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2025/12/07

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「芭蕉謠の怪」・「杜若の精靈」

[やぶちゃん注:底本はここから。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。続く後者の話が、同じ出典で、しかも、属性が極めて酷似するので、特にカップリングして示すこととした。

 

 「『芭蕉《ばせう》』謠《うたひ》の怪《くわい》」 安倍郡《あべのこほり》府中御城に有り。「駿府雜談」云《いはく》、

『今は昔、駿府御城內に於て、「芭蕉」の謠を停止《ちやうじ》す。其《その》權輿《けんよ》[やぶちゃん注:「權」は「秤(はかり)の錘(おもり)」、「輿」は「車の底の部分」の意で、どちらも最初に作る部位であるところから、「物事の始まり・事の起こり・発端」の意。]を尋《たづぬ》るに、國主今川義元、織田信長公と、國を爭ひ、

「尾州鳴海《なるみ》に出張すべし。」

とて、軍兵の列を糺《ただ》す。

 此時、義元、道途《だうと》に「芭蕉」のくせを謠はる。

 近習《きんじゆう》の士、松田左膳、是を聞き、

「御出陣の門出《かどで》に、『身は古寺の軒の草』とは、忌《いま》はしき文句也。御止《おや》め候《さふらひ》て、愛度《めでたく》、御出陣、あれかし。」

と申す。

 義元、怒《いかり》て、

「それ、勝敗は、時の運也。何ぞ、謠の吉凶に、よらん。汝、無用の舌を動《うごか》して、人情を折《くじ》く。不忠の甚しき者也。」

と、只《ただ》、一刀に斬殺《きりころ》し、

「必《かならず》、信長をして、汝が如く、なすべし。」

と云つヽ、氣色《けしき》ばふて、出陣す。

 時に此戰《いくさ》、大《おほい》に利あり。

 義元、心、驕《おご》り、諸軍《しよぐん》に向《むかひ》て、

「先《さき》に、左膳、兵《つはもの》の英氣を折《くじ》く。我《われ》、是を殺して、信長に譬《たと》へ、其勢ひを以て、出陣す。故に、只《ただ》、氣强《きづよ》く戰ひ、大《おほい》に勝《かち》を得たり。惜《をしむ》らくは、今日《こんにち》、信長が首を、見ざる事を。」

と云《いふ》時、不思議哉《や》、空中に、聲、有りて、

「よしや 思へば 定めなき 世は芭蕉葉《ばせふば》の 夢のうち」

と大音《だいおん》に謠ひ、

「見よ、今に、思ひ知らせむ。」

と云《いふ》かと思へば、

――忽《たちまち》、天、かき曇り、俄然《がぜん》として、大風《おほかぜ》、起《おこ》り、砂石《させき》を飛《とば》し、古木《こぼく》、折り、降る雨、篠《しの》を衝《つく》が如く、雷電《らいでん》、大《おほい》に、はためき渡りて、恐怖せざる者、なし。……

義元、戰《いくさ》を止《とど》め、甲冑《かつちゆう》を脫ぎ、幕《まく》をたれて、酒宴す。

 信長公、

「時分は、よし。」

と、本陣に突入《つきいり》、義元を、討《うつ》とる。

「是、偏《ひとへ》に、左膳が靈《りやう》の所爲《しよゐ》也。」

と沙汰せり。

 或《あつひ》は、

「『芭蕉』を謠へば、左膳が亡魂、顯《あらは》る。」

など流說《りうせつ》して、終《つひ》に、

「謠《うた》はざる事。」

と、なりぬ。

 元和《げんな》の末《すゑ》、中將賴宣卿、在城の時、

「今は、御代《みよ》も替《かはり》たれば、芭蕉の謠も、忌《いむ》べきに非《あら》ず。」

とて、初《はじめ》て、此能、有りけるに、其年、紀州へ、國替《くにがへ》あり。

 是より、大納言忠長卿の領《りやう》と成り、在城の時、此《この》能を催《もよふ》されしに、其年、謂《いはれ》、有りて、御番城と成る。

 是より、彌《いよいよ》、此謠を停止す、と。

 此事《このこと》、町奉行久松忠次郞某《なにがし》、組同心《くみどうしん》坂本元右衞門某と云《いふ》者、語りき。云云《うんぬん》。』。

[やぶちゃん注:本話の主人公今川義元が、織田信長に討たれたのは、「桶狭間(おけはざま)の戦い」で、義元は、永禄三(一五六〇)年五月、那古野城《なごやじやう》を目指し、駿河・遠江・三河の二万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始した。織田方に身動きを封じられた大高城(おおだかじょう:現在の名古屋市緑区大高にあった。ここ。グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)を救うべく、大高周辺の織田方の諸々の砦(とりで)を松平元康などに落とさせた。幸先良く、前哨戦に勝利した報せを受けて、沓掛城(くつかけじょう:ここ)で待機していた本隊を大高城に移動させる。ところが、その途上、桶狭間山(今川義元本陣跡碑をポイントした)で休息中、信長の攻撃を受け、松井宗信らとともに奮戦するも、織田家家臣毛利良勝に愛刀「義元左文字」と首級を奪われた。永禄三年五月十九日(ユリウス暦一五六〇年六月十二日/グレゴリオ暦換算で同年六月二十二日)で、享年四十二であった(以上はウィキの「今川義元」を参考にした)。

「駿府雜談」書誌不詳。本電子化注では、今までに出たことがない。識者の御教授を乞う。

『「芭蕉」の謠』私の「怪談登志男 八、亡魂の舞踏」、及び、『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 中川喜雲京童の序の辯 謠曲中の小釋』の、それぞれの本文とオリジナル注が、かなり参考になるはずである。

「尾州鳴海」現在の愛知県名古屋市緑区鳴海町。ここ

「松田左膳」不詳。

「元和の末、中將賴宣卿、在城の時」家康の十男であった徳川頼宣は、慶長一三(一六〇八)年に家康が駿府で大御所政治を始めると、頼宣も同所に移っている。同十六年三月に近衛権中将となる。元和二(一六一六)年、彼が十五歳の時、家康が死去、翌年に従三位権中納言となっている(この時点で公卿となる。但し、翌日に権中納言を辞退している)。同五年七月、十八歳の時、秀忠から紀伊国・伊勢国の内、計五十五万五千石への転封を命ぜられ、紀伊国和歌山藩初代藩主となり、紀州(紀伊)徳川家の祖となった。但し、元和は十年までであるから、「末」というのは謂いとしては、おかしい。

大納言忠長卿」駿河国駿府藩藩主で、第二代将軍秀忠の三男にして第三代将軍家光の弟であった徳川忠長(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三四)年)。家光の命で自害させられた。『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 草加屋安兵衞娘之事』(文宝堂発表)の私の「駿河大納言」の注を参照。その問題行動から、人格異常が疑われる人物である。当該ウィキによれば、寛永七(一六三〇)年十一月、『浅間神社付近にある賎機山』(しずはたやま:ここ)『で猿狩りを行うも、殺生を禁止されている神社付近で行なった上に、そもそも賎機山では野猿が神獣として崇められ』、『殺す事自体が禁止されており、更にこの浅間神社は祖父家康が』十四『歳の時に元服した、徳川将軍家にとっても神聖な場所であった。そのような場所で猿狩りを行うのは』、『将軍家の血を引く者といえど』も『許されない事であったが、止めるよう懇願する神主に対し、忠長は自らが駿河の領主である事と、田畑を荒らす猿を駆除するという理由で反対を押し切って狩りを続け、この一件で忠長は』千二百四十『匹もの猿を殺したとされている』。『更に』、『その帰途の際に乗っていた駕籠の担ぎ手の尻を脇差で刺し、驚いて逃げ出したところを殺害する乱行に及び、これらを聞いた家光を激怒させ、咎められている』とある。]

 

  •   *   *

 

 「『杜若《かきつばた》』の精靈《せいれい》」 安倍郡府中御城に有り。「駿府雜談」云、

『今は昔、大納言忠長卿の時、三州八《やつ》はしの杜若を取寄《とりよせ》給ひて、御庭《おには》の池に植《うゑ》させ給ふ。

 或年の彌生《やよい》下旬、雨、降り、徒然《つれづれ》なる日、花の盛りを、御覽有りて、「杜若」を謠ひ給ふ。

 をりふし、年《とし》、二八計《にはち》[やぶちゃん注:十六歲。]《ばか》りなる上﨟《じやうらう》の、いと、艷《つややか》に麗《うるは》しきが、かね黑《ぐろ》に眉《まゆ》付《つけ》て、紫の衣《ころも》、うち被き、緋の袴着《はかまぎ》、妻紅《つまべに》の扇《あふぎ》をもて、顏《かんばせ》を覆ひ、池の邊りに彳《たたずみ》たり。

『こは。見馴《みなれ》ぬ女《をんな》の、何故《なにゆゑ》に爰《ここ》には來りしやらむ。』

と、不思議に思《おぼ》し召《めし》、立出《たちいで》給ひて、

「汝《なんぢ》は何者ぞ、變化《へんげ》の者成るか、平直《へいちよく》に[やぶちゃん注:率直に。]申せ。」

と、の給へば、彼女《かのをんな》、恥かし氣《げ》にて、

「名乘るも、恐《おそれ》ある事に候へ共《ども》、吾は、是《これ》、杜若の精靈也。久敷《ひさしく》、八橋の名所に住《すまひ》して、其名、高し。然《しか》りといへ共、適《たまたま》、在五中將の唐衣《からころも》の詠《えい》より外《ほか》、亦《また》、問ふ人も候らはず。然《しか》るに、今、公の御庭に植られて、朝夕、御慈愛を蒙《かうぶ》る、身《み》に取《とり》ての面目《めんぼく》也。官位も尊《たつと》くおはします御人《ごじん》の、訪《つぶらひ》給ふ有難《ありがた》さに、是《これ》まで、顯《あらは》れ候也。『草木《さうもく》心《こころ》なし』とせず、常々の御惠《おほんめぐみ》を謝《しや》せんが爲《ため》、聊《いささか》、申上《まうしあぐ》べき事、有り。必《かならず》、捨《すて》させ給ふなよ。抑《そもそも》、公は、御性質、剛强《がうきやう》に在《ましま》して、大器《たいき》に渡らせ給へ共《ども》、平常《へいじやう》の御所行《おほんしよぎやう》、惡敷《あしき》が故に、臣、下服《かふく》し奉《たてまつ》らず、只《ただ》、君臣の威、違《たが》へるを以て、從ふのみ也。御惡行《おほんあくぎやう》、日々《ひび》に重過《ぢゆうくわ》し、臣、離れ、民《たみ》、散《さん》ずる時は、國家を亡《ほろぼ》すのみに非《あら》ず、終《つゐ》に、御身《おんみ》を失ふに至る。其《その》萌《きざし》[やぶちゃん注:この「萌」は、実は、底本では、「性」であるが、如何にも上手くない。特異的に、別本底本である「近世民間異聞怪談集成」の『萌』を採用した。]、既に至る處、既に顯《あらは》る。嗚呼《ああ》、悲《かなし》むべく、歎《なげく》べきの、甚《なはなはだ》しきに非《あら》ずや。公、今日《けふ》より、御所行を改め給はヾ、天地共《とも》に、社禝《しやしよく》[やぶちゃん注:原義は「社」は「産土神(うぶすなしん:土地神)を祭る祭壇」、「稷」は「穀物の神を祭る祭壇」の総称名。元来は、周代諸侯の祭祀であったが、秦・漢以降、天壇・地壇・宗廟等とともに、国家祭祀の中枢を担うことを指した。そこから転じて、「国家・国体」を意味するようになったもの。ここでの「国」は「駿河国」を指す。]を保ち、永く、富貴《ふうき》を御子孫に殘し給ふべし。『玆《ここ》に仁を行へば、仁、こヽに至る。』と、いへり。公、よく、是を監《かんが》み給へ。」

と、諌《いさめ》つヽ、二足《ふたあし》、三足《みあし》、行《ゆく》か、と、すれば、姿は、見えず成《なり》にけり。

 公、少しも、是を御心《みこころ》にかけ給はず、御所行、益々《ますます》、荒《あら》かりき。

 其後《そののち》、「杜若」を謠《うたは》せらるヽ每《たび》に、彼女《かのをんな》、顯れて、愁《うれふ》る色、有り。

 近習《きんじゆう》の士、是《これ》を見知り、樣々《さまざま》に、とり沙汰《ざた》して、此《この》謠《うたひ》を愼《つつし》みけり。

 果《はた》して、御事《おんこと》、ありて、御番城《ごばんじやう》となる。

 其頃、御番衆に、大久保某《なにがし》と云《いふ》人、有《あり》しが、「杜若」を謠《うたひ》けるに、彼《かの》池の內より、大音《だいおん》にて、

「植《うゑ》をきし昔の宿の杜若 色ばかりこそむかし成《なり》けり」

と謠けり。

 是より、彌《いよいよ》、

「謠はざる事。」

とす。

 其池の在《あり》し所は、今の組頭小屋《くみがしらごや》の庭也。

 近頃迄、彼《かの》杜若、殘り在《あり》て、花の時は、合番衆《あひばんしゆう》等、招請《しやうせい》ありし。

 此小屋を『杜若小屋《かきつばたごや》』など、云《いひ》けるよし。

「今は、枯《かれ》て、一本も、なし。」

と、府中兩替町《ふちゆうりやうがへちやう》の肴屋仁兵衞《さかなやにへゑ》と云《いふ》者の、語りし也。云云。

 

[やぶちゃん注:本話は、私の「譚海 卷之十二 駿河御城杜若長屋の事」の本文とオリジナル注が、大いに参考になるものと思う。

「府中兩替町」現在の葵区にある両替町通り附近。]

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