阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「海野某顯靈」
[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。]
「海野某顯靈《うんのなにがし りやう を あらはす》」 安倍郡《あべのこほり》田代村にあり。傳云《つたへいふ》、
「岩崎《いはさき》・田代《たしろ》村長《むらをさ》、市郞左衞門《いちらうざゑもん》が祖、海野七郞三郞《うんのしちらうさぶらう》は、大剛《だいがう》の士《し》也。永祿年中、武田信玄、これを惡《にくみ》て、井河一揆《ゐかはいつき》に令《れい》し、謀《はかり》、落し穴に入れ、終《つひ》に、是を殺さしむ。里人《さとびと》、其首級を取《とり》て、江尻城代土屋右衞門尉信近がもとに、送る。實檢の後《のち》、濱河原《はまがはら》に晒《さら》す。時に、七郞三郞が靈、頻《しきり》に祟《たた》りを、なせり。井河の鄕民《がうみん》、是を憂ひ、社《やしろ》を建《たて》て、靈を鎭《しづ》む。今の八幡社、是也。此人の居蹟・石垣等、猶《なほ》、存せり。」。
[やぶちゃん注:タイトルの内の「靈」は、「御靈」(ごりょう)であるから、「れい」ではなく、「りやう」と読んでおいた。
「安倍郡田代村」平凡社「日本歴史地名大系」に、『田代村 たしろむら』として、『静岡県:静岡市旧安倍郡地区田代村』、『[現在地名]静岡市田代』とし、『大井川最上流部に位置し、右岸の河岸段丘上に集落がある。対岸は上坂本(かみさかもと)村。戦国期には上井川(かみいかわ)に含まれ、田代郷と称された。天正七年(一五七九)一〇月二五日の武田家朱印状写(駿河志料)によると、海野弥兵衛尉に新恩分として上井川の「田代之郷上山共」の四貫四〇〇文の地が与えられた。同一〇年一一月一五日に作成された海野元定領年貢帳(海野文書)に「田代」がみえる。近世は井川郷(井川七郷)の一村。天正一八年とみられる一一月八日の井河之郷わんた村畠帳(森竹家文書)は地内割田原(わんだばら)のものか。』とある。現在の静岡県榛原郡(はいばらぐん)川根本町(かわねほんちょう:グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。
「岩崎・田代村長」この「岩崎」は、現在の大井川の上流の、静岡県静岡市葵区岩崎であろう。同じく「日本歴史地名大系」に、『岩崎村 いわさきろむら』として、『静岡県:静岡市旧安倍郡地区岩崎村』、『大井川最上流部に位置し、左岸の河岸段丘に集落がある。南は中野(なかの)村。右岸に枝郷中山(なかやま)がある(「駿河記」など)。中世は井河(いかわ)のうちに含まれる。天正七年(一五七九)一〇月二五日の武田家朱印状写(駿河志料)によると、海野弥兵衛尉』(☜)『に新恩分として下井河の「上井川岩崎」内の二貫六〇〇文の地が与えられた。同一〇年一一月一五日に作成された海野元定領年貢帳(海野文書)に「岩崎分」とみえる。近世は井川郷(井川七郷)の一村。領主は安西外(あんざいそと)新田と同じ。元禄郷帳では高一八石余。承応二年(一六五三)の家屋敷并人馬鉄砲数改(海野文書)によれば居屋敷一五・人数九三、鉄砲六。』とある。ここは、「田代」から直線でも十九キロメートルも上流であるが、この二つの村の村長を兼ねていた、という意味であろうと私は推定する。現行では、地区が異なるが、民俗社会の時代には、大井川を伝ってのみ、遡上可能な場所であり、如何に離れていても、村長を兼ねていても、何らおかしくない。同じく「日本歴史地名大系」の「井河」(本文の「井河一揆」の「井河」と地名である)を見ると、『大井川の最上流地域で、周囲は深い山に囲まれ、険しい峡谷に形成された郷村。大井川沿いの通行は接岨(せつそ)峡に阻まれるため、安倍川支流の中河内(なかごうち)川や』、『その支流西河内川をさかのぼり』、『分水嶺を越えて通う道が発達していた。近世には井川(いかわ)七郷とか七里とよばれる上田(うえだ)・薬沢(やくさわ)・中野(なかの)・田代(たしろ)』(☜!)『・岩崎(いわさき)』(☜!)『『『・上坂本(かみさかもと)・小河内(おごうち)の七ヵ村が存在した(「駿河記」など)。室町中期には下井川の地名がみられ、その頃には上井川・下井川に分れていたと思われるが、永正一八年(一五二一)五月四日に今川氏親が駿府浅間社(静岡浅間神社)社家村岡大夫に「井河河堰」の草の下刈を認める朱印状(村岡文書)を出している。河草の下刈は川からの砂金採取のためのもので、安部(あべ)金山の一つ井川金山の採取権を認めたものといえる。』とあったから、もう、決まりである。但し、次の引用と私の見解を見られたい。
「海野七郞三郞」サイト「立て幕府女神隊」のここに、
《引用開始》
海野七郎太郎(駿河記)
岩崎住人。海野七郎三郎と兄弟。武田家より嫌疑を受け、江尻城から派遣された人物に捕縛される。江尻守衛の土屋右衛門尉の下に引き出され拷問の上梟首された。
(補記)海野弥兵衛の配下と思われる
海野七郎三郎(駿河記)
田代住人。海野七郎太郎と兄弟。武勇絶倫であったという。武田家より嫌疑をうけ、捕縛命令が出る。田代住人に謀られ落とし穴に落とされて討ち取られ、兄の七郎太郎とともに梟首された。怨霊となったので八幡社に弔われた。
(補記)海野弥兵衛の配下と思われる。
《引用終了》
とあることから、これは、兄弟で別々に、田代村と岩崎村の村長を担当していたものと考えるのが、よろしいかと思われる。
「江尻城代土屋右衞門尉信近」甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。「武田二十四将」の一人に数えられる土屋昌続(つちやまさつぐ)のことである。詳しくは、当該ウィキを見られたいが、そこには「信近」の名はないが、サイト「歴史人」の「孫子の旗 信玄を師匠とした武将列伝 第2回」の「信玄の近習から侍大将に取り立てられた剛将・土屋右衛門尉昌次」(江宮隆之氏筆)の中に、『信玄はよほど弟子ともいえる昌次』(昌続の別名)『の奮戦が嬉しかったのであろう。感状を与え、その中で信玄の一字を与え「信近」と名乗るように、と記している。』とあるので、間違いない。「江尻城」はここ。詳しくは、私は戦国時代興味がないので、ウィキの「江尻城」を見られたい。
「濱河原」恐らく、現在の大井川河口の右岸の旧榛原郡吉田町川尻字浜河原で、現在の静岡県榛原郡吉田町川尻とみた。
「今の八幡社」これは、現在の駿河区八幡山にある静岡八幡神社のことであろう。根拠は、静岡新聞社・静岡放送が運営する公式サイト「アットエス」の「静岡八幡神社」に、『静岡八幡神社(はちまんじんじゃ)は推古5(597)年に有渡八幡宮として鎮座されたと伝えられ、古来より源・今川・武田・徳川など多くの源氏武将に氏神として崇敬されてきました』。『守護・今川氏親、丸子城城主・斉藤安元などの名がある本殿棟札は、1945年6月の静岡空襲で徳川家康奉納の楼門などとともに焼失しています。境内には東照宮300年祭に奉納された狛犬や、東照宮本殿御簾とも家康が寄進したとも伝わる徳川家奉納の「御簾」があります』。『駿河では非業の死を遂げた人を「死霊八幡」「弥陀八幡」として祀る信仰があり、海野一族、曾我一族などを祭神とする社や、八幡山城跡、境内社、小堀手水などの語り部が点在しています。』(太字・下線は私が附した)とあったからである。]
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