阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「國分寺大蛇呑經」
[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)添え、段落・改行を成形した。引用の漢文脈の中に、珍しく、一箇所、ルビがある。上附きで丸括弧で添えた。ここから「安倍郡」パートとなる。当該ウィキによれば、明治一二(一八七九)年に『行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では、概ね、静岡市葵区の大部分(春日・柚木・宮前町・長沼・古庄・瀬名・瀬名川・南瀬名町・東瀬名町・西瀬名町・瀬名中央・長尾・平山を除く。静岡駅周辺の住居表示実施地区の境界線は不詳)にあたる』。『駿河国府が置かれた地である』とある。旧郡域はリンク先の地図を見られたい。]
安 倍 郡
「國分寺大蛇呑經《こくぶんじ おろち きやうを のむ》」 安倍郡北安東村龍池山國分寺【東動院と號す。眞言高野山無量光院末、寺領八石。】、別堂にあり。「三代實錄」云《いはく》、
『貞觀十四年壬辰夏六月三十日己亥、駿河國國分寺別堂ニ有二大蛇一、呑二般若心經卅一卷一、復乄爲二一軸一、觀者以ㇾ繩結二蛇尾一、倒懸二樹上一小選(シバラク)乄吐ㇾ經、蛇落ㇾ地半死、俄而更生【下畧。】。同年秋七月二十九日丁酉、駿河國、蛇呑二佛經一之異、神祗官卜乄曰、
「當年冬、明年春、當三國有二失火疫癘之災一。」。[やぶちゃん注:「當」の下には返り点「三」はないが、文脈から、「近世民間異聞怪談集成」にあるのを採用した。]」是日令下二國司一鎭謝上云云。[やぶちゃん注:現行の返り点では存在しない「下二」が使われている。これは、「近世民間異聞怪談集成」でもそうなっている。論理的にはおかしいものの、こうした返り点は古くはあったし、私には違和感はない。]」。
大蛇の人を呑《のむ》事、往々、聞けり。未《いまだ》、經を呑事を聞かず。奇なる哉《かな》。
[やぶちゃん注:「安倍郡北安東村龍池山國分寺【東動院と號す。眞言高野山無量光院末、寺領八石。】、別堂にあり」現在の駿府城跡の北西外直近の静岡市葵区長谷町に現存する(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。ウィキの「駿河国分寺」を引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『真言宗醍醐派の寺院。山号は龍頭山。本尊は地蔵菩薩』。]『奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、駿河国国分寺の後継寺院といわれる。本項では、創建当時の寺跡として駿河国分寺跡を巡る議論についても解説するとともに、駿河国分尼寺についても解説する』。『静岡市中心部、駿河国総社の静岡浅間神社の東方約』四百五十『メートルの地に鎮座する』。『駿河国の国分寺については、古代における所在地は確定されていないが、中世には当地付近に「国分寺」を称する寺院があったことが知られる(ただし法統関係は定かでない)』。仁治三(一二四二)年(鎌倉時代前期。この年、四条天皇が正月に崩御し、後嵯峨天皇が即位しており、鎌倉幕府将軍は藤原頼経で、執権は、この年の六月に第三代北条泰時が逝去し、北条経時が就任した)『には』「惣社幷國分寺云云」『とあることから、同年頃には、惣社(静岡浅間神社)の側に存在したとされる』。『その後も』享禄三(一五三〇)年(事実上の戦国時代。後奈良天皇で、室町幕府の第十二代征夷大将軍は足利義晴)は、『の朱印状や』「言繼卿記」弘治二(一五五六)年(後奈良天皇。但し、翌年に崩御し、正親町(おおぎまち)天皇が即位している。室町幕府将軍は足利義輝)『条にも記載が見える。史料から、国分寺の子院である龍池山千灯院(泉動院[やぶちゃん注:本文の「東動院」はこれの誤字か、或いは、後に改名したものかも知れない。]/仙憧院)によって事実上継承されたと見られている』。『その後も、江戸時代を通じて「国分寺」を称する寺院が当地に存在したことは明らかで、その後裔が当寺と見られる』。『創建時の国分寺の位置は未だ明らかとなっていない。その中で最も有力視されるのが、静岡市駿河区大谷にある片山廃寺跡(国の史跡)』(現在の同大谷にある「片山廃寺跡瓦窯跡」の近くであろう)『である。この片山廃寺は塔跡が未発見であったため、国分寺説を否定して有度郡の地方豪族の私寺と見る説が挙げられているが』、二〇〇九年『の調査で塔跡と推定される版築』(はんち:土を建材に用い、強く突き固めて、堅固な土壁や建築の基礎部分を徐々に高く構築する工法を指す)『が見つかっており、国分寺の可能性を高めている。なお、この片山廃寺を国分寺跡と見ない説では、国分寺跡を静岡市葵区長谷町や駿府城内東北部に推測』している。『一方、後述の菩提樹院境内には国分寺の遺構とする説のある塔心礎が伝わっており、「伝駿河国分寺の塔心礎」として静岡市指定文化財に指定されている。その銘文から』、明和八(一七七一)年(第十代将軍徳川家治の治世)『に駿府城代武田信村から駿府城三の丸城代屋敷内の社の手水鉢として奉納されたものとされる。元々はいずれの寺院で使用されたのか明らかでないが、舎利穴の大きさは甲斐や伊豆の国分寺とほぼ同じになる。この心礎は、昭和』五(一九三〇)年『に日本赤十字社静岡支部の庭(現・静岡県総合福祉会館の位置)において発見され、昭和』二八(一九五三)年『に国分尼寺後裔と伝える菩提樹院に寄進された』。『国分尼寺についても、創建時の位置は明らかでない。太田道灌作といわれる』「慕景集」の嘉吉元(一四四一)年『の記事に』『國府尼寺菩樹院』『と見えることから、後継寺院は静岡市葵区沓谷』(くつのや)『の正覚山菩提樹院であるといわれるが、根拠に乏しく確証はない。菩提樹院』の『寺伝では、武田氏の駿河侵攻において兵火を受けたため、天正年間』(一五七三年~一五九二年)『頃に駿府城西方に再興されたという。その位置は常磐公園付近にあたるが』、昭和一五(一九四〇)『の大火で焼失したことにより、さらに現在地に移転した。この菩提樹院境内には、前述のように国分寺のものと伝える心礎が残っている』とある。
「三代實錄」「日本三代實錄」。六国史の第五の「日本文德天皇實錄」を次いだ最後の勅撰史書。天安二(八五八)年から仁和三(八八七)年までの三十年間を記す。延喜元(九〇一)年成立。編者は藤原時平・菅原道真ら。編年体・漢文・全五十巻。
以下、漢文部を訓読する。今回は、国立国会図書館デジタルコレクションの「國文 六國史 第十」(武田祐吉・今泉忠義編・昭和一六(一九四一)年大岡山書店刊)の当該訓読部(左ページの最終行から)を参考にしたが、見てみると、本文に大きな異同が複数あるので、以上の訓読で読み変えた箇所がある。中略部分も補い、参考底本を参考にして改行・改段落を加えた。実は、後半部は参考底本では、飛んでいる(ここの左ページ四行目以降)ので、そこも、最低、必要な部分(かなりカットされている)を加えた。
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貞觀(ぢやうぐわん)十四年壬辰(みずのえたつ/じんしん)夏六月三十日己亥(つちのとゐ/きがい)[やぶちゃん注:清和天皇の御世。但し、この年は六月は小の月で「三十日はない。干支が合わないのは史料では価値が認められないから、調べてみると、前月五月三十日が「己亥」であるから、それで記すと、ユリウス暦八七二年七月九日、グレゴリオ暦換算で七月十三日である。それで採る。]、駿河國(するがのくに)國分寺の別堂に大蛇(おろち)、有り、「般若心經」卅一卷を復(あは)せて一軸と爲(な)ししを呑む。觀(み)る者、繩(なは)を以つて、蛇の尾に結び、倒(さかしま)に樹上(じゆじやう)の懸(か)く。小選(しばらく)して、經を吐き、蛇(へび)、地に落ちて、半(なかば)、死(し)に、俄(しばら)くして、更(また)、生きき。
備後國(びごのくに)、連理(れんり)の樹(き)一(ひともと)を獲(え)き。
同年秋七月、二十九(にじふく)日丁酉(ひのえとり/ていいう)[やぶちゃん注:この干支は正しい。ユリウス暦八七二年九月五日、グレゴリオ暦換算で九月九日。]、駿河國の蛇、佛經を呑みし異(しるまし[やぶちゃん注:奇怪な徴候・不吉な前兆。])、神祗官、卜(うら)して曰はく、
「當年の冬と、明年の春と、當國(そのくに)に、失火(しつくわ)・疫癘(えきれい)の災(わざはひ)、有り。」
と申(まう)しき。是(こ)の日、國司をして鎭謝(ちんしや)[やぶちゃん注:神霊をしずめなだめること。]せしめき。
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