河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その11)~図版・注・分離公開(そのⅡ)
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここの右ページ。なお、本図版に就いては、(その10)の冒頭注記を、必ず、見られたい。]
[やぶちゃん注:左ページ。順序は、基本、上段から下段とするものの、一部、上段で、横に三つのセットなっていると思われる箇所では、それに従った。]
「其 ニ」[やぶちゃん注:上罫外の標題。]
■「わらこ串ニ貫キタルモノ」 「二分ノ一。」
[やぶちゃん注:「わらこ串」「わらこ」は「わらっこ」で、小さなものを示す接尾語。藁の短いものを、串としたもの。頭部の口の左右にストロー状のそれが見える。実際には、長い頑丈な藁で、何匹かを、この部位に突き刺して、燻煙、或いは、乾かすのであろう。作業が終わった後、一匹ずつに切り分けるものと思われる。]
■「藤海鼠(ふじこ[やぶちゃん注:ママ。「ふぢこ」が正しい。本文「(その6)」でも、総て、間違っている。])」
「『フヂ』ニ通ジタル名。」 「二分ノ一。」
[やぶちゃん注:今回、これには、実は、河原田氏が気づいていない、重層した意味があるように思われるように、初めて、感じた。「(その6)」では、本図のように、「藤蔓で縛って乾す」という謂いで、この名を与えていることは、主な由来ではあり、それで私は納得してしまっていたのだが、この藤蔓を通した煎海鼠にしたものを、じっと見つめているうちに――別な「藤」――が想起されたのである。
所謂、「藤瘤」(ふじこぶ)である。藤には、蔓や幹に、ゴツゴツした瘤のように丸く脹れた部分があるものを見たことがある。
これは、フジ(マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda )が発症する「フジ瘤病」という疾患で、原因菌は、
真正細菌ドメインのプロテオバクテリア門 Proteobacteria γプロテオバクテリア綱 Gammaproteobacteria エンテロバクター目 Enterobacterales 腸内細菌科 Enterobacteriaceae エルウィニア属 Erwinia 種病変種 Erwinia herbicola pv. milletiae
である。その画像は、学名のグーグル画像検索で頭に出る四葉の写真を見られたいが、ご覧の通り、
★その瘤状の塊りは、恰も、この「藤海鼠」に、非常に似ている
ように私には見えるのである。
則ち、河原田氏は全く気づいていないが、
★製品を作る漁師たちは、乾して委縮してゴツゴツと小さな瘤が固まったように見える藤蔓にぶら下がった「藤海鼠」を、藤の木に、たまさか、生じる「藤瘤」に擬えて、「藤海鼠」と呼んだ
のではないか? と、私は思うのである。
★そして、さらに私は、この「藤海鼠」は高い確率で、
シカクナマコ科 マナマコ属マナマコ Apostichopus armata の「アオ」型
ではないか? と考えるのである。而して、
★「アオ型」は一般に暗青緑色を呈している
から、
★生体のそれは、まさに――藤色――と擬えることが出来る
と断言出来る。私の長年のナマコ観察では、味は、既に述べた通り、「アカ」型に軍配を挙げるものの、見た目の美しさは、はっきり言うと、「藤色」のナマコをこそ、愛するのである。
則ち、ここには、
★「藤」――「藤蔓」――「藤瘤」――「青ナマコ」というハイブリッド
の関係が成り立つと考えるものである。
なお、「フジコ」はナマコ綱樹手亜綱樹手目キンコ(金古・金海鼠)科キンコ属Orange-footed sea cucumber(英名・和名なし)亜種 Cucumaria frondosa japonica の異名としても知られているが、この図の製品形状は、キンコのそれではない。キンコは通常のナマコとは異なり、生体は、概ね、野菜のナス(茄子)に似た、ずんぐりとした形を成し、干しても、このような普通のマナマコの煎海鼠とそっくりなスマートな形状には、ならない。私は、盛岡でボイルしたキンコを見たが、掌に載る、「小型手榴弾」のようなものであった。既に図版1の右最下段に示された通り、普通、製品でも、開口直下頭部で、一度、くびれて狭くなり、後半部が膨らんだ形になるのである(最終図Ⅶにも「きんこ」として出る)。
さらに、流通では、現在でも、面倒なことに、
主流であるマナマコやクロナマコの乾燥品の良品を「キンコ」「金ん子」等と言う
のである。嘘だと思うなら、御自分でネットを調べて見られよ。
最後に、さらに付け加えると、実は、
フジナマコ=「藤海鼠」という種は、別に存在する
のである。
クロナマコ科クロナマコ属フジナマコ亜属 Holothuria ( Thymiosycia ) decorata フジナマコ
である。既に示した本川逹雄先生の「ナマコガイドブック」から引用する。
《引用開始》
フジナマコ[クロナマコ科Holothuriide]
Holothuria ( Thymiosycia )decorata von Marenzeller, 1882
体長10~50cm。体は堅く、やや平らな円筒形で、腹はより平らである。体色は全体に褐色で、管足と疣足はより濃いが、外側の大きな疣足は淡い。触手は20本。管足は腹面全体に、小さな疣足は背面全体に分布する。大きな疣足は、背面と腹側面の歩帯に沿う。三浦三崎、小湊、白浜、淡路島、壱岐島、豊後、高知。水深0~200m。浅海では磯帯に生息する。現在のところ日本固有種である。学名については、【解説】を参照のこと。和名は、その体表の色合いが、藤の木の樹皮に似ていることから名つけられた。
《引用終了》
同ページ(121)の下に、以上の解説コラムがある。それも引く。
《引用開始》
解説 フジナマコの学名に関して
和名フジナマコには最初、H. decorata von Marenzeller、1882の学名があてられていた。箕作佳吉(1912)は、H. decorataとH. monacaria(Lesson、1830)の骨片の違いは成長にともなう変化であるとして、H. decorataを H. monacariaのシノニムとした。だが、A.M.Clark& F. W. E. Rowe(1969)は、H. monacariaの記載が不十分であるとして、学名を H. hilla Lesson, 1830に変更した。そして、最近の図鑑類では、フジナマコの和名はH.hillaに対して用いられている。ところが、図鑑にフジナマコとして載せられている写真のほとんどは、じつは H. (Thymiosycia) hilla ではなく、H.(Lessonothuria) pardalis Selenka、1867である。このように、フジナマコの学名と写真は誤って用いられていた。フジナマコの学名がH.(T.)decoralaに復旧されたのは1991年のことである(lmaoka,1991)。本書はこれに従う。また、H.(L.)Dardalisの和名は
イソナマコ(≫p.119)[やぶちゃん注:これは、引用書のページ注・後も同じ。]で、一方、H.(T.)hilla の和名はリュウキュウフジナマコ(≫p.120)である。
《引用終了》
最後の、この学名の問題は、所持する西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」(平成七(一九九五)年保育社刊)の「クロナマコ科」の解説内に、同一の内容があるのを確認した。
而して、「じゃあ、この「ふじこ」というのは、そのフジナマコじゃないの?」と突っ込む方がいるだろうが、それは――ない――のである。何故か? このフジナマコは調べた限りでは――食用にはならない種だから――である。リッチャン (id:ama-diary) さん(プロフィールに『名古屋でOLをしていたのに、気付いたら鳥羽市で海女をしているリッチャンです。特技は英語とイラスト、好きな物は猫とサチバア』。『海女修行、漁師の嫁ライフ、ゲストハウスオーナーの日々をブログにつづっております。』とある第一次漁業者である! しかも! 私が偏愛する1954「ゴジラ」のロケ地である「石鏡」(いじか)の海女さんなのだ! 恐れ入ったかッツ!)のブログ「海女日記 < 新米海女リッチャン >」のズバり、「フジナマコ」の記事に(行換えがあるが、総て繋げた)、
《引用開始》
石鏡ではアカナマコ(マナマコ)しか水揚げしないので、アオやクロを見つけても自分たちで食べるだけです。ただ、やたらいるくせに食べられないフジナマコというヤツ! 白っぽいナマコでデカくて長くて、でも硬すぎて食べられないナマコなんです。石鏡では通称『カケカケ』と呼ばれています。食べる人もいると、[やぶちゃん注:読点は私が打った。]あるばーちゃんは言っていましたが、本当かな。どうなんだろう?
《引用終了》
とあるんだ! 恐れ入ったかッツ!?! それでも、疑る方のために、別に、男性のブログ主の「能登のさかな」の「フジナマコは食べられるのか?」を引用しよう!
《引用開始》
フジナマコは、本州中部以南の低潮線付近に生息するクロナマコ科の一種で、体長20cmほどに成長します(中には体長50cmを超える大物もいるそうです)。
七尾湾を漁場とする漁師さんにとっては、マナマコは冬場の貴重な収入源ですが、フジナマコは市場に出荷されていません。
[やぶちゃん注:ここにフジナマコの写真有り。]
写真ではわかりませんが、さわると固くざらざらしています。食べたことはありませんが、じゃりじゃりしてそうです。漁獲対象となっていないので味は推して知るべしでしょう。
七尾湾の砂泥底にはマナマコが生息していますが、礫まじりのところではフジナマコの方が多いように思います。
ところがネットで検索すると、青森県ではゆでて食べるとあります。こんなのが食べられるのか?と思い、さらに検索すると標準和名キンコというナマコを青森県ではふじなまこと呼ぶそうです。
まぎらわしい話ですよね。標準和名と地方名がごっちゃになると話が通じなくなります。
と言うことで、残念ながらフジナマコは食べられるのか?はわかりません。恐い物見たさで一度食べてみたいのですが、漁師さんにお願いするしかなさそうです。
《引用終了》
これで、猜疑者は退場である! なお、たまたま、同じブログ「能登のさかな」の「きんこ・いりこ・干しなまこ」のページに、「きんこ」をキンコでなく使用している例や、現代の中国輸出ナマコの様子も記されてあったので、そこも引いておく。『きんこと呼ばれる高級加工品もあるんです。ご存知ですか?』『きんことは干しなまこのことです。但し、北海道や東北地方ではキンコという標準和名を持つなまこが市場流通してるのでややこしいんです』。『干しなまこをいりこと呼ぶ方が全国的には一般的のようですが、小さな雑魚を炒って干した物も炒子(いりこ)と呼ぶので、こちらも同様にややこしいんです』。『きんこの材料は マナマコ(青なまこ・黒なまこ)とオキナマコです。マナマコでも赤なまこは使われていません』。『赤なまこできんこを作ろうとしたことがありますが、皮の部分がごわごわになり、うまくできませんでした。このあたりが課題なのかもしれませんね』。『15年ほど前に作業中の方にお話を聞いたところ、同じきんこでも青なまこのものは一級品で中国へ輸出するが、黒なまこは二級品で台湾へ、おきなまこは三級品で韓国へ行くとのことでした』。『いずれにしても、殆どが中華料理の高級食材として利用されているようです。このため、私たちが普段目にすることがないわけです』。『中国ではなまこは健康に良いと信じられており、特にいぼいぼの大きい方が効果が高いと信じられているそうです』。『同じマナマコでも北海道産はいぼいぼが大きく、日本産の中でもブランド品となっています』。『そのことを知らなかった頃、北海道産のマナマコが能登産に比べて3倍以上の高値だったことが信じられませんでした』。『関係者に聞き取りして初めてそのことを知り納得した次第です』とあった。
■「神奈川縣武藏國橘柯郡産」
[やぶちゃん注:この「橘柯郡」は「橘樹郡《たちばなのこほり》」の誤り。ウィキの「橘樹郡」(たちばなぐん)によれば、明治一一(一八七八)年十一月に「郡区町村編制法」の『神奈川県での施行により、行政区画としての橘樹郡が発足。郡役所が神奈川町(現神奈川区神奈川本町)に置かれ』たとし、当時の郡域は、現在の『横浜市』では、『鶴見区、神奈川区の全域』、『西区の一部(同年に設置された横浜区に属した区域』『を除く)』、『保土ケ谷区の一部(上星川、川島町以北および今井町を除く)』、『港北区の一部(新羽町、北新横浜、新吉田東、高田東、高田町以西を除く)』で、『川崎市』では、『川崎区、幸区、中原区、高津区、宮前区、多摩区の全域』と『麻生区の一部(金程、高石、百合丘、東百合丘以東)』とあり、最終的には昭和一三(一九三八)年十月に完全消滅している。リンク先の地図で確認されたいが、当時、海浜に接し、ナマコ(当時のここなら、マナマコであろう)を採取出来たとすると、現在の川崎市及び横浜市鶴見区に限られると思われる。「ひなたGIS」(戦前の地図有り)もリンクさせておく。]
■「ふじこ[やぶちゃん注:ママ。]」
[やぶちゃん注:前の注に同じ。]
■「春時海參」 「第一」
「岩手縣」
[やぶちゃん注:「春時海參」これは、思うに、「海參」から、清輸出向けの製品名ではないかと思われる。本邦では、ナマコを呼称するのに、「海參」を用いるのは、中国の本草書の影響下にあった江戸時代の本草書由来の表記であり、一般人が日用的に用いる漢字表記ではないからである。さすれば、これは、「はるどきなまこ」とは読まず、「しゆんじかいさん」と読むのが正解であろうと私は思う。但し、完全な当時の中国語ではなく、中国人には意味が判るところの和製中国語であると思われる。この製品名で検索すると、圧倒的に中文サイトがずらずらと並ぶものの、完全一致するものは挙がってこず、「春捕」の表現が現代中国語では圧倒的であるからである。
「第一」製品の最上等の意。しかし、ここで非常に興味深いのは、この図である。これは、二個体が描かれているのではない。体部中央で、枝分かれしたように、右手にやや小さな頭部が伸びているのである。御存知の方も多いと思うが、ナマコ類は、外敵に襲われて、体部の一部が損壊し、例えば、頭部が引き裂かれた場合(この個体がそれである)、極めて驚くべき短時間で再生する。完全に分断された場合では、二個体として別々に再生することが出来る能力を持っているのである。例えば、中央部で切断実験した場合、実に僅か二十五分で二個体の切断面が閉じられるのである!!! この製品は、その再生した双頭(であろう。後部肛門部が割かれても、同様に再生するが、当然、そうした能力を知っていたに違いない河原田氏が、かく、上下を逆様に描いたとは私には思われないのである)の個体を煎海鼠の製したものと断定出来るのである(次の図版にも、後部が逆Y字型に分離した製品が載る)。さらに驚くのは、この奇体な双頭の生体を煎海鼠に製したものが、「第一」級の製品として評価されて、中国では売られていた(恐らく、現在もそうかも知れない)ことである(但し、現代の日本では、珍奇なものとして話題になっても、好んで最高級品として売っているとは、思われない。少なくとも日本の消費者は気味悪がるはずであるからである。私は生体でも、是非、食べてみたいとは思うが。それは、その個体が極めて正常な再生能力を持っている証しであり、当然、旨いと推定するからである)。少なくとも、清代の中国の国民は、これを異常な奇形ととらず、自然が送って呉れた目出度い縁起物として、重宝、或いは、特異な薬効能力を保持した稀な天恵品と考えたに違いない。中国の歴史的民俗社会を考える時、それは極く自然に納得出来るのである。なお、是非、お薦めの本がある。以上の再生時間もそこにある。医学部附属病院臨床研究ガバナンス部助教一橋(いちはし)和義氏の「ナマコは平気! 目・耳・脳がなくてもね!」(二〇二三さくら舎刊)である。内容は最新のナマコ学に基づくものであるが、小学生でも読める興味を持つに違いない形式・文体で書かれたものである。私が、野人となって買った書物の中で、極めて面白い本として、教え子の子や寿司屋のあんちゃんにも薦めた本である。なお、本種は、やはり、マナマコであろうと思う。
※ここでは、明らかに近似した製品名が左横に、二種、あるので、そこは、その順列に変えた。]
■「春時海參」
「第二。」
「宮城郡《みやぎのこほり》。」
[やぶちゃん注:非常に小さい。キンコは分布の南限に近い金華山より、少し南に下がるが、形があまりに小さいので、キンコの幼体の煎海鼠ともとれなくもないが、横並びの前後の「○時海鼠」の図は、孰れもマナマコであると比定したので、これも、マナマコと採る。そもそも、次の「秋時海參」も、しっかりマナマコ型で、産地を同じ「宮城郡」とするのだから。]
■「秋時海參」 「宮城郡」
[やぶちゃん注:前注を見よ。]
■「三重縣伊勢國《いせのくに》
度會郡《わたらひのこほり》
土路西條村《どろにしでうむら》」
「一個量、七匁五分ヨリ、八匁五分迠《まで》。
內國博覧會、出品。」
「『白海参《しろなまこ》』。
一《いつ》に、
『ふぢこ』といふ。」
[やぶちゃん注:二行目上から二番目に戻る。
「三重縣伊勢國度會郡土路西條村」現在の伊勢市東豊浜(ひがしとよはま)町。ここ。平凡社「日本歴史地名大系」の「土路西条村」(どろにしじょうむら)に拠れば、『樫原(かしわら)村とともに宮川左岸の河口にあり、土路は最も川下にあって宮川の分流に囲まれたデルタにある。本来は土路と西条からなり』、『慶安郷帳(明大刑博蔵)では「土路・西条両村」とある。高合せて二七二石余のうち』、『畑方が二四〇石余。近世を通じて山田奉行』(やまだぶぎょう)『支配の幕府直轄領であった。』とある。「山田奉行」とは、当該ウィキによれば、『江戸期の読みは「ようだぶぎょう」』とあり、『江戸幕府の役職の一つ。伊勢神宮の守護・造営修理と祭礼、遷宮、門前町の支配、伊勢・志摩における訴訟、鳥羽港の警備・船舶点検などを担当した』。『遠国奉行の』一『つで』、『老中支配。定員は』一、二『名、元禄』九(一六九六)年『には』二『名となり、江戸と現地で交代勤務とな』ったとある。ウィキの「山田(伊勢市)」によれば、『古くは「ようだ」「やうだ」などと発音した』とあるが、理由は書かれていない。しかし、伊勢神宮は、『律令国家体制における神祇体系のうちで最高位を占め』(当該ウィキに拠る)ていた、最高の神社であり続けた対象であったから、その立地する「山田」という地名を、一般の「やまだ」の読みを変えた神聖表現であろう。
「七匁五分ヨリ、八匁五分迠」約三十八・四~四十三グラム。
「內國博覧會」これは、明治一〇(一八七七)年八月に上野公園地で行われた「第一回內國勸業博覽會」のこと。詳しくは、ウィキの「内国勧業博覧会」を見られたい。
「『白海参《しろなまこ》』。一《いつ》に、『ふぢこ』といふ。」「ぢ」は濁点部は点が一つしか視認出来ないが、かく、した。「白海参」は後の「ふぢこ」の呼称の並置から、現地での呼称別名に河原田氏が漢字を当てたものと断じ、音読みではなく、かく訓読みとした。さて。この「白海参」であるが、結論を言うと、これは形状から、
百%、マナマコの白化個体=アルビノ(albino)であると断定出来るから
である。それは、
◎形状が、今までの、この図版で私がマナマコと種同定(推定も含む)した製品画像と比べ、体色が白い以外に、差別化し得る部位・部分や、特異形態が全く認められない。
という点だけで、十分である。
マナマコのアルビノについては、私自身、かなり以前に、たまたま、どこかの水族館で偶然に見たことがあり、ニュース画像でも、何度か視聴している。見たことがない読者が多いと思うので、
YouTubeの「小豆島の漁師はまゆう」氏の「幻の白ナマコとは⁉」
という動画を見られたい。一目瞭然である。マナマコのアルビノであることの解説や、漁師の間の言い伝えもあり、採取から、生体の捌き・調理・食レポまでを、総て、見ることが出来る。その話の中で、『「白なまこ」は十万個に一つ確率で生まれる』と言っておられるのは、生物学的にも正確な事実である。
最後に言っておくと、和名「シロナマコ」は実在する。
ナマコ綱隠足目 Molpadida カウディナ科 Caudinidae シロナマコ属シロナマコ Paracaudina chilensis
であるが、これは、それではない。小学館「日本国語大辞典」(初版)の『しろ‐なまこ【白海鼠】』に、『イモナマコ科の棘皮(きょくひ)動物。』(ママ。現在の分類では、上記のカウディナ科であり、科変更が行われた記載は、所持する学術書には記載がないので、これは誤りである)『北海道南部から東北地方、佐渡島の潮間帯付近の砂泥にすむ。体長約一〇センチメートル。紡錘形で、後方に細長い尾が伸びる。体表はなめらかで淡桃色を帯びた半透明の白濁色。砂泥上に高さ五センチメートルほどの小丘をつくって、その中央から肛門を上にして斜めにもぐってすむ。食用にはならない』(☜★:下線は私が附した)と明記されているので、煎海鼠にされていたはずが、ない、のである。先の本川先生の「ナマコガイドブック」から引くと、『シロナマコ[カウディナ科Coudinidoe]』[やぶちゃん注:ラテン科名は誤植であろう。]『Paracaudina chilensis (J. Maller、 1850)』とし、『全長25cmに達する。体前半部は紡錘形で、後半部は細くなりながら尾のように長く伸びる。肛門は尾状部先端に開く。紡錘部と尾状部の長さはほぼ等しい。体色は淡いピンクで、体壁には横じわがある。触手は非常に小さく、15本で、それぞれ2対の小指を備える。函館、浅虫、佐渡真野湾および中国に分布。浅海の砂底に高さ5~10cmの小丘をつくり、肛門をそこに出す。排出腔中にシロナマコガニ』(甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目短尾下目カクレガニ上科カクレガニ科マメガニ亜科マメガニ属シロナマコガニ Pinnixa tumida )『がみいだされることもある。』とあり、また、「新潟大学佐渡自然共生科学センター臨海実験所」公式サイト内の「佐渡の海洋生物図鑑」の「シロナマコ」には、『砂地に生息するやや大型のナマコで普段は砂に潜って生活しています。体の後方が細くなっており、多くのナマコで見られる管足や疣足が無いのが特徴です。』(写真有り。下線太字は私が附した)とある。]
■「山口縣能毛郡」
[やぶちゃん注:「能毛郡」は瀬戸内海に面した「熊毛郡」の誤記である。当該ウィキによれば、現在の郡域は、『上関町(かみのせきちょう)』・『田布施町(たぶせちょう)』・『平生町(ひらおちょう)』で、明治一二(一八七九)年『に行政区画として発足した当時の郡域は、上記』三『町のほか』、『光市の全域』・『周南市の一部(八代より南東)』・『柳井市の一部(伊保庄・旭ケ丘・阿月)』であったとある。以上の市としての離脱は、昭和一八(一九四三)年以降であるから、同ウィキの地図の全カラー彩色地域全域となる。
さて。この煎海鼠の図は、今までのものとは、見た目が大きく異なっている。思うに、これは、熬海鼠に製した際、背部と腹部を人工的に二、三回、捩じって、その形のままに乾しあげた個体のように見受けられる。マナマコとも見えなくもないが、或いは、産地から、クロナマコの可能性もある。但し、幾つかの同地区のナマコ関連の記載を見たところ、熊毛郡の「ふるさと納税」のページに周防大島産の名品として、『天然活赤なまこ』とあり、これは、生体画像も見たが、もろに立派なマナマコの「アカ型」であった。]
■「山口縣水嵜村」
[やぶちゃん注:「山口縣水嵜村」は存在しない(「嵜」は「崎」の異体字)。AIが似た名前として、山口県長門市仙崎(せんざき)を示した。ここである。当該ウィキによれば、『仙崎(せんざき)は山口県長門市の一地域で旧大津郡仙崎町(せんざきちょう)一帯を指す。仙崎の地域は日本海に面した青海島と本土の両側にまたがるが、本土側は青海島との間の砂嘴により成り立つ地域であり、極めて平坦な地形となっている。日本海側屈指の漁港として、また蒲鉾の産地としても知られ、戦後の引き揚げ港としても知られる存在である』。『本項では』、『大津郡仙崎町、同町の町制前の名称である仙崎村(せんざきそん)』(☜)『についても述べる』とあった。『仙崎漁港は山口県内では下関漁港に次ぐ県内第二位の水揚げ高を誇る大規模な漁港となっている。イカ・アジなどの近海物の魚介類やウニ・アワビなどを主に取り扱い、関西・九州方面に出荷される。特にケンサキイカについては近年『仙崎イカ』のブランド名が名付けられ、流通価値が高まりつつある。また、近海の白身魚(エソなど)を用いた蒲鉾は仙崎の名産となっている』とあり、ナマコも採れそうだ。マナマコでよかろう。]
■「第二內國博覧會出品」
「志摩神名浦村産」
「一個十二匁。
一斤ニ付《つき》、數《かず》、百六。」
[やぶちゃん注:三行目上から二番目に戻る。
「第二內國博覧會」は、本書刊行の五年前の明治一四(一八八一)年に開かれた正確には「第二回內國勸業博覽会」を指す。国立国会図書館公式サイト内の「博覧会 近代技術の展示場」の「第2回内国勧業博覧会 不況下でも大盛況」に拠れば、『第2回の内国勧業博覧会は、西南戦争の戦費捻出を契機とするインフレーション、幕末開港以来の貿易不均衡による正貨流出等による不況下で開かれた博覧会であったが、出品数は第1回の4倍にも増え、入場者数等ほとんどの分野で第1回の内国勧業博覧会の規模を凌ぐ結果となった。また、第1回の所管は内務省であったが、第2回ではさらに大蔵省も加わり、政府としても勧業博覧会に一層注力していることが伺える』。『会場約14万3,000平方メートルに、本館ほか6館の陳列館が建設された。上野の山の花見客を期待して3月に開会したことが功を奏したのか、会期中の入場者は82万人で、一日平均6,740人と、第1回の倍近くの人を集め大盛況だった。また、明治天皇も皇后と行幸し、熱心に観覧した』。『第1回に続き』、『第2回の内国勧業博覧会においても指導者的役割を果たしたお雇い外国人ワグネル(G. Wagener)は、日本政府への報告書の中で日本産業の現状分析と将来への提言を行い、例えば』、『日本農業を外国の資本や技術等を導入して発展させるべきだと述べているが、これは農商務省でお雇い外国人を廃止するなどしていた日本政府への抵抗であり、外国人技術者依存からの自立を目指していた当時の日本の政策との対照が浮き彫りとなっている』。『なお、第1回では出品物を府県別に陳列したが、第2回では出品者相互の競争心を煽ることを目的として種別に陳列した。また、第1回以後の改良発展を期待し、前回と同様のものの出品を禁じた。』とある。因みに、ワグネルとは、ゴットフリード・ワグネル(Gottfried Wagener 一八三一年~一八九二年)というドイツ出身のお雇い外国人で、当該ウィキによれば、『ドイツ語での発音はゴトフリート・ヴァーゲナー』であり、『事業参加のため』、『来日し、その後』、『政府に雇われた珍しい経緯を持つ。京都府立医学校(現・京都府立医科大学)、東京大学教師、および東京職工学校(現・東京工業大学)教授。また、陶磁器やガラスなどの製造を指導した。ヘンリー・ダイアーらと同時期に明治時代の日本で工学教育で大きな功績を残し、墓碑や記念碑が後年まで管理され残っている』という人物である。詳しい経緯はリンク先を見られたい。
「志摩神名浦村産」この村名は「神明浦村(しめのうらむら)」の誤りであり、現在の英虞湾湾奥の三重県志摩市阿児町神明(あごちょうしんめい)である。ここ。なお、「ひなたGIS」の戦前の地図で「神明村」の名を確認出来る。「浦」は入っていないが、漁民や出品者が、そう呼び、そう記したとしても、何ら、違和感はない。
「一個十二匁」四十二グラム。
「一斤」六百グラム。
形状から、マナマコであろう。なお、この図には、背面中央に綺麗な楕円形の、同じく後部背面に小さいが、完全な丸い穴が開けられているのが判る。これは、傷による欠損ではなく(であれば、博覧会に出すはずがない)、思うに、「海鼠腸(このわた)」或いは「撥子(ばちこ)」(特に楕円形の部分がそれらしい。製品名で、ナマコの卵巣で、絶品である。因みに、ナマコの♀♂は外見からでは判らないし、繁殖期に精巣・卵巣が成長しないと、解剖しても判らない)を製品とするために、抜き取った時の痕と私は推定する。]
■「フジコ[やぶちゃん注:ママ。]」 「即」
「九州産」
「白海參也。
三分ノ一。」
[やぶちゃん注:「即」ここにあるのは、不審。但し、東洋文庫版で後半に表で活字化したキャプション一覧では、「説明」の欄で、『即白海参也』とあって、標題下の「即」を離れたキャプションに結合している。腑に落ちる。読みは、「すなはち、『しろなまこ』なり」となろう。而して、これは、マナマコの発色の薄い個体(着色から、アルビノとは、到底、思えない)であろう。しかし、生体は、かなり年を経た大物では、ある。]
■「山口縣伊上村《いがみむら》産」
[やぶちゃん注:現在の油谷湾の湾奥の南部の沿岸の山口県長門市油谷伊上(ゆやいがみ)である。ナマナコ比定。同地の料理屋の食レポに、調理された生ナマナコの一品を確認した。]
■「安藝國《あきのくに》佐伯郡《さえきのこほり》
大野村《おほのむら》産」 「一個。八匁五分。」
[やぶちゃん注:四行目上部から。
「安藝國佐伯郡大野村」厳島の対岸に当たる、現在の広島県廿日市市大野(おおの)。マナマコ比定。]
■「安藝國佐伯郡卄日市村《はつかいちむら》産」
「一個、七匁。」
[やぶちゃん注:厳島の対岸の北北東、広島湾の西方の沿岸に当たる、現在の廿日市市街沿岸。「ひなたGIS」で示しておく。戦前の地図では「廿日市町」となっている。マナマコ比定。]
■「志摩國《しまのくに》英虞郡《あごのこほり》
布施村(ふせむら)産」
[やぶちゃん注:三行目であるが、下の二段が左右に詰めてあるので、右から左の順とする。
「志摩國英虞郡布施村」これは、三重県志摩市志摩町(しまちょう)布施田(ふせだ)の誤りである。志摩市の南部、志摩半島最南端の先島半島(前島半島)ほぼ中央部に位置する、ここである。「ひなたGIS」の戦前の地図にも「布施田村」とある。マナマコ比定。やはり、この個体にも、頭部近くと、後部噴門部に有意な人工の穴と思しいものが認められる。]
■「周防國《すはうのくに》
櫛濵村産」
「一個、
九匁。」
[やぶちゃん注:「周防國櫛濵村」現在の周南市櫛ヶ浜(くしがはま)。マナマコ比定。]
■「周防國都濃郡《つののこほり》
福川村《ふくがはむら》」
「一個量、十匁。」
[やぶちゃん注:「周防國都濃郡福川村」現在の山口県周南市福川。現在は、埋め立てられて、海岸線は東・西に、ごく一部しかない。「ひなたGIS」の戦前の地図でも、この埋立部は、早くも『社地』となっている。思うに、明治期には、ここは、福川の海岸線になっていたものと思われる。ナマナコ比定。やはり、後部噴門部にクネクネとした、切開痕が見られる。]
■「周防國大島郡《おほしまのこほり》
外入村《とのにふむら》」
「一個量、十五匁。」
[やぶちゃん注:「周防國大島郡外入村」現在の山口県大島郡の屋代島(やしろじま)の南岸の、周防大島町(すおうおおしまちょう)外入(とのにゅう)。ここ。マナマコ比定。]
■「安藝國豊田郡《とよたのこほり》
大野村《おほのむら》産」
「一個、十匁。」
[やぶちゃん注:「安藝國豊田郡大野村」不詳。ウィキの「豊田郡」を見ても、広島県豊田郡には、「大野村」は存在しない。万事休す。マナマコ比定。]
■「安藝國佐伯郡《さえきのこほり》
小方村《おがたむら》産。」
[やぶちゃん注:「安藝國佐伯郡小方村」現在の広島県大竹市小方。ここ。厳島の南西の対岸。マナマコ比定。]
■「周防國能毛郡《くまげのこほり》
佐賀村産」
「一個量、
十匁。」
[やぶちゃん注:「周防國能毛郡佐賀村」現在の熊毛郡平生町(ひらおちょう)内。合併により、佐賀の地名は消失している。ウィキの「平尾町」によれば、同町の佐賀(さが)・小郡(おぐに)・尾国(おくに)・佐合島(さごうじま:対岸の島嶼)が、旧佐賀村である(現行の地名の読みは郵政データで確認した)。「ひなたGIS」の戦前の地図で「佐賀村」を確認出来た。
本図も、背の頭部開口部にVの字の切込み、後部中央に綺麗な「○」の孔、噴門部手前直近に逆ハート型に沿った切れ込みがある。マナマコ比定。]
■「周防國室木村産」
[やぶちゃん注:「周防國室木村」現在の山口県岩国市室の木町(むろのきちょう)。ここ。現在の町域は、かなり内陸になっているが、「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、もっと海浜に近い桑畑に「室木」とある。さらに、北直近に「新港」、東直近の海浜地に「南開作」、南直下に「新開」という、如何にもな、新開発の地名が並ぶので、この辺りは、明治以前は、海浜の漁師村であったのではないかと思われる。
マナマコ比定。これも、背部中央やや下方に割いた痕跡がある。]
■「伊豆國賀茂郡《かものこほり》
網代村《あじろむら》産」
[やぶちゃん注:「伊豆國賀茂郡網代村」以前は、お手軽な予算の温泉目当てで、よく行った(最近は個室露天風呂附きでないと行かないプチブル・ゼイタク三昧に堕してしまった)伊豆半島の東の根にある静岡県熱海市網代である。ここは、ウィキの「賀茂郡」によれば、明治一二(一八七九)年三月十二日に、『郡区町村編制法の静岡県での施行により』、『行政区画としての賀茂郡が発足。「賀茂那賀郡役所」が下田町に設置され、那賀郡とともに管轄』とある。本書は奥付相当ページに、『出版版權屆』が『明治十九年三月廿九日』で、『同』『年四月五日刻成』とある。何で。わざわざ以上のクレジットを記したかと言うと、ウィキの「網代(熱海市)」の「歴史」の「沿革」には、明治九(一八七六)年四月十八日に、『第2次府県統合により全域が静岡県の管轄となる』とあり、その直下に明治二二(一八八九)年四月一日に、『町村制施行に伴い、近世からの網代村が単独で自治体を形成し、賀茂郡網代村が発足する。』とあったからである。こちらのデータでは、賀茂郡網代村が発足したのは、本書刊行の三年後という訳の分からんことになってしまうからである。]
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