河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その14)/「昆布の說」~了
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここの最終行から。表は、作り直すのは面倒なので、底本から画像で取り込み、トリミングして、かなり補正・清拭を加え、当該部に挿入した。前に比して、数字が、やや読み難いが、汚損を念入りに拭いつつ、各個の数値を確認したが、「四」の最終画がないものが多いものの、数値判読を迷うものは、一つもないと思う。]
【明治六年より十五年まで十ケ年。】淸國昆布輸入調《しらべ》
此(こヽ)に因(より)て見れば、漢口(ハンコウ)、九江(キウコウ)、芝罘(シーフー)、天津(テンシン)を最(さい)とす。元來、本邦昆布は、從前は、長崎、琉球より輸出し、上海(シヤンハイ)、福州(フクシウ)に輸入したるも、即今(そくこん)は、悉(ことごと)く、一旦、上海へ輸入し、夫(それ)より、各港へ轉輸(てんゆ)するなり。茲(こヽ)に揭げた(かヽ)げたるは、一旦、上海へ輸入し、再び、分輸(ぶんゆ)したる高(たか)を、引去(ひきさ)りたる數量なり。天津、芝罘、牛莊(ぎうさう[やぶちゃん注:ひらがなはママ。])は上等を要(よう)せず。近年に至り、滿州產(まんしゅうさん)、及び、薩哈連島產(サガレンとうさん)の、低價のものを輸入するにより、本邦產は、彼地(かのち)に販路(はんろ)を失(うしな)へり。幸(さいわひ[やぶちゃん注:ママ。])にして、漢口、九江、鎭江(ちんかう[やぶちゃん注:ひらがなはママ。])の販路は、本邦產のみに限り、殊(こと)に、刻昆布(きざみこんぶ)は、彼地(かのち)に產せざるにより、利を、專有せり。上海に輸出するものは、揚子江を遡(さかのぼ)り、運搬するものにて、其中(そのうち)、漢口市塲(ハンカウしぢやう[やぶちゃん注:ママ。])より分輸するものを、尤(もつとも)、多し、とす。此他(このた)は、陜西(きやうさい[やぶちゃん注:ひらがなはママ。以下同じ。])、湖南(こなん)、四川(しせん)の要衝(ようしやう[やぶちゃん注:ママ。])に當り、殊に、茶、及び、藥品等(とう)の產、多く、其地(そのち)の物產に富(と)むを以て、貿易、甚(はなは)た[やぶちゃん注:ママ。]、盛(さかん)なるに、よれり。此地、河南(かなん)、陜西(きやうさい)、貴州(きしう)、山西(さんせい)、廣西(こうさい[やぶちゃん注:ママ。])へ輸送し、九江(きうこう)、漢口(ハンコウ)より、湖北(こほく)、安徽(あんき)、江西(こうせい)、其他へも、分輸せり。故(ゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に、上海の相場は、漢口、九江の景況(けいきやう)[やぶちゃん注:経済上の景気の状態。]により、變動せり。而して、彼地にて價格を定むるや、品位に差ありて、海帶(かいたい)【板昆布。】に「頭番(とうばん)」[やぶちゃん注:一番。最優等品。]、「二番」、「次霉(じこう)」の三等あり。帶絲(たいし)【刻昆布《きざみこんぶ》。】に一番、二番あり。又、需用も、各地、異(ことなれ)り。海帶、頭番は、四川省【三分《ぶ》。】、湖南省【壹分四厘。】、陜西省【壹厘。】、甘肅省【二毛。】、浙江省【二厘。】、直隷省(ちよくれいしやう)【七厘。】、牛莊【二厘。】、湖北省【壹分五厘。】、江西省【二分。】、江蘇省【二毛。】、安徽省【四毛。】、福建省【五毛。】、山東省【五厘。】、山西省【二厘。】、雲南省【二毛。】、河南省【四毛。】の割。同二番は、山東省、山西省。同次霉は、山東省【十分の七。】、江蘇省【十分の三。】。又、帶絲は、四川省【十分の五。】、湖北省【十分の五。】、湖南省【十分の二。】の割合なり。同二は、四川省【十分の三。】、湖南省【十分の五。】、安徽省【十分の五厘。】、湖北省【十分の二。】、河南省【十分の二厘。】、江西省【十分二の八。】。同三は、四川省【十分の三。】、湖北省【十分の二。】、江西省【十分の四】、安徽省【十分の五】、河南省【十分の五厘。】なり。
[やぶちゃん注:地名は一部を除き、いちいち、注さない。但し、省の位置、及び、それぞれの民俗・習慣・嗜好・倹約等によって、製品の金額が異なるものと推定されるので、省の位置を色分けして判り易くしてあるサイト「旅情中国」の「中国地図」をリンクさせておくので、位置が判らない方は、そちらで、確認されたい。「お前は判るのか?」と言われるかも知れないが、私は高校時代に「地理B」まで受講した――これ自体が、当時は、極めて稀であった――地理フリークなのである(唯一、覚えるのに苦労したのは、無味乾燥なアルファベット記号の「ケッペンの気候区分」だったな……年号も覚えるのが苦手だったので、「日本史」「世界史」も大学試験では選ばず、「政治経済」をカップリングした)。
「芝罘(チーフー)」既出既注だが、これのみ、聴き馴れない旧名地名なので、特異的に再掲する。現在の山東省の地級市である煙台市(えんたい/イェンタイし)。山東半島東部に位置する港湾都市。当該ウィキによれば、『かつて西洋人にはチーフー(Chefoo)の名で知られたが、これは伝統的に煙台の行政中心であった市の東寄りにある「芝罘」([tʂí fǔ]、日本語読みは「しふう」)という陸繋島に由来する。今日の「煙台」という名は』、『明の洪武帝の治世だった』洪武三一(一三九八)年『に初出する。この年、倭寇対策のために奇山北麓に城が築かれ、その北の山に倭寇襲撃時に警報の狼煙を上げる塔が建設された。これが簡単に「煙台」とよばれるようになった』とある。
「直隷省」東洋文庫版の編者注に、単に『直隷ともいう。明代から清代にかげて、黄河下流の北部地域を指した行政区域である。現在の河北省にほぼ該当する。』とある。
「牛莊」この場所が、即座に正確に想起出来るのは、「地理」ではなく、「世界史」を受講し、しかも、「中国近代史」が好きな方だけであろうと思う。私も判らなかった。私は、所持する平凡社「世界大百科事典」の『営口 えいこう Yíng kǒu』を読んで、やっと納得できたのである。以下に引く(太字下線は私が附した)、『中国,遼寧省にある省直轄市。人口218万(うち市部61万,1994)。旧名は没溝営。鎮海営の駐屯地であったのと,遼河の河口に当たっていたので営子口とも呼ばれ,営口と略称されていた。清代,1866年(同治5)』、『営口海防同知がおかれ,1909年(宣統1)』、『海城・蓋平2県の地を割いて』、『営口直隷庁がおかれ,13年』、『県となり,38年』、『営口県の一部を割いて』、『市制施行。遼寧省の重要海港の一つで,1858年(咸豊8)』[やぶちゃん注:本邦では安政五年。]『天津条約による牛荘(ニユーチャン)の開港にともない,イギリス領事館が営口に設けられた。ために』、『当時外国では』、『ニューチャンの名で呼ばれていた。東北産の大豆の大部分を輸出したが,のち』、『大連に繁栄を奪われた。今は紡織,機械,化学,食品,紙パルプ工業の盛んな工業都市。営口県の県治は市の東方の大石橋におかれていたが,1992年から大石橋市と改名した。米,綿,リンゴ,サクサン糸を産し,マグネシウムの豊富な埋蔵で知られ,瀋大線(瀋陽~大連)に沿う。大石橋から営口市に支線の営口線が分岐。営口に近い海城県に原発建設の計画がある。』とある。現在、遼寧省鞍山市の県級市である海城市(ハイチョンし)の実際の現存する地名としての「牛荘」鎮は、内陸のここであり、実に、河口から遡ること、六十九キロメートルもあった、ここに本当の「牛荘」は、あったのである。しかし、以上にあるように、本書で「牛荘」と呼ばれている港は、当時は既に、営口(簡体字では「营口」)にあったのであり、遼寧省中南部にある地級市営口市内の、「渤海」の北東の「遼東湾」の湾奥の、恐らく、この辺りにあったものと推定されるから、注意されたいのである。ウィキの「営口市」によれば(太字下線は私が附した)、『牛荘が土砂の堆積で使用できなくなったため、1864年に営口が条約港となり、遼東湾唯一の港として満州の大豆などの対欧州積出港となった。その後、南満州鉄道により大連が勃興したため、対日対欧州取引が衰退、営口は沿岸貿易港となった。』という経緯が書かれてある。実に、以上の「ややこしや」の事実を、やっと私が認識出来たのは、複数の論文を読んで判った――検索と読みで一時間以上かかった――ことなのであるが、特に、地図はないものの、賈微氏の論文「清末営口の開港と日本との貿易について」(『文化交渉 : 東アジア文化研究科院生論集』二〇一四年九月発行所収・ PDF:「関西大学学術リポジトリ」のここで入手出来る)が最も役に立った。やや長いが、以上の私の解説が信じられない方は、必ず、ご覧あれかし!
「九江」現在の江西省北部に位置する地級市九江市。市区部は長江沿岸の重要港湾都市として知られる。当該ウィキによれば、『北に長江を臨み、南に名山・廬山』『が聳える。市名の由来は』「書經」の「禹貢」に『「九江孔殷」と見え、長江が』、『この付近で諸川を集め水勢を強めること』に由来する。『湖北、安徽、江西三省が交界し、兵家必争の地でもある』とある。
「次霉(じこう)」これが、判らない。ネット検索でも、中文でも掛かってこない。国立国会図書館デジタルコレクションの検索でも、昆布関連の古い書物に、確かに三等の呼称として出るものの、読みや意味を記すものは、ない。この「霉」は「廣漢和辭典」に載るが、音は「バイ・マイ」とあるだけで、「コウ」という音は、ない。第一義が、『梅雨。かび』(=黴)『の意で、梅雨は物をくさらせるのでいう。』とし、第二義が、『しめり。しみ。』(湿り・染み)とあり、「中華大字典」を引き、『霉、今俗語ニ謂ヒ二潮涇汚點ヲ一、通ジテ曰フㇾ霉ト。』とあって、最後に『黴』『の簡化字。』とあった。「潮涇」の「涇」は「濕」の本字であり、「維基詞典」の「潮濕」(=「潮涇」)には、「形容詞」とし、機械翻訳に手を加えると、『通常よりも多くの水分を含むさま』と言った意味である。なお、「Weblio」の白水社「中国語辞典」のには、名詞『カビ』と、動詞の『かびる』とする。拼音は『méi』である。以上から、まず、読みの「じこう」というのは、誤りと断じてよく、読もうなら、「ジマイ」がよいか。而して、「次霉」の意味であるが、幾ら、第三等の製品であっても、モロに「黴(かび)」のニュアンスを出すのは、食品呼称として、いただけない。されば、この熟語は、上製の二製品の「次」の最下品(さいかひん)であり、上製物と異なり、「乾燥が充分でなく、湿気をより含んでいて、見た目も黴(かび)を連想させるような汚点・傷等がある物」という意味で採っておく。別な読み・意味を御存知の方は、是非、御教授を乞うものである。]
抑(そもそも)、我(わが)昆布は、淸國輸出品中、第二等に位(くらひ[やぶちゃん注:ママ。])し、凡(およそ)一ケ年平均、二千五、六百萬斤內《うち》、壹分《いちぶ》を刻《きざみ》とす。而して、上海の通況(つうけう[やぶちゃん注:ママ。])[やぶちゃん注:見慣れない熟語であるが、「全般的に一般的な日本製の昆布についての評価等の状況」という謂いであろう。]によれば、刻昆布中(ちう)、「東京切(とうけいぎり[やぶちゃん注:ママ。私には違和感はない。])」と稱するは、其製、粗惡にして、「大坂切(おほさかぎり)」よりは、稍々(やや)、價格も下直(かちよく[やぶちゃん注:ママ。「値段が安いこと」であり、「げぢき」が正しい。])にして、加(くはふ)るに、明治十三年[やぶちゃん注:本書刊行の六年前。]、「東京切」の分(ぶん)、腐敗を生じ、殆(ほとん)ど、泥土(でいど)と等しく、顧(かへりみ)るもの、なきに、至る。故に、持主は、大損(おほぞん)を來(きた)せし輩(はい)も、少(すくな)からず。然(しか)るに、其後(そのご)、有志の回復する所(ところ)ありて、「大坂切」の上(かみ)に出(いづ)るの氣勢(きせい)あるも、未だ、全(まつた)く整理したるには、あらざるなり。亦、長切昆布は、從前の如く、短(みじか)きを棄去(ききよ)すべし[やぶちゃん注:製品から抜き取って廃棄せねばならない。]。如何(いかん)となれば、短きは、需用地にて、好(このま)ざればなり。其(その)好まざる所以(ゆゑん)は、惡葉(あくは)を切斷(きり[やぶちゃん注:ママであるが、ここは「せつだん」の方が続きがよい。])したるものと思考するより、忌嫌(きけん)するなり。近年、本邦輸出昆布の最も盛(さかん)なりしは明治六年にて、一ケ年千十一萬石餘に及べり。是れ、產出の多きと、五年より、函館に開通社(かいつうしや)を設立し、直輸(ちよくゆ)の道を開きしに、よれり。然(しか)るに、當時、輸出の程度は、六、七萬石なりしか[やぶちゃん注:ママ。「が」。]、如此(かくのごとく)、俄(にわ)かに、供給(きやうきう[やぶちゃん注:ママ。])の過度を生じ、價格に影響を及ぼし、七年には、價(あたひ)、頓(とみ)に下落し、前年、百石、七百貳拾圓のもの、五百五拾圓となり、輸出高も八萬六千石に減じ、爾後(じご)、十年に至る迄、甚(はなはだ)、不活發なりしか[やぶちゃん注:ママ。同前。「が」。]、十一年に至り、輸出額は增したるも、價格は洋銀の下落により、進まずして、當業者(たうぎやうしや)は、困弊(こんへい)を極めたり。故に、常に銷路(せうろ)[やぶちゃん注:「販路」に同じ。「商品の売り先・受け入れ市場」のこと。但し、本邦の熟語ではなく、中国語である。]の如何(いかん)に注意するを緊要とす。又、長昆布は、每年四月に新昆布を輸入し、十月に至る迄の間を、販賣の好季とす。十一月以後は、內地運輸の水路、氷塞(ひようそく[やぶちゃん注:ママ。])するが爲に、市場の氣配、自(をのづか)ら沈欝(ちんうつ)し、隨(したがつ)て、買客(かひて)も、各(をのをの)、歸鄕せり。但《ただし》、二、三の兩月中(ちう)にも、既に、多少の賣買(うりかひ)ありと雖も、未だ盛昌(せいしよう[やぶちゃん注:ママ。])なるに至らず。而して、上海市上(シヤンハイしじやう)に輸出する荷物の中(うち)、十の八、九は、漢口(ハンカウ)へ向け、再び、輸出して、宜昌(せんせう)、或は、四川地方に於て、消費し、殘餘の一、二は、天津、及び、山東(サントン)、九江、鎭江等(とう)へ回漕《くわいさう》し、該地方(《がい》ちはう)に於て、消費するものなれば、常に、當業者は、此販路、及び、賣買(うりかひ)の季節に注目をするを緊要とす。元來、本邦の昆布は、北海道出產、總額の五割七分餘は、輸出にして、四割二分を內國用となすを、常とせり。此外、三陸產八千六百石も皆、內國用なり。刻昆布は、舊來、大坂にて、專ら、製し、東京にては、天保の末に創(はじ)め、函館にては、嘉永四年[やぶちゃん注:一八五一年。徳川家慶の治世。]に創め、淸國行は、大坂、多く、函館、之に亞(つ)き[やぶちゃん注:ママ。「ぎ」。]、東京、又、之に亞ぎしが、今は之に反し、函館を第一とし、東京、大坂、之に亞げり。然(しか)れども、淸國人の信用は、函館製を、第一等とす。十年迄は、大坂製を多しと、したれども、十一年以來は、東京製の輸出、增進して、十五年に至(いたつ)ては、東京製、大坂に五倍せり。又、函館も、十年以來、大(おほい)に增加せり。然(しか)れども、內國用は、未だ、大坂に及ばず。
[やぶちゃん注:「開通社」「函館市/函館市地域史料アーカイブ」の「函館市史 通説編 第二巻」の「第4編 箱館から近代都市函館へ/第6章 内外貿易港としての成長と展開/ 第3節 外国貿易の展開/ 3 開拓使用達による直輸出」の「函館店開業と上海支店・開通洋行」に解説されている『北海道の輸出海産物を集荷するための』「開通洋行」のこと。
《引用開始》
一方北海道の輸出海産物を集荷するための函館店は翌6年5月に開業した。用達の名代として赤井善平と安達栄蔵の両名が4月に函館に到着して、函館支庁に5月1日から開業する旨の届けを提出したが、彼らは同時に保任社と運漕社の函館店の取扱も兼ねていた。函館支庁に提出した書類には「清国直輸 開拓使御用達商会」とあり、また清国直輸のために函館港に帆船弘業丸を定繋し、上海直通の便を開設する予定であることを述べている(明治6年「諸局往復留」道文蔵)。
函館店の開業の準備を終えて、次に上海に売り捌き機関を設置することにした。5月に用達田中治郎右衛門と笠野熊吉両名から清国店を開業するので商号を付与されるように願書が提出され、開拓使は「開通号」とするように指示を出した。翌6月に袴塚次郎兵衛ら3名を社中名代として上海に派遣することを決めた(「開公」5740)。彼ら名代は7月に日本を立ったが、10月10日付けで笠野から開拓使にあてて上海フランス公司路46番の地に開通洋行(洋行は号と同義)を開店した旨の通知を提出している(「開公」5750)。
さて、それでは直輸商会の動向はどうであったろうか。函館で開業した6年9月に赤井善平はそれまでに買い付けした昆布や煎海鼠等3000石を函館に碇泊中のイギリス船シーベル号を雇船して上海へ輸出するために願書を函館支庁民事課に提出した。それは直輸商会函館店にとって始めての輸出であった。函館支庁は「何分直輸創業ノ事」であり、かつ「一応其地(編注・東京出張所)ヘ相伺候上差許可申ノ処昆布其他莫大ノ荷物モ相揃商法ノ時機難差延切迫」の事情があるため出帆を許可する決定をした。しかし5年に布達された「不開港場心得方条目」に抵触する可能性もあるため、今後の扱いについて東京出張所に照会した(「開公」5741)。この後支庁と東京との往復があり結局は願書提出してから1か月後に届書で処理するかたちで許可された。また同年12月には木村万平の手船善通丸に商会の昆布と万平の昆布1600石を積み込み上海の開通洋行に向け函館を出帆し、翌7年2月長崎に入港したが、外務省発行の出帆免状を携帯していなかったため、その取り扱いをめぐり開拓使と外務省が数度にわたり協議している。このように当初は手続きの不徹底や規則が関係者に充分浸透していないなど多くの障害があったようである(明治7年「往復綴込」道文蔵)。
また保任社・運漕社・清国直輸商会という3本柱の経営形態で始められたにもかかわらず7年5月に保任社の解散を命じられ、さらに中枢の用達の足並みも揃わず、破産没落するものも出たため直輸商会の手で行われた輸出も僅少にとどまったようである。ちなみに上海の開通洋行に関しては7年1月の『新報節略』に掲載された「開拓使御用達商会ヘ行キ刻昆布ノ輸出ヲ依頼シ見本トシテ同会社枝店上海開通号ヘ送リ…」といった記事がみうけられる程度で詳しい実態は不明である。『大日本各港輸出半年表』によれば函館港における日本商人の手による輸出額は明治7年は4万8520円、8年は2万2042円であった。この時期において他の邦商が輸出に取り組んだかどうかは不明であるが、おそらくこの輸出のほとんどが清国直輸商会の手になったものであろう。開通洋行は10年4月に廃止するが、その母体である直輸商会は、その後北海道商会と衣がえして貿易業から撤退した。
《引用終了》
「宜昌」現在の湖北省宜昌市。
「鎭江」現在の江蘇省鎮江市。]
以上說く所によれば、本邦より淸國へ輸出する昆布の額は、彼(かの)需用者に比(ひ)すれば、九牛(きうぎう)の一毛(いちもう)にして、今、板昆布の輸出高、拾萬石を、四億萬の人口に割賦(かつぷ)すれば、僅(わづか)に、壹口(ひとくち)、貳勺五才《にしやくごさい》、則(すなはち)、量、壹匁《いちもんめ》に過(すぎ)ざるなり。若(も)し、壹口に貳升五合、卽(すなはち)、壹貫目を費すに至れば、四億萬貫目(しおくまんぐわんめ)、卽(すなはち)、一千萬石にして、代價も、百石、五百圓とすれば、五千萬圓の多きに至るにあらずや。故に、採收季(さいしうき)を制定し、製法を精良にし、冗費(じやうひ)を省き、價(あたひ)を廉(れん)にして、販路を擴(ひろ)め、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に、繁殖法を施(ほどこ)すが如きに達せんことを、希望の至(いた)りに湛(たへ)ざるなり。
[やぶちゃん注:「九牛の一毛」「多くの牛の中にある僅か一本の毛」の意で、多数の中の極く一部分。取るに足りないことの意。出典は「漢書」「司馬遷傳」である。
「割賦」この語は「負債・代金などを月賦・年賦などで何回かに分割して支払うこと」であるから、相応しい語ではない。「割當(わりあて)れば」とすべきところ。]
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