五島列島の旅(3)三日目 海上タクシーで北上する
海上タクシー(三十五人乗りだが、ツアー貸切で添乗員含めて二十三名。老船長と、初老の(福江島の方とは別な方)、やはり優れた「巡礼ガイド」さんが同船。この船は、今年で引退するものだった)で福江港を出港した。これが、その船。以下の久賀島着船中。
久賀島の「旧五輪教会」を見る。「五島市 世界遺産の島 五島」の当該ページから引く。『旧五輪教会堂は、浜脇教会の建て替えを機に、五輪地区に譲り受けたものです』。『1881年(明治14年)に浜脇教会として久賀島の浜脇に建てられたものが、1931年(昭和6年)に現在地に移築されました。旧五輪教会堂は以後約50年間、五輪地区と蕨小島の信徒たちの信仰のよりどころでしたが、老朽化のため1985年(昭和60年)、すぐそばに五輪教会が新築され、教会の役目を終えました』。『この時点で解体の話が持ちあがりましたが“貴重な文化財として、価値ある建造物を守ろう”との関係者の熱意と地元信徒たちの協力によって解体の危機を乗り越え、当初の姿で保存されることになりました。建物は福江市(現五島市)に寄贈され、市の維持管理のもと、一般公開され』、『現在にいたっています』。『建物は創建時の形態をよく伝えていますが、移築の際には正面玄関が付加され、祭壇背後の下屋も拡張された形跡がみとめられます。木造瓦葺平屋建、窓がポインテッドアーチ型である点を除けば、外観は一見全くの和風建築です。内部は三廊式、板張りのリブ・ヴォールト天井による空間構成、ゴシック風祭壇など、本格的な教会建築様式となっています。当時の教会建築の様子を知るうえで、歴史的に貴重な建造物であり、1999年(平成11年)5月13日、国の重要文化財に指定されました』とある。直ぐ近くに、新しい聖堂がある。そのため、ここのみ、内部の撮影が許可されている。以下に示す。

また、船で、奈留島へ。同前のサイトの「江上天主堂」を引く。『江上(えがみ)天主堂の歴史は、1881年(明治14年)3月に潜伏キリシタンの4家族が洗礼を受けたことにはじまります。かれらの先祖は、江戸時代末期に大村藩領(現在の長崎市外海(そとめ)方面)から移住してきたのでした。そのころ江上地区には教会がなかったため、信徒の家でミサがおこなわれていましたが、1906年(明治39年)、現在地(奈留(なる)町大串1131)に簡素な教会が建てられました』。『本格的な教会が建築着工されたのは、1917年(大正6年)でした。当時の信徒は40戸から50戸でしたが、各地で教会建築をしていた鉄川与助に設計施工を依頼し、信徒たちはタブの木を伐りはらって敷地を造成しました。建築資金はすべて、キビナゴの地引網(じびきあみ)で得た収入などを出しあい、翌1918年(大正7年)3月に完成させました』。『江上天主堂を訪ねると、緑の木々の間からのぞく白い壁、窓がブルーの外観からは愛らしい印象を受けます。建物の構造は、湿気を避けるために床を高くし、柱には手描きの木目模様、窓には花を描いた透明ガラスを工夫していることなどが特徴です。内部は本格的な立面構成の三廊式になっており、リブ・ヴォールト天井(蝙蝠(こうもり)天井)の美しい曲線が、人々の祈りの空間をあたたかく包んでいます』。『この教会は、わが国における木造の教会のうち、完成度の高い作品として歴史的価値に優れ、小規模ながら教会建築の名工鉄川与助の代表作としても重要であり、2008年(平成20年)6月9日、国の重要文化財に指定されました』とある。まさに、可愛い、ほっとする素敵な教会だった。写真は、逆光で、暗いが、リンク先の写真を見られたい。

私は、昔日の職人たちが移築再築したこの教会に、甚だ感動した。
奥の新聖堂を訪ねたら、門柱の上に猫がいた。
この子は、片眼が不自由だった。今、私のブログが爆当たりしている小泉八雲にあやかって、「ヘルンちゃん」と勝手に名付けた。小泉八雲はキリスト教嫌いだったが。
また、船で、奈留島へ。同前のサイトの「江上天主堂」を引く。『江上(えがみ)天主堂の歴史は、1881年(明治14年)3月に潜伏キリシタンの4家族が洗礼を受けたことにはじまります。かれらの先祖は、江戸時代末期に大村藩領(現在の長崎市外海(そとめ)方面)から移住してきたのでした。そのころ江上地区には教会がなかったため、信徒の家でミサがおこなわれていましたが、1906年(明治39年)、現在地(奈留(なる)町大串1131)に簡素な教会が建てられました』。『本格的な教会が建築着工されたのは、1917年(大正6年)でした。当時の信徒は40戸から50戸でしたが、各地で教会建築をしていた鉄川与助に設計施工を依頼し、信徒たちはタブの木を伐りはらって敷地を造成しました。建築資金はすべて、キビナゴの地引網(じびきあみ)で得た収入などを出しあい、翌1918年(大正7年)3月に完成させました』。『江上天主堂を訪ねると、緑の木々の間からのぞく白い壁、窓がブルーの外観からは愛らしい印象を受けます。建物の構造は、湿気を避けるために床を高くし、柱には手描きの木目模様、窓には花を描いた透明ガラスを工夫していることなどが特徴です。内部は本格的な立面構成の三廊式になっており、リブ・ヴォールト天井(蝙蝠(こうもり)天井)の美しい曲線が、人々の祈りの空間をあたたかく包んでいます』。『この教会は、わが国における木造の教会のうち、完成度の高い作品として歴史的価値に優れ、小規模ながら教会建築の名工鉄川与助の代表作としても重要であり、2008年(平成20年)6月9日、国の重要文化財に指定されました』とある。まさに、可愛い、ほっとする素敵な教会だった。写真は、逆光で、暗いが、リンク先の写真を見られたい。
船旅が続く。舅賀島千畳敷(しゅうとがしませんじょうじき)を経て、若松島のキリシタン洞窟へ。
「長崎しま旅行こう」の「キリシタン洞窟」を引く。『この洞窟は、潜伏キリシタンの信仰と弾圧の歴史を今に伝える重要な場所です。幕末から明治初期、長崎各地でキリシタン弾圧が起きていました。明治元年(1868年)、「五島崩れ」と呼ばれる弾圧の際、3家族12人が迫害を逃れてこの洞窟に身を隠しました。若松港から船で10分の場所にあるこの洞窟は、奥行き50m、高さ5m、幅5mの十字型。海岸からは入口が見えず、絶好の隠れ場所でした。しかし、ある朝の炊事の煙が漁船に発見され、彼らは捕らえられ』、『厳しい拷問を受けることになりました。この悲しい出来事は、禁教令が解かれる直前に起こりました。昭和42年(1967年)、苦しみに耐え』、『信仰を守り抜いた先人たちをしのび、その悲しみを長く祈念するため、洞窟の入口には高さ4mの十字架と3.6mのキリスト像が建てられました。現在も毎年11月には、土井ノ浦教会の信者を中心に約100名が集まり、ミサを捧げています』とある。「こんな所に……」と……私は絶句し、暗澹たる気持ちになった……。
さても、ここから、郷ノ首港までの瀬戸(グーグル・マップのここだ)は、船長の許可が出たので、私は舳先に座り込んだ(他に孰れも若い男性一人・女性二人がいた)。スピードも速く、海峡の流れも合わせて、痛快爽快の二十五分だった。連れ合いは、流石に来ず、写真も、ない。残念至極!
以上の二枚は、昼食をした、ビーチの写真。既に述べた通り、まことに綺麗なんだが、砂や岩場を探索しても、全く生物の影もなかった……。
以上の二枚は、頭ヶ島(かしらがしま)天主堂。非常に重厚な荘厳であった。
これは、中ノ浦(なかのうら)教会。女性のバス・カイド(この方も優れた方だった)さんは、この湾に映る、この教会の景色を大いに喧伝された。まあ、可愛い形だけれど、それが見られれば、幸せになれる的な紹介は、もう、幸い等は、いらん、この爺イには、ピンと来なかった。教会ラッシュで、三度のイタリア旅行で感じた、くちくなった感じも、再発し始めていたのでは、あった。
この日の宿は、民宿で、若松島の「えび屋」。私どもの部屋は、幸い洋室のベッドであった(彼女は両脚人工関節であるため、和室で布団では眠れないのである)が、鬼岳で写真を見せた捻挫をした御婦人は、和室で、困った、とおっしゃっていた。
しかし、夕食は、今回のツアーでは、最も素晴らしかった。写真を掲げておく。
この日の宿は、民宿で、若松島の「えび屋」。私どもの部屋は、幸い洋室のベッドであった(彼女は両脚人工関節であるため、和室で布団では眠れないのである)が、鬼岳で写真を見せた捻挫をした御婦人は、和室で、困った、とおっしゃっていた。
しかし、夕食は、今回のツアーでは、最も素晴らしかった。写真を掲げておく。














