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2025/11/25

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(四)乾鮑の說(その3)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。]

 

前條は往古の製法にして、又、德川時代には、隱岐・佐渡の、串鮑(くしあはび)・丸鮑(まるあはび)を上品となしたり。其後(そのご)、䀋煮鮑(しをにあはび[やぶちゃん注:ママ。])を製し創(はじめ)しは、元祿の頃にして、其方法たる、鮑肉十箇に、食䀋(しよくえん)四合を抹(まぶ)し、空鐺(からなべ)にて熬(い)り、自然に、汁(しる)、湧出(わきい)てヾ[やぶちゃん注:ママ。「でヽ」の誤刻。]、盡(つき)るを挨(ま)ちて、取り出(いだ)し、藍(かご)にならべ陰乾(かげほし)とし、二十日《はつか》を經て、これを收む。肥後熊本藩より幕府の獻じたるもの、卽ち、是なり。熨斗鮑(のしあはび)も古(いに)しへは、神饌(しんせん)に供し、又、食品となしたるものなりしが、近世に至りて、單(ひとへ)に、慶賀(よろこび)の章符(しるし)に用(もちゆ)るのみとなりたれども、此等の符(しるし)の如きは、榮螺熨斗(さヾいのし)、海茸熨斗(うみたけのし)、海蘿熨斗(しやうじんのし)等(とう)の如き、廉價のものにて事足(ことた)るを以て、今、世に貴重せらるヽ食品の鮑を用ふるに及ばざるなり。

[やぶちゃん注:「串鮑」サイト「日本の食べ物用語辞典」の「串鮑」に拠れば、『串鮑(串あわび・串アワビ・くし鮑・くし鰒・くしあわび・』『)は、鮑(あわび)を串に刺して干したもの』とあり、単に『串貝』とも表記してある。『あわびを殻から外し、二枚にそぎ切りして串に刺し天日干』(てんぴぼ)『しに』したもので、『古くからある日本の伝統的な高級保存食の一つであり、縁起物として知られる』とし、天正一〇(一五八二)年五月十五日・十六日『に織田信長が、徳川家康らを安土城に招いて饗応した際の本膳料理の二の膳や』、天正一六(一五八八)年四月『に豊臣秀吉が聚楽第に後陽成天皇を迎えて饗応した際の二日目の七献に「串あわび」が出された、という記録が残る。』とあった。

「丸鮑」小学館「日本国語大辞典」に、『(「まる」は接頭語)切ったりしないで、そのまま乾した鮑。まろあわび。』とあり、例文を『「削物者、干鰹、円鮑、干蛸」(出典:庭訓往来(1394‐1428頃)』とある引用書の成立は室町時代である。

「元祿」一六八八年から一七〇四年まで。徳川綱吉の治世。

「熨斗鮑」辞書その他を管見したが、ウィキの「熨斗」その他の中の「熨斗鮑」の記載その他の幾つかが、一番、判り易く纏まっていると判断したので以下、引用する(注記号はカットした)。『アワビは古来より不老長生の妙薬とされてきた。熨斗鮑はアワビの肉を薄く削ぎ、引き伸ばして乾燥させたものである。古くは食用に供され、後世になり三方に載せて儀式の肴とした。さらに祝意を表すために用いられるようになり、進物に添えて贈った』。『以下、伊勢神宮における熨斗鮑」の項。「三重県鳥羽市国崎町の神宮御料鰒調製所では」、『伊勢神宮に献上するため』、『古来の製法に従って熨斗鮑の調製が行われている。貝殻を外した後、熨斗刀(のしがたな)と呼ばれる半月状の包丁を使って身をむき、さらにリンゴの皮をむくように長く削いで3 - 4メートルの紐状に加工する。これを琥珀色になるまで天日干しにし、生乾きになったところで室内に移して竹筒で押しながら伸ばしていく。干し終わった後、短冊状に切り揃えて藁紐(わらひも)で束ねる。熨斗鮑は伊勢神宮で神饌とされ、伊勢神宮の御師によって御守りとともに配られていたこともある』。『国崎町の「熨斗あわびつくり」は2004年(平成16年)に三重県無形民俗文化財に指定された』(前の(その2)で示した「海士潜女神社(あまかづきめじんじゃ)」(三重県鳥羽市国崎町のここ)公式サイト内の「熨斗鰒(のしあわび)」のページの画像も参考にされたい)。以下、「熨斗の形式」の前半部。『本来は熨斗鮑を紙に包んだ包熨斗(つつみのし)で、あくまでもアワビが本体で紙が風袋であった。熨斗の部分は熨斗鮑を切った切熨斗(きりのし)か、熨斗鮑を結んだ結び熨斗とした。しかし、包熨斗は次第に風袋のほうが主となり折熨斗(折りのし)に変化した』。なお、最後の「熨斗に関するしきたり」の項の中に、『熨斗はアワビを意味していることから、本来は魚介類など動物性食品を贈るときは熨斗は用いないものとされていた。生ぐさが重複することになってしまうためで』あるとあった。これは私は、迂闊にも知らなかった。

「榮螺熨斗(さヾいのし)」「さざい」の読みは、「さざえ」の音変化とするが、小学館「日本国語大辞典」の使用例には、『*言継卿記‐天文一五年三月二〇日「予又内々へ参、ささい数十被下之」』とあるので、戦国時代には既に一般に使用していたことが判る。しかし、現行では作られていないようなので、国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、「日本水產製品誌」(農商務省水產局編纂・復刻版・一九八三年岩崎美術社刊)の「食用品 乾製品」の「第七十三 乾榮螺(ホシサヽエ)」(ルビはママ)の、ここに以下のようにあった。

   *

 (三)榮螺熨斗 長く伸して乾したるものなり。

而して上古より榮螺に鹽藏及乾製のものありしことは賦役令、延喜式等に螺の朝貢あるを見て知る可し、上古は和漢共に鮑と榮螺とは兩立の佳肴たりしに六七十年以來世人知らず識らず之を賤む[やぶちゃん注:「いやしむ」。]に至り、價甚た[やぶちゃん注:ママ。]廉にして或は漁夫の飯米代に足らざるに至れり、然れどもよく乾製するときは其利少々ならざるなり。

   *

「海茸熨斗(うみたけのし)」これは、

斧足綱異靱帯亜綱オオノガイ目ニオガイ上科ニオガイ科ニオガイ亜科ニオガイ属ニオガイ(ウミタケ)亜属ウミタケ Barnea ( Umitakea )  dilatata

である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの、「歴史・ことわざ・雑学など」に『熨斗 岡山県の児島湾では熨斗はウミタケで作っていた。『児島湾』(同前峰雄 岡山文庫)』とあった。まず、水管部を乾して熨斗にしていたものと判断される。国立国会図書館デジタルコレクションで検索したところ、「明治前期産業発達史資料:勧業博覧会資料」百二十二(一九七四年明治文献資料刊行会刊)のここの「熨斗」の項に、熨斗の製法を語る下りの最後に、熨斗の現代化による変化が語られ、

   *

故ニ他ノ必要ナラサル者ヨリ之ヲ製スルハ蓋經濟上ノ得策ト謂フ可シ卽チ岡山縣ノ海茸熨斗ノ如キハ能ク此趣旨ニ適合セリ元來海茸ハ地方ノ需用ニ供ス可キ者ニ非ス之ヲ熨斗ニ製スルハ亦利用ノ一端なり仍テ其解說ヲ擧ケテ參考トス

   *

この記載は明治二三(一八九〇)年のものである。過渡期の見解として、興味深いではないか!

「海蘿熨斗(しやうじんのし)」いろいろと調べてみたが、これは、私の推定結論として、

河原田氏の誤認

と思っている。

 まず、「海蘿」であるが、これは、私が、殊の外、好きで、常に味噌汁に欠かさず入れる、

紅色植物門紅藻綱スギノリ目フノリ科フノリ属 Gloiopeltis のフノリ類(フノリという和名種はいないので注意)である。私は、二〇一八年に公開した「大和本草卷之八 草之四 海蘿(フノリ)」で、

『本邦産種は、

ハナフノリ Gloiopeltis complanata

フクロフノリ Gloiopeltis furcata

マフノリ Gloiopeltis tenax

であるが、食用に供されるのは後者のフクロフノリ・マフノリの二種である。』

と述べたのだが、今回、ネット上を調べ直してみたところ、いつもお世話になっている鈴木雅大氏の「生きもの好きの語る自然誌」の「 Gloiopeltis frutex で、

   《引用開始》

分類に関するメモ:Yang & Kim (2018) が韓国済州島で記載した種類です。Hanyuda et al. (2020) は長崎県と鹿児島県で採集されたGloiopeltis frutexの塩基配列データを公開しました。配列データのみで標本や形態に関する情報はありませんが,日本新産と考えられます。九州地方でハナフノリ(Gcomplanataと同定されている種の一部あるいは全てがGfrutexである可能性が考えられます。

   《引用終了》

と述べられた上で、下方で、『押し葉標本(採集地:鹿児島県 薩摩川内市 西方;採集日:202531日)』の画像を添えられて、さらに、

   《引用開始》

鹿児島県川内市で確認したGloiopeltis furtexです。Gloiopeltis furtexは,ハナフノリ(Gcomplanataに酷似していますが,体の大きさや三叉分枝すること,皮層の細胞層数などに違いがあるとされています(Yang & Kim 2018)。恥ずかしながら著者は,ハナフノリよりも体が小さいということ以外に違いを見つけられず,遺伝子解析によって同定しました。遺伝子解析が最も確実と考えられますが,今のところ,Gfurtexとハナフノリが同所的に生育する例は知られていないので,生育地によって区別出来るのではないかと思います。これまでの記録により,九州地方西岸で報告されてきたハナフノリは,Gfurtexであると考えられます。

   《引用終了》

と記されていた。このことから、現行では和名がない「BISMaL」のここの『フノリ属』を見よ。同サイトで、この学名で検索しても、エラーとなる)、

 Gloiopeltis furtex

を追加する必要があると言える。実際、ウィキの「フノリ」には、和名なしで、

この、

 Gloiopeltis furtex が列挙されている

のである。但し、そのラテン語の学名のリンクを見ても、別記載ページは存在しない。

 話を戻す。

 そこで私は、国立国会図書館デジタルコレクションで、「海蘿熨斗」を分離して「海蘿」と「熨斗」のフレーズ検索をしてみた。すると、浅野建二校注の「人国記・新人国記」(岩波文庫・一九八七年刊)の「人国記 卷之上」の「伊 勢 国」のここが、引っ掛かってきたのである(右ページの最終行、「伊勢国」の記載の掉尾である)。

   《引用開始》

熨斗(のし)・海蘿(かいら)は天下に名高し。但し口伝。

   《引用終了》

この本は、「デジタル大辞泉」には、『地誌。著者・成立年未詳。2巻。室町末期の成立か。元禄14年(1701)改編本として刊行。日本各国の人情・気質を風土と関連づけて論じたもの。』とある。国立国会図書館デジタルコレクションでは、ここから、浅野氏の詳細な解説があるので見られたい。

 ともかくも、以上の引用で判る通り、作者も浅野氏も「熨斗」と「海蘿」を分離して、伊勢の国の名産として名が高いとし、但し、その名声は、あくまで、人々が語ってきたものに過ぎないと、やや辛口で添えてあるのであって、浅野氏の注でも、別々に――当たり前の「熨斗」と、当たり前の「海蘿」を言っているだけである。因みに、この場合の、「海蘿は天下に名高し」というのは、食用ではなかろう。ウィキの「フノリ」に(注記号はカットした。太字下線は私が附した)、『日本では古くから利用されており、『正倉院文書』(740年頃) には、万葉仮名で「布乃利 (フノリ)」が記されている。平城京出土の木簡でも「布乃利」または「赤乃利」の名で記されている。『延喜式』(927年完成) では貢納品に指定されている。『延喜式』では「鹿角菜」の漢字を用いているが、『延喜式』以外では』、『この字は』普通、『別の紅藻であるツノマタ類 (これも糊に利用された) を指し、フノリには「布乃利」、「布苔」などが使われている。また『和名類聚抄』(930) では中国名の「海蘿」を充てている』。『『和名類聚抄』の記述では食用としてはあまり好まれておらず (「味渋鹹ニシテ大冷」)、朝廷から寺院への食用としての支給も非常に少ない。一方で貢納国は多く (尾張、伊勢、紀伊、播磨、阿波)貢納価値も比較的高かったことから、食用以外の用途 (建築、工芸など) で広く利用されていたと考えられている。フノリは晒して煮溶かしたものを糊とする。これに石灰とすさ (刻んだわらや布) を加えて漆喰としていた。中国では古くからフノリを漆喰に使用しており、中国北部の渤海はフノリの産地として知られていた。フノリを用いた漆喰は飛鳥時代の頃に日本に渡来したと考えられており、高松塚古墳や法隆寺の壁画にも使われた可能性がある (高松塚古墳壁画の修復にはフノリが使われた)。その後も中世から近世にかけて、このような漆喰は建築物に広く利用されていた。またフノリの糊は絹織物や綿織物の糊つけにも広く使われていた[12][3]。他にも絹絵の下地、陶磁器の下絵の下地、さまざまな工芸品、紙の防湿、紙や皮の艶出し、丸薬、鋳型の砂を固める、水引や筆先を固める、布袋に入れて石けんの代用、洗剤、洗髪、整髪などさまざまな用途に用いられていた』。『江戸時代には広く売買され、宝暦4 (1754) には大阪に布海苔問屋 (フノリに加えてツノマタ、トサカノリ、テングサ、アラメなども取り扱っていた) が開業しているが、それ以前から広く売買されていたと考えられている。全国から集められたフノリは、大阪では西成郡伝法村、江戸では葛飾上平井村で晒フノリに処理されていた。『毛吹草』(1645) は諸国の名産品を挙げており、フノリ (海蘿) の産地として伊勢、紀伊、土佐、豊後、肥前が記されている。明治初期におけるフノリ採取地は北海道、宮城、岩手、千葉、三重、和歌山、徳島、愛媛、高知、山口、長崎、鹿児島と日本全国に及んだ。第二次世界大戦前には大阪には30軒ほどの布海苔問屋があった。しかし第二次世界大戦後には合成糊が使用されるようになり、糊としてのフノリの利用はほとんど消滅した』とある。「国人記」が『名声高し』と記す根拠は――万能な糊――としてだったに違いないのである。

 而して、私は――

河原田氏は、この「国人記」の、引用した箇所を見、『熨斗海蘿は天下に名高し』という部分を見て早合点し、「熨斗」の「海蘿は天下に名高し」と勝手に読み変えてしまい、「熨斗」に作った「海蘿」が「天下に名高し」と誤ったのだ。

と考えるのである。もし「フノリ類で製された熨斗が存在する」とおっしゃる方は、是非とも、お教え戴きたい。

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