阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「怪雷告凶」
[やぶちゃん注:底本はここ。やや長い。句読点・記号・段落を追加・変更した。なお、これを以って、「安倍郡府中御在城の時」と始まる一連の話柄は、ひとまず、終わる。]
「怪雷《くわいらい》告凶《きやうを つぐ》」 安倍郡府中、御在城の時にあり。
「明良洪範」云《いはく》、
『元和《げんな》二年二月廿二日、早朝より、殊に晴明なりしが、未《ひつじ》の剋《こく》に及《および》て、俄《にはか》に、雲、起り、雷鳴、地震、雹《ひよう》ふり、霾風《ばいふう》[やぶちゃん注:「黃砂」のこと。]甚しく、城中・城外、市店《いちみせ》も皆、一同に戶を閉《しめ》、蔀《しとみ》をおろす事、半時《はんとき》計《ばかり》にして、雷、おさまり、風雨も、やみける。西の丸の松、十かヽへほどなる大樹、六。七本。捻《ねぢ》きるが如くに、中《なか》より折れたるに、其枝葉ともに、一《ひとつ》も見えず。又、東の方の土手も、十間《じつけん》[やぶちゃん注:約十八メートル。]計り、切《きり》て取《とり》たるが如くに、うせて、其土、少しも殘らず。其東、杉原伯耆守隆泰、松平土佐守忠義の邸宅の間、矢倉、半《なか》ば切れて、何方《いづかた》へ行《ゆき》けるにや、落《おち》たる處を、しらず。隣家本多《ほんだ》美濃守忠政の邸《やしき》へは、大蛇の鱗、三枚、落《おち》たり。是を、將軍家の御髙覽に備ふ。
「是、神君御不例、御快復あるまじき先兆か。」
と、世人眉をひそむ。云云』。
此書、「駿府」と記さずといへども、此二月二日、幕府、當城御着《おつき》、御逗留也。然《しか》らば、當府の事としらる故に、爰に載《しる》す。
[やぶちゃん注:「明良洪範」江戸中期成立の逸話・見聞集。十六世紀後半から十八世紀初頭までの徳川氏・諸大名その他の武士の言行、事跡等を七百二十余項目で集録する。江戸千駄ヶ谷聖輪寺の住持増誉(?~宝永四(一七〇七)年:俗姓真田)の著。正編二十五巻・続編十五巻。成立年は不詳(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションで(明治四五・大正元(一九一二)年国書刊行会刊)視認でき、当該部はここ(右ページ「卷之五」冒頭から)。最初と最後、及び、中間部のカットされた部分を含め、煩を厭わず、そのままに以下に示す。細部にも、有意な違いがあるからである。
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○神君御終焉之記附錄元和二年二月廿二日天氣皆晴なりしが未の時に及で雲俄に起り雷鳴地震風烈く城中城下皆戶を閉て居ける半時計にして風雨鎭りしに西丸に松の大木十抱計なるが六七本有けるが中より折たり然るに其枝葉齊く見えず又東の方の土手十間計切取し如くに失て其土少も見えずまた杉原伯耆守隆景並に松平土佐守忠義の邸宅の門半分切れて其行方知れず又隣家の本多美濃守忠政の邸へは大蛇の鱗三枚落て有り是を將軍家の高覽に備へしと也此時或識者密に申けるは往昔延喜十六年桃園親王薨去の時七尺の龍と化して大宮の桃園の池に入給ふ因て桃園と稱し奉る又六孫王經基逝去の時龍と化して西八條の池に入給ふと言傳ふ神君此度の御不例本復し給はざる前兆ならんと眉を潛めて申されしとかや
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「元和二年二月廿二日」グレゴリオ暦一六一六年四月八日。因みに、大御所徳川家康の逝去は元和二年四月十七日(グレゴリオ暦一六一六年六月一日)であった。
なお、人物名は注する気はない。悪しからず。]
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