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2025/10/16

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その12)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。]

 

昆布を淸國に輸出するの創始は、得て考ふ可らずといへども、德川時代の舊記によれば、慶長八年、海外貿易上、金銀貨濫出(らんしゆつ)を憂ひ、制限を立(たて)、專ら、物品を以てするの時に、あるが如し。然(しか)れども、「經濟秘書」によれば、明和の頃、長崎輸出昆布ハ、千三百石目《め》許(ばかり)に過(すぎ)ず。寶曆十四年、俵物受負人(たはらものうけおひにん)を派(は)して、買集(かいあつ)めしめ、天明五年に受負人を廢(はい)し、會所直買(くわいしよぢきかい[やぶちゃん注:ママ。])とし、爾來(じらい)、員數(いんず)、增加し、開港前迄にハ、一ケ年三千石目に至りしも、尙、今日(こんにち)の盛(さかん)なるに及ばざりしなり。而して輸出せる昆布ハ、往昔より、產地を變換し、最初は、陸中の產にて、夫(それ)より、渡島產(をじまさん[やぶちゃん注:ママ。])に移り、日高、根室と、漸次(ぜんじ)、奧地に移れり。「蝦夷奇觀」に【志苔、しのり。】昆布を淸國に輸送することを載せたるも、今は、此品(このしな)を輸出することなく、又、「長崎俵物役所明細帳」に、南部昆布を、天明五年より寬政六年迄、千石宛(づゝ)、翌年より文化五年迄は、二千石宛、同十年千石、翌年より文政二年までに千石宛、同三年より天保二年迄は、買入高(かいいれだか[やぶちゃん注:ママ。])、追々(おひおひ)、相減(あひげん)じ、同三年に至り、唐商(とうせう)の好まざるより、之を廢止す、とあり。然れども、陸奧產(むつおくさん)の元昆布、或(あるひ)は、濱昆布(はまこんぶ)と唱ふるものは、維新前(いしんぜん)迄、長門(ながと)の下關(しものせき)に輸送し、長崎に回(まは)して、廣東人(カントンじん)に賣渡(うりわた)し、又、琉球よりも、此(この)濱昆布と、廣昆布、三石昆布との、三品を輸出せり。長崎よりも、廣昆布は、近年迄も、輸出す。然(しか)れども、目今(もくこん)[やぶちゃん注:「目下・現今」に同じ。]、輸出するは、日高、根室、釧路、北見、十勝等(とう)の產に限れり。其中(そのうち)、根室の昆布は、天保三年、藤野喜兵衞《ふじのきへい》の花咲(はなさき)の地にて、採收したるより、はじまりたるものにて、輸出の如きは、全く、近年にあり。

[やぶちゃん注:「德川時代の舊記によれば、慶長八年、海外貿易上、金銀貨濫出(らんしゆつ)を憂ひ、制限を立(たて)、專ら、物品を以てするの時に、あるが如し」東洋文庫版の編者注に、「舊記」『として何を参照したかは不詳。慶長八年(一六〇三)は徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府が開かれた年である。室町時代以来の朱印船貿易と並行しながら、江戸時代には、慶長九年から糸割符制度によって貿易統制がなされ、以後、長崎においては、貨物市法(寛文一二年・一六七二)、および、それに代わる定高貿易法(貞享二年・。六八五)が実施され、正徳五年一七一五)には新井白石により、海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)か制定され、国際貿易額を制限するようになった。』とある。

「經濟秘書」、国立国会図書館デジタルコレクションの「農事参考書解題」(農商務省藏版・一九七〇年国書刊行会刊)のここに(ポイント・字空けは再現していない)、

   *

經濟秘書              寫本一冊

弘化四年[やぶちゃん注:一八四七年。家慶の治世。]正月佐藤信淵[やぶちゃん注:「さとうのぶひろ」と読む。明和六(一七六九)年生まれで、嘉永三(一八五〇)年没。江戸後期の思想家で、経世家・農学者・兵学者・農政家でもあるが、本業は医師。出羽国出身。]著ス所ニシテ復古法槪言、理財法大意ノ二項ト爲シ國土ヲ經營シ萬貨ヲ豐饒ニシテ人民ヲ救濟スルノ大要ヲ論ス織田完之[やぶちゃん注:「おだかんし」と読む。天保一三(一八四二)年生まれで、大正一二(一九二三)年没。農政家・歴史学者・著述家。]之ヲ藏ス復古法、經濟問答秘記等ト看スベシ

   *

とある。

「明和」一七六四年から一七七二年まで。徳川家治の治世。

「寶曆十四年」一七五一年から一七六四年まで。徳川家重・家治の治世。

「俵物受負人(たはらものうけおひにん)」「函館市/函館市地域史料アーカイブ」の「俵物指定問屋」に(冒頭をカットし、二行空けの箇所は一行にした)、

   《引用開始》

長崎会所では、延享元年から俵物一手請方制をとり、長崎商人のうち帯屋庄次郎が一手に請負うことになり、同3年引続き西川伝治が近江八幡商人代表者として、松前、箱館、江差3港の俵物集荷を命じられたが、彼らは松前の俵物を長崎へ直接送るほか、少しでも有利な所で取引を行うため、敦賀、大坂、下関においてそれぞれ問屋へ売渡していた(小川国治『江戸幕府輸出海産物の研究』)。こうした実情から宝暦41754)年に至り、長崎俵物一手請方問屋から、松前藩に対し一手買入れ願が出された。すなわち、俵物一手請方問屋のうち住吉屋新右衛門が、長崎から松前に乗り込み、松前藩と直接交渉の結果、昆布に400両、煎海鼠・白干鮑に4000両の運上金を納めて一手買請を許されたのである。かくて長崎俵物請方問屋では、松前、箱館、江差の3港にそれぞれ指定問屋を置き、各地の場所請負人および生産者から俵物を買入れさせ、その指定問屋は、松前は河内屋増右衛門、箱館は長崎屋半兵衛、江差は熊石屋吉三郎の3人であった。

 この指定問屋の設定以降は、これまで集荷に当っていた近江商人も、指定問屋に俵物を売渡さねばならず、集荷過程での近江商人の支配は著しく後退した。そしてこのことは、一方では幕府による俵物の独占集荷体制の統制・強化を意味し、同時に箱館にとっては、近江商人の支配から離れた集荷問屋の指定により、俵物生産者と地元問屋との関係が、より密接になったことを意味している。

 ことに宝暦13年、清国との唐銀貿易が開始されると、俵物はその見返り輸出品として一層重要性を増してきた。すなわち、

 

 宝暦十三年石谷備後守(長崎奉行)様御在勤の節、唐銀三百貫目持渡り、当年より始め二十年の間、年々持渡るべき由、右代り物は銅並びに俵物にて御渡方相成り候処、唐人共銅より俵物を相好み候趣、右に付是迄請高の外、俵物出方相増仕法申上げ候はば、誠に御国益の儀忠節に付、憚りなく存じ寄り申上げ候様、後藤惣左衛門殿より申聞かされ、岩原御勘定信田新助殿、篠本六左衛門殿よりも毎々御沙汰にて、猶御手頭を以て仰渡され候に付、新浦相開き、且出方相進め候ため、仲間手分致し回浦仕るべき段申上げ候処、御満足に思召され、諸国領主御代官等への御添翰下置かれ、当地在番の聞役えは御書付を以て、右の趣仰渡され候旨、仰せ聞かされ候(『長崎之俵物請方雑書』)。

 

 とあり、これによって同年10月長崎を出発して、諸国回浦が行われたが、松前、津軽・南部地方を担当したのは山下利右衛門で、この時の回浦は「諸国回浦に残る所なく相廻り、重立ち候場所場所へは詰切、新浦相開き候場所等えは、漁事の猟具拵え相与え、稼方仕立方等迄申教え、手付銀前渡し候」(前書)という徹底した増産対策をとっている。

   《引用終了》

とあった。

「天明五年」一七八五年。かの「天明の大飢饉」(天明二(一七八二)年~天明八(一七八八)年)の最中(さなか)である。

「開港」江戸幕府は安政五(一八五八)年の「日米修好通商条約」をはじめとする「安政五カ国条約」により、箱館(函館)・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の五港を開港することを決定した。神奈川の実際の開港場は街道沿いの「神奈川湊」ではなく、そこから外れた「横浜村」が選ばれ、翌安政六年に「横浜港」として開港された。

「蝦夷奇觀」(その5)で既出既注。

「【志苔、しのり。】昆布」(その4)で既出既注。

「長崎俵物役所明細帳」現在は東京大学史料編纂所所蔵。

「南部昆布」主として奥羽南部産の昆布を指した。

「天明五年より寬政六年迄」一七八五年から一七九四年まで。徳川家治・家斉の治世。

「翌年より文化五年迄」一七九五年から、享和を挟んで、一八〇八年まで。家斉の治世。

「翌年より文政二年まで」一八〇九年から一八一九年まで。同じく家斉の治世。

「同三年より天保二年迄」一八二〇年から一八三一年まで。同前。

「濱昆布(はまこんぶ)」国立国会図書館デジタルコレクションの「北水協會報告」(第五拾參號・一八九〇年一月北水協會事務所発行)のここに、『北海道厚岸邊に在りて俗に濵昆布と曰ふもの』とあるのが、それであろう。

「又、琉球よりも、此(この)濱昆布と、廣昆布、三石昆布との、三品を輸出せり」国立国会図書館デジタルコレクションの「日本昆布業資本主義史:支那輸出」(『慶應義塾経済史學會紀要』第二冊・羽原又吉著・一九四二年有斐閣刊)のここに、『恐らく之は密貿易であらう。』とあった。

「天保三年」一八三二年。家斉の治世。

「藤野喜兵衞」初代藤野喜兵衛(明和七(一七七〇)年~文政111828)年)は江戸時代後期の商人で、近江出身。十二歳で蝦夷地松前に渡り、寛政一二(一八〇〇)年、独立して海運業を営んだ。文化三(一八〇六)年、余市を手始めに、宗谷・斜里・国後に場所請負を拡大し、松前有数の豪商となった。松前藩御用達を務め、第六代藤野四郎兵衛を継いだ。屋号は柏屋(以上の主文は講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。但し、ここでは、「天保三年」とあるので、ウィキの「藤野喜兵衛」にある、初代喜兵衛の娘婿で、柏屋の全盛を築いたとある、二代藤野喜兵衛(弘化二(一八四五)年没)である。

「花咲(はなさき)の地」「図版6」で既注。「根室國花咲郡花咲」で、現在の北海道根室市花咲町「ひなたGIS」も添えておく。]

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