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2025/11/28

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「壯士契亡妻」

[やぶちゃん注:底本はここから。特異的に長い。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。]

 

 「壯士契亡妻《さうし ばうさいに ちぎる》」 安倍郡府中に有り。里人《さとびと》云《いふ》、

「慶長年中、浪人成田治左衞門某《なにがし》と云《いふ》者、有り。

 夜々、亡妻の幽魂、來りて、遇す。

 諸人《しよにん》、是を怪《あやし》みしが、後《のち》、何方《いづかた》に往《ゆき》しにや、其行衞《ゆくへ》を知らず。」。

≪と≫。

 「近代武將感狀記」云《いはく》、

『慶長の頃、成田治左衞門と云者、有り。京師にて、妻を迎《むかへ》て、情意《じやうい》、殊に深かりしが、三年《みとせ》にして、妻、病《やみ》て死せり。死期《しき/しご》に臨《のぞみ》て、成田が手を執《とり》て、淚を流し、

「形は煙《けむり》ともなれ、土《つち》共《とも》なれ、魂《たましひ》は君邊《きみのべ》を立《たち》はなれじ。」

と云《いひ》けるが、死して、數日《すじつ》の後《のち》、深夜に、亡妻、來りて、成田が枕もとに居寄《ゐよ》りて、打《うち》しほれたる姿也。

 成田、信ぜず、

「死《しし》たる者の、二度《ふたたび》來《きた》るべき理《ことわり》、なし。汝は定《さだめ》て、妖魔《えうま》ならん。然《しか》れ共《ども》、妻の形なれば、斬《きる》には、忍びず。」

と云《いひ》ければ、

「今はの時、申せし詞《ことば》を忘《わすれ》させ給ふや、殿を慕ひ參《まゐ》らする魂《たましひ》の參る也。無き形は斬《きり》給ふ共《とも》、創《きず》、つかじ。」

とて、三年《みとせ》の間の契《ちぎり》、深かりし事共《ことども》、言出《いひいだ》して、泣《なき》かこち、明方近く成《なり》て、立皈《たちかへ》る。

 此《これ》より、每夜、甚雨疾風《じんうしつぷう》にも來りければ、後《のち》には、馴《なれ》て、厭心《いとふこころ》もうせ、存生《ぞんじやう》の時の如く、枕並《ならべ》て、うち語らふ。

 され共《ども》、心根《こころね》、さらに解《とき》がたくて、俄《にはか》に駿府に下《くだ》りて、是を、避《さ》く。

 翌る夜《よ》、妻、又、來りて、

「生《しやう》を隔《へだた》れども、心を隔てず、何とて、嫌ひ給ふや。」

と、執心《しふしん》、愈《いよいよ》深ければ、成田、一月《ひとつき》ばかり、斯《かく》て在《あり》しが、

『さらば、海路を隔《へだて》ん。』

と思ひ、早馬《はやむま》にて、大坂に上《のぼ》り、船に乘《のり》て、中川修理大夫《しゆりのだいぶ》秀重の城下に赴《おもむ》く。

 折節《をりふし》、順風にて、六、七日にて、下り着《つき》ぬ。未だ、三日も過《すぎ》ざるに、妻、又、來りて、

「縱《たと》ひ、千・萬里の大海なり共《とも》、思ひ人《びと》たる魂《たましひ》の通《かよ》はぬ方《はう》は、なき物を。心盡《こころづくし》に、所、な、かへ給ひそ[やぶちゃん注:老婆心乍ら、これは、『在る「所」を、決して、「變(か)へ」なさるるな。」の意である。]。秋津洲《あきつしま》[やぶちゃん注:老婆心乍ら、日本の古名。]の中《うち》は、まだ、近し、高麗(こま[やぶちゃん注:「かうらい」では、女詞(おんなことば)としてよろしくないと判断した。])・唐土《もろこし》の果《はて》までも、殿《との》の住《すみ》給はん方《かた》に參るべし。」

と云《いふ》。

 成田、力に及ばず、茲《ここ》に一兩年[やぶちゃん注:「一~二年」の意。]を送れり。

 成田、生資《せいし》[やぶちゃん注:私は使ったことはない熟語だが、「禀性」「気性」の謂いであろう。所謂、「『生』まれつき、人に備わっている『資』質の意。]、愛敬《あいぎやう》[やぶちゃん注:「親愛と尊敬の念を持つこと・人から愛され敬われること」。時代的には「あいきやう」と読んでもよい。]有る者にて、相親《あひしたし》む人、多かりしが、成田、夜話《やわ/よばなし》[やぶちゃん注:私の後注に「近代武將感狀記」の太字部分を見られたい。]を好《このま》ず。强《しひ》て止《とどむ》れば、止《とどま》りながら、亥《ゐ》の時になれば、睡入《ねぶりいり》て、何事も覺《おぼえ》ぬ躰《てい》也。其故《そのゆゑ》を問へ共《ども》、笑《わらひ》て言はず。成田、閨中《ねやうち》に入れば[やぶちゃん注:この場合は、夜の勤番の休息所を指す。]、

「誰共《たれとも》なく、さヽやく聲、外に聞ゆ。」

など云《いふ》者、有れば、大《おほき》に是を怪《あやし》みて、毛利內膳・舟橋半左衞門・石田半右衞門・尾關源右衞門・村井津右衞門《つゑもん》、五人、云合《いひあは》せて、日暮《ひぐれ》より、成田が宅に行く。

 出合《いであい》て、例の如く、早く夜食を出《いだ》す。

 五士、

「今夜《こんや》、此に來《きた》る事は、常々、貴殿に不審する事を見屆《みとど》む爲《ため》也。明《あく》る共《とも》、歸るべからず。」[やぶちゃん注:最後の部分は、全員の意志の強固なことを誇張した謂い。]

と云へば、成田、其座に居《ゐ》たるが、夜《よ》の更行《ふけゆく》に隨ひて、睡り入るを、推動《おしうご》かせば、驚《おどろき》しが、後《のち》に、橫に臥《ふし》て、鼻息ばかりは有《あり》ながら、死人《しびと》の如く、小袖を引被《ひきかづ》けて、傍《かたはら》に置き、五士、相向《あひむかひ》て座せり。

 夜半過《すぐ》る比《ころ》、身の毛、立《たち》ふるひ、わなヽきて齒も合はず、互《たがひ》に拳《こぶし》を握り、膝《ひざ》に當《あ》て、目と目を見合《みあは》すれ共《ども》、相手なければ、

「こは、いかに。」

と云《いふ》計《ばか》り也。

 半時《はんとき》程、有りて、漸《やうや》く、胴《どう》も、をさまりけるに、外《そと》より、障子を明《あく》る音、有り。

 是を見れば、十七、八には過ぎじと見ゆる女《をんな》の、色、白く、髮、長きが、閨《ねや》の中に步み入《いる》。

 舟橋・石田、後《あと》に付《つき》て、走り入《いり》て、先《まづ》、戶を閉《とぢ》る。

 毛利・尾關・村井、燈《ともし》を持《もつ》て、つヾら・挾箱《はさみばこ》のくまぐま、搜《さぐ》り求《もとむ》るに、衣服・器物《きぶつ》の外は、何も、なし。

 五士、

「さらば、是迄《これまで》ぞ。」

とて、各《おのおの》、家に歸れば、已に鷄鳴《けいめい》に至る。

 明旦《みやうたん》、五士共《とも》に、成田を訪《おとなひ》て、見る所を語り、

「今は、廋《かく》されぞ。其故《そのゆゑ》を聞《きか》ばや。」[やぶちゃん注:「廋」は音「シウ(シュウ)・ソウ・シユ(シュ)・ソウ・ス」(括弧は現代仮名遣)で、「隠す」の意である。表現が、やや文法的に問題があるが、意味としては、「今となっては、隠すことは出来んぞ!」の強意を含んだ不可能・禁止・命令のニュアンスは判る。]

と云へば、成田、亡妻の事を、始終、具《つぶさ》に語る。

「亡妻、『其《その》事を洩《もら》さヾれ。もらさば、命を縮む。』と申せしが、『さも、あらん。』と覺ゆ。我、死なば、日來《ひごろ》の好《よし》みを思出《おもひい》で、愍《あはれ》まれよ。」

と云《いふ》。

「深く弱き心よりこそ、亡魂《ばうこん》も見入《みいれ》けれ。嚴《げん》に、思ひ、絕ちなば、何事か、あらん。」[やぶちゃん注:この台詞は、五士らの、叱咤を含めつつ、成田への希望的慰藉(いしゃ)に他ならない。シチュエーションからは、五士が、代わる代わる、発したものを、一つに纏めたもの、と、とるべきものである。]

とて、歸りけり。

 其夜《そのよ》より後《のち》、妻、來らず。

 成田、忙然《ばうぜん》[やぶちゃん注:ぼんやりとするさま。]として、夢ともなく、現《うつつ》ともなくて、居《をり》たりけるが、十日計《ばかり》有りて、俄《にはか》に、死す。

 奇怪なりける事也。云云《うんぬん》。』。

 

[やぶちゃん注:「慶長年中」一五九六年から一六一五年まで。安土桃山時代と江戸時代を跨いでいる。

「浪人成田治左衞門某」不詳。

「行衞《ゆくへ》」この漢字では、歴史的仮名遣は「ゆくゑ」となるが、本来は「行方」が正し、その歴史的仮名遣は「ゆくへ」以外には、ない。近代作家たちのルビでは、二種の読みをが、混淆してはいるが、古語辞典でも立項は「行方」で「行衛」はなく、「広辞苑」・「言海」も立項は「行方」で「ゆくへ」であるから、敢えて「ゆくへ」と振った。

「近代武將感狀記」これは、「武將感狀記」である。当該ウィキによれば、『熊沢猪太郎(熊沢淡庵)によって正徳6年(1716年)に刊行された、戦国時代から江戸時代初期までの武人について著された行状記である。全10巻、250話からなる』。『『砕玉話』ともいう』。『戦国時代には戦地で功績のあった者に、主君が感状を与えるのが慣わしであった。家臣に対する賞賛を書状に認』(したた)『め』、『勲記としたり、または褒賞の目録的な意味合いをなすものでもあった。しかし、本著は実際にそうした感状の類を集成したものではなく、著者が見聞した評伝を、独自の価値判断のもとに好んで採録した逸話集である。その内容は戦国時代や安土桃山時代、かつ江戸時代初期の逸話が中心となることから、封建道徳に即した武士特有の倫理観によって評価された物語と考えられる』。『採録された逸話は必ずしも戦闘に関するものだけではない。石田三成と豊臣秀吉の出会いとして有名な「三杯の茶(三献茶)」の逸話が記されているのは本著である』。『一般的にいわれてきたこととして、著者の熊沢猪太郎は肥前国平戸藩の藩士で、諱は正興、号を淡庵、または砕玉軒ともいい、備前国岡山藩の藩士であった陽明学者の熊沢蕃山の弟子とされている。そのため本著に採録された逸話は、肥前平戸藩と備前岡山藩関係のものが、他藩のものと比較して多数を占めることも道理とされていた』、『しかし』、『東京大学史料編纂所の進士慶幹が、平戸の旧藩主・松浦家へ照会したところ、著者に該当するような人物は見当たらず、また熊沢家への問合せでも、そのような人物は先祖にいないということだった』。『これには進士も、奇怪で収拾がつかないという。結論として、現時点では著者の正体は不明と言わざるを得ない』。『逸話集という性質、並びに記事の年代と刊行年の隔たりから、史料的価値は高くないと考えられている。本著にしか採録されていない逸話もあるが、著者の出自が不明なことなどから記事の裏付けがとれず、これも信憑性に欠ける点とされている。ただ、刊行年のころの武士の価値観を推し量る材料としては有用との評価がある。小説の材料としても重宝されている』とあった。国立国会図書館デジタルコレクションの博文館文庫(「208」番)刊(昭和一六(一九三一)年刊の「武將感狀記」(博文館編輯局編)の当該話を確認したが、何らの引用上の問題はなかった。因みに、国立国会図書館デジタルコレクションの「武将感状記」(熊沢淡庵著・真鍋元之訳・一九七二年・金園社)の現代語訳版の当該話「亡霊に魅入られた成田治左衛門」を見つけたので、リンクしておく。ここからで、訳者は、二部構成にしておられ、幾つかの箇所で、真鍋氏の意訳部分がまことに好ましい(江戸以前の怪談現代訳としては、特異的に極めて上質である)。例えば、「2」の冒頭では、『夜間、灯火(ともしび)をかこんで、戦場での手柄話を語り合うのを〈夜話(よばなし)〉という。』と添えて、「夜話」の始まりの箇所も、光景が具体に表現されてある(以下の注でも紹介する)。

「心根、さらに解がたくて」真鍋氏の訳では、『うす気味わるいものが、やはりどこやら、こころの一隅(ひとすみ)に残っていたのであろう。』と絶妙な補訳となっている。

「中川修理大夫秀重」これは、安土桃山から江戸初期にかけての武将・大名であった豊後国岡藩(現在の大分県にあった藩で、藩庁は岡城で、現在の大分県竹田市(たけたし)のここ(グーグル・マップ・データ)である。領地は豊後国の直入郡・大野郡・大分郡に跨り、小藩が分立した豊後国内では石高が最大の藩であった。竹田藩とも呼ばれる)の初代藩主中川秀成(なかがわひでしげ)のことである。事績は当該ウィキを見られたい。

「毛利內膳・舟橋半左衞門・石田半右衞門・尾關源右衞門・村井津右衞門」調べれば、具体な事績が見つかる者もあろうとは思うが、本話では、一種の狂言回しの役柄であるから、調べるのはやめた。

「半時程、有りて、漸く、胴も、をさまりけるに」真鍋氏の訳では、ここで(下段八行目)、『馬脾風(ばひふう)(マラリア)のような、はげしい胴震えは、小一時つづいてやっと治(おさ)まったが、』とある。直後に、五士皆が見る怪異が起こる転回点となる胆(キモ)が示される。

「挾箱」小学館「日本国語大辞典」に、『近世、武家の公用の外出に際して必要な調度装身具を納めて従者にかつがせた箱。挟竹』(はさみだけ:物を挟むために、一端を割ってある竹を言う。)『にかわって用いられるようになった長方形の浅い箱で、ふたに棒を通してかつぐようにしたもの。』とある。]

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