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2025/11/29

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(四)乾鮑の說(その5)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]

 

鮑を區別すれば、『めかひ』・『またかひ』の二種は、乾(かはか)して、其色(そのいろ)、褐黃(ちやいろ)にして、微(すこ)しく透明なるが故に、『明鮑(めいほう)』となすによろしく、其中(そのうち)、『またかひ』は、形(かたち)の大(だい)なるものは『明鮑』によろしく、小(しやう)なるものは『灰鮑』によろし。『くろかひ』は、乾(かはか)して、外面(そとづら)、淡黑色(うすくろいろ)なれば、『明鮑』・『灰鮑』ともに、形色(かたちいろ)、よろしからず。故に、別に『くろ』と稱し、廉價(やすね)を以て、賣買(うりかい[やぶちゃん注:ママ。])せり。然(しか)れども、鮮食(せんしやく[やぶちゃん注:ママ]/なまくひ)には『またかひ』に次ぎ、『めかひ』に優(まさ)れり。『とこぶし』・『みゝかひ』の二種は、鮮食(せんしよく)となすも、味(あぢはひ)、佳(よか)らざるのみか、『明』『灰』二鮑(はう)となすも、前品(ぜんひん)に劣れりと雖(いへ)とも[やぶちゃん注:ママ。]、是(これ)を、薄片(うすへぎ)の連接製(うすへぎこしらへ)となす時は、遙かに『明』『灰』二鮑の上位に居(を)るものにして、淸國漢口(ハンカウ)等(とう)の市場(しじやう)に於て、佳(もつとも)高價(かうか)を占(しめ)たり。

[やぶちゃん注:以下、アワビの種で、既に注してあるが、改めて解説する。初めに、古いが、貝類学・貝類収集家にとってはバイブルである「吉良図鑑」=吉良哲明著「原色日本貝類図鑑」(保育社・初版昭和二九(一九五四)年・私の所持するものは書いて居二十刷で昭和四九(一九七四)年版である)を引かない訳には行かない。現行和名とは違い、濁音がない、学名が後に全面的に変更された点などがあるのは、注意されたい。図版のスケール指示はカットした。

「めかひ」腹足綱直腹足亜綱古腹足上目原始腹足目ミミガイ科アワビ属メガイアワビ(雌貝鮑) Haliotis gigantea 。「吉良図鑑」には、以下のように載る。記載の関係上、クロアワビも一緒に引いた。学名部分は、ブラウザの不具合を考えて引き上げた。

   《引用開始》

1. メカイアワビ(俗名メカイ

         Notohaliotis discus REEVE

殼は大きく丸味を帯びた耳形で,螺状肋は太く明瞭である。殼高極めて低平で3種中最も扁平である。表面は赤褐色で,外唇縁は著しく張出し,殼頂は前端に近く上下端のほぽ申央に位置する。貫通孔数は45で,棲息水深は以下の2種の中間で本州以南九州に至る10fms.内外に棲息する。

2. クロアワビ(俗称クロ, オンガイ

         Notohaliotis sieboldi REEVE

 殼は前種より前後に細長く且つよく膨れる。殼表の肋脈は甚だ不明瞭で平坦である。緑色調の黒色で,貫通する孔数は45, 棲息深度は3種中最も浅い。本州以南九州に亘り10fms.以内の岩礁に棲む。本型の亜種に, 殼表の皺が強くて内面の真珠光沢青色調のH. d.  hannai INO エゾアワピがある。

   《引用終了》

ウィキの「アワビ」の記載には、『別名:メンガイ(雌貝)オンガイ』(クロアワビの別名。後の引用を参照)『の「オン」は雄という意味でも使われることから対比する意味で使われる。メガイアワビは産地が限られ』、『生産量も少ないため、実際にクロアワビの雌と思われていた』。またの『別名』として『ビワガイ』があり、これは『足が黄土色(ビワ色)をしていることから来ている』。『3段階ある絶滅危惧種のランクのうち、2番目に深刻な「絶滅危機(EN)」に指定されている』とある。最後にグーグル画像検索の学名のものをリンクしておく。メカイアワビはここで、クロアワビはこちらだが、後者は、あまりお勧めしない。

「またかひ」アワビ属マダカアワビ(眼高鮑) Haliotis madaka の「またがかひ(眼高貝)」の訛りか、縮約形と推定されるが、現行の異名では見出せなかった「吉良図鑑」には、以下のように載る。なお、後にポイント落ちで、アワビ三種の包括追記があるので、それも同ポイントで示す。

   《引用開始》

3. マダカアワピ(俗称マダカ)

         Notohaliotis gigantea GMELIN

 殼は3種中最も大成して厚く,背腹緑共に張出して円く長径205mm,短径175mm 高さ75mmに及ぶ。殼表の肋脈も明らかで,背面で孔管高く突出し,内唇縁高く孔列の直下に1溝を刻む。棲息深度は最も深く,肉量多く甚だ美味である。本州~九州 1020fms.

 

 以上大形のアワピ3種はこれまで種的区別が朋らかでなかったが,漁夫はこれをマダカ・クロ(オンガイ)・メカイ3種に区別し,市価もそれぞれによって甲乙がつけられていた。それがだんだん研究され,まず解剖学的に立証され(猪野峻:日本水産学会報531953),その後発生学的にも研究されて今日に至っている。大型アワピはトコブシよりも美味で食用に供せられ,また乾製して重要な輸出水産物となっている。

 昔から日本の贈答品には必ずノシをそえる習慣がある。この昔のノシはアワビの肉を延ぱして乾したものを用いたが, 今は紙製品または包み紙に形を印刷したものとなっているが,それでもこの習慣は残っている。しかし伊勢神宮では今もなおアワビでノシを製して神饌として供えられ,また結婚式用品として用いられることもある。貝殼は貝ボタンとなりまた切貝,摺り貝として婦人の装身具や,机・硯箱・花瓶等の装飾品にはめこむのに用いられ(これを螺鈿という),貝の粉はうるしにまぜて共にぬりこみ美しい漆器をつくる。

   《引用終了》

「吉良図鑑」の素晴らしさは、最後の解説のように、民俗学的解説があることである。不滅の綺羅たる「吉良図鑑」の所以である。「日本大百科全書」の奥谷喬司先生の「マダカアワビ」の解説には、学名を『 Haliotis (Nordotismadaka 』とされ、『軟体動物門腹足綱ミミガイ科の巻き貝。北海道南部から九州に分布し、潮間帯下から水深30メートルの岩礁にすむ。殻長20センチメートル、殻径17.5センチメートル、殻高7.5センチメートルに達し、卵円形で殻頂は後方に寄り、水孔は大きく高い。肉は美味である。』とある。ウィキの「アワビ」には、『別名:メタカアワビ(メダカアワビ)マダカ、メタカは貝殻の「目が高い」という意味。目は潮吹き穴の事』とし、『別名:アオガイ 足が緑色をしていることから来ている』とあり、『3段階ある絶滅危惧種のランクのうち、2番目に深刻な「絶滅危機(EN)」に指定されている。』とある。グーグル画像検索の学名のものは、ここ

「とこぶし」アワビ属トコブシ(床伏・常節・常伏) Haliotis diversicolor aquatilis 。同前で引用する。冒頭の「ミミガイ科」の槪説を最初に示す。

   《引用開始》

  みみがい科(あわびがい類)(1) Family Haliotidae

 耳貝科はアワビ類で,螺塔甚だ低平で螺層は大きい。これは螺管が急に増大するので耳形の殼が形成される。古来この貝は2枚貝の片側のように思われ“磯の鮑の片思い”などと歌われたが,よく注意して見ると殼の前端に巻貝形の小さな螺塔がある。岩礁に着く方は殼口で殆ど全殼の大部分を占めている。殼口の厚いヘリの方が内唇で,うすい方が外唇である。その内唇に近く沿うて孔列がある。孔は貝の成長と共に新しく造られていくが,古い孔は次第に埋められていくから孔数は常に一定している。内面は美しい真珠層があつて[やぶちゃん注:ママ。]種々の装飾に用いられ,肉は甚だ美昧で食用として賞味せられる。

   《引用終了》

以下、トコブシの項。手書きの図が載るが、国立国会図書館デジタルコレクションのここで見られる(一九六四年刊の増補改訂版。カラー図版も見ることが出来る)。但し、本登録をしないと、見れない。

   《引用開始》

3.トコブシ(ナガレコ) Sulculus supertextta(LISCHKE)

 本種は小形のアワビとして広く食用に供せられ,或は大形アワビの幼殼と誤られているが孔数の多いこと,孔の背面が管状とならないこと,決して大成しないこと等によつて[やぶちゃん注:ママ。]明らかに区別せられる。貫通孔数は6~-9に達し北海道南部以南全国の浅海の岩礁に棲息する。動物[やぶちゃん注:生体のこと。]運動が甚だ活発で流れ子の別名がある。このトコブシを全国的に蒐集して見ると3つの型がみられる。その1つは九州からそれ以南の島々に産するナガラメと俗称されるもので,殼が厚く大きく殼頂がひどく端にかたより,表面には太く深い脈が一面にきざまれ,その脈にはこまかい鱗片が密生している(a)。第2は小笠原・八丈・伊豆の各島々から本州の一部に達しているフクトコブシといわれている貝で、ナガラメ[やぶちゃん注:三種の別名であるが、恐らく、直腹足亜綱古腹足上目ニシキウズガイ上科ニシキウズ/ニシキウズガイ科キサゴ  Umbonium costatum を指していると思われる。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクしておく。]のような彫刻のない平滑な表面で,殼の申央部がよくふくれて肉量の多い型である(b)。第3は関東・近畿・中国等にみられる殼の少し小さい扁平で外形の円い彫刻も不定な貝で(c),古書にトコブシと和称した貝はこの型だと思われる。この3つの型が単なる変異にすぎないものか,別種であるのかは残された問題で,今後の研究にまたなければならない。

 尚,沖繩に産するコピトアワビ[やぶちゃん注:ミミガイ科コビトアワビ Haliotis jacnensis のこと。]は長径22mm,短径16mm内外の小さなもので,我が国産としては最小のアワビとされている。

   《引用終了》

「日本大百科全書」の奥谷先生の記載は、学名を『 Sulculus diversicolor aquatilis 』とされ、『軟体動物門腹足綱ミミガイ科の巻き貝。北海道南部から九州に分布し、潮間帯付近の岩礁にすみ、干潮時は石の下などに潜み、はう速度が速い。殻長70ミリメートル、殻幅50ミリメートル、殻高15~20ミリメートルに達し、殻は卵形で形態はアワビ類に似ているがやや長めで扁平(へんぺい)。背側縁に沿って水管孔が6~8あり、アワビ類の4~5より多く、孔の縁も低くて管状をなさないことなどでもアワビ類と区別できる。殻表は殻頂から弱い放射肋(ろく)が出て、粗い成長脈と交わっている。色は通常黒みを帯び、全体に緑褐色斑(はん)がある。殻の内面は真珠光沢をもつ。産卵期は9~10月。肉は灰褐色を帯びて柔らかく美味。アナゴ、ナガレコ、ナガラミなどの地方名がある。九州以南に産し、螺塔(らとう)がやや高くて螺肋が明らかな型をフクトコブシS. d. diversicolorというが、両亜種の境界はかならずしも明らかでない。』とある。ウィキの「アワビ」には、『別名:ゴケンジョ』とし、『「後家の女」の意で、平たい貝殻が二枚貝の殻に似ているにもかかわらず、1枚しかないありさまを夫を失った未亡人(後家)に例えたもの。』とある。グーグル画像検索の学名は、ここ

「みゝかひ」アワビ属ミミガイ(耳貝) Haliotis asinina

   《引用開始》

1ミミガイ  Haliotis (s.s.)  asinina  LINNÉ

 殼は細長く大なるものは120mm.内外に達するが殼幅は約½に過ぎない。殼頂は前端に偏し,表面は平滑で光沢があり,褐色の地に緑色の雲彩がある。貫通孔数は57で屋久島以南の浅海の岩礁に棲息する。

   《引用終了》

吉良先生の学名の『(s.s.)』は、亜種で、"subspecies" 、現行では subsp. ssp. で略記される。「日本大百科全書」の奥谷先生の記載は、『軟体動物門腹足綱ミミガイ科の巻き貝。四国以南、太平洋およびインド洋の干潮線下の岩礁やサンゴ礁にすむ。殻長12センチメートル、殻幅5.5センチメートルに達し、耳形。殻頂は後端にあり、螺塔(らとう)は小さく、体層が殻の大部分を占め、膨らみは弱い。殻表は光沢があり、褐色の地に黒、緑、黄色などを基調とした放射状斑紋(はんもん)があって、水孔はほとんど管状にならず57個開いている。内面は真珠層がよく発達し、虹(にじ)のような光沢がある。軟体は大きくて殻内に収まらない。岩礁をはうだけでなく、滑るように移動する。肉は食用にされる。』とあった。]

2025/11/28

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「うば狐」

[やぶちゃん注:底本はここから。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。]

 

 「うば狐《ぎつね》」 安倍郡府中に有り。「駿臺雜話」云《いはく》、

『むかし、駿府の御城に、「うば狐」といひ傳へし狐あり。人、是に手巾《てぬぐひ》をあたふれば、それをかぶりて舞《まひ》しが、聲ばかりして、形は見えず。たヾ、手巾、空に飜轉《ほんてん》して、回舞のやうを見せし程に、人々、興《きやう》に入《いり》けり。人、手巾を、あたふる時に、受取る形は見えねど、もたる手を、ものヽすりて通るやうに覺へて、其まヽ取《とり》て、ゆきける。わかき人々、

「わざと『渡さじ』と、あらがふに、なにと、堅く持《もち》ても、とられぬといふ事、なし。」

と語るを、大久保彥左衞門、聞《きき》て、

「我は、とられじ。」

とて、手巾を、もちて、

「これ、とれ。」

と、いふに、取《とり》得ず。

 さて、いふは、

「さても無分別の人よ、あな、おそろし。」

とて、にげさりぬ、とぞ。

 彥左衞門は、手に覺《おぼえ》のある時、

『わが手ともに、きりて、おとさん。』

と、思ひつめけるを、狐、さとりしなり。

 されば、武士の心、剛《かう》にして、一筋に直《ぢき》なるさへ、其《その》氣燄《きえん》[やぶちゃん注:ここは「傲慢なこと」の意。]になき程に、狐も、妖《やう》を、なしえず。まいて、正人君子《せいじんくんし》[やぶちゃん注:品行方正な人。]に於て、をや。本より、邪《じや》は正《せい》に敵せねば、正氣《しやうき》にあふては、氷の、日にむかふて、忽《たちまち》に消《きゆ》るが如し。云云《うんぬん》。」。

 彥左衞門、諱《いみな》は忠敎《ただよし》、始め、平助と號す。七郞右衞門忠世《しちらうえもんのただよ》の弟也。

 

[やぶちゃん注:「駿臺雜話」室鳩巣(むろきゅうそう)の随筆。全五巻。享保一七(一七三二)年、成立。朱子学の立場から学術・道徳を奨励した教訓的な内容である。

「うば狐」「姥狐」か。妖怪・怪奇現象名には、しばしば「姥」がつく。学術的根拠がないが、サイト「動物妖怪名録」のここでは、「姥狐」としている(出典は前書)。

「回舞」読み方が判らない。辞書に出ない。国立国会図書館デジタルコレクションの「日本倫理彙編 朱子學派の部 卷之七」の「駿臺雜話」(井上哲次郞・蟹江義丸編/明治三五(一九〇二)年育成會刊)では、『廻舞』となっている。取り敢えず、「めぐりまひ」「まはりまひ」等が当たるか。所謂、対象が「くるくると舞い踊ること」の謂いではあろう。

「大久保彥左衞門」ご存知の好漢の武将・旗本であった「天下のご意見番」として知られる大久保忠教(永禄三(一五六〇)年~寛永一六(一六三九)年)。当該ウィキを見られたい。

「七郞右衞門忠世」(天文元(一五三二)年~文禄三(一五九四)年)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、松平氏(徳川氏)家臣。三河国碧海郡上和田(現在の愛知県岡崎市)の大久保氏の支流であった大久保忠員(ただかず)の長男。「蟹江七本槍」・「徳川十六神将」の一人に数えられる名将。詳しくは、参照した当該ウィキを見られたい。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「壯士契亡妻」

[やぶちゃん注:底本はここから。特異的に長い。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。]

 

 「壯士契亡妻《さうし ばうさいに ちぎる》」 安倍郡府中に有り。里人《さとびと》云《いふ》、

「慶長年中、浪人成田治左衞門某《なにがし》と云《いふ》者、有り。

 夜々、亡妻の幽魂、來りて、遇す。

 諸人《しよにん》、是を怪《あやし》みしが、後《のち》、何方《いづかた》に往《ゆき》しにや、其行衞《ゆくへ》を知らず。」。

≪と≫。

 「近代武將感狀記」云《いはく》、

『慶長の頃、成田治左衞門と云者、有り。京師にて、妻を迎《むかへ》て、情意《じやうい》、殊に深かりしが、三年《みとせ》にして、妻、病《やみ》て死せり。死期《しき/しご》に臨《のぞみ》て、成田が手を執《とり》て、淚を流し、

「形は煙《けむり》ともなれ、土《つち》共《とも》なれ、魂《たましひ》は君邊《きみのべ》を立《たち》はなれじ。」

と云《いひ》けるが、死して、數日《すじつ》の後《のち》、深夜に、亡妻、來りて、成田が枕もとに居寄《ゐよ》りて、打《うち》しほれたる姿也。

 成田、信ぜず、

「死《しし》たる者の、二度《ふたたび》來《きた》るべき理《ことわり》、なし。汝は定《さだめ》て、妖魔《えうま》ならん。然《しか》れ共《ども》、妻の形なれば、斬《きる》には、忍びず。」

と云《いひ》ければ、

「今はの時、申せし詞《ことば》を忘《わすれ》させ給ふや、殿を慕ひ參《まゐ》らする魂《たましひ》の參る也。無き形は斬《きり》給ふ共《とも》、創《きず》、つかじ。」

とて、三年《みとせ》の間の契《ちぎり》、深かりし事共《ことども》、言出《いひいだ》して、泣《なき》かこち、明方近く成《なり》て、立皈《たちかへ》る。

 此《これ》より、每夜、甚雨疾風《じんうしつぷう》にも來りければ、後《のち》には、馴《なれ》て、厭心《いとふこころ》もうせ、存生《ぞんじやう》の時の如く、枕並《ならべ》て、うち語らふ。

 され共《ども》、心根《こころね》、さらに解《とき》がたくて、俄《にはか》に駿府に下《くだ》りて、是を、避《さ》く。

 翌る夜《よ》、妻、又、來りて、

「生《しやう》を隔《へだた》れども、心を隔てず、何とて、嫌ひ給ふや。」

と、執心《しふしん》、愈《いよいよ》深ければ、成田、一月《ひとつき》ばかり、斯《かく》て在《あり》しが、

『さらば、海路を隔《へだて》ん。』

と思ひ、早馬《はやむま》にて、大坂に上《のぼ》り、船に乘《のり》て、中川修理大夫《しゆりのだいぶ》秀重の城下に赴《おもむ》く。

 折節《をりふし》、順風にて、六、七日にて、下り着《つき》ぬ。未だ、三日も過《すぎ》ざるに、妻、又、來りて、

「縱《たと》ひ、千・萬里の大海なり共《とも》、思ひ人《びと》たる魂《たましひ》の通《かよ》はぬ方《はう》は、なき物を。心盡《こころづくし》に、所、な、かへ給ひそ[やぶちゃん注:老婆心乍ら、これは、『在る「所」を、決して、「變(か)へ」なさるるな。」の意である。]。秋津洲《あきつしま》[やぶちゃん注:老婆心乍ら、日本の古名。]の中《うち》は、まだ、近し、高麗(こま[やぶちゃん注:「かうらい」では、女詞(おんなことば)としてよろしくないと判断した。])・唐土《もろこし》の果《はて》までも、殿《との》の住《すみ》給はん方《かた》に參るべし。」

と云《いふ》。

 成田、力に及ばず、茲《ここ》に一兩年[やぶちゃん注:「一~二年」の意。]を送れり。

 成田、生資《せいし》[やぶちゃん注:私は使ったことはない熟語だが、「禀性」「気性」の謂いであろう。所謂、「『生』まれつき、人に備わっている『資』質の意。]、愛敬《あいぎやう》[やぶちゃん注:「親愛と尊敬の念を持つこと・人から愛され敬われること」。時代的には「あいきやう」と読んでもよい。]有る者にて、相親《あひしたし》む人、多かりしが、成田、夜話《やわ/よばなし》[やぶちゃん注:私の後注に「近代武將感狀記」の太字部分を見られたい。]を好《このま》ず。强《しひ》て止《とどむ》れば、止《とどま》りながら、亥《ゐ》の時になれば、睡入《ねぶりいり》て、何事も覺《おぼえ》ぬ躰《てい》也。其故《そのゆゑ》を問へ共《ども》、笑《わらひ》て言はず。成田、閨中《ねやうち》に入れば[やぶちゃん注:この場合は、夜の勤番の休息所を指す。]、

「誰共《たれとも》なく、さヽやく聲、外に聞ゆ。」

など云《いふ》者、有れば、大《おほき》に是を怪《あやし》みて、毛利內膳・舟橋半左衞門・石田半右衞門・尾關源右衞門・村井津右衞門《つゑもん》、五人、云合《いひあは》せて、日暮《ひぐれ》より、成田が宅に行く。

 出合《いであい》て、例の如く、早く夜食を出《いだ》す。

 五士、

「今夜《こんや》、此に來《きた》る事は、常々、貴殿に不審する事を見屆《みとど》む爲《ため》也。明《あく》る共《とも》、歸るべからず。」[やぶちゃん注:最後の部分は、全員の意志の強固なことを誇張した謂い。]

と云へば、成田、其座に居《ゐ》たるが、夜《よ》の更行《ふけゆく》に隨ひて、睡り入るを、推動《おしうご》かせば、驚《おどろき》しが、後《のち》に、橫に臥《ふし》て、鼻息ばかりは有《あり》ながら、死人《しびと》の如く、小袖を引被《ひきかづ》けて、傍《かたはら》に置き、五士、相向《あひむかひ》て座せり。

 夜半過《すぐ》る比《ころ》、身の毛、立《たち》ふるひ、わなヽきて齒も合はず、互《たがひ》に拳《こぶし》を握り、膝《ひざ》に當《あ》て、目と目を見合《みあは》すれ共《ども》、相手なければ、

「こは、いかに。」

と云《いふ》計《ばか》り也。

 半時《はんとき》程、有りて、漸《やうや》く、胴《どう》も、をさまりけるに、外《そと》より、障子を明《あく》る音、有り。

 是を見れば、十七、八には過ぎじと見ゆる女《をんな》の、色、白く、髮、長きが、閨《ねや》の中に步み入《いる》。

 舟橋・石田、後《あと》に付《つき》て、走り入《いり》て、先《まづ》、戶を閉《とぢ》る。

 毛利・尾關・村井、燈《ともし》を持《もつ》て、つヾら・挾箱《はさみばこ》のくまぐま、搜《さぐ》り求《もとむ》るに、衣服・器物《きぶつ》の外は、何も、なし。

 五士、

「さらば、是迄《これまで》ぞ。」

とて、各《おのおの》、家に歸れば、已に鷄鳴《けいめい》に至る。

 明旦《みやうたん》、五士共《とも》に、成田を訪《おとなひ》て、見る所を語り、

「今は、廋《かく》されぞ。其故《そのゆゑ》を聞《きか》ばや。」[やぶちゃん注:「廋」は音「シウ(シュウ)・ソウ・シユ(シュ)・ソウ・ス」(括弧は現代仮名遣)で、「隠す」の意である。表現が、やや文法的に問題があるが、意味としては、「今となっては、隠すことは出来んぞ!」の強意を含んだ不可能・禁止・命令のニュアンスは判る。]

と云へば、成田、亡妻の事を、始終、具《つぶさ》に語る。

「亡妻、『其《その》事を洩《もら》さヾれ。もらさば、命を縮む。』と申せしが、『さも、あらん。』と覺ゆ。我、死なば、日來《ひごろ》の好《よし》みを思出《おもひい》で、愍《あはれ》まれよ。」

と云《いふ》。

「深く弱き心よりこそ、亡魂《ばうこん》も見入《みいれ》けれ。嚴《げん》に、思ひ、絕ちなば、何事か、あらん。」[やぶちゃん注:この台詞は、五士らの、叱咤を含めつつ、成田への希望的慰藉(いしゃ)に他ならない。シチュエーションからは、五士が、代わる代わる、発したものを、一つに纏めたもの、と、とるべきものである。]

とて、歸りけり。

 其夜《そのよ》より後《のち》、妻、來らず。

 成田、忙然《ばうぜん》[やぶちゃん注:ぼんやりとするさま。]として、夢ともなく、現《うつつ》ともなくて、居《をり》たりけるが、十日計《ばかり》有りて、俄《にはか》に、死す。

 奇怪なりける事也。云云《うんぬん》。』。

 

[やぶちゃん注:「慶長年中」一五九六年から一六一五年まで。安土桃山時代と江戸時代を跨いでいる。

「浪人成田治左衞門某」不詳。

「行衞《ゆくへ》」この漢字では、歴史的仮名遣は「ゆくゑ」となるが、本来は「行方」が正し、その歴史的仮名遣は「ゆくへ」以外には、ない。近代作家たちのルビでは、二種の読みをが、混淆してはいるが、古語辞典でも立項は「行方」で「行衛」はなく、「広辞苑」・「言海」も立項は「行方」で「ゆくへ」であるから、敢えて「ゆくへ」と振った。

「近代武將感狀記」これは、「武將感狀記」である。当該ウィキによれば、『熊沢猪太郎(熊沢淡庵)によって正徳6年(1716年)に刊行された、戦国時代から江戸時代初期までの武人について著された行状記である。全10巻、250話からなる』。『『砕玉話』ともいう』。『戦国時代には戦地で功績のあった者に、主君が感状を与えるのが慣わしであった。家臣に対する賞賛を書状に認』(したた)『め』、『勲記としたり、または褒賞の目録的な意味合いをなすものでもあった。しかし、本著は実際にそうした感状の類を集成したものではなく、著者が見聞した評伝を、独自の価値判断のもとに好んで採録した逸話集である。その内容は戦国時代や安土桃山時代、かつ江戸時代初期の逸話が中心となることから、封建道徳に即した武士特有の倫理観によって評価された物語と考えられる』。『採録された逸話は必ずしも戦闘に関するものだけではない。石田三成と豊臣秀吉の出会いとして有名な「三杯の茶(三献茶)」の逸話が記されているのは本著である』。『一般的にいわれてきたこととして、著者の熊沢猪太郎は肥前国平戸藩の藩士で、諱は正興、号を淡庵、または砕玉軒ともいい、備前国岡山藩の藩士であった陽明学者の熊沢蕃山の弟子とされている。そのため本著に採録された逸話は、肥前平戸藩と備前岡山藩関係のものが、他藩のものと比較して多数を占めることも道理とされていた』、『しかし』、『東京大学史料編纂所の進士慶幹が、平戸の旧藩主・松浦家へ照会したところ、著者に該当するような人物は見当たらず、また熊沢家への問合せでも、そのような人物は先祖にいないということだった』。『これには進士も、奇怪で収拾がつかないという。結論として、現時点では著者の正体は不明と言わざるを得ない』。『逸話集という性質、並びに記事の年代と刊行年の隔たりから、史料的価値は高くないと考えられている。本著にしか採録されていない逸話もあるが、著者の出自が不明なことなどから記事の裏付けがとれず、これも信憑性に欠ける点とされている。ただ、刊行年のころの武士の価値観を推し量る材料としては有用との評価がある。小説の材料としても重宝されている』とあった。国立国会図書館デジタルコレクションの博文館文庫(「208」番)刊(昭和一六(一九三一)年刊の「武將感狀記」(博文館編輯局編)の当該話を確認したが、何らの引用上の問題はなかった。因みに、国立国会図書館デジタルコレクションの「武将感状記」(熊沢淡庵著・真鍋元之訳・一九七二年・金園社)の現代語訳版の当該話「亡霊に魅入られた成田治左衛門」を見つけたので、リンクしておく。ここからで、訳者は、二部構成にしておられ、幾つかの箇所で、真鍋氏の意訳部分がまことに好ましい(江戸以前の怪談現代訳としては、特異的に極めて上質である)。例えば、「2」の冒頭では、『夜間、灯火(ともしび)をかこんで、戦場での手柄話を語り合うのを〈夜話(よばなし)〉という。』と添えて、「夜話」の始まりの箇所も、光景が具体に表現されてある(以下の注でも紹介する)。

「心根、さらに解がたくて」真鍋氏の訳では、『うす気味わるいものが、やはりどこやら、こころの一隅(ひとすみ)に残っていたのであろう。』と絶妙な補訳となっている。

「中川修理大夫秀重」これは、安土桃山から江戸初期にかけての武将・大名であった豊後国岡藩(現在の大分県にあった藩で、藩庁は岡城で、現在の大分県竹田市(たけたし)のここ(グーグル・マップ・データ)である。領地は豊後国の直入郡・大野郡・大分郡に跨り、小藩が分立した豊後国内では石高が最大の藩であった。竹田藩とも呼ばれる)の初代藩主中川秀成(なかがわひでしげ)のことである。事績は当該ウィキを見られたい。

「毛利內膳・舟橋半左衞門・石田半右衞門・尾關源右衞門・村井津右衞門」調べれば、具体な事績が見つかる者もあろうとは思うが、本話では、一種の狂言回しの役柄であるから、調べるのはやめた。

「半時程、有りて、漸く、胴も、をさまりけるに」真鍋氏の訳では、ここで(下段八行目)、『馬脾風(ばひふう)(マラリア)のような、はげしい胴震えは、小一時つづいてやっと治(おさ)まったが、』とある。直後に、五士皆が見る怪異が起こる転回点となる胆(キモ)が示される。

「挾箱」小学館「日本国語大辞典」に、『近世、武家の公用の外出に際して必要な調度装身具を納めて従者にかつがせた箱。挟竹』(はさみだけ:物を挟むために、一端を割ってある竹を言う。)『にかわって用いられるようになった長方形の浅い箱で、ふたに棒を通してかつぐようにしたもの。』とある。]

2025/11/27

GoogleのAIで私の姓名の読み方が間違っていたので、連絡をしたら⋯⋯⋯⋯

GoogleのAIで私の姓名の読み方が間違っていたので、連絡をしたら、先ほど、見たら、私の肩書が、突然、「文芸評論家・研究者」に更新されていた。面映ゆいのぅ⋯⋯

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「生奇竹」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。二個の脱字は底本では長方形。なお、寺の下の欠字は、明らかに右下に、小さくして、ある。これは、作者が引用した際、その書に割注のように見えるものの、判読出来なかったことを指していると推定される。しかし、注で示した私の同書では、そのようなものはない。思うに、筆者が、不全な同書の写本を見て、汚れか、虫食いがあったのを、忠実に再現したものであろうと推定される。なお、珍しく、底本に、七つもの、ルビがある。]

 

 「生奇竹《あやしきたけ しやうず》」 安倍郡《あべのこほり》府中寺町□□山□□寺にあり。「諸國里人談」云《いはく》、

『駿河國《するがのくに》府中の寺に、元祿の頃、一夜(あるよ)の中《うち》、庭に假山(つき《やま》)のごとくに、地、凸(たか)になりたり。

「あやし。」

と見るに、一兩日《いちりやうじつ》たちて、笋(たかんな)、生出《おいいで》たり。近隣に、藪、なし。

 異《い》なるに、日を追《おひ》て成長し、竹になりたる處《ところ》、目通りにて、凡《およそ》三尺周《まは》り、あり。

「未聞《みもん》の事なり。」

と、諸人《しよにん》、見物す。

 或年、御番衆《ごばんしゆ》、見物に來り、座興のやうに、所望ありしに、住僧の云《いはく》、

「所詮、此竹ありて、人、かしまし。幸《さひはひ》に、まいらせん。」

と、無下《むげ》に伐《きり》たり。

 人々、これを配分して、おもひおもひの器物《きぶつ》に拵へけり。丸盆・たばこ盆などなして、珍《ちん》とす。

 或人《あるひと》、飯注子(めしつぎ)にして、江戶へ持來《もちきた》り、土臺《どだい》などにせしよし也。

 其器を當(まさ)に見たる人の談也。

 其大《おほひ》さ、徑(わたり)、八、九寸ありしと也《なり》。云云《うんぬん》。』。

 

[やぶちゃん注:私は、既に二〇一八年に「諸國里人談」の全文をオリジナル注を附して、ブログ・カテゴリ「怪奇談集」(正編:1000記事で満杯)で公開してある。今回、その「諸國里人談卷之四 大竹」を、一部の正字不全を修正しておいたので、見られたい。

2025/11/26

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(四)乾鮑の說(その4)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。]

 

其(その)、今日(こんにち)に最も要用なる『明鮑(めいはう)』、『灰鮑(はいはう)』、及ひ[やぶちゃん注:ママ。]、『薄片製(うすへぎせい)』の三法(ほふ)も、一《ひとつ》は品種により、一は製法の精粗(ていねいそざつ)によりて、其品位を異(こと)にせり。左(さ)に、其區別を說き明(あか)すべし。

[やぶちゃん注:「明鮑(めいはう)」アワビの肉を煮てから干した食品で、中国料理の材料として古くから知られる。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の「干しアワビの作り方を知りたい。」の「回答」には(太字・下線は私が附した)、『②『日本食品大事典 新版』によると、「現在、干しあわびの製法は中国料理などに使われる明鮑(めいほう)と灰鮑(かいほう)が主となっている。」とあり、明鮑は「塩漬した大型のあわびを蒸し煮して、焙乾した後乾燥したもので、あめ色をしたものが良品とされる。」灰鮑は「すべて小形のあわびを用塩量をやや多くし、煮熟、焙乾を簡略化してからカビ付けを行い、表面がカビにより灰白色を呈したものである。」と説明がある。』とし、『③『日本の伝統食品事典』の中で、「干しアワビはアワビの肉を煮熟後、乾燥したものでほしこ、むしこ、むしあわび、むしかなどとも呼ばれ、明鮑と灰鮑の2種がある。」』とした後に、明鮑『は西日本地方で』、灰鮑は『東北・北海道地方で作られる。」』とある。なお、後の二つに注も参照のこと。

「灰鮑(はいはう)」概説は前注でよいが、今一つ、サイト「第三春美鮨」(そこには、『このサイトは主に長山一夫の著書、仕入覚書を掲載するものです。』という記載がある)の「『増補』 の その後」の「外房の特大マダカアワビを訪ねて(その2) 干鮑の異常な世界」に、

   《引用開始》

明鮑(めいほう)と灰鮑(はいほう)、網鮑(もうほう)

 日本でつくり中国に輸出される干鮑には、製法の違いから明鮑と灰鮑の2種類がある。

明鮑と灰鮑

 明鮑は九州五島列島の加工業者達の加工技術によるもので、灰鮑は三陸の業者の加工技術による。「熊寛」の加工は両者の中間的なやり方となる。

   《引用終了》

とあり、次に「網鮑」を立項し、

   《引用開始》

網鮑

 網鮑は100mからの海底に網を広げ、乗ってきた鮑を漁獲し、そのアワビの加工品のことを言ったのだが、今では網漁は全く行われなくなっている。網漁の特長である瑕の無いものを総称して網鮑と言うようになっている。鮑に糸を通さずに乾燥するため、糸穴が生じていない。

「原料に大型のマダカアワビやメガイアワビを用いた明鮑は、仕上がりも大きく、亀の甲羅のように盛り上がり光沢があって、色は透き通るような鮮やかな橙黄色を呈し、ちょうどベッコウあめ色に干しあがる。黄金色といってもいい。まさに逸品だ。中国向けに高価で取引される。中国では大型のマダカアワビからつくられた明鮑を網鮑と呼ぶ。これを使った料理は、味も見映えもすばらしい料理に仕立てられる。中国で最高値で取引される明鮑は、1斤(600g3粒くらいの特別に大きいものであり、千葉県夷隅郡大原産明鮑は普通56粒程度で、ちょうど手ごろの大きさだった。三陸物のエゾアワビからつくられる明鮑は吉品(キッピン)と呼ばれ、1斤大体2025粒である。

   《引用終了》

とした後に、さらに「灰鮑」を立項されてありそこに、

   《引用開始》

灰鮑

 おもにクロアワビやエゾアワビからつくり、明鮑に比べて小ぶりとなる。ある程度干した後に、かび付けする。一番かびが発生した後に、表面に付いた青かびをはらって日干し、さらに二番かびを付ける。外面に白いかびが繁殖してくる。表面に白粉を帯び、やや暗褐色で、ここから灰鮑という名がついた。特有の香味を持つ。」

参照「あわび文化と日本人 大場俊雄著 ベルソーブックス

   《引用終了》

とあった。

「薄片製(うすへぎせい)」先の国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の「干しアワビの作り方を知りたい。」の回答の③に引用が続く④に(太字は私が附した)、『④『鮑』の中でも、明鮑と灰鮑(はいほう)の製造工程が詳しく書かれている。それ以外にも、薄片鮑「トコブシやミミガイを用いた乾鮑である。これを半乾の時に片々に切ったものを薄片鮑とよび中国では嗜好した。」金銭鮑(きんせんほう)「『日本水産製品誌』では、全く明鮑の製法に異ならず、小形のものを粒を揃えて別に製し、この名称で売ると高くなるとある。」縄貫乾鮑「小さなアワビを縄に貫いて乾したもの。」鮑熨斗干瓢(あわびのしかんぴょう)「普通の熨斗のごとく?き[やぶちゃん注:「?」はママ。誤字の指示か。]、洗って日干して貯えて置くもの」の紹介がある。』とあった。

 さても、ここで以上の注で出た各種の学名を、順に、示しておく。画像を「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」で後に附す。なお、そこで属名を「ミミガイ属」とするが、これは和名のシノニムである)

腹足綱直腹足亜綱古腹足上目原始腹足目ミミガイ科アワビ属マダカアワビ(眼高鮑) Haliotis madaka (「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」はここ。以下ではリンクのみで示す)

アワビ属メガイアワビ(雌貝鮑) Haliotis gigantea ここ

アワビ属クロアワビ(黒鮑) Haliotis discus discusここ

アワビ属クロアワビ亜種エゾアワビ(蝦夷鮑) Haliotis discus hannai ここ。クロアワビの北方亜種とする一方、同一種とする説もある)

アワビ属トコブシ(床伏・常節・常伏) Haliotis diversicolor aquatilis ここ

アワビ属ミミガイ(耳貝) Haliotis asinina ここ

最後の二種は、(その1)の最後で、別新説を示したが、決定的に和名変更が確実であるかどうかは未確認なので、従わないこととする。

2025/11/25

五島列島の旅(おまけ) 椰子の実の蟹の墓標

大事な一枚を忘れていた!

福江島の休憩をとった珍しく美しい砂浜海岸で、連れ合いが作ってやった椰子の実に添えた蟹の墓標だ――

 

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これは、節足動物門甲殻亜門軟甲綱十脚目抱卵亜目短尾(カニ)下目イワガニ上科ベンケイガニ科アカテガニ属アカテガニ Chiromantes haematocheir である。砂浜の小川の傍の砂の上に亡くなったものを、これ以上、壊れないように取り上げて、小さな砂丘の上にあった流れ着いた椰子の実の上に連れ合いが、そっと置いて撮ったものだ。
椰子の右下には、多くの甲殻亜門顎脚綱鞘甲(しょうこう/フジツボ)亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目エボシガイ亜目エボシガイ科エボシガイ属エボシガイ Lepas anatifera の殼板(かくばん)が蝋燭の灯の如く、多く附着している。
――「哀しくも、素敵な墓標」――と僕は思った。彼女の絶妙の配置に、とても感動したのだった――



河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(四)乾鮑の說(その3)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。]

 

前條は往古の製法にして、又、德川時代には、隱岐・佐渡の、串鮑(くしあはび)・丸鮑(まるあはび)を上品となしたり。其後(そのご)、䀋煮鮑(しをにあはび[やぶちゃん注:ママ。])を製し創(はじめ)しは、元祿の頃にして、其方法たる、鮑肉十箇に、食䀋(しよくえん)四合を抹(まぶ)し、空鐺(からなべ)にて熬(い)り、自然に、汁(しる)、湧出(わきい)てヾ[やぶちゃん注:ママ。「でヽ」の誤刻。]、盡(つき)るを挨(ま)ちて、取り出(いだ)し、藍(かご)にならべ陰乾(かげほし)とし、二十日《はつか》を經て、これを收む。肥後熊本藩より幕府の獻じたるもの、卽ち、是なり。熨斗鮑(のしあはび)も古(いに)しへは、神饌(しんせん)に供し、又、食品となしたるものなりしが、近世に至りて、單(ひとへ)に、慶賀(よろこび)の章符(しるし)に用(もちゆ)るのみとなりたれども、此等の符(しるし)の如きは、榮螺熨斗(さヾいのし)、海茸熨斗(うみたけのし)、海蘿熨斗(しやうじんのし)等(とう)の如き、廉價のものにて事足(ことた)るを以て、今、世に貴重せらるヽ食品の鮑を用ふるに及ばざるなり。

[やぶちゃん注:「串鮑」サイト「日本の食べ物用語辞典」の「串鮑」に拠れば、『串鮑(串あわび・串アワビ・くし鮑・くし鰒・くしあわび・』『)は、鮑(あわび)を串に刺して干したもの』とあり、単に『串貝』とも表記してある。『あわびを殻から外し、二枚にそぎ切りして串に刺し天日干』(てんぴぼ)『しに』したもので、『古くからある日本の伝統的な高級保存食の一つであり、縁起物として知られる』とし、天正一〇(一五八二)年五月十五日・十六日『に織田信長が、徳川家康らを安土城に招いて饗応した際の本膳料理の二の膳や』、天正一六(一五八八)年四月『に豊臣秀吉が聚楽第に後陽成天皇を迎えて饗応した際の二日目の七献に「串あわび」が出された、という記録が残る。』とあった。

「丸鮑」小学館「日本国語大辞典」に、『(「まる」は接頭語)切ったりしないで、そのまま乾した鮑。まろあわび。』とあり、例文を『「削物者、干鰹、円鮑、干蛸」(出典:庭訓往来(1394‐1428頃)』とある引用書の成立は室町時代である。

「元祿」一六八八年から一七〇四年まで。徳川綱吉の治世。

「熨斗鮑」辞書その他を管見したが、ウィキの「熨斗」その他の中の「熨斗鮑」の記載その他の幾つかが、一番、判り易く纏まっていると判断したので以下、引用する(注記号はカットした)。『アワビは古来より不老長生の妙薬とされてきた。熨斗鮑はアワビの肉を薄く削ぎ、引き伸ばして乾燥させたものである。古くは食用に供され、後世になり三方に載せて儀式の肴とした。さらに祝意を表すために用いられるようになり、進物に添えて贈った』。『以下、伊勢神宮における熨斗鮑」の項。「三重県鳥羽市国崎町の神宮御料鰒調製所では」、『伊勢神宮に献上するため』、『古来の製法に従って熨斗鮑の調製が行われている。貝殻を外した後、熨斗刀(のしがたな)と呼ばれる半月状の包丁を使って身をむき、さらにリンゴの皮をむくように長く削いで3 - 4メートルの紐状に加工する。これを琥珀色になるまで天日干しにし、生乾きになったところで室内に移して竹筒で押しながら伸ばしていく。干し終わった後、短冊状に切り揃えて藁紐(わらひも)で束ねる。熨斗鮑は伊勢神宮で神饌とされ、伊勢神宮の御師によって御守りとともに配られていたこともある』。『国崎町の「熨斗あわびつくり」は2004年(平成16年)に三重県無形民俗文化財に指定された』(前の(その2)で示した「海士潜女神社(あまかづきめじんじゃ)」(三重県鳥羽市国崎町のここ)公式サイト内の「熨斗鰒(のしあわび)」のページの画像も参考にされたい)。以下、「熨斗の形式」の前半部。『本来は熨斗鮑を紙に包んだ包熨斗(つつみのし)で、あくまでもアワビが本体で紙が風袋であった。熨斗の部分は熨斗鮑を切った切熨斗(きりのし)か、熨斗鮑を結んだ結び熨斗とした。しかし、包熨斗は次第に風袋のほうが主となり折熨斗(折りのし)に変化した』。なお、最後の「熨斗に関するしきたり」の項の中に、『熨斗はアワビを意味していることから、本来は魚介類など動物性食品を贈るときは熨斗は用いないものとされていた。生ぐさが重複することになってしまうためで』あるとあった。これは私は、迂闊にも知らなかった。

「榮螺熨斗(さヾいのし)」「さざい」の読みは、「さざえ」の音変化とするが、小学館「日本国語大辞典」の使用例には、『*言継卿記‐天文一五年三月二〇日「予又内々へ参、ささい数十被下之」』とあるので、戦国時代には既に一般に使用していたことが判る。しかし、現行では作られていないようなので、国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、「日本水產製品誌」(農商務省水產局編纂・復刻版・一九八三年岩崎美術社刊)の「食用品 乾製品」の「第七十三 乾榮螺(ホシサヽエ)」(ルビはママ)の、ここに以下のようにあった。

   *

 (三)榮螺熨斗 長く伸して乾したるものなり。

而して上古より榮螺に鹽藏及乾製のものありしことは賦役令、延喜式等に螺の朝貢あるを見て知る可し、上古は和漢共に鮑と榮螺とは兩立の佳肴たりしに六七十年以來世人知らず識らず之を賤む[やぶちゃん注:「いやしむ」。]に至り、價甚た[やぶちゃん注:ママ。]廉にして或は漁夫の飯米代に足らざるに至れり、然れどもよく乾製するときは其利少々ならざるなり。

   *

「海茸熨斗(うみたけのし)」これは、

斧足綱異靱帯亜綱オオノガイ目ニオガイ上科ニオガイ科ニオガイ亜科ニオガイ属ニオガイ(ウミタケ)亜属ウミタケ Barnea ( Umitakea )  dilatata

である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの、「歴史・ことわざ・雑学など」に『熨斗 岡山県の児島湾では熨斗はウミタケで作っていた。『児島湾』(同前峰雄 岡山文庫)』とあった。まず、水管部を乾して熨斗にしていたものと判断される。国立国会図書館デジタルコレクションで検索したところ、「明治前期産業発達史資料:勧業博覧会資料」百二十二(一九七四年明治文献資料刊行会刊)のここの「熨斗」の項に、熨斗の製法を語る下りの最後に、熨斗の現代化による変化が語られ、

   *

故ニ他ノ必要ナラサル者ヨリ之ヲ製スルハ蓋經濟上ノ得策ト謂フ可シ卽チ岡山縣ノ海茸熨斗ノ如キハ能ク此趣旨ニ適合セリ元來海茸ハ地方ノ需用ニ供ス可キ者ニ非ス之ヲ熨斗ニ製スルハ亦利用ノ一端なり仍テ其解說ヲ擧ケテ參考トス

   *

この記載は明治二三(一八九〇)年のものである。過渡期の見解として、興味深いではないか!

「海蘿熨斗(しやうじんのし)」いろいろと調べてみたが、これは、私の推定結論として、

河原田氏の誤認

と思っている。

 まず、「海蘿」であるが、これは、私が、殊の外、好きで、常に味噌汁に欠かさず入れる、

紅色植物門紅藻綱スギノリ目フノリ科フノリ属 Gloiopeltis のフノリ類(フノリという和名種はいないので注意)である。私は、二〇一八年に公開した「大和本草卷之八 草之四 海蘿(フノリ)」で、

『本邦産種は、

ハナフノリ Gloiopeltis complanata

フクロフノリ Gloiopeltis furcata

マフノリ Gloiopeltis tenax

であるが、食用に供されるのは後者のフクロフノリ・マフノリの二種である。』

と述べたのだが、今回、ネット上を調べ直してみたところ、いつもお世話になっている鈴木雅大氏の「生きもの好きの語る自然誌」の「 Gloiopeltis frutex で、

   《引用開始》

分類に関するメモ:Yang & Kim (2018) が韓国済州島で記載した種類です。Hanyuda et al. (2020) は長崎県と鹿児島県で採集されたGloiopeltis frutexの塩基配列データを公開しました。配列データのみで標本や形態に関する情報はありませんが,日本新産と考えられます。九州地方でハナフノリ(Gcomplanataと同定されている種の一部あるいは全てがGfrutexである可能性が考えられます。

   《引用終了》

と述べられた上で、下方で、『押し葉標本(採集地:鹿児島県 薩摩川内市 西方;採集日:202531日)』の画像を添えられて、さらに、

   《引用開始》

鹿児島県川内市で確認したGloiopeltis furtexです。Gloiopeltis furtexは,ハナフノリ(Gcomplanataに酷似していますが,体の大きさや三叉分枝すること,皮層の細胞層数などに違いがあるとされています(Yang & Kim 2018)。恥ずかしながら著者は,ハナフノリよりも体が小さいということ以外に違いを見つけられず,遺伝子解析によって同定しました。遺伝子解析が最も確実と考えられますが,今のところ,Gfurtexとハナフノリが同所的に生育する例は知られていないので,生育地によって区別出来るのではないかと思います。これまでの記録により,九州地方西岸で報告されてきたハナフノリは,Gfurtexであると考えられます。

   《引用終了》

と記されていた。このことから、現行では和名がない「BISMaL」のここの『フノリ属』を見よ。同サイトで、この学名で検索しても、エラーとなる)、

 Gloiopeltis furtex

を追加する必要があると言える。実際、ウィキの「フノリ」には、和名なしで、

この、

 Gloiopeltis furtex が列挙されている

のである。但し、そのラテン語の学名のリンクを見ても、別記載ページは存在しない。

 話を戻す。

 そこで私は、国立国会図書館デジタルコレクションで、「海蘿熨斗」を分離して「海蘿」と「熨斗」のフレーズ検索をしてみた。すると、浅野建二校注の「人国記・新人国記」(岩波文庫・一九八七年刊)の「人国記 卷之上」の「伊 勢 国」のここが、引っ掛かってきたのである(右ページの最終行、「伊勢国」の記載の掉尾である)。

   《引用開始》

熨斗(のし)・海蘿(かいら)は天下に名高し。但し口伝。

   《引用終了》

この本は、「デジタル大辞泉」には、『地誌。著者・成立年未詳。2巻。室町末期の成立か。元禄14年(1701)改編本として刊行。日本各国の人情・気質を風土と関連づけて論じたもの。』とある。国立国会図書館デジタルコレクションでは、ここから、浅野氏の詳細な解説があるので見られたい。

 ともかくも、以上の引用で判る通り、作者も浅野氏も「熨斗」と「海蘿」を分離して、伊勢の国の名産として名が高いとし、但し、その名声は、あくまで、人々が語ってきたものに過ぎないと、やや辛口で添えてあるのであって、浅野氏の注でも、別々に――当たり前の「熨斗」と、当たり前の「海蘿」を言っているだけである。因みに、この場合の、「海蘿は天下に名高し」というのは、食用ではなかろう。ウィキの「フノリ」に(注記号はカットした。太字下線は私が附した)、『日本では古くから利用されており、『正倉院文書』(740年頃) には、万葉仮名で「布乃利 (フノリ)」が記されている。平城京出土の木簡でも「布乃利」または「赤乃利」の名で記されている。『延喜式』(927年完成) では貢納品に指定されている。『延喜式』では「鹿角菜」の漢字を用いているが、『延喜式』以外では』、『この字は』普通、『別の紅藻であるツノマタ類 (これも糊に利用された) を指し、フノリには「布乃利」、「布苔」などが使われている。また『和名類聚抄』(930) では中国名の「海蘿」を充てている』。『『和名類聚抄』の記述では食用としてはあまり好まれておらず (「味渋鹹ニシテ大冷」)、朝廷から寺院への食用としての支給も非常に少ない。一方で貢納国は多く (尾張、伊勢、紀伊、播磨、阿波)貢納価値も比較的高かったことから、食用以外の用途 (建築、工芸など) で広く利用されていたと考えられている。フノリは晒して煮溶かしたものを糊とする。これに石灰とすさ (刻んだわらや布) を加えて漆喰としていた。中国では古くからフノリを漆喰に使用しており、中国北部の渤海はフノリの産地として知られていた。フノリを用いた漆喰は飛鳥時代の頃に日本に渡来したと考えられており、高松塚古墳や法隆寺の壁画にも使われた可能性がある (高松塚古墳壁画の修復にはフノリが使われた)。その後も中世から近世にかけて、このような漆喰は建築物に広く利用されていた。またフノリの糊は絹織物や綿織物の糊つけにも広く使われていた[12][3]。他にも絹絵の下地、陶磁器の下絵の下地、さまざまな工芸品、紙の防湿、紙や皮の艶出し、丸薬、鋳型の砂を固める、水引や筆先を固める、布袋に入れて石けんの代用、洗剤、洗髪、整髪などさまざまな用途に用いられていた』。『江戸時代には広く売買され、宝暦4 (1754) には大阪に布海苔問屋 (フノリに加えてツノマタ、トサカノリ、テングサ、アラメなども取り扱っていた) が開業しているが、それ以前から広く売買されていたと考えられている。全国から集められたフノリは、大阪では西成郡伝法村、江戸では葛飾上平井村で晒フノリに処理されていた。『毛吹草』(1645) は諸国の名産品を挙げており、フノリ (海蘿) の産地として伊勢、紀伊、土佐、豊後、肥前が記されている。明治初期におけるフノリ採取地は北海道、宮城、岩手、千葉、三重、和歌山、徳島、愛媛、高知、山口、長崎、鹿児島と日本全国に及んだ。第二次世界大戦前には大阪には30軒ほどの布海苔問屋があった。しかし第二次世界大戦後には合成糊が使用されるようになり、糊としてのフノリの利用はほとんど消滅した』とある。「国人記」が『名声高し』と記す根拠は――万能な糊――としてだったに違いないのである。

 而して、私は――

河原田氏は、この「国人記」の、引用した箇所を見、『熨斗海蘿は天下に名高し』という部分を見て早合点し、「熨斗」の「海蘿は天下に名高し」と勝手に読み変えてしまい、「熨斗」に作った「海蘿」が「天下に名高し」と誤ったのだ。

と考えるのである。もし「フノリ類で製された熨斗が存在する」とおっしゃる方は、是非とも、お教え戴きたい。

2025/11/24

五島列島の旅(4) エピローグ

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 前の日の最後に、バスから見ただけの「中ノ浦教会」を訪ねた。以上の写真が、その正面である。


  
   *

 

 「矢堅目(やがため)の塩本舗」を訪ねた。私は、最後の五島の海岸風景を見入っていて、手前のガイドさんの話を、ちゃんと聴いていなかった。友達へのお土産の塩を買ったり、滅多に食べない塩アイスクリームを食べて、海を見ていた。

 

 実は、ここには、近くの改修された冷水(ひやみず)教会堂(見学コースには入っていなかった)の以前の当時の古いステンドグラスの現物二枚が、この店内に飾られていたのだが、それをガイドさんが、「必ず、見て下さい。」と言っていたのだった。ちらりと、遠見にあるのは見たが、「模造品かな?」と思っただけで、バスに乗ってしまった。

 帰宅して、連れ合いの写真の中に見つけて、びっくりした。あなたも、アイスなど食わずに、まず、その美しいステンドグラスを見て下さい。

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 最後の見学地である「青砂ヶ浦(あおさがうら)教会」に向かった。

 祭壇の左に聖テレジアの像があった。

 私は、反射的に手を握って、祈った。

 連れ合いが近づてきて、「よかったわね。テレジアに逢えて。」と言った。

 私の亡き母「聖子」のクリスチャン・ネームは「聖テレジア」であったからである…………

……私の母は鹿児島の大隅半島の山の中の町の歯科医の子であった。娘時代に洗礼を受け、ゆくゆくは修道院に入り、その後は、ハンセン病患者の国立療養所であった長島愛生園に勤めるつもりだった。それを父が強引に結婚を申し出たのであった。2011年3月、ALSで亡くなった……

   *

 帰りは、奈良尾港から、フェリーで長崎に向かい、長崎空港から飛行機で帰った。そのフェリーで、一つ、面白かったことがある。

 添乗員の女性と、数人のツアーの女性たちが、ホールで何やら話していたので、聴いてみると、私も、「この航路で見られるはずだ。」と思っていた、私が、行って見たいと思いつつ、私が未だ行っていない軍艦島(正式名「端島(はしま)」)の話をしておられた。俄然、私も首を突っ込み、グーグル・マップを見ながら、見える可能性を指摘した。皆さん、「見たい。」と言うので、私の大型の双眼鏡をキャリー・バックを開いて持ち出し、デッキで、ぎりぎり、まさに、ちっちゃなプラモデルのような軍艦島を視認することが出来たのであった。

 楽しい島旅であった。 (終)

五島列島の旅(3)三日目 海上タクシーで北上する

海上タクシー(三十五人乗りだが、ツアー貸切で添乗員含めて二十三名。老船長と、初老の(福江島の方とは別な方)、やはり優れた「巡礼ガイド」さんが同船。この船は、今年で引退するものだった)で福江港を出港した。これが、その船。以下の久賀島着船中。

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久賀島の「旧五輪教会」を見る。「五島市 世界遺産の島 五島」の当該ページから引く。『旧五輪教会堂は、浜脇教会の建て替えを機に、五輪地区に譲り受けたものです』。『1881年(明治14年)に浜脇教会として久賀島の浜脇に建てられたものが、1931年(昭和6年)に現在地に移築されました。旧五輪教会堂は以後約50年間、五輪地区と蕨小島の信徒たちの信仰のよりどころでしたが、老朽化のため1985年(昭和60年)、すぐそばに五輪教会が新築され、教会の役目を終えました』。『この時点で解体の話が持ちあがりましたが“貴重な文化財として、価値ある建造物を守ろう”との関係者の熱意と地元信徒たちの協力によって解体の危機を乗り越え、当初の姿で保存されることになりました。建物は福江市(現五島市)に寄贈され、市の維持管理のもと、一般公開され』、『現在にいたっています』。『建物は創建時の形態をよく伝えていますが、移築の際には正面玄関が付加され、祭壇背後の下屋も拡張された形跡がみとめられます。木造瓦葺平屋建、窓がポインテッドアーチ型である点を除けば、外観は一見全くの和風建築です。内部は三廊式、板張りのリブ・ヴォールト天井による空間構成、ゴシック風祭壇など、本格的な教会建築様式となっています。当時の教会建築の様子を知るうえで、歴史的に貴重な建造物であり、1999年(平成11年)5月13日、国の重要文化財に指定されました』とある。直ぐ近くに、新しい聖堂がある。そのため、ここのみ、内部の撮影が許可されている。以下に示す。

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 私は、昔日の職人たちが移築再築したこの教会に、甚だ感動した。
 奥の新聖堂を訪ねたら、門柱の上に猫がいた。

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この子は、片眼が不自由だった。今、私のブログが爆当たりしている小泉八雲にあやかって、「ヘルンちゃん」と勝手に名付けた。小泉八雲はキリスト教嫌いだったが。

 また、船で、奈留島へ。同前のサイトの「江上天主堂」を引く。『江上(えがみ)天主堂の歴史は、1881年(明治14年)3月に潜伏キリシタンの4家族が洗礼を受けたことにはじまります。かれらの先祖は、江戸時代末期に大村藩領(現在の長崎市外海(そとめ)方面)から移住してきたのでした。そのころ江上地区には教会がなかったため、信徒の家でミサがおこなわれていましたが、1906年(明治39年)、現在地(奈留(なる)町大串1131)に簡素な教会が建てられました』。『本格的な教会が建築着工されたのは、1917年(大正6年)でした。当時の信徒は40戸から50戸でしたが、各地で教会建築をしていた鉄川与助に設計施工を依頼し、信徒たちはタブの木を伐りはらって敷地を造成しました。建築資金はすべて、キビナゴの地引網(じびきあみ)で得た収入などを出しあい、翌1918年(大正7年)3月に完成させました』。『江上天主堂を訪ねると、緑の木々の間からのぞく白い壁、窓がブルーの外観からは愛らしい印象を受けます。建物の構造は、湿気を避けるために床を高くし、柱には手描きの木目模様、窓には花を描いた透明ガラスを工夫していることなどが特徴です。内部は本格的な立面構成の三廊式になっており、リブ・ヴォールト天井(蝙蝠(こうもり)天井)の美しい曲線が、人々の祈りの空間をあたたかく包んでいます』。『この教会は、わが国における木造の教会のうち、完成度の高い作品として歴史的価値に優れ、小規模ながら教会建築の名工鉄川与助の代表作としても重要であり、2008年(平成20年)6月9日、国の重要文化財に指定されました』とある。まさに、可愛い、ほっとする素敵な教会だった。写真は、逆光で、暗いが、リンク先の写真を見られたい。


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 船旅が続く。舅賀島千畳敷(しゅうとがしませんじょうじき)を経て、若松島のキリシタン洞窟へ。

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「長崎しま旅行こう」の「キリシタン洞窟」を引く。『この洞窟は、潜伏キリシタンの信仰と弾圧の歴史を今に伝える重要な場所です。幕末から明治初期、長崎各地でキリシタン弾圧が起きていました。明治元年(1868年)、「五島崩れ」と呼ばれる弾圧の際、3家族12人が迫害を逃れてこの洞窟に身を隠しました。若松港から船で10分の場所にあるこの洞窟は、奥行き50m、高さ5m、幅5mの十字型。海岸からは入口が見えず、絶好の隠れ場所でした。しかし、ある朝の炊事の煙が漁船に発見され、彼らは捕らえられ』、『厳しい拷問を受けることになりました。この悲しい出来事は、禁教令が解かれる直前に起こりました。昭和42年(1967年)、苦しみに耐え』、『信仰を守り抜いた先人たちをしのび、その悲しみを長く祈念するため、洞窟の入口には高さ4mの十字架と3.6mのキリスト像が建てられました。現在も毎年11月には、土井ノ浦教会の信者を中心に約100名が集まり、ミサを捧げています』とある。「こんな所に……」と……私は絶句し、暗澹たる気持ちになった……。
 さても、ここから、郷ノ首港までの瀬戸(グーグル・マップのここだ)は、船長の許可が出たので、私は舳先に座り込んだ(他に孰れも若い男性一人・女性二人がいた)。スピードも速く、海峡の流れも合わせて、痛快爽快の二十五分だった。連れ合いは、流石に来ず、写真も、ない。残念至極!

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 以上の二枚は、昼食をした、ビーチの写真。既に述べた通り、まことに綺麗なんだが、砂や岩場を探索しても、全く生物の影もなかった……。



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 以上の二枚は、頭ヶ島(かしらがしま)天主堂。非常に重厚な荘厳であった。



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 これは、中ノ浦(なかのうら)教会。女性のバス・カイド(この方も優れた方だった)さんは、この湾に映る、この教会の景色を大いに喧伝された。まあ、可愛い形だけれど、それが見られれば、幸せになれる的な紹介は、もう、幸い等は、いらん、この爺イには、ピンと来なかった。教会ラッシュで、三度のイタリア旅行で感じた、くちくなった感じも、再発し始めていたのでは、あった。

 この日の宿は、民宿で、若松島の「えび屋」。私どもの部屋は、幸い洋室のベッドであった(彼女は両脚人工関節であるため、和室で布団では眠れないのである)が、鬼岳で写真を見せた捻挫をした御婦人は、和室で、困った、とおっしゃっていた。

 しかし、夕食は、今回のツアーでは、最も素晴らしかった。写真を掲げておく。

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2025/11/23

五島列島の旅(2)二日目 福江島周遊

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鬼岳(おにだけ)。両脚の人工関節三年目の連れ合いが、さくさくと、ぐんぐんと、坂を上ってゆく。背後の山がピーク。因みに、泊まったコンカナ王国の温泉は、この山の下から湧いている。私は、旅行前に捻挫をしたというツアーの女性を気遣って、一緒にゆっくりと登った。それを彼女がパチリ。なお、ウィキの「鬼岳」によれば、「おんだけ」と読むとしているが、コンカナ王国の支配人に聴いたら、「『おにだけ』です。」と答えられた。この日の現地のUターンの初老の素晴らしい博覧強記のボランティアも、「おにだけ」としか読まなかったぜ? ウィキさん……よ……

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 初回に見た井持浦(いもちうら)教会。五島市観光サイト「五島の島たび」の「井持浦教会とルルド」から引用し、少し手を加えると、『かつて、大村藩からの移住キリシタンが潜伏し、五島藩が塩造りの竈場で働せたという地区で』ある。明治三〇(一八九七)『年建立のレンガ造教会が台風で倒壊し』たため、平成一〇(一九八八)『年にコンクリート造の現教会となりました』。『当時の五島列島司牧』(しぼく:ローマカトリック教会・聖公会で、司祭が教会を管理し、信徒を指導すること。)『の責任者』でフランス人宣教師であった『ペリュー神父は』、明治二四(一八九一)『年、バチカンに』、『このルルドの洞窟が再現されたと聞き、五島の信徒に呼びかけて島内の奇岩・珍石を集め』、明治三二(一八九九)『年、日本で最初のルルドを作りました。この霊水を飲むと病が治ると言われ、日本全国の信者の聖地となっています』とある。ルルドにつおては、ウィキの「ルルドの聖母」を見られたい。連れ合いは、その水を飲んでいた。

 さて。
 明治六(一八七三)年二月二十四日の「キリスト敎禁敎」の高札が撤去され、江戸初期の禁教以来、初めてキリスト教が公認されている。この「明治維新」で近代日本が始まったとして、この禁教令廃止のタイム・ラグが、一般の日本人に十全に理解されているとは、私は思っていない。このラグの中で、五島列島の「キリシタン」は凄絶な苦しみを味わっているのである。
 ちょっとブレイクすると、私は高校時代、歴史の年数を覚えるのが大嫌いだったため、幼少より好んでいた「地理」(「地理B」=「世界地誌」までやった)と「政治・経済」を選択したため、後に郷土史研究で鎌倉史には、すっかりのめり込んだのだが、キリシタンの問題は、一般人の知識レベルであった。ところが、現地ガイドさんの話を聴いて、実は、複雑なグループが、今も、存在していることを、今更ながら、聴いて、勉強になった。私が了解した内容を以下に示す。
〇禁教令で、「ころんだ」で、正直に「棄教」した人々が、まず、いる。
〇次に、「ころんだ」として、仏教や神道の信者として見かけ上、「棄教」したように装い、それらの本邦の具体な宗教行事を、忠実にこなしながらも、実際には、キリスト教を内心で続けていた人々がいた。私たちは、それを安易に「隠れキリシタン」と呼んでいることが多いが、それは、間違いである。明治六年のキリスト教公認を受けて、カトリック教会に合流した人々は、本邦の歴史上の「元キリシタン」であり、カトリック信者である。
しかし、旧来の禁教としての「キリシタン」を秘密裡に信仰を守り続けた、いや、今もカトリックに合流せずに、禁教時代を通じて、本邦で形成された「隠れキリシタン」として独自信仰を守っている人々が、現におられるのであり、そうした人々が「隠れキリシタン」なのである。★しかも、それを親族にさえも全く表明していない文字通りの「隠れキリシタン」の方が、現に、今も、おられるのである。
この三つのグループ(最後の真正「隠れキリシタン」の最後に「★」以下で示した人々を別に分けるなら、四つのグループとも言えるように私は思われる)の信仰者たちの人生を考えた時、どの人々も、まさに、長い塗炭の苦しみを抱えてこられたのであった。

而して、キリシタンの人々にとって、この五島列島は、まさに、人の容易に達することが出来ない岬の先の洞窟に、はたまた、人跡未踏の山中や無人島に「隠れる場所」を求め得る――Gimme Shelter――であったのだった。……その場所も、後の写真に収めてある。なお、ガイドさんは、「隠れキリシタン」と言わず、「潜伏キリシタン」と述べておられたい。しかし、当時、そう言っていたとは、私は思われず、これは、現代の日本史学の規定した用語のように思われることから、かく、用いた。

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水ノ浦天主堂。同前のサイトの当該ページから同前の仕儀で引く。『水ノ浦の信徒は、五島と大村の藩の政策による』寛政九(一七九七)『年の外海(大野・牧野・神ノ浦)5人の男性と』、『その妻子の移住にはじまると伝えられています』。『1880年に最初の教会が建築されましたが、老朽化にともない、奥の土手を削って広げ、1938年、鉄川与助設計施工の木造の優美な現教会に改築されました。ロマネスク、ゴシック、和風建築が混合した白亜の美しい教会で、木造教会堂としては最大の規模を誇り、青空に尖塔がそびえる光景は絵になる美しさです。高台にはヨハネ五島(26聖人の内の五島出身者)の像や、弾圧時代の牢跡もあります』とある。なお、リンク先には、一枚、教会内の写真があるが、教会は祈りの場であり、内部写真は一箇所(次の投稿で示す「旧五輪教会」のみ)を除き、写真は一切、禁止である。

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 堂崎天主堂。「五島市 世界遺産の島 五島」の当該ページから引く。『1868年(明治元年)の久賀島(ひさかじま)牢屋の窄(さこ)殉教事件をきっかけに、奥浦地区でもキリシタンに対する拷問や捕縛、入牢などの迫害がおこなわれました』(☜明治初期の凄惨な事実は別に後に引用する)。『1873年(明治6年)、フレノー師が来島し、禁教の高札撤去後、五島で初めてのクリスマスミサが堂崎(どうざき)の浜辺で捧げられました』。『1877年(明治10年)には司祭が常駐するようになり、五島での本格的な司牧が開始されました。以後島内各地に小教区制度が整うまで、堂崎は五島キリシタン復活後の拠点としての重要な役割を果たすことになりました』。『1880年(明治13年)パリ外国宣教会マルマン師によって、堂崎に仮聖堂が建立されました。後任のペリュー師によって建て替え工事がおこなわれ、1907年(明治40年)に現在の教会が完成し、翌年1908年(明治41年)に祝別されました』。『当時の建築技術を物語る証しとして、1974年(昭和49年)4月9日、長崎県の文化財に指定されました』。『1977年(昭和52年)には、内部に堂崎天主堂キリシタン資料館が開設され、布教時代から迫害を経て復活にいたる信仰の歴史が展示されています』。『さらにこの地は宣教再開と同時期に、宣教師の指導のもとにはじまった子部屋と、その事業母体となった女部屋発祥の地でもあり、信仰に貫かれたもうひとつの歴史が刻まれています』とある。

 而して、「日本キリスト改革派 浜松教会」公式サイト内の「五島列島旅行記6(隠れキリシタンと五島列島の近現代史)」を、やや長いが、非常に重要な内容なので引用する。特に「2」を見逃さないで戴きたい。
   《引用開始》

1.五島列島の隠れキリシタンの歴史(江戸時代)

 五島列島に最初の隠れキリシタンが住み始めたのは、江戸時代末期の1800年ころでした。当時、五島列島を治めていた五島藩は度重なる飢饉や出生後生存率の低さから、人口の減少に悩まされていました。そこで、当時人口が石高に対して比較的多かった対岸の大村半島の大村藩に「五島列島に土地を分け与えるから移住しませんか?」という、今で言う「地方移住」の案内を出しました。その頃の大村藩としては人口が多すぎて耕す土地に困っていたこと、食糧不足などの問題から、3000人もの農民が移住を希望し五島列島に住み始めました。

 しかし、他の地域では出生率が低く、人口減少に悩まされているほどだったのに、なぜ大村藩だけが人口増加していたのか? それを知るためには、当時の農民・漁民の経済と慣習を理解する必要があります。当時の一般的な貧しい家庭においては、土地や食料が不足している場合、口減らしとして子供が殺されたり売られたりすることが横行していました。つまり、飢饉が訪れると大人の餓死者も出るが、その前にまず子供が殺されてしまう。(江戸時代における子殺しは、惨いことというよりは、狭い島国で争いを起こさずに大半の大人たちが文化的な生活を維持するために必要なシステムだと一般に理解されていたのではないでしょうか?)それに対し、大村藩の民衆たちは、いくら自分たちが貧しくても決して子供を殺さなかったために、人口が増えすぎるという状況になっていたそうです。その彼らの根底にあったのは、キリスト教信仰でした。彼らは隠れキリシタンだったのです。

 もちろん、信仰が他の誰かに知られれば、拷問と処刑は免れないため、隠れキリシタンは完全に信仰を隠しています。見た目や外での行動はすべて他の民衆と区別がつきません。踏み絵も踏みますし、神社や仏教行事にも参加します。しかし、その様な厳しい弾圧と迫害と監視の中にあっても、決して家の外には聞こえない様な口の中だけでもごもごと唱える様な祈りと賛美を、それもグレゴリオ暦に従ったクリスマスやイースターなどの教会歴に基づいたものを、口伝えで子供に伝えていた方々だったのです。

 五島列島への移住した人たちに与えられたのは、耕しやすく港を作りやすい土地はすでに元からの住民がいるため、山間の狭い耕しにくい土地や、波が荒く港を作りにくい、漁業に向かない海のそばばかりでした。それでも、厳しい弾圧から逃れられる、自分たちの土地が手に入る喜びから、一生懸命開墾したそうです。

 そのため、今でもわずかにある平野部は仏教徒が、住みにくい山間部や崖のような斜面、狭い峠を越えた狭い湾のそばにはクリスチャンがという風に集落が分かれていました。

 

2.キリシタン弾圧時代(明治時代最初期)

 1865年(慶応元年)に長崎浦上での信徒発見以降、五島でもキリシタンたちはは次々と信仰を表明した。しかし、キリスト教は禁教のままであったために、この信者たちは投獄され拷問に掛けられるという弾圧にあった。五島列島でも久賀島では、6坪の牢屋に約200人のキリシタンが8ヶ月も収容され、40名以上の方々が亡くなりました。

 この他にも多くの悲劇的な弾圧が長崎を中心に起こり、それらが神父たちによってヨーロッパに伝えられると、日本は各国から非難を受けるようになり、1873年(明治6年)になって、ようやく明治政府はキリスト教の禁教を解きました。

 

3.隠れキリシタンからカトリック信者となった後の歴史(明治初期~昭和)

 この時代は一言で言うと、五島列島における「会堂建築期」です。

 18732月、キリシタン禁制の高札が撤去され、信仰が黙認されることになると、澤二郎らがパリ外国宣教会フレノ神父を長崎へ迎えに行き、ついに念願の神父来島が叶います。フレノ神父の堂崎での野外ミサには、1000人を超える下五島各地のカトリック信徒が船で集まったといわれています。以降、宣教師と伝道士らの協力によって、潜伏キリシタンのカトリックへの復帰が進められていくのです。1877年からフレノ神父やマルマン神父たちは長崎から五島列島の巡回司牧に訪れます。1880年からは五島列島を2地区に分け、下五島をマルマン神父、上五島をブレル神父が担当し、常駐して巡回司牧に努めます。1888年堂崎に着任したペルー神父は、1893年から五島の主管者(司教代理)に任命され、全五島を巡回して司牧宣教に尽くします。このころから、1879年の大泊教会の仮御堂にはじまり、1880年堂崎に小聖堂(現教会は1907年建立され県指定有形文化財)、1881年には浜脇教会(現在旧五輪教会堂として1931年に移築され国指定重要文化財)、1906年江上天主堂(現教会は1918年に建立され国指定重要文化財)、上五島地区では1878年青砂ヶ浦教会(現教会は1910年に建立され国指定重要文化財)、1882年江袋教会(現教会は火災による焼損を2010年、創建時の姿に復元修復され県指定有形文化財)、1887年頭ヶ島教会(現教会は1917年に建立され国指定重要文化財)など、その他各集落に教会堂は建設されていき、潜伏キリシタンのひそかな祈りから、カトリック復帰によって、祈りが目に見えるものになっていきます。その前後で、日本は数々の戦争を経験し大変な時代ですが、教会を建造するために、生活の厳しい中でも、信者によって多くの献金が集まりました。さらに、宣教師の本国の私財や外国の信仰を同じくする方々からの善意の寄付が集まってきました。宣教師の設計や指導の下、信者の労働奉仕や鉄川与助など日本人大工の施工によって多くの教会が建てられていくのです。五島全域に現在50、下五島には21の教会があります。過疎化の進む下五島にも、かつて28の教会がありました。五島のカトリック信徒の人口は、2013年には8,995人で、五島総人口の約14%を占め、その中で五島市には3,275人と、五島市の総人口の8.3%を占めます。ちなみに日本全国でのカトリック信徒の人口割合は0.3%です。データのように五島列島は、日本の中でもカトリック信徒人口割合が最も高い地域です。このように、五島列島には、250年にも及ぶ禁教での迫害の歴史をこえ、真摯に信仰を伝え続けたキリシタンの歴史が最も深く刻まれています。現代においても真摯な信仰が伝えられ、世界で唯一無二となる歴史を刻み続けているのです。

   《引用終了》

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堂崎天主堂への道にある「りんご岩」(旅行者が勝手につけたもの)周辺を観察したが、どうも、残念なことに、五島の海浜は「磯枯れ」傾向が認められ、何らの海岸動物を見ることが出来なかった。以下は、昼食をした「高浜ビーチ」も、一見、陽光が輝いて美しいのであるが、砂浜の脇の岩礁の生物相は全く確認出来ず、漂流ゴミもひどかった。今回の旅で、これだけは、甚だ残念だった。 

五島列島の旅(1) カットッポの夜

電子化注が、なかなか難物であったために、五島列島の旅(ツアー:11月5日~8日)の画像を示すのが、遅れてしまった。月が替わってしまう前に示すこととした。画像は総て連れ合いが撮ったものである。

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福江島の落日
プロペラ機畿内から


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福江の空港に着く

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五島コンカナ王国(温泉有り)の私たちのロッジ

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敷地内から見上げるスーパー・ムーン

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 これが、夕食。ツアーの事前の予定で、ハコフグ(フグ目フグ亜目ハコフグ科ハコフグ属ハコフグ Ostracion immaculatus 。現地では、「カットッポ」と呼ぶ)で、最も楽しみにしていたのだが(ハコフグは未体験であった)……確かに、左に添えてあるのは、ハコフグであった。ところが、横にある料理長のメニューを見たところが、「箱河豚とウマヅラハギの味噌焼き」と書いてあった(正確には、「噌」は(つくり)が「曽」となっている)ので、海産フリークの私は、「おかしいぞ! これは、ハコフグじゃない!」と連れ合いに小声で言った。本来の「カットッポ」は、このハコフグの中に、ハコフグの肉を叩いたものを味噌焼きにしたもので、供されるからだ! 失望した。終わってロッジに帰る時、シュンとしている私を見て、連れ合いが、係の人に何やら、訊ねていた。而して、ニッコリして戻ってきて、「明日の夕食でハコフグをオプションで出して呉れるそうよ💖」と言った。歓喜乱舞した!

 さても。翌日の夕食が、これだ!💖!

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 嬉しい私の蘊蓄が始まった。……「ハコフグはテトロドトキシンは持っていないけど、体表面にパフトキシンという毒がある。でも、それは、焼いた時の熱で毒性は消えるんだ……でも、肝臓や卵巣は外しておく。食べちゃ、ダメ……」てなことを、言った。ところが……すぐ横に、ツアーの夫婦がいた。その奥方が、ずう~っと、私の話を聴いていたのである……ちょっと悪い気がした。……そう! 他のツアーの、恐らく方々の大方は、前日の料理がハコフグだと思って食していたらしいのである。……確かに、「箱河豚」ってかいてあったもんなぁ……しゃあないなぁ……やっぱ! 「カットッポ」万歳! だった!!!

和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 藥品(11) 製法毋輕忽

[やぶちゃん注:以下、一本を除いて、原本本文は二段体裁であるが、ブラウザの不具合を考え、一段とした。但し、中には、明らかに前の謂いに続いて述べている箇所があり、訓読では、それは繋げた。]

 

   製法毋輕忽

 

芫花本利水無醋不能通

菉豆本解毒帶殼不見功

草菓消膨効連壳反脹胸

[やぶちゃん注:「壳」は「殼」の異体字。原本では「グリフウィキ」のこれに近いが、完全一せず(七画目の水平の頭部が完全に左右に突き出て「兀」の形になってしまっている)、それも表示出来ないので、これで示した。]

黑丑生利水遠志苗毒逢

蒲黃生通血熟補血運通

地榆醫血藥連稍不住紅

[やぶちゃん注:この「稍」は文脈から、「梢」の誤刻と判断されるので、訓読では訂した。]

陳皮専理氣連白補胃中

附子救陰藥生用走皮風

草烏解風痺生用使人䝉

[やぶちゃん注:「䝉」は「蒙」(フライングしておくと、この場合は「愚か」の意)の異体字。原本では、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、かく、した。]


人言燒過用諸石火煆紅而入醋能爲末製度必須工

當歸頭止血尾破血

麻黃身發汗根止汗

𮔉成於蜂𮔉温而蜂寒

油生於麻麻温而油寒

穀屬金而糠之性熱

麥屬陽而麩之性凉

山茱萸補腎固精元

其核滑精故須去核


猪苓茯苓厚朴桑白皮之類

不去皮耗人元氣

栢子火麻益智草菓之類

不去皮令人心痞

人參桔梗常山之類

不去苗蘆令人嘔吐

[やぶちゃん注:「蘆」は「グリフウィキ」のこの異体字であるが、表示出来ないので、かく、した。]

遠志巴戟門冬蓮子烏藥之類

不去心令人煩燥

知母桑白皮天麥門冬地黃何首烏

犯鐵必患三消

 

   *

 

   製法(せいはう)、輕-忽(ゆるが)せにすること、毋(なか)れ。

 

芫花《げんくわ》は、本《も》と、水《すい》を利す。醋《す》、無《なき》には、通《つう》すること、能はず。

[やぶちゃん注:「水《すい》」東洋文庫訳では、ルビを振らない。恐らく「みず」と読ませている。しかし、後の部分で、明らかに五行思想の他の五元素を示す下りがあるから、ここは私は、「みづ」ではなく、「すい」で読むべきと考える。中医学で言う「水気」である。

菉豆《ぶんどう》の《✕→は》、本《も》と、毒を解《かい》す。≪然れども、≫殼《から》を帶《おび》れば、功《こう》を見ず。

草菓《さうくわ》は、≪腹部の≫膨《ふくれ》を消《しやう》する効あり。≪然れども、≫壳《から》を連《つる》れば、反《かへり》て、脹-胸《ちやうきよう》す。

黑丑(くろけんごし)、生《なま》は、水《すい》を利《りす》。

遠志《をんじ》の苗《なへ》≪は≫、毒に逢を《✕→ふ》。

蒲黃《ほかう》の生《なま》は、血を通じ、熟《じゆくせ》ば、血を補《おぎなひ》て、運《めぐり》≪を≫通《つう》ず。

地榆《ぢゆ》は、血を醫《いや》する藥《やく》≪なり≫。≪然れども、≫梢《こずゑ》を連《つら》≪ねては≫、紅《べに》[やぶちゃん注:「血液」の意。]を住《ぢゆう》せず[やぶちゃん注:この「住」は「留(とど)まる・止める」の意で、「出血を止めることは出来ない・止血することは不可能である」の意。]。

陳皮《ちんぴ》は、専《もつぱ》ら、氣《き》を理(をさ)む。白《しろ》みを連《つらな》れば、胃中《いちゆう》を補ふ。

附子《ぶし》は、陰《いん》を救《すく》ふ藥《やく》≪なり≫。生《なま》にて用《もちひ》れば[やぶちゃん注:送り仮名がスレているので、推測で訓じた。]、皮風《ひふう》を走る。

草烏《さうう》は、風痺《ふうひ》を解《かい》す。生《なま》にて用《もちふ》れば、人をして、䝉《おろか》ならしむ[やぶちゃん注:愚鈍にさせる。]。


人言(ひさうせき)[やぶちゃん注:「砒霜石」。]は、燒過《しやうくわ》[やぶちゃん注:十二分に焼灼(しょうしゃく)すること。]して用ふ。諸石《しよせき》は、火《ひ》を紅《くれなゐ》にして、煆《か》して[やぶちゃん注:真っ赤になるまで炙って乾かす。]、醋《す》に入れて、能《よく》、末《まつ》と爲《な》して、製《せい》≪する≫度《ど/ほどあひ》≪は≫、必《かならず》、須《すべか》らく、工《たくみ》にすべし。

[やぶちゃん注:「諸石」は、東洋文庫訳でも、そのまま「諸石」なのだが、とすれば、「もろもろの薬用にする鉱石類総て」の意となるが、どうも私には納得出来ないものを感じるのである。例えば、漢方では、磨り潰して、熱を加えずに、ただ磨り潰して用いるとする鉱物は多く存在するし、強烈に焼灼してしまうと本来の薬効物質が破壊されてしまう鉱物も存在するからである。一応、あるままに訓読したが、私は別な特定の鉱物薬剤の誤字・脱字の可能性を後の注で示しておく。

當歸《たうき》≪の根≫の頭《かしら》[やぶちゃん注:太い部分。]、血を止め、尾《を》[やぶちゃん注:根の細い先の部分。]は、血を破《やぶ》る[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、『血の』鬱滞した『流れを順調にする』とある。]。

麻黃《まわう》[やぶちゃん注:基原は同種の地上茎である。]の身《み》は、汗を發し、根は[やぶちゃん注:地上茎の最下方にある鬚根か。]、汗を止《と》む。

𮔉《みつ》は、蜂《はち》より成る。𮔉は、温《おん》にして、蜂は、寒《かん》なり。

油《あぶら》は麻《あさ》より生《しやう》じ、麻は、温にして、油は、寒なり。

穀(こめ)は金《ごん》に屬して、糠(ぬか)の性≪は≫、熱《ねつ》なり。

麥《むぎ》は陽《やう》に屬して、麩(こがす)[やぶちゃん注:原本のルビは『コカス』。小麦の粉を採った残りの滓(かす)で、一般には「ふすま」の読みが知られるが、「こがす・もみじ・からこ」等とも呼ぶ。]の性《しやう》は、凉《りやう》なり。

山茱萸《さんしゆゆ/やまぐみ》は、腎を補い[やぶちゃん注:ママ。]、精《せい》≪の≫元《もと》を固《かたく》す。其《その》核《さね》は、精を滑《なめらか》にす。故《ゆゑ》に、須らく、核を去るべし。


猪苓《ちよれい》・茯苓《ぶくりやう》・厚朴《こうぼく》・桑白皮《さうはくひ》の類≪は≫、皮を去らざれば、人の元氣を耗(へ)らす。

栢子《はくし》・火麻《あさ》[やぶちゃん注:大麻のこと。]・益智《やくち》・草菓《さうくわ》の類《るゐ》≪は≫、皮を去らざれば、人をして、心-痞(むえつかへ[やぶちゃん注:ママ。「胸痞(むねつかへ)」。])せしむ。

人參《にんじん》・桔梗《ききやう》・常山《じやうざん》の類《るゐ》は、苗蘆《びやうろ》[やぶちゃん注:以上の三種の漢方の基原植物は、総てが「根」であるから、地上に出ている「苗」のような葉体部や、ヨシ・アシ(蘆)のような茎部を指していよう。]を去らざれば、人をして嘔吐せしむ。

[やぶちゃん注:「蘆」は「グリフウィキ」のこの異体字であるが、表示出来ないので、かく、した。]

遠志《をんじ》・巴戟《はげき》・門冬《もんとう》[やぶちゃん注:次の条に載る二つの「天門冬」と「麥門冬」を指すのであろう。]・蓮子《はすのみ》・烏藥《うやく》の類《るゐ》≪は≫、心《しん》[やぶちゃん注:「芯」に同じ。]を去らざれば、人をして煩燥《はんさう》せしむ[やぶちゃん注:「煩躁」は漢方用語で「いらいらしてじっとしていられない状態」を指す。]。

知母《ちも》・桑白皮・天≪門冬《てんもんどう》≫・麥門冬・地黃《ぢわう》・何首烏《かしゆう》≪は≫、鐵《くろがね》、犯《をか》せば、必《かならず》、「三消《さんしやう》」を患《わづら》ふ。

 

[やぶちゃん注:「芫花」先行する「藥品(2) 六陳」で既注済み。

「菉豆」は「卷第八十七 山果類 橘」で私が注している。この「ぶんどう」とは、マメ目マメ科マメ亜科ササゲ属ヤエナリ(八重生) Vigna radiata の種子を指す語である。同種の「維基百科」の「綠豆」を見ると、草体自体も「綠豆」である。本邦のウィキには、『アズキ』(小豆)『( V. angularis )とは同属』で、『グリーン』・『ピース』(green peas)『は別属別種のエンドウ』(エンドウ属エンドウ Pisum sativum )『の種子』とあり、『インド原産で、現在はおもに東アジアから南アジア、アフリカ』、『南アメリカ、オーストラリアで栽培されている。日本では』十七『世紀頃に栽培の記録がある』。『日本においては、もやしの原料(種子)として利用されることがほとんどで』、『ほぼ全量を中国(内モンゴル)から輸入している』。『中国では、春雨の原料にする』『ほか、月餅などの甘い餡や、粥、天津煎餅のような料理の材料としても食べられる』とあった。

「草菓」これは「草果(さうか)」が正しい。基原は、本邦には植生しない、

単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ランクサンギア属ソウカ Lanxangia tsaoko の成熟果実を乾燥したもの

である。ウィキの「ソウカ」によれば(注記号はカットした)、『ショウガに似た植物であり、以前はAmomum tsao-ko 』(現在はシノニムとされている)『として知られていた。英語では文字転写された中国語の名称 cao guo(中国語:草果;拼音:cǎoguǒ)と呼ばれる。雲南省の高地やベトナム北部の山岳地方にも生育する。野生植物と栽培植物のどちらも医学的に使われ、料理にも使われる』。因みに、種小名 Tsaoko 『は』、『この植物の雲南省での呼称である』。『ソウカの成熟果実を乾燥したものが』、『カルダモン』(英語:Cardamomcardamoncardamum。正確には、「ブラックカルダモン」に属する。ウィキの「カルダモン」を見られたい)『類生薬「草果」である。小島(1969)によれば、「"草果" の基原植物については Amomum medium Lour.= Alpinia alba A. DIesrHellenia alba Willd.)といい、Amomum costatum Benth. et Hook. といい、あるいはAmomum tsao-ko Crevost et Lemarieともいわれ、いまだ定説がなく、また、いずれのものが正しいか、これを確認することはできない」』とある。以下、「形態」の項。『多年生常緑草本で、高さは2.53メートルに成長する。植物体全てが辛香味を有する。横に伸びる根茎は淡紫紅色で、ショウガのように肥大する。その側面と頂点はピンクである。根茎上の葉芽から直立した茎が出る。茎は深緑色で、基部は紫紅色、円柱形の節がある。一般に、1216片の葉を付ける。葉は2列で、短い柄または無柄である。大きな皮針形の葉は両面とも滑らかで毛はない』。『穂状花序は』、『根茎から出て、球形である。それぞれの穂は螺旋状に配置された60120個の紅色の花を有する』。『楕円形』又は『紡錘形の肉質の蒴果は短果柄を有する。果実は初めは』、『鮮紅色で、成熟すると紫紅色となり、開裂せず、日光または火で乾燥させると茶色となる。それぞれの果実内には2066個の種子が存在する。種子は多角形で、長さ0.40.7 cm、幅0.30.5 cm、仁は白色で、1000粒の平均重量は120140 gで、強い辛辣香気を有する』。以下、「用途」。『中医学では、干乾し』或いは『炒めた焦げ黄色の草果を使用し、殻を除いたものは草果仁と呼ばれる』。『伝統的な中華料理では肉、特に煮込んだ牛肉と羊肉の臭みを隠すために草果の辛辣香気が常用される。草果は五香粉、カレー粉、十三香といった混合調味料の材料としても使われる』。『その他、ソウカの茎、葉、果実からも芳香油が抽出され、製薬、香料等の工業原料として用いられる』とあったが、対応疾患が記されていないので、「維基百科」の「草果」の「用途」を見たところ、『中医学では、天日干しして、黄金色になるまで焙煎したカルダモンを用いる。殻を取り除いたカルダモンは、カルダモン核とも呼ばれる。カルダモン核は、辛味と温感を持つとされ、脾臓と胃の経絡に入り、湿を清め、中焦を温め、痰を取り除き、マラリアを治す作用がある。臨床的には、胃の膨満感・痛み・吐き気・嘔吐・咳・マラリアなどの症状の治療に加え、アルコールの解毒や口臭の除去にも用いられる。』とあった。

「反て、脹-胸す。」東洋文庫訳では、『かえって膨張(ぼうちょう)を促進するものとなる。』とあるが、どうだろう? ここは、「却って、腹部膨満は改善されず、上部の胸部の病的膨張を引き起こす。」とすべきではあるまいか?

「黑丑(くろけんごし)」この読みは、「黑牽牛子」で、これは、お馴染みの「朝顔」、

ナス目ヒルガオ科サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil の種子

である。「イー薬草・ドット・コム」の「薬用植物総合一覧表」の「アサガオ」に(太字は私が附した)、『9~10月に種子を採取して天日で乾燥します。果皮は、からからに乾いたら取り除き、種子だけを集めて乾燥させます』。『これを生薬で、牽牛子(けんごし)といいます』。『種皮の黒紫色のものを黒丑(こくちゅう)、黒牽牛子(くろけんごし)、黄白色のものを白丑(はくちゅう)、白牽牛子(しろけんごし)といいます』とあり、『薬効・用い方』の項に、『有効成分は、アサガオの種子には樹脂配糖体ファルビチンほか』で、『利尿、殺虫を兼ねた峻下剤』(しゅんげざい:腸の粘膜を直接刺激し、大腸の蠕動運動を促進して強い便意をもたらす下剤)『として下半身の水腫や尿閉症に用います。用い方は煎剤としては1日量2~5グラム、粉末として用いるときは、1日量0.5~1.5グラムを服用しますが、空腹時によく効き目があります』。但し、読者もご存知の通り、種子には強い毒性があり、『強力な下剤作用は含有されるファルビチン』(pharbitin:樹脂配糖体)『によるもので、腸粘膜を始め下腹部に充血をきたして、蠕動』『運動を亢進』『して寫下(しゃげ)効果をあらわします』。『そのため』、『作用は強烈ですから』、『使用に際しては、用量を間違えずに過量を用いないことが大切です』とあった。因みに、「その他」の項に、『中国では、本草綱目』『に、王の大病をこの種子で治して謝礼にと、当時は財産であった牛を与えられて、牛を牽(ひ)いて帰ったということから、漢名の牽牛子(けんごし)とつけたという記述があります』。なお、『山上憶良』『の詠んだ、秋の七草の歌に朝顔の花が出てきますが、この時代には、アサガオは日本に渡来していないことから、この朝顔とは、キキョウのことを詠んだという説が知られ』ています、とあった。

「遠志《をんじ》の苗《なへ》≪は≫、毒に逢を《✕→ふ》」「遠志」(オンジ)の基原は、

マメ目ヒメハギ科ヒメハギ属イトヒメハギ Polygala tenuifolia の開花期の根

である。当該ウィキによれば、『去痰作用がある。帰脾湯、加味帰脾湯、人参養栄湯などの漢方方剤に使われる。脳の記憶機能を活性化し、中年期以降の物忘れを改善する効果もある』とあった。また、「熊本大学薬学部薬用植物園」公式サイト内の「薬草データベースイトヒメハギ」には、『成分』として、『サポニン(onjisaponin AG),キサントン(3-hydroxy-2,6,7,8-tetramethoxyxanthone)』とし、『産地と分布』で『朝鮮北部,中国北部,シベリアに分布する.』とあり、『多年草.根茎はやや木質化,1根から多数の細い茎を叢生する.葉は互生し,針状披針形で,特に茎の上部の葉は細い.茎の先に総状花序をだし,片側にまばらに緑白色の小さな花を開く.さく果は倒心形で平たい.』。『和名は,糸姫萩の意味で,ヒメハギに近く,葉が糸状に細いので名付けられた.』とある。また、『薬効と用途』にも『鎮静,去痰,抗炎症,強壮作用があり,精神不安,神経衰弱,病後の不眠,動悸,気管支炎,気管支喘息などに用いる.漢方処方では,加味帰脾湯,人参養栄湯などに配合される.花粉症,咳に用いられる遠志シロップの製造原料.』とあり、ここに書かれてある『遠志の苗は』「毒に逢」「ふ」=『毒となる』(二重鍵括弧部分は東洋文庫訳)ということは、書かれていない。サポニンとキサントンも諸辞書と、ある論文一件を調べたが、有意なヒト毒性を記載するものは見当たらなかった。従って、この言説は不詳である。「苗」と限定している部分がミソなのだが、識者の御教授を乞うものである。なお、本文は東洋文庫訳では、前の部分とカップリングして、

『黒丑(くろけんごし)(蔓草類アサガオ)の生(なま)は水を通利するが、遠志(おんじ)(山草類)の苗は毒となる。』

と訳してあるが、私は、並べる理由が全く感じられないので、分離した。

「蒲黃」単子葉植物綱イネ目ガマ科ガマ属 Typha の花粉。薬用。「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 蒲黄(ホオウ)」を引用する。

   《引用開始》

基源:ヒメガマTypha angustifolia L., ガマT.latifolia L., コガマT.orientalis Presl.(ガマ科Typhaceae)の成熟した花粉を乾燥したもの。

 ガマは開けた湿地や池沼のほとり、休耕田などに多く生える単子葉植物です。わが国には上記の3種類が生え、外見は互いによく似ています。雌雄同種で、茎の先端に特徴的な花穂をつけます。先端には雄花が密集して黄金色の細長い雄花穂を作り、その下に多数の雌花が群生して褐色の太いソーセージ状の雌花穂を作ります。花は花被を持たず、雄花はおしべと毛からなり、雌花は子房と基部にある毛からなります。ガマは高さ1〜2mになり、葉の巾が約2cmで、雌花穂が緑褐色を呈します。コガマとヒメガマは全体にやや小型で、葉の巾は約1cm、前者の雌花穂は赤褐色で雄花穂と雌花穂が近接しており、後者の雌花穂は太さが約15mmと細くて雄花穂との間に花軸が露出していることなどで、3種は容易に区別できます。

 生薬としての「蒲黄」は、『神農本草経』上品に「甘平。心腹、膀胱の寒熱を主治し、小便を利し、血を止め、★血を消し[やぶちゃん注:この『★』部分、気になったので、「維基文庫」の電子化された同書を確認したところ、『消瘀血』とあった。これは、「血の巡りが悪くなっている状態を解消する」の意である。]、久しく服すれば身を軽くし、気力を益し、年を延ばし、神仙となる」と収載され、次いで「香蒲」が「甘平。五臓、心下の邪気、口中の爛臭を主治し、目を明らかにし、耳を聡くし、久しく服すれば身を軽くし、老衰を防ぐ」と収載されました。陶弘景は、「蒲黄」は花の上の黄粉であるとし、明らかに花粉であったことを示しています。一方の「香蒲」については、『新修本草』で「蒲黄は香蒲の花である」とし、『図経本草』でも「香蒲は蒲黄の苗である」としているように、両者は同一植物由来のようです。香蒲は医薬品と言うよりはもっぱら莚(むしろ)を編むのに利用されていたようで、「蒲団」の語源ともなっています。また、『新修本草』には莚としての利用の他、「初春には漬物や蒸し物にして食べる」とも記されています。

 さて、わが国では古来ガマは『古事記』に載せられた「因幡の白兎伝説」でよく知られている植物です。ワニ(サメ)を欺いたために皮をむかれて丸裸にされ、さらに大国主命の兄たちに海水を塗って陽にあたるよう教えられてひりひりと赤くなった皮膚に、後から通りがかった大国主命が清水で洗って「蒲黄」をつけることを教え、兎を救う話です。童謡では「蒲の穂綿に包まれば」とありますが、『古事記』には「蒲黄」とあります。ちなみに、「蒲の穂綿」とは雌花穂の果実が熟して先から長く伸びた糸状体が綿のように伸びたものをいい、古来[やぶちゃん注:読点が欲しい。]詰めものに利用され、また硝石を混ぜて火打ち石による発火の火口にもされました。「蒲黄」と「穂綿」では成熟時期が異なりますので、大国主命が出雲に旅行した季節がはっきりすれば、どちらが利用されたか特定できますが、いずれ神話の中の話であり、ガマが古来[やぶちゃん注:読点が欲しい。]薬用植物として利用されていたことにこそ注目するべきでしょう。

 蒲黄の原植物については、一般にはヒメガマが筆頭に充てられますが、これは花粉の量が多いからのようです。一色直太郎氏[やぶちゃん注:大正期の和漢薬研究家。]は蒲黄の品質について、「微かに特異な臭いがあり、全質一様に深黄色を呈し、顕微鏡下では単粒のもの」が良品であるとしています。ガマの花粉は4個が密着した複粒であり、他の2種では単粒であることから、コガマかヒメガマが良品質であることを示しているようです。「蒲黄」は古来「利小便、止血、散?血」の生薬ですが、破血、消腫に用いるときには生用し、補血、止血に用いるときには炒用することが『日華子諸家本草』に記されています。なお同書に蒲黄を篩うと赤色の滓が残る(これを蒲黄滓と言い,花芯や細毛で,別に渋腸止瀉血薬とする)と記されていることから、蒲黄の採集方法としては成熟花粉のみを振り落すのではなく、雄花穂全体を花軸からしごき取っていたものと考えられます。

   《引用終了》

「地榆」これは、

バラ目バラ科バラ亜科ワレモコウ(吾亦紅)属ワレモコウ Sanguisorba officinalisの根茎を乾燥したもの

を指す。当該ウィキによれば、『秋に葉が枯れてから掘り上げて水洗いし、茎・細根を取り除いて天日乾燥して調製される』。『タンニンやサポニン多くを含み、収斂薬や、止血や火傷、湿疹の治療に用いられる』。『漢方では清肺湯(せいはいとう)、槐角丸(かいかくがん)などに配合されている』とある。

「陳皮」「藥品(2) 六陳」で既出既注。

「附子」何度も注しているが、再掲する。「鳥頭」(うず)と同義。トリカブト(モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum )のトリカブト類の若い根。猛毒であるが、殺虫・鎮痛・麻酔などの薬用に用いられる。「そううず」「いぶす」とも言う。

「陰を救ふ藥」漢方で言う「陰證(陰証)」。「飯塚病院 漢方診療科」のサイトの「陰証・陽証(いんしょう・ようしょう)…身体のバランス」のページに、『陰証を示唆する症候』に、『寒がりで厚着を好む』・『電気毛布など温熱刺激を好む』・『口渇はないが温かい湯茶を好む』・『顔面が蒼白』・『低体温(36.2℃以下)傾向』・『温めると症状が軽減する』とあった。非常に判り易い内容である。

「皮風を走る」全く意味不明。識者の御教授を乞う。因みに、東洋文庫訳では、『皮膚の表面にまで行き亘(わた)る』となっている。

「草烏」正しくは、「草烏頭」(そううず)。やはり、トリカブト(モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum )のトリカブト類の若い根。既に述べた通り、猛毒。

「風痺」先行する「卷第八十四 灌木類 接骨木」で、東洋文庫訳に割注して、『(身体がだるく』、『痛みが身体のあちこちに走る症』』とある。

「人言(ひさうせき)」割注した通り、「砒霜石」(ひそうせき)「砒霜」のこと。「藥品(6) 相畏」で既出既注。

「諸石」割注で特異的に疑義を示した。私が、気がついたのは、

代謝石(たいしゃせき)の脱字の可能性

である。「デジタル大辞泉」に、『たいしゃ‐せき【代×赭石】』として『土状』(つちじょう)『をした軟質の赤鉄鉱。顔料や研磨材に利用。また、漢方で補血・止血薬に用いる。』とあった。「金澤 中屋彦太郞藥局」の「代謝石」に、『第二類医薬品、代赭石は神農本草経の下品に収載されている。』『赭とは赤色という意味である。』基原は、Fe2O3『を主成分とする天然の赤鉄鉱の塊。』で、『「産地」』は『中国(山西、河北、山東、河南、四川、広東省など)。』『「成分」』はFe2O3『で、そのうちFe70%、O30%、その他』に、SiO3,AL,Mg,』『Caなどを含む。』(一箇所、理解出来ない元素記号があったので、カットした)『「応用」』に『補血、収斂、止血、鎮静目的に応用される。』とし、『外傷の出血には粉末を塗布するといい。』とする。『「薬性」』は『苦、寒。』で、『「処方例」』に『旋覆花代赭石湯』とある。『「用法・用量」』は『煎薬、外用。1日10~30g。』とあった。これなら、きつく焼灼しないと、土状になった中に微生物がいる危険性があるからである。如何?!

「當歸」知られた生薬名。基原は、被子植物門双子葉植物綱セリ目セリ科シシウド属トウキ Angelica acutiloba の根、或いは、ホッカイトウキ Angelica acutiloba var. sugiyamae の根を、通例では、湯通しし、乾燥したものである。

「麻黃」中国では、裸子植物門グネツム綱グネツム目マオウ科マオウ属シナマオウEphedra sinica(「草麻黄」)などの地上茎が、古くから生薬の麻黄として用いられた。日本薬局方では、そのシナマオウ・チュウマオウEphedra intermedia(中麻黄)・モクゾクマオウEphedra equisetina(木賊麻黄:「トクサマオウ」とも読む)を麻黄の基原植物とし、それらの地上茎を用いると定義している(ウィキの「マオウ属」によった)。また、漢方内科「証(あかし)クリニック」公式サイト内の「暮らしと漢方」の「麻黄…エフェドリンのお話」が非常に詳しいので、見られたい。

「山茱萸」「卷第八十四 灌木類 山茱萸」を見よ。

「猪苓」菌界担子菌門真正担子菌綱チョレイマイタケ目サルノコシカケ科チョレイマイタケ属チョレイマイタケ Polyporus umbellatus を基原とする。先行する「卷第八十五 寓木類 猪苓」を見られたい。

「茯苓」「卷第八十五 目録(寓木類・苞木(竹之類)・樹竹之用)・茯苓」を見よ。

「厚朴」「卷第八十三 喬木類 厚朴」を見よ。

「桑白皮」バラ目クワ科クワ属 Morus の桑類の根皮。消炎・利尿・鎮咳効果を持つ。基原は、マグワ Morus alba の根皮。詳しくは、先行する『卷第八十四 灌木類 目録・桑』の私の注を見られたい。

「栢子」一言では述べられない。「卷第八十二 木部 香木類 目録・柏」の私の注を見られたい。

「益智」私は、初めて見た。基原は、

単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ハナミョウガ属ヤクチ Alpinia oxyphylla の果実

である。当該ウィキには、『中国南部に分布する多年生草本』で、『草丈は1.5-3m』。『果実は益智(ヤクチ)という生薬として利用され、健胃、抗利尿、唾液分泌抑制作用がある』。『中国の福建、広西、雲南各省で生産栽培されている』とあるだけである。ここは、やはり、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | ヤクチ(益智)」の神農子さんに伺うしか、ない。

   《引用開始》

 日本でショウガ科の植物というとショウガ、ミョウガ、ウコンなどが有名ですが、これらはいずれも栽培種であり自生種ではありません。日本に自生するショウガ科の植物は Alpinia 属のみで、ゲットウやハナミョウガなど、関東地方南部から四国、九州、沖縄地方に分布しています。ショウガ科植物は熱帯地方に豊富で、根茎、葉、花、果実などを食用や薬用にするなど、生活に欠かすことができない一群です。益智の原植物もこの Alpinia 属です。

 益智という名称について、『本草綱目』では「脾は智を司るものだ。この物はよく脾、胃を益するところからの名称である。龍眼が益智と呼ばれるのと同一の意味だ。」と述べています。続けて「按ずるに、蘇東坡の書に“海南に益智を産する。花も実も長い穂で三節に分かれているが、その上、中、下の三節に現れる結実状態の早、中、晩で穀作の豊凶が卜える。大豊作のときは三節悉く実り、大凶作のときは全部が実らない。しかし三節全部が熟するというは稀有のことだ。この物は薬にしてはただ水を治するだけで、智を益す功力はない。益智なる名称はやはりその歳の豊凶を知るところから名付けられたのではないか思う”」と、蘇東坡の時珍とは異なる意見も紹介されています。

 植物の特徴として『新修本草』には「益智子は連翹子の頭のまだ開かないものに似たものだ。苗、葉、花、根は豆蒄と異ならない。ただ子が小さいだけだ」、また『本草綱目』の引用には「益智は二月花が開いて実が連なって著き、五六月に熟する。その子は両端が筆の先のように尖り、長さ七八分のものだ。」とあり、現在の原植物Alpinia oxyphyllaの特徴と一致しています。

 Alpinia oxyphyllaはショウガ科の多年性草本で、中国南部、海南島、広東省の雷州半島などに分布します。日本には分布しないので植物和名はありませんが、生薬名を音読みしてヤクチと称するのが一般的です。林下の陰湿地に自生し、高さは3mにも達します。葉身は披針形で長さ 2535 cm、先端は尾状に尖ります。類似植物がありますが、葉舌が2裂することも鑑別点です。春から夏にかけて葉鞘の先端から総状花序を出し、白色で紅色の脈紋がある美しい花を着けます。薬用にされる成熟した蒴果は長さ1.5cm2.0cm、径1cmほどになります。先に結実の困難さについて紹介しましたが、日本ではさらに結実することが稀で、人口受粉している温室施設でなければ果実をみる機会はほとんどありません。

 生薬は球形または紡錘形、外面は褐色〜暗褐色で縦方向に多数の隆起線があります。果皮は 0.3 mm程度、内部の種子塊と密着していて剥ぎにくくなっています。内部は3室に分かれ、各室には仮種皮によって接合する5〜8個の種子があります。種子は不整多角形を呈し、径約3.5 mm で褐色〜暗褐色です。大粒で外面が淡黄色〜淡黄褐色を呈する芳香の強いものが良品とされています。

 その薬効について、『本草綱目』には「益智は大いに辛し。陽を行らし陰を退ける薬であって、三焦、命門の気弱のものに適する。按ずるに、楊士瀛の直指方に“心は脾の母であって、食が進めばただ脾を和すのみに止まらず、火がよく土を生ずるものだから、心薬を脾、胃の薬の中に入れて、やがて相共にその功を発揮せしむべきものである。故に古人が食を進める薬の中に多く益智を用いたのは、土中に火を益する目的なのだ”といっている」とあります。現在でも脾、胃、心、腎の四経に入り、足の太陰、少陰の薬物とされています。

 日本では芳香性健胃薬、整腸薬として縮砂と同様に用いられますが、漢方処方に配合されることは希で、しばしば家庭薬に配合されています。

 益智、縮砂、小豆蒄(カルダモン)など、ショウガ科植物の種子に由来するいわゆる豆蒄類生薬には重要なものもあります。それぞれ区別して使用されてきた歴史がありますので、日本では比較的なじみの薄い生薬ですが上手に使い分けしたいものです。

   《引用終了》

「常山」「藥品(3) 名義」で既出既注。

「巴戟」これも初めてだ。たびたびで、済まないが、正確な日本語の記載はそこしかないので、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 |巴戟天(ハゲキテン) 」を引用するしかない。

   《引用開始》

 巴戟天は漢方薬に配合されないため日本ではなじみの薄い生薬ですが、中国では強壮薬として良く知られ、何処の生薬店でも見られるほど一般的な薬物です。

 巴戟天の歴史は古く、中国最古の薬物書である『神農本草経』の上品に「味は甘くて辛味もあり、服用するとわずかに体を温かくし、主に邪悪な風によっておこる病気やインポテンツを主治し、また筋骨を強くし、五臓を安んじ、消化吸収機能を良くし、志を増し、気を益す」と記載があります。現代中医学では、体を補益する薬物として、腎陽虚(腎の元気が衰えた状態)による頻尿や尿失禁、また腎虚による神経痛、リウマチ、腰膝の疼痛、軟弱無力、筋肉の萎縮などの治療に応用されます。淫羊藿(メギ科のイカリソウの仲間の葉)に似た効能を有するとされますが、淫羊藿に比して性質が柔順で発散させる力や陽を強くする作用が弱く、また温めて煩燥させる性質も弱いことから、婦女の生殖器の冷えによる不妊症、月経不調、下腹の冷痛などに適するとされます。

 原植物はMorinda officinalis Howと名付けられたアカネ科の蔓性植物で、中国南部の暖地に分布し、日本にはありません。根は湾曲した円柱形を呈し、直径約12cm。生薬は表面が灰黄色で太く浅い縦皺と深くくぼんだ横紋があり、所々で皮部が裂けて木部が露出し、その結果特徴的な長さ13cmの念珠状を呈します。『新修本草』に「苗を俗に三蔓草と呼ぶ。葉は茗に似て冬を経ても枯れず、根は珠を連ねたようだ。古い根は青く若い根は白紫だが用途はやはり同一だ。その連珠のような肉多く厚いものが勝れている」と記されたものは本植物のようですが、古来異物同名品が多く、我が国にも中国から様々なものが輸入され、一方で和産も開発されたようです。

 異物同名品に関して、江戸時代に書かれた『用薬須知』後編に「和漢ともにあり、和のものには茶葉の巴戟というものと江戸で柳葉草という葉が丸くて狭いものの2種があり、又別に麦門葉の巴戟がある。種樹家はモジズリといい、他国ではネジクサという。漢渡の棒様の巴戟疑は是であろう。(中略)。京師のものは高さ一尺以上あり東国には高さ五、六尺になるものがある」また、同書の後編正誤では「葉の丸くて狭いものには二種ある。今は茶葉、柿葉、柳葉、桃葉、梔子葉の数種がある。また水巴戟は香附子の一名である」、さらに続編では「巴戟の根が紫色のものを紫巴戟という」など、多数の原植物の存在が示唆されています。いずれにせよ日本では根が念珠状をなす複数の植物が代用されていたようです。中国における異物同名品としてこれ迄に、ヒメハギ科のPolygala reinii、ラン科のネジバナSpiranthes spiralis、トウダイグサ科のEuphorbia chamaesyce、ゴマノハグサ科のBacopa monnieria などが報告されています。台湾でネジバナが民間的に強壮約として利用されているのはその名残かも知れません。

 さて、沖縄を旅行すると果物の一種の“ノニ”を宣伝する看板をよく見かけます。テレビでも取り上げられたことがありますので、ご存知の方も多いと思います。実はこのノニが巴戟天と同じMorinda属植物なのです。ノニはもともと東南アジア~オセアニアにかけての熱帯地域に原産するM. citrifoliaの果実で、現地ではNoniNonuNonoなどと称され、日本では琉球諸島や小笠原諸島に分布し、和名をヤエヤマアオキと言います。ポリネシア諸島では古くから有用植物として、薬用、食用、染料などに利用されてきました。インドネシアの伝統医学であるジャムーではPace(パチェ)の名称で、果実が鎮吐、下剤、血圧降下剤として、葉が止血、解熱、皮膚を軟化させる目的で使用され、その他蛔虫駆除、去痰、鎮咳、通経にも用いられるなど、幅広い用途で利用されています。また、根がカゼをひいた時の処方に疲労回復薬として配合されます。

 Morinda officinalisもヤエヤマアオキも、共に地下部が強壮薬的に使用されるという共通点に興味を覚えます。ヤエヤマアオキも今後の科学的研究が待たれる薬用植物のひとつでしょう。

   《引用終了》

「烏藥」「卷第八十二 木部 香木類 烏藥」を見よ。

「知母」「藥七情」で注したものを転写する。単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ハナスゲ属ハナスゲ Anemarrhena asphodeloides の根茎の生薬名。当該ウィキによれば、『中国東北部・河北などに自生する多年生草本』『で』、五~六『月頃に』、『白黄色から淡青紫色の花を咲かせる』。『根茎は知母(チモ)という生薬で日本薬局方に収録されている』。『消炎・解熱作用、鎮静作用、利尿作用などがある』。「消風散」・「桂芍知母湯」(けいしゃくちもとう)・「酸棗仁湯」(さんそうにんとう)『などの漢方方剤に配合される』とある。

「天≪門冬《てんもんどう》≫」基原の属レベルは、

単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科クサスギカズラ亜科クサスギカズラ属 Asparagus

であるが、ラテン語の属学名を見て戴くと判る通り、

同属のタイプ種はアスパラガス Asparagus officinalis

である。而して、基原は、「養命酒」公式サイト内の「元気通信|生薬百選」の「天門冬(テンモンドウ)」で(このサイトは引用禁止なので、そちらを見られたい)、「日本薬局方」に、

Asparagus cochinchinensis

の学名で書かれているとし、和名を『クサスギカズラ』としてある。そこにある写真を見ると、同種の根が基原であることが判る。調べると、当該ウィキがあった。漢字表記は、

「草杉蔓」

である。

引用する(注記号はカットした)。『関東地方南部から沖縄諸島、台湾、中国などの温帯から亜熱帯の海辺の砂地に分布するつる性の多年草。草丈は100150センチメートルほどになる。短い根茎に、紡錘形~円柱形の塊茎が多数つく。茎は下部が木化し、上部はつる性となる。茎につく葉の一部はトゲに変化しており、これを使って他の植物などに巻きついてつるを伸ばす。小枝に付く葉は退化して鱗片状になっており、葉のように見える葉状枝と呼ばれる部分で光合成を行う。5-6月頃になると、葉腋に淡黄色の小さな花を13個ずつ付ける。果実は球形で、中に黒い種子が1個ある。他のクサスギカズラ属と異なり白色に熟する。スギのような葉をつけ、茎がつる状になる草本植物であることから「草杉蔓」と呼ばれるようになったとされる』。『生薬「天門冬(てんもんどう)」の基原植物の一つとして日本薬局方で定められており、5月頃にコルク化した外層の大部分を除いた根を収穫し、湯通しまたは蒸したものを用いる。根が飴色をしていて太くて長く、甘味の強いものが良品であるとされる。同属別種の植物であるタチテンモンドウ( Asparagus cochinchinensis var. pygnaeus )は天門冬として利用しない。鎮咳、利尿、滋養強壮などの効果があるとされ、滋陰降火湯や清肺湯などの漢方薬に配合されている。 アミノ酸の一種であるアスパラギンやサポニンの一種であるアスパラサポニン(asparasaponin)類、ベータ・シトステロールなどを含む』とあった。

「麥門冬」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科 Ophiopogonae 連ジャノヒゲ属ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus の根の生薬名。現行では、これで「バクモンドウ」と濁る。鎮咳・強壮などに用いる。

「地黃」先の「藥品(10) 忌銅鐵」で既出既注。

「何首烏」基原は、タデ目タデ科ツルドクダミ(蕺・蕺草・蕺菜)属ツルドクダミ Reynoutria multiflora の根である。詳しくは、先行する「藥品(4) 有南北土地之異」の「夜合草《よるあひぐさ》」の私の注を見られたい。

「三消《さんしやう》」当初、私は「三焦」の誤記ではないか? と思ったのだが、ネットを調べるうち、「糖尿病ネットワーク」の「私の糖尿病50年-糖尿病医療の歩み」の「56.中国医学と糖尿病」の「3. 消渇」で、『金時代の4大家の1人といわれた劉河間は、消渇を上消、中消、下消に分け、上消は上焦の疾患で隔消ともいい、多尿だが少食で尿は薄く、これは邪気が上焦にあることで起こり、治療は湿を流して燥を潤すこと。中消は胃であり食べると栄養はすぐに燃えるので多食になり尿は黄色。治療は熱があるので熱を下げること。下消(腎消)ははじめ尿の出が悪く尿線に勢いがなく尿は粘稠性で混濁し進行すると顔色が黒くなり、痩せて耳朶が脱水状になる。治療は血を養い熱を除き下げること。その後の補足、修正を入れたのが表2である。』として、『表2 消渇(糖尿病)の三消』で、詳しく表になっている(画像のため、引用しない)。私は、それで、納得出来た。

2025/11/20

和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 藥品(10) 忌火

 

  忌火   三十二種

 

靑黛 犀⻆ 茵陳 茜根 柴胡 木香 羚羊⻆

雲母 芒消 朴消 滑石 雄黃 菊花 禹餘粮

川芎 藍葉 乳香 甘松 桂心 丁子 鍾乳石

白檀 藿香 牛黃 薄荷 紫草 沈香 薫陸香

白芷 胡椒 麝香 檳榔

 

   *

 

  (ひ)を忌(い)   三十二種

 

青黛《せいたい》      犀⻆《さいかく》

茵陳《いんちん》      茜根《せいこん》

柴胡《さいこ》       木香《もくかう》

羚羊⻆《れいようかく》   雲母《うんも》

芒消《ばうしやう》     朴消《ぼくしやう》

滑石《かつせき》      雄黃《ゆうわう》

菊花《きくくわ》      禹餘粮《うよらう》

川芎《せんきゆう》     藍葉《らんえふ》

乳香《にゆうかう》     甘松《かんしよう》

桂心《けいしん》      丁子《ちやうじ》

鍾乳石《しようにゆうせき》 白檀《びやくだん》

藿香《かくかう》      牛黃《ごわう》

薄荷《はつか》       紫草《しさう》

沈香《じんかう》      薫陸香《くんろくかう》

白芷《びやくし》      胡椒《こしやう》

麝香《じやかう》      檳榔《びんらう》

 

[やぶちゃん注:訓読ではブラウザの不具合を考えて、以上の配置とした。

「青黛」「慶應義塾大学医学部消化器内科」公式サイト内の「慶應義塾大学病院IBD(炎症性腸疾患)センター」の「センターからのお知らせ」の「青黛もしくは青黛を含有している漢方薬を使用している患者さんへ」の冒頭部に、『 青黛(せいたい)とは、リュウキュウアイ、ホソバタイセイ等の植物から得られるもので、中国では生薬等として、国内でも染料()や健康食品等として用いられています。近年、潰瘍性大腸炎に対する有効性が期待され、臨床研究が実施されているほか、潰瘍性大腸炎患者が個人の判断で摂取する事例が認められています』。しかし、『今般、青黛を長期に服用した潰瘍性大腸炎患者において、青黛の服用と因果関係の否定できない肺動脈性肺高血圧症が発現した症例が複数存在することが判明したことから、厚生労働省が関係学会等に対して注意喚起を行いました』(以下略)とあった。例示された基原植物は、シソ目キツネノマゴ科イセハナビ属リュウキュウアイ Strobilanthes cusia と、アブラナ目アブラナ科タイセイ属ホソバタイセイ Isatis tinctoria である。

「犀⻆」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犀(さい) (サイ)」を見られたいが、私は、少なくとも、そちらの引用で『時珍が言っているような薬としての特別な効用が』サイ類の角に『あるとは私には思われない』と否定見解を添えている。しかし、「豊橋市の漢方薬局 桃華堂」(「とうかどう」と読む)の「生薬辞典」の「犀角(さいかく)」には、『世界には5種類のサイが現生しており、その中でもインドサイ、ジャワサイ、スマトラサイ、クロサイの角が犀角として使用されていました。インドサイ・ジャワサイの角を烏犀角(うさいかく)、クロサイ・スマトラサイの角を水犀角(すいさいかく)と呼んでいます。特に烏犀角の方が良品とされています』。『生息域の開発と、犀角を目当てにした密猟により、現在5種類のサイすべてが絶滅の危機に瀕しています。ワシントン条約により国際取引は禁止されており、犀角を新たに手に入れることはほぼ不可能になっています。そのため、犀角はかなりの高額で取引され骨董品としての価値も上昇傾向にあり、角1本で数十万の値がつくと言われています』。『角質の一種であり、成分の大半はケラチン』(Keratin(ドイツ語)は、硫黄を含んだ蛋白質で、毛髪・爪・角・羽毛などの主成分。当該ウィキによれば、『細胞骨格を構成するタンパク質の一つ』で、『細胞骨格には太い方から順に、微小管、中間径フィラメント、アクチンフィラメントと3種類あるが、このうち、上皮細胞の中間径フィラメントを構成するタンパク質がケラチンである。』とある)『からできています。現在では水牛や牛の角を代用する場合も多くなっているようです。ただし、水牛角の場合は犀角の10倍ほどの量を使わないと同等の効果を発揮できないと言われています』。『火熱が血に及んで』、『出血や発熱するものを治療する清熱涼血薬(せいねつりょうけつやく)に分類され、同じような効能を持つ生薬に生地黄(しょうじおう)・牡丹皮(ぼたんぴ)・赤芍(せきしゃく)があります』。『解熱の働きがあり、出血・熱感・充血・発疹が出る症状を改善するために用います。特に小児の麻疹の特効薬として使用されていました』(☜過去形に注意)。『熱入営血による夜間の高熱・意識障害・うわごとなどに用いられます。代表的な漢方薬に、黄連(おうれん)と一緒に配合された清営湯(せいえいとう)があります』。『熱入営血』(血液内に熱が籠った状態を指す)『・血熱妄行』(熱感とともに出血傾向が現れる状態を指す)『による皮下出血・吐血・鼻出血などに用いられます。代表的な漢方薬に、生地黄と一緒に配合された犀角地黄湯(さいかくじおうとう)があります』。『犀角と石膏は清熱の要薬ですが、犀角は血分実熱を、石膏は気分実熱を清解するので、外感熱病で気血両燔』(火勢が盛んな様態)『のときに併用すると効果が著しく発揮できます』。『熱入営血ではない場合には、安易に用いない方がよいです』。『妊婦には慎重に用います。』とあった。孰れにせよ、「ワシントン条約」によって保護されている絶滅の危機に瀕しているサイ類の角を用いることは止めねばならない。

「茵陳」「藥品(1)」で既出既注。再掲すると、ネット検索では、「茵陳蒿」(いんちんこう)で掛かる。「大峰堂薬品工業株式会社」公式サイトの「生薬辞典」の「茵蔯蒿(いんちんこう)」では、基原をキク亜綱キク目キク科ヨモギ属カワラヨモギ(河原蓬・河原艾)Artemisia capillaris 『の頭花。地上部を乾燥させてから花穂と茎を分離させる』とし、「主な薬効」に『消炎、利胆、解熱、利尿作用』とある。

「茜根」「藥品(8) 忌鐵」で既出既注。長いので、そちらを見られたい。

「柴胡」複数回既出既注。セリ目セリ科ミシマサイコ(三島柴胡)属(或いはホタルサイコ属)ミシマサイコ Bupleurum stenophyllum の根。解熱・鎮痛作用があり、多くの著名な漢方方剤に配合されている。ウィキの「ミシマサイコ」によれば、『和名は、静岡県の三島市付近の柴胡が生薬の産地として優れていたことに由来する(現在の産地は、宮崎県、鹿児島県、中国、韓国など)。』とある。

「木香」これは、問題のある薬名である。「藥品(1)」の注の中で、私は『解明出来るかどうかは判らぬが、後の「卷第九十三」に出る「木香」で考証してみることを約束しておく。』と、特異的にペンディングしたので、そちらを覗いて下され。

「羚羊⻆」基原は、

哺乳綱ウシ目反芻亜目ウシ科ヤギ亜科サイガ属サイガ (別にサイガレイヨウ・ロシアサイガの和名異名があるようだ)Saiga tataricano の角

である。当該ウィキによれば、『亜種モンゴルサイガを独立種とする説もある』とし、学名を、

モンゴルサイガ Saiga tatarica mongolica

を掲げ、『現生種は中央アジアの草原地帯を中心に分布しているが、同属の更新世や前期完新世における分布は現代よりも広く、ブリテン諸島を含むヨーロッパからカムチャッカ半島や日本列島』『や北米大陸北部にも達しており、ヨーロッパでは後期更新世時代の洞窟壁画にもサイガが描かれている』とある。「生態」と「人間との関係」の項は引用しないが、狭義のサイガは近危急種、モンゴルサイガは絶滅危惧種であり、必ず読まれたい。「原薬局」の「商品紹介」の「羚羊角って何?!」を引用しておく。後半部の引用は、一部を後に分離してして示した。

   《引用開始》

レイヨウカクは、サイガレイヨウというウシ科の動物の角です。見た目は鹿で動きは軽快そうですが、鈍重なイメージのウシ科というのが意外です。

カザフスタンやモンゴルに住み、オスだけに角がありますが、直接頭蓋骨から生えているので、鹿のように生え変わることはありません。

その角は粉末にして古くから中国で生薬原料として使われており、鎮静作用や解熱作用があります。誰がどのようなきっかけでレイヨウの角に効能があると発見したのか、まさに中国医薬4千年の長い歴史の賜物です。

同じような効能にサイカク(クロサイ、インドサイの角)がありましたが、1980年のワシントン条約で使用禁止となったため、その代替えとしてレイヨウカクが広く使われるようになりました。当社も以前はサイカクを使用しており、レイヨウカクに変更した経緯があります。ちなみに、サイの角は骨ではなく、体毛が固まって変化したものなので、繊維質で粉末にするのは大変でした。

そのサイガレイヨウカクも絶滅が危惧され、代替も検討されていますが、一部養殖されたレイヨウカクも流通しています。

レイヨウカクを使用した医薬品は、宇津救命丸、救心の他、配置薬に多く見られます。

   《引用終了》

疾患有効性については、『高熱による痙攣に対応』とし、漢方生剤の『別名』として『羚羊尖』とあり、『解熱・鎮痙・鎮静作用があります。感冒やインフルエンザの解熱薬や抗炎症薬として使用されます』。『※1973年にワシントンで採択されたことから単にワシントン条約とも言う。 生薬の中では、麝香、熊胆、虎骨、犀角、羚羊角、石斛などが国際取引禁止となっている』とある。なお、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麢羊(かもしか・にく)・山驢 (カモシカ・ヨツヅノレイヨウ)」では、良安は、「かもしか」の訓を添え、本邦固有種であるニホンカモシカ Capricornis crispus を「羚羊」の漢名を使っているように見えるので、注意が必要である。実際、『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート タウボシは唐乾飯也』(私の電子化注)で、熊楠は、『物の諸部分や諸效用の中に就て、一を採つて、其物の名とした例は、羚羊《れいよう》を褥(にく)、綿羊を羅紗綿(らしやめん)、玳瑁龜(たいまいがめ)を鼈甲(べつかう)、その他、多々有るべく、「姓氏錄《しやうじろく》」や「古語拾遺」に、秦(はだ)氏の祖が獻じた絹帛(きぬ)が、軟らかで、肌膚(はだ)を溫煖(あたた)めたにめでゝ、仁德帝が、彼に「波多公(はだのきみ)」の姓を賜ひ、其より、「秦(しん)」を「ハダ」と訓《よ》むと出《で》るを、本居宣長は、

『若し、此等の義ならば、「溫か」・「軟《やはら》か」の言《いひ》を取つてこそ、名づくべけれ、「肌」と云ふ言を取るべき樣、なし。』

と難じた。』と述べており、これは、明らかにニホンカモシカを指しているのである。

「雲母」先行する「藥品(5) 相反」で既出既注。

「芒消」「朴消」先行する「藥品(6) 相畏」の私の「朴消」の注を見られたい。なお、「芒消」の表記に就いては、良安の誤字ではないことは、渡辺武氏の論文「芒消と朴消」(一九五六年発行『日本東洋醫學』所収・PDF)で、語られてある。

「滑石」「藥品(1)」で既出既注であるが、再掲すると、珪酸塩鉱物の一種で、フィロケイ酸塩鉱物(Phyllosilicates)に分類される鉱物、或いは、この鉱物を主成分とする岩石の名称。世界的には「タルク(talc:英語)」のほか、「ステアタイト」(Steatite:凍石)・「ソープストーン」(Soapstone:石鹸石)・「フレンチ・チョーク」(French chalk)・「ラバ」(Lava:原義は「溶岩」。本鉱石は変成岩である)とも呼ばれる。Mg3Si4O10OH2。水酸化マグネシウムとケイ酸塩からなる鉱物で、粘土鉱物の一種(当該ウィキ他に拠った)。利尿・清熱・消炎作用を持ち、むくみ・排尿困難・膀胱炎・夏の口渇・下痢・皮膚の湿疹などに用いられる。

「雄黃」「藥品(9) 忌銅」で既出既注。

「菊花」「藥品(1)」で既出既注であるが、再掲すると、漢方薬品メーカー「つむら」の公式サイト「Kampo View」の「菊花」に拠れば、「基原」で、キク目キク科『シマカンギク』(島寒菊) Chrysanthemum indicum Linné 又はキク』 Chrysanthemum morifoliumRamatuelleCompositae)の頭花』とし、「薬能」には、『眼疾患を治す。目のカスミを取り去り、洗眼にも用いる。(一本堂薬選)』とある。

「禹餘粮」一応、小学館「日本国語大辞典」には、『日本や中国に見られる岩石の一種。小さい石が酸化鉄と結合したもの。中に空所があって粘土を含む。ハッタイ石、岩壺など多くの呼び名がある。』とあるが、これは、そんな一言では述べられ代物である。私の記事を古い順に示すと、

『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「六」』

「和漢三才圖會」卷第六十一「雜石類」の内の「禹餘粮」

『小野蘭山述「重訂本草啓蒙」巻之六「石之四」中の「禹餘粮」・「太一餘粮」・「石中黃子」』

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 鷲石考(2) / 「第二篇 禹餘糧等について」

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 鷲石考(4) / 「附錄」の「○鷲石に關する一說」

である。総て読まれるには、相応の御覚悟が必要である。念のため。

「川芎」私の「譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(13)」から、全部を引用する。

   *

既出既注。底本の竹内利美氏の後注に、『センキュウ。セリ科の草木。その根茎が頭痛などの薬剤になる。薬用として栽培された』とある。当該ウィキによれば、『中国北部原産で秋に白い花をつけるセリ科の多年草センキュウCnidium officinaleの根茎を、通例、湯通しして乾燥したもので』、『本来は芎窮(きゅうきゅう)と呼ばれていたが、四川省のものが優良品であったため、この名称になったという。日本では主に北海道で栽培される。断面が淡黄色または黄褐色で、刺激性のある辛みと、セロリに似た強いにおいがある。主要成分としてリグスチリドなどがあげられる』。『現在の分析では鎮痙剤・鎮痛剤・鎮静剤としての効能が認められ、貧血や月経不順、冷え性、生理痛、頭痛などに処方されて』おり、『漢方では』「当帰芍薬散」に『配合され』、『婦人病』、所謂「血の道」の『薬として』、『よく用いられる』とあった。

   *

「藍葉」基原は、タデ目タデ科イヌタデ属アイ Persicaria tinctoria の葉。但し、実は「藍実(らんじつ)」として別な漢方名を持つ。「日本フードアナリスト協会」公式サイト内の「藍を食す」によれば、『藍は、薬草として珍重された歴史は古く、書物にも記述が数多くあります。たとえば、『本草和名』(918 年)には、解熱剤として藍実を紹介。『原色牧野和漢薬草図鑑』(北隆館発刊)には、「生藍の葉、乾燥葉、種子の生および煎じ液が、消炎、解毒、止血、虫さされ、痔、扁桃腺円、喉頭炎に効果あり」と記されています。また、すくもを生で食べるとフグ中毒に効果があるといわれ、江戸時代、藍の商人が長州を訪ね、ひと握りのすくもと交換にふぐ料理をごちそうになったというエピソードも残こります。』とあり、『●葉 [⽣薬名:藍葉(らんよう)]』の項には、『藍の葉は、ちぎったところから根を生やすほど生命力が旺盛』とし、『生葉の絞り汁』は『やけど、口内炎、唇荒れ、腫れ物、毒⾍の刺し傷、肋膜炎、月経不順、便秘に効果がある』とあり、『葉の煎じ液』は『解熱、解毒、痔、⿂やキノコの中毒に効果がある』とあって、『生葉、干葉』は、『冷え症の人がお腹の上に置いて寝ると効果がある。また、頭の上に置いて眠ると安眠効果がある』とする。因みに、『実 [⽣薬名:藍実(らんじつ)]』には、『生葉の絞り汁』として、『解熱、解毒、魚やキノコの中毒、精力衰退、腹痛に効果がある。また、煮出したお茶は、滋養強壮に効果がある』と記す。以下、『藍の食べ方』には、『藍は、葉も実も食用として親しまれていた身近な薬草です。藍の、食あたり防止や解毒作用といった薬効をごく自然に食生活に役立てていました』として、昔の食べ方が列記されてあるので、見られたい。

「乳香」先行する「卷第八十二 木部 香木類 乳香」を見られたい。

「甘松」一属一種のマツムシソウ目スイカズラ科 Nardostachys Nardostachys jatamansi で、香りがよく、味も甘いもので、薫香・香水・漢方薬にも用いられることが記されてはある。「維基百科」の「甘松」を見られたい。そこには、『根と根茎は、香料や香水の原料として利用されるほか、薬としても用いられる。温熱作用と甘味があり、気の調整や鎮痛作用がある。主に胸腹部の膨満感や痛みなどの症状に用いられる』とあった。

「桂心」「卷第八十二 木部 香木類 肉桂」中の中項目「桂心」を見られたい。

「丁子」「卷第八十二 木部 香木類 丁子」を見られたい。

「鍾乳石」既注だが、再掲する。「地層科学研究所」公式サイト内の「地層と健康いろいろ(前編)」に、「鍾乳床(しょうにゅうしょう)」とし、『正倉院に現存する』とあり、『鍾乳石の破片であり、鉱物としては方解石(CaCO3)』(=炭酸カルシウム)『です。用途は止渇薬、利尿薬などです』とある。食酢のような弱酸の薄い溶液でも、表面を溶かすことが出来る。

「白檀」基原は、双子葉植物綱ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album の木質心材を乾燥したもの。「ナガエ薬局」公式サイト内のこちらに、『【臨床応用】』『生薬分類は、行気薬。中薬の効能は理気調中、散寒止痛。寒凝気滞による胸部や腹部の疼痛および胃寒による疼痛、清水を嘔吐に使用する。』とあった。

「藿香」「藥品(1)」で既注だが、一部を再掲すると、シソ目シソ科ミズトラノオ(水虎の尾)属パチョリ(英語:patchouliPogostemon cablin の地上部を基原とするもの。「日本薬学会」公式サイト内の「薬学コラム」の「生薬の花」の「パチョリ」「 Pogostemon cablin (Blanco) Benth. (シソ科)」に拠れば、『漢方医学や中医学では,パチョリの地上部を生薬藿香(カッコウ)として使用し,解熱・鎮吐・健胃作用を目的に藿香正気散(かっこうしょうきさん)や香砂平胃散(こうしゃへいいさん),香砂六君子湯(こうしゃりっくんしとう)などの処方に配合しています。成分としてはパチョリアルコールやメチルチャビコール,シンナムアルデヒド,オイゲノール等を含みます。藿香の基原植物として,パチョリ以外にシソ科のカワミドリ( Agastache rugosa  (Fisch. et C.A.Mey.) Kuntze )が使用されることがあります。カワミドリに由来するものを土藿香,川藿香と呼ぶのに対し,パチョリに由来するものは広藿香と呼びますが,これは東南アジアから導入されたパチョリが中国の広州で栽培されてきたためです。中国の本草書や植物誌の藿香に関する記述の中にはパチョリについて記載したものとカワミドリについて記載したものが両方存在し,古くから基原植物が混乱していたようです。一般に市場に流通するものの多くはパチョリに由来する広藿香であり,第十八改正日本薬局方でも基原植物は Pogostemon cablin 1種のみとなっています』とある。因みに、「維基百科」のパチョリは「廣藿香」となっている。

「牛黃」牛の体内結石、及び、悪性・良性の腫瘍や変性物質等である。私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 牛黃(ごわう・うしのたま) (ウシの結石など)」の私の注を参照されたい。

「薄荷」シソ目シソ科ハッカ属 Mentha の類。種は多い。当該ウィキ「ミント」を見られたい。

「紫草」読みは多くの記載を見るに、「紫草」で「むらさき」と訓じているので、それを採用した。基原は、シソ目ムラサキ科ムラサキ属ムラサキ Lithospermum erythrorhizon の根。当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『和名ムラサキの語源は、本種が群れて咲くことから「群ら咲き」であるとする説が一般的であるが、図鑑等には紫色の根が由来と説明するものもある』。『日本の北海道・本州・四国・九州に分布し、比較的冷たい山地の草原に自生する』(とあるが、「維基百科」の同種のページには、『日本・韓国・中国本土、特に遼寧省・山西省・湖南省・甘粛省・山東省・湖北省・広西チワン族自治区・四川省・陝西省・貴州省・江西省・河北省・河南省に分布する』とあり、この本邦の記事はマズい)『野生では自生地の環境悪化によって、自生のものは非常に少なく、絶滅危惧種になっている。しばしば、栽培もされている。半日陰の排水のよい土地を好む』。『多年生の草本。根は太く、乾燥すると暗紫色になる。茎は直立し、草丈は30 - 80センチメートル』『ほどになり、上部は枝分かれする。葉とともに、斜め上向きに粗毛が多い。葉は互生し、葉柄は無く、葉身は披針形で先端と基部は細くなっており』、『葉縁は全縁で、やや平行するように少数の葉脈がある』。『花期は初夏から夏にかけて(6 - 8月)、茎先の葉腋についた葉状の苞葉の間に、5弁の小さな白い花が咲く。果実は灰白色で、4分果からなる』。『近縁のセイヨウムラサキ』( Lithospermum officinale )『は繁殖力が強く、茎は枝分かれして花が小さいことで、ムラサキとは異なる』とある。以下、『生薬』の項。『乾燥した根は暗紫色で、紫根(しこん)と称される生薬である。この生薬は日本薬局方に収録されており、抗炎症作用、創傷治癒の促進作用、殺菌作用などがあり、紫雲膏などの漢方方剤に外用薬として配合される。主要成分はナフトキノン誘導体のシコニン(shikonin) 、アセチルシコニン、イソブチルシコニンなどであり、最近では、日本でも抗炎症薬として、口内炎・舌炎の治療に使用される。民間療法では、解熱、解毒、利尿、肉芽の発生を促すため皮膚病、やけど、痔に、1日量3 - 5グラムを水400 ccで半量になるまで煎じ、3回に分けて服用する用法が知られている』とある。

「沈香」先行する「卷第八十二 木部 香木類 沈香」を参照されたい。

「薫陸香」先行する「卷第八十二 木部 香木類 薰陸香」を参照されたい。

「白芷」セリ目セリ科シシウド属ヨロイグサ(漢名:ビャクシ) Angelica dahurica の根。当該ウィキ(漢名「ビャクシ」を標題としている)によれば、『薬効成分はフロクマリン誘導体及び精油。消炎・鎮痛・排膿・肉芽形成作用がある。皮膚の痒みをとる。日本薬局方にも記載』。『血管拡張と消炎の作用から、肌を潤しむくみを取るとして、古来中国の宮廷の女性達により美容用とされていた。また鎮痛、鎮静の効果のため、五積散などの漢方処方に配合される』とある。なお、『中国産は』、『その変種のカラビャクシの根』とあった。そちらの学名は、Angelica dahurica var. pai-chi である。

「胡椒」先行する「卷第八十九 味果類 胡椒」を参照されたい。

「麝香」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。

「檳榔」「卷第八十八 夷果類 檳榔子」を参照されたい。]

2025/11/19

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(四)乾鮑の說(その2)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]

 

夫(そ)れ、鮑は、往古、種々の製法ありて、「延喜式」に載する所(とこ)ろ、豐後、筑前、隱岐、阿波、肥前に『御取鮑(おとりあはび)』あり。志摩に、『雜鰒(ざうあはび)』、『烏子鰒(とりこあはび)』、『都々伎鰒(つゞきあはび)』、『放耳鰒(み﹅はなてるあはび)』、『著耳鰒(につきあはび)』、『長鰒(ながあはび)』あり。安房(あは)に『丸鰒(まるあわび[やぶちゃん注:ママ。以下、幾つかあるが、注はしない。])』あり。相摸、隱岐、阿波、伊豫、肥前に『短鰒(みじかあはび)』あり。上總(かづさ)、出雲、常陸、紀伊、佐渡、阿波に『鰒(すしあはび)』あり。出雲、石見、長門、肥前、日向に『薄鮑(うすあはび)』あり。若狹に『鮑耳鮨(あはびのみ﹅すし)』あり。阿波、肥前に『鮨鰒(すしあはび)』あり。豐後、筑前、肥前に『羽割鰒(はわりあはび)あり。豐後に『葛貫鰒(くずぬきあはび)』あり。豐後に『蔭鰒(かげあはび)』、『鞭鰒(むちあはび)』、『腐耳鰒(くたしみ﹅あはび)』あり。肥前に「腹漬鰒(はらづけあはび)」あり。筑前に『陰鰒(かげあはび)』、『火燒鰒(ひやきあはび)』あり。肥前、肥後に『熬海鰒(いりうみあはび)』あり。豐後に『耽羅鰒(たんらあはび)』、『短七鰒(たんしちあわび)』、『堅鰒(かたあはび)』あり。是れ、皆、內膳、大膳、神祇(じんぎ)の三大式に供する所の貴重の食品にて、天智天皇の時、大甞會(だいしやうゑ[やぶちゃん注:清音「し」はママ。])の御饌(ぎよせん)に供したること、「日本書紀」に載せたり。而(しか)して、以上、各種の製法の如きは、「本朝食鑑」に詳かなるを以て、茲に畧す。

[やぶちゃん注:最後は! きたねえゾ! 河原田! 「本朝食鑑」に丸投げカイ!

『「延喜式」に載する所(とこ)ろ、……』「古事類苑全文データベース」の「動物部/介下」の「鰒産地」で「延喜式」から電子化されたもの(二部)があったので、転写(正字不全があるのはママである)する。まず、『〈二十四/主計〉』から。

   *

相摸國〈◦中略〉中男作物、〈(中略〉短鰒〈◦中略〉

安房國〈◦註略〉調、〈◦中略〉鳥子鰒、都都伎鰒各廿斤、放ㇾ耳鰒亠ハ十亠ハ斤四兩、著(ツケル)ㇾ耳鰒八十斤、長鰒七十二斤、〈◦中略〉

若狹國〈◦註略〉調、絹、薄鰒、〈◦中略〉

佐渡國〈◦中略〉中男作物、布、鰒、〈◦中略〉

出雲國〈◦註略〉調、〈◦註略〉鰒廿四斤〈◦中略〉

石見國〈◦中略〉中男作物、〈◦中略〉薄鰒、〈◦中略〉

隱岐國〈◦註略〉調、御取鰒、短鰒、〈◦中略〉

長門國〈◦中略〉調、〈◦中略〉雜鰒〈◦中略〉中男作物、〈◦中略〉薄鰒、〈◦中略〉

紀伊國〈◦註略〉調、〈◦註略〉鰒〈◦中略〉

阿波國〈◦中略〉調、〈◦中略〉御取鰒二百斤、細割鰒三百卅三斤、横串鰒卅九斤、〈◦中略〉

伊豫國〈◦中略〉調、〈◦中略〉長鰒卅六斤、短鰒三百卅斤、〈◦中略〉

筑前國〈◦註略〉調、〈◦中略〉御取鰒二百亠ハ十斤、羽割鰒六斤、葛貫鰒一百八斤、蔭鰒一百卅五斤、鞭鰒廿四斤、 腐耳鰒一百八十二斤、〈◦中略〉

庸、〈◦中略〉腐耳鰒、鮨鰒腸漬、鰒鮨、〈◦中略〉

肥前國〈◦註略〉調、〈◦中略〉御取鰒三百六十四斤、短鰒五百卅四斤、長鰒廿四斤、羽割鰒廿四斤、〈◦中略〉

肥後國〈◦註略〉調、〈◦中略〉躭羅鰒卅九斤、〈◦中略〉

豐後國〈◦註略〉調、〈◦中略〉御取鰒五十二斤、短鰒七十二斤、蔭鰒卅斤、羽割鰒十二斤、葛貫鰒十二斤、躭羅鰒

十八斤、〈◦中略〉

日向國〈◦註略〉調、〈◦中略〉薄鰒、〈◦中略〉

壹岐島〈◦註略〉調、〈◦中略〉薄鰒、

   *

次に『〈三十九/内膳〉』から。

   *

諸國貢進御贄〈中宮准ㇾ此〉

旬料〈◦中略〉志摩國御厨鮮鰒螺起九月明年三月、月別上下旬各二擔、味漬腸漬蒸鰒、玉貫、御取、夏鰒等、月別揔五擔、〈◦中略〉

年料〈◦中略〉

太宰府〈御敗鰒四百五十九斤五裹、短鰒五百十八斤十二裹、薄鰒八百五十五斤十五裹、陰鰒八十六斤三裹、羽割鰒卅九斤一裏、火燒鰒三百卅五斤四裹、已上調物、(中略)鮨鰒一百八斤三缶、腸漬鰒二百九十六斤九缶、甘腐鰒九十八斤二缶、已上中男作物、◦中略〉

右諸國所ㇾ貢、並依前件、仍收贄殿供御、〈◦下略〉

   *

このうち、後者の「志摩國御厨鮮鰒螺起九月明年三月、月別上下旬各二擔、味漬腸漬蒸鰒、玉貫、御取、夏鰒等、月別揔五擔、」が着目される。「本朝食鑑」でも、これ他を引いて(国立国会図書館デジタルコレクションの元禄一〇(一六九七)年板の当該部はここの左丁の四行目下方から)後、最後の六行目で、

   *

乾醃糟ノ類

   *

と推定している。補正推定訓読すると、

   *

是れ、乾(ほし)・醃(しほづけ)・糟(かすづけ)の類(たぐひ)か。

   *

と言っているようである。なお、所持する東洋文庫版「本朝食鑑」(島田勇雄訳注)の訳では、『味漬・腸漬・蒸鰒・玉貫(たまぬき)・御取(みとり)・夏鰒』と部分ルビがある。

「味漬」は「あぢつけ」で、アワビを塩・醬油等で塩蔵・味漬けしたもの

「腸漬」は「わたづけ」で、アワビの腸(わた)と肉を合わせて漬けたもの

「蒸鰒」は「むしあはび」で、「蒸しアザビ」

「夏鰒」は「なつあはび」で、夏場に採取した旬の物(通常のアワビ類は七月から九月。エゾアワビは冬(十一月から三月))

であろうと思われる。「玉貫(たまぬき)」・「御取(みとり)」については、「海士潜女神社(あまかづきめじんじゃ)」(三重県鳥羽市国崎町のここ)公式サイト内の「熨斗鰒(のしあわび)」のページに、この神社から南東直近にある「伊勢神宮調進所」で伊勢神宮へ献上する熨斗鰒が『大身取鰒(おおみとりあわび)・小身取鰒(こみとりあわび)・玉貫鰒(たまぬきあわび)・乾鰒(ほしあわび)・乾栄螺(ほしさざえ)を』『調整』するとあった。多くの作業写真があるが、どれがそれなのかは、指示されていない。少なくとも、本書の食用製品の名ではないことが、これで判ったので、不満は、全く、ない。

『以上、各種の製法の如きは、に詳かなるを以て、茲に畧す。』ムッツとしていてもショウがねえから、見てみたが、以上のアワビを加工した「料(りょう)」(神饌も含まれているの「(食)製品」とはしない)の各呼称は、ただ載っているだけで、それに就いての製法なんぞは、一切、書かれていないぜ! 河原田さんよ!!! なお、二〇二一年に全電子化注した「日本山海名産図会」の中に、「第三巻 目録・伊勢鰒」があり、以上の「志摩」のそれは、そちらの「伊勢鰒【長鮑(のし) 附 真珠】」が、ある程度、援用出来るものとは思う。

2025/11/18

和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 藥品(10) 忌銅鐵

 

  忌銅鐵  四種

地黃 玄参 益母草 肉豆𦶲

 

   *

 

  (あかゝね)・(くろかね)を忌(い)

                     四種

地黃《ぢわう》    玄参《げんさん》

益母草《やくもさう》 肉豆蔲《にくづく》

 

[やぶちゃん注:標題の「銅(あかゝね)・鐵(くろかね)」はママ。それぞれ「あかがね」・「くろがね」である。また、ブラウザでの不具合を考えて、訓読では、位置を変えた。

「地黃」先の「(10) 忌銅鐵」で既出既注。

「玄参」この植物体は、熱帯性の常緑高木である

双子葉植物綱シソ目ゴマノハグサ科ゲンジン(玄参)Scrophularia ningpoensis

である。「維基百科」の「玄參」に、別称を『元參、烏元參、黑玄參、黑參』とあるのである。中国原産で、「本草綱目」にも記載があり、古くから乾燥した根が生薬として使用されてきたものである。本邦には植生しない。当該ウィキによれば(注記号はカットした)、分布は『インドネシアのモルッカ諸島(別名は香料諸島)原産である。現在では、アフリカ、インド、スリランカ、ヒマラヤ、中国南部、台湾、東南アジア、西インド諸島、中南米など世界中の熱帯地域で栽培されている』とあり、『香辛料のナツメグおよびメースの原料となる』。『雌雄異株(雄花と雌花が別の個体につく)であり、花は小さく、黄白色でつぼ形』で、『果実は熟すと』、『縦に裂開し、赤い仮種皮で包まれた種子が露出する』。『この仮種皮がメースに、種子中の胚乳がナツメグになる。胚乳は生薬ともされ、肉荳蔲(ニクズク)とよばれる』とある。「食用」の項から注意事項を引くと、『ナツメグはミリスチシン』(MyristicinC11H12O3当該ウィキによれば、『ナツメグの精油中に少量』、『存在し、また更に量は少ないが、パセリやイノンド』(セリ目セリ科イノンド属イノンド Anethum graveolens 。所謂、英語由来の「ディル」(dill)でお馴染みである。)『等にも含まれる。水に不溶だが、エタノールやアセトンに可溶である』。『ナツメグは、通常料理に使われる量以上を摂取すると』、『向精神作用を持つ。また、生のナツメグは、ミリスチシン及びエレミシンのため、抗コリン性の症状を引き起こすことがあるとの報告がある。また、ナツメグの中毒の症状は人によって異なるが、しばしば頭痛、吐き気、めまい、口内の乾燥、目の充血、記憶の混濁等を伴って、興奮状態や混乱状態になることが報告されている。さらに視覚の歪みや妄想観念等の幻覚誘発の作用もあることが報告されている。ナツメグの中毒では、最大の作用が表れるまでに摂取から数時間を要するとされている。この作用は数日間続く』)『など』の『有害物質を含むため、大量に摂取すると有毒であり、幻覚作用や肝毒性を示すことがある』とある。

「益母草」植物体は草本で、

シソ目シソ科オドリコソウ亜科メハジキ(目弾き・茺蔚(じゅういし:中国での原称。「維基百科」の「益母草」を見よ)属メハジキ Leonurus japonicus

である。当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『花の時期の全草を採取し乾燥させたものを、漢方で産前産後の保健薬にしたことから、益母草(やくもそう)と称し、種子は茺蔚子(じゅういし)と称する生薬になる。初夏の開花始めのときに地上部を刈り取って、屋内で風干しして、長さ2 cmぐらいに刻んで調製し、紙袋で貯蔵される。全草(益母草)は、止血、浄血、婦人病薬としての補精、浴湯料として薬効があるとされ、種子(茺蔚子)は水腫、目の疾患、利尿に効果があるとされる。全草、種子ともに婦人の要薬、特に産後の止血、浄血、補精、月経不順、腹痛に効用があるといわれている』とあり、『和名メハジキは、「目弾き」の意で、茎に弾力があり、昔は子どもたちが短く切った茎の切れ端を、瞼につっかえ棒にして張って、目を大きく開かせて遊んだことによる』とある。「分布と生育環境」の項には、『日本では、北海道、本州、四国、九州、琉球に分布し、国外では、朝鮮半島、台湾、中国大陸、ロシア沿海地方、東南アジア、南アジアに分布する。また、北アメリカに帰化している。山野、野原、堤防、道ばた、荒れ地などに自生する』とある。

「肉豆蔲」基原は、モクレン目ニクズク科ニクズク属ニクズク Myristica fragrans の種子で、以下の引用先には、『通例、種皮を除いたもの』とある。この種子とは、お馴染みのナツメグ(nutmeg)である。

 而して、いつもの「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 |ニクズク(肉豆蔲)」を引用させて戴く(種小名は斜体にし、太字は私が附した)。

   《引用開始》

 肉豆蔲は、小豆蔲(ショウズク)、草豆蔲(ソウズク)、白豆蔲(ビャクズク)など、ショウガ科植物の果実に由来するいわゆるカルダモン(豆蔲)類生薬と名称が似ていますが、全く別の分類群に由来する生薬です。肉豆蔲の名称について、初収載された『開宝本草』には「肉豆蔲とは草豆蔲に対する名称であって、殻を棄て去って肉のみを用いるものである」とあり草豆蔲と同類と考えられていたことが分かります。また植物に関する記載についても宋代の『図経本草』には「今は嶺南地方の人家でも栽培する。春苗を生じ、夏茎が抽き出で、花を開き実を結ぶ。その実は豆蔲に似たものだ。六月、七月に採取する」とあり、明代の『本草綱目』には「花、実いずれも豆蔲に似ているが核がないものだから命名したものだ」とあり、これらは真のニクズクではなくショウガ科植物を表現しているようです。肉豆蔲の特異な味や香りが、多様なショウガ科植物の一種と考える混乱を生じさせたのかもしれません。実際のニクズクは常緑高木で、播種後も7年ほど経たないと結実しない成長の遅い植物です。中国には分布せず、宋代の頃に交易により生薬のみがもたらされたのでしょう。

 ニクズクはインドネシアのモルッカ諸島原産の植物で、インドネシア、マレーシアの低地の熱帯雨林に自生また栽培される常緑高木です。葉は光沢のある革質で長楕円形、先端は尖っています。雌雄異株で1cmに満たない小さな花をつけます。果実は桃に似た形で直径5cmほどで、肉厚な果皮の内側に大型の種子があります。熟すと果皮が裂け、種子とともに種子を覆う深紅の仮種皮が見えます。この仮種皮がメース(mace)と称される香辛料で、その内側にある殻状の種皮を割って取り出した種仁が肉豆蔲で、ナツメグ(nutmeg)と称されているものです。香辛料としてのナツメグとメースは香りも味も似ていますが、メースの方が上品な香りで、一つの果実から少量しか採れないので高価で取引されたようです。

 肉豆蔲は長さ1.53.0 cm、径1.32.0 cmの卵球形〜長球形です。外面は灰褐色、表面には縦に走る広くて浅い溝と網目様の細かいしわがあります。楕円形の一端には灰白色〜灰黄色のわずかに突出したへそがあり、他端には灰褐色〜暗褐色のわずかに凹んだ合点があります。横断面は暗褐色の薄い外胚乳が淡黄白色〜淡褐色の内胚乳に不規則に入り込んで、大理石様の模様を呈しています。この断面の赤みの鮮やかなものが良品とされています。特異な強いにおいがあり、味は辛くてわずかに苦味があります。学名(種小名)の「fragrans」は「芳香のある」という意味です。

 肉豆蔲は収斂、止瀉、特に芳香性健胃薬として使用されます。胃腸の虚寒や気滞のために腹部が膨満して痛み、嘔吐や食欲不振、下痢などが続くときに用いられます。早朝になると下痢をする症状には四神丸(補骨脂、五味子、肉豆蔲、呉茱萸、大棗、生姜を水煎し、麦粉で丸にしたもの)が使用されます。また家庭薬の種々の胃腸薬にも配合されています。

 肉豆蔲は薬用以外にも香辛料のナツメグとして重要です。ニクズクの原産地であるモルッカ諸島は別名「香辛料諸島」と称されるほど、チョウジやニクズクを代表とする香辛料原料植物の産地です。15〜16世紀の大航海時代、モルッカ諸島を支配したポルトガルはヨーロッパへのニクズクの貿易を独占しました。ナツメグは薬としての用途に加え、やがて食肉の防腐剤としても使用されるようになるとさらに高価に取り引きされるようになりました。ヨーロッパ諸国は貿易の独占を目指してモルッカ諸島の争奪戦をもおこないました。ニクズクはその優れた幅広い用途故に、小さな島の運命を翻弄する原因にもなったわけです。現在、ニクズクは中米のグレナダが主産地となっています。グレナダの国旗にはニクズクの実が図案化されて描かれています。

   《引用終了》

とある。一応、ウィキの「ニクズク」と、「維基百科」の「肉豆蔻」をリンクさせておく。]

和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 藥品(9) 忌銅

  忌銅    二種

辰砂 雄黃

 

   *

 

  (あかヽね)を忌(い)  二種

辰砂《しんしや》 雄黃《ゆうわう》

 

[やぶちゃん注:「銅(あかヽね)」は「あかがね」である。

「辰砂」水銀と硫黄とからなる鉱物。深紅色又は褐赤色で、塊状・粒状で産出する。水銀製造の原料、また、赤色顔料の主要材料とされる。漢方では、消炎・鎮静薬などに用いる。「丹砂」「朱砂」とも呼ぶ。

「雄黃」ヒ素の硫化鉱物で「石黄」とも呼ばれる。化学式はAs2S3。漢方では解毒・抗炎症剤として用いられた。しかし、強い毒性を持つため、使用は禁止されている。なお、「雌黃」もある。前掲の「雄黃」についてのウィキの記載によると、漢方の流れをくむ現代中国の伝統的中国医学(中医学)にあっては『解毒剤や抗炎症剤として利用されているが、鶏冠石(realgar、AsS)との混同が見受けられ、鉱物としてどちらであるかは定かではない。なお、中国語では realgar を「雄黄」、orpiment を「雌黄」という。』とある。この文中の、“orpiment”がAs2S3の雄黄のことである。こちらも現在では、有毒として使用禁止とされている。]

2025/11/17

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(四)乾鮑の說(その1)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。]

 

  (四)乾鮑の說

乾鮑(ほしあはび)は鮑肉(あはびにく)の乾(かは)かしたるものにて、一《いつ》に[やぶちゃん注:ここは「また」の意。]「ほしこ」「むしあはび」「むしかひ」とも云ひ、淸國にて『鮑魚(ほうぎよ[やぶちゃん注:ママ。以下、正しい「はう」と「ほう」の混在はママ。恐らくは、植字工の誤りと思われる。])』と稱せり。而して、此鮑は、介中(かいちう)の長(ちう[やぶちゃん注:ママ。])として古へより賞美し、朝貢(みつぎもの)・神箭(ごくう)[やぶちゃん注:「御供(ごくう)」(「ごく」の音変化)に同じ。神仏への供え物。]に供(きやう)したり。而して又、淸國ヘ輸出する海產の重要品たり。「新撰字鏡」に『鮑(ほう)』、並(ならび)に『※(ふく)』[やぶちゃん注:「※」=(へん)「魚」+(つくり)「辶」+「福」。後注参照。]の二字を『阿波比(あはび)』と訓じ、「延喜式」は『鰒(ふく)』の字とし、「和名鈔」は『鰒、一名(《いち》みやう)、鮑(はう)、和名(わみやう)、阿波比(あはび)。』とし、「鰒(ふく)」、「鮑(ほう)」の二字を用ふること、久し。而して、「本朝食鑑」は、『「鰒」は俗稱、「鮑殼(あはびから)」を「石决明(せきけつめい)」と名(なつ[やぶちゃん注:ママ。])く』とし、「大和本艸」は、『石决明、又、蚫(あはび)と云ふ』とあり。本艸書、及び、「府縣志」等(とう)、數十部の書を案ずるに、「鰒(ふく)」及び「石决明」の文字あるも、「鮑(ほう)」・「蚫(ほう)」の二字を「あはび」に充(あつ)るを、見ず。弘景・蘇恭は、「石决明」と「鰒魚(ふくぎよ)」を一物(《いち》ぶつ)とし、「異魚圖賛」にも『二名同物(にめいどうぶつ)』とす。而して、蘇頌(そしやう)と時珍は、『一種二類』とし、「閩書(みんしよ[やぶちゃん注:ママ。既に述べた通り、「びんしよ」が正しい。])」は『石决明』、『鰒魚(ふくぎよ)』との、二種、あるが如く記載したるを以て、小野蘭山は「石决明」を「あはび」、「鰒魚」を「とこぶし」に充てたり。而して、各書とも『「鮑(はう)」は「乾魚(かんぎよ)」なり』とありて、更に「石决明(あはび)」、「鰒(あはび)」等(とう)の名に、あらず。然(しか)れども、方今(ほんこん)、淸俗は『鮑魚(ほうぎよ)』の字を用ゆ。故に、此編、專ら、これに從ふ。

[やぶちゃん注:アワビ類に就いては、古くは、

サイト版の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の冒頭に配された「鰒(あはび) [アワビ]」

があるが、最も新しいものでお薦めなのは、

『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 石决明雌貝(アワビノメガイ)・石决明雄貝(アワビノヲカイ) / クロアワビの個体変異の著しい二個体 或いは メガイアワビとクロアワビ 或いは メガタワビとマダカアワビ』

である。一見されたい。後者で、本邦種の学名その他を注してあるので、今、ここでは、改めて示すことはしない。必要と判断したところでは、無論、示し、解説を加える。なお、私は、「鰒」の字が、現行の日本では、専ら「フグ」類を指すので、これをアワビに当てるのは、甚だ、好まないが、仕方がない。

「ほしこ」漢字表記は「干し鮑」であろう。所謂、先行する「煎海鼠」を「いりこ」と呼称する場合は、「なまこ」の「こ」であるが、小学館「日本国語大辞典」の「ほりこ」では、「干海鼠」を第一義に挙げた後に、『方言』として『小鰯(いわし)の干物』と後に、『②鮑(あわび)を乾したもの。千葉県夷隅』採集とする。しかし、これでは、「こ」の原義が判らない。この場合は、私は「成貝を干して製品にしたもの」を「本来のものから作った「子(こ)」=製品」を広く意味するものと採っている。大方の御叱正を俟つ。

「むしあはび」「蒸し鮑」。

「むしかひ」「蒸し貝」。

『「新撰字鏡」に『鮑(ほう)』、並(ならび)に『※(ふく)』[やぶちゃん注:「※」=(へん)「魚」+(つくり)「辶」+「福」。後注参照。]の二字を『阿波比(あはび)』と訓じ』「新撰字鏡」は平安時代の漢和字書。全十二巻。僧の昌住(しょうじゅう)著とされるが、事績は不詳。昌泰年間(八九八年~九〇一年)に成立。漢字二万余字を偏・旁などによって百六十部に分け、字音・字義・和訓を付したもので、現存する最古の漢和字書である。一説に寛平四(八九二)年に三巻本が完成したとされるが、原本や写本は伝わっていない。その三巻本を元に増補した十二巻本が同年間に完成したとされ、写本が現存する。この十二巻本には約二万千字を収録する。しかし、ネット上で当該本を画像化されたものについて、二つのサイトで「魚部」を調べたが、いっかな、見つからなかった。因みに、奇体な「※」の単漢字も、それ自体をネットで探してみたが、どこにも記載がない。万事休すである。識者の御教授を乞うものである。

『「和名鈔」は『鰒、一名(《いち》みやう)、鮑(はう)、和名(わみやう)阿波比(あはび)。』とし』「和名類聚鈔」の「卷十九」の「鱗介部第三十」の「龜貝類」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板を視認して推定訓読する。冒頭の「鰒」のルビは「アハヒ」であるが、「ビ」と濁点を打った。

   *

鰒(アハビ)  四聲、「字苑」に云(いは)く、『鰒【「蒲」と「角」の反。「雹《ボク/ハク[やぶちゃん注:前が呉音、後が漢音。前者の方が納得出来る感じはする。]》」と同じ。今、案ずるに、一音は、「伏《フク》」。「本草音義」に見たり。】、魚《うを》の名。蛿《オフ》に似て、偏《ひらた》に石に著《つ》く。肉、乾して、食《くひ》つべし。靑州《せいしう》の海中に出づ。「本草」に云《いはく》、『鮑、一名は鰒【「鮑」、音「抱」。和名、『阿波比《あはび》』。】《と》。崔禹錫が「食經」に云《いはく》、『石決明【和名、上に同《おなじ》。】、之《これ》を食へば、心《しん》・目《もく/め》、聡了《さうりやうす》。亦、石に附《つき》て生ず。故に、以て、之《これを》名《なづく》。]

   *

やや注が必要である。

・「魚」は魚貝類の通称。

・「蛿」は現代仮名遣「オウ」で、小学館「日本国語大辞典」の『おう おふ 白貝〘名〙「うばがい(姥貝)の古称。』とあって、引用例に、『*常陸風土記』(霊亀三・養老元(七一七)年年から養老・神亀元(七二四)年頃の成立)『―行方「其の海に、塩を焼く藻・海松(みる)・白貝(おふ)・辛螺(にし)・蛤(うむき)・多(さは)に生(お)へり」*新撰字鏡「蛿 於夫 又阿波比』(以下、略すが、この直後に「延喜式」の「內膳司」から引いて『年料』『尾張国』から『白貝二担四壺』と出る)とあった。この「白貝」「うばがひ」「姥貝」というのは、

最近では流通名「ホッキガイ」で専ら知られる、斧足綱異歯亜綱バカガイ科ウバガイ属ウバガイ Pseudocardium sachalinense のこと

である。「ホッキガイ」は知っていても、成体を見たことがある人は、それほど、いないだろうから、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「ウバガイ」のページを見られたいが、すると、

「何で、こんな二枚貝が、巻貝のアワビに似てると言うんカイ!? チャウやろ!!」

と喚くであろうが……では、あなただって、寿司屋で「青柳!」と注文する貝の生貝の一般的な大きさがどれくらいで、貝殻外面の模様が、どんなものか、即座に、正確に、絵に描けますかね? 出来んでしょう?……あなたでさえ、さればこそだ、中古の頃の内陸の人々は、圧倒的に、実際の多くの生貝を見たことは、殆んど、ないのである。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の写真解説に『殻長15cm、殻高12cm、重さ600gを超える。黒っぽい殻皮があり、膨らみが非常に高く三角お握り型。前後の側歯は強く大きい。』とあるので想像出来るであろう。内陸の民俗社会では大方、せいぜい、淡水産の貝類で二枚貝を見る程度でしか知っていたに過ぎない(貴族は「貝合わせ」で二枚貝であることは古くから知ってはいた)。而して、「磯の鮑の片思い」の謂いで判る通り、鮑は大きな貝の片割れと喩える認識程度のレベルでしかなかったのだ。だから、「字苑」の筆者東晋の道士葛洪(かっこう)も(というより、古代中国では、海浜地方でない内陸では、同様だったのは言うまでもない)、風土記の記載者も、そのような幼稚な比較認識しか持っていなかったのである。寧ろ、「四聲字宛」(私には書誌不詳)の作者の叙述はアワビの生態をしっかりと認識している点で、よく書けている。しかし、大半は、則ち、「表は黒くてでっかい」だけで、十分に「似ている」と言うのが、これ、至極、当然なのである。

『「本朝食鑑」は、『「鰒」は俗稱、「鮑殼(あはびから)」を「石决明(せきけつめい)」と名(なつ[やぶちゃん注:ママ。])く』とし』国立国会図書館デジタルコレクションの元禄一〇(一六九七)年板の当該部(左丁「介類」の冒頭)を、訓点が致命的にひどいので、大幅に手を入れて読み易くした推定訓読で示す。読者は原文と対照して見られたい。

   *

鰒【音、「薄」[やぶちゃん注:ママ。「鰒」は呉音「ブク」、漢音「フク」で、「薄」は呉音「バク」漢音「ハク」で一致しない。]。本邦、讀みて、音は「伏」。「阿和比(あはび)」と訓ず。】

釋名鮑【俗稱。】殻を「石决明」と名づく【「本草」、〇鮑、本邦、素(もと)より、此の字を用ゆ。𢴃(よ)れるところ、無きに非ず。源順が曰はく、『「四聲字苑」に云く、『鰒は、「薄」-「⻆」の反。「窇(ハク/バク)」と同じ。今(いま)、案ずるに、一音は、「伏」。「本草音義」に見えたり。又、「本草」に云はく、『鮑。一名は「鰒」。音は「抱」。和名に「阿和比(あわび)」』と。愚、按ずるに、源順が言ふ「本草」は、未だ、詳かならず。時珍が「綱目」に曰はく、『鮑は乾魚なり。今(いま)、此の諸說を以つて、之れを考ふれば、則ち、「鰒」を以つて、「鮑」と爲(す)る者(もの)、本(もと)、訛(あやま)れり。謝肇淛が「五雜爼」に曰はく、『鰒、音「撲」。今(いま)、又、讀みて、「鮑」と作(な)す者(もの)は、非なり。』と。】。

   *

『「大和本艸」は、『石决明、又、蚫(あはび)と云ふ』私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 石決明 (アワビ)」を見られたい。

『弘景・蘇恭は、「石决明」と「鰒魚(ふくぎよ)」を一物(《いち》ぶつ)とし』「弘景」は、六朝時代の医師で本草学者道士の陶弘景。「蘇恭」は蘇敬(五九九年~六七四年)の別称。初唐の官人で本草家。二人とも、明の李時珍の「本草綱目」によく引かれ、これも同書からの孫引きである。「漢籍リポジトリ」の当該巻のガイド・ナンバー[108-11b]の「石决明」の項の「集解」の冒頭の部分が、それ(漢字に一部に手を入れた。太字下線は私が附した)。

    *

集解弘景曰俗云是紫貝人皆水漬熨眼頗明又云是鰒魚甲附石生大者如手明耀五色內亦含珠恭曰此是鰒魚甲也附石生狀如蛤惟一片無對七孔者良今俗用紫貝全非

   *

『「異魚圖賛」にも『二名同物(にめいどうぶつ)』とす』この「異魚圖賛」は、明の楊慎の撰になる「異魚圖贊」(四巻)のこと。同名の書名は日中に複数あるので、注意が必要である。楊愼(一四八八年~一五五九年)は明の優れた文人。当該ウィキによれば、一五一一年『の会試に第2位、殿試では24歳で第1位(状元)となり、翰林修撰を授けられる』一五一四年には『経筵展書官となり「文献通考」を校訂する。楊慎は時の皇帝であった武宗正徳帝が宣府鎮・大同鎮・楡林鎮などを軍人訓練と称して巡回』と称して『遊蕩にふけっていたことを憂い、たびたび切諫したが』、『聴かれなかった。世宗嘉靖帝が即位し』、『経筵(皇帝に対し講義をする役職)を開いたとき』、『その講官となり』、『「尚書」を進講した』。一五二三年には『「武宗実録」を編纂』した、しかし一五二四年、『父の楊廷和が大礼の議問題のために内閣大学士を辞任し、さらに桂萼・張璁らが起用されたことに反対し、皇帝に再三』、『具申したため』、『平民に落とされ』、『雲州永昌衛に流刑となり』、そこで没した。『享年72。著述は百余種におよび、ほとんど』三千『巻に近いという』とある博覧強記の博学者でもあった。当該記事は、「維基文庫」のここで電子化されている(四庫全書本)。その卷四に以下のようにある(一部の漢字に手を入れた。太字下線は私が附した)。

   *

  石决明

  【朱角切句】似蛤【句】無鱗有殼一靣附石【石叶音錯】細孔雜雜或七或八【入藥品者以七孔八孔爲佳九孔十孔不堪用也 郭璞爾雅贊 此贊尤竒】

   *

詳しくはここでは述べないが、この彼のアワビ類の観察や、続く蘇頌のそれは、孔の数に問題はあるものの、その孔を以って、種の違いを無意識的に嗅ぎ出して、ちゃんと記しているのは、流石である!

『蘇頌(そしやう)と時珍は、『一種二類』とし』蘇頌(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)は北宋の科学者で宰相。時珍の引くのは、恐らく、一〇六一年に完成した「本草圖經」である。もとは二十巻だったが、散佚した。但し、「証類本草」に引用されたものを元にして作られた輯逸本が残る。而して、やはり「本草綱目」によく引かれ、これもまた、同書からの孫引きである。「漢籍リポジトリ」の当該巻のガイド・ナンバー[108-11b]の「石决明」の項の「集解」の以下の部分が、それ(漢字に一部に手を入れた。太字・下線は私が附した)。

    *

頌曰今嶺南州郡及萊州海邊皆有之采無時舊注或以爲紫貝或以爲鰒魚甲按紫貝卽今砑螺殊非此類鰒魚乃王莽所嗜者一邊着石光明可愛自是一種與决明相近也决明殻大如手小者如三兩指大可以浸水洗眼七孔九孔者良十孔者不佳海人亦噉其肉宗奭曰登萊海邊甚多人采肉供饌及乾充苞苴肉與殻兩可用時珍曰石决明形長如小蚌而扁外皮甚粗細孔雜雜內則光耀背側一行有孔如穿成者生於石崖之上海人泅水乘其不意卽易得之否則緊粘難脫也陶氏以爲紫貝雷氏以爲眞珠牡楊倞註荀子以爲龜甲皆非矣惟鰒魚是一種二類故功用相同吳越人以糟决明酒蛤蜊爲美品者卽此

   *

『「閩書』(びんしよ)『」は『石决明』、『鰒魚(ふくぎよ)』との、二種、あるが如く記載したる』「閩書」は、明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南產志」。一六〇八年成立。この書、今までも何度も探すのだが、バチッと一致するものに遭遇出来ない。この回も、やはり試したが、だめなので、明の屠本畯(とほんしゅん 一五四二年~一六二二年)が撰した福建省(「閩」(びん)は同省の略称)周辺の水産動物を記した博物書で、一五九六年成立である「閩中海錯疏」を「漢籍リポジトリ」(ガイド・ナンバー[003-10b]以下)で同内容と見受けられる箇所を見出せた(字下げ部分はそのまま再現し、漢字の一部に手を加えた。ここでは「石决明」でなく「石決明」であるが、「决」に代えた。太字・下線は私が附し、後の注のために太字番号を振った)。

   *

石决明①附石而生惟一殻無對大者如手小者如兩三指旁有十數孔一說卽鰒魚本草圖經云鰒魚别是一種與决明相近石决明俗名將軍帽溫州與登州海中俱有之卽名鰒魚溫人醃用登人淡晒乾串入京餽遺【補疏】

  按閩部䟽云蠣房雖介屬附石乃生得潮而活凡

  海濵無石山溪無潮處皆不生余過莆迎仙寨橋

  時潮方落兒童羣下皆就石間剔取肉去殼連石

  不可動或留之仍能生其生半與石俱情在有無

  之間殆非蛤蜊比也後漢書鰒魚註云鰒無鱗有

  殻一面附石細孔雜雜或七或九卽以狀蠣房何

  所不可南蠣北鰒是故造化介生别搆

   *

①の最後では、「石决明は、一説に、即ち、鰒魚である。」と言っている。この「一説に」は、しかし、断言ではなく、別物とする考え方があるということを強く含むように読める

②では、「鰒魚は、別の一種で、(石)决明と互いに似ている。」として、似ているが、同属別種と述べている。

では、「石决明は俗名を『将軍帽』とする。温州と登州の海中には、どちらにも、これが棲息し、即ち、それを『鰒魚』と名づける。」であって、これは、全くの同一種扱いである

最後の下った段落部分の終わりの記載は、『「漢書」の「鰒魚」の注に言うに、『鰒には鱗(真珠光沢か?)が無く、殼一面に石が附着し、細い穿孔があるが、雑然としていて、七つ、或いは九つで、見た感じは、南方の牡蛎(カキ:このカキはお馴染みのマガキではなく、温暖な南方に棲息する斧足綱翼形亜綱カキ目イタボガキ亜目カキ上科イタボガキ(板甫牡蠣)科イタボガキ属イタボガキ Ostrea denselamellosa が念頭にあろう)類と、北方の鮑(アワビ:本邦のお馴染みのアワビ類の棲息域は中国本土から見れば、北方に当たる)の殼の形態の違いを、理解出来ない。自然は、実に計り知れない別々の生き物を創造したのである。』と言っているか? 但し、この引用は、「漢書」で、以上の三つに比べて、古過ぎ、比較にはならない。しかし、作者は、その殻の激しい相違だけを問題にいており、暗に、同一だと匂わせているようにも、私には見えるのである。

『小野蘭山は「石决明」を「あはび」、「鰒魚」を「とこぶし」に充てたり』国立国会図書館デジタルコレクションの弘化四(一八四七)板の「重訂本草綱目啓蒙」のここから「石决明 アハビ」が視認出来る。読み易いので、全文電子化はしない。当該部は次のコマの左丁の五行目からである(読み易さを考えて句読点・記号を打った。漢文部は推定訓読した、そこでは、バランス上、読み以外はカナカナを用いた)。

   *

トコブシハ、鰒魚ナリ。陶弘景ハ石决明・鰒魚ヲ以テ一物トス。非也。蘇頌・李時珍ハ一種二類トス。可也。「蝦夷志」ニ『鰒魚・石决明、一類兩種。其形、小大、亦、自《おのづから》同ジカラズ。石决明ヲ以ツテ、鰒魚ト爲スハ、疑フニ非《あら》ズ。』ト云《いふ》。

   *

ここで、学名を示す必要が起った。本邦産のアワビ属は、以下の三種である。

腹足綱直腹足亜綱古腹足上目原始腹足目ミミガイ科アワビ属クロアワビ(黒鮑) Haliotis discus discus 

アワビ属メガイアワビ(雌貝鮑) Haliotis gigantea

アワビ属マダカアワビ(眼高鮑) Haliotis madaka

アワビ属クロアワビ(北方系)亜種エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビと同一種という向きもある)

……而して……

ここで問題になっている「トコブシ」であるが、これは「BISMaL」や英文“Haliotis diversicolor”では、以前と同様、

ミミガイ科アワビ属基亜種フクトコブシ(福床臥)Haliotis diversicolor diversicolor

アワビ属亜種トコブシ Haliotis diversicolor aquatilis

であるのだが、

ウィキの「トコブシ」を見て驚いた!

そこでは、

ミミガイ科トコブシ属(或いはミミガイ属 Haliotis )基亜種フクトコブシ(福床臥)Sulculus diversicolor diversicolor 同ウィキには、『インド洋、西太平洋全域の岩礁潮間帯に分布し、模式産地はオーストラリア。日本では九州南部以南、奄美群島、沖縄諸島、八丈島に分布する。』とある)

ミミガイ科トコブシ属(或いはミミガイ属 Haliotis )フクトコブシ亜種トコブシ Sulculus diversicolor supertexta 同ウィキには(下線は私が附した)、『日本固有亜種で、北海道南部、男鹿半島以南、九州以北の日本全国の潮間帯から水深10mぐらいまでの岩礁浅海域に分布し、原記載の模式産地は長崎。殻長7cm、殻幅5cm、殻高1.5-2cmに達し、クロアワビ、メガイアワビ、マダカアワビといった狭義の、大型のアワビの子供に似る。殻の表面は黒みを帯びた褐色で、個体によっては緑褐色の斑紋がある。殻の内側は強い真珠光沢を持つ真珠層で覆われる。トコブシの名称は、海底の岩に臥したように付着している姿からつけられたと考えられている』。『狭義のアワビの子供とは、殻の背面に並ぶ穴の状態で識別できる。この穴は鰓呼吸のために外套腔に吸い込んだ水や排泄物、卵や精子を放出するためのものであるが、殻の成長に従って順次形成された穴は古いものからふさがっていき、常に一定の範囲の数の穴が開いている。アワビではこの穴が4-5個なのに対し、トコブシでは6-8個の穴が開いている。また、アワビでは穴の周囲が富士山の噴火口のように管状に盛り上がっており』、『穴の直径も大きいのに対し、トコブシでは』、『穴の周囲は管状に盛り上がらず、それほど大きくは開かない。』とある)

となっており、そこでは既に、

既にして「アワビ属」ではなくなってしまっている

のである。後者に就いては、個人的には『相応に美味しい……ちっやなトコブシちゃん……可哀そう……』と呟く私では、あるのだが……向後の学名の推移に注意を向けておこう。

2025/11/15

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「產女」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。二個の脱字は底本では長方形。]

 

 「產女《うぶめ》」 安倍郡《あべのこほり》□□村□□山正信寺《しやうしんじ》にあり。傳云《つたへいふ》、

「府中より一里餘《あまり》、安倍川のさき、藁科のうしろ、產婦(うぶめ[やぶちゃん注:珍しい底本のルビ。])と云《いふ》所に、正信寺と云《いふ》梵刹《ぼんさつ》あり。

 本尊、觀音より、安產の守符《まもりふだ》を出《いだ》す。平產の後《のち》、布施袋《ふせぶくろ》に、米を入《いれ》て奉納すべし[やぶちゃん注:これは義務の意であろうが、ここは決まった予定行為の必然の意を転用して「奉納することになっている」で訳すのが、よかろう。]。

 往昔《わうじやく》、農夫某の妻、難產して死せり。其靈《れい》、赤子を抱《いだ》き來りて、住僧に謁し、

「此《この》歎苦《なんく》を濟《すく》へ。」

と乞ふ。

 和尙、諾《だく》し、諭《さと》すに、觀音妙智力(くわんのんみゃうちりき)の誓《ちかひ》を以《もつて》し、猶、本尊に祈禱する(こと)一七日《ひとなぬか》、滿願の曉《あかつき》、彼《かの》婦、成佛の形を顯《あらは》し、禮拜して曰《いはく》、

「公《こう》の引導敎化《いんだうきゃうくわ》に依《より》て、忽《たちまち》、血池《ちのいけ》の苦界《くがい》を出《いで》、安養淨土に生《うま》るゝ事を得たり。法恩《ほうおん》、いつの時にか、謝し盡《つく》さん。我《われ》、當寺の薩埵《さつた》と共に、懷姙の女子《によし》を守りて、善《よ》く、難產の愁ひなからしめん。是《これ》、此《この》報《むかい》也《なり》。」

と告《つげ》、去る。是よりして、安產の守符を出《いだ》すに、必《かならず》、驗《げん》あり。當所の名も、又、此奇事に起れり、云々。」

未だ、寺記を見ず、故に、然るや否《いなや》を知らず。按《あんず》るに、難產死婦の靈を號《なづけ》て『產女(うぶめ[やぶちゃん注:底本のルビ。])』と云《いふ》事、諸書に見えたり。其《その》奇談、大方《おほかた》、是と同《おなじう》して、小異あるのみ。

[やぶちゃん注:「安倍郡□□村□□山正信寺」現存する。現在の住所は静岡市葵区産女。ここ(グーグル・マップ・データ)。古いサイトはこちらにあり、その「産女観音の由来」では、

   《引用開始》

産女観音は、正式名を「産女山・正信院」といい、永禄10年[やぶちゃん注:一五六七年。]215日、奕翁傳公首座(えきおうでんこうしゅそ)[やぶちゃん注:ここ以外に詳細事績を記載するサイトはないようである。]を初代に開創された曹洞宗のお寺で、「安産」「子授け」の観音様として全国に広く知られています。

 御本尊は千手観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)で、春日仏師(かすがのぶっし)によるものだといわれており、本堂は文政3年[やぶちゃん注:一八三〇年。家斉の治世。]、黙旨賢首座(もくしけんどうしゅそ)の代に建立されたものです。

 いい伝えによりますと、平安時代の終わりか鎌倉時代の初め頃、産女の道の終わるところを亀ヶ谷(かめがや)といい、ここに小さなお寺がありました。

 しかし、あまりに奥まっていて檀家の人々のお詣りに都合が悪いということで、養子庵というところに移り、さらに、江戸時代後期、現在の地に越してきました。

 このとき、寺の名も亀谷山正信院(かめがやざんしょうしんいん)から産女山正信院(うぶめさんしょうしんいん)に新ためられたということです。

   《引用終了》

さて、この記載に従がうなら、この寺の山号が欠字となっている以上、

この寺の正式な原山号は、この過去の「龜谷山正信院(かめがやざんしやうしんじ)」とすべき

であるということになるのだが、別に、新しい公式サイトが標題に、

「産女観音(うぶめかんのん)」

としてこちらにあり、そこでは、冒頭に、

『正式名を「産女山 正信院」(うぶめさんしょうしんいん)といいます』

とあるのである。

 思うに、本文の村名と山号との欠字は、

これから語る産女に纏わる話を語る関係上から、ネタバレを避けるための意識的欠字

である

と考えるべきであろう。

 しかし、問題がある。それは、旧村名の欠字である。以上の話からすれば、

ここには、「產女」という村名以前に、別な村名があり、それが、以上の奇瑞を受けて、「產女」となったという事実があった

ということになる。

 では、「產女村」の旧村名が無くてはならない。

 しかし、ウィキの「安倍郡」を見ると、『「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配』の項には、「幕府領」として、

   *

  • ○向敷地村。牧ヶ谷村、産女新田

   *

とあるのである。この『●は村内に寺社領が、○は寺社等の除地(領主から年貢免除の特権を与えられた土地)』を意味するとある。『向敷地村。』の句点は読点の誤りと考えていいだろう。則ち、明治初年に於いては、この寺の周辺には「向敷地村」と「牧ヶ谷村」、及び、村とは公式には言えない「産女新田」(うぶめしんでん)という江戸後期の新田地区があったということになる。而して、そこが例えば、

この「産女新田」が正信院の寺領として認定されていた

と考えるのが、手っ取り早い。幕府がそのように、区分分けしていても、周辺の村人は、そこを「產女新田村」と呼称していた

であろう。

さらに考えれば、「新田」という呼称は、寺領である「產女」の地がもともと存在し、そこの山間・平地などを開拓して、「新田」を作った

と考える方が自然である。則ち、

実は、正信院寺領の地を江戸時代には村人らは「產女村」と呼称していた

と考えてよいであろう。

 翻って、グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、ここに現在の「正信院(産女観音)」があり、そのやや三百メートル強の、山裾の耕地の、やや高い位置に産女山神社が確認出来る。而して、この正信院から入る谷間の地も「産女」地区であり、そこは、狭いそこが、現在も耕地となっている。幕府の言っている「産女新田」とは、或いは、この谷間の耕地を指すのではあるまいか?

 そこで「ひなたGIS」で、この寺周辺を見ると、多くの「谷」名が散見される。先の引用でも、『いい伝えによりますと、平安時代の終わりか鎌倉時代の初め頃、産女の道の終わるところを亀ヶ谷(かめがや)といい、ここに小さなお寺がありました。』『しかし、あまりに奥まっていて檀家の人々のお詣りに都合が悪いということで、養子庵というところに移り、さらに、江戸時代後期、現在の地に越してきました。』と言っている。「ひなたGIS」では「龜ヶ谷」の名は見当たらないが、

この「產女」から南南西に延びる谷こそが、「龜ヶ谷」ではないか?

と私は推理するのである。

 さて、その「産女子安観音縁起(うぶめこやすかんのんえんぎ)」のページによれば、

   《引用開始》

永禄3年、今川義元(よしもと)が桶狭間(おけはざま)で織田信長に敗れた[やぶちゃん注:永禄三(一五六〇)年時の室町幕府将軍は足利義輝であるが、永禄八年五月十九日、三好三人衆の兵に殺されている。]後、あとを継いだ義元の子の氏真も四方から攻められ、ついに、武田晴信によって、領土を奪われ、藁科渓谷を志太郡徳山村土岐(しだぐんとくやまむらとき)の山中へと逃げてきました。

氏真に従って、ここまで落ちてきた武士に信濃の人、牧野喜藤兵衛清乗(まきのきとうべえきよのり)という者がいました。

清乗の妻もいっしょに逃げてきたのですが、ちょうど臨月で、正信院近くの「清水のど」のあたりで、急に産気づき、ひどい難産で、とうとう出産できずに亡くなってしまいました。

清乗は、手厚く妻を葬りましたが、成仏できなかったとみえ、夜な夜な、幻となって村をさまよい、「とりあげてたもれ(助産してください)」と、悲しげに頼みました。

村人は哀れに思い、「とりあげてさし上げたいと思いますが、あの世に去った人のこととて、いかにすればよいやら」といいますと、「夫のカブトのしころ(錣)の内側に、わが家に伝わる千手観音を秘めてございます。その御仏に祈ってくださればよいのです。これからは、子どもの恵まれない方、お産みになさる方は、この御仏にお祈りしてください。必ず、お守りくださいます。」といいました。

そこで、村人は、千手観音を見つけだし、さっそく、正信院に納め、清乗の妻のために祈ってやりました。

すると、清乗の妻の幻があらわれ、お礼をいい、「この村をお守りしたいと思いますので、私を山神(さんじん)として、祠(ほこら)をお建てください」といいますので、近くの「いちが谷」にお宮を建て、産女大明神としてお祭りしました。

以後、村ではお産で苦しむ者がいなくなったといいます。

後に、村の名を産女(うぶめ)、正信院の山号も通称「産女山」と呼ぶようになりました。

   《引用終了》

「產女」に就いては、私の怪奇談集その他で、多数、述べている。最も新しい『平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之六〔五〕狐產婦の幽㚑に妖たる事』で、目ぼしいそれらを総てリンクさせあるので、そちらを見られたい。

「薩埵」「菩提薩埵」の略。「菩薩」に同じい。]

2025/11/13

和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 藥品(8) 忌鐵

 

  忌鐵  二十四種

菖蒲 龍膽 茜根 五味子 括樓 麻黃 香附子

芍薬 知母 牡丹 石榴皮 藜蘆 商陸 桑白皮

槐花 皂莢 雷丸 桑寄生 猪苓 山藥 蒺藜子

桑茸 楝子 何首烏

 

   *

 

  (てつ)を忌(い)  二十四種

菖蒲《しやうぶ》   龍膽《りゆうたん》

茜根《せいこん》   五味子《ごみし》

括樓《かつらう》   麻黃《まわう》

香附子《かうぶす》  芍藥《しやくやく》

知母《ちも》     牡丹《ぼたん》

石榴皮《せきりうひ》 藜蘆《りろ》

商陸《しやうりく》  桑白皮《さうはくひ》

槐花《くわいくわ》  皂莢《さうきやう》

雷丸《らいぐわん》  桑寄生《さうきせい》

猪苓《ちよれい》   山藥《さんやく》

蒺藜子《しつりし》  桑茸《さうじ》

楝子《れんし》    何首烏《かしゆう》

 

[やぶちゃん注:訓読では、ブラウザの不具合を考慮して、二段で示した。東洋文庫訳では、一部の生薬名を和訓で示している。具体的には、「茜根」に『あかね』、「石榴子」に『ざくろ』、「商陸」に『やまごぼう』、「蒺藜子」に『はまびし』、「桑耳」に『くわたけ』であるが、基本、漢方生薬名に和訓を混交して示すのは、私には承服出来ないので、総て、音読みの歴史的仮名遣で附した。

「菖蒲」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属ショウブ Acorus calamus L.1753)(シノニム: Acorus asiaticus Nakai (1936)/ショウブ変種ショウブAcorus calamus L. var. angustatus Besser (1834) (これは日本を含めた東アジアのものに対して用いられる。以下の引用でも冒頭にあるのは、こちらの学名である。その他、シノニムは数多く存在する)。意外であったが、私の多くの記事の中で、ショウブを漢方生薬としてちゃんと注したものはなかったので、「日本薬学学会」の「生薬の花」の「ショウブ」を部分引用する。高松智氏と磯田進氏の共同執筆である(太字は私が附した)。

   《引用開始》

 晩秋から冬期にかけて地上部が枯れてから、採取した根茎のひげ根を除いて水洗いし、日干しにしたものが生薬の「ショウブコン(菖蒲根)」です。ショウブコンは特有の芳香があり、味は苦くやや風味がある精油を含みます。その水浸剤は皮膚真菌に対し有効であると言われています。また、採取後1年以上経過したものの煎剤は芳香性健胃薬、去痰、止瀉薬、腹痛、下痢、てんかんに用いられます。民間ではショウブの根茎や葉を刻み、一握り分を布袋に入れて適量の水で煮沸し、そのまま薬湯料として使用し、神経痛、リウマチ、不眠症に効果があるといわれています。また、インド、ヨーロッパやアメリカにおいてもショウブの根茎は古くから消化不良の治療や熱や胃痙攣、疝痛(せんつう)に使用されてきました。

 和名は同属のセキショウ( A. gramineus Soland. )(漢名・菖蒲)の音読みで、古く誤ってこれに当てられたものが現在に及んでいるそうです。ショウブの別名として、端午の節句の軒に並べることに因んだノキアヤメ(軒菖蒲)、古名のアヤメグサ(菖蒲草)、オニゼキショウ(鬼石菖)などがあります。英名ではcalmussweet flag rootsweet sedgeacorus rootなどと呼ばれ、中国名は白菖蒲といいます。

 ショウブといえば、男子の健康と成長を願う端午の節句で、菖蒲湯(しょうぶゆ)、菖蒲酒(あやめざけ)や菖蒲刀(あやめがたな)など魔除けや厄払いに使われてきた植物です。また、武芸の上達を願う「尚武」、戦に勝つ「勝武」に通じることから、「菖蒲紋」なる文様が甲冑などの武具の紋様や織紋に武家に好まれて使われていました。ショウブはハナショウブほどの見た目の華やかさはありませんが、伝統的な行事で重宝され、また薬用として幅広い年齢層に恩恵を施すという点でも勝負あったというところでしょうか。

   《引用終了》

さて。ここで、私には、ちょっと面倒な疑問が生じてしまったのである。

この「忌鐵」の名数羅列が、中国の本草書からの引用であった場合、これは、ショウブではなく、セキショウのことになる

からである。一応、複数の中文サイトで、これらを、丸ごと、ぶち込み、検索を行ってみたが、この文字列に近い記載は見当たらなかったのだが、良安は、「本草綱目」に多くを拠っているので、調べて見たところ、決定的なものではないものの、「本草綱目」の「上草之六」と「上草之七」という、ごく近い位置に、「維基文庫」の電子化された「本草綱目」で以下を見出した。前者は「上草之六」の最後の記載で、後者は、そこから三行下の、「上草之七」二番目の「石菖蒲」の記載である。面倒なので、それぞれでなく、当該部分をそのまま抜き出し、問題の箇所を太字にした(表記はそのまま)。

   *

絡石(杜仲、牡丹為之使。惡鐵落。鐵精畏貝母、菖蒲。殺殷 毒。)

〔上草之七〕

澤瀉(畏海蛤、文蛤。)

石菖蒲(秦皮、秦艽為之使。惡麻黃、地膽。忌飴糖、羊 肉、鐵器。)

   *

この「絡石」(基原植物が多数あるので、説明すると、グダグダするだけなので、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 |ラクセキトウ(絡石藤)」をリンクするだけにする)という生薬は、文字列から見て、『惡鐵落。鐵精畏貝母、菖蒲。』は、『菖蒲』は鉄を『惡』(いむ)の意であろう。さても、一方に『石菖蒲』も『忌飴糖、羊 肉、鐵器。』とあって、『鐵器』を『忌』むとあるのである。

これを見るに、前者では「菖蒲」とし、口の干る間もなく、後者では「石菖蒲」としており、これは、到底、同一種とは思われないのである。

 困った。そこで、何時もお世話になる「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 石菖根と菖蒲根(セキショウとショウブコン)」の神農子さんの記載を引用させて戴く。冒頭では、基原を『石菖根はセキショウ Acorus gramineus L.,菖蒲根はショウブ A. calamus L.(サトイモ科 Araceae )の根茎.』とされている(太字は私が附した。一部タクソンの斜体を正体に直した)。

   《引用開始》

 現在わが国では、『日本薬局方外生薬規格』にセキショウコン(石菖根)として Acorus gramineus L. の根茎が規定され、主に入浴剤として利用されるほか、古来,鎮痛,鎮静,健胃薬などとして使用されてきました。また,市場には類似生薬としてショウブ Acorus calamus L. の根茎に由来するショウブコン(菖蒲根)があります.両者の形状はよく似ていて,石菖根のほうが一般にやや細くて繊維質ですが,古来混同されてきたようです.原植物のセキショウは一般に山間部の渓流ぞいや水のかかる石の上などに生え,ショウブは池や小川のほとりの泥中に根茎を張ります.

 『神農本草経』の上品に、昌蒲(菖蒲)の名で「味辛温。風寒湿痺、咳逆上気を主治し、心孔を開き、五臓を補い、九竅を通じ、耳目を明るくし、音聲を出す。久しく服すれば身を軽くし,忘れず迷い惑わず,年を延ばす。一名昌陽」と記載され、『名医別録』では「耳聾、癰瘡を主治し、腸胃を温め、小便を止め、四肢の湿痺で屈伸できないものを利し、小児の寒熱病で身積熱が解けないときは浴湯に使う。耳を聡くし,目を明らかにし,心智を益し、志を高くし、老いず」と記されています。このものが果たして,ショウブであったのかセキショウであったのかが論議されるところです.

 『名医別録』には,「上洛の池澤」に生じるとあり,生育地の環境を考えるとショウブのようですが,はっきりしません.陶弘景は「今すなわち所々にあり、石磧上に生ずる」と記しており,これはセキショウのようです.続けて「下湿地に生えて根の大きなものは昌陽と称される」とあり,これはショウブのようですが,「このものは今の都では真物とはいわない」としています.「菖蒲の葉には剱刃にあるような脊が1本ある」とする特徴的な記載からは菖蒲はショウブであると考えられますが,以上述べてきたことや,また『図経本草』の付図にある根の形状を見ても,古来両種が混用されてきたことは明らかです.

 江戸時代の『本草辨疑』では、「薬店には菖蒲根(アヤメ)と石菖蒲根(イワアヤメ)が売られており、本草では菖蒲はイワアヤメ、白菖はアヤメであるが、薬店で菖蒲根を求めれば白菖が売られる」と記されており、我が国でもやはり混乱が窺えます。

 明代の李時珍は5種類の菖蒲を記し,蒲(ガマ)のような葉で、池澤に生え根が肥えたものを白菖(泥菖蒲)、渓間に生え根が痩せたものを水菖蒲(渓孫)、水石の間に生え、葉に脊があり根は痩せて節が密なもの及び栽培品で葉が韮(ニラ)のようなものを石菖蒲、極端に小さいものを銭蒲とし、薬用に使用できるのは石菖蒲のみであるとしています。そして現在中国の『中薬大辞典』では,白菖、水菖蒲に A.calamus をあて、石菖蒲に A.gramineus をあてています。

 薬効的には,現代の中医学では菖蒲(セキショウブ A.gramineus )と水菖蒲(ショウブ A.calamus )の効能は開竅薬[やぶちゃん注:「かいきょうやく」は、鬱帯した気分を晴らす、気を開く、意識をはっきりさせる目的の漢方生薬を指す語。]としてはほぼ同様であるが、前者のほうがより開竅の効能にすぐれ、後者は化湿開胃・化痰止咳及び癰腫瘡湿疹などに対する効果が優れているとされ、また過服すると悪心・嘔吐をきたしやすいとしています。

 ショウブに関する混乱は植物学の分野においても知られています.すなわち,我が国におけるショウブの古名は真直ぐな葉が交錯して茂る姿から「文目(アヤメ)」と呼ばれていました.一方,現在のアヤメ科 Iridaceae で美しい花が咲くアヤメの葉がショウブに似ていることから「ハナアヤメ」とも呼ばれ,次第に単にアヤメと呼ばれるようになりました.本来のアヤメは仕方なく菖蒲の音読みでショウブと名を変えたと言うわけです.しかし,これにもハナショウブというアヤメ科の植物が登場し,今ではショウブと言えばハナショウブです.いずれの菖蒲園を訪れても本物の菖蒲は見られません.2度も名前を奪われた本物のアヤメは最近では「風呂菖蒲(フロショウブ)」と呼ばれ区別されています.

 また,ショウブの属する科もこれまではサトイモ科とされてきましたが,最近ではショウブ科 Acoraceae が設けられ,定説になりつつあります.

   《引用終了》

いや! 流石、私の尊敬する神農氏だ! 素人の私にも痒い所に手が届く素敵な解説をして下さっている! 脱帽だ!

 而して、本「鐵を忌むもの」を、良安が、この中国での錯綜事実を理解していたとは、到底、思われないから、この「菖蒲」は

ショウブ属ショウブ Acorus calamus

ショウブ属セキショウ Acorus gramineus 

ショウブとセキショウを並置する以外には

ない、のである。

「龍膽」これも、過去記事では、私はちゃんと示したことはない。福田龍株式会社公式サイト内の「生薬・漢方辞典」の「龍胆(リュウタン):生薬・漢方辞典」に拠れば、基原は、

リンドウ目リンドウ科リンドウ属トウリンドウ(唐竜胆) Gentiana scabra

リンドウ属マンシュウリンドウ Gentiana manshurica

リンドウ属エゾリンドウ Gentiana triflora

とし、トウリンドウの学名の語源を『 Genti ana :本植物の薬効を記載したエジプトIllyri a王の名(Gentius)から。』とされ、『 scabra :茎葉がザラザラという意味。「龍胆」は、苦味の強いことでよく知られる熊胆』(ゆうたん:熊の胆(い)のこと)『に比べても苦味が劣らないところから』、『龍の胆と名付けられた。植物名のリンドウは「リュウタン」が訛ったもの』とあり(空行は詰めた)、

   《引用開始》

●薬用部分

根及び根茎

●産地

中国(東北、内蒙古、華中)、韓国、日本

●主な成分

苦味配糖体(ゲンチオピクロシド、トリフロロシド、ベンゾイルトリフロロシド、リンドシド、スウェルチアマリン、スウェロシド、スカブラシド)、キサントン類(黄色素:ゲンチシン)、糖類(ゲンチアノース、ゲンチオビオース)、ゲンチシン酸

●主な薬効

胃液分泌促進、腸管運動促進、抗菌、抗炎症作用など

●代表的処方

主として漢方処方用薬であり、尿路疾患用薬とみなされる処方及びその他の処方に少数例配合されている。

【龍胆瀉肝湯】 リュウタンシャカントウ

頭痛、目の充血、脇痛、口の苦み、耳聾、耳の腫れ、舌の紅みと舌苔の黄色、陰部の腫れ、陰部の痒み、小便淋濁、帯下が黄色く臭い、比較的体力があり、下腹部筋肉が緊張する傾向があるもの(排尿痛、残尿感、尿の濁り、こしけ)

(処方内容) 当帰/地黄/木通/黄芩 /沢瀉/車前子/龍胆/山梔子/甘草

【加味解毒湯】カミゲドクトウ

血色のよい比較的体力があるものの次の諸症: 小便がしぶって出にくいもの、痔疾(いぼ痔、痔痛、痔出血)

(処方内容) 黄蓮/黄芩/黄柏/山梔子/柴胡/茵蔯蒿/龍胆/木通/滑石/升麻/甘草/灯心草/大黄

   《引用終了》

とある。ウィキの「リンドウ」の「利用」も参考になるので、引用すると(注記号はカットした)。、『根には配糖体であるゲンチオピクリン、アルカロイドの1種ゲンチアニン、三糖体のゲンチアノースなどを含んでいる』。『根は生薬のリュウタン(竜胆/龍胆)の原料のひとつとして用いられる。リンドウ科で、日本薬局方に収録されている生薬ゲンチアナの代用品。かつて根は民間薬として用いられた。竜胆は、地上部が枯れる10 - 11月に根を切らないように根茎を掘り上げて、茎を切り捨てて水洗いし、天日乾燥させて調整される。竜胆は、漢方専門薬局でも取り扱われている』。『苦味質は一般に口内の味覚神経終末を刺激し、唾液や胃液の分泌を高め、消化機能の改善、食欲増進に役立つものと考えられている。リンドウ(竜胆)の苦味は、苦味健胃、消化不良による胃もたれ、食欲不振、胃酸過多に薬効があるといわれ、膵液、胆汁の分泌を増進する効果がある。漢方では、消炎解毒の作用があるものと考えられていて、処方に配剤されている。民間療法では、竜胆1日量2 - 3グラムを、水300 - 400 cc3分の2ほどになるまで煎じ、食後3回に分けて服用する用法が知られている。食欲不振時のもう一つの用法は、竜胆をなるべく細かく刻んですり鉢などで粉末にしたものを、1回あたり0.1 - 0.2グラムを食後に水か白湯で飲む。患部の熱感をとる薬草で、排尿痛、排尿困難で排尿時に熱を感じるときや、目の充血や痛みで冷やすと痛みが楽になる人によいとも、患部に熱が溜まり、のどが渇いて冷たいものが欲しい人によいとも言われている。連用は避けることと、妊婦や患部が冷えている人への使用は禁忌とされている』。『中国産のトウリンドウは、シベリア、朝鮮半島などに野生し、中国では竜胆として薬用されているが、苦味はリンドウよりも劣る』。『リンドウの属名 Gentiana は、薬用効果を発見したイリュリア人の皇帝ゲンティウス』『(Gentius)に由来する。リンドウの根は、Gentian liqueur』(ゲンチアナ・リキュール:フランス原産)、『ウンダーベルクなど、トニックウォーターやリキュールなどの薬用酒、食前酒などに用いられる』とあった。

「茜根」これも私の記事で注したことがない。漢方では「茜草」(センソウ)が一般的で、基原は、リンドウ目アカネ科アカネ亜科アカネ属アカネ Rubia argyi の根及び根茎である。まことに申し訳ないが、やはり、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 石菖根と菖蒲根(セキショウとショウブコン)」の神農子さんの記載を引用させて戴く。

   《引用開始》

 「あかね」というと、植物の「アカネ」よりも、色を連想することが多いのではないでしょうか。茜色とはアカネの根の色素を用いて染めた色のことで、日本では古くからアカネ染が行われていました。アカネで染めた「緋」色は、飛鳥時代には朝廷における位を表す色のひとつとして用いられていました。また、『万葉集』には「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」をはじめ、「あかねさす」という枕詞が詠み込まれた歌がいくつかあります。このことは、アカネで染めた色が、鮮やかで美しい色として、当時の人々に好まれていたことを表しているように思います。

 アカネは、日本から東アジアにかけて広く分布し、山野によく見られるつる性の多年草です。根はひげ状になり、黄赤色を呈しており、「アカネ」の名の由来とされます。細くて長い茎には下方に曲がった刺があり、ほかの植物にからまりながら繁茂します。葉は細長い心形で4枚が輪生しているように見えますが、そのうちの2枚は托葉です。花は淡黄色で、直径は4mmほどと小さく、夏に多数咲きます。果実は熟すにつれて黒くなります。

 ヨーロッパではセイヨウアカネ R. tinctorum L. の根を用いて染色が行われてきました。アカネで染めた色はやや黄色みを帯びた赤色になりますが、セイヨウアカネでは鮮やかな赤色になります。根に含まれる化学成分は、アカネではプルプリンが主でアリザリンが非常に少なく、セイヨウアカネではアリザリンが主であり、この違いが異なった色として現れます。また、どちらの染料も媒染剤を必要とし、用いる媒染剤によっても色は変化します。

 生薬「茜草」は『神農本草経』の上品に「茜根」の原名で、「味苦寒。寒湿風痺、黄疸を主治し、中を補う」と収載され、さらに『名医別録』には「無毒。血内崩、下血、膀胱不足、[やぶちゃん注:ここは、漢字表記が出来なかったために、『★(★は、足+委)』となっている。Unicodeで表記出来るようになったので、以下、太字で特異的に示しておく。]跌、蟲毒を止める。久しく服すれば精気を益し、身体を軽くする」と記されています。『黄帝内経素問』には「四烏鰂骨一藘茹丸」(烏鰂骨、藘茹(茜草の別名)、雀卵を丸とし鮑魚の汁で飲む)という血枯経閉を治す方が記されており、古くから薬用にされていたことがわかります。李時珍は『本草綱目』に「茜草」の主治について、「経脈を通じ、骨節の風痛を治し、血を活し、血をめぐらす」と記し、また「俗方に、婦人の経水不通を治すのにこれを用い、一両を酒で煎じて服するが、一日にして通じ、甚だ効がある」と記しています。現代では、浄血、止血、通経薬として、吐血、便血、月経不順などに応用されており、血をめぐらすには生で用い、血を止めるには炒炭にして用いています。

 また、本草書からは、中国においても絹を紅く染めるのにアカネが用いられていたことが伺えます。『名医別録』には「絳を染める染料になる」と記され、陶弘景は「このものは絳を染める茜草である」と述べています。このアカネで染めた糸や布も薬用になります。「新絳」はアカネで染めた新しい絹糸で、『金匱要略』出典の「旋覆花湯」に配合され、婦人の半産漏下(流産のこと)を治すのに用いられます。また「緋帛」はアカネで染めた絹の布で、陳蔵器は「焼いてすり、初生児の臍のまだ落ちない時の腫痛に外用する。また悪瘡、疔腫、諸瘡の根のあるものを治療する」と記しています。

 一方、ヨーロッパにおいても、セイヨウアカネが染料だけではなく薬としても用いられてきました。『ディオスコリデスの薬物志』には、「根は細長くて赤く、利尿作用がある。水割蜂蜜酒と一緒に飲むと、黄疸や腰痛や麻痺によい。多量の濃い尿を排泄させるが、ときには血液をも排出させる。服用するものは毎日体を洗い、排泄した尿の変化をみなければならない。茎を葉と一緒に飲めば、毒獣に咬まれた者を救う。根は、膣坐剤として用いれば、月経血、後産が排出される。酢と混ぜて塗りつけると白斑も治す」とその効能が記されています。

 アカネの類は、洋の東西を問わず、古くから薬や染料として用いられてきました。しかし、色素の成分であるアリザリンが化学的に合成され、染料として用いられるようになると、セイヨウアカネの栽培量は激減し、それとともに薬用にもほとんど供されなくなったといいます。現在、化学染料が使われ始めてから約100年が過ぎ、アカネで染めた赤色の方が、化学染料で染めたものより堅牢であることが次第に明らかになり、植物染色のよさが見直されつつあります。生薬としてのアカネについても、再認識される機会になるかもしれません。

   《引用終了》

「五味子」被子植物門アウストロバイレヤ目 Austrobaileyales マツブサ科サネカズラ属サネカズラ Kadsura japonica 。常緑蔓性木本の一種。当該ウィキによれば、『単性花をつけ、赤い液果が球形に集まった集合果が実る。茎などから得られる粘液は、古くは整髪料などに用いられた。果実は生薬とされることがあり、また美しいため観賞用に栽培される。古くから日本人になじみ深い植物であり』、「万葉集」にも、多数、『詠まれている。別名が多く』、『ビナンカズラ(美男葛)の名があ』り、『関連して鬢葛(ビンカズラ)』、『鬢付蔓(ビンズケズル)』、『大阪ではビジョカズラ(美女葛)と称したともいわれる』とあり、具体な精製法は、茎葉を二『倍量の水に入れておくと粘液が出るので、その液を頭髪につけて、整髪料として利用』した。既に『奈良時代には、整髪料(髪油)としてサネカズラがふつうに使われていたと考えられて』おり、それは、『葛水(かずらみず)、鬢水(びんみず)、水鬘(すいかずら)とよばれた』、『また』、『サネカズラを浸けておく入れ物を蔓壺(かずらつぼ)、鬢盥(びんだらい)といったが、江戸時代には男の髪結いが持ち歩く道具箱を鬢盥というようになった』とある。また、『赤く熟した果実を乾燥したものは』、『南五味子(なんごみし)と』呼ばれ、生薬とし、『鎮咳、滋養強壮に効用があるものとされ、五味子(同じマツブサ科』マツブサ属チョウセンゴミシ Schisandra chinensis 』『の果実)の代用品とされることもある』。但し、『本来の南五味子は、同属の Kadsura longipedunculata ともされる』とある。

「括樓」「相反」で既出既注。そのまま転写する。基原は、双子葉植物綱スミレ目ウリ科カラスウリ属カラスウリ Trichosanthes cucumeroides の仲間であるトウカラスウリ Trichosanthes kirilowii 、キカラスウリ Tkirilowii var. japonicum 又は、オオカラスウリ Tbracteata の皮層を除いた根。詳細は、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 括楼根(カロコン)」を見られたい。漢方では「かろ」と読むらしい。本文での読みは、小学館「日本国語大辞典」の読みに従った。

「麻黃」「六陳」で既出既注。転写する。中国では、裸子植物門グネツム綱グネツム目マオウ科マオウ属シナマオウEphedra sinica(「草麻黄」)などの地上茎が、古くから生薬の麻黄として用いられた。日本薬局方では、そのシナマオウ・チュウマオウEphedra intermedia(中麻黄)・モクゾクマオウEphedra equisetina(木賊麻黄:「トクサマオウ」とも読む)を麻黄の基原植物とし、それらの地上茎を用いると定義しているウィキの「マオウ属」によった)。また、漢方内科「証(あかし)クリニック」公式サイト内の「暮らしと漢方」の「麻黄…エフェドリンのお話」が非常に詳しいので、見られたい。

「香附子」単子葉類植物綱イネ目カヤツリグサ科カヤツリグサ属ハマスゲ Cyperus rotundus の根茎を乾燥させたもの。薬草としては、古くから、よく知られたもので、正倉院の薬物の中からも、見つかっている。漢方では芳香性健胃・浄血・通経・沈痙の効能があるとされる。訓読を「かうぶし」とせず、「かうぶす」おしたのは、以上の本邦で古くからあって、「ぶし」ではなく、「ぶす」と呼んでいた可能性が高いと推定したことに拠る。

「芍藥」ユキノシタ目ボタン科ボタン属シャクヤク Paeonia lactiflora 、或いは、その近縁種も含む。漢方生剤としてのそれは、「日本漢方生薬製剤協会」の当該ページを見られたい。

「知母」先の「藥七情」で注したものを転写する。単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ハナスゲ属ハナスゲ Anemarrhena asphodeloides の根茎の生薬名。当該ウィキによれば、『中国東北部・河北などに自生する多年生草本』『で』、五~六『月頃に』、『白黄色から淡青紫色の花を咲かせる』。『根茎は知母(チモ)という生薬で日本薬局方に収録されている』。『消炎・解熱作用、鎮静作用、利尿作用などがある』。「消風散」・「桂芍知母湯」(けいしゃくちもとう)・「酸棗仁湯」(さんそうにんとう)『などの漢方方剤に配合される』とある。

「牡丹」中国の花の王、ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa 。基原は同種の根皮で、漢方では「牡丹皮」(ボタンピ)と称する。後の「第九十三」で注することになるので、ここでは、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 牡丹皮(ボタンピ)」をリンクするに留める。

「石榴皮」ザクロの樹皮。詳しくは、先行する「和漢三才圖會卷第八十七 山果類 石榴」で子細に注してあるので、そちらを見られたい。

「藜蘆」「藥七情」で既出既注。そちらの私の注を見られたい。

「商陸」これは、古い八年前に公開した「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」で、私が詳細に考証してあるので、そちらを見られたい。

「桑白皮」バラ目クワ科クワ属 Morus の桑類の根皮。消炎・利尿・鎮咳効果を持つ。基原は、マグワ Morus alba の根皮。詳しくは、先行する『卷第八十四 灌木類 目録・桑』の私の注を見られたい。

「槐花」「六陳」で既出既注。長いので、そちらを見られたい。

「皂莢」これは、日中で異なるので、先行する「卷第八十三 喬木類 皂莢」を、必ず、見られたい。

「雷丸」竹に寄生する、サルノコシカケ科カンバタケ属ライガンキン Polyporus mylittae の茸(きのこ)の菌体を指す。詳しくは、先行する卷第八十五 寓木類 雷丸」を見られたい。

「桑寄生」先行する「卷第八十五 寓木類 桑寄生」を見られたい。多数の基原植物がある。そちらの注で詳細に掲げてある。

「猪苓」菌界担子菌門真正担子菌綱チョレイマイタケ目サルノコシカケ科チョレイマイタケ属チョレイマイタケ Polyporus umbellatus を基原とする。先行する「卷第八十五 寓木類 猪苓」を見られたい。

「山藥」所謂、「山芋」の漢方名であるが、一般に言う「山芋」には可食出来ないもの、有毒の種もある。「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 山芋(サンヤク)」に拠れば、基原を、単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属『ヤマノイモ Dioscorea japonica Thunberg 又はナガイモ D. batatas Decaisne(ヤマノイモ科 Dioscoreaceae)の周皮を除いた根茎(担根体)』とする。以上は、リンクに留める。何故かと言えば、私は大のヤマノイモ好きであり、小学生の頃は、裏山で父と一緒によく掘った実力派であり、ずっと後の「卷第九十六」に「ひかい ところ 萆薢」として出る。私は、そこで存分にヤマノイモ類を子細に調べたいと思っているからである。

「蒺藜子」「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 蒺藜子(シツリシ)」に拠れば、基原を、ハマビシ目ハマビシ科ハマビシ属『ハマビシ Tribulus terrestris L. の未成熟果実』とする。

「桑茸」これは、漢方では、一般に「桑黄」(ソウオウ)と呼称するもので、基原は、菌界担子菌門ハラタケ(原茸)綱タバコウロコタケ(煙草鱗茸)目タバコウロコタケ科キコブタケ(木瘤茸)属メシマコブ(女島瘤) Phellinus linteus の菌体(キノコ)とする。「金澤 中屋彦十郞薬局」公式サイト内の「桑黄(ソウオウ、そうおう)」に、『健康食品、桑黄はキコブタケの仲間に属する多年生のサルノコシカケで、学名フェリナス・イグニアリウスといいます』。『その多くは』、『桑の古木やブナ・シイなどの木に寄生し、直径30センチの大きさに成長するまで2030年もの歳月を要するといわれます』。『傘の表面は黒~褐色、内側のひだに独特の黄~茶色の剛毛がみられることから、中国では桑黄 (そうおう) 、針層孔とよばれていました』。『メシマコブの名は、長崎県の男女群島』(だんじょぐんとう)『の女島 (めしま) 』(同県五島市浜町(はまちょう)。ここ)『に自生する桑の木にコブ状に寄生するキノコであることから名付けられました』。『そのため桑寄生と呼ぶこともあり、ヤドリギともまた区別が必要で』す。『日本や東南アジアをはじめオーストラリア、北アメリカなどに広く分布しますが、天然から採取することは難しく、 また、培養も栽培も極めて困難であることから、長い間、幻のキノコといわれてきました』。『1日5~15gを煎じて服用する』とあった。また、サイト「小林製薬の中央研究所」の「研究用語辞典」の「メシマコブ(桑黄、サンヒャン)」には、『メシマコブは、桑の木に生えるタバコウロコタケ科のキノコの一種。サンヒャンの別名もある。アジアや北米が原産とされ、日本では長崎県男女群島の女島(メシマ)でコブ状に生えていた(生育するにつれて扇状になる)ことが、和名「メシマコブ」の由来とされる。主な成分は、子実体部分に含まれるアガリシン酸、アガリシン、ラリシン酸などで、中国などの伝統医学では古くから薬用として利用されており、漢方では「桑黄(そうおう)」として⽌汗・利尿などに使われている。また、免疫賦活作用や抗腫瘍作用、抗ウイルス作用があるとされ、韓国や日本でも基礎研究が行われてきた』とあり、続く、「メシマコブ(桑黄、サンヒャン)のがん免疫に関する作用について」で、『キノコから得られる成分の抗腫瘍作用については古くから研究が行われてきている。1968年に発表された国立がんセンター研究所のグループによる研究では、サルコーマ』(Sarcoma:悪性の骨軟部腫瘍である肉腫を指す)『180を皮下移植したマウスに10数種類のキノコの熱水抽出エキスを投与し、抗腫瘍効果を確認する研究が行われた。その結果、メシマコブは腫瘍阻止率で最も高い96.7%を示した。また、その後韓国ではメシマコブ菌糸体の培養技術開発が進められ、がん治療のための医薬品として認可されるに至った。メシマコブの抗腫瘍作用は、免疫細胞であるNK(ナチュラルキラー)細胞』(natural killerNK)細胞。リンパ球の一種で、全身をパトロールしながら、癌細胞やウイルス感染細胞などを、見つけ次第、攻撃する)『やマクロファージ等の活性化によるものとされる。ただし、こうした抗腫瘍作用は基礎研究では確認されているものの、ヒトに対する臨床試験でのデータは十分ではない』とあった。当該ウィキによれば、『桑の木などに寄生して栄養を奪いながら扇状に育つ。子実体の傘の直径が30cmになるまでに20-30年はかかるという希少なキノコで、外見はサルノコシカケによく似ている。温度、湿度、日当たりなどの環境が整わないと菌糸が育たず、栽培も培養も難しいことから幻のキノコと呼ばれてきた。中国では桑黄と呼ばれ漢方薬としても珍重されてきた。ただし、桑黄とメシマコブは必ずしも同一でないことが遺伝子解析で明らかになっている』ともあった。「百度百科」の「桑黄」には、『中国北部・中国西北地方・黒龍江省・吉林省・海南省・台湾・広東省・四川省・雲南省・チベットなどに分布している。血行促進・止血・解痰・下痢止めなどの効能がある。脾虚による不正出血・血尿・血便を伴う直腸脱・帯下・無月経・腹部腫瘤・痰貯留・下痢などによく用いられる』とし、『抗腫瘍効果・抗癌効果』も掲げてある。

「楝子」双子葉植物綱ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach var. subtripinnata 及び、同属トウセンダン  Melia toosendan の果実としてよかろう。

先行する「卷第八十三 喬木類 楝」の本文及び私の注を参照されたい。

「何首烏」基原は、タデ目タデ科ツルドクダミ(蕺・蕺草・蕺菜)属ツルドクダミ Reynoutria multiflora の根である。詳しくは、先行する「藥品(4) 有南北土地之異」の「夜合草《よるあひぐさ》」の私の注を見られたい。

2025/11/11

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その16)~図版・注・分離公開(そのⅦ) / (三)煎海鼠の說~了

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。なお、本図版に就いては、(その10)の冒頭注記を、必ず、見られたい。

  なお、これを以って、「(三)煎海鼠の說」は終わっている。二十二日もかかったが、達成感は計り知れない。

 

Iriko7

 

【図版7】

[やぶちゃん注:以下は、斜め右方向で、まず、示し、左側の中央、その右下の個体の順に示した。]

 

■「其二」

[やぶちゃん注:前の図の標題が「生海鼠《いきなまこ》」であるので、注意されたい。

 

■「琉球やへやまなまこ」

 「一《いつ》に、『ちりめん』といふ。」

 「凡、十分《の》一。」

[やぶちゃん注:「やへやまなまこ」(八重山海鼠)「ちりめん」(縮緬)は、「その8」の注で示した、

楯手目クロナマコ科クリイロナマコ属トゲクリイロナマコ(刺栗色海鼠) Actinopyga echinites

である。]

 

■「同」 「はねぢなまこ」

[やぶちゃん注:これも、「その8」の注で示した、

クロナマコ属ハネジナマコ(羽地海鼠)Holothuria ( Metriatyla ) scabra

である。]

 

■「同」 「まるなまこ」

[やぶちゃん注:「まるなまこ」は「丸海鼠」であるが、一般に、本土では、「丸ナマコ」と呼称する場合、マナマコの「アカ」型を指すことが多いと思う。しかし、ここは、琉球産であり、マナナコは棲息しない。従って、この黒っぽいずんぐりムックリの形状から、間違いなく、

クロナマコ科クロナマコ属クロナマコHolothuria (Halodeima) atra

である。疑う方は、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」同種のページの画像を見られよ。]

 

■「きんこ」

           「脊《せ》」

 「半形《はんけい》。」  「凡、三分《の》一。」

           「腹」

[やぶちゃん注:文句なく、

ナマコ綱樹手亜綱樹手目キンコ(金古・金海鼠)科キンコ属Orange-footed sea cucumber亜種 Cucumaria frondosa japonica

である。注意しなくてならないのは、この種は、上部四個体(「をきなまこ」は除く)とは関係なしに、図が空いていた箇所に横のオキナマコと一緒に投げ込んだものと思う。既に述べた通り、キンコは、沖縄には、いない。同種は北方分布で、

茨城県以北・千島・サハリンに分布

するのである。

「半形《はんけい》」「半円」に同じ。これは、キンコの成体の形状を、よく示している熟語である。当該ウィキに拠れば(注記号はカットした)、『長楕円形をしており、全長 1020cm(カナダ太平洋沿岸では、30cm以上の個体もみつかる)で、幅・高さはその半分程度、ずんぐりと太い。体色はさまざまで、灰褐色のものが多いが、暗褐色、濃紫色、黄白色のものは肥厚して滑らかな触感である』。『細かい枝に分岐した触手を10本持っており、長さは均等である(腹側の2本も他の8本と同大)。口周りや、すぼめた触角は白や赤交じりでかなり色彩豊かであるが、叢状に広げられた触角は黒色である』。『背腹の区別がつきにくいが、腹側は湾曲し、背側は扁平ぎみである。』とある。取り敢えず、同ウィキの画像を見て貰うと、特異な形状が、ある程度、判るであろう。今一つ、学名で画像検索したものもリンクさせておく。則ち、横から見たキンコの成体は、球体を中心で切ったような形に見えるというのである。

 しかし、読者の中には、「どこが半形なんだよ!?」とツッコみを入れる御仁があろうから、言っておく。思うに、河原田氏は、学者ではないが、本書の構成を見れば判る通り(本電子化の初回の「目次」を見よ)、当時の水産物のエキスパートなのである。本書では、扱っていないが、「真珠」の知識も、一般人よりも遙かに、よく知っていたはずである。但し、本書の刊行時(明治一九(一八八六)年)には、天然真珠しか存在しない。

 以下、やや脱線なので、時間が惜しい方は、読まんでもいい。本邦の真珠養殖は、明治二六(一八九三)に、「東京帝國大學理科大學附屬三崎臨海實驗所」を開所していた、前にちらりと注した、同大の動物学教授(本邦最初の日本人教授)箕作佳吉(みつくりかきち 安政四(一八五八)年 明治四二(一九〇九)年)先生(この方は、私のような素人の海産生物フリークで知らない者は、まず、いないのである)の指導をうけた御木本幸吉氏が、英虞湾神明浦(しめのうら)で、養殖アコヤガイの半円真珠の生産に成功するのが、前史であり、明治三八(一九〇五)年に御木本幸吉が、英虞湾の多徳島(たとくしま/たとくじま)で、半円の核を持つ球状真珠を採取したことも知られている。この採取によって御木本幸吉は真円真珠の養殖成功を確信し、後、大正五(一九一六)年と六年に、彼の姻族が真円真珠生産の特許を得ている。)が、以上も参考にしたウィキの「真珠」にある通り、『真珠養殖の歴史は古く、中国大陸で1167年』(本邦では、仁安元・二年相当。この二月に平清盛が太政大臣となっている)『の文昌雑録に真珠養殖の記事があり』、一三『世紀には仏像真珠という例がある』。但し、『これらは』、『貝殻の内側を利用する貝付き真珠である』とある通り、この仏像真珠は、私も、多数、中国及び日本で見たことがあるが、内側に真珠層を持つ淡水貝類(斧足綱イシガイ(石貝)目イシガイ科カラスガイ(烏貝)属カラスガイ Cristaria plicata・イシガイ科ドブガイ(溝貝)属ヌマガイ(沼貝) Sinanodonta lauta(ドブガイA型/大型になる)・ドブガイ属タガイ(田貝) Sinanodonta japonica(ドブガイB型/小型)等。知らん人のために、私の『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 馬刀(バタウ)・ミゾ貝・カラス貝・ドフ(ドブ)貝 / カラスガイ』をリンクしておく)の中に、鉛製の小さな仏像を生貝の内側を掘って埋め込むことで、まさに半円型に脹れた真珠層が形成されるのである。知らない読者のために、鉛製であることを参考にした「株式会社未来宝飾」公式サイト内の『真珠の歴史を振り返る!「世界最古の養殖真珠」編』をリンクしておく。そこには書かれていないが、多分に、奇蹟の超自然の仏陀の力で出来たものとして、トンデモない値段で売る詐欺師も、かなり、いた。また、『このステップを踏み』、『仏像真珠が作られますが、あくまで核のみの挿入であり、パールサック(真珠袋)を形成しない』ため、『完全には養殖真珠とは言えないかもしれません。しかしながら』、『この中国由来の仏像真珠が養殖真珠の元祖として捉えられていることは事実で、そこから500年以上の停滞期を経て欧州で多くの養殖技法開発が行われるようになるのです』。『なお』、『清朝が滅亡し』、『この技術も失われかけましたが、現在はマベ貝』(斧足綱ウグイスガイ目ウグイスガイ亜目ウグイスガイ上科ウグイスガイ科ウグイスガイ属マベガイ Pteria penguin :これは海産。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクしておく)『などを使用し、異なる形の核を外套膜の下に挿入した半形状の養殖真珠が作られています。また中国の養殖真珠のパイオニアであるYu-Shun Yangを偲ぶ寺院も建てられており、私達が御木本幸吉に畏敬の念を覚えるのと同様に崇められています』とあった。則ち、もっこり半円型の種を以って真珠層の物品が出来ることは、古くから知られていたのである。

 さても、話しを本題に戻すと、現代の真珠養殖に於いても、この手法で、斧足綱ウグイスガイ目ウグイスガイ亜目ウグイスガイ上科ウグイスガイ科アコヤガイ(阿古屋貝)属アコヤガイ Pinctada fucata に核を植え込んで真珠が作られるのであるが、その一つに、

半形養殖真珠

があるのである。一般社団法人 日本真珠振興会の「真珠スタンダード2014年版」の中に(同振興会公式サイトのここで、PDFでダウンロード出来る)、

   《引用開始》

Ⅰ--半形養殖真珠(養殖ブリスター)半形状(3/4形も含む)の核を人為的に真珠貝の貝殻内面層に固着させ、核表面を真珠層で覆ったもの。養殖時に使用された核が養殖後も真珠中に残るか、あるいは除去され他の物質に置換されるか否かは問わない。天然真珠あるいは真円養殖真珠を切断、研磨などにより半形状または3/4形状に整形されたものはこの範疇外とする。

   《引用終了》

これは、現代に続く養殖真珠時代の用語ではあるものの、仏像真珠工程の場合も、この語は既に使用されていたのではないか? と私は思うのである。而して、中国で用いられていたものか、当時の日本で使われていたかは、判然としないのだが、単に、丸いものを半分の形にしたというのを、「半形」と書いたとは、どうも、私には思えないのである。大方の御叱正を俟つものではある。

 

■「琉球慶良間(ケラマ)島産」

              「凡、六分《の》一。」

[やぶちゃん注:産地と、食用ナマコで、長さ約二十七センチメートルほどであること、背部が細かな横線で描かれていること、描かれている口部の触手の描き方が如何にも多くあるように見えること等を勘案すると、私は、少し迷いつつも、

クロナマコ科クリイロナマコ(栗色海鼠)属トゲクリイロナマコ Actinopyga echinites

を第一候補に挙げることとする。

 根拠は、本邦では沖縄のみに分布すること、長さは十五~三十センチメートルであることがポイントであるが、触手は二十本で、同じ本数のナマナコ(沖縄には分布しない)に似て見えるのは納得される。

 しかし、

『トゲクリイロナマコの背部には、細かくて小さな疣足が密生しているのだが、果して、それをランダムな多量の横線で描くものだろうか?』

という疑問が生じて、ちょっと引っ掛かるのである。そして、トゲクリイロナマコを挙げるなら、沖縄・八重山でゾウリゲタの異名を持つ、

クリイロナマコ属クリイロナマコ Actinopyga mauritiana

も、同等、或いは、二番手の候補としないと、おかしいとも思うのである。クリイロナマコは、小笠原と奄美大島以南の岩礁帯に普通に見られ、上からみると楕円形に近く、背面は褐色から濃い褐色を呈し、白い斑点があること(しかし、それを、本図の如く横線で描くかどうかという疑義は、ある)、触手は大きく、トゲクリナマコよりも多い二十五本であることから、対抗馬の資格は十二分にあると言えるのである。

 

■「をきなまこ」[やぶちゃん注:ママ。]

 「此《この》ものハ、

  中國にて、『ふぢこ』。」

[やぶちゃん注:「をきなまこ」「沖海鼠」であるから、この表記は誤りである。

シカクナマコ科マナマコ属オキナマコ Apostichopus nigripunctatus (シノニム:Parastichopus nigripunctatus

である。これは、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページが、都合が、甚だ、よい。「由来・語源」に、『沖合いで揚がるナマコという意味。』とあり、「生息域」には、『海水生。水深20-600m。』『北海道〜九州までの太平洋・日本海沿岸。』とし、「基本情報」に、『北海道から九州までの太平洋、日本海での底曳き網などで揚がる。主に加工用であり、生鮮品として出廻ることはない。福島県相馬市原釜などでは出荷されているので、干しナマコなどの原料として利用されているのだと思われる。』とある。

「中國にて、『ふぢこ』」問題は、ここである。先のリンク先の写真を見て貰うと、捕獲からそれほど経っていないと思われる下の個体は、くすんだ藤色をしていると表現してよく、「藤子」でいいのだが、上記の通り、本種は中国沿岸には棲息しないのである。しかも、ぼうずコンニャク氏のおっしゃるように、清国へは、「煎海鼠」の一種である「乾し海鼠」の製品として送られていたのであり、即ち、清の人々は、それを見て、「藤海鼠」と呼称していたことになる。そうなると、「オキナマコの乾し海鼠」自体が紫色をしていなければ、「藤海鼠」とは呼ばないことになる。そこで調べてみた。あった! 島根県海士町(あまちょう)の『小さな離島で冬場だけ、ひっそりと稼働するなまこの加工場です。』とする「たじまや」公式サイトの「干しなまこ」だ! その上から四番目の笊に盛られた「干しなまこ」は! しっかりと! 藤色をしているじゃないか!!! このページには、このナマコがオキナマコとはどこにも書いてない。しかし、そもそも、この場所は日本海で、まさに、オキナマコに相応しい隠岐(おき)諸島の隠岐郡の島前にある中ノ島を主島とするのが海士町なのだ! さても、その画像の次の三枚は、食するために、水に入れて、戻しの様子を撮影したものであるが、これを見た、私は思わず――「オキナマコ!」――と叫んだのである。最後の注を、自信を持って終えることが出来た。私は隠岐が大好きである。再訪する時は、必ず、「たじまや」を訪ねて、じかに、この「干しなまこ」を買って、御礼したいと思うのであった。

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その15)~図版・注・分離公開(そのⅥ)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここの左ページ。右ページは白紙であるが、これは、恐らく、図版は本文製本とは別に挟み込むが、どうしても、この右ページを白紙で挟み込まないと組版上、当時の技術では物理的に出来なかったためであろうと思われる。他の古い書籍では、しばしば、こうしたことが生じているからである。なお、本図版に就いては、(その10)の冒頭注記を、必ず、見られたい。

 

Iriko6

 

【図版6】

 

■「生海鼠《いきなまこ》の圖」

[やぶちゃん注:「鼠」の字は、底本では、「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので、かくした。]

 

■「まなまこ」

 

■「あかなまこ」 「凡、六分《の》一。」

 

■「いそなまこ」

 「凡十分《の》一。」

[やぶちゃん注:「そ」は「勢」の字を元にした「ひらがな」の「せ」の崩し字である。]

 

■「とらなまこ」 「凡、十分《の》一。」

[やぶちゃん注:上の左端に縦で描かれてある。]

 

■「獨乙國《ドイツこく》動物學教授セレンカ氏試験

    生 殖 噐 の圖」

    「二」

    「三」 

 「四」  「五」

[やぶちゃん注:「授」の字は、底本では、(扌:てへん)に、(つくり)は、{上部が(「並」の一・二画を除いたもので、最終画の左だけが下にカギ状に下がったもの)+(攵)のような形}であるが、「授」に、このような異体字はないので、「授」とした。同じく、「試」の字は、(扌:てへん)に、(つくり)は、(「式」の第二画の右払い先の手前に右上から左下に「戒」の最終画の払いが不随したもの)であるが、これも「試」の異体字には、ないので、「試」とした。なお、東洋文庫版の活字化(新字)されたキャプションでも、『独乙国動物学教授セレンカ氏試験 生殖器の図』と起こしてある。このドイツの動物学教授セレンカ氏という人物は、東洋文庫版の後注に、

   《引用開始》

Emil Selenka 1842 – 1902)。ドイツの動物学者、人類学者。無脊椎動物や人類の研究を行い、東南アジアや南アノリカにおける探検調査で知られている。初期は海洋の無脊椎動物、とくに棘皮動物門の発生組織、分類の研究を進めた。「生海鼠の図」に掲げられた図は、セレンカの下記の論文の図版とよく似ている。Emil Selenka, Zur Entwickelung der holothurien holothuria tubulosa und cucumaria doliolum).  Ein Beitrag zur Keimblättertheorie. Zeitschrift für wissenschaftliche Zoologie. 27.1876.pp. 155-178. p1.9-13.

   《引用終了》

とあった。彼の英文ウィキは、ここドイツ語のそれは、ここにある。以上のドイツ語部分は、私は大学時代の第一外国語がフランス語であるため、ドイツ語は全く判らないので、機械翻訳した限りでは、

   *

エミール・セレンカ、「ナマコ( holothuria tubulosa と cucumaria doliolum )の発生について。胚葉理論への貢献」『Journal of Scientific Zoology

   *

であった。

 この“ Holothuria tubulosa ” (ホロチュリア・チューブローサ:ラテン名学名の頭は大文字にした。以下同じ)は、和名はなく、英語で“cotton-spinner” (綿糸の紡績業者・紡績工。「綿紡ぎするナマコ)又は、“tubular sea cucumber”(管状ナマコ)で、現行の正式な学名は、クロナマコ属 Holothuria ( Holothuria ) tubulosa である。参照した英文の当該ウィキに拠れば、大西洋東部の温帯地域、特にビスケー湾北部から地中海にかけての地域に広く分布し、地中海では豊富に生息している。砂地の海底・海草( Posidonia 属)の間、水深約100メートルの泥岩に棲息しているとあった。

 次の“ Cucumaria doliolum ”は、Pentacta doliolum (ペンタクタ・ドリオルム)のシノニムで、和名はなく、樹手目キンコ科キンコ属である。ネット検索では、英文のこのページ(画像有り)しか、詳細な記事は見当たらない。

 なお、主にドイツ語の情報源からの分類学・書誌・著者、及び、標本データのオンライン・カタログ“Zobodat のここブロックされる方は、以下のアドレスで見られたい。

chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.zobodat.at/pdf/Zeitschrift-fuer-wiss-Zoologie_27_0155-0178.pdf

)で、PDF
で原本がダウンロード・視認が可能であり、PDF仕様の右の画像指示ページの『25』以下に、以上の発生過程図が幾つかのチャートの中に総て確認出来るので、是非、見られたい。但し、劣化が激しい。

 下部の右端の図に「一」が無いのはママ。これは、ナマコの発生過程を示したものである。先の本川先生の「ナマコガイドブック」の「第1部 ナマコQ&A」の25ページの「マナマコの発生」の写真画像から参考推測すると、

「一」相当の図は、原腸胚。

「二」は、オーリクラリア( auricularia )幼生(種が異なるので、前記か後期かは判断出来ない)。

「三」は、ドリオラリア(doliolaria)幼生か、ペンタクツラ(pentactula)幼生。形状として一致するのは、断然、後者である)。

「四」は、稚ナマコ。

「五」は、成体の透視図である。

2025/11/10

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その14)~図版・注・分離公開(そのⅤ)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここの左ページ。なお、本図版に就いては、(その10)の冒頭注記を、必ず、見られたい。

 

Iriko5

 

【図版5】

 

■「其 五」

 

■「チリメンイリコ」「沖縄縣八重山島産」

 「表」

     「正面」

 「裏」

[やぶちゃん注:「チリメンイリコ」前の図版4の最後にある「カズマル」で、前掲の大島先生の論文「沖繩地方產食用海鼠の種類及び學名」の『緖言及び總論』の引用に出たが、『亞屬 Actinopyga BRONN, PEARSON emend.』の『10. Holothuria (Actinopyga) miliaris (Quov et GAIMARD』の項で(『第5圖』附き。国立国会図書館デジタルコレクションのものでは、ここの左ページの上)、

   《引用開始》

體長 27 cmに 達 する。生時は全体一様に 暗紫色乃至暗褐色を呈し, 腹面は少しく淡色である。体表の骨片は細い稈状體の左右に多くの短い小枝を生ずるもの, 及び小形やゝ不完全な花紋様體。分布はモザンビク・紅海からカロリン・トンガ諸群島に亘り,  北はわが奄美大島に及ぶ。箕作博士は大島の蘇苅で本種を獲られた。本種で製した熬海鼠(第5圖)はチリメンと呼ばれる。蓋し表面が強く細かい皺襞を生じてゐることに因んだ名である。蘭領印度諸地方の名は tripang balibie, t. batoe, t. belangoeloe, t. bikaloe, t. djepoeng 等々多数あるが他は省略する。トルレス海峽地方では烏参(black fish)の名がある。價格はさきに引用した如く100斤の債淸貨 140兩(テール), 箕作博士によれば沖繩で120, KONINGSBERGER によれば1ピクル50-70グルデンであると云ふ。

   《引用終了》

とあるのがそれである。これは既に注で示した、クロナマコ科クリイロナマコ属チリメンナマコ(縮緬海鼠) Actinopyga miliaris である。]

 

■「黒ウサ」 「沖縄縣下産」

 「表」

 「裏」

[やぶちゃん注:これも、同前の大島先生の同論文の国立国会図書館デジタルコレクション版の『第8圖』がそれであり、前に私が述べたチリメンナマコ(縮緬海鼠) Actinopyga miliaris であるが、前ページの解説文の中で、先生は『本種の熱製品にはシロウサー(白鼠第7圖),クロウサー(黒鼠第8圖)の2品種があるが箕作博士は多分生時の色彩の変異に因るのであらうと云はれる。トルレス海峽產のものに石參(teat fish, 白靴(white  test fish,烏双蟲(black sneke)等の外に乳房をもつ魚と云ふ意味の名がある。さてさきに引用したもの』『にクラウソウ・白ウサフなどと書いてあつたのは勿論本種のことであるが, 別の所に』『烏縐(ウスウ)卽ち肉刺なく縐』(=縮み・皺)『あり色黒きものとあるのもこれに當ると思はれる。ウサー或はウソウは烏縐を讀んだもの, 烏双・鼠なとの字は音に合せて作つたものではなからうか』と述べておられる。]

 

■「羽地《はねぢ》イリコ」

 「沖縄縣下琉球國頭《クンジヤン》産」

 「表」

     「正面」

 「裏」

[やぶちゃん注:「羽地イリコ」(その8)で既に述べた通り、これは製品名として認識しているのであろうが、実際には、その製品に使う、生体の、

クロナマコ科ジャノメナマコ属フタスジナマコ(二筋海鼠)Bohadschia bivittate

を指す沖縄方言と思われる。

「國頭」現在の「やんばるの森」を有する沖縄県国頭郡(くにがみぐん)国頭村(くにがみそん)。ここ何故、私が『クンジヤン』と振ったかと言うと、次の図で、そう振っているようからである。

 

■「シナフヤー」

 「沖縄縣下琉球國頭(クンジヤン)産」

 「表」

     「正面」

 「裏」

[やぶちゃん注:「國頭(クンジヤン)」のルビであるが、拡大しても「シ」には濁点はないのだが、現在の国頭郡国頭村は、古くから沖縄方言で「くんじゃん」と呼ばれていること、東洋文庫版の、活字化したキャプション一覧でも『くんじゃん』と判読して振っていることから、かくした。

「シナフヤー」は(その8)で示した通り、

クロナマコ科ジャノメナマコ属フタスジナマコ(二筋海鼠)Bohadschia bivittate

である。]

 

■「メーハヤー」

 「沖縄縣琉球國頭(クンジヤン)産」

 「表」

     「側面」

 「裏」

[やぶちゃん注:珍しく「側面」図を下方に示してある。

「メーハヤー」同じく(その8)で示した通り、

クロナマコ科ジャノメナマコ(蛇の目海鼠)属ジャノメナマコ Bohadschia argus

である。]

 

■「ナンフ」

 「沖縣下産」

 「表」

 「裏」

[やぶちゃん注:「ナンフ」(その8)で示した「なんふう」と同じであろう。そこで注した通り、全く分らない名前である。識者の御教授を、再度、乞う!

2025/11/09

三泊四日で五島列島の旅から帰宅した

五日に、五島列島のツアー旅に連れ合いと出かけ、昨日、日が代わる頃に帰宅した。
離島の素敵な雰囲気をしっかりと満喫するとともに、「キリシタン」に就いて、三種類のグループが存在し、現に今もいることを明確に学ぶことが出来、甚だ目から鱗でした。おいおい、纏めて書いてみようと思っている。

参加メンバーの二十数人の内、男は私が一番若く、海上タクシー(今回で老朽化で引退する船で、船主の許可で瀬戸を舳先で満喫した。なかなか出来ない、潮風が顔を斬る面白い体験であった。)からの大荷物の運び出しを、独り、手伝いをして、葛掃討で痛めた両肩が、またまた悲鳴を挙げたのだが、老船長への細やかな御礼であった。

念願であった「トッカッポ」=ハコフグ料理を、個人オプションで頼み、満喫した。ウメエぞう! トッカッポは!!!

2025/11/04

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その13)~図版・注・分離公開(そのⅣ)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここの右ページ。なお、本図版に就いては、(その10)の冒頭注記を、必ず、見られたい。

 

Iriko4

 

【図版4】

 

■「其 四」

 

■「光参」「三分ノ一。」「琉球産」

 「おして、海參ノ最上ナルモノ。」

 「表」

 「裏」

[やぶちゃん注:これは、産地・大きさ・形状と、自信を持って最高級の製品であるとすることから、(その11)で示した、楯手目クロナマコ科クロナマコ属クロナマコHolothuria (Halodeima) atra である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」同種のページの画像の二枚目を見ると、「裏」とする管足側の凸凹な感じ(管足自体は煎海鼠にすると、収縮してしまい、そこが、陥没したようになるのであろう)とも、よく一致する。

「おして」「推して」で、「ある状態に於いて最も相応しいものとして他者に薦める」の意。]

 

■「琉球産」

 「『長大ナル』ト、称《しやう》スルモノナリ。」

 「四分ノ一。」

 「表」

 「裏」

[やぶちゃん注:同前で、クロナマコである。スケール縮小から、前者より大きい。底本実物の高さは二十六センチメートルほどである。前掲のリンク先には、『35㎝前後になる』とあり、二枚目の画像の物差しも三十五センチメートルである。何度も引用している本川先生の「ナマコガイドブック」では、『体長5~25㎝』とするものの、『熱帯地方では、50㎝以上の大型個体もみられ、乾かして海参を製する。』とある。]

 

■「白ウサフ」 「沖縄下産」

 「表」

      「正面」

 「裏」

[やぶちゃん注:「白ウサフ」既に紹介した「九州大学附属図書館」公式サイトのここの、大島廣先生の論文「沖繩地方產食用海鼠の種類及び學名」(『九州帝國大學農學部學藝雜誌』昭和一〇(一九三五)年二月発行所収・PDF)の『亞屬 Microthele BRANDT』『13. Holothuria (Microthele) nobilis (SELENKA)』(=クロナマコ属イシナマコ亜属イシナマコHolothuria (Microthele) nobilis (Selenka, 1867)の項の解説の中で(部分引用。注番号はカットした)、

   《引用開始》

 本種の熬製品にはシロウサー(白鼠、第7圖), クロウサー(黒鼠, 8圖)の2品種があるが箕作博士は多分生時の色彩の変異に因るのであらうと云はれる。トルレス海峡[やぶちゃん注:トレス海峡。]產のものに石參(est fish),  白靴(hite test fish), 烏双蟲(black snke)等の外に乳房をもつ魚と云ふ意味の名がある。さてさきに引用したものにクラウソウ・白ウサフ[やぶちゃん注:☜]などと書いてあつたのは勿論本種のことであるが, 別の所に烏縐(ウスウ)[やぶちゃん注:「黒い縮んだもの」の意であろう。]卽ち肉刺なく縐あり色黒きものとあるのもこれに當ると思はれる。ウサー或はウソウは烏縐を讀んだもの, 烏双・鼠などの字は音に合せて作つたものではなからうか。

   《引用終了》

とあった。この次の150ページの冒頭に三体の乾燥写真が載るが、その一番右の『第9圖』『サバ  Holothnria (Microthcle)  nobilis  (SELENKA). × 3/4 八重山産・(原圖).』を、是非、見られたい! 本図の「表」を彷彿させる図である! なお、同論文は国立国会図書館デジタルコレクションでも見ることが出来るので、当該図のリンクを張っておく。 なお、大島先生の記載の中に『サバは八重山語で草履を意味する。』とあった。激しく、ナットク!

 さて、本川先生の「ナマコガイドブック」から、イシナマコの項の解説を引用しておく。『体長3040cm。 一名タラチネナマコ。体は堅く、やや平らな太い円筒形で、腹面はより平らである。背面は黒に近い褐色で、腹面は背面より淡い。生時は体表に砂を付ける。触手は20本。口は前端腹面に、肛門は後端に開き、やや石灰化した5個の肛歯がある。管足は腹面に密であるが、背面や側面には管足または疣足がまばらに分布する。浅海のサンゴ砂礫上に生息する。沖縄諸島、ニューカレドニア、オーストラリア、グアム、中国、台湾に分布。』とある。

「沖縄下産」は「おきなはか」で「沖縄県下」の意であろう。沖縄県は明治一二(一八七九)年三月二十七日に琉球藩を廃止して置かれていた。

「正面」製品の頭部の吻部を正面から描いたもの。]

 

■「琉球産」「ヒラカタニミーハイ」

 「二分ノ一。」

 「裏」

 「表」

[やぶちゃん注:「ヒラカタニミーハイ」意味不明。識者の御教授を乞う。ただ、図(変則で、裏→表の順である)を見るに、クロナマコと思われる。]

 

■「琉球産」 「丸形《まるがた》。」

 「五分ノ一。」

[やぶちゃん注:本図の最初と、二つ目の図との類似性から、クロナマコ比定。]

 

■「シビー」「沖縄縣下産」

 「凡、四分ノ一。」

 「表」

     「正面」

 「裏」

[やぶちゃん注:前掲の大島先生の論文「沖繩地方產食用海鼠の種類及び學名」の『亞屬Actinopyga BRONN, PEARSON emend.』『9. Holothuria (Actinopyga) lecanora (JAEGER)』の項の解説の中で(部分引用)、

   《引用開始》

箕作博士は沖繩島糸滿・喜屋武崎等で本種を採集されたが, 沖縄でも八重山でも本種の製品をシビーと稱する(第4圖)。箕作博士はこれに志比宇と云ふ字をあて, 子安貝に似ると云ふ意味なりと記して居られる。八重山では子安貝のことをシビーと云はず訛つてスビ(sbü

)と云ふ。この海鼠が體壁を縦に裂かれ强く短縮して圓くなつた製品の形がやゝ子安貝こ似てゐる所からかく呼ぶのであらう。CLARK1, p.188)によればトルレス海峽地方の漁夫はこれを石魚と云ふ意味の名で呼んでゐると云ふ。本種は上品に屬し, 八重山での價格は100斤につき50圓である。

   《引用終了》

とあって、右下方に』『第 4 圖』がある(国立国会図書館デジタルコレクションで、ここの右ページの左下方)。而して、このHolothuria (Actinopyga) lecanora であるが、後に属名が変更され、さらに近年、和名変更も行われて、ヨコスジオオナマコ Stichopus herrmanniとなっている。本川先生の「ナマコガイドブック」から、引用しておく。

   《引用開始》

ヨコスジオオナマコ(和名変更)[シカクナマコ科Stichopodidae

Stichopus herrmanni Semper, 1868

体長30cmを超える。体は角の丸い四角柱。体色は褐色、黄緑色、橙色と変化に富む。背面と側面には褐色から暗褐色の小さな疣足が散在し、体軸と垂直方向に多くの細い筋が見られる。触手は20本。沖縄以南の礁地の砂地に生息する。オーストラリア、フィリピン、スマトラ。『新星図鑑シリーズ第11巻 沖縄海中生物図鑑』(1990)でStichopus variegates var. hermanni Semperに対して和名ヨコスジナマコが用いられたが、その和名は以前から Actinopyga lecanoraJaeger, 1833)に対して用いられている。また学名については、F.W.E.Rowe1995)によって、hermanni が亜種名から種名に変更された。

   《引用終了》]

 

■「ゾーリゲタ」 「沖縄縣産」

 「凡、四分ノ一。」

 「表」

     「正面」

 「裏」

[やぶちゃん注:「ゾーリゲタ」は(その8)の「ぞうりげた」の私の注を見られたい。沖縄方言で、「草履下駄」で、楯手目クロナマコ科クリイロナマコ(栗色海鼠)クリイロナマコ Actinopyga mauritiana の沖縄での方言名である。]

 

■「カズマル」 「凡、一四分の一。」

 「沖縄縣産」

 「表」   「正面」   「裏」

[やぶちゃん注:この最後の煎海鼠は、特異的に三図が縦に並んでいる。

「カズマル」前掲の大島先生の論文「沖繩地方產食用海鼠の種類及び學名」の『緖言及び總論』の中で、

   《引用開始》

 琉球產海參の品種について水產局の調査した所(8,pp.9-10)に據ると“チリメン・シビー・ゾウリゲタ・クラウソウ・シロウソウ・カズマル・ハネヂイリコ・シナフヤシ・メーハヤー・ナンフウ等なり且つ其品位上好其價甚高し其中カズマルと稱するものは淸國にて開片梅花參と稱す上好のものなり又チリメンは百斤の淸貨百四十両(テール), 其他も上品五十兩, 中品四十三兩, 下品三十五兩の高價なりし” "とあり, この書には圖版にチリメンイリコ・シビー・ゾウリグタ・黑ウサー・白ウサフ・カズマル・羽地イリコ・シナフヤ・メーハヤー・ナンプ等の琉球產熬海鼠の圖を示してある(本文中の構呼と綴字を異にするものがあるがわざと原の通りに記して置く)。

   《引用終了》

とあった。この「開片梅花參」は、(その2)の注で示した通り、シカクナマコ科バイカナマコ属バイカナマコ Thelenota ananas  である。]

2025/11/03

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「山男」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を、ごく一部で補塡した。欠字は底本では、長方形二字分。「甲折處」の「折」は(てへん)ではなく、「土」で、「圻」である。この「圻」は、音「キ・ギン・ゲ・ゴン」で、訓は「かぎり(限り)・さかい(境)」である。「近世民間異聞怪談集成」では、『拆』とあり、これは音「タク・チャク」で、訓は「さく(割く)・ひらく(開く)」である。しかし、どうも、孰れも違う気がした。中国漢文の中で見かけた記憶があったからである。而して、これは『「甲」との熟語である』という気がしたのである。調べたところ、図に当たった。「甲坼」という熟語があり、小学館「日本国語大辞典」には、『こう‐たくカフ‥』『【甲坼】』とあり、『草木が芽を出すこと。実生(みしょう)。〔易経‐解卦〕』とあったのが、意味としても、しっくりくるので、それを採用した。漢文中の歴史的仮名遣の誤り、「見」はママである。

 

 「山男《やまをとこ》」 安倍郡□□村の深山《しんざん》にあり。「日本國事跡考」云《いはく》、

『阿部山中有ㇾ物、號山男、非ㇾ人非ㇾ獸、形似巨木斷キレニ四肢、以手足一、木皮有兩穴、以爲兩眼、甲坼處以爲鼻口、左肢曲木與一レ藤以弓弦、右肢細枝ㇾ矢。一旦獵師相逢射ㇾ之倒ㇾ之、大ケハㇾ之、觸ㇾ岩ㇾ血、又牽ケバ之甚不ㇾ動。驚歸ㇾ家與ㇾ衆共ルニㇾ之不ㇾ見焉、唯見クヲ岩石耳。云云。』。

 

[やぶちゃん注:漢文部を推定訓読する。一部の読み・句読点・訓点・記号(特に送り仮名)は、私が必要と考えたものを大幅に増量し、変更を行なってある。読み易さを考え、段落を形成した。「見へず」はママとした。「灑く」は古くは清音であるから、問題としない。

   *

 阿部山中(あべさんちゆう)、物(もの)有り。號(なづけ)て、「山男」と曰(い)ふ。

 人に非(あら)ず、獸(けだもの)に非ず。

 形(かたち)、巨木(きよぼく)の斷(たちき)れに似(に)、四肢(しし)、有り、以(も)つて、手足と爲(な)す。

 木皮(ぼくひ)には、兩(りやう)の穴(あな)、有り、以つて、兩眼(りゃうがん)と爲し、甲坼(かふたく)の處(ところ)、以つて、鼻・口と爲す。

 左肢(さし/ゆんで)に、曲木(まがりぎ)と、藤(ふぢ)とを、懸けて、以つて、弓弦(ゆづる)と爲し、右肢(うし/めて)に細枝(ほそえだ)を懸けて、以つて、矢と爲す。

 一旦[やぶちゃん注:一度。]、獵師(れうし)、相逢(あひあ)ひて、之れを射て、之れを倒(たふ)す。

 大(おほき)に、恠(おそ)れて、之れを牽(ひ)けば、岩に觸れて、血を流す。

 又、牽けば、之れ、甚だ、重くして、動かず。

 驚き、走り、家に歸る。

 衆(しう)と共(とも)に、徃(ゆ)きて、之れを尋(たづぬ)るに、見へず。

 唯(ただ)、血の、岩石に灑(そそ)くを見るのみ。云云(うんぬん)。

   *

「日本國事跡考」林羅山の三男で幕府儒官であった林春斎(林鵞峰(はやしがほう:元和四(一六一八)年~延宝八(一六八〇)年)が、諸国を行脚して、それぞれの事跡を記載・考証したもの。寛永二〇(一六四三)年に著したもので、特に、松島・天橋立・宮島を「日本三景」として絶賛した嚆矢として知られる。

「安部山中」平凡社「日本歴史地名大系」に「安部山 あべやま」がある。『静岡県』『静岡市旧安倍郡地区安部山』とし、『安倍川の上流(大河内川とも称する)域と、その支流である中河内(なかごうち)川』、及び、『西河内川流域一帯を含む中世の広域地名。およそ安倍川と中河内川合流地点以北の山間部をいう。阿部山・安倍山などとも記す。また』、『安部郷とか単に安部・安倍・阿部と記されている場合も、当地域一帯をさすと思われる』とあった。「ひなたGIS」で示しておく。]

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その12)~図版・注・分離公開(そのⅢ)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここの左ページ。なお、本図版に就いては、(その10)の冒頭注記を、必ず、見られたい。

 

Iriko3

 

【図版3】[やぶちゃん注:左ページ。]

 

■「其 三」

[やぶちゃん注:上罫外の標題。

 ここでは、左下方に、串二本で突き刺した五個体の製品と、軟らかい繩様の物で中央部を貫いた十二個体の図(かなり大きい)があるが、それらは、最後に配しておいた。

 

■「陸奥國《むつおくのくに》

  東津輕郡《ひがしつがるのこほり》

  小湊村産」

 「二匁ヨリ、十五匁。取交□。

[やぶちゃん注:最後の□は、東洋文庫版の巻末に近い位置にあるキャプションを活字に起こした表では、『□』となっていて、判読不能である。しかし、これは、私は「ゼ」、或いは、「也」であろうと判読している。前者なら、「とりまぜ」であり、後者なら、「とりかはせなり」となろうが、前で重量を述べているのであるから、前者の可能性(「重さ・大きさがマチマチのものを取り交ぜたものである」の意)が極めて高いと考えている。

「陸奥國《むつおくのくに》」「昆布の說」の本文で、河原田氏は、「陸奥」に、かくルビを振っているのに従った。

 マナマコ比定。]

 

■「讚岐國大內郡《おほちのこほり》

 日引村《ひけたむら》産」

[やぶちゃん注:「讚岐國大內郡日引村」旧大川郡引田町(ひけたちょう)大字引田で、現在の香川県東かがわ市引田(ひけた)。当該ウィキによれば、『播磨灘に面する港町で、醤油醸造で栄えていた時代の古い町並みとともに、世界で初めてハマチ』(スズキ(アジ)目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata の「出世魚」の大きさで分けた地方名の一つ。ウィキの「ブリ」によれば、『関西』で、『モジャコ(稚魚)→ ワカナ(兵庫県瀬戸内海側)→ ツバス、ヤズ(40 cm以下)→ ハマチ (40-60 cm) → メジロ (60-80 cm) → ブリ(80 cm以上)』、『南四国』で、『モジャコ(稚魚)→ ワカナゴ(35 cm以下)→ ハマチ (30-40 cm) → メジロ (40-60 cm) → オオイオ (60-70 cm) → スズイナ (70-80 cm) → ブリ(80 cm以上)』とあり、『80 cm 以上のものは関東・関西とも「ブリ」と呼ぶ。または80 cm以下でも8キログラム』『以上(関西では6 kg以上)のものをブリと呼ぶ場合もある。和歌山県は関西圏だが』、『関東名で呼ぶことが多い。流通過程では、大きさに関わらず養殖ものをハマチ、天然ものをブリと呼んで区別する場合もある』とある。なお、『「ハマチ」の漢字に「魬」が、「ワカシ」の漢字に「𮬆(魚偏に夏、魚+夏)」が使われる』とある)『の養殖に成功した地としても知られる。』とある。マナマコの産地としても知られる。]

 

■「後志國《しりべしのくに》

  岩内郡《いはないのこほり》

  三島町《みしまちやう》産」

[やぶちゃん注:「後志國岩内郡三島町」現在の岩内郡岩内町(いわないちょう)御崎(みさき:字名(あざめい))。平凡社「日本歴史地名大系」の「三島町」「みしままち」(この読みは不審。後を見よ)に、『明治初年(同二年八月―九年の間)から同三三年(一九〇〇)まで存続した町。岩内市街のうちで、堀江(ほりえ)町の西に位置する。明治九年の大小区画沿革表に三島町とある。同二一年の戸数八五・人口三二〇、同二四年の宅地は一町二反余(岩内古宇二郡誌)』とある。既に述べたが、北海道では、「町」を「まち」と読むのは、茅部郡(かやべぐん)森町(もりまち)のみである(ここ)。これは、北海道の開拓時代に於いて、行政区画としての「町」が設定された際、「ちょう」という読み方が採用されたことに由来するので、先に「不審」としたのである。

 本種は、間違いなくマナマコである。北海道岩内郡岩内町字大浜の「一八興業水産株式会社」公式サイト「一八食堂」の「ナマコのお話」に、『岩内町の市場では、さまざまな魚種の水揚げが減っていますが、ナマコの水揚げはそれなりにあります。価格も中国での需要が強いために、高値で取引されています』。『正式名称は「マナマコ」。岩内ではナマコと言えば、「生子」と書いて「生助子(なますけこ)」の事を指し、生スケトウダラの子、いわゆる』、『たらこの生の原料の事を言いますが、最近では』、『このイボイボの海鼠が一般的になりました』。『昔からナマコは薬効があるとされ、中国では陸の人参(朝鮮人参)と対比し、干しナマコは海参と呼ばれています。古書では強精剤としての効能が強調されていますが、外観の異様さからの思いこみのようで、真偽のほどは?です。試してみてはいかが?』とされ、『岩内のナマコは他地域のものにくらべ』、『イボイボのとんがりが強いために、評価が高いのです。岩内の荒波の海で生き延びたからでしょうか。目先だけの漁でなく、資源管理をしっかりしながらの漁獲を期待したいものです。』とあった。如何にも、がっちりした褐色の、上手そうな生体写真もあるので、見られたい。

 

■「靑森縣川內村《かはうちむら》産」

[やぶちゃん注:「靑森縣川內村」正確には、旧青森県三戸郡(さんのへぐん)切谷内村(きりやないむら)。旧村名では、現在の三戸郡五戸町(ごのへまち)切谷内(大字名)かそれに近いが、ご覧の通り、かなり内陸であり、一方の合併(明治二二(一八八九)年)して「川内村」となった上市川村(かみいちかわむら)の方が、比較的に海浜に近いので、少なくともナマコを採取していたのは、この上市川村であろうか。しかし、「ひなたGISの戦前の地図を見ると、上市川から、さらに海岸辺に当たる地域に「市川村」があり、ここが実際のナマコ漁を仕切っていたであったのであり、煎海鼠を作るのは、内陸の上市川・切谷内ででもあったものかも知れない。

 マナマコ比定。]

 

■「陸奥國西津輕郡《にしつがるのこほり》

  鯵ケ澤村《あぢがさはむら》産」

[やぶちゃん注:「陸奥國西津輕郡鯵ケ澤村」青森県西津軽郡鰺ヶ沢町(あじがさわまち)。

 塩谷亨氏の論文「青森県における魚類等の方言名について」(『北海道言語文化研究』(巻14・二〇一六年四月二十七日北海道言語研究会発行・「室蘭工業大学学術資源アーカイブ」のここでダウンロード可能・PDF)を見たところ、資料リストの中に以下のようにあった(標準和名の後の地方名の記号は、「SM」が石戸芳男著「八戸魚物語」(二〇〇八年デーリー東北新聞社刊)、「HM」が東北農政局青森統計情報事務所編「青森県さかな方言名」(一九九一年同事務所刊)、「HS」が 日下部元慰智(もといち)著「青森県さかな博物誌」(一九八八年東奥日報社刊)、「TN」が工藤祐著「津軽と南部の方言 青森県の文化シリーズ15」一九七九年北方新社刊にリストされている方言名を意味すると冒頭にあった。また、半濁音(「゜」)は、「津軽と南部の方言」『ではカ行に半濁点の付された表記がある。これについてはおそらく鼻濁音であろうと思われる。』とあった)。

   《引用開始》

  • <ナマコの仲間>

 ➢ ナマコ: [HM なまこ、あかなまこ] [TN ナマコ゜、ハナタラシ(津軽)]

 ➢ オキナマコ: [HM おきなまこ]

 ➢ マナマコ: [HS ナマコ] [TN クロナマゴ(八戸)]

 ➢ ムラサキクロナマコ: [TN アガナマゴ・シマナマゴ(津軽)]

 ➢  フジナマコ: [TN フンジナマコ(西海岸地方・大間)、フンチコ(青森・鰺ヶ沢)]

 ➢ 不詳(ナマコの一種): [TN アカナマゴ(八戸)]

 ➢ 不詳(ナマコの一種): [TN スナナマゴ・アオナマゴ(青森周辺)]

 ➢ 不詳(ナマコの一種): [TN イシナマゴ(鰺ヶ沢)]

 ➢ 不詳(ナマコの一種): [TN オギナマゴ(鰺ヶ沢)]

   《引用終了》

因みに、単なる

◎「ナマコ」は「マナマコ」

で、

◎「オキナマコ」は(その3)で示した楯手目シカクナマコ科マナマコ属オキナマコApostichopus nigripunctatus (シノニム:Parastichopus nigripunctatus

でよいが、

「ムラサキクロナマコ」というのは、標準和名に存在しない。

ムラサキクルマナマコ(紫車海鼠)=無足目クルマナマコ科ムラサキクルマナマコ属ムラサキクルマナマコ Polycheira rufescens は存在するが、相模湾以南にしか棲息しないので、違う。別に、

ナマコ綱樹手目Dendrochirotidaスクレロダクティラ科 Sclerodactylidae ムラサキグミモドキ属ムラサキグミモドキ Afrocucumis africana がいるが、これも、房総半島南部と、紀伊半島以南にしか棲息しないので、これもアウトである。

されば、

◎方言名の「アガナマゴ」は「アカナマコ」で「アカ型」のマナマコで、

◎「シマナマゴ」は「シマナマコ」=「縞海鼠」で、即ち、背部の地色が薄桃色、又は、淡赤褐色で、赤褐色、又は、暗赤褐色の模様が「斑(まだら)」に出るところの、同じく「アカ型」のマナマコ、

或いは、逆に、既に、私が(そのⅡ)の「藤海鼠(ふじこ)」の注で推理したように、

一般に暗青緑色=藤色を呈しているマナマコの「アオ」型のマナマコなのではないか?

という見解を述べておく。

かくなれば、次の「フジナマコ」も、やはり、(そのⅡ)の「藤海鼠(ふじこ)」の注で示した、三浦三崎・小湊・白浜・淡路島・壱岐島・豊後・高知を棲息域とする

クロナマコ科クロナマコ属フジナマコ亜属 Holothuria ( Thymiosycia )  decorata  フジナマコ

ではあり得ず、前掲の私のマナマコとするしかないと、私は断言するものである。

序でなので、終わりの頃の「不詳」とされる、方言の内の「イシナマコ」であるが、これも、同名和名種があることは、ある。

クロナマコ科クロナマコ属イシナマコ亜属イシナマコ Holothuria ( Microthele ) nobilis

であるが、本邦では、沖縄諸島にしか棲息しないので、ダメである。

 迂遠な注となった。この図の個体は、無論、マナマコ比定である。

 

■「隱岐國《おきのくに》和夫郡産」

[やぶちゃん注:「和夫郡」は「知夫郡」の誤記。読みは「ちぶのこほり」。現在の知夫島を中心とした隠岐郡西ノ島町(にしのしまちょう)知夫村(ちぶむら)に当たり、島根県で唯一の「村」である。私は一度、行ったことがある。悔しいのは、腹足綱異鰓上目真後鰓目無楯(アメフラシ)亜目アメフラシ上科アメフラシ科アメフラシ属アメフラシ Aplysia kurodai を食いそこなったことだった。離島は、どこも、大好きだ! 近々、五島列島に行く予定である。遂に、念願だったハコフグが食える!!!

 頭部が捩じれているが、マナマコ比定。]

 

■「三重縣甲賀村《こうかむら》産」

[やぶちゃん注:現在の滋賀県の甲賀市ではないので注意! 三重県志摩市阿児町甲賀(あごちょうこうか:大字)である。ここだ! 甲賀との関係は当該ウィキの「歴史」を見られたい。

 前図のものよりも強く、有意に捩じれている。これは乾した際の物理的に生じたものなのかも知れないという気がしてきた。マナマコ比定。]

 

■「串海鼠(くしこ)」

[やぶちゃん注:產地も何も書かれていない。ふと、『前の二図と、三つで、ある、合わせとして、河原田氏が、配したのではないか?』という思いつきが生じた。前の二個体の製品は頭部を捩じって、紐で縛った二個体を、一本の比較的太い橫竿に跨らせて乾したのではなかったか? 而して、それらより、小型のものは、串に刺してぶら下げたのではないか?……私の――煎乾海鼠妄想――である。マナマコ比定。]

 

■「福良海村産」

[やぶちゃん注:「福良海村」これは、恐らく「福良浦村《ふくうらむら》」の誤記である。現在の淡路島の南端中央にある、福良港を擁する兵庫県南あわじ市福良(ふくら)である。当該ウィキに、明治二二(一八八九)年四月一日に、『町村制の施行により、近世以来の福良浦が単独で自治体を形成して三原郡福良町が発足』しているとあることから、この繁盛がよく判る。しかも、『福良港や鳴門海峡で釣れる魚種は、鳴門鯛』(スズキ目スズキ亜目タイ科マダイ亜科マダイ属マダイ Pagrus major のブランド名)『をはじめとしてアオリ、カレイ、アジ、キス、サバ、タチウオ、サヨリ、ハマチ、スズキ、チヌ、メバルなどである』とある。食われるマナマコも、これまた、繁殖しているに違いない。]

 

■「伊勢木谷村《いせきだに》産」

[やぶちゃん注:「伊勢木谷村」現在の三重県度会郡南伊勢町(いせちょう)木谷(きだに)。マナマコ比定。]

 

■「天比國増毛郡《ましけのこほり》増毛村産」

[やぶちゃん注:「天比國増毛郡増毛村」「天比國」は、どうしたら、こんな誤記が出来てしまうのか、甚だ、不思議だが、「天塩國《しほのくに》」(今までは「天」と書くことが多かった)の誤りである。現在の北海道増毛郡増毛町である。

 マナマコ比定。]

 

■「山口縣大島郡《おほしまぐん》産」

 「背」

 「腹」

[やぶちゃん注:「山口縣大島郡」当該ウィキ(郡)によれば、現在は周防大島町(すおうおおしまちょう)『一町』(=屋代島(やしろじま))『で同郡を形成している。但し、明治一二(一八七九)年に『行政区画として発足した。当時の郡域は、』大島『町に柳井市の一部(平郡島)』(「へいぐんとう」と読む。ここ)『を加えた区域にあたる。なお』、『本州の神代村』(こうじろそん)『・大畠村』(おおばたけむら)『・遠崎村』(とおざきむら)『は』、『明治』九(一八七六)『年』『に大島郡から玖珂郡』(くがぐん)『へ移されていた』とあるので、本書刊行当時は、実質、屋代島及び平郡島産ということになろう。

 マナマコ比定。]

 

■「イリコ」

 「長嵜縣産」

 マナマコ比定。]

 

■「渡島國《としまのくに》

  茅部郡《かやべのこほり》

  砂原村《さはらむら》産」

 「一個量、六匁。」

[やぶちゃん注:「渡島國茅部郡砂原村」現在は、同じ茅部郡の森町(もりまち:既に述べた通り、現在の北海道で「町」を「まち」と読む唯一の町名である)と二〇〇四年に合併協定書を調印し、茅部郡森町砂原(さわら)となっている。「郵政その他、皆、「さわら」である。果して、明治十九年段階で歴史的仮名遣で正しく「さはら」と表記したことは、取り敢えず、「ひなたGIS」の戦前の地図では、駅名が、確かに「さはら」となっては、いる。しかし、ウィキの「砂原町」によれば、『町名の由来はアイヌ語の「サラキウシ」(鬼茅のある所の意)から』とあり、この「鬼茅」は、一応、「葦原」・「茅(かや)」の意味であるらしいあまいものこさんのサイト「甘藷岳山荘」の「山名考」の「砂原岳」の緻密な考証の中で意味を拾った)。私がここでの歴史的仮名遣に問題を感じるのは、アイヌ語由来であるものを、安易に漢字表記から歴史的仮名遣に無条件に変換してよいかどうかについて、甚だ疑問を感じるからである。確かに、旧近現代地名では「さはら」でも、現在は「さわら」である。しかし、本書刊行の明治十九年時点で、現地の人々、取り分け、原住民であるアイヌの方たちが、実際に現に「サワラ」と発音していたとすれば、それを「さはら」として、伝家の宝刀の如く、歴史的仮名遣表記をすること自体が、完全に無効となると、私は、考えるからである。

 マナマコ比定。]

 

■「廣島縣賀茂郡《かものこほり》産」

[やぶちゃん注:図は二個体を左右に並べている。

「廣島縣賀茂郡」当該ウィキによれば、明治一一(一八七八)『に行政区画として発足した当時の郡域は』、『広島市安芸区の一部(阿戸町)』・『呉市の一部(倉橋町・下蒲刈町各町・蒲刈町各町・豊浜町各町・豊町各町を除く阿賀南、阿賀町、阿賀北、郷原町以東)』・『東広島市の大部分(河内町各町・入野中山台・河内臨空団地・福富町各町・豊栄町各町・安芸津町木谷・高屋町小谷・高屋町造賀を除く)』・『竹原市の大部分(忠海各町・福田町・高崎町・吉名町・田万里町を除く)』とあるが、昭和三一(一九五六)年『に隣接する豊田郡との間で所属町村の入れ替えが実施されたことにより』、『郡域が大幅に変動し、広島県中南部の内陸部で構成される郡となった』とあるので、グーグル・マップ・データのこの瀬戸内海側の広い海岸地区を指すことになろう。「ひなたGIS」の戦前の地図も参照されたい。

 図は二つとも、今までの図と異なり、頭部が有意に大きい。一応、マナマコ比定としておく。]

 

■「肥前國産」

 「切斷したるもの。」

[やぶちゃん注:左右に二個体(後者はキャプション通りの製品断片)を左右に並べてある。

「肥前國」当時、既に現在の佐賀県と長崎県(厳密な旧国名に従うなら、壱岐・対馬は含まない)に相当する。

 マナマコ比定。]

 

■「筑前國産」

[やぶちゃん注:当時、既に福岡県の大部分に相当する。

 マナマコ比定。]

 

■「出雲國島村産」

[やぶちゃん注:図個体が異常である。噴門部が、左右に逆Y字に尖って出ている。後部に発生した傷で、左右に再生治癒してしまった個体か、内臓の抜き出しに失敗したものか? しかし、後者の場合は、凡そ、製品とする価値はないはずである。『この場合は、キビが悪い!』と当初は思ったが……しかし、これは、生物学的に、と言うよりも、製品としての正しい向きにしたままなのであって、清国に送った場合は、まず、上下を問題にしないと考えられる。則ち、「其二」の「第一」品等である双頭のマナマコと同じであって、問題なかろうと思うに至った。

「出雲國島村」大問題は、コッチだッツ!!! 当時、既に島根県で、現在の出雲市島村町(しまむらちょう)で、ここであるのであるが、非常に困った! ここは御覧の通り、★汽水湖である宍道湖の――しかも西端!――★で、しかも、斐伊川が流入する河口であるからである。汽水湖のこの位置では――塩分濃度は著しく下がるのである! いやさ、そもそも、宍道湖でナマコが採れるというネット記事は存在しないし、AIも生息していないとするのである。これ以上、私には、言い添えることが出来ない。識者の御教授を、切に乞うものである。見た感じは、マナマコではあろうが……或いは、この「島村」は煎海鼠を製品化する場所に過ぎず、生体は、同島村から最も近い、西北の島根半島西部にある、出雲市十六島町(うっぷるいちょう)の十六島湾(難読名で「十六島」で「うっぷるい」と読む。私の「大和本草卷之八 草之四 黑ノリ (ウップルイノリ)」の私の注「十六島」を見られたい)辺りで捕獲したマナマコをここへ運び、処理し、宍道湖を汽船で運び、出荷したものかも知れぬ。その辺りの、当時の情報が判る方が居られれば、是非、御教授願いたい!……しかし、だ!……先般より、河原田氏は、しばしば、地名を誤っていることを考えると……「島村」は……トンデモ誤記なのかも知れぬ……と……疑い始めているのでも、ある…………

 

■「熨斗海鼠(のしこ[やぶちゃん注:原図の四文字へのルビ。])」

 「北海道產」

[やぶちゃん注:冒頭注で述べた通り、ここでは、左下方に、串二本で突き刺した五個体の製品と、軟らかい繩様の物で中央部を貫いた十二個体の図(かなり大きい)の二図が示されてある。さても、この描き方は、二箇所のキャプションを合わせて見るに、明らかに、煎海鼠の、同じ「北海道産」の、異なる二つの製品を示しているとしか思われないのである。

 まず、上方の「熨斗海鼠」であるが、

――頭部と噴門部に、恐らく、丸い竹串を突き刺した(海鼠個体は五体)ものの部分画像で、思うに、それぞれのその串を、反対方向に引っ張って、日乾ししたものであろう。その結果、中央部が伸びて、細くなっているのである――

 なかなか、面白い図である。思うに、製品名のそれは、所謂、狭義の左右三角に尖った三つの出っ張りからなる「熨斗」ではなく、

熨斗の中央の「水引」の形に擬えたもの

と思われる。

 残念ながら、この図と同様の煎海鼠製品は、ネット上では、見当たらなかった。

 

……余談であるが、それを探すために多数のサイト(国立国会図書館デジタルコレクションを含む)・ブログを多様なフレーズ検索していた途中……『!?!?!!!』……明らかに、私が、サイト版やブログ版で電子化した複数の画像や原文、私の注記内容を――そのマンマ――流用しているものを見つけて、アいたナマコ口が閉まらなくなった。画像を検証したところ、私がトリミングしたものと、一ミリも違わない全く同じものであり、抄文原文も、私が神経症的に振ったオリジナルの句読点も! これまた! 全く以って――おんなじ――なのだ! しかし、私のものを使用したとする注記は、これ、どこにも、ないのである! 敢えて、どのブログかは、示さない。ブログ主のオリジナルな訳(ミスタイプが目立つ現代語訳や御意見は、まあ、そこそこに読めるシロモノだが――キサマの偸盗部分は! 生涯! 許さねえゼエッツ!!! 覚えトケ! クソ馬鹿野郎!!!……

 

閑話休題。下方の、編んだ縄(かなり細いが、編んであるのは、拡大すると斜めの筋が描かれているので、判る)一本で煎海鼠の中央部を貫いたもの(製品個体は全部で十二個で、大きさは、前の「熨斗海鼠」のように同じ大きさではない)である。

 これも、幾つかのフレーズ画像検索をしたが、見当らなかった。

 前の図とともに、御存知の方があれば、お教え下さると、恩幸、これに過ぎたるはない。

 これは、産地から、マナマコ比定である。]

2025/11/02

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注への独立記事注追加/明治期の煎海鼠の製造法に就いて

[やぶちゃん注:図注をやっている最中、ふと、気になることがあった。それは、

『ナマコの本書当時の「煎海鼠」の製造法は、実際には、如何なるものであったのか?』

という個人的な素朴な疑問であった。恐らく、現代の工程は、ネットのどこかで紹介されてあろうかとは思うのだが、私の希望は、明治期のそれをこそ、知りたいと感じたのである。そこで調べたところ、「昆布の說」で引用した国立国会図書館デジタルコレクションの「帝國水產書敎師用」(興文社編輯所編・明治三八(一九〇五)年興文社刊)の「第二十二課 海參」に、明治後期の内容ではあるが、判り易い解説があるのを見つけた(保護期間満了)。当初は、既に電子化した記事の中に追加しようと思ったが、それでは、数少ない何時も順番に読んで下さっている読者に不親切であろうと感じた。図版注にハマまっている最中ではあるが、ここは、一発、独立記事で示すこととした。当初、画像で取り込み、PDFに変換して活字化を試みたが、原本が古く、私の古いアプリでは、汚損した活字を判読することが殆んど不可能であったので、視認してタイピングすることとした。因みに、本書は「淸國輸出日本水產圖說」の十九年後のものであるが、記載には清国への販路の状況の記載もあり、非常に参考になろうとは思われる。原本の字下げ等は再現していない。無論、正字正仮名・歴史的仮名遣である。若い読者や、日本語がネイティヴでない読者のために難読で意味が判らないかと思われる箇所には割注を入れた。

 

    第二十二課 海參

 

〔目的〕海參ノ製法・功用・販路等ヲ敎フ。

〔敎材〕海參とは、海鼠を煮て乾したるものをいふ。その製法は、海鼠を捕りて潮水を滿たせる桶に入れ、脫膓管[やぶちゃん注:「だつちやうくわん」。以下の「資料」の中で解説が出る。]を肛門よりつき入れて、膓をぬき取り、內部をよく洗ひ、潮水にて煮ること一時間にして、箸にて容易に挾[やぶちゃん注:「狹」にしか見えない。誤植と断じて特異的に訂した。]むことを得るに至り、簀の上にあげて冷やし、さらに焙爐[やぶちゃん注:「ほいろ」。小学館「日本国語大辞典」を引くと、『(「ほい」は「焙」の唐宋音)木の枠(わく)や籠(かご)の底に厚手の和紙を張り、炭火を用いて遠火で茶の葉や薬草、海苔(のり)などを乾燥させる道具。ほいろう。』とある。]にかけて、一時間餘焙りたる後、また焙りて日に乾し、三回程この法をくり返して後、莚に包みて蒸し、さらに日に乾し、九分通り乾きたるを釜に入れて煮るなり。この煮水には、色付のため蓬[やぶちゃん注:「よもぎ」。]の枯葉を入るるを常とす。この後、なほ一回焙りて日に乾し、箱詰として淸國に輸出す。

海鼠は、疣の大小によりて、これを二種に分つ、その製品もまた隨って二種に分たる[やぶちゃん注:「わかたる」。]。有刺參・無刺參これなり。本土の產は、多く有刺參にして、主として北淸地方に向ひ、琉球等の產は、多く無刺參にして、主として南淸地方に向ふ。

〔資料〕海參ハ海鼠ヲ煮テ乾シタル水產製品ニシテ、煮乾品[やぶちゃん注:「にぼしひん」と読んでおく。]に屬ス。海參ノ原料ナル海鼠ハ、棘皮動物ノ一ニシテ、各地沿海ノ岩礁ニ棲息ス。

ソノ製法ハ、捕獲セル海鼠ヲ潮水ヲ充テタル[やぶちゃん注:「みてたる」。]大水槽中ニ入ル﹅時ハ、海底ニ棲息セル時ヨリ、外界ノ壓力減ズルガ故ニ、膓ノ軆外ニ脫出スルモノアレドモ、悉ク然ラザルヲ以テ、脫膓管ト稱シテ、細竹ヲ二個ニ縱割シテ、一端ヲ尖ラセタル半圓ノ溝状管ヲ海鼠ノ肛門ヨリ挿入スル時ハ、膓ハ溝中ヲ沿ウテ體外ニ出ヅ。ナホコレヲ淸淨ナラシメンガタメ、細キ針金ニ粗毛[やぶちゃん注:「そもう」。]ヲ捻リ込ミタル刷毛[やぶちゃん注:「はけ」。]ヲ肛門ヨリ通シテ口外ニ㧞[やぶちゃん注:「拔」の異体字。]キ出ダシ、體內ニ遺留セル砂オヨビ膓片ヲ除キ、淡水ニ海水ヲ少シ加ヘテ煮ルコトオヨソ一時間餘ニ及ビ箸ニテ容易ニ挾ムコトヲ得ルニ至リテ、コレヲ簀上ニ上ゲテ冷却ス。海鼠ニハ、多量ノ水分ヲ含有スルヲ以テ、ソノ水分ハ、煮熟中、釜中ニ出デ、大イニ煮液ノ量ヲ增スヲ以テ、時々コレヲ汲ミ取リ、カツ、浮上スル汚穢[やぶちゃん注:「をあい」。]ナル泡沫ヲモ抄ヒ[やぶちゃん注:「すくひ」。]取ルベシ。煮熟中、釜中ニ浮上スル海鼠ハ、體內ニ空氣ト水トヲ包有セルモノナレバ、取リ上ゲテ釘ニテ刺シ、コレヲ逸出セシメ、再ビ釜中ニ投ズベシ。冷却セルモノハ、コレヲ蒸籠[やぶちゃん注:「せいろ」。]ニ併ベ、焙爐ニ懸ケ、炭火ニテ一時間程焙乾[やぶちゃん注:「ばいかん」。]シタル後、日乾[やぶちゃん注:「ひぼし」。]シ、翌日マタ焙リテ日乾シ、カクノ如クスルコト三四回ニ及ベバ、上皮ヤ﹅硬固[やぶちゃん注:「かうご」。]トナルヲ以テ、莚ニ包ミテコレヲ罨蒸[やぶちゃん注:「あんじやう」。寝かせること。乾燥度合の均一化を図るために行う。一般には、コンブの結束処理の前処理の工程として知られる専門用語である。]ス。然ル時ハ、內部ノ水分漸クニ體外ニ出デ、內外ノ乾濕平均ス。ヨリテ更ニ日乾シ、九分通リ乾キタル時、マタ釜中ニ投ジテ煮熟ス。コレハオモニ染色ノ目的ニ出ヅルヲ以テ、コノ煮水ニハ、淡水一斗ニ乾蓬葉[やぶちゃん注:「ほしよもぎば」。]五十匁ノ割合ニ入レ、オヨソ四十分間コレヲ煮、ソノ液中ニ海鼠ヲ投ジテ、四五十分間煮ルモノトス。然ル時ハ、海鼠ハ、黑紫色ノ美澤ヲ呈ス。コレヲ最初ノ如ク、一回火乾[やぶちゃん注:「日乾」でないことに注意されたい。]シテ後、日乾ヲ繼續シ、全ク乾燥スルニ至リテ箱詰トナス。

海鼠製造上注意スベキ要點ハ、(一)脫膓ニ注意シ、腹中ニ砂ヲ止メザル樣ニセザレバ、煮熟中、體ノ破裂スル憂アリ。(二)蒸籠ニ併ブルニ相接觸セシムレバ、ソノ部分糜爛スル憂アリ。(三)煮水ニ多量ノ海水ヲ投ズレバ、製品ハ、梅雨中[やぶちゃん注:「ばいうちゆう」。]、濕潤シテ黴ヲ生ジ、淡水ノミナレバ、背上ノ刺、折ル﹅憂アリ。

海鼠ハ、疣即チ背上ニ生ズル凸起[やぶちゃん注:「とつき」。]ノ大小ニヨリテ、コレヲ二種ニ分ツ。故ニソノ製品モ、マタ隨ヒテ二種ニ分タル。即チ凸起ノ大ナルモノニテ製シタヲ有刺參ト稱シ、凸起小ナルモノ、或ハナキモノヨリ製シタルヲ無刺參ト稱ス。本土ノ產ハ、多ク有刺參ニシテ、漸ク北ニ進メバ、漸ク刺大ナリ。コレ等ハ、主トシテ天津・北京等ノ北淸地方ニ販路ヲ有ス、琉球等ノ產ハ、無刺參ニシテ、主トシテ福州・厦門[やぶちゃん注:「アモイ」。ここ。]ノ南淸地方ニ販路ヲ有ス。一種ちりめんノ如キハ、南洋產ニ酷似シ、高價ヲ有ス。

[やぶちゃん注:「一種ちりめんノ如キ」というのは、(その8)の注で示した、楯手目クロナマコ科クリイロナマコ属チリメンナマコ(縮緬海鼠) Actinopyga miliaris 及び、クロナマコ科クリイロナマコ(栗色海鼠)属トゲクリイロナマコ Actinopyga echinites を指す。

海參ハ、淸國輸出重要品ノ一ニシテ、ソノ輸出額明治三十四年ハ四十三萬圓以上、明治三十五年ハ三十五萬圓以上、明治三十六年ハ四十四萬圓以上ニ達セリ。宴席ノ膳ニ供シ、式膳中ノ三等ニ位ス。淸湯海參・胡蝶海參等ハ、調理ノ名稱ニシテ、鷄・家鴨等ノ肉汁オヨビ野菜等ト混煮[やぶちゃん注:「まぜに」と訓読しておく。]シテ、食膳ニ上ス[やぶちゃん注:「じやうす」。]。

2025/11/01

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「山神悅惣髮」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。]

 

 「山神悅惣髮《やまがみ そうはつを よろこぶ》」 安倍郡藁科村《わらしなむら》にあり。傳云《つたへいふ》、

「當村に山神あり。里人《さとびと》、病《やまひ》あれば、「一生、惣髮とならん。」事を誓ひ、是を祈る。必《かならず》、愈《い》ゆ。云云。」。

 奇《き》を好める、いかなる神にや。

[やぶちゃん注:「惣髮」「總髮」に同じ。「そうがみ」が原音で、「そうがう」とも読む。月代(さかやき)を剃らずに、伸ばした髪を、後ろで束ねて結った髪型。また、後ろへ撫でつけて、垂れ下げただけで、束ねないものも言う。江戸時代には、医者・儒者・浪人・神官・山伏などが多く結った。「四方髪」「撫で附け」とも呼ぶ。

「藁科村」「ひなたGIS」の戦前の地図のここで、北西に「中藁科村」、南東に「南藁科村」が確認出来る。古くは、この広域を、かく呼んだものか。但し、この山神を祀った、奇体な言い伝えのある神社は探し得なかった。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「こもとうの靈《りやう》」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。]

 

 「こもとうの靈《りやう》」 安倍郡《あべのこほり》口仙俣村《くちせんまたむら》にあり。傳云《つたへいふ》、

「『こもとう』は、徃昔《わうじやく》、柿島村《かきしまむら》の西平と云《いふ》所に居住する武人也。某《なにがし》の爲に、夜討《やうち》せられ、當村、廣海戶に落來《おちきた》り、終《つひ》に討死す。其《その》靈《りやう》、祟《たたり》を、なす。里人《さとびと》、恐れ、祭りて、山神《やまがみ》とす、云云《うんぬん》。」。

 今、古傳《こでん》を失《しつ》す、故に、事蹟、詳《つまびらか》ならず。

 

[やぶちゃん注:「靈」は、この場合、「御霊」(ごりょう)であるから、かく、読んでおいた。

「口仙俣村」平凡社「日本歴史地名大系」に、『口仙俣村』『くちせんまたむら』とあり、『静岡県』『静岡市旧安倍郡地区口仙俣村』とし、現在の『静岡市口仙俣』とする。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。『中河内(なかごうち)川支流の仙俣川流域に位置し、南は柿島(かきしま)村枝郷』(えだごう)『上落合(かみおちあい)。戦国期には尊俣』(そんまた)『に含まれていた。領主は安西外(あんざいそと)新田と同じ』(同書で調べたところ、寛永九(一六三二)年、幕府領となり、幕末に至った、とあった。しかし、以上の話は、江戸以前であるから、領主は別。明確ではないが、以下の「柿島村」で示した国立国会図書館デジタルコレクションの資料が参考にはなろう)。『元禄郷帳では高六石余。旧高旧領取調帳では幕府領六石余・祐昌寺(涌泉寺)除地四斗余。「駿河記」では家数一七』とある。

「柿島村」口仙㑨の南方。ここ。北に口仙俣を配しておいた。但し、「駿河國新風土記」第七輯」(新庄道雄著・修訂/足立鍬太郎・昭和九(一九三四)年志豆波多會刊・ガリ版刷)では、「かきじま」と濁音になっている。しかも、「こもとう」は、そこでは、「トモトフ」(右傍線有り)となっている。そちらは、戦国時代とし(時期は『いづれの時にか有けん』と明確ではない)、もっと前後の史実的記載が詳しく書かれてあるので見られたい。

「西平」「ひなたGIS」で「柿島」の戦前の地図を見たが、同地区や周辺を見ても、見当たらない。

「廣海戶」この地名も同前で調べたが、見当たらない。読みも判らない。国立国会図書館デジタルコレクションの「湖西市史 資料編 6」(湖西市史編さん委員会編・一九八六年湖西市刊)のここ(一八一ページ下段の村方の地下文書の箇条の最後に『字廣海戶』とあったが、湖西市では、全く位置が合わないので、同名異所である。]

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