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2025/11/15

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「產女」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。二個の脱字は底本では長方形。]

 

 「產女《うぶめ》」 安倍郡《あべのこほり》□□村□□山正信寺《しやうしんじ》にあり。傳云《つたへいふ》、

「府中より一里餘《あまり》、安倍川のさき、藁科のうしろ、產婦(うぶめ[やぶちゃん注:珍しい底本のルビ。])と云《いふ》所に、正信寺と云《いふ》梵刹《ぼんさつ》あり。

 本尊、觀音より、安產の守符《まもりふだ》を出《いだ》す。平產の後《のち》、布施袋《ふせぶくろ》に、米を入《いれ》て奉納すべし。

 往昔《わうじやく》、農夫某の妻、難產して死せり。其靈《れい》、赤子を抱《いだ》き來りて、住僧に謁し、

「此《この》歎苦《なんく》を濟《すく》へ。」

と乞ふ。

 和尙、諾《だく》し、諭《さと》すに、觀音妙智力の誓《ちかひ》を以《もつて》し、猶、本尊に祈禱する(こと)一七日《ひとなぬか》、滿願の曉《あかつき》、彼《かの》婦、成佛の形を顯《あらは》し、禮拜して曰《いはく》、

「公《こう》の引導敎化《いんだうきゃうくわ》に依《より》て、忽《たちまち》、血池《ちのいけ》の苦界《くがい》を出《いで》、安養淨土に生《うま》るゝ事を得たり。法恩《ほうおん》、いつの時にか、謝し盡《つく》さん。我《われ》、當寺の薩埵《さつた》と共に、懷姙の女子《によし》を守りて、善《よ》く、難產の愁ひなからしめん。是《これ》、此《この》報《むかい》也《なり》。」

と告《つげ》、去る。是よりして、安產の守符を出《いだ》すに、必《かならず》、驗《げん》あり。當所の名も、又、此奇事に起れり、云々。」

未だ、寺記を見ず、故に、然るや否《いなや》を知らず。按《あんず》るに、難產死婦の靈を號《なづけ》て『產女(うぶめ[やぶちゃん注:底本のルビ。])』と云《いふ》事、諸書に見えたり。其《その》奇談、大方《おほかた》、是と同《おなじう》して、小異あるのみ。

[やぶちゃん注:「安倍郡□□村□□山正信寺」現存する。現在の住所は静岡市葵区産女。ここ(グーグル・マップ・データ)。古いサイトはこちらにあり、その「産女観音の由来」では、

   《引用開始》

産女観音は、正式名を「産女山・正信院」といい、永禄10年[やぶちゃん注:一五六七年。]215日、奕翁傳公首座(えきおうでんこうしゅそ)[やぶちゃん注:ここ以外に詳細事績を記載するサイトはないようである。]を初代に開創された曹洞宗のお寺で、「安産」「子授け」の観音様として全国に広く知られています。

 御本尊は千手観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)で、春日仏師(かすがのぶっし)によるものだといわれており、本堂は文政3年[やぶちゃん注:一八三〇年。家斉の治世。]、黙旨賢首座(もくしけんどうしゅそ)の代に建立されたものです。

 いい伝えによりますと、平安時代の終わりか鎌倉時代の初め頃、産女の道の終わるところを亀ヶ谷(かめがや)といい、ここに小さなお寺がありました。

 しかし、あまりに奥まっていて檀家の人々のお詣りに都合が悪いということで、養子庵というところに移り、さらに、江戸時代後期、現在の地に越してきました。

 このとき、寺の名も亀谷山正信院(かめがやざんしょうしんいん)から産女山正信院(うぶめさんしょうしんいん)に新ためられたということです。

   《引用終了》

さて、この記載に従がうなら、この寺の山号が欠字となっている以上、

この寺の正式な原山号は、この過去の「龜谷山正信院(かめがやざんしやうしんじ)」とすべき

であるということになるのだが、別に、新しい公式サイトが標題に、

「産女観音(うぶめかんのん)」

としてこちらにあり、そこでは、冒頭に、

『正式名を「産女山 正信院」(うぶめさんしょうしんいん)といいます』

とあるのである。

 思うに、本文の村名と山号との欠字は、

これから語る産女に纏わる話を語る関係上から、ネタバレを避けるための意識的欠字

である

と考えるべきであろう。

 しかし、問題がある。それは、旧村名の欠字である。以上の話からすれば、

ここには、「產女」という村名以前に、別な村名があり、それが、以上の奇瑞を受けて、「產女」となったという事実があった

ということになる。

 では、「產女村」の旧村名が無くてはならない。

 しかし、ウィキの「安倍郡」を見ると、『「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配』の項には、「幕府領」として、

   *

  • ○向敷地村。牧ヶ谷村、産女新田

   *

とあるのである。この『●は村内に寺社領が、○は寺社等の除地(領主から年貢免除の特権を与えられた土地)』を意味するとある。『向敷地村。』の句点は読点の誤りと考えていいだろう。則ち、明治初年に於いては、この寺の周辺には「向敷地村」と「牧ヶ谷村」、及び、村とは公式には言えない「産女新田」(うぶめしんでん)という江戸後期の新田地区があったということになる。而して、そこが例えば、

この「産女新田」が正信院の寺領として認定されていた

と考えるのが、手っ取り早い。幕府がそのように、区分分けしていても、周辺の村人は、そこを「產女新田村」と呼称していた

であろう。

さらに考えれば、「新田」という呼称は、寺領である「產女」の地がもともと存在し、そこの山間・平地などを開拓して、「新田」を作った

と考える方が自然である。則ち、

実は、正信院寺領の地を江戸時代には村人らは「產女村」と呼称していた

と考えてよいであろう。

 翻って、グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、ここに現在の「正信院(産女観音)」があり、そのやや三百メートル強の、山裾の耕地の、やや高い位置に産女山神社が確認出来る。而して、この正信院から入る谷間の地も「産女」地区であり、そこは、狭いそこが、現在も耕地となっている。幕府の言っている「産女新田」とは、或いは、この谷間の耕地を指すのではあるまいか?

 そこで「ひなたGIS」で、この寺周辺を見ると、多くの「谷」名が散見される。先の引用でも、『いい伝えによりますと、平安時代の終わりか鎌倉時代の初め頃、産女の道の終わるところを亀ヶ谷(かめがや)といい、ここに小さなお寺がありました。』『しかし、あまりに奥まっていて檀家の人々のお詣りに都合が悪いということで、養子庵というところに移り、さらに、江戸時代後期、現在の地に越してきました。』と言っている。「ひなたGIS」では「龜ヶ谷」の名は見当たらないが、

この「產女」から南南西に延びる谷こそが、「龜ヶ谷」ではないか?

と私は推理するのである。

 さて、その「産女子安観音縁起(うぶめこやすかんのんえんぎ)」のページによれば、

   《引用開始》

永禄3年、今川義元(よしもと)が桶狭間(おけはざま)で織田信長に敗れた[やぶちゃん注:永禄三(一五六〇)年時の室町幕府将軍は足利義輝であるが、永禄八年五月十九日、三好三人衆の兵に殺されている。]後、あとを継いだ義元の子の氏真も四方から攻められ、ついに、武田晴信によって、領土を奪われ、藁科渓谷を志太郡徳山村土岐(しだぐんとくやまむらとき)の山中へと逃げてきました。

氏真に従って、ここまで落ちてきた武士に信濃の人、牧野喜藤兵衛清乗(まきのきとうべえきよのり)という者がいました。

清乗の妻もいっしょに逃げてきたのですが、ちょうど臨月で、正信院近くの「清水のど」のあたりで、急に産気づき、ひどい難産で、とうとう出産できずに亡くなってしまいました。

清乗は、手厚く妻を葬りましたが、成仏できなかったとみえ、夜な夜な、幻となって村をさまよい、「とりあげてたもれ(助産してください)」と、悲しげに頼みました。

村人は哀れに思い、「とりあげてさし上げたいと思いますが、あの世に去った人のこととて、いかにすればよいやら」といいますと、「夫のカブトのしころ(錣)の内側に、わが家に伝わる千手観音を秘めてございます。その御仏に祈ってくださればよいのです。これからは、子どもの恵まれない方、お産みになさる方は、この御仏にお祈りしてください。必ず、お守りくださいます。」といいました。

そこで、村人は、千手観音を見つけだし、さっそく、正信院に納め、清乗の妻のために祈ってやりました。

すると、清乗の妻の幻があらわれ、お礼をいい、「この村をお守りしたいと思いますので、私を山神(さんじん)として、祠(ほこら)をお建てください」といいますので、近くの「いちが谷」にお宮を建て、産女大明神としてお祭りしました。

以後、村ではお産で苦しむ者がいなくなったといいます。

後に、村の名を産女(うぶめ)、正信院の山号も通称「産女山」と呼ぶようになりました。

   《引用終了》

「產女」に就いては、私の怪奇談集その他で、多数、述べている。最も新しい『平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之六〔五〕狐產婦の幽㚑に妖たる事』で、目ぼしいそれらを総てリンクさせあるので、そちらを見られたい。

2025/11/13

和漢三才圖會卷第九十二之本 目録 草類 藥品(8) 忌鐵

 

  忌鐵  二十四種

菖蒲 龍膽 茜根 五味子 括樓 麻黃 香附子

芍薬 知母 牡丹 石榴皮 藜蘆 商陸 桑白皮

槐花 皂莢 雷丸 桑寄生 猪苓 山藥 蒺藜子

桑茸 楝子 何首烏

 

   *

 

  (てつ)を忌(い)  二十四種

菖蒲《しやうぶ》   龍膽《りゆうたん》

茜根《せいこん》   五味子《ごみし》

括樓《かつらう》   麻黃《まわう》

香附子《かうぶす》  芍藥《しやくやく》

知母《ちも》     牡丹《ぼたん》

石榴皮《せきりうひ》 藜蘆《りろ》

商陸《しやうりく》  桑白皮《さうはくひ》

槐花《くわいくわ》  皂莢《さうきやう》

雷丸《らいぐわん》  桑寄生《さうきせい》

猪苓《ちよれい》   山藥《さんやく》

蒺藜子《しつりし》  桑茸《さうじ》

楝子《れんし》    何首烏《かしゆう》

 

[やぶちゃん注:訓読では、ブラウザの不具合を考慮して、二段で示した。東洋文庫訳では、一部の生薬名を和訓で示している。具体的には、「茜根」に『あかね』、「石榴子」に『ざくろ』、「商陸」に『やまごぼう』、「蒺藜子」に『はまびし』、「桑耳」に『くわたけ』であるが、基本、漢方生薬名に和訓を混交して示すのは、私には承服出来ないので、総て、音読みの歴史的仮名遣で附した。

「菖蒲」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属ショウブ Acorus calamus L.1753)(シノニム: Acorus asiaticus Nakai (1936)/ショウブ変種ショウブAcorus calamus L. var. angustatus Besser (1834) (これは日本を含めた東アジアのものに対して用いられる。以下の引用でも冒頭にあるのは、こちらの学名である。その他、シノニムは数多く存在する)。意外であったが、私の多くの記事の中で、ショウブを漢方生薬としてちゃんと注したものはなかったので、「日本薬学学会」の「生薬の花」の「ショウブ」を部分引用する。高松智氏と磯田進氏の共同執筆である(太字は私が附した)。

   《引用開始》

 晩秋から冬期にかけて地上部が枯れてから、採取した根茎のひげ根を除いて水洗いし、日干しにしたものが生薬の「ショウブコン(菖蒲根)」です。ショウブコンは特有の芳香があり、味は苦くやや風味がある精油を含みます。その水浸剤は皮膚真菌に対し有効であると言われています。また、採取後1年以上経過したものの煎剤は芳香性健胃薬、去痰、止瀉薬、腹痛、下痢、てんかんに用いられます。民間ではショウブの根茎や葉を刻み、一握り分を布袋に入れて適量の水で煮沸し、そのまま薬湯料として使用し、神経痛、リウマチ、不眠症に効果があるといわれています。また、インド、ヨーロッパやアメリカにおいてもショウブの根茎は古くから消化不良の治療や熱や胃痙攣、疝痛(せんつう)に使用されてきました。

 和名は同属のセキショウ( A. gramineus Soland. )(漢名・菖蒲)の音読みで、古く誤ってこれに当てられたものが現在に及んでいるそうです。ショウブの別名として、端午の節句の軒に並べることに因んだノキアヤメ(軒菖蒲)、古名のアヤメグサ(菖蒲草)、オニゼキショウ(鬼石菖)などがあります。英名ではcalmussweet flag rootsweet sedgeacorus rootなどと呼ばれ、中国名は白菖蒲といいます。

 ショウブといえば、男子の健康と成長を願う端午の節句で、菖蒲湯(しょうぶゆ)、菖蒲酒(あやめざけ)や菖蒲刀(あやめがたな)など魔除けや厄払いに使われてきた植物です。また、武芸の上達を願う「尚武」、戦に勝つ「勝武」に通じることから、「菖蒲紋」なる文様が甲冑などの武具の紋様や織紋に武家に好まれて使われていました。ショウブはハナショウブほどの見た目の華やかさはありませんが、伝統的な行事で重宝され、また薬用として幅広い年齢層に恩恵を施すという点でも勝負あったというところでしょうか。

   《引用終了》

さて。ここで、私には、ちょっと面倒な疑問が生じてしまったのである。

この「忌鐵」の名数羅列が、中国の本草書からの引用であった場合、これは、ショウブではなく、セキショウのことになる

からである。一応、複数の中文サイトで、これらを、丸ごと、ぶち込み、検索を行ってみたが、この文字列に近い記載は見当たらなかったのだが、良安は、「本草綱目」に多くを拠っているので、調べて見たところ、決定的なものではないものの、「本草綱目」の「上草之六」と「上草之七」という、ごく近い位置に、「維基文庫」の電子化された「本草綱目」で以下を見出した。前者は「上草之六」の最後の記載で、後者は、そこから三行下の、「上草之七」二番目の「石菖蒲」の記載である。面倒なので、それぞれでなく、当該部分をそのまま抜き出し、問題の箇所を太字にした(表記はそのまま)。

   *

絡石(杜仲、牡丹為之使。惡鐵落。鐵精畏貝母、菖蒲。殺殷 毒。)

〔上草之七〕

澤瀉(畏海蛤、文蛤。)

石菖蒲(秦皮、秦艽為之使。惡麻黃、地膽。忌飴糖、羊 肉、鐵器。)

   *

この「絡石」(基原植物が多数あるので、説明すると、グダグダするだけなので、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 |ラクセキトウ(絡石藤)」をリンクするだけにする)という生薬は、文字列から見て、『惡鐵落。鐵精畏貝母、菖蒲。』は、『菖蒲』は鉄を『惡』(いむ)の意であろう。さても、一方に『石菖蒲』も『忌飴糖、羊 肉、鐵器。』とあって、『鐵器』を『忌』むとあるのである。

これを見るに、前者では「菖蒲」とし、口の干る間もなく、後者では「石菖蒲」としており、これは、到底、同一種とは思われないのである。

 困った。そこで、何時もお世話になる「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 石菖根と菖蒲根(セキショウとショウブコン)」の神農子さんの記載を引用させて戴く。冒頭では、基原を『石菖根はセキショウ Acorus gramineus L.,菖蒲根はショウブ A. calamus L.(サトイモ科 Araceae )の根茎.』とされている(太字は私が附した。一部タクソンの斜体を正体に直した)。

   《引用開始》

 現在わが国では、『日本薬局方外生薬規格』にセキショウコン(石菖根)として Acorus gramineus L. の根茎が規定され、主に入浴剤として利用されるほか、古来,鎮痛,鎮静,健胃薬などとして使用されてきました。また,市場には類似生薬としてショウブ Acorus calamus L. の根茎に由来するショウブコン(菖蒲根)があります.両者の形状はよく似ていて,石菖根のほうが一般にやや細くて繊維質ですが,古来混同されてきたようです.原植物のセキショウは一般に山間部の渓流ぞいや水のかかる石の上などに生え,ショウブは池や小川のほとりの泥中に根茎を張ります.

 『神農本草経』の上品に、昌蒲(菖蒲)の名で「味辛温。風寒湿痺、咳逆上気を主治し、心孔を開き、五臓を補い、九竅を通じ、耳目を明るくし、音聲を出す。久しく服すれば身を軽くし,忘れず迷い惑わず,年を延ばす。一名昌陽」と記載され、『名医別録』では「耳聾、癰瘡を主治し、腸胃を温め、小便を止め、四肢の湿痺で屈伸できないものを利し、小児の寒熱病で身積熱が解けないときは浴湯に使う。耳を聡くし,目を明らかにし,心智を益し、志を高くし、老いず」と記されています。このものが果たして,ショウブであったのかセキショウであったのかが論議されるところです.

 『名医別録』には,「上洛の池澤」に生じるとあり,生育地の環境を考えるとショウブのようですが,はっきりしません.陶弘景は「今すなわち所々にあり、石磧上に生ずる」と記しており,これはセキショウのようです.続けて「下湿地に生えて根の大きなものは昌陽と称される」とあり,これはショウブのようですが,「このものは今の都では真物とはいわない」としています.「菖蒲の葉には剱刃にあるような脊が1本ある」とする特徴的な記載からは菖蒲はショウブであると考えられますが,以上述べてきたことや,また『図経本草』の付図にある根の形状を見ても,古来両種が混用されてきたことは明らかです.

 江戸時代の『本草辨疑』では、「薬店には菖蒲根(アヤメ)と石菖蒲根(イワアヤメ)が売られており、本草では菖蒲はイワアヤメ、白菖はアヤメであるが、薬店で菖蒲根を求めれば白菖が売られる」と記されており、我が国でもやはり混乱が窺えます。

 明代の李時珍は5種類の菖蒲を記し,蒲(ガマ)のような葉で、池澤に生え根が肥えたものを白菖(泥菖蒲)、渓間に生え根が痩せたものを水菖蒲(渓孫)、水石の間に生え、葉に脊があり根は痩せて節が密なもの及び栽培品で葉が韮(ニラ)のようなものを石菖蒲、極端に小さいものを銭蒲とし、薬用に使用できるのは石菖蒲のみであるとしています。そして現在中国の『中薬大辞典』では,白菖、水菖蒲に A.calamus をあて、石菖蒲に A.gramineus をあてています。

 薬効的には,現代の中医学では菖蒲(セキショウブ A.gramineus )と水菖蒲(ショウブ A.calamus )の効能は開竅薬[やぶちゃん注:「かいきょうやく」は、鬱帯した気分を晴らす、気を開く、意識をはっきりさせる目的の漢方生薬を指す語。]としてはほぼ同様であるが、前者のほうがより開竅の効能にすぐれ、後者は化湿開胃・化痰止咳及び癰腫瘡湿疹などに対する効果が優れているとされ、また過服すると悪心・嘔吐をきたしやすいとしています。

 ショウブに関する混乱は植物学の分野においても知られています.すなわち,我が国におけるショウブの古名は真直ぐな葉が交錯して茂る姿から「文目(アヤメ)」と呼ばれていました.一方,現在のアヤメ科 Iridaceae で美しい花が咲くアヤメの葉がショウブに似ていることから「ハナアヤメ」とも呼ばれ,次第に単にアヤメと呼ばれるようになりました.本来のアヤメは仕方なく菖蒲の音読みでショウブと名を変えたと言うわけです.しかし,これにもハナショウブというアヤメ科の植物が登場し,今ではショウブと言えばハナショウブです.いずれの菖蒲園を訪れても本物の菖蒲は見られません.2度も名前を奪われた本物のアヤメは最近では「風呂菖蒲(フロショウブ)」と呼ばれ区別されています.

 また,ショウブの属する科もこれまではサトイモ科とされてきましたが,最近ではショウブ科 Acoraceae が設けられ,定説になりつつあります.

   《引用終了》

いや! 流石、私の尊敬する神農氏だ! 素人の私にも痒い所に手が届く素敵な解説をして下さっている! 脱帽だ!

 而して、本「鐵を忌むもの」を、良安が、この中国での錯綜事実を理解していたとは、到底、思われないから、この「菖蒲」は

ショウブ属ショウブ Acorus calamus

ショウブ属セキショウ Acorus gramineus 

ショウブとセキショウを並置する以外には

ない、のである。

「龍膽」これも、過去記事では、私はちゃんと示したことはない。福田龍株式会社公式サイト内の「生薬・漢方辞典」の「龍胆(リュウタン):生薬・漢方辞典」に拠れば、基原は、

リンドウ目リンドウ科リンドウ属トウリンドウ(唐竜胆) Gentiana scabra

リンドウ属マンシュウリンドウ Gentiana manshurica

リンドウ属エゾリンドウ Gentiana triflora

とし、トウリンドウの学名の語源を『 Genti ana :本植物の薬効を記載したエジプトIllyri a王の名(Gentius)から。』とされ、『 scabra :茎葉がザラザラという意味。「龍胆」は、苦味の強いことでよく知られる熊胆』(ゆうたん:熊の胆(い)のこと)『に比べても苦味が劣らないところから』、『龍の胆と名付けられた。植物名のリンドウは「リュウタン」が訛ったもの』とあり(空行は詰めた)、

   《引用開始》

●薬用部分

根及び根茎

●産地

中国(東北、内蒙古、華中)、韓国、日本

●主な成分

苦味配糖体(ゲンチオピクロシド、トリフロロシド、ベンゾイルトリフロロシド、リンドシド、スウェルチアマリン、スウェロシド、スカブラシド)、キサントン類(黄色素:ゲンチシン)、糖類(ゲンチアノース、ゲンチオビオース)、ゲンチシン酸

●主な薬効

胃液分泌促進、腸管運動促進、抗菌、抗炎症作用など

●代表的処方

主として漢方処方用薬であり、尿路疾患用薬とみなされる処方及びその他の処方に少数例配合されている。

【龍胆瀉肝湯】 リュウタンシャカントウ

頭痛、目の充血、脇痛、口の苦み、耳聾、耳の腫れ、舌の紅みと舌苔の黄色、陰部の腫れ、陰部の痒み、小便淋濁、帯下が黄色く臭い、比較的体力があり、下腹部筋肉が緊張する傾向があるもの(排尿痛、残尿感、尿の濁り、こしけ)

(処方内容) 当帰/地黄/木通/黄芩 /沢瀉/車前子/龍胆/山梔子/甘草

【加味解毒湯】カミゲドクトウ

血色のよい比較的体力があるものの次の諸症: 小便がしぶって出にくいもの、痔疾(いぼ痔、痔痛、痔出血)

(処方内容) 黄蓮/黄芩/黄柏/山梔子/柴胡/茵蔯蒿/龍胆/木通/滑石/升麻/甘草/灯心草/大黄

   《引用終了》

とある。ウィキの「リンドウ」の「利用」も参考になるので、引用すると(注記号はカットした)。、『根には配糖体であるゲンチオピクリン、アルカロイドの1種ゲンチアニン、三糖体のゲンチアノースなどを含んでいる』。『根は生薬のリュウタン(竜胆/龍胆)の原料のひとつとして用いられる。リンドウ科で、日本薬局方に収録されている生薬ゲンチアナの代用品。かつて根は民間薬として用いられた。竜胆は、地上部が枯れる10 - 11月に根を切らないように根茎を掘り上げて、茎を切り捨てて水洗いし、天日乾燥させて調整される。竜胆は、漢方専門薬局でも取り扱われている』。『苦味質は一般に口内の味覚神経終末を刺激し、唾液や胃液の分泌を高め、消化機能の改善、食欲増進に役立つものと考えられている。リンドウ(竜胆)の苦味は、苦味健胃、消化不良による胃もたれ、食欲不振、胃酸過多に薬効があるといわれ、膵液、胆汁の分泌を増進する効果がある。漢方では、消炎解毒の作用があるものと考えられていて、処方に配剤されている。民間療法では、竜胆1日量2 - 3グラムを、水300 - 400 cc3分の2ほどになるまで煎じ、食後3回に分けて服用する用法が知られている。食欲不振時のもう一つの用法は、竜胆をなるべく細かく刻んですり鉢などで粉末にしたものを、1回あたり0.1 - 0.2グラムを食後に水か白湯で飲む。患部の熱感をとる薬草で、排尿痛、排尿困難で排尿時に熱を感じるときや、目の充血や痛みで冷やすと痛みが楽になる人によいとも、患部に熱が溜まり、のどが渇いて冷たいものが欲しい人によいとも言われている。連用は避けることと、妊婦や患部が冷えている人への使用は禁忌とされている』。『中国産のトウリンドウは、シベリア、朝鮮半島などに野生し、中国では竜胆として薬用されているが、苦味はリンドウよりも劣る』。『リンドウの属名 Gentiana は、薬用効果を発見したイリュリア人の皇帝ゲンティウス』『(Gentius)に由来する。リンドウの根は、Gentian liqueur』(ゲンチアナ・リキュール:フランス原産)、『ウンダーベルクなど、トニックウォーターやリキュールなどの薬用酒、食前酒などに用いられる』とあった。

「茜根」これも私の記事で注したことがない。漢方では「茜草」(センソウ)が一般的で、基原は、リンドウ目アカネ科アカネ亜科アカネ属アカネ Rubia argyi の根及び根茎である。まことに申し訳ないが、やはり、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 石菖根と菖蒲根(セキショウとショウブコン)」の神農子さんの記載を引用させて戴く。

   《引用開始》

 「あかね」というと、植物の「アカネ」よりも、色を連想することが多いのではないでしょうか。茜色とはアカネの根の色素を用いて染めた色のことで、日本では古くからアカネ染が行われていました。アカネで染めた「緋」色は、飛鳥時代には朝廷における位を表す色のひとつとして用いられていました。また、『万葉集』には「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」をはじめ、「あかねさす」という枕詞が詠み込まれた歌がいくつかあります。このことは、アカネで染めた色が、鮮やかで美しい色として、当時の人々に好まれていたことを表しているように思います。

 アカネは、日本から東アジアにかけて広く分布し、山野によく見られるつる性の多年草です。根はひげ状になり、黄赤色を呈しており、「アカネ」の名の由来とされます。細くて長い茎には下方に曲がった刺があり、ほかの植物にからまりながら繁茂します。葉は細長い心形で4枚が輪生しているように見えますが、そのうちの2枚は托葉です。花は淡黄色で、直径は4mmほどと小さく、夏に多数咲きます。果実は熟すにつれて黒くなります。

 ヨーロッパではセイヨウアカネ R. tinctorum L. の根を用いて染色が行われてきました。アカネで染めた色はやや黄色みを帯びた赤色になりますが、セイヨウアカネでは鮮やかな赤色になります。根に含まれる化学成分は、アカネではプルプリンが主でアリザリンが非常に少なく、セイヨウアカネではアリザリンが主であり、この違いが異なった色として現れます。また、どちらの染料も媒染剤を必要とし、用いる媒染剤によっても色は変化します。

 生薬「茜草」は『神農本草経』の上品に「茜根」の原名で、「味苦寒。寒湿風痺、黄疸を主治し、中を補う」と収載され、さらに『名医別録』には「無毒。血内崩、下血、膀胱不足、[やぶちゃん注:ここは、漢字表記が出来なかったために、『★(★は、足+委)』となっている。Unicodeで表記出来るようになったので、以下、太字で特異的に示しておく。]跌、蟲毒を止める。久しく服すれば精気を益し、身体を軽くする」と記されています。『黄帝内経素問』には「四烏鰂骨一藘茹丸」(烏鰂骨、藘茹(茜草の別名)、雀卵を丸とし鮑魚の汁で飲む)という血枯経閉を治す方が記されており、古くから薬用にされていたことがわかります。李時珍は『本草綱目』に「茜草」の主治について、「経脈を通じ、骨節の風痛を治し、血を活し、血をめぐらす」と記し、また「俗方に、婦人の経水不通を治すのにこれを用い、一両を酒で煎じて服するが、一日にして通じ、甚だ効がある」と記しています。現代では、浄血、止血、通経薬として、吐血、便血、月経不順などに応用されており、血をめぐらすには生で用い、血を止めるには炒炭にして用いています。

 また、本草書からは、中国においても絹を紅く染めるのにアカネが用いられていたことが伺えます。『名医別録』には「絳を染める染料になる」と記され、陶弘景は「このものは絳を染める茜草である」と述べています。このアカネで染めた糸や布も薬用になります。「新絳」はアカネで染めた新しい絹糸で、『金匱要略』出典の「旋覆花湯」に配合され、婦人の半産漏下(流産のこと)を治すのに用いられます。また「緋帛」はアカネで染めた絹の布で、陳蔵器は「焼いてすり、初生児の臍のまだ落ちない時の腫痛に外用する。また悪瘡、疔腫、諸瘡の根のあるものを治療する」と記しています。

 一方、ヨーロッパにおいても、セイヨウアカネが染料だけではなく薬としても用いられてきました。『ディオスコリデスの薬物志』には、「根は細長くて赤く、利尿作用がある。水割蜂蜜酒と一緒に飲むと、黄疸や腰痛や麻痺によい。多量の濃い尿を排泄させるが、ときには血液をも排出させる。服用するものは毎日体を洗い、排泄した尿の変化をみなければならない。茎を葉と一緒に飲めば、毒獣に咬まれた者を救う。根は、膣坐剤として用いれば、月経血、後産が排出される。酢と混ぜて塗りつけると白斑も治す」とその効能が記されています。

 アカネの類は、洋の東西を問わず、古くから薬や染料として用いられてきました。しかし、色素の成分であるアリザリンが化学的に合成され、染料として用いられるようになると、セイヨウアカネの栽培量は激減し、それとともに薬用にもほとんど供されなくなったといいます。現在、化学染料が使われ始めてから約100年が過ぎ、アカネで染めた赤色の方が、化学染料で染めたものより堅牢であることが次第に明らかになり、植物染色のよさが見直されつつあります。生薬としてのアカネについても、再認識される機会になるかもしれません。

   《引用終了》

「五味子」被子植物門アウストロバイレヤ目 Austrobaileyales マツブサ科サネカズラ属サネカズラ Kadsura japonica 。常緑蔓性木本の一種。当該ウィキによれば、『単性花をつけ、赤い液果が球形に集まった集合果が実る。茎などから得られる粘液は、古くは整髪料などに用いられた。果実は生薬とされることがあり、また美しいため観賞用に栽培される。古くから日本人になじみ深い植物であり』、「万葉集」にも、多数、『詠まれている。別名が多く』、『ビナンカズラ(美男葛)の名があ』り、『関連して鬢葛(ビンカズラ)』、『鬢付蔓(ビンズケズル)』、『大阪ではビジョカズラ(美女葛)と称したともいわれる』とあり、具体な精製法は、茎葉を二『倍量の水に入れておくと粘液が出るので、その液を頭髪につけて、整髪料として利用』した。既に『奈良時代には、整髪料(髪油)としてサネカズラがふつうに使われていたと考えられて』おり、それは、『葛水(かずらみず)、鬢水(びんみず)、水鬘(すいかずら)とよばれた』、『また』、『サネカズラを浸けておく入れ物を蔓壺(かずらつぼ)、鬢盥(びんだらい)といったが、江戸時代には男の髪結いが持ち歩く道具箱を鬢盥というようになった』とある。また、『赤く熟した果実を乾燥したものは』、『南五味子(なんごみし)と』呼ばれ、生薬とし、『鎮咳、滋養強壮に効用があるものとされ、五味子(同じマツブサ科』マツブサ属チョウセンゴミシ Schisandra chinensis 』『の果実)の代用品とされることもある』。但し、『本来の南五味子は、同属の Kadsura longipedunculata ともされる』とある。

「括樓」「相反」で既出既注。そのまま転写する。基原は、双子葉植物綱スミレ目ウリ科カラスウリ属カラスウリ Trichosanthes cucumeroides の仲間であるトウカラスウリ Trichosanthes kirilowii 、キカラスウリ Tkirilowii var. japonicum 又は、オオカラスウリ Tbracteata の皮層を除いた根。詳細は、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 括楼根(カロコン)」を見られたい。漢方では「かろ」と読むらしい。本文での読みは、小学館「日本国語大辞典」の読みに従った。

「麻黃」「六陳」で既出既注。転写する。中国では、裸子植物門グネツム綱グネツム目マオウ科マオウ属シナマオウEphedra sinica(「草麻黄」)などの地上茎が、古くから生薬の麻黄として用いられた。日本薬局方では、そのシナマオウ・チュウマオウEphedra intermedia(中麻黄)・モクゾクマオウEphedra equisetina(木賊麻黄:「トクサマオウ」とも読む)を麻黄の基原植物とし、それらの地上茎を用いると定義しているウィキの「マオウ属」によった)。また、漢方内科「証(あかし)クリニック」公式サイト内の「暮らしと漢方」の「麻黄…エフェドリンのお話」が非常に詳しいので、見られたい。

「香附子」単子葉類植物綱イネ目カヤツリグサ科カヤツリグサ属ハマスゲ Cyperus rotundus の根茎を乾燥させたもの。薬草としては、古くから、よく知られたもので、正倉院の薬物の中からも、見つかっている。漢方では芳香性健胃・浄血・通経・沈痙の効能があるとされる。訓読を「かうぶし」とせず、「かうぶす」おしたのは、以上の本邦で古くからあって、「ぶし」ではなく、「ぶす」と呼んでいた可能性が高いと推定したことに拠る。

「芍藥」ユキノシタ目ボタン科ボタン属シャクヤク Paeonia lactiflora 、或いは、その近縁種も含む。漢方生剤としてのそれは、「日本漢方生薬製剤協会」の当該ページを見られたい。

「知母」「藥七情」で注したものを転写する。単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ハナスゲ属ハナスゲ Anemarrhena asphodeloides の根茎の生薬名。当該ウィキによれば、『中国東北部・河北などに自生する多年生草本』『で』、五~六『月頃に』、『白黄色から淡青紫色の花を咲かせる』。『根茎は知母(チモ)という生薬で日本薬局方に収録されている』。『消炎・解熱作用、鎮静作用、利尿作用などがある』。「消風散」・「桂芍知母湯」(けいしゃくちもとう)・「酸棗仁湯」(さんそうにんとう)『などの漢方方剤に配合される』とある。

「牡丹」中国の花の王、ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa 。基原は同種の根皮で、漢方では「牡丹皮」(ボタンピ)と称する。後の「第九十三」で注することになるので、ここでは、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 牡丹皮(ボタンピ)」をリンクするに留める。

「石榴皮」ザクロの樹皮。詳しくは、先行する「和漢三才圖會卷第八十七 山果類 石榴」で子細に注してあるので、そちらを見られたい。

「藜蘆」「藥七情」で既出既注。そちらの私の注を見られたい。

「商陸」これは、古い八年前に公開した「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」で、私が詳細に考証してあるので、そちらを見られたい。

「桑白皮」バラ目クワ科クワ属 Morus の桑類の根皮。消炎・利尿・鎮咳効果を持つ。基原は、マグワ Morus alba の根皮。詳しくは、先行する『卷第八十四 灌木類 目録・桑』の私の注を見られたい。

「槐花」「六陳」で既出既注。長いので、そちらを見られたい。

「皂莢」これは、日中で異なるので、先行する「卷第八十三 喬木類 皂莢」を、必ず、見られたい。

「雷丸」竹に寄生する、サルノコシカケ科カンバタケ属ライガンキン Polyporus mylittae の茸(きのこ)の菌体を指す。詳しくは、先行する卷第八十五 寓木類 雷丸」を見られたい。

「桑寄生」先行する「卷第八十五 寓木類 桑寄生」を見られたい。多数の基原植物がある。そちらの注で詳細に掲げてある。

「猪苓」菌界担子菌門真正担子菌綱チョレイマイタケ目サルノコシカケ科チョレイマイタケ属チョレイマイタケ Polyporus umbellatus を基原とする。先行する「卷第八十五 寓木類 猪苓」を見られたい。

「山藥」所謂、「山芋」の漢方名であるが、一般に言う「山芋」には可食出来ないもの、有毒の種もある。「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 山芋(サンヤク)」に拠れば、基原を、単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属『ヤマノイモ Dioscorea japonica Thunberg 又はナガイモ D. batatas Decaisne(ヤマノイモ科 Dioscoreaceae)の周皮を除いた根茎(担根体)』とする。以上は、リンクに留める。何故かと言えば、私は大のヤマノイモ好きであり、小学生の頃は、裏山で父と一緒によく掘った実力派であり、ずっと後の「卷第九十六」に「ひかい ところ 萆薢」として出る。私は、そこで存分にヤマノイモ類を子細に調べたいと思っているからである。

「蒺藜子」「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 蒺藜子(シツリシ)」に拠れば、基原を、ハマビシ目ハマビシ科ハマビシ属『ハマビシ Tribulus terrestris L. の未成熟果実』とする。

「桑茸」これは、漢方では、一般に「桑黄」(ソウオウ)と呼称するもので、基原は、菌界担子菌門ハラタケ(原茸)綱タバコウロコタケ(煙草鱗茸)目タバコウロコタケ科キコブタケ(木瘤茸)属メシマコブ(女島瘤) Phellinus linteus の菌体(キノコ)とする。「金澤 中屋彦十郞薬局」公式サイト内の「桑黄(ソウオウ、そうおう)」に、『健康食品、桑黄はキコブタケの仲間に属する多年生のサルノコシカケで、学名フェリナス・イグニアリウスといいます』。『その多くは』、『桑の古木やブナ・シイなどの木に寄生し、直径30センチの大きさに成長するまで2030年もの歳月を要するといわれます』。『傘の表面は黒~褐色、内側のひだに独特の黄~茶色の剛毛がみられることから、中国では桑黄 (そうおう) 、針層孔とよばれていました』。『メシマコブの名は、長崎県の男女群島』(だんじょぐんとう)『の女島 (めしま) 』(同県五島市浜町(はまちょう)。ここ)『に自生する桑の木にコブ状に寄生するキノコであることから名付けられました』。『そのため桑寄生と呼ぶこともあり、ヤドリギともまた区別が必要で』す。『日本や東南アジアをはじめオーストラリア、北アメリカなどに広く分布しますが、天然から採取することは難しく、 また、培養も栽培も極めて困難であることから、長い間、幻のキノコといわれてきました』。『1日5~15gを煎じて服用する』とあった。また、サイト「小林製薬の中央研究所」の「研究用語辞典」の「メシマコブ(桑黄、サンヒャン)」には、『メシマコブは、桑の木に生えるタバコウロコタケ科のキノコの一種。サンヒャンの別名もある。アジアや北米が原産とされ、日本では長崎県男女群島の女島(メシマ)でコブ状に生えていた(生育するにつれて扇状になる)ことが、和名「メシマコブ」の由来とされる。主な成分は、子実体部分に含まれるアガリシン酸、アガリシン、ラリシン酸などで、中国などの伝統医学では古くから薬用として利用されており、漢方では「桑黄(そうおう)」として⽌汗・利尿などに使われている。また、免疫賦活作用や抗腫瘍作用、抗ウイルス作用があるとされ、韓国や日本でも基礎研究が行われてきた』とあり、続く、「メシマコブ(桑黄、サンヒャン)のがん免疫に関する作用について」で、『キノコから得られる成分の抗腫瘍作用については古くから研究が行われてきている。1968年に発表された国立がんセンター研究所のグループによる研究では、サルコーマ』(Sarcoma:悪性の骨軟部腫瘍である肉腫を指す)『180を皮下移植したマウスに10数種類のキノコの熱水抽出エキスを投与し、抗腫瘍効果を確認する研究が行われた。その結果、メシマコブは腫瘍阻止率で最も高い96.7%を示した。また、その後韓国ではメシマコブ菌糸体の培養技術開発が進められ、がん治療のための医薬品として認可されるに至った。メシマコブの抗腫瘍作用は、免疫細胞であるNK(ナチュラルキラー)細胞』(natural killerNK)細胞。リンパ球の一種で、全身をパトロールしながら、癌細胞やウイルス感染細胞などを、見つけ次第、攻撃する)『やマクロファージ等の活性化によるものとされる。ただし、こうした抗腫瘍作用は基礎研究では確認されているものの、ヒトに対する臨床試験でのデータは十分ではない』とあった。当該ウィキによれば、『桑の木などに寄生して栄養を奪いながら扇状に育つ。子実体の傘の直径が30cmになるまでに20-30年はかかるという希少なキノコで、外見はサルノコシカケによく似ている。温度、湿度、日当たりなどの環境が整わないと菌糸が育たず、栽培も培養も難しいことから幻のキノコと呼ばれてきた。中国では桑黄と呼ばれ漢方薬としても珍重されてきた。ただし、桑黄とメシマコブは必ずしも同一でないことが遺伝子解析で明らかになっている』ともあった。「百度百科」の「桑黄」には、『中国北部・中国西北地方・黒龍江省・吉林省・海南省・台湾・広東省・四川省・雲南省・チベットなどに分布している。血行促進・止血・解痰・下痢止めなどの効能がある。脾虚による不正出血・血尿・血便を伴う直腸脱・帯下・無月経・腹部腫瘤・痰貯留・下痢などによく用いられる』とし、『抗腫瘍効果・抗癌効果』も掲げてある。

「楝子」双子葉植物綱ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach var. subtripinnata 及び、同属トウセンダン  Melia toosendan の果実としてよかろう。

先行する「卷第八十三 喬木類 楝」の本文及び私の注を参照されたい。

「何首烏」基原は、タデ目タデ科ツルドクダミ(蕺・蕺草・蕺菜)属ツルドクダミ Reynoutria multiflora の根である。詳しくは、先行する「藥品(4) 有南北土地之異」の「夜合草《よるあひぐさ》」の私の注を見られたい。

2025/11/11

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その16)~図版・注・分離公開(そのⅦ) / (三)煎海鼠の說~了

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。なお、本図版に就いては、(その10)の冒頭注記を、必ず、見られたい。

  なお、これを以って、「(三)煎海鼠の說」は終わっている。二十二日もかかったが、達成感は計り知れない。

 

Iriko7

 

【図版7】

[やぶちゃん注:以下は、斜め右方向で、まず、示し、左側の中央、その右下の個体の順に示した。]

 

■「其二」

[やぶちゃん注:前の図の標題が「生海鼠《いきなまこ》」であるので、注意されたい。

 

■「琉球やへやまなまこ」

 「一《いつ》に、『ちりめん』といふ。」

 「凡、十分《の》一。」

[やぶちゃん注:「やへやまなまこ」(八重山海鼠)「ちりめん」(縮緬)は、「その8」の注で示した、

楯手目クロナマコ科クリイロナマコ属トゲクリイロナマコ(刺栗色海鼠) Actinopyga echinites

である。]

 

■「同」 「はねぢなまこ」

[やぶちゃん注:これも、「その8」の注で示した、

クロナマコ属ハネジナマコ(羽地海鼠)Holothuria ( Metriatyla ) scabra

である。]

 

■「同」 「まるなまこ」

[やぶちゃん注:「まるなまこ」は「丸海鼠」であるが、一般に、本土では、「丸ナマコ」と呼称する場合、マナマコの「アカ」型を指すことが多いと思う。しかし、ここは、琉球産であり、マナナコは棲息しない。従って、この黒っぽいずんぐりムックリの形状から、間違いなく、

クロナマコ科クロナマコ属クロナマコHolothuria (Halodeima) atra

である。疑う方は、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」同種のページの画像を見られよ。]

 

■「きんこ」

           「脊《せ》」

 「半形《はんけい》。」  「凡、三分《の》一。」

           「腹」

[やぶちゃん注:文句なく、

ナマコ綱樹手亜綱樹手目キンコ(金古・金海鼠)科キンコ属Orange-footed sea cucumber亜種 Cucumaria frondosa japonica

である。注意しなくてならないのは、この種は、上部四個体(「をきなまこ」は除く)とは関係なしに、図が空いていた箇所に横のオキナマコと一緒に投げ込んだものと思う。既に述べた通り、キンコは、沖縄には、いない。同種は北方分布で、

茨城県以北・千島・サハリンに分布

するのである。

「半形《はんけい》」「半円」に同じ。これは、キンコの成体の形状を、よく示している熟語である。当該ウィキに拠れば(注記号はカットした)、『長楕円形をしており、全長 1020cm(カナダ太平洋沿岸では、30cm以上の個体もみつかる)で、幅・高さはその半分程度、ずんぐりと太い。体色はさまざまで、灰褐色のものが多いが、暗褐色、濃紫色、黄白色のものは肥厚して滑らかな触感である』。『細かい枝に分岐した触手を10本持っており、長さは均等である(腹側の2本も他の8本と同大)。口周りや、すぼめた触角は白や赤交じりでかなり色彩豊かであるが、叢状に広げられた触角は黒色である』。『背腹の区別がつきにくいが、腹側は湾曲し、背側は扁平ぎみである。』とある。取り敢えず、同ウィキの画像を見て貰うと、特異な形状が、ある程度、判るであろう。今一つ、学名で画像検索したものもリンクさせておく。則ち、横から見たキンコの成体は、球体を中心で切ったような形に見えるというのである。

 しかし、読者の中には、「どこが半形なんだよ!?」とツッコみを入れる御仁があろうから、言っておく。思うに、河原田氏は、学者ではないが、本書の構成を見れば判る通り(本電子化の初回の「目次」を見よ)、当時の水産物のエキスパートなのである。本書では、扱っていないが、「真珠」の知識も、一般人よりも遙かに、よく知っていたはずである。但し、本書の刊行時(明治一九(一八八六)年)には、天然真珠しか存在しない。

 以下、やや脱線なので、時間が惜しい方は、読まんでもいい。本邦の真珠養殖は、明治二六(一八九三)に、「東京帝國大學理科大學附屬三崎臨海實驗所」を開所していた、前にちらりと注した、同大の動物学教授(本邦最初の日本人教授)箕作佳吉(みつくりかきち 安政四(一八五八)年 明治四二(一九〇九)年)先生(この方は、私のような素人の海産生物フリークで知らない者は、まず、いないのである)の指導をうけた御木本幸吉氏が、英虞湾神明浦(しめのうら)で、養殖アコヤガイの半円真珠の生産に成功するのが、前史であり、明治三八(一九〇五)年に御木本幸吉が、英虞湾の多徳島(たとくしま/たとくじま)で、半円の核を持つ球状真珠を採取したことも知られている。この採取によって御木本幸吉は真円真珠の養殖成功を確信し、後、大正五(一九一六)年と六年に、彼の姻族が真円真珠生産の特許を得ている。)が、以上も参考にしたウィキの「真珠」にある通り、『真珠養殖の歴史は古く、中国大陸で1167年』(本邦では、仁安元・二年相当。この二月に平清盛が太政大臣となっている)『の文昌雑録に真珠養殖の記事があり』、一三『世紀には仏像真珠という例がある』。但し、『これらは』、『貝殻の内側を利用する貝付き真珠である』とある通り、この仏像真珠は、私も、多数、中国及び日本で見たことがあるが、内側に真珠層を持つ淡水貝類(斧足綱イシガイ(石貝)目イシガイ科カラスガイ(烏貝)属カラスガイ Cristaria plicata・イシガイ科ドブガイ(溝貝)属ヌマガイ(沼貝) Sinanodonta lauta(ドブガイA型/大型になる)・ドブガイ属タガイ(田貝) Sinanodonta japonica(ドブガイB型/小型)等。知らん人のために、私の『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 馬刀(バタウ)・ミゾ貝・カラス貝・ドフ(ドブ)貝 / カラスガイ』をリンクしておく)の中に、鉛製の小さな仏像を生貝の内側を掘って埋め込むことで、まさに半円型に脹れた真珠層が形成されるのである。知らない読者のために、鉛製であることを参考にした「株式会社未来宝飾」公式サイト内の『真珠の歴史を振り返る!「世界最古の養殖真珠」編』をリンクしておく。そこには書かれていないが、多分に、奇蹟の超自然の仏陀の力で出来たものとして、トンデモない値段で売る詐欺師も、かなり、いた。また、『このステップを踏み』、『仏像真珠が作られますが、あくまで核のみの挿入であり、パールサック(真珠袋)を形成しない』ため、『完全には養殖真珠とは言えないかもしれません。しかしながら』、『この中国由来の仏像真珠が養殖真珠の元祖として捉えられていることは事実で、そこから500年以上の停滞期を経て欧州で多くの養殖技法開発が行われるようになるのです』。『なお』、『清朝が滅亡し』、『この技術も失われかけましたが、現在はマベ貝』(斧足綱ウグイスガイ目ウグイスガイ亜目ウグイスガイ上科ウグイスガイ科ウグイスガイ属マベガイ Pteria penguin :これは海産。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクしておく)『などを使用し、異なる形の核を外套膜の下に挿入した半形状の養殖真珠が作られています。また中国の養殖真珠のパイオニアであるYu-Shun Yangを偲ぶ寺院も建てられており、私達が御木本幸吉に畏敬の念を覚えるのと同様に崇められています』とあった。則ち、もっこり半円型の種を以って真珠層の物品が出来ることは、古くから知られていたのである。

 さても、話しを本題に戻すと、現代の真珠養殖に於いても、この手法で、斧足綱ウグイスガイ目ウグイスガイ亜目ウグイスガイ上科ウグイスガイ科アコヤガイ(阿古屋貝)属アコヤガイ Pinctada fucata に核を植え込んで真珠が作られるのであるが、その一つに、

半形養殖真珠

があるのである。一般社団法人 日本真珠振興会の「真珠スタンダード2014年版」の中に(同振興会公式サイトのここで、PDFでダウンロード出来る)、

   《引用開始》

Ⅰ--半形養殖真珠(養殖ブリスター)半形状(3/4形も含む)の核を人為的に真珠貝の貝殻内面層に固着させ、核表面を真珠層で覆ったもの。養殖時に使用された核が養殖後も真珠中に残るか、あるいは除去され他の物質に置換されるか否かは問わない。天然真珠あるいは真円養殖真珠を切断、研磨などにより半形状または3/4形状に整形されたものはこの範疇外とする。

   《引用終了》

これは、現代に続く養殖真珠時代の用語ではあるものの、仏像真珠工程の場合も、この語は既に使用されていたのではないか? と私は思うのである。而して、中国で用いられていたものか、当時の日本で使われていたかは、判然としないのだが、単に、丸いものを半分の形にしたというのを、「半形」と書いたとは、どうも、私には思えないのである。大方の御叱正を俟つものではある。

 

■「琉球慶良間(ケラマ)島産」

              「凡、六分《の》一。」

[やぶちゃん注:産地と、食用ナマコで、長さ約二十七センチメートルほどであること、背部が細かな横線で描かれていること、描かれている口部の触手の描き方が如何にも多くあるように見えること等を勘案すると、私は、少し迷いつつも、

クロナマコ科クリイロナマコ(栗色海鼠)属トゲクリイロナマコ Actinopyga echinites

を第一候補に挙げることとする。

 根拠は、本邦では沖縄のみに分布すること、長さは十五~三十センチメートルであることがポイントであるが、触手は二十本で、同じ本数のナマナコ(沖縄には分布しない)に似て見えるのは納得される。

 しかし、

『トゲクリイロナマコの背部には、細かくて小さな疣足が密生しているのだが、果して、それをランダムな多量の横線で描くものだろうか?』

という疑問が生じて、ちょっと引っ掛かるのである。そして、トゲクリイロナマコを挙げるなら、沖縄・八重山でゾウリゲタの異名を持つ、

クリイロナマコ属クリイロナマコ Actinopyga mauritiana

も、同等、或いは、二番手の候補としないと、おかしいとも思うのである。クリイロナマコは、小笠原と奄美大島以南の岩礁帯に普通に見られ、上からみると楕円形に近く、背面は褐色から濃い褐色を呈し、白い斑点があること(しかし、それを、本図の如く横線で描くかどうかという疑義は、ある)、触手は大きく、トゲクリナマコよりも多い二十五本であることから、対抗馬の資格は十二分にあると言えるのである。

 

■「をきなまこ」[やぶちゃん注:ママ。]

 「此《この》ものハ、

  中國にて、『ふぢこ』。」

[やぶちゃん注:「をきなまこ」「沖海鼠」であるから、この表記は誤りである。

シカクナマコ科マナマコ属オキナマコ Apostichopus nigripunctatus (シノニム:Parastichopus nigripunctatus

である。これは、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページが、都合が、甚だ、よい。「由来・語源」に、『沖合いで揚がるナマコという意味。』とあり、「生息域」には、『海水生。水深20-600m。』『北海道〜九州までの太平洋・日本海沿岸。』とし、「基本情報」に、『北海道から九州までの太平洋、日本海での底曳き網などで揚がる。主に加工用であり、生鮮品として出廻ることはない。福島県相馬市原釜などでは出荷されているので、干しナマコなどの原料として利用されているのだと思われる。』とある。

「中國にて、『ふぢこ』」問題は、ここである。先のリンク先の写真を見て貰うと、捕獲からそれほど経っていないと思われる下の個体は、くすんだ藤色をしていると表現してよく、「藤子」でいいのだが、上記の通り、本種は中国沿岸には棲息しないのである。しかも、ぼうずコンニャク氏のおっしゃるように、清国へは、「煎海鼠」の一種である「乾し海鼠」の製品として送られていたのであり、即ち、清の人々は、それを見て、「藤海鼠」と呼称していたことになる。そうなると、「オキナマコの乾し海鼠」自体が紫色をしていなければ、「藤海鼠」とは呼ばないことになる。そこで調べてみた。あった! 島根県海士町(あまちょう)の『小さな離島で冬場だけ、ひっそりと稼働するなまこの加工場です。』とする「たじまや」公式サイトの「干しなまこ」だ! その上から四番目の笊に盛られた「干しなまこ」は! しっかりと! 藤色をしているじゃないか!!! このページには、このナマコがオキナマコとはどこにも書いてない。しかし、そもそも、この場所は日本海で、まさに、オキナマコに相応しい隠岐(おき)諸島の隠岐郡の島前にある中ノ島を主島とするのが海士町なのだ! さても、その画像の次の三枚は、食するために、水に入れて、戻しの様子を撮影したものであるが、これを見た、私は思わず――「オキナマコ!」――と叫んだのである。最後の注を、自信を持って終えることが出来た。私は隠岐が大好きである。再訪する時は、必ず、「たじまや」を訪ねて、じかに、この「干しなまこ」を買って、御礼したいと思うのであった。

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その15)~図版・注・分離公開(そのⅥ)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここの左ページ。右ページは白紙であるが、これは、恐らく、図版は本文製本とは別に挟み込むが、どうしても、この右ページを白紙で挟み込まないと組版上、当時の技術では物理的に出来なかったためであろうと思われる。他の古い書籍では、しばしば、こうしたことが生じているからである。なお、本図版に就いては、(その10)の冒頭注記を、必ず、見られたい。

 

Iriko6

 

【図版6】

 

■「生海鼠《いきなまこ》の圖」

[やぶちゃん注:「鼠」の字は、底本では、「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので、かくした。]

 

■「まなまこ」

 

■「あかなまこ」 「凡、六分《の》一。」

 

■「いそなまこ」

 「凡十分《の》一。」

[やぶちゃん注:「そ」は「勢」の字を元にした「ひらがな」の「せ」の崩し字である。]

 

■「とらなまこ」 「凡、十分《の》一。」

[やぶちゃん注:上の左端に縦で描かれてある。]

 

■「獨乙國《ドイツこく》動物學教授セレンカ氏試験

    生 殖 噐 の圖」

    「二」

    「三」 

 「四」  「五」

[やぶちゃん注:「授」の字は、底本では、(扌:てへん)に、(つくり)は、{上部が(「並」の一・二画を除いたもので、最終画の左だけが下にカギ状に下がったもの)+(攵)のような形}であるが、「授」に、このような異体字はないので、「授」とした。同じく、「試」の字は、(扌:てへん)に、(つくり)は、(「式」の第二画の右払い先の手前に右上から左下に「戒」の最終画の払いが不随したもの)であるが、これも「試」の異体字には、ないので、「試」とした。なお、東洋文庫版の活字化(新字)されたキャプションでも、『独乙国動物学教授セレンカ氏試験 生殖器の図』と起こしてある。このドイツの動物学教授セレンカ氏という人物は、東洋文庫版の後注に、

   《引用開始》

Emil Selenka 1842 – 1902)。ドイツの動物学者、人類学者。無脊椎動物や人類の研究を行い、東南アジアや南アノリカにおける探検調査で知られている。初期は海洋の無脊椎動物、とくに棘皮動物門の発生組織、分類の研究を進めた。「生海鼠の図」に掲げられた図は、セレンカの下記の論文の図版とよく似ている。Emil Selenka, Zur Entwickelung der holothurien holothuria tubulosa und cucumaria doliolum).  Ein Beitrag zur Keimblättertheorie. Zeitschrift für wissenschaftliche Zoologie. 27.1876.pp. 155-178. p1.9-13.

   《引用終了》

とあった。彼の英文ウィキは、ここドイツ語のそれは、ここにある。以上のドイツ語部分は、私は大学時代の第一外国語がフランス語であるため、ドイツ語は全く判らないので、機械翻訳した限りでは、

   *

エミール・セレンカ、「ナマコ( holothuria tubulosa と cucumaria doliolum )の発生について。胚葉理論への貢献」『Journal of Scientific Zoology

   *

であった。

 この“ Holothuria tubulosa ” (ホロチュリア・チューブローサ:ラテン名学名の頭は大文字にした。以下同じ)は、和名はなく、英語で“cotton-spinner” (綿糸の紡績業者・紡績工。「綿紡ぎするナマコ)又は、“tubular sea cucumber”(管状ナマコ)で、現行の正式な学名は、クロナマコ属 Holothuria ( Holothuria ) tubulosa である。参照した英文の当該ウィキに拠れば、大西洋東部の温帯地域、特にビスケー湾北部から地中海にかけての地域に広く分布し、地中海では豊富に生息している。砂地の海底・海草( Posidonia 属)の間、水深約100メートルの泥岩に棲息しているとあった。

 次の“ Cucumaria doliolum ”は、Pentacta doliolum (ペンタクタ・ドリオルム)のシノニムで、和名はなく、樹手目キンコ科キンコ属である。ネット検索では、英文のこのページ(画像有り)しか、詳細な記事は見当たらない。

 なお、主にドイツ語の情報源からの分類学・書誌・著者、及び、標本データのオンライン・カタログ“Zobodat のここブロックされる方は、以下のアドレスで見られたい。

chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.zobodat.at/pdf/Zeitschrift-fuer-wiss-Zoologie_27_0155-0178.pdf

)で、PDF
で原本がダウンロード・視認が可能であり、PDF仕様の右の画像指示ページの『25』以下に、以上の発生過程図が幾つかのチャートの中に総て確認出来るので、是非、見られたい。但し、劣化が激しい。

 下部の右端の図に「一」が無いのはママ。これは、ナマコの発生過程を示したものである。先の本川先生の「ナマコガイドブック」の「第1部 ナマコQ&A」の25ページの「マナマコの発生」の写真画像から参考推測すると、

「一」相当の図は、原腸胚。

「二」は、オーリクラリア( auricularia )幼生(種が異なるので、前記か後期かは判断出来ない)。

「三」は、ドリオラリア(doliolaria)幼生か、ペンタクツラ(pentactula)幼生。形状として一致するのは、断然、後者である)。

「四」は、稚ナマコ。

「五」は、成体の透視図である。

2025/11/10

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その14)~図版・注・分離公開(そのⅤ)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここの左ページ。なお、本図版に就いては、(その10)の冒頭注記を、必ず、見られたい。

 

Iriko5

 

【図版5】

 

■「其 五」

 

■「チリメンイリコ」「沖縄縣八重山島産」

 「表」

     「正面」

 「裏」

[やぶちゃん注:「チリメンイリコ」前の図版4の最後にある「カズマル」で、前掲の大島先生の論文「沖繩地方產食用海鼠の種類及び學名」の『緖言及び總論』の引用に出たが、『亞屬 Actinopyga BRONN, PEARSON emend.』の『10. Holothuria (Actinopyga) miliaris (Quov et GAIMARD』の項で(『第5圖』附き。国立国会図書館デジタルコレクションのものでは、ここの左ページの上)、

   《引用開始》

體長 27 cmに 達 する。生時は全体一様に 暗紫色乃至暗褐色を呈し, 腹面は少しく淡色である。体表の骨片は細い稈状體の左右に多くの短い小枝を生ずるもの, 及び小形やゝ不完全な花紋様體。分布はモザンビク・紅海からカロリン・トンガ諸群島に亘り,  北はわが奄美大島に及ぶ。箕作博士は大島の蘇苅で本種を獲られた。本種で製した熬海鼠(第5圖)はチリメンと呼ばれる。蓋し表面が強く細かい皺襞を生じてゐることに因んだ名である。蘭領印度諸地方の名は tripang balibie, t. batoe, t. belangoeloe, t. bikaloe, t. djepoeng 等々多数あるが他は省略する。トルレス海峽地方では烏参(black fish)の名がある。價格はさきに引用した如く100斤の債淸貨 140兩(テール), 箕作博士によれば沖繩で120, KONINGSBERGER によれば1ピクル50-70グルデンであると云ふ。

   《引用終了》

とあるのがそれである。これは既に注で示した、クロナマコ科クリイロナマコ属チリメンナマコ(縮緬海鼠) Actinopyga miliaris である。]

 

■「黒ウサ」 「沖縄縣下産」

 「表」

 「裏」

[やぶちゃん注:これも、同前の大島先生の同論文の国立国会図書館デジタルコレクション版の『第8圖』がそれであり、前に私が述べたチリメンナマコ(縮緬海鼠) Actinopyga miliaris であるが、前ページの解説文の中で、先生は『本種の熱製品にはシロウサー(白鼠第7圖),クロウサー(黒鼠第8圖)の2品種があるが箕作博士は多分生時の色彩の変異に因るのであらうと云はれる。トルレス海峽產のものに石參(teat fish, 白靴(white  test fish,烏双蟲(black sneke)等の外に乳房をもつ魚と云ふ意味の名がある。さてさきに引用したもの』『にクラウソウ・白ウサフなどと書いてあつたのは勿論本種のことであるが, 別の所に』『烏縐(ウスウ)卽ち肉刺なく縐』(=縮み・皺)『あり色黒きものとあるのもこれに當ると思はれる。ウサー或はウソウは烏縐を讀んだもの, 烏双・鼠なとの字は音に合せて作つたものではなからうか』と述べておられる。]

 

■「羽地《はねぢ》イリコ」

 「沖縄縣下琉球國頭《クンジヤン》産」

 「表」

     「正面」

 「裏」

[やぶちゃん注:「羽地イリコ」(その8)で既に述べた通り、これは製品名として認識しているのであろうが、実際には、その製品に使う、生体の、

クロナマコ科ジャノメナマコ属フタスジナマコ(二筋海鼠)Bohadschia bivittate

を指す沖縄方言と思われる。

「國頭」現在の「やんばるの森」を有する沖縄県国頭郡(くにがみぐん)国頭村(くにがみそん)。ここ何故、私が『クンジヤン』と振ったかと言うと、次の図で、そう振っているようからである。

 

■「シナフヤー」

 「沖縄縣下琉球國頭(クンジヤン)産」

 「表」

     「正面」

 「裏」

[やぶちゃん注:「國頭(クンジヤン)」のルビであるが、拡大しても「シ」には濁点はないのだが、現在の国頭郡国頭村は、古くから沖縄方言で「くんじゃん」と呼ばれていること、東洋文庫版の、活字化したキャプション一覧でも『くんじゃん』と判読して振っていることから、かくした。

「シナフヤー」は(その8)で示した通り、

クロナマコ科ジャノメナマコ属フタスジナマコ(二筋海鼠)Bohadschia bivittate

である。]

 

■「メーハヤー」

 「沖縄縣琉球國頭(クンジヤン)産」

 「表」

     「側面」

 「裏」

[やぶちゃん注:珍しく「側面」図を下方に示してある。

「メーハヤー」同じく(その8)で示した通り、

クロナマコ科ジャノメナマコ(蛇の目海鼠)属ジャノメナマコ Bohadschia argus

である。]

 

■「ナンフ」

 「沖縣下産」

 「表」

 「裏」

[やぶちゃん注:「ナンフ」(その8)で示した「なんふう」と同じであろう。そこで注した通り、全く分らない名前である。識者の御教授を、再度、乞う!

2025/11/09

三泊四日で五島列島の旅から帰宅した

五日に、五島列島のツアー旅に連れ合いと出かけ、昨日、日が代わる頃に帰宅した。
離島の素敵な雰囲気をしっかりと満喫するとともに、「キリシタン」に就いて、三種類のグループが存在し、現に今もいることを明確に学ぶことが出来、甚だ目から鱗でした。おいおい、纏めて書いてみようと思っている。

参加メンバーの二十数人の内、男は私が一番若く、海上タクシー(今回で老朽化で引退する船で、船主の許可で瀬戸を舳先で満喫した。なかなか出来ない、潮風が顔を斬る面白い体験であった。)からの大荷物の運び出しを、独り、手伝いをして、葛掃討で痛めた両肩が、またまた悲鳴を挙げたのだが、老船長への細やかな御礼であった。

念願であった「トッカッポ」=ハコフグ料理を、個人オプションで頼み、満喫した。ウメエぞう! トッカッポは!!!

2025/11/04

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その13)~図版・注・分離公開(そのⅣ)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここの右ページ。なお、本図版に就いては、(その10)の冒頭注記を、必ず、見られたい。

 

Iriko4

 

【図版4】

 

■「其 四」

 

■「光参」「三分ノ一。」「琉球産」

 「おして、海參ノ最上ナルモノ。」

 「表」

 「裏」

[やぶちゃん注:これは、産地・大きさ・形状と、自信を持って最高級の製品であるとすることから、(その11)で示した、楯手目クロナマコ科クロナマコ属クロナマコHolothuria (Halodeima) atra である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」同種のページの画像の二枚目を見ると、「裏」とする管足側の凸凹な感じ(管足自体は煎海鼠にすると、収縮してしまい、そこが、陥没したようになるのであろう)とも、よく一致する。

「おして」「推して」で、「ある状態に於いて最も相応しいものとして他者に薦める」の意。]

 

■「琉球産」

 「『長大ナル』ト、称《しやう》スルモノナリ。」

 「四分ノ一。」

 「表」

 「裏」

[やぶちゃん注:同前で、クロナマコである。スケール縮小から、前者より大きい。底本実物の高さは二十六センチメートルほどである。前掲のリンク先には、『35㎝前後になる』とあり、二枚目の画像の物差しも三十五センチメートルである。何度も引用している本川先生の「ナマコガイドブック」では、『体長5~25㎝』とするものの、『熱帯地方では、50㎝以上の大型個体もみられ、乾かして海参を製する。』とある。]

 

■「白ウサフ」 「沖縄下産」

 「表」

      「正面」

 「裏」

[やぶちゃん注:「白ウサフ」既に紹介した「九州大学附属図書館」公式サイトのここの、大島廣先生の論文「沖繩地方產食用海鼠の種類及び學名」(『九州帝國大學農學部學藝雜誌』昭和一〇(一九三五)年二月発行所収・PDF)の『亞屬 Microthele BRANDT』『13. Holothuria (Microthele) nobilis (SELENKA)』(=クロナマコ属イシナマコ亜属イシナマコHolothuria (Microthele) nobilis (Selenka, 1867)の項の解説の中で(部分引用。注番号はカットした)、

   《引用開始》

 本種の熬製品にはシロウサー(白鼠、第7圖), クロウサー(黒鼠, 8圖)の2品種があるが箕作博士は多分生時の色彩の変異に因るのであらうと云はれる。トルレス海峡[やぶちゃん注:トレス海峡。]產のものに石參(est fish),  白靴(hite test fish), 烏双蟲(black snke)等の外に乳房をもつ魚と云ふ意味の名がある。さてさきに引用したものにクラウソウ・白ウサフ[やぶちゃん注:☜]などと書いてあつたのは勿論本種のことであるが, 別の所に烏縐(ウスウ)[やぶちゃん注:「黒い縮んだもの」の意であろう。]卽ち肉刺なく縐あり色黒きものとあるのもこれに當ると思はれる。ウサー或はウソウは烏縐を讀んだもの, 烏双・鼠などの字は音に合せて作つたものではなからうか。

   《引用終了》

とあった。この次の150ページの冒頭に三体の乾燥写真が載るが、その一番右の『第9圖』『サバ  Holothnria (Microthcle)  nobilis  (SELENKA). × 3/4 八重山産・(原圖).』を、是非、見られたい! 本図の「表」を彷彿させる図である! なお、同論文は国立国会図書館デジタルコレクションでも見ることが出来るので、当該図のリンクを張っておく。 なお、大島先生の記載の中に『サバは八重山語で草履を意味する。』とあった。激しく、ナットク!

 さて、本川先生の「ナマコガイドブック」から、イシナマコの項の解説を引用しておく。『体長3040cm。 一名タラチネナマコ。体は堅く、やや平らな太い円筒形で、腹面はより平らである。背面は黒に近い褐色で、腹面は背面より淡い。生時は体表に砂を付ける。触手は20本。口は前端腹面に、肛門は後端に開き、やや石灰化した5個の肛歯がある。管足は腹面に密であるが、背面や側面には管足または疣足がまばらに分布する。浅海のサンゴ砂礫上に生息する。沖縄諸島、ニューカレドニア、オーストラリア、グアム、中国、台湾に分布。』とある。

「沖縄下産」は「おきなはか」で「沖縄県下」の意であろう。沖縄県は明治一二(一八七九)年三月二十七日に琉球藩を廃止して置かれていた。

「正面」製品の頭部の吻部を正面から描いたもの。]

 

■「琉球産」「ヒラカタニミーハイ」

 「二分ノ一。」

 「裏」

 「表」

[やぶちゃん注:「ヒラカタニミーハイ」意味不明。識者の御教授を乞う。ただ、図(変則で、裏→表の順である)を見るに、クロナマコと思われる。]

 

■「琉球産」 「丸形《まるがた》。」

 「五分ノ一。」

[やぶちゃん注:本図の最初と、二つ目の図との類似性から、クロナマコ比定。]

 

■「シビー」「沖縄縣下産」

 「凡、四分ノ一。」

 「表」

     「正面」

 「裏」

[やぶちゃん注:前掲の大島先生の論文「沖繩地方產食用海鼠の種類及び學名」の『亞屬Actinopyga BRONN, PEARSON emend.』『9. Holothuria (Actinopyga) lecanora (JAEGER)』の項の解説の中で(部分引用)、

   《引用開始》

箕作博士は沖繩島糸滿・喜屋武崎等で本種を採集されたが, 沖縄でも八重山でも本種の製品をシビーと稱する(第4圖)。箕作博士はこれに志比宇と云ふ字をあて, 子安貝に似ると云ふ意味なりと記して居られる。八重山では子安貝のことをシビーと云はず訛つてスビ(sbü

)と云ふ。この海鼠が體壁を縦に裂かれ强く短縮して圓くなつた製品の形がやゝ子安貝こ似てゐる所からかく呼ぶのであらう。CLARK1, p.188)によればトルレス海峽地方の漁夫はこれを石魚と云ふ意味の名で呼んでゐると云ふ。本種は上品に屬し, 八重山での價格は100斤につき50圓である。

   《引用終了》

とあって、右下方に』『第 4 圖』がある(国立国会図書館デジタルコレクションで、ここの右ページの左下方)。而して、このHolothuria (Actinopyga) lecanora であるが、後に属名が変更され、さらに近年、和名変更も行われて、ヨコスジオオナマコ Stichopus herrmanniとなっている。本川先生の「ナマコガイドブック」から、引用しておく。

   《引用開始》

ヨコスジオオナマコ(和名変更)[シカクナマコ科Stichopodidae

Stichopus herrmanni Semper, 1868

体長30cmを超える。体は角の丸い四角柱。体色は褐色、黄緑色、橙色と変化に富む。背面と側面には褐色から暗褐色の小さな疣足が散在し、体軸と垂直方向に多くの細い筋が見られる。触手は20本。沖縄以南の礁地の砂地に生息する。オーストラリア、フィリピン、スマトラ。『新星図鑑シリーズ第11巻 沖縄海中生物図鑑』(1990)でStichopus variegates var. hermanni Semperに対して和名ヨコスジナマコが用いられたが、その和名は以前から Actinopyga lecanoraJaeger, 1833)に対して用いられている。また学名については、F.W.E.Rowe1995)によって、hermanni が亜種名から種名に変更された。

   《引用終了》]

 

■「ゾーリゲタ」 「沖縄縣産」

 「凡、四分ノ一。」

 「表」

     「正面」

 「裏」

[やぶちゃん注:「ゾーリゲタ」は(その8)の「ぞうりげた」の私の注を見られたい。沖縄方言で、「草履下駄」で、楯手目クロナマコ科クリイロナマコ(栗色海鼠)クリイロナマコ Actinopyga mauritiana の沖縄での方言名である。]

 

■「カズマル」 「凡、一四分の一。」

 「沖縄縣産」

 「表」   「正面」   「裏」

[やぶちゃん注:この最後の煎海鼠は、特異的に三図が縦に並んでいる。

「カズマル」前掲の大島先生の論文「沖繩地方產食用海鼠の種類及び學名」の『緖言及び總論』の中で、

   《引用開始》

 琉球產海參の品種について水產局の調査した所(8,pp.9-10)に據ると“チリメン・シビー・ゾウリゲタ・クラウソウ・シロウソウ・カズマル・ハネヂイリコ・シナフヤシ・メーハヤー・ナンフウ等なり且つ其品位上好其價甚高し其中カズマルと稱するものは淸國にて開片梅花參と稱す上好のものなり又チリメンは百斤の淸貨百四十両(テール), 其他も上品五十兩, 中品四十三兩, 下品三十五兩の高價なりし” "とあり, この書には圖版にチリメンイリコ・シビー・ゾウリグタ・黑ウサー・白ウサフ・カズマル・羽地イリコ・シナフヤ・メーハヤー・ナンプ等の琉球產熬海鼠の圖を示してある(本文中の構呼と綴字を異にするものがあるがわざと原の通りに記して置く)。

   《引用終了》

とあった。この「開片梅花參」は、(その2)の注で示した通り、シカクナマコ科バイカナマコ属バイカナマコ Thelenota ananas  である。]

2025/11/03

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「山男」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を、ごく一部で補塡した。欠字は底本では、長方形二字分。「甲折處」の「折」は(てへん)ではなく、「土」で、「圻」である。この「圻」は、音「キ・ギン・ゲ・ゴン」で、訓は「かぎり(限り)・さかい(境)」である。「近世民間異聞怪談集成」では、『拆』とあり、これは音「タク・チャク」で、訓は「さく(割く)・ひらく(開く)」である。しかし、どうも、孰れも違う気がした。中国漢文の中で見かけた記憶があったからである。而して、これは『「甲」との熟語である』という気がしたのである。調べたところ、図に当たった。「甲坼」という熟語があり、小学館「日本国語大辞典」には、『こう‐たくカフ‥』『【甲坼】』とあり、『草木が芽を出すこと。実生(みしょう)。〔易経‐解卦〕』とあったのが、意味としても、しっくりくるので、それを採用した。漢文中の歴史的仮名遣の誤り、「見」はママである。

 

 「山男《やまをとこ》」 安倍郡□□村の深山《しんざん》にあり。「日本國事跡考」云《いはく》、

『阿部山中有ㇾ物、號山男、非ㇾ人非ㇾ獸、形似巨木斷キレニ四肢、以手足一、木皮有兩穴、以爲兩眼、甲坼處以爲鼻口、左肢曲木與一レ藤以弓弦、右肢細枝ㇾ矢。一旦獵師相逢射ㇾ之倒ㇾ之、大ケハㇾ之、觸ㇾ岩ㇾ血、又牽ケバ之甚不ㇾ動。驚歸ㇾ家與ㇾ衆共ルニㇾ之不ㇾ見焉、唯見クヲ岩石耳。云云。』。

 

[やぶちゃん注:漢文部を推定訓読する。一部の読み・句読点・訓点・記号(特に送り仮名)は、私が必要と考えたものを大幅に増量し、変更を行なってある。読み易さを考え、段落を形成した。「見へず」はママとした。「灑く」は古くは清音であるから、問題としない。

   *

 阿部山中(あべさんちゆう)、物(もの)有り。號(なづけ)て、「山男」と曰(い)ふ。

 人に非(あら)ず、獸(けだもの)に非ず。

 形(かたち)、巨木(きよぼく)の斷(たちき)れに似(に)、四肢(しし)、有り、以(も)つて、手足と爲(な)す。

 木皮(ぼくひ)には、兩(りやう)の穴(あな)、有り、以つて、兩眼(りゃうがん)と爲し、甲坼(かふたく)の處(ところ)、以つて、鼻・口と爲す。

 左肢(さし/ゆんで)に、曲木(まがりぎ)と、藤(ふぢ)とを、懸けて、以つて、弓弦(ゆづる)と爲し、右肢(うし/めて)に細枝(ほそえだ)を懸けて、以つて、矢と爲す。

 一旦[やぶちゃん注:一度。]、獵師(れうし)、相逢(あひあ)ひて、之れを射て、之れを倒(たふ)す。

 大(おほき)に、恠(おそ)れて、之れを牽(ひ)けば、岩に觸れて、血を流す。

 又、牽けば、之れ、甚だ、重くして、動かず。

 驚き、走り、家に歸る。

 衆(しう)と共(とも)に、徃(ゆ)きて、之れを尋(たづぬ)るに、見へず。

 唯(ただ)、血の、岩石に灑(そそ)くを見るのみ。云云(うんぬん)。

   *

「日本國事跡考」林羅山の三男で幕府儒官であった林春斎(林鵞峰(はやしがほう:元和四(一六一八)年~延宝八(一六八〇)年)が、諸国を行脚して、それぞれの事跡を記載・考証したもの。寛永二〇(一六四三)年に著したもので、特に、松島・天橋立・宮島を「日本三景」として絶賛した嚆矢として知られる。

「安部山中」平凡社「日本歴史地名大系」に「安部山 あべやま」がある。『静岡県』『静岡市旧安倍郡地区安部山』とし、『安倍川の上流(大河内川とも称する)域と、その支流である中河内(なかごうち)川』、及び、『西河内川流域一帯を含む中世の広域地名。およそ安倍川と中河内川合流地点以北の山間部をいう。阿部山・安倍山などとも記す。また』、『安部郷とか単に安部・安倍・阿部と記されている場合も、当地域一帯をさすと思われる』とあった。「ひなたGIS」で示しておく。]

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その12)~図版・注・分離公開(そのⅢ)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここの左ページ。なお、本図版に就いては、(その10)の冒頭注記を、必ず、見られたい。

 

Iriko3

 

【図版3】[やぶちゃん注:左ページ。]

 

■「其 三」

[やぶちゃん注:上罫外の標題。

 ここでは、左下方に、串二本で突き刺した五個体の製品と、軟らかい繩様の物で中央部を貫いた十二個体の図(かなり大きい)があるが、それらは、最後に配しておいた。

 

■「陸奥國《むつおくのくに》

  東津輕郡《ひがしつがるのこほり》

  小湊村産」

 「二匁ヨリ、十五匁。取交□。

[やぶちゃん注:最後の□は、東洋文庫版の巻末に近い位置にあるキャプションを活字に起こした表では、『□』となっていて、判読不能である。しかし、これは、私は「ゼ」、或いは、「也」であろうと判読している。前者なら、「とりまぜ」であり、後者なら、「とりかはせなり」となろうが、前で重量を述べているのであるから、前者の可能性(「重さ・大きさがマチマチのものを取り交ぜたものである」の意)が極めて高いと考えている。

「陸奥國《むつおくのくに》」「昆布の說」の本文で、河原田氏は、「陸奥」に、かくルビを振っているのに従った。

 マナマコ比定。]

 

■「讚岐國大內郡《おほちのこほり》

 日引村《ひけたむら》産」

[やぶちゃん注:「讚岐國大內郡日引村」旧大川郡引田町(ひけたちょう)大字引田で、現在の香川県東かがわ市引田(ひけた)。当該ウィキによれば、『播磨灘に面する港町で、醤油醸造で栄えていた時代の古い町並みとともに、世界で初めてハマチ』(スズキ(アジ)目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata の「出世魚」の大きさで分けた地方名の一つ。ウィキの「ブリ」によれば、『関西』で、『モジャコ(稚魚)→ ワカナ(兵庫県瀬戸内海側)→ ツバス、ヤズ(40 cm以下)→ ハマチ (40-60 cm) → メジロ (60-80 cm) → ブリ(80 cm以上)』、『南四国』で、『モジャコ(稚魚)→ ワカナゴ(35 cm以下)→ ハマチ (30-40 cm) → メジロ (40-60 cm) → オオイオ (60-70 cm) → スズイナ (70-80 cm) → ブリ(80 cm以上)』とあり、『80 cm 以上のものは関東・関西とも「ブリ」と呼ぶ。または80 cm以下でも8キログラム』『以上(関西では6 kg以上)のものをブリと呼ぶ場合もある。和歌山県は関西圏だが』、『関東名で呼ぶことが多い。流通過程では、大きさに関わらず養殖ものをハマチ、天然ものをブリと呼んで区別する場合もある』とある。なお、『「ハマチ」の漢字に「魬」が、「ワカシ」の漢字に「𮬆(魚偏に夏、魚+夏)」が使われる』とある)『の養殖に成功した地としても知られる。』とある。マナマコの産地としても知られる。]

 

■「後志國《しりべしのくに》

  岩内郡《いはないのこほり》

  三島町《みしまちやう》産」

[やぶちゃん注:「後志國岩内郡三島町」現在の岩内郡岩内町(いわないちょう)御崎(みさき:字名(あざめい))。平凡社「日本歴史地名大系」の「三島町」「みしままち」(この読みは不審。後を見よ)に、『明治初年(同二年八月―九年の間)から同三三年(一九〇〇)まで存続した町。岩内市街のうちで、堀江(ほりえ)町の西に位置する。明治九年の大小区画沿革表に三島町とある。同二一年の戸数八五・人口三二〇、同二四年の宅地は一町二反余(岩内古宇二郡誌)』とある。既に述べたが、北海道では、「町」を「まち」と読むのは、茅部郡(かやべぐん)森町(もりまち)のみである(ここ)。これは、北海道の開拓時代に於いて、行政区画としての「町」が設定された際、「ちょう」という読み方が採用されたことに由来するので、先に「不審」としたのである。

 本種は、間違いなくマナマコである。北海道岩内郡岩内町字大浜の「一八興業水産株式会社」公式サイト「一八食堂」の「ナマコのお話」に、『岩内町の市場では、さまざまな魚種の水揚げが減っていますが、ナマコの水揚げはそれなりにあります。価格も中国での需要が強いために、高値で取引されています』。『正式名称は「マナマコ」。岩内ではナマコと言えば、「生子」と書いて「生助子(なますけこ)」の事を指し、生スケトウダラの子、いわゆる』、『たらこの生の原料の事を言いますが、最近では』、『このイボイボの海鼠が一般的になりました』。『昔からナマコは薬効があるとされ、中国では陸の人参(朝鮮人参)と対比し、干しナマコは海参と呼ばれています。古書では強精剤としての効能が強調されていますが、外観の異様さからの思いこみのようで、真偽のほどは?です。試してみてはいかが?』とされ、『岩内のナマコは他地域のものにくらべ』、『イボイボのとんがりが強いために、評価が高いのです。岩内の荒波の海で生き延びたからでしょうか。目先だけの漁でなく、資源管理をしっかりしながらの漁獲を期待したいものです。』とあった。如何にも、がっちりした褐色の、上手そうな生体写真もあるので、見られたい。

 

■「靑森縣川內村《かはうちむら》産」

[やぶちゃん注:「靑森縣川內村」正確には、旧青森県三戸郡(さんのへぐん)切谷内村(きりやないむら)。旧村名では、現在の三戸郡五戸町(ごのへまち)切谷内(大字名)かそれに近いが、ご覧の通り、かなり内陸であり、一方の合併(明治二二(一八八九)年)して「川内村」となった上市川村(かみいちかわむら)の方が、比較的に海浜に近いので、少なくともナマコを採取していたのは、この上市川村であろうか。しかし、「ひなたGISの戦前の地図を見ると、上市川から、さらに海岸辺に当たる地域に「市川村」があり、ここが実際のナマコ漁を仕切っていたであったのであり、煎海鼠を作るのは、内陸の上市川・切谷内ででもあったものかも知れない。

 マナマコ比定。]

 

■「陸奥國西津輕郡《にしつがるのこほり》

  鯵ケ澤村《あぢがさはむら》産」

[やぶちゃん注:「陸奥國西津輕郡鯵ケ澤村」青森県西津軽郡鰺ヶ沢町(あじがさわまち)。

 塩谷亨氏の論文「青森県における魚類等の方言名について」(『北海道言語文化研究』(巻14・二〇一六年四月二十七日北海道言語研究会発行・「室蘭工業大学学術資源アーカイブ」のここでダウンロード可能・PDF)を見たところ、資料リストの中に以下のようにあった(標準和名の後の地方名の記号は、「SM」が石戸芳男著「八戸魚物語」(二〇〇八年デーリー東北新聞社刊)、「HM」が東北農政局青森統計情報事務所編「青森県さかな方言名」(一九九一年同事務所刊)、「HS」が 日下部元慰智(もといち)著「青森県さかな博物誌」(一九八八年東奥日報社刊)、「TN」が工藤祐著「津軽と南部の方言 青森県の文化シリーズ15」一九七九年北方新社刊にリストされている方言名を意味すると冒頭にあった。また、半濁音(「゜」)は、「津軽と南部の方言」『ではカ行に半濁点の付された表記がある。これについてはおそらく鼻濁音であろうと思われる。』とあった)。

   《引用開始》

  • <ナマコの仲間>

 ➢ ナマコ: [HM なまこ、あかなまこ] [TN ナマコ゜、ハナタラシ(津軽)]

 ➢ オキナマコ: [HM おきなまこ]

 ➢ マナマコ: [HS ナマコ] [TN クロナマゴ(八戸)]

 ➢ ムラサキクロナマコ: [TN アガナマゴ・シマナマゴ(津軽)]

 ➢  フジナマコ: [TN フンジナマコ(西海岸地方・大間)、フンチコ(青森・鰺ヶ沢)]

 ➢ 不詳(ナマコの一種): [TN アカナマゴ(八戸)]

 ➢ 不詳(ナマコの一種): [TN スナナマゴ・アオナマゴ(青森周辺)]

 ➢ 不詳(ナマコの一種): [TN イシナマゴ(鰺ヶ沢)]

 ➢ 不詳(ナマコの一種): [TN オギナマゴ(鰺ヶ沢)]

   《引用終了》

因みに、単なる

◎「ナマコ」は「マナマコ」

で、

◎「オキナマコ」は(その3)で示した楯手目シカクナマコ科マナマコ属オキナマコApostichopus nigripunctatus (シノニム:Parastichopus nigripunctatus

でよいが、

「ムラサキクロナマコ」というのは、標準和名に存在しない。

ムラサキクルマナマコ(紫車海鼠)=無足目クルマナマコ科ムラサキクルマナマコ属ムラサキクルマナマコ Polycheira rufescens は存在するが、相模湾以南にしか棲息しないので、違う。別に、

ナマコ綱樹手目Dendrochirotidaスクレロダクティラ科 Sclerodactylidae ムラサキグミモドキ属ムラサキグミモドキ Afrocucumis africana がいるが、これも、房総半島南部と、紀伊半島以南にしか棲息しないので、これもアウトである。

されば、

◎方言名の「アガナマゴ」は「アカナマコ」で「アカ型」のマナマコで、

◎「シマナマゴ」は「シマナマコ」=「縞海鼠」で、即ち、背部の地色が薄桃色、又は、淡赤褐色で、赤褐色、又は、暗赤褐色の模様が「斑(まだら)」に出るところの、同じく「アカ型」のマナマコ、

或いは、逆に、既に、私が(そのⅡ)の「藤海鼠(ふじこ)」の注で推理したように、

一般に暗青緑色=藤色を呈しているマナマコの「アオ」型のマナマコなのではないか?

という見解を述べておく。

かくなれば、次の「フジナマコ」も、やはり、(そのⅡ)の「藤海鼠(ふじこ)」の注で示した、三浦三崎・小湊・白浜・淡路島・壱岐島・豊後・高知を棲息域とする

クロナマコ科クロナマコ属フジナマコ亜属 Holothuria ( Thymiosycia )  decorata  フジナマコ

ではあり得ず、前掲の私のマナマコとするしかないと、私は断言するものである。

序でなので、終わりの頃の「不詳」とされる、方言の内の「イシナマコ」であるが、これも、同名和名種があることは、ある。

クロナマコ科クロナマコ属イシナマコ亜属イシナマコ Holothuria ( Microthele ) nobilis

であるが、本邦では、沖縄諸島にしか棲息しないので、ダメである。

 迂遠な注となった。この図の個体は、無論、マナマコ比定である。

 

■「隱岐國《おきのくに》和夫郡産」

[やぶちゃん注:「和夫郡」は「知夫郡」の誤記。読みは「ちぶのこほり」。現在の知夫島を中心とした隠岐郡西ノ島町(にしのしまちょう)知夫村(ちぶむら)に当たり、島根県で唯一の「村」である。私は一度、行ったことがある。悔しいのは、腹足綱異鰓上目真後鰓目無楯(アメフラシ)亜目アメフラシ上科アメフラシ科アメフラシ属アメフラシ Aplysia kurodai を食いそこなったことだった。離島は、どこも、大好きだ! 近々、五島列島に行く予定である。遂に、念願だったハコフグが食える!!!

 頭部が捩じれているが、マナマコ比定。]

 

■「三重縣甲賀村《こうかむら》産」

[やぶちゃん注:現在の滋賀県の甲賀市ではないので注意! 三重県志摩市阿児町甲賀(あごちょうこうか:大字)である。ここだ! 甲賀との関係は当該ウィキの「歴史」を見られたい。

 前図のものよりも強く、有意に捩じれている。これは乾した際の物理的に生じたものなのかも知れないという気がしてきた。マナマコ比定。]

 

■「串海鼠(くしこ)」

[やぶちゃん注:產地も何も書かれていない。ふと、『前の二図と、三つで、ある、合わせとして、河原田氏が、配したのではないか?』という思いつきが生じた。前の二個体の製品は頭部を捩じって、紐で縛った二個体を、一本の比較的太い橫竿に跨らせて乾したのではなかったか? 而して、それらより、小型のものは、串に刺してぶら下げたのではないか?……私の――煎乾海鼠妄想――である。マナマコ比定。]

 

■「福良海村産」

[やぶちゃん注:「福良海村」これは、恐らく「福良浦村《ふくうらむら》」の誤記である。現在の淡路島の南端中央にある、福良港を擁する兵庫県南あわじ市福良(ふくら)である。当該ウィキに、明治二二(一八八九)年四月一日に、『町村制の施行により、近世以来の福良浦が単独で自治体を形成して三原郡福良町が発足』しているとあることから、この繁盛がよく判る。しかも、『福良港や鳴門海峡で釣れる魚種は、鳴門鯛』(スズキ目スズキ亜目タイ科マダイ亜科マダイ属マダイ Pagrus major のブランド名)『をはじめとしてアオリ、カレイ、アジ、キス、サバ、タチウオ、サヨリ、ハマチ、スズキ、チヌ、メバルなどである』とある。食われるマナマコも、これまた、繁殖しているに違いない。]

 

■「伊勢木谷村《いせきだに》産」

[やぶちゃん注:「伊勢木谷村」現在の三重県度会郡南伊勢町(いせちょう)木谷(きだに)。マナマコ比定。]

 

■「天比國増毛郡《ましけのこほり》増毛村産」

[やぶちゃん注:「天比國増毛郡増毛村」「天比國」は、どうしたら、こんな誤記が出来てしまうのか、甚だ、不思議だが、「天塩國《しほのくに》」(今までは「天」と書くことが多かった)の誤りである。現在の北海道増毛郡増毛町である。

 マナマコ比定。]

 

■「山口縣大島郡《おほしまぐん》産」

 「背」

 「腹」

[やぶちゃん注:「山口縣大島郡」当該ウィキ(郡)によれば、現在は周防大島町(すおうおおしまちょう)『一町』(=屋代島(やしろじま))『で同郡を形成している。但し、明治一二(一八七九)年に『行政区画として発足した。当時の郡域は、』大島『町に柳井市の一部(平郡島)』(「へいぐんとう」と読む。ここ)『を加えた区域にあたる。なお』、『本州の神代村』(こうじろそん)『・大畠村』(おおばたけむら)『・遠崎村』(とおざきむら)『は』、『明治』九(一八七六)『年』『に大島郡から玖珂郡』(くがぐん)『へ移されていた』とあるので、本書刊行当時は、実質、屋代島及び平郡島産ということになろう。

 マナマコ比定。]

 

■「イリコ」

 「長嵜縣産」

 マナマコ比定。]

 

■「渡島國《としまのくに》

  茅部郡《かやべのこほり》

  砂原村《さはらむら》産」

 「一個量、六匁。」

[やぶちゃん注:「渡島國茅部郡砂原村」現在は、同じ茅部郡の森町(もりまち:既に述べた通り、現在の北海道で「町」を「まち」と読む唯一の町名である)と二〇〇四年に合併協定書を調印し、茅部郡森町砂原(さわら)となっている。「郵政その他、皆、「さわら」である。果して、明治十九年段階で歴史的仮名遣で正しく「さはら」と表記したことは、取り敢えず、「ひなたGIS」の戦前の地図では、駅名が、確かに「さはら」となっては、いる。しかし、ウィキの「砂原町」によれば、『町名の由来はアイヌ語の「サラキウシ」(鬼茅のある所の意)から』とあり、この「鬼茅」は、一応、「葦原」・「茅(かや)」の意味であるらしいあまいものこさんのサイト「甘藷岳山荘」の「山名考」の「砂原岳」の緻密な考証の中で意味を拾った)。私がここでの歴史的仮名遣に問題を感じるのは、アイヌ語由来であるものを、安易に漢字表記から歴史的仮名遣に無条件に変換してよいかどうかについて、甚だ疑問を感じるからである。確かに、旧近現代地名では「さはら」でも、現在は「さわら」である。しかし、本書刊行の明治十九年時点で、現地の人々、取り分け、原住民であるアイヌの方たちが、実際に現に「サワラ」と発音していたとすれば、それを「さはら」として、伝家の宝刀の如く、歴史的仮名遣表記をすること自体が、完全に無効となると、私は、考えるからである。

 マナマコ比定。]

 

■「廣島縣賀茂郡《かものこほり》産」

[やぶちゃん注:図は二個体を左右に並べている。

「廣島縣賀茂郡」当該ウィキによれば、明治一一(一八七八)『に行政区画として発足した当時の郡域は』、『広島市安芸区の一部(阿戸町)』・『呉市の一部(倉橋町・下蒲刈町各町・蒲刈町各町・豊浜町各町・豊町各町を除く阿賀南、阿賀町、阿賀北、郷原町以東)』・『東広島市の大部分(河内町各町・入野中山台・河内臨空団地・福富町各町・豊栄町各町・安芸津町木谷・高屋町小谷・高屋町造賀を除く)』・『竹原市の大部分(忠海各町・福田町・高崎町・吉名町・田万里町を除く)』とあるが、昭和三一(一九五六)年『に隣接する豊田郡との間で所属町村の入れ替えが実施されたことにより』、『郡域が大幅に変動し、広島県中南部の内陸部で構成される郡となった』とあるので、グーグル・マップ・データのこの瀬戸内海側の広い海岸地区を指すことになろう。「ひなたGIS」の戦前の地図も参照されたい。

 図は二つとも、今までの図と異なり、頭部が有意に大きい。一応、マナマコ比定としておく。]

 

■「肥前國産」

 「切斷したるもの。」

[やぶちゃん注:左右に二個体(後者はキャプション通りの製品断片)を左右に並べてある。

「肥前國」当時、既に現在の佐賀県と長崎県(厳密な旧国名に従うなら、壱岐・対馬は含まない)に相当する。

 マナマコ比定。]

 

■「筑前國産」

[やぶちゃん注:当時、既に福岡県の大部分に相当する。

 マナマコ比定。]

 

■「出雲國島村産」

[やぶちゃん注:図個体が異常である。噴門部が、左右に逆Y字に尖って出ている。後部に発生した傷で、左右に再生治癒してしまった個体か、内臓の抜き出しに失敗したものか? しかし、後者の場合は、凡そ、製品とする価値はないはずである。『この場合は、キビが悪い!』と当初は思ったが……しかし、これは、生物学的に、と言うよりも、製品としての正しい向きにしたままなのであって、清国に送った場合は、まず、上下を問題にしないと考えられる。則ち、「其二」の「第一」品等である双頭のマナマコと同じであって、問題なかろうと思うに至った。

「出雲國島村」大問題は、コッチだッツ!!! 当時、既に島根県で、現在の出雲市島村町(しまむらちょう)で、ここであるのであるが、非常に困った! ここは御覧の通り、★汽水湖である宍道湖の――しかも西端!――★で、しかも、斐伊川が流入する河口であるからである。汽水湖のこの位置では――塩分濃度は著しく下がるのである! いやさ、そもそも、宍道湖でナマコが採れるというネット記事は存在しないし、AIも生息していないとするのである。これ以上、私には、言い添えることが出来ない。識者の御教授を、切に乞うものである。見た感じは、マナマコではあろうが……或いは、この「島村」は煎海鼠を製品化する場所に過ぎず、生体は、同島村から最も近い、西北の島根半島西部にある、出雲市十六島町(うっぷるいちょう)の十六島湾(難読名で「十六島」で「うっぷるい」と読む。私の「大和本草卷之八 草之四 黑ノリ (ウップルイノリ)」の私の注「十六島」を見られたい)辺りで捕獲したマナマコをここへ運び、処理し、宍道湖を汽船で運び、出荷したものかも知れぬ。その辺りの、当時の情報が判る方が居られれば、是非、御教授願いたい!……しかし、だ!……先般より、河原田氏は、しばしば、地名を誤っていることを考えると……「島村」は……トンデモ誤記なのかも知れぬ……と……疑い始めているのでも、ある…………

 

■「熨斗海鼠(のしこ[やぶちゃん注:原図の四文字へのルビ。])」

 「北海道產」

[やぶちゃん注:冒頭注で述べた通り、ここでは、左下方に、串二本で突き刺した五個体の製品と、軟らかい繩様の物で中央部を貫いた十二個体の図(かなり大きい)の二図が示されてある。さても、この描き方は、二箇所のキャプションを合わせて見るに、明らかに、煎海鼠の、同じ「北海道産」の、異なる二つの製品を示しているとしか思われないのである。

 まず、上方の「熨斗海鼠」であるが、

――頭部と噴門部に、恐らく、丸い竹串を突き刺した(海鼠個体は五体)ものの部分画像で、思うに、それぞれのその串を、反対方向に引っ張って、日乾ししたものであろう。その結果、中央部が伸びて、細くなっているのである――

 なかなか、面白い図である。思うに、製品名のそれは、所謂、狭義の左右三角に尖った三つの出っ張りからなる「熨斗」ではなく、

熨斗の中央の「水引」の形に擬えたもの

と思われる。

 残念ながら、この図と同様の煎海鼠製品は、ネット上では、見当たらなかった。

 

……余談であるが、それを探すために多数のサイト(国立国会図書館デジタルコレクションを含む)・ブログを多様なフレーズ検索していた途中……『!?!?!!!』……明らかに、私が、サイト版やブログ版で電子化した複数の画像や原文、私の注記内容を――そのマンマ――流用しているものを見つけて、アいたナマコ口が閉まらなくなった。画像を検証したところ、私がトリミングしたものと、一ミリも違わない全く同じものであり、抄文原文も、私が神経症的に振ったオリジナルの句読点も! これまた! 全く以って――おんなじ――なのだ! しかし、私のものを使用したとする注記は、これ、どこにも、ないのである! 敢えて、どのブログかは、示さない。ブログ主のオリジナルな訳(ミスタイプが目立つ現代語訳や御意見は、まあ、そこそこに読めるシロモノだが――キサマの偸盗部分は! 生涯! 許さねえゼエッツ!!! 覚えトケ! クソ馬鹿野郎!!!……

 

閑話休題。下方の、編んだ縄(かなり細いが、編んであるのは、拡大すると斜めの筋が描かれているので、判る)一本で煎海鼠の中央部を貫いたもの(製品個体は全部で十二個で、大きさは、前の「熨斗海鼠」のように同じ大きさではない)である。

 これも、幾つかのフレーズ画像検索をしたが、見当らなかった。

 前の図とともに、御存知の方があれば、お教え下さると、恩幸、これに過ぎたるはない。

 これは、産地から、マナマコ比定である。]

2025/11/02

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注への独立記事注追加/明治期の煎海鼠の製造法に就いて

[やぶちゃん注:図注をやっている最中、ふと、気になることがあった。それは、

『ナマコの本書当時の「煎海鼠」の製造法は、実際には、如何なるものであったのか?』

という個人的な素朴な疑問であった。恐らく、現代の工程は、ネットのどこかで紹介されてあろうかとは思うのだが、私の希望は、明治期のそれをこそ、知りたいと感じたのである。そこで調べたところ、「昆布の說」で引用した国立国会図書館デジタルコレクションの「帝國水產書敎師用」(興文社編輯所編・明治三八(一九〇五)年興文社刊)の「第二十二課 海參」に、明治後期の内容ではあるが、判り易い解説があるのを見つけた(保護期間満了)。当初は、既に電子化した記事の中に追加しようと思ったが、それでは、数少ない何時も順番に読んで下さっている読者に不親切であろうと感じた。図版注にハマまっている最中ではあるが、ここは、一発、独立記事で示すこととした。当初、画像で取り込み、PDFに変換して活字化を試みたが、原本が古く、私の古いアプリでは、汚損した活字を判読することが殆んど不可能であったので、視認してタイピングすることとした。因みに、本書は「淸國輸出日本水產圖說」の十九年後のものであるが、記載には清国への販路の状況の記載もあり、非常に参考になろうとは思われる。原本の字下げ等は再現していない。無論、正字正仮名・歴史的仮名遣である。若い読者や、日本語がネイティヴでない読者のために難読で意味が判らないかと思われる箇所には割注を入れた。

 

    第二十二課 海參

 

〔目的〕海參ノ製法・功用・販路等ヲ敎フ。

〔敎材〕海參とは、海鼠を煮て乾したるものをいふ。その製法は、海鼠を捕りて潮水を滿たせる桶に入れ、脫膓管[やぶちゃん注:「だつちやうくわん」。以下の「資料」の中で解説が出る。]を肛門よりつき入れて、膓をぬき取り、內部をよく洗ひ、潮水にて煮ること一時間にして、箸にて容易に挾[やぶちゃん注:「狹」にしか見えない。誤植と断じて特異的に訂した。]むことを得るに至り、簀の上にあげて冷やし、さらに焙爐[やぶちゃん注:「ほいろ」。小学館「日本国語大辞典」を引くと、『(「ほい」は「焙」の唐宋音)木の枠(わく)や籠(かご)の底に厚手の和紙を張り、炭火を用いて遠火で茶の葉や薬草、海苔(のり)などを乾燥させる道具。ほいろう。』とある。]にかけて、一時間餘焙りたる後、また焙りて日に乾し、三回程この法をくり返して後、莚に包みて蒸し、さらに日に乾し、九分通り乾きたるを釜に入れて煮るなり。この煮水には、色付のため蓬[やぶちゃん注:「よもぎ」。]の枯葉を入るるを常とす。この後、なほ一回焙りて日に乾し、箱詰として淸國に輸出す。

海鼠は、疣の大小によりて、これを二種に分つ、その製品もまた隨って二種に分たる[やぶちゃん注:「わかたる」。]。有刺參・無刺參これなり。本土の產は、多く有刺參にして、主として北淸地方に向ひ、琉球等の產は、多く無刺參にして、主として南淸地方に向ふ。

〔資料〕海參ハ海鼠ヲ煮テ乾シタル水產製品ニシテ、煮乾品[やぶちゃん注:「にぼしひん」と読んでおく。]に屬ス。海參ノ原料ナル海鼠ハ、棘皮動物ノ一ニシテ、各地沿海ノ岩礁ニ棲息ス。

ソノ製法ハ、捕獲セル海鼠ヲ潮水ヲ充テタル[やぶちゃん注:「みてたる」。]大水槽中ニ入ル﹅時ハ、海底ニ棲息セル時ヨリ、外界ノ壓力減ズルガ故ニ、膓ノ軆外ニ脫出スルモノアレドモ、悉ク然ラザルヲ以テ、脫膓管ト稱シテ、細竹ヲ二個ニ縱割シテ、一端ヲ尖ラセタル半圓ノ溝状管ヲ海鼠ノ肛門ヨリ挿入スル時ハ、膓ハ溝中ヲ沿ウテ體外ニ出ヅ。ナホコレヲ淸淨ナラシメンガタメ、細キ針金ニ粗毛[やぶちゃん注:「そもう」。]ヲ捻リ込ミタル刷毛[やぶちゃん注:「はけ」。]ヲ肛門ヨリ通シテ口外ニ㧞[やぶちゃん注:「拔」の異体字。]キ出ダシ、體內ニ遺留セル砂オヨビ膓片ヲ除キ、淡水ニ海水ヲ少シ加ヘテ煮ルコトオヨソ一時間餘ニ及ビ箸ニテ容易ニ挾ムコトヲ得ルニ至リテ、コレヲ簀上ニ上ゲテ冷却ス。海鼠ニハ、多量ノ水分ヲ含有スルヲ以テ、ソノ水分ハ、煮熟中、釜中ニ出デ、大イニ煮液ノ量ヲ增スヲ以テ、時々コレヲ汲ミ取リ、カツ、浮上スル汚穢[やぶちゃん注:「をあい」。]ナル泡沫ヲモ抄ヒ[やぶちゃん注:「すくひ」。]取ルベシ。煮熟中、釜中ニ浮上スル海鼠ハ、體內ニ空氣ト水トヲ包有セルモノナレバ、取リ上ゲテ釘ニテ刺シ、コレヲ逸出セシメ、再ビ釜中ニ投ズベシ。冷却セルモノハ、コレヲ蒸籠[やぶちゃん注:「せいろ」。]ニ併ベ、焙爐ニ懸ケ、炭火ニテ一時間程焙乾[やぶちゃん注:「ばいかん」。]シタル後、日乾[やぶちゃん注:「ひぼし」。]シ、翌日マタ焙リテ日乾シ、カクノ如クスルコト三四回ニ及ベバ、上皮ヤ﹅硬固[やぶちゃん注:「かうご」。]トナルヲ以テ、莚ニ包ミテコレヲ罨蒸[やぶちゃん注:「あんじやう」。寝かせること。乾燥度合の均一化を図るために行う。一般には、コンブの結束処理の前処理の工程として知られる専門用語である。]ス。然ル時ハ、內部ノ水分漸クニ體外ニ出デ、內外ノ乾濕平均ス。ヨリテ更ニ日乾シ、九分通リ乾キタル時、マタ釜中ニ投ジテ煮熟ス。コレハオモニ染色ノ目的ニ出ヅルヲ以テ、コノ煮水ニハ、淡水一斗ニ乾蓬葉[やぶちゃん注:「ほしよもぎば」。]五十匁ノ割合ニ入レ、オヨソ四十分間コレヲ煮、ソノ液中ニ海鼠ヲ投ジテ、四五十分間煮ルモノトス。然ル時ハ、海鼠ハ、黑紫色ノ美澤ヲ呈ス。コレヲ最初ノ如ク、一回火乾[やぶちゃん注:「日乾」でないことに注意されたい。]シテ後、日乾ヲ繼續シ、全ク乾燥スルニ至リテ箱詰トナス。

海鼠製造上注意スベキ要點ハ、(一)脫膓ニ注意シ、腹中ニ砂ヲ止メザル樣ニセザレバ、煮熟中、體ノ破裂スル憂アリ。(二)蒸籠ニ併ブルニ相接觸セシムレバ、ソノ部分糜爛スル憂アリ。(三)煮水ニ多量ノ海水ヲ投ズレバ、製品ハ、梅雨中[やぶちゃん注:「ばいうちゆう」。]、濕潤シテ黴ヲ生ジ、淡水ノミナレバ、背上ノ刺、折ル﹅憂アリ。

海鼠ハ、疣即チ背上ニ生ズル凸起[やぶちゃん注:「とつき」。]ノ大小ニヨリテ、コレヲ二種ニ分ツ。故ニソノ製品モ、マタ隨ヒテ二種ニ分タル。即チ凸起ノ大ナルモノニテ製シタヲ有刺參ト稱シ、凸起小ナルモノ、或ハナキモノヨリ製シタルヲ無刺參ト稱ス。本土ノ產ハ、多ク有刺參ニシテ、漸ク北ニ進メバ、漸ク刺大ナリ。コレ等ハ、主トシテ天津・北京等ノ北淸地方ニ販路ヲ有ス、琉球等ノ產ハ、無刺參ニシテ、主トシテ福州・厦門[やぶちゃん注:「アモイ」。ここ。]ノ南淸地方ニ販路ヲ有ス。一種ちりめんノ如キハ、南洋產ニ酷似シ、高價ヲ有ス。

[やぶちゃん注:「一種ちりめんノ如キ」というのは、(その8)の注で示した、楯手目クロナマコ科クリイロナマコ属チリメンナマコ(縮緬海鼠) Actinopyga miliaris 及び、クロナマコ科クリイロナマコ(栗色海鼠)属トゲクリイロナマコ Actinopyga echinites を指す。

海參ハ、淸國輸出重要品ノ一ニシテ、ソノ輸出額明治三十四年ハ四十三萬圓以上、明治三十五年ハ三十五萬圓以上、明治三十六年ハ四十四萬圓以上ニ達セリ。宴席ノ膳ニ供シ、式膳中ノ三等ニ位ス。淸湯海參・胡蝶海參等ハ、調理ノ名稱ニシテ、鷄・家鴨等ノ肉汁オヨビ野菜等ト混煮[やぶちゃん注:「まぜに」と訓読しておく。]シテ、食膳ニ上ス[やぶちゃん注:「じやうす」。]。

2025/11/01

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「山神悅惣髮」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。]

 

 「山神悅惣髮《やまがみ そうはつを よろこぶ》」 安倍郡藁科村《わらしなむら》にあり。傳云《つたへいふ》、

「當村に山神あり。里人《さとびと》、病《やまひ》あれば、「一生、惣髮とならん。」事を誓ひ、是を祈る。必《かならず》、愈《い》ゆ。云云。」。

 奇《き》を好める、いかなる神にや。

[やぶちゃん注:「惣髮」「總髮」に同じ。「そうがみ」が原音で、「そうがう」とも読む。月代(さかやき)を剃らずに、伸ばした髪を、後ろで束ねて結った髪型。また、後ろへ撫でつけて、垂れ下げただけで、束ねないものも言う。江戸時代には、医者・儒者・浪人・神官・山伏などが多く結った。「四方髪」「撫で附け」とも呼ぶ。

「藁科村」「ひなたGIS」の戦前の地図のここで、北西に「中藁科村」、南東に「南藁科村」が確認出来る。古くは、この広域を、かく呼んだものか。但し、この山神を祀った、奇体な言い伝えのある神社は探し得なかった。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「こもとうの靈《りやう》」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。]

 

 「こもとうの靈《りやう》」 安倍郡《あべのこほり》口仙俣村《くちせんまたむら》にあり。傳云《つたへいふ》、

「『こもとう』は、徃昔《わうじやく》、柿島村《かきしまむら》の西平と云《いふ》所に居住する武人也。某《なにがし》の爲に、夜討《やうち》せられ、當村、廣海戶に落來《おちきた》り、終《つひ》に討死す。其《その》靈《りやう》、祟《たたり》を、なす。里人《さとびと》、恐れ、祭りて、山神《やまがみ》とす、云云《うんぬん》。」。

 今、古傳《こでん》を失《しつ》す、故に、事蹟、詳《つまびらか》ならず。

 

[やぶちゃん注:「靈」は、この場合、「御霊」(ごりょう)であるから、かく、読んでおいた。

「口仙俣村」平凡社「日本歴史地名大系」に、『口仙俣村』『くちせんまたむら』とあり、『静岡県』『静岡市旧安倍郡地区口仙俣村』とし、現在の『静岡市口仙俣』とする。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。『中河内(なかごうち)川支流の仙俣川流域に位置し、南は柿島(かきしま)村枝郷』(えだごう)『上落合(かみおちあい)。戦国期には尊俣』(そんまた)『に含まれていた。領主は安西外(あんざいそと)新田と同じ』(同書で調べたところ、寛永九(一六三二)年、幕府領となり、幕末に至った、とあった。しかし、以上の話は、江戸以前であるから、領主は別。明確ではないが、以下の「柿島村」で示した国立国会図書館デジタルコレクションの資料が参考にはなろう)。『元禄郷帳では高六石余。旧高旧領取調帳では幕府領六石余・祐昌寺(涌泉寺)除地四斗余。「駿河記」では家数一七』とある。

「柿島村」口仙㑨の南方。ここ。北に口仙俣を配しておいた。但し、「駿河國新風土記」第七輯」(新庄道雄著・修訂/足立鍬太郎・昭和九(一九三四)年志豆波多會刊・ガリ版刷)では、「かきじま」と濁音になっている。しかも、「こもとう」は、そこでは、「トモトフ」(右傍線有り)となっている。そちらは、戦国時代とし(時期は『いづれの時にか有けん』と明確ではない)、もっと前後の史実的記載が詳しく書かれてあるので見られたい。

「西平」「ひなたGIS」で「柿島」の戦前の地図を見たが、同地区や周辺を見ても、見当たらない。

「廣海戶」この地名も同前で調べたが、見当たらない。読みも判らない。国立国会図書館デジタルコレクションの「湖西市史 資料編 6」(湖西市史編さん委員会編・一九八六年湖西市刊)のここ(一八一ページ下段の村方の地下文書の箇条の最後に『字廣海戶』とあったが、湖西市では、全く位置が合わないので、同名異所である。]

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