた中では、サイト「能楽を旅す。」の「コラム」の「能が江戸幕府の儀式に欠かせない式楽となるまで」も大いに参考になるので、是非、読まれたい。
「觀世新九郞【豐綿(とよつら)。】」調べてみると、小鼓観世家十世で享和三(一八〇三)年時点で、当時の家元であった。この年で、静山は数え四十四歳である。
「頭取」能で、「翁」(おきな)・「三番叟」(さんばそう)を上演する際、小鼓方三人のうち、中央に座る主奏者。
「脇能」「デジタル大辞泉」によれば、本来、「翁」の次に演じられ、『「翁」の脇』の意から、かく言う能の分類の一つを指す。正式の五番立ての演能で、最初に上演される曲であり、神などをシテとする。神能(かみのう)・脇能物・初番目物。
「擊節」原義は「節」は「叩いて拍子をとる竹の楽器」の意。ここは、鼓を叩いて拍子をとることを指す。
なお、教え子は、本篇の内容について、『それにしても佳い話です。江戸時代の人々が小鼓のリズムに感じることのできた恍惚を、もう現代の我々は感じることはできないでしょう』と添えつつ、さらに、追加のメールでは、『この話、真実であると確信します。私の経験から言うのですが、そもそも能は夢見心地に浸る時に最も強烈な陶酔を引き起こします。理性や意識が働いているうちは』、『まだダメです。私が今まで最も深く酔った瞬間は、うたた寝から』、『ふと』、『目覚めた瞬間、眼前に静かにたゆたう《羽衣》の序の舞でした』と添えて呉れた。
これで、この注は完璧なものとなった。彼に心から御礼申し上げるものである。