甲子夜話卷之八 31 大岡越州よく鄙事に通達せし事
8―31 大岡越州よく鄙事(ひじ)に通達せし事
[やぶちゃん注:チョー有名人が出現した。「鄙事」は、この場合、冒頭で「瑣事(さじ)」(少しばかりのこと・取るに足りないつまらないこと)と言っているように、広義の「俗事(ぞくじ)」の意。今回は、早合点で、途中で注を施してしまった……トホホ……。]
大岡越前守は名譽の町奉行なり。瑣事までも、よく、下情(げじやう)に通じ、その敏捷(びんせふ)なるを想ひやらるゝこと、あり。
一日(いちじつ)、いづれの町よりか、其店(そのたな)に、
「無商賣にて、相應に暮(くら)すものあり。」
とて、訴へ出(いで)しを、與力(よりき)、取次(とりつぎ)て申聞(まうしき)ければ、白洲(しらす)へ呼出(よびいだ)し、越州(えつしう)、出坐(しゆつざ)して、
「其方(そのはう)は、地搜(ぢさがし)か。」
と尋(たづ)ぬ。
「左候(ささふらふ)。」
と申(まうし)ければ、
「許してやれ。」
迚(とて)、坐を起(たち)ける。
[やぶちゃん注:「地搜(ぢさがし)」(読みは、東洋文庫版にあった)は、流石に、ピンとこなかった。静山は、実は、本文の終わりで説明しているのだが、各個撃破ばかり考えて、全文を読まない癖がついたのである。国立国会図書館デジタルコレクションで検索を掛けたら、幸いに、バッシ! と模範解答を見つけることが出来た。「大名小路から丸の内へ 江戸絵図が語る丸の内三〇〇年」(玉野惣次郎編著・一九九五年菱芸出版刊)の「名奉行・大岡越前守の実像」のここで、まさに本文の当該部が引用された後に、『〝地捜し〟とは、最近は見かけなくなったバタ屋の隠語である。与力さえ知らなかった言葉を、奉行の越前守が知っていて、地捜しも商売と判断したのであった。』とあった。若い諸君は「バタ屋」でもピンとこないだろうから、老婆心乍ら謂い添えておくと、「屑屋(くずや)」・廃品回収業者のことである。当該ウィキに拠れば、『別名にバタ屋、紙くず屋、ボロ屋、くず鉄屋、てん屋がある。』とあるが、「地捜し」はない。ウィキさんよ、入れといた方がいいぜ! 私は、嘗てはウィキペディアンだったが、いい加減、勝手に私が修正したものを元に戻すことが数回あって、堪忍袋がキレて、永久にオサラバしたので、やる気はネエよ!]
又、町より、
「肴賣(さかなうり)を、其(その)最寄(もより)寺院の、女犯(によぼん)の媒(なかだち)する。」
迚(とて)、訴へ出(いで)し、あり。
是も白洲にて、
「其方は、南向(みなみむき)か、北向か。」
と尋けるに、
「南向に候。」
と、答ければ、
「大目に見てやるぞ、北向ならば、許さぬぞ。」
と、言棄(いひすて)て、起(おこし)て、入りける。
[やぶちゃん注:「南向か、北向か」これもさっぱり判らなかった(同前で、静山は、終わりで説明している)。やはり、国立国会図書館デジタルコレクションで、又しても、模範解答を見出した。「人物探訪日本の歴史 7 将軍と大名」(一九八三年暁教育図書刊)の、徳永信一郎氏の「大岡忠相 裁決明断の江戸町奉行」の最後のここで、当該本文を次のように訳した上で、以下のように補足している。下線太字は私が附した。
《引用開始》
あるとき、魚売りが近所の寺院で女犯の媒介[やぶちゃん注:「なかだち」に同じ。]をしている――と訴え出たものがあった。
忠相は、寺院の住職を白洲(しらす)へ呼び出し、
「その方は南向きか北向きか」
と問い、南向きだと答えると、
「南向きなら大目に見てやる。北向きなれば許さぬぞ」
と叱りつけ席を立った。そのころ吉原のことを北向き、魚を食うことを南向きというのが僧侶の隠語(いんご)であった。忠相が下情に通じていたという一例である。
《引用終了》
私は、本文の「肴賣を」の「を」から、迂闊にも、魚売りが呼び出されて尋問されたものと読んでいたが、考えて見れば、この場合、それが事実なら、問題なのは、遙かに、その寺の住職であって(女犯(にょぼん)は浄土真宗僧以外は死罪であった)、当然、住職が召喚されるのが当然だと、横手を打ったのであった。]
後(のち)に、與力、
「何事なりや。」
と問(とひ)しかば、
「是等のことも知らで、町與力が、勤(つとま)るものか。」
と、叱り付けられ、與力も、
「膽(きも)を落(おと)せり。」[やぶちゃん注:「啞然とするばかりであった」の意。]
と、なり。
この「南向」とは、「僧の肴喰(さかなぐひ)」ことなり。「北向」とは、「女犯」のことなり、とぞ。
「地搜」とは、早天(さうてん)に、夜中、道路に落(おち)たるものを、拾ひ、賣代(うりしろ)なして、活計(くわつけい)にする名なり、とぞ。
いづれも、そのことを匿(かく)して、人に分らぬやうに云(いふ)、鄙言(ひげん)なり、と、云(いふ)。
■やぶちゃんの呟き
因みに、大岡忠相は延宝五(一六七七)年生まれで、宝暦元年十二月十九日(一七五二年二月三日)に亡くなっている。当該ウィキに拠れば、死因については、『呼吸器系・消化器系の疾患を患っていたと考えられている』とある。静山は、その死の九年後の宝暦十年一月二十日(一七六〇年三月七日)に生まれている。
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