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2025/11/23

五島列島の旅(2)二日目 福江島周遊

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鬼岳(おにだけ)。両脚の人工関節三年目の連れ合いが、さくさくと、ぐんぐんと、坂を上ってゆく。背後の山がピーク。因みに、泊まったコンカナ王国の温泉は、この山の下から湧いている。私は、旅行前に捻挫をしたというツアーの女性を気遣って、一緒にゆっくりと登った。それを彼女がパチリ。なお、ウィキの「鬼岳」によれば、「おんだけ」と読むとしているが、コンカナ王国の支配人に聴いたら、「『おにだけ』です。」と答えられた。この日の現地のUターンの初老の素晴らしい博覧強記のボランティアも、「おにだけ」としか読まなかったぜ? ウィキさん……よ……

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 初回に見た井持浦(いもちうら)教会。五島市観光サイト「五島の島たび」の「井持浦教会とルルド」から引用し、少し手を加えると、『かつて、大村藩からの移住キリシタンが潜伏し、五島藩が塩造りの竈場で働せたという地区で』ある。明治三〇(一八九七)『年建立のレンガ造教会が台風で倒壊し』たため、平成一〇(一九八八)『年にコンクリート造の現教会となりました』。『当時の五島列島司牧』(しぼく:ローマカトリック教会・聖公会で、司祭が教会を管理し、信徒を指導すること。)『の責任者』でフランス人宣教師であった『ペリュー神父は』、明治二四(一八九一)『年、バチカンに』、『このルルドの洞窟が再現されたと聞き、五島の信徒に呼びかけて島内の奇岩・珍石を集め』、明治三二(一八九九)『年、日本で最初のルルドを作りました。この霊水を飲むと病が治ると言われ、日本全国の信者の聖地となっています』とある。ルルドにつおては、ウィキの「ルルドの聖母」を見られたい。連れ合いは、その水を飲んでいた。

 さて。
 明治六(一八七三)年二月二十四日の「キリスト敎禁敎」の高札が撤去され、江戸初期の禁教以来、初めてキリスト教が公認されている。この「明治維新」で近代日本が始まったとして、この禁教令廃止のタイム・ラグが、一般の日本人に十全に理解されているとは、私は思っていない。このラグの中で、五島列島の「キリシタン」は凄絶な苦しみを味わっているのである。
 ちょっとブレイクすると、私は高校時代、歴史の年数を覚えるのが大嫌いだったため、幼少より好んでいた「地理」(「地理B」=「世界地誌」までやった)と「政治・経済」を選択したため、後に郷土史研究で鎌倉史には、すっかりのめり込んだのだが、キリシタンの問題は、一般人の知識レベルであった。ところが、現地ガイドさんの話を聴いて、実は、複雑なグループが、今も、存在していることを、今更ながら、聴いて、勉強になった。私が了解した内容を以下に示す。
〇禁教令で、「ころんだ」で、正直に「棄教」した人々が、まず、いる。
〇次に、「ころんだ」として、仏教や神道の信者として見かけ上、「棄教」したように装い、それらの本邦の具体な宗教行事を、忠実にこなしながらも、実際には、キリスト教を内心で続けていた人々がいた。私たちは、それを安易に「隠れキリシタン」と呼んでいることが多いが、それは、間違いである。明治六年のキリスト教公認を受けて、カトリック教会に合流した人々は、本邦の歴史上の「元キリシタン」であり、カトリック信者である。
しかし、旧来の禁教としての「キリシタン」を秘密裡に信仰を守り続けた、いや、今もカトリックに合流せずに、禁教時代を通じて、本邦で形成された「隠れキリシタン」として独自信仰を守っている人々が、現におられるのであり、そうした人々が「隠れキリシタン」なのである。★しかも、それを親族にさえも全く表明していない文字通りの「隠れキリシタン」の方が、現に、今も、おられるのである。
この三つのグループ(最後の真正「隠れキリシタン」の最後に「★」以下で示した人々を別に分けるなら、四つのグループとも言えるように私は思われる)の信仰者たちの人生を考えた時、どの人々も、まさに、長い塗炭の苦しみを抱えてこられたのであった。

而して、キリシタンの人々にとって、この五島列島は、まさに、人の容易に達することが出来ない岬の先の洞窟に、はたまた、人跡未踏の山中や無人島に「隠れる場所」を求め得る――Gimme Shelter――であったのだった。……その場所も、後の写真に収めてある。なお、ガイドさんは、「隠れキリシタン」と言わず、「潜伏キリシタン」と述べておられたい。しかし、当時、そう言っていたとは、私は思われず、これは、現代の日本史学の規定した用語のように思われることから、かく、用いた。

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水ノ浦天主堂。同前のサイトの当該ページから同前の仕儀で引く。『水ノ浦の信徒は、五島と大村の藩の政策による』寛政九(一七九七)『年の外海(大野・牧野・神ノ浦)5人の男性と』、『その妻子の移住にはじまると伝えられています』。『1880年に最初の教会が建築されましたが、老朽化にともない、奥の土手を削って広げ、1938年、鉄川与助設計施工の木造の優美な現教会に改築されました。ロマネスク、ゴシック、和風建築が混合した白亜の美しい教会で、木造教会堂としては最大の規模を誇り、青空に尖塔がそびえる光景は絵になる美しさです。高台にはヨハネ五島(26聖人の内の五島出身者)の像や、弾圧時代の牢跡もあります』とある。なお、リンク先には、一枚、教会内の写真があるが、教会は祈りの場であり、内部写真は一箇所(次の投稿で示す「旧五輪教会」のみ)を除き、写真は一切、禁止である。

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 堂崎天主堂。「五島市 世界遺産の島 五島」の当該ページから引く。『1868年(明治元年)の久賀島(ひさかじま)牢屋の窄(さこ)殉教事件をきっかけに、奥浦地区でもキリシタンに対する拷問や捕縛、入牢などの迫害がおこなわれました』(☜明治初期の凄惨な事実は別に後に引用する)。『1873年(明治6年)、フレノー師が来島し、禁教の高札撤去後、五島で初めてのクリスマスミサが堂崎(どうざき)の浜辺で捧げられました』。『1877年(明治10年)には司祭が常駐するようになり、五島での本格的な司牧が開始されました。以後島内各地に小教区制度が整うまで、堂崎は五島キリシタン復活後の拠点としての重要な役割を果たすことになりました』。『1880年(明治13年)パリ外国宣教会マルマン師によって、堂崎に仮聖堂が建立されました。後任のペリュー師によって建て替え工事がおこなわれ、1907年(明治40年)に現在の教会が完成し、翌年1908年(明治41年)に祝別されました』。『当時の建築技術を物語る証しとして、1974年(昭和49年)4月9日、長崎県の文化財に指定されました』。『1977年(昭和52年)には、内部に堂崎天主堂キリシタン資料館が開設され、布教時代から迫害を経て復活にいたる信仰の歴史が展示されています』。『さらにこの地は宣教再開と同時期に、宣教師の指導のもとにはじまった子部屋と、その事業母体となった女部屋発祥の地でもあり、信仰に貫かれたもうひとつの歴史が刻まれています』とある。

 而して、「日本キリスト改革派 浜松教会」公式サイト内の「五島列島旅行記6(隠れキリシタンと五島列島の近現代史)」を、やや長いが、非常に重要な内容なので引用する。特に「2」を見逃さないで戴きたい。
   《引用開始》

1.五島列島の隠れキリシタンの歴史(江戸時代)

 五島列島に最初の隠れキリシタンが住み始めたのは、江戸時代末期の1800年ころでした。当時、五島列島を治めていた五島藩は度重なる飢饉や出生後生存率の低さから、人口の減少に悩まされていました。そこで、当時人口が石高に対して比較的多かった対岸の大村半島の大村藩に「五島列島に土地を分け与えるから移住しませんか?」という、今で言う「地方移住」の案内を出しました。その頃の大村藩としては人口が多すぎて耕す土地に困っていたこと、食糧不足などの問題から、3000人もの農民が移住を希望し五島列島に住み始めました。

 しかし、他の地域では出生率が低く、人口減少に悩まされているほどだったのに、なぜ大村藩だけが人口増加していたのか? それを知るためには、当時の農民・漁民の経済と慣習を理解する必要があります。当時の一般的な貧しい家庭においては、土地や食料が不足している場合、口減らしとして子供が殺されたり売られたりすることが横行していました。つまり、飢饉が訪れると大人の餓死者も出るが、その前にまず子供が殺されてしまう。(江戸時代における子殺しは、惨いことというよりは、狭い島国で争いを起こさずに大半の大人たちが文化的な生活を維持するために必要なシステムだと一般に理解されていたのではないでしょうか?)それに対し、大村藩の民衆たちは、いくら自分たちが貧しくても決して子供を殺さなかったために、人口が増えすぎるという状況になっていたそうです。その彼らの根底にあったのは、キリスト教信仰でした。彼らは隠れキリシタンだったのです。

 もちろん、信仰が他の誰かに知られれば、拷問と処刑は免れないため、隠れキリシタンは完全に信仰を隠しています。見た目や外での行動はすべて他の民衆と区別がつきません。踏み絵も踏みますし、神社や仏教行事にも参加します。しかし、その様な厳しい弾圧と迫害と監視の中にあっても、決して家の外には聞こえない様な口の中だけでもごもごと唱える様な祈りと賛美を、それもグレゴリオ暦に従ったクリスマスやイースターなどの教会歴に基づいたものを、口伝えで子供に伝えていた方々だったのです。

 五島列島への移住した人たちに与えられたのは、耕しやすく港を作りやすい土地はすでに元からの住民がいるため、山間の狭い耕しにくい土地や、波が荒く港を作りにくい、漁業に向かない海のそばばかりでした。それでも、厳しい弾圧から逃れられる、自分たちの土地が手に入る喜びから、一生懸命開墾したそうです。

 そのため、今でもわずかにある平野部は仏教徒が、住みにくい山間部や崖のような斜面、狭い峠を越えた狭い湾のそばにはクリスチャンがという風に集落が分かれていました。

 

2.キリシタン弾圧時代(明治時代最初期)

 1865年(慶応元年)に長崎浦上での信徒発見以降、五島でもキリシタンたちはは次々と信仰を表明した。しかし、キリスト教は禁教のままであったために、この信者たちは投獄され拷問に掛けられるという弾圧にあった。五島列島でも久賀島では、6坪の牢屋に約200人のキリシタンが8ヶ月も収容され、40名以上の方々が亡くなりました。

 この他にも多くの悲劇的な弾圧が長崎を中心に起こり、それらが神父たちによってヨーロッパに伝えられると、日本は各国から非難を受けるようになり、1873年(明治6年)になって、ようやく明治政府はキリスト教の禁教を解きました。

 

3.隠れキリシタンからカトリック信者となった後の歴史(明治初期~昭和)

 この時代は一言で言うと、五島列島における「会堂建築期」です。

 18732月、キリシタン禁制の高札が撤去され、信仰が黙認されることになると、澤二郎らがパリ外国宣教会フレノ神父を長崎へ迎えに行き、ついに念願の神父来島が叶います。フレノ神父の堂崎での野外ミサには、1000人を超える下五島各地のカトリック信徒が船で集まったといわれています。以降、宣教師と伝道士らの協力によって、潜伏キリシタンのカトリックへの復帰が進められていくのです。1877年からフレノ神父やマルマン神父たちは長崎から五島列島の巡回司牧に訪れます。1880年からは五島列島を2地区に分け、下五島をマルマン神父、上五島をブレル神父が担当し、常駐して巡回司牧に努めます。1888年堂崎に着任したペルー神父は、1893年から五島の主管者(司教代理)に任命され、全五島を巡回して司牧宣教に尽くします。このころから、1879年の大泊教会の仮御堂にはじまり、1880年堂崎に小聖堂(現教会は1907年建立され県指定有形文化財)、1881年には浜脇教会(現在旧五輪教会堂として1931年に移築され国指定重要文化財)、1906年江上天主堂(現教会は1918年に建立され国指定重要文化財)、上五島地区では1878年青砂ヶ浦教会(現教会は1910年に建立され国指定重要文化財)、1882年江袋教会(現教会は火災による焼損を2010年、創建時の姿に復元修復され県指定有形文化財)、1887年頭ヶ島教会(現教会は1917年に建立され国指定重要文化財)など、その他各集落に教会堂は建設されていき、潜伏キリシタンのひそかな祈りから、カトリック復帰によって、祈りが目に見えるものになっていきます。その前後で、日本は数々の戦争を経験し大変な時代ですが、教会を建造するために、生活の厳しい中でも、信者によって多くの献金が集まりました。さらに、宣教師の本国の私財や外国の信仰を同じくする方々からの善意の寄付が集まってきました。宣教師の設計や指導の下、信者の労働奉仕や鉄川与助など日本人大工の施工によって多くの教会が建てられていくのです。五島全域に現在50、下五島には21の教会があります。過疎化の進む下五島にも、かつて28の教会がありました。五島のカトリック信徒の人口は、2013年には8,995人で、五島総人口の約14%を占め、その中で五島市には3,275人と、五島市の総人口の8.3%を占めます。ちなみに日本全国でのカトリック信徒の人口割合は0.3%です。データのように五島列島は、日本の中でもカトリック信徒人口割合が最も高い地域です。このように、五島列島には、250年にも及ぶ禁教での迫害の歴史をこえ、真摯に信仰を伝え続けたキリシタンの歴史が最も深く刻まれています。現代においても真摯な信仰が伝えられ、世界で唯一無二となる歴史を刻み続けているのです。

   《引用終了》

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堂崎天主堂への道にある「りんご岩」(旅行者が勝手につけたもの)周辺を観察したが、どうも、残念なことに、五島の海浜は「磯枯れ」傾向が認められ、何らの海岸動物を見ることが出来なかった。以下は、昼食をした「高浜ビーチ」も、一見、陽光が輝いて美しいのであるが、砂浜の脇の岩礁の生物相は全く確認出来ず、漂流ゴミもひどかった。今回の旅で、これだけは、甚だ残念だった。 

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