桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」の続きを昨日から公開しようと思っているのだが……
桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」の続きを昨日から公開しようと思っているのだが、文中に出る「京店」(きょうみせ)という地域の歴史的検証をするのに、非常に時間が掛かっている。私は、自分がよく判らないことがあると、とことん、やらないと気が済まないためである。今、暫く、待たれたい。
桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」の続きを昨日から公開しようと思っているのだが、文中に出る「京店」(きょうみせ)という地域の歴史的検証をするのに、非常に時間が掛かっている。私は、自分がよく判らないことがあると、とことん、やらないと気が済まないためである。今、暫く、待たれたい。
2017年の古い記事であるが、「✖」でフォローして下さっているタチアナ@TatjanaMadurezさんから、「不詳」としていた注部分の情報を昨日受け、未明に起き、やっと修正した。昨日、夕方、追記注を添えようと思ったのだが、Unicode導入以前のものであったから、全体の正字不全が気になり、さらに、引用した古文作品の句読点が、どうも気に入らず、二時間ばかりやらかし、それでも終わらず、例によって、午前二時に起きて、やっと、思う通りに、やり終えた。
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]
コツプ
すかして見ると町がある
夕日の空のにほふ小さな町
傳書鳩たちが風に飛び
風にゆられて虹もある
[やぶちゃん注:注記に、『昭和七』(一九三二)『年』八『月』三十一『日・畠山重政宛書簡に「四行詩篇」中の一つとして紹介、制作時付記「一九三七・八・一〇」を持つ。』とあるのだが、この「一九三七」というのは、どう考えてもおかしいので、底本の「立原道造全集」の「第二卷」の当該書簡を見たところ、当該部には(右丁下段)、『一九三二、八、一〇』となっていた。誤記か誤植である。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]
問 答
何しに僕は生きてゐるのかと
或る夜更けに
一本のマツチと
はなしをする
[やぶちゃん注:注記によれば、歌誌『詩歌』(十三卷第二號)の『昭和七』(一九三二)二『月号発表の口語歌の四行詩化作品』とある。調べたところ、坪井秀人氏の論文「立原道造 ―<零>の詩法―」(『名古屋大学国語国文学』二〇二三年九月発行・「名古屋大学学術機関リポジトリ」のここでダウンロード可能・PDF)で、同誌の初出形を確認出来た。二首並列なので、そのまま示す。
*
何しに僕は生きてゐるのかと或る夜更に一本のマッチと會話(はなし)をする
人々は誰も僕に觸れて來ない!遠くに夕方を歌ふ子供たちがゐて
*
まず、第一首は以上の詩とは異なる箇所がある。「夜更け」が「夜更」、「マツチ」が「マッチ」、「話」が「會話」であってルビで二字に対して「はなし」と振っている点である。第二首は、「!」は左方向に斜めとなっている。坪井氏も辛口に『いずれも彼の作歌活動のピークである昭和七年のもの。若い立原には酷だが、多かれ少なかれここに見られるような幼稚さと甘えとが彼の短歌に一貫している』と述べておられる。序でに、この二首に並べて、全くの同時期の『校友會雜誌』第三三三號・昭和七年二月掲載の一首も示す。
*
靑空は靑空だけのもの。泣いても笑つてもくれやしない。すきとほつてる
*
参考までに、この後に引かれる二首も紹介しておく。
*
行くての道、ばらばらとなり。月、そののめに、靑いばかり。
花はらはら咲いて、靑空、木の間に光つた。夏、近づいた風のにほひ
*
前者は『詩歌』の第十三卷第五號(昭和七年五月)で、後者も同雑誌の第六號(昭和七年六月)に載ったものである。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。改稿部があるので、原形をまず、示し、修正を後にする。]
【初出形】
單 語
乳母車のなかの赤ん坊
にほひあらせいとう
トランプよ 童話よ
ボン・ソアル⋯⋯⋯
入道雲が空でキスをする
【修正形】
單 語
乳母車のなかの赤ん坊
にほひあらせいとう
トランプよ 童話よ
ボン・ソアル⋯⋯⋯
入道雲がキスをする
[やぶちゃん注:「にほひあらせいとう」アブラナ目アブラナ科エゾスズシロ(エリシマム)属品種ニオイアラセイトウ(匂紫羅欄花)Erysimum × cheiri(シノニム: Erysimum cheiri )。Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「ニオイアラセイトウ 匂紫羅欄花」のページに拠れば、花期は四~七月で、高さは十五~八十センチメートル。二年草、又は、亜低木であり、『外来種』で『ギリシャ原産』とあり、『キアラセイトウともいわれるが、多数の園芸品種があり、花色は多い。花に強い芳香があるのが特徴』。『葉の毛状突起は2岐、まれに先に少数の3岐の星状毛が混じる。茎は直立、不分枝又は上部で分枝、亜低木のときは基部が木質になり』、『根生葉は2年草のときはロゼットになり、果時までに枯れ、茎葉に似る。茎葉は葉柄がある。葉身は倒卵形~倒披針形、長さ4~22㎝×幅3~12㎜、基部はくさび形~漸尖形、縁は全縁~波状縁。総状花序は果時にかなり長くなる。果時の花柄は散開状斜上~斜上し、細く、果実より狭く、長』さ『7~13㎜。咢片は長円形、長さ6~10㎜、側対の基部に袋が無く又はわずかに有る。花弁は橙色、黄色、褐色、赤色、紫色、又は白色、広倒卵形~ほぼ円形、長さ20~35㎜×幅 5~10㎜、爪部は長さ7~12㎜、先は円形。中央の花糸は長さ7~9㎜。葯は線形、長さ2.5~3.5㎜。果実は斜上、狭線形、真っすぐ、でこぼこにならず、長さ3~10㎝× 幅2~7㎜、広い隔壁がある(latiseptate)』(ラティセプテート:隔壁に平行に扁平なもの)『か円柱形、柄は無い。バルブは明瞭に中脈があり、外側に軟毛があり、毛状突起は2岐、内側は無毛。胚珠は子房に32~44個。花柱は円筒形又は類円錐形、細く、長さ0.5~4㎜、軟毛がある。柱頭は強く2裂し、裂片は幅よりかなり長い。種子は卵形、長さ2~4㎜×幅1.5~3㎜、翼は連続又は上部につく。2n=12。』とある。リンク先の花の写真を見られたい。
「ボン・ソアル」Bonsoir。フランス語で「(夕刻から寝るまでの間の挨拶である)今晩は・さようなら・お休みなさい」。]
[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁四行目から。]
〔桑原〕 先生が市內寺町の龍昌寺にある石地藏尊の彫刻に感服し、その彫刻者は當地の有名な彫刻家荒川龜齊通稱重之輔の作だということがわかり、龜齊を招請して先生がもてなされたということですがどんな風でしたか。
[やぶちゃん注:「龍昌寺」現在の松江市寺町(てらまち)にある曹洞宗の白雲山龍昌寺(りゅうしょうじ:旧富田旅館の大橋川を挟んだ対岸直近に当たる。グーグル・マップで同寺の敷地内にある「小泉八雲ゆかりの羅漢像」をポイントした)。「曹洞宗 島根県第二宗務所」公式サイト内の同寺の解説が、非常に詳しい。冒頭の足利時代から江戸時代までの経緯と、秘仏である宍道湖から出た観音像の解説は、各自でお読み頂き、ハーン関連の手前から引く。『毎月17日が観音様の功徳をたたえる観音講の日である。大正はじめから昭和はじめにかけては、観音供養が最も盛んに行われた。のぼりや五色の吹き流しがはためく境内には、近郷近在からの参拝客があふれ、沿道には露店がずらりと立ち並んだという』。『そのころ、かつて荒川亀斎に刻ませた観音木像五体を寺に置き、その木像をくじ引きで当てた講員が家に持ち帰り、向こう一年間安置し、家運の繁栄を祈った』。『ラフカディオ・ハーンが、初めてこの寺を訪れたのは、松江赴任翌月の明治23年9月28日であった。ハーンは庫裡前に立つ石地蔵に目をとめると、しばらくは立ち去ろうともしなかった』。『人の霊魂を浄土に導き、とりわけこどもには慈愛を注ぐという地蔵のいつくしみの表情が、高さ1メートルばかりの石像に、見事に刻まれていたからである』(私は、八雲はこの記憶のない母ローザ・カシマチの面影を感じていたものではないか、と思う)。『当時、松江市田町(のち白潟本町に転住)で瑪瑙(めのう)商を営んでいた長岡九右衛門が、全年8月に亡くなった娘の菩提を弔って、墓石がわりに建立したものであった』。『長岡家は代々、玉石の細工師で、亀斎が彫刻に用いる瑪瑙、水晶を調達していたので、亀斎はよく同家に出入りし、九右衛門やその子茂一郎とも親しかった』。『たまたま、地蔵が石工によって刻まれているのを知った亀斎が、「自分にやらせてくれ」と、顔の部分だけノミをふるったと伝えられている』。『この地蔵は昭和20年ごろまであったが、松江地方を襲った台風で、東部』(ママ。頭部の誤植)『が欠け落ちたので、同23、4年ごろ亀斎地蔵の写真を参考に、和田見町の石屋で刻んだのが』、『いま』、『ある地蔵である』。『初代地蔵が機縁となって、ハーンは同僚西田千太郎の案内で、横浜町の亀斎宅を訪れ、その腕前と名人気質に傾倒した。ハーンは龍昌寺にある地蔵様と同じような彫り物を期待して、亀斎に彫刻を頼み、黒柿を使って高さ30センチばかりのが出来上がったが、これはあまり気に入らなかったという』。『龍昌寺門内の道路わきに、聖者十八羅漢の石像が、不動明王石像を囲んでおかれて居る。ハーンはこの羅漢の作りにも関心して、訪れるたびに前にたたずんだという』。『昭和6年、松江を訪れた民芸運動の創始者柳宗悦も、この羅漢を見て「すばらしい出来栄えだ。なかでも二体がよく手元に置きたいくらいだ」と語っている』。『龍昌寺の過去帳に「当寺の羅漢は、天明6年(1786年)7月に建立を思い立った。しかし公儀から差し止めがかかった。石屋夫右衛門の作である」と書かれている』。『松江の石屋仲間では別に、「松江から江戸へ出て修行した石工江戸勝の作である」との言い伝えがある。夫右衛門と江戸勝が同一人であったか、どうか明らかではない』。『不動明王は霊験あらたかな仏として信仰され、不動明王が好まれるというおもちゃの刀を供えて願い事をする人が跡を絶たない』。『本堂正面の延命地蔵は名工石谷為七の作と伝えられている』とあった。なお、先の地図の左のサイド・パネルのここで、不動像の背後に羅漢像の写真を見ることができ、また、個人ブログと思われる「お寺の風景と陶芸」の「龍昌寺 (島根県松江市) 小泉八雲ゆかり」」に添えられたこの画像では、前の写真の向かって左側の羅漢像の九体を確認出来る。更に、寺の名は記されていないが、寺町と石仏の話が、私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (四)』の中に、以下のように出てくる。
*
天神町と並行に寺町が走つてゐる。この町の東側には寺院がずらりと並んでゐる――瓦を戴ける御所風の土塀で固めた表側に、一定の間隔を置いては、堂々人を驚かすやうな山門がある。この長く續いた塀の上へ高く聳えてゐるのは、立派な反(そり)を打つた、重々しい輪廓をしてゐる灰靑色の屋根である。こ〻では凡ての宗派が仲よくして隣合つてゐる――日蓮宗、眞言宗、禪宗、天台宗、それから眞宗までも。眞宗は神さまを拜ませないので、出雲ではあまり行はれない。寺の境內の後には墓地があつて、その東にまた他の寺々があり、その先きにもまたある――佛敎建築の集團が、小園細屋と交つて、廢巷斷路の迷宮をなしてゐる。
今日も寺院を訪ねたり、金の後光を負ふて金蓮華の夢中に安坐せる古い佛像を眺めたり、珍らしい御守を買つたり、墓地の彫像を調べたりして、例の通り數時間を有益に費した。墓地では來てみる價値のある、夢をみてゐるやうな觀音や、徴笑を含んだ地藏を殆どいつも發見する。
*
この「徴笑を含んだ地藏」が龍昌寺のものであることは、間違いあるまい。
「荒川龜齊通稱重之輔」(あらかわきさい 文政一〇(一八二七)年~明治三九(一九〇六)年)は、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『島根県松江市横浜町出身の彫刻家で』、『名は明生、通称は重之輔』(じゅうのすけ)。『木彫りの彫刻等が有名であるが、機械器具の発明家でもある』。『幼少期から彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家だった。彫刻だけでなく、日本画、国学、書道、金工などを幅広く身につけた。1893年』(明治二六年)の『シカゴ万博に「稲田姫像」を出品して優等賞、1900年パリ万博に「征韓図」を出品して銅牌を受賞した。1890年小泉八雲と出会い、その後も交流が長く続いた』。菩提寺である松江市新町(しんまち)の『洞光寺に葬られた』とある。寺はここで、龍昌寺の南方で、近い。また、「小泉八雲記念館」公式サイトの「企画展 八雲が愛した日本の美 彫刻家 荒川亀斎と小泉八雲」には、『荒川亀斎(初代)は1827年4月25日、松江の雑賀横浜にて木工職人荒川茂蔵の子として誕生しました。名は明生、通称名は重之輔。亀斎は幼少の頃より彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家でした』。『1890年8月に松江に赴任した小泉八雲は、散歩中に出会ったあるお寺の石地蔵に魅了されます。それは寺町の龍昌寺にある慈愛に満ちた地蔵で、八雲はすぐにその作者を尋ね、「荒川亀斎」という名を知りました。翌日、さっそく亀斎の工房を訪ねた折、その腕前と名人気質に惚れ込み、二人は美術論をかわし』、『意気投合したといいます(山陰新聞)。その後も、八雲は』、『亀斎に作品を注文し、この彫刻家を世に紹介しようと、いわゆる作家のプロデュースを買って出ます。二人の関係は、八雲の著作や親友で島根県尋常中学校の教頭西田千太郎の日記と西田宛書簡、当時の山陰新聞などで、その交流を垣間見ることができます』。『中でも、亀斎が八雲に見せた「気楽坊人形」は、作品「英語教師の日記から」(『知られぬ日本の面影』所収)に詳しく紹介されています。』(私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語敎師の日記から (十六)』を見られたい)『これを見て大変よろこんだ八雲のもとに、亀斎は「気楽坊」を模した人形を作成し贈呈しました(小泉八雲記念館蔵)。また、八雲は、1893年のシカゴ万博への出品を勧め、アドバイスもしています。この万博で「稲田姫像」(出雲大社蔵)が優等賞を獲得し、亀斎は彫刻家として不動の地位を築きました』とある。]
〔富田〕 先生が荒川さんと西田、中山の兩先生を私方の二階へ招待して日本料埋のご馳走をなさつた事がありましたが、その時に、先生は私共に向つて「日本では客座敷で御客及び亭主のすわる席次があるようだが亭主として自分はどこへすわるのが本當か」と尋ねて西田先生が「あなたは入口に近いところにおすわりなさい」といわれそこにおすわりでした。さて先生は日本流に箸を使いたいにも自由にならず、例によつて握り箸で、ちようど日本の三、四歲の子供のように子供のようにして馳走を上りましたが、その上り方がまことに妙でして初めに吸物を握り箸で片付けて椀を膳の外にやり、次ぎ次ぎのご馳走も、食べては直ぐさま皿でも椀でも膳の外に並べなさるため、後では膳の上には何物もないこととなりました。他の人々は日本流に吸物、燒物、酢の物、剌身とどれも少しづつ食べてその間に酒を飮んでお出ででありましたが、何分先生は近眼でその邊がわからず、少ししてから先生も氣がついて大笑いになつたことがありました。なおその後先生は荒川さんに高さ七寸許りの木彫の笑顏の童子を彫らせて大切にして眺めておいででした。
〔桑原〕 先生はお宿の二階八疊と二疊の二間を居間としておられたようですが、冬期の暖房方法はどうなさいましたか。
〔富田〕 先生は大の寒さ嫌いでして、松江の事はなんでもかんでも氣に入りましたが、雪の降ることはまことにお嫌いでした。私方には當時ストーブは勿論なく、先生は炬燵は嫌いでしたから、ただ數個の火鉢に取圍まれておられましたが、それでも寒氣が餘程身に浸んで困られたものと察せられました。
〔桑原〕 先生は冬期感冒に罹られたことなどはありませんでしたか。先生が一度胃膓病に罹られ、田野醫師が見舞われたと或る本にありますがほんとうですか。
[やぶちゃん注:「田野醫師」「山陰中央新報デジタル」の「さんいん偉人学」の「島根県近代医学の草分け 田野 俊貞(松江市で医院開業)」の「医学教育や衛生普及に尽力」に以下のようにある(読みが丸括弧で本文に切れ切れにあるので、必要と判断したものを一フレーズで使用し、それ以外はカットさせて頂いた)。
《引用開始》
田野俊貞(たのとしさだ)(1855~1910年)[やぶちゃん注:安政二年~明治四三年。]は、松江市で医院を開業しながら医学生の教育や公衆衛生の普及に尽力し、島根県や松江市医師会のリーダーを務めるなど「島根県近代医学の草分け」と呼ばれています。
俊貞は現在の栃木県足利市の庄屋(江戸時代の村役人)の家に生まれました。13歳の時から翻訳書で西洋医学を研究し1871(明治4)年、東京大学医学部の前身である大学東校(とうこう)に学びます。
77(同10)年、名古屋市の愛知県病院(現在の名古屋大学医学部)に勤務。ドイツ語が得意で、外国人医師の通訳も務めました。
後に外務大臣や逓信(現郵政など)大臣兼鉄道院総裁など国政で活躍し、山陰本線の開設に尽力した後藤新平が医師として勤務しており、俊貞は生涯、親交を結びます。
栃木県栃木病院長などを経て84(同17)年、島根県に採用され、島根県医学校と県松江病院(松江赤十字病院の前身)が開設されると病院長に就任します。この学校と病院は、西洋医学を学ぶ医師の養成機関でした。
しかし、県の財政難などによって松江病院が廃止されると86(同19)年に松江市苧町(おまち)[やぶちゃん注:旧富田旅館の西直近のここ。]で田野医院を開業し、間もなくして旧苧町病院の土地、建物を買い受けて医院を拡張しました。
その後、籠手田安定(こてだやすさだ)県知事の許可を受けて解剖を公開します。
1907(同40)年に松江市医師会が設立され、俊貞は副会長に選ばれました。09(同42)年に島根県医師会が設立されると、副会長に選任され島根県医学界の発展に尽くします。
また、長崎で自ら被爆しながら被爆者の治療に生涯を捧げた永井隆の父親寛(のぶる)が田野医院で修業し、医師に合格しています。隆はこの病院の一室で08(同41)年に産声をあげます。隆が被爆後も病床から手紙のやりとりをするなど、親交がありました。
文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とも親交があり、松江市の水道設置に貢献(こうけん)したスコットランド生まれの技師バルトンの招請にも努力しました。
医学界で一層の活躍が期待される中、俊貞は10(同43)年、55歳で病死します。
旧田野医院(田野家住宅)は、洋風建築の様式を兼ね備えた木造2階建て。松江市内で最古級の病院建築の遺構で、島根県の近代医学の草創期を支えました。この建物は2013(平成25)年、所有者から松江市へ寄付され14(同26)年、市有形文化財に指定されました。
《引用終了》]
〔富田〕 先生は極めて壯健なお方でして、私方におられた間に病氣をなされたことは一度もなく、衛生には餘程平常心を留めておられました。從つてお醫者のお出でたことはありません。一例を申すと外出よりご歸宿の時も、宿でお書き物のすんだ後でも、必ず手を洗い含嗽[やぶちゃん注:「うがい」。]をなさいました。
〔桑原〕 先生のお食事はどんな風でしたか。
〔富田〕 先生は朝は牛乳と數個の生卵で濟まされました。晝と晚との二食はお剌身、煮付、酢の物、燒魚等なんでもお上りでした。例の握り箸で召上りますので、魚の骨は取つて置きました。その食べ方は妙なもので、まず膳の上にある副食物卽ちお菜の方から、それを一皿一皿次ぎ次ぎと悉く平げてそれから卷鮨とかご飯だけを食うというやりかたでした。煎茶も飮まれましたが何時も大槪は水を飮まれました。先生は乾物でも干魚でも萬事好き嫌いと云うことは餘りありませんでしたが、ただ糸蒟蒻だけは嫌いで「私の國コンナ蟲いてそれを思い出すからいやだ」といつて食べられませんでした。
生卵は一度に八、九個も食べられました。また酒は晝と晩日本酒一本(一号八勺入)を飮んでおられまして、洋酒を注文したことは覺えません。珈琲も飮まれせんでしたが、ただ煙草だけは大好物でして、葉卷と刻煙草[やぶちゃん注:「きざみたばこ」。]は絶えず吸つておられました。刻煙草は日本の煙管[やぶちゃん注:「きせる」。]を使うのですが、その數がだんだんふえて數十本となり、掃除は大槪お信が引受けていました。葉卷は橫濱から大箱のものを取寄せておられました。
[やぶちゃん注:実は、ここ(「15」ページ)より二ページ前の「13」ページ下方には、金津氏の切り絵で、皿に載った食パン半斤、スプーン附きの把手のあるスープか、コーヒー・カップらしきもの(受け皿附き)があり(個人的にはカップが広過ぎで、内径幅から前者にしか私には見えないのだが)、その左下には、ミルク入れらしく見える物がある。しかし、例えば、以上の記載とも、当該位置の記載とも、全く合わない代物で、ちょっと頭を傾げるを得ない。なお、この切り絵は、ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載らない。その代り、これまた、この「15」ページには、左から右上方に向かって、木製(総て檜製か)の把手の突き上げた手桶・風呂椅子・湯桶が切り絵が配されてある(手桶と湯桶の箍(たが)は総て太い繩である)。これは、前掲ブログにある。これは、本文の少し先で、桑原氏が富田ツネにハーンが就寝・入浴する際のことを問うたところでエピソードが書かれる。
「私の國コンナ蟲いてそれを思い出すからいやだ」ここで言う「蟲」に就いては、サイト「マグミクス」の「卵の食べ方がほぼロッキーだった『ばけばけ』ヘブンの朝食 史実を見るとそんなに「盛ってない」かも」に、『ちなみに、糸こんにゃくが虫に見えて食べられないというのも、実際のエピソードに基づいています。ヘブンは「私の国にこういう虫が!」と言っていましたが、実際は1887年から2年間滞在した西インド諸島の仏領マルティニーク』(アンティル・クレオール語:Matinik/Matnik・フランス語:Martinique)『島』(ここ)『にいた虫を思い出していたそうです。』と記されてあった。これは、直ちに、平井呈一氏の「仏領西インドの二年間」の「下」で一章を作る「ムカデ」を想起させる。当該原本の当該篇は、「Internet archive」のここから視認出来る(‘ Two Years In The French West Indies ’の“BÊTE-NI-PIÉ.”)。また、日本語訳は国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集 第二巻」昭和六(一九三一)年第一書房刊(保護期間満了)の「佛領西印度の二年間」(大谷正信譯)の、ここの「百足蟲」で読める。但し、マルティニーク島に棲息するムカデが如何なる種なのかは、調べ得なかった。⋯⋯いんにゃ! しかし!⋯⋯ムカデと糸蒟蒻は――似てないぞッツ!?!――ハーン先生!!!]
先生は橫濱で卷鮨をあがつたことがあつて、それが餘程うまかつたと見えて、私方へお出での日より、每日のように晝晩共に必らず、巻鮨をさしあげましたが、後ではお飽きになり、普通のご飯を上げました、またフライ・エツグスの製り方は先生に敎わり每々差上げました。
〔桑原〕 洋食屋は當時鎌田才次と申すものが一軒ありましたが、先生は鎌田より洋食をとつて召し上つたことがありましたか。
〔富田〕 洋食は一切上らなかつたので鎌田から洋食を取寄せた覺えはありません。一切和食でした。從つてナイフやフオークをお用い[やぶちゃん注:「おもちい」。尊敬語。]のことはありませんでした。
〔桑原〕 先生は宿で牛肉は上りませんでしたか。
〔富田〕 宿の老人が牛は四ツ足と申して、昔から室の內に入れることを嫌いますので、先生も納得して牛肉は家の內に入れませんでした。
〔桑原〕 先生の宿泊料は當時いくら位でありましたか。
〔富田〕 先生來着當時の通辯眞鍋さんとの談判でございましたが、荒方[やぶちゃん注:「あらかた」。「だいたい」の意。]の約定は、朝は牛乳と卵、晝と晩とは卷鮨に副食物の賄[やぶちゃん注:「まかなひ(まかない)」。]で、一切をこめて一日が金參拾錢であつたと思います。當時の三十錢は今日相場にしては少なくとも十倍の三圓に當ります。今日と比較しますと萬事物價の相違はただただ驚くばかりであります。
[やぶちゃん注:以上の「參拾錢」だが、「Yahoo!JAPAN 知恵袋」の『朝ドラ「ばけばけ」の時代、10円は今の価値で幾らになりますか?』に対し、「閻魔の代理」さんが、答えているのが、よい。部分引用する。
《引用開始》[やぶちゃん注:一部の改行を続けた。]
小泉八雲が来日したのは明治23年です。そのころの人々の給料をウェブサイトで調べてみました。当時はインフレが著しかったようで、5年もすると給料が上がっていたようです。
明治23年当時
巡査初任給 月額6円(5年後には8円)
小学校教員初任給 月額5円(5年後には8円)
東京の大工(割と高給) 日給50銭(5年後には54銭)
小泉八雲(松江中学講師)月給100円(相当な高給)
★ここから推測すると、明治23年時点の人々の給料を現代の金額に換算するにはおおむね4万倍ぐらいするのが適当で、5年後の明治28年時点の給料を現代に換算すると3万倍ぐらいするのが適当だと判断します。つまり当時の10円は明治23年ならば40万円、同28年ならば30万円ぐらいが目安ではないかと考えます。
《引用終了》
なお、この「17」ページには、金津氏の絵馬型のが、切り絵で載る。上方左右に、形の異なる菊花様のものが配され下方には、ひらがなの「め」を右、左でその反転したものが描かれている。私は、神社の、この手のものには全く疎いので、こう説明するしかない。ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載っているので、この装飾の意味が判る御仁は、是非とも解説して戴けると、非常に助かる。]
〔桑原〕 八雲先生が借りておられたあの廣大な根岸邸の家賃が、僅か月三圓半と伺いますから當時は萬事安かつたものです。就眠とか入浴というようなことはどうでしたか。
〔富田〕 寢具はベツトがありませんので、布團を高く重ねてこれを代用し暑い時は蚊帳[やぶちゃん注:「かや」。]を釣りましたが、先生が初めての時は立つたままで蚊帳に出入りされましたのにはおかしくもあり驚きもしました。
毎日入浴されましたが、風呂から出られますといつも冷水にかかられました。湯は微温が好きでしたが、或る日湯加減の特別熱かつた時に「地獄」「地獄」と叫ばれたことは今に一口話[やぶちゃん注:「ひとくちばなし」。]になつています。
先生が便所に行かれる光景がこれまた實に奇觀でありまして、便所へ何時もの如く葉卷をくわええ行かれるのはよいとして、どういうものか帽子を冠つて[やぶちゃん注:「かぶつて」。]入られました。
先生は洋傘やスケツキは持つておられなかつたのでご使用のことはありません。雨降りの時は人力車を呼んで行かれました。ネクタイは非常に狹い黑いリポンか紐に限られていました。
地球の反対で素敵な若い女性で博士号を持つ人に私の「鈴木しづ子」の電子化注が役に立った。私が遂に、はっきりとしたユビキタスの一人として真の「知的 Homo sapiens 」となった瞬間であった。Facebookで鈴木しづ子論の梗概と私への謝辞を贈られた。そのスペイン語と英文で書かれた文を以下に転載する。私の姓名のリンクは私のFacebookである。なお、昨夜、私のブログが、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、二百六十万アクセスを突破した記念ともする。
*
*
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]
【初期形】
七月の微風は
水繪具の朱のにほひ
うるんで碧い少年の視線を
人工的に雲ある空を
しづかに晝が流れて行く
【修正形】
七月は
水繪具のヴアミリオンのにほひ
うるんで碧い少年の視線を
人工的に雲ある空を
しづかに晝が流れて行く
[やぶちゃん注:「ヴアミリオン」“Vermilion”は「etymonline」に拠れば、『「鮮やかな赤色、朱色の色合い」を意味するこの言葉は、14世紀中頃に中世英語や古フランス語のvermail、vermeilから来ています。これらは11世紀の古フランス語で「鮮やかな赤、緋色、クリムゾン」を指していました。さらに遡ると、後期ラテン語のvermiculus「小さな虫」、特にクリムゾン染料が得られるコチニール虫を指していました(kermesと比較)。古典ラテン語では「昆虫の幼虫、イモムシ、ウジ」を意味し、vermis「虫」の縮小形(vermi-を参照)です』。『名詞として英語に取り入れられたのは1590年代で、「鮮やかな赤色、朱色の色合い」を指します』とし、『13世紀後半、vermiloun「辰砂、自然に存在する硫化水銀; 粉末にした辰砂から作られる赤い染料」は、アングロ・フレンチおよび古フレンチのvermeillon「赤鉛、辰砂、(化粧品)ルージュ」(12世紀)から派生し、vermeil(vermeilを参照)。形容詞としては「辰砂の色のもの」として、1580年代に使用された。』とあった。英文の色見本・色コードのサイトの当該ページをリンクしておく。なお、解説中の『コチニール虫』とは、英語の“Cochineal”で、有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ(介殻虫)上科 Coccoideaコチニールカイガラムシ科コチニールカイガラムシ属コチニールカイガラムシ Dactylopius coccus を指す。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『アメリカ大陸原産で、特にメキシコ原産とされる。別名、エンジムシ(臙脂虫)』。『メスの成虫の体長は3ミリメートルほど。オスはその約半分』である。『メスは無翅で褐色の貝殻状をしており、ウチワサボテン属のサボテンに寄生して枝に固着している。一方、オスには翅があり敏捷に動く』。『なお、一部の文献で同じ「エンジムシ(臙脂虫)」の名でコチニールカイガラムシとラックカイガラムシ(東南アジア原産)』(カイガラムシ科ケリア属ラックカイガラムシ Laccifer lacca のオス)『を混同していると指摘されており』、『区別が必要とされる』。『染料として利用するのはメスである。古くはマヤやアステカ、インカ帝国などで養殖され、染色用の染料に使われてきた。野生のサボテンに寄生しているものを箒(ほうき)、刷毛(はけ)、ブラシなどで布の上に落として収集していたが、乾期と雨期がある地方では』、『雨期に収穫量が減少するため』、『人工飼育されるようになった』。『虫体に含まれる色素成分の含有量が多いため、今日色素利用されるカイガラムシの中ではもっともよく利用され、メキシコ、ペルー、南スペイン、カナリア諸島などで養殖され、染色用色素や食品着色料、化粧品などに用いられている。また17〜18世紀には人気の医薬品(ダフィーのエリクサー)』(“Daffy's Elixir”:当該ウィキに拠れば、『元々は胃薬として開発され、時代が下るにつれて万能薬として扱われた薬品のこと。18世紀から 19世紀にかけてイギリス、アメリカで人気の治療薬であった』。『1647年にレスターシャー州レッドマイルの牧師トーマス・ダフィーによって発明されたとされている。ダフィーはそれをエリクサー・サルティス(健康のエリクサー)と名付け、万能薬として宣伝した』。『「The true Daffy's Elixir」に記載されている初期のレシピ によるとアニス 、ブランデー、コチニールカイガラムシ、センナ、 マンニトール、パセリの種、レーズン、ルバーブ、サフラン、 リコリスなどが記載されている』とある。より詳しくは引用先を見よ)『にも用いられた』とある。
●なお、この詩の、標題「眞晝」と「七月は」「水繪具のヴアミリオンのにほひ」から、』『「眞晝」が「匂ふ」』という表現を見出せるが、このフレーズが、ちょっと気になって調べたところ、サイト「吉本隆明の183講演」の「芥川・堀・立原の話」の「12 生活的な感性から断ち切られた無限定な時間性」の部分で、立原の詩(「萱草に寄す」で知られた一篇、「SONATINE No.2」の第一篇の原詩「虹とひとと」の第三連。リンクは私の原詩の電子化注)
また風が吹いてゐる また雲がながれてゐる
明るい青い暑い空に 何のかはりもなかつたやうに
小鳥のうたがひびいてゐる 花のいろがにほつてゐる
を引いて、
《引用開始》
この場合の「花のいろがにほつてゐる」っていう使い方は、いずれも色を意味していることが分かると思います。だから、これはいわば〈匂い〉っていう言葉が意味する概念の非常に、日本語でいえば、元のところまで遡る、そういう感性で、〈匂い〉っていう言葉がひとりでに使われていることがわかります。
これは、半分はたとえば、『古今集』の影響をそれとなく感覚的に受けたから、そういう言葉の使い方をしているってことがひとつあるでしょうけど、もうひとつはたぶん、立原道造の資質の中から、本質的に出てきた使い方だっていうふうに思います。つまり、これは、立原道造の資質のなかに、それは、こういう使い方をするものがあるんだっていうふうに考えたほうがいいのだと思います。
それから、このあとには
誰からも見られてゐない確信と
やがて 悔いへの誘ひと-
その時 真昼が
匂ふやうであつた
っていう表現があります。この「真昼が匂ふやうであつた」っていう表現自体は、すでに『新古今集』の中自体にもないものなんです。
もし、そういう言い方をすることができるとすれば、それは、立原道造の発明した使い方だ、〈匂い〉っていう言葉の使い方だっていうことがわかります。つまり、「真昼が匂ふやうであつた」っていう感受性の仕方と、こういう言葉の使い方っていうことは、立原道造の発明にかかわる、つまり、独創にかかわるものだっていうふうに考えることができると思います。言い換えれば、そういう使い方で表現される、ある感性っていうものは、立原道造の詩を立原道造の詩にさせているものだって考えることができると思います。
それは何なのでしょうか、たぶんそれは、時間っていう概念がひとつだと思います。つまり、時間っていう概念が立原道造のなかで、非常に重要な問題なんだっていうことがひとつあると思います。
その時間っていう概念がどのように立原道造の中で重要になっているのかっていうと、それは、時間が一種の無限性というようなもの、あるいは、無限定といってもいいんですけど、無限定性あるいは無限性というようなものとして、時間が考えられていたっていうふうにいうことができるのではないかと思います。
なぜそれでは、立原道造のなかで時間というものが無限定性、あるいは無限性っていうものとして感じられていたかといいますと、もしも詩の中に、あるいは、生涯の中に、詩の感性の想像力の中に、生活の匂い、あるいは、生きた生活の匂いとか、そういうものが、なんらかの意味で介入していくとすれば、生きた生活、あるいは、生きている人間、具体的な人間というのの時間性は、かならず生まれたときから死ぬまでのあるひとつの曲線がありまして、その曲線のなかで生き死にするわけで、限定された時間が必ずあり、時間が限定されるにつれて、いわば子どもの時は、4歳の時は4歳の感受性、4歳の生き方、15歳の時は15歳の生き方、30の時は30の生き方というように、そこに具体的な生き方の肉体といいましょうか、肉っていうものが時間の中にちゃんとくっついて、そして、ある時間、時間がひとつの曲線を描いて、生から死へっていうふうに流れていくっていうのが、たぶん、生身の人間の生活みたいなものは、詩の感性のなかに入っていく場合の時間の取り方だっていうふうに思います。
そこで、たぶん立原道造の場合には、死が初めから匂っているように、初めから存在しているように、もう生が死の後に存在しているというようなかたちで、いわば生活的な問題から、感性から断ち切られたところで、立原道造の感覚っていうものが展開されているっていうこと、そのことがたぶん、立原道造の時間性っていうものを無限定にしている、あるいは、無限性にしている要素なんだと思います。そこが立原道造の詩人としての本質っていうことにつながっていく要素なんだっていうふうに考えることができると思います。
《引用終了》
とあるのを見つけた(以下、『それから、もうひとつあります。』と、さらに続くが、長くなるので、各自で読まれたい。
さても。この吉本の『立原道造の発明した使い方だ、〈匂い〉っていう言葉の使い方だ』という断定には首を傾げた。私自身、そのような認識を持ったことがないからである。無論、私自身、近代文学の時系列の中で、道造以前に、そのようなリリック・フレーズをいないことを検証したわけではない。しかし、正直、私は、諸手を挙げて、これに肯んずることは出来ないのである。ただ、私は、個人的に吉本が生理的に嫌いであるから(私は、彼の詩をいいと思ったことは全く、なく、評論に至っては強い嫌悪を感ずる人種である)、ただの非論理的反抗に過ぎないと過されて構わない。ともかくも、私の偏愛する三名を三題噺しにしているこの講演自体全体が、聊か、胡散臭い教祖の「有難い」説教のように感じただけである。以上。]
『小泉八雲 「蜻蛉」のその「二」・「三」 (大谷正信譯)』の「太巢」なる俳人に就いて、重要な疑問注を追記したので、是非、見られたい。簡単に言うと、「太巢」は高井几董の別号であるという言説への疑義である。御情報を乞うている関係上、特にポストした。
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。而して、この草稿は、注記で、全文が書き直されていることが記されてあり、抹消されたものであろう初期詩形が活字化されてある。そこで、まず、元の詩を電子化し、次いで、改訂版を示す。注記には初期形は『(行頭は揃って天ツキ)』』とあったので、それも附加した。「天ツキ」に就いては、先行する「(計算ちがひが⋯⋯)」の冒頭注を見られたい。]
【初期形】
午 睡
┣僕は何遍も見た その夢を
┣その夢のなかでは
┣僕は三角だつた 海だつた
┣靑い小旗がピストルだつた
┣きつとまちがへてた單語よ
┣僕はわるく眠りつつあつた
【修正形】
午 睡
夢のなかで
僕は三角だつた 海だつた
小さな旗がピストルだつた
きつと僕のまちがへていゐる單語よ
僕はわるく眠りつつあつた
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]
へんな出發
鏡の顏があくびをする
不器用なしのカリカチヤア
午後二時の時計よ
星のやうに サヨナラ
もう僕は出かけるのだ
[やぶちゃん注:「カリカチヤア」(英・仏:caricature(英(カリカチュア)・仏(カリカチュール)/伊:caricatura(カリカトゥーラ)/独:Karikatur(カリカトゥラ))とは、誇張的表現による社会風刺・寓意・滑稽などを目的として描かれた画像の総称。古代エジプトの擬人化した鳥獣画などを起源とするが、特に十七世紀以降、版画技術や印刷術の普及に伴って、広く行われ、政治的にも利用されるようになった。ジャック・カロ、ゴヤ、ドーミエ、ホガースらが、その鋭い風刺で知られる(解説部分は平凡社「百科事典マイペディア」を主文として使用した。]
[やぶちゃん注:本日、たまたま、何気なく――全く、殆んど意味もなく――国立国会図書館デジタルコレクションで立川道造で検索したところが!――今日! まさに今日!――一九七二年角川書店刊「立原道造全集 第二巻 Ⅱ詩集」が『送信サービスで閲覧可能』となって、視認出来ることが判明した!!! 以前、図書館で借りて、未電子化の詩篇を電子化したいと考えながら、諸プロジェクトを広げてしまった結果、やらず仕舞いで居たのだったが……私は――『……道造の魂が! 私にそっと囁いたに違いない!』と独りごちたのであった。さればこそ、これを底本として、私が未だ電子化していない彼の草稿詩篇を起動することとした。本篇は底本の『前記草稿詩篇』パートのここで、底本の注記はここ(左丁317ページ下段)で視認出来る。詩は無題のものもあるので、一応、仮題として最初の部分を、底本を真似つつ、二字下げ・丸括弧入りで、六点リーダを添えて示した。底本では標題はポイント上げであるが、当該原稿を見ていないが、立原は同じ大きさで書いている可能性が高いと考え、同ポイントとした。無論、底本同様に正字正仮名である。注は、比較的知られた語であっても、若い読者や、ネイティヴでない方を想定して、附してある箇所がある。
本篇の執筆想定は、注記に筆跡と使用されたインクから、『「卽興」および「一年を顧みて」『昭和7』(一九三二)『3月執筆想定・第六巻所収』(『雜纂』篇。ここと、ここで、視認出来る)『に類似点を求め得る』とし、『上限を』(根拠が示されてある)『昭和6年12月以後とし、下限を』(根拠が示されてある)『昭和7年3月以前と想定する』とある。]
(お時計の中には……)
お時計の中にはニハトリが住まない
お魚の內臟に燐寸で靑く燈を點けろ
圓周率を數へるために鼠を飼ひます
ピーターさんは海へ泳ぎに出かける
繪の描けない草は大體花を持たない
都會の電燈の色はボンヤリしてます
馬の足音に驚くのは垣根のバラです
手品をつかはない太陽はまんまるい
腹痛にきく藥はライオンの尻尾です
白い公園の白い噴水と白い馬が白い
都會の少女の肢はスツキリしてます
飛行機が墜落するので花は咲かない
ピーターさんの妹が山へ登りました
靑い空は粉々になつて碎けてしまふ
そこで月が胡桃の一つに化けました
お時計の中にはニハトリが住んでる
[やぶちゃん注:「燐寸」恐らくは「マツチ(マッチ)」と読んでいる。
「ピーターさん」不詳。軽井沢で知った外国人の友達がモデルかと思われる。
「描けない」音数律からは、私は「かけない」と読む。
「肢」「あし」であろう。]
たまたま、今日、何気なく、立原道造の書籍を国立国会図書館デジタルコレクションで調べた……と!?!……と……ところが!――今日! まさに今日!――一九七二年角川書店刊「立原道造全集 第二巻 Ⅱ詩集」が『送信サービスで閲覧可能』となって、視認出来ることが判明した!!! 以前、図書館で借りて、未電子化の詩篇を電子化したいと考えながら、諸プロジェクトを広げてしまった結果、やらず仕舞いで居たのだったが、……
道造の魂が! 私にそっと囁いたに違いない!
よし! やるぞ!
「前記草稿詩篇」!!!!!!!!
(リンクは当該目次)
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]
【図版2】
■「つのふか」
「一名、つのめざめ。」
[やぶちゃん注:【図版1】で考証したツノザメ目ツノザメ科ツノザメ属 Squalus であるが、腹部右下からの煽り風で描かれ、一見、目が可愛く、マスコットのようにデフォルメされているような錯覚を受けてしまう。そのため、どうも、比定に困難を感ずる。先では、
トガリツノザメ(尖角鮫)Squalus japonicus
としたが、一応、ここでは、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」が掲載する五種を並べて考証する。順列は、同図鑑の、ここの「ツノザメ目」に従がった。
①アブラツノザメはここで、アブラツノザメ(油角鮫)Squalus suckleyi
②トガリツノザメはここで、トガリツノザメ(尖角鮫)Squalus japonicus
③ツマリツノザメはここで、ツマリツノザメ(短角鮫)Squalus brevirostris
④ヒレタカツノザメはここで、ヒレタカツノザメ(鰭高角鮫)Squalus formosus
⑤フトツノザメはここで、フトツノザメ(太角鮫)Squalus mitsukurii
さて、この内、⑤のフトツノザメは、解説の「基本情報」に『本州以南に生息する。やや小型のサメである。刺網や深場の釣りで揚がる。この背鰭に棘(角)があるサメの中でもアブラツノザメは認知度も高く、東北・関東を中心に利用されているが。本種は漁獲量が少なく知名度が低い』とあり、「珍魚度」にも、『底曳き網や釣りなどで揚がるが、量的に少なく、流通しないのでがんばって探さないと手に入らない』とし、「水産基本情報」でも、『市場での評価』に、『ほぼ流通しない。一定の評価はない』とあることから、まず、最初に除外してよいと思われる。同様に、④ヒレタカツノザメの記載も、「生息域」には、『水深180-790m』。『千葉県銚子〜九州南岸の大平洋沿岸、沖縄島以南の琉球列島、東シナ海大陸棚縁辺〜斜面域』で、『台湾、オーストラリア南西岸』としつつ、やはり、「基本情報」には、『学名が2017年に確定したもので、漁獲されての情報などはまったくない。』とあるだけで、以下、白紙なのである。されば、これも除外する。
而して、残る三種の、それぞれの画像をじっくりと見て、この図のように見えるものはどれか、と考えたところ、私は、
★『これ、圧倒的に③のツマリツノザメだべッツ!!!』
と、強く感じたのであった。
頭部の腹側が他の種に比べて、圧倒的に膨らんでいるから
である。そのツマリツノザメの解説を示すと、『1m TL 前後になる。背鰭前端から吻までが短い。目も吻に近く体高がある。』「生息域」には、『水深100-640mの海底、海底付近』。『青森県八戸、千葉県銚子から九州南岸の大平洋沿岸、玄界灘、沖縄島以南の琉球列島、東シナ海縁辺〜斜面域、九州〜パラオ海嶺』及び『朝鮮半島全沿岸、黄海、中国の東シナ海・南シナ海、西沙諸島』とある。但し、それ以外の、記述が、全くないのが、果して、明治時代に、漁獲されたかどうかが、ちょっと心許ないのでは、ある。
残るは、①アブラツノザメと、②トガリツノザメとなるが、
後者のトガリツノザメは、解説に、『日本の沿岸域に多い小型のサメ。量がまとまらないので流通はしない。』とし、『ツノザメ科全般に言えることだが』、『味がいいので、食用としている可能性は高い』(最後は将来性記載である)とあり、『市場』にも『流通しない。』と断じているので、これも、ご退場願ってよいと思う。
★而して、アブラツノザメであるが、これは、結論を言うと、有力な対抗候補である。
解説を引く。『北半球の寒帯から温帯域にいる中型の鮫。国内では主に北海道・東北太平洋側で水揚げされている。北海道、青森県などでは釣りなどで盛んに漁獲している。サメ類ではもっとも漁獲量が多い』。『浜で皮を剥き、頭と内臓を取り去る。これを棒ザメという』。『関東にもたくさん送られてきており、古くは棒ザメで作るサメの煮つけは都内でもよく食べられていた。都内では定番的大衆魚だったが、やや「お高い」といったもの。例えば「もうか(ネズミザメ)」と比べると贅沢なものであった』。『また』、『栃木県、茨城県・群馬県の一部では日常的にも、年取魚(正月用の魚)としても人気がある。新潟県上越市でもよく食べられている』。『今でも根強い人気があるが、棒ザメを切身として売る店も、買う人も減少傾向にある。非常に味がよく万人向きの食材、もっと人気が出てもいい』。『練り製品の原材料ともなり、すり身としては高価である。また近年高鮮度化も進められている』とあり、「珍魚度」に『青森県などでは漁業対象となっているので、珍しい魚ではない。ただし』、『産地で皮を剥かれることが多いので、丸のまま手に入れるのは』、『とても難しい。』と括っておられる。「主な産地」は『青森県、北海道、宮城県、福島県など。東北北海道』とする。さらに、「歴史・ことわざ・雑学など」の項に、『ぼうざめ 〈江戸にて一種ぼうざめと云有〉『物類称呼』(越谷吾山著 安永4/1775 解説/杉本つとむ 八坂書房 1976)』とあって、江戸時代に既にして、流通していたこと、別コラムの『正岡子規、水戸紀行の「鮫の煮たると」』で、『正岡子規の実に写実的な表現でみる千葉の食』の項で、ぼうずコンニャク氏は『常磐線開通前の水戸街道小金駅あたりで正岡子規が食べたサメは沖合いにいるネズミザメではなく、より岸近くにいるアブラツノザメと考えるべきだと思っている』と述べられ、さらに、続く、『鮫煮つけは非常に味がいい。正岡子規はなにを食べたのか?』で、食べた料理法まで推理されているのである。
さらに、有力候補度がズン! と高まるのは、異名である。
『ケセンズノ ケセンヅノ[気仙角]』『宮城県気仙沼、東京都 参考『日本産魚名大辞典』(日本魚類学会編 三省堂)』、『ツノザメ』『富山県黒部市生地 参考『日本産魚名大辞典』(日本魚類学会編 三省堂)』の、本図の名称の類似、或いは、相同性である。
結論を示す。
☆第一候補は、論理的に圧倒的にアブラツノザメ
であるが、画像に拘ると、私は、
☆第二候補として、フォルムからツマリツノザメ
を外すことが出来ない
としておく。]
■「ほしふか」
「一名、ほしさめ。」
[やぶちゃん注:これは、文句無しで、
ネズミザメ上目メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属ホシザメ Mustelus manazo
である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクしておく。]
■「をにうちふり」
「九刕大隅」
「「をにうちふか」」
「凡《およそ》、長《ながさ》、二尺。」
[やぶちゃん注:これは、頭部の形状から、
板鰓亜綱テンジクザメ(天竺鮫)目オオセ(大瀬)科オオセ属オオセ Orectolobus japonicus
である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクしておく。]
■「あをふか」
「長《ながさ》、凡《およそ》、壹𠀋。
大なるは、二、三𠀋に至り、
一《いつ》に、「荒(あら)ふか」といふ。
歯、なし。人を、とりくらふ。」
[やぶちゃん注:これは、文字通り、
ネズミザメ目ネズミザメ科アオザメ属アオザメ Isurus oxyrinchus
である。「人を捕り食らう」とあるが、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、この断定は、問題があるようである。ここは、本文注では外していたので、その「危険性」の項を引用する(注記号はカットした)。『気性が荒く、人に対しては危険な種とされているが、今までにこのサメが起こした事故はあまり報告されていない。生息域が主に外洋ということで、人と接触することがあまりないためであるとされる』。『2010年11月30日から12月1日の2日間にかけて、エジプトの紅海において海水浴客3人がサメに襲撃される事件が発生。このうち1人が足と腕を噛みつかれ、片腕を失った。近くの海域でヨゴレと共にアオザメが捕獲されたことから、犯人は当初アオザメとされた。サメが捕獲されたことから、地元当局は海の遊泳禁止措置を解除した。しかし、その後ドイツ人の海水浴客がサメに襲われて死亡する襲撃事件が起きており、襲撃したサメは別の種類と見られている』。『日本国内では1951年(昭和26年)6月、熊野灘の定置網にかかった全長約5 mのアオザメから少年の腐乱死体が見つかった例がある。また1979年(昭和54年)11月11日には、宮崎県串間市都井岬沖約67 kmの日向灘で、貨物船「明和」(4457重量トン)が時化により沈没した際、漂流中の乗組員が救助隊の目前でアオザメとみられる大型のサメ(推定体長約3 m)に食い殺されるという事故も発生している。2004年(平成16年)7月15日には和歌山県すさみ町沖の枯木灘で、夜間集魚灯を点けてアカイカ釣りをしていた遊漁船に体長3.5 m、体重350 kgのアオザメが飛び込み、釣り客が胸や頭をサメの尾鰭で強く叩かれて胸骨骨折などの重傷を負う事故が発生している。すさみ町立エビとカニの水族館館長によれば、アオザメは黒潮が接近している枯木灘ではよく見られるが、船に飛び込む事故は聞いたことがないという』とある。一応、英文の同種のウィキ“Shortfin mako shark”の‘Attacks on humans’ (「人間への攻撃」)の項を見たが、『ISAF』(International Shark Attack File:国際的なサメによるヒト襲撃情報のデータベース。詳しくは当該邦文ウィキを見られたい)『の統計によると、1980年から2024年の間にアオザメによる人間への襲撃は10件発生しており、そのうち3件は死亡に至った。また、ボートによる襲撃も20件発生している。アオザメによる襲撃の多くは、嫌がらせや釣り糸にかかったことが原因で引き起こされたと考えられている。アオザメに遭遇したダイバーは、襲われる前にアオザメが8の字を描いて口を開けて近づくことに気づいている。最近の襲撃は2024年3月30日にカボ・サン・ルーカスで発生したが、死亡には至らなかった。サメはシュノーケリングをしているグループを襲い、ある男性はサメが他の人に危害を加える前に格闘しなければならなかった。』と、ある。孰れにしても――アオザメは絶対的な「人食いサメ」ではない――と結論出来るものと思われる。]
■「へらさめ」
[やぶちゃん注:本文には、この名では、出現していない。小学館「日本大百科全書」の「ヘラザメ へらざめ/篦鮫」から引用する。『軟骨魚綱メジロザメ目の科や属の総称、またはその1種の名称。ヘラザメ科Pentanchidaeは第1背びれが腹びれ上方またはその後方に位置すること、臀(しり)びれがあること、口が目の前端の下に位置すること、頭蓋骨』『の眼窩』『上部に庇(ひさし)がないことなどが』、『特徴で、ヘラザメ属 Apristurus 、ナガサキトラザメ属 Halaelurus 、ヤモリザメ属 Galeus など11属からなる。そのうち、ヘラザメ属は吻(ふん)が扁平』『で、臀びれと尾びれが接することが特徴で、約40種からなり、日本近海には約9種が知られている』。『種としてのヘラザメ A. platyrhynchus(英名spatula-snout catshark)は第1背びれが腹びれ基底より後ろから始まること、胸びれと腹びれの間が短いこと、臀びれ基底が非常に長いことなどで特徴づけられる。深海性で、大きくても全長1メートル程度で、生殖方法は短期型単卵生である。トロール網などでときに大量に漁獲され、練り製品の原料などにされる。南日本から、台湾、フィリピン、オーストラリアなどの海域に分布する。国際自然保護連合(IUCN)のレッド・リストでは、低懸念(LC)とされている(2021年9月時点)。』とあった。しかし、この小型のサメから、果して輸出向けの鱶鰭が製造出来たのであろうか? やや疑問である。識者の御教授を乞うものである。]
[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]
松江に於ける八雲の私生活
富田旅館時代
明洽二十三年(西曆一八九〇年)八月二十五、六日の頃小泉八雲は橫濱より松江に到着直ちに富田旅館に入り、明治二十四年(西曆一八九一年)二月に至るまで七ヵ月間同旅館に滯在し、同月松江末次本町卽ち京店織原氏の貸屋に移轉した。
[やぶちゃん注:本書の年譜的記載は、例えば、私の所持する内で、最も完備している恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の銭本健二・小泉凡編になる「年譜」と対照すると、かなり大きく異なる部分が、有意にある。その辺りは、必要と考える限り、逐一、示すように心掛ける。さても、初っ端から、事実と齟齬する記載が連続する。そこでは、『八月三十日(土)、午後四時、松江着。大橋川北岸の末次本町四一番地(東本町一町目一番地)』(ここ。グーグル・マップ・データ。無指示の場合は同じ)『にある富田旅館に投宿する。』とあり(これは以下の富田旅館の女将の証言でも、日付が誤っているので注意されたい。そこまで繰り返しはしない)、『ハーンは、二回の八畳と二畳の部屋を使用することになり、女将のお常と女中のお信(島根県能義郡出身、池田ノブ)が主として身辺の世話にあたった。なお、同所に十月下旬まで寄留する』とあり、同年十月の記載の最後に、『十月下旬――十一月中旬、京店(きょうみせ)織原方の離れ座敷(末次本町)』(ここ。富田旅館の西隣りの直近である)『に転居する』とあり、当時の彼の『書簡には、もはや旅館ではなく、湖水に臨んだきれいな家の持ち主だとある』(「ひなたGIS」の末次本町もリンクさせておく。戦前の地図によって、宍道湖大橋もなく、まさに宍道湖を直に見通せる位置にあったことが、よく判る)。『但し、十一月十八日の「山陰新聞」には、ハーンの「僑寓、縁取町富田屋の娘……」とあり、この時点でまだ富田屋に寄留していたことを伝えている』とあり、未だ、この時期の住所移動時期は、今も明確には判っていないようである。また、『十一月中旬(日)、富田屋の女将お常と眼の悪いお信を伴って、一畑薬師』(いちばたやくし:一畑薬師は臨済宗総本山醫王山一畑寺(いちばたし)。平安時代に遡る言い伝えで、眼病平癒のあらたかな寺院として知られる。ここ)『に参拝する』とある。]
富田旅館に滞在中の八雲の日常私生活を検討するため、予は昭和十五年(西曆一九四〇年)六月十五日富田旅館に富田ツネ刀自及び令息卯吉氏を訪問し、予と三人鼎座してツネ刀自より當時の實況を聽取した。
[やぶちゃん注:「鼎座」「ていざ」。「鼎」(かなへ(かなえ))の足のように、三人の者が向かいあってすわること。「鼎」は音「テイ」で、古代中国に於いて飲食物を煮るのに用いた金属製の容器。二つの耳と三本の足を持つ。古くは土器であり、飲食物を煮るだけに用いたが、後、祭祀用となった。特に夏の禹王(うおう)が九ヶ国の銅を集めて「九鼎」(きゅうけい)を作ってから、王位・帝位を表わすようになった。祭器としては、本邦では訓で「かなえ」と呼ぶことが多い。]
なおツネ刀自は、八雲が松江在住中の記事を誌せる諸書中に、必らず現われている所の當時の富田旅館の女主人で、最も多く八雲に親炙した人であることを附言しておく。
以下は、予がツネ刀自に對してなした問答筆記である。
[やぶちゃん注:富田ツネさんは、恐らく著作権上の問題ないと推測するが、令息卯吉氏については、判らない。しかし、これは、桑原氏の聴き取りによる桑原の記載記事であり、著作権侵害には当たらないと私は考える。実際、私は、二〇二一年一月二十三日に『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』を電子化注しているが、冒頭注で、この座談に出席している人物の内、二名の没年が『判らないので、彼の発言部は著作権に抵触する可能性がないとは言えない(他の人物はパブリック・ドメイン)。そうである事実を示して指摘されたならば、彼ら二人の発言部は省略する。』と記して公開したが、五年ばかり経ったが、誰一人、それを指摘された通知を受けていない。これに就いても、万一、「卯吉氏がパブリック・ドメインではないから、インタビュー記事もダメである。」という指摘があれば、当該証明法規及び公的な没年証明書を添えて通知頂ければ、彼の回答部分のみをカットする用意はある。]
〔桑原〕 なるべく既に世に發表されていない點を主に伺いたいと思いますが、八雲が富田旅館滯在中にお信さんという女中がいて、八雲先生の世話をなし、八雲先生はお信さんの眼病を自費で療治せしめたと聞きますが、そのお信さんはどんな來歷の人でしたか、まだ存生ですか。
〔富田〕 お信は出雲國能義郡廣瀨町の池田というものの子でありましたが、兩親に早くより死別し、その祖母にあたる人が、お信の七歲の時にその弟と二人を連れて、少しのゆかりを賴つて私方に參り、お信は女中代りとして手傳を致しまして、八雲先生の見えた時お信は十五、六歲の時でした。先生の御世話は萬事私とお信とが致しました。先生は大層お信を可愛がつて英語をお敎えなさいました。そしてお信はかわいそうに二十三歲でなくなりました。
〔桑原〕 八雲先生が松江到着後直ちに富田旅館に入られた時の模樣を伺いたいと思います。
〔富田〕 先生が明治二十三年八月二十五、六日頃、私方に溫到着の時は早速お風呂をたて、お湯から上られた時に白浴衣を出しましたところが、それが大層氣に入りまして、白浴衣のまゝで二階の八疊一の間に、ちようど日本人のように、膝をキチンと曲げておすわりでした。
先生の御到着前に、縣廰より椅子テーブルを澤山借りまして、お役人方の出張を待ちましたが、縣のお方々は、西洋人に面會するというので洋服でお出でたようでしたが、先生は西洋人としては身長の低い五尺二三寸[やぶちゃん注:一・五八~一・六一メートル。]位、頭髮は灰黑色、鼻の下には髭をはやし鼻は高い方で、背を屈がめて座布團にすわり、浴衣を着ては葉卷を口にしておられる樣子が、西洋人のような日本人のような恰好で、何とも如れぬおかしさを覺えました。私共には言語がまるでわからなかつたが、聲の樣子は餘り高い方ではなく聊か錆び聲で、時々高聲に笑われました。縣廰の役人方がこれを取圍むようにして椅子に腰かけていられました體裁は、ちようど役人が罪人でも調べるような恰好でまことに珍風景でありました。
その後先生はこの浴衣が氣に入りまして、宿においでる間は、何時も浴衣で、外出は洋服でした。餘り浴衣が汚れましたために、紺飛白の單衣物[やぶちゃん注:「ひとへもの(ひとえもの)」。]を作つて上げたことがありました。
[やぶちゃん注:「紺飛白」「こんがすり」。紺地に白い「かすり」のある模様。また、その木綿織物。「紺絣」とも書く。
なお、底本では、ここの左下には、金津滋氏の、小泉八雲のであろう、右手が、箸をムンずと箸を握っている切り絵がある。左下方付着する形で「握箸」と漢字も添えて彫ってある。ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」を見られたい。]
〔桑原〕 宿屋の皆さんと先生の間の意志の交換と申しますか、談話はどんな風でしたか。言語がわからないので、互に御困りのことでしたろう。
〔富田〕 私どもは全く英語がわからず、先生も日本語はわからずまことに困りました。中學校の西田千太郞先生や中山彌一郞先生が御來訪の節は、まことに何かと便利で色々先生のお望みのことを伺つて置きましたけれども、突發のことがある時は、先生は英和字書を何時も離さずに持つておられましたために、一々字引をひいての話で用を達しまして、實に不便極まるるので、每々[やぶちゃん注:ここは会話であるから「つねづね」であろう。]間違いがありましたので大笑い致しました。
先生ご來松[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「らいまつ」で「松江に来られること」である。]の當時は、橫濱より眞鍋晃という書生さんを通辯としてつれておいででしたが、その通辯が餘り上手とは見えませんでした。ところが或る日眞鍋さんを尋ねて女の人が橫濱より參り、何かそこに事情があつたと見えて、大に[やぶちゃん注:「おほいに(おおいに)」。]先生のご機嫌を損じて、間もなく眞鍋氏は解雇せられて橫濱に歸られました。
眞鍋さんがいました時のことですが、先生が每晩のように、天神社內や和多見の賣布神社等の盆踊りを見においでの時は、何時も[やぶちゃん注:私は「いつも」と読みたい。]眞鍋さんと手前の主人太平、或いはお信の二人がおともでありました。何分太平も宅の用事が忙しい時にも先生は一向おかまいなくおともを仰せつかるので、少々後では閉口していました。先生は天神境內に行かれる時は何時も附近の井戸水を釣瓶吞み[やぶちゃん注:「つるべのみ」。釣瓶桶から、直接、飲むこと。]にして喜んでおられました。
〔註〕 眞鍋晃は、八雲全集第三編第四十一頁の記事によれば、八雲先生が橫濱附近の某寺訪問の際、同寺の書生であつて、英語を解しいいため[やぶちゃん注:ママ。「解していたため」の誤植であろう。]、それが緣故となり、八雲先生の通辯として隨行したものである。
[やぶちゃん注:この注は、底本では、ポイント落ちで、全体が一字下げであるが、ブラウザの不具合を考え、同ポイントで引き上げてある。以下の〔註〕も同じ処理をした。
「西田千太郞」(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)は教育者。心理学及び教育学を専攻したが、郷里島根県松江で母校松江中学の教師を務め、この明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと親交を結んだ(当時は同校教頭兼英語教師であった)。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郎日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に惜しくも三十六の若さで、結核で亡くなった(主文は「講談社「日本人名大辞典」に拠ったが、一部は、私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (九)』の訳者註から増補しておいた)。異例の出雲大社昇殿も彼の仲介で実現したもので、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)にとって、まさに本邦来日後の日本人の中でも、最も大切な親友であった。
「中山彌一郞」『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語敎師の日記から (二)』の私の注を引く。西田とともに松江時代に懇意にしていた人物で、ヘルンの「島根縣敎育會」での講演(第二回「西印度雜話」明治二四(一八九一)年二月十四日開催)で彼は通訳をしており(第百五十四回「広島ラフカディオ・ハーンの会」ニュース(二〇一三年六月発行)のデータに拠る。【2026年1月8日追記】現在、リンク先は機能していない)、ハーンと同じく中学と師範学校の英語教師で生徒監(現行の学級担任の謂いであろう)もしており、後には神戸や商館に勤めたと、根本重煕氏の「小泉八雲のことども(続き)」(『中日本自動車短期大学論叢』第十三号・一九八三年・PDF)にある。「住吉神社」公式サイト内の『月刊「すみよし」』のこちらの風呂鞏(ふろたかし)氏の『小泉八雲と語学教育(二)』には、彼とは『神戸時代まで交際を続けた』とある(ハーンは明治二七(一八九四)年十一月に第五高等学校英語教師の契約切れとともに著作に専念するために神戸市の「神戶クロニクル社」に就職して神戸に転居、二年後の明治二十九年八月に東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職するまで、神戸に住んだ)。]
「眞鍋晃」小泉八雲の最初の纏まった作品「知られぬ日本の面影」の「第一章 私の極東に於ける第一日」に登場する、横浜で初めて訪れた寺で出逢った若い修学僧で学生である。初登場は『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章 私の極東に於ける第一日 (七)』である。これ以降、彼はハーンの奇特な通訳兼案内役として鎌倉・江ノ島や横浜等の名所を巡ることとなった。ウィキの「日本の面影」によれば、山田太一脚本の「日本の面影」のドラマでは、『「西欧文化を学びたい」という理由でハーンの通約兼世話係となり、松江まで付き添うが、日本の伝統文化に関心を寄せるハーンと意識がすれ違い、半年で横浜に帰った。のちに海軍中尉となり、帝大講師となっていたハーンと東京で偶然再会』したという設定になっている(但し、これが事実かどうかは私は検証していない)。第三章の「お地藏さま」の「二」の冒頭で、ハーンは彼のことを、『愉快な靑年である。鬚のない滑かな顏、淸らかな靑銅色の皮膚、それに紺色の蓬髪は、目元まで額に垂れてゐるので、濶袖の長い衣を著てゐると、殆ど日本の若い娘の姿に見える』と、その美少年振りが描かれている(「濶袖」は「ひろそで」と読み、和服の袖口を縫わずに全部開けてあるもの。どてらの袖のようなタイプ)。
なお、この前の
『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章 私の極東に於ける第一日 (六) ――ハーンが最初に行った寺を推定同定する――』
から、ちゃんと、見られたい。而して、是非!
「教え子の情報から再考証!――小泉八雲が来日最初に訪れた寺は横浜市神奈川区高島台にある旧アメリカ領事館が置かれた本覚寺ではなかったか?!――」
も見られたい。そして!
「★ラフカディオ・ハーンが最初に訪れたと推理する本覚寺を早速教え子が写真で撮って来てくれた!!!★」
も見て、チョーダイね!!! 言っとくと、銭本健二・小泉凡編「年譜」でも、この寺は特定されていないんだよ!!!
さて。実は、
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は松江に横浜から赴任するに際して、この眞鍋晃が通訳としてずっと同行している
のである。しかし、この赴任の道中のエピソード(鳥取県下市(しもいち)での盆踊り見学が、よく知られている)等では、後代の映像イメージ等では、眞鍋の影は微塵も想定映像としては表現されていないのだが、ハーンはちゃんと、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊 (一)』の中で、眞鍋を描いている。
いや、実は、その後も、ここにある通り、松江に留まって、
重要な出雲大社昇殿の時も、同行しており、八雲への解説役も、彼がメインであった
のである。それは、「小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿」の「(二)」・「(四)」・「(五)」・「(六)」・「(七)」・「(九)」を読めば、一目瞭然なのである。ところが……まさに「ところが」なのである……(次の注に続く)
「ところが或る日眞鍋さんを尋ねて女の人が橫濱より參り、何かそこに事精があつたと見えて、大に先生のご機嫌を損じて、間もなく眞鍋氏は解雇せられて橫濱に歸られました」この事実を確認する資料は、ネット上では、見出せない。私が、新たに見出したものは、中島淑恵氏の論文「ラフカディオ・ハーンと医薬―癒しと救い ① 一畑薬師のこと」(『薬学図書館』(64(3))所収・二〇一九年発行・PDF)の文中の『「杵築」の記述はこのあと,アキラとの神仏に関する問答に発展し,仏の数が限りなくあること,神道に至っては八百万の神がいることが議論される。』の注(『4)』)に『真鍋 晃.横浜の寺で出会った学僧で,英語に堪能.来日直後のハーンの通訳を務め,松江にも同行.松江滞在の半年間ほどをともに過ごす.』とあるものと、国立国会図書館デジタルコレクションで『送信サービスで閲覧可能』で見つけた、『人文論究』( 61(4)・2012・2)・関西学院大学人文学会発行)の永田雄次郎氏の「ラフカディオ・ハーンと石仏の美――横浜から熊本までの時」、ここと、ここと、ここである(本登録でないと閲覧は出来ない)。引用すると、『従来の研究所では、その経歴は不明とされる。その意味では、ハーン研究史上、「謎の人物」として第一に教えられるかも知れない』として、以下で「アキラ」の表記で、作品中の小泉八雲と彼の語りから、彼の人間像を解説しておられる。而して、最後の箇所で、『板東浩司は、不確かな推定としながらも、一八九〇年中旬に真鍋晃は松江を去るとしている』。『その理由も不明であるが、この地のハーンの通訳で、彼を理解しようとしていた松江尋常中学校教頭である西田千太郎』『の存在が浮かんでくる。』とされ、『アキラ以上に英語に通じていたであろう西田はハーンの終生の友となる。アキラも横浜の寺を近々出て行くと「極東第一日」ですでに言っている。この両者の事情が、アキラをして松江を去らせる要因となったのでのでは、ないだろうか。ハーンがアキラの人柄に疑いを持ち解雇したとの説もある』。『だが、ハーンは次のようにも語っている。そこにはアキラへのハーンの愛情を見ることであろう。』とされ、八雲の訳を示しておられる。これは、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (一)』の冒頭相当であるから、そちらで示す。冒頭表題も添えた。
*
一 一八九一年七月二十日 杵築にて
晃は最早私と共には居ない。彼は佛敎雜誌を發行するため、神聖な佛敎の都なる京都ヘ行つた。それで私は迷ひ子になつたやうな氣がする――彼は神道のことを何も知らないから、出雲ではあまり役に立つまいと、彼が再三斷言したけれども。
*
以下、引用に戻す。『時の経過の内に、ハーンの語る思いはいかなるものか、真偽の問題は多少存していようとも、この文学者の寂しさを滲ませた告白は真実であると信じてみたいのである。横浜、鎌倉の寺院、さらには松江までの道を同行したアキラである。これまで日本で仏教美術などを実体験する時、必ずと言ってよいほど、その脇に立っていたアキラは、ここでハーンの前から完全に姿を消したのである。彼こそは、松江での別れの時まで、石仏を眺めるハーンの眼にもっとも近く立ち、品の良い英語で語りかけた青年であったに違いなかろう。』とある。
私は、この永田氏の見解に、非常に賛同し、感動もした。
而して、中島氏の『松江滞在の半年間ほどをともに過ごす』とあるのは、銭本健二・小泉凡編「年譜」が、来松から、半月ほど後の、明治二三(一八九〇)年の九月十四日(日)の出雲大社昇殿の翌日の、『九月十五日(月)、松江に帰る。千家家日記には、この日にハーンと真鍋晃が参詣したことが記されており、したがって、ふたたび参詣をしたのち、帰松の途についたことも考えられる』とあるのを最後に、真鍋晃の記載が、載っていないことから、『半年』というのは、ちょっと不審なのである。何故と言うと、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (一)』で、私が強い疑義を感じて、注をした通り、小泉八雲の、このクレジットには問題があり、『文学的な虚構が施されている可能性が極めて高い』と述べたからである。されば、私は、真鍋の在松は、半年より、もっと短かったのではなるまいか? と考えているのである。
なお、富田ツネさんのスキャンダラスな内容は、作り話には見えない。しかし、或いは、これ、真鍋に一方的に思いを凝らしてしまった女性が、突如、彼を訪ねてきたのではなかったか? 女性たちは、当然、「かんぐる」ことで、噂を起こしたに違いない。真鍋は、そうした「濡れ衣」を説明しようとすれば、するほど、こうした「かんぐり」は、いや増しになるのが常である。真鍋の真面目な気質から見て、事実を詳細に語って弁解することはあり得ないと思われる。されば、日本語が判らない八雲も、「カタラレナイというのは、イケナイことだ!」と早合点したとも思われなくもないのである。向後も、真鍋についての考証は継続する。
「天神社」現在の島根県松江市天神町(てんじんまち)にある白潟天満宮(しらかたてんまんぐう)のことか。現在の同天満宮の夏の大祭では、盆踊りはないようであるが、江戸時代、松江城下では盆踊りが禁止されていた経緯があるから、当時、行っていたと考えても、逆に、よいように思われる。
「和多見の賣布神社」「めふじんじや(めふじんじゃ)」と読む。現在の島根県松江市和多見町(わだみちょう)の賣布神社。ここ。
「眞鍋晃は、八雲全集第三編第四十一頁の記事によれば、……」国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集」(大正一五(一九二六)年第一書房刊)の当該ページはここ。私電子化注は、ここ。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。以下、全部で十三枚の図版がある。例によって、汚損はかなり拘って清拭した。しかし、以下の第1図版は、捕獲後のサメの個体図であり、本体の黒い部分の中にある白点は、ほぼスレであるとは考えられるものの、では、塗り潰していいかというと、大いに、疑問を感じた。魚体の膨らみを表わすために、電燈や太陽光等で光っている感じを出して、立体感を示そうとしているとも採れなくはないからである。されば、その塗り潰しは、一切、やめた。また、三番目の個体のように、腹部の白い箇所に生じている黑色の斜線は、無論、印刷上のスレであるのだが、描いた人物が、そこにやはり膨らみのニュアンスを示すために、黒い点を添えていることは明らかであるからして、この斜線をすべて白くすることは、激しく躊躇せざるを得なかったから、やはり手を加えていない。]
【図版1】
■「尾長《をなが》ぶか」
「一名、をなかさめ。」
[やぶちゃん注:二行目は、原図では、「一名」が、右手にあり、「をなかさめ」と判じた部分が左側にある。当初、「一名を、なかさめ」だろうかと思ったものの、種同定の過程で、以上に読み変えた。而して、この二番めの表記は「をながさめ」の濁点落ちと考えた。そもそも、この極めて特異的に尾が上方にすっくと突き出るもので、生物学上はサメ全般に普通に見られる尾鰭の上葉部が長くなっていて、それを「異尾」と呼ぶが、この形状は、取り分け、他のサメ類とは、群を抜いて突き上がっており、明らかに、
ネズミザメ上目ネズミザメ目オナガザメ科オナガザメ属 Thresher(同科は一属のみで、三種を含む)
であると断定出来る。ウィキの「オナガザメ」に拠れば、『オナガザメ属では上葉の伸長がとりわけ著しく、胴体とほぼ同じ長さかそれ以上になる。尾の付け根の筋肉が発達しており、マグロやカジキ、サバなどを切り裂いたり気絶したところで食す』とある通りのハデさを示しているである。同属三種は以下で、総て本邦に分布する(世界分布は当該ウィキを見よ)。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の各種のページを示す。
ニタリAlopias pelagicus (「似たり」で、「由来・語源」に『オナガザメ(真オナガ)に似ているから』とある)
ハチワレAlopias superciliosus(「鉢割れ」で、「由来・語源」に『頭部に筋状のくぼみがあるため』)
マオナガAlopias vulpinus (「真尾長」で、「由来・語源」に『模式標本のオナガザメであるためだと思われる。それで「真」をつけた。「尾長鮫」は神奈川県三崎での呼び名からで、見た目通り』とある。
以上の「ハチワレ」のリンク先は、尾が見えないので、まず、学名で「グーグル画像検索」をリンクしておくが、比較し易いように、同様に、ニタリのそれも、マオナガのそれも示しておこう。……この三種、かなり似てはいる……しかし……よく見ると、マオナガのは前の二種に比べると、頭部がスマートな鋭角ではなく、下顎から腹部にかけてが、相対的に太くなっているのが判る。本図でも、そこがまさにそうなっている。決定打は、別名「をなかさめ」であった。「マオナガ」の「地方名・市場名」に、『ヲナガ オナガ』とあって、採集『場所』を『福島県小名浜、東京、神奈川県三崎、富山県新湊・四方・生地、三重県・和歌山県紀州、高知』とし『参考『紀州魚譜』(宇井縫蔵)』とするのである。されば、これは「マオナガ」で間違いないと考えるものである。]
■「けんさめ」
「大隅「けんのくり」」
[やぶちゃん注:以下、図の左側のキャプション。]
「大なるものなるもの、三、四尺。
色、黑く、口、小さく、歯、細く、
耳、あり。此《この》ふか、害を
なさす[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]。
従来、膽《きも》、疳《かん》・目病《めのやまひ》に用ふ。」
[やぶちゃん注:これは、全体のスマートさと、特に吻から頭部に至る箇所が、これまた、スラりとして長いことから、ツノザメ目ツノザメ科ツノザメ属 Squalus と踏んだ。さらに検討するに、
トガリツノザメ(尖角鮫)Squalus japonicus
であろう。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見よ。他に、
ヒレタカツノザメ(鰭高角鮫)Squalus formosus (同前の同種のページは、ここ)
フトツノザメ(太角鮫)Squalus mitsukurii(同前の同種のページは、ここ)
がいるが、全体のフォルムを比較すると、今一である。なお、民間処方らしき記載があるが、確認出来なかった。]
■「しろふか」「しろさめ」
[やぶちゃん注:名から、
メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus
と思ったものの、全体にふくぶくしくて、ちょっと迷った。しかし、漁獲後、時間が経って、不腐敗が起こっている個体なのかも知れない。]
■「しゆもく」
「西國にて、ねんぶつふかといふ。
土佐にて、かせふかといふ。
長《ながさ》、一𠀋餘《よ》に至る。」
[やぶちゃん注:傍線は画像では、右附き。さて、私の「かせふか」に疑問を抱く方がいると思う。『「かせふく」にしか見えない』と。しかし、下手な崩し字では、「か」の字の崩しが、「く」に見えることは、往々にあるのである(私は図書館司書資格を所持するが、「資料特論」の講義で、散々、地下文書判読で悩まされた)。信じられない方は、「人文学オープンデータ共同利用センター」の『「か」(U+304B) 日本古典籍くずし字データセット』の、そうさなぁ、『源氏物語 (485)』(「源氏物語」の例は二つあるので、その数字ものを見よ)の例えば、上から二段目の二つ目などで、右払いの時計回りの曲げが緩いものは、明らかに「く」のように見えることがお判りであろう。これは写本者によるもので、微かでも、よく見ると、時計回りは微かに見えるが、これが地下文書では、ただの「く」二しか見えないものが、しばしば見られるのである。河原田氏は、草書の達人でも何でもないから、こう書くことは、幾らもあろうと思うのである。しかも、ここは「かせふく」では意味不明だが、「かせふか」なら、バッチ・グーなのである。
これは、百パーセント、
ネズミザメ上目メジロザメ目シュモクザメ科シュモクザメ属シロシュモクザメ Sphyrna zygaena
である。生体では、腹部は白いが、この図は鰭の様子から、斜め左上方から背部を描いたものと推察される。サイト“Mexican Fish”の“Smooth Hammerhead“、”Smooth Hammerhead, Sphyrna zygaena ”の最初の画像を見られたい。概ね、一致を見ることが納得されるであろう。而して、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見て戴きたい。まず、その「代表的な呼び名」に★『シュモクザメ』とあり、「地方名・市場名」には、ズバり、★『ネンブツブカ』があり、「場所」は★『鹿児島』とある。他に、★『ネンブツ』があり、「場所」は★『玄海、佐賀、熊本県天草』とあって、以上は、本キャプションに『西國』と一致する。他に『ネンブツザメ』があり、「場所」は『茨城県大津』とあった。次に、問題の『カセフカ』であるが、やはり、「地方名・市場名」には、ズバり、★『カセブカ』が挙がっており、「場所」は『和歌山県白崎、大阪、広島県、山口県下関』とある最後に、★『高知県』とあるのだから、誰も文句は言うまいよ。]
[やぶちゃん注:本オリジナル電子化は、底本を国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』(本登録をしないと見ることは出来ない)である桑原羊次郞 著の「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊)の画像に拠り、基本、視認してタイピングして作成する。以下の没年で判る通り、本書はパブリック・ドメインである。底本が、以上の『送信サービスで閲覧可能』扱いとなっているのは、挿絵を描いておられる松江市出身の染色工芸家であられた金津滋(かなつしげる 大正一二(一九二三)年~平成八(一九九六)年)氏が著作権継続であるためと推定される(金津氏の事跡については、当該ウィキを見られたい)。従って、本書の本文を電子化することは、何ら、問題はない。無論、随所にある金津氏の作品の画像は、非常に味わいのあるものであるが、一切、画像としては使用出来ないので、当該箇所は、私が、注で解説した。
作者桑原羊次郞(くわばらようじろう:慶応四(一八六八)年~昭和三〇(一九五五)年)氏は、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『明治後期から昭和前期にかけての美術工芸研究家、社会事業家、政治家(衆議院議員)。号は双蛙(そうあ)』。『肉筆浮世絵コレクター、装剣金工研究家として知られる』。明治四三(一九一〇)『年の日英博覧会では日本美術部門委員を務めた』。『代々』、『松江藩両替商を務めた「桑屋太助」本家の6代目・愛三郎の次男(第4子)として生まれた。明治9年(1876年)より内村友輔(鱸香)の私塾「相長舎」に通う。明治14年(1881年)5月、本町小学校上等科を卒業し、同年9月に松江中学校へ入学した。在籍当時の松江中学校長は渡辺譲で、初等中学科での同級生には桂田猪熊・林玉之助・小倉寛一郎・成相伴之丞・森田龍次郎がいた』。『明治18年(1885年)7月に中学を卒業した後、上京して神田錦町に新設された英吉利法律学校に入学する。在籍当時の校長は創立者の一人である増島六一郎で、講師には菊池武夫・岡村輝彦・奥田義人・土方寧・平沼騏一郎・馬場愿治らがいた。また、後に外務大臣となる小村寿太郎が「英国法律」を講義していた。明治22年(1889年)9月、英語法学科の第1期生として特別認可部を卒業した』。『明治22年(1889年)、桑原本家7代目を継いでいた兄・猪太郎が27歳で病死したため、急遽松江に帰郷して本家8代目の家督を相続することになった。翌明治23年(1890年)、佐々木佐吉郎・諏訪部彦次郎らとともに私立松江法律学校を殿町に創立し、支持を仰いだ岡崎運兵衛が名誉校長に、羊次郎が校主兼講師となったが、明治24年(1891年)、羊次郎が渡米の意志を持って再び上京すると、同校はこの留守中に廃校となった』。『明治24年(1891年)、上京した羊次郎は菊池武夫、小村寿太郎宅を訪問し、アメリカ留学について助言を得た。同年10月、横浜港から出発して渡米し、ミシガン大学では同校卒業生並の待遇で大学院に入学、明治25年(1892年)6月「マスター・オブ・ロース」(Master of Laws:法学修士)の学位を得た』。『再び松江に帰郷し、明治27年(1894年)8月、松江商業会議所の特別会員に当選した。明治28年(1895年)10月、織原万次郎・山本誠兵衛・清原宗太郎とともに松江電灯株式会社発電所を殿町に設立。明治29年(1896年)1月には松江銀行監査役に当選、明治31年(1898年)1月同行取締役に就任した』。『大正6年(1917年)4月に、第13回衆議院議員総選挙で島根県松江市から選出された岡崎運兵衛が、大正8年(1919年)12月に死去したことに伴い、大正9年(1920年)1月に行われた補欠選挙で当選して』、『衆議院議員となり、憲政会に所属して1期在任した』。『以降、小泉八雲記念館、私立松江図書館(現島根県立図書館)、中央大学島根学員会の創設に携わる』。『昭和30年(1955年)逝去。旧蔵書や自著からなる「桑原文庫」が島根大学附属図書館にある』とある。以下、「著作」は引用元で見られたい。
さて。私は、小泉八雲を小学生の時から、偏愛してきた八雲フリークである。さればこそ、二〇二〇年一月十五日にブログ・カテゴリ「小泉八雲」で、彼の来日後の作品集全十二冊総てのオリジナル電子化注を完遂している(日本語で、来日以降の八雲の作品総てを読めるのは、私のブログ・サイトだけである)。しかし、私は、実は、文学分野の評論――というか「評論家」なるものを、常に、どこか、胡散臭いものと感じている人種でもあるのである。さればこそ、最も愛する芥川龍之介に関するもの以外を除いて、文学評論の書籍を余り読んでいないし、蔵書でも相対的に少ない。而して、小泉八雲関連のものでも、尊敬する平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集に付随しているセツ夫人や長男一雄氏のものさえ、二十代の時に読んだきりであり(そこには実は桑原氏の本書に対する批判が載っているのだが、すっかり失念していた)も、ちゃんとしたものでは、以下に述べる長谷川洋二氏の「小泉八雲の妻」ぐらいしか読んでいない。その中で、本書については、知ってはいた(後述する)のだが、つい先日、「ばけばけ」が話題になっている中で、たまたまFacebookのある投稿で、本書の《鶯のエピソード》の部分(本底本のここの右丁の最終段落である)が写真で載っていたのを見て、それを読んで、俄然、惹かれ、この仕儀に至ったのであった。
ところが、ここ数日、ネットを調べていると、本書については、例えば、ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」を見て、まず、びっくりした。そこでは、本書の金津氏の挿画が、しっかり画像で載っているのである。いやいや、それは、当然なのであった。このブログ主は金津滋のお孫さんなのであった! 底本のものよりも、遙かに美麗なので、是非見られたい!……いや……しかし、そこで、ブログ主は、
『本書の内容はいささか問題ありとされているため、内容に触れることは避ける。』
と書いておられたのである。
……その瞬間! 思い出したのである!
……長谷川洋二氏の「小泉八雲の妻」の一節を!
幸いなことに、やはり、国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』のここで、一九八八年松江今井書店刊の当該箇所(『㈠ 実情解明の試み』の冒頭に「旧来の説明」以下)を見ることが出来る。――因みに、この長谷川氏の御本は、作者から献本されたもので、実は、長谷川氏は、私が最初に国語教師として勤務した神奈川県立柏陽高等学校で、同僚(担当は世界史)であったのである。――
さて、そのここで、本書名が出て、その条の最終段落で、『しかし、二人の結婚に関する、この富田ツネの長男の証言は、後述の通り、事実関係に矛盾があり、その信憑性(しんぴょうせい)が疑われた。そしてセツとハーンの長男である一雄は、ハーン生誕百年の昭和二十五年に出版された『父小泉八雲』の中で、桑原羊次郎を無責任と非難し、改めて、西田千太郎を『両親の媒酌人』と呼び、二人は明治二十三年十二月に結婚したと書いたのである。桑原羊次郎一旦(いったん)封じられた。』とあるのである。
しかし、長谷川氏は、その、続く『新しい解釈』で、鮮やかにその後の新事実が語られるのである!……さても……ここ以降は、是非、最近、新版となって書店に並んでいるので、是非、御購入戴いて、お読みあれかし!
而して、ますます、私の中で、「このオリジナル電子化注は、せずんば、あらず!」と響いたのであった。
なお、本書は、その奥附に(赤字で記されてある)、
『昭和25年5月25日印刷・昭和25年6月1日発行・昭和27年5月1日第2版昭和28年10月1日第3版・著者桑原羊次郞・發行者 三宅美代治(松江市殿町383)・印刷者 宮井一雄(松江市殿町383)・印刷並發行所 山陰新報社(松江市殿町383)・定價1册50円・惣領8円』とあり、初版も既に敗戦後なのであるが、実は、以下の「序」文の最後のクレジットは、『昭和十五年六月二十三日』とあるので判るように、当初の企画は戦前であったことが判る。従って、以下の本文も戦前に元原稿が出来ていたと考えてよく、従って、元原稿は、当然、歴史的仮名遣で正字であったのである。また、初版の頃も、未だ活版植字の移行期であり、しかも、初版の原印版を、後も使用し続けたらしく、漢字は旧字体が多く見られ、歴史的仮名遣の一部が残っているものが、かなり散見されるのだが、忠実に電子化するので、基本的に、そうした時代の匂いを味わいながら、読まれたい。若い読者が、激しく躓くところ以外には、ママ注記は、なるべく、しないつもりではある。而して、読みを添える場合は、歴史的仮名遣と現代仮名遣の二種を附すこととする。それが作者への、せめてもの親切心の表明と考えるからである。
さらに言っておくが、私はドラマ「ばけばけ」に《便乗して、この電子化を手掛けているのではない》ことを明言しておく。私は無論、毎日のそれを、見ている。テレビ視聴は、それだけ、である。私は現在、ブログ・サイトに於いて、複数の電子化注プロジェクトを行っており、さらに、国内だけでなく、外国の日本文学の院生や研究者からの問い合わせや助言で、非常に忙しい日々を暮らしている。されば、テレビは「ばけばけ」だけを、録画で、昼食時に見ているだけである。さらに、《同ドラマの激しい脚色にも一家言ある人種――あまりに事実と異なる部分に対して――ある者であり、ドラマにすっかり惹かれている視聴者にとっては、聴きたくない事実をも注で語ることを辞さない》ことをも御理解戴いた上で、この電子化注を読まれるように、切に願うものである。]
[やぶちゃん注:表紙。]
松江に於ける
八 雲 の 私 生 活
桑 原 羊 次 郞 著
[やぶちゃん注:中央に切り紙風の黒い円の中に八雲の真右からの顔。]
山 陰 新 報 社 刊
[やぶちゃん注:扉。]
松江に於ける
八 雲 の 私 生 活
桑 原 羊 次 郞 著
[やぶちゃん注:中央に切り紙風の四つ角を内側に窪ませた中に、上に首の先と煙管(きせる)の羅宇(らう:吸い口部分)、下に同じ煙管の首の根本と雁首(がんくび:火皿(ほざら))の図。]
〔島 根 叢 書〕
― ⑪ ―
1 9 5 0
[やぶちゃん注:「目次」。ここの右丁。下方に中央に、「扉」とは異なる煙管の切り紙風の図がある(三本から成るもので、上に大きな太い全景、中央左に異なるものの吸い口部分、下に別な短い小さなもののほぼ全景)。中央に朱印の国立国会図書館蔵書印(年月日は『52, 9. 16』。国立国会図書館所蔵記号番号が左上(手書き)・下中央(スタンプ)が打たれてある(記号番号は異なる)。リーダーとノンブルは省略した。「目次」・「裝𤲿・カット」はゴシック。]
目 次
序 文 エモリー・L・タアリー
自 序
緖 言
八雲の私生活
富 田 旅 館 時代
京店と北堀時代
住 居
衣 服 調 度
食 事 と 嗜 好 品
習 癖
交 友
雑 事
小泉八雲略傳
裝𤲿・カツト 金 津 滋
[やぶちゃん注:写真ページの一枚目(写真ページは総て印画紙。画像も恐らく著作権満了と思われるが、万一の場合を考えて、示さない)。ここの左丁。上左半分に小泉八雲の知られた右からの楕円形縦のポートレイト写真。以下は、その写真の左下のキャプション(縦書)。]
ヘルンの肖像
[やぶちゃん注:以上の下半分。横長の写真一葉。恐らく、記念写真葉書かとも思われる。以下、その写真の右請上のキャプション(横書・左から右へ。最後の鈎括弧無しはママ)。]
史 蹟 「小泉八雲旧居」松江市北堀町(全景)
[やぶちゃん注:ここの右丁。写真二枚。上と下の写真へのキャプション(左下方にある)。一行字数を合わせた。]
上 八雲遺愛の品々。トラン
ク、机、椅子、ランプ、
ペン皿、火鉢、キセル等
八雲記念館(八雲旧居隣
接)内に陳列。
下 八雲遺愛のルリヤナギ、
旧居玄関入口。
[やぶちゃん後注:以上の「ルリヤナギ」というのは、漢字で「瑠璃柳」=ナス科ナス属ナス科ナス属 Solanum melanoxylon (synonym:Solanum glaucophyllum )。小低木で、ヤナギに似た葉と星形の花を咲かせ、切り花にも好まれる。暖かな地方では花の後に瑠璃色の実がなる。]
[やぶちゃん注:ここの左丁。写真三枚。それらの写真へのキャプション(右中央にある。同前)。モノクロームであが、かなり上手く撮られてある。]
上 八雲の居間より根岸邸前庭を望む。
中 根岸邸前庭より八雲の居間を望む。
下 八雲の居間より書斎を通して蓮池を望む。
[やぶちゃん後注:「根岸邸」八雲が住んだ屋敷は、江戸後期の松江藩士であった根岸家の武家屋敷であった。]
[やぶちゃん注:写真ページの最後。ここの右丁。手書き(作者不詳)であるが、よく書けている(全体は枠ではなく、塀である。左上納に勝手口がある。方位指示附きで、『正門』・『土蔵』『四・五坪』・『物置』『六坪』・母屋の各部屋の詳細配置(各部屋の畳帖数明示)が描かれ、庭も池らしきものもある。図に右下方に『建坪四七・七五坪』とある。非常に見易いので、地図内の細かなキャプションの全部までは電子化しない。以下は図の下方にキャプション(印刷)のみ示す。]
小泉八雲舊居平面圖。松江市北堀町に現存、
昭和15年8月史蹟の指定を受く。
序
ラフカデイオ・ハーンのこれらのささやかな追憶を世の人々に保存して來た桑原氏の先見に對してこの著書の讀者は最大の感謝を感じているに違いない。
短期間ではあつたがハーンの松江在住に際して彼にかしずいた二人の婦人の記憶をひき出した、これらの小さなそして非常に新しいスケツチは無限の價値を持つものであり、またハーンと彼を深く愛する歸依者たちとの間をつなぐなお一つのリンクを形ずくる[やぶちゃん注:ママ。]ものである。
ハーンは松江とその善良な人々に屬する愛を決して失わず、たえず彼の妻に對して松江ヘの歸還を許容するようにと、熱心に求めた。しかし大都市の魅力を節をとりこにした。そして短い来訪を除外しては彼は再び愛する出雲へ歸ることができなかつた。
もし彼が松江を離れなかつたとしたら、またもし彼が松江に歸えることを許されていたとしたら、彼の世界はたしかにより豐かなものになつていたであろう。なぜなら彼が〝古日本〟の小片を學んでから後は再び妖幻なタツチを得ることはできなかつたからである。
松江時代はいくつかの理由からハーンの日本生活に於ける最重要なものであつたといえる。ここで彼は彼の妻節に會い、彼の友にしてまたよきアドバイザーであつた西田千太郞、彼にとつて貴重な文學的アシスタントであつた大谷正信、そして古日本の最後の姿に際會したのだ。
ここで彼は自身を特異な生活の樣式に適應させ、また出雲傳說へふみ入れさせていつた。また彼は彼自身を家長とするサムライ家族たらんとする考えを確立させた。そして彼こそはあるがままの日本の生活を實際に見得るものとして三浦按針(ウイリアム・アダムス)以來の最初の西歐人であると感じたのである。
彼の憩いの小さな夢は、寒い松江の冬のきびしい刺戟によつて空しくもうちくだかれ、彼をしてこの仙境を永遠に去らしめてしまつた。それは玉手箱の中をのぞき見た時突如として仙境から現實にひきもどされたあの浦島太郞に似ていた。
桑原氏のこの示唆に富んだ著書にふくまれている事件や常識では吹き出してしまうようなナンセンスの數々は、ハーンの松江時代の幸福を形ずくつた生活の小片である。これらのことがらから現實にはあり得ない夢幻の世界が作られまた彼の現實からの開離[やぶちゃん注:ママ。「乖離」。]は、彼に關して起つた事柄について、愉快にも理解の手のとどかなかつたことによるところ少し[やぶちゃん注:「すくなし」。]としなかつたのである。
家族圏內に起きた多くの危機に際してハーンと節の間に緩衝を用意した西田千太郞の思慮と氣轉、この小さなプロフエツサーを幸福にならしめるために籠手田知事によつて與えられた敎訓はイルージヨンを保存する上に大きな効果となつている。
一九四九年六月、松江を訪れる機會があつたので私はこの美しい土地へのハーンの感情を諒解できるのである。私はあえていうがこの美しい土地は戰爭にもかかわらず殆ど變つていない。停車場と電車線――その何れもが都市のプロパーには入つていないが――[やぶちゃん注:助詞「が」が欲しい。]出來た以外にはハーンが彼の夢幻の世界を破壞することを恐れていた工業主義のタッチは少ない。實際自轉車があり、少々の自動車があるが、カランコロンの下駄の音が昔のままに大橋の上や露路に響いている。
私の訪問は短時間であつたが、變化に富んだ宍道湖やあらゆる方角に峨々たる地平を劃す靑い山脈の見通しにハーンが感じたと同じノスタルジヤを私も感じた。人が桑原氏の作品を讀む時「知られざる日本の面影」の記憶の薄らがぬ人々を同樣のノスタルジヤがひきつけるであろうと信ずるものである。
一九四九年七月二十日 東京にて
米空軍少佐 ヱモリー・L・タアリー
[やぶちゃん注:原文を書いた「米空軍少佐」である「ヱモリー・L・タアリー」という人物は、かなり探してみたが、見出すことが出来なかった。識者の御教授を乞うものである。にしても、全体に、極めて好意的な、素敵な献辞である。一九四九年時で少佐であったということから、既に亡くなられており、著作権満了であろうと推定するが、万一、著作権が継続していることが判ったら、カットする用意はある。但し、これは、桑原氏の訳者権が第一にあるのであればこそ、カットする必要は、私は、無い、と考えるものである。
「彼の憩いの小さな夢は、寒い松江の冬のきびしい刺戟によつて空しくもうちくだかれ、彼をしてこの仙境を永遠に去らしめてしまつた」現在、小泉八雲(当時はラフカディオ・ハーン)が松江を去って、熊本五高のお雇い教師となったのは、実際には、妻の節さんを見る当時の松江の人々の偏見に満ちたそれに、八雲が堪えられなかったからであることが、明らかになっている。繊細な小泉八雲なればこそ、である。
「西田千太郞」(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)は教育者。郷里島根県で母校松江中学の教師を務め、この明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと親交を結んだ(当時は同校教頭であった)。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郎日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に惜しくも三十六の若さで亡くなった(「講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
「大谷正信」英文学者大谷正信(明治八(一八七五)年〜昭和八(一九三三)年)。松江市生まれ。松江中学のハーンの教え子で、東京帝大英文科入学後もハーンの資料収集係を勤め、後に金沢の四高の教授などを勤めた(室生犀星は彼の弟子とされる)。また、京都三高在学中に虚子や碧梧桐の影響から句作を始めて子規庵句会に参加、繞石(ぎょうせき)の俳号で子規派俳人として知られる。
「籠手田知事」(天保一一(一八四〇)年~明治三二(一八九九)年)。元平戸藩士で剣術家としても知られた。維新後は明治元(一八六八)年の大津県判事試補就任に始まり、大津県大参事・滋賀県権令・滋賀県令・元老院議官を経て、明治一八(一八八五)年九月四日に島根県令(県知事)となっている(翌明治十九年七月十九日に「県令」から「知事」に呼称が変更された。島根県知事退任は明治二四(一八九一)年四月九日)。ハーンと籠手田の接触は早く、同年の六月頃であることが、個人サイト「わにの昼寝」の「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)」(リンク先の少し下の記事)の以下の記載で判明した。ハーンは日本到着(四月四日)の三ヶ月後には、『東京で』、『当時』、『島根県知事であった籠手田安定(こてだやすさだ)と、島根県尋常中学校および師範学校の英語教師となる契約を結んだ。当時としては破格の月給』百円で、『ハーンを雇い入れた知事の籠手田安定は、殖産や教育に力を入れ、わらじ履きで県内を巡視し、人情味豊かな知事として知られていた』とあるからである。続いて籠手田は新潟県知事・滋賀県知事を歴任、最後は貴族院議員となっている。なお、ウィキの「籠手田安定」も参照されたい。ハーンが一目で惹かれた古武士のような肖像写真が見られる。
「プロパー」 ‘proper’は、形容詞で「その分野に本来的で固有な」の意。この訳では、準名詞的用法で、当時の「現代風の要素を代表するもの」の謂いである。但し、「戦後の松江にあっては、それらは既に当たり前の対象であって、当たらなくなっているが、」というヱモリー少佐の印象表現である。
「知られざる日本の面影」小泉八雲が日本来日後、最初に纏まって書いた作品“ Glimpses of Unfamiliar Japan ”。私が最初にブログ・カテゴリ「小泉八雲」で本格的に電子化注したのも、この作品である。そこでは、主訳者であった落合貞三郎氏によって「知られぬ日本の面影」と訳されてある。]
[やぶちゃん注:以下。「自序」。「出版に當つて」はゴシック。署名は底本では、二字上げインデントである。]
自 序
私は松江人である。八雲が松江に來た明治二十三年は私の松江歸住中の時代で、私の師友である西田千太郞氏が松江市上、つとに八雲と共に徘徊しておられるのに遭遇したことがあり、その都度西田氏と挨拶を交換すると同時に、ただ八雲に目禮をなすまでの程度で、私は直接に交渉を有するものではない。
明治四十三年(西曆一九一〇年)私は日英博覽會美術部擔任者としてロンドンにあり早やくも八雲の盛名を聽いた。その後欧米を歷遊して大正二年(西曆一九一三年)歸國に至る間、歐米到るところに於て八雲の文名の甚だ高いのに驚嘆した。
當地出身友人法學博士岸淸一君もまたしばしば歐米に旅行して八雲の文名の高いのに驚愕した一人で、私は歸國後同博士とはかつて八雲顯彰のことに努めんことを約した。幸い私は鄕里松江にあつた關係上、大正四年(西曆一九一五年)松江市に於て知人數人と相謀り、八雲會を創設して今日に至つた。私は以上の如き因緣によつて今囘八雲の松江に於ける私生活を委細に檢討し、その全貌を後世に傳えて八雲傅記に數頁を加えんと欲するものである。
要するに私は本書に於て、八雲が斯くの如く考えていたということをいうのではない。八雲は斯くの如き私生活をしていたというのである。けだし私は一文豪の全人格はその著書と書簡を精しく檢討するだけではなく、赤裸々な些細な私生活を透してこれを觀察するのでなければ決してこれを把握することが出來ないと信ずるからである。
昭和十五年六月二十三日
雙蛙 桑 原 羊 次 郞
[やぶちゃん注:「雙蛙」「さうあ(そうあ)」。彼の雅号。「Web NDL Authorities」の彼のページで確認した。]
出版に當つて 私が本稿を完稿したのは實に十年以前で、當時既にヘルン先生に關して識者の注意があつたことは勿論であるが、今日の如く盛んではなかつた。しかし本年はヘルン先生百年祭の計畫があり、その生涯を映𤲿化する盛擧あり、國會もこの計畫に賛同するとの決議をなしたと聞く。けだしヘルン先生顯彰運動はその最高潮に達したかの感があるので、これを好期とする本書の出版は最も時機を得たものと思う。こゝにいささかその來由を述べるものである。
昭和二十五年四月
八十三翁 桑 原 羊 次 郞 再 識
[やぶちゃん注:「出版に當つて」はゴシック。
「法學博士岸淸一」(きしせいいち 慶応三(一八六七)年~昭和八(一九三三)年)は弁護士・法学博士。島根県生まれ。東京帝大卒。スポーツの振興に努め、大日本体育協会会長・国際オリンピック委員となる。没後、その功労を記念して「岸体育館が建てられた」。貴族院議員(以上の主文は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]
[やぶちゃん注:以下、「緖言」。『ハン』はママ。『一』『二』『三』『四』はゴシック。セツ夫人の「思ひ出の記」の引用は、全体が一字下げで、行末は最後まであるが、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を減じた。]
緖 言
小泉八雲(ラフカデイオ・ハン)――松江ではヘルンと稱す――は、曰本に來朝以來、橫濱、松江、熊本、神戶、東京と五度その居所を換えているが、各地に於ける八雲の業績とその著書、あるいは彼の沒後に現われた八雲書簡集などについては既に發表された著書も少なくなく屈指にいとまあらずというてよい。しかして私はこれらについて何等の文的學論評をなすものではない。
[やぶちゃん注:「文的學論評」何となく奇妙な熟語である。思うに、「文學的論評」の誤植であろうかと思うのだが、第三版まで修正されていないというのも異様ではある。一応、そのままに示した。]
私はただ八雲がその生活中最も愛着した松江僑居中に於ける日常私生活を詳記したもののの甚だ少ないことを遺憾とするものである。試みにその參考として左記諸書を引照する。
[やぶちゃん注:「僑居」歴史的仮名遣「けうきよ」(きょうきょ)で、「仮に住むこと・その住(す)まい・仮ずまい・寓居(ぐうきょ)」。]
一、「小泉八雲」
田部隆次著、早稻田大學から大正三年(西曆一九一四年)四月十八日發行。
[やぶちゃん注:「田部隆次」(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)は英文学者。富山県生まれで、東京帝国大学英文科でハーンに学び、後にはハーン研究と翻訳で知られた。富山高等学校(現在の富山大学)にハーンの蔵書を寄贈、「ヘルン文庫」を作った。女子学習院教授を勤めた。
なお、この著作は、国立国会図書館デジタルコレクションのここで、誰もが、読むことが出来る。]
二、「思い出の記」
前記田部氏著書に掲載されている小泉夫人節子の記述である。
[やぶちゃん注:正しくは「思ひ出の記」である。小泉セツ(慶応四年二月四日(一八六八年二月二十六日)~昭和七(一九三二)年二月十八日)は当該ウィキに拠れば、『戸籍上の名前は小泉セツだが、本人は節子の名を好んだ』とある。解説にある通り、この作品は前の田部隆次「小泉八雲」の『第十一章 思ひ出の記』で『小泉節子』名義で、初めて活字化された。]
三、「松江に於ける小泉八雲」
根岸磐井著、松江市八雲會から昭和五年(西曆一九三〇年)十二月二十日會行。
[やぶちゃん注:「根岸磐井」(ねぎしはんせい/いはゐ 元治元(一九六四)年~平成五(一九九三)年)は小泉八雲旧居当主にして、小泉八雲の教え子。「國指定史跡 小泉八雲旧居]公式サイト内の「小泉八雲旧居について」の「小泉八雲と根岸家」に拠れば、『この屋敷は、松江藩士・根岸家の武家屋敷でした。八雲が松江にいた当時、家主の根岸干夫(たてお)は郡長として転勤していたため』、『この家は空いており、庭のある侍の屋敷に住みたいと希望する八雲に貸すことになりました。八雲が気に入った旧居の庭は、根岸家によって1868(明治元)年に造られたものです』。『また干夫の長男である磐井(いわい)は島根県尋常中学校、熊本第五高等中学校、東京帝国大学で八雲の指導を受けた教え子でした。東京帝国大学卒業後、磐井は日本銀行に勤務していましたが、八雲が愛した旧居を保存するために1913(大正2)年に松江に帰り、1920(大正9)年から屋敷の一部を公開しました。その後、記念館設立などにも尽力しました』。『旧居は代々根岸家によって保存され、2018(平成30)年に松江市の所有となった後も、その意思を継いで大切に保存されています』とある。]
四、「父八雲を憶ふ」
小泉一雄著、警醒社から昭和六年(西曆一九三一年)七月十五日發行。
[やぶちゃん注:「小泉一雄」(明治二六(一八九三)年~昭和四〇(一九六五)年)は東京生まれで、小泉八雲の長男にして文筆家。早大卒業後、拓殖大教務部、横浜グランドホテルに勤務。後、父の遺稿の整理・書簡集の編集などに携わった(ここまでは講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。著作「父小泉八雲」もある。この「父八雲を憶ふ」の初版は国立国会図書館デジタルコレクションのここで、『送信サービスで閲覧可能』で見ることが出来る。]
これらの既刊四書を熟讀して、松江市に於ける八雲の日常私生活を調査すれば、四書ともにこれを全く記していないというわけではないが、往々遺漏するものがあり、誤傳と見るベきものもあり、また矛盾と見るべきものがあつて何れも甚だ不備簡略に過ぎている。これこそ私をして訂正もしくは詳述して置くことの必要を感じさせた所以である。
[やぶちゃん注:ここより以下の内容は、本書の本文に語られる内容をダイジェストしているものであるので、人物・通称地名等の注はそちらでしっかりやることとし、難読かと思われるものは、調べて、読みだけは割注したが、基本、注は附さない。]
中でもその最も著しい誤傳と見るぺき一例は、これまでの諸書がすべて一致して八雲の結婚は明治二十三年十二月とも他旅館に於て擧行されたとなしていることである。しかし本年(西曆一九四〇年)六月十七日附八雲の親友西田千太郞氏の令弟、元九州帝國大学敎授西田精[やぶちゃん注:恐らく「せい」。ここ(PDF)の写真に添えられた自筆英文サインのイニシャルから推定。]博士の書簡によれば、博士が度々令兄の使者として京店裏[やぶちゃん注:「きやうみせうら」。根拠は本文で示す。]の八雲借宅(明治二十四年(西曆一八九一年)二月富田旅館からこの借宅に移居す)を訪問した時は、まだ節子夫人を見かけず、その後間もなく同宅に於て節子夫人と結婚式を擧げられたため、明治二十三年十二月に結婚したとの記事は何れも誤傳であると斷定したことである。その他八雲が根岸邸住居時代に、割竹の庭下駄をはいて愉快に庭園を散步したなどとの記事は、私をして大疑問を發せしめた事項で、その他これらに類似した諸點を解決すると同時に、その日常私的生活の全貌を詳記しておくことの決して無駄ではないことを信ずるものである。
この目的を注するために最も緊要かつ適切な方法は、八雲が松江住居中、彼に最も接近した即ち朝夕八雲に親灸した人々を探し出して、その實見談を聽取することで、私はこの方法以外他によりよき方法のあるとは考えられないのである。
そこで私はまず根岸磐井氏未亡人菖蒲[やぶちゃん注:「アヤメ」である。先の「國指定史跡 小泉八雲旧居]公式サイト内の「小泉八雲旧居について」の写真のキャプションにあった。]及び同氏令妹岸崎豐子の二女史を訪問して、八雲に親近した人々のうち今なお生存している人はないかと質したところ、幸いにも兩女史から節子夫人の「思ひ出の記」の中の次の一文中に見える、
「この末次の離れ座敷(京店の偕宅)は湖に臨んでいま
したので湖上の眺望が殊に美しく氣に入りました。し
かし私と一緖(八雲の結婚)になりましたので、ここ
では不便が多いというので、二十四年の夏のはじめに
北堀(根岸宅)というところの士族屋敷に移りまして
一家を持ちました。私共と女中と小猫とで引越しまし
た。」
[やぶちゃん注:この当該部は、先の田部隆次「小泉八雲」の「第十一章 思ひ出の記」のここ(二行目以下)。但し、二つの段落になっている(後者は冒頭のみ)ものを接合して部分引用してある。]
と記載してあるこの女中というのが、小泉氏の親戚高木苓太郞[やぶちゃん注:恐らく「りやうたらう(りょうたろう)」。]氏の一女、卽ち高木八百刀自で當年六十七歲を以て今なお健在でいられるのを紹介され、これについで更に驚くべき新發見の人物は往年八雲が富田旅館[やぶちゃん注:「とみたりよくわん(とみたりょかん)」。大森拓也氏のサイト「朝ドラマニア」の『ばけばけ』旅館の主人・花田平太(生瀬勝久)のモデルは誰?小泉八雲が宿泊した「富田旅館」の史実]に拠る。]滯在中、もつぱら八雲を世話した旅館主の妻ツネ刀自當時三十二歲で今なお八十三歲の高齡で富田別莊に隱棲していられるのを見出したことである。
[やぶちゃん注:「刀自」「とじ」と読む。女性に対する古風な尊称。現代でも旧家の女性に対して使われる。古代の后妃(こうひ)の称号の一つである夫人(ぶにん)も和訓は「オホトジ」である。戸主=トヌシの約か、ともいうが、不詳。七~八世紀の石碑・墓誌に豪族層女性の尊称として見え、「万葉集」にも「妣刀自(ははとじ)」等の例がある。「さまざまなレベルの人間集団を統率する女性」が、原義か。族刀自(ぞくくとじ)的なものから、家刀自(いえとじ)へと推移するが、古代には里刀自や寺刀自もおり、後世のような主婦的存在に限られていない。後宮(こうきゅう)の下級女官(にょかん)にも刀自がいた。以上は小学館「日本大百科全書」を主文に使用した。]
斯くの如き好奇緣に惠まれた私は、天惠ともいうべきこの好機逸すべからずと、從来世人が閉却している富田ツネ、高木八百[やぶちゃん注:恐らく「やほ(やお)」。]兩刀自に面接して、この記錄を作成し得たことを最も喜びとするものである。
なお本書中〔註〕とあるのは私がこの聽取書を完了した後に加えたものである。
昭和十五年六月二十三日
雙 蛙 桑 原 羊 次 郞 識
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。
以下、全部で十三枚の図版がある。お待ちあれ。]
鱶を捕獲するは、各地、異同ありと雖ども、九州地方の仕方を、よろし、とす。故に茲(こヽ)に其方法を擧(あぐ)れば、繩釣(なわつり[やぶちゃん注:ママ。以下、時に、このままで振る。])にして、其繩の長さは三百六十丈[やぶちゃん注:一・〇九一キロメートル。]、これに通例十一個(か)の鈎(はり)を連垂(れんすい)し、其鈎と鈎との間(あいだ)は各(おのおの)二十四丈[やぶちゃん注:七十二・七二メートル。]を隔(へだ)て、繩の兩端(りやうたん)には周圍三尺五寸[やぶちゃん注:一・〇六メートル。]、長(なが[やぶちゃん注:ママ。])壹尺五寸[やぶちゃん注:四十五センチメートル。]の浮樽(うきだる)を繫(つな)ぎ、繩(なは)は直(すぐ)に錨(いかり)に聯接(れんせつ)す。其(それ)に用(もちゐ[やぶちゃん注:ママ。])る餌(ゑ)は、量目(りやう《もく》)二貫目[やぶちゃん注:七・五キログラム。]許(ばかり)の鰤(ぶり)を十一に切り、每鈎(はりごとに[やぶちゃん注:「に」はルビにある。])、餌(ゑ)を揷(さ)し、漸次(ぜんじ)、繩を埀(た)る。而(しかう)して、朝(あさ)に收(をさ)むるを、『朝繩(あさなわ)』といひ、夕(ゆふべ)に收(をさむ)るを『夕繩(ゆふなわ)』といふ。『おろかぶか』の如きは、釣りて、船に近(ちかづ)きたる時、懸鈎(かけはり)二本を用ひて、口唇(くちびる)に、かけて、捕り、又、『探釣(さぐりつり)』といふもの、あり。其鈎(そのはり)は、長(ながさ)壹尺三寸[やぶちゃん注:三十九・四センチメートル。]、量目九十目[やぶちゃん注:三百三十七・五グラム。]あり。鰤の頭部を餌(じ)となし、艫邊(ろへん)に提下(ていか)し、其緍(そのいと)[やぶちゃん注:この「緍」は音「ビン・ミン」で、訓は「いと」・「さし」。意味は「糸・釣り糸」の他、「さし」と読んで「銭(ぜに)さし」、所謂、「銭の穴に通して銭をまとめる紐」として知られ、別に「繩」の意でも使う。この場合は、読みの「いと」よりも、「さし」、それも「太いさし」で、「繩」をイメージした方が実像に相応しい。]を舟中に繫きつけ[やぶちゃん注:「き」はママ。]、漁人(ぎよ《じん》)、これに枕(まくら)して、鱶の、餌にふるヽを待ち、其響きに應(おふ)して[やぶちゃん注:読み・清音孰れもママ。]、急ぎ、緍(いと)を曳く。時に當り、蟻は、其餌(そのじ)を逐(おふ)て、水面(すいめん)に、出づ。此(この)とき、銛(もり)を擲(なげう)ちて、衝(つ)き捕(と)るもの、とす。
[やぶちゃん注:「鰤」出世魚として知られる条鰭綱スズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata は、一年で三十二センチメートル前後で、以降、二年で五十センチ前後、三年で六十五〜七十、四年で七十五前後、五年を経ると八十センチメートルを超える。通常の大型個体は全長ほぼ一メートルで、体重八キログラム程度であるが、最大全長一・五メートルで、体重四十キログラムの捕獲記録がある(以上は「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の当該種のページと、当該ウィキを参考にした)。
「おろかぶか」国立国会図書館デジタルコレクションで検索したところ、「オロカザメ」の名で、昭和三(一九二八)年度の「水產試驗報告」(臺灣總督府水產試驗場編・臺灣總督府水產試驗場刊・発行は昭和五年)の本文のここで、使用されていることを確認したが、それを見ても、現在の和名の何に該当するか判らなかった。私は、鱶鰭の上級品となるものであって良く漁獲されるもの、さらに、以上の通り、捕獲する漁具のサイズが非常に大掛かりであることから――ヨシキリザメか、或いは、ネズミザメか――と踏んだ。サイズからは、前者が全長が三・八メートル、後者が三メートル超えであるから、前者に分(ぶ)がある。ところが、異名を見てみると、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のネズミザメの冒頭の「代表的な呼び名」に『モウカザメ』があり、これは「オロカザメ」に、かなり似ているように見えてくる。しかも、そこの記載をさらに見ると、表記は「もうか」「もーか」ともあるのである。一方、同サイトのヨシキリザメのページを見るに、地方名として「バカ」(『神奈川県国府津』)がある。鱶鰭としては、断然、ヨシキリザメである。決定打はネズミザメの方の「歴史・ことわざ・雑学など」の項には、『その昔はマグロ漁などにまざる厄介ものであった』とあって、急激に候補性が落ちた。されば、私は、
「おろかぶか」はメジロザメ目メジロザメ科ヨシキリザメ属ヨシキリザメ Prionace glauca の失われた異名である
と断ずることとした。異論のあられる方は、議論しましょう。]
鱶鰭を乾製するには、簀(す)の上に並べて、晴日(せい《じつ》)に晒(さら)すに過(すぎ)ざれども、其鰭、新鮮のものを、よろし、とす。故に、日數を經(ふ)るものは、色澤、次第に、劣れり、とす。又、雨天の時は、焙爐(ほいろ)にかけて、乾かすを、よし、とす。
淸國の販路に於ても、各地方・需用者の嗜好、一《いつ》ならず。湖北省は、『堆翅(たいし)』・『白皮(はくひ)』・『力墨(りよくぼく)』を欲(ほつ)し、其需用、中數(ちゆうすう)なり[やぶちゃん注:この「中數」というのは、「中核を為すメイン」の意であろう。]。湖南省は、『皮力(ひりよく)』・『堆翅』を欲し、需用、中數なり。江西省は、白・黑ともに欲し、需用、大數(たいすう)なり。河南省は、『堆翅』・『皮力』を欲し、需用、大なり。陝西省は、『堆翅』のみを欲すれども、需用、中數なり[やぶちゃん注:高額なんために、それを買わない者も有意に多い、ということであろう。]。四川省は『堆翅』を欲し、需用、大數なり。外崇(ぐわいすう)・慶州【崇慶州カ。】・資州(ししう)・錦州(しんしう)・茂州(もしう)・西陽州(せいようしう)の如きは、『堆翅』を欲し、需用、廣大なり。是を以て見れば、『堆翅』、卽ち、絲製(いとせい)を望むもの、多きに居(を)れり。本邦の如きも。宜(よろ)しく『堆翅』を製して輸出せば、利益を增加すること、少々に、あらざるべし。
[やぶちゃん注:いちいち、製品名の注をするのは、もう、疲弊しているので、やる気が起こらなない。ただ、非常に(しかも! 本書全体に関わる!)参考になるものを、国立国会図書館デジタルコレクションで見出した! 「通商彙纂 第6巻」(明治一九(一八八六)年/外務省通商局編纂のものを、一九八八年に不二出版が刊行したもの。本底本と同年!)の中の、「◎清國天津市塲海產物景況 (十九年八月二十八日在天津帝國療治舘報告)」で、その次のコマの四行目以下に、
*
台灣產ハ味極メテ佳ニシテ煮後膨張シテ雪ノ如シ【一百斤ニ付百十両位ナリ】其評判極メテ宜シケレ𪜈價ノ貴キヨリシテ需用少シ
目下相塲白鱶鰭六十兩黑鱶鰭四十兩【一副百斤ニ就テノ價ナリ一副トハ頰後ノ兩邊ニアル翅二枚ヲ云フ背上ノ魚尾ヲ算セズ】ナリ
南方ヨリ輸入スル堆翅(トイチー)ト稱スルモノアリ。是レハ鰭ヲ割キ一煮シタル後晒シタルモノナリ其消費高極メテ少ナク一定ノ相塲ナシ
輸入年額外國ヨリ白鱶鰭二萬六千三百四十一両黑鱶鰭二萬二千六百三十両支那諸港ヨリ白鱶鰭六千四百六十四両黑鱶鰭二千四百四十六両ナリ
*
他に、この記事には、既に終わった「鰑」・「昆布」・「刻昆布」・「鮑」といった項目があるのである! その内、これらを既注に追加しようと考えている。暫くお待ちあれかし。]
夫れ、本邦は、內(うち)には、四周(ししう)の海(かい)に、鱶魚(ふかぎよ)、群泳し、外(そと)には、四億萬人(しおくまんにん)の鱶鰭需用者あるも、鱶漁(ふかぎよ)を營むもの、甚(はなはだ)、少(すくな)く、東北[やぶちゃん注:これは、本邦に東北地方のこととしか読めない。だからこそ、最後の二文の憤懣が、いや高になるのである。]・淸國の如きは、鱶を漁捕(ぎよほ)するも、貴重なる鰭を廢棄して、顧みず。故に、本邦鱶鰭の輸出は、甚(はなはだ)、多からずして、明治十七年の輸出高は、僅(わづか)に、二十四萬二千〇二十九斤、此代《このしろ》、價《あたひ》、七萬〇〇五十壹圓餘(よ)に過ず。宜しく、當業者(たうぎやうしや)は鑑(かんがみ)ずんば、あるべからず。
本日、桑原羊次郎「松江に於ける八雲の私生活」のタイピングを開始した。
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]
本邦より、これを輸出したるは、長崎に淸國互市(ごし)[やぶちゃん注:「互市」の「市」は「売り買い」の意で、これで「売買交易を行うこと」、即ち、「貿易」の意である。]を開きし頃にして、「華蠻交易洽聞錄(くわばんこうえきがうもんろく)」に、貞享(ていきやう[やぶちゃん注:ママ。「ぢやうきやう」が正しい。])・元祿年間、長崎より輸出したることを載せ、又、「經濟祕書」にも、安永九年に、外國渡航船貿易品中(ちう)に、『鱶鰭』の目(もく)、あり。又、琉球よりは、淸曆康煕年間以來、年々、福州に輸出したること、琉球藩の舊記に見へ[やぶちゃん注:ママ。]、爾來(じらい)、絕へず[やぶちゃん注:ママ。]、長崎・那霸兩港より輸出したるも、東國にては、之を知るもの、なし。只(たヾ)、江戶にありし長崎會所(ながさきくわいしよ)にて、取集(とりあつ)め、輸出したり。當時、日本橋の魚商(ぎよしよう[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。])は、日々(ひヾ)、鬻(ひさ)ぐ鮫の鰭を、切り溜(た)め置き、會所に送りたり。該(がい)會所にては、壹貫目にて、僅(わづか)に銀六匁【今の十錢位】を以て買收せしは、文政年間のことなりし。然(しか)るに、年、移り、物、變り、嘉永年代に至り、外國貿易の途(みち)、開け、市場を橫濵に設(もう[やぶちゃん注:ママ。])くるや、魚商の中(うち)に、始めて鱶鰭の、淸國の貿易に適(てき)するを知りたるもの、あり。茲(こヽ)に於て、鱶の鰭を切取(きりと)るや、之を、船に載せ、橫濵に送り、淸國人に賣込(うりこ)むの業(ぎやう)を始めたり。當時、橫濵に於て、淸國貿易を專業としたる問屋(といや)は、僅(わづか)に三家(さんけ)ありしのみ。即ち、太田町《おほたまち》四丁目濵田屋元吉・本町中井某《ぼう》、及ひ[やぶちゃん注:ママ。]、同所水島屋某のみ、なりき。去(さ)れども、公(をほやけ[やぶちゃん注:ママ。])に賣込問屋(うりこみとひや)と稱せしは、中井・水島の、二戶《にこ》なり。凡そ、此頃の取引品は、生鰭(なまひれ)なるが故に、其運送と云ひ、品物(ひんぶつ)の處置(しよち)と云ひ、頗(すこぶ)る不便たりしか[やぶちゃん注:「が」の誤植。]、半ケ年(はん《か》ねん)の經驗により、遂(つい[やぶちゃん注:ママ。])に、乾燥するの利あるを知り、爾後(じご)は、直(たゞ)に、乾製(かんせい)し、之を、橫濵に販賣するに至れり。是(これ)、東國商人(とうこくしやうにん)か[やぶちゃん注:「が」の誤植。]鱶鰭を製造するの來歷なり。本邦在留の淸國人、及び、上海(シヤンハイ)等にて、鱶鰭を賣買するや、背鰭(せびれ)一枚、胸鰭(むなびれ)一對、尾鰭(をひれ)一枚、合せて四枚を揃へたるを、具備の品(しな)とし、價(あたひ)も、交(まじ)り品(しな)に比すれば、增加することは、廣業商會等(とう)の、每(つね)にいふ所なり。四枚壹揃(しまいひとそろへ)のもの、壹斤(いつきん)の價(あたへ)、壹圓五拾錢なれば、不揃(ふぞろへ)の下等品(かとうひん)は、四拾錢なり。平常(ふだん)の相庭(さうば)[やぶちゃん注:ママ。後注参照。]は軀(み)の長(ながさ)、六、七尺の鱶なれば、其乾鰭(ほしひれ)六拾枚にて、百斤の量あり、とし、又、『白(しろ)』と稱する最上品は、約百斤五十圓に賣却せらるヽも、『簀(よし)』と稱する品(しな)は、下等にして、貳拾貳圓に過(すぎ)ず。然(しか)るに、備具(びぐ)せざる鰭は、假令(たとへ)、『白』の最上品(さいじやうひん)にても、尾鰭(をひれ)のみなれば、僅(わづか)に四圓に止(とヾ)まれり。故(ゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に、壹揃(ひとそろへ)となすも、一《ひとつ》の要點なり。
[やぶちゃん注:「華蠻交易洽聞錄(くわばんこうえきがうもんろく)」編者不明で寛政七(一七九五)年(徳川家斉の治世)の序を持つ。ネットでは、そこまでしか判らなかった。
「貞享」(じょうきょう)「・元祿年間」一六八四年から一七〇四年まで。綱吉の治世。
「經濟祕書」「河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その12)」で既出既注。
「安永九年」一七八〇年。徳川家治の治世。
「康煕年間」一六六二年から一七二二年。
「江戶にありし長崎會所」老婆心ながら、これは、「江戸時代にあった」の意である。一応、当該ウィキをリンクさせておく。
「文政年間」一八一八年から一八三一年まで。徳川家斉の治世。
「嘉永年代」一八四八年から一八五五年まで。徳川家慶・徳川家定の治世。
「太田町《おほたまち》四丁目」現在の神奈川県横浜市中区太田町(おおたまち)。実は、底本では、ここ以下はベタで、
『太田町四丁目濵田屋元吉本町中井某及ひ同所水島屋某のみなりき』
である。私は、まず、最初の『濵田屋元吉』を「屋号+名前」と採った。何故なら、「元吉本町」という地名は、過去に於いても横浜には存在しないからであり、更に、後の二人には、わざわざ「某」を添えていることから、そう採ったのである。
「本町」所謂、横浜馴染みの者なら、ピンとくるのであるが、これは、「元町」の誤記ではあるまいか? 「三井住友トラスト不動産株式会社」公式サイト内の「写真でひもとく街のなりたち」の「神奈川県 横浜」の「横浜の商業地」の『日本人の貿易商の店舗が軒を連ねた「本町通り」』に、『開港当初の横浜・関内では、「神奈川運上所」(「横浜税関」の前身)が置かれていた現在の「日本大通り」を境に、桜木町寄りが日本人居住地、元町寄りが外国人居留地として割り当てられていた。日本人居住地の「本町通り」には、絹織物商の「椎野正兵衛商店」など、貿易商の店舗が軒を連ねた』とある。
「賣込問屋(うりこみとひや)」小学館「日本国語大辞典」に、『うりこみ‐といや‥とひや【売込問屋】』は『地方の生産者から買いつけた商品(おもに生糸)を輸出商や卸売商人に売る仲次ぎの問屋。』とある。
「廣業商會」『河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その13)』の私の注の冒頭を見られたい。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]
鱶鰭は熱湯をかけ、外皮(そとかわ[やぶちゃん注:ママ。])を去りて、絲狀(しやう)とし、美なること銀絲(ぎん)の若(ごと)し。これに、黃白の二種ありて、黃色(こうしよく)のものは、『きんひれ』、又、『きんすぢ』にて、「肇慶府志(《てう》けいふし)」の『金絲菜(きんしさい)』なり。白色のものは『ぎんひれ』、又、『ぎんすぢ』にて「廣東新語(かんとんしんご)」の『銀絲菜』なり。
[やぶちゃん注:「肇慶府志」明の陸鏊等纂のもの(一六四〇年刊)と、清代の「道光肇慶府志」があるが、「中國哲學書電子化計劃」で二種とも見たが、見当たらない。しかし、「美味求眞」(貴族院議員・衆議院議員を務めた、美食家としても知られた木下謙次郎が大正一四(一九二五)年に刊行した書)を現代語訳した「美味求真(びみぐしん)」のサイトの「第八章 魚類篇」トの「●鮫(さめ)」の項に、『魚翅は『閩書』には「鯊翅」とあり、『日本雜事詩』には「鯊魚翅」と述べられている。黄色と白色の二色であり、透き通って光がある。長さは3~6cm位で、頭が尖っていて針のようであり、食べると硬いが脆く味は淡白である。黄色のものは日本では金針、金スジ、金ビレ等と言われており、中国の『肇慶府志』にある「金絲菜」とはこの事である。白色のものは日本では「銀針」、別名で「銀ビレ」などと言われていて、これは『廣東新語』にある「銀絲菜」のことである。』あるとあるから、確かに載っているのだろうとは思う。識者の御教授を乞うものである。
「廣東新語」全二十八巻。広東地方の百科全書。これは、「中國哲學書電子化計劃」で「卷二十二 鱗語」で見出せた。以下。
*
鯋有犁頭鯋、劍鯋、斑點鯋、虎鹿鋸鯋,背鬣而腹翅,大者丈餘。皮有沙,圓細如珠,可以治木發光潤。海水將潮,天將雨,毛皆起溼,雖千里外不爽。一名潮鯉,腹中有兩洞,以貯水養子。子必二,皆從胎生,朝出口,暮則入臍。其肉淡而鬆,以翅作銀絲菜,稱珍品。
*]
淸國人が鱶鰭を食するの法は、先づ、乾鰭を溫湯(をんとう)に浸すこと、兩三日、柔(やわら)くを見て、外皮(そとかわ[やぶちゃん注:ママ。])を去り、筋(すじ[やぶちゃん注:ママ。])のみとなして、直ちに割烹に供(きやう)し、或は、此筋(このうsぢ)のみを乾(かはか)し、貯(たくは)へ置き、再び水に浸し、鷄肉(けいにく)の角切(すみきり)を油炒(あぶらいり)にしたるを、煑(に)だしとなし、水・酒、等分、醬油二分《ぶ》程、淡鹽梅(うすあんばい)にして、惟茸・葱等(とう)を混(こん)じ、煮(に)て、碗に盛るに、鰭を上(うへ)にす。これを『魚翅湯(ユーツータン)』といふ。此他(このた)、『紅燉魚翅(カウロンユツイ)』、『淸湯魚翅(ヘツサイユツイ)』、『白菜魚翅(ヘツアサイユツイ)』、『蟹粉魚翅(カイブンユツイ)』、『金銀魚翅(キンギンユツイ)』、『爛糊魚趨(ランコユツイ)』、『西滷魚翅(ツアユハユツイ)』、『魚翅球(ユツータウ)』、等の割烹(かつぽう)ありて、何(いづ)れも、厚待(ごちそう)の上割烹(じやうりやうり)とす。
[やぶちゃん注:「魚翅湯(ユーツータン)」サイト「わが街とくさんネット」の『東京 「赤坂四川飯店」陳建一監修 魚翅湯(ユイツータン)ふかひれスープ』のページに、画像があり(拡大可能)、『ふかひれ、たけのこ、しいたけを具材に使用し』、『鶏ガラスープにオイスターソース、香味油などで仕上げた濃厚でコクのあるふかひれ入りスープです』とある。
「紅燉魚翅(カウロンユツイ)」YouTubeの「中華一筋」の「【ふかひれ姿煮】 中華仕込みから仕上げ ≪紅焼排翅≫ Boiled shark fin with Brown sauce.」を見られたい。正直、これが、最も見る価値がある。
「淸湯魚翅(ヘツサイユツイ)」「百度百科」の「清汤鱼翅」を見られたい。『浙江料理を代表する料理の一つ』とあり、『その歴史は明代にまで遡り、フカヒレが料理に使われていたことから始まり、清代には宴会の重要な料理となっていた』とある。
「白菜魚翅(ヘツアサイユツイ)」中国語の「楊桃美食網」の「白菜魚翅羹(1)」を見よ。リンク先は台湾のもの。
「蟹粉魚翅(カイブンユツイ)」本邦のブログで、小薇さんの「シャウ・ウェイの幸せ中国料理」に『●蟹粉上湯魚翅皇(上海蟹入りふかひれの上湯姿煮込み、伊府麺添え)』とある。
「金銀魚翅(キンギンユツイ)」適切な記事が見当たらない。AIの答えを引く。正しいかどうかは判らない。『「金銀魚翅(Jīnyín yúchì)」は、中国料理におけるフカヒレの姿煮の一種を指します』。『金銀』は『料理の盛り付けや食材の色合い(黄金色と白)を例えた表現です。通常、濃厚な黄色のスープ(上湯や金湯)と、フカヒレの透明感のある質感を指します』。『この料理は、特製の濃厚な鶏』の『出汁』(だし)『スープで』、『フカヒレをじっくり』と『煮込んだ高級メニューとして知られています。伝統的な広東料理の献立などでよく見られる名称です』とあった。
「爛糊魚翅(ランコユツイ)」不詳。中文サイトでも見出せない。
「西滷魚翅(ツアユハユツイ)」不詳。中文サイトでも見出せない。「滷」の字は、中文サイトを見るに、「にがり」を意味するようだ。
「魚翅球(ユツータウ)」「百度百科」の「绣球鱼翅」が近いか。そこには、『四川の伝統料理』とし、『主に水で戻した鱶鰭と鶏の胸肉を使用し、ハム・糸瓜(へちま)や、卵を挙げたり炒めたりして薄いシート状に加工したクレープ上にしたものなどの副菜を添えて製したものである。出来上がったものは、刺繡した(「绣」)球状のような見た目となり、澄んだスープと、爽やかで香り高い味わいが特徴である。夏の宴会のメイン料理として、よく出される。』とあった。]
鱶鰭は高價のものゆゑ、官菜(くわんさい/ごしきりやうり)に供して、家常菜(かじやうさい)に用ひずといへども、其需用高(じゆようだか)、頗る多量にして、海外より淸國に輸人する額は、一歲《いつさい》、凡(をほよそ)、三千担(たん)、其中(そのうち)漢口(ハンカウ)のみの銷路(せうろ)高《だか》、三、四百担に及び、明治十八年の價格平均は、百斤白鰭(しろひれ)、貳拾五、六兩、黑鰭(くろひれ)、貳拾兩なり。
[やぶちゃん注:「担」東洋文庫版の後注に、『後出』(「(六)寒天の說」の終わりの方の、ここの左丁の三行目の割注を指す)『によれば、一担は一六貫九九匁六分九厘八四とされる。一貫は三・七五キログラムなので、一担は約六四キログラムである。』とある。]
前條淸國に輸入する蟻鰭、臺灣・新嘉波(シンガポール)、及び、印度9いんど)・布哇(はワイ[やぶちゃん注:ママ。])、並(ならび)に、本邦等にして、他邦のものは、背鰭(せひれ)、多く、胸鰭(むねひれ)、少く、而して、其鰭にハ、些少(すこし)の肉骨(にくほね)をも附着せず。其品位は、本邦產に優(まさ)り、殊に、品位を數等に分(わか)ち、各(おのおの)、標號(しるし)あり。印度、及び、新嘉波等(とう)より輸入する『黃玉剪(こうぎやうせん[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])』、『黃玉古(こうぎよくきつ)』、等(とう)の如きは、表面、淡靑色(うすあをいろ)に白色(しろいろ)を帶びて、裏面(りめん)、淡黃色(うすきいろ)にして、光澤あり。故に、百斤の價(あたひ)、六拾八、九兩の高價(かうか)なり、とす。又、同(どう)地方產にして、『隔紫貳沙(かくしじしや)』・『正中皮(せいちうひ)』・『板皮力(はんぴりやく)』・『上吉三沙(しやうさんしや)』・『貳沙(にしや)』等(とう)と稱するものも。何れも、表裏(ひやうり)、光澤ありて、良好なり。此中には、西洋に產するものも、あり。臺灣產(たいわんさん)にて『六港玉古(ろくかうぎよくきつ)』、寗波(ニンポー)[やぶちゃん注:「寗」は「寧」の異体字。]產にて『沙婆(しやば)』、廣東(カントン)產にて『老勾(らうこう)』と稱するものも、上好(じやうかう)にして、本邦產には、かヽる品位は、なし。然(しか)れども、是等の種類、なきに非らず。乾製法の不良なると、善惡(ぜんあく)の差等(とう)を分(わか)たす[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]、混交するによれり、とす。
[やぶちゃん注:面倒なので、漢名の確認はしない。悪しからず。次の段落のものも同じ。]
鱶鰭は、自然の儘、乾かして販賣するのみにあらず。外皮(そとかわ[やぶちゃん注:ママ。])を去り、筋(すぢ)のみとせる者をも、商品とせり。是を『堆翅(タイツー)』といふ。價(あたへ[やぶちゃん注:ママ。])、殊(こと)に貴(たつと)く[やぶちゃん注:ママ。]、其品位に差等(とう)を分(わか)ち、『廣東堆翅(カントンたいし)』・『月翅(げつし)』・『雙椎翅(さうたいし)』・『單堆趨(たんたいし)』・『臺灣月翅(たいわんげつし)』等(とう)の標號(しるし)あり。之れに反し、本邦より輸入するものは、皆、肉骨(にくほね)を附着せしむるの弊(へい)あるのみならす[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]、善惡を混交して品位を分たず。本邦人は肉骨を付け、又、水に浸して、斤量を增し、利するところあるが如く、誤認し、爲めに、忌厭(きゑん[やぶちゃん注:ママ。])せられ、百斤の高にて、拾五、六兩の差を生じ、損失するに至れり。製產者の最も注意すべき要點なり、とす。
本邦にて、鮫類の肉を、魚糕(かまぼこ)に用ひて、缺く可らざるものとし、或は燒き、或は煮、或は䀋(しほ)にし、或は、乾かし置き、食用とせしも、鰭を用ひしことは、甚(はなはだ)、少なし。山陰中納言の料理書に『さしみ』の『けん』に『しらが』と稱し、『ふかひれ』を用ふるを、當流の祕傳とす、とあるのみ。東國の人は、殊更に、知らずと雖ども、寬政年間、出版したる「淸俗紀聞」に、魚翅(ぎよし)、割烹(かつぽう)の仕方を、のせたり。
[やぶちゃん注:「山陰中納言の料理書」東洋文庫版の後注に、『四条中納言藤原山陰(八二四-八八)が創姶した料理作法についての書『四条流包丁書』(『群書類従』、巻第三六五)のこと。四条流は、藤原山陰が、光孝天皇の命により新たな庖丁式(料理作法)を定めたことに由来すると伝えられ、室町時代に『四条流包丁書』がまとめられた。』とあり、ネットでも、平安前期の公卿で、藤原高房の三男であった四条中納言藤原朝臣山陰(やまかげ 天長元(八二四)年~仁和四(八八八)年)が鯉を庖丁したことから、「四條流庖丁書」という伝本が生まれたとあるのだが、彼のウィキには、『四条流庖丁式の創始者と長く認識されてきたが、山蔭自身が庖丁式を執り行った事績・記録は無い。庖丁式の初見については、白河天皇』(保延二(一一三六)年)『に藤原家成が御前で鯉庖丁をして見せたことが記録(古今著聞集)されている』とあるばかりで、他には、『十九奉幣社のひとつ吉田神社』『と総持寺(西国三十三所二十二番札所)』、『さらに新長谷寺(真如堂内)(洛陽三十三所観音霊場五番札所)を建立・創建して』おり、『吉田神社の末社である山蔭神社に庖丁の神、料理・飲食の祖神として祀られている』とは、ある。
「淸俗紀聞」当該ウィキに『江戸時代の寛政年間に当時の長崎奉行の中川忠英を中心に編纂された公的な紀聞で、清王朝の乾隆年間の華東~華南沿岸部の風俗が絵図を交えて詳細に記されている。この清俗紀聞の最大の特徴として、各巻とも文と絵とが』、『ほぼ等量に割り当てられるなど、絵図の占める割合が極めて高いことが挙げられる』とある。詳しくはそちらを見られたい。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。]
「新撰字鏡(しんせんじきやう)」は『鮐(たい)』・『𩺬(つい)』・『鮰(ゑん[やぶちゃん注:ママ。音は「カイ」である。])の三字を『佐女(さめ)』と訓じ、「本艸倭名(ほんざうわみやう)」は『鮫(こう)、一名(いちみやう)、䱜魚(さくぎよ)』、又、『魦(しや)』を『佐女(さめ)』と訓ず。而して、二書ともに「ふか」を載せず。「延喜式」には、『鮫楚割(さめのすはり)』・『鮫皮(さめかわ[やぶちゃん注:ママ。])』・『鮫䐹、(さめのほじヽ)』・『沙魚皮(さめのかは)』・「鮐魚皮(さめのかは)」等を載せて、是亦、『ふか』を載せず。「倭名鈔」に始めて、「辨色立成(べんしきりつせい)」の『鮝魚(しやうぎよ)』を和名(わみやう)『布可(ふか)』と訓じ、別に『佐女』を載せたり。然(しか)れども。古(いにしへ)は、「さめ」と「ふか」との區別、分明ならず。而(しかう)して「塵添壒嚢抄(ぢんてんがいのうせう)」に『鰧(しやう)』を「ふか」とし、「本朝食鑑」は『鱶(やう)』を『ふか』と訓ず。「康煕字典」によれば、『鱶』は『鮝(しやう)』と同じとし、又、『鮝は乾魚(かんぎよ)なり』とありて、『ふか』の名にあらず。「本艸綱目」には『鮫(さめ)一名(《いち》みやう)錯魚(さくぎよ)』とし、「本艸綱目拾遺」に『鮫(さめ)、一名は鯊魚(しやぎよ)、亦、魦(さめ)に作る』とあり。「閩書」にハ『魦魚(さぎよ)一名鰒(ふく)、一名䱜(さく)、一名鯧(さく[やぶちゃん注:ママ。音は「シヤウ(ショウ)」。])、一名鰡(りう)とし、黃鯊(こうしや/はたざめ)、犁頭(れいとうしや/かいめぶか)、雙髻鯊(さうけいしや/しゆもくざめ)等(とう)の種類を載(の)するも、鱶(ふか)の字を、見ず。然(しか)れども、邦俗、從來、「鱶(やう)」の字を用ひ來(きた)るにより、其鰭(そのひれ)を鱶鰭(ふかひれ)と稱せり。而(しかう)して、淸俗は「魚翅(ぎよし)」と稱し、「英華字典」には『鯊翅(しやし)』とし、又、『白魚翅(はくぎよし)』、『黑魚翅(こくぎよし)』の二類に分(わか)ち、「支那貿易品解說」は『魦翅(さし)』とし、『白魚翅』・『黑魚翅』の二類に分ちしこと、前(ぜん)に同じ。
[やぶちゃん注:「新撰字鏡」「鮑」で一度、特定フレーズの注の中でしているが、かなり前のパートでやった書籍も多いので、この際、総て、再掲することとする。平安時代の漢和字書。全十二巻。僧の昌住(しょうじゅう)著とされるが、事績は不詳。昌泰年間(八九八年~九〇一年)に成立。漢字二万余字を偏・旁などによって百六十部に分け、字音・字義・和訓を付したもので、現存する最古の漢和字書である。一説に寛平四(八九二)年に三巻本が完成したとされるが、原本や写本は伝わっていない。その三巻本を元に増補した十二巻本が同年間に完成したとされ、写本が現存する。この十二巻本には約二万千字を収録する。
「鮐(たい)」平安時代漢字字書総合データベース編纂委員会編の「HDIC Viewer」のここで、『魚部第八十七』に『同字。勅丈反。壽也、老也。佐女。』とあったのを確認した。但し、次の注を見よ。なお、「廣漢和辭典」では、この漢字は、音「タイ・イ」で、第一義は『ふぐ』(=魚のフグ)で、第二義は『おいる【おゆ】。としより。』とあるだけで、サメの意味はない。
「𩺬(つい)」同前(部門も同じ)で、『鮐𩺬』『同字。勅丈反。壽也、老也。佐女。』とある。但し、「国書データベース」の画像で調べたところが、ここ(左丁上段後ろから四行目)に、
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鮐𩺬【同勑文 反壽也老也佐女】[やぶちゃん注:「佐」は「グリフゥキ」のこれだが、表示出来ないので、かく、した。]
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で、こちらが正しい。なお、「𩺬」の漢語は、中文サイト「漢典」では『一种鳝鱼』とあり、これは中国で好まれる、お馴染みのタウナギ(田鰻・鱓・鱔・鱔魚:条鰭綱タウナギ目タウナギ科タウナギ属タウナギ Monopterus albus )の一種という意味だろう。従って、漢語にはサメの意味は、やはり、ない。なお、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『ミトコンドリアDNAの塩基配列に基づく研究によれば、タウナギは少なくとも中国および(九州以北の)日本に分布するもの、南西諸島に分布するもの、そして東南アジアに分布するもの、という3つの集団に分けられ、それぞれは互いに遺伝的に異なっていることから、独立した「種」であると考えられる。これらの内訳をみると、日本に分布するものは中国に分布するものと同じ系統に含まれるため、中国大陸から人為的に移入されたものである可能性が高いとされる。実際、1900年前後に朝鮮半島から奈良県に持ち込まれたという記録もある。なお、台湾には東南アジアの系統のものと中国・日本の系統のものがともに分布しており、いずれも人為的移入によるものかは定かでない』。『南西諸島に分布する個体群は、東南アジアのものとも』、『中国・日本のものとも異なる系統に属している。このため、中国・日本の系統からは570万年以上前に分岐したと推定される。したがって人為的移入は考えにくく、琉球には固有の在来タウナギ類が生息しているということになる ため、保護の必要性が指摘されている』とあるから、これらは、独立した種に分類される可能性が大である。
「鮰(ゑん[やぶちゃん注:ママ。音は「カイ」である。])」前のデータベースでは、掛かってこなかったので、「国書データベース」の画像で調べたところ、ここ(左丁下段後ろから二行目に、『※』(「※」は「𮫬」+(「グリフウィキ」のこれの中の部分のみを右90°回転させたような字体)として『左女』と確認した。而して、この漢字も調べてみたところ、「百度百科」に『鮠鱼的别称 [ Leiocassis longirostris ]』(学名は斜体に変更した)とあった。この学名は、何時もお世話になる鈴木雅大氏の「生きもの好きの語る自然誌」の本種のページで、『条鰭綱(Class Actinopteri),新鰭亜綱(Subclass Neopterygii),真骨下綱(Infraclass Teleostei),アロワナ巨区(Megacohort Osteoglossocephalai),ニシン上区(Supercohort Clupeocephala),骨鰾区(Cohort Otocephala),骨鰾亜区(Subcohort Ostariophysi),骨鰾節(Section Otophysa),ナマズ上目(Superorder Siluriphysae),ナマズ目(Order Siluriformes),ナマズ亜目(Suborder Siluroidei),ギギ上科(Superfamily Bagroidea),ギギ科(Family Bagridae),レイオカシス属(Genus Leiocassis)』の『イノシシギギ(猪義義,猪鱨,英名:Chinese longsnout catfish)Leiocassis longirostris (Bleeker, 1864)』であることが判った。『中国北部と韓国の河川に分布しています』とあった。やはり、この漢語もサメの意味はないことが判明した。
「本艸倭名」深根輔仁(ふかねのすけひと)の撰になる日本現存最古の薬物辞典(本草書)。「輔仁本草」(ほにんほんぞう)などの異名がある。当該ウィキによれば、『本書は醍醐天皇に侍医・権医博士として仕えた深根輔仁により』、『延喜』一八(九一八)年に『に編纂された。唐の』「新修本草」(高宗が蘇敬らに書かせた中国最古の勅撰本本草書。陶弘景の「神農本草經集注」(しんのうほんぞうきょうしっちゅう)を増訂したもの)を『範に取り、その他漢籍医学・薬学書に書かれた薬物に倭名を当てはめ、日本での産出の有無及び産地を記している。当時の学問水準』の限界のため、『比定の誤りなどが見られるが、平安初期以前の薬物の和名を』、『ことごとく記載しており』、且つ、『来歴も明らかで、本拠地である中国にも無い』所謂、『逸文が大量に含まれ、散逸医学文献の旧態を知る上で』も、『また』、『中国伝統医学の源を探る上でも貴重な資料である』。本書は、後の『丹波康頼の』知られた「医心方」にも『引用されるなど』、『後世の医学・博物学に影響を与えた。また、平安時代前期の国語学史の研究の上でも貴重な資料である』。後、永らく、『不明になっていたが、江戸幕府の医家多紀元簡が紅葉山文庫より上下』二『巻全』十八『編の古写本を発見し』、『再び世に伝えられるようになった。多紀元簡により発見された古写本の現時点の所在は不明であるが、多紀が寛政』八(一七九六)年に『校訂を行って刊行し』、六『年後に民間にも出された版本が存在する他、古写本を影写した森立之の蔵本が台湾の国立故宮博物院に現存する』とある。
「䱜魚(さくぎよ)」この漢語は、「廣漢和辭典」で、『さめ』としてあるので、日中通意である。
「魦(しや)」同前で、第二義に『さめ。ふかざめ。』とあり、日中ともにサメである。
『而して、二書ともに「ふか」を載せず』私は「サメ」と「フカ」は同義と考えている。それを支持する内容は、例えば、幾つかの真摯な考証によれば、「有限会社 環境産業」公式サイトの「スタッフブログ」の「鮫(サメ)と鱶(フカ)の違いとは?」である。他にもそれを支持する内容のものは散見する。しかし、decodecochibita氏のブログの「釣り人語源考 フカ」は、なかなかに含蓄のある歴史的考証をされており、白眉である。引用したいが、かなり長いので控えるが、是非、一読されんことをお薦めする。
『「倭名鈔」に始めて、「辨色立成(べんしきりつせい)」の『鮝魚(しやうぎよ)』を和名(わみやう)『布可(ふか)』と訓じ、別に『佐女』を載せたり』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板本を元に推定訓読する。まず、「卷十九」の「鱗介部第三十・竜魚類第二百三十六」のここの「鮝魚」。
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鮝魚(フカ) 「辨色立成」に云はく、『鮝魚は【「布可(ふか)」。「居」「媛」の反。今、案ずるに、未だ詳(つまびらか)ならず。】』≪と≫。
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次に、ここの、「佐女」相当の「鮫」。
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鮫 「陸詞切韻」に云はく、『鮫【音「交」。和名「佐米」。】]魚皮に文(もん)有り、以つて、刀劔(たうけん)を飾(かざ)る者なり。』≪と≫。「兼名苑」に云はく、『一名、𩶅𩸹【「低」「迷」の二音。】。』≪と≫。「本草」に云はく、『一名は䱜魚【上は「食」「各」の反。】。』≪と≫。「拾遺」に云はく、『一名は「鯊魚(さぎよ)【上の音「沙」。字、亦、「魦」に作る。】」』≪と≫。
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「𩸹」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、かく、した。この「辨色立成」は、「倭名抄」の中にしか見えないことから、奈良時代(八世紀)の成立とされる和訓を有する本邦の漢和辞書とされるものである。
「塵添壒嚢抄」単に「壒囊抄(鈔)」とも呼ぶ。十五世紀の室町時代に行誉らによって撰せられた百科辞書・古辞書。同書の記載は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの活字本の、巻一の「五十九」条の、ここの右ページ六行目の中央部に『鰧(ふか)』とある。
「本朝食鑑」私の『博物学古記録翻刻訳注■12「本朝食鑑第十二巻」に現われたる海鼠の記載』の私の冒頭注を見られたい。ブログ・カテゴリ『人見必大「本朝食鑑」より水族の部』もあるのだが、二〇一五年でペンディングしたまま、放置状態である(字起こしが、恐ろしく大変なため)。国立国会図書館デジタルコレクションの元禄一〇 (一六九七)年板本の「鱶」の項の割注に『訓ス二布加ト一』とある。
「康煕字典」中国の代表的字典。一七一六年に、清の張玉書(一六四二年~一七一一年)らが、康煕帝の勅を奉じて編纂したもの。「說文解字」「玉篇」を底本とし、諸書を校合し、十二集に分け、集ごとに三子巻(上・中・下)に細分し、全部で百十九部に分けてある。巻首に総目・検字・弁似・等韻が各一巻、巻末に補遺と備考各一巻を付す。親字四万七千三十五字、古代の異体字千九百九十五字を収める(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。
「鮝は乾魚(かんぎよ)なり」「鮝」は魚種を指すのではなく、「乾した魚」である、の意。
『「本艸綱目」には『鮫(さめ)一名(《いち》みやう)錯魚(さくぎよ)』とし』これは、河原田の誤記である。「漢籍リポジトリ」の「卷四十四」の「鱗之三魚類三十一種」の、ガイド・ナンバー[104-42b] の「鮫魚【唐本草】」の冒頭の「釋名」の始めから二つ目に、『䱜魚【鵲錯二音】』とあるからである。
「本艸綱目拾遺」清の一八〇〇年頃に趙学敏が撰した「本草綱目」の誤りを正し、そこに漏れていた薬物を追加したもの。
「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南產志」。一六〇八年成立。
「黃鯊(こうしや/はたざめ)」軟骨魚綱カスザメ目カスザメ科カスザメ属カスザメ Squatina japonica のこと。当該ウィキに拠れば、『本州東岸から台湾、日本海南部・黄海・東シナ海・台湾海峡で見られる』とある。
「犁頭(れいとうしや/かいめぶか)」「雙髻鯊(さうけいしや/しゆもくざめ)」孰れも、メジロザメ目シュモクザメ科 Sphyrnidaeのシュモクザメの総称である。孰れも、漢字表記から、ピンとくる。
「英華字典」ウィリアム・ロプシャイド(William Lobscheid)が編した‘ English and Chinese dictionary ’(一八四七年~一八四八年)かと思われる。「Internet archive」で、後の版(1856-1944)だが、見つけた。ここの左丁の右の中央上方。
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Shark, n. A common shark, carchrias,沙魚,鯊,
魦; another species, 烏翼鯊 ; another species,
齊頭鯊 ; cestracion zebra , 貓兒鯊; rhinobatus,
犁頭鯊 ; the hammer-headed shark, sphyrna zygena,
公子帽鯊 ; shark’s fins, 鯊翅; white shark’s fins,
白魚翅 ; black shark’s fine, 黑魚翅 ; shark’s skin,
used for shagreen, 鯊魚皮 ; a greedy, artful fellow,
貪猾嘅人.
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・この一行目の“ carchrias ”は、狭義には、典型的でミズワニ科唯一の現生種である軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ミズワニ科 Pseudocarchariidaeミズワニ属ミズワニ Pseudocarcharias kamoharai を指し、英名“Crocodile shark”(辞書では「サンド・シャーク」とある。詳しくは当該ウィキを見られたいが、そこに『世界中の暖かい海の表層から水深590 mまで生息する』とある)とある。但し、ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias の種小名とも一致するので、ここでは、後者「ホホジロザメ」の意を採るのが正しいと思われる。
・三行目の“ cestracion zebra ”は、ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属シマネコザメ(縞猫鮫)Heterodontus zebra 指す。当該ウィキを見られたい。なお、「維基百科」の同種のページでは、現行の中文名は「狭紋虎鯊」で、異名を「斑紋異齒鮫」・「斑紋異齒鯊」、俗名に「角鯊」・「虎沙」があるとする。
・三行目の“ rhinobatus ”は、サメではなく、ノコギリエイ目 Rhinopristiformes サカタザメ科サカタザメ属 Rhinobatos を指す。体盤がエイのように縦に扁するものの、有意に左右に大きくは突き出ず、スマートな三角形のギターのような形をするので、サメの仲間と間違えても、違和感はない。
・最後の「貪猾嘅人」は「貪婪な人」の意の換喩。
「『白魚翅(はくぎよし)』、『黑魚翅(こくぎよし)』の二類に分ち」「熊谷茂 丸光製麺・社長ブログ」の「フカヒレに使うサメの種類」の「(3)フカヒレに使われるサメの種類とは?」で、『「フカヒレ」と一言で言っても、サメの種類、色や形、産地によっても実に様々。その数は40種類以上にも細かく分類されていて、値段も細かく決まっています』。『中華料理ではよく使用される魚翅(ユイチー)と呼ばれる乾燥させたフカのヒレは、色によって「白いフカヒレ」と「黒いフカヒレ」に大別されますが、「白いフカヒレ」の方が珍重されます』。『「白」のヒレは「白魚翅(パイチー)」と呼ばれ、メジロザメ、ツマグロ、ヒラガシラ、シュモクザメ、オナガザメなどのフカヒレが原料となります』。『一方』、『「黒」のヒレは「黒魚翅(ヘイチー)」と呼ばれ、ネズミザメ、アオザメ、ヨシキリザメ、ネコザメなどのフカヒレが主な原料です。このようにフカヒレは種類ごとに名前を付けて区別されますが、最も高価なフカヒレは「メジロザメのフカヒレ」で、ヨシキリザメの何倍もの価格で取引されます。』とあった。
「支那貿易品解說」国立国会図書館デジタルコレクションのここにある、竹内成章編訳・ 中川喜重/校・明治一八(一八八五)年序の、それであろう。]
人生、今まで酩酊して鈍行電車にずっと乗って来たのだが、ここに来て、光子ロケットに搭乗し、見たことのない世界に親しむようになり、新しい人々とも出逢うこととなった。限られた脳活性の限り、一層、精進することをここに約束する。