甲子夜話卷之八 29 十八大通の事
8―29 十八大通事
寶曆の後(のち)の事かとよ。
江都に「十八大通(じふはちだいつう)」と云(いへ)る狂客(きやうかく)ありて、その「巨魁(きよくわい)」と呼(よび)しは、「杏雨(きやうう)」と號せし者なり【御藏前(おくらまへ)の札刺(ふださし)坂倉治兵衞(ぢへゑ)。後(のち)、隱居して更名(かうめい)、又、「杏翁(きやうわう)」とも云へり。】。
或時、いづ方の町か、肆店(してん)にて、口論あり。相手は、鳶(とび)の者の强氣(つよき)なりし男(をのこ)なれば、中々、諸人(しよにん)、手に合はず。
人を、はせて、杏雨に告ぐ。
杏雨、速(すみやか)に、その處に來り見れば、鳶の男は、夜叉(やしや)の如き體(てい)なるを、杏雨は、意ともせず、
「己(をの)れ、憎き奴(やつ)かな、早々、立去(たちさる)べし。」
と、云(いひ)ながら、鳶の手先を、とりて、ねぢつけたるに、さしも、剛强(がうきやう)と見へし鳶、
「あいた、あいた、」
と言(いふ)まゝに、地上に、ねぢ伏せられたり。
杏雨は、やがて、懷中より、煙管(きせる)づゝを出(いだ)し【此頃(このころ)は、裂(キレ)にて、長き烟管筒(きせるづつ)を縫ひ、上を結べる習(ならひ)なればなり。】、兩手を縛り、引(ひき)ずりて、町役人に、
「この野郞を、町外(まちそと)に連行(つれゆ)き、縛(ばく)を解(と)き、追放つべし。」
迚(とて)、還りぬ。
見(みる)者、堵(かき)の如し。
皆、駭入(さはぎいり)て、
「流石(さすが)、杏翁かな。年、既に八十に及べる老人の、かゝる夜叉を、自在にすることよ。」
とて、感歎せぬは、無(なか)りける。
後(のち)、竊(ひそか)に聞(きく)に、杏雨、告(つげ)を聞(きく)と、卽(すなはち)、其(その)口論の譯(わけ)を問(とふ)に、僅(わづか)に一星金(いつせいきい)を、借(か)れども、貸(かさ)ざるの出入(でいり)[やぶちゃん注:悶着沙汰。]なり。
因(より)て、金五片を密(ひそか)に持往(もちゆ)き、かの手を、握るとき、持添(もちそへ)て、ねぢたる[やぶちゃん注:捻じ込んでやった。]ゆゑ、一言(いちごん)に及ばず、自由にせられたり、と也(なり)。
「是(これ)ぞ、『十八大通』の所以(ゆゑん)なるべし。」
と、人、評せり。
■やぶちゃんの呟き
「寶曆」一七五一年から一七六四年まで。徳川家重・家治の治世。本書は、文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜に執筆を開始しているから、六十年ほど前の話となろう。
「十八大通」「大通」は小学館「日本国語大辞典」に拠れば、『遊里の事情や遊興の道によく通じていること。また、その人。ほんとうの通(つう)。明和年間(一七六四‐七二)に江戸に起こった語で、安永年間(一七七二‐八一)に大いに流行し、それが西にひろがり、寛政(一七八九‐一八〇一)から文化・文政(一八〇四‐三〇)にかけて上方でも流行語となった。』とあるが、この手の話は、私は興味が全くないので、ウィキの「十八大通」を見られたい。
「狂客」原義の「並外れた奇抜な行ないをする酔狂人」を含んだ「風流を愛する人」の意。
「杏雨」「坂倉治兵衞」ウィキの「十八大通」のリストの冒頭に挙がっている、号・通称『暁雨・暁翁』で、屋号は『大口屋治兵衛』、商売『札差、明和四年』(一七六一~二年)『廃業』とあるのが、彼である。前の解説に『その多くは札差であった』とある。
「御藏前」現在の台東区蔵前。
「札刺」札当該ウィキ「札差」を見よ。
「更名」雅号の改名。
「杏翁(きやうわう)」この読みは確認出来なかったので、私の推定である。
「一星金」「一分金(いちぶきん)」(金貨)の別称。一両(一千文)の四分の一。米価が安定していた宝暦頃では、一両は米換算で現在の五~六万ほどで、一万二千五百円から一万五千円ほどになるか。まあ、一般町人にとっては、それよりも、やや低めであろう。
「借れ」「貸してくんな!」で『「つけ」にしろ!』と言ったのである。
「出入」悶着沙汰。
「金五片」小判五両であろう。
「ねぢたる」手の中に捻じ込んでやった。
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