河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 上卷 (一)鰑の說(その1)
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事を参照されたい。
底本はここから。注を多量に附さねばならない関係上、本文の改段落の箇所で分割して示す。
なお、以下の本文では、かなりルビが振られているが、若い読者が躓く可能性があるもの、「ぶれ」があるため、私が必要と感じたもののみとした。書名は明確にするために鍵括弧を添えた。また、引用部と判断される部分は二重鍵括弧を添えた(引用内の引用は二重鍵括弧を使用した)。前回述べた通り、濁音であるものを清音にしてある箇所は、私の判断で濁点を附し、そこは太字とした。また、句点はなく、読点は極めて少ないが、読んでいて躓く箇所については、最小限、必要と断じた箇所に入れてある。それは煩瑣に過ぎるので、特に太字などにしていない。各段落冒頭の一字下げがないのは、ママである。]
清國
日本産圖說上巻
輸出
(一)鰑(するめ)の說
夫(そ)れ鰑は古へより神饌(しんせん)に供(きよう)し、諸禮式に用ひ、慶賀の佳物(かぶつ)缺く可らざるの要品たり。之加(しかのみならず)、海外輸出の多額なる水產動物の中(うち)、此(この)右に出(いづ)るものなく、實(じつ)に一大國益の品(しな)なり。
鰑は音(をん)「やう」「するめ」と訓じ、烏賊(いか)を乾製(かんせい)したる者の稱なり。我國、往古(おほこ)は『伊加(いか)』と稱す。「新撰字鏡(しんせんじきやう)」に『鰞鱡(うぞく)』の二字を『伊加(いか)』と訓じ、又『鱡(ぞく)』、『鯽(そく)』、『鰂(そく[やぶちゃん注:底本は「ろく」にしか見えないが、誤植と断じて訂した。])』を同字とす。「倭名鈔」は『烏賊(うせん)』を『伊加』と訓じ、『烏賊(うぞく)从(ならび)に魚に似て烏賊(うぞく)に作(つく)る。鱡(ぞく)も亦(また)鰂に作る』とあり。其他の諸書に載する所も『烏賊(うぞく)』の文字を用ふるもの多しと雖ども、「小野篁歌字盡(おのゝたかむらうたじづくし)」には『鰞(いか)』に作り、「食用簡便(しよくようかんべん)」には『鰂(いか)』の字を用ひ、「大上﨟事(だいじやうろふじ)」に『以加(いか)』の異名(いみやう)を『以母之(いもじ)』とす。而して「延喜式」の神祇、民部(みんぶ)、主計(かぞへ)、等の部(ぶ)に、若狹、丹後、出雲、隱岐、筑前、豐前、豐後、等(とう)より、烏賊(いか)貢献(こうけん)のことを載せ、朝貢品(てうこうひん)の一(いつ)とす。是(これ)皆(みな)今の鰑(するめ)なり。鰑を『するめ』と訓(よ)ましめたるは『本朝式(ほんてうしき)』文(ぶん)に初まり、『本朝食鑑(ほんてうしよくかん)』、又、同訓を以てす。此他(このた)は『小野篁歌字尺』『下學集(かがくしう)』又は諸往來、節用集等、通俗に用ふるの外(ほか)、古書に「鰑(おう)」の字を「するめ」となしたるもの少なく、「物品識名(ぶつひんしきめい)」は「福州府志」を引(ひい)て『螟脯乾(めいほかん)』を「するめ」とし、「一本堂藥選(いつぽんだうやくせん)[やぶちゃん注:「だう」は「どう」であるが、誤植と断じて訂した。]』は『鮝(しやう)は卽ち烏賊(うぞく)魚肉(ぎよにく)を乾すもの、俗に「斯兒蔑(するめ)」と呼ぶ」』と云ひ、「本朝食鑑」は『鮝(しやう)は乾烏賊(ほしいか)にして今の鰑(するめ)と同(おなじ)ものか』と云へり。而して「鰑(よう)」字を慣用する、既に久し。故に此編、「鰑」字を「するめ」の總稱とし、柔魚(じうぎよ)[やぶちゃん注:現在の生物学上ではイカ類(軟体動物門 Mollusca頭足綱 Cephalopoda鞘形亜綱 Coleoidea十腕形上目 Decapodiformes のコウイカ目 Sepiida・ダンゴイカ目 Sepiolida・トグロコウイカ目 Spirulida・ツツイカ目 Teuthida・閉眼目 Myopsida・開眼目 Oegopsida)の別称。但し、古い漢語では、ヤリイカを指し、文字通り、「柔らかい魚」の意である。]を乾製(かんせい)したるを「鰑(するめ)」に、烏賊(うぞく)を乾製したるを「甲付鰑(かうつきするめ)」と假稱す。「本草綱目」「烏賊」の條に『乾者(ほすもの)を「鮝(しやう)」と名(なづ)く。宋(そうの)火明(くわめい)曰く、「乾(かん)は鮝(しよう)なり。」、又、吳瑞(ごづい)曰く、「䀋乾者(えんかんのもの)は明鮝(めいしやう)と名(なづ)け、淡乾者(たんかんのもの)は脯鮝(ほしやう)と名(なづ)く」とありて、往古は皆、「鮝」に作る。「福州府志」に『晒乾者(さいかんのものは)俗に「螟脯鮝(へいほしやう)」と曰(いふ)』とあり、「寧波府志」は『螟乾(へいかん)、又、墨魚乾(ぼくぎよかん)』とし、「通雅」は『螟脯(へいほ)』に、「野記(やき)」は『明脯乾(めいほかん)』に、「閩書(びんしよ[やぶちゃん注:原本は『みんしよ』であるが、訂した。])」は『明府(めいふ)』に作る。又、「食物本草會纂(しよくもつほんざうくわいさん)」は『明魚乾(めいぎよかん)』に、「事物紺珠(じぶつこうじゆ)」は『射踏子(しやとうし)』に作れり。而して「淸俗(せいぞく)」[やぶちゃん注(二〇二五年八月二十六日修正):『この読みは「しんぞく」の誤りであろう』と大方は思われるであろうが、しかし、実は、本書では、この固有名詞の当時の中国の国名「淸」にルビを振る際には、総て「せい」と振っている。私は、国名の「淸(清)」を「セイ」と音読みするものを見たことがない。大修館書店「廣漢和辭典」でも、はっきりと『⑱王朝名。シンと呼ぶ。』と記す。これは無論、「清国(しんこく)の庶民」の意である。しかし乍ら、この「シン」は唐音(既注であるが、再掲しておくと、「宋音」とも言う。小学館「日本大百科全書」に拠れば、『平安末期以後に伝来したもので、宋・元代の南方系の中国音が』、『おもに禅僧によって将来されたものと、明(みん)・清(しん)代の南方系の中国音が禅僧や貿易によって将来されたものとの』二『層が区別されるが、その境界は』、『かならずしも明確ではない。この系統の字音は、日本語への影響や定着度という点からは、禅宗での読経(諷経(ふぎん))のほかでは、「行燈(アンドン)」「椅子(イス)」「提灯(チヤウチン)」「胡乱(ウロン)」「和尚(ヲシヤウ)」「普請(フシン)」など特定語彙』『を支えているにすぎないものである」とある)であり、漢音は「セイ」、呉音は「シヤウ(ショウ)」である。当初、「せい」とルビしているところでは、意識的に総て「せい」の読みを添えることとしようと思ったのだが、そうすると、毎回、それを見せられることは、読者に、毎回、違和感を与えるばかりなので、敢えてルビは添えないこととする。なお、「淸俗紀聞」という書物が江戸中期があるが(詳細は当該ウィキを見よ)、国立国会図書館デジタルコレクションの同書で、熟語で検索しても出てこないので、書名ではない。東洋文庫も書名扱いしていない。]は柔魚類(じゆうぎよるゐ)を乾(かはか)したるを、『墨魚(ぼくぎよ)』、又、『油魚(ゆぎよ)』とし、烏賊(うぞく)を乾したるを、『墨魚(ぼくぎよ)』、又、『黑魚(こくぎよ)』、又、『螟脯乾(へいほかん)』と稱するなり。
[やぶちゃん注:「新撰字鏡(しんせんじきやう)」当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『平安時代に編纂された字書の名。現存する漢和辞典としては最古のもの』で、『平安時代の昌泰年間』(八九八年~九〇一年:醍醐天皇の治世。因みに、同四年には正月二十五日、左遷左大臣藤原時平の讒言により、菅原道真が大宰府に左遷されている。所謂、「昌泰の変」である)。)『に僧侶・昌住が編纂したとされる』。寛平四(八九二)年に三『巻本が完成したとされるが、原本や写本は伝わっていない』。後、三『巻本をもとに増補した』十二『巻本が昌泰年間に完成したとされ、写本が現存する』。十二『巻本には約』二万一千『字を収録』する。『古い和語を多く記しており、古代日本における漢字受容を知り得る資料として、日本語学史上きわめて重要である。また、平安時代になると失われた上代特殊仮名遣のうち』、『コの甲乙を区別していることでも知られる』(ウィキの「上代特殊仮名遣」を見よ)。以下、「諸本」の「享和本」の項。十八『世紀後半に村田春海によって再発見され』、享和三(一八〇三)『年に刊行された。和訓をつけた漢字だけを抜き出した抄録本で、部首を』百七『に分類している』。以下、「天治本」の項。『天治元』(一一二四)年『の写本で、唯一の完本』。安政二・同三(一八五六)年~安政四・五(一八五八)『年に発見された。和訓の付いた字は』三千『字以上あり、部首を』百六十『に分類している』。以下、「群書類従本」の項、『塙保己一』(はなわほきいち)『の』「群書類從」『に収められている抄録本』。以下、「構成」の項。『部首内の漢字は規則的に配列されてはおらず、同じ部首を持つ熟語では、二文字を』、『ひとつの項目として扱っている。読みを反切で示してから、字義を類義の漢字で説明するほか、万葉仮名で和訓を付けているものもある』。『本居宣長は』「玉勝間」『の中で「あつめたる人のつたなかりけむほど、序の文のいと拙きにてしるく」「其字ども多くは世にめなれず、いとあやし」』(卷十四)『と酷評しているが、著者は』、『部首分けの上で部類立ての字類のようなものを構想していたとみられ、配列上の混乱は彼の独創性の裏返しであったと見られている』とある。この当該部を国立国会図書館デジタルコレクションで探したが、うまく見出せなかった。悪しからず。
「鰞鱡(うぞく)」私の「廣漢和辭典」には、ともに載らない。「鰞」はサイト「漢字辞典オンライン」の当該字に、音『ウ』・『オ』とし、意味には、『「鰞鰂(うそく)」は、烏賊(いか)。イカ類の総称。』とあるのみ。一方の「鱡」も同前のここに、音『ソク』とし、『「烏鱡(うそく)」は、烏賊(いか)。イカ類の総称。』とする。
「鯽(そく)」「廣漢和辭典」に、第一義を『ふな(=鰆)』、則ち、条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科フナ属 Carassius のフナ類とし、第二義で『いか。(=鰂)』とする。
「鰂(そく)」同前で、第一義を『烏鰂(ウソク)は、いか。』とある。
『「倭名鈔」は『烏賊(うせん)』を『伊加』と訓じ、『烏賊(うぞく)从(ならび)に魚に似て烏賊(うぞく)に作(つく)る。鱡(ぞく)も亦(また)鰂に作る』とあり』源順(みなもとのしたごう)の「和名類聚鈔」の「卷十九」の「鱗介部第三十」「龜貝類第二百三十八」の当該部を、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年の版本の当該部を参考に、以下に推定訓読して示す。
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烏賊(イカ) 「南越志」に云はく、『烏賊(うぞく)【今、案ずるに、「烏賊」、並(ならび)に「魚」に從ふて、「鷠鱡」に作る。「鱡」、亦、「鰂」に作る。「玉篇」に見(みえ)たり。和名「伊加」。】は、常に自(おのづから)水上に浮ぶ。烏(からす)、見て以-爲(おもへ)らく、『死す』と。之(これ)を、啄(ついば)む。乃(すなは)ち、之を卷取(まきと)る。故に、以(もつて)、之≪を≫名づく。』≪と≫。
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ここに出る「南越志」は、晋代の作とされる沈懐遠撰になる南越(広東・広西・ベトナム北部域)の地誌。
「小野篁歌字盡(おのゝたかむらうたじづくし)」江戸時代の「往来物」(おうらいもの)と呼ばれる教科書の一つ。国立国会図書館デジタルコレクションの明一九(一八八六)年の近八郎右衛門刊本のここ(右丁二行目)で『鰞(いか)』と確認出来る。
「食用簡便(しよくようかんべん)」現在の家庭用医学書とも称すべきもの。蘆川(あしかわ)桂洲著で、「序」は貞享四(一六八七)年記。食物の医学的効能と、その調理法を記したもの。「国書データベース」の天保四(一八三三)年刊のものを調べたところ、ここの冒頭の『烏賊(イカ)魚【甘平】鰂(イカ)【同】』(以下は原画像を見られたい)とあった。
「大上﨟事(だいじやうろふじ)」室町時代の足利義政の女房について記したものと思はれるもの。「国書データベース」のここで、見つけたが、写本で、しかも、殆どが、かな文字であることから、判読していない。
「本朝式」東洋文庫版では、「『本朝式文』」とするのだが、採らない。これは、「延喜式」の「文(ぶん)」の意であろうからである。「延喜式」は、当該ウィキによれば、延喜五(九〇五)年に醍醐天皇の命により、藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は』、彼の弟『藤原忠平が編纂に当たった』。後、「弘仁式」・「貞觀式」(じょうがんしき)と、『その後の式を取捨編集し』、延長五(九二七)年に完成した』。『その後』、『改訂を重ね、康保』四(九六七)年『より施行された』とある。
「本朝食鑑(ほんてうしよくかん)」私の『博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載』の私の冒頭注を見られたい。ブログ・カテゴリ『人見必大「本朝食鑑」より水族の部』もあるのだが、二〇一五年でペンディングしたまま、放置状態である(字起こしが、恐ろしく大変なため)。しかし、不幸中の幸いにして、その最後になっているのが、「本朝食鑑 鱗介部之三 烏賊魚」であるので、見られたい。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本古典全集』「本朝食鑑 下」(正宗敦夫編纂校訂・昭和九(一九三四)年日本古典全集刊行會刊)の「卷之九」「鱗部之三」の「江海無鱗」の「烏賊魚【訓ス二伊加ト一】」の、ここの右丁の冒頭に、『鰑』の割注に(一部を補塡して書き下した)【須留女(スルメ)と訓ず】とある。
『下學集(かがくしう)』全二巻から成る、意義分類型の辞書。室町中期の文安元(一四四四)年の成立であるが、板行されたのは、百七十三年後の江戸初期の元和三(一六一七)年である。著者は「東麓破衲 (とうろくはのう)」の自序があるが未詳。室町時代の日常語彙約三千語を天地・時節・神祇・人倫・官位・人名・家屋・気形・支体・態芸・絹布・飲食・器財・草木・彩色・数量・言辞・畳字」の十八門に分けて、それぞれに簡単な説明を加えたもの。但し、その主要目的はその語を表記する漢字を求めることにある。室町時代のみならず、江戸前期にはよく利用され、それにとって代わった類似の「節用集」(基本、漢字の熟語を並べ、読み仮名をつけただけのもの)に影響を与えたと考えられている。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで当該条を視認出来る(写本)。右丁の後ろから二行目下方に『鯣』に『スルメ』(実際には「メ」は「ヘ」のようにスレている)とある。
「節用集」室町時代から昭和初期にかけて盛んに出版された日本の用字集・国語辞典の一種。漢字熟語を、多数、収録して読み仮名を附ける形式を採る。
「物品識名(ぶつひんしきめい)」岡林清達(きよたつ)稿・水谷豊文補編の本草書。文化六(一八〇九)年跋。国立国会図書館デジタルコレクションの「物品識名 物品識名拾遺」(水谷豊文・補/一九八〇年青史社刊)のここ(左九十度回転されたい)の上の丁の前丁から続く『魚』部の五行目に『スルメ』とし、『螟脯乾福州府志』とある。「福州府志」は清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌。因みに、この前行には『スルメイカ』があり、『柔魚烏賊魚附録』とある。
「一本堂藥選(いつぽんだうやくせん)」江戸中期の医師香川修庵の著になる本草薬学書。全三巻。百四十五種類の薬物に関する解説を収める。享保一四(一七二九)年から同一九年にかけて出版された。国立国会図書館デジタルコレクションの「一本堂薬選」(『漢方文献叢書』第五輯・難波恒雄編・一九七六年漢方文献刊行会刊)の当該「鮝」の項の『撰修』に(区切り傍注「﹅」は、読点として適切な箇所に入れた)『鮝ハ、即烏賊魚肉之乾カス者也、有二大小厚薄數等一、以二大ニ乄而乄厚者ヲ一為ㇾ上ト、俗呼二斯兒蔑(スルメ[やぶちゃん注:ルビ。])一』とある。この「撰修」の後半部も、私は、本作との関係上、重要な部分と考えるので、以下、続ける。『按スルニ李時珍カ本艸綱目ニ、所ㇾ引呉瑞カ曰、鹽乾スル者ヲ名ツク二明鮝ト一、淡乾スル者ヲ名ツクト二脯鮝一ト觀ルニ二今ノ此ノ邦所ヲ一ㇾ為、適ニ在二淡鹽之間ニ一、沿海諸州多造ㇾ之ヲ』(「適に」は「まさに」と読む。一部、崩した異体字は、確認して、正字で示した)。この「本草綱目」の引用は、「卷四十四」の「鱗之三」の「烏賊魚」(「漢籍リポジトリ」のここの[104-44a]以下)の、「釋名」の末尾に配されてあるものである。この「呉端曰」は、恐らく、サイト「医史学の真柳研究室」の、こちらの記載にある、元の呉瑞(瑞卿)編で、明の呉鎮(世顕)校補の明嘉靖四年(序)跋刊の「日用本草」からの引用と思われる。そこに、『元代の新安海寧県で医学の官にあった呉瑞は、飲食物五百四十余品の効能・毒性等を八種八巻に収めた本書を一三二九年に刊行。この書は一三四三年にも再印されたが、約二百年を経て』、『版木の半数近くが割れたりしていた。そこで六代目の呉景素は校正・重刊を始めたが』、『果たせず、七代目の呉鎮(世顕)が遺志を継ぎ、歙西の黄錠・黄銑に刻版させ』、『一五二五年に序跋刊したことになる』とある。
『「本朝食鑑」は『鮝(しやう)は乾烏賊(ほしいか)にして今の鰑(するめ)と同(おなじ)ものか』と云へり』先の国立国会図書館デジタルコレクションと同じ箇所の、「鰑」の「釋名」の最後に、『按スルニ此ノ鮝ハ者乾烏賊而與今ノ鰑同者乎』とある箇所を指す。
『柔魚(じうぎよ)を乾製(かんせい)したるを「鰑(するめ)」に、烏賊(うぞく)を乾製したるを「甲付鰑(かうつきするめ)」と假稱す』大事な本文での製品名の凡例部分であるのに、「柔魚(じうぎよ)」と「烏賊(うぞく)」が別物であるかのように記している(既に述べた通り、これは近代以降、広義のイカ類の別称である)のは、大いにガッカリだ!!!
『宋(そうの)火明(くわめい)曰く、「乾(かん)は鮝(しよう)なり。」』この「火明」は「大明」の誤りである! 東洋文庫版もママだ! この大明は、掌禹錫、別名で「大名明」と称した宋の本草学者で、「日華」は、彼の著した「日華本草」のことである。正確には「日中華子諸家本草」という書物らしい。「本草綱目」には、よく引かれている。なお、「本草綱目」では、「烏賊魚」の「釋名」の中に『乾者名鮝【日華】』とあるのであって、正確な引用ではないので、原文を見る時には、注意されたい。この辺りも、極めて不親切だ!
『吳瑞(ごづい)曰く、「䀋乾者(えんかんのもの)は明鮝(めいしやう)と名(なづ)け、淡乾者(たんかんのもの)は脯鮝(ほしやう)と名(なづ)く」』「本草綱目」の「釋名」の最後に、『瑞曰鹽乾者名明鮝淡乾者名脯鮝』と出る。
『「福州府志」に『晒乾者(さいかんのものは)俗に「螟脯鮝(へいほしやう)」と曰(いふ)』とあり』「福州府志」は、清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌。「中國哲學書電子化計劃」の「福州府志萬歷本」の、「32」に(繁体字版を選び、一部に手を加えた。太字は私が附した)、
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烏鲗 舊志曰烏賊。八足、絕短、集在口、縮喙在腹、懷含墨、每遇大魚、輒噀墨溷水自匿、小魚則吐墨以迷之。性嗜鳥、每暴水面、伺鳥下啄、則卷而食之、俗呼爲墨魚。大者曰花枝、晒乾者、俗名曰螟脯乾。
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とある。因みに、「八足」というのが、不審に思われるだろうが、私は後の「絕短」に着目し、これは、所謂、イカ類の四対の腕は短く、イカ類のみが持つ長い触腕一対のみを「足」として見做したことに拠るものと考える。……しかし……これ、ご覧通り、「螟脯鮝」ではなく、「螟脯乾」である。どうも、本書の引用の、漢字表記には、信頼が措けなくなってきた。いちいち、原文に当たって見るのは、甚だ、難儀なのだが、これだけ誤りがある以上は、以下の注でも、原本に当たる必要が、欠かせないことになった。……正直、シンドいんだけど、しゃあないナぁいなぁッツ!……しかし――私的憤懣は除いても――
私は本文電子化の当初から、この「螟脯鮝(へいほしやう)」の「螟」及び「へい」という読みに疑問を持っているのである。
「何故か」って? この「螟」の字は、音は「メイ・ミヤウ(ミョウ)」しかないからであり(東洋文庫版では、何らの注もなく、スルーしている!)、それどころか、意味は「ずいむし」=「稲の茎の芯(髄:植物の茎の中心部の維管束に囲まれた柔組織から成る部分)を食う害虫」の意であり、所持する「廣漢和辭典」では、二番目には、「螟蛉(メイレイ)」と言う熟語を示して『くわむし・あおむし』、最後の三番目には、『か(蚊)』とあるだけだからである。但し、「百度百科」に「螟脯」があり、確かに『イカ類を乾燥させた食品』とあり、『この用語は明代の文献にも記録されている。伝統的水産物の加工品で、完成品は内臓を取り除くために切り開き、海水で洗い、天日干しする必要がある』とあり、この語は、内臓を完全に除去する作業を「髄を食う虫」に擬えたものではあろうと思われる。なお、「脯」と「鮝」には違和感は全くない。「脯」はお馴染みの漢語で、音「ホ・フ」、訓は「ほじし」で「乾した肉」の意であり、「鯗」は「鯗」の俗字であり、お馴染みの「鱶」と同字である。意味は、殆んどのサメの「ふか」と読むだろうが、他に「干物」の意があるからである。
『「寧波府志」は『螟乾(へいかん)、又、墨魚乾(ぼくぎよかん)』とし』「寧波府志」明の張時徹らの撰になる浙江省寧波府の地誌。しかし、中文サイトで調べてみても、この叙述が見当たらない。一つ、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本画像を見たところ、「卷之十五 物產」の「鱗之屬」のここ(前はPDFで当該巻を含む三巻分一冊。後はHTMLで一画面)に「墨魚」の項立を見出したものの(右頁二行目から)、「螟乾」・「墨魚乾」の文字列は、ない。参考までに以下に示しておく。異体字は、我々の知っている字体に代えた。
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墨魚【狀如算囊口旁兩鬚若帶極長風波稍急以鬚粘石爲䌫其腹有墨姦人以此書券踰年則爲白紙矣圖經云一名烏鰂能噀墨溷木以自衛使水匿不爲人所害然群行水中人見墨水至輙下笱羅而得之有骨厚三四分形樗蒲子而長輕脆如通草可刻名海螵蛸可入藥性嗜烏嘗仰浮水面以餌烏鳥來啄輙以髮褁其足沉諸水而食之故又各鳥賊】
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無論、同書の全部を通覧したわけではなく、それらしい巻を管見した結果ではある。しかし、中文サイトでも見当たらないことと、今までの筆者の引用の杜撰を考えると、怪しい気がしている。もし、同書に「螟乾」、「墨魚乾」があることを知っておられる方は、是非、御教授を願うものである。
『「通雅」は『螟脯(へいほ)』に』『作る』「通雅」は中国の語学書で全五十二巻・巻首三巻。明の方以智の撰。「爾雅」に倣い、物の名・訓詁・音韻などを二十五門に分類し、詳しく考証したもの。何時まで経っても、この記事を公開出来ないことに、苛立ちが弥増しなのだが、ここはグッと我慢して、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の姚文燮 校訂(写本)を調べて、やっと見つけた! 「卷四十七」の、ここだ! スレて判らない箇所や不審な字は、「中國哲學書電子化計劃」の、ここの最後の電子化を参考にして、補正した。一部、表示出来ない字「※」は、上から、〔「亠」+「口」+「冖」+「𮫬」〕である。また、「𢀩」は「差」の異体字である。
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墨𮫬烏鰂也○鰂足生口傍兩須如纜諺曰烏鰂噀墨八足在口又名墨魚寧波者曰𩸨脯圖經云烏𪇰所化其云秦王東遊棄算袋化為此形則誣矣禹時貢烏鰂之醬蒙筌言其墨作劵隔年而字滅張氏曰不驗其無骨者名柔𮫬又更有章舉石距二物與此相類而𢀩大味更珍好小者曰鎻管見泉州志今曰銀瓶𮫬臨海志言其懷版含墨故號小史𮫬
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訳や注をする能力は、もう、私には、ない。悪しからず。
『「野記(やき)」は『明脯乾(めいほかん)』に』『作る』「野記」は明代の書家で文人・官吏であった祝允明(しゅくいんめい 一四六一年~一五二七年)の随筆。当該ウィキによれば、『字は希哲、号は枝山』『・枝指生。長洲県(中国語版)(現蘇州市)出身。多指症のため』、『生まれつき』、『右手の指が』六『本あった』。一四九二年に『郷試に合格したが、進士の試験には落第し続けた』一五一四年、『広東省興寧県(現興寧市)の県令を経て』、一五二一年、『首都南京の応天府の通判』(宋代に創設された地方官で、藩鎮の力を抑えることを目的とし、郡・州に派遣されて地方行政の監督に当たった。明・清代には州の財政を司った)『に任ぜられたが、病気を理由に』一『年足らずで帰郷した』。『詩文をよくし、唐寅・文徴明・徐禎卿とともに「呉中四才子」の一人に数えられる』とあった。「中國哲學書電子化計劃」の同書の「第四卷」のここで確認出来る。
『「閩書(びんしよ)」は『明府(めいふ)』に作る』「閩書」は、明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南產志」。一六〇八年成立。「中國哲學書電子化計劃」の「閩書」で「明府」で検索すると、結果して、「石介屬判」に辿り着くのだが、この内容、確かに、イカの「スルメ」を語っているようにも見えるものの、本当にそうかどうか、どこからどこまでを引用すればいいのかも、正直、迷うのである。リンクのみにしておく。
『「食物本草會纂(しよくもつほんざうくわいさん)」は『明魚乾(めいぎよかん)』に』『作れり』「食物本草會纂」は清の沈李龍の食養療法書。一六九一年刊。「日中ともに画像で探すことは出来ますが……すみません、もう、疲れました。……」……
『「事物紺珠(じぶつこうじゆ)」は『射踏子(しやとうし)』に作れり』明の黄一正著・呉中珩校訂で、一六〇四年刊の動植物等について記した類書。日中ともに原本に当たれない模様である。]
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