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2025/08/21

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 上卷(一)鰑の說(その5)――総て図版画像附・全キャプション電子化注附――

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。

 以下は、底本の記述内容が、後に出る鯣の図版(ここから、ここまで。単図にして九図)を示さなくてならない所に来た。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を用いて、キャプションを、総て、電子化注する。ここで掲げる図は、高解像度でダウンロードしたものを、一ページずつにトリミングして示した。汚損があるが、そのまま一切の補正をせずに掲げた。なお、判読不能な部分は、一箇所もなかった。

※電子化の順番は、図の配置から、七番目までは、河原田氏が描いたと推定されるところの、縦方向を優先し、次に横方向へと移る順に示す(各一図に複数ある場合も同じ)。八番目からは、図の描き方が明らかに変わっているので、そこで説明する。

※キャプションは鍵括弧で括り、前後を明確にするため、項目ヘッドに「■」を打った。

※漢字の読みは、一部、読み方を添えた方が良いと考えたもののみ、推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた。繰り返される場合は、後では、基本、附していない。

※キャプションが二行以上になっている場合、字下げが行われている場合があるが、それはブラウザの不具合を考え、再現していない。

※読みが混乱すると思われる箇所には私が句点・読点を打った関係上、文章となっている部分の最後には、句点を配した。

※鍵括弧内に二重鍵括弧を用いた箇所がある。

※手書きで小さいため、漢字の字体が判読出来ない場合は、正字を採用した。実は、字の大きさは有意に違うのだが、それを再現すると、時間を食うので、同ポイントとした。なお、著者は「干」という字を、しばしば、異体字「亍」で書いているが、紛らわしいので、一律、「干」で起こした。

 この一ページを作成するのに、ブログ及びサイト開設から二十年の中で、不倒距離となった凡そ七日をかけて、完成させた。実字数で三万八千五百字を超えている(総画像13.2MB)。量質ともに、最大容量の特異点の記事となった。

 

【図版1】

 

1_20250821132201

 

「劔先鰑各種の圖」(上罫外の標題)

 

■「磨上々番鰑《みがきじやうじやうばんするめ》」

 「豊後國《ぶんごのくに》、

  北海部郡《きたあまべのこほり》関村產。

  白く、粉を、しき、透明するほどの美色あり。

  現品、鰭《ひれ》より、胴長り、

  一尺三寸五分あり。」

[やぶちゃん注:「豊後國北海部郡関村」ここは、現在の大分県大分市佐賀関(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。である。ウィキの「佐賀関」によれば、『旧北海部郡佐賀関町時代の大字名は関』(☜)『であったが、大分市との合併後の』二〇〇六年四月一日『に現在の大字名に改称した』とある。なお、「郡」は、先行本文で、『の こほり』と訓じており、「ぐん」とは、訓じていない。

「胴長り」ママ。「り」は「さ」、或いは、係助詞「は」の誤記か。

「一尺三寸五分」約四十・九センチメートル。]

 

■「磨劔先鰑」

「皮をむき、軟骨、付《つけ》、のしたるものなり。

 此ものも、上番となる品なり。

 豊後國北海部郡《きたあまべのこほり》保戶島《ほどじま》の產。」

[やぶちゃん注:「豊後國北海部郡保戶島」現在の大分県津久見市に属する、四浦半島沖の豊後水道に浮かぶ保戸島(ほとじま)。ここ当該ウィキによれば、現在は『マグロの遠洋漁業の基地として知られている。また、島の一部は日豊海岸国定公園に指定されている。明治』二五(一八九二)年『から昭和』二六(一九五一)年『までは、保戸島村として独立した一自治体であった』(本書は明治一九(一八八六)年刊)。『平地が』殆んど『ないため、海岸に迫る急な斜面に』三『階建てのコンクリート造の建物がひしめくように建ち並んでおり、その風景は地中海の漁港を連想させる。保戸島集落は「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」に選定されている』とある。「津久見市観光協会」公式サイトの「保戸島」をリンクしておく。]

 

■「一番大面

  五島鰑」

 「肥前五島の產。」

 「現品、肥《こえ》、長《ながさ》一尺一寸あり。」

[やぶちゃん注:「一番大面」この文字列は、国立国会図書館デジタルコレクションの多数の水産関係書物で、総て確認出来たが、一切、ルビが振られていないため、判らない。ネット検索では、この文字列自体が掛かってこない。AIの解説では「いちばんおおめん」あるので(出所不明)、仮に「いちばんおほめん」と読んでおく。

「肥前五島」長崎県西部に位置する五島列島。]

 

■「一番鰑」「凡《およそ》、八分の一。」

 「薩摩國出水郡《いづみのこほり》

  波留村《はるむら》產。」

[やぶちゃん注:「出水郡波留村」現在の鹿児島県阿久根市波留(グーグル・マップ・データ)。

「凡、八分の一」図の実際の大きさの縮小スケールを示している。この断りは、最終図版の上に、罫外に『縮寫減數ハ体長直經を以てす以下倣之』とある。

 

■「白鰑」「凡、八分の一。」

 「尾鰭を翻反《ひつくりかへ》したるもの。

  出雲島根郡三保産。」

[やぶちゃん注:「出雲島根郡三保産」現在の島根県松江市美保関町(みほのせきちょう)美保関。昨年末、団体旅行ながら、小泉八雲所縁の地を訪ねた際、訪ねた。]

 

■「笹鰑」「凡、五分の一。」

 「肥前唐津の産。」

[やぶちゃん注:「肥前唐津」現在の佐賀県唐津市。]

 

■「烏賊丸干」「劔先なり。」

 「凡、七分の一。」

 「羽前國西田川郡

       溫海村《おんかいむら》產。」

[やぶちゃん注:「羽前國西田川郡溫海村」「(その4)」で既出既注。

 

■「鰑」「凡、九分の一。」

 「出雲國島根郡

        野井津《のゐつ》の產。」

[やぶちゃん注:「出雲國島根郡野井津」現在の島根県松江市島根町(しまねちょう)野井(のい)のことであろう。ここ。]

 

■「串烏賊《くしいか》」「凡、七分の一。」

 「長門《ながと》、萩の産。」

[やぶちゃん注:「長門、萩」現在の山口県萩市。]

 

■「鰑」「尾を翻反したるもの。」

           「凡、八分の一。」

 「若狹國三方郡《みかたのこほり》

      神浦產。」

[やぶちゃん注:「神浦」これは、現在の福井県三方上中郡(みかたかみなかぐん)若狭町常神(つねかみ)のことであろう。平凡社「日本歴史地名大系」の「常神浦(つねかみうら)」に『福井県:三方郡三方町常神浦』とし、旧地名を『三方町常神』とあり、『西(にし)浦の一』つ『で』、『常神半島最北端に位置し、西方に御神(おんかみ)島がある。奈良時代の遺跡や式内社常神社があり、開発は古い。平安末期から鎌倉初期に御賀尾(みかお)浦(神子浦)に伊香氏が移住して領有を認められたらしいが、やがて当浦は伊香氏の支配から離れたようである』。『大音家』(おおとけ)『文書の年不詳(戦国期)五月』二十五『日付某書状案に「承久の時ハ常神も御賀尾も我等かせんそ』(先祖)『の御賀尾浦物にて両浦と一円に致候所にて候を、今の常神之刀禰のせんそにわけ候て」とある。との間には中世・近世を通じ』、『しばしば』、『網場をめぐる相論があった(同文書)。御賀尾浦とともに若狭漁業の先進地で、天文二』(一五三三)年『の常神社蔵棟札銘に「于時大網之徳分年々用意上フキシ仕候」とみえ、大網の収益から同社の上葺』(うへぶき)『経費を出したことが知れる』とある。]

 

■「皮剥《かははぎ》」「劔先鰑《けんさきするめ》。」

 「凡、十分の一。」

 「劔先の皮を、ハね反《かへ》したるもの。」

 「薩摩國出水郡《いづみのこほり》波留村《はるむら》産。」

[やぶちゃん注:「薩摩國出水郡波留村」現在の鹿児島県阿久根市波留。]

 

■「やりいか鰑」「凡、八分の一。」

 「東京にて、試製たるもの。」

[やぶちゃん注:「試製」の「試」は(つくり)の右払いの途中に「ノ」が入っているが、このような異体字はない。他の字の可能性は私は考え得なかったので、「試」とした。

 

■「ぶといか」「凡、七分の一。」

 「長門國豊浦郡宇賀村産。」

[やぶちゃん注:「ぶといか」「(その4)」で既出既注。]

 

■「さバいか」「凡、七分の一。」

 「此所《このところ》、穴、あり。

  長門、萩産。長嵜《ながさき》にてハ、『劔先』という。」

[やぶちゃん注:「さバいか」「(その2)」で注したが、再掲すると、ネットで調べると、魚のサバ(鯖)漁の時期に、同時期に採れるヤリイカをカップリングした名称として「サバイカ」が検索に掛ってくるのだが、どうも、これではないと思われる。私は、寧ろ、

★直前の「すんどういか」を受けた、同義的か、或いは、その差別化(ケンサキイカは「細い」とは――私は――言えないと思うので)の呼称であって――「狹幅」――さば――「はばせま」「はばぜま」(=幅が普通より狭いこと。また、そのさまやそのもの。小学館「日本国語大辞典」に拠る)――「幅狹」=「スリム」――ではないか?

と考えた。根拠も何もない、ただの思い付きではある。ただ、とすれば、可能性としては、「ずんどういか」と同じジンドウカ、或いは、それよりも、もっとスリムなヤリイカ等の烏賊の誰彼か? となるか? 識者の御叱正を乞うものである。

「此所、穴、あり」乾した鯣の「えんぺら」の右横に添えてあり、「えんぺら」の左右の中央に丸い穴がある。以下でも、穴が開いている鯣は出てくるが、これは、もともとイカにあるものではなく、プラグマティクに乾製作業の中で(「えんぺら」が変形しないように、乾し下げるための仕儀等)生じた穿孔穴であると思われる。]

 

■「鰑」「凡、五分の一。」

 「薩摩國甑島郡《こしきじまのこほり》平良《たいら》村。」

[やぶちゃん注:「薩摩國甑島郡《こしきじまのこほり》平良《たいら》村」現在の鹿児島県薩摩川内市(さつませんだし)上甑町平良(かみこしきちょうたいら)。]

 

 

【図版2】

 

2_20250821132201

 

「二番鰑各種の圖」(上罫外の標題。本文の終りで「二番鰑(にばんするめ)」とルビする。)

 

■「二番鰑」「凡、七分の一。」

 「對馬國産。量、廿五匁。」

[やぶちゃん注:「廿五匁」九十三・七五グラム。中高と高岡市伏木に住んだ私には、殊の外、懐かしい場所だ。六つの文化層を持つ縄文中期から中世の複合遺跡で国史跡「大境洞窟住居跡」(おおざかいどうくつじゅうきょあと)は、私のお気に入りだった。脱線だが、ここの先をさらに北上すると、県境を越えたところに、七尾市百海(どうみ)というところがある。ここは、釣りフリークの父のお気に入りの秘密の釣り場で、私が結婚した、丁度、今のお盆の時期、連れ合いと一緒に帰省し、釣に行った。浜から少し離れた岩礁がここにあり、父子ともに、連れ合いを背負って渡った。数時間で鉄砲鱚(有意に胴が肥えて手で握ると、腕を「パンパン!」と打って暴れることからのキスの地方名)入れ食いで、三十尾以上の釣果となり、隣近所に分けたのを覚えている。至福の一時だった……。]

 

■「干烏賊」「凡、六分の一。」

 「越中射水郡《いみづのこほり》宇波《うなみ》村産。」

[やぶちゃん注:「越中射水郡宇波村」現在の富山県氷見郡宇波村大字宇波。]

 

■「鰑」「凡、七分の一。」

 「『しろいか』にて製《せいす》。」

 「長門、萩の産。」

[やぶちゃん注:「しろいか」ヤリイカ科ケンサキイカ属ケンサキイカ(ブドウイカ型) Uroteuthis  Photololigo  edulis の市場名。「白烏賊」と思われる。]

 

■「塩烏賊」「凡、五分の一。」

 「長門、阿武郡江﨑《えさき》の産。」

 「『しろいか』の皮を、

  むき、切《きり》て、乾《ほ》せ

  るものなり。」

[やぶちゃん注:「長門、阿武郡江﨑」山口県萩市江崎(えさき)。]

 

■「小烏賊煮干《こいかにぼし》」

 「凡、三分の一。」

 「長門、豊浦郡 二見浦の産。」

[やぶちゃん注:以上の二つの図は、前の図の左手にあり、次の左の図群とは、やや離れていることと、同じ「しろいか」であることから、ここに置いた。この標題の「小烏賊」は種名ではなく、小型サイズの意と思われる。

「長門、豊浦郡 二見浦」(半角空けはママ)山口県下関市豊北町大字北宇賀の二見浦。]

 

■「佐渡冬鰑」「凡、六分の二。」

 「佐渡物産博覧會出品のもの。」

[やぶちゃん注:「佐渡物産博覧會」は「佐渡、」で、「佐渡」から東京等の中央の「物産博覧會」に「出品のもの」の意であろう可能性が強いか。]

 

■「亀甲鰑」「凡、六分の一。」

 「越中、丹尾郡清水谷浦産。」

[やぶちゃん注:「越中、丹尾郡《にうのこほり》清水谷浦産」この「越中」は「越前」の誤りである。ウィキの「丹生郡」を見ると、「歴史」の項の「越前福井藩」領のリストに、『清水谷浦』が確認出来、次の「町村制以降の沿革」に、明治二二(一八八九)年四月一日の町村制施行で、「清水谷浦」が「国見村」に編入されたことが判り、「変遷表」で、昭和三四(一九五九)年二月一日に「国見村」は「福井市」に編入されている。しかし、この「清水谷浦」の位置が容易には判らなかった。検索したところ、サイト「jlOGOS」の「角川地名辞典(旧地名)」の「鮎川浦(近世)」に(コンマは読点に代えた。太字・下線は私が附した。これ以下の引用も同じ)、『江戸期~明治』二二(一八八九)『年の浦名。越前国丹生郡のうち。はじめ福井藩領、貞享』三(一九八六)『年』、『幕府領。文政』三(一八二〇)『年からは』、『再び』、『福井藩領。高は、「正保郷帳」で田方』百二十『石余・畑方』二十五『石の計』百四十五『石余。「元禄郷帳」「名蹟考」「天保郷帳」とも』百四十五『石余、「旧高旧領」では清水谷浦を分離し』、百三十九『石余。清水谷浦は当浦内にあり、年未詳ながら、清水谷浦を含んだ江戸期の戸数』二百十九『・人口』千二百九十六名『(平野家文書)。当浦は、九頭竜川に架けられた船橋に使う御用船』四十八『艘のうち』、一『艘を負担している(越藩拾遺録)。』とあった。さらに、平凡社「日本歴史地名大系」の「鮎川浦」には、『現在地名』を『福井市鮎川町』(あゆかわちょう)とし、『日本海に面する漁村で、東側に丹生山地が迫る海岸段丘下に位置し、北は南菅生(みなみすごう)浦に至る』とあった。以上から、「清水谷浦」は、確実に海岸に近い位置にあると推定された(九頭竜川の河口は地上実測で北東北十八キロメートルはある)。現在の鮎川町は、ここであるが、「清水谷浦」は、この町域にあることは、まず、間違いないと判断出来る。最早、頼みの綱は、「ひなたGIS」の戦前の地図であったが、残念ながら、「清水谷浦」は見出せなかった。ここまでだ。現地の方の情報を切に乞うものである。

 

■「鰑」「凡、五分の一。」

 「陸奥國青森の産。」

 

■「乾烏賊」「凡、六分の一。」

 「紀伊國東牟婁郡三輪嵜《みわさき》の産。」

[やぶちゃん注:「紀伊國東牟婁郡三輪嵜」現在の和歌山県新宮市三輪崎。]

 

■「佐渡鰑」「凡、六分の一。」

 「佐渡物産會社出品。」

 「此所、『をから』にて、ハりたるものなり。」

[やぶちゃん注:「をから」「麻幹・苧殼・麻木」。麻の皮を剝いだ後の茎。あさがら。盂蘭盆の精霊棚の飾りに用いたり、「迎え火・送り火」に焚いたりする、あれである。]

 

■「鰑」「後志國《しりべしのくに》美國郡《びくにのこほり》産。」

 「凡、五分の一。一枚量、十二匁。」

[やぶちゃん注:「後志國美國郡」現在の北海道積丹郡積丹町(しゃこたんちょう)美国町(びくにちょう)。ここで言っておくと、御存知かもしれないが、北海道では「町」を「まち」と読むのは、茅部郡(かやべぐん)森町(もりまち)のみである。ここ。★向後は、この注は書かないので注意されたい。

「十二匁」四十五グラムちょうど。]

 

■「鰑」「凡、七分の一。」

 「伊勢國度會郡《わたらひのこほり》

  神嵜浦《かみさきうら》の産。」

[やぶちゃん注:「伊勢國度會郡神嵜浦」現在の度会郡南伊勢町(みなみいせちょう)神前浦(かみさきうら)であろう。ここ。]

 

■「南部鰑」「凡、六分の一。」

 「陸中國《りくちゆうのくに》南部産。

 「十枚を一把《いちぱ》とす。」

[やぶちゃん注:「陸中國南部産」この謂いが正しいとなら、現在の岩手県の非常な広域の南部地方を指す。まず、「陸中國」は当該ウィキによれば、「東北戦争」『終結直後に陸奥国から分立した、日本の地方区分の国の一つ』で、『東山道』(とうさんどう/とうせんどう:五畿七道の一つで、本州内陸部を近江国から東へ貫いて、陸奥国・出羽国に至る行政区分。古代から中世にかけては、その範囲の諸国を結ぶ幹線道路も指したが、江戸時代に江戸を起点として西側の「中山道」と東(北)側の「奥州街道」などに再編された。ここは当該ウィキに拠った)『に位置する。領域は』、『ほぼ現在の岩手県に』当該する『が、岩手県南東部の気仙郡、陸前高田市、大船渡市、釜石市南部及び岩手県西北の二戸郡を欠き、秋田県北東部の鹿角市と小坂町を含む』とある。一々を掲げることは面倒なので、以上のウィキに添えられた「陸中国の位置」の地図を見られたい。結果して、そのピンクの岩手県の海岸線に沿った箇所が、ここで言う「南部」ということになる。

 

■「凾館鰑」「凡、五分の一。」

 「渡島國上磯郡《かみいそのこほり》凾館産。」

 「一枚量十三匁。」

[やぶちゃん注:「渡島國上磯郡凾館産」これは、明らかにおかしい。函館は過去に一度も上磯郡に属していたことはないからである。その事実は、ウィキの「函館市」と「上磯郡」の沿革を見て戴きたい。

「十三匁」四十八・七五グラム。]

 

 

【図版3】

 

3_20250821132301

 

「其の二圖」(上罫外の標題。前の「二番鰑各種の圖」を受けたもの)

 

■「相模冬鰑《さがみふゆするめ》」「凡、六分の一。」

 「相模、足柄下郡《あしがらしものこほり》、福浦の産。」

[やぶちゃん注:「相模、足柄下郡、福浦」神奈川県足柄下郡(あしがらしもぐん)湯河原町(ゆがわらまち)福浦(ふくうら)。真鶴半島の根の西側のここ。私の偏愛する「ウルトラQ」の「鳥を見た」のエンディングのロケ地である。]

 

■「伊豆鰑」「凡、六分の一。」

 「伊豆、賀茂郡の産。」

[やぶちゃん注:「伊豆、賀茂郡」本書は明治一九(一八八六)年刊であるが、当該ウィキによれば、明治一二(一八七九)年三月十二日に『郡区町村編制法の静岡県での施行により』、『行政区画としての賀茂郡が発足』した、とある。簡単に言えば、当時の「賀茂郡」は、下田市を含め、伊豆半島の先の部分全部を含む広域である。同ウィキの地図を見られたい。]

 

■「秋烏賊」「凡、五分の一。」

 「佐𡈽國、羽茂郡《はものこほり》莚塲村《むしろばむら》産。

  二十枚を一把とす。」

 「是ハ、『すだれ』の上に並べ、朝ものなり。」

[やぶちゃん注:「秋烏賊」は「(その2)」で既出既注。再掲すると、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」では、アオリイカのページの「地方名・市場名」に、『アキイカ[秋いか]』、「場所」を『京都府舞鶴市、宮津市、伊根町』とあり、『サイズ/時期秋にとれる小型』とする。前項と同じ「海の京都」に、『春夏秋冬、再会できる喜び。旬の時期になると海沿い周辺のスーパーや鮮魚店には沢山のイカが並び、それを見て地元の人々は「そろそろ秋やね~」と季節を感じるわけです。特に秋イカとも呼ばれる「アオリイカ」はこの話の象徴的なイカと言えます』とし、さらに、『「イカの王様」と呼ばれ、イカの中で最高峰の味わいです。秋イカとも呼ばれています』。『旬は一般的に秋~春(春は親イカ)とされていますが、丹後地方では』九『月後半』から十二『月前半が最盛期。春は産卵の時期でペアの大型アオリイカが沿岸部に集まります。ただ、頻繁に港へ行きますが』、『年々』、『水揚げ量が減っている印象があります。獲れ始める』九『月頃は手のひらサイズ(』百グラム『程)で晩秋には』三百から五百グラム『程に成長していきます。適度に小さい方が』、『身が柔らかく食感が程よいです。お刺身で食されることが多いですが、地元では一夜干しと言われる生に近い状態の干物をサッと炙って食べるスタイルも好まれています』とあるのを確認した。

「佐𡈽國、羽茂郡莚塲村」「佐𡈽國」は「佐渡國」の誤記。「羽茂郡莚塲村」現在の新潟県佐渡市莚場。ここ。平凡社「日本歴史地名大系」の「莚場村」に拠れば、旧『赤泊村莚場』で、『南は海、北東は多田(おおだ)村(現畑野町)、北は丸山(まるやま)村(現畑野町)と山田(やまだ)村、西は腰細(こしぼそ)村に接』していた。『東部の海岸が緩やかに湾曲した辺りに住居の大部分が集中し、通称』、『大莚場(おおむしろば)とよばれる。西部の海岸には小石(ごいし)・高野(こうや)の小集落がある。海岸に沿って』、『段丘上を腰細に至る旧道がある。元禄七』(一六九四)年『の検地帳(莚場区有)によると』、『田』十八『町二反余・畑』十六『町五反余。天保九』(一八三八)年『の村書上帳』(むらかきあげちょう:江戸時代の地方(じかた)文書の一つ。村明細帳・村差出帳・差出帳・村柄書上帳・村鑑とも称し、現在の市町村勢の要覧に当たる。領主が村と村勢を把握するため、一定の書式によって村から書き上げさせるが,おもに、領主の交代・幕府巡見使の派遣・代官・役人の回村・絵図の作成などの際に書かれるもの。以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)『(橘鶴堂文庫蔵)では』、『戸口は』七十七『軒、男』二百七十三『人・女』二百十七。『小物成』(年貢とは別に課された雑税の総称。主に山林・原野・川海などの高外地の利用や、そこからの産物に対して課税さた。地域によって種類や名称・税額が異なり、明治時代に廃止されるまで、全国で千五百五十三種類あったとされている。以上はグーグルのAIに拠った)『に漆木役』二十一『本分・烏賊役五千』二百『枚』(★☜★)『・蛸役大蛸一頭分を銀納する。漁船』二十五『艘・廻船二艘。四十物師』(あいものし:後注参照)『一・大工一・桶屋二・板木商一・松前稼』(かせ)ぎ(蝦夷(北海道)へ出稼ぎに行くことを「松前稼ぎ」と称した。ブログ「佐渡広場」の「松前(北海道)と佐渡」に、『特に冬場地元での仕事が余りない時期に、ニシン漁に出かけることは、生活していく上で不可欠であったのでしょう』とあった。佐渡には「松前稼ぎ」が多かったことは、多くの記事で判る)『六がいる』とあった。この「四十物師」に就いては、古くから、しばしばお世話になるlllo氏の優れた佐渡情報サイト「ガシマ しなしなやります佐渡ヶ島ホトダイアリ」の「四十物(あいもの)」に、『相物または間物から転じた字。干魚や塩魚類の総称。「あいもの」は、魚の捕採期と捕採期の中間の加工魚の意から、鮮魚と乾物の中間の魚類となり、鮮魚の無塩魚にたいして加工魚類全体を指すようになった。魚のむらがり集まっている沿岸の漁場のことを五十集と書き、その魚が加工されると四十物となるなど、面白いつかいわけをする。四十物の売買をする町を、四十物町といった。『佐渡相川志』によると、相川四十物町には、享保の頃(一七一六~三五)まで魚屋があったという。慶長年代、佐渡銀山を差配していた岩下惣太夫から、駿府にいる戸田藤左衛門宛の手紙に「四十物油断なくとりあつめ、うり申し候」とあり、人口の急増する相川で、動物蛋白源であった魚に強い関心が向けられていた。元和年代になると、静目市左衛門奉行の小物成の徴税施策は変わり、四十物の現物納が代銀納となる。それまで現物納(色役)であった魚を、四十物に加工して売り出す町であった四十物町は仕事を失い、五十集から捕採した魚を町方の四十物商に販売するようになった。文政十一年(一八二八)各町の四十物師(籠振・干物買含む)の数は、相川九一・海士町一・鹿伏二・大浦四・高瀬四・橘二・稲鯨一四・米郷四・二見二・矢柄一・小田一・北田野浦一・高下一・北河内一・北立島一・南片辺三・姫津一六・小川一計一五○人であった(他町村除く)』とあり、また、「四十物町(あいものまち)」のページを見ると、『四十物と書いてアイモノと読む。アイモノは保存用の塩魚のことで、鮮魚と干魚の間の意味である』(★☜★)。『広間町の奉行所から佐渡鉱山に向って、わずかのぼりかけたところにあって、現在県職員住宅があり、弥十郎町と鈍角に道を分れた付近が、四十物町である。文政九年(一八二六)の相川町墨引の絵図によると、南御役宅のところから弥十郎町通りに平行して、四十物町通りがあり、その北側に空家をふくめて三七軒、南側には教諭所御囲内にはじまって、二八軒ほど描かれている。そこに肩書きされている職種をみると、医師・水替・せんたく師・湯屋などの文字がみえ、他町と変るところはない』とあった。ここである。因みに、私は佐渡が好きで、友人らと既に三度、行っている。いいぞ! 佐渡は!

「朝ものなり」はママ。「乾《ほす》ものなり」の誤字であろう。

 

■「鰑」「凡、七分の一。」

 「隠岐國、周吉郡《すきのこほり》今津産。」

[やぶちゃん注:「隠岐國、周吉郡今津産」周吉郡(すきぐん)は、島後の、現在の隠岐郡隠岐の島町の東部(蛸木(たくぎ)・加茂・西田・上西(かみにし)・原田・元屋(がんや)・西村以東)に当たる。

「今津」ここ。]

 

■「於多福鰑」「凡、六分の一。」

 「越前、丹生郡《にゆうのこほり》菜﨑浦《ぐみさきうら》產。」

[やぶちゃん注:「於多福鰑」胴部の左右がふっくらしているので納得のネーミングである。

「越前、丹生郡茱﨑浦」現在の福井県福井市茱崎町(ぐみさきちょう)。ここ。平凡社「日本歴史地名大系」によれば、旧『越廼村』(こしのむら)『茱崎』で、『東に丹生山地がせまり、西は日本海、北は大味(おおみ)浦。』『正保郷帳に村名がみえ』、『村高』十六・八百二十二『石のすべてが畠方。福井藩領。「越前地理指南」に「北ノ往還ノ岸ニ穴アリ、風穴と云、穴の口八九寸計にて奥不知』(しれず)、『内より常に風吹出』(いづ)『る也、殊』(ことに)『世間炎暑の時』、『冷風強ク吹出るにより道ゆき人』(びと)『も立やすらひ涼を求』(もとむ)『ると云』(いへ)『リ」と記す』とある(調べたが、現在の越廼地区にはこの「風穴」は見当たらない)。ウィキの「越廼村」によれば、二〇〇六年二月一日『に福井市へ編入されて廃止された。廃止時点では福井県の市町村で面積最小、人口最少であ』り、二〇〇五年の『国勢調査時の平均年齢は』五十・五『歳だった』とあり、『海岸に沿った細長い形になっており、海岸は若干砂浜の海水浴場となっている以外は岩場が続く。海岸線から最も奥に入った六所山頂でも』四キロメートル『未満で、暖流が海岸近くを通るため』、『冬も比較的暖かく、積雪量は山を越えて約』二十キロメートル『東にある平野部の福井市街と比較すると格段に少ない』とあり、「漁業」の項には、大味(おおみ)漁港・茱崎漁港・居倉(いくら)漁港があり、『沿岸の定置網とウニやサザエ、少々沖合のイカ』(☜)『などが水揚げされる』とあった。釣サイト「アングラーズ」の「茱崎漁港で釣れたイカの釣り・釣果情報」を見ると、ケンサキイカ・モウゴウイカ・コウイカ・アオリイカ・ヤリイカ・アカイカといった記載で釣果対象が写真入りで載る(標準和名でないものは拾っていない)。]

 

■「赤鰑」「又、『玉きれいか』。」

 「凡、八分の一。」

 「長門、阿武郡《あぶのこほり》須佐村《すさむら》。」

[やぶちゃん注:「玉きれいか」ネーミング不詳。

「長門、阿武郡須佐村」。現在の山口県萩市須佐。ここ。萩の市街地からは東北に大きく離れ、海岸線沿いには、阿武郡阿武町(あぶちょう)が挟まる。]

 

■「相摸《さがみ》秋鰑」「凡、六分の一。」

 「相摸、足柄下郡の産。」

[やぶちゃん注:これは、明らかに前の「赤鰑」と並置した形になっているので、ここに配した。

「相摸」六ツ前の「相模冬鰑」の字体とは異なるのは、ママ。古文書では、「相模」ではなく、「相摸」と書く方が、有意に多い。

 

 

■「ぶとう鰑」「凡、六分の一。」

 「能登國《のとのくに》、鳳至郡《ふげしのこほり》宇津村産。」

[やぶちゃん注:「ぶとう鰑」「(その4)」で、「ぶといか」で注したものを示す。これは「(その2)」の『「ぶといか」一名「ぶどういか」』で注した「太烏賊」で、前の「けんざき」で注した、ケンサキイカの後者のゴトウイカ型である。本書当時は、別種として認識されていた。そのまま再掲すると、「ぶどういか」は、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「ブドウイカ」(異名。以下の引用で正式和名は「ケンサキイカ(ブドウイカ型)」で、Uroteuthis  Photololigo  edulis である)によれば、「ぶどういか」は「葡萄烏賊」ではなく、やはり「太烏賊」で、「漢字・学名由来」に『漢字/太烏賊』とし、『山陰島根県などの「ぶといか」が変化して「ぶどういか」になったものと思われる。「ぶと」=「太」でケンサキイカよりも外套長が短く太って見えるため。』とあった。「全国いか加工業協同組合」の『新編・世界イカ類図鑑』ここPDF)に、『ケンサキイカ(ブドウイカ型) Uroteuthis  Photololigo  edulis  Hoyle, 1885)[ budo-ika]/ヤリイカ科 Loliginidae』とし、棲息域は『日本近海』、『市場名』として『シロイカ』(「白烏賊」と思われる)を挙げ、外套長は四十センチメートルとあり、

   《引用開始》

日本海西部に分布するケンサキイカの季節型でLoligo budo Wakiya & Ishikawa, 1921 の名が与えられた.鰭の長さは外套長の65%ぐらい.腕の吸盤角質環の特徴はケンサキイカの他型と同様截断状の歯が数個あるが,触腕掌部がそれらに比し広く大きく,ここの吸盤はIII腕の吸盤より大きい.外套膜は外見ケンサキイカのゴトウイカ型などより太目で(外套幅は長さの30%),腹中線の肉畝は殆ど見られない.「白ずるめ」の材料は本種.付記:Sasaki 1929)が Loligo edulis forma grandipes とした型で,秋冬期のみ日本海西部にあらわれ,幼期はケンサキイカの他型と区別できない.

   《引用終了》

とある。

「鳳至郡宇津村」これは「宇出津村《うしつむら》」の誤りである。現在の鳳至郡能登町宇出津(うしつ)。平凡社「日本歴史地名大系」の「宇出津町」に拠れば、『現在地名』は、『能都町宇出津・宇出津新(うしつしん)・崎山(さきやま)一』から『四丁目』までとする。『内浦』(うちうら)『街道の宿駅で、商業・漁業で栄えた町場。北西に湾入する宇出津湾沿いに広がる。かつて宇出とも記し、「うせつ」ともいう。集落は初め』、『東の珠洲(すず)郡羽根(はね)村境の田(た)ノ浦付近にあったが、棚木(たなぎ)城の落城後に今の湾部に移転したと伝える(能登名跡志)。承久三』(一二二一)年『九月六日の能登国田数注文に珠洲郡「宇出村」とみえ、公田数は』十『町七段で、江戸期の宇出津町・宇出津山分(うしつやまぶん)村付近に比定される』とあった。現在の能都町宇出津(以下の二箇所も含んで表示されている)・宇出津新崎山(属さない四丁目は南東部分)までをグーグル・マップ・データをリンクさせておく。]

 

■「鰑」「凡、五分の一。」

 「陸奥國、上北郡《かみきたのこほり》泊村《とまりむら》産。」

 「此ものハ、脚《あし》二本、欫《かく》。是《これ》、

  『脚を、「しをから」になす。』と云ふ。

  東津輕には

  五本をかくもの

       あり。」

[やぶちゃん注:「陸奥國、上北郡泊村」現在の、原子燃料サイクル施設で知られる下北半島の太平洋岸側の、「斧の柄」に当たるところの中央の、ここにある。本書刊行の翌々年の、明治二一(一八八九)年四月一日、町村制の施行により、同郡内の倉内(くらうち)村・平沼村・鷹架(たかほこ)村・尾駮(おぶち)村・出戸(でと)村、及び、泊村の区域を以って「六ヶ所村」が発足している。なお、「日テレ」公式サイト内の「道草を食いながらどこまで行けるか?」の「道草マップ」の「六ヶ所村」に、『明治時代に』六『つの村が集まってできており、それぞれの村名が馬に由来するとされる。古来より名馬の産地として知られ、鎌倉時代には名馬『生食(いけずき)』が源頼朝の軍馬となり、「宇治川の合戦」でも活躍したという。その馬の門出』(かどで)『たところが「出戸(でと)」、身丈』(みたけ)『が鷹待場』(たかまちば)『の架』(ほこ:台架(だいほこ)。鷹を止まらせるとまり木)『のようだったので、「鷹架(たかほこ)」、背中が沼のように平らだったので「平沼(ひらぬま)」、尾が斑』(まだら)『になっているので「尾駮(おぶち)」、さらにその馬に鞍を打ったので「倉内(くらうち)」、鎌倉へ引き渡すために泊まったところが「泊(とまり)」となったとされる。また「尾駮の牧」は、青森県東北町と六ヶ所村にまたがる大牧場だったと推定され、ここから都へと供給された馬は、特に馬格に優れていた』とあった。これは、鎌倉史を研究している私は、全く知らない語源であったので、大いに驚いた。

「欫」は「缼」(=「缺・欠」)の異体字。

「しをから」ママ。「鹽辛(しほから)」。]

 

■「赤烏賊鰑」「『猿いか』。丸子《まるこ》なり。」

 「凡、五分の一。」

 「長門、阿武郡木與村《きよむら》産。」

[やぶちゃん注:「猿いか」「(その2)」の「さるいか」の私の注を再掲する。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のスルメイカの地方名に、「サルイカ」として、採集地を『島根県、山口県仙崎』とある。私は当初、新鮮な個体は、濃い赤茶色をしているので、「猿の尻」から「猿烏賊」であろうと思ったが、ネット上には、確定的記載はない。一方、ある釣り師の記載には、人でない「猿」の意で、漁師は獲れても、捨てるという意味で、「さるいか」と呼ぶとあり、ある種のスレッドの記載では、差別的な意味で、「ヒト以下の人間」という意味で「猿烏賊」という語が載っていた。何んとも厭な使い方であるが、前の漁師のそれも、同義であろう。

「丸子」不詳。但し、「(その2)」の「まるいか」を私は、『「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の検索では、ケンサキイカの地方名(『相模湾、東京湾の沿岸』とある)と、ジンドウイカ(ヤリイカ科ジンドウイカ(神頭烏賊・磁頭烏賊)属ジンドウイカ Loliolus ( Nipponololigo ) japonica )の地方名(『神奈川県相模湾周辺』とある)とする。』と注した。この「まるいか」(「丸烏賊」?)の子ども、と言う意味かも知れない。

「阿武郡木與村」現在の山口県阿武郡阿武町(あぶちょう)木与。ここ。]

 

■「鰑」「伯耆國《はうきのくに》、八橋郡《やばせのこほり》赤﨑《あかさき》の産。」

 「量、二十一匁。」

[やぶちゃん注:「伯耆國、八橋郡赤﨑」現在の鳥取県東伯郡(とうはくぐん)琴浦町(ことうらちょう)赤碕(あかさき)。ここウィキの「赤碕町」によれば、二〇〇四年九月一日の『町制施行前の名称』は『赤崎村』であったとある。

「二十一匁」七十八・七五グラム。]

 

■「干烏賊」「凡、六分の一。」

 「越中國、新川郡《にいかはのこほり》滑川《なめりかは》産。」

[やぶちゃん注:「越中國、新川郡滑川」現在の富山県滑川市。ここ。]

 

■「佐渡夏鰑《さどなつするめ》」「凡、五分の一。」

[やぶちゃん注:「佐渡夏鰑」「夏鰑」「(その2)」の「なついか」の注を再掲する。「なついか」「夏烏賊」。前の前で出した奥谷先生の『表 ヤリイカとスルメイカの地区別方言名』(132ページ)に拠れば、ヤリイカを「ナツイカ」と呼ぶケースとして「坊泊」と「枕崎」を挙げておられる。「坊泊」は「ぼうとまり」で現在の鹿児島県南さつま市坊津町(ぼうのつちょう)泊(とまり)である。枕崎は同地図の東の同県枕崎市である。因みに、この二箇所、梅崎春生の、偏愛する最後の作「幻化」のロケーションの肝の場所である。私のブログ・カテゴリ『梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】』、或いは、サイト版「幻化 附やぶちゃん注 (PDF縦書決定版)」を、どうぞ! なお、ヤリイカの成体の漁獲期は春であるので、不審に思ったのだが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「生態」の項に、『12月中旬から5月にかけて産卵』。『孵化して夏から秋には小ヤリイカが漁獲される。初物はなかなか高価である』(☜)。『これが冬には成体(大きく)となり』、『所謂ヤリイカとして流通』するとあったので、ナットク!

 

 

【図版4】

 

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「甲付鰑《かうつきするめ》各種の圖」(上罫外の標題)

 

■「烏賊《いか》」「凡、六分の一。」

 「豊前國《ぶぜんのくに》、京都郡《みやこのこほり》

  苅田村《かりたむら》産。

  目方、百二十一匁。

  是ハ、『大烏賊《おほいか》』、又、方言、

  『きつきやういか』と云ふ。」

[やぶちゃん注:「凡、六分の一」底本のフラットな画像を実際の図の、触腕を伸ばさずに計測すると、十一センチメートルであるから、単純換算すると、六十六センチメートルとなる。最終注参照!

「豊前國、京都郡苅田村」現在の京都郡(みやこぐん)苅田町(かんだまち)。ここ。現在は、殆んどが工業地帯化している。「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、海岸線の形状が全く異なることが判る。但し、苅田町外の南北の地区を見ても、港は認められないので、苅田町の両氏は僅かにある砂浜海岸から小舟を漕ぎ出して、この巨大なイカを漁(すなど)っていたものと思われる。なお、この郡名であるが、当該ウィキによれば、『景行天皇の時代、熊襲が背いたため征伐すべく、天皇自ら西に下って筑紫(九州)に入り、豊前国長峡(ながお)県に行宮(かりみや)を設けた。そこから京(みやこ)と呼ばれるようになった』とあった。

「百二十一匁」四百五十三・七五グラム。最終注参照!

「是ハ、『大烏賊』、又、方言、『きつきやういか』と云ふ」強力なデータを電子化されている『元某歴民資料館員の谷澤憧渓』氏のサイト「渓流釣り(ヤマメとアマゴ)と九州の地元情報を発信 渓流茶房エノハ亭」の「筑前国産物帳に記載の魚名語彙をみる」(副題「筑前国産物帳 魚名語彙・魚名方言」)で、「[福岡県立図書館]デジタルライブラリ」の「筑前国産物帳 下巻」を電子化され、その「いか」の項に(原本(写本)では、ここ)、「みづいか」があり、そこに「『きつきやういか』ともいふ」とあった(他に、前に「まいか」・「こぶいか」、後に、「うすご」「『うすいか』ともいふ。」・「てりこ」・「さばいか」「『するめいか』ともいふ」とある)。これは、私の「(その2)」で、

   *

「みづいか」ここでは、順列から、前に掲げた通り、アオリイカの市場名であろう。「水烏賊」で、このPDFのアオリイカの解説の「名前の由来」には、『体色を迅速に多彩に変化することが得意で、海水に溶け込む程』、『透明になれることから。』とある。

   *

と注した。★大きさから、明らかに、アオリイカ(アカイカ)Sepioteuthis lessoniana と同定出来ることから(「新編・世界イカ類図鑑」PDF)では、胴長三十五センチメートルで、当該ウィキでは、『胴長は約』四十~四十五センチメートル。『大きいものでは』五十センチメートル『以上、重さは』六キログラム『以上に達する』とすることから、以上の十全に乾燥されたスルメのスケールと重量で、何らの違和感はない。

 

■「乾烏賊《ほしいか》」「凡、八分の一。」

 「豊前、上毛郡《かうげのこほり》小祝村《こいはひむら》産。

  海螵蛸《かいへうせう》付《つき》の侭《まま》、

  開き、乾《ほす》となすもの。」

[やぶちゃん注:「豊前、上毛郡小祝村」これは、現在の大分県中津市小祝(こいわい)である。「小祝新町」があるが、「ひなたGISの戦前の地図を見ると、「小祝」の北東部分は砂州になっており、現在の「小祝漁港」も存在しないので、注意されたい。なお、読みとして示した「かうげ」は、国立国会図書館デジタルコレクションの「豐前志」(渡辺重春著・渡辺重兄校/渡辺重兄刊/明三二(一八九九)年刊)の、「七之卷」の「上毛郡」の冒頭部の中で(下線は底本では右傍線である)、

   *

重春云、上毛を今、カウゲと唱(い)ふは音便(おんびん)に崩(く)づれたるなり。或人が所藏せる正安四年[やぶちゃん注:一三〇二年。鎌倉末期。]の田地沽渡[やぶちゃん注:「うりわたし」。]證文には、下毛をシモツミケと書けり。然(さ)れば、上毛をも、其の頃までは、カムツミケと正しく唱(い)へりし叓、著(いちじる)し。

   *

とあるのに従った。

「海螵蛸」「いかのかふ」と訓じているかも知れない。ここで学術的に示しておく。十腕形上目コウイカ目Sepiina 亜目コウイカ科 Sepiidae に属する全種に見られる硬く脆い体内構造物の通称で、別に「イカの骨」・「烏賊骨(うぞっこつ)」や英名の「カトルボーン」(Cuttlebone)などとも呼ばれるが、正確には、同じ軟体動物の貝類の貝殻が完全に体内に内蔵されたものである。学術的には「甲」(こう)、あるいは「軟甲」(なんこう)と呼ぶ。これは、まさに頭足類が貝類と同じグループに属することの証しと言ってよい。即ち、貝類の貝殻に相当する体勢の支持器官としての、言わば「背骨」が「イカの甲」なのである。あまり活発な遊泳を行わないコウイカ類(コウイカ目 Sepiida)では、炭酸カルシウムの結晶からなる多孔質の構造からなる文字通りの「甲」を成し、この甲から生じる浮力を利用している。対して、活発な遊泳運動をするツツイカ類では、運動性能を高めるために完全にスリムになって、半透明の鳥の羽根状の軟甲になっている。ツツイカ目Teuthida閉眼亜目Myopsina ヤリイカ科Loliginidaeアオリイカ属のアオリイカ(障泥烏賊)Sepioteuthis lessonianaは、外見はコウイカに似るが、甲は舟形ながら、薄く半透明で軽量である。これは言わば、甲と軟甲双方の利点を合わせた効果を持っている。即ち相応の浮力もあり、開眼目アカイカ科 Ommastrephidaeスルメイカ亜科 Todarodinaeスルメイカ属スルメイカ Todarodes pacificus ほどではないにしても、かなり速い遊泳力も持ち合わせているのである。以下、ウィキの「イカの骨」から引く。『貝殻の痕跡器官であるため』、『主に炭酸カルシウムから構成されている。もともとの形は巻き貝状、あるいはツノガイ』(掘足綱Scaphopoda)『状で、アンモナイト』(頭足綱 Cephalopoda†アンモナイト亜綱 Ammonoidea)『やオウムガイ』(頭足綱 Cephalopodaオウムガイ亜綱 Nautiloideaオウムガイ目 Nautilidaオウムガイ科 Nautilidae)『のように内部に規則正しく隔壁が存在し、細かくガスの詰まった部屋に分けられていたと考えられているが、現生種ではトグロコウイカ』(十腕形上目 Decapodiformesトグロコウイカ目 Spirulidaトグロコウイカ亜目 Spirulinaトグロコウイカ科 Spirulidaeトグロコウイカ属トグロコウイカ Spirula spirula :深海性で、私も液浸標本でしか見たことがない。YouTube“ROV SuBastian Dive 402 (Pt B) - Wreck Bay Plunge Pool, Australia - FK200930”16:00前後で貴重な生体画像が見られる)『のみが』、『その形状を持ち、他の種はそのような部屋の形を残してはいない。矢石として出土するベレムナイトの化石も、元は貝殻である』。『コウイカの場合、それに当たる部分は現在の骨の端っこに当たる部分(写真では向かって左端、尖った部分が巻き部)であり、本体の気体の詰まった小部屋に分かれて、浮力の調節に使われる部分は、新たに浮きとして発達したものと考えられる。顕微的特徴を見ると』、『薄い層が縦の柱状構造により結合している。このようなイカの骨は種によっては』二百なら六百メートルの水深で内部へ爆縮してしまう。『従ってコウイカの殆どは』、『浅瀬の海底、通常は大陸棚に生息する』。『スルメイカ等では』、『殻はさらに退化し、石灰分を失い、薄膜状になっており、軟甲とよばれている』。『現生の鞘形類 Coleoideaの起源は』、『ジュラ紀初期のPhragmoteuthida』目(白亜紀末に絶滅した軟体動物門・頭足綱の一分類群で、形態的には現生のイカに類似しているベレムナイト(Belemnites:ベレムナイト類:Belemnitida)の一目。ベレムナイトは体の背部から先端にかけて鏃(やじり)型の殻を持っており、この殻の形状に由来し、ベレムナイトの化石を「矢石」(やいし:箭石)と呼ぶこともある。同様に、明治期には、その形状から「天狗ノ爪介」(てんぐのつめがひ)・「天狗爪貝」と呼ばれることもあった。以上はウィキの「ベレムライト」に拠った)『に置かれると考えられている』。『ある系統は房錐(phragmocone)を』、『まだ保持しているうちに』、八『本の腕と』二『本の触腕の配置を急速に獲得し』、『十腕類になったとみられる』。『そのうちPlesioteuthisなどのグループは、遅くとも上部ジュラ系までには房錐を失い、例えば』、『アカイカ属 Ommastrephes などの現生のイカとほぼ見分けがつかない軟甲を発達させた』。『このグループは現生の開眼類』(開眼目 Oegopsida)『になった』。『もう一つのグループでは、房錐は甲に特殊化し、現在のコウイカ類につながる』。『上部ジュラ系から知られている、前甲(pro-ostracum)の側方の「翼」を保持しているTrachyteuthisの甲が典型的である』(最後の属の英語版をリンクさせておく)。『コウイカ目では、連室細管から腹側の部分が消失して』、『後端の太い石灰質の棘状となった』。『その昔、イカの骨は磨き粉の材料となっていた。この磨き粉は』、『歯磨き粉や制酸剤、吸収剤に用いられた。今日では飼い鳥やカメのためのカルシウムサプリメントに使われ』ており、また『イカの骨は高温に耐え、彫刻が容易であることから、小さな金属細工の鋳型にうってつけであり、速く安価に作品を作成できる』ともある。『イカの骨は「烏賊骨」』(うぞくこつ/うぞっこつ)『という名で漢方薬としても使われる。内服する場合は煎じるか、砕いて丸剤・散剤とし、制酸剤・止血剤として胃潰瘍などに効用があるとされる。外用する場合は止血剤として、粉末状にしたものを患部に散布するか、海綿に塗って用いる』。また、『西洋で』は、嘗つては、『インクのにじみを止めるために』、『紙に振りかけた』、『にじみ止め粉』『に使用された』とある。]

 

■「甲烏賊《かういか》」「凡、七分の一。」

 「薩摩國、川辺郡《かはべのこほり》の産。

  甲付《かうつき》の生鮮《せいせん》の時、

  『こぶしの』といふ。」

[やぶちゃん注:「薩摩國、川辺郡」この「川辺郡」は現存しない。当該ウィキの、明治一二(一八七九)年『に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域に』当たるとする、『枕崎市・鹿児島郡三島村・十島村の全域』・『南さつま市の大部分(金峰町各町を除く)』・『南九州市の一部(川辺町各町)』とあるのが、ここで言う「川辺郡」となる(本書は明治一九(一八八六)年刊。その間、同ウィキの「近世以降の沿革」を見ても、大きな変化はない)。同ウィキの地図の、黄色の部分が、当時の「川辺郡」域となる。

「生鮮」加工されていない新鮮な状態のもの。生きているもの、及び、死後も、比較的、時間が経っていないものを指す。

「こぶしの」この名の呼称は、ネット検索では見当たらない。しかし、この種、明らかに、

コウイカ目コウイカ科 Ascarosepion 属コブシメ Ascarosepion latimanus

で間違いないと思う。さすれば、「の」は「め」と書くつもりだったのではないか? 「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページには、「基本情報」の項に、『沖縄に多い大型のコウイカ。オーストラリアにいるオーストラリアコウイカ』(コウイカ科コウイカ属オーストラリアコウイカ Sepia Amplisepia apama )『とともに世界最大級のコウイカ』(当該ウィキによれば、外套膜が五十センチメートル、体重は実に一〇・五キログラムに達する、とあった)とし、『流通的には鹿児島以南特産イカと思っても間違いない。郷土料理のイカの墨汁(いちゃのすみじる)、琉球王国の宮廷料理である東道盆(とぅんだーぶん)の「花いか(表面を赤く染めて、花などの形に切ったもの)」などに使われる』。『また』、『アオリイカ、ソデイカなどとともに琉球列島では』、『もっとも主要なイカともいえそう』だ、とあり、「生息域」の項でも、『海水生。サンゴ礁域』とし、『九州南部・[鹿児島県南さつま市笠沙』(正確には、「さつま市笠沙町(かささちょう)片浦(かたうら)」で、ここ)『]から琉球列島。西部太平洋、インド洋の熱帯域』とある。

 

■「甲烏賊」「凡、九分の一。」

 「日向國、臼杵郡《うすきのこほり》細島《ほそしま》産。

  裏面なり。」

[やぶちゃん注:「日向國、臼杵郡細島」現在の宮崎県日向市細島。ここ島ではなく、半島。当該ウィキによれば、『細島半島にある米ノ山』(こめのやま)『北麓に位置し、北側には入江の深い天然の良港があり、東部は日向灘に面している。 重要港湾である細島港のうち、細島商業港が帰属する』とある。]

 

■「沖乾烏賊《ほきぼしいか》」「凡、九分の一。」

 「周防國《すはうのくに》、熊毛郡《くまげのこほり》室津《むろつ》の産。」

[やぶちゃん注:「周防國、熊毛郡室津」現在の山口県熊毛郡(くまげぐん)上関町(かみのせきちょう)室津(むろつ)。ここ。]

 

■「干烏賊」「凡、六分の一。」

 「長門國、原狹郡植生村産。此ものハ、

  甲を去り、開き、乾《ほし》たるものなり。

  六十一匁なり。」

 「孔《あな》」[やぶちゃん注:この一字から支持線が延びて頭部中央の正円の孔に至っている。これは、並べて乾す際に、人工的に開けたものであろうと思われる。]

[やぶちゃん注:「長門國、原狹郡植生村」この「原狹郡」は「厚狹郡《あづさのこほり》」の誤記で、「植生村」も「埴生村《はぶむら》」の誤りである。郡の読み方は、当該ウィキに拠った。これは、現在の山口県山陽小野田市(さんようおのだし)埴生(はぶ)である。ここウィキの「埴生」の「産業」の第一に挙げられてある「漁業」よれば、『埴生漁港(第』一『種)が所在する』(第一種は「漁港漁場整備法」によって五種に分類されるもので、第一種漁港は『その利用範囲が地元の漁業を主とするもの』と規定されている。詳しくは「鳥取県」公式サイト内の「漁港関係用語」を見られたい)。二〇一八『年時点の組合員数は』二十七『人、漁船数は』二十六『隻。陸揚げ量は属人・属地いずれも』五百十八・六『トンで、そのうち』、『貝類で』四百九十一『トンを占めていた。同年における陸揚げ金額は』零(ゼロ)円『であった』。二〇〇一『年時点では養殖:沿岸漁業 』が、八対二『の割合で操業しており、アサリの採貝を主としていた。同年における陸揚金額は約』二『億』千五百『万円であった』。『養殖は』一九八〇『年代時点ではノリ・クルマエビ・ガザミが中心であった』。『なお、埴生漁港には山口県漁業協同組合の埴生支店が置かれており、遅くとも』二〇二一『年までは山陽小野田市・下関市の周防灘側を統括する 「本山以西統括支店」の機能も有していた』とあった……。ストリートビューでは、港自体の近くの写真がないが、遠目に見えるところを見ても、船が極めて少ないのが判る。

「六十一匁」二百二十八・七五グラム。]

 

■「乾烏賊」「肥後國、字土郡《うとのこほり》

  松合村《まつあひむら》、松田又平より、

  十六年、『水産博覧會』に出品のもの。」

[やぶちゃん注:「肥後國、字土郡松合村」現在の熊本県宇城市(うきし)不知火町(しらぬひまち)松合(まつあい)。ここ

「松田又平」人名。]

 

■「乾烏賊」「凡、六分の一。

  長門國産。」

 

 

【図版5】

 

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「其の二圖」(前の「甲付鰑《かうつきするめ》各種の圖」の二図目。上罫外の標題)

 

■「乾烏賊」「凡、七分の一。」

 「周防國、熊毛郡室津《むろつ》産。

  此《この》もの、生鮮の時ハ、色、

  桔梗花《ききやうくわ》の如し。

  因《より》て、方言、『桔梗』と云ふ。

  四月より五月まで、捕𫉬す。明治五年、

  始《はじめて》、支那に輸出す。其《その》

  名を『番外《ばんぐわい》』と云ふ。」

[やぶちゃん注:この図の下には、キャプションのない、少し小さな図があるが、これは、どうも、この「乾烏賊」の腹側からのものを描いたもののように思われる。但し、触腕の先の吸盤部が左右の外を向いており、この図の個体をそのままひっくり返して描いたものでは、ない。

「周防國、熊毛郡室津」既出。ここ

「桔梗花」被子植物門双子葉植物綱キク亜綱キク目キキョウ科キキョウ亜科キキョウ属キキョウ Platycodon grandifloras の花である。]

 

■「塩乾烏賊《しほほしいか》」「凡、七分の一。」

 「三河國、愠豆郡《はづのこほり》

  宮嵜村《みやさきむら》の産。

  量、二十六匁。

  甲付の侭《まま》、裏を竹にて、ひらき、はる。」

[やぶちゃん注:「三河國、愠豆郡宮嵜村」この「愠豆郡」は一般には、「幡豆《はづ》郡」であるが、当該ウィキによれば、『古くは播豆、波豆、芳豆、芳図、者豆、などと表記した。名前の由来は地域内の式内社幡頭(はず)神社に由来するという説や、域内の礒泊(しはと)郷からハト、ハズに転訛したという説、停泊地を意味する『泊(ハク)』が訛ったという説などがある』とあった。しかし、「慍」(音「オン」)は、以上の異漢字の発音とは通性が感じられないので、疑問がある。ともかくも、同ウィキの「近世以降の沿革」及び「町村制以降の沿革」以下の記載を辿ってゆくと、現在の愛知県西尾市吉良町(きらちょう)宮崎(みやざき)が当該地区に相当することが判った。三河湾湾奥中央に当たる、ここである。

「二十六匁」九十七・五グラム。]

 

Nazonosurume_20250821132701

 

■「乾烏賊《ほしいか》」「凡《およそ》、七分《しちぶん》の一《いち》。」

 「長門國《ながとのくに》、企赤郡《……のこほり》柄田村《……むら》産《さん》。

  此《これ》、量《りやう》、百五十一匁《ひやくごじういちもんめ》。

  甲付《かうつき》の侭《まま》、開乾《ひらきぼし》としたるものなり。」

[やぶちゃん注:以下の通りであるため、特異的に当該図(国立国会図書館デジタルコレクションの底本の、ここの、左丁の中央の大型個体の図(本「鰑」(するめ)の図版中で二番目に大きな図である。汚損を清拭してトリミングした)を添えて、特異的に総てに、推定の読みを添えた。実は、この産地名のためだけに、二日間に渡って、延べ三時間以上の探索を敢行したが、全く分らない。お手上げである。まず、旧「長門國」には、「企赤郡」という郡名は存在せず、誤字として近似性のある郡名すら、ない、のである。一方、旧「長門國」に「柄田村」という村名も、存在しない。「長門國」に限らずに、この「柄田村」という村名だけで調べても、本邦には存在しないのである。

 本来ならば、極めて考え難いことだが、国名・郡名・村名の、全てが、誤っているとして、調べてみた結果では、一つ、旧「長門國」に近い所で、漁業を生業としている、

現在の福岡県北九州市門司区柄杓田町(ひしゃくだまち)

を挙げておく。ここである。言うまでもなく、ここは、旧「豐前國」の内である。「コトバンク」の平凡社「日本歴史地名大系」に「柄杓田村」があり、『ひしやくだむら』、『福岡県:北九州市(旧豊前域)門司区柄田村』、『現在地名』は『門司区柄杓田町・柄杓田』とし、『伊川(いかわ)村の東に位置する。北東の喜多久(きたく)村境となる岳(だけ)ノ鼻と、南部の元取(もとどり)ノ鼻がつくる入江がある。文永』九(一二七二)年十『月九日の門司六ヶ郷惣田数注文』(もじろっかごうそうでんちゅうもん)『写』(うつし)『(甲宗神社文書/』「鎌倉遺文」十五『)によると、伊川郷内に「田」二町五反などの名田』(みょうでん:平安後期から中世にかけて、荘園や国衙領(こくがりょう)の構成単位を成す田地。開墾・購入・押領(おうりょう)等によって取得した田地に、取得者の名を冠して呼んだもの)『が散在した。元和』(げんな)『八』(一六二二)『年』(家光の治世)『人畜改帳』(じんちくあらためちょう:江戸時代の戸口(ここう)調査に際して、「人別」(にんべつ)のみでなく、各戸で飼っている牛馬数も共に書き上げた帳簿。「家数人馬改帳」(いえかずじんばあらためちょう)とも呼ぶ。主に、江戸前期に農村で実際に働き得る労働力と畜力を把握し、幕藩領主権力の経済的基盤を確立するために作成されたもの)『に「栖杓田村」とみえ、高』五十『石、家数』十二、『人数』四十八『(うち加子』(かこ:水主(水手)・船頭。但し、以下の半公的な「川口番」(かわぐちばん)のそれであろう)『二・川口番』(出入りする船舶等の監視のために設けられた番所)『一)、牛二、牛屋二。郷村高帳』(ごうそんたかちょう:大名・旗本らの領主が、自身の領内の村名・村高を列記した帳簿。一般に領主の年貢収納の必要と、支配領域の確認のための原簿として作成された。また、将軍の代替りの際に幕府から新規の領知朱印状の交付を受けるために、その基礎資料として作成されて幕府に提出されたもの)『では高』百三十三『石余、うち』、『新田高一石余。幕末の各村覚書』(かくそんおぼえがき)『では本高』百三十一『石余、田九町余・畠三町六反余、物成』(ものなり:近世の農民の負担した年々の租税の一つ。「本年貢」を指す呼称として用いられ、雑税である「小物成」(こものなり)に対し、「本途物成」(ほんとものなり)などと称した)七十六『石余、竈数』(かまどかず)百三十四、『人数』六百六十六、『牛八、船』五十、『疫(えき)神社(』現在の『天疫』(てんえき)『神社』(ここ)『)・蛭子』(ここは「えびす」)『社』(「恵比須神社」として現存する。ここ)・『光照(こうしょう)寺(現浄土真宗本願寺派)』(ここ)『など』とある。

 なお、この★「柄杓田」が「イカ」と強い関係を持っている★ことが、判明している。「北九州市」公式サイト内の「観光・おでかけ」の「北九州市産水産物の直販所」のページに、『柄杓田日曜朝市「漁師の店ひしゃくだ」』の項があり、

   《引用開始》

日時:4月から12月の毎月第2,4日曜日 午前7から 売り切れ次第終了

場所:北九州市門司区大字柄杓田1420番地(柄杓田漁港内)

販売される主な魚:イカ(4月から6月)、スズキ(6月から8月)など

お問い合せ先:豊前海北部漁業協同組合柄杓田地区 093-341-8911

   《引用終了》

とあるのである。

 と言っても、私は、ここが、この図のキャプションの正しい地区であるとは、断定出来るものではない。全く別な、現在の山口県內に、

企赤郡柄田村

という場所が存在する可能性を探るべきだとは、思っている。しかし、流石に、この一件のために、作業全体が進行しないため、この項のみを、特別に事前に公開し、識者の御意見・御情報を、切に求めるものである。

「百五十一匁」五百六十六・二五グラム。]

 

■「墨魚《ぼくぎよ》」「清國。」

[やぶちゃん注:この図版で初めて載った、清国製の鯣(するめ)である。

「墨魚」既に注したが、現行のこれは、白水社の「中国語辞典」で「墨斗魚」は通称「墨魚」で、「スミイカ」・「コウイカ」とする。これは、十腕形上目コウイカ目コウイカ科 Acanthosepion 属コウイカ Acanthosepion esculentum である。]

 

■「烏賊乾紐《いかほしひも》」

 「長門國、厚狹郡埴生村《はぶむら》産。」

[やぶちゃん注:以上のキャプションで、図版の下方の隙間に嵌め込む形で触腕のみの四つの製品個体である。

「長門國、厚狹郡埴生村」【図版3】の■「干烏賊」で既出(そちらでは、地名漢字を間違っている)既注。]

 

■「乾烏賊」「凡、六分の一。」

 「肥後、天草郡《あまくさのこほり》大多尾村《おほたをむら》産。

  此《これ》、量、三十四匁。

  海螵蛸《かいへうせう》付《つき》

 [やぶちゃん注:格助詞「の」の脱落。]

  侭《まま》、乾《ほし》たもの。」

[やぶちゃん注:「肥後、天草郡大多尾村」現在の熊本県で最大の島である天草諸島の下島(しもしま)の南東に当たる、天草市新和町(ししんわまち)大多尾(おおたお)。ここ

「海螵蛸」【図版4】で既注済み。]

 

■「甲付乾烏賊」「凡、五分の一。」

 

■「乾烏賊」

 「是ハ、東京にて調整せるもの。

  肥後、天草郡大島子村《おほしまごむら》の産。

  此ものハ、海螵蛸を去り、串をハり、

  吊り乾《ほし》たもの。」

[やぶちゃん注:「肥後、天草郡大島子村」現在の熊本県の天草諸島の上島(かみしま)の北西に当たる、天草市有明町(ありあけまち)大島子(おおおしまご)。ここ。]

 

 

【図版6】

 

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「水鰑《みづするめ》各種の圖」(上罫外の標題)

 

 

■「袋烏賊《ふくろいか》」「凡、九分の一。」

 「丹後國、與謝郡《よさのこほり》産。」

 

[やぶちゃん注:図は胴筒部の先端のみで、「えんぺら」も全く見えないもので、特異点である。

「丹後國、與謝郡」当時の「與謝郡」は、当該ウィキによれば、現在の伊根町(いねちょう)・与謝野町(よさのちょう)だけではなく、遙かに広域で、『宮津市の大部分(由良』(ゆら)『・石浦』(いしうら)『を除く)』・『京丹後市の一部(弥栄町』(やさかちょう)『須川』(すがわ)『・弥栄町野中』(のなか)『・丹後町大石』(おおいし)『)』・『福知山市の一部(雲原』(くもはら)『)』を含んでいた。同ウィキの地図を参照されたい。なお、『地元では「よさぐん」ではなく「よざぐん」と発音されることが多い』。二〇一一『年』三『月』十一『日に開通した山陰近畿自動車道与謝天橋立ICは、地元の読み方を尊重して「よざあまのはしだて」と命名されている。また』、『与謝野町内の地名「与謝」は行政上も「よざ」と読まれる』とあるから、地元に合わせるなら、「よざのこほり」と読むべきであろう。

「袋烏賊」この呼称は、ネットでは、掛かりそうで、掛かってこないが、複数のサイトで、京丹後で知られているものは「白イカ」で、これは、ケンサキイカの当地の通称名であることが確認出来た。

 

■「鰑」「凡、六分の一。」

 「肥後國、天草郡《あまくさのこほり》産。」

[やぶちゃん注:「肥後國、天草郡」当時の「天草郡」は、当該ウィキ地図によれば、現在の下島(しもしま)の北西端の熊本県天草郡苓北町(れいほくまち)だけではなく、下島・上島を中心とした天草市、及び、天草諸島東部の大矢野島(おおやのじま)・維和島(いわじま)を中心とした上天草市(かみあまくさし)を含んでいた。]

 

■「乾水烏賊《ほしみづいか》」「凡、七分の一。」

 「周防國《すはうのくに》、佐波郡《さばのこほり》野島《のしま》産。

  表《おもて》は竹を以《もつ》て、はりたるもの。」

[やぶちゃん注:「乾水烏賊」ミズイカという異名は、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」で検索すると、ヤリイカ・アオリイカ・ケンサキイカの異名とするが、この図を見るに、私は、乾してあるものとしても、胴が、かなり寸詰まりで、触腕以外の四対が甚だ短いところから、断然、アオリイカに同定するものである。

「周防國、佐波郡野島」これは、山口県防府市の瀬戸内海の周南諸島の一つである野島(のしま)である。ここ当該ウィキによれば、面積は〇・七三平方キロメートルしかなく、『住民は主に漁業で生計を立てており』、『戦前は対馬近海、東シナ海で、現在は周防灘を拠点として小型底引網、一本釣り漁をしている』とある。]

 

■「乾烏賊」「凡、五分の一。」

 「紀伊國、尾鷲《をわし》の産。」

[やぶちゃん注:この図も、胴上部と、頭部・脚部が切れており、触腕が長いが、全体に形状が前項と同じであるので、アオリイカに同定するものである。

「紀伊國、尾鷲」現在の三重県尾鷲市(おわせし)。ここ当該ウィキによれば、『市名は「おわし」と読まれることもあるが、地元では本来「おわしぇ」と読んでいたことから、それを標準語化した』『「おわせ」を市名に制定した』(公式制定は昭和二九(一九五四)年六月二十日)。『なお』、昭和一七(一九四二)『年に撮影された尾鷲駅の写真では「をわし」と駅名標に書かれている』(画像あり)とあるので、敢えて歴史的仮名遣の読みを「をわし」としておいた。

 

■「水鰑《みづするめ》」

 「肥前國、東松浦郡《ひがしまつうらのこほり》

  唐津《からつ》、外津村《ほかのわつむら》の産。

  花枝《くわし》の内鰭《うちひれ》を、

  背皮《せがは》と共に、

  剝《は》き[やぶちゃん注:ママ。]、

  反《かへし》たもの。」

[やぶちゃん注:「水鰑《みづするめ》」解説で「花枝」としているので、既に「(その4)」で述べた通り、「花枝」(カシ:huā zhīフゥァズー)は、現行でも、コウイカ類(コウイカ目 Sepiida)を指す中国語として生きていることから、日本近海に於いて、最も普通のコウイカ類であり、水産上、重要であるところのコウイカ(甲烏賊) Acanthosepion esculentum に形状の一致を見るので、同定比定してよい。

「肥前國、東松浦郡唐津、外津村《ほかのわつむら》」まず、「外津村」の本来の読みを探索することにした。すると、「河出書房新社・東京カートグラフィック/WEB版デジタル伊能図【お試し版】」の「旧地名-湊-佐賀県」のここで、「玄海町(現在の地名)」に「外津村(ほかわづむら)」とあった。但し、江戸時代の呼称であるから、確認が必要なので、「ひなたGIS」で調べたところ、ここの戦前の地図で、旧「値賀村」(ちかむら)の東北部の「外津浦」に『外津(ホカノワツ)』とあるのが、確認出来た。現行では「ほかわづうら」と読んでいる(「コトバンク」の平凡社「日本歴史地名大系」のここに拠る)。しかし、同地図では、カタカナのルビで濁音の場合は、ちゃんと打っているので、ここは清音で採った(久々に「ひなたGIS」の勝利だ!)。現在の佐賀県東松浦郡(ひがしまつうらぐん)玄海町(げんかいちょう)である。グーグル・マップ・データでは、ここである(「外津漁協」でポイントした)。]

 

■「鰑」「凡、八分の一。」

 「和泉國《いづみのくに》、界《かさひ》の産。」

[やぶちゃん注:「和泉國、界」言わずもがな、現在の大阪府堺市。本書刊行当時は、「大阪府堺區」。現行とは海岸線が全く異なるので、「ひなたGIS」で示しておく。]

 

■「鰑」「凡、八分の一。」

 「和泉國、界の産。」

 

■「鰑」「凡、八分の一。」

 「阿波國《あはのくに》、海部郡《かいふのこほり》牟岐浦《むぎうら》産。」

[やぶちゃん注:この地名は、現在も徳島県の南の太平洋に面した海部郡(かいふぐん)牟岐町(むぎちょう)牟岐浦(むぎうら)である。ここ。幾つかの島を含み、徳島県内最大の無人島大島、人の住む出羽島などがある。]

 

■「乾烏賊」「凡、六分の一。」

 「長門國産。」

 

■「藻烏賊《もいか》」

 「豊後國、北海部郡《きたあまべのこほり》

       保戸島《ほとじま》産。」

[やぶちゃん注:「藻烏賊」「(その4)」で既出既注であるが、再掲しておくと、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアオリイカのページの「地方名・市場名」に『モイカ』とあり、採集場所を『愛知県南知多(三谷)、三重県東紀州、高知県室戸市・宿毛市田ノ浦すくも湾漁協』とあった。

「豊後國、北海部郡保戸島」【図版1】の二つ目の『■「磨劔先鰑」』で既出既注。]

 

■「乾烏賊」「凡、九分。」

 「薩摩國、阿多郡《あたのこほり》

  中原村《なかはらむら》産。

  大なるハ、四十匁。

  水烏賊の、背より割り、

  乾するものなれば、

  脚《あし》、一方へ倚《よ》る。

  或《あるひ》は、

  左に、或は、右にあるも、あり。

[やぶちゃん注:「薩摩國、阿多郡《あたのこほり》中原村」現在の鹿児島県日置市の大字である吹上町中原(ふきあげちょうなかはら)。ここ。当該ウィキによれば、『旧』地名が『阿多郡伊作郷中原村、阿多郡伊作村大字中原、日置郡伊作町大字中原、日置郡吹上町中原』であった、とある。「ひなたGIS」の戦前の地図で、『伊作町』の『伊作』の地名を見出せる。脱線だが、ここは、私が偏愛する作家梅崎春生の、遺作となった「幻化」(リンク先は私のサイト版「幻化 附やぶちゃん注 (PDF縦書決定版)」(2,741B)。ブログ・カテゴリ『「梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】」』分割版もある)の後半の舞台の一つとなった「吹上浜」の一角である。春生が戦争末期に海軍の暗号特技兵として点々と海軍基地を移動した場所でもある。春生が、「桜島」でデビューする直前の昭和二四(一九四九)年一月号『文芸時代』に掲載された詩に、何んと、ズバり――「烏賊干場風景」(リンク先は私のブログ版)――という作品がある。是非、読まれたい。

 

 

【図版7】

 

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「其二の圖」(上罫外の標題。前の「甲付鰑《かうつきするめ》各種の圖」を受ける)

 

■「水烏賊乾《みづいかぼし》」

 「薩摩國、川辺郡《かはべのこほり》枕﨑村《まくらざきむら》の産。

  百四拾目。

  數《かず》、五枚を、一把《いちは》とす。」

[やぶちゃん注:「薩摩國、川辺郡枕﨑村」現在の鹿児島県枕崎市

「百四拾目」以下の「五枚を一把」としたものの重量で、「目」は「匁」に同じい。総重量五百二十五グラム。単品一杯で百五グラムということになろう。]

 

■「鰑」

 「肥前國、東松山郡《ひがしまつやまのこほり》

  平户村《ひらどむら》産。

  水烏賊、開乾《ひらきぼし》。

  量、六拾八匁。」

[やぶちゃん注:「肥前國、東松山郡平户村」(「户」は「戶」の異体字)これは、トンデモ・レベルの誤りで、

旧「肥前平戶藩」の旧「東松浦郡」(ひがしまつうらぐん)の旧「平戶村

をむちゃくちゃに書いたものとしか思われない。正しくは、

長崎県北部の北松浦郡内の平戸島にあった「平戶町」(ひらどちやう)

である。ウィキの「平戸町」によれば、明治二二(一八八九)年四月一日に(太字は私が附した。以下この注内では同じ)、『町村制の施行により、北松浦郡平戸町(近世の平戸城下)が単独で自治体を形成』したとあり、『同日、平戸村と度島村が合併し、北松浦郡平戸村が発足』し、『行政』は『平戸町・平戸村の町村組合による』ものとなった、という内容が書かれてある。

 さて、本書の刊行は明治一九(一八八六)年刊であるが、ウィキの「平戸町」の「歴史」の項の記載を見ると、以上より前の明治四(一八七一)、『廃藩置県で平戸藩が廃され』、『平戸県となり、さらに長崎県へ併合される』とあり、更に明治一一(一八七八)年に、『平戸村の一部(旧・平戸城下)が分立して平戸町とな』り、同年十月二十八日に、『郡区町村編制法の長崎県での施行により、現在の市域を含む松浦郡』一『町』四十九『村の区域に行政区画としての北松浦郡が発足』したとあるので、本書の著者河原田氏は、この辺りの錯綜した沿革を十全に理解していない状態で、迂闊に以上の訳の分からない、徹頭徹尾、架空の誤った地名をパッチワークしてしまったというのが、真相であろうと思われる。

「六拾八匁」二百五十五グラム。単品の鯣としては、かなり、重い。]

 

■[やぶちゃん注:この図には標題らしきものが、ない。]

 「薩摩、川辺郡《かはべのこほり》秋月産。

  藁《わら》にて、上を吊《つ》るもの。

  量、繩《なは》共に、四十六匁あり。」

[やぶちゃん注:「薩摩、川辺郡秋月」この地名にも致命的な錯綜がある。ウィキの「坊津町泊」(ぼうのつちょうとまり)の「歴史」の「近世の泊」に(太字・下線は私が附した)、『江戸時代には薩摩国河邊郡坊泊郷(外城)のうちであり』、『明治』二(一八六九)『年に坊泊』(ぼうどまり)、『久志秋目』(くしあきめ)、『鹿籠』(二字で「かご」と読む)『の』三『郷が合併し』、『南方郷』(みなみかたごう)『のうちとなった』。『石高は「天保郷帳」』(てんぽうごうちょう)『には』九百九十四『石余、「旧高旧領取調帳」(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう:明治初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代に於ける日本全国の村落の実情を把握するための台帳)『には』三百三十二『石余と記載されていた』。『伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」によると』、『家数は』二百九十七『軒あり、本村』四十『軒、泊浦』八十五『軒、茅野』百八『軒、平原』六十四『軒、その他』、『郷士』二十『軒があったと記されている』とし、さらに、『江戸時代後期に薩摩藩が編纂した地誌である』「三國名勝圖會」『に挿絵付きで泊港が収録されており、泊港について坊津の支港であり』、『琉球諸島に下る帆船は』、『ここで停泊して風を待ったと記載している』として全文の引用がある。私は、国立国会図書館デジタルコレクションの同書(五代秀尭・橋口兼柄編纂/一九八二年青潮社刊)の当該部で、正字表現のものを視認出来たので(ウィキの引用は新字で、しかも漢字に誤りがある)、以下に示す。一部、調べて、歴史的仮名遣読みを添えた(確認出来ないものの一部は推定)。【 】は二行割注。

   *

泊港《とまりみなと》【地頭館《ぢとうやかた》より北方、十七町許《ばかり》、】泊村にあり、唐港《とそ》[やぶちゃん注:現在の鹿児島市唐湊(とそ)のことと採った。ウィキの「唐湊」によれば、『「唐湊」という町名の由来は』、『この付近が唐の船が着いた湊であったという説や、この付近に唐人が住んでいたという説がある』とある。ここ。この泊のずっと北東の岬に「唐岬」(グーグル・マップ・データ航空写真)があるが、ここには港どころか、人家も全くない。「ひなたGISの戦後の地図で見ても、鬱蒼たる自然の岬に過ぎないので、あり得ない。]の支港なり、唐港の海口と一《いつ》にして、西尾の山觜《さんし》[やぶちゃん注:山並の曲がり角。]其中に隔《へだて》たり、兩港を分《わか》つ、此港の西北岸より、港內の西南へ、大巖觜《だいがくし》銳出すること五町許、丸木浦といふ、丸木崎[やぶちゃん注:ここ。]の東西共に大灣をなす、其西灣を丸木浦といふ【丸木浦の西の半は久志[やぶちゃん注:現在の鹿児島県南さつま市の坊津町(ぼうのつちょう)久志(くし)。]に属す、】、丸木浦の西大海の方は、久志の地觜西北より東南に突出し【觜長さ四町許、】、其觜端《したん》の海上大礁・小嶼《せうしよ》斷續相連りて【觜相連ること、四町許、】、海上を捍蔽《かんぺい》[やぶちゃん注:塞ぎ覆うこと。]す、故に丸木浦灣形をなして安嶴《あんわう》[やぶちゃん注:「安定した自然の囲い地」の意であろうと推定する。」]なり、入《いり》七八町、濶《ひろ》さ六町許あり[やぶちゃん注:湾奥に「丸木浜」を有する、この入江が「丸木浦」と断定してよいから、計測すると、この数値と一致する。]、且《かつ》海口《かいこう》に近くして、舟舶《しうはく》の出入に便なる故、琉球諸島に下る者、多く停泊して風を待《まつ》といふ、丸木崎の東灣を泊浦《とまりうら》[やぶちゃん注:ここ。]といひ、其渚を泊濱といふ、村落ありて、人烟《じんえん》頗る多し、泊浦入四五町、濶さ拾町許、然《しか》れども海淺くして、大船《だいせん》を繫《つな》ぎがたし、泊浦の東南に山觜あり、陸地より、西北海中に尖出すること一町許、宮崎といふ[やぶちゃん注:これは峰ヶ崎のことであろう。ここ。]、此《ここ》觜《かど》ある故、泊浦は灣をなす、宮崎に九玉大明神社《くだまだいみやうじんじや》あり[やぶちゃん注:峰ヶ崎の泊浦側の根っこのここに九玉神社がある。]、松樹森然たり、此觜端《かどはし》に洞窟ありて透明す[やぶちゃん注:調べたが、現存するかどうかも不明である。]、坊津御崎の圓洞[やぶちゃん注:私は梅崎春生の「幻化」の印象的なロケ地であるため、行きたく思うていたが、未だ未踏であり、この「坊津八景」の一つとされるものが、どこにあるのか、知らない。引用底本に『御嵜秋月』の絵が載る。]に比すれば稍《やや》小《ちさ》し、土人亦是を秋月《あきづき》と呼ぶ、宮崎の東南は、卽《すなはち》西尾[やぶちゃん注:この地名は「ひなたGISの戦前の地図でも確認出来ない。]にして、灣曲をなす、荒床浦といふ、灣內稍《やや》大船《だいせん》を繫《つなぐ》べし、又宮崎の海上西尾觜《はし》に接近して小嶼《しやうよ》あり。松嶼《まつしま》といふ[やぶちゃん注:この「松島」は「坊ノ岬」の半島中部の南東にある。されば、不明の「西尾」という地名は、この坊ノ崎半島の坊津町坊、及び、その南西の半島を含んだ広域でなくてはならないことになる。「ひなたGISのここで見られたい。]。此泊港《とまりみなと》も巖礁亂點し、山觜橫出して、景色頗る佳なり、

   *

さて、問題は「川辺郡秋月」である。以上で検証した結果、「川辺郡」は、現在の鹿児島県南さつま市であり、当該ウィキによれば、「秋」の附く地名その他は、秋目浦(あきめうら)・坊津秋目湾(ぼうのつあきめわん)・沖秋目島(おきあきめじま:島嶼名)・坊津町秋目(ぼうのつちょうあきめ:正式地名)だけであり、「秋月」という地名は存在しない。「ひなたGIS」の戦前の地図で、私が最大公約数の範囲内として探索した、この海岸線を、総て精査したが、「秋月」と言う旧地名は存在しなかった。かといって、先の引用に出てくる、『土人』、『亦』、『是を秋月《あきづき》と呼』んだというのを、河原田氏が地区名に用いたとは考えられない。寧ろ、「秋目」と書かれたものを、「秋月」と誤判読したとすべきであろう。

 則ち、この「秋月」は、鹿児島県南さつま市現在の坊津町秋目(ぼうのつちょうあきめ)の誤記である。ここである。

 さて、ウィキの「坊津町秋目」は特異的に記載が豊富である。それによれば、天平勝宝五(七五三)年に『唐から渡海し』、『のちに日本の律宗の開祖となる「鑑真」が』、『日本本土に初めて上陸(漂着)した地とされる。江戸時代には薩摩藩の重要な湊であり、琉球や日本海沿岸、蝦夷との交易や、唐との密貿易の拠点となった』とある(と言っても、『先の「三國名勝圖會」の「唐港」は、ここに比定すべきではないか?』と言われる御仁がいたとしたら、それは、あり得ない。薩摩藩が編纂した地誌で、唐との密貿易の拠点であるなどと言うはずがないからである)。以下に「沖秋目島」の独立項があり、『秋目港から約』四『キロメートル沖合、野間岬から』八『キロメートルにある』現在は『無人島である』。『面積は約』〇・三九『平方キロメートル、周囲は約』四『キロメートルである。第二次世界大戦終戦前までは』三『世帯が居住しており、半農半漁の生活を営んでいたが』、昭和二五(一九五〇)年『頃に無人島となった』。『沖秋目島にはビロウが自生しており、枇榔島(蒲葵島)』とも呼ばれる』(老婆心乍ら、同名の「蒲葵島」(びろうじま)が高知県幡多(はた)郡大月町(おおつきちょう)の、ここにあるので注意されたい)。「三國名勝圖會」『では沖秋目島(三国名勝図会では「蒲葵島」とされている)の由来と』、『島内にある戸柱大明神について以下のように記述されている』とあるが、以下、先の国立国会図書館デジタルコレクションの当該部で示す。読みは同前(一部は論文のルビを参考にした)。

   *

蒲葵(ビロウ)島【秋目港より海上一里、西北にあり、】秋目村に屬す、周廻《しうくわい》凡そ一里、蒲葵樹甚《はなはだ》多し、故に名を得たり、往古は此島を秋目島といふ、又島の邊群魚の聚《あつま》る所にて、漁釣《ぎよちやう》に利ありといふ、此島に戶柱大明神祠《とばしらみやうじんのほこら》あり、祭神素盞鳴尊、稻田姬命、祭祀六月十五日、此島の海上に暗礁あり、昔時《せきじ》唐土《もろこし》の舟舶《せんぱく》、其暗礁に觸れて危殆《きたい》[やぶちゃん注:非常に危ないこと。]なりしが、舟人《ふなびと》戶柱神《とばしらがみ》に禱《いの》りしに、神力《しんりき》を以《もつ》て其難を免《まぬか》れ、長崎に至り、鎭臺《ちんだい》に狀啓(ヒラウ)す[やぶちゃん注:「狀啓」は中国語で、主に目上の人に対し、ある事柄を申し述べる際に用いる文書形式で、古くは公的文書や手紙の冒頭に用いられた。読みは歴史的仮名遣が間違っているが、「披露」であろう。]、鎭臺是を本藩[やぶちゃん注:薩摩藩。]に告ぐ、此後《こののち》官より祭米《さいまい》[やぶちゃん注:「戶柱大明神祠」の神への供え物。]を給與せられるといふ、其事《そのこと》棟札《むなふだ》[やぶちゃん注:神社の棟木に取り付けたそれ。]に記せり、

   *

とある。以下、引用に戻る。『秋目のうちとされていた浦町である秋目浦は』「諸鄕村附並浦附」(しょごうむらづけならびにうらづけ)『などに登場しており』、『弁才船を含め』、七十四『隻余りの交易船と漁船を有する港町であった。琉球や日本海沿岸、蝦夷などと交易をしていたほか』、『漂流船を装った唐船と交易をしていたとされる』。『鎖国制度が取られて以降も享保年間に発生した「享保の唐物崩』(からものくず)『れ」と呼ばれる幕府の一斉摘発まで』、『交易による賑わいは続いたという』。『また、交易のほかにカツオ漁が盛んであり、江戸時代には親方と呼ばれる船主を中心とする漁業が行われていたという。大正時代になり』、『秋目の漁民の共同船が沈没する事故が発生し』、『その後』、『没落したという』とあった。以下、「近代以降の秋目」の項の、昭和二八(一九五三)年に、明治二二(一八七九)年に町村制が施行されたのに伴って変更されていた『西南方村』(にしみなみかたむら)『が名称を変更し』、『坊津村(ぼうのつむら)となり、坊津村の大字となった』のだが、そ『の村名変更に際して「坊津村」への名称変更を推進する坊と泊の住民に対して、秋目と久志の住民は「坊津以外であれば何でもよい」として反対した』という騒ぎの記載は、民俗社会の騒擾事件として甚だ興味深いのだが、もう既に、ここまでの注だけで、膨張してしまっているので、カットする。是非、読まれたい。ともかくも、この沖秋目島の嘗つて漁民もイカを漁していたに違いないから、ここで、この島に言及しておくのは正当であると考える。

 

■「水烏賊鰑」「凡、十分の一。」

 「長門國、阿武郡《あぶのこほり》

  萩《はぎ》濵﨑村《はまざきむら》産。

  現品、四十九匁の量あり。」

[やぶちゃん注:「長門國、阿武郡萩濵﨑村」現在の山口県萩市浜崎町(はなさきまち)。ここで、萩港(漁港)の後背に見えるが、この萩港は、新たに追加造成されたもので、ここから北西に二キロメートル程離れた、萩市椿東(ちんとう)にあるのが、本来の萩港である。「ひなたGIS」の戦前の地図を見られたい(そこでは沖合)『萩港』とあり、湾奥に『戎ヶ鼻港』(えびすがはなみなと)とある。実は、ここは、幕末に萩(長州)藩に対して、幕府が大船の建造を要請し、ここに軍艦製造所を建設した(「史跡」名では「恵美須ヶ鼻造船所跡」という表記になっている。こちらの方が、より古い正しい表記と思われる)のであった。「萩市観光協会」広域サイト内の「恵美須ヶ鼻造船所跡」を見られたい。

「四十九匁」三百五十二・五グラム。かなり全体の身が詰まった鯣であることが判る。]

 

■「乾烏賊」

 「長門國、豊浦郡《とよら/とようらのこほり》

  神田下村《かんだしもそん》の産。

  水いかの開乾にして、

  皮を剝き[やぶちゃん注:ママ。]、

  反翻《かへしひるがへし》たもの。

  支那輸出の名『丸形鰑』と云ふ。

  伹《ただし》、軟骨を去るもの。」

[やぶちゃん注:「長門國、豊浦郡神田下村」ウィキの「豊浦郡」によれば、「和名類聚鈔」に『「止与良」とあるように、当初は「とよら」と読まれていた』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板本の、ここで、確認した。また、村名の「しもそん」の読みは、ウィキの「神田村(山口県)」に拠った。現在の豊北町大字神田。ここ。]

 

■「水烏賊」「凡、六分の一。」

 「對馬國、下縣郡《しもあがたのこほり》梯原村産。」

[やぶちゃん注:「對馬國、下縣郡梯原村産」対馬に「梯原村」「梯原」という地名は存在しない。当初、「嚴原」、対馬の中心地である現在の長崎県対馬市厳原町(いづはらまち)の厳原港(いづはらこう:ここ)の誤りと思ったのだが、「嚴」を「梯」に誤記するのは、通常考えても、読みからも、おかし過ぎると感じた。而して、調べたところ、指示したグーグル・マップ・データの北部分に出てくるが、現在、陸上自衛隊対馬駐屯地が置かれ、歴史的には、「朝鮮通信使幕府接遇の地」=「桟原屋形跡」(さじきばるやかた/さじきばらやかた)が残る(サイド・パネルの、この画像の標示柱を見よ)、厳原町桟原(さじきばら)の誤記ではないか? という思いが起った。ここは、東の阿須湾漁港(あずわんぎょこう)から一キロメートルも離れていないのである。但し、「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、この港らしきものはなく、代わりに、発電所の記号がある。しかし、サイト「全国漁港Navi」の「つりぺぐ」氏の記事「阿須湾漁港」に、『阿須湾漁港は長崎県対馬市厳原町東里』(ひがしざと)『にある第』一『種漁港です。対馬の南部にあり、美しい阿須湾に面しています。阿須湾漁港は、地元の漁師たちが新鮮な魚介類を水揚げする重要な港で、地域の水産業を支える拠点となっています。阿須湾漁港がある対馬島は、九州と朝鮮半島の中間に位置し、豊かな自然に囲まれた美しい島です。この島は原生林が広がり、リアス式海岸の美しい景観が特徴です。対馬島の自然は多様で、釣りを楽しむだけでなく、トレッキングや自然観察なども楽しむことができます』とあった。ここの「阿須浦」周辺に漁民がおり、その中の漁師が「桟原」へ運んで、鰑加工をしていたとしても、なんら、不自然ではない。私は、この「桟原」誤記説を採る。因みに、「(その2)」の「さどいか」の注で、アニサキス症のことを書いたが、そこで、対馬の知人の話を書いたが、この方は、厳原の名家の出身で、イカ釣りが非常に好きな方なのである(この方、実は著名な美容師である)。]

 

 

【図版8】

 

8_20250821132901

 

「烏賊柔魚各種之圖」(上罫外の標題。「柔魚(じうぎよ)」に就いては、「(その3)」を参照されたい。それを見ると、日中の本草書、及び、河原田氏の「柔魚」の種認識には、かなりのブレがある。それは、以下、十七の図を見ても歴然としている。但し、★河原田氏は「(その4)」の後半部で『柔魚(じうぎよ/するめいか)』と右左ルビを振ってしまっているのである★。而して、特に最後の西岡純先生から御教授戴いた追加注(現代中国では柔魚はアカイカ科Ommastrephidaeに使われている事実)は、必ず、見られたい)なお、これ以下の最後に二図は、ご覧の通り、今までにない、図内で、縦横の細い罫線が引かれてあるので、それに従って解説する)

 

■「やりいか」

 「一名『しやくはちいか』。

  凡、五分の一。」

         「軟骨」

[やぶちゃん注:最後の「軟骨」は右下方に描かれたものへのキャプション。製品の鰑から外して示したものである。軟骨は、足の上の頭部內にあって、脳や目を衝撃から守っているものである。コリコリした食感で、珍味である。

「やりいか」「一名『しやくはちいか』」「(その2)」で注したが、再掲しておく。「尺八烏賊」は、現行では、ヤリイカ科 Heterololigo 属ヤリイカ Heterololigo bleekeri の異名として知られ、私は他の種の異名としては知らない。或いは、ヤリイカと誤って、よく似ている別属の、ヤリイカ科ケンサキイカ属ケンサキイカ Uroteuthis  Photololigo  edulis をそう呼称している、或いは、していた地方があっても、おかしくはないとは思う。

 

■「ことういか」「一名、『すんどいか』。」

 「凡、五分の一。」

        「軟骨」

[やぶちゃん注:「軟骨」は前項と同じキャプション。左下方に描かれてある。

この「ことういか」は「ごとういか」が正しい。「ずんどいか」は「ずんどういか」の縮約名。「(その2)」の注で種考証をした。これらに関しては引用すると、結構、長くなるので、そちらの「ごとういか」と「ずんどういか」を見られたい。そこでは、ケンサキイカとジンドウイカを候補としたが、鯣になった状態では、判別する自信がないが、考証過程に基づくと、ジンドウイカを支持したい。

 

■「ばしやういか」「凡、三十分の一。」

[やぶちゃん注:「(その2)」で比定済み。「芭蕉烏賊」でアオリイカの異名。鰑になっても、そのガタイをよく示している図になっている。]

 

■「まするめいか」「凡、十分の一。」

             「軟骨」

[やぶちゃん注:「軟骨」は同じくキャプション。右下方に描かれてある。前後の三図も同じなので、この注は省略する。

「まするめいか」「(その4)」の終りで、河原田氏は、『今、柔魚を區別するに當り、普通のものを、豆相(づさう)地方に於(おい)て、「まいか」と唱(となふ)れども、眞烏賊(まいか/かういか)と混ずるを以て、假(かり)に「まするめいか」と名けたり』と述べている。図の本体図と軟骨を見るに、確かに、スルメイカである。]

 

■「つゝいか」「凡、六分の一。」

             「軟骨」

[やぶちゃん注:「つゝいか」図は、ここの左右の個体の図と比べると、スケール比の数値を勘案しても、どうもこの個体、胴が、やや短く描かれているように見えるので、個人的には、ツツイカ目開眼亜目アカイカ科アカイカ亜科スジイカ属スジイカ Eucleoteuthis luminosa に比定した気持ちがする。

 

■「しやくはちいか」

 「東京。」

 「凡、六分の一。」

             「軟骨」

[やぶちゃん注:本「図版8」の冒頭の『「やりいか」』『「一名『しやくはちいか』」』に同じ。]

 

■「すぢいか」「凡、三分の一。」

             「軟骨」

[やぶちゃん注:スケール比が小さいことから、前の前と同じくスジイカとしたい。

 

 

【図版9】

 

9_20250821132901

 

「其の二 縮寫減數ハ体長直經を以てす以下倣之」(上罫外の標題。「体長直經」は胴体長(生物学的には「外套長」が正式)を指す。最後は、「以下」の「昆布の說」以下の図版でも「之(これに)倣(ならふ)」と断っているのである)

 

■「ひいか」 「雄」 「凡、三分の一。」

 

 「同 雌」          「軟骨」

[やぶちゃん注:この二個体の図は罫線に囲まれてある。

「軟骨」は二個体の中央下方にある、軟骨部の図の下にあるキャプション。

「ひいか」漢字表記は「雛烏賊」。「(その4)」の私の決定版の注を再掲する。これは、まず、基本、ヤリイカ科ジンドウイカ(神頭烏賊・磁頭烏賊)属ジンドウイカ Loliolus ( Nipponololigo ) japonica のジンドウイカの広範な異名である。但し、株式会社安岐水産公式サイト「あき水産活魚部」内の「【いか情報】小さいけれど旨味は抜群!ヒイカ(ジンドウイカ)」の、「ヒイカの名前の由来」の項に、『ヒイカは漢字で「火烏賊」と記し、灯の明かりに寄ってくる習性に由来します』。『また、ヒイカは市場に流通する小型のジンドウイカ類の地方名だそう』。『ヒイカには、標準和名のジンドウイカ、ヒメジンドウイカ、ベイカ』(ヤリイカ科ベイカ Loliolus  Nipponololigo  beka )、『ケンサキイカ、ヤリイカなどの胴長約』十五センチメートル『以下の小型のジンドウイカ類が複数種含まれているようです』(☜要注意!)。『ジンドウイカの名前の由来は、弓矢のヤジリの一種「神頭(じんどう)」に似ていることが名前の由来と言われているそうです』。『「神頭」とは先が平らになった的矢や鏃のことを意味し、ジンドウイカの胴体とみみ(鰭)を合わせた形が「神頭」に似ていると思われます』とあり、「ヒイカの生息域」の項に、『ヒイカは北海道から九州までの日本各地に分布しており、水深50メートルまでの浅い内湾で生息しています』。『また、水深』一『メートルから』十『メートルくらいの内湾で春から夏に産卵します』。『ヒイカは昼間に海底直上を遊泳していることから、主に底引き網で漁獲されます』とある。異名の由来と対照種群を、ここまで、しっかりと記されたものは、ネットでは稀有である。

全国いか加工業協同組合」の『新編・世界イカ類図鑑』のここPDF)にある解説を引用しておく。

   《引用開始》

ML 12cm.小型で短いヤリイカ型.腕のうち,IIIII腕が特に太く且つ吸盤も大きい.腕の中央付近の大吸盤の角質環の歯は 低い半円形でIIV腕では36枚,IIIII腕では911枚.触腕の吸盤は4列で,中央付近の大吸盤の角質環歯は同様に半円形で1823個あるのが特徴(但し先端方の吸盤環には鋭歯がある).雄の左IV腕は交接腕で先端寄りの2/3は吸盤を欠き肉嘴列が保護膜で癒着して柵状となっている.発光器をもたない.北海道以南の日本各地の浅海.

   《引用終了》

因みに、「ML」は“mantle length”で「外套長(胴体長)」を指す。生物学では「腕」(うで:慣習上、「足・脚」ではなく、「腕」と呼ぶ)の指示方法は、タコ(軟体動物門有殻亜門頭足綱鞘形亜綱八腕形上目八腕形目 Octopoda)やイカ(鞘形亜綱十腕形上目 Decapodiformes)からなる鞘形亜綱Coleoidea(鞘形類・二鰓類)では、背側から腹側に向かって、左右それぞれ第Ⅰ腕・第Ⅱ腕・第Ⅲ腕・第Ⅳ腕の四対の腕が口を取り囲むように並び、更に、イカ類では、通常は第Ⅲ腕と第Ⅳ腕の間から「触腕」(しょくわん)と呼ばれる一対の特殊な腕が伸びる(太平洋の冷たい亜寒帯海域に広く分布する開眼目テカギイカ科ドスイカ属 Berryteuthis には触腕を欠く種がいる)なお、図でないと判り難いので、『新編・世界イカ類図鑑』のここにある「頭足類の分類」の「A. 形態分類用語」を見られたい。

 さて、この図、今までにない、雌雄の鯣個体を描いているのだが、これは、生物学的に極めて細部を描いて示そうとしている点で、注目に値するものでは、ある。しかし乍ら、この図では、そうした交接腕の細部を描き得ては全くおらず、雌の方の触腕の胴側の根元部分に奇妙な剥離した箇所が両方に描かれていること、雌の触腕先端の吸盤部の吸盤が有意に胴側で欠損して描かれている点しか、私には感得出来なかった。しかし、このような雌の性的変異は本種には存在しない。恐らくは、博覧会に出品した漁業関係者の誰彼が、漁師が言っている誤った雌雄の弁別法(こうした非科学的な誤認認識や思い込みは、今でも一般人の間に存在している。一種の生物学的都市伝説の類いである)を河原田に伝え、専門の生物学者に確認をとらずに成したものではないか? と推理されるのである……非常に――残念だ!……

 

■「あふりいか」「凡、十分の一。」

 「又、名、『水烏賊』。

  又、『藻烏賊』。」

           「軟骨」

[やぶちゃん注:この図も罫線に囲まれてある。

「軟骨」は右中央にある軟骨部の図の右にあるキャプション。

「水烏賊」「藻烏賊」ともに本記事で既出既注。]

 

■「みゝいか」「凡、二分の一。」

[やぶちゃん注:「みゝいか」「(その2)」の私の注を見られたい。この図も、罫線で囲まれている。河原田先生も流石にキュートなフォルムで、『……何も何も、小さきものは、みな、うつくし……』ときたわけだな……]

 

[やぶちゃん注:以下は最後の余白に六個体(それぞれ、右下方に「海螵蛸內面」のキャプション附き。「海螵蛸」は【図版4】で注済み)。右から左、上から下の順序で示す。]

 

■「しゝいか」「凡、三分の一。」

       「海螵蛸內面」

[やぶちゃん注:コウイカ目コウイカ科コウイカ属 Doratosepion 亜属シシイカ Doratosepion peterseni 「(その2)」の私の注を参照されたい。]

 

■「すじいか」「凡、三分の一。」

       「海螵蛸內面」

[やぶちゃん注:「すじいか」の表記はママ。何度も言っている通り、「筯烏賊」であるから、「すぢいか」が正しい。既出既注のツツイカ目開眼亜目アカイカ科アカイカ亜科スジイカ属スジイカ Eucleoteuthis luminosa 。]

 

■「まいか」「凡、六分の一。」

       「海螵蛸內面」

[やぶちゃん注:「まいか」「図版8」の「まするめいか」を参照されたい。]

 

■「しりやけいか」

       「海螵蛸內面」

[やぶちゃん注:「しりやけいか」「尻燒烏賊」で、「(その2)」の私の注でさんざん示した、コウイカ目コウイカ科 Sepiella 属シリヤケイカ Sepia japonica である。]

 

■「ほしいか」

       「海螵蛸內面」

[やぶちゃん注:この図、胴の左右と中央に亀甲紋を、かなり上手く描いた特異点である(そもそも、河原田氏の絵は、上手い!)。ここまで亀甲紋が綺麗にスルメ状態で残るというのは、一般人は「モウゴウイカ」(紋甲烏賊)と呼んでいるところの、

コウイカ目コウイカ科 Acanthosepion 属カミナリイカ Acanthosepion lycidas

であろう。しかし……私は、文字通り――こんなに絵に描いたような亀甲紋を持ったカッチカチの「するめ」は、食ったことも、見たことも、ない、人種である。

 

■「はりいか」

       「海螵蛸內面」

[やぶちゃん注:コウイカ目コウイカ科 Acanthosepion 属コウイカ Acanthosepion esculentum の異名。「(その2)」の私の注を参照されたい。]

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