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2025/08/28

和漢三才圖會卷第第九十一 水果類 烏芋

 

Kuroguwai

 

くろくわゐ  鳬茈  鳬茨

       葧臍 黑三稜

烏芋

       地栗

       芍【音撓】

       【俗云黑久和井】

       用田烏子三字

 

本綱烏芋生淺水田中其苗三四月出土一莖直上無枝

葉狀如龍鬚肥田栽者粗近葱蒲髙二三尺其根白蒻秋

後結顆大如山査栗子而臍有聚毛累累下生入泥底野

生者黒而小食之多滓種出者紫而大食之多毛沃田種

之三月下種霜後苗枯冬春掘收爲果生食煮食皆良

根【甘微寒滑】 消黃疸療五種膈氣消宿食飯後宜食之【先有冷氣

 人不可食令人腹脹氣滿】善毀銅合銅錢嚼之則錢化可見其爲消

 堅削積之物故能化五種膈疾而消宿食治誤呑銅也

△按烏芋其根形味似慈姑而有黑白之異故謂之黒久

 和井葉似石龍芻葉也又烏芋【生食佳】慈姑【煑食佳】

                             顯仲

  堀川百首たなつ物みそのに蒔しいさ子共外面の小田にくわゐひろはん

 

   *

  

くろくわゐ  鳬茈《ふし》  鳬茨《ふし》

       葧臍《ぼつせい》 黑三稜

烏芋

  地栗《ちりつ》

       芍《しやく》【音「撓」《ジヤウ》。】

       【俗、云ふ、「黑久和井」。】

       「田烏子《くろくわゐ》」の三字を用ふ。

 

「本綱」に曰はく、『烏芋《ウウ》は、淺≪き≫水田≪の≫中《なか》に生ず。其《その》苗《なへ》、三、四月、土を出《いで》て、一莖、直《す》ぐに上《のぼ》りて、枝葉、無く、狀《かた》ち、龍鬚《りゆうのひげ》のごとし。肥≪えたる≫田に栽《うう》る者、粗(ふと)く、葱《ねぎ》・蒲《がま》に近《ちか》し。髙さ、二、三尺。其《その》根、白≪き≫蒻《ジヤク/ニヤク》[やぶちゃん注:これは、状況から、「ハスの茎の水の中に入っている部分に似たもの」、或いは、「蒟蒻(こんにゃく)の球状の茎のようなもの」の意と解しておく。個人的には前者の漢語の意がしっくりくる。]あり。秋≪の≫後《のち》、顆《くわ》を結《むすび》て、大《おほ》いさ、山査《さんさ》・栗の子《み》のごとくにして、臍(ほぞ)に、聚毛《じゆうもう》、有り。累累《るいるい》として、下に生(は)≪え≫[やぶちゃん注:原本では、「生」の右下に「ニハ」の送り仮名があるが(国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版でも、そう打ってある)、それでは判読で出来ないので、かく、した。]、泥の底に、入る。野生の者は、黒《くろく》して、小《しやう》なり。之《これ》を食ふに、滓(かす)、多し。種(う)へ[やぶちゃん注:ママ。]出《いだ》す者は、紫にして、大なり。之を食ふに、毛《け》、多し。沃(こへ[やぶちゃん注:ママ。])たる田に、之を、種《う》ふ。三月に種を下《おろ》し、霜《しも》の後《のち》、苗《なへ》、枯《か》る。冬・春、掘收《ほりをさめ》て、果《くわ》と爲《なす》。生《なま》にして食《くひ》、煮て食ふ。皆、良し。』≪と≫。

『根【甘、微寒。滑《カツ》。】』『黃疸を消し、五種の膈氣《かくき》を療《りやう》し、宿食《しゆくしよく》[やぶちゃん注:食べ過ぎ。]を消す。飯《めし》≪の≫後《のち》、宜しく之≪を≫食ふべし【≪根の≫先、冷氣、有れば、人、食ふべからず。人をして、腹、脹《はり》、氣、滿たしむ。】善《よ》く、銅を毀《こぼ》つ。銅錢に合《あは》して、之を嚼(か)めば、則《すなはち》、錢、化《くは》す。見つべし、其《それ》、堅《かたき》を消(け)し、積《しやく》を削《けづ》るの物《もの》爲《な》ることを[やぶちゃん注:この部分、訓点全体に不全がある。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該部の訓点が、躓かずに読めるので、それに拠った。]。故《ゆゑ》、能《よ》く、五種の膈疾《かくしつ》を化《くわ》して、宿食を消し、誤《あやまり》て銅を呑むを治すなり。』≪と≫。

△按ずるに、烏芋《くろくわゐ》、其根の形・味、慈姑(くわゐ)に似て、黑・白の異《い》、有る。故《ゆゑ》に、之《これ》を「黒久和井《くろくわゐ》」と謂ふ。葉は、「石龍芻(つくも)」の葉に似たり。又、烏芋は【生《なま》にて食《くひ》て、佳し。】。慈姑は【煑て食て、佳し。】。

 「堀川百首」

  たなつ物

     みそのに蒔《まき》し

    いざ子共《こども》

   外面《そとも》の小田《おだ》に

      くわゐひろはん      顯仲

 

[やぶちゃん注:判っている人には恐縮だが、植物に弱い私自身が、何十回も記事で注しながら、しっかりと記憶していなかったので、私の暗記力の減衰を叱咤するために、順に示す。

 まず、我々が、御節(おせち)料理で知っている、ほろ苦の「くわい」は、

単子葉植物綱オモダカ亜綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属オモダカ品種クワイ Sagittaria trifolia ' Caerulea '

である。まず、これを押さえて頂きたい。

 ところが、この本項の「くろくわゐ」というのは、全く異なる、

◎単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科ハリイ属クログワイ Eleocharis kuroguwai

或いは、

◎単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科ハリイ属オオクログワイ(或いは、シナクログワイ)Eleocharis dulcis var. tuberosa

なのである(後者は東洋文庫訳で比定同定してあるもの。詳しくは、後のウィキの引用を参照されたい)。

 さて、実は、本項の次の項、本巻第九十一の掉尾に配されてある「をもたか しろくわゐ 慈姑」(「をもたか」はママ)があるのだが、この和名の読みに、まず、「をもたか」とあり、次に「しろくわゐ」とある。而して、それは、実は、オモダカではなく、

○単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科ハリイ属シログワイ Eleocharis dulcis

なのであって、良安が、次の「慈姑」という項目の和名ルビに一番に「をもたか」と振っているのは、

単子葉植物綱オモダカ亜綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属オモダカ Sagittaria trifolia

を指していることになり、

――完全アウト――

なのである。

 そこで、読者諸君は、

「じゃあ、肝心の真正の『オモダカ』は、「和漢三才圖會」のどこにあるんじゃい!?!」

とツッコミを入れられるに違いない。しかし、

――「和漢三才圖會」には、現行のオモダカに当たる項目は――この次の「慈姑」の項以外にはない――

のである!

 フライングになるが、次の「をもたか しろくはゐ 慈姑」の良安の評言の冒頭で(特異的に訓点を附して、次項と差別化して示す)、

   *

△按慈姑其苗俗名於毛太加其根白久和井單葉

 小白花 近頃有千葉花大白以爲ㇾ珍

 紅ナル亦希ㇾ之栽盆中ス二其花

  *

とあり、以下、根を食用にすることが語られているのだが(品種であるシログワイ・クログワイが食用にされる以外に、私でも、本来のオモダカ――私は少年期に母の郷里である鹿児島県岩川の水田で親しく実見している――が食用になることは知っている。食べたことはないが、TVで見たことがあり、ネット上でも見かける。ネットのものは次項で示す)、問題は、以上の記載の花と葉である!

これは――シログワイの花や葉ではあり得ない――

からである! 而して、フライングするが、良安が掲げた、次項「慈姑」の図を見られるがいい!

 

Omodakasirokuwai

 

これは、先ほど、幾つものシログワイの画像を見たが(ウィキの「シロワイ」の、ボタニカル・アートの図を見よ)、

――こんな花も葉も――シログワイには認められない――のである!

◎――ド素人の私でも――この図は――間違いなく――私が実見し、知っているところの――オモダカの花と葉――なのである!

知らない人のために、画像のあるサイト「GKZ 植物事典」の真正の「オモダカ」のページの画像を見られたい!(因みに、オトロシケない(富山方言)のだが、「オモダカ」の「別名・異名」の中には――なんと!――「ハナグワイ」「クログワイ」が載っているゾッツ!!!)――

実は、この誤認は、良安が、次項の項目のヘッド部分に(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該画像を見よ)、

   *

をもだか    籍姑《せきこ》°白地栗《はくちりつ》

しろくわゐ   水萍《すいひやう》°河鳬茈《かふし》

慈姑

        苗《なへ》を「剪刀草《せんたうさう》」

        と名づく。

        箭搭草《せんたうさう》°

        槎丫草《さあさう》

ツウ タウ     燕尾草《えんびさう》

[やぶちゃん注:「をもたか」はママ。]

   *

「慈姑」の二つ目の和訓を「しろくわゐ」と、やらかしてしまったこと、評言の冒頭で、

   *

△按ずるに、慈姑《くわゐ》、其《その》苗を、俗、「於毛太加《おもだか》」と名≪とづく≫。其の根を、「白久和井《しろくわゐ》」と名《なづ》く。單-葉《ひとへ》の小≪さき≫白花を開く。

   *

――オモダカをクワイの苗の呼称――その根を「しろくわゐ」と言うという採集結果を無批判に載せてしまったこと、所謂、「於毛太加」(オモダカ)・「慈姑」(クワイ)と「クログワイ」「シログワイ」を同一種群とゴッチャにして書くという致命的な誤りに起因しているのである!

この部分は、次の項で子細に検証する。

 以下、ウィキの「クログワイを引く(注記号はカットした)。『クログワイ(黒慈姑、荸薺、Eleocharis kuroguwai Ohwi)は、単子葉植物カヤツリグサ科ハリイ属に所属する草本である。細長い花茎だけを伸ばす植物で、湿地にはえる。本項では、この種を含め、ハリイ属の中でも大柄な種を解説する』。『湿地に生育する植物で、泥の中に地下茎を長く這わせる。あちこちからそれぞれ少数ずつの花茎を出し、それが真っすぐに上に伸びるので、全体としては一面に花茎が立ち並ぶ群落を作る。花茎は高さ』四十~八十センチメートル(同ウィキの「塊茎から発芽した個体」の写真をリンクしておく)、『緑色でつやがあり、断面は円形、先端まで』殆んど『太さは変わらない。花茎の内部は中空になっていて、所々に』仕切り『の壁(隔壁)が入っている。花茎を乾燥させると、それが外側からも見て取れるようになる。葉は根元の鞘として存在するだけで、葉身はない。鞘は赤褐色に色づく』。『小穂は茎の先端に出る。太さは茎と同じで、間がくびれたりしないので、花茎から連続しているように見え、ちょっと見るとあるのが分からないこともある。小穂は多数の花からなり、外側は螺旋に並んだ鱗片に包まれる。鱗片は楕円形で先端が円く、濃い緑色。中には雌しべと雄しべ、それに糸状附属物が並ぶ。果実は熟すると』、『明るい褐色で倒卵形、先端に雌しべ花柱の基部の膨らんだ部分が乗る』。『日本では関東、北陸以西の本州から九州に分布し、海外では朝鮮南部に分布がある』(実は、同種は中国には分布しない。事実、「維基百科」には同種のページはない。では、「本草綱目」のそれは何かというと、以下に出るシログワイ Eleocharis dulcis 、或いは、同変種E. dulcis var. tuberosa 、又は、ミスミイ  E. fistulosa であろうと推定される。「維基百科」には、前者シログワイ相当のページ「荸(臺灣正體「荸薺」)があり、別名に「」(同前「烏芋」)がある)。『浅い池などに生育するが、水田に生育することも多く、水田雑草としても定着している』。『初夏から秋にかけてよく繁茂し、秋の終わりには匍匐枝の先端に小さな黒っぽい芋(塊茎)をつける。この芋の形がクワイに似ているので、この名がある』。『水田雑草である。根も深く塊茎で繁殖するため、難防除雑草として扱われる』。『万葉集では「えぐ」の名で登場する』。

   *

これは正しくは「ゑぐ」である。講談社文庫の『「万葉集」全訳注原文付』の「別巻」である「万葉集事典」(昭和六〇(一九八五)年刊(初版))の「植物一覧」に、『ゑぐ』として、『くろくわい[やぶちゃん注:ママ。]か。沼沢に群生。泥の中の塊茎は中が白く食用。女たちは雪消(ゆきげ)の頃からその若芽をつむ。他に芹の異名とも。』とある。以下の二首に出る(表記は同書を参考に漢字を正字化した)。

   *

 君がため

    山田(やまだ)の澤(さは)に

  惠具(ゑぐ)採むと

     雪消(ゆきげ)の水に

   裳(も)の裾(すそ)濡れぬ

          (「卷第十」一八三九番)

   *

 あしひきの

    山澤惠具を採みに

     行かむ日だにも

   逢はせ母は責(せ)むとも

          (「卷第十一」二七六〇番)

   *

引用に戻す。

   *

『沢などに自生する山菜として、多くの古典では食用として収穫されている姿が描かれている』。『救荒植物としての一面を持ち、江戸時代には』、『栽培すら』、『されていた地域もある。水田の近くに自生するのはかつて「植えられていた」名残である可能性もあるが、塊茎は小さく、より大きな栽培品種が存在する現在では』、『単なる雑草である』。『クログワイの名で食用とされているものがあるが、実は近縁な別種である。中華料理で黒慈姑(くろぐわい)と言われるものは、和名をオオクログワイ(またはシナクログワイ E. dulcis var. tuberosa (Roxb.) T.Koyama )といい、日本にも九州などに稀に分布するシログワイの栽培品である。台湾、中国南部からインドシナやタイ方面では、その芋を目的に水田で栽培される。野菜』(脚注の注釈に『ナシのような食感で缶詰にもされる』とある)、『あるいはデンプン源として利用されるほか、漢方薬としては解熱、利尿作用があるとされる』。

以下、「近似種」の項。『前述の食用とされる種の基本変種はシログワイ(別名イヌクログワイ)( E. dulcisBurm. fil.Trinius )という。クログワイに似るが』、『より大型で』一メートル『を越える。また、穂が白っぽくなる。日本南西部や中国南部から太平洋諸島、オーストラリアまで、またマレーシア、インドを経て』、『アフリカにまで産する。日本では本州南岸の一部から九州、琉球列島に産するが、栽培からの逸出であるとも言われる。栽培種であるオオクログワイは芋が大きくて直径』二~三センチメートル『に達する』。『ミスミイ( E. fistulosa PoiretLink et Sprengel )は、これらに似て、水中の泥に匍匐枝を伸ばし、花茎を多数立てる植物で、小穂が花茎の先端に、滑らかにつながって生じる点も』、『よく似ている。はっきりと異なるのは、花茎の断面が三角形をしていることである。また、花茎は中空でない。本州では』、『日本南西部、中国から、インド、オーストラリアにまで分布し』、『特に日本では愛知県と紀伊半島の一部、それ以南、九州から琉球列島に分布する。本土ではごく珍しいものである』。『なお、ヌマハリイ類もこれらと同様に、水中の泥に匍匐枝を伸ばし、花茎を多数立て、一面に花茎の並んだ群落を作る。花茎の先端の小穂の基部がはっきりとくびれて、小穂は楕円形で花茎よりはっきりと太い点が異なる』。とある。

 なお、本項の引用は「漢籍リポジトリ」の「卷三十三」の「果之五【蓏類九種内附一種】」の「烏芋」([081-32b]以下)のパッチワークである。

「五種の隔氣」東洋文庫訳の後注に、『思隔・耐隔・喜隔・怒隔・悲隔の五種があり、それぞれの過度の感情に反応して隔気の働きが不調になる症状。』とある。

「堀川百首」「たなつ物みそのに蒔《まき》しいざ子共《こども》外面《そとも》の小田《おだ》にくわゐひろはん」「顯仲」「堀川百首」は平安後期の百首歌。「堀川百首」「堀河院百首」。「堀河院御時百首和歌」他の呼称がある。康和四(一一〇二)年から翌年頃にかえて詠まれた複数の歌人の和歌を纏めて長治元(一一〇四)年頃に堀河天皇に献詠したものか。源俊頼・藤原基俊ら当時の歌人十四名の百首歌を収めている(やや異なった人選のものも伝わる)。「顯仲」藤原顕仲。日文研の「和歌データベース」の「堀河百首」で確認したが、そこでは(ガイド・ナンバー01498)、

   *

たなつものみそのにまきついさこともそとものをたにくわゐひろはむ

   *

となっている。これは、良安の転写の誤りである。「たなつ物」は、「たな」(種)+上代の格助詞「つ」 + 「もの」(物)で、漢字で「穀」で、「田からと穫れる穀物」「稲」の意。]

2025/08/27

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その1)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。

 なお、私はファナテックな海藻フリークである。昆布は、一時期、常に五種以上の昆布をストックし、細く切ってしゃぶるのを常としていた変人である。現在もアラメやフノリを常備常食している。閑話休題。多くの記事があるが、最も纏まったものでは、

サイト版「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」

を嚆矢とするが、ブログでは、古くコンブ類については、

「大和本草卷之八 草之四 昆布 (コンブ類)」

と、電子化注に、えらく時間を費やした、

「日本山海名産図会 第五巻 昆布」

等がある。必要に応じて、注で指示することもあろう。

 なお、本書の先行電子化で注した書名注は、繰り返さない。

 

  (二)昆布の說

昆布は北海道十一箇國、並(ならび)に、三陸の海に產する所の藻類(さうるい)にして、古來より、食膳に賞用し、又、淸國の貿易品たり。近年に至り、輸出の額を增し、水產中、屈指の物產となり。實に本邦富源(ふげん)の一(いつ)に居(を)る所の重要のものとす。

[やぶちゃん注:ご存知とは思うが、現行の分類学では「コンブ」という「種」は存在しない。冒頭で言っておかないダメなので、長くなるが、仕方がない。「日本山海名産図会 第五巻 昆布」の注で示した、私のコンブ類=不等毛植物門(オクロ植物門) Ochrophyta褐藻綱コンブ目コンブ科 Laminariaceaeの種の認識は以下の通りであった(今回、問題がある箇所は、一部(総てではない。後の注記を参照)を「BISMaL」で確認し、ここで補正をした)。遙かに知られている流通名も附記してある。

   *

ガゴメ属ガゴメ(コンブ)(籠目(昆布)) Kjellmaniella crassifolia

ネコアシコンブ属ネコアシコンブ(猫足昆布) Arthrothamnus bifidus(別名「ミミコンブ(耳昆布)」。北海道東部のみに分布)

ゴヘイコンブ属ゴヘイコンブ(御幣昆布) Laminaria yezoensis (但し、本種は細い葉体の御幣状の特殊な形態を持ち、「昆布」の印象からは私は、若干、外れるように感ずる)

コンブ属ミツイシコンブ(三石昆布=「日高昆布」) Saccharina angustata

チヂミコンブ(縮昆布) Saccharina cichorioides

ガッガラコンブ(=厚葉昆布」)Saccharina coriacea

トロロコンブ Saccharina gyrata (間違えてはいけないのは、本種は加工食品の「とろろ昆布」の主原料ではなく、一般的な高級「とろろ昆布」は、以下のマコンブ他の加工品であるものが主である。則ち、「とろろ昆布」は〇製品名であり、イコール、✕「トロロコンブ」ではないということである。後の図版で詳細に語る)

マコンブ(真昆布) Saccharina japonica (他にマコンブ品種に「ドテメ」があるが、この学名は旧 Laminaria japonica f. membranacea のままで、問題がある)

マコンブ変種ホソバオニコンブ(細葉鬼昆布) Saccharina japonica f. angustifolia

マコンブ変種オニコンブ(=「羅臼昆布」) Saccharina japonica var. diabolica

マコンブ変種リシリコンブ(利尻昆布) Saccharina japonica var. ochotensis

マコンブ変種ホソメコンブ(細目昆布) Saccharina japonica var. religiosa

アツバミスジコンブ(厚葉三筋昆布) Saccharina kurilensis

カラフトコンブ(樺太昆布) Saccharina latissima

ナガコンブ(長昆布=「浜中昆布」) Saccharina longissima (「浜中」は地名。厚岸郡浜中町(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)で、昆布の一大産地として知られ、中でもナガコンブ知られることに拠る)

カラフトトロロコンブ(樺太薯蕷昆布) Saccharina sachalinensis

エンドウコンブ(遠藤昆布) Saccharina yendoana (和名は最初の発見者である初めて発見した水産学者・藻類学者遠藤吉三郎氏に因む)

   *

しかし、コンブ科 Laminariaceae に限って決まりかというと、実は、もう、違うのである。たびたび、私がお世話になる、私が二〇二一年六月二十九日に「日本山海名産図会 第五巻 昆布」で、以上のリストの参考にさせて頂いた鈴木雅大氏の優れた学術サイト「生きもの好きの語る自然誌」の「コンブ目 Order LAMINARIALES Migula, 1909」のページを見ると、二〇二三年十月十五日附で最新更新しておられ、まず、なんと!

コンブ科が消え(実は「BISMaL」も同様)、

ネコアシコンブ科 Arthrothamnaceaeと、ゴヘイコンブ科 Laminariaceaeがタクソンとして新たに設けられ(但し、鈴木氏の『Arthrothamnaceaeの和名は「ネコアシコンブ科」としましたが,正式に提唱,出版されたものではなく,本リストにおける暫定的な名称です。』という注記がある)、

ネコアシコンブ科に、

 ネコアシコンブ属 Arthrothamnus

 カジメ属 Ecklonia

 アラメ属 Eisenia

 ガゴメコンブ/ガゴメ属  Kjellmaniella と、

 クロシオメ属 Streptophyllopsis の間に、

 コンブ属 Saccharina が配されてあった

からである。因みに、ウィキの「コンブ」では、『コンブ科Laminariaceae Bory de Saint-Vincentには次の』十三『属があり』、『マコンブなどが属するカラフトコンブ属』(=コンブ属『ネコアシコンブなどが属するネコアシコンブ属』Saccharina 『や、カナダからチリに分布するジャイアントケルプの属するMacrocystis 属などがある』とある(十三属は当該「分類」の項を見られたい)。

取り敢えず、ここでは、これぐらいにしておこう。因みに、ざっと河原田氏の記載を見るに、現行の真正コンブ類から外れた種が含まれている感じは、ない。

 

昆布は「倭名鈔」に『比呂女(ひろめ)、又、衣比須女(えびすめ)』と訓(くん)し、「續日本紀(ぞくにほんき[やぶちゃん注:ママ。「しよくにほんぎ」が正しい。])」「延喜式」等(とう)にも、『昆布』の文字を用ひ、「萬葉集」に『軍布(ぐんぶ)』と書(しよ)したるは、轉音(てんおん)[やぶちゃん注:前の語の最後の母音が変わることを指す。「母音交代」とも言う。]によるのみ。然るに「多識篇」には、昆布を『比呂米(ひろめ)』、海帶(かいたい)を『阿良米(あらめ)』とし、紫菜(しさい)を、『今、按ずるに、昆布なり』といひ、「大和本草」「庖厨和名本草」「本朝食鑑」「和漢三才圖會」等には、昆布は『和名(わみやう)、比呂女(ひろめ)』とし、「庶物類纂」には、昆布を『霍鎻竟(はうめ)』、又、『霍母貢(ばんめ)』とし、海帶(かいたい)を『盍拉覔(あらめ)』『戛十覔(かじめ)』『盍拿覔(あなめ)』『鎻無戛(そうか)』とす。「本草綱目啓蒙」には、昆布を「ゑびすめ」「こぶ」「ひろめ」「しかね【松前】」とし、海帶を和名『「ほうめ」、一名(いつみやう)「みづわかめ」、是(これ)なるべし』と、せり。然(しか)れども、本邦にては、世上一般に『昆布』の字を通用せり。

[やぶちゃん注:『昆布は「倭名鈔」に『比呂女(ひろめ)、又、衣比須女(えびすめ)』と訓(くん)し』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の「倭名類聚鈔」「卷十七」の「菜蔬部第二十七」「海菜類第二百二十六」の当該部で推定訓読して示す。送り仮名(疑問あり)・漢字の一部の表記は手を加えた。

   *

昆布(ヒロメ/ヱヒスメ[やぶちゃん注:右/左のルビ。「ヱ」はママ。]) 「本草」に云はく、『昆布、味、醎《かん》、寒《かん》。毒、無し。東海に生ず【和名「比呂米」、一名、「衣比須女」。】。陶隱居が注に云はく、「黃黑色、柔《やはらか》にして、細し。食ふべし。」』≪と≫。

   *

この「本草」は「本草和名」で、深根輔仁(ふかねのすけひと)の撰になる日本現存最古の薬物辞典(本草書)。「輔仁本草」(ほにんほんぞう)などの異名がある。当該ウィキによれば、『本書は醍醐天皇に侍医・権医博士として仕えた深根輔仁により』、『延喜』一八(九一八)年に『に編纂された。唐の』「新修本草」(高宗が蘇敬らに書かせた中国最古の勅撰本本草書。陶弘景の「神農本草經集注」(しんのうほんぞうきょうしっちゅう)を増訂したもの)を『範に取り、その他漢籍医学・薬学書に書かれた薬物に倭名を当てはめ、日本での産出の有無及び産地を記している。当時の学問水準』の限界のため、『比定の誤りなどが見られるが、平安初期以前の薬物の和名を』、『ことごとく記載しており』、且つ、『来歴も明らかで、本拠地である中国にも無い』所謂、『逸文が大量に含まれ、散逸医学文献の旧態を知る上で』も、『また』、『中国伝統医学の源を探る上でも貴重な資料である』。本書は、後の『丹波康頼の』知られた「医心方」にも『引用されるなど』、『後世の医学・博物学に影響を与えた。また、平安時代前期の国語学史の研究の上でも貴重な資料である』。後、永らく、『不明になっていたが、江戸幕府の医家多紀元簡が紅葉山文庫より上下』二『巻全』十八『編の古写本を発見し』、『再び世に伝えられるようになった。多紀元簡により発見された古写本の現時点の所在は不明であるが、多紀が寛政』八(一七九六)年に『校訂を行って刊行し』、六『年後に民間にも出された版本が存在する他、古写本を影写した森立之の蔵本が台湾の国立故宮博物院に現存する』とある。

 さて。この源順の記載には、甚だ、なやましい箇所がある。それは「ヒロメ」である。「ヒロメ」というのは、現在の標準和名では、「コンブ」ではない、ワカメ属ワカメ Undaria pinnatifida の仲間である、

ヒロメ Undaria undarioides

に与えられてしまっているからである(なお、本邦産のワカメは他にアオワカメ Undaria peterseniana がある)。この「ヒロメ」は「広布」で、江戸時代には「昆布」を呼んでいた名として附には落ちる。因みに、ウィキの「コンブ」は、「分類」の記載がショボいのに反し、「名称」と「歴史」の項が異様に豊かであるので、引用すると(太字・下線は私が附した。注記号はカットした)、『日本語の「昆布」の表記は漢語に由来している。古い和名では「えびすめ」あるいは「ひろめ」と称された』。『現代中国語では「海帯(haidai)」と称され、コンブ科カラフトコンブ属の各種のコンブを意味するとともに、狭義にはカラフトコンブ属のマコンブを意味する。また、生物種としてのコンブにも一般的に「海帯」を用いる。一方、中国語にある「昆布(kunbu)」の語は、本草学に由来する用語であり薬としてのコンブを意味する』。『中国古典における「昆布」の語の初見は、魏の呉普がまとめた』「呉普本草」『とされ』、『「綸布」という薬効のある海藻の一名として挙げられている。この「綸布」については』、『前漢に成立していた』「爾雅」『に「綸」として記され、東海(朝鮮半島北東部の日本海沿岸)の特産品としている。しかし、この海藻は牧野富太郎らによってワカメを指したものと指摘されている』。但し、『古代中国の「昆布」を北方系のワカメとする仮説に対しては』「本草綱目」『にある』『繩把索地如卷麻」「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「卷十九 草之八」の「昆布」([053-30b]以下)の「集解」に(一部の漢字に手を入れた。当該部に下線を引いた)『别錄曰昆布生東海弘景曰今惟出髙麗繩把索之如卷麻作黃黑色柔靭可食爾雅云綸似綸組似組東海有之今靑苔紫菜皆似綸而昆布亦似組恐卽是也藏器昆布生南海葉如手大似蓴葦紫赤色其細葉者海藻也珣曰其草順流而生出新羅者葉細黃黑色胡人搓之爲索隂乾從舶上來中國時珍曰昆布生登萊者搓如繩索之狀出閩浙者大葉似菜蓋海中諸菜性味相近主療一致雖稍有不同亦無大異也』とある)『(縄にして束ねて巻麻のようにしたもの)の形態がロシア極東にもみられるため、さらなる検討の余地があるとする指摘もある』。『一方、「海帯」の語については』、十一『世紀に編纂された北宋の』「嘉佑本草」『が東州(山東半島)の特産品として「海帯」を記載しており、女真の貿易活動の中で中国との交易品に含まれていたとみられている。「昆布」の歴史的用語法について王賽時は、山東と遼寧では「海帯」(アマモ)』(言うまでもないが、「海藻」ではなく、「海草」である。被子植物門単子葉植物綱オモダカ亜綱イバラモ目アマモ科アマモ属アマモ Zostera marina(本邦の分布は九州から北海道の内湾に植生)・スゲアマモ Zostera caespitosa(同じく北海道・本州北部及び中部)・エビアマモ Phyllospadix japonicus(本州中部・西部)の三種が植生する。因みに、別名に「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ(龍宮の乙姫の元結の切り外し)」があるが、これは最も長い植物名として知られる)、『浙江と福建では「黒昆布」(レッソニア科カジメ属の一種)、その他の地方では「裙帯菜」(ワカメ)を指していたとしている』。『古代日本では』「続日本紀」霊亀元(七一五)年十『月の記事に「昆布」の語があり、岩手県宮古市周辺にあった閇村(へいむら)の族長の須賀君古麻比留(すがのきみこまひる)が、先祖以来「昆布」を陸奥国府に献上してきたが、道のりが遠く苦しいため、村に貢納の拠点となる郡家(ぐうけ)を設置してほしいと訴えて許可されたとする。この』七百十五『の閇村の昆布の記録の後、日本では供給量が増大し』、七三〇『年代にかけて』、『本項でいう「昆布」の語が急速に普及したと考えられている』。『なお、古代日本ではワカメを「海藻」または「軍布(ぐんぷ)」と表記したが、昆布と音通とみられる用法の「軍布」が西日本の木簡に多く見られるという』。『明代から清代にかけて中国では朝鮮半島から多くの昆布が輸出されるようになり、李朝後期の』十九『世紀には主要な輸出品となったが、中国でコンブが「海帯」と称されるようになったのは』、『この頃とされる』。『これより前の江戸時代の日本では、寺島良安が』「和漢三才圖會」(私の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「こんぶ ゑびすめ 昆布 クン プウ」(「ゑびすめ」はママ)を見られたい)『において中国の「昆布」がコンブであることを考証している。また』、十九『世紀初頭の小野蘭山の』「本草綱目啓蒙」『は「昆布」をコンブであるとし、別に「海帯」の項を設け、「海帯」はホソメコンブのことであるとしている』。「續日本紀」『には「昆布」の語があるものの』、『原文は漢文であり、その読みは明らかでない』(私の後注を見よ)。『「コンブ」の由来には諸説あるが、特に次の』二『説が有力である』。

■『漢語の「昆布」の音読であるとする説』

■『アイヌ語で昆布を指す kompu の音訳とする説』(「大言海」他)

後者に就いては、『アイヌ語の「コンプ」が』、『中国に』渡り、『日本に逆輸入されたとする説もある』。『マコンブを意味するアイヌ語には「コンプ」(北海道の幌別・沙流)や「サシ」(北海道中北東部・樺太・千島)がある。アイヌ語語源説に対しては、本州から日本語の「コンブ」が流入して道南を中心に「コンプ」の語が広まり、その他の地域に「サシ」が残存したとみるほうが整合的とする見解がある』とする。

『中国語の「昆布」は本草学の用語で、本草学は自然物を薬用に用いる学問で実用的な観点に重点を置いて自然物を分類するものであることから、形態が異なるいくつかの種が』、『まとめて「昆布」とされていた。古代中国の文献で「昆布」と記されているものには、ワカメなど別の海藻を指していると思われる』、『との指摘があるものも含まれる』。『コンブは東北アジアの特産の海藻であるが、どの地域でも主食して食べられていたわけではなく、その文献は多くはない。しかし』、「海東繹史」(かいとうえきし:李朝朝鮮の学者韓致奫(かんちえん:一七六五年~一八一四年)が、中国・日本の書籍五百四十五部から朝鮮関係記事を集めて編纂した書。全七十巻二十六冊。東夷諸国と檀君時代(朝鮮半島に於いて神話上の檀君王倹(だんくんおうけん)が紀元前二三三三年に開いたとされる国名)に檀君の即位した年を「元年」とする「檀君紀元」(檀紀)を定め、一九六一年まで公的に西暦と併用していた。ここは当該ウィキを参考にした)から高麗までの歴史を述べた「世紀」をはじめ、全体を十七の「志」・「考」に分け、引用文に考証と見解が加えられたもの。正祖時代の実学派の一大成果とされる。その続編に、韓致奫の遺稿を彼の甥韓鎮書が編纂した「地理考」(十五巻)があり、地理研究資料として評価が高い。以上は主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った)『によると』、『昆布は新羅、渤海、高麗の特産品としてたびたび中国にもたらされていた』。『渤海では重要な交易品の一つで』、「海東繹史」は「新唐書」等『から渤海の使節が』、『唐や後唐に昆布を献上していたとする記述を引用している。また』、十八『世紀後半の史書』「渤海考」『は渤海の物産に「南海昆布」があったことを記している』。『日本で昆布の使用が広まったのは』、『江戸時代のことである。この交易ルートは「昆布ロード」と呼ばれている』。『起源は』、『よくわかっていないが、江戸時代までには』、『蝦夷地や東北北部で採れた昆布は、福井の小浜や敦賀周辺で陸揚げされ、陸路や琵琶湖の水路を経て京都にもたらされるようになっていた』。『江戸時代に入って』、『海上交通が盛んになると、北前船の西廻り航路が開発され、日本海沿岸地域から下関を経て』、『瀬戸内海に入り、大坂にもたらされるようになった』。『上方では』、『大坂や堺で陸揚げされた。大阪名産の昆布製品として、とろろ昆布、塩昆布、佃煮などがある。また、堺は刃物が特産品だったこともあり、表面を薄く削ったおぼろ昆布が名産となった』。『北前船で蝦夷地から運ばれた昆布は』、『上方で』、『その多くが消費され、上質なものは』、『上方で消費されたので』、『江戸へ回った分は』、『その残りで、量が多かった日高昆布が』殆んど『であった。また、江戸の水質は』、『上方より硬水寄りで、昆布のダシが出にくい水質であったために、ダシの材料として「鰹節」が多く使われていた』。『さらに昆布の交易ルートは』、『密貿易の形で南に伸びて、薩摩、琉球を通じて』、『清国と』(☜)『つながるようになった。富山では売薬商が、薩摩藩が琉球口貿易を通じて手に入れている唐物の中に』、『中国の薬種があるとみていた。一方、薩摩藩は』、『大坂の問屋を介さずに』、『松前産の俵物や昆布を直接松前から仕入れようと考えていた。当時、中国内陸部ではヨード不足により』、『甲状腺が肥大する特有の風土病がみられ、ヨウ素を多く含む昆布の需要があり』、『薬屋で販売されており需要があったためである。そこで越中売薬商は「薩摩組」を組織し、北前船の荷主として、後には北前船主として昆布を運び、薩摩の商人と取引を行った』。『中継地の琉球には、薩摩藩から幅広の昆布とともに出汁の出にくい長昆布も流入したが、清国側はヨードが多いとされ』、『幅広で』、『出汁』(だし)『が』、『よく出る海帯(ハイタイ)しか引き取らなかった。そのため』、『長昆布が多く残されることとなり、沖縄では昆布を出汁ではなく』、『食材として用いた郷土料理が多くなったとされる』(この部分は、沖縄(うちなー)料理好きの私には、非常に首肯出来る!。『なお、シーボルトの』「江戸参府紀行」『によると、最上徳内』(もがみとくない:宝暦四(一七五四)年~天保七(一八三六)年:探検家・江戸幕府普請役)『がサガレン(樺太)に滞在した時に』百五『人中』五十三『人が寒冷の影響で死亡したが、徳内は大量の昆布を食べることで、すこぶる健康であったと記載されている』とある。

「續日本紀」平安初期の歴史書。「六國史」の第二。全四十巻。菅野真道(すがののまみち)・藤原継縄(つぐただ)らの編。延暦一六(七九七)年成立。文武天皇即位の文武元(六九七)年から桓武天皇の延暦一〇(七九一)年までを、漢文の編年体で記述。「續紀」とも呼ぶ。国立国会図書館デジタルコレクションの『國文六國史』「第三 續日本紀」(上・中/武田祐吉・今泉忠義編/昭和九(一九三四)年大岡山書店刊)の、「卷の第七」の「日本根子高瑞淨蘆姬(やまとねこたかみづきよたらしひめ)の天皇(すめらみこと) 元正天皇(げんしやうてんわう) 第四十四(しじふし)」の元正天皇靈龜元年冬十月(かんなづき)丁丑(ひのとうし)(二十九日)の条(ここ)を参考にすると(ポイント部分に下線を附した)、

   *

陸奥(みちのく)の蝦夷(えみし)の第三等邑良志別(おふらしべち)の君(きみ)、宇蘇彌奈(うそみな)等(たち)[やぶちゃん注:生没年不詳。奈良時代の東北蝦夷(陸奥国の蝦夷)。第三等(朝廷が蝦夷に与えた爵位第三位)。後世では東北地方の各神社で祀られており、蝦夷の人物神とされ、「オラシ」の名称に関しても、アイヌ人の信仰と関連するものとされる。「百科事典ウィキペディア」に拠った。]言(まを)さく、『親族(やがら)の死亡(うせ)たる子孫、数人(すうにん)、常に狄徒(てきと)に抄略(かす)められむことを恐れたり。請ふ、香河村(かがはのむら)に郡家(ぐうけ)[やぶちゃん注:郡衙(ぐんが)の別称。古代律令制度の下にあって、郡の官人(郡司)が政務を執った役所。]の造建して、編戶(へんこ)の民(たみ)と爲(な)し、永く安堵を保(たも)たむ』と。又、蝦夷の須賀(すが)の君(きみ)古麻比留(こまひる)[やぶちゃん注:生没年不詳。八世紀前葉に東北地方にいた蝦夷の有力者。「君」は姓(かばね)。当該ウィキに拠った。]等、言さく、『先祖(とほつおや)より以來(このかた)、貢獻(たてまつ)る昆布(ひろめ)は、常に此の地(ところ)に採りて、年時(ねんじ)、闕(か)かず。今、国府(こふ)の郭下(くわくげ)を相(あひ)去ること、道(みち)、遠く、往還(わうくわん)、旬(じゆん)を累ねて、甚だ、辛苦、多(おほ)し。請ふ、閉村(へいむら)に於きて、便りに郡家を建て、百姓(ひやくしやう)に同じくし、共に親族(うがら)を率(ひき)ゐて、貢(みつぎ)を闕(か)かざらむ。』と。並(ならび)に之を許す。

   *

とあった。

『「萬葉集」に『軍布(ぐんぶ)』と書(しよ)したる』これは、「萬葉集」の「卷第三」の「石川少郞歌(いしかはのをといらつこ)の歌一首」とするもの(二七八番。以下は講談社文庫「万葉集」(中西進・全訳注・原文付)の第一巻を参考に、漢字を恣意的に正字化した)。

   *

(原文)

然之海人者 軍布苅鹽燒 無暇 髪梳乃小櫛 取毛不見久尒

(訓読)

志賀(しか)の海人(あま)は

   藻(め)刈り鹽(しほ)燒き

 暇(いとま)なみ

     髮梳(くしら)の小櫛(をぐし)

    取りも見なくに

(左注)

     右は今案(かむが)ふるに、

     石川朝臣君子(きみこ)、號(な)を

     少郞子(をといらつこ)といへり。

   *

中西氏は『志賀の海人おとめは海藻をとったり、塩を焼いたりで暇あないものだから、髪をすく櫛さえ手にとってみることはない。』と訳され、この作者は、実際には左注通り、男性で、『からかい歌ともとれる』と注しておられ、「志賀」は『筑前国志賀島』で、『ここの海人は当時』、『有名だった』とある。ここ。福岡県福岡市東区に所属する志賀島(しかのしま)である。しかし、

河原田氏が、この「軍布」を、コンブに同定比定するのは、ロケーションからも、極めて無理がある

と私は思う。ここは、「藻(め)刈り」から、藻塩を採る「馬尾藻・神馬藻・穂俵」、即ち、古くの「なのりそ」、

褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科Sargassaceaeホンダワラ属 Sargassum の仲間(何故、種名を示さないかは、「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ) (ホンダワラ)」の私の冒頭注を参照されたい)

か、或いは、昔から今に至るまで、日本人にお馴染みの、

コンブ目チガイソ科ワカメ属ワカメ Undaria pinnatifida

及び、同属の非常によく似た、孰れも食用とする、

アオワカメ Undaria peterseniana

ヒロメ Undaria undarioides

らを比定すべきであろう。

「阿良米(あらめ)」これを真正直に受けるなら、狭義の「コンブ」ではない、

コンブ目レッソニア科 Lessoniaceae アラメ(荒布)属アラメ Eisenia bicyclis

である。

「庖厨和名本草」本草学者で医師の向井元升(げんしょう 慶長一四(一六〇九)年~延宝五(一六七七)年:ウィキの「向井元升」によれば、『肥前国に生まれ』で、五『歳で父、兼義とともに長崎に出て、医学を独学し』、二十二『歳で医師となる』。慶安四(一六五一)年、ポルトガルの棄教した宣教師クリストファン・フェレイラの訳稿を元に天文書『乾坤弁説』を著し』、承応三(一六五四)年には『幕命により、蘭館医ヨアン(Hans Joan)から通詞とともに聞き取り編集した』「紅毛流外科祕要」全五『巻をまとめた』。万治元(一六五八)年、『家族と京都に出て』、『医師を開業した』とある)が、寛文一一(一六七一)年に、加賀藩主前田綱紀の依頼により著した本草書。正確には「庖厨備用倭名本草」で、中国の元の李東垣の「東垣食物本草」などから食品四百六十種を撰び、和名・形状・食性・毒性などを加えたもの。なお、彼の次男は、蕉門の俳人として有名な向井去来である。

『「本草綱目啓蒙」には、昆布を「ゑびすめ」「こぶ」「ひろめ」「しかね【松前】」とし、海帶を和名『「ほうめ」、一名(いつみやう)「みづわかめ」、是(これ)なるべし』と、せり』国立国会図書館デジタルコレクションの弘化四(一八四七)年刊本で視認出来る(非常に見易い)。「昆布」はここで、「海帶」は、その前のここから。以下、原本の順に電子化する。二行目以降の一字下げはしていない。約物は通常に代え、一部に推定の読みを《 》で入れた。歴史的仮名遣の誤りはママ。標題を太字にした。

   *

海帶 ホソメ【南部】 ミヅメ【仙臺】 ミヅワカメ【生《なま》】 ボンメ【俱ニ同上乾[やぶちゃん注:前の「ミヅワカメ」と同種で、「生」ではなく「乾」したものを名づくの意であろう。]】 [一名]多士麻《たしま》【村家方《そんかがた》[やぶちゃん注:田舎家。]】

奥州ニ産ス濶《ひろ》サ六七分或ハ一寸許《ばかり》厚《あつく》シテ昆布ノ如ク味モ似タリ賤民ノ食ナリ貯《たくはへ》オケハ白ク粉ヲ生《しやう》ス水ニ入《いる》レバ青黃色煙火《えんくわ》[やぶちゃん注:花火の正式名称。]ノ筒ヲマクニ用《もちひ》テ甚《はなはだ》ツヨシト云《いふ》此條ヲ アラメト訓ズルハ非ナリ アラメハ黒茶ナリ

昆布 ヱビスメ【和名鈔】 コブ ヒロメ 布草【和方書】 シガ子《こ》【松前】 [一名]海布【萬病回春】 海昆布【幼科發揮】

蝦夷ヨリ出《いで》松前ヨリ若狹ニ來リ京師ニ達ス海中ニテ大ナル者ハ徑《わたり》一尺餘長サ數丈淡黃色ニシテ兩邊青黒色柔靭ニシテ韋[やぶちゃん注:なめしがは。鞣革。]ノ如シ小ナルモノ者ハ長サ四五尺若州小濵[やぶちゃん注:若狭国小浜(おばま)。]ニテ白昆布ヲ製ス名産ナリ朝鮮人ハ ワカメヲ昆布ト書《かけ》リ然レドモ ワカメハ食物本草ノ裙帶菜《くんたいな》ナリ

   *

「萬病回春」は書名。明の龔廷賢(きょうていけん)の著作。一五八七年成立。刊行後、すぐに日本に渡来し、百年間に三十回近く重刷され、当時の日本漢方に多大な影響を及ぼした。現在も同書を出典とする漢方薬が、多数、臨床で用いられている。「幼科發揮」明の小児科医万全著になる一五四九年刊。元禄八(一六九五)年に和刻版が出ている。なお、そこで見て戴くと、河原田氏の「ほうめ」というのは、実は、「ほそめ」の誤読(裏が透けて「ウ」に見えるのである)であることが判る。これなら、正真正銘の、

マコンブ変種ホソメコンブ(細目昆布) Saccharina japonica var. religiosa

で腑に落ちるのである。

 

昆布の名は「爾雅」「本草綱目」其他の書に載(の)する說、一樣ならずして、本邦の『こぶ』と異(ことな)るもの﹅如しと雖ども、「醫學入門」に『形、長く、大(おほき)さ布(ぬの)の如し。故に昆布と名(なづ)く』とある、と。「琉球國史畧」には、『海帶菜(かいたいさい)、一名、昆布』とあり。又、諸書に、『昆布は東海に產す』とし、或(あるひ[やぶちゃん注:ママ。])は、『登萊(とうらい)[やぶちゃん注:求めて得ること。]、諸州に產す』とあるものは、山東省(サントンせう)の東海に產するものにて、昆布なること、疑ひなし。又、海帶の名は、「本草綱目」に『東海水中、石上(せきじやう)に出(い)で、今、登州(としう)の人、これを乾して、器物(きぶつ)を束(たば)ぬ。醫家、用(もちひ)て、水(みず)を下(くだ)す。海藻、昆布に勝る。』とし、其他(そのた)の書に載するところも又、相似(あひに)たりと雖ども、「植物名實圖考」に「嘉祐本艸始著錄(かいうほんさうしちよろく[やぶちゃん注:「さう」はママ。])」を引(ひい)て、『之(これ)を食(しよく)し、能(よ)く痰毒(たんどく)を消し、痔を去る』ことを載せたり。而して、方今(はうこん)、淸國人は、一般に『海帶』と稱せり。

 

[やぶちゃん注:「醫學入門」「横浜薬科大学」公式サイトの「漢方古書の扉」のここに拠れば、明の万暦(ばんれき)三(一五七五)年、『李梃(りてん)の自序を付して刊』行され、『日本では寛文』六(一六六六)年に「合類醫學入門」として全十七巻十七冊で刊行されたもの。『医学全書で、一定の評価があり、朝鮮では本書は大いに重宝され、日本でもよく用いられた中国医学書の一つ』とある。

「琉球國史畧」「琉球大学」公式サイト内の「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」のこちらに、清の乾隆二〇(一七五五)年『に琉球国王世子尚穆』(しょうぼく)『を冊封』(さくほう/さっぽう:古くより、中国で、皇帝が后妃・諸侯及び周辺諸国の王などを「冊」(=勅書)に拠って、爵位・封土を与えたこと。また、その任命書をも指す)『するため』、『正使全魁と共に来琉した冊封副使周煌』(しゅうこう)『が』一七四七『年』(本邦では延享四年。徳川吉宗・家重の治世)『に皇帝に献上した報告書で』、十六巻十七『部門からなり、琉球の地理、歴史、文化、民俗、冊封使としての仕事など』、『多岐にわたる内容を部門別に系統立てて記載している』とある。

『海帶の名は、「本草綱目」に『東海水中、……』は、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「卷十九 草之八」の「昆布」([053-30b]以下)の「昆布」の前に「海帶」として立項されてある。短いので、以下に示す(一部に手を入れた。当該部に下線を引いた)。

   *

海帶【宋嘉祐】

 集解【禹錫曰海帶出東海水中石上似海藻而粗柔靭而長今登州人乾之以束器物醫家用以下水勝於海藻昆布

 氣味鹹寒無毒主治催生治婦人病及療風下水【嘉祐】

 治水病癭瘤功同海藻【時珍】

   *

「植物名實圖考」小学館「日本大百科全書」に拠れば、『中国最初の植物図鑑。清』『代、河南省の呉其濬(ごきしゅん)によって書かれた』。千七百十四『種の植物の図と説明からなり、とくに』、『図は著者が実見して描いたもので、それまでの本草』『書にある図と比べると、はるかに写実的であり、中国植物の研究資料として内外でその評価は高い。また』、光緒一一(一八八五)年『に張紹棠(ちょうしょうどう)により刊行された』李時珍の「本草綱目」に追加された『付図は』、『本書の図を引用したものである。初版は』道光二八(一八四八)年『で、著者が没した翌年である。植物学的、薬物学的な記載に加えて、著者のさまざまな政治哲学や人生哲学に関する記載が随所にみられるのも本書の特色である』とある。

「嘉祐本艸始著錄」東洋文庫版の後注に、『『嘉祐本草』のことか。同書は北宋の嘉祐二年(一〇五七)に『開宝重定本草』に基づき、編纂された。』とある。

「痰毒」AIによるものだが、皮膚に細菌が感染して赤みや腫れを引き起こす「丹毒(たんどく)」と、漢方医学で用いられる言葉で水分の代謝障害によって生じる「痰飲(たんいん)」の二つの意味があり、「丹毒」は溶血性連鎖球菌などが原因で、顔や体にテカテカした境界の赤い腫れ、発熱、頭痛などを引き起こす。「痰飲」は、体内の水分の代謝が悪くなることで、喉に痰が詰まったり、むくみ、めまい、吐き気などの全身症状が現れることがある、とあった。]

2025/08/25

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「飢饉騷動」

[やぶちゃん注:底本はここから。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。]

 

 「飢饉騷動」 安倍郡《あべのこほり》府中に、あり。傳云《つたへいふ》。

「天明七年、春より秋に到《いたり》て、諸國、飢饉す。

 府中、及び、七郡《ななつのこほり》の民、竹實《たけのみ》・琉球芋《りうきういも》、或《あるい》は、草根を掘り食《くひ》て、漸《やうや》く、飢《うゑ》を、しのぐ。故に餓死する者、多し。

 此《この》時、群盜《ぐんたう》、競起《きそひおこ》り、市中《いちなか》・村里《むらさと》に押入《おしい》り、家を打破《うちやぶ》り、米穀・雜物《ざうもつ》を掠《かす》めとる事、晝夜の別《わか》ち、なし。

 其《その》首領を「天狗小僧」と號《なづ》く。彼《かの》人、何方《いづく》より來《きた》り、何方に皈《かへ》る、更に、在所《ざいしよ》を知らず。

 此騷《さはぎ》、華洛《くわらく》・浪速《なには》・江都《かうと》・當府《たうふ》、同時に起りて、同時に止《や》む。

 世に、是を「打《うち》こはし」と云《いふ》。

 此時、府中・丸子《まりこ》・江尻《えじり》の三驛に、救米《すくひまい》三百石を玉《たま》ふ。其價《そのあたひ》、金一兩を以て、米三斗五升を買《かふ》。云云《うんぬん》。」。

 

[やぶちゃん注:「天明七年、春より秋に到て、諸國、飢饉す」天明二(一七八二)年から天明八(一七八八)年にかけて発生した「天明の大飢饉」である。詳しくは、当該ウィキを見られたい。

「竹實」私の「和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 竹」の本文、及び、私の注を参照されたい。

「琉球芋」サツマイモのこと。

「天狗小僧」不詳。

「華洛」京都。

「江都」江戸。]

和漢三才圖會卷第第九十一 水果類 芡

 

Onibasu

 

みづふき   鷄頭  鷄雍

       鴈頭  鴻頭

【音儉】

       雁喙  卯蔆

       蒍子 水流黃

ケン     倭名三豆布々木

 

本綱芡生池澤三月生葉貼水大于荷葉皺文如縠蹙䘐

如沸靣青背紫莖葉皆有刺其莖長至𠀋餘中亦有孔有

𮈔嫰者名蒍𦵸【一名䓈菜】剝皮可食五六月生紫花花開向日

結苞外有青刺如蝟刺及栗毬之形花在苞頂亦如雞喙

及蝟喙剥開肉有班駁軟肉裹子累累如珠璣殼內白米

狀如魚目取收食其根狀如三稜煮食如芋

芡實【甘平】治濕痺腰脊膝痛補中益精氣強志令耳目聰

 明久服輕身饑耐老【芡實一斗以防風四兩煎湯浸過用且經久不壞】

△按芡生池澤狀似蕗故俗名水蕗似蕗而生山谷者曰

 𭭎冬俗名山蕗【今名豆和者也】牛蒡似蕗而葉大故和名曰馬

 蕗【牟末布布木】皆以和名可辨

 

   *

 

みづふき   鷄頭《けいとう》  鷄雍《けいよう》

       鴈頭《がんとう》  鴻頭《こうとう》

【音「儉《ケン》」。】

       雁喙《がんくわい》  卯蔆《うりやう》

       蒍子《いし》 水流黃《すいりわう》

ケン     倭名、「三豆布々木《みづふふき》」。

 

「本綱」に曰はく、『芡《けん》は池澤《ちたく》に生ず。三月、葉を生《しやう》≪じ≫、水に貼(つ)いて、荷葉《かえふ/はす》より大なる。皺文《しはもん》、縠(ちゞみ)のごとく、蹙䘐《シユクジク》≪して≫[やぶちゃん注:この二つの漢語は孰れも語意の中に「縮まる」の意を持つので、二字で当て訓して「ちぢみて」と仮に訓じてもよい。東洋文庫訳でも『ちぢんだ』と訳してある。]沸くがごとし。靣《おもて》、青く、背、紫なり。莖・葉、皆、刺《とげ》、有り。其の莖、長さ𠀋餘に至る。中に亦、孔《あな》、有り、𮈔《いと》、有り。嫰《わかき》者を、「蒍𦵸《いこう》」と名づく【一名、「䓈菜《いさい》」。】。皮を剝(む)いて、食ふべし。五、六月に、紫≪の≫花を生ず。花、開き、日に向ふ。苞《つと》を結ぶ外《ほか》に、青≪き≫刺《とげ》、有り、蝟《はりねずみ》≪の≫刺、及《および》、栗-毬(いが[やぶちゃん注:二字へのルビ。])の形のごとし。花、苞の頂《いただき》に在り、亦、雞《にはとり》≪の≫喙《くちばし》、及《および》、蝟≪の≫喙のごとし。剥《はぎ》開くに、肉に、班-駁《まだら》≪なる≫軟《やはらか》なる肉、有《あり》て、裹《うら》の子《み》、累累として、珠-璣《たま》のごとし[やぶちゃん注:「璣」は「角ばった玉」の意で、実際の実の画像を、多数、確認したところ、基本は球形であるが、普通に丸いものや、少し凸凹を有したものがあり(精製されたものでは、皆、丸いものの、実際の実は、寧ろ、こちらの方が多いように見受けられる)、そうしたものの混じった総体を、かく言って表現している熟語と採るべきである。「アリナミン製薬株式会社」公式サイト内の「からだ健康サイエンス」の「薬用植物フォトライブラリー」の「オニバス」のページの果実の画像を見られたい。]。殼の內の白米≪の≫狀《かたち》、魚≪の≫目のごとし。取收《とりをさめ》、食ふ。其《その》根、狀《かたち》、三稜《さんりやう》のごとし。煮《に》、食《くひ》て、芋のごとし。』≪と≫。

『芡≪の≫實【甘、平。】濕痺[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に『(湿邪によっておこる関節炎)』とある。]、腰・脊・膝≪の≫痛《いたみ》を治す。中《ちゆう》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に『(脾・胃)』とある。]≪を≫補《ほし》、精氣を益し、志《こころざし》を強《つよ》≪くし≫、耳目《じもく》をして、聰明ならしめ、久《ひさし》く服すれば、身を輕《かろ》くし、饑《う》へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。老《らう》に耐ふ[やぶちゃん注:東洋文庫訳は『長寿を保つ』とする。]【芡の實、一斗、防風の四兩を以つて、湯に煎じて、浸過《しんくわ》して[やぶちゃん注:「透き通る状態にし」の意か。]、用《もち》ふ。且《かつ》、久《ひさしき》を經て、壞《くえ》ず。】』≪と≫。

△按ずるに、芡は、池澤に生《しやう》≪ず≫。狀《かたち》、蕗《ふき》に似たる故、俗に「水蕗《みづふき》」と名づく。蕗に似て、山谷《さんこく》に生ずる者を、「𭭎冬《かんとう》」と曰《いふ》。俗、「山蕗《やまふき》」と名づく【今、「豆和《つわ》」と名づく者なり。】牛蒡(ごばう)は、蕗に似て、葉、大《おほき》なる故、和名を「馬蕗《うまふき》」と曰《いふ》【「牟末布布木《うまふふき》」。】。皆、和名を以《もつて》、辨ずべし[やぶちゃん注:和名を以って、その似た対象植物群を区別するのがよい。]。

 

[やぶちゃん注:この「芡」(ケン)なるものは、日中ともに、

被子植物門スイレン目スイレン科オニバス属オニバス Euryale ferox

である(旧クロンキスト体系(Cronquist system)ではモクレン亜綱)。「維基百科」の同種のページ「芡」(拼音“qiān”:チィェン)を見られたい。当該ウィキを引く(注記号はカットした。画像をリンクした)。『スイレン科』Nymphaeaceae『に属する一年生水草の一種である。水底の地下茎から葉柄を伸ばし、夏ごろに巨大な葉を水面に広げる。葉の表面には不規則なシワが入っており、葉の両面や葉柄にはトゲが生えている(図1)。夏に紫色の花を水上につけるが、開花しない閉鎖花を水中に多くつける』。『本種のみでオニバス属( Euryale )を構成する。名に「ハス(バス)」とあるが、ハス(ハス科)とは遠縁である。また』、『葉が大型で』、『葉や葉柄に大きなトゲが生えていることから、「オニ」の名が付けられた。ミズブキやハリバスなどともよばれる』。『一年生の水生植物であり、水底の地下茎から根を張り、また』、『地下茎から葉を伸ばしている。地下茎は太く短い塊状であり、直径』四~五『ミリメートル』『の太い根が束生している。芽生えの初期の葉は水面には出ない沈水葉であり、長さ』四~十『センチメートル』、『針状から矢じり形、ほこ形となり、トゲはない。初期の浮水葉は長楕円形で基部に切れ込みがあるが、後期の浮水葉は円形で長い葉柄が葉身の中心付近について楯状となる。葉柄には多数のトゲがある』。『浮水葉の葉身の直径は』三センチメートルから一・五『メートル』『ほどになり、さらに直径』二・六『の記録もある。浮水葉の葉身の質は硬いが』、『もろく、水中からつぼみが水上にでる際には』、『その部分の葉身が破れる(下図3a)。大きな浮水葉の表面は光沢があり、著しいシワと』、『葉脈上のトゲがある(下図2a,』『b)。浮水葉の裏面は濃紫色、葉脈が隆起して網目状になり、トゲがある(下図2c』(これは模型である)『)』。『花は地下茎から生じた長い花柄の先端に』一『個ずつ』、『つく。日本では』六~十『月に開花しない閉鎖花を水中に多くつけ、自家受粉して果実となる』。七~九『月には水上に直径』四~五センチメートル『の開放花をつける(閉鎖花より少ない)(下図3a)。開放花は日中に開花し、夜に閉じる。閉鎖花と開放花は基本的に同じ構造をしている。萼片は』四『枚、背面は緑色でトゲがあり、長さ』一~三センチメートル、『宿存性』である。『花弁は多数』あり、『萼片より小さく、外側の花弁は紫色だが』、『内側の花弁は白色(下図3a)。雄しべも多数、内向葯をもつ。心皮は』七~十六『個、合着して』一『個の雌しべを構成する。子房下位で子房表面にはトゲが密生する(下図3a)。子房は心皮数の部屋の分かれており、面生胎座』(laminar placentationウィキの「胎座」によれば、『placenta』で、『植物の子房中の胚珠の接する部分のこと』を指す。この「面生胎座」は『子房室は分かれておらず、心皮の内面全体に胚珠が位置するもの。アケビ科、スイレン科、トチカガミ科など』とある)。『柱頭は凹盤状であり、偽柱頭はない。開放花の結実率は低い』。『果実は液果状で球形から楕円形』で五~十三『×』五~十センチメートル』で、『トゲで覆われている(上図3b)。不規則に裂開し、多数の種子を散布する。種子は球形、直径』六~十ミリメートル、『種皮は顕著なシワをもつものから』、『平滑なものまである。種子は淡紅色の斑点がある肉質の仮種皮に覆われ、しばらく浮遊した後に水底に沈む。種子は翌年』、『発芽するものもあるが、数年から数十年休眠してから発芽することもある。また』、『冬季に水が干上がって種子が直接空気にふれる等の刺激が加わることで発芽が促されることも知られており、そのために』、『自生地の状態によっては』、『オニバスが』、『多数』、『見られる年と』、『見られない年ができることがある。染色体数は 2n = 58』。『東アジアから南アジアにかけて(日本、韓国、中国、台湾、ミャンマー、バングラデシュ、インドなど)分布している。日本では本州、四国、九州に広く生息していたが、環境改変にともなう減少が著しい(下記参照)。かつて宮城県が日本での北限だったが』、『絶滅してしまい』、二〇二〇『年現在では』、『新潟県新潟市北区が北限となっている』。『平地にある』、『やや富栄養の湖沼や、流れの緩やかな河川や水路に生育する。堀や農業用ため池のような人工的な池にも生える。ヒシ(ミソハギ科)』(私の、この前項の「卷第九十一 水果類 芰」を参照)『などとともに生えることが多い(図4)。古くは普通種であったが激減し、下記のように』、『日本では』、『絶滅が危惧されている』。『自家和合性があり、閉鎖花は自家受粉のみを行うが、開放花も開花時にはふつう自家受粉をしている』。『日本では、環境の悪化や埋め立て、河川改修などによってオニバスの自生地の消滅が相次ぎ、絶滅が危惧されている。日本全体としてはオニバスは絶滅危惧II類に指定されている。また』、『下記のように各道府県でも絶滅危惧種に指定され、また既に絶滅した地域もある』として、以下に二〇二〇年現在の、各都道府県に於ける「レッドデータブック」の統一カテゴリ名での危急度を示したリストが載るので、各自で見られたい。但し、以下の『十二町潟オニバス発生地(富山県氷見市)』に関する記載は、私も始めてそこでオニバスを見た、高校時代の思い出と関わるので、特異的に引く。『富山県氷見市の「十二町潟オニバス発生地」は』、大正一二(一九二三)『に国の天然記念物に指定されたが』、一九七九『年以降にオニバスは姿を消してしまった。その後、潟内の浚渫やガマ刈りを行い、近隣地域では自生が確認されたが、天然記念物指定地域では』、『いまだ復活はしていない(』二〇二〇『年現在)。そのため』、『復活を目指した環境整備や移植が行われている(図5)。また氷見市以外でも、各地の自治体によって天然記念物指定を受けているオニバス自生地は多い』。

以下、「人間との関わり」の項。『日本では古くから知られており』、「枕草子」『では』、『見た目が恐ろしげなものとして』、『オニバスが「みずふぶき(水蕗)」の名で挙げられている』。

   *

 これは、「枕草子」の、所謂る、「物づくし」の中に出る。二箇所あるので、以下に示す。石田穣二訳注「新版 枕草子 下巻 付現代語訳」(昭和五五(一九八〇)年角川文庫刊)を参考に、漢字を恣意的に正字化した。

   *

 恐ろしげなるもの。つるばみのかさ。燒けたる所。水ふふき。菱(ひし)。髮多(おほ)かる男の、洗ひてほすほど。

   *

 見るに異(こと)なることなきものの、文字(もじ)に書きてことことしきもの。覆盆子(いちご)。鴨跖草(つゆくさ)。芡(みづふふき)。蜘蛛(くも)。胡桃(くるみ)。文章博士(もんじやうはかせ)。得業生(とくごふのしやう)。皇太后宮權大夫(くわうたいごうくうのだいぶ)。楊桃(やまもも)。虎杖(いたどり)は、まいて「虎(とら)の杖(つゑ)」と書きたるとか。杖なくとも、ありぬべき顏つきを。

   *

誤訳は附さない。その代わり、karorintaroさんのブログ「枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる」の判り易い訳注のある当該二章段をリンクさせておく。前者がここで、後者がここである。以下、引用に戻る。

   *

『中国やインドでは種子を食用としており、そのための栽培をしていることもある(図6)。また』、『果実や若い葉柄なども食用とされることがある』。『種子は芡実(けんじつ)ともよばれ、滋養・強壮や鎮痛のための生薬として用いられることがある』。

以下、「系統と分類」の項。『オニバスは、オニバス属の唯一の種である。オニバスと同様に巨大な浮水葉をもつことで知られ、子供を乗せた写真で知られている植物は』、『南米に生育するオオオニバス属( Victoria )である。オニバスとは異なり、オオオニバス属の葉は縁が立ち上がって「たらい状」になっており、また直径数十』センチメートル『になる大きな花をつける(図7)』。『オニバス属とオオオニバス属は近縁であり、両属は姉妹群の関係にある。この系統群(オニバス属 + オオオニバス属)は明らかにスイレン科に含まれるが、古くはオニバス科(Euryalaceae)として分けられたこともある』。『また』、『分子系統学的研究からは、オニバス属 + オオオニバス属の系統群が』、『スイレン属の中に含まれることが示唆されている。そのため、分類学的にオニバス属とオオオニバス属の種をスイレン属に移すことも提唱されている』とある。最後に。私はこのオオオニバスというと、小学生時代、大好きだった『小学館の学習図鑑シリーズ』(全二十八冊らしいが、二十冊以上は持っていたなぁ。高校生になっても大事に持っていて、何度も見直したもんだ。僕の秘かなワンダー・ランドだったのだ!)の「植物の図鑑」に載っていた少女が乗っている絵を、はっきりと覚えている。

国立国会図書館デジタルコレクションの――ここ――だ!!! 懐かしいなあ!!!

 なお、本項の引用は「漢籍リポジトリ」の「卷三十三」の「果之五【蓏類九種内附一種】」の「芡實」([081-31a]以下)のパッチワークである。]

2025/08/23

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(一)鰑の說(その7) / 「鰑」パート~了

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。

 前項と同じく、『河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 上卷(一)鰑の說(その5)――総て図版画像附・全キャプション電子化注附』の私の注で考証したものが、多数含まれるので、そちらを見られたい。

 今回は、「鰑の說」の最後の三段落を一気に電子化注して終りとする。実際には、底本では、この後に図版が続くが、本回に先だって「(その5)」で、その電子化注は既に終えてある。]

 

越前丹生郡《にふのこほり》菜﨑浦《なさきうら》の於多福鰑《おたふくするめ》は柔魚の濶大《くわつだい》[やぶちゃん注:広く大きいさま。]なるものにして、前《ぜん》[やぶちゃん注:格助詞「の」が欲しい。]、能登產と畧《ほ》ぼ似たり。同國同郡(どうぐん)淸水谷浦《しみずうら》の龜甲鰑《きつかうするめ》は、竹笊(たけざる)の痕(あと)ありて、龜甲(かめのかう)に似たるに因る。但し、「和漢三才圖會」に載する所(ところ)、『龜甲烏賊』とは、同じからず。出雲の白鰑(しろするめ)は、皮を剝ぎたる劍先鰑(けんさきするめ)の尾鰭(をひれ)を飜(ひるがへ)したるものにして、長門・周防等(とう)にも此(この)製、あり。此他(このた)、脚根(きやくこん)[やぶちゃん注:生物学上のイカの頭部下方を指す。]を麻骨(あさがら)[やぶちゃん注:「麻殼」に同じ。]にて張りたるあり。串を貫きし孔(あな)あるあり。簀(す)の痕(あと)あるあり。竹を以て張りたるあり。糸を以て吊りたるあり。重壓(おもし)を置き、或(あるひ)は手足を以て皺を伸ばしたるあり。色澤(しよくたく)[やぶちゃん注:色艶(いろつや)。「しきたく」とも読む]・形狀、各々(おのおの)、同じからず。一目(いちもく)して其の產地を知るに足れり。而して之を束(つか)ぬるには、二枚・三枚・五枚・十枚・廿枚を以て一把(いちわ[やぶちゃん注:ママ。])となす。又、形狀の美なるも、味の劣る、あり。伊豆鰑(いづするめ)の如きは、色澤、美なること、無比なるも、肉、薄く、味、佳ならず。故に、淸國輸出に適せずと雖ども、從來、東京市中(しちう)には槪ね此ものを鬻賣(いくばい)[やぶちゃん注:鬻(ひさ)ぐこと。売ること。]せり。元來、鰑は、乾燥の良否に關するものなれば、是に注意するを專要(せんよう[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「せんえう」が正しい。最も大事なこと。])とす。然(しか)れども、從來、陰雨(いんう)[やぶちゃん注:陽が照らず、長雨が続くこと。]に際し、之(これ)か[やぶちゃん注:濁音の誤植。]豫防をなすものなく、爲(ため)に盛漁多獲(せいぎよたくわく)の幸(さいはひ)あるも、空しく腐敗せしむること、あり。近年、各地に於て火力を以て乾燥し、或は乾燥室を造りしことありと雖ども、其法、良全(りようぜん)ならずして世の賛稱(さんしやう)を得るに至らず、實に遺憾なりとす。

 

[やぶちゃん注:『「和漢三才圖會」に載する所、『龜甲烏賊』とは、同じからず』私のサイト版「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚  寺島良安」の「いか 烏賊魚」には載らず、その次の「たちいか するめいか 柔魚」に、

   *

龜甲烏賊 背隆而肉厚故名之

   *

とあり、訓読すると、

   *

龜甲烏賊 背、隆(たか)くして、肉厚、故に、之れを名づく。

   *

である。私は、それに以下の注を附した。

   *

・「龜甲烏賊」(キッコウイカ)このような呼称は現在、生き残っていない。市場での和名と形状から類推するしかないが、形態と呼称の類似からは、まず、「モンゴウイカ」という通称の方が有名なコウイカ目コウイカ科コウイカ属 Acanthosepion 亜属カミナリイカSepia (Acanthosepion) lycidas が念頭に登る。文句なしの巨大種であり、英名 Kisslip cuttlefish が示す通り、胴(外套膜背面部)に「キス・マーク」のような紋がある(「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの二枚目の写真を参照されたい)。これを「亀甲紋」ととったとしても、それほど違和感はない。これが同定候補一番であろうが、私は、もう一種、挙げておきたい欲求にかられる。ツツイカ目開眼亜目の大型種で、極めて特徴的な幅広の亀甲型(と私には見えないことはない)形態を持つソデイカ科ソデイカ属ソデイカ Thysanoteuthis rhombus は如何だろうか? ソデイカは地方名・市場名で「タルイカ」・「オオトビイカ」・「セイイカ」、はたまた「ロケット」等という名も拝名している(「セイイカ」の「セイ」は「勢」で男性の生殖器のことであろう。「背、隆くして、肉厚」と称してもグッときちゃうゼ!)。グーグル画像検索「ソデイカ」を見られたいが、胴体部がカメの甲羅と言っても、おかしくないからである。

   *

とした。そもそも、石川県で鯣にするのは、普通のスルメイカであり、後の図のそれを見ても(図版の二行目の「亀甲鰑」。なお、「(その5)」で注した通り「越中、丹尾郡清水谷浦産」、の「越中」は「越前」の誤りである)、およそ、乾燥させたとしても、カミナリイカとは思われない、普通のスルメイカである。河原田氏の疑問は尤もである。

 

抑(そもそも)我邦に產する鰑の收額(しゆうかく[やぶちゃん注:ママ。誤植。以下、同じルビなので、省略する。])は素(もと)より僅少(きんしやう)のものにあらず。若(も)し製造を改良し、一分(いちぶ)の價(あたひ)を增すも、幾許(いくきよ[やぶちゃん注:「ここだ」と読みたいところ。副詞で「程度の甚だしいさま」を表わす語。])、萬金(まんきん)に至るべし。今、農務局の調査に依れば、明治十四年、全國の收額は二百四十五萬八千五百八十六斤[やぶちゃん注:本邦の「斤」(きん)は一斤で約六百グラムであるから、二千四百五十八・五八六トン。]あり。又、淸國に輸出するもの、明治元年は六十四萬二千百二十四斤[やぶちゃん注:三十八・五三四トン。]、其價(そのあたひ)、十二萬五千八百五十三圓にして、逐年(ちくねん)、其額を增し、十八年に至りては、七百五十三萬二千二百八十斤[やぶちゃん注:四百五十一・九三七トン。]、其價、九十八萬六百十壹圓の多きに至れり。而して此販路は淸國內部に、漸次、進及(しんきう)するの勢(いきおひ)あるのみならず、米國其他(そのた)、淸國人の移住する邦國(はうこく)[やぶちゃん注:ここは「諸国」の意。]に輸出するに至るべし。然(しか)れば、將來、販路の益(ますます)廣大に赳くは疑(うたがひ)を容れざる所なり。故(かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に、我邦の水產家は、勉(つと)めて、之か[やぶちゃん注:ママ。「が」の誤植。]計畫をなさゞるべからず。夫(そ)れ、烏賊(うぞく)・柔魚(じうぎよ)の類(るい)は、一尾四萬許(きよ[やぶちゃん注:ママ。「ばかり」。])の卵子(らんし)を生むものなれば、宜しく、烏賊麁朶(いかそだ)・烏賊藻(いかも)・烏賊巢(いかす)等(とう)を作りて、繁殖を圖(はか)り、漁具・漁法を改良して捕獲を多からしめ、製造を精好(せいこう[やぶちゃん注:ママ。「せいがう」が正しい。細かいところまで良く出来ていること。])にして、品位を貴(たつと)くし、販路を開通して、國益を增加せんことを。

[やぶちゃん注:「九十八萬六百十壹圓」容易には、現在価値に換算は出来ないが、試みに、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の「明治時代の1円は現在いくらか。単純な答えが欲しい。」の回答例の三つの内、最も手っ取り早い『・給与(警察官の初任給)から考えると(⑦⑧⑨参照)、明治19年の1円は令和5年の2万~4万の価値がある。』(まさに本書の刊行は明治一九(一八八六)年である)を元にするなら、実に十九億七千二百二十万円から三十九億四千四百四十万円となる。

「一尾四萬許」島根県水産試験場の安達二朗氏の研究発表の「スルメイカの産卵様式と産卵数の推定」(昭和五九(一九八一)年度「イカ類資源・漁海況検討会議」・第十五回「イカ類資源研究連絡協議会」・PDFこのページからもダウンロード可能)に拠れば、驚くべきことに、『1回の産卵数の範囲は、30,000310,000粒と推定され、平均的に100,000粒が産卵されると推定される』とあった。]

 

本邦產の劍先鰑は、廣東(カントン)地方へ輸出するものにして、廣東省にも亦、劍先腸を產せり。故に、二番鰑(にばんするめ)は該(がい)地方にて用ゆることなく、重(おも)に上海(シヤンハイ)より漢口(ハンカウ)・九江(きうこう)・鎭江(ちんかう)等の市塲(しじやう)を經て、諸方に散布せり。其割合は、四川省(しせんせう[やぶちゃん注:ママ。「せう」ではなく「しやう」が正しい。])に二分(にぶ)、湖北省(こほくせう)に三分、江西省(こうさいせう[やぶちゃん注:ママ。現行では「こうせい」である。])に二分、天津(てんしん)に二分、江南(こうなん)に一分なり、と。元來、我(わが)二番鰑は、寧波府(ねいはふ)近海產の甲烏賊(かういか)と比較するに、其品位、三等の上に出でず。此(この)甲付烏賊(かうつきいか)は、寧波近海より、一ヶ年に、三百萬斤を產し、福建省、並(ならび)に、揚子江等(とう)の地方に分輸(ぶにゅ)し、其販路、甚(はなはだ)廣く、且(かつ)、價(あたへ[やぶちゃん注:ママ。])も、本邦產出の品(しな)、百斤(ひやくきん)拾兩(じゆうりやう/デール[やぶちゃん注:「デール」は「兩」のみに左ルビ。後も同じ。])の時、彼(か)れは七兩(しちりやう/デール)にして、三兩(さんりやう)の差異あり。本邦にても、近年、肥前島原、及び、筑前地方にて、製し、輸出すれども、產額(さんがく[やぶちゃん注:ここのみ、正しく濁点がある。])僅少(きんせう)なり。福建(ふくけん)、及び、揚子江(やうすこう)等(とう)にては、我(わが)一番鰑をも、需用(じゆやう)せず。是れ、前記の寧波產出(さんしゆつ)の品(しな)を、數百年、需用し來(きた)り。他(た)に求むることなきによれり。

[やぶちゃん注:「寧波府」当該ウィキによれば、『中国にかつて存在した府。明代から民国初年にかけて、現在の浙江省寧波市一帯に設置された』。一三八一年に『明によ』って、『明州府は寧波府と改称された。寧波府は浙江省に属し、鄞』(ぎん)『・奉化・慈谿』(じけい)『・定海』(ていかい)『・象山』(ぞうざん)『の』五『県を管轄した』。『清の』時、『寧波府は浙江省に属し、鄞・奉化・慈谿・鎮海・象山・定海・南田庁・石浦庁の』二『庁』六『県を管轄した』。一九一三『年、中華民国により』、『寧波府は廃止された』とある。現在の寧波市(ニンボーし/ねいはし)はここ(グーグル・マップ・データ)。

「兩(りやう/デール)」白水社「中国語辞典」の、『两(兩)』『ピンイン』で『liǎng』とし、『清末から中華人民共和国成立以前の、いわゆる』、『旧社会の言葉』で、『銀の重量単位』で、『テール』とあった。「デジタル大辞泉」で確認したところ、『テール【tael】』と見出しし、『中国の重量単位および旧制通貨単位の「両(リャン)」の英語名』とあった。

 最後に、本来ならば、「鰑の說」の冒頭で示すべきであったが、今更、既記事の「その1」に追加するのも、上手くないので(学名を、さんざん注で出してしまっている関係上、全体の体裁が面白くなくなるためである)、ここに、諸辞書の「するめ」の記載を拾っておく。

 まず、一番、フラットにしっくりくる、小学館「日本大百科全書」を引くと(金田尚志執筆)、『イカの素干し。ケンサキイカ、ヤリイカ、アオリイカ、モンゴウイカ、スルメイカなどを用いるが、生産量の大部分はスルメイカで占められる。原料イカの種類により一番するめ、二番するめ、甲付(こうつき)するめ、袋するめなどに分けられるが、このほか』、『それぞれの製法や土地により』、『いろいろの名がつけられている。一番するめはケンサキイカを用いてつくるが、とくに上等のものは一番磨(みがき)するめとよび、長崎県五島産のものが名高い。こうした名称は江戸時代、するめを中国へ輸出する際に等級を示すためにつけたもので、当時、最高のものは磨(みが)き上々番(じょうじょうばん)といわれた。現在も昔の呼び名が』、『そのまま使われている』。次いで、『製法』の項。『一番磨するめは、新鮮で大形のケンサキイカの腹を裂き、内臓、眼球、ひれをとり、水洗』『後、外皮を八分どおり剥(は)ぎ、日干しする。半乾きとなったものを乾燥室に入れて八分乾きとし、ローラーを転がして伸ばし、形を整えたのち、さらに日干しする。小形のケンサキイカは』、『ひれや』、『皮を除かず』、『そのまま日干しする。二番するめはスルメイカの胴を裂き、内臓、眼球を除き水洗後、くちばしは』、『つけたままで』、『縄や竹竿』『などにかけて日干しする。乾燥後、藁』『で覆うと白い粉がふく。二番するめは一番するめに比べて品質が劣る。北海道、三陸、島根などで多くつくられる。甲付するめは甲をもったコウイカ類からつくる。中国、四国地方が産地。袋するめはアオリイカ、ミズイカの胴部のみを用い、胴は切らずに裏返して乾燥する。九州でつくられる』。以下、『成分と利用』の項。『表面の白い粉は主として含硫アミノ酸』(がんりゅうアミノさん:英語:sulfur containing amino acid:構造に硫黄原子を有するアミノ酸の一種)『のタウリン』(taurine:但し、参照したウィキの「含硫アミノ酸」によれば、『タウリンは生化学の分野では厳密にはカルボキシル基を持たないため』、『アミノ酸ではない(アミノエチルスルホン酸)が、栄養学の分野ではアミノ酸として扱うことがある』とあった)『が析出したもの。するめのタンパク質は良質だが、硬いので』、『なまのものに比べ』、『消化されにくい。そのまま焼いたり、水にもどし』、『数の子といっしょに』醬油『に漬けたり、油で揚げるほか、裂きいか、のしいか、刻みするめにしたり、いか徳利をつくる』とあった。

 次に、平凡社「世界大百科事典」(初版)の「するめ」(平野 雄一郎・鈴木 晋一執筆。コンマを読点に代えた)。『イカを開いて干したもの。〈鯣〉〈鰑〉の字を使うが、「和漢三才圖會」『が』、『いうように、これらは本来はウナギのことであり、するめの意味はない。するめの語を見るのは室町中期』頃『からで、語源については〈すみむれ(墨群)〉の約転などとする説がある。江戸時代には中国への重要輸出品で、当時』、『等級を示すために用いられた〈一番するめ〉〈二番するめ〉の呼称は、現在も用いられている。一番するめはケンサキイカを原料とする優良品で、五島するめとも呼ぶように、九州諸県や山口県を主産地とする。二番するめはスルメイカでつくるもので、生産量は最も多く、北海道や三陸が主産地である。ほかに、磨きするめと称するものがある。これはケンサキイカとヤリイカを用い、皮をむいて干したもので、一番するめの中での高級品とされる。さらに、ヤリイカの体長』三十八センチメートル『以上のものを使った磨きするめは〈磨上々番(みがきじようじようばん)〉と呼ばれ、極上品とされている。また、二番するめの中には』、『胴を横に引きのばして円形に干し上げた〈お多福するめ〉などもある。以上、いずれも』、『あぶって』、『酒のさかなとするほか、小さく切ってコンブなどとともに調味した』醬油『に漬けて松前漬にするが、江戸時代には〈水あえ〉〈巻きするめ〉などの料理が行われていた。前者は適宜に切ったものを匙酒(いりざけ)に酢を加えてあえたもの、後者は洗ったするめに損粉(くずこ)を振りかけて巻き、熱灰』(あつばい)『に埋めるか、ゆでるものであった。なお、するめを祝儀に用いるが』「料理早指南(りやうりはやしなん)」第三編・醍醐山人著・享和二(一八〇二)年刊『に』、『式肴(しきざかな)として使うとあるなどが』、『その例である』とある。なお、「するめ」の語は以上の通りだが、「ブリタニカ国際大百科事典」では、製品自体は『平安時代より生産されている』としてある。

 因みに、「世界大百科事典」にある、「和漢三才圖會」『が』、『いうように、これらは本来はウナギのことであり、するめの意味はない』というのは、同書の「卷十五」の「藝才」の中の項目『倭字《わじ》【大畧《だいりやく》】』の中にあるもので、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版(項目名はここで、当該部分はここ)で示し、所持する原本から字起こしし(解説部(二行)は改行して一行にした)、推定訓読したものを以下に示す。なお、原本の送り仮名「ニ」であるべきところが、『三明鹿』になっているのは、誤刻と断じ、以下の通りとした。

   *

鰑【音陽】鯣【音六】共鱺也倭以鰑爲鮝鱡者誤也

   *

(スルメ)

鰑【音「陽《ヤウ》」。】は鯣【音「六《ロク》」。】。共《とも》に「鱺《おほなまづ》」なり。倭《わ》に、「鰑」を以《もつて》、「鮝-鱡(するめ)」と爲《なす》は誤《あやまり》なり。

   *

この、「鱺《おほなまづ》」は「廣漢和辭典」では漢語の意で掲げてあり、そして、国字としては「するめ」とある。

2025/08/22

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(一)鰑の說(その6)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。]

 

前條の諸種を捕獲するの漁具(ぎよぐ)は網器(まうき)を用ふる少(すくな)く、釣鈎(てうこう)を多しとす。其釣具は凡(をよそ[やぶちゃん注:ママ。])三十餘種あり。皆、夜間の漁業たり。漁者(ぎよしや)の熟練なる其動作、輕捷(けいせう)にして、盛漁(せいぎよ)の實况(じつきやう)は、實(じつ)に漁業中の奇觀とす。而(しか)して鰑を製するの法(ほう[やぶちゃん注:ママ。])たる、其(その)胴を割(さ)き、臟腑を去り、能く洗ひ、日光に乾燥するに過きず[やぶちゃん注:ママ。]して、懸乾(かけぼし)、吊乾(つりぼし)、簀乾(すぼし)、串乾(くしぼし)の四法(しはう)あり。然(しか)れども、截割(さいかつ)の巧拙、洗濯(せんやう/あらひ)の精粗(せいそ/よしあし)、及び、用水の善惡(ぜんあく/よしあし)、懸掛(けんけい/かけかた)の配置(はいち/くばりかた)、乾燥(かんさう/ほしかた)、罨蒸(あんせう/ねかす)の適度(てきど/かげん)、伸展(しんてん/のばしかた)、貯藏(ちよぞう[やぶちゃん注:ママ。]/たくはひ)の方法、等(とう)により、大(おほい)に品位の優劣を致す。其(その)製したる鰑は、產地、季節、品種、輸出等(とう)により、販賣上の名を異(こと)にす。卽ち、五島鰑、佐渡、伊豆鰑、函館鰑、江刺鰑、南部鰑、氣仙鰑、久米島鰑、琉球鰑、對州鰑(たいしうするめ)、袋烏賊(ふくろいか)、甲付乾烏賊(こうつきほしいか[やぶちゃん注:ママ。])、白鰑(しろするめ)、平鰑(ひらするめ)、磨鰑(みがきするめ)、串烏賊(くしいか)、烏賊風乾(いかのかさほし[やぶちゃん注:「かざ」ではないのはママ。誤植であろう。東洋文庫版ルビでは『かざ』となっている。])、丸乾鰑(まるぼしするめ)、沖乾烏賊(おきほしいか)、平板鰑(ひらいたするめ)、䀋乾烏賊(しほほしいか)、干烏賊、夏烏賊、秋烏賊、冬烏賊、冬乾烏賊(ふゆぼしいか)、夏鰑、秋鰑、冬鰑、花烏賊(はないか)、劍先鰑、鯖烏賊(さばいか)、於多福鰑(をたふくするめ[やぶちゃん注:ママ。])、ゑきれ烏賊、赤鰑、赤烏賊鰑(あかいかするめ)、ひき烏賊乾(いかいかほし)、ぶと烏賊、笹鰑(さゝするめ)、眞烏賊乾(まいかぼし)、乾水烏賊(ほしみづいか)、水鰑、乾藻烏賊(ほしもいか)、上々番鰑(じやうじやうばんするめ)、一番鰑、二番鰑、番外鰑、丸形鰑(まるがたするめ)等(とう)なり。此內、地名を以て名(なづ)けしは產額の多きに因り、夏・秋・冬を以て名けしは、捕獲の季節に因れり。又、上々番鰑以下、四名の如きは、支那輸出に就きての區別なり、とす。磨(みが)き鰑は、劍先鰑の皮を剝ぎたるもの。花烏賊は、南部にて初捕獲の小柔魚乾(こするめいかほし)を云ひ、能登國(のとのくに)鳳至郡(ほうしごほり)宇津村(うつむら)より出(いだ)す所の「ごとうするめ」と唱(となふ)るものは、柔魚(するめいか)を以て製したるものにて、眞の五島錫にあらず。眞の五嶋鰑は劍先鰑なり。然(しか)るに、古書に『五島產の鰑は花枝(あふりいか)にて製す』と云へり。「ぶと烏賊」は一に「ふどういか」、又「ぶどう鰑」とも稱し、重(お)もに肥前、及び、長門等(とう)に產する劍先形(けんさきがた)にして、小さく、肉、厚きものとす。笹鰑は笹烏賊とも稱し、劍先の肉薄きものにて、關東の鎗烏賊(やりいか)にて製すれば、槪(おほむ)ね、此形狀(けいせう[やぶちゃん注:ママ。])となれり。

[やぶちゃん注:以上に出る製品名に就いては、先に示した『河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 上卷(一)鰑の說(その5)――総て図版画像附・全キャプション電子化注附』の私の注で考証したものが、多数含まれるので、そちらを見られたい。いちいち、それを改めて見よ注をするほど、私は「オメデタイ」男ではない。七日もかけたそれを(自信作であるが、同時に、相応に疲弊した)、また改めてここで指示することは、一切、しない。悪しからず。

「罨蒸(あんせう/ねかす)」鯣ではないが、日本語で書かれた「丸啓水産品加工(上海)有限公司」(「会社案内」のページに『日本企業である丸啓鰹節株式会社、ヤマキ株式会社により設立された花かつお、サバ削り、鰹パウダー、ブレンド調味料などの鰹節類を原料とした食品加工企業』とある)公式サイト内の「鰹節の出来るまで」の「工程流れ」のページの「2番火」・「罨蒸」「3番火」の項に、『木の蓋をして寝かす(罨生・あんじょう)こと』とあった。

「對州鰑(たいしうするめ)」対馬(つしま)産鯣の産品名。

「ゑきれ烏賊」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のスルメイカのページの「地方名・市場名」の項に、『イキレ[稚イカ]』・『エキレ[稚イカ]』とあり、採集『場所』を『山口県萩』とし、『サイズ/時期』に『稚イカ』とあった。検索したところ、確かに萩での呼称が多く確認出来たが、語源を明らかにしている記載は見当たらなかった。国立国会図書館デジタルコレクションでの検索でも、ダメで、所持する海産物関係の書籍でも判らなかった。識者の御教授を乞うものである。

「古書に『五島產の鰑は花枝(あふりいか)にて製す』と云へり」この古書不詳。]

2025/08/21

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 上卷(一)鰑の說(その5)――総て図版画像附・全キャプション電子化注附――

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。

 以下は、底本の記述内容が、後に出る鯣の図版(ここから、ここまで。単図にして九図)を示さなくてならない所に来た。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を用いて、キャプションを、総て、電子化注する。ここで掲げる図は、高解像度でダウンロードしたものを、一ページずつにトリミングして示した。汚損があるが、そのまま一切の補正をせずに掲げた。なお、判読不能な部分は、一箇所もなかった。

※電子化の順番は、図の配置から、七番目までは、河原田氏が描いたと推定されるところの、縦方向を優先し、次に横方向へと移る順に示す(各一図に複数ある場合も同じ)。八番目からは、図の描き方が明らかに変わっているので、そこで説明する。

※キャプションは鍵括弧で括り、前後を明確にするため、項目ヘッドに「■」を打った。

※漢字の読みは、一部、読み方を添えた方が良いと考えたもののみ、推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた。繰り返される場合は、後では、基本、附していない。

※キャプションが二行以上になっている場合、字下げが行われている場合があるが、それはブラウザの不具合を考え、再現していない。

※読みが混乱すると思われる箇所には私が句点・読点を打った関係上、文章となっている部分の最後には、句点を配した。

※鍵括弧内に二重鍵括弧を用いた箇所がある。

※手書きで小さいため、漢字の字体が判読出来ない場合は、正字を採用した。実は、字の大きさは有意に違うのだが、それを再現すると、時間を食うので、同ポイントとした。なお、著者は「干」という字を、しばしば、異体字「亍」で書いているが、紛らわしいので、一律、「干」で起こした。

 この一ページを作成するのに、ブログ及びサイト開設から二十年の中で、不倒距離となった凡そ七日をかけて、完成させた。実字数で三万八千五百字を超えている(総画像13.2MB)。量質ともに、最大容量の特異点の記事となった。

 

【図版1】

 

1_20250821132201

 

「劔先鰑各種の圖」(上罫外の標題)

 

■「磨上々番鰑《みがきじやうじやうばんするめ》」

 「豊後國《ぶんごのくに》、

  北海部郡《きたあまべのこほり》関村產。

  白く、粉を、しき、透明するほどの美色あり。

  現品、鰭《ひれ》より、胴長り、

  一尺三寸五分あり。」

[やぶちゃん注:「豊後國北海部郡関村」ここは、現在の大分県大分市佐賀関(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。である。ウィキの「佐賀関」によれば、『旧北海部郡佐賀関町時代の大字名は関』(☜)『であったが、大分市との合併後の』二〇〇六年四月一日『に現在の大字名に改称した』とある。なお、「郡」は、先行本文で、『の こほり』と訓じており、「ぐん」とは、訓じていない。

「胴長り」ママ。「り」は「さ」、或いは、係助詞「は」の誤記か。

「一尺三寸五分」約四十・九センチメートル。]

 

■「磨劔先鰑」

「皮をむき、軟骨、付《つけ》、のしたるものなり。

 此ものも、上番となる品なり。

 豊後國北海部郡《きたあまべのこほり》保戶島《ほどじま》の產。」

[やぶちゃん注:「豊後國北海部郡保戶島」現在の大分県津久見市に属する、四浦半島沖の豊後水道に浮かぶ保戸島(ほとじま)。ここ当該ウィキによれば、現在は『マグロの遠洋漁業の基地として知られている。また、島の一部は日豊海岸国定公園に指定されている。明治』二五(一八九二)年『から昭和』二六(一九五一)年『までは、保戸島村として独立した一自治体であった』(本書は明治一九(一八八六)年刊)。『平地が』殆んど『ないため、海岸に迫る急な斜面に』三『階建てのコンクリート造の建物がひしめくように建ち並んでおり、その風景は地中海の漁港を連想させる。保戸島集落は「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」に選定されている』とある。「津久見市観光協会」公式サイトの「保戸島」をリンクしておく。]

 

■「一番大面

  五島鰑」

 「肥前五島の產。」

 「現品、肥《こえ》、長《ながさ》一尺一寸あり。」

[やぶちゃん注:「一番大面」この文字列は、国立国会図書館デジタルコレクションの多数の水産関係書物で、総て確認出来たが、一切、ルビが振られていないため、判らない。ネット検索では、この文字列自体が掛かってこない。AIの解説では「いちばんおおめん」あるので(出所不明)、仮に「いちばんおほめん」と読んでおく。

「肥前五島」長崎県西部に位置する五島列島。]

 

■「一番鰑」「凡《およそ》、八分の一。」

 「薩摩國出水郡《いづみのこほり》

  波留村《はるむら》產。」

[やぶちゃん注:「出水郡波留村」現在の鹿児島県阿久根市波留(グーグル・マップ・データ)。

「凡、八分の一」図の実際の大きさの縮小スケールを示している。この断りは、最終図版の上に、罫外に『縮寫減數ハ体長直經を以てす以下倣之』とある。

 

■「白鰑」「凡、八分の一。」

 「尾鰭を翻反《ひつくりかへ》したるもの。

  出雲島根郡三保産。」

[やぶちゃん注:「出雲島根郡三保産」現在の島根県松江市美保関町(みほのせきちょう)美保関。昨年末、団体旅行ながら、小泉八雲所縁の地を訪ねた際、訪ねた。]

 

■「笹鰑」「凡、五分の一。」

 「肥前唐津の産。」

[やぶちゃん注:「肥前唐津」現在の佐賀県唐津市。]

 

■「烏賊丸干」「劔先なり。」

 「凡、七分の一。」

 「羽前國西田川郡

       溫海村《おんかいむら》產。」

[やぶちゃん注:「羽前國西田川郡溫海村」「(その4)」で既出既注。

 

■「鰑」「凡、九分の一。」

 「出雲國島根郡

        野井津《のゐつ》の產。」

[やぶちゃん注:「出雲國島根郡野井津」現在の島根県松江市島根町(しまねちょう)野井(のい)のことであろう。ここ。]

 

■「串烏賊《くしいか》」「凡、七分の一。」

 「長門《ながと》、萩の産。」

[やぶちゃん注:「長門、萩」現在の山口県萩市。]

 

■「鰑」「尾を翻反したるもの。」

           「凡、八分の一。」

 「若狹國三方郡《みかたのこほり》

      神浦產。」

[やぶちゃん注:「神浦」これは、現在の福井県三方上中郡(みかたかみなかぐん)若狭町常神(つねかみ)のことであろう。平凡社「日本歴史地名大系」の「常神浦(つねかみうら)」に『福井県:三方郡三方町常神浦』とし、旧地名を『三方町常神』とあり、『西(にし)浦の一』つ『で』、『常神半島最北端に位置し、西方に御神(おんかみ)島がある。奈良時代の遺跡や式内社常神社があり、開発は古い。平安末期から鎌倉初期に御賀尾(みかお)浦(神子浦)に伊香氏が移住して領有を認められたらしいが、やがて当浦は伊香氏の支配から離れたようである』。『大音家』(おおとけ)『文書の年不詳(戦国期)五月』二十五『日付某書状案に「承久の時ハ常神も御賀尾も我等かせんそ』(先祖)『の御賀尾浦物にて両浦と一円に致候所にて候を、今の常神之刀禰のせんそにわけ候て」とある。との間には中世・近世を通じ』、『しばしば』、『網場をめぐる相論があった(同文書)。御賀尾浦とともに若狭漁業の先進地で、天文二』(一五三三)年『の常神社蔵棟札銘に「于時大網之徳分年々用意上フキシ仕候」とみえ、大網の収益から同社の上葺』(うへぶき)『経費を出したことが知れる』とある。]

 

■「皮剥《かははぎ》」「劔先鰑《けんさきするめ》。」

 「凡、十分の一。」

 「劔先の皮を、ハね反《かへ》したるもの。」

 「薩摩國出水郡《いづみのこほり》波留村《はるむら》産。」

[やぶちゃん注:「薩摩國出水郡波留村」現在の鹿児島県阿久根市波留。]

 

■「やりいか鰑」「凡、八分の一。」

 「東京にて、試製たるもの。」

[やぶちゃん注:「試製」の「試」は(つくり)の右払いの途中に「ノ」が入っているが、このような異体字はない。他の字の可能性は私は考え得なかったので、「試」とした。

 

■「ぶといか」「凡、七分の一。」

 「長門國豊浦郡宇賀村産。」

[やぶちゃん注:「ぶといか」「(その4)」で既出既注。]

 

■「さバいか」「凡、七分の一。」

 「此所《このところ》、穴、あり。

  長門、萩産。長嵜《ながさき》にてハ、『劔先』という。」

[やぶちゃん注:「さバいか」「(その2)」で注したが、再掲すると、ネットで調べると、魚のサバ(鯖)漁の時期に、同時期に採れるヤリイカをカップリングした名称として「サバイカ」が検索に掛ってくるのだが、どうも、これではないと思われる。私は、寧ろ、

★直前の「すんどういか」を受けた、同義的か、或いは、その差別化(ケンサキイカは「細い」とは――私は――言えないと思うので)の呼称であって――「狹幅」――さば――「はばせま」「はばぜま」(=幅が普通より狭いこと。また、そのさまやそのもの。小学館「日本国語大辞典」に拠る)――「幅狹」=「スリム」――ではないか?

と考えた。根拠も何もない、ただの思い付きではある。ただ、とすれば、可能性としては、「ずんどういか」と同じジンドウカ、或いは、それよりも、もっとスリムなヤリイカ等の烏賊の誰彼か? となるか? 識者の御叱正を乞うものである。

「此所、穴、あり」乾した鯣の「えんぺら」の右横に添えてあり、「えんぺら」の左右の中央に丸い穴がある。以下でも、穴が開いている鯣は出てくるが、これは、もともとイカにあるものではなく、プラグマティクに乾製作業の中で(「えんぺら」が変形しないように、乾し下げるための仕儀等)生じた穿孔穴であると思われる。]

 

■「鰑」「凡、五分の一。」

 「薩摩國甑島郡《こしきじまのこほり》平良《たいら》村。」

[やぶちゃん注:「薩摩國甑島郡《こしきじまのこほり》平良《たいら》村」現在の鹿児島県薩摩川内市(さつませんだし)上甑町平良(かみこしきちょうたいら)。]

 

 

【図版2】

 

2_20250821132201

 

「二番鰑各種の圖」(上罫外の標題。本文の終りで「二番鰑(にばんするめ)」とルビする。)

 

■「二番鰑」「凡、七分の一。」

 「對馬國産。量、廿五匁。」

[やぶちゃん注:「廿五匁」九十三・七五グラム。中高と高岡市伏木に住んだ私には、殊の外、懐かしい場所だ。六つの文化層を持つ縄文中期から中世の複合遺跡で国史跡「大境洞窟住居跡」(おおざかいどうくつじゅうきょあと)は、私のお気に入りだった。脱線だが、ここの先をさらに北上すると、県境を越えたところに、七尾市百海(どうみ)というところがある。ここは、釣りフリークの父のお気に入りの秘密の釣り場で、私が結婚した、丁度、今のお盆の時期、連れ合いと一緒に帰省し、釣に行った。浜から少し離れた岩礁がここにあり、父子ともに、連れ合いを背負って渡った。数時間で鉄砲鱚(有意に胴が肥えて手で握ると、腕を「パンパン!」と打って暴れることからのキスの地方名)入れ食いで、三十尾以上の釣果となり、隣近所に分けたのを覚えている。至福の一時だった……。]

 

■「干烏賊」「凡、六分の一。」

 「越中射水郡《いみづのこほり》宇波《うなみ》村産。」

[やぶちゃん注:「越中射水郡宇波村」現在の富山県氷見郡宇波村大字宇波。]

 

■「鰑」「凡、七分の一。」

 「『しろいか』にて製《せいす》。」

 「長門、萩の産。」

[やぶちゃん注:「しろいか」ヤリイカ科ケンサキイカ属ケンサキイカ(ブドウイカ型) Uroteuthis  Photololigo  edulis の市場名。「白烏賊」と思われる。]

 

■「塩烏賊」「凡、五分の一。」

 「長門、阿武郡江﨑《えさき》の産。」

 「『しろいか』の皮を、

  むき、切《きり》て、乾《ほ》せ

  るものなり。」

[やぶちゃん注:「長門、阿武郡江﨑」山口県萩市江崎(えさき)。]

 

■「小烏賊煮干《こいかにぼし》」

 「凡、三分の一。」

 「長門、豊浦郡 二見浦の産。」

[やぶちゃん注:以上の二つの図は、前の図の左手にあり、次の左の図群とは、やや離れていることと、同じ「しろいか」であることから、ここに置いた。この標題の「小烏賊」は種名ではなく、小型サイズの意と思われる。

「長門、豊浦郡 二見浦」(半角空けはママ)山口県下関市豊北町大字北宇賀の二見浦。]

 

■「佐渡冬鰑」「凡、六分の二。」

 「佐渡物産博覧會出品のもの。」

[やぶちゃん注:「佐渡物産博覧會」は「佐渡、」で、「佐渡」から東京等の中央の「物産博覧會」に「出品のもの」の意であろう可能性が強いか。]

 

■「亀甲鰑」「凡、六分の一。」

 「越中、丹尾郡清水谷浦産。」

[やぶちゃん注:「越中、丹尾郡《にうのこほり》清水谷浦産」この「越中」は「越前」の誤りである。ウィキの「丹生郡」を見ると、「歴史」の項の「越前福井藩」領のリストに、『清水谷浦』が確認出来、次の「町村制以降の沿革」に、明治二二(一八八九)年四月一日の町村制施行で、「清水谷浦」が「国見村」に編入されたことが判り、「変遷表」で、昭和三四(一九五九)年二月一日に「国見村」は「福井市」に編入されている。しかし、この「清水谷浦」の位置が容易には判らなかった。検索したところ、サイト「jlOGOS」の「角川地名辞典(旧地名)」の「鮎川浦(近世)」に(コンマは読点に代えた。太字・下線は私が附した。これ以下の引用も同じ)、『江戸期~明治』二二(一八八九)『年の浦名。越前国丹生郡のうち。はじめ福井藩領、貞享』三(一九八六)『年』、『幕府領。文政』三(一八二〇)『年からは』、『再び』、『福井藩領。高は、「正保郷帳」で田方』百二十『石余・畑方』二十五『石の計』百四十五『石余。「元禄郷帳」「名蹟考」「天保郷帳」とも』百四十五『石余、「旧高旧領」では清水谷浦を分離し』、百三十九『石余。清水谷浦は当浦内にあり、年未詳ながら、清水谷浦を含んだ江戸期の戸数』二百十九『・人口』千二百九十六名『(平野家文書)。当浦は、九頭竜川に架けられた船橋に使う御用船』四十八『艘のうち』、一『艘を負担している(越藩拾遺録)。』とあった。さらに、平凡社「日本歴史地名大系」の「鮎川浦」には、『現在地名』を『福井市鮎川町』(あゆかわちょう)とし、『日本海に面する漁村で、東側に丹生山地が迫る海岸段丘下に位置し、北は南菅生(みなみすごう)浦に至る』とあった。以上から、「清水谷浦」は、確実に海岸に近い位置にあると推定された(九頭竜川の河口は地上実測で北東北十八キロメートルはある)。現在の鮎川町は、ここであるが、「清水谷浦」は、この町域にあることは、まず、間違いないと判断出来る。最早、頼みの綱は、「ひなたGIS」の戦前の地図であったが、残念ながら、「清水谷浦」は見出せなかった。ここまでだ。現地の方の情報を切に乞うものである。

 

■「鰑」「凡、五分の一。」

 「陸奥國青森の産。」

 

■「乾烏賊」「凡、六分の一。」

 「紀伊國東牟婁郡三輪嵜《みわさき》の産。」

[やぶちゃん注:「紀伊國東牟婁郡三輪嵜」現在の和歌山県新宮市三輪崎。]

 

■「佐渡鰑」「凡、六分の一。」

 「佐渡物産會社出品。」

 「此所、『をから』にて、ハりたるものなり。」

[やぶちゃん注:「をから」「麻幹・苧殼・麻木」。麻の皮を剝いだ後の茎。あさがら。盂蘭盆の精霊棚の飾りに用いたり、「迎え火・送り火」に焚いたりする、あれである。]

 

■「鰑」「後志國《しりべしのくに》美國郡《びくにのこほり》産。」

 「凡、五分の一。一枚量、十二匁。」

[やぶちゃん注:「後志國美國郡」現在の北海道積丹郡積丹町(しゃこたんちょう)美国町(びくにちょう)。ここで言っておくと、御存知かもしれないが、北海道では「町」を「まち」と読むのは、茅部郡(かやべぐん)森町(もりまち)のみである。ここ。★向後は、この注は書かないので注意されたい。

「十二匁」四十五グラムちょうど。]

 

■「鰑」「凡、七分の一。」

 「伊勢國度會郡《わたらひのこほり》

  神嵜浦《かみさきうら》の産。」

[やぶちゃん注:「伊勢國度會郡神嵜浦」現在の度会郡南伊勢町(みなみいせちょう)神前浦(かみさきうら)であろう。ここ。]

 

■「南部鰑」「凡、六分の一。」

 「陸中國《りくちゆうのくに》南部産。

 「十枚を一把《いちぱ》とす。」

[やぶちゃん注:「陸中國南部産」この謂いが正しいとなら、現在の岩手県の非常な広域の南部地方を指す。まず、「陸中國」は当該ウィキによれば、「東北戦争」『終結直後に陸奥国から分立した、日本の地方区分の国の一つ』で、『東山道』(とうさんどう/とうせんどう:五畿七道の一つで、本州内陸部を近江国から東へ貫いて、陸奥国・出羽国に至る行政区分。古代から中世にかけては、その範囲の諸国を結ぶ幹線道路も指したが、江戸時代に江戸を起点として西側の「中山道」と東(北)側の「奥州街道」などに再編された。ここは当該ウィキに拠った)『に位置する。領域は』、『ほぼ現在の岩手県に』当該する『が、岩手県南東部の気仙郡、陸前高田市、大船渡市、釜石市南部及び岩手県西北の二戸郡を欠き、秋田県北東部の鹿角市と小坂町を含む』とある。一々を掲げることは面倒なので、以上のウィキに添えられた「陸中国の位置」の地図を見られたい。結果して、そのピンクの岩手県の海岸線に沿った箇所が、ここで言う「南部」ということになる。

 

■「凾館鰑」「凡、五分の一。」

 「渡島國上磯郡《かみいそのこほり》凾館産。」

 「一枚量十三匁。」

[やぶちゃん注:「渡島國上磯郡凾館産」これは、明らかにおかしい。函館は過去に一度も上磯郡に属していたことはないからである。その事実は、ウィキの「函館市」と「上磯郡」の沿革を見て戴きたい。

「十三匁」四十八・七五グラム。]

 

 

【図版3】

 

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「其の二圖」(上罫外の標題。前の「二番鰑各種の圖」を受けたもの)

 

■「相模冬鰑《さがみふゆするめ》」「凡、六分の一。」

 「相模、足柄下郡《あしがらしものこほり》、福浦の産。」

[やぶちゃん注:「相模、足柄下郡、福浦」神奈川県足柄下郡(あしがらしもぐん)湯河原町(ゆがわらまち)福浦(ふくうら)。真鶴半島の根の西側のここ。私の偏愛する「ウルトラQ」の「鳥を見た」のエンディングのロケ地である。]

 

■「伊豆鰑」「凡、六分の一。」

 「伊豆、賀茂郡の産。」

[やぶちゃん注:「伊豆、賀茂郡」本書は明治一九(一八八六)年刊であるが、当該ウィキによれば、明治一二(一八七九)年三月十二日に『郡区町村編制法の静岡県での施行により』、『行政区画としての賀茂郡が発足』した、とある。簡単に言えば、当時の「賀茂郡」は、下田市を含め、伊豆半島の先の部分全部を含む広域である。同ウィキの地図を見られたい。]

 

■「秋烏賊」「凡、五分の一。」

 「佐𡈽國、羽茂郡《はものこほり》莚塲村《むしろばむら》産。

  二十枚を一把とす。」

 「是ハ、『すだれ』の上に並べ、朝ものなり。」

[やぶちゃん注:「秋烏賊」は「(その2)」で既出既注。再掲すると、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」では、アオリイカのページの「地方名・市場名」に、『アキイカ[秋いか]』、「場所」を『京都府舞鶴市、宮津市、伊根町』とあり、『サイズ/時期秋にとれる小型』とする。前項と同じ「海の京都」に、『春夏秋冬、再会できる喜び。旬の時期になると海沿い周辺のスーパーや鮮魚店には沢山のイカが並び、それを見て地元の人々は「そろそろ秋やね~」と季節を感じるわけです。特に秋イカとも呼ばれる「アオリイカ」はこの話の象徴的なイカと言えます』とし、さらに、『「イカの王様」と呼ばれ、イカの中で最高峰の味わいです。秋イカとも呼ばれています』。『旬は一般的に秋~春(春は親イカ)とされていますが、丹後地方では』九『月後半』から十二『月前半が最盛期。春は産卵の時期でペアの大型アオリイカが沿岸部に集まります。ただ、頻繁に港へ行きますが』、『年々』、『水揚げ量が減っている印象があります。獲れ始める』九『月頃は手のひらサイズ(』百グラム『程)で晩秋には』三百から五百グラム『程に成長していきます。適度に小さい方が』、『身が柔らかく食感が程よいです。お刺身で食されることが多いですが、地元では一夜干しと言われる生に近い状態の干物をサッと炙って食べるスタイルも好まれています』とあるのを確認した。

「佐𡈽國、羽茂郡莚塲村」「佐𡈽國」は「佐渡國」の誤記。「羽茂郡莚塲村」現在の新潟県佐渡市莚場。ここ。平凡社「日本歴史地名大系」の「莚場村」に拠れば、旧『赤泊村莚場』で、『南は海、北東は多田(おおだ)村(現畑野町)、北は丸山(まるやま)村(現畑野町)と山田(やまだ)村、西は腰細(こしぼそ)村に接』していた。『東部の海岸が緩やかに湾曲した辺りに住居の大部分が集中し、通称』、『大莚場(おおむしろば)とよばれる。西部の海岸には小石(ごいし)・高野(こうや)の小集落がある。海岸に沿って』、『段丘上を腰細に至る旧道がある。元禄七』(一六九四)年『の検地帳(莚場区有)によると』、『田』十八『町二反余・畑』十六『町五反余。天保九』(一八三八)年『の村書上帳』(むらかきあげちょう:江戸時代の地方(じかた)文書の一つ。村明細帳・村差出帳・差出帳・村柄書上帳・村鑑とも称し、現在の市町村勢の要覧に当たる。領主が村と村勢を把握するため、一定の書式によって村から書き上げさせるが,おもに、領主の交代・幕府巡見使の派遣・代官・役人の回村・絵図の作成などの際に書かれるもの。以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)『(橘鶴堂文庫蔵)では』、『戸口は』七十七『軒、男』二百七十三『人・女』二百十七。『小物成』(年貢とは別に課された雑税の総称。主に山林・原野・川海などの高外地の利用や、そこからの産物に対して課税さた。地域によって種類や名称・税額が異なり、明治時代に廃止されるまで、全国で千五百五十三種類あったとされている。以上はグーグルのAIに拠った)『に漆木役』二十一『本分・烏賊役五千』二百『枚』(★☜★)『・蛸役大蛸一頭分を銀納する。漁船』二十五『艘・廻船二艘。四十物師』(あいものし:後注参照)『一・大工一・桶屋二・板木商一・松前稼』(かせ)ぎ(蝦夷(北海道)へ出稼ぎに行くことを「松前稼ぎ」と称した。ブログ「佐渡広場」の「松前(北海道)と佐渡」に、『特に冬場地元での仕事が余りない時期に、ニシン漁に出かけることは、生活していく上で不可欠であったのでしょう』とあった。佐渡には「松前稼ぎ」が多かったことは、多くの記事で判る)『六がいる』とあった。この「四十物師」に就いては、古くから、しばしばお世話になるlllo氏の優れた佐渡情報サイト「ガシマ しなしなやります佐渡ヶ島ホトダイアリ」の「四十物(あいもの)」に、『相物または間物から転じた字。干魚や塩魚類の総称。「あいもの」は、魚の捕採期と捕採期の中間の加工魚の意から、鮮魚と乾物の中間の魚類となり、鮮魚の無塩魚にたいして加工魚類全体を指すようになった。魚のむらがり集まっている沿岸の漁場のことを五十集と書き、その魚が加工されると四十物となるなど、面白いつかいわけをする。四十物の売買をする町を、四十物町といった。『佐渡相川志』によると、相川四十物町には、享保の頃(一七一六~三五)まで魚屋があったという。慶長年代、佐渡銀山を差配していた岩下惣太夫から、駿府にいる戸田藤左衛門宛の手紙に「四十物油断なくとりあつめ、うり申し候」とあり、人口の急増する相川で、動物蛋白源であった魚に強い関心が向けられていた。元和年代になると、静目市左衛門奉行の小物成の徴税施策は変わり、四十物の現物納が代銀納となる。それまで現物納(色役)であった魚を、四十物に加工して売り出す町であった四十物町は仕事を失い、五十集から捕採した魚を町方の四十物商に販売するようになった。文政十一年(一八二八)各町の四十物師(籠振・干物買含む)の数は、相川九一・海士町一・鹿伏二・大浦四・高瀬四・橘二・稲鯨一四・米郷四・二見二・矢柄一・小田一・北田野浦一・高下一・北河内一・北立島一・南片辺三・姫津一六・小川一計一五○人であった(他町村除く)』とあり、また、「四十物町(あいものまち)」のページを見ると、『四十物と書いてアイモノと読む。アイモノは保存用の塩魚のことで、鮮魚と干魚の間の意味である』(★☜★)。『広間町の奉行所から佐渡鉱山に向って、わずかのぼりかけたところにあって、現在県職員住宅があり、弥十郎町と鈍角に道を分れた付近が、四十物町である。文政九年(一八二六)の相川町墨引の絵図によると、南御役宅のところから弥十郎町通りに平行して、四十物町通りがあり、その北側に空家をふくめて三七軒、南側には教諭所御囲内にはじまって、二八軒ほど描かれている。そこに肩書きされている職種をみると、医師・水替・せんたく師・湯屋などの文字がみえ、他町と変るところはない』とあった。ここである。因みに、私は佐渡が好きで、友人らと既に三度、行っている。いいぞ! 佐渡は!

「朝ものなり」はママ。「乾《ほす》ものなり」の誤字であろう。

 

■「鰑」「凡、七分の一。」

 「隠岐國、周吉郡《すきのこほり》今津産。」

[やぶちゃん注:「隠岐國、周吉郡今津産」周吉郡(すきぐん)は、島後の、現在の隠岐郡隠岐の島町の東部(蛸木(たくぎ)・加茂・西田・上西(かみにし)・原田・元屋(がんや)・西村以東)に当たる。

「今津」ここ。]

 

■「於多福鰑」「凡、六分の一。」

 「越前、丹生郡《にゆうのこほり》菜﨑浦《ぐみさきうら》產。」

[やぶちゃん注:「於多福鰑」胴部の左右がふっくらしているので納得のネーミングである。

「越前、丹生郡茱﨑浦」現在の福井県福井市茱崎町(ぐみさきちょう)。ここ。平凡社「日本歴史地名大系」によれば、旧『越廼村』(こしのむら)『茱崎』で、『東に丹生山地がせまり、西は日本海、北は大味(おおみ)浦。』『正保郷帳に村名がみえ』、『村高』十六・八百二十二『石のすべてが畠方。福井藩領。「越前地理指南」に「北ノ往還ノ岸ニ穴アリ、風穴と云、穴の口八九寸計にて奥不知』(しれず)、『内より常に風吹出』(いづ)『る也、殊』(ことに)『世間炎暑の時』、『冷風強ク吹出るにより道ゆき人』(びと)『も立やすらひ涼を求』(もとむ)『ると云』(いへ)『リ」と記す』とある(調べたが、現在の越廼地区にはこの「風穴」は見当たらない)。ウィキの「越廼村」によれば、二〇〇六年二月一日『に福井市へ編入されて廃止された。廃止時点では福井県の市町村で面積最小、人口最少であ』り、二〇〇五年の『国勢調査時の平均年齢は』五十・五『歳だった』とあり、『海岸に沿った細長い形になっており、海岸は若干砂浜の海水浴場となっている以外は岩場が続く。海岸線から最も奥に入った六所山頂でも』四キロメートル『未満で、暖流が海岸近くを通るため』、『冬も比較的暖かく、積雪量は山を越えて約』二十キロメートル『東にある平野部の福井市街と比較すると格段に少ない』とあり、「漁業」の項には、大味(おおみ)漁港・茱崎漁港・居倉(いくら)漁港があり、『沿岸の定置網とウニやサザエ、少々沖合のイカ』(☜)『などが水揚げされる』とあった。釣サイト「アングラーズ」の「茱崎漁港で釣れたイカの釣り・釣果情報」を見ると、ケンサキイカ・モウゴウイカ・コウイカ・アオリイカ・ヤリイカ・アカイカといった記載で釣果対象が写真入りで載る(標準和名でないものは拾っていない)。]

 

■「赤鰑」「又、『玉きれいか』。」

 「凡、八分の一。」

 「長門、阿武郡《あぶのこほり》須佐村《すさむら》。」

[やぶちゃん注:「玉きれいか」ネーミング不詳。

「長門、阿武郡須佐村」。現在の山口県萩市須佐。ここ。萩の市街地からは東北に大きく離れ、海岸線沿いには、阿武郡阿武町(あぶちょう)が挟まる。]

 

■「相摸《さがみ》秋鰑」「凡、六分の一。」

 「相摸、足柄下郡の産。」

[やぶちゃん注:これは、明らかに前の「赤鰑」と並置した形になっているので、ここに配した。

「相摸」六ツ前の「相模冬鰑」の字体とは異なるのは、ママ。古文書では、「相模」ではなく、「相摸」と書く方が、有意に多い。

 

 

■「ぶとう鰑」「凡、六分の一。」

 「能登國《のとのくに》、鳳至郡《ふげしのこほり》宇津村産。」

[やぶちゃん注:「ぶとう鰑」「(その4)」で、「ぶといか」で注したものを示す。これは「(その2)」の『「ぶといか」一名「ぶどういか」』で注した「太烏賊」で、前の「けんざき」で注した、ケンサキイカの後者のゴトウイカ型である。本書当時は、別種として認識されていた。そのまま再掲すると、「ぶどういか」は、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「ブドウイカ」(異名。以下の引用で正式和名は「ケンサキイカ(ブドウイカ型)」で、Uroteuthis  Photololigo  edulis である)によれば、「ぶどういか」は「葡萄烏賊」ではなく、やはり「太烏賊」で、「漢字・学名由来」に『漢字/太烏賊』とし、『山陰島根県などの「ぶといか」が変化して「ぶどういか」になったものと思われる。「ぶと」=「太」でケンサキイカよりも外套長が短く太って見えるため。』とあった。「全国いか加工業協同組合」の『新編・世界イカ類図鑑』ここPDF)に、『ケンサキイカ(ブドウイカ型) Uroteuthis  Photololigo  edulis  Hoyle, 1885)[ budo-ika]/ヤリイカ科 Loliginidae』とし、棲息域は『日本近海』、『市場名』として『シロイカ』(「白烏賊」と思われる)を挙げ、外套長は四十センチメートルとあり、

   《引用開始》

日本海西部に分布するケンサキイカの季節型でLoligo budo Wakiya & Ishikawa, 1921 の名が与えられた.鰭の長さは外套長の65%ぐらい.腕の吸盤角質環の特徴はケンサキイカの他型と同様截断状の歯が数個あるが,触腕掌部がそれらに比し広く大きく,ここの吸盤はIII腕の吸盤より大きい.外套膜は外見ケンサキイカのゴトウイカ型などより太目で(外套幅は長さの30%),腹中線の肉畝は殆ど見られない.「白ずるめ」の材料は本種.付記:Sasaki 1929)が Loligo edulis forma grandipes とした型で,秋冬期のみ日本海西部にあらわれ,幼期はケンサキイカの他型と区別できない.

   《引用終了》

とある。

「鳳至郡宇津村」これは「宇出津村《うしつむら》」の誤りである。現在の鳳至郡能登町宇出津(うしつ)。平凡社「日本歴史地名大系」の「宇出津町」に拠れば、『現在地名』は、『能都町宇出津・宇出津新(うしつしん)・崎山(さきやま)一』から『四丁目』までとする。『内浦』(うちうら)『街道の宿駅で、商業・漁業で栄えた町場。北西に湾入する宇出津湾沿いに広がる。かつて宇出とも記し、「うせつ」ともいう。集落は初め』、『東の珠洲(すず)郡羽根(はね)村境の田(た)ノ浦付近にあったが、棚木(たなぎ)城の落城後に今の湾部に移転したと伝える(能登名跡志)。承久三』(一二二一)年『九月六日の能登国田数注文に珠洲郡「宇出村」とみえ、公田数は』十『町七段で、江戸期の宇出津町・宇出津山分(うしつやまぶん)村付近に比定される』とあった。現在の能都町宇出津(以下の二箇所も含んで表示されている)・宇出津新崎山(属さない四丁目は南東部分)までをグーグル・マップ・データをリンクさせておく。]

 

■「鰑」「凡、五分の一。」

 「陸奥國、上北郡《かみきたのこほり》泊村《とまりむら》産。」

 「此ものハ、脚《あし》二本、欫《かく》。是《これ》、

  『脚を、「しをから」になす。』と云ふ。

  東津輕には

  五本をかくもの

       あり。」

[やぶちゃん注:「陸奥國、上北郡泊村」現在の、原子燃料サイクル施設で知られる下北半島の太平洋岸側の、「斧の柄」に当たるところの中央の、ここにある。本書刊行の翌々年の、明治二一(一八八九)年四月一日、町村制の施行により、同郡内の倉内(くらうち)村・平沼村・鷹架(たかほこ)村・尾駮(おぶち)村・出戸(でと)村、及び、泊村の区域を以って「六ヶ所村」が発足している。なお、「日テレ」公式サイト内の「道草を食いながらどこまで行けるか?」の「道草マップ」の「六ヶ所村」に、『明治時代に』六『つの村が集まってできており、それぞれの村名が馬に由来するとされる。古来より名馬の産地として知られ、鎌倉時代には名馬『生食(いけずき)』が源頼朝の軍馬となり、「宇治川の合戦」でも活躍したという。その馬の門出』(かどで)『たところが「出戸(でと)」、身丈』(みたけ)『が鷹待場』(たかまちば)『の架』(ほこ:台架(だいほこ)。鷹を止まらせるとまり木)『のようだったので、「鷹架(たかほこ)」、背中が沼のように平らだったので「平沼(ひらぬま)」、尾が斑』(まだら)『になっているので「尾駮(おぶち)」、さらにその馬に鞍を打ったので「倉内(くらうち)」、鎌倉へ引き渡すために泊まったところが「泊(とまり)」となったとされる。また「尾駮の牧」は、青森県東北町と六ヶ所村にまたがる大牧場だったと推定され、ここから都へと供給された馬は、特に馬格に優れていた』とあった。これは、鎌倉史を研究している私は、全く知らない語源であったので、大いに驚いた。

「欫」は「缼」(=「缺・欠」)の異体字。

「しをから」ママ。「鹽辛(しほから)」。]

 

■「赤烏賊鰑」「『猿いか』。丸子《まるこ》なり。」

 「凡、五分の一。」

 「長門、阿武郡木與村《きよむら》産。」

[やぶちゃん注:「猿いか」「(その2)」の「さるいか」の私の注を再掲する。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のスルメイカの地方名に、「サルイカ」として、採集地を『島根県、山口県仙崎』とある。私は当初、新鮮な個体は、濃い赤茶色をしているので、「猿の尻」から「猿烏賊」であろうと思ったが、ネット上には、確定的記載はない。一方、ある釣り師の記載には、人でない「猿」の意で、漁師は獲れても、捨てるという意味で、「さるいか」と呼ぶとあり、ある種のスレッドの記載では、差別的な意味で、「ヒト以下の人間」という意味で「猿烏賊」という語が載っていた。何んとも厭な使い方であるが、前の漁師のそれも、同義であろう。

「丸子」不詳。但し、「(その2)」の「まるいか」を私は、『「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の検索では、ケンサキイカの地方名(『相模湾、東京湾の沿岸』とある)と、ジンドウイカ(ヤリイカ科ジンドウイカ(神頭烏賊・磁頭烏賊)属ジンドウイカ Loliolus ( Nipponololigo ) japonica )の地方名(『神奈川県相模湾周辺』とある)とする。』と注した。この「まるいか」(「丸烏賊」?)の子ども、と言う意味かも知れない。

「阿武郡木與村」現在の山口県阿武郡阿武町(あぶちょう)木与。ここ。]

 

■「鰑」「伯耆國《はうきのくに》、八橋郡《やばせのこほり》赤﨑《あかさき》の産。」

 「量、二十一匁。」

[やぶちゃん注:「伯耆國、八橋郡赤﨑」現在の鳥取県東伯郡(とうはくぐん)琴浦町(ことうらちょう)赤碕(あかさき)。ここウィキの「赤碕町」によれば、二〇〇四年九月一日の『町制施行前の名称』は『赤崎村』であったとある。

「二十一匁」七十八・七五グラム。]

 

■「干烏賊」「凡、六分の一。」

 「越中國、新川郡《にいかはのこほり》滑川《なめりかは》産。」

[やぶちゃん注:「越中國、新川郡滑川」現在の富山県滑川市。ここ。]

 

■「佐渡夏鰑《さどなつするめ》」「凡、五分の一。」

[やぶちゃん注:「佐渡夏鰑」「夏鰑」「(その2)」の「なついか」の注を再掲する。「なついか」「夏烏賊」。前の前で出した奥谷先生の『表 ヤリイカとスルメイカの地区別方言名』(132ページ)に拠れば、ヤリイカを「ナツイカ」と呼ぶケースとして「坊泊」と「枕崎」を挙げておられる。「坊泊」は「ぼうとまり」で現在の鹿児島県南さつま市坊津町(ぼうのつちょう)泊(とまり)である。枕崎は同地図の東の同県枕崎市である。因みに、この二箇所、梅崎春生の、偏愛する最後の作「幻化」のロケーションの肝の場所である。私のブログ・カテゴリ『梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】』、或いは、サイト版「幻化 附やぶちゃん注 (PDF縦書決定版)」を、どうぞ! なお、ヤリイカの成体の漁獲期は春であるので、不審に思ったのだが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「生態」の項に、『12月中旬から5月にかけて産卵』。『孵化して夏から秋には小ヤリイカが漁獲される。初物はなかなか高価である』(☜)。『これが冬には成体(大きく)となり』、『所謂ヤリイカとして流通』するとあったので、ナットク!

 

 

【図版4】

 

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「甲付鰑《かうつきするめ》各種の圖」(上罫外の標題)

 

■「烏賊《いか》」「凡、六分の一。」

 「豊前國《ぶぜんのくに》、京都郡《みやこのこほり》

  苅田村《かりたむら》産。

  目方、百二十一匁。

  是ハ、『大烏賊《おほいか》』、又、方言、

  『きつきやういか』と云ふ。」

[やぶちゃん注:「凡、六分の一」底本のフラットな画像を実際の図の、触腕を伸ばさずに計測すると、十一センチメートルであるから、単純換算すると、六十六センチメートルとなる。最終注参照!

「豊前國、京都郡苅田村」現在の京都郡(みやこぐん)苅田町(かんだまち)。ここ。現在は、殆んどが工業地帯化している。「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、海岸線の形状が全く異なることが判る。但し、苅田町外の南北の地区を見ても、港は認められないので、苅田町の両氏は僅かにある砂浜海岸から小舟を漕ぎ出して、この巨大なイカを漁(すなど)っていたものと思われる。なお、この郡名であるが、当該ウィキによれば、『景行天皇の時代、熊襲が背いたため征伐すべく、天皇自ら西に下って筑紫(九州)に入り、豊前国長峡(ながお)県に行宮(かりみや)を設けた。そこから京(みやこ)と呼ばれるようになった』とあった。

「百二十一匁」四百五十三・七五グラム。最終注参照!

「是ハ、『大烏賊』、又、方言、『きつきやういか』と云ふ」強力なデータを電子化されている『元某歴民資料館員の谷澤憧渓』氏のサイト「渓流釣り(ヤマメとアマゴ)と九州の地元情報を発信 渓流茶房エノハ亭」の「筑前国産物帳に記載の魚名語彙をみる」(副題「筑前国産物帳 魚名語彙・魚名方言」)で、「[福岡県立図書館]デジタルライブラリ」の「筑前国産物帳 下巻」を電子化され、その「いか」の項に(原本(写本)では、ここ)、「みづいか」があり、そこに「『きつきやういか』ともいふ」とあった(他に、前に「まいか」・「こぶいか」、後に、「うすご」「『うすいか』ともいふ。」・「てりこ」・「さばいか」「『するめいか』ともいふ」とある)。これは、私の「(その2)」で、

   *

「みづいか」ここでは、順列から、前に掲げた通り、アオリイカの市場名であろう。「水烏賊」で、このPDFのアオリイカの解説の「名前の由来」には、『体色を迅速に多彩に変化することが得意で、海水に溶け込む程』、『透明になれることから。』とある。

   *

と注した。★大きさから、明らかに、アオリイカ(アカイカ)Sepioteuthis lessoniana と同定出来ることから(「新編・世界イカ類図鑑」PDF)では、胴長三十五センチメートルで、当該ウィキでは、『胴長は約』四十~四十五センチメートル。『大きいものでは』五十センチメートル『以上、重さは』六キログラム『以上に達する』とすることから、以上の十全に乾燥されたスルメのスケールと重量で、何らの違和感はない。

 

■「乾烏賊《ほしいか》」「凡、八分の一。」

 「豊前、上毛郡《かうげのこほり》小祝村《こいはひむら》産。

  海螵蛸《かいへうせう》付《つき》の侭《まま》、

  開き、乾《ほす》となすもの。」

[やぶちゃん注:「豊前、上毛郡小祝村」これは、現在の大分県中津市小祝(こいわい)である。「小祝新町」があるが、「ひなたGISの戦前の地図を見ると、「小祝」の北東部分は砂州になっており、現在の「小祝漁港」も存在しないので、注意されたい。なお、読みとして示した「かうげ」は、国立国会図書館デジタルコレクションの「豐前志」(渡辺重春著・渡辺重兄校/渡辺重兄刊/明三二(一八九九)年刊)の、「七之卷」の「上毛郡」の冒頭部の中で(下線は底本では右傍線である)、

   *

重春云、上毛を今、カウゲと唱(い)ふは音便(おんびん)に崩(く)づれたるなり。或人が所藏せる正安四年[やぶちゃん注:一三〇二年。鎌倉末期。]の田地沽渡[やぶちゃん注:「うりわたし」。]證文には、下毛をシモツミケと書けり。然(さ)れば、上毛をも、其の頃までは、カムツミケと正しく唱(い)へりし叓、著(いちじる)し。

   *

とあるのに従った。

「海螵蛸」「いかのかふ」と訓じているかも知れない。ここで学術的に示しておく。十腕形上目コウイカ目Sepiina 亜目コウイカ科 Sepiidae に属する全種に見られる硬く脆い体内構造物の通称で、別に「イカの骨」・「烏賊骨(うぞっこつ)」や英名の「カトルボーン」(Cuttlebone)などとも呼ばれるが、正確には、同じ軟体動物の貝類の貝殻が完全に体内に内蔵されたものである。学術的には「甲」(こう)、あるいは「軟甲」(なんこう)と呼ぶ。これは、まさに頭足類が貝類と同じグループに属することの証しと言ってよい。即ち、貝類の貝殻に相当する体勢の支持器官としての、言わば「背骨」が「イカの甲」なのである。あまり活発な遊泳を行わないコウイカ類(コウイカ目 Sepiida)では、炭酸カルシウムの結晶からなる多孔質の構造からなる文字通りの「甲」を成し、この甲から生じる浮力を利用している。対して、活発な遊泳運動をするツツイカ類では、運動性能を高めるために完全にスリムになって、半透明の鳥の羽根状の軟甲になっている。ツツイカ目Teuthida閉眼亜目Myopsina ヤリイカ科Loliginidaeアオリイカ属のアオリイカ(障泥烏賊)Sepioteuthis lessonianaは、外見はコウイカに似るが、甲は舟形ながら、薄く半透明で軽量である。これは言わば、甲と軟甲双方の利点を合わせた効果を持っている。即ち相応の浮力もあり、開眼目アカイカ科 Ommastrephidaeスルメイカ亜科 Todarodinaeスルメイカ属スルメイカ Todarodes pacificus ほどではないにしても、かなり速い遊泳力も持ち合わせているのである。以下、ウィキの「イカの骨」から引く。『貝殻の痕跡器官であるため』、『主に炭酸カルシウムから構成されている。もともとの形は巻き貝状、あるいはツノガイ』(掘足綱Scaphopoda)『状で、アンモナイト』(頭足綱 Cephalopoda†アンモナイト亜綱 Ammonoidea)『やオウムガイ』(頭足綱 Cephalopodaオウムガイ亜綱 Nautiloideaオウムガイ目 Nautilidaオウムガイ科 Nautilidae)『のように内部に規則正しく隔壁が存在し、細かくガスの詰まった部屋に分けられていたと考えられているが、現生種ではトグロコウイカ』(十腕形上目 Decapodiformesトグロコウイカ目 Spirulidaトグロコウイカ亜目 Spirulinaトグロコウイカ科 Spirulidaeトグロコウイカ属トグロコウイカ Spirula spirula :深海性で、私も液浸標本でしか見たことがない。YouTube“ROV SuBastian Dive 402 (Pt B) - Wreck Bay Plunge Pool, Australia - FK200930”16:00前後で貴重な生体画像が見られる)『のみが』、『その形状を持ち、他の種はそのような部屋の形を残してはいない。矢石として出土するベレムナイトの化石も、元は貝殻である』。『コウイカの場合、それに当たる部分は現在の骨の端っこに当たる部分(写真では向かって左端、尖った部分が巻き部)であり、本体の気体の詰まった小部屋に分かれて、浮力の調節に使われる部分は、新たに浮きとして発達したものと考えられる。顕微的特徴を見ると』、『薄い層が縦の柱状構造により結合している。このようなイカの骨は種によっては』二百なら六百メートルの水深で内部へ爆縮してしまう。『従ってコウイカの殆どは』、『浅瀬の海底、通常は大陸棚に生息する』。『スルメイカ等では』、『殻はさらに退化し、石灰分を失い、薄膜状になっており、軟甲とよばれている』。『現生の鞘形類 Coleoideaの起源は』、『ジュラ紀初期のPhragmoteuthida』目(白亜紀末に絶滅した軟体動物門・頭足綱の一分類群で、形態的には現生のイカに類似しているベレムナイト(Belemnites:ベレムナイト類:Belemnitida)の一目。ベレムナイトは体の背部から先端にかけて鏃(やじり)型の殻を持っており、この殻の形状に由来し、ベレムナイトの化石を「矢石」(やいし:箭石)と呼ぶこともある。同様に、明治期には、その形状から「天狗ノ爪介」(てんぐのつめがひ)・「天狗爪貝」と呼ばれることもあった。以上はウィキの「ベレムライト」に拠った)『に置かれると考えられている』。『ある系統は房錐(phragmocone)を』、『まだ保持しているうちに』、八『本の腕と』二『本の触腕の配置を急速に獲得し』、『十腕類になったとみられる』。『そのうちPlesioteuthisなどのグループは、遅くとも上部ジュラ系までには房錐を失い、例えば』、『アカイカ属 Ommastrephes などの現生のイカとほぼ見分けがつかない軟甲を発達させた』。『このグループは現生の開眼類』(開眼目 Oegopsida)『になった』。『もう一つのグループでは、房錐は甲に特殊化し、現在のコウイカ類につながる』。『上部ジュラ系から知られている、前甲(pro-ostracum)の側方の「翼」を保持しているTrachyteuthisの甲が典型的である』(最後の属の英語版をリンクさせておく)。『コウイカ目では、連室細管から腹側の部分が消失して』、『後端の太い石灰質の棘状となった』。『その昔、イカの骨は磨き粉の材料となっていた。この磨き粉は』、『歯磨き粉や制酸剤、吸収剤に用いられた。今日では飼い鳥やカメのためのカルシウムサプリメントに使われ』ており、また『イカの骨は高温に耐え、彫刻が容易であることから、小さな金属細工の鋳型にうってつけであり、速く安価に作品を作成できる』ともある。『イカの骨は「烏賊骨」』(うぞくこつ/うぞっこつ)『という名で漢方薬としても使われる。内服する場合は煎じるか、砕いて丸剤・散剤とし、制酸剤・止血剤として胃潰瘍などに効用があるとされる。外用する場合は止血剤として、粉末状にしたものを患部に散布するか、海綿に塗って用いる』。また、『西洋で』は、嘗つては、『インクのにじみを止めるために』、『紙に振りかけた』、『にじみ止め粉』『に使用された』とある。]

 

■「甲烏賊《かういか》」「凡、七分の一。」

 「薩摩國、川辺郡《かはべのこほり》の産。

  甲付《かうつき》の生鮮《せいせん》の時、

  『こぶしの』といふ。」

[やぶちゃん注:「薩摩國、川辺郡」この「川辺郡」は現存しない。当該ウィキの、明治一二(一八七九)年『に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域に』当たるとする、『枕崎市・鹿児島郡三島村・十島村の全域』・『南さつま市の大部分(金峰町各町を除く)』・『南九州市の一部(川辺町各町)』とあるのが、ここで言う「川辺郡」となる(本書は明治一九(一八八六)年刊。その間、同ウィキの「近世以降の沿革」を見ても、大きな変化はない)。同ウィキの地図の、黄色の部分が、当時の「川辺郡」域となる。

「生鮮」加工されていない新鮮な状態のもの。生きているもの、及び、死後も、比較的、時間が経っていないものを指す。

「こぶしの」この名の呼称は、ネット検索では見当たらない。しかし、この種、明らかに、

コウイカ目コウイカ科 Ascarosepion 属コブシメ Ascarosepion latimanus

で間違いないと思う。さすれば、「の」は「め」と書くつもりだったのではないか? 「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページには、「基本情報」の項に、『沖縄に多い大型のコウイカ。オーストラリアにいるオーストラリアコウイカ』(コウイカ科コウイカ属オーストラリアコウイカ Sepia Amplisepia apama )『とともに世界最大級のコウイカ』(当該ウィキによれば、外套膜が五十センチメートル、体重は実に一〇・五キログラムに達する、とあった)とし、『流通的には鹿児島以南特産イカと思っても間違いない。郷土料理のイカの墨汁(いちゃのすみじる)、琉球王国の宮廷料理である東道盆(とぅんだーぶん)の「花いか(表面を赤く染めて、花などの形に切ったもの)」などに使われる』。『また』、『アオリイカ、ソデイカなどとともに琉球列島では』、『もっとも主要なイカともいえそう』だ、とあり、「生息域」の項でも、『海水生。サンゴ礁域』とし、『九州南部・[鹿児島県南さつま市笠沙』(正確には、「さつま市笠沙町(かささちょう)片浦(かたうら)」で、ここ)『]から琉球列島。西部太平洋、インド洋の熱帯域』とある。

 

■「甲烏賊」「凡、九分の一。」

 「日向國、臼杵郡《うすきのこほり》細島《ほそしま》産。

  裏面なり。」

[やぶちゃん注:「日向國、臼杵郡細島」現在の宮崎県日向市細島。ここ島ではなく、半島。当該ウィキによれば、『細島半島にある米ノ山』(こめのやま)『北麓に位置し、北側には入江の深い天然の良港があり、東部は日向灘に面している。 重要港湾である細島港のうち、細島商業港が帰属する』とある。]

 

■「沖乾烏賊《ほきぼしいか》」「凡、九分の一。」

 「周防國《すはうのくに》、熊毛郡《くまげのこほり》室津《むろつ》の産。」

[やぶちゃん注:「周防國、熊毛郡室津」現在の山口県熊毛郡(くまげぐん)上関町(かみのせきちょう)室津(むろつ)。ここ。]

 

■「干烏賊」「凡、六分の一。」

 「長門國、原狹郡植生村産。此ものハ、

  甲を去り、開き、乾《ほし》たるものなり。

  六十一匁なり。」

 「孔《あな》」[やぶちゃん注:この一字から支持線が延びて頭部中央の正円の孔に至っている。これは、並べて乾す際に、人工的に開けたものであろうと思われる。]

[やぶちゃん注:「長門國、原狹郡植生村」この「原狹郡」は「厚狹郡《あづさのこほり》」の誤記で、「植生村」も「埴生村《はぶむら》」の誤りである。郡の読み方は、当該ウィキに拠った。これは、現在の山口県山陽小野田市(さんようおのだし)埴生(はぶ)である。ここウィキの「埴生」の「産業」の第一に挙げられてある「漁業」よれば、『埴生漁港(第』一『種)が所在する』(第一種は「漁港漁場整備法」によって五種に分類されるもので、第一種漁港は『その利用範囲が地元の漁業を主とするもの』と規定されている。詳しくは「鳥取県」公式サイト内の「漁港関係用語」を見られたい)。二〇一八『年時点の組合員数は』二十七『人、漁船数は』二十六『隻。陸揚げ量は属人・属地いずれも』五百十八・六『トンで、そのうち』、『貝類で』四百九十一『トンを占めていた。同年における陸揚げ金額は』零(ゼロ)円『であった』。二〇〇一『年時点では養殖:沿岸漁業 』が、八対二『の割合で操業しており、アサリの採貝を主としていた。同年における陸揚金額は約』二『億』千五百『万円であった』。『養殖は』一九八〇『年代時点ではノリ・クルマエビ・ガザミが中心であった』。『なお、埴生漁港には山口県漁業協同組合の埴生支店が置かれており、遅くとも』二〇二一『年までは山陽小野田市・下関市の周防灘側を統括する 「本山以西統括支店」の機能も有していた』とあった……。ストリートビューでは、港自体の近くの写真がないが、遠目に見えるところを見ても、船が極めて少ないのが判る。

「六十一匁」二百二十八・七五グラム。]

 

■「乾烏賊」「肥後國、字土郡《うとのこほり》

  松合村《まつあひむら》、松田又平より、

  十六年、『水産博覧會』に出品のもの。」

[やぶちゃん注:「肥後國、字土郡松合村」現在の熊本県宇城市(うきし)不知火町(しらぬひまち)松合(まつあい)。ここ

「松田又平」人名。]

 

■「乾烏賊」「凡、六分の一。

  長門國産。」

 

 

【図版5】

 

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「其の二圖」(前の「甲付鰑《かうつきするめ》各種の圖」の二図目。上罫外の標題)

 

■「乾烏賊」「凡、七分の一。」

 「周防國、熊毛郡室津《むろつ》産。

  此《この》もの、生鮮の時ハ、色、

  桔梗花《ききやうくわ》の如し。

  因《より》て、方言、『桔梗』と云ふ。

  四月より五月まで、捕𫉬す。明治五年、

  始《はじめて》、支那に輸出す。其《その》

  名を『番外《ばんぐわい》』と云ふ。」

[やぶちゃん注:この図の下には、キャプションのない、少し小さな図があるが、これは、どうも、この「乾烏賊」の腹側からのものを描いたもののように思われる。但し、触腕の先の吸盤部が左右の外を向いており、この図の個体をそのままひっくり返して描いたものでは、ない。

「周防國、熊毛郡室津」既出。ここ

「桔梗花」被子植物門双子葉植物綱キク亜綱キク目キキョウ科キキョウ亜科キキョウ属キキョウ Platycodon grandifloras の花である。]

 

■「塩乾烏賊《しほほしいか》」「凡、七分の一。」

 「三河國、愠豆郡《はづのこほり》

  宮嵜村《みやさきむら》の産。

  量、二十六匁。

  甲付の侭《まま》、裏を竹にて、ひらき、はる。」

[やぶちゃん注:「三河國、愠豆郡宮嵜村」この「愠豆郡」は一般には、「幡豆《はづ》郡」であるが、当該ウィキによれば、『古くは播豆、波豆、芳豆、芳図、者豆、などと表記した。名前の由来は地域内の式内社幡頭(はず)神社に由来するという説や、域内の礒泊(しはと)郷からハト、ハズに転訛したという説、停泊地を意味する『泊(ハク)』が訛ったという説などがある』とあった。しかし、「慍」(音「オン」)は、以上の異漢字の発音とは通性が感じられないので、疑問がある。ともかくも、同ウィキの「近世以降の沿革」及び「町村制以降の沿革」以下の記載を辿ってゆくと、現在の愛知県西尾市吉良町(きらちょう)宮崎(みやざき)が当該地区に相当することが判った。三河湾湾奥中央に当たる、ここである。

「二十六匁」九十七・五グラム。]

 

Nazonosurume_20250821132701

 

■「乾烏賊《ほしいか》」「凡《およそ》、七分《しちぶん》の一《いち》。」

 「長門國《ながとのくに》、企赤郡《……のこほり》柄田村《……むら》産《さん》。

  此《これ》、量《りやう》、百五十一匁《ひやくごじういちもんめ》。

  甲付《かうつき》の侭《まま》、開乾《ひらきぼし》としたるものなり。」

[やぶちゃん注:以下の通りであるため、特異的に当該図(国立国会図書館デジタルコレクションの底本の、ここの、左丁の中央の大型個体の図(本「鰑」(するめ)の図版中で二番目に大きな図である。汚損を清拭してトリミングした)を添えて、特異的に総てに、推定の読みを添えた。実は、この産地名のためだけに、二日間に渡って、延べ三時間以上の探索を敢行したが、全く分らない。お手上げである。まず、旧「長門國」には、「企赤郡」という郡名は存在せず、誤字として近似性のある郡名すら、ない、のである。一方、旧「長門國」に「柄田村」という村名も、存在しない。「長門國」に限らずに、この「柄田村」という村名だけで調べても、本邦には存在しないのである。

 本来ならば、極めて考え難いことだが、国名・郡名・村名の、全てが、誤っているとして、調べてみた結果では、一つ、旧「長門國」に近い所で、漁業を生業としている、

現在の福岡県北九州市門司区柄杓田町(ひしゃくだまち)

を挙げておく。ここである。言うまでもなく、ここは、旧「豐前國」の内である。「コトバンク」の平凡社「日本歴史地名大系」に「柄杓田村」があり、『ひしやくだむら』、『福岡県:北九州市(旧豊前域)門司区柄田村』、『現在地名』は『門司区柄杓田町・柄杓田』とし、『伊川(いかわ)村の東に位置する。北東の喜多久(きたく)村境となる岳(だけ)ノ鼻と、南部の元取(もとどり)ノ鼻がつくる入江がある。文永』九(一二七二)年十『月九日の門司六ヶ郷惣田数注文』(もじろっかごうそうでんちゅうもん)『写』(うつし)『(甲宗神社文書/』「鎌倉遺文」十五『)によると、伊川郷内に「田」二町五反などの名田』(みょうでん:平安後期から中世にかけて、荘園や国衙領(こくがりょう)の構成単位を成す田地。開墾・購入・押領(おうりょう)等によって取得した田地に、取得者の名を冠して呼んだもの)『が散在した。元和』(げんな)『八』(一六二二)『年』(家光の治世)『人畜改帳』(じんちくあらためちょう:江戸時代の戸口(ここう)調査に際して、「人別」(にんべつ)のみでなく、各戸で飼っている牛馬数も共に書き上げた帳簿。「家数人馬改帳」(いえかずじんばあらためちょう)とも呼ぶ。主に、江戸前期に農村で実際に働き得る労働力と畜力を把握し、幕藩領主権力の経済的基盤を確立するために作成されたもの)『に「栖杓田村」とみえ、高』五十『石、家数』十二、『人数』四十八『(うち加子』(かこ:水主(水手)・船頭。但し、以下の半公的な「川口番」(かわぐちばん)のそれであろう)『二・川口番』(出入りする船舶等の監視のために設けられた番所)『一)、牛二、牛屋二。郷村高帳』(ごうそんたかちょう:大名・旗本らの領主が、自身の領内の村名・村高を列記した帳簿。一般に領主の年貢収納の必要と、支配領域の確認のための原簿として作成された。また、将軍の代替りの際に幕府から新規の領知朱印状の交付を受けるために、その基礎資料として作成されて幕府に提出されたもの)『では高』百三十三『石余、うち』、『新田高一石余。幕末の各村覚書』(かくそんおぼえがき)『では本高』百三十一『石余、田九町余・畠三町六反余、物成』(ものなり:近世の農民の負担した年々の租税の一つ。「本年貢」を指す呼称として用いられ、雑税である「小物成」(こものなり)に対し、「本途物成」(ほんとものなり)などと称した)七十六『石余、竈数』(かまどかず)百三十四、『人数』六百六十六、『牛八、船』五十、『疫(えき)神社(』現在の『天疫』(てんえき)『神社』(ここ)『)・蛭子』(ここは「えびす」)『社』(「恵比須神社」として現存する。ここ)・『光照(こうしょう)寺(現浄土真宗本願寺派)』(ここ)『など』とある。

 なお、この★「柄杓田」が「イカ」と強い関係を持っている★ことが、判明している。「北九州市」公式サイト内の「観光・おでかけ」の「北九州市産水産物の直販所」のページに、『柄杓田日曜朝市「漁師の店ひしゃくだ」』の項があり、

   《引用開始》

日時:4月から12月の毎月第2,4日曜日 午前7から 売り切れ次第終了

場所:北九州市門司区大字柄杓田1420番地(柄杓田漁港内)

販売される主な魚:イカ(4月から6月)、スズキ(6月から8月)など

お問い合せ先:豊前海北部漁業協同組合柄杓田地区 093-341-8911

   《引用終了》

とあるのである。

 と言っても、私は、ここが、この図のキャプションの正しい地区であるとは、断定出来るものではない。全く別な、現在の山口県內に、

企赤郡柄田村

という場所が存在する可能性を探るべきだとは、思っている。しかし、流石に、この一件のために、作業全体が進行しないため、この項のみを、特別に事前に公開し、識者の御意見・御情報を、切に求めるものである。

「百五十一匁」五百六十六・二五グラム。]

 

■「墨魚《ぼくぎよ》」「清國。」

[やぶちゃん注:この図版で初めて載った、清国製の鯣(するめ)である。

「墨魚」既に注したが、現行のこれは、白水社の「中国語辞典」で「墨斗魚」は通称「墨魚」で、「スミイカ」・「コウイカ」とする。これは、十腕形上目コウイカ目コウイカ科 Acanthosepion 属コウイカ Acanthosepion esculentum である。]

 

■「烏賊乾紐《いかほしひも》」

 「長門國、厚狹郡埴生村《はぶむら》産。」

[やぶちゃん注:以上のキャプションで、図版の下方の隙間に嵌め込む形で触腕のみの四つの製品個体である。

「長門國、厚狹郡埴生村」【図版3】の■「干烏賊」で既出(そちらでは、地名漢字を間違っている)既注。]

 

■「乾烏賊」「凡、六分の一。」

 「肥後、天草郡《あまくさのこほり》大多尾村《おほたをむら》産。

  此《これ》、量、三十四匁。

  海螵蛸《かいへうせう》付《つき》

 [やぶちゃん注:格助詞「の」の脱落。]

  侭《まま》、乾《ほし》たもの。」

[やぶちゃん注:「肥後、天草郡大多尾村」現在の熊本県で最大の島である天草諸島の下島(しもしま)の南東に当たる、天草市新和町(ししんわまち)大多尾(おおたお)。ここ

「海螵蛸」【図版4】で既注済み。]

 

■「甲付乾烏賊」「凡、五分の一。」

 

■「乾烏賊」

 「是ハ、東京にて調整せるもの。

  肥後、天草郡大島子村《おほしまごむら》の産。

  此ものハ、海螵蛸を去り、串をハり、

  吊り乾《ほし》たもの。」

[やぶちゃん注:「肥後、天草郡大島子村」現在の熊本県の天草諸島の上島(かみしま)の北西に当たる、天草市有明町(ありあけまち)大島子(おおおしまご)。ここ。]

 

 

【図版6】

 

6_20250821132701

 

「水鰑《みづするめ》各種の圖」(上罫外の標題)

 

 

■「袋烏賊《ふくろいか》」「凡、九分の一。」

 「丹後國、與謝郡《よさのこほり》産。」

 

[やぶちゃん注:図は胴筒部の先端のみで、「えんぺら」も全く見えないもので、特異点である。

「丹後國、與謝郡」当時の「與謝郡」は、当該ウィキによれば、現在の伊根町(いねちょう)・与謝野町(よさのちょう)だけではなく、遙かに広域で、『宮津市の大部分(由良』(ゆら)『・石浦』(いしうら)『を除く)』・『京丹後市の一部(弥栄町』(やさかちょう)『須川』(すがわ)『・弥栄町野中』(のなか)『・丹後町大石』(おおいし)『)』・『福知山市の一部(雲原』(くもはら)『)』を含んでいた。同ウィキの地図を参照されたい。なお、『地元では「よさぐん」ではなく「よざぐん」と発音されることが多い』。二〇一一『年』三『月』十一『日に開通した山陰近畿自動車道与謝天橋立ICは、地元の読み方を尊重して「よざあまのはしだて」と命名されている。また』、『与謝野町内の地名「与謝」は行政上も「よざ」と読まれる』とあるから、地元に合わせるなら、「よざのこほり」と読むべきであろう。

「袋烏賊」この呼称は、ネットでは、掛かりそうで、掛かってこないが、複数のサイトで、京丹後で知られているものは「白イカ」で、これは、ケンサキイカの当地の通称名であることが確認出来た。

 

■「鰑」「凡、六分の一。」

 「肥後國、天草郡《あまくさのこほり》産。」

[やぶちゃん注:「肥後國、天草郡」当時の「天草郡」は、当該ウィキ地図によれば、現在の下島(しもしま)の北西端の熊本県天草郡苓北町(れいほくまち)だけではなく、下島・上島を中心とした天草市、及び、天草諸島東部の大矢野島(おおやのじま)・維和島(いわじま)を中心とした上天草市(かみあまくさし)を含んでいた。]

 

■「乾水烏賊《ほしみづいか》」「凡、七分の一。」

 「周防國《すはうのくに》、佐波郡《さばのこほり》野島《のしま》産。

  表《おもて》は竹を以《もつ》て、はりたるもの。」

[やぶちゃん注:「乾水烏賊」ミズイカという異名は、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」で検索すると、ヤリイカ・アオリイカ・ケンサキイカの異名とするが、この図を見るに、私は、乾してあるものとしても、胴が、かなり寸詰まりで、触腕以外の四対が甚だ短いところから、断然、アオリイカに同定するものである。

「周防國、佐波郡野島」これは、山口県防府市の瀬戸内海の周南諸島の一つである野島(のしま)である。ここ当該ウィキによれば、面積は〇・七三平方キロメートルしかなく、『住民は主に漁業で生計を立てており』、『戦前は対馬近海、東シナ海で、現在は周防灘を拠点として小型底引網、一本釣り漁をしている』とある。]

 

■「乾烏賊」「凡、五分の一。」

 「紀伊國、尾鷲《をわし》の産。」

[やぶちゃん注:この図も、胴上部と、頭部・脚部が切れており、触腕が長いが、全体に形状が前項と同じであるので、アオリイカに同定するものである。

「紀伊國、尾鷲」現在の三重県尾鷲市(おわせし)。ここ当該ウィキによれば、『市名は「おわし」と読まれることもあるが、地元では本来「おわしぇ」と読んでいたことから、それを標準語化した』『「おわせ」を市名に制定した』(公式制定は昭和二九(一九五四)年六月二十日)。『なお』、昭和一七(一九四二)『年に撮影された尾鷲駅の写真では「をわし」と駅名標に書かれている』(画像あり)とあるので、敢えて歴史的仮名遣の読みを「をわし」としておいた。

 

■「水鰑《みづするめ》」

 「肥前國、東松浦郡《ひがしまつうらのこほり》

  唐津《からつ》、外津村《ほかのわつむら》の産。

  花枝《くわし》の内鰭《うちひれ》を、

  背皮《せがは》と共に、

  剝《は》き[やぶちゃん注:ママ。]、

  反《かへし》たもの。」

[やぶちゃん注:「水鰑《みづするめ》」解説で「花枝」としているので、既に「(その4)」で述べた通り、「花枝」(カシ:huā zhīフゥァズー)は、現行でも、コウイカ類(コウイカ目 Sepiida)を指す中国語として生きていることから、日本近海に於いて、最も普通のコウイカ類であり、水産上、重要であるところのコウイカ(甲烏賊) Acanthosepion esculentum に形状の一致を見るので、同定比定してよい。

「肥前國、東松浦郡唐津、外津村《ほかのわつむら》」まず、「外津村」の本来の読みを探索することにした。すると、「河出書房新社・東京カートグラフィック/WEB版デジタル伊能図【お試し版】」の「旧地名-湊-佐賀県」のここで、「玄海町(現在の地名)」に「外津村(ほかわづむら)」とあった。但し、江戸時代の呼称であるから、確認が必要なので、「ひなたGIS」で調べたところ、ここの戦前の地図で、旧「値賀村」(ちかむら)の東北部の「外津浦」に『外津(ホカノワツ)』とあるのが、確認出来た。現行では「ほかわづうら」と読んでいる(「コトバンク」の平凡社「日本歴史地名大系」のここに拠る)。しかし、同地図では、カタカナのルビで濁音の場合は、ちゃんと打っているので、ここは清音で採った(久々に「ひなたGIS」の勝利だ!)。現在の佐賀県東松浦郡(ひがしまつうらぐん)玄海町(げんかいちょう)である。グーグル・マップ・データでは、ここである(「外津漁協」でポイントした)。]

 

■「鰑」「凡、八分の一。」

 「和泉國《いづみのくに》、界《かさひ》の産。」

[やぶちゃん注:「和泉國、界」言わずもがな、現在の大阪府堺市。本書刊行当時は、「大阪府堺區」。現行とは海岸線が全く異なるので、「ひなたGIS」で示しておく。]

 

■「鰑」「凡、八分の一。」

 「和泉國、界の産。」

 

■「鰑」「凡、八分の一。」

 「阿波國《あはのくに》、海部郡《かいふのこほり》牟岐浦《むぎうら》産。」

[やぶちゃん注:この地名は、現在も徳島県の南の太平洋に面した海部郡(かいふぐん)牟岐町(むぎちょう)牟岐浦(むぎうら)である。ここ。幾つかの島を含み、徳島県内最大の無人島大島、人の住む出羽島などがある。]

 

■「乾烏賊」「凡、六分の一。」

 「長門國産。」

 

■「藻烏賊《もいか》」

 「豊後國、北海部郡《きたあまべのこほり》

       保戸島《ほとじま》産。」

[やぶちゃん注:「藻烏賊」「(その4)」で既出既注であるが、再掲しておくと、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアオリイカのページの「地方名・市場名」に『モイカ』とあり、採集場所を『愛知県南知多(三谷)、三重県東紀州、高知県室戸市・宿毛市田ノ浦すくも湾漁協』とあった。

「豊後國、北海部郡保戸島」【図版1】の二つ目の『■「磨劔先鰑」』で既出既注。]

 

■「乾烏賊」「凡、九分。」

 「薩摩國、阿多郡《あたのこほり》

  中原村《なかはらむら》産。

  大なるハ、四十匁。

  水烏賊の、背より割り、

  乾するものなれば、

  脚《あし》、一方へ倚《よ》る。

  或《あるひ》は、

  左に、或は、右にあるも、あり。

[やぶちゃん注:「薩摩國、阿多郡《あたのこほり》中原村」現在の鹿児島県日置市の大字である吹上町中原(ふきあげちょうなかはら)。ここ。当該ウィキによれば、『旧』地名が『阿多郡伊作郷中原村、阿多郡伊作村大字中原、日置郡伊作町大字中原、日置郡吹上町中原』であった、とある。「ひなたGIS」の戦前の地図で、『伊作町』の『伊作』の地名を見出せる。脱線だが、ここは、私が偏愛する作家梅崎春生の、遺作となった「幻化」(リンク先は私のサイト版「幻化 附やぶちゃん注 (PDF縦書決定版)」(2,741B)。ブログ・カテゴリ『「梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】」』分割版もある)の後半の舞台の一つとなった「吹上浜」の一角である。春生が戦争末期に海軍の暗号特技兵として点々と海軍基地を移動した場所でもある。春生が、「桜島」でデビューする直前の昭和二四(一九四九)年一月号『文芸時代』に掲載された詩に、何んと、ズバり――「烏賊干場風景」(リンク先は私のブログ版)――という作品がある。是非、読まれたい。

 

 

【図版7】

 

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「其二の圖」(上罫外の標題。前の「甲付鰑《かうつきするめ》各種の圖」を受ける)

 

■「水烏賊乾《みづいかぼし》」

 「薩摩國、川辺郡《かはべのこほり》枕﨑村《まくらざきむら》の産。

  百四拾目。

  數《かず》、五枚を、一把《いちは》とす。」

[やぶちゃん注:「薩摩國、川辺郡枕﨑村」現在の鹿児島県枕崎市

「百四拾目」以下の「五枚を一把」としたものの重量で、「目」は「匁」に同じい。総重量五百二十五グラム。単品一杯で百五グラムということになろう。]

 

■「鰑」

 「肥前國、東松山郡《ひがしまつやまのこほり》

  平户村《ひらどむら》産。

  水烏賊、開乾《ひらきぼし》。

  量、六拾八匁。」

[やぶちゃん注:「肥前國、東松山郡平户村」(「户」は「戶」の異体字)これは、トンデモ・レベルの誤りで、

旧「肥前平戶藩」の旧「東松浦郡」(ひがしまつうらぐん)の旧「平戶村

をむちゃくちゃに書いたものとしか思われない。正しくは、

長崎県北部の北松浦郡内の平戸島にあった「平戶町」(ひらどちやう)

である。ウィキの「平戸町」によれば、明治二二(一八八九)年四月一日に(太字は私が附した。以下この注内では同じ)、『町村制の施行により、北松浦郡平戸町(近世の平戸城下)が単独で自治体を形成』したとあり、『同日、平戸村と度島村が合併し、北松浦郡平戸村が発足』し、『行政』は『平戸町・平戸村の町村組合による』ものとなった、という内容が書かれてある。

 さて、本書の刊行は明治一九(一八八六)年刊であるが、ウィキの「平戸町」の「歴史」の項の記載を見ると、以上より前の明治四(一八七一)、『廃藩置県で平戸藩が廃され』、『平戸県となり、さらに長崎県へ併合される』とあり、更に明治一一(一八七八)年に、『平戸村の一部(旧・平戸城下)が分立して平戸町とな』り、同年十月二十八日に、『郡区町村編制法の長崎県での施行により、現在の市域を含む松浦郡』一『町』四十九『村の区域に行政区画としての北松浦郡が発足』したとあるので、本書の著者河原田氏は、この辺りの錯綜した沿革を十全に理解していない状態で、迂闊に以上の訳の分からない、徹頭徹尾、架空の誤った地名をパッチワークしてしまったというのが、真相であろうと思われる。

「六拾八匁」二百五十五グラム。単品の鯣としては、かなり、重い。]

 

■[やぶちゃん注:この図には標題らしきものが、ない。]

 「薩摩、川辺郡《かはべのこほり》秋月産。

  藁《わら》にて、上を吊《つ》るもの。

  量、繩《なは》共に、四十六匁あり。」

[やぶちゃん注:「薩摩、川辺郡秋月」この地名にも致命的な錯綜がある。ウィキの「坊津町泊」(ぼうのつちょうとまり)の「歴史」の「近世の泊」に(太字・下線は私が附した)、『江戸時代には薩摩国河邊郡坊泊郷(外城)のうちであり』、『明治』二(一八六九)『年に坊泊』(ぼうどまり)、『久志秋目』(くしあきめ)、『鹿籠』(二字で「かご」と読む)『の』三『郷が合併し』、『南方郷』(みなみかたごう)『のうちとなった』。『石高は「天保郷帳」』(てんぽうごうちょう)『には』九百九十四『石余、「旧高旧領取調帳」(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう:明治初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代に於ける日本全国の村落の実情を把握するための台帳)『には』三百三十二『石余と記載されていた』。『伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」によると』、『家数は』二百九十七『軒あり、本村』四十『軒、泊浦』八十五『軒、茅野』百八『軒、平原』六十四『軒、その他』、『郷士』二十『軒があったと記されている』とし、さらに、『江戸時代後期に薩摩藩が編纂した地誌である』「三國名勝圖會」『に挿絵付きで泊港が収録されており、泊港について坊津の支港であり』、『琉球諸島に下る帆船は』、『ここで停泊して風を待ったと記載している』として全文の引用がある。私は、国立国会図書館デジタルコレクションの同書(五代秀尭・橋口兼柄編纂/一九八二年青潮社刊)の当該部で、正字表現のものを視認出来たので(ウィキの引用は新字で、しかも漢字に誤りがある)、以下に示す。一部、調べて、歴史的仮名遣読みを添えた(確認出来ないものの一部は推定)。【 】は二行割注。

   *

泊港《とまりみなと》【地頭館《ぢとうやかた》より北方、十七町許《ばかり》、】泊村にあり、唐港《とそ》[やぶちゃん注:現在の鹿児島市唐湊(とそ)のことと採った。ウィキの「唐湊」によれば、『「唐湊」という町名の由来は』、『この付近が唐の船が着いた湊であったという説や、この付近に唐人が住んでいたという説がある』とある。ここ。この泊のずっと北東の岬に「唐岬」(グーグル・マップ・データ航空写真)があるが、ここには港どころか、人家も全くない。「ひなたGISの戦後の地図で見ても、鬱蒼たる自然の岬に過ぎないので、あり得ない。]の支港なり、唐港の海口と一《いつ》にして、西尾の山觜《さんし》[やぶちゃん注:山並の曲がり角。]其中に隔《へだて》たり、兩港を分《わか》つ、此港の西北岸より、港內の西南へ、大巖觜《だいがくし》銳出すること五町許、丸木浦といふ、丸木崎[やぶちゃん注:ここ。]の東西共に大灣をなす、其西灣を丸木浦といふ【丸木浦の西の半は久志[やぶちゃん注:現在の鹿児島県南さつま市の坊津町(ぼうのつちょう)久志(くし)。]に属す、】、丸木浦の西大海の方は、久志の地觜西北より東南に突出し【觜長さ四町許、】、其觜端《したん》の海上大礁・小嶼《せうしよ》斷續相連りて【觜相連ること、四町許、】、海上を捍蔽《かんぺい》[やぶちゃん注:塞ぎ覆うこと。]す、故に丸木浦灣形をなして安嶴《あんわう》[やぶちゃん注:「安定した自然の囲い地」の意であろうと推定する。」]なり、入《いり》七八町、濶《ひろ》さ六町許あり[やぶちゃん注:湾奥に「丸木浜」を有する、この入江が「丸木浦」と断定してよいから、計測すると、この数値と一致する。]、且《かつ》海口《かいこう》に近くして、舟舶《しうはく》の出入に便なる故、琉球諸島に下る者、多く停泊して風を待《まつ》といふ、丸木崎の東灣を泊浦《とまりうら》[やぶちゃん注:ここ。]といひ、其渚を泊濱といふ、村落ありて、人烟《じんえん》頗る多し、泊浦入四五町、濶さ拾町許、然《しか》れども海淺くして、大船《だいせん》を繫《つな》ぎがたし、泊浦の東南に山觜あり、陸地より、西北海中に尖出すること一町許、宮崎といふ[やぶちゃん注:これは峰ヶ崎のことであろう。ここ。]、此《ここ》觜《かど》ある故、泊浦は灣をなす、宮崎に九玉大明神社《くだまだいみやうじんじや》あり[やぶちゃん注:峰ヶ崎の泊浦側の根っこのここに九玉神社がある。]、松樹森然たり、此觜端《かどはし》に洞窟ありて透明す[やぶちゃん注:調べたが、現存するかどうかも不明である。]、坊津御崎の圓洞[やぶちゃん注:私は梅崎春生の「幻化」の印象的なロケ地であるため、行きたく思うていたが、未だ未踏であり、この「坊津八景」の一つとされるものが、どこにあるのか、知らない。引用底本に『御嵜秋月』の絵が載る。]に比すれば稍《やや》小《ちさ》し、土人亦是を秋月《あきづき》と呼ぶ、宮崎の東南は、卽《すなはち》西尾[やぶちゃん注:この地名は「ひなたGISの戦前の地図でも確認出来ない。]にして、灣曲をなす、荒床浦といふ、灣內稍《やや》大船《だいせん》を繫《つなぐ》べし、又宮崎の海上西尾觜《はし》に接近して小嶼《しやうよ》あり。松嶼《まつしま》といふ[やぶちゃん注:この「松島」は「坊ノ岬」の半島中部の南東にある。されば、不明の「西尾」という地名は、この坊ノ崎半島の坊津町坊、及び、その南西の半島を含んだ広域でなくてはならないことになる。「ひなたGISのここで見られたい。]。此泊港《とまりみなと》も巖礁亂點し、山觜橫出して、景色頗る佳なり、

   *

さて、問題は「川辺郡秋月」である。以上で検証した結果、「川辺郡」は、現在の鹿児島県南さつま市であり、当該ウィキによれば、「秋」の附く地名その他は、秋目浦(あきめうら)・坊津秋目湾(ぼうのつあきめわん)・沖秋目島(おきあきめじま:島嶼名)・坊津町秋目(ぼうのつちょうあきめ:正式地名)だけであり、「秋月」という地名は存在しない。「ひなたGIS」の戦前の地図で、私が最大公約数の範囲内として探索した、この海岸線を、総て精査したが、「秋月」と言う旧地名は存在しなかった。かといって、先の引用に出てくる、『土人』、『亦』、『是を秋月《あきづき》と呼』んだというのを、河原田氏が地区名に用いたとは考えられない。寧ろ、「秋目」と書かれたものを、「秋月」と誤判読したとすべきであろう。

 則ち、この「秋月」は、鹿児島県南さつま市現在の坊津町秋目(ぼうのつちょうあきめ)の誤記である。ここである。

 さて、ウィキの「坊津町秋目」は特異的に記載が豊富である。それによれば、天平勝宝五(七五三)年に『唐から渡海し』、『のちに日本の律宗の開祖となる「鑑真」が』、『日本本土に初めて上陸(漂着)した地とされる。江戸時代には薩摩藩の重要な湊であり、琉球や日本海沿岸、蝦夷との交易や、唐との密貿易の拠点となった』とある(と言っても、『先の「三國名勝圖會」の「唐港」は、ここに比定すべきではないか?』と言われる御仁がいたとしたら、それは、あり得ない。薩摩藩が編纂した地誌で、唐との密貿易の拠点であるなどと言うはずがないからである)。以下に「沖秋目島」の独立項があり、『秋目港から約』四『キロメートル沖合、野間岬から』八『キロメートルにある』現在は『無人島である』。『面積は約』〇・三九『平方キロメートル、周囲は約』四『キロメートルである。第二次世界大戦終戦前までは』三『世帯が居住しており、半農半漁の生活を営んでいたが』、昭和二五(一九五〇)年『頃に無人島となった』。『沖秋目島にはビロウが自生しており、枇榔島(蒲葵島)』とも呼ばれる』(老婆心乍ら、同名の「蒲葵島」(びろうじま)が高知県幡多(はた)郡大月町(おおつきちょう)の、ここにあるので注意されたい)。「三國名勝圖會」『では沖秋目島(三国名勝図会では「蒲葵島」とされている)の由来と』、『島内にある戸柱大明神について以下のように記述されている』とあるが、以下、先の国立国会図書館デジタルコレクションの当該部で示す。読みは同前(一部は論文のルビを参考にした)。

   *

蒲葵(ビロウ)島【秋目港より海上一里、西北にあり、】秋目村に屬す、周廻《しうくわい》凡そ一里、蒲葵樹甚《はなはだ》多し、故に名を得たり、往古は此島を秋目島といふ、又島の邊群魚の聚《あつま》る所にて、漁釣《ぎよちやう》に利ありといふ、此島に戶柱大明神祠《とばしらみやうじんのほこら》あり、祭神素盞鳴尊、稻田姬命、祭祀六月十五日、此島の海上に暗礁あり、昔時《せきじ》唐土《もろこし》の舟舶《せんぱく》、其暗礁に觸れて危殆《きたい》[やぶちゃん注:非常に危ないこと。]なりしが、舟人《ふなびと》戶柱神《とばしらがみ》に禱《いの》りしに、神力《しんりき》を以《もつ》て其難を免《まぬか》れ、長崎に至り、鎭臺《ちんだい》に狀啓(ヒラウ)す[やぶちゃん注:「狀啓」は中国語で、主に目上の人に対し、ある事柄を申し述べる際に用いる文書形式で、古くは公的文書や手紙の冒頭に用いられた。読みは歴史的仮名遣が間違っているが、「披露」であろう。]、鎭臺是を本藩[やぶちゃん注:薩摩藩。]に告ぐ、此後《こののち》官より祭米《さいまい》[やぶちゃん注:「戶柱大明神祠」の神への供え物。]を給與せられるといふ、其事《そのこと》棟札《むなふだ》[やぶちゃん注:神社の棟木に取り付けたそれ。]に記せり、

   *

とある。以下、引用に戻る。『秋目のうちとされていた浦町である秋目浦は』「諸鄕村附並浦附」(しょごうむらづけならびにうらづけ)『などに登場しており』、『弁才船を含め』、七十四『隻余りの交易船と漁船を有する港町であった。琉球や日本海沿岸、蝦夷などと交易をしていたほか』、『漂流船を装った唐船と交易をしていたとされる』。『鎖国制度が取られて以降も享保年間に発生した「享保の唐物崩』(からものくず)『れ」と呼ばれる幕府の一斉摘発まで』、『交易による賑わいは続いたという』。『また、交易のほかにカツオ漁が盛んであり、江戸時代には親方と呼ばれる船主を中心とする漁業が行われていたという。大正時代になり』、『秋目の漁民の共同船が沈没する事故が発生し』、『その後』、『没落したという』とあった。以下、「近代以降の秋目」の項の、昭和二八(一九五三)年に、明治二二(一八七九)年に町村制が施行されたのに伴って変更されていた『西南方村』(にしみなみかたむら)『が名称を変更し』、『坊津村(ぼうのつむら)となり、坊津村の大字となった』のだが、そ『の村名変更に際して「坊津村」への名称変更を推進する坊と泊の住民に対して、秋目と久志の住民は「坊津以外であれば何でもよい」として反対した』という騒ぎの記載は、民俗社会の騒擾事件として甚だ興味深いのだが、もう既に、ここまでの注だけで、膨張してしまっているので、カットする。是非、読まれたい。ともかくも、この沖秋目島の嘗つて漁民もイカを漁していたに違いないから、ここで、この島に言及しておくのは正当であると考える。

 

■「水烏賊鰑」「凡、十分の一。」

 「長門國、阿武郡《あぶのこほり》

  萩《はぎ》濵﨑村《はまざきむら》産。

  現品、四十九匁の量あり。」

[やぶちゃん注:「長門國、阿武郡萩濵﨑村」現在の山口県萩市浜崎町(はなさきまち)。ここで、萩港(漁港)の後背に見えるが、この萩港は、新たに追加造成されたもので、ここから北西に二キロメートル程離れた、萩市椿東(ちんとう)にあるのが、本来の萩港である。「ひなたGIS」の戦前の地図を見られたい(そこでは沖合)『萩港』とあり、湾奥に『戎ヶ鼻港』(えびすがはなみなと)とある。実は、ここは、幕末に萩(長州)藩に対して、幕府が大船の建造を要請し、ここに軍艦製造所を建設した(「史跡」名では「恵美須ヶ鼻造船所跡」という表記になっている。こちらの方が、より古い正しい表記と思われる)のであった。「萩市観光協会」広域サイト内の「恵美須ヶ鼻造船所跡」を見られたい。

「四十九匁」三百五十二・五グラム。かなり全体の身が詰まった鯣であることが判る。]

 

■「乾烏賊」

 「長門國、豊浦郡《とよら/とようらのこほり》

  神田下村《かんだしもそん》の産。

  水いかの開乾にして、

  皮を剝き[やぶちゃん注:ママ。]、

  反翻《かへしひるがへし》たもの。

  支那輸出の名『丸形鰑』と云ふ。

  伹《ただし》、軟骨を去るもの。」

[やぶちゃん注:「長門國、豊浦郡神田下村」ウィキの「豊浦郡」によれば、「和名類聚鈔」に『「止与良」とあるように、当初は「とよら」と読まれていた』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板本の、ここで、確認した。また、村名の「しもそん」の読みは、ウィキの「神田村(山口県)」に拠った。現在の豊北町大字神田。ここ。]

 

■「水烏賊」「凡、六分の一。」

 「對馬國、下縣郡《しもあがたのこほり》梯原村産。」

[やぶちゃん注:「對馬國、下縣郡梯原村産」対馬に「梯原村」「梯原」という地名は存在しない。当初、「嚴原」、対馬の中心地である現在の長崎県対馬市厳原町(いづはらまち)の厳原港(いづはらこう:ここ)の誤りと思ったのだが、「嚴」を「梯」に誤記するのは、通常考えても、読みからも、おかし過ぎると感じた。而して、調べたところ、指示したグーグル・マップ・データの北部分に出てくるが、現在、陸上自衛隊対馬駐屯地が置かれ、歴史的には、「朝鮮通信使幕府接遇の地」=「桟原屋形跡」(さじきばるやかた/さじきばらやかた)が残る(サイド・パネルの、この画像の標示柱を見よ)、厳原町桟原(さじきばら)の誤記ではないか? という思いが起った。ここは、東の阿須湾漁港(あずわんぎょこう)から一キロメートルも離れていないのである。但し、「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、この港らしきものはなく、代わりに、発電所の記号がある。しかし、サイト「全国漁港Navi」の「つりぺぐ」氏の記事「阿須湾漁港」に、『阿須湾漁港は長崎県対馬市厳原町東里』(ひがしざと)『にある第』一『種漁港です。対馬の南部にあり、美しい阿須湾に面しています。阿須湾漁港は、地元の漁師たちが新鮮な魚介類を水揚げする重要な港で、地域の水産業を支える拠点となっています。阿須湾漁港がある対馬島は、九州と朝鮮半島の中間に位置し、豊かな自然に囲まれた美しい島です。この島は原生林が広がり、リアス式海岸の美しい景観が特徴です。対馬島の自然は多様で、釣りを楽しむだけでなく、トレッキングや自然観察なども楽しむことができます』とあった。ここの「阿須浦」周辺に漁民がおり、その中の漁師が「桟原」へ運んで、鰑加工をしていたとしても、なんら、不自然ではない。私は、この「桟原」誤記説を採る。因みに、「(その2)」の「さどいか」の注で、アニサキス症のことを書いたが、そこで、対馬の知人の話を書いたが、この方は、厳原の名家の出身で、イカ釣りが非常に好きな方なのである(この方、実は著名な美容師である)。]

 

 

【図版8】

 

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「烏賊柔魚各種之圖」(上罫外の標題。「柔魚(じうぎよ)」に就いては、「(その3)」を参照されたい。それを見ると、日中の本草書、及び、河原田氏の「柔魚」の種認識には、かなりのブレがある。それは、以下、十七の図を見ても歴然としている。但し、★河原田氏は「(その4)」の後半部で『柔魚(じうぎよ/するめいか)』と右左ルビを振ってしまっているのである★。而して、特に最後の西岡純先生から御教授戴いた追加注(現代中国では柔魚はアカイカ科Ommastrephidaeに使われている事実)は、必ず、見られたい)なお、これ以下の最後に二図は、ご覧の通り、今までにない、図内で、縦横の細い罫線が引かれてあるので、それに従って解説する)

 

■「やりいか」

 「一名『しやくはちいか』。

  凡、五分の一。」

         「軟骨」

[やぶちゃん注:最後の「軟骨」は右下方に描かれたものへのキャプション。製品の鰑から外して示したものである。軟骨は、足の上の頭部內にあって、脳や目を衝撃から守っているものである。コリコリした食感で、珍味である。

「やりいか」「一名『しやくはちいか』」「(その2)」で注したが、再掲しておく。「尺八烏賊」は、現行では、ヤリイカ科 Heterololigo 属ヤリイカ Heterololigo bleekeri の異名として知られ、私は他の種の異名としては知らない。或いは、ヤリイカと誤って、よく似ている別属の、ヤリイカ科ケンサキイカ属ケンサキイカ Uroteuthis  Photololigo  edulis をそう呼称している、或いは、していた地方があっても、おかしくはないとは思う。

 

■「ことういか」「一名、『すんどいか』。」

 「凡、五分の一。」

        「軟骨」

[やぶちゃん注:「軟骨」は前項と同じキャプション。左下方に描かれてある。

この「ことういか」は「ごとういか」が正しい。「ずんどいか」は「ずんどういか」の縮約名。「(その2)」の注で種考証をした。これらに関しては引用すると、結構、長くなるので、そちらの「ごとういか」と「ずんどういか」を見られたい。そこでは、ケンサキイカとジンドウイカを候補としたが、鯣になった状態では、判別する自信がないが、考証過程に基づくと、ジンドウイカを支持したい。

 

■「ばしやういか」「凡、三十分の一。」

[やぶちゃん注:「(その2)」で比定済み。「芭蕉烏賊」でアオリイカの異名。鰑になっても、そのガタイをよく示している図になっている。]

 

■「まするめいか」「凡、十分の一。」

             「軟骨」

[やぶちゃん注:「軟骨」は同じくキャプション。右下方に描かれてある。前後の三図も同じなので、この注は省略する。

「まするめいか」「(その4)」の終りで、河原田氏は、『今、柔魚を區別するに當り、普通のものを、豆相(づさう)地方に於(おい)て、「まいか」と唱(となふ)れども、眞烏賊(まいか/かういか)と混ずるを以て、假(かり)に「まするめいか」と名けたり』と述べている。図の本体図と軟骨を見るに、確かに、スルメイカである。]

 

■「つゝいか」「凡、六分の一。」

             「軟骨」

[やぶちゃん注:「つゝいか」図は、ここの左右の個体の図と比べると、スケール比の数値を勘案しても、どうもこの個体、胴が、やや短く描かれているように見えるので、個人的には、ツツイカ目開眼亜目アカイカ科アカイカ亜科スジイカ属スジイカ Eucleoteuthis luminosa に比定した気持ちがする。

 

■「しやくはちいか」

 「東京。」

 「凡、六分の一。」

             「軟骨」

[やぶちゃん注:本「図版8」の冒頭の『「やりいか」』『「一名『しやくはちいか』」』に同じ。]

 

■「すぢいか」「凡、三分の一。」

             「軟骨」

[やぶちゃん注:スケール比が小さいことから、前の前と同じくスジイカとしたい。

 

 

【図版9】

 

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「其の二 縮寫減數ハ体長直經を以てす以下倣之」(上罫外の標題。「体長直經」は胴体長(生物学的には「外套長」が正式)を指す。最後は、「以下」の「昆布の說」以下の図版でも「之(これに)倣(ならふ)」と断っているのである)

 

■「ひいか」 「雄」 「凡、三分の一。」

 

 「同 雌」          「軟骨」

[やぶちゃん注:この二個体の図は罫線に囲まれてある。

「軟骨」は二個体の中央下方にある、軟骨部の図の下にあるキャプション。

「ひいか」漢字表記は「雛烏賊」。「(その4)」の私の決定版の注を再掲する。これは、まず、基本、ヤリイカ科ジンドウイカ(神頭烏賊・磁頭烏賊)属ジンドウイカ Loliolus ( Nipponololigo ) japonica のジンドウイカの広範な異名である。但し、株式会社安岐水産公式サイト「あき水産活魚部」内の「【いか情報】小さいけれど旨味は抜群!ヒイカ(ジンドウイカ)」の、「ヒイカの名前の由来」の項に、『ヒイカは漢字で「火烏賊」と記し、灯の明かりに寄ってくる習性に由来します』。『また、ヒイカは市場に流通する小型のジンドウイカ類の地方名だそう』。『ヒイカには、標準和名のジンドウイカ、ヒメジンドウイカ、ベイカ』(ヤリイカ科ベイカ Loliolus  Nipponololigo  beka )、『ケンサキイカ、ヤリイカなどの胴長約』十五センチメートル『以下の小型のジンドウイカ類が複数種含まれているようです』(☜要注意!)。『ジンドウイカの名前の由来は、弓矢のヤジリの一種「神頭(じんどう)」に似ていることが名前の由来と言われているそうです』。『「神頭」とは先が平らになった的矢や鏃のことを意味し、ジンドウイカの胴体とみみ(鰭)を合わせた形が「神頭」に似ていると思われます』とあり、「ヒイカの生息域」の項に、『ヒイカは北海道から九州までの日本各地に分布しており、水深50メートルまでの浅い内湾で生息しています』。『また、水深』一『メートルから』十『メートルくらいの内湾で春から夏に産卵します』。『ヒイカは昼間に海底直上を遊泳していることから、主に底引き網で漁獲されます』とある。異名の由来と対照種群を、ここまで、しっかりと記されたものは、ネットでは稀有である。

全国いか加工業協同組合」の『新編・世界イカ類図鑑』のここPDF)にある解説を引用しておく。

   《引用開始》

ML 12cm.小型で短いヤリイカ型.腕のうち,IIIII腕が特に太く且つ吸盤も大きい.腕の中央付近の大吸盤の角質環の歯は 低い半円形でIIV腕では36枚,IIIII腕では911枚.触腕の吸盤は4列で,中央付近の大吸盤の角質環歯は同様に半円形で1823個あるのが特徴(但し先端方の吸盤環には鋭歯がある).雄の左IV腕は交接腕で先端寄りの2/3は吸盤を欠き肉嘴列が保護膜で癒着して柵状となっている.発光器をもたない.北海道以南の日本各地の浅海.

   《引用終了》

因みに、「ML」は“mantle length”で「外套長(胴体長)」を指す。生物学では「腕」(うで:慣習上、「足・脚」ではなく、「腕」と呼ぶ)の指示方法は、タコ(軟体動物門有殻亜門頭足綱鞘形亜綱八腕形上目八腕形目 Octopoda)やイカ(鞘形亜綱十腕形上目 Decapodiformes)からなる鞘形亜綱Coleoidea(鞘形類・二鰓類)では、背側から腹側に向かって、左右それぞれ第Ⅰ腕・第Ⅱ腕・第Ⅲ腕・第Ⅳ腕の四対の腕が口を取り囲むように並び、更に、イカ類では、通常は第Ⅲ腕と第Ⅳ腕の間から「触腕」(しょくわん)と呼ばれる一対の特殊な腕が伸びる(太平洋の冷たい亜寒帯海域に広く分布する開眼目テカギイカ科ドスイカ属 Berryteuthis には触腕を欠く種がいる)なお、図でないと判り難いので、『新編・世界イカ類図鑑』のここにある「頭足類の分類」の「A. 形態分類用語」を見られたい。

 さて、この図、今までにない、雌雄の鯣個体を描いているのだが、これは、生物学的に極めて細部を描いて示そうとしている点で、注目に値するものでは、ある。しかし乍ら、この図では、そうした交接腕の細部を描き得ては全くおらず、雌の方の触腕の胴側の根元部分に奇妙な剥離した箇所が両方に描かれていること、雌の触腕先端の吸盤部の吸盤が有意に胴側で欠損して描かれている点しか、私には感得出来なかった。しかし、このような雌の性的変異は本種には存在しない。恐らくは、博覧会に出品した漁業関係者の誰彼が、漁師が言っている誤った雌雄の弁別法(こうした非科学的な誤認認識や思い込みは、今でも一般人の間に存在している。一種の生物学的都市伝説の類いである)を河原田に伝え、専門の生物学者に確認をとらずに成したものではないか? と推理されるのである……非常に――残念だ!……

 

■「あふりいか」「凡、十分の一。」

 「又、名、『水烏賊』。

  又、『藻烏賊』。」

           「軟骨」

[やぶちゃん注:この図も罫線に囲まれてある。

「軟骨」は右中央にある軟骨部の図の右にあるキャプション。

「水烏賊」「藻烏賊」ともに本記事で既出既注。]

 

■「みゝいか」「凡、二分の一。」

[やぶちゃん注:「みゝいか」「(その2)」の私の注を見られたい。この図も、罫線で囲まれている。河原田先生も流石にキュートなフォルムで、『……何も何も、小さきものは、みな、うつくし……』ときたわけだな……]

 

[やぶちゃん注:以下は最後の余白に六個体(それぞれ、右下方に「海螵蛸內面」のキャプション附き。「海螵蛸」は【図版4】で注済み)。右から左、上から下の順序で示す。]

 

■「しゝいか」「凡、三分の一。」

       「海螵蛸內面」

[やぶちゃん注:コウイカ目コウイカ科コウイカ属 Doratosepion 亜属シシイカ Doratosepion peterseni 「(その2)」の私の注を参照されたい。]

 

■「すじいか」「凡、三分の一。」

       「海螵蛸內面」

[やぶちゃん注:「すじいか」の表記はママ。何度も言っている通り、「筯烏賊」であるから、「すぢいか」が正しい。既出既注のツツイカ目開眼亜目アカイカ科アカイカ亜科スジイカ属スジイカ Eucleoteuthis luminosa 。]

 

■「まいか」「凡、六分の一。」

       「海螵蛸內面」

[やぶちゃん注:「まいか」「図版8」の「まするめいか」を参照されたい。]

 

■「しりやけいか」

       「海螵蛸內面」

[やぶちゃん注:「しりやけいか」「尻燒烏賊」で、「(その2)」の私の注でさんざん示した、コウイカ目コウイカ科 Sepiella 属シリヤケイカ Sepia japonica である。]

 

■「ほしいか」

       「海螵蛸內面」

[やぶちゃん注:この図、胴の左右と中央に亀甲紋を、かなり上手く描いた特異点である(そもそも、河原田氏の絵は、上手い!)。ここまで亀甲紋が綺麗にスルメ状態で残るというのは、一般人は「モウゴウイカ」(紋甲烏賊)と呼んでいるところの、

コウイカ目コウイカ科 Acanthosepion 属カミナリイカ Acanthosepion lycidas

であろう。しかし……私は、文字通り――こんなに絵に描いたような亀甲紋を持ったカッチカチの「するめ」は、食ったことも、見たことも、ない、人種である。

 

■「はりいか」

       「海螵蛸內面」

[やぶちゃん注:コウイカ目コウイカ科 Acanthosepion 属コウイカ Acanthosepion esculentum の異名。「(その2)」の私の注を参照されたい。]

2025/08/14

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「大風雨遲速」

[やぶちゃん注:底本はここ。句読点・記号を追加した。]

 

 「大風雨《だいふうう》遲速《ちそく》」 安倍郡府中にあり。傳云《つたへいふ》。「明和九年八月二日、未《ひつじ》の尅《こく》より、雨、降《ふり》、酉《とり》の尅に到《いたり》て、大風雨となる。御城內、及び、市中《いちなか》、家屋を轉倒し、門・壁を破壞す。諸木《しよぼく》、是が爲に、根を、かへし、臥《ふす》事、數千《すせん》、亥《ゐ》の尅、漸《やうや》く、止む。抑《そもそも》此風雨の起《おこ》る遠州荒井以西は、其時尅、早く、以東は遲し。」。

 

[やぶちゃん注:「明和九年八月二日」グレゴリオ暦一七七二年八月三十日。なお、この年の十一月十六日(同前で一七七二年十二月十日)に安永に改元している。徳川家治の治世。

「未の尅」午後一時から三時。

「酉の尅」午後五時から七時。

「亥の尅」午後九時から十一時。

「遠州荒井」現在の静岡県湖西市(こさいし)新居町(あらいちょう)新居(グーグル・マップ・データ)。浜名湖が遠州灘と繋がる「今切口」(いまぎれぐち)の西岸に当たる。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「怪雲」

[やぶちゃん注:底本はここ。句読点・記号を追加した。「□□」は脱字。原本では長方形二字分。]

 

 「怪雲」 安倍郡府中にあり。傳云《つたへいふ》。「延寶八年十一月朔日《ついたち》、黃雲《かううん》、御城の□□方に出《いづ》。其中《そのなか》、白く、筋《すぢ》の如くにして、大星《おほぼし》あり。其丈《そのた》け、二町計《ばか》り、幅八尺計り也。每夜、出現する事、凡《およそ》六十餘日、其形《そのかた》ち、日を追《おひ》て、圓《まろ》く、終《つひ》に失《しつ》す。」。

 

[やぶちゃん注:「延寶八年十一月朔日」グレゴリオ暦一六八〇年十二月二十一日。なお、この六ヶ月前の延宝八年五月八日、第四代将軍家綱が満三十八歳で病没し、綱吉が就任している。調べてみると、この時期となると、候補として最も相応しいのは、「こぐま座流星群」で、当該ウィキによれば、十二月十七日から同月二十五日、或いは、二十六日まで約一週間続く、とある。「ふたご座流星群」も、この時期に近いが、当該ウィキによれば、十二月五日頃から同月二十日頃にかけて出現し、同月十四日前後に極大を迎える、とあるので、第二候補か。方角が落ちているのが、残念!]

2025/08/13

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(一)鰑の說(その4)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。

 底本はここの左の「七」ページの五行目から。

 

本邦の沿海に生息する烏賊(うぞく)・柔魚(じうぎよ)は凡(をよそ[やぶちゃん注:ママ。])二十餘種あり。然(しか)れども從來より鰑となしたるは「けんざぎ[やぶちゃん注:ママ。]」「するめいか」の二種なれども、近年に至りては「さ〻いか」「ぶといか」「かういか」「あふりいか」をも製せり。是(これ)皆(みな)中外(ちうぐわい)[やぶちゃん注:国内と国外。]の需用に供し、國家に廣益ある所のものなりとす。花枝(あふりいか)を乾製したる丹後の袋烏賊(ふくろいか)の如きは、品質・製造共に佳良にして、往古(わうこ)、之を朝貢(ていこう)に備へ、舊幕府への献品(けんひん)となして著名なるも、其價(あたひ)、貴(たか)く、且つ、產額(さんかく[やぶちゃん注:ママ。直ぐ後に濁音でルビがあるから、「さんがく」の誤刻である。])、頗る僅少(きんしやう)なり。長門、對馬、豐後、肥前、肥後等に於ては、之を水烏賊(みいか)、又、藻烏賊(もいか)と唱へ、胴を割り、乾製するを、丸形鰑(まるかたするめ)と稱す。支那輸出品の一(いつ)に居(を)るも「けんざき」「するめいか」の二種に及ばず。又、烏賊(うぞく)、卽ち、甲烏賊(こういか[やぶちゃん注:ママ。])は、近年、中國(ちうこく)・九州、及び、其他にて乾製(かんせい)となし、淸國に輸出すと雖ども、創始の日、淺く、產額(さんがく)、多額(たかく[やぶちゃん注:ママ。誤刻。])ならず。然れども、淸國の需用は、甚だ、廣きものなれば、將來、大(おほひ)に望みあり。此外、雛烏賊(ひいか)、耳烏賊(みみいか)等(とう)の如きは、形、小にして、肉、薄く、乾製に適せざれば、煮食(しやしよく)の用に供するに過ぎず。乾章魚(ほしだこ)も、古昔(こせき)は『順留女(するめ)』と唱へしこと、あり。「和名鈔」にも『小蛸魚(しやうせうぎよ)』を『順留女(するめ)』と訓(くん)し、是も亦、「延喜式」に載せ、大膳(だいぜん)に供し、七五三の賀繕(がぜん)に用ふる所の佳物(かぶつ)にして、往古(をほこ[やぶちゃん注:ママ。「わうこ」が正しい。])より、各地に於(をゐ[やぶちゃん注:ママ。])て乾製し、其產出・所用も鯣に亞(つ)ぎ、淸國人の尤(もつとも)欲(ほつ)する所のものたり。而して、劍先鯣(けんさきするめ)は中國・九州に多く、就中(なかんづく)、肥前の五島を著名とし、肥前、對馬、長門等(とう)、產額、最も多く、出雲、石見、周防、筑前、肥後、伊豫、豐後、薩摩等、之に亞(つ)く[やぶちゃん注:ママ。「ぐ」の誤刻。]。而して、東國に至るに從ひ、其產、多からず。奧羽、渡島(としま)等に至りては、之を見ること、甚だ稀にして、曾て、鯣に製したるものあること、なし。唯(たゞ)去(さる)明治十六年、水產博覽會に、羽前國(うぜんのくに)西田川郡(にしたがはこほり)溫海村(をんかいむら[やぶちゃん注:ママ。私の後注参照。])より出品の丸乾(まほし[やぶちゃん注:ママ。])を見るのみ。柔魚(じうぎよ/するめいか)の產地は、全く、之に反す。面して、乾製となし、巨額を占むるは、伊豆・佐渡・渡島・陸中の四國(しこく)にして、相摸・紀伊・伊勢・阿波・土佐・備前、長門、對馬、若狹、石見(いはみ[やぶちゃん注:ママ。])、隱岐(をき[やぶちゃん注:ママ。])、越前、越中、加賀、越後、陸前、陸奧、後志(しりべし)等、之に亞(つ)ぐ[やぶちゃん注:「く」であるが、誤刻と断じて訂した。]。此他(このた)の諸州も、多少、漁獲せざるに非ざれども、或は、得る所、寡(すくな)く、或は、製方を知らず、或は、都會に接近し、販賣の便(べん)なる等(とう)により、乾製をなさゞる、あり。而して、各地に製する所、形狀、一樣ならざるは、製造の異(ことな)るによると雖も、亦、種類(しゆるひ[やぶちゃん注:ママ。])の同(おなじ)からざるによるか。今、柔魚を區別するに當り、普通のものを、豆相(づさう)地方に於(おい)て、「まいか」と唱(となふ)れども、眞烏賊(まいか/かういか)と混ずるを以て、假(かり)に「まするめいか」と名けたり[やぶちゃん注:「なづけたり」。]

 

[やぶちゃん注:「本邦の沿海に生息する烏賊(うぞく)・柔魚(じうぎよ)は凡(をよそ[やぶちゃん注:ママ。])二十餘種あり」少し古いが、所持する『日本動物大百科』「第七巻 無脊椎動物」(日高敏隆監修/奥谷喬司・武田正倫・今福道夫編集/初版一九九七年平凡社刊・初版)の、「イカ・タコ類」の窪寺常巳氏の解説に拠れば、冒頭で、『世界の海洋から今までに, コウイカ類で150180, ツツイカ類で240280, 八腕形類で約200種が報告され、日本近海には, そのうちの165種前後が分布している』とし、「日本のイカの代表・スルメイカ」の条で、『日本近海には約100種のイカ類が知られている』とされ、『戦後の食糧難のころには, 年間50万~70t も水揚げされ, その後, 個体数が減少し, 80年代には10 t を割るようにな不漁もあったが, 最近は20 t 前後と比較的安定している. 日本のイカ消費量の約 3 分の 1 を、まかなっているもっとも重要なイカである』とある。新しいものでは、サイト「地域の入れ物」の「いかの漁獲量の都道府県ランキング(令和2年)」があり、『全国計は82,180tですが、トップは青森県の18,557tで、シェアでは22.6%となっています』。『2位は北海道で13.4%3位は長崎県で8.0%のシェアとなっています』とあって、『なお、イカといえば、佐賀県の呼子が有名ですが、漁獲量では佐賀県は25位となっています』とあった。因みに、サイト「都道府県別統計とランキングで見る県民性」の「都道府県別イカ消費量」が、なかなか面白い。統計ジャーナリスト久保哲朗氏の執筆で、『年による変動が考えられるので2012年から2016年の平均値をとっている』とあり、『1世帯あたりのイカ消費量の全国平均は2,058g。消費量が最も多いのは青森県で4,533g2位以下は秋田県、新潟県、富山県、鳥取県の順。最も消費量が少ないのは沖縄県で809g。これに香川県、熊本県、鹿児島県、宮崎県と続いている』。『分布地図を見ると』、『東北と日本海側で消費量が多い。これらの地域はイカの漁獲量も多い地域で、漁獲の多さが消費の多さに結びついているようだ』。『相関ランキングでは魚介類消費量と正の相関があり、イカの消費量が多いところは魚介類消費量も多い』。『また、年間降雪量と正の相関があり、年間晴れ日数と負の相関があることから、晴れの日が少なく降雪量が多いところでイカの消費量が多い』とあった。

「けんざき」既注済みの、

十腕形上目ツツイカ(筒烏賊)目閉眼亜目ヤリイカ(槍烏賊)科ケンサキイカ(剣先烏賊)属ケンサキイカ Uroteuthis Photololigo edulis

であるが、同種には、見た目の形状が有意に異なる二型があり、

  メヒカリイカ型(「目灯烏賊」・「目燈烏賊」・「目光烏賊」か?)

  ゴトウイカ型(恐らく「五島烏賊」である。ケンサキイカは、本邦では九州では「ゴトウイカ」と俗称されるが、本州中部以南・東南アジア一帯に分布し、特に五島列島周辺で多く漁獲されるからである)

が存在する。

「するめいか」同じく既注済みの、

開眼亜目アカイカ(赤烏賊)科スルメイカ亜科スルメイカ属スルメイカ Todarodes pacificus

である。

「さ〻いか」これは「笹烏賊」で、一つは、前掲のケンサキイカの長崎県長崎市の地方名である(「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のスルメイカのページを参照されたい)が、これは、文脈から違うので、同じ「笹烏賊」で、

ヤリイカ科ヤリイカ属ヤリイカ Heterololigo bleekeri

の異名である(「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「ヤリイカ」の「地方名・市場名」に出所を『文献より』とある)。

「ぶといか」これは「(その2)」の『「ぶといか」一名「ぶどういか」』で注した「太烏賊」で、前の「けんざき」で注した、ケンサキイカの後者のゴトウイカ型である。本書当時は、別種として認識されていた。そのまま再掲すると、「ぶどういか」は、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「ブドウイカ」(異名。以下の引用で正式和名は「ケンサキイカ(ブドウイカ型)」で、Uroteuthis Photololigo edulis である)によれば、「ぶどういか」は「葡萄烏賊」ではなく、やはり「太烏賊」で、「漢字・学名由来」に『漢字/太烏賊』とし、『山陰島根県などの「ぶといか」が変化して「ぶどういか」になったものと思われる。「ぶと」=「太」でケンサキイカよりも外套長が短く太って見えるため。』とあった。「全国いか加工業協同組合」の『新編・世界イカ類図鑑』ここPDF)に、『ケンサキイカ(ブドウイカ型) Uroteuthis Photololigo edulis Hoyle, 1885)[ budo-ika]/ヤリイカ科 Loliginidae』とし、棲息域は『日本近海』、『市場名』として『シロイカ』(「白烏賊」と思われる)を挙げ、外套長は四十センチメートルとあり、

   《引用開始》

日本海西部に分布するケンサキイカの季節型でLoligo budo Wakiya & Ishikawa, 1921 の名が与えられた.鰭の長さは外套長の65%ぐらい.腕の吸盤角質環の特徴はケンサキイカの他型と同様截断状の歯が数個あるが,触腕掌部がそれらに比し広く大きく,ここの吸盤はIII腕の吸盤より大きい.外套膜は外見ケンサキイカのゴトウイカ型などより太目で(外套幅は長さの30%),腹中線の肉畝は殆ど見られない.「白ずるめ」の材料は本種.付記:Sasaki 1929)が Loligo edulis forma grandipes とした型で,秋冬期のみ日本海西部にあらわれ,幼期はケンサキイカの他型と区別できない.

   《引用終了》

とある。

「かういか」「甲烏賊」で、

十腕形上目コウイカ目コウイカ科 Acanthosepion 属コウイカ Acanthosepion esculentum

で、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のこれである。

「あふりいか」既注の、

ヤリイカ科アオリイカ属アオリイカ(シロイカ)Sepioteuthis lessoniana

である。

「花枝(あふりいか)」既注だが、再掲すると、「花枝」は、現在でも、コウイカ類を指す中国語として生きている。

「丹後の袋烏賊(ふくろいか)」探すのに苦労したが、サイト「京都府立大学」が公開している『 MALUI連携WEB「まるまる舞鶴」』の中の、このリストPDF)の中の『11』に、『分類』で『海産』とし、『地名』を『与謝湾』とあって、『名産名』に『袋烏賊』とあるのを発見した。

「水烏賊(みいか)」「デジタル大辞泉」に『みず‐いか〔みづ‐〕【水烏=賊】』で載り、『アオリイカの別名』とあった。

「藻烏賊(もいか)」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアオリイカのページの「地方名・市場名」に『モイカ』とあり、採集場所を『愛知県南知多(三谷)、三重県東紀州、高知県室戸市・宿毛市田ノ浦すくも湾漁協』とあった。

「丸形鰑(まるかたするめ)」これは、検索に全く出てこない。万事休す。

「烏賊(うぞく)、卽ち、甲烏賊(こういか)」ここで遂に、当時の本邦で「烏賊(うぞく)」と言った場合は、狭義には「甲烏賊(かういか)」、即ち、

コウイカ目コウイカ科 Acanthosepion 属コウイカ Acanthosepion esculentum

を指したことが判明した。

「雛烏賊(ひいか)」「(その2)」で注したが、やや補助を入れて、そのまま再掲する。これは、まず、基本、ヤリイカ科ジンドウイカ(神頭烏賊・磁頭烏賊)属ジンドウイカ Loliolus ( Nipponololigo ) japonica のジンドウイカの広範な異名である。但し、株式会社安岐水産公式サイト「あき水産活魚部」内の「【いか情報】小さいけれど旨味は抜群!ヒイカ(ジンドウイカ)」の、「ヒイカの名前の由来」の項に、『ヒイカは漢字で「火烏賊」と記し、灯の明かりに寄ってくる習性に由来します』。『また、ヒイカは市場に流通する小型のジンドウイカ類の地方名だそう』。『ヒイカには、標準和名のジンドウイカ、ヒメジンドウイカ、ベイカ』(ヤリイカ科ベイカ Loliolus Nipponololigo beka )、『ケンサキイカ、ヤリイカなどの胴長約』十五センチメートル『以下の小型のジンドウイカ類が複数種含まれているようです』(☜要注意!)。『ジンドウイカの名前の由来は、弓矢のヤジリの一種「神頭(じんどう)」に似ていることが名前の由来と言われているそうです』。『「神頭」とは先が平らになった的矢や鏃のことを意味し、ジンドウイカの胴体とみみ(鰭)を合わせた形が「神頭」に似ていると思われます』とあり、「ヒイカの生息域」の項に、『ヒイカは北海道から九州までの日本各地に分布しており、水深50メートルまでの浅い内湾で生息しています』。『また、水深』一『メートルから』十『メートルくらいの内湾で春から夏に産卵します』。『ヒイカは昼間に海底直上を遊泳していることから、主に底引き網で漁獲されます』とある。異名の由来と対照種群を、ここまで、しっかりと記されたものは、ネットでは稀有である。

「耳烏賊(みみいか)」同前で、ほぼ、そのまま再掲する。「日本大百科全書」から引く(奥谷先生の記載)。コウイカ目ダンゴイカ科ミミイカEuprymna morsei (英名:bobtail cuttlefish:“bobtail”は「切り尾の馬・犬/切り尾・短い尾」の意)。『北海道南部以南から日本全国を経て、台湾、フィリピンにまで分布する。外套長は』五十『ミリメートル、幅』三十『ミリメートルぐらいに達する。ひれは丸く、胴の中ほどについていて「耳」のようである。腕は外套長よりやや長く、吸盤は』四『列に並んでいる。触腕の吸盤は顕微鏡的で無数にある。外套腔の中の墨汁嚢の上には鞍形をした発光器があり、その中に発光バクテリアが共生していて発光する。沿岸近くにすんでいて、他の雑魚(ざこ)といっしょに漁獲されるが、商業価値は低い』とある。学名のグーグル画像検索を添えておく。

「乾章魚(ほしだこ)も、古昔(こせき)は『順留女(するめ)』と唱へしこと、あり」これ、「壽留女」の漢字表記の誤りではなかろうか? 「Weblio 辞書」の「結婚用語集」の「寿留女(するめ)」に、『するめの干物。長期保存できることから「食べ物に困らないように」との意味が。また噛めば噛むほど味が出るので「そんな花嫁になって欲しい」と「幾久しくご縁が続きますように」の意味も含む。』とある。

『「和名鈔」にも『小蛸魚(しやうせうぎよ)』を『順留女(するめ)』と訓(くん)し』「倭名類聚鈔」の「卷十九」の「鱗介部第三十」・「龜貝類第二百三十八」の「小蛸魚」である。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の当該部を参考に推定訓読する。標題の読みは、原本では、(右/左)のルビである。

   *

小蛸魚(ちいさきたこ/するめ) 崔禹錫(さいうしやく)の「食經(しよくけい)」に云はく、『小蛸魚(せうせうぎよ)【和名は「知比佐木太古(ちひさきたこ)」。一(いつ)に云はく、「須留女」】。』と。

   *

この『崔禹錫(さいうしやく)の「食經(しよくけい)」』「崔禹錫食經」(さいうしゃくしょっけい)は唐の崔禹錫撰になる食物本草書。「倭名類聚鈔」に多く引用されるが、現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。

「延喜式」言わずもがなだが、注しておくと、平安中期の法典で全五十巻。延喜五(九〇五)年に醍醐天皇の命により、藤原時平、次いで弟の忠平らが編修し、同年に完成した。「弘仁式」・「貞観式」(じょうがんしき)、及び、それ以降の「式」を取捨して集大成したもの。康保四(九六七)年に施行された。

「大膳」「おほかしはで」と訓読する。宮中の食事や儀式の饗膳を指す。管理した担当職は、宮内省の大膳職(だんぜんしき/おほかしはでのつかさ)。

「水產博覽會」東洋文庫の注に、『明治一六年(一八八三)三月一日から六月八日まで一〇〇余日間、東京上野公園内で開催された。この開催によって、各地域における漁業技術の実態を踏まえ、優良な技術や知識を探り当て、それを改良、奨励することで、他地域に普及させることが意図された。博覧会は四区に分かれ、第一区第一類は漁具(受賞人および姓名、漁船、漁網、各種漁具、捕鯨器具、釣具、総論)、第一区第二類は河漁装置部、海漁装置部、漁場、網干場、漁舎、第三区は養殖之部、第四区は統計部であった。統計による把握も企図され、水産製造物等の市場開拓の意識も認められる。『水産博覧会報告事務顚末之部』によれば、日本全国からの出品総数一万四五八一点(出品人員は一万五五七人)、来館者数約二一万五五〇〇余人で、天皇も行幸した。この成功を受けて、第二回水産博覧会が明治三〇年九月一日から一一月三〇目まで兵犀県神戸市で開催された。』とある。因みに、平凡社「世界大百科事典」の「水産博覧会」には、『この博覧会の目的は漁業技術発展の地域差の実態を把握し,先進地域の優良技術を広く掘り起こし,それを他地域に普及させることにあった。また水産製造部門では,たんに製造技術の開発指導事業にとどまらず,水産製造物の市場開拓という面でも直接役だったであろう。漁業者から一方で学びつつ,同時に指導できる水産博覧会は,まだ微力で模索過程を始めたばかりの水産行政当局に最もふさわしく有効な技術振興策であった。第』二『回水産博覧会は』『その規模は前回を上まわり』、『出品総数』四万二千二百四十七『点に及んだ』(二野瓶徳夫氏執筆)とある。なお、「中央水研」公式サイト内の「デジタルアーカイブ」に、この第一回の際、「水產博覽會獨案內」(三月二十日に出版されたもので、『水產博覽會事務局認可』の表示と、『定價八』と視認出来る)のJpeg版が、ここで、総て視認出来るので見られたい。

「羽前國(うぜんのくに)西田川郡(にしたがはこほり)溫海村(をんかいむら)」複数のデータで確認したが、この村名は「あつみむら」正しい。平凡社「日本歴史地名大系」の『温海村』に、『あつみむら』とし、『山形県:西田川郡温海町温海村』、『現在地名』を『温海町温海・湯温海(ゆあつみ)』とする。現在は、合併して鶴岡市温海町(あつみまち)である。ここ(グーグル・マップ・データ。拡大した航空写真もリンクしておく)。『温海岳の西方、日本海沿岸に位置し、地内の南を温海川が西流する。村名は川の中に湧出する温泉で海も温かくなったことに由来するという(温海郷土誌)。浜(はま)街道が通り、その宿駅であった。本郷は浜温海(はまあつみ)村ともいわれ、枝郷に東方山中の湯温海村(湯村)、本郷の南に釜谷坂(かまやさか)村、北に米子(よなご)村・暮坪(くれつぼ)村がある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高五六六石余。寛永三』(一六二六)『年』の「出羽庄內三郡村々檢地高辻帳」『では高五六九石余。正保郷帳では田方』五百五十二『石余・畑方九石余。江戸時代、山浜(やまはま)通温海組の世襲大庄屋本間氏の居宅があった』。』『明和七年(一七七〇)の』「御國目付𢌞村案內書」『(温海文書)によれば』、『湯温海村を除き』、『高』四百五『石余、うち畑高』十一『石余、取米』二百四十『石余、定免五ツ九分四厘、山年貢米』十七『石余、家数は名子・水呑ともに』百四十一名、『男』四百五名『・女』四百十五。『船』二十一、『うち一人乗小船』十七『・三人乗小船二・六人乗猟船二、馬』四十二、『うち』二十九『駒・』十三『駄、牛』二十六、『制札八。当村より鼠(ねず)ヶ関(せき)村まで二里一八町、駄賃は本荷』百二『文・軽尻』(からじり/からしり:積み荷を載せない空乗りの馬賃)六十八『文。三瀬(さんぜ)村(現鶴岡市)まで三里一一町、駄賃は本荷一四九文・軽尻』百一『文。枝郷の湯村まで二九町、駄賃は本荷』三十『文・軽尻』二十『文・歩行夫』十五『文とある。また』、『湯温海村は高』九十三『石余、家数は名子・水呑ともに』七十二、『男』二百十『・女』二百二十八、『馬』十五『・制札七、湯壺四』十『二』とある。なお、松尾芭蕉は「奥の細道」でここに泊っている。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 52 酒田 あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ』、続く、『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 55 村上 小鯛さす柳涼しや海士が妻」、また、ずっと後の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 72 今日よりや書付消さん笠の露――曾良との留別』も見られたい。

2025/08/11

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(一)鰑の說(その3)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。

 底本はここから。

 

「本草啓蒙」は柔魚(じうぎよ)を「するめいか」「しやくはちいか」【熊野】に充(あ)て、鎻管(さくわん)を「しやくはちいか」「たちいか」「みづいか」に充て、「和漢三才圖會」は柔魚を「するめいか」「たちいか」に、鎻管を「しやくはちいか」に充て、「雜字類編」は柔魚(じうぎよ)を「あふりいか」、鎻管を「するめいか」「ことういか」[やぶちゃん注:前記事の私の注で示した通り、「ごとういか」が正しい。]「しやくはちいか」の三つに充て、「一本堂藥撰」は柔魚を「あふりいか」に、鎻管を「しやくはちいか」に充て、「物品識名」は柔魚を「するめいか」、鎻管を「つ﹅いか」、花枝(くわし)を「あふりいか」、猴染(こうせん)を「べにいか」に充て、「魚鑑」は鎻管を「しやくはちいか」、柔魚を「するめいか」、花枝を「あふりいか」に充て、「大和本草」は柔魚を「するめいか」、鎻管を「しやくはちいか」「さばいか」とし、其說區々なりと雖ども、余は暫く柔魚を「するめいか」、鎻管を「やりいか」、一名(いちみやう)「しやくはちいか」、花枝を「あふりいか」に充(あつ)るの說に從ふ[やぶちゃん注:この「充(あつ)る」は、底本・東洋文庫版ともに「充(みつ)る」とルビを振るのだが、ここは、本書で初めて、河原田氏がキッチりと御自身の同定見解を規定されている箇所なのである。「みつる」と言う読みは、いかにもしっくりこない。ここは「あつる」であるべきところである。恐らくは植字工の誤刻と私は断定し、訂したものである。]。此他(このた)、古來、黑きは、常の烏賊の兒(こ)、白きは、障泥烏賊(あふりいか)の兒なり、とせし。雛烏賊(ひいか)は柔魚科(じうぎよくわ)に屬する所の、一種、小なるものにして、黑きは雄(し/おす)、白きは雌(し/めす)なり。是(これ)、或(あるひ[やぶちゃん注:ママ。])は「閩書(びんしよ)」に載する所の「墨斗(ぼくと)」ならんか[やぶちゃん注:★実は、この最後に『」』が打たれてある(一行目一杯の活字組みで、当時としては――極めて特異的に――その下方に「鍵括弧閉じる」は印刷されてあるのである。現在はこんな組み方は当たり前に出来るのであるが、活版印刷時代にあっては、物理的に出来ないのが一般的であったから、却って目立つのであった)。当初、私は、単なる誤刻だと思っていたのだが、実は、東洋文庫版では、編者によって、ここで改行が成されてあるのである。而して、虚心に再読してみると、ここまでが、近世の日中の本草書類のイカ類の複数の呼称名を博覧することがメインであったものが、これ以下は、河原田氏による明治期の現実の「鰑」の現状状況の積極的な語りへと有意に移っていることが、注を附すうちに決定的に判然としたのである。されば、ここで、改段落されているとするのが、頗るしっくりくることに気づいたのであった。されば、★ここで改段落と考え、ここで一度、切ることにした。]。

 

[やぶちゃん注:『「本草啓蒙」は柔魚(じうぎよ)を「するめいか」「しやくはちいか」【熊野】に充て、鎻管(さくわん)を「しやくはちいか」「たちいか」「みづいか」に充て』国立国会図書館デジタルコレクションの「本草綱目啓蒙」第四・重訂版(正宗敦夫編纂・昭和四(一九二九)年日本古典全集刊行會刊)の「烏賊魚」の項の終盤のここから(九一八ページ後ろから三行目以降)、『〔附錄〕柔魚』を設けて(読み難い箇所に私の推定の読みを禁欲的に添え、句読点・鍵括弧・中黒も同様に最小限で挿入した。割注は【 】で同ポイントで入れた)、

   *

〔附錄〕柔魚 スルメイカ スルメ【熊野】シヤクハチ【同上】體ニ赤黑斑アリ。後ニハ白色トナル。骨ナクシテ、剃刀(カミソリ)ノゴトキ狹細ナルモノナリ。至テ[やぶちゃん注:至つて。]ウスク、光アリテ、透徹ス。コレヲ「銀サ﹅ノハ」ト云。コノイカヲ乾テ[やぶちゃん注:ほして。]スルメトス。常ノイカヲ乾ハ[やぶちゃん注:乾せば。]薄クシテ色黑ク、味、短也。肥前ノ五島ヨリイヅルモノハ、形、大ニシテ上品トナス。「五島スルメ」ト云。コレハ、アヲリイカヲ用ユト云。丹後・但馬ヲ次トス。加州ニテハ カウイカ【ツネノイカナリ】ヲ用テ、スルメトス。コレヲ「五島」トヨブ。形、圓ニシテ肉アツク味佳ナリ 一種サバイカ【「大和本草」】ハ一名尺八イカ【同上】タチイカ【「本朝食鑑」】ツ﹅イカ【同上】タテイカ【勢州】サスイカ【因州】ミヅイカ【筑前】ヨシミツイカ【熊野】形狹[やぶちゃん注:かたち、せばく。]二三寸バカリニシテ竹筒ノゴトシ。「煮[やぶちゃん注:にる。]トキハ、骨イデ﹅良[やぶちゃん注:よく。]、光ノゴトク、木ヲ著スルニ[やぶちゃん注:木を、著(き)するに。]似タリ」トテ、熊野ノ方言アリ。ホネハ柔魚トオナシ。コレ鎖管ナリ。「泉州府志」ニ『鎖管似烏賊一而小色紫。』、「寧波府志」ニ『脚短而無ㇾ釘』、「漳州府志」ニ『其身圓直如鎖管(デウノヒツ)狀[やぶちゃん注:このルビは、よく判らないが、「錠前」を想起した。「ヒツ」は「飯櫃」の「櫃」であろう。「鎖の錠前に似た筒状の櫃の形」のニュアンスか?]首有薄骨入管中鎖鬚(テウノエビ)其味甘脆』トイフ 一種ベニイカハ一名ベイカ【備前備後】ベカ【同上】マツイカ【攝州】身狹ク末微[やぶちゃん注:やや。]ヒロク緣アリ足トトモニ色アカシ。足ノ末ハ黑シ。骨ハサ﹅ノ葉ノゴトシ。魚ノ大サ[やぶちゃん注:おほいさ。]二寸ニ過ズ。八九月ニアリ。コレ猴染[やぶちゃん注:既出既注。]ナリ。「福州府志」ニ『猴染比墨斗稍大比鎖管稍小』トイフ スルメハ脯鮝[やぶちゃん注:既出既注。以下の異名も大概、本作の前に出ている。]ナリ。一名螟乾【「寧波府志」】墨魚乾【同上】螟脯乾【「福州府志」】※脯[やぶちゃん注:「※」=「魚」+「冥」。]【「通雅」】明脯乾【「野記」】明府【「閩書」】明魚鮝【「食物本草會纂」】射踏子【「事物紺珠」】。

   *

とある。

『「和漢三才圖會」は柔魚を「するめいか」「たちいか」に、鎻管を「しやくはちいか」に充て』私のサイト版『「和漢三才圖會」卷第五十一 魚類 江海無鱗魚』「たちいか するめいか 柔魚」の項の良安の評言に、

   *

△按ずるに、柔魚は、烏賊に同じくして、身、長く、大きく、之れを乾かして「鮝(するめ)」と爲す。肥州〔=肥前〕五島より出づる者、肉、厚く、大にして、味、勝れり。微〔(やや)〕炙り、食ふ【裂きて、食へば、則ち、佳し。切れば、則ち、味、劣れり。】或いは、炙らずして、細かに刻みて、膾〔(なます)〕に代〔(か)〕ふ。皆、甘く、美なり。柔魚(たちいか)の骨(こう[やぶちゃん字注:ママ。])は亦、舟の形に似て、薄く、玲-瓏(すきとほ)り、蠟紙〔(らうがみ)〕に似る【『骨、無き。』と云ふは、不審。[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]】又、章魚(たこ)を、膞(ひつぱ)り、乾(ほ)して「鮝(ひだこ)」と爲す【「乾章魚(ひだこ)」と名づく。「須留女」と稱さず。】。古(いにしへ)は、是れも亦、「須留女」と謂ふか【「和名抄」に「小蛸魚」、「須留女」と訓ず。】。

   *

と述べ、続く各種のイカ記載の中で、

   *

瑣管烏賊(しやくはちいか) 身、狹く、長く、竹の筒(つゝ)のごとし。故に「尺八烏賊」と名づく。

   *

とする。

『「雜字類編」は柔魚(じうぎよ)を「あふりいか」、鎻管を「するめいか」「ことういか」「しやくはちいか」の三つに充て』「雜字類編」は本書では初出で、江戸中期の儒学者・朱子学者であった柴野栗山(しばのりつざん 元文元(一七三六)年~文化四(一八〇七)年:讃岐出身。諱は邦彦。後藤芝山(しざん)に学び、江戸に出て、昌平坂学問所の教官となった後、老中松平定信に「寛政異学の禁」を建議した。「寛政の三助」の一人。詳しくは当該ウィキを見られたい)の著になる、実用語辞書。書名の「雜字」は、「日常必要な言葉・事柄の意で、「類編」は分類体辞書であることを指す。 当時の学術語・古語ではなく、俗語を含んだ日常の日本語を対象とする。日本語に対し、如何なる漢字表記が可能かを示す表記辞書の性格を持つ。全七巻二冊。初版は天明六(一七八六)年。国立国会図書館デジタルコレクションの「雑字類編 影印・研究」(藁科勝之著・一九八一年ひたく書房刊)の、ここと、ここが当該記載である。前者は390ページの最終行で、

   *

▲瑣管(シヤクハチイカ)

    *

とあり、後者は428ページ四行目で、

    *

▲瑣管(スルメイカ/ゴトウイカ[やぶちゃん注:右/左のルビ。]) 柔魚(スルメ)脯鮝

    *

とある。

『「一本堂藥撰」は柔魚を「あふりいか」に、鎻管を「しやくはちいか」に充て』。国立国会図書館デジタルコレクションの「一本堂薬選」(『漢方文献叢書』第五輯・難波恒雄編・一九七六年漢方文献刊行会刊)の「諸𩵋肉」の大項の「烏鰂」の項に(漢文を訓点に従って推定訓読して示す。送り仮名・記号を推定で補ってある)、

   *

烏鰂 俗、乙葛(いか)[やぶちゃん注:「葛」は原本では、最下部の内側が「ヒ」となっている「グリフウィキ」のこの異体字だが、表示出来ないので、「葛」とした。]と呼び、小なる者を、非乙葛(ひいか)と呼ぶ。冬末初頭、中に、子、有り。呼んで、「巵子母(しゝぼ)」と爲し、甚だ、希品と爲す。又、鎻管(するめいか)・柔𩵋(あふりか)、有り、俱に此の類《たぐひ》。

   *

とある。

『「物品識名」は柔魚を「するめいか」、鎻管を「つ﹅いか」、花枝(くわし)を「あふりいか」、猴染(こうせん)を「べにいか」に充て』少し手間取った。前の三種は、国立国会図書館デジタルコレクションの「新選物品識名」(安倍為任編・明一〇(一八七七)年東山堂刊)で見つけたのだが(順にここと、ここと、ここ)、最後が見当たらない。「新選」の標題が怪しいと考え、別の国立国会図書館デジタルコレクションの「物品識名 物品識名拾遺」(岡林清達・稿/水谷豊文・補/水谷豊文・著/一九八〇年青史社刊・原本画像版)で、蜿蜒と始めから繰って調べたところ、やっと見出した。ここに総て纏めて載っていた。癪だから、全文を起こす。字配はブラウザの不具合が起こるので、詰めてあり、一部に記号を加えた。

   *

イカ 烏賊魚【甘盤「水族加思簿」】

 ツヽイカ【サバイカ「大和本草」】 鎻管【「漳州府志」】

 アオリイカ 花枝【「閩書」】

 ベニイカ  猴染【「福州府志」】

 イカノカウ 海螵蛸【烏賊魚ノ條】

 コブイカ ミヅイカ等ノ品アリ

   *

『「魚鑑」は鎻管を「しやくはちいか」、柔魚を「するめいか」、花枝を「あふりいか」に充て』国立国会図書館デジタルコレクションの「魚鑑」(『生活の古典双書』十八)武井周作著・一九七八年八坂書房刊)のものを、視認して示す。ここから。但し、新字旧仮名であるので、漢字を恣意的に正字化し、コンマ・ピリオドを句読点に代え(一部で追加した)、書名を鍵括弧で示した。本文の右傍線は下線に代えた。濁点が落ちているのは、補正した。踊り字「〲」は正字化した。また、一部で「・」を用いた。

   *

いか 「和名抄」に出づ。漢名烏賊魚(ウゾクギヨ)「綱目」にみゆ。「閩志(ミンシ[やぶちゃん注:ママ。])」に烏鰂(ウゾク)に作れり。此もの種類(くさぐさ)頗(すこぶ)る繁(おゝ[やぶちゃん注:ママ。])し。江海(うみかわ[やぶちゃん注:ママ。])常にこれを捕る。春より夏に至るまでを、多しとす。まいかと稱る[やぶちゃん注:「しやうする」。]もの、尤[やぶちゃん注:「もつとも」。]上晶なり。冬月もまたあり。大なるものをあをりいかといふ。紀州に五三尺なるもの有[やぶちゃん注:「あり」。]といふ。「閩書(ミンシヨ[やぶちゃん注:ママ。])」の花枝(クハシ)これなり。細小のものを、尺八(しやくはち)いかといふ。「泉州府志(センシウフシ)」の鎖管(さくはん)これなり。又、赤(あか)いか耳(みゝ)いか瘤(こぶ)いかあり。ともに漢名不審。又、柔魚(ジウギヨ)あり.卽[やぶちゃん注:「すなはち」。]するめいかなり。其形、いかより少し長く、色、紫に、肉骨、薄く、骨。硝子祇(びいっどろがみ)のごとし。風乾(すぼし)するを.「閩志(ミンシ)」に明府(メイフ)といふ.又、螟※(メイフ)[やぶちゃん注:「※」=「虫」(へん)+「府」(つくり)。]につくる。卽[やぶちゃん注:すなはち。]、するめなり。「本朝式文(ホンテウシキブン)」、(ヤウ)の字を用ゆ。「廷喜」の神祇(ジンギ)・民部(ミンブ)・主計(カヅヱ[やぶちゃん注:ママ。「カヅヘ」が正しい。])・等の「式」に、若狹・丹後・隱岐・豐後より、鳥賊(いか)を貢すといふものも、皆するめなり。今、肥前・五島、出す[やぶちゃん注:「いだす」。]ものを、最上とす。又、伊豆の國より出すものも、美味なり。丹後・但馬・伊豫より出るもの、これに次ぐ。古[やぶちゃん注:「いにしへ」。]より賀祝(しうぎ)の饗膳(ごぜんに[やぶちゃん注:「に」はルビになっている。])用ゆ。今も亦、しかり。又、ひいかあり。これ雛烏賊(ひめないか[やぶちゃん注:聴いたことのない読みだが、「な」には親愛を示す接尾語の用法は、ある。])なり。卽[やぶちゃん注:「すなはち」。]いかの子にして.黑白二種あり。黑きものは常のいかの子、白きものはあをりいかの子なり。その味ひ、尤美。【氣味】甘酸(あまくすく)、毒なし【主治】志(こころざし)を强し、婦人月經(おんな[やぶちゃん注:ママ。]つきやく)を通し、小兒雀目(とりめ)を治[やぶちゃん注:「ぢす」。]。いかのこう。漢名海鰾蛸(カイヒヤウセウ)「綱目」に出づ。よく鹽を淡くす。【主治】瘧(ぎやく)[やぶちゃん注:「おこり」。マラリアのこと。]・痢(り)・小腹痛(したはらいたみ)、ー切(いつさい)眼病(めやみ)、婦人血症(ふじんちのみち)を治す。外傷(すりこわし)に末(こ)[やぶちゃん注:粉末。]にして摻(ふりかけ)てよし。停耳(みゝたれ)には麝香(じやかう)少許(ばかり)を.加へ竹管(たけくだ)にてふきいれて妙なり。やけどには長芋とすり合せ傳(ママ)[やぶちゃん注:「傅」(フ・つく)の「魚鑑」原本の誤り。]べし。するめは、ふぐに、あたりたるに、煎じ用ひ、又、燒て[やぶちゃん注:「やきて」。]喰はせてよし。ふぐを制伏(なやす)[やぶちゃん注:「萎(なや)す」。「大正の力(ここではフグ毒)を失わさせる」の意。]もの、これに過る[やぶちゃん注:「すぐる」。]は、なし。故にふぐの振舞には必(かならず)向に[やぶちゃん注:「むかうに」。向付で。]するめ膾(なます)と.茄子(なす)の鹽漬を、用る[やぶちゃん注:「もちひる」。]ことなり。

   *

以上を読むに、よく書けている。ちょっと感心した。例えば、「主治」は始めは「本草綱目」に則りながら、後のフグ毒への効能は、明らかに本邦の効能として料理の出し方にまで述べていて、オリジナリティが感じられるのである。

『「大和本草」は柔魚を「するめいか」、鎻管を「しやくはちいか」「さばいか」とし』私のブログ版「大和本草卷之十三 魚之下 烏賊魚(いか) (イカ総論)」を見られたい。

『古來、黑きは、常の烏賊の兒(こ)、白きは、障泥烏賊(あふりいか)の兒なり、とせし』う~ん、これは違うのではないかなぁ……イカ類は、どの種も、誕生直後は透明か半透明であるが、稚イカの状態で既にカモフラージュのための色素胞を持っているから、それが生存のためにじきに発達し始め、水面上からの順視では、黑っぽくは見えるだろう。ごく近くで、実体顕微鏡で見れば、宝石のようなカラフルな花模様、少し離れて見れば、虹色・赤色に偏移した色に見える。では、アオリイカの場合はというと、同種は色素胞が、かなり発達しており、寧ろ、ある程度大きなアオリイカの稚イカは、逆に、何らかの警戒要素が働くと、他の稚イカよりも、急激に有意に黒く見えるであろうと思われる。また、アオリイカは♂が大きい性的二形であるから、ちょっと大きくなった♂の稚イカは黒く見えることは請け合う。

「雛烏賊(ひいか)は柔魚科(じうぎよくわ)に屬する所の、一種、小なるものにして、黑きは雄(し/おす)、白きは雌(し/めす)なり。是(これ)、或(あるひ[やぶちゃん注:ママ。])は「閩書(びんしよ)」に載する所の「墨斗(ぼくと)」ならんか』今まで、黙々とイカ類の異名をストイックに綴り続けてきた河原田氏が、ここで、自身の比定同定をブチ挙げてこられた「アツい」言上げの瞬間である! まずは、前回の「ちつこいか」、及び、その後の「べいか」「べか」の私の注を見られたいが、そこで私は、それらの有力候補を、性的二形から、ヤリイカ科ジンドウイカ属ベイカ Loliolus Nipponololig )  beka とした。しかし、「墨斗」という名は、如何にも「墨」のように黒い、前のアオリイカの大きな(「斗」)に「名にし負う」となろうと思うのである。因みに、白水社の「中国語辞典」で「墨斗魚」は通称「墨魚」で、「スミイカ」・「コウイカ」とする。これは、十腕形上目コウイカ目コウイカ科Acanthosepion属コウイカ Acanthosepion esculentum である。河原田先生、すみません……。]

 

[二〇二五年八月十二日追加:やぶちゃん注:以上を公開した昨日の夜、Facebookで友達になって頂いている西岡純先生(先生については、私の二〇二一年二月十一日のブログ記事を読まれたい)から、『我が家にある中国の文献「中国動物誌 軟体動物門 頭足類(1988)科学出版社」及び「黄渤海的軟体動物(1989)農業出版社」では、柔魚はOmmastrephidae アカイカ科に使われているようです。』という情報と資料画像を頂戴した(以下に掲げる)。

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私は、今まで、日中の本草書を見てきていながら、現行のイカ類の中文名学名を確認することを全く忘れていたことに気づいて、大いに恥じ入ったのである(そう言えば、今、思い出したのだが、私は夕べの夜――深夜の理学大学の資料室に忍び込み、イカの液浸標本を盗み出そうとすると、そのイカの眼が動いて私を睨むという夢を――見たのであった!)。先ほど、“Ommastrephidaeで「維基百科」を検索したところ、「真鱿科」(「魷」は「鰌」の簡体字であるが、実は、「魷」は、所持する大修館書店「廣漢和辭典」に別に「魷」として立項し、現代中国語の新しい漢字として『いか。たちいか。柔魚。』(但し、「たちいか」というのは、ヤリイカ科 Loliginidae、或いは、

ヤリイカ属ヤリイカ Heterololigo bleekeri 、或いは、ヤリイカ科アオリイカ属アオリイカ(シロイカ)Sepioteuthis lessoniana を指す)とあるのである。白水社「中国語辞典」でも『スルメイカ』(但し、「スルメイカ」はアカイカ科スルメイカ亜科スルメイカ属 Todarodes である)とある)があり、そこに、『真鱿科(学名:Ommastrephidae),也称柔科,是管鱿目下的一个科。』(「也称」は「~としても知られる」で、「管鱿目」はアカイカ科の上位タクソンである「ツツイカ目 Teuthida」のこと)とあった。

 序でに、アテズッポウで「維基百科」のヤリイカ科 Loliginidae相当を調べたところ、図に当たった! 「槍魷科」で、そこに『又名鎖管科』とあった!

 則ち、李時珍が「本草綱目」で「烏賊魚」の最後に、宗右衛門町(そえおもんちょう)風に「附錄」で示している「柔魚」を、良安は「和漢三才圖會」の「卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」(リンクは私のサイト版)で、「烏賊魚(いか)」と、「柔魚(たちいか) するめいか」の二つの分離項目としたのは、不完全ではあるが、先見の明があったと言えるように思われるのである。

 最後に、西岡先生に心より御礼申し上げるものである。

2025/08/10

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「怪雷告凶」

[やぶちゃん注:底本はここ。やや長い。句読点・記号・段落を追加・変更した。なお、これを以って、「安倍郡府中御在城の時」と始まる一連の話柄は、ひとまず、終わる。]

 

 「怪雷《くわいらい》告凶《きやうを つぐ》」 安倍郡府中、御在城の時にあり。

「明良洪範」云《いはく》、

『元和《げんな》二年二月廿二日、早朝より、殊に晴明なりしが、未《ひつじ》の剋《こく》に及《および》て、俄《にはか》に、雲、起り、雷鳴、地震、雹《ひよう》ふり、霾風《ばいふう》[やぶちゃん注:「黃砂」のこと。]甚しく、城中・城外、市店《いちみせ》も皆、一同に戶を閉《しめ》、蔀《しとみ》をおろす事、半時《はんとき》計《ばかり》にして、雷、おさまり、風雨も、やみける。西の丸の松、十かヽへほどなる大樹、六。七本。捻《ねぢ》きるが如くに、中《なか》より折れたるに、其枝葉ともに、一《ひとつ》も見えず。又、東の方の土手も、十間《じつけん》[やぶちゃん注:約十八メートル。]計り、切《きり》て取《とり》たるが如くに、うせて、其土、少しも殘らず。其東、杉原伯耆守隆泰、松平土佐守忠義の邸宅の間、矢倉、半《なか》ば切れて、何方《いづかた》へ行《ゆき》けるにや、落《おち》たる處を、しらず。隣家本多《ほんだ》美濃守忠政の邸《やしき》へは、大蛇の鱗、三枚、落《おち》たり。是を、將軍家の御髙覽に備ふ。

「是、神君御不例、御快復あるまじき先兆か。」

と、世人眉をひそむ。云云』。

 此書、「駿府」と記さずといへども、此二月二日、幕府、當城御着《おつき》、御逗留也。然《しか》らば、當府の事としらる故に、爰に載《しる》す。

 

[やぶちゃん注:「明良洪範」江戸中期成立の逸話・見聞集。十六世紀後半から十八世紀初頭までの徳川氏・諸大名その他の武士の言行、事跡等を七百二十余項目で集録する。江戸千駄ヶ谷聖輪寺の住持増誉(?~宝永四(一七〇七)年:俗姓真田)の著。正編二十五巻・続編十五巻。成立年は不詳(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションで(明治四五・大正元(一九一二)年国書刊行会刊)視認でき、当該部はここ(右ページ「卷之五」冒頭から)。最初と最後、及び、中間部のカットされた部分を含め、煩を厭わず、そのままに以下に示す。細部にも、有意な違いがあるからである。

   *

神君御終焉之記附錄元和二年二月廿二日天氣皆晴なりしが未の時に及で雲俄に起り雷鳴地震風烈く城中城下皆戶を閉て居ける半時計にして風雨鎭りしに西丸に松の大木十抱計なるが六七本有けるが中より折たり然るに其枝葉齊く見えず又東の方の土手十間計切取し如くに失て其土少も見えずまた杉原伯耆守隆景並に松平土佐守忠義の邸宅の門半分切れて其行方知れず又隣家の本多美濃守忠政の邸へは大蛇の鱗三枚落て有り是を將軍家の高覽に備へしと也此時或識者密に申けるは往昔延喜十六年桃園親王薨去の時七尺の龍と化して大宮の桃園の池に入給ふ因て桃園と稱し奉る又六孫王經基逝去の時龍と化して西八條の池に入給ふと言傳ふ神君此度の御不例本復し給はざる前兆ならんと眉を潛めて申されしとかや

   *

「元和二年二月廿二日」グレゴリオ暦一六一六年四月八日。因みに、大御所徳川家康の逝去は元和二年四月十七日(グレゴリオ暦一六一六年六月一日)であった。

 なお、人物名は注する気はない。悪しからず。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「飛神」

[やぶちゃん注:底本はここ。句読点・記号・段落を追加・変更した。]

 

 「飛神《とびかみ》」 安倍郡府中、御在城の時にあり。「駿府政事錄」云《いはく》、『慶長二十年三月卅日、太神宮《たいじんぐう》、飛給《とびたまふ》由。禰宜《ねぎ》號《なづく》者、唐人《たうじん》、花火飛《とばす》。云云《うんぬん》』。

 是、同十八年八月三日、唐人某《なにがし》、花火の功者《こうしや》たるに依《より》、召《めし》て、上覽の事、あり。此人、賴《たよら》れて、所々に火を飛《とば》して、「太神宮」と僞りたるか。

 又、文化五年、府中御城內、大六天、飛《とび》て、二加番《にかばん》の町塲《まちば》、杜仲(まゆみ)のもとに留止《とめとどま》り玉ふ事、あり。其所《そこ》に幣《ぬさ》を建《たて》、石を、た﹅み、諸人《しよにん》、參詣して立願《りうぐわん》するに、しるしあり。今は、社《やしろ》も建ちて、奉納の幟《のぼり》、許多《あまた》あり。

 

[やぶちゃん注:「駿府政事錄」「奇火」の注を参照されたい。

「慶長二十年三月卅日」グレゴリオ暦一六一五年四月二十七日。なお、この慶長二十年七月十三日に、「元和」に改元している。

「太神宮」天照大御神であろう。

「同十八年八月三日」グレゴリオ暦一六一三年九月十七日。

「文化五年」一八〇九年。徳川家斉の治世。

「府中御城內、大六天」欲界六天の最高の第六の天界の名。他化自在天(たけじざいてん)。小学館「日本国語大辞典」に拠れば、『この天に生まれたものは他の作りだした楽事を受けて自由に自分の楽とするという。また』、『この天の髙所には別に』『魔王の住所があるとされた。』ともある。この神社は現存しない。

「二加番の町塲」サイト「静岡県歴史観光案内所」内の「静岡市: 二加番稲荷神社」に、『二加番稲荷神社は静岡県静岡市葵区西草深町に鎮座している神社です。この地は江戸時代、駿府城の城外守衛として設置された二加番屋敷があった場所です。稲荷神社は』、『その加番屋敷の守護神として勧請されたもので』、『歴代加番によって崇敬庇護されました。明治』四(一八七一)年『に廃藩置県が行われると』、『庇護者を失いますが、以後、西草深町の産土神として存続が認められました』。『二加番稲荷神社の祭神は豊受昆賣命』(とようけびめ)、『猿田彦命、天鈿女命』(あめのうずめのみこと)『の』三『柱で、当時』、『安倍川のほとりに鷹が集まった森があった事から』、『鷹森稲荷とも称しています。拝殿は木造平屋建て、切妻、桟瓦葺き、平入、桁行』二『間、張間』二『間、正面』一『間向拝付き、外壁は真壁造板張り。本殿は一間社神明造風。銅板葺き。境内には天保』一五(一八四四)年『に奉納された石灯篭があるなど』、『歴史が感じられます』とあるのがそれで、この「鷹乃森二加番稲荷神社」(グーグル・マップ・データ)が、それ。

「杜仲(まゆみ)」双子葉植物綱ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicusの古名。私の『「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 杜仲』を見られたいが、本来の漢方の「杜仲」の基原植物は、トチュウ目トチュウ科トチュウ属トチュウ Eucommia ulmoides であって、日本には自生しない。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「府中町怪異」

[やぶちゃん注:底本はここ。句読点・記号を追加・変更した。]

 

 「府中町《ふちゆうちやう》怪異」 安倍郡府中、御在城の時にあり。「當代記」云、『慶長十九年九月十一日、此頃、駿府町某邊、續松トボシ、城、人ケルガ、無其行末。云云。』。

 

「當代記」複数回、既出既注

 推定訓読を示しておく。句読点を追加した。

   *

慶長十九年九月十一日、此頃、駿府町某邊《ばうへん》、續松《ついまつ》ヲ燃(と)ぼし、城の方《かた》に行《ゆく》と、人の目に見《みえ》けるが、其の行末《ゆくすゑ》無し。云云』。

   *

「續松《ついまつ》」「つぎまつ」の音変化で「松明(たいまつ)」に同じ。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「奇火」

[やぶちゃん注:底本はここ。句読点・記号を追加・変更した。]

 

 

 「奇火《あやしき くわ》」 安倍郡府中、御在城の時にあり。「當代記」云《いはく》、『慶長十五年十月六日、南方ヨリ、一丈計之火飛來リテ、城上ニ而消ユ。人皆見ㇾ之、云云。同九日、上御臺所、大黑柱の上より燃出、阿茶局廊架、長倉等燒失。是、天火にや。』。

 

[やぶちゃん注:「當代記」複数回、既出既注

 推定訓読を示しておく。句読点を追加した。

   *

 慶長十五年十月六日、南方の方より、一丈計《ばか》りの火《くわ》、飛來《とびきた》りて、城上《しろのうへ》にて、消ゆ。人皆《ひとみな》、之れを見る、云云《うんぬん》。同九日、上御臺所《かみみだいどころ》、大黑柱《だいこくばしら》の上より燃出《もえいで》、阿茶局《あちやのつぼね》廊架《らうか》、長倉《ながくら》等、燒失。是《これ》、天火《てんくわ》にや。

   *

「慶長十五年十月六日」グレゴリオ暦一六一〇年十一月二十一日。

「上御臺所」貴人・武士・豪商などの家で、家族や客用の食事を作る台所。

「阿茶局」徳川家康の側室雲光院(天文二三(一五五四)年~寛永一四(一六三七)年)。]

和漢三才圖會卷第九十一 水果類 芰

[やぶちゃん注:「芰」は「菱」を示す別字。異体字ではない。

 

Hisi

 

[やぶちゃん注:左上方に二個体の菱の実が添えられてある。]

 

ひし    蔆《りやう》 水栗《すいりつ》

      沙⻆《さかく》

【音「岐」。】

      【和名「比之」。】

      【無⻆者名三河芰】

 

本綱蔆落泥中最昜生有野蔆家蔆皆三月生蔓延引葉

浮水上扁而有尖光靣如鏡葉下之莖有股如蝦股一莖

一葉兩兩相差如蝶翅狀五六月開小白花背日而生晝

合宵炕隨月轉移其實有三⻆四⻆或兩⻆無⻆之數種

野蔆自生湖中葉實俱小其⻆硬直刺人其色嫩時青老

黒嫩時剝食甘美老則蒸煑食之野人暴乾刴米爲飰爲

[やぶちゃん注:「飰」は「飯」の別字。異体字ではない。]

粥爲餻爲果皆可代糧其莖亦可暴收和米作飰以度荒

歉蓋澤農有利之物也

家蔆種于陂塘葉實俱大𧢲耎而脆亦有兩𧢲彎卷如弓

[やぶちゃん注:「𧢲」は「角」の異体字。「弓」はグリフウィキのこれだが、表示出来ないので通用字を用いた。]

形者其色有青有紅有紫嫩時剝食皮脆肉美老則殻黒

而硬墜入江中謂之烏蔆冬月取之風乾爲果生熟皆佳

夏月以糞水澆其葉則實更肥美凡蔆花開背日芡花開

向日故蔆寒而芡暖

[やぶちゃん注:二箇所の「日」の字は「月」ほどではないものの、一画の下が突き出て、二画の下方も突き出て左にはねているが、「日」と訂した。]

芰肉【甘平】安中補五臟解暑止消渴然水蔟中此物最不

 治病多食傷人臟俯損陽氣【若過食腹脹者可暖薑酒服之卽消也】

 夫木舟はたをたゝくも淋し宵の間に菱とる舩や江に歸るらん爲相

古今醫統云八九月收老黑子撒池中自生凡種水果只

以牛糞大忌桐油若桐油甁罐投池中卽水果絕死

 

   *

 

ひし       蔆《りやう》 水栗《すいりつ》

         沙⻆《さかく》

【音「岐《き》」。】

         【和名「比之」。】

        【⻆(つの)無き者、

         「三河芰(《みかは》ひし)」と名づく。】

 

「本綱」に曰はく、『蔆、泥中に落ち、最も生(は)へ[やぶちゃん注:ママ。]昜し。野蔆・家蔆、有り、皆、三月に蔓を生じて、延引す。葉、水上に浮き、扁《ひらた》にして、尖《とがり》、有り。光る靣《おもて》、鏡のごとく。葉の下の莖に、股、有り。蝦《えび》の股(もゝ)のごとし、一莖は、一葉、兩兩、相《あひ》差《たがひ》、蝶《てふ》の翅(つばさ)の狀《かたち》ごとし。五、六月、小≪き≫白花を開き、日に背《そむき》て生じ、晝、合《がつ》し、宵(よる)は炕《ほこる》[やぶちゃん注:「昂ぶる」の意であるから、「開く」の意。]。月に隨《したがひ》て、轉移≪す≫る。其實、三つ⻆《つの》、四つ⻆、有り、或《あるい》は、兩⻆《りやうづの》・⻆無《なし》の數種《すしゆ》≪あり≫。野蔆《やりやう》[やぶちゃん注:自然に野原の沼沢に自生するヒシ。]は、自《おのづか》ら、湖中に生ず。葉・實、俱に小なり。其《その》⻆、硬く、直《ちよく》にして[やぶちゃん注:尖っていて。]、人を刺す。其色、嫩《わか》き時は青く、老《らう》なば、黒し。嫩き時、剝(む)きて、食ふ。甘美なり。老(ひね)ては、則《すなはち》、蒸煑《むしに》て、之≪を≫食ふ。野人、暴乾《さらしほし》、米を《✕→のごとく》刴(はつ)り、飰《めし》と爲《なし》、粥と爲《なし》、餻(だんご)と爲《なし》、果《くは》んと爲《なす》[やぶちゃん注:恐らく、「クハント」は「クハト」の誤刻で「果実とする」の意である。]。皆、糧(かて)に代ふべし。其《その》莖、亦、暴收《さらしをさめ》、米に和(ま)ぜて、飰《めし》に作りて、以《もつて》、荒歉《こうけん》[やぶちゃん注:凶作。]を度(すく)ふ。蓋し、澤農《たくのう》[やぶちゃん注:沼沢近くの農民。]、利、有るの物なり。』≪と≫。

『家蔆《かりやう》[やぶちゃん注:栽培しているヒシ。]は陂塘《はとう》[やぶちゃん注:人口の堤防や土手で囲まれた池沼。]に種(ま)く。葉・實、俱に大に、𧢲《つの》、耎(やはら)かにして、脆《もろ》く、亦、兩𧢲、有《あり》て、彎卷《わんくわん》して[やぶちゃん注:彎曲して。]、弓のごとき形の者≪あり≫。其《その》色、青、有《あり》、紅《くれなゐ》、有、紫、有《あり》。嫩《わかき》時、剝《は》ぎ、食《くふ》。皮、脆《もろく》、肉、美なり。老《ひねる》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、殻、黒《くろく》して、硬し。入江≪の≫中に墜《おつ》。之を「烏蔆(くろひし)」ろ謂ふ。冬月、之≪を≫取《とり》て、風に乾して、果と爲《なす》。生・熟、皆、佳《よき》なり。夏月、糞水を以て、其葉に澆《そそ》ぐ時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、實、更に、肥《へ》、美なり。凡そ、蔆の花は、開《ひらき》て、日に背《そむ》き、芡《みづぶき》の花は、開《ひらき》て、日に向ふ。故に、蔆は寒にして、芡は暖なり。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「芡《みづぶき》」は次の項であるが、被子植物門スイレン目スイレン科オニバス属オニバス Euryale ferox で、本「芰」=双子葉類植物綱フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa jeholensis とは全く異なる水草である。

『芰肉【甘、平。】中[やぶちゃん注:脾胃。]を安《やすんじ》、五臟を補ひ、暑を解≪し≫、消渴を止む。然《しかれ》ども、水蔟《すいぞく》の中《うち》、此物、最も病《やまひ》を治《じ》せず。多《おほく》食へば、人の臟俯を傷《きずつけ》り《✕→(きずつ)け》、陽氣を損ず【若《も》し、過食して、腹、脹《は》る者は、暖《あたたか》なる薑酒《しやうがざけ》、之《これ、》服すべし。卽ち、消ゆるなり。】』≪と≫。

 「夫木」

   舟ばたを

      たゝくも淋し

     宵《よひ》の間《ま》に

    菱とる舩《ふね》や

         江に歸るらん 爲相

「古今醫統」に云はく、『八、九月、老(ひね)たる黑き子《さね》を收《をさめ》、池中に撒(ま)けば、自《おのづか》ら、生ず。凡そ、水果《すいくわ》を種《うう》るに、只《ただ》、牛糞を以《もつて》す。大《おほい》に桐油《きりゆ》を忌む。若《も》し、桐油の甁-罐《かめ》、池中に投ずれば、卽ち、水果、絕死《ぜつし》す。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:ヒシに就いては、私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 芰實(ひし) (ヒシ)」の本文と私の注を読まれたい。

 なお、本項の引用は「漢籍リポジトリ」の「卷三十三」の「果之五【蓏類九種内附一種】」の異様に長い「蓮藕」([081-28b]以下)のパッチワークである。

「夫木」「舟ばたをたゝくも淋し宵《よひ》の間《ま》に菱とる舩《ふね》や江に歸るらん」「爲相」日文研の「和歌データベース」で確認した。ガイド・ナンバー[03543]を見られたい。「爲相」は私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 淨光明寺〔附綱引地藏〕」の私の注を参照されたい。

「古今醫統」複数回既出既注だが、再掲すると、明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六)によって編纂された一種の以下百科事典。全百巻。「東邦大学」の「額田記念東邦大学資料室」公式サイト内のこちらによれば、『歴代の医聖の事跡の紹介からはじまり、漢方、鍼灸、易学、気学、薬物療法などを解説。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べている。分類された病名のもとに、病理、治療法、薬物処方という構成になっている』。『対象は、内科、外科、小児科、産婦人科、精神医学、眼科、耳鼻咽喉科、口腔・歯科など広範囲にわたる』とある。以下の引用は、「維基文庫」の「古今醫統大全/80」の「通用諸方 \ 花木類第二」で確認出来る。]

2025/08/08

和漢三才圖會卷第九十一 水果類 目録・蓮

[やぶちゃん注:以下の「目録」(表記はママ)は、上方の項目の読みは、そのままに示した(清音の箇所は濁音化していない)。下方の附属項のルビのカタカナ表記はそのままで丸括弧で示した。]

 

  卷之第九十一

   水果類

(はちす)

蓮肉(れんにく)

(はすのね) 𦾖(わかね)

荷葉(かえふ)

蓮花(れんけ) 蓮蕋(レンスイ)

(ひし)

[やぶちゃん注:「芰」は「菱」を示す別字。異体字ではない。

(みつふき)

烏芋(くろくわゐ)

慈姑(しろくわゐ)

 

 

 

和漢三才圖會卷第九十一

      攝陽 城醫法橋寺島良安尚順

  水果類

 

Hasu

 

はちす  蓮【和名波知須】

 

     【蓮房似蜂巢

      故名之

      又畧曰波須】

唐音

レン

 

本綱蓮以子種者生遲藕芽種者最昜發其芽穿泥成白

蒻卽蔤也長者至𠀋餘五六月嫩時没水取之可作疏茹

[やぶちゃん字注:「蔤」の原文は「グリフウィキ」のこれに最も近いが、表示出来ないので、「蔤」とした。]

俗呼藕絲菜節生二莖一爲藕荷其葉貼水其下旁行生

藕也一爲芰荷其葉出水其旁莖生花也其葉清明後生

六七月開花花有紅白粉紅三色其花未𤼵爲菡萏已𤼵

[やぶちゃん字注:「𤼵」は「發」の異体字。]

爲芙蕖【芙蓉水𬜻】花心有黃鬚蕋長寸餘鬚內卽蓮也花褪連

房成菂【蓮實也】菂在房如蜂子在窠之狀六七月采嫩者生

食脆美至秋房枯子黒其堅如石八九月收之斫去黒殻

謂之蓮肉冬月至春掘藕【根也】食之

大抵野生及紅花者蓮多藕劣種植及白花者蓮少藕佳

也其花白者香紅者艷千葉者不結實也其莖爲荷莖乃

負葉者取負荷之義菂中青心二三分爲苦薏

 荷梗塞穴䑕自去煎湯洗鏤垢自新物性然也

蓮産于淤泥而不爲泥染居于水中而不爲水没根莖花

 實凡品難同清淨𭳯用羣美兼得自蒻蔤自節節生莖

 生葉生花生藕由菡萏而生蕋生蓮生菂生薏其蓮菂

 則始而黃黃而青青而綠綠而黒中含白肉內隱青心

 石蓮子堅剛可歷永久薏藏生意藕復萠芽展轉生生

 造化不息故釋氏用譬妙理具存矣

  古今はちすはの濁りにしまぬ心もて何かは露を玉と 遍照

                       あさむく

有合歡並頭者 有夜舒荷夜布晝卷 𪾶蓮花夜入水

 金蓮花黃色 碧蓮花碧色 繡蓮花如繡皆是異種

古今醫統云蓮萠投浄瓮中經年移種則發花碧色芙蓉

 先一夕以靛水調以紙蘸花蕋上用紙褁之來日開花

 亦成碧色

△按蓮生於泥而清浄性忌糞溺油膩物周茂叔之云菊

 花之隱逸者也牡丹花之富貴者也蓮花之君子者也

 且諸佛喜以蓮華爲座亦取清浄之義耳

 有倭蓮唐蓮二種倭蓮子如小榧唐蓮子稍小團二月

 斫去頭尾尖用小噐盛水投之中日則五七日生白髭

 根候葉生移栽於瓮其葉花小艷美可愛有白紅粉紅

 口紅之數品一池中不可襍栽變成其多者色

金𮈔蓮 紅花有金黃色理文最爲珍

大紅蓮 花淡赤色形似芭蕉花而從下開上凋落亦然

 五六寸爲臺梢成岐有花不實

[やぶちゃん字注:「梢」は原本では「稍」であるが、読みが、「コスヘニ」(ママ)とあるので、誤刻と断じて、特異的に訂した。

天竺蓮 花紅千葉而一列開凡蓮日午以後萎翌朝得

 日光唯天竺蓮晝夜不萎經五六日悉落焉

 山海經所謂太𬜻山【五嶽之一在陝西】髙五千仭廣十里山頂

 有池池中千葉蓮華服之羽化者亦此類乎


れんにく  菂 澤芝 薂 石蓮子 水芝

蓮肉   中心の青者名苦薏【一名蓮薏】

本綱蓮實至秋黑堅如石刴去黑殻謂之蓮肉以水浸去

赤皮青心生食甚佳入藥須蒸熟或晒或焙乾用之

氣味【甘温濇】 止脾泄久痢赤白濁脾之果補中養神益氣

 力除百疾【得茯苓白朮良大便燥濇者不可食】用之不去苦薏令人作吐

[やぶちゃん字注:「朮」は原文では「术」の字であるが、紛らわしいので「朮」とした。以下同じ。]


はすのね 藕【波知須乃祢】 蔤【和名波衣俗云嫩根】 一名藕絲菜

 

本綱蓮根五六月嫩時名蔤如竹之行鞭者節生二莖一

爲葉一爲花盡處老則爲藕花葉常偶生不偶不生故曰

藕凡白花藕大而孔扁生食之味甘煮食不美紅花及野

藕生食味澀煮蒸則佳冬春掘之食皆白色有孔有𮈔大

者如肱臂長六七尺凡五六節【以鹽水供食則不損口油煠麪米果食則無渣】

[やぶちゃん字注:「肱」は底本では、(つくり)が「玄」であるが、このような字は存在しない。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂でも当該部は「肱」らしき字で起こしており、東洋文庫訳では「肱」であるので、「肱」とした。「煠」は原文では、「つくり」の上に「云」があるのだが、このような漢字はない。引用元の「本草綱目」の「蓮藕」を、「漢籍リポジトリ」卷三十三」の「果之五【蓏類九種内附一種】」で確認したところ(ガイド・ナンバー[081-21b]の二行目から三行目)、「煠」であったので、特異的に訂した。

藕【甘】 散留血生肌止怒解酒毒及病後乾渴【煑忌鐵噐】

藕節【澀平】 治吐䘐欬血及血痢

 凡產後忌生冷物獨藕不同生冷者爲能破瘀血故藕

 亦節有治產後血悶口乾腹痛之功

△按藕有二節蔤出於其末節七八月採蔤生食之煮亦

 佳得酸愈良至冬孔中絲多甚稠煮之亦不絕如蜘絲

 冬春掘藕煠充果食俗云食藕則三年以前古疵再發

 也此大齟齬于本草之說


かえふ 蕸【荷同】 藕荷【俗云浮葉】 芰荷【俗云立葉】

荷葉

本綱嫩者名荷錢【象形】貼水者名藕荷【生藕】出水者芰荷

【生花者】止渴落胞破血治產後口乾心肺噪煩

△按蓮凡四月生浮葉五月生立葉六月別生一莖莖頂

 生菡萏也今人用荷葉裹飯及未醬當暑不餧

 潔古張先生製枳朮丸方枳實白朮【二味】用荷葉燒飯

 爲丸荷葉生于水土之下汚穢之中挺然獨立其色青

 其形仰其中空象震卦之體用此爲引可謂遠識合道

 矣更以燒飯和藥與白朮協力滋養補令胃厚不致內

 傷其利廣矣時珍曰伹以新荷葉煑湯入粳米造飯氣

 味亦全也


はすのはな 芙蓉 芙蕖 水𬜻

蓮花

れんすい

蓮蕋  佛座鬚

[やぶちゃん注:後者の「蓮蕋」「佛座鬚」は前の二行の下方に配されてあるが、ブラウザの不具合を考えて、改行した。]

本綱蓮花【苦甘温】 鎭心益色駐顔輕身難產催生蓮花一

 葉書人字吞之卽昜產【忌地黃葱蒜】

蓮蕋【甘濇温】 清心通腎固精氣烏鬚髮悅顏色益血止血

 崩吐血【忌同前】

 

   *

 

[やぶちゃん注:以下、一部をブラウザの不具合を考えて、改行した箇所がある。]

 

はちす  蓮【和名、「波知須」。】

 

     【蓮房《はちすのふさ》、

      蜂の巢に似る。故、之を

      名づく。

      又、畧して、「波須」と

唐音    曰《いふ》。】

レン

 

「本綱」に曰はく、『蓮《はす》、子《み》を以《もつて》種《うう》る者は、生ずること、遲く、藕(はすのね[やぶちゃん注:「蓮の根」。])・芽(はすのめ)≪を≫種る者は、最《もつとも》發《はつ》し昜《やす》し。其《その》芽(め)、泥を穿《うが》ち、「白蒻《はくじやく》[やぶちゃん注:この場合の「蒻」は「蓮の茎の水面下の泥の中にある茎の部分」を指す。]」を成す。卽ち、「蔤(わかね)」なり。長き者、𠀋餘に至る。五、六月、嫩《わか》き時、水に没して[やぶちゃん注:(人が)潜って。]、之を取り、疏《そ》と作《な》して茹(くら)ふべし。俗に「藕絲菜《ぐうしさい》」と呼ぶ。節《ふし》に二莖《にけい》を生ず。一つは、藕荷《グウカ/ねくき[やぶちゃん注:「根莖」。]》と爲《なり》、其葉、水に貼(つ)く。其《その》下≪に≫旁行《はうかう》して[やぶちゃん注:横に這って。]、藕(ね)を生じ、一つは、芰荷《シカ/はすくき》と爲り、其葉、水に出《いで》て、其《その》旁(そば)の莖は、花を生ず。其葉、清明《せいめい》の後《のち》に生《しやう》ず。六、七月、花を開く。花、紅・白・粉紅《フンコウ/うすべに》の三色、有り。其花、未だ𤼵(ひら)かざるを「菡萏(《カンタン/はすのつぼみ》)」と爲《なし》、已に𤼵《はつ》するを「芙蕖《フキヨ/はすのはな》」【芙蓉《ふよう》・水𬜻《すいくわ》】と爲《なす》。花の心《しん》[やぶちゃん注:「芯」。]に黃≪の≫鬚《ひげ》有り、蕋(しべ)の長さ、寸餘り。鬚の內、卽ち、「蓮」なり。花、褪(ほころ)びて、房《ふさ》を連《つらね》、「菂(はすのみ)」を成《なす》【蓮の實なり】。菂、房《ふさ》に在りて、「蜂の子(こ)」の窠《す》に在るの狀《かたち》のごとし。六、七月、嫩(わか)き者を采《とり》て、生《なま》にて食へば、脆(もろ)く、美なり。秋に至り、房、枯《かる》る。子《み》、黒《くろく》して、其堅《かたき》こと、石のごとし。八、九月、之《れを》收《をさめ》、黒≪き≫殻を斫(はつ)り去る。之を「蓮肉《れんにく》」と謂ふ。冬月より、春に至《いたり》て、藕(はちすのこ)【根なり。】を掘《ほり》、之≪を≫食ふ。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「清明」二十四節気の一つ。本来は、太陰太陽暦の三月節(=三月前半)のことを指し、太陽の黄経が十五度に達した日(太陽暦で四月五日か六日)に始まり,穀雨(黄経三十度:同前で四月二十日か 二十一日)の前日までの約 十五日間を指す。中国では、その頃に清々(すがすが)しい南東の風が吹くことから「淸明」と名づけられた。現行暦では、この期間の第一日目を指す。昔、中国では、これを、さらに五日分を「一候」とする「三候」(「桐始華」・「田鼠化爲」・「虹始見」) に区分した。それは、「桐の花が咲き始め」、田鼠(モグラ)が家鳩(かじょ:鶉・ウズラ)に化け、虹が見え始める時期の意味である(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」の主文に手を加えた)。]

『大抵、野生、及《および》、紅花なる者は、蓮、多く、藕《ね》、劣れり。種植《たてうゑ》、及《および》、白花の者は蓮、少《すくな》く、藕、佳なり。其《その》花、白き者は、香《かんば》し。紅《くれなゐ》の者。艷(みごと)なり。千葉《やへ》の者は、實を結ばざるなり。其《その》莖を、荷《か》と爲《なす》。莖は、乃《すなはち》、葉を負ふ者≪なれば≫、「負荷《フカ/にをおふ》」の義を取る。菂《はすのみ》≪の≫中の青き心、二、三分を「苦薏《クイ》」と爲《なす》。』≪と≫。

『荷梗(はすのくき)にて、穴を塞《ふさ》≪げば≫、䑕《ねずみ》、自《おのづから》去る。煎《せん》≪じた≫湯にて、鏤《すず》[やぶちゃん注:「錫」。また、「鉛との合金・はんだ」の意。「はんだ」は既に紀元前三〇〇〇年頃には存在したと考えられている。]≪の≫垢《あか》を洗へば、自《おのづから》、新《あらた》なり。物性、然《しか》しむなり。』≪と≫。

『蓮は、淤泥(どろ)より産して、而《しかも》、泥の爲めに染まらず。水中に居て、而《しかも》、水に爲めに没さず。根・莖・花・實、凡《すべて》、品《ひん》、同じ難《がた》し[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、ここを『根・茎・花・実、すべて凡百の植物と同日に論ずべきものではない。』とある。やや敷衍的ではあるが、理解し易い訳である。]。清淨・𭳯用《さいよう》[やぶちゃん注:ここは「有用」の意であろう。]・羣美《ぐんび》[やぶちゃん注:現代中国語では「品格・格調」の意。]、兼得《けんとく》≪し≫、「蒻蔤(わかね)」より、節節《ふしぶし》に莖を生《しやう》じ、葉を生じ、花を生じ、藕《ね》を生ず。菡萏《つぼみ》に由《より》て、蕋《しべ》を生じ、蓮を生じ、菂(み)を生じ、薏《しん》を生ず。其《その》蓮の菂《み》は、則《すなはち》、始《はじめ》て黃に、黃にして而《しかも》、青く、青《あをく》して而《しかも》、綠なり。綠にして而《しかも》、黒し。中《なか》に、白≪き≫肉を含(ふく)み、≪その≫內《うち》に青≪き≫心《しん》を隱す。≪その≫石蓮子《せきれんし》[やぶちゃん注:ハスの成熟果実の漢方名。]≪は≫、堅剛にして、永久を歷《ふ》べし。「薏《しん》」は生意《せいい》[やぶちゃん注:広義の時空を越えた神秘的な「生気」を指す。]を藏《ざう》す。藕《ね》、復た、萠-芽(めをいだ)す。展轉生生、造化《ざうか》、息《や》まず。故に、釋氏[やぶちゃん注:釈迦。]、用《もちひ》て、妙理《めうり》、具《とも》に存するに譬《たと》ふ。』≪と≫。

 [やぶちゃん注:時珍は「石蓮子」を永久保存出来るとしているが、現行の実際のハスの種(たね)の一般的な保存は一~五年とする。但し、漢方薬剤ではないが、御存知の方も多いであろうが、古代ハスの出芽ケースでは、実に約二千年に亙って地中で眠っていた種が発芽している事実がある。

「展轉生生」仏教用語「生生流轉」と同義。「万物が限りなく生まれ変わり、死に変わって、何時までも変化し続けること」を指す。]

 「古今」

 はちすはの

    濁りにしまぬ

   心もて

  何かは露を

     玉とあざむく

           遍照

[やぶちゃん注:「古今和歌集」の「卷第三 夏歌」の相僧遍昭(「遍照」とも表記する)の歌(一六五番。「新日本古典文学大系」版(小島憲之・新井栄蔵校注・一九八九年刊)を使用した)、

      *

   蓮(はちす)の露(つゆ)を見て、よめる

 はちす葉の

    にごりに染(し)まぬ

   心もて

  なにかはつるを

     珠(たま)とあざむく

      *

底本の訳を示すと、『蓮葉が、泥水で育ちつつもその濁りに染まらない心をもちながら、どうして露を玉ではないか思いしらせるのか。』とある。評には、『蓮の葉の上の露の美しさを賞美することに主意がある。』とするが、当該ウィキにある通り、『天台宗の僧侶となり僧正の職にまで昇ったこと、また、歌僧の先駆の一人であることなど、遍昭は説話の主人公として恰好の性格を備えた人物で』、『在俗時代の色好みの逸話や、出家に際しその意志を妻にも告げなかった話』などが、「大和物語」・「今昔物語集」・「寶物集」・「十訓抄」『などに見え、霊験あらたかな僧であった話も』知られる人物であったが故に、悟り切れない自身への懴悔(さんげ)の背景も見逃すべきではあるまい。]

『「合歡並頭《がうくわんへいとう》」[やぶちゃん注:二重の花弁を持つものを言うか。]の者、有り』。『有「夜舒荷《やじよか》」≪てふ≫、夜《よ》、布《ひら》き、晝、卷く、有り』。『「𪾶蓮花《すいれんくわ》」は、夜、水に入る』。『「金蓮花《きんれんくわ》」は黃色』。『「碧蓮花《へきれんくわ》」は碧色《みどりいろ》』。『「繡蓮花《しゆくれんくわ》」は繡[やぶちゃん注:「刺繡」(ししゅう)のこと。]のごとく、皆、是れ、異種なり』≪と≫。

[やぶちゃん注:「𪾶蓮花《すいれんくわ》」は「蓮」=双子葉植物綱ヤマモガシ(山茂樫)目ハス科 Nelumbonaceaeハス属ハス Nelumbo nucifera とは、全く異なるスイレン目スイレン科スイレン属 Nymphaea に属する。後注参照。

「古今醫統」に云はく、『蓮≪の≫萠《めばえ》≪を≫、浄《きよら》≪なる≫瓮《かめ》の中に投《とう》≪じ≫、年を經て、移し種《うう》る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、花を發《ひら》くなり。碧色、芙蓉は、先づ、一夕《いつせき》、靛《あい》[やぶちゃん注:ここは広義の濃青色の天然染料の「藍」。後注参照。]を以《もつて》、水に調へ、紙を以《もつて》、花・蕋を蘸(ひた)し≪た≫上、紙を用《もちひ》て、之を褁《つつ》めば、來日《らいじつ》[やぶちゃん注:次の日。]、花を開く。亦、碧色を成す』≪と≫。

△按ずるに、蓮は、泥より生《しやう》じて、而《しか》も、清浄にして、性、糞溺《ふんでき》[やぶちゃん注:大小便。]・油--物《あぶら》を忌む。周茂叔《しうもしゆく》云《いはく》、『菊花の隱逸なる者なり。牡丹花の富貴《ふうき》なる者なり。蓮は、花の君子なる者なり。』≪と≫。且つ、諸佛、喜《よろこび》て、蓮華を以《もつ》て、座と爲《す》。るも亦、「清浄」の義を取るのみ。

[やぶちゃん注:「周茂叔」東洋文庫訳の後注に、『周敦頤(とんい)。茂叔は字。北宋の学者。宋学の体系化に寄与した。宋学の開祖。』とある。]

 「倭蓮」・「唐蓮」の二種、有り。「倭蓮」の子《み》は小《ちさ》き榧《かや》のごとし。「唐蓮」の子は、稍《やや》小く、團《まろ》し。二月、頭尾の尖(《とが》り)を斫(はつ)り去《さり》、小≪さき≫噐《うつは》を用て、水を盛《もり》、之を投じて、日《ひ》に中(あ)つれば、則《すなはち》、五七日《ごひちにち》[やぶちゃん注:三十五日の後。]、白髭《しらひげ》の根を生じて、葉、生ずるを候《うかがひ》て、瓮《かめ》に、移し栽《う》ふ。其《その》葉・花、小≪くして≫、艷美《えんび》≪なり≫。愛ずしすべし。「白」・「紅《くれなゐ》」・「粉紅《うすべに》」・「口紅《くちべに》」の數品《すひん》、有り。一≪とつの≫池の中≪に≫襍-栽《まぜう》ふ[やぶちゃん注:ママ。]べからず。變じて、其《その》多き者の色に成る≪故なり≫。

「金𮈔蓮」は、紅《くれなゐ》≪の≫花≪に≫、金黃色《きんわうしよく》の理文(すぢ《もん》)有り。最《もつとも》珍と爲《なす》。

「大紅蓮」は、花、淡(うす)赤色。形、芭蕉の花に似て、下より、開上《ひらきのぼ》り、凋(しぼ)み落《お》つるも亦、然《しか》り。五、六寸。臺《うてな》を爲《なす》。梢(こずへ[やぶちゃん注:ママ。])に岐《また》を成し、花、有りて《✕→りても》、實(みの)らず。

「天竺蓮」≪は≫、花、紅《くれなゐ》。千葉《やへ》。而《しかして》、一列に開く。凡《およそ》、蓮は、日-午(ひる)より以後、萎(しぼ)み、翌朝《よくてう》、日の光《ひかり》を得≪て≫、《開く》[やぶちゃん注:脱字、或いは、誤刻であろう。或いは、前の一文の終りが「開」であるため、良安自身が、錯覚して書き忘れた可能性が高い気もする。]。≪而れども、≫唯、「天竺蓮」は、晝夜、萎(しぼ)まず。五、六日を經て、悉《ことごと》く、落つ。

「山海經《せんがいきやう》」に、所謂《いはゆ》る、『太𬜻山《たいくわさん》【「五嶽」の一《ひとつ》。陝西に在り。】、髙さ五千仭、廣さ、十里。山頂に、池、有り。池の中に千葉《やへ》の蓮華あり。之を服すれば、羽化《うか》[やぶちゃん注:羽化登仙を指す。]す。』と云《いふ》[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]。亦、此《この》類《たぐひ》か。

[やぶちゃん注:「山海經」私は馴染みなので、注も附さなかったが、ここで、入れておく。中国古代の幻想地理書。戦国時代から秦・漢(紀元前四世紀~ 紀元後三世紀頃)にかけて、徐々に付加・執筆されて成立したものと考えられている現存最古の地理書とされる。

「太𬜻山【「五嶽」の一。陝西に在り。】」現在の陝西省華陰市にある「中国五名山」の一つとして、「西岳」とも呼ばれ、道教の修行地として知られる。最高峰は南峰で二千百五十四メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「五千仭」周尺(一尺は二十二・五センチメートル)では、一仭は八尺、或いは、七尺であるから、九千から七千八百七十五メートルだ! 中国の誇張表現で話にならない。

「十里」戦国時代の一里は四百五メートルしかないので、四・〇五キロメートル。]


れんにく  菂《てき》 澤芝《たくし》

      薂《げき》 石蓮子 水芝《すいし》

蓮肉   中の心の青き者を「苦薏《くい》」と名づく【一名、「蓮薏」。】。

「本綱」に曰はく、『蓮≪の≫實、秋に至《いたり》て、黑く、堅く、石のごとし。黑≪き≫殻を刴(はつ)り去り、之を「蓮肉」と謂ふ。以《もつて》、水に浸し、赤き皮、青き心を去り、生《なま》にて食ふ。甚だ、佳なり。藥に入るゝには、須らく、蒸し熟ずべし。或《あるい》は、晒《さらし》、或は、焙乾《あぶりほし》、之≪を≫用ふ。』≪と≫。

『氣味【甘、温。濇《しぶし》。】 脾泄久痢《ひせつきうり》[やぶちゃん注:東洋文庫割注に『(脾臓障害からくる慢性下痢)』とある。]・赤白濁《せきしよくだく》[やぶちゃん注:同前で『(小便が白く濁ったり赤く濁ったりするもの)』とある。]を止む。脾の果《くわ》[やぶちゃん注:「果実」の意。]≪にして≫、中《ちゆう》[やぶちゃん注:同前で『(脾・胃)』とある。]を補し、神《しん》を養《やしなひ》、氣力を益し、百疾を除く【茯苓《ぶくりやう》・白朮《びやくじゆつ》を得て、良し。大便に燥濇《さうしよく》の者[やぶちゃん注:東洋文庫訳で「燥濇」にルビして、『はげしくしぶる』とある。]、食ふべからず。】。之を用るに、「苦薏」を去らざれば、人をして、吐《はく》を作《な》さしむ。』≪と≫。


はすのね 藕【「波知須乃祢《はちすのね》」。】

   蔤(わかね)

      【和名、「波衣《はえ》」。

       俗、云ふ、「嫩根《わかね》」。】

     一名、「藕絲菜《ぐうしさい》」。

 

「本綱」に曰はく、『蓮根、五、六月、嫩《わか》き時、「蔤(わかね)」と名づく。竹の行鞭《ぎやうべん》[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、『竹の行鞭(さお)』とするが、どうもしっくりこない。これは「竹製の鞭(むち)」の意ではなかろうか?]のごとくなる者≪にて≫、節《ふし》ごとに、二莖を生ず。一《いつ》は、葉と爲り、一は、花と爲る。盡《つく》る處、老(ひね)て、則《すなはち》、藕(はすのね)と爲り、花・葉、常に偶生《ぐうせい》す。偶《とも》せずんば、生ぜず。故《ゆゑ》、「藕《ぐう》」と曰ふ。凡そ、白≪き≫花の藕《ね》は、大にして、孔、扁《ひら》たし。生《なま》にて、之を食へば、味、甘く、煮て食へば、美ならず。紅《くれなゐ》≪の≫花、及《および》、野藕(のはす)は、生にて食へば、味、澀(しぶ)し。煮蒸《にむ》せば、則《すなはち》、佳なり。冬・春、之≪を≫掘《ほり》て、食ふ。皆、白色。孔《あな》、有り、𮈔《いと》、有り。大なる者、肱-臂《ひぢ》のごとく、長さ、六、七尺。凡そ、五、六節【鹽水《しほみづ》を以つて、食に供《きやう》すれば、則ち、口を損ぜず。油にて、麪《こむぎ》・米《こめ》・果《くわ》と煠《あげ》、食せば、則ち、渣《おり》、無し。】。』≪と≫。

『藕《はすのね》【甘。】』『留血を散じ、肌を生《しやう》し、怒(いかり)を止め、酒毒、及《および》、病後≪の≫乾渴《かんけつ/かはき》を解す【煑るに、鐵噐を忌む。】』≪と≫。

『藕の節《ふし》【澀《じゆう》、平。】』『吐䘐・欬血、及《および》、血痢を治す。』≪と≫。

『凡《およそ》、產後には、生《せい/なま》・冷《れい》の物を忌む。≪然れども、≫獨り、藕は、生《せい》・冷の者に同《おな》≪じきな≫らず。爲めに、能く、瘀血《おけつ》[やぶちゃん注:滞った血液。]を破る。故に、藕も、亦、節も、產後≪の≫血悶《けつもん》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に『(血流の異常によっておこる』ところの『目がくらみ』、『顔面蒼白なって人事不省におちいる)』症状を指す、とある。]・口≪の≫乾《かはき》・腹痛を治すの功、有り。』≪と≫。

△按ずるに、藕に二≪つの≫節、有り。蔤(わかね)、其《その》の末《うゑ》の節より出づ。七、八月、蔤を採り、生《なま》にて、之を食《くふ》。煮ても亦、佳し。酸《す》[やぶちゃん注:酢。]を得れば、愈(《いよ》いよ)[やぶちゃん注:送り仮名に踊り字「〱」がある。]、良し。冬に至《いたり》て、孔《あな》の中《なか》、絲《いと》、多く、甚だ、稠(ねば)る。之≪を≫煮ても亦、絕(き)れず[やぶちゃん注:(糸が)切れない。]。蜘絲(くものす)のごとし。冬・春、藕を掘り、煠(ゆで)て[やぶちゃん注:原本は後の「「て」は「﹅」。]、果《くわ》に充《あ》て[やぶちゃん注:果実扱いとして。]、食ふ。俗に云《いふ》、「藕《はすのね》を食へば、則《すなはち》、三年以前の古疵《ふるきず》、再發す。」となり。此れ、大《おほい》に「本草≪綱目≫」の說に齟齬(くひちが)ふ。


かえふ 蕸《はすのは》【「荷」も同じ。】

    藕荷《うきは》【俗、云ふ、「浮葉」。】

    芰荷《たちは》【俗、云ふ、「立葉」。】

荷葉

「本綱」に曰はく、『嫩《わか》き者を「荷錢」と名づく【象形《ざうけい》。[やぶちゃん注:東洋文庫訳に割注して、『(小さくて形が銭に似ているから)』とある。]】。水に貼(つ)く者を「藕荷(うきは)」と名づく【藕《はすのね》より生ず。】。水に出《いづ》る者を「芰荷《たちは》」と名づく【花の生ずる者。】。渴《かはき》を止め、胞《えな》[やぶちゃん注:出産後の胞衣(えな)を指す。]を落し、血を破り[やぶちゃん注:鬱血を流動させ。]、產後≪の≫口≪の≫乾《かはき》、心肺≪の≫噪煩《さうはん》を治す。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「心肺噪煩」東洋文庫訳の割注に『(心臓部が熱くなり、いらだち、手足をばたつかせる症)』とある。無論、前と合わせて産後に起こる症状である。]

△按ずるに、蓮、凡そ、四月に浮葉《うきは》を生じ、五月、立葉《たちは》を生じて、六月、別に、一莖を生ず。莖の頂《いただ》きに菡-萏(つぼみ)を生ず。今≪の≫人、荷葉を用《もちひ》て飯(めし)を裹《つつ》む。及び《✕→かくせば》、未醬(みそ)を暑《あつき》に當《あたり》て≪も≫、餧(すえ)らず。

 潔古張《けつこちやう》先生、「枳朮丸《きじゆつぐわん》」の方《はう》を製す。枳實《きじつ》・白朮《びやくじゆつ》【二味《にみ》。】≪を≫荷葉を用《もちひ》て、飯《めし》を燒《やき》、丸《ぐわん》と爲《なす》。荷葉は、水《すい》・土《ど》[やぶちゃん注:これは、後の「卦」という表現から、現実の「水」(みず)・「土」(つち)を指しているのではなく、五行のそれを指していると読まねばなるまい。]の下≪の≫汚穢《おわい》の中より生《しやう》じて、挺然《ていぜん》[やぶちゃん注:他(ほか)に懸け離れて、高く抜きん出るさま。]として獨立し、其色、青く、其形《かたち》、仰(あをむ)き[やぶちゃん注:ママ。「あふむき」が正しい。]、其中《なか》、空(うとろ)に[やぶちゃん注:ママ。「うつろに」の誤刻であろう。])、「震《シン》」の卦《け》の體《てい》に象(かたど)る。此《これ》を用《もちひ》て、引《いん》と爲《す》ること、遠識、道《みち》合(かな)ふと謂《いひ》つべし。更に、燒《やき》たる飯を以《もつ》て、藥に和(ま)ぜ、白朮と力《ちから》を協(あは)せて、滋(ますます)、養補《やうほ》して胃を厚くして、不致內《うち》、傷《きずつく》ることを致さざらしむ。其《その》利《り》、廣《ひろき》かな、時珍曰はく、「伹《ただし》、新しき荷葉を以《もつ》て、湯に煑《に》≪て≫、粳米(うるち《まい》)に入《いれ》て、飯を造る。氣味も亦、全《まつた》きなり。」≪と≫。

[やぶちゃん注:「潔古張先生」東洋文庫訳に割注して、『(張潔古・張元素のこと。潔古は字。金代の名医)』とある。

『「震」の卦の體』東洋文庫訳に後注して、『震の卦は「亨(とお)る」であり、百里四方までおどろかす。遠きをおどろかして近きをおそれさせる、と『易経』の彖伝(たんでん)に解説がある。』とある。

「引《いん》」東洋文庫訳に割注して、『(枳実・白朮の効を顕著にするため』、『補助薬として用いること)』とある。]


はすのはな 芙蓉《ふよう》  芙蕖《ふきよ》

      水華《すいくわ》

蓮花

れんすい

蓮蕋  佛座鬚《ぶつざしゆ》

「本綱」に曰はく、『蓮花【苦、甘。温。】』『心を鎭(しづ)め、色[やぶちゃん注:「血色」(けっしょく)のこと。]を益《えき》し、顔を駐《ちゆう》し[やぶちゃん注:顔を若いままに留め。]、身を輕くし、難產の催-生(はやめ)に[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、『難産の産を催(はやめ)させるには、』とある。]、蓮花一葉《いちえふ》に、「人」の字を書《かき》て、之を吞《の》ますれば、卽ち、產、昜《やす》し【地黃《ぢわう》・葱《ねぎ》・蒜《にんにく》を忌む。】』≪と≫。

『蓮蕋【甘、濇《しぶし》。温。】』『心を清《きよらに》し、腎を通《とほ》し、精氣を固くし、鬚・髮を烏(くろく)し、顏色を悅《よろこ》ばしめ、血を益《えき》し、血崩《けつはう》[やぶちゃん注:子宮からの出血。]・吐血を止《と》む【忌は同前。】。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:私は、どうやら、ハスとは、深い御縁があるようだ。本『「和漢三才圖會」植物部』を始めて、三年三ヶ月になるが、本文の字起こしと訓読文(有意に割注・後注を附した)制作だけで、甚だ「楽しい!」と感じたのは、初めてのことだった。何故、そう感じたかに就いて、思い当たることは、ない、のだ。敢えて言えば、中・高で六年住んだ富山県高岡市伏木で、家のあった矢田新町の裏にあった「矢田の堤」(現存しない。グーグル・アースで見たら、完全に干上がっていた……哀しい……)へ散歩するのが、楽しみだった。泡のような卵塊を持つモリアオガエル(カエル亜目アオガエル科アオガエル亜科 Zhangixalus 属モリアオガエル Zhangixalus arboreus )がいた……途中の休耕田にハスが繁殖していた……素敵な花を見るのが楽しみだった……それぐらいしか、記憶には、ない。無神論者の私は、ハスを有難いものとは思わない人種であるのだが……閑話休題。本項は、

双子葉植物綱ヤマモガシ目ハス科ハス属ハス Nelumbo nucifera

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした。必要を感じない部分は、示さずに省略している。太字・下線は私が附した)。『インド原産のハス科多年性水生植物。別名、ハチス。中国名は蓮』。『地下茎は「蓮根」(れんこん、はすね)といい、野菜名として通用する』。『日本での古名「はちす」は、花托の形状を蜂の巣に見立てたとするのが通説である。「はす」は』、『その転訛』。『水芙蓉(すいふよう、みずふよう)、もしくは単に芙蓉(ふよう)、不語仙(ふごせん)、池見草(いけみぐさ)、水の花などの異称を』持つ。『漢字では「蓮」のほかに「荷」または「藕」の字をあてる』。『ハスの花と睡蓮(スイレン)を指して「蓮華」(れんげ)といい、仏教とともに伝来し』、『古くから使われた名である』。『属名 Nelumbo はシンハラ語から。種小名 nucifera はラテン語の形容詞で「ナッツの実のなる」の意』。『英名 Lotus(ロータス)はギリシア語由来で、元はエジプトに自生するスイレン』(割注で述べた通り、全く異なるスイレン目スイレン科スイレン属 Nymphaea に属する種群を指す)『の一種「ヨザキスイレン」 Nymphaea lotus を指したものという』。『ハスの花托は蜂の巣状に見える。その形状は品種によって様々』である。『原産地はインド亜大陸と』、『その周辺。日本では帰化植物として、北海道、本州、四国、九州に分布し、池や沼などに自生する』。『多年草で、春に地中の地下茎から芽を出して茎を伸ばし、水面に葉を出す。草高は約』一『メートル、茎に通気のための穴が通っている。はじめは浮葉になるが、のちに長い葉柄をもって水面よりも高く出る葉もある。葉は直径』四十~五十『センチメートル』『の円形で、葉柄が中央につき、撥水性があって水玉ができる(ロータス効果)。沼や池の沿岸部に沿って多く自生する』。『花期は夏(』七~八『月)で、葉柄よりも長い花茎を水上に出して、白またはピンク色の』一『輪の花を咲かせる。早朝に咲き』、『昼には閉じる。花後は、花床の穴の中で、実を結ぶ。開花前日から約』三『日間、花の中心にある花托が』摂氏三十~三十五度『を維持して発熱することから』、『発熱植物の一種である。加熱する事で芳香成分が揮発しやすいなどの考察がなされ、発熱が訪花昆虫の誘引に寄与していることが確認されている』。『栽培品種も、小型のチャワンバス(茶碗で育てられるほど小型の意味)のほか、花色の異なるものなど』、『多数ある』。『なお、果皮はとても厚く、土の中で発芽能力を長い間保持することができる』。昭和二六(一九五一)年三『月、千葉市にある東京大学検見川』(けみかわ)『厚生農場の落合遺跡で発掘され、理学博士の大賀一郎が発芽させることに成功したハスの実は、放射性炭素年代測定により今から』二千『年前の弥生時代後期のものであると推定された(大賀ハス)。その他にも中尊寺の金色堂須弥壇から発見され』、八百『年ぶりに発芽に成功した例(中尊寺ハス)や埼玉県行田市のゴミ焼却場建設予定地から出土した、およそ』千四百『年から』三千『年前のものが発芽した例(行田蓮)もある』。『近年の被子植物のDNA分岐系統の研究から、スイレン科のグループは被子植物の主グループから早い時期に分岐したことがわかってきた。しかしハス科』Nelumbonaceae『は』、『それと違って』、『被子植物の主グループに近いとされ、APG分類体系ではヤマモガシ目』Proteales『に入れられている』。『後述するように、人間にとっては』、『鑑賞や宗教的なシンボル、食用などとして好まれる植物であり、雷魚などの淡水魚にとっても』、『好ましい住みかとなるが、繁茂し過ぎると』、『他の水生生物に悪影響を与える懸念がある。このため』、『手賀沼(千葉県)などでは駆除が行われている。水中の茎を切ると』、『組織に水が入って腐り、再生しなくなる』。『食用、薬用、観賞用として湿地で栽培される。根茎は』十一『月』頃『から翌年の』『二月』頃『までに掘り取って採取する。果実は』八~十一『月』頃『に花床ごと』、『採取する』。『地下茎はレンコン(蓮根)として食用になる。日本では茨城県、徳島県で多く栽培されており、中国では湖北省、安徽省、浙江省などが産地として知られている。レンコンは、湯がいて』、『水にさらし、皮を剥いて煮込むほか、酢の物や炒め物などにする。中国では、すり潰して取ったでん粉を葛と同様に、砂糖とともに熱湯で溶いて飲用する場合もある』。『生薬名としても、蓮根(れんこん)と称される。民間療法では下痢止めに』、一『日量』二十『グラム』『を刻んで』、四百『ミリリットル』『ほどの水で半量になるまで煎じて、食後に』三『回に分けて服用する用法が知られる』。『はすの実と呼ばれる果実(種子)にも』、『でん粉が豊富であり、生食される。若い緑色の花托が生食にはよく、花托は堅牢そうな外見に反し、スポンジのようにビリビリと簡単に破れる。柔らかな皮の中に白い蓮の実が入っている。若い実は炊き込みご飯に利用する。種は緑色のドングリに似た形状で甘味と苦みがあり、生のトウモロコシに似た食感を持つ。また甘納豆や汁粉などとしても食べられる』。『中国や台湾、香港、マカオでは』、『餡として加工されたものを蓮蓉餡と言い、これを月餅、最中、蓮蓉包などの菓子に利用されることが多い。餡にする場合、苦味のある芯の部分は取り除くことが多く、取り除いた芯の部分を集めて蓮芯茶として飲まれることもある』。ヴェトナム『では砂糖漬けやチェー(Chè)』(ヴェトナムの伝統的な甘味飲料で、デザートやプディングである。ヴェトナムで食べたが、美味い)『の具として食べられる』。『また、生薬名を蓮実(れんじつ)、蓮肉(れんにく)という生薬として、よく熟した実を炒って食べると、鎮静、滋養強壮作用がある』。『果実の若芽は、果実の中心部から取り出して、茶外茶』(多くの茶葉などをブレンドし、好みで、氷砂糖を加える八宝茶や、木の根などを使用して茶葉を使わない漢方茶の類なども、これに分類される。以上はウィキの「中国茶」に拠った)『として飲用に使われる』。『ハスを国花としている』ヴェトナム『では、雄蕊で茶葉に香り付けしたものを花茶の一種である蓮茶として飲用する。資料によれば』、『甘い香りが楽しめると言う。かつては茶葉を花の中に挿入し、香りを茶葉に移していた』。『また』、『朝鮮半島・中国には茶外茶として花そのものを原料としたものがあり、こちらも蓮茶と称される』。『撥水性の葉と茎が』、『ストロー状になっている性質から、葉に酒を注いで茎から飲む象鼻杯(ぞうびはい)という習慣もある』。ヴェトナム『では茹でてサラダのような和え物にして食べる。中国のハスの一大産地である湖北省では、春から夏にかけて、間引かれた若茎(葉の芽)を炒め物・漬け物などにして食べる。日本においては』、『食べやすく切った茎を煮物の材料として用いる。産地である秋田県では、茎を用いた砂糖漬けが作られている』。『茎の表皮を細かく裂いて作る糸を「茄絲(かし)」、茎の内部から引き出した繊維で作る糸を「藕絲(ぐうし)」と呼び、どちらも布に織り上げる等、利用される』。

以下、「象徴としてのハス」の項。『ハスの花、すなわち蓮華は、清らかさや聖性の象徴として称えられることが多い』。『「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という日本人にも馴染みの深い中国の成句』(本文に出た周茂叔の著した「愛蓮說」からの引用)『が、その理由を端的に表している』。

以下、「宗教とハス」の項。『古来インドでは、インダス文明の頃から、ハスの花は聖なる花とされ、地母神信仰と結びつき、神聖なるものの象徴とされていた』。『ヒンドゥー教の神話やヴェーダやプラーナ聖典などにおいて、ハスは特徴的なシンボルとして繰り返し登場する。例えば』「バガヴァッド・ギーター」十一『章で、クリシュナは「蓮華の目を持つ者よ」と美称され、アルジュナは「ハスの上に座す梵天(最高神)を、そしてシヴァ神、あらゆる賢者たち、聖なる蛇たちをわたしは見ます」と語る』。『同』五『章の記述「結果を最高神に任せ』、『執着なく義務を遂行する者は、罪に迷わない。あたかもハスの葉に水が触れぬがごとく」は、後の仏教における「ハス」の象徴的用法と近いものを含む。泥から生え』、『気高く咲く花、まっすぐに大きく広がり水を弾く凛とした葉の姿が、俗世の欲にまみれず』、『清らかに生きることの象徴のようにとらえられ、このイメージは仏教にも継承された』。『性典の中では「女陰」の象徴』。『多神教信仰から女神崇拝が生まれ、そのため、古代インドでは女性に対する』四『段階の格付けが生まれた。上からパドミニ(蓮女)、チトリニ(彩女、芸女)、シャンキニ(貝女)、ハスティニ(象女)といい、最高位の「蓮女」の象徴としてラクシュミーという女神が、崇拝された』。『仏教では』「阿彌陀經」『において「池中蓮華 大如車輪」と説かれ、極楽で蓮華が咲き誇る様が語られていることから、仏道』及び『仏の象徴として、如来像の蓮華座、聖観音像の持物、寺院の「常花」、金剛盤の意匠等、多くの仏具に蓮の花をあしらっている。とくに泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿(「出淤泥而不染」)は「穢れた人道から天道へと至る」輪廻転生のメタファーとして扱われ、正信偈においても「是人名分陀利華」と記述されている。また、蓮の別名「芙蓉」も輪廻転生の別称とされている』。『一方で、仏教国チベットでは標高が高く生育しないため、想像でかかれたのか』、『チベット仏教寺院では日本に比べ、かなり変形し、その絵はほんのり赤みがかった白い花として描かれている』。『また』、『死後に極楽浄土に往生し、同じ蓮花の上に生まれ変わって身を託すという思想があり、これが「一蓮托生」という言葉の語源になっている』。『なお、経典』「摩訶般若波羅蜜經」『には「青蓮花赤蓮花白蓮花紅蓮花」との記述がある。ここでの青や、他で登場する黄色は睡蓮のみに存在する色である。仏典においては』、『蓮と睡蓮は区別されず、共に「蓮華」と訳されている』。『密教においては』、『釈迦のみならず、ラクシュミー(蓮女)である吉祥天女を本尊として信仰する吉祥天女法という修法があり、蓮は特別な意味を持つ』とある。

 さて、ここで、順列に従わず、

――『「合歡並頭《がうくわんへいとう》」の者、有り』。『有「夜舒荷《やじよか》」≪てふ≫、夜《よ》、布《ひら》き、晝、卷く、有り』。『「𪾶蓮花《すいれんくわ》」は、夜、水に入る』。『「金蓮花《きんれんくわ》」は黃色』。『「碧蓮花《へきれんくわ》」は碧色《みどりいろ》』。『「繡蓮花《しゆくれんくわ》」は繡[やぶちゃん注:「刺繡」(ししゅう)のこと。]のごとく、皆、是れ、異種なり』≪と≫。――

の部分について、注する。実は、ここは最後に――ちゃんと――『皆、是れ、異種なり』――とあるのであった。この「本草綱目」の当該部を、以下に示す。★良安の引用は、肝心な最後の最後の一文をカットしてしまっていたのである。なお、本項の引用は「漢籍リポジトリ」の「卷三十三」の「果之五【蓏類九種内附一種】」の異様に長い「蓮藕」([081-17b]以下)のパッチワークである。而して、★問題の箇所★([081-19a]の三行目後半以降)を、手を入れて、示す。下線を引いたのが、良安が外してしまった――肝(キモ)――の部分である。

   *

别有合歡並頭者有夜舒荷夜布晝卷睡蓮花夜入水金蓮花黃碧蓮花碧繡蓮花如繡皆是異種故不述相感志云荷梗塞穴鼠自去煎湯洗鑞垢自新物性然也

   *

原文では、判り難いので、★国立国会図書館デジタルコレクションの「頭註國譯本草綱目 第九册」(鈴木真海訳・白井光太郎他校注・一九七五年春陽堂書店刊)の当該部分(「四四」ページの後ろから四行目最後の一字から、次の「四五」ページの二行目まで)の訳を示す。戦後の版であるが、本文は先行する基礎とした旧版に則り、歴史的仮名遣で旧字である。対応する箇所に同じく下線を引いた。

   《引用開始》

別に合歡竝頭(がふくわんへいとう)のものがあり、夜舒荷といふ夜布(し)いて晝卷くもの、睡蓮といふ花が夜水に入るもの、金蓮といふ花の黃なるもの、碧蓮といふ花の碧[やぶちゃん注:「みどり」。]なるもの、繡(いろど)つたやうなものがあるが、いづれも異種のものだから。此に說述しない。「相感志」に『荷梗で穴を塞げば鼠が自ら去る。煎湯で鑞垢(らふこう)を洗へば自ら新になる』とある。物の性に因る現象だ。

   《引用終了》

即ち

◎李時珍は「蓮」と「睡蓮」類が全く異なる植物であることを現在と同様に正しく認識していた

のである。

くどいが、再度、掲げる。

「蓮」は双子葉植物綱ヤマモガシ(山茂樫)目ハス科 Nelumbonaceae ハス属ハス Nelumbo nucifera

であり、

𪾶蓮花」は全く異なるスイレン目スイレン科スイレン属 Nymphaea

なのである。

そして、而して、良安も

「和漢三才圖會」の「卷第九十七」の「水草類」にある「睡蓮」として――全く別種として立項している――

のであった。六巻も先なので、ここでは、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該項をリンクさせておく。そこで、良安は「蓮」のことを、一切、記載していないから、やはり時珍と同じく「蓮」と「睡蓮」を全くの別種と認識していたことが明確となるのであった。

 なお、本文には、明らかな明時代の品種と思われる漢名が出るが、ニ、三調べて見たが、判らないので、やめた。古代ハスから、現行の本邦の品種だけでも、物凄い数があるが、品種学名を示すものは、ちょいと見では、見当たらなかったので、やる気が無くなった。悪しからず。]

2025/08/06

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「奇男」

[やぶちゃん注:底本はここから。句読点・記号を追加した。]

 

 「奇男《あやしきをとこ》」 安倍郡《あべのこほり》府中、御在城の時にあり。「當代記」云《いはく》。『慶長十四年四月四日。駿府大御所御座之間近處何共不ㇾ知人、水走板潛來。則戒ルニ一圓戲者也、非ズトㇾ可ㇾ有誅戮追放。云云。』。

 

[やぶちゃん注:「當代記」(安土桃山から江戸初期までの諸国の情勢・諸大名の興亡・江戸幕府の政治等に関する記録。全十巻。姫路城主松平忠明(ただあきら:家康の外孫)の著ともされるが、不詳(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った))を、まず、推定訓読する。字下げ・改行、及び、句読点をさらに追加・変更した。

   *

 慶長十四年四月四日。駿府大御所、御座の間《あひだ》、近處《ちかきところ》に、何とも知られざる人、水走《みづばし》り板《いた》、潛來《くぐりきた》る。

 則《すなはち》、戒《いまし》め見るに、一圓《いちゑん》、戲者《たはけもの》なり。

「誅戮《ちうりく》、有《ある》非《べから》ず。」[やぶちゃん注:大御所自身の命令。]

と、追放せらる。云云《うんぬん》。

   *

・「水走り板」意外なことに、この語は、辞書類を探したが、全く見当たらない。検索でAIの答えた『日本庭園において、水路や池から水が流れ出る場所、またはその流れを指す言葉です。庭園に水を取り入れるための重要な要素であり、流れの形状や石組みによって様々な景観を作り出します。』というのが、納得出来る(同じくAIが言う『枯山水庭園(水を使わない庭園)で』も、『砂や石で水面や流れを表現することがあ』るとするのは、この場合、シチュエーションの事実内容を上手く説明出来ないと判断したので採用しない)。則ち、駿府城の大御所のいるところの庭園に水を引いた木製水路(人一人がなんとか潜れるようなもの)から侵入したものと解釈しておく。

・「一圓」副詞で「一向に・さらに・少しも」の意で、この場合は、「全く以って、あきれたことに」というニュアンスであろう。

・「戲者」「おどけもの」「ざれもの」「じやれもの」「たはもの」とも読めるが、一番、シークエンスで家臣が使いそうな「たはけもの」を採用した。意味は、ここでは、人を罵って言うところの「馬鹿者・阿呆・痴れ者・うつけ者」の意味で採る。

 これは、前篇「怪男」と全く同年同日の記載であり、こちらこそが、事実であったとするのが、自然である。則ち、家康が見たのは――奇体な人間ならざる存在でも――訳の分からぬ「切支丹」でも――「封」でも――「太歲」でも――「肉人」でも――「視肉」でもなんでもない、少々、頭がイカれた、クソ闖入者に過ぎなったのである!――噂話なんて、結果して、こんなものさ…………

2025/08/05

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(一)鰑の說(その2) / 本ブログの二十年の記事中、最大の日数を費やした誰にも負けない労作注である!!!

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事を参照されたい。

底本はここから。注を多量に附さねばならない関係上、本文の改段落の箇所で分割して示す。

 なお、以下の本文では、かなりルビが振られているが、若い読者が躓く可能性があるもの、「ぶれ」があるため、私が必要と感じたもののみとした。書名は明確にするために鍵括弧を添えた。また、引用部と判断される部分は二重鍵括弧を添えた(引用内の引用は二重鍵括弧を使用した)。前回述べた通り、濁音であるものを清音にしてある箇所は、私の判断で濁点を附し、そこは太字とした。また、句点はなく、読点は極めて少ないが、読んでいて躓く箇所については、最小限、必要と断じた箇所に入れてある。それは煩鎻に過ぎるので、特に太字などにしていない。各段落冒頭の一字下げがないのは、ママである。既に、先行電子化で注した書名注は、繰り返さない。

 最後に――私は、貝類・軟体動物等を「命(いのち)」として海産無脊椎動物を中心にした――キョウレツな――フリークである(学術的な海岸動物関係の図鑑等だけでも五万円の本格物を筆頭に、有に三十冊以上を所持している)から、本電子化のオリジナル注にはマイ・フィールドとして拘りがあるので、くだくだしくなるのは、諦めて戴きたい。悪しからず。

 

鰑に製すべき烏賊の種類は古書に載する所一樣ならず。「和漢三才圖會」「庶物類纂」「本朝食鑑」「大和本草」「本草綱目啓蒙」「物品識名」「魚鑑(うをかゞみ)」「日東魚譜」「隨觀寫眞」「水族志」「海產魚譜」「南海魚譜」「相海(さうかい)魚譜」等を始め其他古人の著書に載するもの皆(みな)漢土の書を引用し、傍ら一家の說を加(くわふ[やぶちゃん注:ママ。])るも、或は漢名なく或は方言に漢字を付するも各(かく)異(ことな)れり。而して烏賊(うぞく)、柔魚(じうぎよ)に屬する名を擧(あぐ)れば【一物數名のものもあり】[やぶちゃん注:以下の羅列されたイカの和名・漢名の読み方の歴史的仮名遣の誤り、或いは、疑問がある箇所は後注で示す。]、「まいか」「かふいか」「はりいか」「しりやけいか」一名「しりくさり」【但し、二番鰑《にばんするめ》の「しりくされ」とは異《ことな》る】「ほしいか」「しゝいか」「かみながいか」一名「こうながいか」「すじいか」「きんこういか」「し﹅ぽいか」「こぶしめ」「あふりいか」「みづいか」「よしみづいか」「もいか」「おほいか」「ごいか」「たついか」「するめいか」「せんどういか」「さすいか」「たちいか」「すぢいか」【烏賊の「すぢいか」と異る】「めいか」「しやくはちいか」【「やりいか」にも此名あり)】「つ﹅いか」「き﹅やういか」「さどいか」「さるいか」「おにいか」「あかいか」「やりいか」「しやくはちいか」[やぶちゃん注:ママ。ダブり。]「まるいか」「なついか」「ふゆいか」「あきいか」「ぶといか」一名「ぶどういか」「とつぽいか」「ごとういか」「ずんどういか」「さばいか」「さ﹅いか」「ばしやういか」「まついか」「とんきう」「うしとんきう」「ひいか」「べにいか」「ちつこいか」「べいか」「べか」「み﹅いか」【或は之を「みみだこ」とも云ふ】等なり。又「本草綱目」其他數部の本草書、及び、府縣志、物產書等(とう)漢書(かんしよ)に載する所の烏賊(うぞく)に係(かゝ)る異名(いみやう)凡(およそ)十八あり。則(すなはち)、烏鰂、烏則、墨魚、黑魚、䌫魚、廿盤校尉(かんばんこうい)、愈黝(ゆよう)、河伯、白事、小史、河伯從事、海若白事小史、小史魚、銀甁魚(ぎんへいぎよ)、螵蛸魚(ひやうほうぎよ)、算袋魚(さんたいぎよ)、花枝(くわし)、𩶋魚(ぼぎよ)、とす。又、柔魚(じゆうぎよ)、鎻管(さくわん)、一名、靜斑(せいはん)、猴染(こうせん)、墨斗、なるものあり。其稱の因(よつ)て起(おこ)る所、各(かく)、緣由(ゑんゆう)ありと雖ども、今(いま)茲に之を畧せり。元來、「本草綱目」は、「烏賊魚(うぞくぎよ)」の外、一種、「柔魚(じうぎよ)」あり。『烏賊に似て、骨、無く、爾越(じえつ)[やぶちゃん注:「越」の誤り。後注参照。]の人、之(これ)を重(おもんず)。』とあるのみ。「閩書(びんしよ[やぶちゃん注:前にも出たが、原本は『みんしよ』であるが、訂した。])」は、『烏賊の大(だいなる)者(ものを)、花枝(くわし)と名(なづ)け、柔魚は、烏賊に似て長く、色、紫(むらさき)して、漳人(しやうじん)、晒乾(さいかん)して、之を食す。其味ひ、甘美(かんみ)なり。鎻管(さくわん)、或は云ふ、柔魚やや﹅小のみ。又、猴斗(こうと)有り。鎻管に似て、小(しやう)、亦、能(よ)く墨(すみ)を吐(はく)。又、猴染(こうせん)、有り、墨斗(ぼくと)より、大にして鎻管より小なり。』とあり。「漳州府志」には、『柔魚は烏鰂に似て、小なり。曝乾(ばうかん)して、之を食す。味ひ、甘(かん)、甚(はなはだ)珍なり。鎻管[やぶちゃん注:船舶用語で「錨の鎖」の意だが、福建語で「小さなイカ」或いは「スルメイカ」を意味する語。]は、其身、圓直(ゑんちよく)にして、鎻管狀(さくわんぜう)の如く、首に、薄骨(はくこつ)、有り。管中(かんちう[やぶちゃん注:ママ。「中」の歴史的仮名遣は「ちゆう」が正しいが、「ちう」とするケースが戦前の有名作家の作品でも多く見られる。この注は向後は附さない。])に插入(さしい)る鎻鬚(さしゆ)の如し。其味(あじはひ)、甘脆(かんぎ/うまし[やぶちゃん注:右左(当該順)にルビ。左は意味ルビ。この後にも出る。以降、この注は附さない。])なり。猴染(こうぜん)は、狀(かた)ち、鎻管の如くにして、味、及ばず。』とす。

 

[やぶちゃん注:「庶物類纂」江戸中期の稲生若水(いのうじゃくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年:淀藩の御典医稲生恒軒(本名は稲生正治)の子として江戸の淀藩屋敷で生まれた)著の三百六十二巻に、弟子の丹羽正伯らが増補した六百九十二巻が加わった、実に千五十四巻から成る本邦の博物学史上、画期的な本草書で、延享四(一七四七)年完成。漢籍類などから、動・植・鉱物の記事を集成・分類し、実物によって検証したもの。

「本草綱目啓蒙」本草家小野蘭山(享保一四(一七二九)年~文化七(一八一〇)年:二十五歳で京都丸太町に私塾衆芳軒を開塾、多くの門人を教え、七十一歳にして幕命により江戸に移って医学校教授方となった)が、享和元(一八〇一)年~文化二(一八〇五) 年にかけて、諸国を巡って植物採集を行い、享和三(一八〇三)年七十五歳の時に自己の研究を纏めた「本草綱目啓蒙」を脱稿した。本草一八八二種を掲げた大著で三年かけて全四十八巻を刊行、日本最大の本草学書になった。衰退していた医学館薬品会を再興、栗本丹洲とともにその鑑定役ともなっており、親しい間柄であった。後にこの本を入手したシーボルトは、蘭山を『東洋のリンネ』と賞讃した(ウィキの「小野蘭山」に拠る)。

「物品識名」岡林清達(きよたつ)稿・水谷豊文補編の本草書。文化六(一八〇九)年跋。

「魚鑑(うをかゞみ)」江戸後期の外科医武井周作の著書。天保二(一八三一)刊。絵入り本。挿絵の画力は絶品である。

「日東魚譜」全八巻。本邦(「日東」とは日本の別称)最古の魚譜とされるもので、魚介類の形状・方言・気味・良毒・主治・効能などを解説する。序文には「享保丙辰歲二月上旬」とある(享保二一(一七三六)年。この年に元文に改元)。但し、幾つかの版や写本があって内容も若干異なっており、最古は享保九(一七一九)年で、一般に知られる版は享保一六(一七三一)年に書かれたものである。私はブログ・カテゴリ『神田玄泉「日東魚譜」』を作ってあるが、挿絵のレベルが、ちょっと食指が動かないことから、四記事でペンディングしたまま、放置プレイである。

「隨觀寫眞」私の『海産生物古記録集■4 後藤梨春「随観写真」に表われたるボウズボヤ及びホヤ類の記載』を見られたい。

「水族志」私はブログ・カテゴリ『畔田翠山「水族志」』を作っている。その初回、『カテゴリ 畔田翠山「水族志」 創始 / (二四六) クラゲ 《リロード》』を見られたい。原文を活字化するのが、手作業であるため、この二年程、御無沙汰しているが、そろそろ再起動しないといけない、とは思っている。その底本の「イカ」は、ここ以下である。そこに同プロジェクトが進むのは、かなり先になる。

「海產魚譜」不詳。所持する複数の博物学書籍を見たが、見当たらない。ネット検索でも掛かってこない。

「南海魚譜」これは、恐らく、江戸中・後期の本草家小原桃洞(おはらとうどう 延享三(一七四六)年~文政八(一八二五)年:紀伊和歌山出身。名は良貴。医学を吉益(よします)東洞に、本草学を小野蘭山に学んだ。熊野などの動植物を調査し、和歌山藩医となり、医学館本草局を主宰した。著作に「熊野採藥巡覽記」が知られる)の作とされる、「小原氏南海魚譜」のことであろう。写本だが、「国書データベース」のここで、画像を見ることが出来る。

「相海(さうかい)魚譜」「海產魚譜」と全く同前。

「烏賊(うぞく)」既にさんざん出ているが、ここで、所持する荒俣宏氏の「世界第博物図鑑」の別巻2の「水生無脊椎動物」(一九九四年平凡社刊)の「イカ」の項の「名の由来」から引用する。

   《引用開始》

 沈懐遠《南越志》によれば,中国名の鳥賊魚は,〈カラスを賊害する魚〉の意.イカはカラスが大好物で,いつも水上に死んだように浮かんで,それを見て襲いかかってきたカラスを触腕でからめとり,水に潜って食うということからついた名だという.またべつに,鳥賊は〈黒い賊〉という意味ともされる.この動物が,小魚を捕えるさい,腹の中から墨を出して,水を真っ黒にし,困った小魚が勤けなくなったところを襲って食べるためについたよび名だというのである.ちなみに小野蘭山《本草紀聞》(1791)によると,日本ではイカの2本の長い触腕を称して〈イカの隠し足〉といった.イカはいつもはこれを隠していて,カラスなどを捕えようというときに,この長い足で巻きとるのだそうだ.

   《引用終了》

無論、こんな習性はイカには、全く、ない。昔、授業でこの話をすると、真に受ける教え子が多かったのには、吃驚であった。

「柔魚(じうぎよ)」同前に『中国では一般に,墨魚という名をコウイカ類ないし丸型のイカの総称に用い,柔魚という名をヤリイカ類や形の長いイカの総称とする.ただしこの使いわけは,かならずしも厳密なものではない.また鳥賊は,イカ類・全体の総祢とされるほか,とくにコウイカ類を指すこともある(《中国食物事典》).』とあり、別に『ヤリイカを示す柔魚は,骨がなくて柔らかい魚』ともある。

「まいか」小学館「日本国語大辞典」では、「真烏賊」とし、『①「しりやけいか(尻焼烏賊)」の異名。』とする一方で、『② 「するめいか(鯣烏賊)」または「けんさきいか(剣先烏賊)」の異名。』とする。①は、

軟体動物門頭足綱鞘形亜綱十腕形上目コウイカ目コウイカ科Sepiella属シリヤケイカ Sepia japonica

で、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のこれである。

②の「するめいか(鯣烏賊)」は、

十腕形上目ツツイカ(筒烏賊)目開眼亜目アカイカ(赤烏賊)科スルメイカ亜科スルメイカ属スルメイカ Todarodes pacificus

で、同前で、ここ。而して、②の「けんさきいか(剣先烏賊)」は、

閉眼亜目ヤリイカ(槍烏賊)科ケンサキイカ属ケンサキイカ Uroteuthis Photololigo edulis

であるが、同種には、見た目の形状が有意に異なる二型があり、

  メヒカリイカ型(「目灯烏賊」・「目燈烏賊」・「目光烏賊」か?)

  ゴトウイカ型(恐らく「五島烏賊」である。ケンサキイカは、本邦では九州では「ゴトウイカ」と俗称されるが、本州中部以南・東南アジア一帯に分布し、特に五島列島周辺で多く漁獲されるからである)

が存在する。ずっと昔から私が最も信頼している、奥谷喬司先生(今年の一月に九十三歳で白玉楼中の人となられた。ここに心からお悔やみを申し上げます)が監修された「全国いか加工業協同組合」の『新編・世界イカ類図鑑』二型の画像附きの記載PDF)を見られたい。

★なお、所持する「虫の名、貝の名、魚(さかな)の名 和名にまつわる貝類」(青木淳一・奥谷喬司・松浦啓一著/二〇〇二年東海大学出版会刊)の奥谷先生の執筆になる「貝の部 5章 イカの方言行脚――和名、地方名、市場名の混迷」の冒頭「イカの和名」の「方言名の種類」の冒頭で『市場で「まいか」と呼ばれるものに困らされる』と語り始められ、『「真の」意味であるから、その土地でもっともポピュラーか、もっとも珍重される意味であろう。それゆえ、北海道や日本海側では、これがスルメイカであることはうなずける。しかし、関西にかけても「まいか」はコウイカ[やぶちゃん注:「コウイカ」の学名は次の「かふいか」の私の注を参照のこと。]のことで、この方を珍重していたのだろうか。ケンサキイカやシリヤケイカ[やぶちゃん注:「シリヤケイカ」の学名は次の次の『「しりやけいか」一名「しりくさり」【但し、二番鰑《にばんするめ》の「しりくされ」とは異《ことな》る】』の私の注を参照のこと。]をコウイカと混同され、釣り人はともに「すみいか」とごっちゃにしているぐらいであるが、関西には、こちらを「ほんいか」と呼ぶところがあると聞いている』と述べておられるのである。

※ここで言っておくと、異名・地方名・流通名については、総てを挙げていると、エンドレスになるので、一部をチョイスするに留める。

「かふいか」これは、「かういか」の誤記か誤植であろう。「甲烏賊」で、

十腕形上目コウイカ目コウイカ科Acanthosepion属コウイカ Acanthosepion esculentum

で、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のこれである。なお、属名の頭の“Acantho”はギリシャ語で「針・棘・とげ」の意で、“sepion”はラテン語で「烏賊」の単数形である。

「はりいか」前掲のコウイカ Acanthosepion esculentum の異名で、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の当該種にページの「地方名・市場名」に、『ハリイカ[針いか]』(針烏賊)とあり、呼称地域は『大阪府、兵庫県、岡山県など西日本各地』とし、『貝殻(甲)の後端(普通』、『一番上と思われる部分)に針状の突起があり、それが身体の後部から飛び出しているため』とある。そこでもその後に指示されておられる通り、私のサイト版「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「烏賊」の良安の評言の中で、『漁人、銅を以つて、烏賊の形(なり)に作り、其の鬚を皆、鈎(つりばり)と爲す。真の烏賊、之れを見て、自〔(おのづか)〕ら來り、則ち、鈎に罹(かゝ)る。蓋し、此れ、己が輩〔(うから)〕を見て、慕(した)ふか、嫉〔(そね)〕むか。』と述べ、次の、「柔魚」の項でも、良安は、『針(はり)烏賊 「真烏賊」に似て、骨の耑〔=端〕に尻を顯はし、手に碑〔(たつ)〕る針鋒〔(しんぽう)=針先〕のごとし。故に、名づく。』と記している。

『「しりやけいか」一名「しりくさり」【但し、二番鰑《にばんするめ》の「しりくされ」とは異《ことな》る】』これは、「尻焼烏賊」で、

コウイカ目コウイカ科 Sepiella 属シリヤケイカ Sepia japonika

である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の当該種のページの「由来・語源」に、『山陽地方の呼び名で、佐々木望』(ささきまどか 明治一六(一八八三)年~昭和二(一九二七)年:動物学者・分類学者。世界的な頭足類の研究者として知られている。男性である。四十四歳の若さで、国費留学先のハンガリーの首都ブダペストにて客死(病死)した。詳しくは当該ウィキを見られたい)『が和名を決めた。貝殻に棘がなく、尻(外套膜後部)から粘液を出し、尻が焼けて(下痢をして)見えるイカの意味。』とある。『二番鰑《にばんするめ》の「しりくされ」』は、後に出る(ここの「十」ページの十一行目)鯣の『販賣上の名』の一つである。図も示される(ここの左丁の冒頭のキャプション「乾烏賊」が、それ)。本種には「ハリナシコウイカ」の別名もある。

「ほしいか」小学館「日本国語大辞典」では、「干烏賊」「乾烏賊」で立項するが、種を示していない。しかし、その場合は、圧倒的に前掲のスルメイカではあろうと私は思った。また、「星烏賊」で当たって見たが、ネット上でも全くヒットしなかった。個人的には音声の類似と、本文でも次に出ている「ししいか」が怪しい気がしては、いる。

「しゝいか」「全国いか加工業協同組合」の『新編・世界イカ類図鑑』ここPDF)に、

コウイカ目コウイカ科コウイカ属Doratosepion亜属シシイカ Doratosepion peterseni

とあった。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「漢字・学名由来」には、『漢字/不明』とあり、『由来・語源/佐々木望の命名。意味は不明だが、獅子としか考えられない。ライオンという意味ではなく、第Ⅱ腕が極端に長いところから歌舞伎連獅子で長い髪を振り回して踊る様に見立てたのではないか』と鋭いディグをされている。私も無条件で「獅子」説に賛同するものである。なお、『別名、カミナガイカ』ともあって、「髪長烏賊」であり、これが有力な傍証と言える。なお。以下の考証で必要となったので、前者の解説を引用すると、生息域は『日本近海』で、外套長は十二センチメートルとあり、

   *

外套膜は細長く,幅は長さの3540%.背側は暗褐色.鰭後端は雄では尖るが,雌では穏やか.雄のII腕は著るしく延長し,外套長の4倍近くにもなる.中ほどまでは通常の吸盤があるが,それ以遠はフリルのついた保護膜が癒着し合いテープ状となる.触腕掌部は小さく半月型で,90110個の吸盤が8列に並び,中央の数個がやや大きい.貝殻は細いDoratosepion 型で幅は長さの1/6.最大幅は前方の1/4あたりにある.相模湾~九州,朝鮮半島,水深20100m

   *

とあった。

『「かみながいか」一名「こうながいか」』前注の同種と感ずる。前者は、まず、「髪長烏賊」であろうし、「こうながいか」の方は、直接に採取した別名を、発音をそのままに記したものと推定され、「甲長烏賊」で、歴史的仮名遣では「かうながいか」が正しいと思われる。同前の「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のシシイカの「生物写真一覧」の一番右の写真を見れば、一目瞭然で、長いからである。因みに、「烏賊の甲」とは、英語で“sepion”、或いは、“cuttlebone”で、頭足類、特にコウイカ目 Sepiidaの類が持つ、外套膜背面の内部にある内在性の殻であり、日本語では「殻」とも「貝殻」(shell)とも呼ばれる。参照した当該ウィキによれば、『動物の餌などでは』、『英語読みのカトルボーン(カットルボーン)とも呼ばれる』とあった。

「すじいか」ママ。これは、「筯烏賊」であるから、「すぢいか」が正しい。これは、

ツツイカ目開眼亜目アカイカ科アカイカ亜科スジイカ属スジイカ Eucleoteuthis luminosa

である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「漢字・学名由来」に『筋烏賊』とあり、『腹側(色素が薄く白っぽく見える)に二本の白い筋があるイカの意味』とある。」「全国いか加工業協同組合」の『新編・世界イカ類図鑑』のここPDF)によれば、市場名は『ヘイチョウイカ(漁夫)』、外套長は二十二センチメートルとあり、

   *

体はスルメイカ型であるがよく緊って細身.外套膜は赤味が強く背中線上は特に色が濃い.鰭は大きく,後方細まっている.外套膜腹面の両側にすじ状の明らかな発光器がある.漏斗軟骨器の一方又は両方の軟骨器は外套膜と癒着していて簡単にはずれない.(本種およびトビイカのみの特徴で他のスルメイカ類は皆この部分は容易にはずれる).頭部の眼の前方及びIV腕表皮下に大きい発光器がある.腕の大吸盤の角質環には912個の鋭歯がある.触腕掌部吸盤角質環には小鋭歯のほか1つの特大の歯がある.世界の温帯域.

   *

とする。添えられた画像を見れば、一目瞭然で「スジイカ」がしっくりくることが判る。但し、再度出る「すぢいか」【烏賊の「すぢいか」と異る】の後注で示すが、これは、実は、流通価値が低い。

「きんこういか」ママ。「金甲烏賊」であるから、「きんかういか」が正しい。但し、現行の正しい和名は「カミナリイカ」で、漢字表記は「雷烏賊」、一般人は「モウゴウイカ」(紋甲烏賊)と呼んでいるところの、

コウイカ目コウイカ科Acanthosepion属カミナリイカ Acanthosepion lycidas

である。「全国いか加工業協同組合」の『新編・世界イカ類図鑑』ここPDF)に、棲息域を『日本近海』とし、『市場名』として『モンゴウイカ』・『コブイカ』・『ギッチョイカ』・『マルイチ』を挙げ、外套長は三十八センチメートル、体重は五キログラムとあり、

   《引用開始》

大型のコウイカ類で,外套膜背面に特徴的な眼状紋がある.雌にも雄同様の眼状紋があるがやや不明瞭.触腕の吸盤は8列,小型で同大,200個以上ある.触腕の泳膜は短い.貝殻は卵形,棘は鋭い.内円錐は深く凹みU字型.ここにトラフコウイカのような滑層を担うことはない.館山湾以南から東・南シナ海,タイ湾.分布域の大部分はトラフコウイカやコウイカと重なり合っているが,特異な斑紋のため他種と紛れることはない.南西日本で少量の漁獲があり,本種がもともと“モンゴウイカ”と呼ばれていた種であるが,現在はその名はむしろヨーロッパコウイカ[やぶちゃん注:コウイカ属 Sepia 亜属ヨーロッパコウイカ Sepia ( Sepia ) officinalis 。]等の海外大型種に汎用されている.

   《引用終了》

とある。

「し﹅ぽいか」先のシシイカの異名のように思われたが、気になって調べた結果、国立国会図書館デジタルコレクションの「本草綱目啓蒙」第四・重訂版(正宗敦夫編纂・昭和四(一九二九)年日本古典全集刊行會刊)の「烏賊魚」の項のここに(九一八ページ九行目)、

   *

一種シ﹅ボイカ攝州ハ常ノイカノ形ニシテ小ク身淡黄赤色ニシテ靑黑斑アリ足ハ紅黑色ナリ大サ五六分ヨリ一寸四五分ニイタル二三月ニアリ他月ニハナシ

   *

とあった。なお、私は同国立国会図書館デジタルコレクションにて――シシポイカ――で検索して発見したものの、不審があったので、拡大して見るに、「ポ」(半濁音)ではなく、「ボ」(濁音)であると判断した。さて、ここで、先に引用したシシイカの記載と、この内容を比較するに、どうも同一のイカの様態とは、かなり違うように私には感ぜられるので、不詳としておく。種の正式名が、お判りになる方は、御教授を願うものである。

「こぶしめ」これは、文字通り、

コウイカ目コウイカ科Ascarosepion属コブシメ Ascarosepion latimanus

である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「由来・語源」に、『沖縄での呼び名「クブシミ」からきたもの』とされ、『私見』と断りを入れた上で、『「くぶ」は「クフィ」で「とても大きい」という意味合い。「しみ」は「墨」のことで、大きくて墨がたくさんとれるイカという意味合い』とされ、さらに、『姿が拳(沖縄で「くぶし」)に』似『ているから?』と添えられてある。なお、属名の“Ascaro” は、「ピクシブ百科事典」の「コブシメ」に拠れば、スワヒリ語由来のアラビア語で「偉大な戦士」の意であるとある。

「あふりいか」これは、

ヤリイカ科アオリイカ属アオリイカ(シロイカ)Sepioteuthis lessoniana

である。「全国いか加工業協同組合」の『新編・世界イカ類図鑑』ここPDF)に、棲息域を『日本近海』とし、『市場名』として『モイカ』・『バショウイカ』・『クツイカ』・『ミズイカ』・『イズイカ(地方名)』(「伊豆烏賊」と思われる)を挙げ、外套長は三十五センチメートル、体重は一・八キログラムとあり、

   《引用開始》

鰭が大きく,外套長の90%以上に及び,卵円形の外形であるため,コウイカ類と見誤まられるが,石灰質の貝殻はなく,幅の広い軟甲をもち,ヤリイカ科に属する.外套膜背面から鰭基部にかけて断続的な淡色横縞がある.腕吸盤は2列でその角質環には20本内外の三角形の歯がある.雄の左IV腕は交接腕化し,先端の25%ぐらいは吸盤がなく円錐の肉嘴が2列に並ぶ.触腕の吸盤には1423の鋭歯がある.卵嚢には通常5個の卵が入っている.南西日本~東南アジア・インド洋.

   《引用終了》

とある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「漢字・学名由来」に、『漢字 障泥烏賊(白障泥烏賊) Aoriika』とし、「由来・語源」の項に、「和漢三才圖會」の記載を訳されて、『〈真烏賊より大きくて四周に肉鰭がある。状(かたち)は障泥(あおり)に似ている。これをするめにすると佳い〉とある。そして、『〈障泥というのは馬具のひとつ。鞍の下に敷く泥よけで皮革で作られる。トラ、クマなど素材によって等級がある〉』とし、『この障泥に形が似ているところから』として「大言海」を添える。前者は、私の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「たちいか するめいか 柔魚」の項の記載で、原本の訓読文を示すと、

   *

障泥烏賊(あをりいか[やぶちゃん注:ママ。]) 「真烏賊」より、大にして、四周に、肉〔の〕緣〔(ふち)〕、有り。狀〔(かた)〕ち、障-泥(あをり)に似たり【「阿乎里以加」。】。是れも亦、鮝(するめ)と爲〔して〕佳し。

   *

である。「大言海」の原文主文は(私は「言海」しか所持しないので、国立国会図書館デジタルコレクションの「大言海」第一巻(昭和七(一九三二)年刊)の当該項を視認した。記号の一部はカットした)、

   *

あふり(アフリ)(名)〔足觸(あふ)るノ名詞形、(足蹈(シブミ)、鐙(アブミ)障泥(シヤウデイ)トハ、泥ヲ障(ササ)フル義、泥障トモ書ケルアルハ、どろささへノ意ナルカ〕馬具ノ名。下鞍(シタグラ)ヨリ、鐙ノ內ニテ、馬ノ兩脇ニ垂ルルモノ。本ハ、雨天ニ、泥ノ、衣服ニハネアガルヲ防グ用ナルニ、後ニハ、晴天ニモ、飾トシテツクルヤウニナリ、毛皮ニテ作ルヲ本トス、用アル時ハ、敷皮トモス、虎皮、熊皮等、階級アリ、後世ハ、多ク塗革ニテ作ル、後ノ製ノモノハ、長サ、二尺八寸、幅、上部一尺五寸、下部に釋一寸ヲ制トスチ云フ。

   *

私が、わざわざ引用したのは、本辞書が、私の偏愛する芥川龍之介の愛読書であったからである。

「みづいか」ここでは、順列から、前に掲げた通り、アオリイカの市場名であろう。「水烏賊」で、このPDFのアオリイカの解説の「名前の由来」には、『体色を迅速に多彩に変化することが得意で、海水に溶け込む程』、『透明になれることから。』とある。

「よしみづいか」漢字表記不詳だが、前後の配置から、やはり、アオリイカの地方名であろうと推定される。

「もいか」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアオリイカのページの「地方名・市場名」の中に、『モイカ』を挙げられて、『場所』を『愛知県南知多(三谷)、三重県東紀州、高知県室戸市・宿毛市田ノ浦すくも湾漁協』とされる。また、漢字表記は「藻烏賊」である。「坐来大分・銀座おおいた情報館」発行のサイト「OITA SHOKU」の「佐伯市(さいきし) 豊後水道の幸、伊勢海老とモイカ」に、『秋も深まる』十一『月、大分県南部の沿岸地域では、「モイカ」と呼ばれる美味しいイカが捕れ始めます。モイカとはアオリイカのことで、産卵のために藻場にやってくることからついた名前だと言われています。』とあるからである。

「おほいか」「大烏賊」と推定されるから、外套長・重量が有意にある種と考えてよく、一般に知られた大型の烏賊は、まず、

ソデイカ科ソデイカ属ソデイカ Thysanoteuthis rhombus

であろう。漢字表記「袖烏賊」。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見られたい。成個体の画像があり、キャプションには、外套長一メートル、重量は二十キログラム『を超える。非常に大型』とある。なお、属名は、ギリシャ語由来のラテン文字転写で、“thysanos”は「房飾り・タッセル(英語:Tassel:布の終りの部分に取り付けられる装飾)」を意味し、“teuthis”は「イカ」の意。

「ごいか」「Instagram」の「#山奥の漁師が営むさかな屋さん@yama.sakanaya」氏の、この商品記事に、『・コウイカ(ゴイカ/お刺身・炒め用/地物)』とあった。三重県の方なので、確認のために調べると、「三重県水産研究所」公式サイト内「旬のおさかな情報インデックス」の二〇一九年二月四日発行の「105」号の記事に、「画像3」に『2019/1/30撮影 波切 コウイカ』『波切市場に水揚げされたコウイカです。三重県では「ゴイカ」と呼ばれます。もっちりした食感が特長で刺身やソテーがおすすめです。』とあったので、確定である。

「たついか」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」では、

ツツイカ目開眼亜目アカイカ(赤烏賊)科アカイカ属アカイカ Ommastrephes bartramii

で、同種のページの、「地方名・市場名」の筆頭に『タルイカ』とされ、採集地を『愛知県蒲郡市西浦』とされる。なお、このアカイカは北太平洋を広く回遊する種であって、「虫の名、貝の名、魚の名 和名にまつわる貝類」の奥谷先生執筆部分では、『アカイカ(「むらさきいか」のような純外洋種』(☜)と表現されている。

「するめいか」先行する「まいか」で既注。なお、スルメイカ=「鯣(するめ)」という短絡誤認は今も蔓延っており、先に出した「虫の名、貝の名、魚の名 和名にまつわる貝類」の奥谷先生執筆部分の「方言は難しい」の中で、『イカの乾製品をすべて「するめいか」というのだと思って、これが特定の一種 Todarodes pacificus (古い文献には、Ommastrephes sloanii pacificus の学名が頻繁に知られている)の標準和名と知らない人もいる。』『そういう人には烏賊の一種、イカの干物は「するめ」ですという。笹鯣(するめ)はヤリイカの、白鯣はケンサキイカの、甲付鯣はシリサケイカの乾製品だと例をあげれば納得してもらえる』とある。

「せんどういか」こちらの「かがわ 里海(さとうみ)の幸(さち) ~春~ 烏賊 イカ」PDF)の、香川県三豊(みとよ)市の仁尾町(におちょう)漁業組合代表理事組合長小山雅司(こやままさし)氏へのインタビュー記事「イカの魅力、教えて下さい!」の冒頭の「香川でとれる主なイカの種類と名前」の表に、標準和名「カミナリイカ」の「地方名」として『モンゴウイカ、センドウイカ』とある(この表は香川県ホームページを元に小山氏からの追加を加えたもの)。「カミナリイカ」は「きんこういか」で既注済み。問題は漢字表記だが、「船頭烏賊」を考えたが、どうもしっくりこない。思うに、同種の内在する「甲」が鋭く尖っているから、「尖頭烏賊」「先頭烏賊」ではなかろうか? 識者の御教授を乞うものである。なお、「せんどういか」(ひらがな)でネット検索を掛けると、「船凍イカ」(せんとういか)が掛かってくるが、これは現代の話であって、ここでは、あり得ない。

「さすいか」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」で検索すると、

ヤリイカ科ヤリイカ属ヤリイカ Heterololigo bleekeri

同種のページの「地方名・市場名」に、『サスイカ』として、『兵庫県但馬地方』での呼称として掲げられている。調べると、『兵庫県若手水産職研修JF兵庫漁連 SEAT-CLUB』発行の「但馬の美味しいお魚図鑑」(Ver.2)PDF)の「ヤリイカ」の項に、別称に『サスイカ』・『テナシ』・『ケンサキ』と並ぶ。ヤリイカ(槍烏賊・鑓柔魚)から考えれば、「刺烏賊(さすいか)」かとも思われるが、ネットでは見出せない。

「たちいか」前掲したアオリイカの異名。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「地方名・市場名」の最後に『文献より。』とのみある。所持する「本朝食鑑」の「烏賊魚」の「鰑」の「集解」の冒頭に、本種を用いるとして、漢字名を『太刀烏賊』とする。

『「すぢいか」【烏賊の「すぢいか」と異る】』この割注を、わざわざ附したのは、割注のそれが、種としての狭義の、先に注したスジイカ属スジイカ Eucleoteuthis luminosa の意と採っておく。「腹側に二本の白い筋(当該部分の色素が薄く白っぽく見える)があるイカ」の意味。しかし、前の「筯烏賊」をスジイカ属 Eucleoteuthis 属する複数の種群を指しているとするのは、おかしい。何故なら、「BISMaL」で検索しても、Eucleoteuthis に属すする種としての「スジイカ」でない種は載らないからである。いや! そもそも、刊行時期、及び、本書の著者の経歴と書き方から見て、生物学上の属と種を区別している可能性はゼロと踏めるからである。而して、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページにも、『太平洋側で普通に見られるイカだが、濃い群れを作らないために』、『まとまってとれない』上に、『皮が柔らかく、水分が多いなどで』、『生鮮品としての価値が低い』。『比較的』、『太平洋沿岸のローカルなイカといえるもの』で、『一般に流通することも、小売り店で見かけることも非常に少ないもの』とあるのだ。さらに、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「寿司図鑑」の「筋烏賊/スジイカ」のコメント冒頭には、『この平凡なスルメイカに似ている小振りのイカをご存じだろうか? 沼津では漁師から「こんなのどうしようもねー」と』、『けられ、鹿島灘では釣り師に外道とされている。まことに評価の低いイカなのである』。『どうして評価が低いのかというと、釣り師にとっては「型(大きさ)」が小さいから。漁師にとってはまとまってとれないただそれだけの理由である。』と記されていることからも、そもそも、底本で扱うに足る種ではないということになろう。ということは、実は、割注は、真正のスジイカの流通価値が低いことを指すものであり、別に「筯烏賊」という異名で流通するイカがいる、と言っていると、逆に採るべきであろう。しかし、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の検索で、「スジイカ」を検索しても、スジイカ以外に、別なイカの種が出てこないし、先に出した「虫の名、貝の名、魚の名 和名にまつわる貝類」の索引にも載らない。

そこで、ネットで調べてみると、「スジイカ・ヤセトビイカの幼仔の形態について」という論文の予報記載を見つけた。読んでみると、この二種は属は異なるものの、スルメイカ型で似ているものでは? と思われた。ヤセトビイカに就いては、「全国いか加工業協同組合」の『新編・世界イカ類図鑑』のここPDF)によれば、インド・太平洋に分布し、日本の西・南日本にも分布していることが判った。学名は、

アカイカ科アカイカ亜科 Ornithoteuthis 属ヤセトビイカ Ornithoteuthis volatilis

である。しかし、スジイカは「全国いか加工業協同組合」の『新編・世界イカ類図鑑』のここPDF)を見るに、「筋」が見えないので、アウト(だろう。

 さらに種々の画像を見た。すると、かの「空飛ぶイカ」として知られる

『「飛烏賊」は「筯」があるゾッツ!』

と気づいたのであった。

アカイカ科 Sthenoteuthis属トビイカ Sthenoteuthis oualaniensis

である。同種は、スジイカと同じく、外套膜と一方、又は、両方の漏斗軟骨器が癒着していて簡単にはずれず、胴の背に黒い筋があり、驚いて漏斗から勢いよく海水を噴出させて飛行する際には(飛距離は五十メートルとも百メートルともされる)、背全体が、エメラルド・グリーンの「筯」のようにも見えるのだ。このトビイカを最候補としたいと私は思うのである。同種は相模湾(二〇〇五年前後から目撃されている)以南に分布する。

「めいか」これは、ヤリイカ科ヤリイカ属ヤリイカ Heterololigo bleeker の異名「女烏賊」である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの、「地方名・市場名」に『メイカ』とし、『山形県酒田市』とし、『雄と比べると』、『小さい雌のこと』とある。

『「しやくはちいか」(「やりいか」にも此名あり)』「尺八烏賊」は、現行では、ヤリイカ科 Heterololigo属ヤリイカ Heterololigo bleekeri の異名として知られ、私は他の種の異名としては知らない。或いは、ヤリイカと誤って、よく似ている別属の、ヤリイカ科ケンサキイカ属ケンサキイカ Uroteuthis Photololigo edulis をそう呼称している、或いは、していた地方があっても、おかしくはないとは思う。なお、この後に別に全く同じ「しやくはちいか」が出るが、メンドクサいので、こちらに集約しておく。

「つ﹅いか」「筒烏賊」で、現行では、頭足綱鞘形(二鰓)亜綱十腕形上目ツツイカ目 Teuthidaに属する種群を指す。当該ウィキによれば、『胴部(外套膜)が円筒形(円錐型・卵円形袋状)で、背側にキチン質の軟甲(なんこう、gladius)を持つ』。『外洋域に生息する種は形態の多様性が非常に高い』。『肉鰭は多くは体後位にあって菱形状になるが、一部の種では外套膜側縁に亘っている』。四『対の腕と』一『対の触腕を持ち、吸盤には柄とキチン質の角質環を持つ』。既出の『スルメイカやヤリイカに代表される』とある。

「き﹅やういか」「桔梗烏賊」。調べた限りでは、西日本(山口・北九州)でのカミナリイカの地方名である。理由は私の思いつきであるが、双子葉植物綱キク目キキョウ科キキョウ亜科キキョウ属キキョウ Platycodon grandifloras の葉の形に擬えたものかも知れない。但し、先に出したアカイカは、流通名で「ムラサキイカ」(紫烏賊)と呼ばれ(アカイカの生体色は赤紫である)ので、そちらのキキョウの花の色に擬えた異名かも知れない。

「さどいか」これは「佐渡烏賊」。佐渡は好きで、三度、渡島しており、実見しており、豊富に獲れるスルメイカのこと。「冬烏賊」とも言う。沖漬けが旨いが、アニサキス(線形動物門双腺綱回虫目回虫上科アニサキス科アニサキス亜科アニサキス属 Anisakis )に要注意である。私は、大学一年の時に、友人を訪ねた熊谷で、生きのいいスルメイカの生焼きを食い、見事にやられ、強烈な胃痛で七転八倒した。対馬の知人が、正に釣りで沖漬けにしたものを、帰港に前の船上で食べ、何んと! 極めて珍しく口蓋垂を貫通し、某大学病院で、何人もの医師の見学(症例として稀有であった)の中、引き抜くことが出来ないため、レーザーで、アニサキスの前後を切断をするキテレツな処置を受けた一部始終を聴いたことがある。

「さるいか」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のスルメイカの地方名に、「サルイカ」として、採集地を『島根県、山口県仙崎』とある。私は当初、新鮮な個体は、濃い赤茶色をしているので、「猿の尻」から「猿烏賊」であろうと思ったが、ネット上には、確定的記載はない。一方、ある釣り師の記載には、人でない「猿」の意で、漁師は獲れても、捨てるという意味で、「さるいか」と呼ぶとあり、ある種のスレッドの記載では、差別的な意味で、「ヒト以下の人間」という意味で「猿烏賊」という語が載っていた。何んとも厭な使い方であるが、前の漁師のそれも、同義であろう。

「おにいか」同前でスルメイカの地方名で、『山口県宇部市・下関』とあり、『聞取』とある。やはり、赤鬼で「鬼烏賊」と私は思う。

「あかいか」正式和名の前掲のアカイカがしっくりくるものの、実は「アカイカ」という流通名は、ネットの複数の記載を見るに、前掲のソデイカケンサキイカのそれとしても、極めて広範によく使われるので、特定は出来ない。それ以外にも、「虫の名、貝の名、魚(さかな)の名 和名にまつわる貝類」で奥谷先生が纏められた『表 ヤリイカとスルメイカの地区別方言名』(132ページ)に拠れば、ヤリイカを「アカイカ」と呼ぶケースとして「笠沙」(かささ:現在の鹿児島県南さつま市笠沙町(かささちょう)片浦(かたうら)、及び、赤生木(あこうぎ)。ここ。グーグル・マップ・データ、以下、無指示は同じ)・「野間池」(前の片浦地区の内)・「秋目」(前の片浦地区の南東に繋がる片浦坊津町秋目(ぼうのつちょうあきめ))を挙げてある。

「やりいか」まあ、これも標準和名のヤリイカとしておくが、私は内心、『ヤリイカ科Loliginidaeのイカには、九種が生息しているからなぁ……』と危ぶんだのだが、奥谷先生は、「虫の名、貝の名、魚(さかな)の名 和名にまつわる貝類」の中で、特異的に前注の「あかいか」という地方名表を受けつつ、『「あかいか」』は、それなりに他のイカから他のイカから識別されているものと思って差し支えないであろう。』と結論されているので、私のは、杞憂に過ぎないことが判明した。頭がこんがらがっておられる方のために言い添えておくと、「ひらがな」で「あかいか」であることに注意されたいのだが、奥谷先生は――「あかいか」のアカイカでないヤリイカの地方名例を示しつつも――その他の同名異名イカ名の中では比較的に異種混淆のヒドい傾向はない――とおっしゃっているのである。

「まるいか」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の検索では、ケンサキイカの地方名(『相模湾、東京湾の沿岸』とある)と、ジンドウイカ(ヤリイカ科ジンドウイカ(神頭烏賊・磁頭烏賊)属ジンドウイカ Loliolus ( Nipponololigo ) japonica )の地方名(『神奈川県相模湾周辺』とある)とする。

「なついか」「夏烏賊」。前の前で出した奥谷先生の『表 ヤリイカとスルメイカの地区別方言名』(132ページ)に拠れば、ヤリイカを「ナツイカ」と呼ぶケースとして「坊泊」と「枕崎」を挙げておられる。「坊泊」は「ぼうとまり」で現在の鹿児島県南さつま市坊津町(ぼうのつちょう)泊(とまり)である。枕崎は同地図の東の同県枕崎市である。因みに、この二箇所、梅崎春生の、偏愛する最後の作「幻化」のロケーションの肝の場所である。私のブログ・カテゴリ『梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】』、或いは、サイト版「幻化 附やぶちゃん注 (PDF縦書決定版)」を、どうぞ! なお、ヤリイカの成体の漁獲期は春であるので、不審に思ったのだが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「生態」の項に、『12月中旬から5月にかけて産卵』。『孵化して夏から秋には小ヤリイカが漁獲される。初物はなかなか高価である』(☜)。『これが冬には成体(大きく)となり』、『所謂ヤリイカとして流通』するとあったので、ナットク!

「ふゆいか」「冬烏賊」。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のヤリイカのページの「地方名・市場名」に『フユイカ[冬イカ]』とし、「場所」を『京都府伊根町、兵庫県西脇市(スーパー)』とあり、「備考」に『スルメイカを夏イカというのに対して「フユイカ(冬イカ)」とされる』とある。別に、一般社団法人京都府北部地域連携都市圏振興社(通称:海の京都DMO)のこのページの「ヤリイカ」に、『真冬に獲れるヤリイカ。名前のとおり槍のように細く長く尖った形をしています。冬イカと呼ぶ人もいます。身が透き通った大変綺麗なイカです』。『アオリイカや白イカと比べて肉厚は無く、味は比較的あっさりしており、水揚げ量にもよりますが、競り値も比較的安くなります。雄は雌より大きくなり一目で見分けがつきます。食べ方はお刺身が美味です。身は薄いですがコリコリした食感とあっさりした旨みが口に広がります。数は少なくなりますが』二『月までは港で見かけます』とあるのを確認した。

「あきいか」「秋烏賊」。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」では、アオリイカのページの「地方名・市場名」に、『アキイカ[秋いか]』、「場所」を『京都府舞鶴市、宮津市、伊根町』とあり、『サイズ/時期秋にとれる小型』とする。前項と同じ「海の京都」に、『春夏秋冬、再会できる喜び。旬の時期になると海沿い周辺のスーパーや鮮魚店には沢山のイカが並び、それを見て地元の人々は「そろそろ秋やね~」と季節を感じるわけです。特に秋イカとも呼ばれる「アオリイカ」はこの話の象徴的なイカと言えます』とし、さらに、『「イカの王様」と呼ばれ、イカの中で最高峰の味わいです。秋イカとも呼ばれています』。『旬は一般的に秋~春(春は親イカ)とされていますが、丹後地方では』九『月後半』から十二『月前半が最盛期。春は産卵の時期でペアの大型アオリイカが沿岸部に集まります。ただ、頻繁に港へ行きますが』、『年々』、『水揚げ量が減っている印象があります。獲れ始める』九『月頃は手のひらサイズ(』百グラム『程)で晩秋には』三百から五百グラム『程に成長していきます。適度に小さい方が』、『身が柔らかく食感が程よいです。お刺身で食されることが多いですが、地元では一夜干しと言われる生に近い状態の干物をサッと炙って食べるスタイルも好まれています』とあるのを確認した。

『「ぶといか」一名「ぶどういか」』「太烏賊」。後者の「ぶどういか」は、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「ブドウイカ」(異名。以下の引用で正式和名は「ケンサキイカ(ブドウイカ型)」で、Uroteuthis Photololigo edulis である)によれば、「ぶどういか」は「葡萄烏賊」ではなく、やはり「太烏賊」で、「漢字・学名由来」に『漢字/太烏賊』とし、『山陰島根県などの「ぶといか」が変化して「ぶどういか」になったものと思われる。「ぶと」=「太」でケンサキイカよりも外套長が短く太って見えるため。』とあった。「全国いか加工業協同組合」の『新編・世界イカ類図鑑』ここPDF)に、『ケンサキイカ(ブドウイカ型) Uroteuthis Photololigo edulis Hoyle, 1885)[ budo-ika]/ヤリイカ科 Loliginidae』とし、棲息域は『日本近海』、『市場名』として『シロイカ』(「白烏賊」と思われる)を挙げ、外套長は四十センチメートルとあり、

   《引用開始》

日本海西部に分布するケンサキイカの季節型でLoligo budo Wakiya & Ishikawa, 1921 の名が与えられた.鰭の長さは外套長の65%ぐらい.腕の吸盤角質環の特徴はケンサキイカの他型と同様截断状の歯が数個あるが,触腕掌部がそれらに比し広く大きく,ここの吸盤はIII腕の吸盤より大きい.外套膜は外見ケンサキイカのゴトウイカ型などより太目で(外套幅は長さの30%),腹中線の肉畝は殆ど見られない.「白ずるめ」の材料は本種.付記:Sasaki 1929)が Loligo edulis forma grandipes とした型で,秋冬期のみ日本海西部にあらわれ,幼期はケンサキイカの他型と区別できない.

   《引用終了》

とある。

「とつぽいか」この異名・地方名はネットでは確認は出来ないのだが、「とっぽいいか」の縮約ではないかと考える。但し、悩ましいのは、「とっぽい」という語が、小学館「日本国語大辞典」で、『① 頓智があり』、『利を見るに敏』(びん)『だ、抜け目がない、ずるいなどの意でいう、盗人・』テキヤ『仲間の隠語』とし、『② すばやい、大きい、生意気だなどの意でいう、不良仲間の隠語』とする一方、私が使用する意味で、①・②と正反対の『③ まがぬけている、にぶいなどの意でいう俗語』の意があるからであったが、①・②の本来の意味で、取り敢えず採用したものの、イカ釣りは私は全くしたことがないので、運動性能を調べたところ、これを順列から前項のケンサキイカに仮に比定してみた。拠りどころは、宮城県の釣り人の「Anglershighごめのブログ」の「ケンサキ攻略」で、そこに『ヤリイカより活動的なイカで集魚灯下でも上から下まで活発に動き回って小魚を追い回します』とあり、さらに『過去に福井の三国海域 シーライオンさんに釣行した際も船下に取り付いたイワシの群れを集団で追い回す様はまるで海の中でオーロラが波打つような光景でした』とされ、『スルメイカよりも大人しい感じ』ながら、しかし、『さらに好奇心旺盛なイカがケンサキイカってイメージです』とあるので、ケンサキイカと決した。

「ごとういか」「まいか」で注したが、所持する平凡社「世界大百科事典」の奥谷先生執筆になる「ケンサキイカ」の項に、『相模湾以西の本州太平洋岸と,日本海西部に分布し,とくに日本海西部に分布する型は太短く,触腕も太くブドウイカと呼ばれる地方的亜種である。主産地は九州西方,五島列島付近なので,九州では本種をゴトウイカといい,地方によってはシロイカ(おもにブドウイカのこと),メヒカリイカ,マワシッコ(幼若体)といい,地方的形態変化が激しい。日本以外には東南アジアからオーストラリア北部まで分布する。外套の肉は厚く美味で,生食するほか,するめにするが,〈一番するめ〉とか〈五島するめ〉といい最上品とされる。』とあった。

「ずんどういか」確認出来ないが、「まるいか」で比定したヤリイカ科ジンドウイカ(神頭烏賊・磁頭烏賊)属ジンドウイカ Loliolus ( Nipponololigo ) japonica の地方名ではなかろうか? 当初、私は「ずんどう」は、てっきり、「寸胴」で、小学館「日本国語大辞典」の当該項に、『髄胴(ずいどう)」の変化したものか。「髄」は胴中・まん中の意。「寸胴」はあて字か』とし、『腹から腰にかけての太さが同じで、ウエストがくびれていないこと。また、上から下までが同じ太さであること。また、そのさま。ずんど。』の意かと思っていたのだが、豈図らんや! 「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「漢字・学名由来」には、同種の絵の初出を、「和漢三才圖會」の「卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」(リンクは私のサイト版)「いか 烏賊魚」が初出とされており、その解説に、『佐々木 望(マドカ)博士は日本産頭足類を精査されたが、和名を与えることは極めて少なく、各地呼称を記した程度だった。同氏は』 Loligo japonica 『に対してジンドウイカの和名を与えられたが、何処の方言かは、私は知らない。 “ジンドウ”を辞書で見ると』、『結局、寺島良安の』「和漢三才圖會」『の項を写したものと見える。“細かい竹を編み、河の中に立てゝ魚を追い入れて捕らえるもの”と』、『あって』、 Loligo 『の外套の形が之に似ているから起こったものであろうかと想像する』とされ、『じんどう』というのは、『矢の先の部分、鏃(やじり)の形のひとつ、「神頭」に似ているからではないか? 「神頭」は木で作られて平たい』と述べておられる。因みに、“,”の引用は、私も所持する本邦初の本格的貝類図鑑「原色日本貝類圖鑑」の著者であった吉良哲明氏が昭和二一(一九四六)年から十四年間に渡って謄写版で編集・発行した貝類研究誌『夢蛤(ゆめはまぐり)』からである。

「さばいか」ネットで調べると、魚のサバ(鯖)漁の時期に、同時期に採れるヤリイカをカップリングした名称として「サバイカ」が検索に掛ってくるのだが、どうも、これではないと思われる。私は、寧ろ、

★直前の「すんどういか」を受けた、同義的か、或いは、その差別化(ケンサキイカは「細い」とは――私は――言えないと思うので)の呼称であって――「狹幅」――さば――「はばせま」「はばぜま」(=幅が普通より狭いこと。また、そのさまやそのもの。小学館「日本国語大辞典」に拠る)――「幅狹」=「スリム」――ではないか?

と考えた。根拠も何もない、ただの思い付きではある。ただ、とすれば、可能性としては、「ずんどういか」と同じジンドウカ、或いは、それよりも、もっとスリムなヤリイカ等の烏賊の誰彼か? となるか? 識者の御叱正を乞うものである。

「さ﹅いか」「笹烏賊」。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」によれば、二種がヒットし、一つは、やはり、

ケンサキイカ

で、今一つは、

ヤリイカ

であった。

「ばしやういか」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「アオリイカ」のページの「地方名・市場名」に、『バショウイカ[芭蕉烏賊]』とあり、「場所」を『静岡県沼津市』とあって「備考」に『これは形がバショウの葉に』似『ているため。』とあった。

「まついか」マツイカは、以前は、十腕形上目ツツイカ(筒烏賊)目開眼亜目アカイカ(赤烏賊)科Ommastrephidaeの異名であったようだが、小学館の「日本大百科全書」には(奥谷先生の記載)、『アカイカ科に属するスルメイカTodarodes pacificusの関西方面の俗称。しかし最近では、遠洋イカ釣り漁業で漁獲されているカナダイレックスIllex illecebrosusやニュージーランドスルメイカNototodarus sloaniなどの市場名に流用されている。』とあった。また、荒俣宏氏の「世界第博物図鑑」の別巻2の「水生無脊椎動物」(一九九四年平凡社刊)の「イカ」の項の「名の由来」の最後に『富山ではホタルイカのことをマツイカとよぶが,山口県の周防では,これはスルメイカの一名となっている.』ともあったので、添えておく。

「とんきう」これは現代仮名遣「とんきゅう」で、

以前に出した奥谷先生の『表 ヤリイカとスルメイカの地区別方言名』(132ページ)に拠れば、

ヤリイカを「トンキュウ」と呼ぶケースとして「笠沙」「野間池」「秋目」「久志」(鹿児島県南さつま市坊津町久志(ぼうのつちょうくし)。グーグル・マップ・データ)を、

スルメリカを「トンキュウ」と呼ぶケースとして「坊泊」と「枕崎」を、

挙げておられる。この「トンキュウ」は、南九州の漁業関係の公的記載や、料理人及び釣り人の記載にも頻繁に見受けられるものの、語源を記したものがない。私の全くの思い付きであるが、これは、イカの尖がった胴の体勢から、比喩として「豚爪」(とんきゅう)、又は、「鈍爪」と当てたものではなかろうか? 識者の御教授を乞うものである。

「うしとんきう」「鹿児島県水産技術開発センター」の海産物の地方名リストのここPDF)の176ページに『ウシドンキュウ』を見出せる。私の前注の推理に合わせるなら、「牛豚爪」或いは「牛鈍爪」ではなかろうか?

「ひいか」これは、まず、基本、ジンドウイカの広範な異名である。但し、株式会社安岐水産公式サイト「あき水産活魚部」内の「【いか情報】小さいけれど旨味は抜群!ヒイカ(ジンドウイカ)」の、「ヒイカの名前の由来」の項に、『ヒイカは漢字で「火烏賊」と記し、灯の明かりに寄ってくる習性に由来します』。『また、ヒイカは市場に流通する小型のジンドウイカ類の地方名だそう』。『ヒイカには、標準和名のジンドウイカ、ヒメジンドウイカ、ベイカ』(ヤリイカ科ベイカ Loliolus Nipponololigo beka )、『ケンサキイカ、ヤリイカなどの胴長約』十五センチメートル『以下の小型のジンドウイカ類が複数種含まれているようです』(☜要注意!)。『ジンドウイカの名前の由来は、弓矢のヤジリの一種「神頭(じんどう)」に似ていることが名前の由来と言われているそうです』。『「神頭」とは先が平らになった的矢や鏃のことを意味し、ジンドウイカの胴体とみみ(鰭)を合わせた形が「神頭」に似ていると思われます』とあり、「ヒイカの生息域」の項に、『ヒイカは北海道から九州までの日本各地に分布しており、水深50メートルまでの浅い内湾で生息しています』。『また、水深』一『メートルから』十『メートルくらいの内湾で春から夏に産卵します』。『ヒイカは昼間に海底直上を遊泳していることから、主に底引き網で漁獲されます』とある。異名の由来と対照種群を、ここまで、しっかりと記されたものは、ネットでは稀有である。

「べにいか」「紅烏賊」。アカイカ Ommastrephes bartramii の地方名・流通名。鳥取県境港市の「からの鮮魚店」公式サイト内の「紅イカ ( ソデイカ ) 1杯 KG~ / 境港産」に、『境港では「 紅イカ(ベニイカとかアカイカ) 」と呼ばれています』。『境港で水揚げされているイカの中では一番大きなイカで、加工食品でも多く利用されています』。『見た目から固い身を想像しますが、とても柔らかくお年寄りでも嚙み切れるイカです』とある。

「ちつこいか」一応、ネット検索と国立国会図書館デジタルコレクション検索を掛けたが、これらは「チッコいイカ」で、どれを見ても、異名ではなく、釣果として恥ずかしいイカ類の小型個体を言っているものと思われた。しかし、次の「べいか」を調べた後、「地方名・市場名」に『チイチイイカ』を挙げてあり、その採取地は『広島県福山市』及び『文献より』とあるのを見出した。とすれば、以下のベイカである可能性が、俄然、浮上してくる。「全国いか加工業協同組合」の『新編・世界イカ類図鑑』のベイカの記載(PDF)を見るに、外套長はは八・七、が六・六センチメートル(性的二形)とあり、如何にも「チッコい」ぞッツ!

「べいか」歴(れっき)とした正式和名である。ヤリイカ科ジンドウイカ属ベイカ Loliolus ( Nipponololig )  beka 「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページに拠れば、「漢字」に『米烏賊、紅烏賊』とあり、「由来・語源」『初夏に米粒のような卵をもっているため。紅烏賊は色合いから。』とあった。

「べか」同前。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「地方名・市場名」に「ベカ」とあり、「場所」は『岡山県岡山市』とある。

『「み﹅いか」【或は之を「みみだこ」とも云ふ】』「日本大百科全書」から引く(奥谷先生の記載)。「耳烏賊」で、コウイカ目ダンゴイカ科ミミイカEuprymna morsei (英名:bobtail cuttlefish:“bobtail”は「切り尾の馬・犬/切り尾・短い尾」の意)。『北海道南部以南から日本全国を経て、台湾、フィリピンにまで分布する。外套長は』五十『ミリメートル、幅』三十『ミリメートルぐらいに達する。ひれは丸く、胴の中ほどについていて「耳」のようである。腕は外套長よりやや長く、吸盤は』四『列に並んでいる。触腕の吸盤は顕微鏡的で無数にある。外套腔の中の墨汁嚢の上には鞍形をした発光器があり、その中に発光バクテリアが共生していて発光する。沿岸近くにすんでいて、他の雑魚(ざこ)といっしょに漁獲されるが、商業価値は低い』とある。学名のグーグル画像検索を添えておく。

「烏鰂」さんざん出てきている漢語だが、ここで、注しておく。「烏」は既に述べた意味で、「鰂」は「鯽」と同義。「鯽」は第一義は淡水魚のフナ類を指すが、別に「イカ」をも指す。

「烏則」現行の中文サイトでも見当たらない。恐らくは、「鰂」の「魚」を略しただけの漢語であると思われる。因みに「則」は、現在では国際音声字母(記号)である。

「墨魚」言わずもがなだが、前掲の荒俣宏氏の「世界第博物図鑑」の別巻2の「水生無脊椎動物」(一九九四年平凡社刊)の「イカ」の項の「名の由来」に、『墨魚は,〈墨を出す魚〉の意.』とある。

「黑魚」「墨魚」の略字であろう。なお、現行では、条鰭綱スズキ目タイワンドジョウ亜目タイワンドジョウ科タイワンドジョウ属カムルチー Channa argus argus を指す漢名(正式には「烏鱧」の異名の一つ。「維基百科」の同種を見よ)であるので注意されたい。

「䌫魚」「䌫」は「漁具の艫綱(ともづな)」を指す。現行の中国語では使われないが、イカの絡んだ長い一対の長い脚からは、納得出来るが、荒俣氏の前掲書に『纜魚は,風や波に遭遇すると,両脚(2本の長い触腕のこと)を䌫(ともづな)ようにして石に体を固着させるという俗信による.』とある。

「廿盤校尉(かんばんこうい)」検索では掛かってこないが、「廿盤」というのは、イカの十脚に、多数、装備されている吸盤を指していよう(なお、タコとイカの吸盤構造は、その決定的な違いがあることを知っている方は、そう多くないので、ウィキの「触腕」を見られたい)。「校尉」は漢代に宮城の防衛や西域鎮撫などに当たった武官。後に武将の栄名となり、さらには将軍の次の位となった。謂わば、イカのみが持つ腕の中の最も腕らしい触腕を兵隊を動かす軍扇に見立てたものであろう。なお、調べてみたところ、この前後の漢名異名は、その殆んどが、著者が漢籍から拾ったものではなく、小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」の「烏賊魚」の項に載ったものを、転載したものであることが判明した。国立国会図書館デジタルコレクションのここ以下を見られたい。そちらで、当該引用書も、確認出来る。

「愈黝(ゆよう)」ネット検索では掛かってこないが、そのまま読むなら、「いよいよ、青みがかった黒い色」で、イカの墨を以って代えた烏賊の別名と採れる。

「河伯」これは、元来、中国の神話にみえる北方系の水神の名である。「山經(せんがいきやう)」の「大荒東經」に、殷の祖神である王亥(おうがい)が、北狄(ほくてき)の有易氏に身を寄せたものの殺されてしまい、河伯も牛を奪われたが、殷の上甲微が、河伯の軍を借りて、滅ぼした。その一件は「楚辭」の「天問篇」にも見えており、殷と北狄との闘争に、河伯が殷に味方したことを示すとされる。卜辞(ぼくじ:殷代の卜占の記録の総体を言う)には、河の祭祀を示すものが多く、五十の牛を犠牲として沈めることがあり、水神と牛との関係が注意される。「楚辭」の「九歌」の「河伯」は、その祭祀歌である。なお、日本では「河童(かっぱ)」の別称として,使われることがある(ここまでは、主文として平凡社「世界大百科事典」の「河伯」の記載を用いた)が、基本的には全く縁がない。一部の九州の河童の先祖を「河伯」とする伝承があるが、私はずっと後のコジツケとして認めない。前掲の荒俣氏の記載に、イカの漢語の一つである『河伯度事は、〈黄河の水神(河伯)〉と〈属吏(度事)〉を合わせたもの.小史魚も,<属吏の魚〉の意.』とあった。 以下に続く「白事」・「小史」・「河伯從事」(これについては、三つ後の「螵蛸魚(ひやうほうぎよ)」を見られたい)・「海若白事小史」・「小史魚」というのも、化体(けたい)のイカに与えた架空の下級官吏風の名である。

「銀甁魚(ぎんへいぎよ)」明の方以智撰の「通雅」に、『墨魚烏鰂也』で始まり、『鰂足生口傍兩須如纜諺曰烏鰂噀墨八足在口又名墨魚』(中略)『魚冥脯圖經云烏𪇰所化其云秦王東遊棄算袋化爲此形則誣矣禹時貢烏鰂之醬蒙筌言其墨作劵隔年而字滅張氏曰不驗其無骨者名柔魚又更有章舉石距二物與此相類而差大味更珍好小者曰鎖管見泉州志今曰銀瓶魚臨海志言其懷版含墨故號小史魚』(太字は私が附した)とあった。

「螵蛸魚(ひやうほうぎよ)」「螵蛸」というのは、この場合、「イカの甲」を意味する漢語である。

「算袋魚(さんたいぎよ)」この「算袋」とは、古く中国に於いて、官吏が、筆・硯などを入れて携帯した袋を指す。中文サイト「紀妖」の「乌鰂(河伯度事小吏)」に絵入りで載る。そこに唐代の段成式による随筆「酉陽雑俎」(ゆうようざっそ)を引いている。独自に全文を示すと、同書の「卷十七」の以下である。

   *

烏賊、舊說名河伯度一曰從事小吏、遇大魚輒放墨、方數尺、以混其身。江東人或取墨書契、以脫人財物、書跡如淡墨、逾年字消,唯空紙耳。海人言、昔秦皇東遊、棄算袋於海、化爲此魚、形如算袋、兩帶極長。一說烏賊有碇、遇風則蚪前一鬚下碇。

   *

所持する「東洋文庫」版の今村与志雄氏の訳(一九八一年刊)を引用しておく。

   《引用開始》

 鳥賊(いか)。

 古来の説では、河伯度事と名づく。小役人で、大きな魚に遇うと、すぐさま墨(すみ)を数尺四方に放射して、その身をまぎらわしくする。長江下流の人々は、あるいは、その墨を取って、証文に書き、人の財や品物を失敬することがある。書跡は薄墨のようであるが、年がたつと、文字は消え、なにも書いていない紙だけになるからだ。[やぶちゃん注:この消えるイカ墨の話は、今も信じている人が有意におり、往年の少年雑誌の巻頭記事にあったのを覚えており、都市伝説として今も生きているが、ンな話、あるわけないダロが!]

 漁師の話によると、むかし、秦王〔秦の始皇帝〕が、東方に旅行をし、算袋を海に棄てた。それが変化してこの魚になったという。形は、算袋に似ていて、両方の帯がきわめて長い。一説では、鳥賊には、矴(いかり)【碇】がある。風にあうと、蚪(と)の前の一本の鬚(ひげ)から矴をおろすという。

   《引用終了》

今村氏の注に、「蚪」は『蝌蚪(かと)、オタマジャクシのこと。この場合は、イカの足十本のうち、触手のはたらきをする一対の二本』(触腕のこと)『をさすのであろう』と添えておられる。

「花枝(くわし)」現行でもコウイカ類を指す中国語として生きている。

「𩶋魚(ぼぎよ)」「中國哲學書電子化計劃」のここに、「廣東通志」の「卷五十二」を引き、『柔魚類墨魚而長無螵蛸骨、故名柔魚、墨、魚、海豐名𩶋魚、較他產脆美、大約鱆魚、柔魚、墨魚、一類也「雜記」』とある。

「柔魚(じゆうぎよ)」既注。

『鎻管(さくわん)、一名、靜斑(せいはん)』最後に近づいて、とんでもない記事を見つけた! ブログ「ニーハオTaiwan」の「ややこしすぎる!中国語のイカの分類」で、多くのイカを表現する現代の中国語の熟語を、多数、纏めて日本語で当該種類まで記した、本邦の日本語のイカ種名・異名データでも全く存在しないレベルの、チョー優れものだ! 筆者は台湾人と結婚された日本人女性である。以下、引用させて戴く。

   *

『コウイカ目―花枝・墨魚・烏賊

 ツツイカ目

   閉眼目(ヤリイカ目)

      ヤリイカ―鎖管・小巻・中巻・透抽・槍烏賊

      アオリイカ―軟絲

   開眼目(スルメイカ目)

      スルメイカ―魷魚』

『コウイカのことを「花枝 huā zhī フゥァズー」と言います。その他、「墨魚 mò yú モーユー」、「烏賊 wū zéi ウーゼイ)」とも呼ばれます』。『台湾ではスーパーなどではあまり見かけませんが、魚市場などではよく売っています。身が固めで歯ごたえがあり、「花枝丸」としてイカ団子などに加工されています』。

『ヤリイカのことを中国語では「鎖管 suǒ guǎn スゥオ グゥァン」と呼びます』。『体調が15㎝以下のものを「小巻(小卷)xiǎo juǎn シァオジュエン」「小管 xiǎo guǎn シャオグゥァン」、15㎝以上のものを「中巻(中卷)zhōng juǎn ゾンジュエン」または「透抽 tòu chōu トウチョウ」、「槍烏賊 qiāng wū zéi チャンウーゼィ」とも呼びます』。『台湾の人は小巻を塩ゆでして刺身感覚で食べたり、「三杯」という醤油やゴマ油、しょうが、にんにくなどと炒めた「三杯小巻」、「三杯中巻」という料理を好んで食べます』。

『「軟絲 ruǎn sī ルゥァンスー」はアオリイカのことを指します。「擬烏賊 nǐ wū zéi ニーウーゼイ」とも呼ばれるそうです』。

『台湾で最も多く調理されているのはこの「魷魚 yóu yú ヨウユー」かと思います』。『 魷魚はスルメイカのことです』。『 日本でいうところのスルメのことを「魷魚干」と言います。生のスルメイカのことも魷魚といいますが、スルメを水で戻したものも「魷魚」といいます。水で戻した魷魚はシャキシャキとした歯ごたえがあり、生のイカとは違った食感でおいしいです』。

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残念ながら、別名「靜斑」は、ネットでも探し得なかった。

「猴染(こうせん)」検索したら、アラ、ま、私の「本朝食鑑 鱗介部之三 烏賊魚」が最初に出たわい。私の「猴染」の注は『閉眼目 Myopsida ソデイカ科 Thysanoteuthidae ソデイカ属 Thysanoteuthisソデイカ Thysanoteuthis rhombus の別名。但し、南方種で外洋性の大型種であって「小烏賊」ではない。そもそも「猴染」というのは明らかに中国本草好みの命名で、猿猴類の赤みを帯びた肌に似たド派手な色に由来すると考えてよい』と始めて考証が続くので、見られたい(十年前の仕儀で、もうすっかり忘れてたワイ)。

「墨斗」同前の記事の私の注で、『・「一墨斗」「墨斗」は大工道具の墨壺のことを指す。墨壺は中国・朝鮮・日本などの東アジアに特徴的に見られる道具で、中国では紀元前から線引きに使われる「墨繩」という漢字が使われていたが、現在のような工具としての墨壺を意味する漢字である「墨斗」という語の出現は唐代以降のことと、有限会社スズキ金物店公式サイトの『(一)「墨斗」の語源について』にあった。確かに、墨とあの形はイカにピッタリだ。本種はただ瑣管より小さく、よく墨を吐くとしか出ないので同定は私には出来ない。』とある。

『「本草綱目」は烏賊魚(うぞくぎよ)の外、一種、柔魚(じうぎよ)あり。烏賊に似て、骨、無く、爾越(じえつ)の人、之(これ)を重(おもんず)とあるのみ』と言っても、それは、時珍は、「烏賊魚」の項では、ガッツり記載がある。単に最後に添えた『【附錄】柔魚 頌曰、一種柔魚、與烏賊相似、但無骨爾。越人重之。』(「漢籍リポジトリ」が、また、接続できなくなっているので、「維基文庫」の同項をリンクさせておく)を指しているだけで、しかも、作者は「爾」(のみ)を、「爾越」と言う国の名前と勘違いしている為体だ!

『「閩書(びんしよ)」は、烏賊の大(だいなる)者(ものを)、花枝(くわし)と名(なづ)け、柔魚は、烏賊に似て長く、色、紫(むらさき)して、漳人(しやうじん)、晒乾(さいかん)して、之を食す。其味ひ、甘美(かんみ)なり。鎻管(さくわん)、或は云ふ、柔魚やや﹅小のみ。又、猴斗(こうと)有り。鎻管に似て、小(しやう)、亦、能(よ)く墨(すみ)を吐(はく)。又、猴染(こうせん)、有り、墨斗(ぼくと)より、大にして鎻管より小なり、とあり』「閩書南產志」。明の何喬遠撰になる福建省の地誌。「中國哲學書電子化計劃」の「石介屬判」の「1」を見よ。

『「漳州府志」には、柔魚は烏鰂に似て、小なり。曝乾(ばうかん)して、之を食す。味ひ、甘(かん)、甚(はなはだ)珍なり。鎻管は、其身、圓直(ゑんちよく)にして、鎻管狀(さくわんぜう)の如く、首に、薄骨(はくこつ)、有り。管中(かんちう)に插入(さしい)る鎻鬚(さしゆ)の如し。其味(あじはひ)、甘脆(かんぎ/うまし)なり。猴染(こうぜん)は、狀(かた)ち、鎻管の如くにして、味、及ばず、とす。』「漳州府志」原型は明代の文人で福建省漳州府龍渓県(現在の福建省竜海市)出身の張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)が著したものであるが、その後、各時代に改稿され、ここのそれは清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌を指すものと思われる。同書の「介之屬」に『蝦姑【如蜈蚣而大。能食蝦、謂之蝦姑。】』とある。以上は、「中國哲學書電子化計劃」の「漳州府志卷之六」の「物產」のここの下から五行目の「柔魚」を見よ。]

2025/08/02

水上温泉 別邸 仙寿庵に行った――総てが至福であった!!!

一年前、連れ合いがセットして呉れた水上温泉の「別邸 仙寿庵」に行く。言っておくと、ここは――日本で最初の全室個室露天附きの温泉宿――なのである。部屋は最高の眺めで、懐かしい谷川岳の山脈(私は最初の高校でワンダーフォーゲル部の顧問となり、ゴールデン・ウイークに三回、雪の谷川岳を踏破した)を見上げるロケーションが最上の三階の端の部屋に、まず、大いに感激した。大風呂を含め、一泊で、十回以上、入った。温度も適切な良き湯であった。何より、和食の夕餉に吃驚した! 私は、人生の中で、京都山中の素敵な女将がもてなして呉れた「摘草料理」の「美山莊」を越えるものは無いとずっと思ってきたが、今回、それに並べ得る文句無しのものであった! 料理長に名前が記されていないので、訪ねたところ、複数の料理人が、それぞれに工夫を協議しているとの答えに、「なるほど! さればこそ!!!」と横手を打ったのであった!!! 泊まるなら、その部屋――「楽雪」――をお薦めするものである。翌日の朝食は、私は、敢えて洋食を選んだのだが、これまた、甚だ、何もかも瑕疵のない絶品の「美味」なのであった! 朝食の解説メニューの写真を添えておく。(車のない、我が家には、ちょっと、アプローチは大変ではあったが)

Senjyuantyousyokuyousyoku

Tanigawadakeyohho

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