阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「白狐裂死」
[やぶちゃん注:底本はここ。]
「白狐裂死《びやくこ さけ しす》」 安倍郡《あべのこほり》賤機山《しづきやま》にあり。傳云《つたへいふ》、永祿三年五月、志豆波多山《しずはたやま》惣社《さうしや》の檀上に於て、千歲《せんざい》の白狐、己《おの》れと胸《むね》裂《さけ》て死す。諸人、是を評して、「今川家の不祥《ひしやう》。」とす。果して同月十九日、尾州鳴海《びしうなるみ》桶狹間《をけはざま》の陣營に於て、義元、討死《うちじに》し、家風、衰ふ、云云。
[やぶちゃん注:「賤機山」前の条を見よ。
「志豆波多山惣社」前の条の私の注の「神殿」を見よ。
「永祿三年」一五六〇年。
「同月十九日、尾州鳴海《びしうなるみ》桶狹間《をけはざま》の陣營に於て、義元、討死し、家風、衰ふ」知られた「桶狭間の戦い」。当該ウィキによれば、永禄三年五月十九日(ユリウス暦一五六〇年六月十二日)『に尾張国知多郡桶狭間での織田信長軍と今川義元軍の合戦』。二万五千『人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が本陣を奇襲、または正面から攻撃し』、『今川義元を討ち取った』。『戦後、東海地方を制圧していた今川家が没落する一方、織田信長は尾張を完全統一したうえ畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。松平元康(徳川家康)は三河で独立を回復して信長と清洲同盟を締結し、これが戦国時代の転機となった』とある。「家風、衰ふ」というのは、これより以降、今川家は徳川氏・武田氏・後北条氏などの侵略を受けて衰退し、江戸時代には子孫が高家として僅かに家名を残したに過ぎなかった。]
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