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2025/11/15

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「產女」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。二個の脱字は底本では長方形。]

 

 「產女《うぶめ》」 安倍郡《あべのこほり》□□村□□山正信寺《しやうしんじ》にあり。傳云《つたへいふ》、

「府中より一里餘《あまり》、安倍川のさき、藁科のうしろ、產婦(うぶめ[やぶちゃん注:珍しい底本のルビ。])と云《いふ》所に、正信寺と云《いふ》梵刹《ぼんさつ》あり。

 本尊、觀音より、安產の守符《まもりふだ》を出《いだ》す。平產の後《のち》、布施袋《ふせぶくろ》に、米を入《いれ》て奉納すべし[やぶちゃん注:これは義務の意であろうが、ここは決まった予定行為の必然の意を転用して「奉納することになっている」で訳すのが、よかろう。]。

 往昔《わうじやく》、農夫某の妻、難產して死せり。其靈《れい》、赤子を抱《いだ》き來りて、住僧に謁し、

「此《この》歎苦《なんく》を濟《すく》へ。」

と乞ふ。

 和尙、諾《だく》し、諭《さと》すに、觀音妙智力(くわんのんみゃうちりき)の誓《ちかひ》を以《もつて》し、猶、本尊に祈禱する(こと)一七日《ひとなぬか》、滿願の曉《あかつき》、彼《かの》婦、成佛の形を顯《あらは》し、禮拜して曰《いはく》、

「公《こう》の引導敎化《いんだうきゃうくわ》に依《より》て、忽《たちまち》、血池《ちのいけ》の苦界《くがい》を出《いで》、安養淨土に生《うま》るゝ事を得たり。法恩《ほうおん》、いつの時にか、謝し盡《つく》さん。我《われ》、當寺の薩埵《さつた》と共に、懷姙の女子《によし》を守りて、善《よ》く、難產の愁ひなからしめん。是《これ》、此《この》報《むかい》也《なり》。」

と告《つげ》、去る。是よりして、安產の守符を出《いだ》すに、必《かならず》、驗《げん》あり。當所の名も、又、此奇事に起れり、云々。」

未だ、寺記を見ず、故に、然るや否《いなや》を知らず。按《あんず》るに、難產死婦の靈を號《なづけ》て『產女(うぶめ[やぶちゃん注:底本のルビ。])』と云《いふ》事、諸書に見えたり。其《その》奇談、大方《おほかた》、是と同《おなじう》して、小異あるのみ。

[やぶちゃん注:「安倍郡□□村□□山正信寺」現存する。現在の住所は静岡市葵区産女。ここ(グーグル・マップ・データ)。古いサイトはこちらにあり、その「産女観音の由来」では、

   《引用開始》

産女観音は、正式名を「産女山・正信院」といい、永禄10年[やぶちゃん注:一五六七年。]215日、奕翁傳公首座(えきおうでんこうしゅそ)[やぶちゃん注:ここ以外に詳細事績を記載するサイトはないようである。]を初代に開創された曹洞宗のお寺で、「安産」「子授け」の観音様として全国に広く知られています。

 御本尊は千手観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)で、春日仏師(かすがのぶっし)によるものだといわれており、本堂は文政3年[やぶちゃん注:一八三〇年。家斉の治世。]、黙旨賢首座(もくしけんどうしゅそ)の代に建立されたものです。

 いい伝えによりますと、平安時代の終わりか鎌倉時代の初め頃、産女の道の終わるところを亀ヶ谷(かめがや)といい、ここに小さなお寺がありました。

 しかし、あまりに奥まっていて檀家の人々のお詣りに都合が悪いということで、養子庵というところに移り、さらに、江戸時代後期、現在の地に越してきました。

 このとき、寺の名も亀谷山正信院(かめがやざんしょうしんいん)から産女山正信院(うぶめさんしょうしんいん)に新ためられたということです。

   《引用終了》

さて、この記載に従がうなら、この寺の山号が欠字となっている以上、

この寺の正式な原山号は、この過去の「龜谷山正信院(かめがやざんしやうしんじ)」とすべき

であるということになるのだが、別に、新しい公式サイトが標題に、

「産女観音(うぶめかんのん)」

としてこちらにあり、そこでは、冒頭に、

『正式名を「産女山 正信院」(うぶめさんしょうしんいん)といいます』

とあるのである。

 思うに、本文の村名と山号との欠字は、

これから語る産女に纏わる話を語る関係上から、ネタバレを避けるための意識的欠字

である

と考えるべきであろう。

 しかし、問題がある。それは、旧村名の欠字である。以上の話からすれば、

ここには、「產女」という村名以前に、別な村名があり、それが、以上の奇瑞を受けて、「產女」となったという事実があった

ということになる。

 では、「產女村」の旧村名が無くてはならない。

 しかし、ウィキの「安倍郡」を見ると、『「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配』の項には、「幕府領」として、

   *

  • ○向敷地村。牧ヶ谷村、産女新田

   *

とあるのである。この『●は村内に寺社領が、○は寺社等の除地(領主から年貢免除の特権を与えられた土地)』を意味するとある。『向敷地村。』の句点は読点の誤りと考えていいだろう。則ち、明治初年に於いては、この寺の周辺には「向敷地村」と「牧ヶ谷村」、及び、村とは公式には言えない「産女新田」(うぶめしんでん)という江戸後期の新田地区があったということになる。而して、そこが例えば、

この「産女新田」が正信院の寺領として認定されていた

と考えるのが、手っ取り早い。幕府がそのように、区分分けしていても、周辺の村人は、そこを「產女新田村」と呼称していた

であろう。

さらに考えれば、「新田」という呼称は、寺領である「產女」の地がもともと存在し、そこの山間・平地などを開拓して、「新田」を作った

と考える方が自然である。則ち、

実は、正信院寺領の地を江戸時代には村人らは「產女村」と呼称していた

と考えてよいであろう。

 翻って、グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、ここに現在の「正信院(産女観音)」があり、そのやや三百メートル強の、山裾の耕地の、やや高い位置に産女山神社が確認出来る。而して、この正信院から入る谷間の地も「産女」地区であり、そこは、狭いそこが、現在も耕地となっている。幕府の言っている「産女新田」とは、或いは、この谷間の耕地を指すのではあるまいか?

 そこで「ひなたGIS」で、この寺周辺を見ると、多くの「谷」名が散見される。先の引用でも、『いい伝えによりますと、平安時代の終わりか鎌倉時代の初め頃、産女の道の終わるところを亀ヶ谷(かめがや)といい、ここに小さなお寺がありました。』『しかし、あまりに奥まっていて檀家の人々のお詣りに都合が悪いということで、養子庵というところに移り、さらに、江戸時代後期、現在の地に越してきました。』と言っている。「ひなたGIS」では「龜ヶ谷」の名は見当たらないが、

この「產女」から南南西に延びる谷こそが、「龜ヶ谷」ではないか?

と私は推理するのである。

 さて、その「産女子安観音縁起(うぶめこやすかんのんえんぎ)」のページによれば、

   《引用開始》

永禄3年、今川義元(よしもと)が桶狭間(おけはざま)で織田信長に敗れた[やぶちゃん注:永禄三(一五六〇)年時の室町幕府将軍は足利義輝であるが、永禄八年五月十九日、三好三人衆の兵に殺されている。]後、あとを継いだ義元の子の氏真も四方から攻められ、ついに、武田晴信によって、領土を奪われ、藁科渓谷を志太郡徳山村土岐(しだぐんとくやまむらとき)の山中へと逃げてきました。

氏真に従って、ここまで落ちてきた武士に信濃の人、牧野喜藤兵衛清乗(まきのきとうべえきよのり)という者がいました。

清乗の妻もいっしょに逃げてきたのですが、ちょうど臨月で、正信院近くの「清水のど」のあたりで、急に産気づき、ひどい難産で、とうとう出産できずに亡くなってしまいました。

清乗は、手厚く妻を葬りましたが、成仏できなかったとみえ、夜な夜な、幻となって村をさまよい、「とりあげてたもれ(助産してください)」と、悲しげに頼みました。

村人は哀れに思い、「とりあげてさし上げたいと思いますが、あの世に去った人のこととて、いかにすればよいやら」といいますと、「夫のカブトのしころ(錣)の内側に、わが家に伝わる千手観音を秘めてございます。その御仏に祈ってくださればよいのです。これからは、子どもの恵まれない方、お産みになさる方は、この御仏にお祈りしてください。必ず、お守りくださいます。」といいました。

そこで、村人は、千手観音を見つけだし、さっそく、正信院に納め、清乗の妻のために祈ってやりました。

すると、清乗の妻の幻があらわれ、お礼をいい、「この村をお守りしたいと思いますので、私を山神(さんじん)として、祠(ほこら)をお建てください」といいますので、近くの「いちが谷」にお宮を建て、産女大明神としてお祭りしました。

以後、村ではお産で苦しむ者がいなくなったといいます。

後に、村の名を産女(うぶめ)、正信院の山号も通称「産女山」と呼ぶようになりました。

   《引用終了》

「產女」に就いては、私の怪奇談集その他で、多数、述べている。最も新しい『平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之六〔五〕狐產婦の幽㚑に妖たる事』で、目ぼしいそれらを総てリンクさせあるので、そちらを見られたい。

「薩埵」「菩提薩埵」の略。「菩薩」に同じい。]

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