フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「飢饉騷動」 | トップページ | 和漢三才圖會卷第第九十一 水果類 烏芋 »

2025/08/27

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その1)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。

 なお、私はファナテックな海藻フリークである。昆布は、一時期、常に五種以上の昆布をストックし、細く切ってしゃぶるのを常としていた変人である。現在もアラメやフノリを常備常食している。閑話休題。多くの記事があるが、最も纏まったものでは、

サイト版「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」

を嚆矢とするが、ブログでは、古くコンブ類については、

「大和本草卷之八 草之四 昆布 (コンブ類)」

と、電子化注に、えらく時間を費やした、

「日本山海名産図会 第五巻 昆布」

等がある。必要に応じて、注で指示することもあろう。

 なお、本書の先行電子化で注した書名注は、繰り返さない。

 

  (二)昆布の說

昆布は北海道十一箇國、並(ならび)に、三陸の海に產する所の藻類(さうるい)にして、古來より、食膳に賞用し、又、淸國の貿易品たり。近年に至り、輸出の額を增し、水產中、屈指の物產となり。實に本邦富源(ふげん)の一(いつ)に居(を)る所の重要のものとす。

[やぶちゃん注:ご存知とは思うが、現行の分類学では「コンブ」という「種」は存在しない。冒頭で言っておかないダメなので、長くなるが、仕方がない。「日本山海名産図会 第五巻 昆布」の注で示した、私のコンブ類=不等毛植物門(オクロ植物門) Ochrophyta褐藻綱コンブ目コンブ科 Laminariaceaeの種の認識は以下の通りであった(今回、問題がある箇所は、一部(総てではない。後の注記を参照)を「BISMaL」で確認し、ここで補正をした)。遙かに知られている流通名も附記してある。

   *

ガゴメ属ガゴメ(コンブ)(籠目(昆布)) Kjellmaniella crassifolia

ネコアシコンブ属ネコアシコンブ(猫足昆布) Arthrothamnus bifidus(別名「ミミコンブ(耳昆布)」。北海道東部のみに分布)

ゴヘイコンブ属ゴヘイコンブ(御幣昆布) Laminaria yezoensis (但し、本種は細い葉体の御幣状の特殊な形態を持ち、「昆布」の印象からは私は、若干、外れるように感ずる)

コンブ属ミツイシコンブ(三石昆布=「日高昆布」) Saccharina angustata

チヂミコンブ(縮昆布) Saccharina cichorioides

ガッガラコンブ(=厚葉昆布」)Saccharina coriacea

トロロコンブ Saccharina gyrata (間違えてはいけないのは、本種は加工食品の「とろろ昆布」の主原料ではなく、一般的な高級「とろろ昆布」は、以下のマコンブ他の加工品であるものが主である。則ち、「とろろ昆布」は〇製品名であり、イコール、✕「トロロコンブ」ではないということである。後の図版で詳細に語る)

マコンブ(真昆布) Saccharina japonica (他にマコンブ品種に「ドテメ」があるが、この学名は旧 Laminaria japonica f. membranacea のままで、問題がある)

マコンブ変種ホソバオニコンブ(細葉鬼昆布) Saccharina japonica f. angustifolia

マコンブ変種オニコンブ(=「羅臼昆布」) Saccharina japonica var. diabolica

マコンブ変種リシリコンブ(利尻昆布) Saccharina japonica var. ochotensis

マコンブ変種ホソメコンブ(細目昆布) Saccharina japonica var. religiosa

アツバミスジコンブ(厚葉三筋昆布) Saccharina kurilensis

カラフトコンブ(樺太昆布) Saccharina latissima

ナガコンブ(長昆布=「浜中昆布」) Saccharina longissima (「浜中」は地名。厚岸郡浜中町(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)で、昆布の一大産地として知られ、中でもナガコンブ知られることに拠る)

カラフトトロロコンブ(樺太薯蕷昆布) Saccharina sachalinensis

エンドウコンブ(遠藤昆布) Saccharina yendoana (和名は最初の発見者である初めて発見した水産学者・藻類学者遠藤吉三郎氏に因む)

   *

しかし、コンブ科 Laminariaceae に限って決まりかというと、実は、もう、違うのである。たびたび、私がお世話になる、私が二〇二一年六月二十九日に「日本山海名産図会 第五巻 昆布」で、以上のリストの参考にさせて頂いた鈴木雅大氏の優れた学術サイト「生きもの好きの語る自然誌」の「コンブ目 Order LAMINARIALES Migula, 1909」のページを見ると、二〇二三年十月十五日附で最新更新しておられ、まず、なんと!

コンブ科が消え(実は「BISMaL」も同様)、

ネコアシコンブ科 Arthrothamnaceaeと、ゴヘイコンブ科 Laminariaceaeがタクソンとして新たに設けられ(但し、鈴木氏の『Arthrothamnaceaeの和名は「ネコアシコンブ科」としましたが,正式に提唱,出版されたものではなく,本リストにおける暫定的な名称です。』という注記がある)、

ネコアシコンブ科に、

 ネコアシコンブ属 Arthrothamnus

 カジメ属 Ecklonia

 アラメ属 Eisenia

 ガゴメコンブ/ガゴメ属  Kjellmaniella と、

 クロシオメ属 Streptophyllopsis の間に、

 コンブ属 Saccharina が配されてあった

からである。因みに、ウィキの「コンブ」では、『コンブ科Laminariaceae Bory de Saint-Vincentには次の』十三『属があり』、『マコンブなどが属するカラフトコンブ属』(=コンブ属『ネコアシコンブなどが属するネコアシコンブ属』Saccharina 『や、カナダからチリに分布するジャイアントケルプの属するMacrocystis 属などがある』とある(十三属は当該「分類」の項を見られたい)。

取り敢えず、ここでは、これぐらいにしておこう。因みに、ざっと河原田氏の記載を見るに、現行の真正コンブ類から外れた種が含まれている感じは、ない。

 

昆布は「倭名鈔」に『比呂女(ひろめ)、又、衣比須女(えびすめ)』と訓(くん)し、「續日本紀(ぞくにほんき[やぶちゃん注:ママ。「しよくにほんぎ」が正しい。])」「延喜式」等(とう)にも、『昆布』の文字を用ひ、「萬葉集」に『軍布(ぐんぶ)』と書(しよ)したるは、轉音(てんおん)[やぶちゃん注:前の語の最後の母音が変わることを指す。「母音交代」とも言う。]によるのみ。然るに「多識篇」には、昆布を『比呂米(ひろめ)』、海帶(かいたい)を『阿良米(あらめ)』とし、紫菜(しさい)を、『今、按ずるに、昆布なり』といひ、「大和本草」「庖厨和名本草」「本朝食鑑」「和漢三才圖會」等には、昆布は『和名(わみやう)、比呂女(ひろめ)』とし、「庶物類纂」には、昆布を『霍鎻竟(はうめ)』、又、『霍母貢(ばんめ)』とし、海帶(かいたい)を『盍拉覔(あらめ)』『戛十覔(かじめ)』『盍拿覔(あなめ)』『鎻無戛(そうか)』とす。「本草綱目啓蒙」には、昆布を「ゑびすめ」「こぶ」「ひろめ」「しかね【松前】」とし、海帶を和名『「ほうめ」、一名(いつみやう)「みづわかめ」、是(これ)なるべし』と、せり。然(しか)れども、本邦にては、世上一般に『昆布』の字を通用せり。

[やぶちゃん注:『昆布は「倭名鈔」に『比呂女(ひろめ)、又、衣比須女(えびすめ)』と訓(くん)し』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の「倭名類聚鈔」「卷十七」の「菜蔬部第二十七」「海菜類第二百二十六」の当該部で推定訓読して示す。送り仮名(疑問あり)・漢字の一部の表記は手を加えた。

   *

昆布(ヒロメ/ヱヒスメ[やぶちゃん注:右/左のルビ。「ヱ」はママ。]) 「本草」に云はく、『昆布、味、醎《かん》、寒《かん》。毒、無し。東海に生ず【和名「比呂米」、一名、「衣比須女」。】。陶隱居が注に云はく、「黃黑色、柔《やはらか》にして、細し。食ふべし。」』≪と≫。

   *

この「本草」は「本草和名」で、深根輔仁(ふかねのすけひと)の撰になる日本現存最古の薬物辞典(本草書)。「輔仁本草」(ほにんほんぞう)などの異名がある。当該ウィキによれば、『本書は醍醐天皇に侍医・権医博士として仕えた深根輔仁により』、『延喜』一八(九一八)年に『に編纂された。唐の』「新修本草」(高宗が蘇敬らに書かせた中国最古の勅撰本本草書。陶弘景の「神農本草經集注」(しんのうほんぞうきょうしっちゅう)を増訂したもの)を『範に取り、その他漢籍医学・薬学書に書かれた薬物に倭名を当てはめ、日本での産出の有無及び産地を記している。当時の学問水準』の限界のため、『比定の誤りなどが見られるが、平安初期以前の薬物の和名を』、『ことごとく記載しており』、且つ、『来歴も明らかで、本拠地である中国にも無い』所謂、『逸文が大量に含まれ、散逸医学文献の旧態を知る上で』も、『また』、『中国伝統医学の源を探る上でも貴重な資料である』。本書は、後の『丹波康頼の』知られた「医心方」にも『引用されるなど』、『後世の医学・博物学に影響を与えた。また、平安時代前期の国語学史の研究の上でも貴重な資料である』。後、永らく、『不明になっていたが、江戸幕府の医家多紀元簡が紅葉山文庫より上下』二『巻全』十八『編の古写本を発見し』、『再び世に伝えられるようになった。多紀元簡により発見された古写本の現時点の所在は不明であるが、多紀が寛政』八(一七九六)年に『校訂を行って刊行し』、六『年後に民間にも出された版本が存在する他、古写本を影写した森立之の蔵本が台湾の国立故宮博物院に現存する』とある。

 さて。この源順の記載には、甚だ、なやましい箇所がある。それは「ヒロメ」である。「ヒロメ」というのは、現在の標準和名では、「コンブ」ではない、ワカメ属ワカメ Undaria pinnatifida の仲間である、

ヒロメ Undaria undarioides

に与えられてしまっているからである(なお、本邦産のワカメは他にアオワカメ Undaria peterseniana がある)。この「ヒロメ」は「広布」で、江戸時代には「昆布」を呼んでいた名として附には落ちる。因みに、ウィキの「コンブ」は、「分類」の記載がショボいのに反し、「名称」と「歴史」の項が異様に豊かであるので、引用すると(太字・下線は私が附した。注記号はカットした)、『日本語の「昆布」の表記は漢語に由来している。古い和名では「えびすめ」あるいは「ひろめ」と称された』。『現代中国語では「海帯(haidai)」と称され、コンブ科カラフトコンブ属の各種のコンブを意味するとともに、狭義にはカラフトコンブ属のマコンブを意味する。また、生物種としてのコンブにも一般的に「海帯」を用いる。一方、中国語にある「昆布(kunbu)」の語は、本草学に由来する用語であり薬としてのコンブを意味する』。『中国古典における「昆布」の語の初見は、魏の呉普がまとめた』「呉普本草」『とされ』、『「綸布」という薬効のある海藻の一名として挙げられている。この「綸布」については』、『前漢に成立していた』「爾雅」『に「綸」として記され、東海(朝鮮半島北東部の日本海沿岸)の特産品としている。しかし、この海藻は牧野富太郎らによってワカメを指したものと指摘されている』。但し、『古代中国の「昆布」を北方系のワカメとする仮説に対しては』「本草綱目」『にある』『繩把索地如卷麻」「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「卷十九 草之八」の「昆布」([053-30b]以下)の「集解」に(一部の漢字に手を入れた。当該部に下線を引いた)『别錄曰昆布生東海弘景曰今惟出髙麗繩把索之如卷麻作黃黑色柔靭可食爾雅云綸似綸組似組東海有之今靑苔紫菜皆似綸而昆布亦似組恐卽是也藏器昆布生南海葉如手大似蓴葦紫赤色其細葉者海藻也珣曰其草順流而生出新羅者葉細黃黑色胡人搓之爲索隂乾從舶上來中國時珍曰昆布生登萊者搓如繩索之狀出閩浙者大葉似菜蓋海中諸菜性味相近主療一致雖稍有不同亦無大異也』とある)『(縄にして束ねて巻麻のようにしたもの)の形態がロシア極東にもみられるため、さらなる検討の余地があるとする指摘もある』。『一方、「海帯」の語については』、十一『世紀に編纂された北宋の』「嘉佑本草」『が東州(山東半島)の特産品として「海帯」を記載しており、女真の貿易活動の中で中国との交易品に含まれていたとみられている。「昆布」の歴史的用語法について王賽時は、山東と遼寧では「海帯」(アマモ)』(言うまでもないが、「海藻」ではなく、「海草」である。被子植物門単子葉植物綱オモダカ亜綱イバラモ目アマモ科アマモ属アマモ Zostera marina(本邦の分布は九州から北海道の内湾に植生)・スゲアマモ Zostera caespitosa(同じく北海道・本州北部及び中部)・エビアマモ Phyllospadix japonicus(本州中部・西部)の三種が植生する。因みに、別名に「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ(龍宮の乙姫の元結の切り外し)」があるが、これは最も長い植物名として知られる)、『浙江と福建では「黒昆布」(レッソニア科カジメ属の一種)、その他の地方では「裙帯菜」(ワカメ)を指していたとしている』。『古代日本では』「続日本紀」霊亀元(七一五)年十『月の記事に「昆布」の語があり、岩手県宮古市周辺にあった閇村(へいむら)の族長の須賀君古麻比留(すがのきみこまひる)が、先祖以来「昆布」を陸奥国府に献上してきたが、道のりが遠く苦しいため、村に貢納の拠点となる郡家(ぐうけ)を設置してほしいと訴えて許可されたとする。この』七百十五『の閇村の昆布の記録の後、日本では供給量が増大し』、七三〇『年代にかけて』、『本項でいう「昆布」の語が急速に普及したと考えられている』。『なお、古代日本ではワカメを「海藻」または「軍布(ぐんぷ)」と表記したが、昆布と音通とみられる用法の「軍布」が西日本の木簡に多く見られるという』。『明代から清代にかけて中国では朝鮮半島から多くの昆布が輸出されるようになり、李朝後期の』十九『世紀には主要な輸出品となったが、中国でコンブが「海帯」と称されるようになったのは』、『この頃とされる』。『これより前の江戸時代の日本では、寺島良安が』「和漢三才圖會」(私の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「こんぶ ゑびすめ 昆布 クン プウ」(「ゑびすめ」はママ)を見られたい)『において中国の「昆布」がコンブであることを考証している。また』、十九『世紀初頭の小野蘭山の』「本草綱目啓蒙」『は「昆布」をコンブであるとし、別に「海帯」の項を設け、「海帯」はホソメコンブのことであるとしている』。「續日本紀」『には「昆布」の語があるものの』、『原文は漢文であり、その読みは明らかでない』(私の後注を見よ)。『「コンブ」の由来には諸説あるが、特に次の』二『説が有力である』。

■『漢語の「昆布」の音読であるとする説』

■『アイヌ語で昆布を指す kompu の音訳とする説』(「大言海」他)

後者に就いては、『アイヌ語の「コンプ」が』、『中国に』渡り、『日本に逆輸入されたとする説もある』。『マコンブを意味するアイヌ語には「コンプ」(北海道の幌別・沙流)や「サシ」(北海道中北東部・樺太・千島)がある。アイヌ語語源説に対しては、本州から日本語の「コンブ」が流入して道南を中心に「コンプ」の語が広まり、その他の地域に「サシ」が残存したとみるほうが整合的とする見解がある』とする。

『中国語の「昆布」は本草学の用語で、本草学は自然物を薬用に用いる学問で実用的な観点に重点を置いて自然物を分類するものであることから、形態が異なるいくつかの種が』、『まとめて「昆布」とされていた。古代中国の文献で「昆布」と記されているものには、ワカメなど別の海藻を指していると思われる』、『との指摘があるものも含まれる』。『コンブは東北アジアの特産の海藻であるが、どの地域でも主食して食べられていたわけではなく、その文献は多くはない。しかし』、「海東繹史」(かいとうえきし:李朝朝鮮の学者韓致奫(かんちえん:一七六五年~一八一四年)が、中国・日本の書籍五百四十五部から朝鮮関係記事を集めて編纂した書。全七十巻二十六冊。東夷諸国と檀君時代(朝鮮半島に於いて神話上の檀君王倹(だんくんおうけん)が紀元前二三三三年に開いたとされる国名)に檀君の即位した年を「元年」とする「檀君紀元」(檀紀)を定め、一九六一年まで公的に西暦と併用していた。ここは当該ウィキを参考にした)から高麗までの歴史を述べた「世紀」をはじめ、全体を十七の「志」・「考」に分け、引用文に考証と見解が加えられたもの。正祖時代の実学派の一大成果とされる。その続編に、韓致奫の遺稿を彼の甥韓鎮書が編纂した「地理考」(十五巻)があり、地理研究資料として評価が高い。以上は主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った)『によると』、『昆布は新羅、渤海、高麗の特産品としてたびたび中国にもたらされていた』。『渤海では重要な交易品の一つで』、「海東繹史」は「新唐書」等『から渤海の使節が』、『唐や後唐に昆布を献上していたとする記述を引用している。また』、十八『世紀後半の史書』「渤海考」『は渤海の物産に「南海昆布」があったことを記している』。『日本で昆布の使用が広まったのは』、『江戸時代のことである。この交易ルートは「昆布ロード」と呼ばれている』。『起源は』、『よくわかっていないが、江戸時代までには』、『蝦夷地や東北北部で採れた昆布は、福井の小浜や敦賀周辺で陸揚げされ、陸路や琵琶湖の水路を経て京都にもたらされるようになっていた』。『江戸時代に入って』、『海上交通が盛んになると、北前船の西廻り航路が開発され、日本海沿岸地域から下関を経て』、『瀬戸内海に入り、大坂にもたらされるようになった』。『上方では』、『大坂や堺で陸揚げされた。大阪名産の昆布製品として、とろろ昆布、塩昆布、佃煮などがある。また、堺は刃物が特産品だったこともあり、表面を薄く削ったおぼろ昆布が名産となった』。『北前船で蝦夷地から運ばれた昆布は』、『上方で』、『その多くが消費され、上質なものは』、『上方で消費されたので』、『江戸へ回った分は』、『その残りで、量が多かった日高昆布が』殆んど『であった。また、江戸の水質は』、『上方より硬水寄りで、昆布のダシが出にくい水質であったために、ダシの材料として「鰹節」が多く使われていた』。『さらに昆布の交易ルートは』、『密貿易の形で南に伸びて、薩摩、琉球を通じて』、『清国と』(☜)『つながるようになった。富山では売薬商が、薩摩藩が琉球口貿易を通じて手に入れている唐物の中に』、『中国の薬種があるとみていた。一方、薩摩藩は』、『大坂の問屋を介さずに』、『松前産の俵物や昆布を直接松前から仕入れようと考えていた。当時、中国内陸部ではヨード不足により』、『甲状腺が肥大する特有の風土病がみられ、ヨウ素を多く含む昆布の需要があり』、『薬屋で販売されており需要があったためである。そこで越中売薬商は「薩摩組」を組織し、北前船の荷主として、後には北前船主として昆布を運び、薩摩の商人と取引を行った』。『中継地の琉球には、薩摩藩から幅広の昆布とともに出汁の出にくい長昆布も流入したが、清国側はヨードが多いとされ』、『幅広で』、『出汁』(だし)『が』、『よく出る海帯(ハイタイ)しか引き取らなかった。そのため』、『長昆布が多く残されることとなり、沖縄では昆布を出汁ではなく』、『食材として用いた郷土料理が多くなったとされる』(この部分は、沖縄(うちなー)料理好きの私には、非常に首肯出来る!。『なお、シーボルトの』「江戸参府紀行」『によると、最上徳内』(もがみとくない:宝暦四(一七五四)年~天保七(一八三六)年:探検家・江戸幕府普請役)『がサガレン(樺太)に滞在した時に』百五『人中』五十三『人が寒冷の影響で死亡したが、徳内は大量の昆布を食べることで、すこぶる健康であったと記載されている』とある。

「續日本紀」平安初期の歴史書。「六國史」の第二。全四十巻。菅野真道(すがののまみち)・藤原継縄(つぐただ)らの編。延暦一六(七九七)年成立。文武天皇即位の文武元(六九七)年から桓武天皇の延暦一〇(七九一)年までを、漢文の編年体で記述。「續紀」とも呼ぶ。国立国会図書館デジタルコレクションの『國文六國史』「第三 續日本紀」(上・中/武田祐吉・今泉忠義編/昭和九(一九三四)年大岡山書店刊)の、「卷の第七」の「日本根子高瑞淨蘆姬(やまとねこたかみづきよたらしひめ)の天皇(すめらみこと) 元正天皇(げんしやうてんわう) 第四十四(しじふし)」の元正天皇靈龜元年冬十月(かんなづき)丁丑(ひのとうし)(二十九日)の条(ここ)を参考にすると(ポイント部分に下線を附した)、

   *

陸奥(みちのく)の蝦夷(えみし)の第三等邑良志別(おふらしべち)の君(きみ)、宇蘇彌奈(うそみな)等(たち)[やぶちゃん注:生没年不詳。奈良時代の東北蝦夷(陸奥国の蝦夷)。第三等(朝廷が蝦夷に与えた爵位第三位)。後世では東北地方の各神社で祀られており、蝦夷の人物神とされ、「オラシ」の名称に関しても、アイヌ人の信仰と関連するものとされる。「百科事典ウィキペディア」に拠った。]言(まを)さく、『親族(やがら)の死亡(うせ)たる子孫、数人(すうにん)、常に狄徒(てきと)に抄略(かす)められむことを恐れたり。請ふ、香河村(かがはのむら)に郡家(ぐうけ)[やぶちゃん注:郡衙(ぐんが)の別称。古代律令制度の下にあって、郡の官人(郡司)が政務を執った役所。]の造建して、編戶(へんこ)の民(たみ)と爲(な)し、永く安堵を保(たも)たむ』と。又、蝦夷の須賀(すが)の君(きみ)古麻比留(こまひる)[やぶちゃん注:生没年不詳。八世紀前葉に東北地方にいた蝦夷の有力者。「君」は姓(かばね)。当該ウィキに拠った。]等、言さく、『先祖(とほつおや)より以來(このかた)、貢獻(たてまつ)る昆布(ひろめ)は、常に此の地(ところ)に採りて、年時(ねんじ)、闕(か)かず。今、国府(こふ)の郭下(くわくげ)を相(あひ)去ること、道(みち)、遠く、往還(わうくわん)、旬(じゆん)を累ねて、甚だ、辛苦、多(おほ)し。請ふ、閉村(へいむら)に於きて、便りに郡家を建て、百姓(ひやくしやう)に同じくし、共に親族(うがら)を率(ひき)ゐて、貢(みつぎ)を闕(か)かざらむ。』と。並(ならび)に之を許す。

   *

とあった。

『「萬葉集」に『軍布(ぐんぶ)』と書(しよ)したる』これは、「萬葉集」の「卷第三」の「石川少郞歌(いしかはのをといらつこ)の歌一首」とするもの(二七八番。以下は講談社文庫「万葉集」(中西進・全訳注・原文付)の第一巻を参考に、漢字を恣意的に正字化した)。

   *

(原文)

然之海人者 軍布苅鹽燒 無暇 髪梳乃小櫛 取毛不見久尒

(訓読)

志賀(しか)の海人(あま)は

   藻(め)刈り鹽(しほ)燒き

 暇(いとま)なみ

     髮梳(くしら)の小櫛(をぐし)

    取りも見なくに

(左注)

     右は今案(かむが)ふるに、

     石川朝臣君子(きみこ)、號(な)を

     少郞子(をといらつこ)といへり。

   *

中西氏は『志賀の海人おとめは海藻をとったり、塩を焼いたりで暇あないものだから、髪をすく櫛さえ手にとってみることはない。』と訳され、この作者は、実際には左注通り、男性で、『からかい歌ともとれる』と注しておられ、「志賀」は『筑前国志賀島』で、『ここの海人は当時』、『有名だった』とある。ここ。福岡県福岡市東区に所属する志賀島(しかのしま)である。しかし、

河原田氏が、この「軍布」を、コンブに同定比定するのは、ロケーションからも、極めて無理がある

と私は思う。ここは、「藻(め)刈り」から、藻塩を採る「馬尾藻・神馬藻・穂俵」、即ち、古くの「なのりそ」、

褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科Sargassaceaeホンダワラ属 Sargassum の仲間(何故、種名を示さないかは、「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ) (ホンダワラ)」の私の冒頭注を参照されたい)

か、或いは、昔から今に至るまで、日本人にお馴染みの、

コンブ目チガイソ科ワカメ属ワカメ Undaria pinnatifida

及び、同属の非常によく似た、孰れも食用とする、

アオワカメ Undaria peterseniana

ヒロメ Undaria undarioides

らを比定すべきであろう。

「阿良米(あらめ)」これを真正直に受けるなら、狭義の「コンブ」ではない、

コンブ目レッソニア科 Lessoniaceae アラメ(荒布)属アラメ Eisenia bicyclis

である。

「庖厨和名本草」本草学者で医師の向井元升(げんしょう 慶長一四(一六〇九)年~延宝五(一六七七)年:ウィキの「向井元升」によれば、『肥前国に生まれ』で、五『歳で父、兼義とともに長崎に出て、医学を独学し』、二十二『歳で医師となる』。慶安四(一六五一)年、ポルトガルの棄教した宣教師クリストファン・フェレイラの訳稿を元に天文書『乾坤弁説』を著し』、承応三(一六五四)年には『幕命により、蘭館医ヨアン(Hans Joan)から通詞とともに聞き取り編集した』「紅毛流外科祕要」全五『巻をまとめた』。万治元(一六五八)年、『家族と京都に出て』、『医師を開業した』とある)が、寛文一一(一六七一)年に、加賀藩主前田綱紀の依頼により著した本草書。正確には「庖厨備用倭名本草」で、中国の元の李東垣の「東垣食物本草」などから食品四百六十種を撰び、和名・形状・食性・毒性などを加えたもの。なお、彼の次男は、蕉門の俳人として有名な向井去来である。

『「本草綱目啓蒙」には、昆布を「ゑびすめ」「こぶ」「ひろめ」「しかね【松前】」とし、海帶を和名『「ほうめ」、一名(いつみやう)「みづわかめ」、是(これ)なるべし』と、せり』国立国会図書館デジタルコレクションの弘化四(一八四七)年刊本で視認出来る(非常に見易い)。「昆布」はここで、「海帶」は、その前のここから。以下、原本の順に電子化する。二行目以降の一字下げはしていない。約物は通常に代え、一部に推定の読みを《 》で入れた。歴史的仮名遣の誤りはママ。標題を太字にした。

   *

海帶 ホソメ【南部】 ミヅメ【仙臺】 ミヅワカメ【生《なま》】 ボンメ【俱ニ同上乾[やぶちゃん注:前の「ミヅワカメ」と同種で、「生」ではなく「乾」したものを名づくの意であろう。]】 [一名]多士麻《たしま》【村家方《そんかがた》[やぶちゃん注:田舎家。]】

奥州ニ産ス濶《ひろ》サ六七分或ハ一寸許《ばかり》厚《あつく》シテ昆布ノ如ク味モ似タリ賤民ノ食ナリ貯《たくはへ》オケハ白ク粉ヲ生《しやう》ス水ニ入《いる》レバ青黃色煙火《えんくわ》[やぶちゃん注:花火の正式名称。]ノ筒ヲマクニ用《もちひ》テ甚《はなはだ》ツヨシト云《いふ》此條ヲ アラメト訓ズルハ非ナリ アラメハ黒茶ナリ

昆布 ヱビスメ【和名鈔】 コブ ヒロメ 布草【和方書】 シガ子《こ》【松前】 [一名]海布【萬病回春】 海昆布【幼科發揮】

蝦夷ヨリ出《いで》松前ヨリ若狹ニ來リ京師ニ達ス海中ニテ大ナル者ハ徑《わたり》一尺餘長サ數丈淡黃色ニシテ兩邊青黒色柔靭ニシテ韋[やぶちゃん注:なめしがは。鞣革。]ノ如シ小ナルモノ者ハ長サ四五尺若州小濵[やぶちゃん注:若狭国小浜(おばま)。]ニテ白昆布ヲ製ス名産ナリ朝鮮人ハ ワカメヲ昆布ト書《かけ》リ然レドモ ワカメハ食物本草ノ裙帶菜《くんたいな》ナリ

   *

「萬病回春」は書名。明の龔廷賢(きょうていけん)の著作。一五八七年成立。刊行後、すぐに日本に渡来し、百年間に三十回近く重刷され、当時の日本漢方に多大な影響を及ぼした。現在も同書を出典とする漢方薬が、多数、臨床で用いられている。「幼科發揮」明の小児科医万全著になる一五四九年刊。元禄八(一六九五)年に和刻版が出ている。なお、そこで見て戴くと、河原田氏の「ほうめ」というのは、実は、「ほそめ」の誤読(裏が透けて「ウ」に見えるのである)であることが判る。これなら、正真正銘の、

マコンブ変種ホソメコンブ(細目昆布) Saccharina japonica var. religiosa

で腑に落ちるのである。

 

昆布の名は「爾雅」「本草綱目」其他の書に載(の)する說、一樣ならずして、本邦の『こぶ』と異(ことな)るもの﹅如しと雖ども、「醫學入門」に『形、長く、大(おほき)さ布(ぬの)の如し。故に昆布と名(なづ)く』とある、と。「琉球國史畧」には、『海帶菜(かいたいさい)、一名、昆布』とあり。又、諸書に、『昆布は東海に產す』とし、或(あるひ[やぶちゃん注:ママ。])は、『登萊(とうらい)[やぶちゃん注:求めて得ること。]、諸州に產す』とあるものは、山東省(サントンせう)の東海に產するものにて、昆布なること、疑ひなし。又、海帶の名は、「本草綱目」に『東海水中、石上(せきじやう)に出(い)で、今、登州(としう)の人、これを乾して、器物(きぶつ)を束(たば)ぬ。醫家、用(もちひ)て、水(みず)を下(くだ)す。海藻、昆布に勝る。』とし、其他(そのた)の書に載するところも又、相似(あひに)たりと雖ども、「植物名實圖考」に「嘉祐本艸始著錄(かいうほんさうしちよろく[やぶちゃん注:「さう」はママ。])」を引(ひい)て、『之(これ)を食(しよく)し、能(よ)く痰毒(たんどく)を消し、痔を去る』ことを載せたり。而して、方今(はうこん)、淸國人は、一般に『海帶』と稱せり。

 

[やぶちゃん注:「醫學入門」「横浜薬科大学」公式サイトの「漢方古書の扉」のここに拠れば、明の万暦(ばんれき)三(一五七五)年、『李梃(りてん)の自序を付して刊』行され、『日本では寛文』六(一六六六)年に「合類醫學入門」として全十七巻十七冊で刊行されたもの。『医学全書で、一定の評価があり、朝鮮では本書は大いに重宝され、日本でもよく用いられた中国医学書の一つ』とある。

「琉球國史畧」「琉球大学」公式サイト内の「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」のこちらに、清の乾隆二〇(一七五五)年『に琉球国王世子尚穆』(しょうぼく)『を冊封』(さくほう/さっぽう:古くより、中国で、皇帝が后妃・諸侯及び周辺諸国の王などを「冊」(=勅書)に拠って、爵位・封土を与えたこと。また、その任命書をも指す)『するため』、『正使全魁と共に来琉した冊封副使周煌』(しゅうこう)『が』一七四七『年』(本邦では延享四年。徳川吉宗・家重の治世)『に皇帝に献上した報告書で』、十六巻十七『部門からなり、琉球の地理、歴史、文化、民俗、冊封使としての仕事など』、『多岐にわたる内容を部門別に系統立てて記載している』とある。

『海帶の名は、「本草綱目」に『東海水中、……』は、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「卷十九 草之八」の「昆布」([053-30b]以下)の「昆布」の前に「海帶」として立項されてある。短いので、以下に示す(一部に手を入れた。当該部に下線を引いた)。

   *

海帶【宋嘉祐】

 集解【禹錫曰海帶出東海水中石上似海藻而粗柔靭而長今登州人乾之以束器物醫家用以下水勝於海藻昆布

 氣味鹹寒無毒主治催生治婦人病及療風下水【嘉祐】

 治水病癭瘤功同海藻【時珍】

   *

「植物名實圖考」小学館「日本大百科全書」に拠れば、『中国最初の植物図鑑。清』『代、河南省の呉其濬(ごきしゅん)によって書かれた』。千七百十四『種の植物の図と説明からなり、とくに』、『図は著者が実見して描いたもので、それまでの本草』『書にある図と比べると、はるかに写実的であり、中国植物の研究資料として内外でその評価は高い。また』、光緒一一(一八八五)年『に張紹棠(ちょうしょうどう)により刊行された』李時珍の「本草綱目」に追加された『付図は』、『本書の図を引用したものである。初版は』道光二八(一八四八)年『で、著者が没した翌年である。植物学的、薬物学的な記載に加えて、著者のさまざまな政治哲学や人生哲学に関する記載が随所にみられるのも本書の特色である』とある。

「嘉祐本艸始著錄」東洋文庫版の後注に、『『嘉祐本草』のことか。同書は北宋の嘉祐二年(一〇五七)に『開宝重定本草』に基づき、編纂された。』とある。

「痰毒」AIによるものだが、皮膚に細菌が感染して赤みや腫れを引き起こす「丹毒(たんどく)」と、漢方医学で用いられる言葉で水分の代謝障害によって生じる「痰飲(たんいん)」の二つの意味があり、「丹毒」は溶血性連鎖球菌などが原因で、顔や体にテカテカした境界の赤い腫れ、発熱、頭痛などを引き起こす。「痰飲」は、体内の水分の代謝が悪くなることで、喉に痰が詰まったり、むくみ、めまい、吐き気などの全身症状が現れることがある、とあった。]

« 阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「飢饉騷動」 | トップページ | 和漢三才圖會卷第第九十一 水果類 烏芋 »