河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(一)鰑の說(その4)
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。
底本はここの左の「七」ページの五行目から。]
本邦の沿海に生息する烏賊(うぞく)・柔魚(じうぎよ)は凡(をよそ[やぶちゃん注:ママ。])二十餘種あり。然(しか)れども從來より鰑となしたるは「けんざぎ[やぶちゃん注:ママ。]」「するめいか」の二種なれども、近年に至りては「さ〻いか」「ぶといか」「かういか」「あふりいか」をも製せり。是(これ)皆(みな)中外(ちうぐわい)[やぶちゃん注:国内と国外。]の需用に供し、國家に廣益ある所のものなりとす。花枝(あふりいか)を乾製したる丹後の袋烏賊(ふくろいか)の如きは、品質・製造共に佳良にして、往古(わうこ)、之を朝貢(ていこう)に備へ、舊幕府への献品(けんひん)となして著名なるも、其價(あたひ)、貴(たか)く、且つ、產額(さんかく[やぶちゃん注:ママ。直ぐ後に濁音でルビがあるから、「さんがく」の誤刻である。])、頗る僅少(きんしやう)なり。長門、對馬、豐後、肥前、肥後等に於ては、之を水烏賊(みいか)、又、藻烏賊(もいか)と唱へ、胴を割り、乾製するを、丸形鰑(まるかたするめ)と稱す。支那輸出品の一(いつ)に居(を)るも「けんざき」「するめいか」の二種に及ばず。又、烏賊(うぞく)、卽ち、甲烏賊(こういか[やぶちゃん注:ママ。])は、近年、中國(ちうこく)・九州、及び、其他にて乾製(かんせい)となし、淸國に輸出すと雖ども、創始の日、淺く、產額(さんがく)、多額(たかく[やぶちゃん注:ママ。誤刻。])ならず。然れども、淸國の需用は、甚だ、廣きものなれば、將來、大(おほひ)に望みあり。此外、雛烏賊(ひいか)、耳烏賊(みみいか)等(とう)の如きは、形、小にして、肉、薄く、乾製に適せざれば、煮食(しやしよく)の用に供するに過ぎず。乾章魚(ほしだこ)も、古昔(こせき)は『順留女(するめ)』と唱へしこと、あり。「和名鈔」にも『小蛸魚(しやうせうぎよ)』を『順留女(するめ)』と訓(くん)し、是も亦、「延喜式」に載せ、大膳(だいぜん)に供し、七五三の賀繕(がぜん)に用ふる所の佳物(かぶつ)にして、往古(をほこ[やぶちゃん注:ママ。「わうこ」が正しい。])より、各地に於(をゐ[やぶちゃん注:ママ。])て乾製し、其產出・所用も鯣に亞(つ)ぎ、淸國人の尤(もつとも)欲(ほつ)する所のものたり。而して、劍先鯣(けんさきするめ)は中國・九州に多く、就中(なかんづく)、肥前の五島を著名とし、肥前、對馬、長門等(とう)、產額、最も多く、出雲、石見、周防、筑前、肥後、伊豫、豐後、薩摩等、之に亞(つ)く[やぶちゃん注:ママ。「ぐ」の誤刻。]。而して、東國に至るに從ひ、其產、多からず。奧羽、渡島(としま)等に至りては、之を見ること、甚だ稀にして、曾て、鯣に製したるものあること、なし。唯(たゞ)去(さる)明治十六年、水產博覽會に、羽前國(うぜんのくに)西田川郡(にしたがはこほり)溫海村(をんかいむら[やぶちゃん注:ママ。私の後注参照。])より出品の丸乾(まほし[やぶちゃん注:ママ。])を見るのみ。柔魚(じうぎよ/するめいか)の產地は、全く、之に反す。面して、乾製となし、巨額を占むるは、伊豆・佐渡・渡島・陸中の四國(しこく)にして、相摸・紀伊・伊勢・阿波・土佐・備前、長門、對馬、若狹、石見(いはみ[やぶちゃん注:ママ。])、隱岐(をき[やぶちゃん注:ママ。])、越前、越中、加賀、越後、陸前、陸奧、後志(しりべし)等、之に亞(つ)ぐ[やぶちゃん注:「く」であるが、誤刻と断じて訂した。]。此他(このた)の諸州も、多少、漁獲せざるに非ざれども、或は、得る所、寡(すくな)く、或は、製方を知らず、或は、都會に接近し、販賣の便(べん)なる等(とう)により、乾製をなさゞる、あり。而して、各地に製する所、形狀、一樣ならざるは、製造の異(ことな)るによると雖も、亦、種類(しゆるひ[やぶちゃん注:ママ。])の同(おなじ)からざるによるか。今、柔魚を區別するに當り、普通のものを、豆相(づさう)地方に於(おい)て、「まいか」と唱(となふ)れども、眞烏賊(まいか/かういか)と混ずるを以て、假(かり)に「まするめいか」と名けたり[やぶちゃん注:「なづけたり」。]
[やぶちゃん注:「本邦の沿海に生息する烏賊(うぞく)・柔魚(じうぎよ)は凡(をよそ[やぶちゃん注:ママ。])二十餘種あり」少し古いが、所持する『日本動物大百科』「第七巻 無脊椎動物」(日高敏隆監修/奥谷喬司・武田正倫・今福道夫編集/初版一九九七年平凡社刊・初版)の、「イカ・タコ類」の窪寺常巳氏の解説に拠れば、冒頭で、『世界の海洋から今までに, コウイカ類で150~180種, ツツイカ類で240~280種, 八腕形類で約200種が報告され、日本近海には, そのうちの165種前後が分布している』とし、「日本のイカの代表・スルメイカ」の条で、『日本近海には約100種のイカ類が知られている』とされ、『戦後の食糧難のころには, 年間50万~70万 t も水揚げされ, その後, 個体数が減少し, 80年代には10万 t を割るようにな不漁もあったが, 最近は20万 t 前後と比較的安定している. 日本のイカ消費量の約 3 分の 1 を、まかなっているもっとも重要なイカである』とある。新しいものでは、サイト「地域の入れ物」の「いかの漁獲量の都道府県ランキング(令和2年)」があり、『全国計は82,180tですが、トップは青森県の18,557tで、シェアでは22.6%となっています』。『2位は北海道で13.4%、3位は長崎県で8.0%のシェアとなっています』とあって、『なお、イカといえば、佐賀県の呼子が有名ですが、漁獲量では佐賀県は25位となっています』とあった。因みに、サイト「都道府県別統計とランキングで見る県民性」の「都道府県別イカ消費量」が、なかなか面白い。統計ジャーナリスト久保哲朗氏の執筆で、『年による変動が考えられるので2012年から2016年の平均値をとっている』とあり、『1世帯あたりのイカ消費量の全国平均は2,058g。消費量が最も多いのは青森県で4,533g。2位以下は秋田県、新潟県、富山県、鳥取県の順。最も消費量が少ないのは沖縄県で809g。これに香川県、熊本県、鹿児島県、宮崎県と続いている』。『分布地図を見ると』、『東北と日本海側で消費量が多い。これらの地域はイカの漁獲量も多い地域で、漁獲の多さが消費の多さに結びついているようだ』。『相関ランキングでは魚介類消費量と正の相関があり、イカの消費量が多いところは魚介類消費量も多い』。『また、年間降雪量と正の相関があり、年間晴れ日数と負の相関があることから、晴れの日が少なく降雪量が多いところでイカの消費量が多い』とあった。
「けんざき」既注済みの、
十腕形上目ツツイカ(筒烏賊)目閉眼亜目ヤリイカ(槍烏賊)科ケンサキイカ(剣先烏賊)属ケンサキイカ Uroteuthis ( Photololigo ) edulis
であるが、同種には、見た目の形状が有意に異なる二型があり、
メヒカリイカ型(「目灯烏賊」・「目燈烏賊」・「目光烏賊」か?)
ゴトウイカ型(恐らく「五島烏賊」である。ケンサキイカは、本邦では九州では「ゴトウイカ」と俗称されるが、本州中部以南・東南アジア一帯に分布し、特に五島列島周辺で多く漁獲されるからである)
が存在する。
「するめいか」同じく既注済みの、
開眼亜目アカイカ(赤烏賊)科スルメイカ亜科スルメイカ属スルメイカ Todarodes pacificus
である。
「さ〻いか」これは「笹烏賊」で、一つは、前掲のケンサキイカの長崎県長崎市の地方名である(「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のスルメイカのページを参照されたい)が、これは、文脈から違うので、同じ「笹烏賊」で、
ヤリイカ科ヤリイカ属ヤリイカ Heterololigo bleekeri
の異名である(「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「ヤリイカ」の「地方名・市場名」に出所を『文献より』とある)。
「ぶといか」これは「(その2)」の『「ぶといか」一名「ぶどういか」』で注した「太烏賊」で、前の「けんざき」で注した、ケンサキイカの後者のゴトウイカ型である。本書当時は、別種として認識されていた。そのまま再掲すると、「ぶどういか」は、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「ブドウイカ」(異名。以下の引用で正式和名は「ケンサキイカ(ブドウイカ型)」で、Uroteuthis ( Photololigo ) edulis である)によれば、「ぶどういか」は「葡萄烏賊」ではなく、やはり「太烏賊」で、「漢字・学名由来」に『漢字/太烏賊』とし、『山陰島根県などの「ぶといか」が変化して「ぶどういか」になったものと思われる。「ぶと」=「太」でケンサキイカよりも外套長が短く太って見えるため。』とあった。「全国いか加工業協同組合」の『新編・世界イカ類図鑑』のここ(PDF)に、『ケンサキイカ(ブドウイカ型) Uroteuthis ( Photololigo ) edulis ( Hoyle, 1885)[ budo-ika]/ヤリイカ科 Loliginidae』とし、棲息域は『日本近海』、『市場名』として『シロイカ』(「白烏賊」と思われる)を挙げ、外套長は四十センチメートルとあり、
《引用開始》
日本海西部に分布するケンサキイカの季節型でLoligo budo Wakiya & Ishikawa, 1921 の名が与えられた.鰭の長さは外套長の65%ぐらい.腕の吸盤角質環の特徴はケンサキイカの他型と同様截断状の歯が数個あるが,触腕掌部がそれらに比し広く大きく,ここの吸盤はIII腕の吸盤より大きい.外套膜は外見ケンサキイカのゴトウイカ型などより太目で(外套幅は長さの30%),腹中線の肉畝は殆ど見られない.「白ずるめ」の材料は本種.付記:Sasaki (1929)が Loligo edulis forma grandipes とした型で,秋冬期のみ日本海西部にあらわれ,幼期はケンサキイカの他型と区別できない.
《引用終了》
とある。
「かういか」「甲烏賊」で、
十腕形上目コウイカ目コウイカ科 Acanthosepion 属コウイカ Acanthosepion esculentum
で、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のこれである。
「あふりいか」既注の、
ヤリイカ科アオリイカ属アオリイカ(シロイカ)Sepioteuthis lessoniana
である。
「花枝(あふりいか)」既注だが、再掲すると、「花枝」は、現在でも、コウイカ類を指す中国語として生きている。
「丹後の袋烏賊(ふくろいか)」探すのに苦労したが、サイト「京都府立大学」が公開している『 MALUI連携WEB「まるまる舞鶴」』の中の、このリスト(PDF)の中の『11』に、『分類』で『海産』とし、『地名』を『与謝湾』とあって、『名産名』に『袋烏賊』とあるのを発見した。
「水烏賊(みいか)」「デジタル大辞泉」に『みず‐いか〔みづ‐〕【水烏=賊】』で載り、『アオリイカの別名』とあった。
「藻烏賊(もいか)」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアオリイカのページの「地方名・市場名」に『モイカ』とあり、採集場所を『愛知県南知多(三谷)、三重県東紀州、高知県室戸市・宿毛市田ノ浦すくも湾漁協』とあった。
「丸形鰑(まるかたするめ)」これは、検索に全く出てこない。万事休す。
「烏賊(うぞく)、卽ち、甲烏賊(こういか)」ここで遂に、当時の本邦で「烏賊(うぞく)」と言った場合は、狭義には「甲烏賊(かういか)」、即ち、
コウイカ目コウイカ科 Acanthosepion 属コウイカ Acanthosepion esculentum
を指したことが判明した。
「雛烏賊(ひいか)」「(その2)」で注したが、やや補助を入れて、そのまま再掲する。これは、まず、基本、ヤリイカ科ジンドウイカ(神頭烏賊・磁頭烏賊)属ジンドウイカ Loliolus ( Nipponololigo ) japonica のジンドウイカの広範な異名である。但し、株式会社安岐水産公式サイト「あき水産活魚部」内の「【いか情報】小さいけれど旨味は抜群!ヒイカ(ジンドウイカ)」の、「ヒイカの名前の由来」の項に、『ヒイカは漢字で「火烏賊」と記し、灯の明かりに寄ってくる習性に由来します』。『また、ヒイカは市場に流通する小型のジンドウイカ類の地方名だそう』。『ヒイカには、標準和名のジンドウイカ、ヒメジンドウイカ、ベイカ』(ヤリイカ科ベイカ Loliolus ( Nipponololigo ) beka )、『ケンサキイカ、ヤリイカなどの胴長約』十五センチメートル『以下の小型のジンドウイカ類が複数種含まれているようです』(☜要注意!)。『ジンドウイカの名前の由来は、弓矢のヤジリの一種「神頭(じんどう)」に似ていることが名前の由来と言われているそうです』。『「神頭」とは先が平らになった的矢や鏃のことを意味し、ジンドウイカの胴体とみみ(鰭)を合わせた形が「神頭」に似ていると思われます』とあり、「ヒイカの生息域」の項に、『ヒイカは北海道から九州までの日本各地に分布しており、水深50メートルまでの浅い内湾で生息しています』。『また、水深』一『メートルから』十『メートルくらいの内湾で春から夏に産卵します』。『ヒイカは昼間に海底直上を遊泳していることから、主に底引き網で漁獲されます』とある。異名の由来と対照種群を、ここまで、しっかりと記されたものは、ネットでは稀有である。
「耳烏賊(みみいか)」同前で、ほぼ、そのまま再掲する。「日本大百科全書」から引く(奥谷先生の記載)。コウイカ目ダンゴイカ科ミミイカEuprymna morsei (英名:bobtail cuttlefish:“bobtail”は「切り尾の馬・犬/切り尾・短い尾」の意)。『北海道南部以南から日本全国を経て、台湾、フィリピンにまで分布する。外套長は』五十『ミリメートル、幅』三十『ミリメートルぐらいに達する。ひれは丸く、胴の中ほどについていて「耳」のようである。腕は外套長よりやや長く、吸盤は』四『列に並んでいる。触腕の吸盤は顕微鏡的で無数にある。外套腔の中の墨汁嚢の上には鞍形をした発光器があり、その中に発光バクテリアが共生していて発光する。沿岸近くにすんでいて、他の雑魚(ざこ)といっしょに漁獲されるが、商業価値は低い』とある。学名のグーグル画像検索を添えておく。
「乾章魚(ほしだこ)も、古昔(こせき)は『順留女(するめ)』と唱へしこと、あり」これ、「壽留女」の漢字表記の誤りではなかろうか? 「Weblio 辞書」の「結婚用語集」の「寿留女(するめ)」に、『するめの干物。長期保存できることから「食べ物に困らないように」との意味が。また噛めば噛むほど味が出るので「そんな花嫁になって欲しい」と「幾久しくご縁が続きますように」の意味も含む。』とある。
『「和名鈔」にも『小蛸魚(しやうせうぎよ)』を『順留女(するめ)』と訓(くん)し』「倭名類聚鈔」の「卷十九」の「鱗介部第三十」・「龜貝類第二百三十八」の「小蛸魚」である。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の当該部を参考に推定訓読する。標題の読みは、原本では、(右/左)のルビである。
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小蛸魚(ちいさきたこ/するめ) 崔禹錫(さいうしやく)の「食經(しよくけい)」に云はく、『小蛸魚(せうせうぎよ)【和名は「知比佐木太古(ちひさきたこ)」。一(いつ)に云はく、「須留女」】。』と。
*
この『崔禹錫(さいうしやく)の「食經(しよくけい)」』「崔禹錫食經」(さいうしゃくしょっけい)は唐の崔禹錫撰になる食物本草書。「倭名類聚鈔」に多く引用されるが、現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。
「延喜式」言わずもがなだが、注しておくと、平安中期の法典で全五十巻。延喜五(九〇五)年に醍醐天皇の命により、藤原時平、次いで弟の忠平らが編修し、同年に完成した。「弘仁式」・「貞観式」(じょうがんしき)、及び、それ以降の「式」を取捨して集大成したもの。康保四(九六七)年に施行された。
「大膳」「おほかしはで」と訓読する。宮中の食事や儀式の饗膳を指す。管理した担当職は、宮内省の大膳職(だんぜんしき/おほかしはでのつかさ)。
「水產博覽會」東洋文庫の注に、『明治一六年(一八八三)三月一日から六月八日まで一〇〇余日間、東京上野公園内で開催された。この開催によって、各地域における漁業技術の実態を踏まえ、優良な技術や知識を探り当て、それを改良、奨励することで、他地域に普及させることが意図された。博覧会は四区に分かれ、第一区第一類は漁具(受賞人および姓名、漁船、漁網、各種漁具、捕鯨器具、釣具、総論)、第一区第二類は河漁装置部、海漁装置部、漁場、網干場、漁舎、第三区は養殖之部、第四区は統計部であった。統計による把握も企図され、水産製造物等の市場開拓の意識も認められる。『水産博覧会報告事務顚末之部』によれば、日本全国からの出品総数一万四五八一点(出品人員は一万五五七人)、来館者数約二一万五五〇〇余人で、天皇も行幸した。この成功を受けて、第二回水産博覧会が明治三〇年九月一日から一一月三〇目まで兵犀県神戸市で開催された。』とある。因みに、平凡社「世界大百科事典」の「水産博覧会」には、『この博覧会の目的は漁業技術発展の地域差の実態を把握し,先進地域の優良技術を広く掘り起こし,それを他地域に普及させることにあった。また水産製造部門では,たんに製造技術の開発指導事業にとどまらず,水産製造物の市場開拓という面でも直接役だったであろう。漁業者から一方で学びつつ,同時に指導できる水産博覧会は,まだ微力で模索過程を始めたばかりの水産行政当局に最もふさわしく有効な技術振興策であった。第』二『回水産博覧会は』『その規模は前回を上まわり』、『出品総数』四万二千二百四十七『点に及んだ』(二野瓶徳夫氏執筆)とある。なお、「中央水研」公式サイト内の「デジタルアーカイブ」に、この第一回の際、「水產博覽會獨案內」(三月二十日に出版されたもので、『水產博覽會事務局認可』の表示と、『定價八㦮』と視認出来る)のJpeg版が、ここで、総て視認出来るので見られたい。
「羽前國(うぜんのくに)西田川郡(にしたがはこほり)溫海村(をんかいむら)」複数のデータで確認したが、この村名は「あつみむら」正しい。平凡社「日本歴史地名大系」の『温海村』に、『あつみむら』とし、『山形県:西田川郡温海町温海村』、『現在地名』を『温海町温海・湯温海(ゆあつみ)』とする。現在は、合併して鶴岡市温海町(あつみまち)である。ここ(グーグル・マップ・データ。拡大した航空写真もリンクしておく)。『温海岳の西方、日本海沿岸に位置し、地内の南を温海川が西流する。村名は川の中に湧出する温泉で海も温かくなったことに由来するという(温海郷土誌)。浜(はま)街道が通り、その宿駅であった。本郷は浜温海(はまあつみ)村ともいわれ、枝郷に東方山中の湯温海村(湯村)、本郷の南に釜谷坂(かまやさか)村、北に米子(よなご)村・暮坪(くれつぼ)村がある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高五六六石余。寛永三』(一六二六)『年』の「出羽庄內三郡村々檢地高辻帳」『では高五六九石余。正保郷帳では田方』五百五十二『石余・畑方九石余。江戸時代、山浜(やまはま)通温海組の世襲大庄屋本間氏の居宅があった』。』『明和七年(一七七〇)の』「御國目付𢌞村案內書」『(温海文書)によれば』、『湯温海村を除き』、『高』四百五『石余、うち畑高』十一『石余、取米』二百四十『石余、定免五ツ九分四厘、山年貢米』十七『石余、家数は名子・水呑ともに』百四十一名、『男』四百五名『・女』四百十五。『船』二十一、『うち一人乗小船』十七『・三人乗小船二・六人乗猟船二、馬』四十二、『うち』二十九『駒・』十三『駄、牛』二十六、『制札八。当村より鼠(ねず)ヶ関(せき)村まで二里一八町、駄賃は本荷』百二『文・軽尻』(からじり/からしり:積み荷を載せない空乗りの馬賃)六十八『文。三瀬(さんぜ)村(現鶴岡市)まで三里一一町、駄賃は本荷一四九文・軽尻』百一『文。枝郷の湯村まで二九町、駄賃は本荷』三十『文・軽尻』二十『文・歩行夫』十五『文とある。また』、『湯温海村は高』九十三『石余、家数は名子・水呑ともに』七十二、『男』二百十『・女』二百二十八、『馬』十五『・制札七、湯壺四』十『二』とある。なお、松尾芭蕉は「奥の細道」でここに泊っている。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 52 酒田 あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ』、続く、『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 55 村上 小鯛さす柳涼しや海士が妻」、また、ずっと後の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 72 今日よりや書付消さん笠の露――曾良との留別』も見られたい。]
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