阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「木枯森の奇」
[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。]
「木枯森《こがらし の もり》の奇《き》」 安倍郡《あべのこほり》羽鳥村《はとりむら》木枯の杜《もり》にあり。「風土記」云《いはく》、
『安弁郡木枯森、廣野姫天皇庚寅十月、府官史生、吏部、奉ㇾ役入二山中一暴風陣々、樹木顚倒、荒忽如二酒醉一、于ㇾ時風雨一行、後已至二黃昏一月淸朗焉、有二一大男一、居二巖頭一、其威風如ㇾ生二毛髮一、暫時難ㇾ對二顏眉一、史生秦助右、解二腰劔一當ㇾ之、下ㇾ手不ㇾ覺目眩、四邊無ㇾ物、唯如ㇾ覺二醉夢一吏部並餘生如ㇾ此、其後不ㇾ知二其過蹤一。云云。』。
木枯の森、今猶、存して、八幡宮あり。
[やぶちゃん注:まず、やや長いが、この「木枯森」の地名について、非常に興味深い地名伝承を含む解説を見出したので、国立国会図書館デジタルコレクションの「駿河記 上卷」(桑原藤泰著・足立鍬太郎校・出版者/加藤弘造・昭和七(一九三二)年刊:作者は島田宿の素封家桑原藤泰(号は黙斎)の編になる駿河国地誌。文政元(一八一八)年完成。詳しくは、先行する「神戱」の私の注の引用中にある、私が挿入した太字部分に詳しい)の「卷五 安倍郡卷之五」の「〇木魂明神社」の項(ここから)を視認して電子化する。
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〇木魂明神社 祭神句々迺馳命(ククノチ)也 本社と相殿神主內野右近
文明二年並天正元年壬辰祭主內野掃部介等記する棟札あり。
當社緣起に曰かみつ代此里に原阪氏夫婦のものあり。そが中に一人のかほよき女子をもてり。玆にいつ地とも知れず、年の程二八許なる美童、水干に袴付てよくたち[やぶちゃん注:四文字に右注で『(夜更)』とある。]に女子の閨房に通ひ交りを通しけり。ある夜女子美童にむかひ、御身は何地に住給ひ侍ると尋けるに、さだかなるいらへもなかりしかば、女子ふしぎにたへかねて、恥をしのびて母にかくと告たり。母驚き、そは人間のわざにあらじと、女子に敎へていふ、今より七夜に七におけの麻を績(う)み、其緖に針を付て、彼人のかへるさに袴の腰に結ひ付て見よかしとありけるにぞ、敎の如くある夜半に美童の袴に鍼さしけり。明る日彼千尋の糸にしたがひて尋見けるに、きりくひ[やぶちゃん注:同じく四文字に右注して、『(伐杭)』とある。]本社の【今云白鬚神社の社中くひは後の地名】大杉の木に止りけり。あたりの人々驚きいふ。こは木魂のくせ事にや、あな恐ろしきことにこそと申あへり。父是を聞てかゝるくせことこそ安からねとて、いといきどろし[やぶちゃん注:ママ。](と思ひ)つゝ人夫に仰せて大杉を伐果し、控[やぶちゃん注:右に『(空)』と傍注する。]舟に造なして、女子を乘て、藁科川に流しけり。母は生別の悲しさに川邊に出て嘆きかなしみ止むれど、父のいかりのたゆまねば、止るに力なく、其身も浴盤[やぶちゃん注:行水盥(ぎょうずいだらい)。]に乘じつゝ女子をしたひて同じ流に乘下り、なきこがれて呼さけびてぞ流ける其聲かすかにかすかに聞えしかば、母の悲嘆の悲さにせめてもの形見にもとや思ひけむ。櫛笥[やぶちゃん注:「くしげ」。櫛や化粧の道具を入れておく箱。取てぞ河水に投じける。【櫛笥の止る處寺島の里なり今社あり】時しも山河震ひ動き、疾風疾(猛)雨[やぶちゃん注:前の括弧のそれは、「疾」と誤った正しい字を示したものであろう。]降りしきり、洪水溢れ漲て[やぶちゃん注:「みなぎりて」。]控舟遙に遠く流しに[やぶちゃん注:「ながれしに」。]、一島の元に至り俄然にくつがへりぬ。母の乘たる浴盤同じ流の上の一島の元にくへかつりて[やぶちゃん注:「くへ」は「壞(く)え」の誤りで、「かつり」は「潛(かづ)く」の活用の誤りであろう。「浴盤が、壊れて水の中に潜ってしまい」の意で採る。]水底に沈ける。この二島を校正に呼て一を舟山と云一をこかれし[やぶちゃん注:母が娘を「こがれし」の意であろう。]森といふ。なをはた後の代には木枯の森とは號しけるとなむ。なほ後の代に、彼木を切し跡を木魂明神と齋り[やぶちゃん注:「いつけり」或いは「いはへり」であろう。]、その地をきりぐひと名號[やぶちゃん注:「みやうがう」。]しも皆此本緣[やぶちゃん注:「ほんえん」。「緣起」に同じ。]今に原阪氏の子孫忠左衛門といふものゝ家には麻を植うる事を禁すといふ。又神社邊古木の朽殘れる跡徑り七步許、今猶存す。【此說和州三輪の說にひとし、古たる物語なれば信僞を不ㇾ論こゝに載。〇前半は三輪物語なれども後半は異なりたる地名傳說なり。此文原本の方おもしろし。故につとめて其の面影を存す。】
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以下、漢文部を推定訓読する。
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安弁郡[やぶちゃん注:「安倍郡」の誤り。]木枯森(こがらしのもり)、廣野姫天皇庚寅(かのえとら)十月、府官、史生(ししゃう)、吏部(りぶ)、役を奉りて、山中に入れば、暴風、陣々(ぢんぢん)、樹木、顚倒(てんたう)し、荒忽(くわうこつ)として[やぶちゃん注:空漠として。]、酒に醉(ゑ)ふがごとく、時に、風雨、一行(いつかう)[やぶちゃん注:一たび、行き過ぎること。]、後(のち)、已(やみ)、黃昏(くわうこん)に至り、月、淸朗(せいらう)たり。一(ひとつ)の大男(おほをとこ)、有り、巖頭に居(を)り、其の威風、毛髮、生ずるがごとく、暫時、顏《かほ》・眉《まゆ》、對し難く、史生の秦助右(はたのすけゑ)、腰の劔(つるぎ)を解き、之れを當(あ)つるも、手を下(おろ)すも覺えず、目、眩(くら)む。四邊、物、無く、唯(ただ)、醉(ゑひ)たる夢より覺むるがごとし。吏部、並(ならび)に、餘生《よしやう》、此くのごとし。其の後(のち)、其の過ぎし蹤(あと)、知れず。云云(うんうん)。
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「廣野姫天皇庚寅」持統天皇の別名で、この干支は持統天皇六年で、ユリウス暦六九〇年相当。
「史生」官司の四等官の下に置かれた職員。書記官相当で、公文書を作成し、四等官の署名を得ることを主職掌とした。
「吏部」太政官八省の一つである式部省相当の役人。文官の考課・選叙・禄賜等の人事一般を取り扱った。
「安倍郡羽鳥村木枯の杜」現在の静岡市葵区羽鳥に現存する。「静岡市」公式サイト内の「木枯ノ森」に、『安倍川最大の支流「藁科川(わらしながわ)」が安倍川に合流する手前にある川中島で、森はお椀を伏せたような丘を形成し、小さな島は木々に覆われています。「枕草子」のころから、駿河国の歌枕として親しまれてきた場所です。また、本居宣長が撰文を刻んだ石碑「木枯森碑」も森の中に佇んでいます』。『木枯ノ森の中には石段や鳥居などが見受けられ、頂には木枯八幡宮があり』、『八幡神が祀られていましたが、度重なる災害や参拝の困難さから羽鳥八幡神社にご神体は移されました。毎年』九『月頃に、羽鳥八幡神社から八幡様が木枯ノ森へ「本家帰り」する祭りが行われています』。『川の真ん中にあるため周囲には駐車場もなく、木枯ノ森に渡るための橋なども整備されていないため、訪れるには川の中を通らなければなりません。静岡の不思議な秘境スポットです』とある。地図はそちらのものを見るのが、よい。当該ウィキ(そこでは「木枯森」とする)に拠れば、長さ百メートル、高さ十メートル『ほどの小さな丘』とする。平凡社「日本歴史地名大系」では、『現在の羽鳥(はとり)と牧ヶ谷』(まきがや)『を結ぶ藁科(わらしな)川の牧ヶ谷橋付近の中洲に存在する小丘の森。県指定名勝。森の中には木枯神社(八幡神社)が鎮座する。近くを古代の東海道が走っていたことにより、景勝地として古くから歌枕とされ、「能因歌枕」に駿河国の歌枕の一つとして載る。「後撰集」に「こがらしのもりのした草風はやみ人のなげきはおひそひにけり」(読人知らず)、「枕草子」の「森は」の段にも「木枯の森」とある』。但し、『山城国の歌枕ともされ』(「能因歌枕」)、『現京都市右京区の木枯神社付近の森をさすともいわれ、その所在は判然としない』とあった。静岡放送が運営する公式サイト「@Sアットエス」の「藁科川の舟山と木枯森を訪ねる」が詳しい。既出と重複する箇所があるが、全文を引く。動画もあるのでお勧めである。『安倍川と藁科川の合流点にある舟山』(ふなやま)。『ここに、かつて舟山神社と呼ばれる神社がありました』。『この場所は、安倍川が増水すると参拝できなくなったため、明治』二二(一八八九)『年に、舟山神社は安倍川の右岸の神明宮に移されることになりました。藁科川が安倍川に合流する手前には、川の中洲に木々に覆われた小さな島、「木枯森」(こがらしのもり)があります。伝説によると、神である大蛇との間に子供を生んだ娘に父親が怒り、その子どもを川に流してしまいました。娘は子どもを追いかけましたが、この辺りで別れ別れになってしまい』、『嘆き悲しんだ娘が』、『子に焦がれた場所として木枯森と呼ばれるようになったとされています。「木枯森」は、清少納言の「枕草子」にも記され、美しい風景として、数多くの歌に詠まれてきました。森の山頂には八幡神社が祀られ、江戸時代の国学者本居宣長の撰文を刻んだ「木枯森碑」や、駿府の医師であった花野井有年』(はなのいありとし 寛政一一(一七九九)年~慶応元(一八六六)年:江戸後期の医師。江戸・大坂などで漢方・蘭方を学び、文政八(一八二五)年、郷里の駿府で開業、後、皇国医方(日本固有の医術。「和方」とも言う)に転向した。著作に「醫方正傳」・「辛丑(しんちゅう)雜記」等がある。以上は、講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に基づく)『の歌碑が建てられました。現在』、『ここに石段や鳥居は残るものの、度重なる災害や参拝の難しさから、羽鳥の八幡神社にご神体が移されました。毎年』九『月頃には』、『羽鳥の八幡神社からご神体を神輿に乗せて木枯森へ戻す祭りが行われます』。『東海道の旅の名所を記した』「東街便覽圖畧」『にも、安倍川と藁科川が描かれ、「舟山や木枯森などが川の中に浮かんだ様子は、非常に面白い。ここから見る富士山の姿は見事である。」と紹介されています』とある。また、サイト「YamaReco」のJA12V氏の投稿記事「地元の珍山_舟山(ふなやま)_安倍川の川中島」には、他では見られない跋渉された詳しい画像が豊富にある。
さても。冒頭に私が起こした話があってこそ、この話、想像が膨らむというものであろう。]
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