ちや 荼【音途】 檟【音賈】 蔎【音設】
荈【音舛】
茗【音明】 【漢時荼字轉途音爲宅加反】
ミン 【今云知也】
本綱茶有野生有種生種者用子其子大如指頭正圓黒
色其仁入口初甘後苦二月下種一坎須百顆乃生一株
蓋空殻者多故也畏水與日最宜坡地蔭𠙚其木自一二
尺至數十尺木如瓜蘆葉如卮子花如白薔薇實如栟櫚
莘如丁香根如胡桃三歳可采春中採嫩葉蒸焙去苦水
末之乃可飮其葉卷者上舒者次凡雅州之產爲第一建
州之茶上供御用凡茶者下爲民生目用之資上爲朝廷
賦稅之助其利博哉【茶之稅始于唐德宗】
採茶之候太早則味不全遅則神散以穀雨前五日爲上
後五日次之再五日又次之茶芽紫者爲上靣皺者次之
團葉又之光靣如篠葉者最下なり徹夜無雲浥露採者
爲上日中採者次之隂雨中不宜採產谷中者爲上竹下
次之爛石中者又次之黃砂中者又次之
茶葉【苦甘微寒】 入手足厥陰經治隂證湯藥內入此能清頭
目下氣消食去痰熱【服威靈仙土茯令者忌茶】
[やぶちゃん注:「茯令」はママ。但し、「本草綱目」を見るに、「茯苓」となっているので、訓読では訂した。]
大抵飮茶宜熱宜少不飮尤佳空心飮茶入鹽直入腎
經且冷肺胃乃引賊入室也惟飮食後濃茶漱口去煩
膩
造茶法 新採揀去老葉及枝梗碎屑鍋廣二尺四寸將
茶一斤半焙之候鍋極熱始下茶急炒火不可緩待熟
方退火徹入篩中輕團郍數遍復下鍋中漸減火焙乾
爲度中玄微難以言顯火候均停色全美
[やぶちゃん注:驚くべきことに、以上のうち、「採茶之候」から「黃砂中者又次之」までと、「造茶法」は、「本草綱目」には載らないことが、字起こしの最中に比較して見て、判明した。調べてみたところ、「中國哲學書電子化計劃」の「張伯淵茶錄」(明代万暦年間の隠者であった張源(字は伯淵)が一五九五年頃に著した茶業に関する書。明代の製茶工程を体系的に纏め、「穀雨五日前に茶摘みをする」という季節の基準を提唱し、茶の湯の鑑別理論や製法術を詳述してある。茶摘み・茶の点前・茶の鑑別など、全二十三章から成る茶の理論体系を構築している。後世の人々から明代の茶書の中でも「最も緻密な作品」と称讃された。その技術的概要は、明末から清代初頭にかけての太湖地方に於ける緑茶技術に根底的影響を与えた。以上は「百度百科」の「张伯渊茶录」を参考にした)の「採茶」と「造茶法」が一致することが判った。今までの私の「和漢三才圖會」の多くのプロジェクトで、このような異常事態は、一度も、ない。しかも! 東洋文庫訳は、それを部分的に「後注」で、チョロっと述べているだけで――✕どこから、どこまでが、「本草綱目」ではないということが、訳文を読んでいても読者には、全く判らないのである!✕―― これはトンデモない「杜撰な訳」と言わざるを得ないと断ずるものである!]
春雨集曇るなる雨ふらぬ間につみてをけ栂の尾山の春の若草
錦繡万花谷云九經無茶字伹有荼字耳
△按茶東國通鑑云新羅國遣大廉如唐得茶子來王命
植智異山【唐文宗大和二年倭淳和天長五年】是乃朝鮮國種茶始
本朝嵯峨天皇弘仁元年茶儀式始【先於朝鮮二十年許】其後明
惠上人入唐得嘉種歸種於梅尾山
凡本朝山家土民毎且煎茶入鹽稱朝茶多飮之而無病
[やぶちゃん注:「毎且」は「毎旦」の誤刻。訓読では、訂した。]
長壽人多矣蓋反于本草之說與馴不馴之異乎伹泄
痢淋病忌之夜多飮茶則令人不寢耳
凡碾茶出於山城宇治【當比中𬜻建州北苑】煎茶城州栂尾駿州安
部郡足久保村之產爲上日向丹波蔓茶亦可江州政
所和州下市豫州不動坊並不劣其他諸國皆有之
凡種茶性畏日畏春霜故自節分後四十八日至八十八
夜用蘆簾覆其樹而自殼雨後三四日摘新芽修治之
其法和漢異【倭則蒸乾漢則焙熟】以細籠蒸之【用山茶樹或蕎麥莖灰汁蒸之色好美也】
盛繩囊絞去汁晒乾以焙籠焙之【蒸焙不鍛練人不可成】以雌
雉羽擇品精上者爲濃茶【初昔 今昔 中昔 後昔 鷹爪 數品】盛袋
藏壺以最上者獻 御用次進公侯士家其次爲詰茶
[やぶちゃん注:「御用」の前の一字空けは、敬意のそれである。訓読では詰めた。]
其極上名白【又有極詰別儀詰等之品】擇取葉不卷縮者名揃【曾々利】
一種有鮮青色者名青不佳爲淡茶
ろふ ちや
蠟 茶
本綱蠟茶用建州北苑茶碾治作餠日晒得火愈良
△按今𬜻人納蠟茶於腰壺行亦投湯吃之入藥用亦卽
蠟茶也久不敗而不似新碾茶香者故倭不用之
[やぶちゃん注:「ろふ」はママ。歴史的仮名遣は「らふ」。]
がいじちや
孩兒茶
五雜組云藥中有孩兒茶醫者盡用之而不知其所出考
本草諸書亦無載之者出南番中係細茶末入竹筒中緊
塞兩頭投汚泥溝中日久取出搗汁熬製而成俗因治小
兒諸瘡故名
ちやのゆ
茶湯 俗云數寄
茶經云茶湯如蟹眼及連珠者爲萠湯直至湧沸如騰波
鼓浪水氣全消方是純熟如振聲驟聲共爲萠湯直至無
聲方是純熟如浮氣一二縷三四縷及縷亂不分者爲萠
湯直至氣冲貫方是純熟
凡投茶于噐有序先茶後湯【謂之下投】湯半下茶復以湯滿者
【謂之中投】先湯後茶【謂之上投】春秋中投夏上投冬下投
飮茶以客少爲貴獨啜曰神二客曰勝三四曰趣五六曰
泛七八人曰施
△按本朝茶儀式雖始於嵯峨朝其盛行也始于東山殿
【源義政公】選索和漢陶噐盂盒釜爐等珍貴者請客與吃茶
謂之數寄有相阿彌者【東山殿之扈從】精茶湯事今人以相阿
彌爲師祖而後珠光宗珠紹鷗宗昜及小堀遠江守等
皆善之古田織部千利休道安宗及慶首座細川三齋
瀨田掃部【以上呼七人衆】以爲中興之祖其外桑山佐久閒
之二士宗古宗知宗和之軰亦皆鳴于世
*
ちや 荼《ちや》【音「途《ト》」。】
檟《か》【音「賈」《カ》。】
蔎《せつ》【音「設」。】
荈《せん》【音「舛《セン》」。】
茗【音「明《ミン》」。】
【漢の時、「荼」≪の≫字、
「途」の音の轉じて、「宅」
・「加」の反と爲《なす》。】
ミン 【今、云ふ、「知也《ちや》」なり。】
「本綱」に曰はく、『茶、野生、有り、種生《たねうゑ》、有り。種は、子《み》を用《もちひ》ふ。其《その》子、大いさ、指≪の≫頭《かしら》のごとく、正圓にして、黒色。其《その》仁《にん》、口に入れば、初《はじめ》は甘く、後《のち》、苦し。二月に、種を下《くだ》す。一坎《ひとあな》に百顆《ひやくくわ》を須(もちふ。乃《すなは》ち、一株(かぶ)を生ず。蓋し、空-殻(から)の者、多き故《ゆゑ》なり。畏《おそらく》は、水と、日と、最も坡-地(たかみ)の蔭-𠙚(かげ)に、宜《よろし》。其《その》木、一、二尺より數十尺に至る。木、瓜蘆(なんばんちや)のごとく、葉は、卮子(くちなし)のごとし。花は、白薔薇のごとく、實は、栟櫚《しゆろ》のごとく、莘(くき)[やぶちゃん注:この字は「茎」の意はない。「廣漢和辭典」を見ると、『長い形容』・『多い形容』(以下、『細莘』(サイシン)で『みらのねぐさ』(コショウ目ウマノスズクサ(馬の鈴草)科カンアオイ(寒葵)属ウスバサイシン(薄葉細辛) Asarum sieboldii の古名)で、その後は旧中国の国名・地名・県名が並ぶが、省略))とあるだけである。しかし、「本草綱目」の原文を見るに、確かにこの字が使われている。冒頭の二つの意味から、「細長い茎」と採れなくもないが、或いは、時珍が「莖」の字を誤った可能性が高いように思われる。而して、東洋文庫訳の『茎』に倣って、かくルビを振った。]丁香《ちやうかう》[やぶちゃん注:チョウジ。「卷第八十二 木部 香木類 丁子」を見よ。]のごとく、根は胡桃(くるみ)のごとし。三歳にして、采《と》るべし。春中《しゆんちゆう》、嫩葉(わかば)を採り、蒸-焙《むしあぶ》り、苦水《にがみづ》を去《さる》を、之《これ》≪を≫末《まつ》≪に≫して、乃《すなはち》、飮むべし。其《その》葉、卷く者は、上《じやう》なり。舒《のぶ》る者は、次ぐ。凡そ、雅州[やぶちゃん注:現在の四川省。]の產、第一と爲す。建州[やぶちゃん注:現在の福建省。]の茶は、御用に上-供(たてまつ)る。凡そ、茶は、下(《し》も)、民生目用の資(たすけ)と爲《な》り、上(《か》み)、朝廷≪の≫賦稅の助《たすけ》と爲る。其《その》利、博《ひろき》かな【茶の稅は、唐の德宗[やぶちゃん注:中唐後期の第十二代皇帝。在位は七七九年から八〇五年まで。]に始《はじま》る。】。』≪と≫。
「張伯淵茶錄」に曰はく[やぶちゃん注:既に述べた通り、ここは「本草綱目」の引用ではないので、太字部で私が附した。]、『茶を採るの候《こう》、太《はなは》だ早き時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、味、全《まつた》からず、遅《おそき》時は、則《すなはち》、神《しん》、散ず。穀雨《こくう》[やぶちゃん注:「二十四気」の一つで、「清明」の次に来る季節。春の季節中の最後に相当する。穀物を潤す春雨の意から。現行の四月二十一日頃。]の前《まへ》五日《いつか》≪を≫以《もつて》、上≪と≫爲《なし》、後《あと》五日、之≪れに≫次≪ぎ≫、再《ひたたび》、五日、又、之≪れに≫次ぐ。茶≪の≫芽、紫なる者を、上と爲《なす》。靣《おもて》≪の≫皺《しは》む者、之≪れに≫次ぐ。團《まろき》葉、又、之≪れに≫次ぐ。光≪れる≫靣、篠《しの》[やぶちゃん注:単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科メダケ(雌竹)属メダケ Pleioblastus Simonii の異名。]の葉ごとくなる者、最下なり。徹-夜(よもすがら)、雲、無く。露に浥(ぬ)れて採《とる》者を、上と爲《なす》。日中に採る者、之≪れに≫次ぐ。隂雨《いんう》[やぶちゃん注:空が曇り、しとしとと雨が降り続く状態。]の中《うち》、宜しからず。採るに、谷の中に產する者、上と爲《なす》。竹の下、之≪れに≫次ぐ。爛石《らんせき》[やぶちゃん注:茶道で「茶の生育に適した肥沃な土壌」を指す語。]の中の者、又、之≪れに≫次《つぐ》。黃砂《かうさ》[やぶちゃん注:黄色の堆積土。第四氷期に砂漠地域から風に運ばれて中国北部・中部などに堆積したもの。]の中の者、又、之≪れに≫次ぐ。』≪と≫。
「本綱」に曰はく、[やぶちゃん注:ここと、次の部分は「本草綱目」の引用であるので、太字部で私が附した。]、『茶葉【苦、甘。微寒。】』『手足≪の≫厥陰經に入《いり》、隂證を治す。湯藥の內に此《これ》を入《いれ》て、能く、頭・目を清《きよくする》なり。氣を下《くだ》し、食を消《しやう》し、痰熱《たんねつ》を去る【「威靈仙《いりやうせん》」・「土茯苓《どぶくりやう》」を服する者、茶を忌む。】。』≪と≫。
『大抵、茶を飮むに、熱(あつ)きが宜《よろ》し、少《すくな》きに宜し。飮≪ま≫ざるは、尤《もつとも》佳≪き≫なり。空-心(すきばら)に茶を飮≪むに≫、鹽を入《いる》れば、直《ただち》に、腎經《じんけい》に入り、且つ、肺・胃を冷《ひや》し、乃《すなは》ち、賊(ぬすびと)を引《ひき》て室(なか)に入るゝ≪ごとき≫なり。惟《た》だ、飮食の後《のち》、濃ひ[やぶちゃん注:ママ。]茶(ちや)にて、口を漱(すゝ)げば、煩《わづら》≪はしき≫膩《あぶら》を去るのみ。』≪と≫。
[やぶちゃん注:「手足≪の≫厥陰經」東洋文庫訳の後注に、『人体をめぐる十二経脈の うち。手の厥陰心包経は胸の中からおこり』、『心包に入り、橫隔膜を通って上・中・下焦につなぐ。支脈は胸から側胸部に出て腕に入り、その内面中央を通り中指の末端に終る。足の厥陰肝経は足の拇指からはじまり』、『大腿内部をのぼって陰部へ入る。次いで下腹部を通り肝に入り、胆から側胸部に分布し、気管・喉頭から眼球に達し頭頂に出る。支脈は眼球から頰・唇をめぐる。もう一つは肝から肺に入り、ついで胃のあたりまで下る。』とある。]
「張伯淵茶錄」に曰はく[やぶちゃん注:先と同前。]、『茶を造る』法。『新《あらた》に採《とり》て、老葉《らうえふ》、及び、枝-梗《えだ》≪の≫碎屑《くだけくづ》を揀《よ》≪りて≫去《さり》、鍋、廣さ、二尺四寸≪に≫、茶一斤半[やぶちゃん注:一斤は宋代では五百九十七グラムであるから、八百九十六グラム。]を將《もつて》、之《これ》≪を≫焙《あぶる》。鍋、極熱《ごくねつ》を《✕→となるを》候(うかゞ)ひて、始め≪て≫、茶を下《くだ》して、急に炒る。火、緩《ゆる》ふすべからず。熟す時を[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]待《まち》≪て≫、方(《ま》さ)に、火を退《しりぞけ》、篩(とをし)[やぶちゃん注:「とをし」はママ。歴史的仮名遣は「とほし」。「篩通し」のこと。ウィキの「篩」によれば、『本来は粗い目のものを「通し」、細かい目のものを「ふるい」というが、混用されており』、『厳密に区別することも困難とされる』とある。]の中に徹入《とほしいれ》、輕く團(まは)すること、郍數遍《だす(う)へん》[やぶちゃん注:「郍」は極めて稀な漢字で、中文サイトで調べ、取り敢えず、「多く繰返して」の意味で採っておく。]、復た、鍋の中に下《くだし》、漸《やうや》く、火を減じ、焙り、乾くを、度《たびたび》と爲《なす》[やぶちゃん注:前に書かれた作業を何度も繰り返すことを言っている。]。中《なか》を[やぶちゃん注:状態がちょうどよい具合になった状態を。東洋文庫訳に拠った。]「玄微」と爲《なす》。≪而れども、その樣(さま)は、≫言《ことば》を以《もつ》て言《いふ》を顯はし難し。火候《くわこう》[やぶちゃん注:火加減。]≪の≫均停《きんてい》≪ならば≫[やぶちゃん注:均一に与えられたならば。]、色、全《まつた》く美なり。』≪と≫。
[やぶちゃん注:「元微」東洋文庫訳の後注に、『あるいはこれは微妙な、えもいわれぬ味わいのもの、という意味か。ここは張伯淵の『茶錄』を引用した文であるが、『茶錄』にはこのあとに「玄微いまだ究めざれば神味ともに疲れる」とある。』とある。]
「春雨集《しゆんうしふ》」
曇るなる
雨ふらぬ間に
つみてをけ
栂《とが》の尾山の
春の若草
[やぶちゃん注:「春雨集」東洋文庫訳の巻末の書名注に、「は行」の中にあるので、「はるさめしふ」と読んでおくが、そこには『『春雨抄』のことか。十巻。「しゅんうしょう」とも呼ぶ。鱸(すずき)重常撰。明暦三年(一六五七)刊。歌語をいろは順に並べ、その引用例歌をあげ、出典を明示し、注釈をほどこした歌学書。』とある。「国書データベース」の同書の写本で、「若草」等の幾つかの歌語で調べたが、私の見た限り、見つからなかった。国立国会図書館デジタルコレクションで「春雨抄 栂の尾山の」で検索すると、十一のヒットがあり、この歌が載る。それでも、総てが「春雨抄」からの引用であり、この歌の作者や原歌の所在は不明である。]
「錦繡万花谷《きんしうばんくわこく》」に云はく、『九經《きうけい/きうきやう》、「茶」の字、無く、伹《ただし》、有「荼」の字、有るのみ。』≪と≫。
[やぶちゃん注:「錦繡万花谷」東洋文庫訳の巻末の書名注に、『前集・後集・続集各四十巻、全百二十巻。撰者不明。多くの古跡籍を利用し、宋代の逸詩や逸詩が多く載っているので有名。』とある。
「九經」中国の九種の経書(けいしょ)。「詩經」・「書經」・「易經」「儀礼」・「禮記」(らいき)・「周禮」・「春秋左氏傳」・「春秋公羊傳」・「春秋穀梁傳」。一説に、「易經」・「詩經」・「書經」・「禮記」・「春秋」・「孝經」・「論語」・「孟子」・「周禮」を指すとも。]
△按ずるに、茶は、「東國通鑑《とうごくつがん》」に云《いはく》、『新羅國より大廉をして唐に如(ゆ)か[やぶちゃん注:「如」には動詞として「行く・赴く」の意がある。]しめて、茶の子(み)[やぶちゃん注:原本は「コ」と振ってあるように見えるが、本プロジェクトで植物の「実」(み)を「コ」と振るケースは極めて稀であるので、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該部のルビを採用した。]を得て、來《きた》る。王命《わうめい》して智異山《チリさん》[やぶちゃん注:当該ウィキによれば、現在の『大韓民国南部の全羅南道・全北特別自治道・慶尚南道に』跨る、『小白山脈の南端に位置する山並の総称。国内で最も標高が高い済州島の漢拏山に次いで二番目に高い山であり、離島を除いた韓国本土の最高峰』で『仏教の聖地ともされて』いる。ここ(グーグル・マップ・データ)。「チリ」の山名は、そこにある朝鮮語の日本語音写を採用した。]に植《うう》ると云《いへ》り[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]【唐の文宗大和二年、倭の淳和《じゆんな》天長五年。[やぶちゃん注:ユリウス暦八二八年。平安初期の淳和天皇は桓武天皇の第三皇子。]】。是れ、乃《な》い[やぶちゃん注:「乃」は漢文で接続の助字であり、「乃至」(ないし)で判るように、「すなはち」の古い訓読である。]、朝鮮國に茶を種《うう》る始《はじめ》なり。』≪と≫。
[やぶちゃん注:「東國通鑑《とうごくつがん》」朝鮮の三国及び高麗時代の編年体通史。朝鮮李朝の世祖成宗の命により、徐居正らが撰した。全五十六巻・外紀一巻。「三國史記」(高麗十七代仁宗の命を受けて金富軾が撰した三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書で、一一四五年成立)・「三國遺事」(十三世紀末に高麗の高僧一然によって書かれた私撰史書)や、中国側史料を採った通史。]
本朝には、嵯峨天皇弘仁元年[やぶちゃん注:八一〇年。嵯峨天皇は弘仁一四(八二三)年に大伴親王(淳和天皇)に譲位し、太上天皇となった。]、茶の儀式、始《はじむ》る【朝鮮に先《せんず》ること、二十年許《ばかり》。】。其後《そののち》、明惠上人、入唐《につたう》、嘉《よき》種《たね》を得、歸り、梅尾山《とがのをさん》[やぶちゃん注:明恵所縁の京都市右京区梅ケ畑栂尾町(うめがはたとがのおちょう)にある栂尾山高山寺(とがのおさんこうさんじ:グーグル・マップ・データ)。]に種《うう》。
[やぶちゃん注:「弘仁元年、茶の儀式」東洋文庫訳の後注に異様にリキを入れて、記す。『何を指すか不明。あるいは毎年、天下泰平を祈祈願して宮中で行なわれる季御(きのみ)読経』(平凡社「世界大百科事典」に拠れば(コンマは読点に代えた)、『宮廷仏教年中行事の一つ。宮中において毎年春秋の二季』、二月と八月に、『衆僧によって大般若経を転読する儀式』。天平元(七二九)年四月八日『が起源と伝えられ、貞観』(八五九~八七七年)の頃『より、毎年行われていたという。また、摂関期には藤原道長の邸においても行われており、道長の日記』「御堂關白記」『には、宮中の行事を』「季御讀經」、『道長邸のそれを』「季讀經」『と書いている。また,平安時代には』、四『日間行われることが多く』二『日目に引茶(ひきちゃ)を僧および侍臣等にたまうことがあり』、三『日目は論義を行っている。論義は秋にはないのを例としているが、論義の文献にみえるはじめは』、天元五(九八二)年三月二十五『日である』とある)の儀式を指すか。これは四日間行なわれ、その二目目に引茶の儀式がある。しかし四日間行なわれるようになるのは天慶元年(八七七)以後のことで、弘仁年間(八一〇~八二三)に引茶の儀式があったかどうかは分からない。嵯峨天皇と飮茶の關係を示す初見の史料として現在認められているのは]「日本後紀」『弘仁六年四月の条で、嵯峨天皇が近江に行幸し、崇福寺に参詣した折、大僧都永忠が天皇に茶を煎じて奉ったとあるものである。そして同書、同年六月の條に、天皇は畿内とその周邊の國に茶を植えさせ、每年献上させたと見えている。』とあった。
さても。最後の「明惠上人」のそれは、とんでもない誤りである(これは流石に東洋文庫訳でも後注で指摘してある)。私はブログ・カテゴリ「明恵上人夢記」及び『「栂尾明恵上人伝記」【完】』を電子化注しており、彼については、素人ではない。彼は天竺行を二度、計画したものの、孰れも断念しており、彼は入唐(当時は金・南宋)などしていないのである(私の「栂尾明恵上人伝記 27 二度目の天竺渡航断念」を見よ)。大方御存知の通り、茶を本邦に移入したのは、本邦の臨済宗開祖榮西(えいさい/ようさい 永治元(一一四一)年(異説あり)~建保三(一二一五)年)で、著名な「喫茶養生記」を著した彼である。但し、彼と華厳宗中興の祖と称される気骨の明惠上人と「茶」は重大な関係があり、実際に明惠のいた梅尾山高山寺に榮西が彼を訪ね、持ち帰った茶の苗をプレゼントしているのである。これは、「梅尾山高山寺 とがのおさん こうさんじ」公式サイト内の「日本最古の茶園」を見られたいが、引用しておく。梅尾山高山寺はここ(グーグル・マップ・データ)。『高山寺は日本ではじめて茶が作られた場所として知られる。栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。最古の茶園は清滝川の対岸、深瀬(ふかいぜ)三本木にあった。中世以来、栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶と呼ぶ。「日本最古之茶園」碑が立つ現在の茶園は、もと高山寺の中心的僧房十無尽院(じゅうむじんいん)があった場所と考えられている。現在も』、五『月中旬に茶摘みが行われる』とある。]
凡《およそ》、本朝山家《やまが》の土民、毎旦、煎り茶に鹽を入れ、「朝茶《あさちや》」と稱して、多《おほく》、之を飮む。而《しかも》、無病にして、長壽≪の≫人、多す。蓋し、「本草≪綱目≫」の說に反す。馴(なれ)ると、馴《なれ》ざるの異か。伹《ただし》、泄痢《せつり》[やぶちゃん注:下痢。]・淋病に、之を忌む。夜、多《おほく》茶を飮めば、則《すなはち》、人をして寢《ねむれざら》しめるのみ。
凡《およそ》、碾茶(きひちや)は山城≪の≫宇治に出づ【當《まさ》に中𬜻の建州の北苑《ほくゑん》に比すべし。】。煎茶(せんちや)は、城州栂尾・駿州安部郡《あべのこほり》足久保村[やぶちゃん注:現在の静岡県静岡市葵区足久保口組(あしくぼくつぐみ:グーグル・マップ・データ・以下、無指示は同じ)。]の產、上と爲す。日向・丹波の「蔓茶《つるちや》」も亦、可なり。江州政所(まん《どころ》)[やぶちゃん注:現在の滋賀県東近江市永源寺高野町(えいげんじたかのちょう)。]・和州の下市[やぶちゃん注:現在の奈良県吉野郡下市町(しもいちちょう)。]・豫州の不動坊[やぶちゃん注:東洋文庫訳割注では、『(現在地未詳)』とするが、名茶であるのだから、判らないというのは、如何にもおかしい。調べてみると、現在の愛媛県四国中央市富郷町(とみさとちょう:この附近)に、今は、殆どが、自家消費の銘茶「富郷茶」(とみさとちゃ)があることが、WEBマガジン「えひめのタネ」の『四国中央市の知る人ぞ知る特産品「富郷茶」』で判った。私は「富郷」を「不動」と読み誤った聴き書きの可能性(「坊」(ぼう)は「郷」(ごう)の誤認か)を指摘しておきたいと思う。]、並《ならび》に、劣らず。其他《そのほか》、諸國、皆、之《これ》、有り。
[やぶちゃん注:「北苑」東洋文庫訳を参考(一部データが古いため)にすると、現在の福建省南平市の代理管轄下にある建甌(けんおう)市の東にある「北苑公園」(グーグル・マップ・データ)が当該地。KANAME氏のブログ『KANAME「平安如意」~心の旅~』の『「北苑御焙遺址」 ~中国福建省へ~』に、『近年発掘された貴重な遺跡「北苑御焙遺址」』とあり、『発掘調査によると、ここは中国で発見された最古の官営茶園跡だということが判明』したとある。『北苑貢茶(ほくえんこうちゃ)は唐末五代十国から始まります。南唐、両宋を経て、元、明に武夷御茶と二園で明王朝の洪武二十四年』(一三九一年)『まで、四百五十『年余りにわたって宮廷への御貢が続きました』。『北苑貢茶「龍団鳳餅(りゅうだんほうへい)」などが、数朝にわたり』、『献上茶として製造されました。龍団鳳餅は、表面に龍や鳳凰の絵柄をあしらった固形状のお茶のことです』。『北宋の周絳(しゅうこう)の』「補茶經」『には、「天下の茶は建(福建省)を最高とし、また』、『建の北苑を最高とする」という記載があります』とある。現在も茶畑が広がる写真もあるので、是非、見られたい。以下、東洋文庫訳の「北苑」の後注。『北苑茶は五代南唐から宋にかけての時代、最高級の団茶』(蒸した茶葉を臼で搗いて固めて作られる固形茶で、紅茶・緑茶などを煉瓦状に固形化して作られるものは「磚茶」(たんちゃ)とも呼ばれる。詳しくは参照したウィキの「団茶」を見られたいが、そこには『「団茶」という名称は宋代になって一般的に用いられるようになったと言われ』、『その形状は円形に限らず、球形・半球系・方形・中央に穴の空いた銭団茶など様々である』とあった)『として宮廷で愛飮された。『夢溪筆談』』三『(平凡社東洋文庫・梅原郁訳注)の「袖筆談」巻一弁証の中に北苑茶についての記事がある。』とあった。]
凡《およそ》、茶を種《うゑ》るに、性、日《ひ》を畏る、春の霜を畏る故、節分の後《あと》より、四十八日、八十八夜に至《いたり》て、蘆-簾《よしず》を用《もちひ》て、其《その》樹を覆《おほひ》て、殼雨より後、三、四日、新芽を摘(つ)み、之≪を≫修治す。其《その》法、和漢、異なり【倭には、則《すなはち》、蒸乾《むしほし》、漢には、則、焙り熟す。】、細《こまか》なる籠を以《もつて》、之≪を≫蒸す【山-茶(つばき)の樹、或いは、蕎麥(そば)の莖(から)の灰汁《あく》を用《もちひ》て、之れを蒸せば、色、好《よく》、美なり。】。繩の囊《ふくろ》に盛りて、汁を絞(しぼ)り去≪り≫、晒乾《さらしほし》、焙-籠(ほいろ)[やぶちゃん注:所謂、「焙籠」(あぶりかご・あぶりこ:炭火の上に伏せて置き、その上に衣類を掛けて、あぶり乾かすための、古くからある竹製の籠。「伏籠」(ふせご))と同じ構造で、茶葉・薬草・海苔などを、下から弱く加熱して乾燥させる道具。元来は、木枠や籠の底に厚手の和紙を張ったもので、炭の遠火で用いた。伝統的な製法では、茶は蒸した茶葉を、この上で手で揉みながら乾燥させる。]を以《もつて》、之≪を≫焙《あぶ》る【蒸焙《むしあぶり》≪は≫、鍛練の人にあらざれば、成らざるべし。】。雌雉《めすきじ》の羽を以て、品を擇《えら》む。精上《せいじやう》なる者を「濃茶《こいちや》」と爲《なす》【「初昔《はつむかし》」・「今昔《いまむかし》」・「中昔《なかむかし》」・「後昔《のちむかし》」・「鷹爪《かたづめ》」、數品《すひん》≪あり≫。】。袋に盛《い》れ、壺に藏《をさ》む。最上の者を以《もつて》、御用に獻《ささ》ぐ。次に、公侯・士家《しけ》に進《しんず》。其次を「詰茶(つめ《ちや》)」と爲《なし》、其極上を「白(しろ)」と名づく【又、「極詰《ごくづめ》」・「別儀詰《べつぎづめ》」等の品、有り。】。葉を取《とりて》卷-縮(《まき》ちゞまざる者を擇《えらみ》、「揃(そそり)」【「曾々利」。】と名づく。一種、鮮青色の者、有《あり》、「青《あを》」と名づく。佳ならず。「淡茶」(うす《ちや》)と爲《なす》。
[やぶちゃん注:小学館「日本国語大辞典」(私は初版を所持している)の「茶銘」に、『茶の湯に用いる抹茶の銘。』(ネットの「コトバンク」の「精選版」では、ここに『室町末期、』とある)『極無上(ごくむじょう)・無上・別儀(べちぎ)などの銘がつけられた。江戸時代になると宇治茶に初昔(はつむかし)・後昔(のちむかし)・祖母昔(そぼむかし)・今昔(いまむかし)・白昔(しろむかし)・好(このみ)の白・祝(いわい)の白・一の白・二の白などという銘が現われた。現今では、茶道各流の家元の好みによって、さまざまな茶銘がつけられている。』とあり、別に「コトバンク」の小学館「日本大百科全書」の同項には、『茶葉につけられた名前。等級によって茶葉が区別されるようになったのは室町時代中期のことと考えられる。当初は吉(よし)、ヒクツ、安茶、番茶などの名が中心であった。その後、天文(てんぶん)年間』(一五三二年~一五五五年)『になると、別儀(べちぎ)、無上(むじょう)、揃(そそり)、砕(くだけ)、簸屑(ひくず)、山茶などの名がつけられて、品質の区別がなされている。この場合、別儀・無上は濃茶(こいちゃ)、他は薄茶用に使われるのが通常である。別儀の名のおこりは、村田珠光(じゅこう)』(応永三〇(一四二三)年~文亀二(一五〇二)年:室町中期の茶人。大和の人。幼名は茂吉。一休宗純に参禅し、禅院での茶の湯に点茶の本意を会得したとされ、「侘び茶」(書院に於ける豪華な茶の湯に対し、村田以後、安土桃山時代に流行し、千利休が完成させた茶の湯で、簡素簡略の境地、即ち、「わび」の精神を重んじたもの)を創始して茶道の開祖となった)『の弟子であった筆屋が茶会を催したとき、無上の袋を茶壺』『から抜き出して卓上に広げ、好き葉ばかりを細箸』『で選び、臼』『でひいて客に供したところ、その美味に驚いて茶の銘を尋ねたため、別儀にいたしました』、『と答えたところからおこったと伝えている。また、茶葉の蒸しを常の葉とは別にして蒸させたために、「よき茶」の代名詞と考えられるようになったともいう。ともあれ、茶銘の原初的な姿である。江戸時代に入ると、宇治茶では「白」や「昔」の名が使われるようになる。白は新茶を蒸して製茶すると』、『白くなるところから名づけられた銘』である。『昔は』二十一『日を意味する合わせ字で(廿一日を詰めた字)、旧暦』三月二十一日『に茶の葉を摘み始めたことからとか、春分の日から』二十一『日目に摘んだ葉であるからとか、いろいろな伝えがある。その後、茶銘は茶会に一つの景色(けしき)を添えるものとなり、大名や僧侶』・『茶道家などがそれぞれ自由な銘をつけることが多くなった。現代では、茶商の商標として、各宗匠の好みによって種々の茶銘がつけられている。』とある。]
ろふ ちや
蠟 茶
「本綱」に曰はく、『蠟茶《らふちや》は、建州北苑の茶を用《もちひ》て、碾(ひ)き治《をさめ》て、餠《もち》と作《なし》、日に晒す。火《くわ》を得ると、愈《いよいよ[やぶちゃん注:送り仮名に踊り字「く」のみがある。]》、良し。』≪と≫。
△按ずるに、今、𬜻人、蠟茶を腰壺(いんらう)[やぶちゃん注:「印籠」。]に納(い)れて行《ゆきゆく[やぶちゃん注:送り仮名に踊り字「〱」のみがある。]》。亦、湯に投じて、之を吃《きつ》す。藥用に入《いる》るも亦、卽《すなはち》、「蠟茶」なり。久《ひさしく》して、敗《はい》せず。而れども、新≪しき≫碾茶《ひきちや》≪の≫香《か》なる者に似ず。故《ゆゑ》、倭、之≪れを≫用≪ひ≫ず。
[やぶちゃん注:「蠟茶」小学館「日本国語大辞典」には、『茶の一種。茶を餠のようにかため蝋を塗ったものか。』とし、初出例を「看聞御記」永享四(一四三二)年二月六日の条を挙げる。他に、「コトバンク」で引くと、上記の他に「団茶」が並置されてあり、『茶の葉を蒸し、茶臼でついてかたまりにしたもの。削って使用する。中国唐代の飲茶法で、日本では奈良・平安時代に流行した。らっちゃ。』とするが、この本邦の初出例は一五〇〇年頃のものであるから、厳密には「蠟茶」とは、異なるものであろう。]
がいじちや
孩兒茶
「五雜組」に云《いは》く、『藥中に、孩兒茶、有り。醫者、盡《ことごと》く、之を用ふ。而れども、其《その》出《いづ》る所を知らず。考《かんがふ》れども、本草≪の≫諸書を考《かんがふ》れども、亦、之を載する者。無し。南番[やぶちゃん注:「南蠻」に同じ。]の中《うち》に出づ。細茶《さいちや》の末《まつ》≪に≫係《かかり》、竹筒《たけづつ》の中に入《いれ》、緊《きび》しく兩頭《るやうとう》を塞(ふさ)ぎ、汚-泥(せゝなげ)の溝《みぞ》の中に投《なげ》、日、久《ひさし》く≪して≫、取出《とりいだ》し、搗《つ》≪きて≫、汁《しる》を熬《い》り、製して、成る。俗、因《より》て、小兒の諸瘡を治≪す≫。故に名づく。』≪と≫。
[やぶちゃん注:「五雜組」複数回既出既注。初回の「柏」の注を見られたい。以下は「卷十一」の「物部三」で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書のここの左丁の七行目から、ここの右丁部分に当たる記述をパッチワークしたものである。以下に画像の訓点を参考に(但し、送り仮名は、かなり肯ん得ぬもので、あまり、役に立たない)私が訓読したものを電子化して示す。一部で正字化し、記号を加えた。
*
藥中に「孩兒茶」有り、醫者、盡(ことごとく)に、之れを用ひて、其の自(おのづか)ら出(いづ)る所(ところ)を知らず。歷(れきれき)の本草の諸書を考ふるに、亦、之れ、載る者、無し。一(いつ)に云はく、「南番の中に出づ。」と。細茶の末に係れるものにて、竹筒の中に入れ、緊(きつ)く兩頭(りやうとう)を塞(ふさ)ぎ、汚泥の溝の中投ず。日、久しくして、取り出だし、汁に搗き、熬(い)り、製して、成る。一に云はく、「卽ち、是れ、井(ゐ)の底の泥、之れを煉(ね)りて、以つて、人を欺(あざむ)のみ。」と。畨人、呼んで、「烏爹泥(うたでい)」と爲(な)す。又、呼んで「烏疊泥(うじやうでい)」と爲す。俗、因りて、小兒の諸瘡を治す。故に「孩兒茶」と名づくなり。
*
良安は、怪しげな似非薬として著者謝肇淛が記している箇所を恣意的に除去しており、医師の風上にもおけない不全引用をしていることが判るのである。]
ちやのゆ
茶湯 俗、云《いふ》、「數寄(すき)」。
「茶經」に云はく、『茶の湯は蟹の眼、及《および》、連珠のごとくなる者、「萠湯《ばうたう》」と爲《なす》。直《ただち》に湧沸(わか)して、騰波鼓浪《とうはこらう》のごとくなる水氣、全く、消《きゆ》るに至る。方(まさ)に是れ、「純熟《じゆんじゆく》」なり。振《ふるる》聲《こゑ》・驟《はし》≪れる≫聲≪の≫ごとくなる≪は≫、共に「萠湯」と爲《なす》。直《じき》に、聲、無に至る。方《まさ》に是れ、「純熟」≪なり≫。氣、浮《うき》、一、二縷《すぢ》、三、四縷、及《および》、縷、亂《みだり》に分《わか》たざるごとき者、「萠湯」なり。直《ただち》に、氣、冲貫《ちゆうくわん》[やぶちゃん注:「激しく貫通する」の意か。]に至る。方《まさ》に是れ、「純熟」なり。』≪と≫。
『凡《およそ》、茶を噐《うつは》に投ずるに、序《じよ》[やぶちゃん注:順序。]、有り。茶を先《さきに》して、湯《ゆ》を後《あとに》す【之れを、「下投《げとう》」と謂ふ。】。湯の半《なかば》へ、茶を下《くだ》し、復《また》、湯を以《もつて》滿《みたす》る者を【之れを「中投」と謂ふ。】。湯を先にして、茶を後《あとに》す≪を≫【謂之れを「上投」謂ふ。】。春・秋は中投、夏は上投、冬は下投≪にす≫。』≪と≫。
『茶を飮むに、客《きやく》、少きを以《もつて》、貴《とうと》しと爲《なす》。獨り、啜(すゝ)るを「神《しん》」と曰《いふ》。二客《にきやく》を「勝《しやう》」と曰《いふ》。三(み)たり四(よ)たりを、「趣《しゆ》」と曰《いふ》。五、六を、「泛《へん》」と曰《いふ》。七、八人を、「施《し》」と曰《いふ》。』≪と≫。
[やぶちゃん注:「茶經」「茶錄」(=「張伯淵茶錄」)の誤り。]
△按ずるに、本朝≪の≫茶の儀式、嵯峨朝に始《はじま》ると雖《いへども》、其の盛《さか》んに行(はや)ることや、東山殿【源義政公。】[やぶちゃん注:足利義政。]に始る。和漢の陶噐・盂《はち》・盒《わん》・釜《かま》・爐《ろ》等、珍貴なる者を選索《せんさく》≪し≫て、客を請《せい》して、與(とも)に茶を吃(きつ)す。之《これ》を「數寄《すき》」と謂《いふ》。「相阿彌《さうあみ》」と云ふ[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]者【東山殿の扈從《こじゆう》。】、有り。茶の湯の事に精(くは)し。今の人、相阿彌を以て、師祖と爲《なし》、而して後《のち》、珠光《じゆくわう》・宗珠《そうしゆ》・紹鷗《じやうわう》・宗昜《そうえき》、及《および》、小堀遠江の守等、皆、之《これ》≪を≫善《よ》くす。古田織部・千利休・道安《だうあん》・宗及《そうきゆう》・慶首座《けいすざ》・細川三齋《ほそかはさんさい》・瀨田掃部《せたかもん》【以上、「七人衆」と呼ぶ。】、以《もつて》、「中興の祖」と爲《なす》。其≪の≫外、桑山・佐久閒の二士、宗古・宗知・宗和が軰《はい》、亦、皆、世に鳴る。[やぶちゃん注:ここに出る茶人群に就いては、私自身、本邦の茶道に全く興味が沸かぬ。東洋文庫の後注にゴッソりと後注があるので、以下の注の最後にそれを引用して、文字通り、お茶を濁しておくこととする。言っておくと、人生の中で、唯一、茶道関係で感動したことがある。小学校四年生ぐらいだったか、父母と大磯に遊んだ際、当時、そこにあった国宝の茶室「如庵(じょあん)」を見た時であった。初夏の日曜日の午後だったが、見学者は誰もいなかった。老人の管理者が「今日は初めてのお客様で、この後も誰も来ないでしょうから、見学料は結構です。」と言い、親切にも、庭から茶室内部まで、こと細かく案內してくれた。私がちゃんとした茶室に入ったのも、静かな青々とした茶室庭園を見たのも初めてだった。とある部屋には、来訪した総理大臣や外国から来た要人らの写真が掛けられてあった。その静けさに、子ども乍ら、ひどく感激したのを覚えている。恐らく、四十分近くいた……。なお、「如庵」は昭和四七(一九七二)年、愛知県犬山市犬山御門先(いぬやまごもんさき)に移築され、通常は非公開で見学不可であるが、特別公開日には内部公開されているというから、私の体験は、今では、望むべきもない。しかも、写真を見ると、茶室だけが突っ立っているだけで、静謐な雰囲気は、およそ、望むべきも、ない…………]
[やぶちゃん注:日中ともにタイプ種は、
双子葉植物綱ツツジ目ツバキ科ツバキ属チャノキ(茶の木) Camellia sinensis
であるが、ウィキの「チャノキ」によれば、『世界で主に栽培されているチャノキは』、
基準変種チャノキ Camellia sinensis var. sinensis
と
アッサムチャ Camellia sinensis var. assamica
『であり』、『茶業においては』、『前者を中国種、後者をアッサム種という』(太字はママ)とある。以下、ウィキの「チャノキ」を引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『野生では高木になるが、栽培樹は低木に仕立てられる。加工した葉(茶葉)や茎から湯・水で抽出した茶が飲用される。チャの木あるいは茶樹とも記され、単にチャ(茶)と呼ぶこともある』。『原産地はインド、ベトナム、中国西南部とされるが』、『詳細は不明。茶畑での栽培のほか、野生化した樹木を含め』、『熱帯から暖帯のアジアに広く分布する。日本の野生樹は、主に伊豆半島や九州地方などに自生する。また、公園などにも植えられる』。『世界的な視点で言えば、チャ栽培の北限はジョージア、南限はニュージーランドとされている。短い期間なら霜にも耐えられるため、インド北東部のダージリン地方、台湾やセイロン島中央の山地といった高所の栽培に向いている。アッサム種は熱帯あるいは亜熱帯原産であるため寒さに弱い。暑くても乾燥した気候には弱く、旱魃(干害)で枯れ込むこともある。中国種はアッサム種よりも寒さに強く、海抜』二千六百『メートルでも育成可能とされている。 チャは酸性土壌を好む植物であり、酸性化が進んでいる土壌への耐性が比較的強い。また、本来は陽樹に区分されるが、日射量が少ない環境にさらされても』、『生き延びることができるという、耐陰性に優れた特性を持っている』。『前述の通り』、『原産地は不明であるが、広まったのは中国からといわれ、漢名(中国植物名)は茶(ちゃ)。標準和名チャノキの語源は、中国から茶が渡来したときに、漢名の「茶」を音読みしたものと言われている』。『常緑の低木または小高木で、高さは』七『メートル前後になるといわれている。野生では』十『メートル近い高木になるが、茶の生産のために栽培するときは低木仕立てで、低く刈り込まれる』。先に冒頭で示した『基準変種のチャノキは中国南部に自生する灌木である。丈夫な枝、短い茎、細長い葉を持ち、藪や岩だらけの傾斜地などに自生し』九十センチメートルから五・五『メートルに』も『成長する。一方、インドのアッサム地方に自生するアッサムチャは』、さらに樹高が高く、八~十五『メートルにも達する高木にな』り、『大きな葉をつけるため』、『茶葉の収量は多い』。『中国や日本の茶畑で栽培される基準変種は通常』、一『メートル前後に刈り込まれるが、野生状態では』二『メートルに達する例もある。幹は株立ちで、よく分枝して枝が混み合うが、古くなると』、『さらにその基部からも芽を出す。樹皮は灰白色で滑らかで、幹の内部は堅い。若い枝の樹皮は褐色で一年枝では緑色で毛が生えているが、古くなると灰色になる』。『葉は枝に互生』し、『葉には短い葉柄があり、葉身は長さ』五~七『センチメートル、長楕円状披針形、先端は鈍いか』、『わずかに尖り、縁には細かくて背の低い鋸歯が並ぶ。葉質は薄い革質、やや』バリバリ『と硬くなる。表面は濃緑色で、やや艶がある。その表面は独特で、葉脈に沿ってくぼむ一方、その間の面は上面に丸く盛り上がり、全体にはっきり波打つ』。『花期は晩秋(』十~十二『月初旬頃)で、白い』五『花弁の花が咲く。花芽は夏頃に見られ、丸くて柄があり、ほぼ下向きにつく。花は新枝の途中の葉柄基部から』一『つずつつき、短い柄でぶら下がるように下を向く。花冠は白く、径』二~三『センチメートル、多数の雄しべがつき、ツバキの花に似るが、花弁が抱え込むように丸っこく開く』。『果期は』開『花の翌年』九『月頃に成熟し、果実は花と同じくらいの大きさに膨らむ。普通は』二~三『室を含み、それぞれに』一『個ずつの種子を含む。果実の形は』、『これらの種子の数だけ』、『外側に膨らみを持っている。冬芽は互生する葉の付け根につき、白い毛がある』。『チャノキは自家不和合性が強い植物であり、自家受粉の確率は数パーセントと低く、その種子の発芽率も』十%『程度であるため、他殖性の自家不結実性植物とみなされている』。
以下、「分類」の項。
チャノキ Camellia sinensis
品種トウチャ Camellia sinensis f. macrophylla
品種ベニバナチャ Camellia sinensis f. rosea
アッサムチャ Camellia sinensis var. assamica (引用先では、「アッサムチャ」の和名の後に『(ホソバチャ)』とするが、ネット、及び、学術記載を見るに、この和名異名は正式に記されたものが少ない。さらに、漢字表記も見当たらぬが、これは「細葉茶」と思われ、これは、例えば、本邦の茶の品種・個体解説の中で、細い葉のチャノキに普通に使われるであろうと推定されるので、和名異名としては、私は認められないと思う)
以下、「日本での栽培」の項。なお、ここには、『→詳細は「日本茶」を参照』の見よ見出しのリンクがあるが、私はウィキの「日本茶」を大々的に引用する意志はないので、リンクを張っておく。『奈良時代、聖武天皇の天平元』(七二九)年『に、宮中に』百『人の僧侶を集めて』「大般若經」『を講義し、その』二『日目に』、『行茶』(ぎやうちや(ぎょうちゃ))『と称して』、『茶を賜ったと伝えられていることから、日本へは』、『それ以前にユーラシア大陸から渡来したと考えられている。飲用される茶は、建久』二(一一九一)年『に栄西が中国から持ち帰った種子の子孫にあたるといわれている。日本で』、『現在』、『栽培されている栽培品種は、「やぶきた」系統が約』九『割を占めている』。「やぶきた」『は』昭和三〇(一九五五)年『に選抜されて静岡県登録品種になった栽培種である』。『鎌倉時代以降、喫茶の習慣や茶道が広まるとともに、各地に茶産地が形成された。茶畑での露地栽培が主流であるが、福寿園(京都府木津川市)は温室栽培により』、『新茶を通年で収穫することを目指す研究を進めている』。
以下、「栽培植物の逸出と日本在来種説」の項。『日本では栽培される以外に、山林で見かけることも多い。古くから栽培されているため、逸出している例が多く、山里の人家周辺では、自然林にも多少は入り込んでいる例がある。また、人家が見られないのにチャノキがあった場合、かつてそこに茶を栽培する集落があった可能性がある。 例えば、縄文時代晩期の埼玉県さいたま市岩槻区の真福寺泥炭層遺跡や、縄文弥生混合期の徳島県徳島市の徳島浄水池遺跡からは、チャの実の化石が発見されている』。『また、九州や四国に、在来(一説には、史前帰化植物)の山茶(ヤマチャ)が自生しているという報告があり、山口県宇部市沖ノ山の古第三紀時代始新世後期』(三千五百万年~四千五百万年前)『の地層からチャの葉の化石が発見され、「ウベチャノキ」と命名されている。日本自生の在来系統を一般的に日本種という言い方をする説がある。現在、日本種は分類学上、中国種に含められているが』、二十『世紀後半頃から日本種を固有種として位置づける「日本茶自生論」が提唱されている』。『一方、「日本の自生茶とも言われて来たヤマチャについて、その実態を照葉樹林地域、焼畑地域、林業地域、稲作地域と概見した結果、歴史的にも植物学的にも、日本に自生茶樹は認められないという結論に至った」という日本自生の在来種説に否定的な研究がある。また、「伊豆半島、九州の一部などから野生化の報告もあるが、真の野生ではない」とされ、YList』(ここ)『 では帰化植物とされている』(私は縄文晩期の遺物にチャノキがあることから、「史前帰化があった」ことを、断然、支持している)。『チャノキは』、『元来』、『寒さに弱いが、日本国内では喫茶の普及に伴い』、『北日本でも栽培されるようになった。「北限の茶」を謳う産地としては、奥久慈茶(茨城県大子町)、村上茶(新潟県村上市)のほか、宮城県旧桃生町(現・石巻市)の桃生茶、気仙地方(岩手県南部の太平洋側)で栽培される気仙茶がある』。『生産量は少ないものの、保存・復活が試みられている』。『さらに北の茶産地としては』、『檜山茶(秋田県能代市)や黒石茶(青森県黒石市)がある』。『また、北海道の積丹半島の禅源寺(古平町)境内にチャノキがあり、これが植栽されている最北端とされる。また』、『茶専門店がニセコ地方で茶園づくりを試みている』。
以下、「利用」の項。『チャノキの葉は人間が口にする嗜好品として加工されている。チャノキの主に新芽にアルカロイド(カフェイン、テオフィリン、カテキンを含むティアタンニンなど)、アミノ酸(アルギニン、テアニンなど)等が豊富に含まれており、飲用として利用されている。その他有効成分として、精油(ヘキサノール、イソブチルアルデヒドなど)、ビタミンC、フラボノイド(クエルセチンなど)が含まれている。アミノ酸は茶の』コク『や旨味、精油は香り成分の元になっている。シネカテキンス』(米語一般名:Sinecatechins:チャノキの葉から得られた特定水溶性抽出物)『は、葉から水出しされた有効成分で、米国で』生殖器に出来る疣(いの)『の治療に承認されている』。『また、果実・種子から食用・化粧油の採取が可能であり、ツバキと同様に』椿油(『カメリア油』)『を搾るのにも使われる。搾油用の実採取は、茶葉栽培に比べ』、『品質管理の手間が少ないことから、放棄茶園の活用法として注目されている』。
以下、「飲料」の項。同前の理由で『→詳細は「茶」を参照』をリンクさせておく。『チャノキの葉は、ふつう新葉の芽先』二~三『枚ほどを摘み取って』、『茶葉にし、緑茶や紅茶などの茶に加工して飲用されている。焙爐(ばいろ)の助炭(じょたん)』(枠に和紙を張ったもので、火持ちをよくするため、火鉢などを覆う道具)『の上で乾燥したものが碾茶』(てんちゃ)『で、これを石の茶臼で挽いて粉末にしたのが抹茶、蒸して助炭上で手揉みして成分を出やすくしたものが玉露である。新葉を採集して玉露に準じて仕上げたのが煎茶、成葉を採集して煎茶に準じて仕上げたのが番茶である。茶葉を軽く発酵させたのがウーロン茶で、完全に発酵させたのが紅茶である』。『煎茶は』、一『煎目に滋養保健に役立つ成分が溶出し』、二『煎目から多く溶出する主成分はタンニン(チャタンニン)である。ただし』、『飲み過ぎは、便秘や肩こりの原因にもなるとも言われている』。
以下、「薬用」の項。『薬用にする部位は若葉と種子で、若葉は茶葉(ちゃよう)、種子は茶子(ちゃし)と称し、春に採ったものがよいといわれる。葉を摘んだら』、『短時間で蒸して醗酵を止め、熱を通しながら』、『手で揉んで』、『より、再加熱して加工する。葉は頭痛、下痢、食べ過ぎ、のどの渇きに、また』、『種子は』、『痰が出る咳に薬効があるといわれる』。『茶葉に含まれるアルカロイドは、発汗、興奮、利尿作用があり、チャタンニンは下痢止めの作用があるとされ、適量飲めば滋養保健に役立つと言われている。民間療法で、茶を風邪の予防にうがい薬として利用する方法が知られる。種子は、乾燥して粉末にして、』一『日』二『回』、一『回量』〇・五『グラムを服用する方法が知られている。緑茶やウーロン茶、紅茶などの茶は、熱を冷ます薬草でもあるので、冷え症や胃腸が冷えやすい人は、あまり多く服用しない方がよいと言われている』。以下、「茶品種」として多量の品種が列挙(和名のみ)されるが、リンクに留める。なお、『日本で茶畑を表す地図記号』(∴)『は、茶の実を半分に切った状態を図案化したものである』とある。
なお、既に指摘した通り、甚だ問題のある引用であるが、以上の引用の内、「本草綱目」のものは、「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の「醋林子圖/經」(ガイド・ナンバー[079-24b] 以下)の非常に長い記載のパッチワークである。
「瓜蘆(なんばんちや)」読みは、無論、良安の当てたものであるが(「南蠻茶」であろう)、この起原植物は「チャノキ」ではない。と言うより、チャノキとは全く異なる植物で、しかも、中国では、さらに全く異なる基原植物から作られる二種の同名の「茶」があるのである(飲用されるのは、以下の引用にある通り、地域によって二分される)。取り敢えず、本邦の「苦丁茶」によれば、
モチノキ目モチノキ科モチノキ属 lex kudingcha (和名なし)
と、目タクソンで異なる、
シソ目モクセイ科イボタノキ属の Ligustrum robustum (和名なし)
である(以下の引用の太字は私が附した。注記号はカットした)。『(くうていちゃ/くちょうちゃ)は、中国茶における茶外茶』(「茶」と呼ばれるが、チャノキ以外の植物などから作られる飲料、及び、複数の原料を調合した茶類ではない飲料を指す)『の一種。「丁」は捻ったような茶葉の形を指す』。『日本ではタラヨウの近隣種であるモチノキ科に属する Ilex kudingcha の葉を茶葉として加工したものが知られており、その名の通り、一般的な茶には無い強い苦みが特徴。健康茶として飲まれている』。『世界的には数種類の植物の葉が苦丁茶(Ku Ding tea)として飲まれている。主なものは』二『種類あり、Ilex kudingcha を苦丁茶として飲んでいるのは中国』の『四川省と日本が中心で、四川省以外の中国ではモクセイ科イボタノキ属の Ligustrum robustum が苦丁茶として飲まれている』。一九九〇『年代後半ごろからはLigustrum robustumも「苦味の少ない改良タイプ」として日本の市場に出回っており、四川省でも栽培されている。一般に、Ilex kudingchaは茶葉が大きく、Ligustrum robustumは茶葉が小さい』。『別名「瓜芦」』(=「瓜蘆」)『とも言い、皋芦、過羅、拘羅、物羅とも呼ばれた』。八『世紀の唐で書かれた』「茶經」『は、後漢時代に書かれた』「桐君錄」『の中の苦丁茶に関する記載を引用しており、このときには既に飲まれていたことが分かる。ただし、これらは単に古代の茶であるとの説もある。唐代には広東省や海南島で飲まれていた』。『明代に書かれた』「本草綱目」の「果部味類」『の条には「皋芦」の名で掲載されており、同時代の書には「苦』・『無毒」と説明されている。『その名の通り、苦みがある。上質な茶葉の場合、さわやかな苦みで非常に飲みやすい。更に厳選された茶葉であると、口に含んだ時に強烈な苦みを感じ、嚥下した直後にさわやかな甘味を感じる、その変化を堪能できる。しかし、抽出時間を長くすると、そのぶん苦みは強烈になる。また、等級の低い茶葉であるほど、甘みが失われ、苦みが強くなる傾向がある』。『苦丁茶には、「特級」「一級」「二級」「三級」と四種類の等級がつけられている。ランクが高いほど味が良く、飲みやすい。また、水色(すいしょく、抽出された茶液の色)にも差があり、上質な茶葉で入れた苦丁茶の水色は、あざやかな緑色をしている。放置すると褐色に変化する』。以下、『代表的な苦丁茶』の項。『・一葉茶』:『茶葉を』、『こより状によっている。棒状(葉巻型)のものが一般的。輪の形のものもある』。『・青山緑水』:『新芽だけで作られている苦丁茶で、苦みが少なく、また茶葉もやわらかいので、お茶と一緒に食べることができる。新芽をつみ取る為、希少価値が高い。種子や苗は、中国国外への持ち出しが禁止されている。Ligustrum robustumの一品種』。なお、『今のところ、「苦丁茶」の、統一された日本語読みはない。「くちょうちゃ」、「くうていちゃ」、「くていちゃ」、「くちんちゃ」、また、中国語の発音に近い「クディン」「クーディン」などと表現されている』とある。以下、「成分」「効用」の項が続くが、本篇の正当な「茶」とは無縁なので、リンク先を見られたい。
「卮子(くちなし)」双子葉植物綱リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ品種クチナシ Gardenia jasminoides f. grandiflora (以上は狭義。広義には Gardenia jasminoides )。詳しくは、「卷第八十四 灌木類 巵子」を見よ。
「白薔薇」白いバラは中国産の原種にあり。ウィキの「バラ」を見よ。
「栟櫚《しゆろ》」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属シュロ Trachycarpus fortunei (異名:ワジュロ)。詳しくは、「卷第八十三 喬木類 椶櫚」を見よ。
「威靈仙《いりやうせん》」キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ亜科 Anemoneae 族センニンソウ属サキシマボタンヅル((先島牡丹蔓) Clematis chinensisno の根茎を基原とする漢方生薬名。鎮痛・利尿・通経の効果があるとされる。記事は簡便だが、当該ウィキを見られたい。
「土茯苓《どぶくりやう》」中国南部・台湾に自生する多年生草本である単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属ドブクリョウ(土茯苓) Smilax glabra 。但し、その塊茎を乾したものを基原とする漢方生薬は「山帰来」(さんきらい)と言う。私の「譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(21)」の「山歸來」の注を見よ。時珍の記載([079-27a]の二行目)だが、前項(薬名称)と並置するのであるから、「山歸來」とすべきところである。
「相阿弥……」東洋文庫訳の後注に、『小堀遠江守など 闘茶や婆沙羅の茶といわれた遊興の茶を、風雅と礼式を重んずる東山流の書院茶につくりあげたのが能阿弥・芸阿弥・相阿弥である。この貴族的な書院茶を、禅を基底としたわび茶に推進させたのが村田珠光で、紹鷗がそれを一歩すすめ、わびを深化・洗練させ、宗易が茶道を大成させた。そのあとを受けた古田織部や小堀遠州は茶の湯を大名の中にひろめ、ことに遠州は茶の湯に儒学の理念を反映させ、「綺麗(きれい)さび」の大名茶によって武家社会の中に茶道を確立させた。』とある。
「古田織部……瀬田掃部」同前で、『このうち宗及は堺の茶匠で利休の茶友。利休とともに信長・秀吉の茶頭』(さどう)『となった人。道安は利休の長男。慶首座は僧で利休の弟子。古田織部・細川三斎・瀬田掃部は大名で利休の弟子である。』とある。
「桑山」同前で、『桑山重晴(一五二四?一六〇六)は秀吉に仕えて家を興した人。利休の門人で宗栄という。子の重長は宗仙と号し、道安の門人。のち石州派を開いた。茶人としては宗仙の方が有名であろう。』とある。
「佐久間」同前で、『茶人として名のあるのは二人。一人は正勝(二五五六~二八三一)。』(佐久間信栄(さくまのぶひで)のこと。当該ウィキによれば、『諱は正勝(まさかつ)とも伝えられるが、信頼できる史料は信栄としている』とある)『信長の臣で利休の弟子となり』、『茶湯に耽溺。石山合戦中にしばしば茶会を催し、そのため高野山に追放された。のち許され織田信雄に仕え不干斎と号す。文禄の役には秀吉に随行して陣内』(名護屋城で行われた出陣の儀式であろう。但し、実際には、秀吉が眼病のために延期されもので、戦端が切られた後のことであった)『で茶会を催した。のち徳川秀忠に仕えた。もう一人は真勝。』(佐久間実勝(さねかつ)の諱)『家康・秀忠・家光の三君に仕えた。茶を古田織部に学び、のち京都紫野に隠棲して、寸松庵を創って、そこで茶事三昧(ざんまい)の生活を送った。』とある。
「宗古・宗知・宗和」同前で、『宗古(一五四五~九六)は茶屋四郎次郎清延。安土桃山時代の商人で家康に目をかけられた。利休の弟子で潮路庵宗古と号した。宗知は十四屋』(じゅうしや)『宗知。戦国時代、京の茶匠として名声高かった十四屋宗悟』(調べる限りでは「宗伍」が正しい)『(?~一五五二)の子。宗知もまた茶匠として見識豊かな人であった。宗古とはあるいは父の宗悟(悟を古としたか)を指すのかも知れない。宗和(一五八四~一六五六)は金森宗和か。道安の弟子で宗和流を開いた。』とある。
最後に。本項は、本プロジェクトは現在、三百二十記事であるが、もっとも時間を食った。実働で、延べ二十一時間を費やした。相応に達成感はある。而して、次の「皐蘆 なんばんちや」を以って「卷第八十九」は終わる。]