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2025/07/14

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「良眞靈」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形した。句読点・記号を追加したが、漢文脈の後半の引用は底本のままにしておいた。] 

 

 「良眞靈《ながざねの れい》」 安倍郡府中、今川家の館《やかた》にあり。傳云《つたへいふ》、

「永祿三年五月、今川治部大輔義元、上洛の志《こころざし》、頻《しきり》にして、近日、兵を尾州に發せんとす。

 或夜、先年、義元の爲に自害して失《うせ》たりし舍兄、花倉院主良眞【良眞は、氏親の二男花倉殿、法名「遍照光寺殿玄廣惠探大德」と號す。】枕上に來《きた》り、杖を以て、突《つき》、驚かす。義元、松倉卿《きやう》の刀を取《とり》て、是を、きる。良眞、飛《とび》しさりて曰《いはく》、

「我、汝に恨《うらみ》ありといへども、家の亡《ほろび》ん事を悲《かなし》み思ふに依《より》て、告《つぐ》る事、あり。汝、天命を知らず、軍を發して、上洛を、くはだつ。故に、天、汝をにくみて、一命を失《うしなは》ん事、近きに、あり。」

と。

 義元、遍身《へんしん》、汗を流し、氣、絕《たえ》んとす。

 漸《しばら》くして、人を呼ぶ。

 小姓《こしやう》奧山松夜刄丸某《なにがし》、來《きたり》て、水を呑ましむ。云云。」。

 「當代記」云《いはく》、

『義元參河表發向時、夢想有之、夢中花倉對義元云、此度之出張、可ㇾ被相止也。義元云、貴邊爲我敵心也、不ズトㇾ用ㇾ之答。花倉又云、今川家可ㇾ廢ㇾ事爭不ㇾ愁云。夢覺畢、其後駿河國藤枝被ㇾ通時、花倉町中被立、義元見ㇾ之刀、前後者、一圓不ㇾ見ㇾ之奇特ナリ。云云。』

 

[やぶちゃん注:「當代記」引用の漢文部(一部が不全)を推定訓読する。句読点には従わず、オリジナルに打った。なお、国立国会図書館デジタルコレクションの「駿國雜志 二」(「自卷之二十二至卷之三十五」・新版・中川他校注・一九七七年吉見書店刊)の当該部を参考にした。

   *

 義元、參河表(みかはおもて)發向の時、夢想、之れ、有り。夢中(むちゆう)に、花倉、義元に對して、云はく、

「此の度(たび)の出張(しゆつちやう)、可ㇾ被相ひ止められるべきなり。」

と。

 義元、云はく、

「貴邊(きへん)、我が敵《かたき》と爲(な)す心(こころ)なり。之れ、用(もち)ゆず。」

と答ふ。

 花倉、又、云はく、

「今川家、事(こと)、廢(はい)すべき爭(あらそひ)か。愁(うれ)へざるか。」

と云ふ。

 夢、覺(さ)め畢(をはん)ぬ。

 其の後(のち)、駿河國、藤枝を通られし時に、花倉、町中(まちなか)に立たれ、義元、之れを見、刀(かたな)に手を懸(か)く。前後(ぜんご)の者、一圓(いちゑん)に、之れを見ざるの奇特(きとく)なり。云云(うんぬん)。

   *

この場合の「奇特」は「非常に奇体にして不可思議なこと」の意である。

「良眞」(私は鎌倉時代に反して、戦国時代に全く興味がない人種であるので、いちいち、人物・戦乱の解説を附す気は全く、ない。当該ウィキのリンクでお茶を濁す)これは、今川義元の庶兄であった玄広恵探(げんこう えたん:永正一四(一五一七)年~天文五(一五三六)年))で、彼は今川良真(いまがわながざね)を名乗ったとする説がある人物である。ウィキの「玄広恵探」によれば、『異母弟の栴岳承芳(』(せんがく しょうほう:後の義元)『や象耳泉奘』(しょうじ せんじょう:、永正一五(一五一八)年~ 天正一六(一五八八)年:今川氏の出身で今川氏親の四男とされる人物)『と同じく、早くに出家して華蔵山徧照光寺(静岡県藤枝市花倉)の住持とな』った。『従来、今川彦五郎が氏親の次男と考えられていたが、北条氏康を「北条新九郎」名義で記されていることから』、天文二〇(一五五一)年以前『に作成されたと推測できる』「蠧簡集殘篇」『所収』の「今川系圖」『において』、『花藏二男』『と玄広恵探が次男と明記されていることにより、恵探が氏親の次男で彦五郎の庶兄ではないかと考えられるようになった』。しかし、彼は、「花倉の乱」で自害している。天文五(一五三六年に『今川家当主の氏輝と』(享年二十四。突然死で詳細不詳)、『その次弟・彦五郎が相次いで急死した』(生年不明。兄氏輝と同日に急死。死因不詳)ため、『家督の後継を巡って、玄広恵探は福島氏に擁されて花倉城に拠るが』、六月十日、『栴岳承芳派に攻められて瀬戸谷の普門寺で自害した』(享年二十)。以下の「逸話」の項に、この話が載る。「桶狭間の戦い」『の直前、義元の夢の中に恵探が現われ「此度の出陣をやめよ」と言った。義元は「そなたは我が敵。そのようなことを聞くことなどできぬ」と言い返すと「敵味方の感情で言っているのではない。我は当家の滅亡を案じているのだ」と述べたため』、『夢から覚めた。義元は駿府から出陣したが、藤枝で恵探の姿を見つけて刀の柄に手をかけたという』(「當代記」)。なお、ネットで調べたところ、「花倉」は、恵探が華蔵山徧照光寺の住持であったことから、「華蔵殿」「花倉殿」と呼ばれたとあった。

「當代記」安土桃山から江戸初期までの諸国の情勢・諸大名の興亡・江戸幕府の政治等に関する記録。全十巻。姫路城主松平忠明(ただあきら:家康の外孫)の著ともされるが、不詳(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。]

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