河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その5)
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。
各号の間は、読み易さを考え、一行空けた。]
前條各種の區別を左に說明す。
(一)元昆布は陸前、陸中、陸奧(むつをく[やぶちゃん注:ママ。]より北海道の東海岸に產する乾品(かんひん)の、幅、三、四寸より七、八寸許(ばかり)、或(あるひ[やぶちゃん注:ママ。])は、尺余にして、長さは、六、七尺より𠀋餘に至り、質、厚く、濃綠色なるものをいふ。古來、松前昆布と稱し、賞用するものは、即(すなはち)、重(おも)なる種類なるを以て、今、此編(へん)[やぶちゃん注:纏まって製した品。]は元昆布と名けたり。而して、此種類中、整束を以て名けしものは、元揃昆布(もとそろいこんぶ[やぶちゃん注:ママ。])、鼻折昆布、折昆布(おりこんぶ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ「おり」には附さない。])、小鼻折昆布(こはなおりこんぶ)、島田折昆布(しまだおりこんぶ)等(とう)なり。然(しか)れども、產地により、厚薄(かうはく)、濃淡、長短の差、あり。其中(そのうち)、渡島國(としまのくに)松前、函館近傍の產を上等とせり。茅部郡(かやべこほり)木直(きなをし)、尾札部(をさつべ)、板木(いたぎ)、熊泊(くまどまり)、臼尻(うすじり)等(とう)の諸村に產するを、古來、「濵(はま)の內(うち)」と稱し、般も優等のものとし、元揃(もとそろい[やぶちゃん注:ママ。])、又は、鼻折(はなをり)の類(るゐ)に整束して、內國用に販賣せり。此種類の上等品を以て、上方(かみがた)にて種々の細工昆布を造れり。「蝦夷奇觀(えぞきくわん)」に、『御上(をあが[やぶちゃん注:ママ。])り昆布』、一(いつ)に『天下昆布(てんかこんぶ)』とあるものハ、此濱の內(うち)の產にして、幅、五、六寸、長(ながさ)、壹丈前後のもの、五十枚を、一把(ひとたば)となし、絕品とす、といふ。龜田郡(かめだこほり)志苔(しのり)、檜山郡(ひやまこほり)江刺(ゑさし)等の產は、槪ね、鼻折昆布の類(るひ[やぶちゃん注:ママ。])に作れり。元揃昆布に比すれば、薄くして、品位劣れりと雖ども、志苔昆布と稱し、重(おも)に東京に輸送せり。是(これ)、「庭訓往來(ていきんあうらい)」にいふ宇賀昆布(うがこんぶ)にして、龜田郡尻澤邊(しりさべ)より、茅部郡汐首岬(しほくびみさき)迄の間(あひだ)を、昔時(せきじ)は宇賀と稱せり。卽ち、「經濟要錄」にも『「庭訓往來」に、玄惠(げんゑ)か[やぶちゃん注:ママ。「が」。]所謂(いわゆる[やぶちゃん注:ママ。])宇賀昆布は、紫海苔(しのり)、尻澤邊(しりべ)、小安(こやす)の諸村なり』とす。玄惠は、後醍醐天皇の侍讀(しどく[やぶちゃん注:ママ。])たりし人なれば、已に元弘の昔も著名なりし、と見へたり[やぶちゃん注:ママ。]。東海岸(とうかいがん)にも、同質のものあれども、產出、僅少(きんせう)なり。又、陸奧(りくおく)下北郡(しもきたこほり)大間、上北郡(かみきたこほり)泊村(とまりむら)等(とう)の產は、厚くして、甚だ、良好なり。東津輕郡(ひがしつがるこほり)三厩(みむまや)の產は、其形、渡島國(としまのくに)茅部郡(かやべこほり)の元揃昆布(もとぞろひこんぶ)に似たれども、兩緣(りやうふち)、及び、末端(はさき)、褐赤色なるは、採收季(さいしうき)の晚(をそ[やぶちゃん注:ママ。])きによるなるべし。陸中(りくちう)閉伊郡(へいこほり)、陸前牡鹿郡(をじかこほり)等(とう)にも、元昆布、同質のものを產すと雖ども、產額、僅少なり。是等の品も、往時、廣昆布(ひろおんぶ)と稱して、長崎・琉球等より、輸出せしも、現今は、皆、內國用となる。元揃を造るには、根の方を揃(そろへ)て、三日月形に切り重ねて、三ケ所を縛り、長き把(たば)となし、又、鼻折の類(るゐ)を作るは、廣く伸ばして、折り並べ、重ねて二、三ケ所を縛り、把(たば)となすなり。陸奧(むつおく)の產は、長濱(ながはま)と稱し、根本(ねもと)を切り、元切造(もとぎりつく)りと云ひて、廣東向(こんたふむき[やぶちゃん注:ママ。広東(カントン)省。])の輸出品なりしか[やぶちゃん注:ママ。「が」。]、近年は、輸出すること、なきより、鼻折(はなをり)に造れり。
[やぶちゃん注:「元昆布」昆布の根元の柔らかい部分を用いた製品。但し、これは、後の叙述で、複数の種・製品を混淆して示すことが、今までの私の注で、ややこしい呼称であることが、図版の注で既に、複数、示したので、注意されたい。(その3)で、「元昆布」で検索して頂くと、その混乱が痙攣的であることが判然とされるであろう。
「茅部郡木直」旧茅部郡南茅部町木直で、現在の函館市木直町。地名については、かなり手間取るが、私は地理フリークなので、今までの注で単独で示していないものは、基本、掲げることとする。
「尾札部」旧同前郡で、現在の函館市尾札部町。
「板木」旧南茅部町臼尻村板木で、現在は函館市安浦町字安浦。「ひなたGIS」の戦前の地図で、「板木」が確認出来る。
「熊泊」旧南茅部町熊泊村で、現在は函館市南茅部町の、字(あざ)で大船(おおふね)・双見(ふたみ)・字岩戸(いわと)相当。「ひなたGIS」の戦前の地図で、「熊泊」が確認出来る。平凡社「日本歴史地名大系」の「熊泊村」に(太字は私が附した)、『明治六年(一八七三)から同三九年までの村。現町域の北西端近くにあたる。太平洋に面した狭小な海岸部を中心に集落がある。近世には箱館六箇場所の一つ尾札部』『場所のうちで、昆布・鱈・鰯・鯡などの漁が行われた。享保十二年所附に「一 おさつ辺 (中略)熊泊り 磯屋 ところ」などが記される。一七八〇年代の「松前国中記」では尾札部場所の小名として「タ(ク)マトマリ」とみえる。寛政一二年(一八〇〇)六箇場所が「村並」となり(休明光記附録)、天保郷帳の臼尻』『の持場のうちに熊泊とある。松浦武四郎は鹿部(しかべ)(現鹿部町)方面から南東に向い、磯谷(いそや)を通ってクマトマリに至り、「人家十七八軒。小商人壱軒、昆布小屋多し。村中に小流有」と記している。ヲタハマは「木立陰森として巨材を出す」という。また、「此辺りニ箱館西在并箱館町内、大野在中より出稼の人は中々すさまじき事ニ而、其多き年には浜ニ小屋を建而是ニ住居し居るニ、其取りし昆布の干場も無」と昆布漁の盛んな様子に言及している。』とある。
「臼尻」旧同郡臼尻村で、現在は函館市臼尻町。
「蝦夷奇觀(えぞきくわん)」「蝦夷島奇觀」(えぞしまきかん)のことであろう。村上島之丞(允)(筆名:秦檍丸(麿):はたのあおきまろ 宝暦一〇(一七六〇) 年~文化五(一八〇八)年:伊勢生まれ)が寛政 一二(一八〇〇)年に著わした三巻から成る蝦夷風俗絵巻。アイヌの人物・礼式・家屋・狩猟具・飲酒・楽器・舞踊・オットセイ狩り・熊祭などが描かれ、説明が加えらている。伝写が多く、後世の蝦夷風俗画に少なからぬ影響を与えた。後に増補したと思われるものが、若干、見られるが、「續蝦夷島奇觀」・「蝦夷島奇觀拾遺」も島之丞の説明の増補伝写本を復元したものと見られている。「蝦夷みやげ」二冊は、明治に刊行された「蝦夷島奇觀」の刊本。以上は、概ね、「ブリタニカ国際大百科事典」に拠ったが、個人ブログ「気ままな風来人のたわごと」の「第5回 村上島之允のこと-蝦夷地を知り尽くした男- Ⅲ」に原書画像を含め、非常に詳しい記載があるので、是非、見られたい。それによれば、村上は、『年少のころから旅に明け暮れることが多く、生涯を旅に暮らした』とあり、また、彼は後に『幕府に仕えた役人』となり、『老中松平定信に才能を買われ、寛政、文化年間』『に、近藤重蔵に付いて松前に渡り、国後まで足を延ばすなどして、北海道を踏査。実際に見聞きした生活文化、地理などを記した』とある。
「庭訓往來」玄恵法印(南北朝時代の天台宗の僧で儒者)の作と伝えるが、疑問。室町前期の往来物で、全一巻。応永年間(一三九四年~一四二八年)頃の成立かとされる。往復書簡の形式を採り、手紙文の模範とするとともに、武士の日常生活に関する諸事実・用語を素材とする初等教科書として編まれた。後、室町・江戸時代に広く流布した(主文は小学館「日本国語大辞典」に拠ったが、少し弄った)。
「龜田郡尻澤邊」平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、『現在地名』は『函館市住吉町(すみよしちょう)・谷地頭町(やちがしらちょう)・青柳町(あおやぎちょう)』とし(グーグル・マップ・データで、ここ)、『箱館市中の南、函館山の東に位置し、東は海に面する。かつては尻沢辺村と称する漁村であったが、のちに箱館市中から人々が物見遊山に訪れるようになり、近世末期には当時尻沢辺村内であった谷地頭に茶屋が建てられ、また新鋳銭所(銭座)が置かれるなど、繁華な地となった。慶応四年(一八六八)閏四月には尻沢辺町として箱館奉行から箱館裁判所に引継がれている(「箱館地方及蝦夷地引渡演説書」犀川会史料)。明治六年(一八七三)の町名町域再整理の際、町域は細分化され、一部は谷地頭町・住吉町・蔭(かげ)町・浦(うら)町・柳(やなぎ)町・赤石(あかいし)町となった。』とある。
「經濟要錄」江戸後期の経済書。十五巻。佐藤信淵(のぶひろ)著。文政一〇(一八二七)年成立、安政六(一八五九)年刊。総論・創業篇・開物篇・富国篇の四篇からなり、産業を興し、国を富ませて、人民を救済することを説いたもの(「デジタル大辞泉」に拠った)。
「小安」現在の函館市子安町。
「侍讀」小学館「日本国語大辞典」に拠れば、『天皇、東宮のそばに仕え、学問を教授する学者。また、その職。通常は博士、尚復(しょうふく)の二人で、七経の進講には明経博士、史書の進講には紀伝博士、群書治要の進講には明経・紀伝の両博士の中から選ばれたものがあたった。後世は侍講という。』とある。]
(二)三石昆布と稱するは、日高國(ひだかのくに)に產するものにて、幅廣きところ、乾品、二、三寸にして、長さ三、四尺より大なるもの、一丈五、六尺に至り、中心に條(でう)あること、細布(ほそめ)の如く、暗綠色にして、其質、元昆布に比すれば、薄く、長昆布に比すれば、厚く、䀋氣(えんき)、少(すくな)く、甘味(かんみ)あり。此品(このしな)、根室地方の如く、遲くまで採收(さいしう)せず。大抵、暑中を過(すぐ)れば、止むものとす。「長崎俵物方調書(ながさきひやうもつからしらべしよ)」及び「琉球古記錄」によれば、享和年間[やぶちゃん注:一八〇一年から一八〇四年まで家斉の治世。]の頃、長崎・琉球等(とう)より、淸國に輸出し、此品(このひん)を最上とせり。元來、三石昆布の名は、日高國三石に產するを以て名くと雖ども、其近隣、浦河(うらかは)、樣似(さまに)、又、同樣のものを產するにより、これを三場所(さんばしよ)と稱す。然(しか)れども、尙(なほ)、其近傍、靜內(しづない)、幌泉(ほろいづみ)の如きも亦、同樣のものを產せり。長切昆布に整束するに、從前の仕方は、長さ、四尺餘にして、一束の量(りやう)、九貫四百目を以て、通常とせしが、方今(はうこん)[やぶちゃん注:「現今」に同じ。]、淸國輸出は、根室製と同樣の長切(ながきり)に作れり。維新前は、此地の產を『本塲(ほんば)』と稱し、『本昆布』と稱したりしも、近世、反(かへ)つて、根室產の方、一旦(いつたん)、上位をしめたり。其原因は採收・乾燥に注意せざりしに、よれり。然(しか)るに、亦、回復に趣(おもむ)くの勢ひあり。
[やぶちゃん注:「長崎俵物方調書」グーグルのAI による概要だが、元にしたものを確認した限りでは、間違っていないと判断したので、引用する。『「長崎俵物方調書」は、江戸時代の長崎で俵詰めにされて出荷されていた海産物(長崎俵物)の品質や取引に関する記録の可能性が高く、具体的な史料としては確認されていませんが、長崎県庁が認定する長崎俵物というブランドの概念として受け継がれています。現代の長崎俵物は、厳しい基準を満たした高品質な水産加工品を指し、当時の長崎俵物の歴史に由来するものです』。『長崎俵物とは』、『江戸時代の長崎俵物』は、十七『世紀末(元禄時代)の長崎港が物流拠点として栄えていた頃、俵に詰めて出荷された海産物を指しました』が、『現代』も『長崎俵物』が使われ、それは『長崎県庁が認定するブランドで、原材料や衛生面など厳しい認定基準を満たした高品質な水産加工品が「長崎俵物」として認定されています』。本来の『「長崎俵物方調書」』は『江戸時代に長崎俵物の品質や取引を管理・記録した文書』類を表わし、『結論として、「長崎俵物方調書」という個別の史料は見当たりませんが、当時の長崎俵物の歴史とその品質を現代に伝える「長崎俵物」という概念が存在しています』とある。
「琉球古記錄」これは、国立国会図書館デジタルコレクションの「農事参考書解題」(一九七〇年国書刊行会刊)のここによって、本書の作者である河原田盛美氏の所蔵するものであることが判った。当該部を起こす。書名は底本では、ポイント上げ。本文の字配は再現していない。
《引用開始》
琉球古記錄 寫本四冊
寬文ヨリ天保頃ニ及ブ琉球藩ノ記錄ニシテ農政物產ノ記錄ニ關スル公文類ヲ列載ス伹原本ノ文辭總テ本邦ノ普通文ナリト雖モ年月ハ淸曆ヲ用ヰ[やぶちゃん注:ママ。]康烈[やぶちゃん注:一六六二年から一七二二年まで。本邦は寛文元・二年で、家綱の治世。]ヨリ乾隆[やぶちゃん注:一七三六年から一七九五年まで。前に雍正がある。]嘉慶[やぶちゃん注:一七九六年から一八二〇年まで。]ヲ經テ道光[やぶちゃん注:一八二一年から一八五〇年まで。寛永三年から文政四年まで。家斉・家慶・家定の治世。]ニ至ル河原田盛美之ヲ藏ス
《引用終了》]
(三)長昆布(ながこんぶ)、一名、本昆布(ほんこんぶ)、又、眞昆布(まこんぶ)と稱するものは、十勝、釧路、千島、根室等の產にして、乾品の幅二、三寸許、長さ、短きもの、二丈より六丈餘に至り、鮮綠色なり。而して、產地により、幾分か、厚薄(こうはく)長短(ちやうたん)ありと雖ども、皆、長切昆布(ながきりこんぶ)に造りて、淸國に輸出せり。此類の昆布を採收するは、近年の創始なれども、淸國輸出品として賞用せらるゝより、本昆布、眞昆布等の名あるに至れり。元來、長昆布は、三石昆布に比すれば、質、薄くして、長きこと、四倍に及べり。從前は、三石昆布を淸國輸出の重(おも)なるものとなしたるも、近年は、長昆布を多しとするに至れり。此中(このうち)、釧路、厚岸、濵中の產を、品位の優等のものとし、北方に至るに隨(したがつ)て、品位、劣(おとれ)り、一塲所(いちばしよ)每(ごと)に、百石、五拾圓づ〻の價(あたひ)を落(おと)せり。根室の志發(しぼち)產は、質、厚くして、鹽氣(えんき)、多く、國後に產するものも、根室に似て、質、厚く、輸出品なれども、品位、下等なり。十勝の產は、尤(もつとも)、近年、輸出するに至りたれども、現今、三、四千石を出(いだ)すに至れり。
[やぶちゃん注:「志發(しぼち)」現在、ロシアに不法占拠されている歯舞群島最大の志発島。なお、「しぼち」の読みは、見当たらないが、私には違和感はない。国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、この読みはないものの、古語の「新たに発心(ほっしん)して仏道に入った者」を「新發意(しんぼち・しぼち)」と呼ぶので、寧ろ親しいからである。されば、敢えてママ注記は附さなかった。
「三、四千石」「千石」は、現在の二百リットルドラム缶換算で、約九百二本。]
(四)水昆布と稱するは、幅、狹く、殆んど、細布(ほそめ)の如しと雖ども、中心に條(でう)なく、根莖、異(ことな)れり。此ものは、其質、薄弱にして、食して、味ひ、淡し。而して、長切に整束して、淸國にも輸出すべしと雖ども、品位、下等にして、廉價なり。故に、上等品の氷害に罹(かヽ)る等(とう)の事ある年は、採收して、利を得るも、豐年には、反(かへつ)て、上等品の價格に影響を及ぼすの憂(うれい[やぶちゃん注:ママ。])あり。鑑(かんが)みざるべけんや。
[やぶちゃん注:「水昆布」【図版2】を見よ。]
(五)黑昆布は、北海道の西海岸に產するものにて、外看(ぐわいかん)、黑色を帶び、質、厚く、乾品、幅三、四寸、長(なが[やぶちゃん注:ママ。])、二、三尺より、四、五尺に至り、天鹽の國の沿海《えんかい》に產するを、天鹽昆布といひ、利尻島(りしまじま)、禮文尻島(れいぶんじりじま)[やぶちゃん注:ママ。]等に產するを利尻昆布といふ。二品共に、煮だしに用ひて、佳味なり。故に俗に「だしこぶ」ともいふ。利尻島に產するものは、近來、淸國天津(テンシン)、芝罘(チーフー)等に輸出することあり。又、大坂にて、下等の細工昆布にも製して、外看(ぐわいかん)は、同じきも、味は元揃に劣れるを以て、價も安直なり。
[やぶちゃん注:「黑昆布」【図版2】を参照。
「禮文尻島(れいぶんじりじま)」「禮文島(れぶんじま)、利尻島(りしりじま)」の誤記と、ルビの誤刻。
「芝罘(チーフー)」現在の山東省の地級市である煙台市(えんたい/イェンタイし)。山東半島東部に位置する港湾都市。当該ウィキによれば、『かつて西洋人にはチーフー(Chefoo)の名で知られたが、これは伝統的に煙台の行政中心であった市の東寄りにある「芝罘」([tʂí fǔ]、日本語読みは「しふう」)という陸繋島に由来する。今日の「煙台」という名は』、『明の洪武帝の治世だった』洪武三一(一三九八)年『に初出する。この年、倭寇対策のために奇山北麓に城が築かれ、その北の山に倭寇襲撃時に警報の狼煙を上げる塔が建設された。これが簡単に「煙台」とよばれるようになった』とある。]
(六)細布(ほそめ)は、一《いつ》に盆布と稱す。形(かた)ち、三石昆布に似て、小さく、長さ、四、五尺より、七、八尺に至り、幅、一、二寸より廣きは、三寸許(ばかり)にして、中心に、條(でう)、あり。此ものは、三陸、及び、北海道各地に產すれども、陸前牡鹿郡(をじかこほり)大須濵(おほすはま)より、名振、船越、熊澤、桑濵等に產するを、皆、大須盆布(おほすぼめ)といひ、宮城郡(みやぎこほり)花淵(はなぶち)に產するを、花淵盆布、又、花淵昆布ともいふ。品位、大須產より、劣れり。岩代(いはしろ)、陸前等の習慣にて、中元、之を佛前に供し、又、必ず、煮物に加へる等、其需用、少(すくな)からず。故に盆布の名あり。然れども、煮食(しやしよく)には、美(び)と稱するに足らず、中元の後(のち)、人、之れを食する少なきを以て、多く、東京に輸送して、刻昆布(きざみこんぶ)と、なせり。此品の上等品は、長切の如(ごとく)にして、淸國へ輸出すること、あり。其質、薄くして、乾きよければ、將來、淸國の需用に適すべし。陸奧(りくをく)にては、「めのこ昆布」と稱し、地方人民の食川に供するあり。其仕法(しほふ[やぶちゃん注:ママ。])たる、雨露(あめつゆ)に晒して後(の)ち、大陽に乾かし、春、碎(さい)し、米粒位《ぐらゐ》の大(おほき)さとなし、貯(たくは)ふ。之を食するには、水に浸し、米に加へ、炊きて、食せり。此仕方は、米穀に乏しき時の食物として、謂以(いはゆる)、救荒の一《ひとつ》なれども、平日とても、これを用ふといふ。
[やぶちゃん注:以上については、【図版9】の『■「細布」』で、引用を含め、ガッツりと注をしてある。]
(七)猫足昆布は、一名「みヽこんぶ」、又、「すこたんこんぶ」と稱す。其(その)根部(ねぶ)の兩端、挺出(ていしゆつ)[やぶちゃん注:特異的に抜き出ていること。]し、耳狀(みゝのかたち)をなす故(ゆゑ)に、此稱、あり。其乾品の幅、一寸許、長(なが[やぶちゃん注:ママ。])三、五尺ありて、全く、昆布中一種のものなり。根室、釧路等の海に產し、就中(なかんづく)、千島に、多し。此ものは、砂上(しやじやう)にて、乾(かわは[やぶちゃん注:ママ。])す時は、黑色となりて、あし〻。故に、必ず、吊乾(つりぼし)となす。煮だしに用(もちい[やぶちゃん注:ママ。])て、佳味(かみ)なり。又、長切の如く、整束すれば、淸國人も、之を求む、といふ。然(しか)れども、もとより、夥しく產するに非ず。又、形、小なるを以て、長昆布に比すれば、到底、收益あるものとは思はれざるなり。
[やぶちゃん注:「図版1」及び「図版10」を参照されたい。]
(八)粘液昆布(とろヽこんぶ)、一名、縮昆布(ちゞみこんぶ)、又、尾札部(をさつべ)邊(へん)にて、「がもめ昆布」といふは、粘液(ねんえき)を、多く含むところの、一種の昆布にして、乾品、幅一、二寸、長六、七尺、濃綠色にして殆ど黑色をなす。中央に條ありて、左右に、縮皺(しヾみしわ[やぶちゃん注:ママ。])多く、東海岸に產すれども、根室、釧路に最も多く、此品は、海水に洗ひ、砂のつかぬ樣に乾し貯(たくわ[やぶちゃん注:ママ。])ふ。從來、これを長切の中心に入れしことあれども、其質、異(こと)なるを以て、反(かへつ)て聲價(せいか)[やぶちゃん注:世間の評判。]を落せしこと、あり。此昆布は味(あじわ[やぶちゃん注:ママ。])ひ佳(か)ならざるを以て、た〻[やぶちゃん注:ママ。]粘液(とろヽ)を製するに用ふ。三打(みつうち)となして貯ふれば、長く保つといふ。此外に、尙、一種の粘液昆布あり。其葉(そのはの[やぶちゃん注:ママ。])面(めん)、濶(ひろ)くして、短く、中心の筋(すぢ)の左右に、小(ちいさ)き小凹所(しやうぼくしよ)、連(つらな)るのみ。
[やぶちゃん注:複数回、既出既注。]
(九)ほつか昆布は、淡綠色にして、質、至(いたつ)て薄く、裙帶菜(わかめ)の如く、長(ながさ)、五尺三、四寸、幅、𤄃(ひろ)きところ、七、八寸餘(よ)、根部(ねぶ)にちかきところ、壹尺許(ばかり)、幅、二寸許にして、漸次に濶く、七寸許に至れり。此ものは、昆布の產する所には、多少、產すれども、陸中牡鹿郡飯子濵(いひこはま)等(とう)に產し、今を去る十六、七年前より、採收し、明治十三年は、無比(むひ)の產出ありて、販賣するもの、二百五十石目の多きに至れり。爾來、年々、三、四十石の產あり。金華山(きんくわざん)、及び、長戶濱、瀨戶にも產すれども、採收すること、少(すくな)く、怒濤の爲めに、海濱に打揚(うちあげ)たるを採るのみ。此他(このた)、抦長昆布(えながこんぶ)、「かつから昆布」、一名、枝昆布(えだこんぶ)等(とう)をはじめとし、尙、異(こと)なる種類もありと雖ども、未だ、硏究し能はざるを以て、玆(こゝ)に載せず。
[やぶちゃん注:「ほつか昆布」いろいろの文献を複数確認して再考証したが、結論を先に言うと、これは、マコンブである。但し、河原田氏は、書き振りから、マコンブではないと考えているようにしか、見えないのが、まことに悩ましいのである。決定的な記載は、国立国会図書館デジタルコレクションで「ほつか昆布」で検索した(因みに、ネット検索では、この語は掛かってこない)数冊の中の、昭和一〇(一九三五)年刊の、函館師範学校敎諭であった白山友正氏の編した、ガリ版刷の「北海道水產讀本」(北海道経済史研究所発行)の「第八章 昆布」のここで、旧学名を掲げて、かく、書かれてあることで、間違いない(この白山氏は、ネット上の『漁業経済 学会短信』(1963.7発行第一号・PDF)を確認したところ、著作権存続であることが確認されたので、転載される場合は、注意されたい。なお、旧学名の命名者が斜体となっているのは、ママ。また、命名者は略(正しくは、Areschoug (1851))なので、本来は、コンマが必要である)。白山氏は、明らかに専門家である。
《引用開始》
⑴真昆布 Laminaria japonica Aresch 葉は革質柔靱で線状披針形をなし、「ひろめ」「はヾびろこんぶ」の称があり、基部は稍円く通常不等辺形をなし根糸は茎の周圍に輪生或は縱列する。全長六、七尺乃至廿四、五尺で十尺内外を普通とし、中七、八寸乃至一尺一、二寸に達する。地勢湾入せる寒暖末流の混淆する処に生じ、四、五尋乃至七、八尋の浅処に生ずるを普通とするが、治世により三、四十尋の深処にも生ずる。鈎卸は七月廿日で十月下旬に及ぶが最盛期は七月下旬八月上旬である。その間好天の日のみ旗の合図で採收する。採收器は「ねぢり」・「まつか」、及び「ひきかぎ」を用ふ。
えびすめ(古名)ひろめ(古名)宇賀昆布。みんまや昆布・志苔昆布(尻沢部)・おき昆布・うち昆布はヾひろ昆布(室蘭)・もと昆布(陸前)・ほつか昆布(陸前)とも云ふ。
《引用終了》
但し、そこで、「陸前」と出ることに注意が必要で(河原田氏の以上の「ほつか昆布」の記載にも出現するのである)、前にも問題にしたが、現行では、「陸前」は、そのギリギリ北方外で、マコンブの植生域は、切れていることである。しかし、既に「(その2)」の注等で述べたように――以前は、マコンブの太平洋岸の植生域が、もう少し、陸前中部まで広がっていた――と私は考えるものである。事実、調べた昭和以前の複数の水産書の中に――陸前で、マコンブが、漁業として成り立つ程度に漁獲されていた記載が確認出来る――のである。
「陸中牡鹿郡飯子濵(いひこはま)」陸前である、現在の宮城県牡鹿郡女川町(おながわちょう)飯子浜(いいごはま)。
「長戶濱」これが、まあ、不詳なのだ! 国立国会図書館デジタルコレクションで検索すると、他の書籍に、昆布記載以下の「瀨戶」とともに出るのだが? 識者の御教授を乞うものである。
「瀨戶」宮城県のこの海峡である大島瀬戸。陸前である。
『抦長昆布(えながこんぶ)、「がつから昆布」、一名、枝昆布(えだこんぶ)』さんざん注したガッガラコンブ Saccharina coriacea である。]
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