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2026/01/31

立原道造草稿詩篇 ばかな太陽

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  ばかな太陽

 

曇りつづきの或る日、僕の小さな部屋へ入つて來る、太陽が机の上や壁を見まはしながら。よろこんで僕は、掌を開いたり閉ぢたりする。埃りがある。洋燈のホヤがある。やがて彼はカレンダア(僕の破るのを忘れてゐたカレンダア。)彼は呟く、⦅おや今日は日曜なのか⋯⋯⦆そしてぢきに歸つて行つてしまう、自分の日曜日を休息するために。(まちがひだとは知らないで。)

 

 

 

立原道造草稿詩篇 曆

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこには、『詩集『日曜日』中の初稿。』とある。而して、最終決定稿は、私の「日曜日 (全)  立原道造」から部分を引いた。]

 

【草稿】

 

  曆

 

貧乏な天使が 小鳥に變装する

枝に來て それはうたふ

わざとたのしい唄を

すると庭がだまされて小さい薔薇の花をつける

 

       ☆

 

感冒(かぜ)をひいて 「春」が咳をする

 

その名のかげで曆は時々ずるをする

けれど人はそれを信用する

 

 

【決定稿「日曜日」の当該部】

 

  曆

 

貧乏な天使が 小鳥に變裝する

枝に來て それはうたふ

わざとたのしい唄を

すると庭がだまされて小さい薔薇の花をつける

 

名前のかげで曆は時々ずるをする

けれど 人はそれを信用する

 

立原道造草稿詩篇 田園詩

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこには、『「i」が「代数ノート」中に原型を持ち、また「iii」は同ノートの中の「田園詩」を初稿とし、それらの組合せにより本篇は制作されているが、再び詩集『日曜日』の制作に当り「iii」を独立した詩篇として採っている。因みに「iii」に緑色鉛筆で丸印が付けられている。』とある。そこで、同全集の「第六卷 雜纂」の二箇所を、「i」の原型をここ(左丁四行目)から発見し、次に、「ii」「iii」の原型をここ(標題「田園詩」のもの)右丁で見つけた(前者は後者より後にある)。而して、最終決定稿は、私の「日曜日 (全)  立原道造」から部分を引いた。都合、四ヴァージョンを示した。]

 

【「代数ノート」の「i」の原型】

 

(家々のランプは街道からとほい)だからこの村に沿つて闇は暗くかがやき出す、

 

 

【「代数ノート」の「田園詩」原型】

 

  田園詩

 

    ☆

小徑が林のなかを行つたり來たりする、

落葉も踏みながら、暮れやすい一日を。

    ★

ツバメは空を切りひらく。空の後ろでは、別の空が用意されてゐる。彼等のこの努力のおかげで僕のところへ別の季節がやつて來る

 

 

【改稿】

 

  田園詩

 

    i

 

 家の洋燈は街道からとほい。だからこの村に沿つて、夜は闇よりも暗くかがやきだす。

 

 

    ii

 

 子供も犬もこはがらない。こはがつてゐるのは空だけだ。

 

 

    iii

 

 小徑が、林のなかを行つたり來たりしてゐる、落葉を踏みながら、暮れやすい一日を。

 

【「日曜日」決定稿(部分)】

 

   田園詩

小徑が、林のなかを行つたり來たりしてゐる、

落葉を踏みながら、暮れやすい一日を。 

 

[やぶちゃん注:個人的には、彼が採用しなかった草稿の「i」の「家の洋燈は街道からとほい。だからこの村に沿つて、夜は闇よりも暗くかがやきだす。」という一行は、私は最後の「だからこの村に沿つて、夜は闇よりも暗くかがやきだす。」のフレーズが詩的に映像的で、とても惜しいと感じるものである。

2026/01/30

立原道造草稿詩篇 旅行

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。決定稿「日曜日」中の「旅行」部分は、私の「日曜日 (全)  立原道造」から引いた。]

 

  旅行

 

この小さな驛で 鐵道の栅のまはりに夕方がゐる 着いて僕はたそがれるだらう

 

⋯⋯路の上にしづかな煙のにほひ 僕の一步がそれをつきやぶる 森が見える 畑に人がゐる

この村では鴉が鳴いてゐる

 

 

やがて僕は僕を平な固い黑い寢床の上に眠らせるだらう 洋燈の明りに すぎた今日を思ひながら

 

僕の一步が僕を疲れさす!

 

 

【「日曜日」決定稿(部分)】

 

  旅行

 

この小さな驛で 鐵道の栅のまはりに

 夕方がゐる 着いて僕はたそがれる

 だらう

 

⋯⋯路の上にしづかな煙のにほひ

 

僕の一步がそれをつきやぶる 森が見

 える 畑に人がゐる

この村では鴉(からす)が鳴いてゐる

 

やがて僕は疲れた僕を固い平な黑い寢

 床に眠らせるだらう 洋燈(ランプ)の明りに

 すぎた今日を思ひながら

 

[やぶちゃん注:草稿の「洋燈」は、以下の決定稿のルビ附加から考えて、当初から、「ランプ」と読んでいると考えてよいだろう。また、【決定稿】の方は、字配は底本に従った。「洋燈」の「ランプ」はルビであるので、本来の下インデントは同じである。]

立原道造草稿詩篇 過失

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  過失

 

死の速力が僕をつきぬける。僕は、その場に打ち倒される。⋯⋯

 

日暮れて行く街、風、光線。

 

短い不動――

僕は、やがて起きあがる。

僕は、步きだす。僕の一步は、その一步を。僕はすべて忘却しながら。

 

立原道造草稿詩篇 《夜》

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。「夜」の太字はママ。なお、本ブログの記事名は太字に出来ない。

 

  《

 

眠りの時間が、僕を追ひ越す。

 

身體を滿してゐる牛だのランプだの枯枝だの⋯⋯

 

僕は裸で夜とぶつかる!

 

 

[やぶちゃん注:前の「ハンカチ」の後注で述べた通り、注記に従うと、この詩篇と、前の「ハンカチ」は同一の紙に書かれているのだが、この紙には『下部に』

 

多すぎる童話的要素

キリコの繪のやうになれ!

 

『の鉛筆書きのメモを下部に持つ。』(本詩文の筆記の色は、ここの注記でブルー・ブラックとある)とある。まず、この二篇への自己批判と採ってよいだろう。しかし、この詩篇は、十全にシュールレアリスム然としている。

立原道造草稿詩篇 ハンカチ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  ハンカチ

 

星のある夜の空を壁紙にした人があるさうだが僕の友だちは靑い晝間の空を手巾にこしらへてポケツトに持つてゐる。丸い形に切り取つたのだが、ちようど太陽のあるあたりだつたらうつて。

 

[やぶちゃん注:「ちようど」はママ。

「手巾」は言うまでもなく「ハンカチ」と読んでいる。

 注記に従うと、この詩篇と、次の「夜道」は同一の紙に書かれているのだが、この紙には『下部に』

 

多すぎる童話的要素

キリコの繪のやうになれ!

 

『の鉛筆書きのメモを下部に持つ。』(本詩文の筆記の色は、ここの注記でブルー・ブラックとある)とある。まず、この二篇への自己批判と採ってよいだろう。老婆心乍ら、「キリコ」は「切子」ではないよ、「形而上絵画派」を興し、後の「シュールレアリスム」に大きな影響を与えたイタリアの画家ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)だ。個人的には、ダリと比べると、接近して実物の作品を見ると、遙かに筆が雑で、見られない代物であり、私は全く評価しない。]

立原道造草稿詩篇 黃昏

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。題名「黃昏」は音では「くわうこん(こうこん)」であるが、訓の「たそがれ」と読みたい。]

 

  黃 昏

 

片假名の⦅リ⦆と

平假名の⦅り⦆が 似てゐるやうに

昨日と今日は僕には每日おんなじだ

 

役立たずな夕方よ

一日を終らせるためにだけ

空は夕燒して 金星がある

 

僕は さがしに行かう

新しい夜を別なかげを

 

三日月よりも 風がいい

 

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、第三連の「新しい夜を別なかげを」は「新しい夜を 別なかげを」と字空けが欲しい。]

2026/01/29

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その9) 「京店と北堀時代」(そのⅤ) 〔雜事〕・「小泉八雲略傳」・奥附 / 桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」~了

[やぶちゃん注:底本では、ここの右丁最終行から。]

 

       〔雜    事〕

 

〔桑原〕 八雲先生の御手醫者は誰れでしたか。

[やぶちゃん注:「御手醫者」「おていしや(おていしゃ)」は「お抱え医師・出入り医者」のこと。主に江戸時代に用いられた語である。]

〔高木〕 先生も奥樣も極めて壯健で、一同もお醫者の見舞はありませんでした。

〔桑原〕 先生と奧樣と御同棲當時は談話が和英チヤンポンで隨分滑稽なことがあつたろうと想像しますが、御記憶のことはありませんでしたか。

〔高木〕 先生は何時も和英對譯の字引をお持ちでして、それでどうかこうか用事が片付きました。しかし間違いは每々のことでして、込み入つた用談は、大槪西田先生がお立ち合いのようでした。

〔桑原〕 八雲先生は自分が眼が惡く、その平癒囘復を祈るため先生自身が、每月一畑藥師に月詣りをされたという珍聞を聞きますが、それはほんとうでしたか。

〔高木〕 先生が一畑藥師に參詣されましたことは、富田旅館時代に一度あつたと聞きますが、その後はありません。しかし先生の眼のために月詣りには私の母が先生の代參として月一度は必らず參詣致しました。勿論これは奥樣の御指示でした。

〔桑原〕 先生の日常生活は極めて規則正しく、時間勵行であつたように聞きますが、どんな風でした。

[やぶちゃん注:「勵行」は「れいかう(れいこう)」で、「決めたこと・決められたことをその通りに実行すること」を言う。]

〔高木〕 先生の時間勵行と几帳面なことは、まことに間違いないことでありました。その一例を今思い出しましたから申しましよう。

 何日頃かはつきり致しませんが、或る日、私がお風呂の焚き付けを始めていました際、フト私は每晩定刻に先生に差上げます朝日ビールの殘りが殆んどなくなつていたことを思出しました。ところが早や時間がないためにこれは大變なことをしたと狼狽し、私は風呂焚きの際とて跣足[やぶちゃん注:「はだし」。]でオマケに尻はしおりながらその儘で駈出して[やぶちゃん注:「かけだして」。]、大橋詰の山口藥店まで約十町許りを往復して、呼吸も絕えだえで漸く時間通りに先生に朝日ビールを差上げることが出來ました。これとても別段先生より叱られるのが恐ろしいという意味は少しもなく、ただ當時先生の過程萬事が時間勵行に仕付られていた習慣から、我知らず飛び出した次第で、途中行遇う人々が私のこの風體[やぶちゃん注:「ふうてい」。]を何んと見たであろうかと、後年この事を子供等に話しまして笑いましたことでした。

[やぶちゃん注:「尻はしおり」「尻端折(しりはしを(しりはしおり)」で、現行は「しりはしょり・しりっぱしょり・しりばしょり」と表記・発音することが一般的である。走るために着物の裾を捲(まく)り上げ、帯の後ろに挟んで留めることを指す。]

(桑原) 先生の文章は何れも苦心推敲の末で、度々書直しをされたと伺いますが、定めて澤山の書損い[やぶちゃん注:「かきぞこなひ(かきぞこない)」。]があつたと思いますが、その反古はどうなりましたか。

[やぶちゃん注:「反古」この聴き取りが行われた時代では「ほぐ」が普通である。漢字は「反故」とも書き、「書・画などを書き損じて不用となった紙」を指す。但し、「ほご・ほうご・ほうぐ」とも呼んだり、書いたりした。しかし、「コトバンク」の「精選版 日本国語大辞典」の「反故の語誌」に拠れば(私の所持する「日本国語大辞典」は初版で、この記載はない)、

   《引用開始》

1 )奈良期に「本古紙」〔正倉院文書‐天平宝字四年(七六〇)六月二五日・奉造丈六観世音菩薩料雑物請用帳〕、「本久紙」〔正倉院文書‐天平宝字六年(七六二)石山院牒〕の表記で見えるのが古い。また、「霊異記‐下」には「本垢」とあり、当初の語形はホゴ・ホグ、あるいはホンク(グ)であったと考えられる。

(2)平安期の仮名文では「ほく」と表記されることもあるが、ホンクの撥音無表記とも見られる。「色葉字類抄」には「反故 ホク 俗ホンコ」とあり、鎌倉時代においては、複数の語形があったこと、正俗の意識があったことなどが分かる。

(3)「日葡辞書」の「Fongo(ホンゴ)」の項に「Fôgu(ホウグ)と発音される」との説明があるところから、中世末期においてはホウグが優勢であり、近世になってからもホウゴ・ホンゴ・ホゴ・ホング・ホグなどとともに主要な語形として用いられている。

   《引用終了》

とある。別の項で、同辞典に、

   《引用開始》

「反故」「反古」を表わす語形は数が多く、そのいくつかは同時代に並行して用いられている。ホグ・ホゴの語形も古くからあったが、特に近代になって有力となった。明治・大正期の国語辞書の多くは、「ほぐ」を主、「ほご」を従として項目を立てており、「ほご」の語形が一般的になったのは比較的最近のことである。

   《引用終了》

とあったことから、私は「ほぐ」を採用した。]

〔高木〕 每朝先生の書齋の反古籠を掃除すると、澤山の書き損ないの反古がありましたが、それは皆な每日の風呂焚きなどに使いまして。一枚も殘りませんでした。

〔桑原〕 先生は奧樣と每日二人連れで外出されましたか。

〔高木〕 海水浴場のような所へは何時も御同行でした。また買物には大慨御一緖でした。しかし神社、佛閣、舊蹟、名所と申す所へは、西田先生の御同行の方が多かつたように思います。

〔桑原〕 これでまず私が考えていたことは八百さんより大槪伺つた積りですが、次に登志さんに伺いますが、何か平素お母さんが茶飮み話に當時の珍話をなさつたことで今日伺うた外に何にか御氣付のことはありませんか。

〔高木登志〕 ただ今母より申上ました外には、別段心當ることはありませんがただ一つ母よりきゝましたことに、或る時白魚の吸物を召上がつた時、フト先生は椀の蓋を開けたまゝ靜かに耳を傾けておられましたが、奧樣に向つて、「この魚泣く」と申されました。奧樣はそれは魚が泣くのではありません。入れ物が漆器で、餘り熱い汁を入れたためで、どうかすると、こんな音がするものですと說明され、先生もようやく納得され、あとで皆々大笑いになつたことがあつたとのことでした。

[やぶちゃん注:「白魚」は、この場合は「しろうを(しおうお)」と読み、条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinaeシロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii である。これは、語り出すと、エンドレスになるので、まず、私の「大和本草卷之十三 魚之上 麵條魚(しろうを) (シロウオ)」を見て戴き、それで、理解された上で、「日本山海名産図会 第四巻 白魚」の本文(作者に誤認箇所があるので注意されたい)を通読され、誤認を指弾した私の迂遠な注を見られたい。]

〔桑原〕 白魚が泣いたと先生がいぶかつた話は、過日岸崎豐子さんにも伺いました。また豐子さんが、家族と共に年を鰹て自宅に歸られたちようどその日に、八雲先生が熊本より上京の途中に松江に立寄り、西田先生と共に松江の舊居を懷かしみ、訪問されたことなども伺いましたが、これらは既に或る人の著書に出ていますので私はただ今は伺いませんでした。

[やぶちゃん注:「岸崎豐子」いろいろと、ネット及び国立国会図書館デジタルコレクションで検索したが、遂に、この人物の正体や記事に行き当たることはなかった。識者の御教授を乞うものである。

〔高木〕 ただ今登志が申したことも實際ありました。しかしこの外に何分五十年の昔のことで忘れたことも澤山ありましようが、兎に角自分の覺えていたことは、御尋ねのついでに皆申上げました。マーこの上は私には種切れと申す次第であります。

〔桑原〕 お二人にはまことに長時間御迷惑をかけました。どうも松江時代の八雲先生の私生活の記錄というものが、簡略に過ぎたり、間違つているように私は氣がついて伺つた次第ですが、お蔭でいろいろの點がはつきり致しました。誠に有難うございました。厚く御禮申上げます。

 

[やぶちゃん注:これを以って、本書の本文は終わっている。

 以下、添えられた「小泉八雲畧傳」である。底本では、ここから。順に言うと、人名の日本語音写表記に、まず、問題がある。続く、生地の島の名も同じく問題があり、さらに、その領有国も誤っていたりする大きな誤りがあるので、注意されたい。そうした誤りは、後注で示す。

 

 

   小 泉 八 雲 畧 傳

 

 小泉八雲は西曆一八五○年(嘉永三年)六月二十七日ギリシヤの一島サンタ・マウラ(リユウカデイヤ)に生れた。父はアイルランドの軍醫少佐チヤールスブツシュ・ハン、母はローザ・テシマである。三歲の時父母に伴われてアイルランドのダブリン府に歸つたが、その翌年父母合意の離緣となり、母はギリシヤに歸つた。その後八雲は大叔母の手に養育され、十七歲の時またも不幸にも父に死別し、ついで大叔母なる人も破產してしまつた。幼時は家庭に學び、十四歲で英國ダルハムのアシヨウ・カレツヂに入學し、その後フランスのイーヴトーに於ける學校に轉じたが、二十歲の時米國に向つて流浪の旅に上り、まずシンシナチーに着き、ここでは一面非常な生活苦と鬪い、一面苦學を積んだ。二十五歲の時はじめて新聞記者となり「鞣皮所の殺人」「都市の鳥目觀」を書いてようやく時の人に認められた。二十八歲で南部ニユー・オルレアンズに移り、ここでも新聞社に勤めて「チタ・ラスト島の話」という創作によつてあまねく文名を認められるに至つた。

[やぶちゃん注:「ギリシヤの一島サンタ・マウラ(リユウカデイヤ)」ウィキの「レフカダ島」に拠れば、『レフカダ島 (レフカダとう、ギリシア語: Λευκάδα / Lefkada、ギリシア語発音: [le̞fˈkaða])は、イオニア海(地中海の一部)に位置するギリシャ領の島。地理的・行政的なイオニア諸島地方に属する。最大の都市はレフカダ (Lefkada (city)) 』で、『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はこの島の出身であり、「ラフカディオ」の名はこの島の名から採られている』とし、注に『「ラフカディオ・ハーン」の名で知られているが、本名は「パトリック・ラフカディオ・ハーン」であり、「ラフカディオ」(レフカズィオス=レフカダ島の)はミドルネームである』とある。『ギリシャ共和国西部、行政的なイオニア諸島地方(ペリフェリア)のほぼ中央部に所在する、イオニア諸島では4番目に大きな島で』、『北西方向に』、『やや離れてケルキラ島・パクシ島があり、南にケファロニア島とイタキ島がある。島の北東端に、島で最大の都市であるレフカダの市街が位置しており、狭い水路によって本土と区切られている。本土とは土手道と浮き橋によってつながっている』。『島の南端にはレフカタス岬がある』とする。但し、『1797年、ナポレオン』Ⅰ『世によってヴェネツィア共和国は終焉を迎え、レフカダ島を含むイオニア諸島はフランス領イオニア諸島となった。1799年にはロシア海軍が諸島を占領し、1800年にロシアとオスマン帝国が設立した共同保護国・七島連合共和国(イオニア七島連邦国)の一部となった。1807年のティルジット条約によってイオニア諸島はフランス帝国の支配下に戻されたが、1809年以降イギリスの攻勢にさらされた。レフカダ島は1810年、イギリスによって占領されている。1815年の第二次パリ条約によって、イギリスの保護国としてイオニア諸島合衆国(United States of the Ionian Islands, Ηνωμένον Κράτος των Ιονίων Νήσων)が樹立され、レフカダ島もその一部となった』とあり、『186462日にイオニア諸島はギリシャ王国に引き渡された』とあり、小泉八雲が生まれた時、レフカダ島はイギリス領であったのである。しかし、笠原氏の本書が刊行された時点では、ギリシャ王国であり、一九二四年に一度、共和国となったが、一九三五年の王制復活を経て、一九七三年に現在の共和国となった経緯があるので、まず、本文の「ギリシヤの一島」という謂いは、本書刊行時点に於ける言い方としては、誤りではない。

「父はアイルランドの軍醫少佐チヤールスブツシュ・ハン」(Charles Bush Hearnチャールズ・ブッシュ・ハーンここは恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の銭本健二・小泉凡編になる「年譜」の音写を採用した。なお、私は、今まで、出生から来日までのラフカディオ・ハーンについて、注したことがない。されば、以下、この年譜を大いに引用させて戴くこととなったことをお断りしておく。なお、私が示す時はは当時の本名の「ハーン」ではなく、一貫して「八雲」とすることとした)は、同年譜に、彼は『アングロ・アイリッシュの旧家の出で、ダニエル・ジェームズ・ハーンの長男として、一一八一八年にアイルランドに生まれ』、小泉八雲が生まれた『当時』は『ギリシヤ駐在の第四』十『五ノッティガム歩兵連隊の軍医補であった』とあり、八雲の書簡記載の中に、『英国七』十『六連隊の軍医少佐であったというハーンの記憶』『は、父の弟ロバートとの混同による』とあった。

「母はローザ・テシマ」(Rosa Antoniou Cassimati:ローザ・アントニオ・カシマチ/音写は同前。セカンド・ネームの英文転写したものは、中国語の「維基百科」の「小泉八雲」にあるものに従った)。同年譜に、彼女は『セリゴ島(現地呼称キシラ)の旧家の出で、父アントニーの娘として、一八二三年に生まれる』とあり、以下、『ハーン誕生にいたる両親の関係』が年譜式に続く。一八五〇年『十月』に、父チャールズ・ブッシュ・ハーンが『英領西インド諸島への赴任を命じられ、ドミニカに到着する。数カ月の後、グラナダに転属する。ハーンは父が西インド諸島にいたことは、一八九一年に異母妹アトキンソンと文通をするまでは知らず、そこにいた時、前に見たことがあるという奇妙な霊感「既視感」』(フランス語: déjà-vu:デジャ・ヴュ)『に襲われたという』。『この間、ローザとハーンはサンタ・モウラで暮らす。「そういうわたくしに、ある場所と、ある不思議な時の記憶がある⋯⋯」ではじまる「夏の日の夢」(『東の国から』)の美しい追憶部分で、「むかし、遠い遠い日のこと、山の奥の峯と峯のあいだの峡谷に、浄らかな日をおくっていたころ」と回想されているのは、この頃のことである。』とある。これは、私の『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集「東の國から」(正字正仮名版)始動/ 献辞・田部隆次譯「夏の日の夢」』の「四」の途中で語られる以下である。

   *

 私は或場所と不思議な時の事を覺えて居る、そこでは日と月は今よりもつと大きく、もつと明るかつた。この世の事か、いつか前の世の事か、私には分らない。ただ私はその空は遙かにもつと靑く、そして地に近かつた事、――赤道の裏の方へ走る汽船の帆柱の上に近いと思はれる程であつた事を知つて居る。海は生きてゐて、いつも話をした、――そして風が觸れると私は嬉しさに叫んだ。以前山の間に住んでゐた聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]日に、一二度私は同じ風の吹いて居る事をただ暫らく夢想した事がある、――しかしそれはただ記憶であつた。

   *

 年譜に拠れば、翌一八五二年の項に、『ローザとハーンをダブリンに送り届ける仕儀は、父チャールズの『二人の弟、特にパリに住』んでいた三男の『画家リチャードが』その『最終的役割を受け持った』とあり、同年『八月一日(日)午前七時、リチャードに伴われて、母と子』は『ハーン家に到着』した。『当時のハーン家は、ダブリンの北部の高級住宅地ロウアー・ガーディナー通り四八番地にあり、チャールズの母エリザベスが娘ジェーン夫婦と住んでいた』とある。しかし、この年譜の最後には、母子のダブリンへの移転に就いて、『歓迎の気持ちとうらはらに、当時のアイルランドにおける厳しいカトリック教徒とプロテスタントの宗教的・政治的対立は、プロテスタント旧家としてのハーン家にカトリックに近いギリシア正教を信ずるローザが同居することが、だんだん難しくなる不二木を生み出した』とある。

 翌一八五三の『十月八日(土)、』父『チャールズが』勤務地であったグラナダから『ダブリンに到着する』とあり、その後に、八雲の書簡からの引用があり、『「乳が連隊とともに帰還した時、父が私を一緒に馬の背に乗せてくれたことを私は憶えています。赤いコートと縞入りのズボンの多数の士官と一緒の晩餐の席、子供の私は食卓の下を這いまわって軍人さんの脚をつねてまわった」』とある。しかし、翌日の条に、『ハーン家において再会した一家が食卓を囲』んだが、早速、『その夜、チャールズとローザのあいだに激しいあらそいがあった』(父チャールズの妹(三女)スーザンの日記に拠るとする注記がある)とある。この年の最後に、『暗い北海の風土を嫌い、英語もたどたどしいローザは精神が不安定となり、時に激しい発作にかられて二階から身を投げようとしたり、子供に当たったり、暗く沈むことが多くなった。チャールズはボートベロー兵舎近くの村ダンドラムに母子を住まわせた』。『小泉セツは後年、E・ウェットモア夫人』(エリザベス・ビズランド・ウェットモア (Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年)はアメリカの著名なジャーナリスト・編集者で、ニューオーリンズで新聞社『ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット』( New Orleans Times Democrat )に勤めた際、既に記者メリカ在住中の小泉八雲と知り合い、以降、生涯、親交を結び、八雲の没後には、英語による伝記を執筆したことでも知られる。詳しくは、当該ウィキを見られたい)『に、生前のハーンの言葉を次のように伝えている。「私、四歳[やぶちゃん注:恐らく数えで答えている。]の時でしたと思います。ある日、大層いたずら致しました。ママさん立腹で、私の顏を打ちました。その時、私ママさんの顔をよく見ました。髪の毛の黒い、大きな黒い眼でした。日本人のような小さい女、ママさんを覚えたようです」』とある。なお、小泉八雲ははっきりした母ローザの面立ちの記憶を持っていなかった。この回想は、そうした一瞬のカットの瞬時映像のそれである。実際、後の八雲は、親族とは殆んど関係を持たなかったが、翌年に生まれる八雲の実弟に手紙して、何とかして母の写真を探し出して貰うことを頼んでいる。実は――怒った母の黒い眼の映像だけ――が彼の唯一の「母の記憶」であったのである。

 而して、翌一八五四年四月二十一日、チャールズは「クリミア戦争」に従軍したが、その時、『ローザは懐妊していた』のであった。そして、『初夏、』ローザは『ハーンを』を可愛がって呉れた親族の女性『ブレナンの援助でセリゴ島に帰』った。ローザは、その島で八月十二日に、八雲の実弟ダニエル・ジャームズ・ハーンが生まれた。同年末尾には、『ローザには子供を見棄てるつもりはなかった。ハーンは弟ジェームスに手紙を書いて、「母に対する不実な言葉を信じてはいけない。母はできるだけ君を愛したのだ。どうしようもなかったのだ」と慰めている』とある。

 一八五五年は解説のみであるが、小泉八雲の生活史の中でも最も重要な箇所であるので、前掲年譜から全文を引く。

   《引用開始》

一八五五年(安政二年)五歳

 父母と離れて、大叔母ブレナン[やぶちゃん注:父の母エリザベスの妹で、カトリックに改宗した未亡人サラ・ホームズ・ブレナン(Sarah Holmes Brenane)。]のもとで生活をする。繊細で、神経質な幼年時代を回想して、後年まで強い印象を残しているのは、恐怖の体験であった。「私が子供の時、悪夢が私にとっては実際の形状と明瞭さを帯びて現われた」[93106]。夢魔の恐怖は後に、自伝的断片「夢魔の感触」「(『明暗』)で詳細に語られる。夜の世界は十歳の頃までつづく。

 また楽しい想い出として、「ブレーネン大叔母の許に居た間は年々誕生日には御馳走され、蠟燭を立てて祝って貰った。それで六月二十七日が自分の誕生日である事をよく記憶している。誕生日がすむと間もなく、海岸へ大叔母に連れて行かれるのが例であった」【小泉一雄(一九五〇)九一―九二】。海岸はウォーターフォード州のトレモアや、ウェールズのバンゴー、そして叔母キャサリン・エルウッド夫人の住むメイヨー州ラウ・コリップ地方であった。「私は少年の頃に人々から『君は会場に乗り出すことはできない、そんなひどい近眼では⋯⋯』と忠告されて、大いにだだをこねて泣き叫んだ」[9520]。

   《引用終了》

ここに出た『自伝的断片「夢魔の感触」「(『明暗』)」とは、一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された来日後の第七作品集“ SHADOWINGS (名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ・第二パート“ JAPANESE STUDIES (「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“ FANTASIES の第五話目に配された作品で、原題は“ NIGHTMARE-TOUCH (「夢魔の接触」)である。私の「小泉八雲 夢魔觸 (岡田哲藏譯)」を見られたい。但し、この岡田氏の訳は佶屈聱牙で、今一つ、好きになれない。なお、以上に出る重要な大叔母は、八雲の祖父の妻で、姻族に当たるので、同年譜の下方に出る『ラフカディオ・ハーン系図』には載らない。

 続く一九五六年(八雲六歳)では、父チャールズがダブリンに帰宅し、その途中、彼は、嘗つての恋人(未亡人)に偶然、逢った。この女性はアリシア・ゴスリン・クロフォードという名で、ギリシャに行く前、彼が求婚したものの、相手の両親が反対したために諦めた人物であった。されば、彼は、再び、『彼女との結婚を求めて、ローザとの離婚をはかることになる。大叔母はこれに反対した。この頃、父に連れられて、「髪の毛がきらきら光った、全身白いドレスをまとった」「天使のように美しい」婦人に会った時の思い出が』書簡にあるとし、『クロフォードの意地の一人ウェザオール夫人は、この頃会ったハーンの様子について、「長く細い黒髪を顔の両側に垂らし、飛び出た近視の眼をして、夢見るような放心した表情をして、人形をしっかり握っていた」という』とある。

 翌一八五七年(八雲七歲)の一月一日、『新離婚・結婚訴訟法が発効し、離婚申し立てが容易にな』り、『これにもとづいて、チャールズによって』ローザとの『結婚無効の申し立てがなされ、受理される』とあり、七月十八日、チャールズは先に示したアリシアと結婚している。結婚式の『証人の一人は弟リチャードである』とある。そこに、『ハーンはリチャードについて、「大きなひげをはやしていたこと、つげのこまをくれたこと、大叔母が彼のパリでの生活ぶりを嫌っていたこと」を憶えている』とある。リチャードは画家であった。『大叔母はローザとの離婚を怒り、チャールズを遺産相続人からはずし、彼への貸金(六〇〇ポンド以上)を返済させた』とあり、それに続いて、『七月、トレモアの海岸で夏を過ごしている時、海岸であったのが、父を見た最後である。障害で五度会っただけという』とあり、その後の、八月四日の記事の後に、八雲の母のことが記されてある。『〔ローザはセリゴで船会社オーストリア・ロイドの代理人であったジョン・カバリーニと結婚する。〕』とあった。ここには、まだ、八雲が憶えている話が載るのだが、先に進まないので、涙を呑んで、やめることとした。

 一八五八年(八雲八歳)の項の第二段落。

   《引用開始》

 ハーンの学校前の少年時代は、夏の明るい幸福感に満ちた短い日々と、冬の暗い恐怖につつまれた長い夜々の交代であった。家族じゅうでウェールズのバンゴーで過ごし、はなやかな避暑地の社交のなかで可愛がられ、カーナボンの城を訪れ、時にはコイント出の乳母と二人きりで、東洋の珍品あふれた航海者の別邸で過ごしたこともあった[9475]。また叔母やキャサリン・エルウッド[やぶちゃん注:祖父ダニエル・ジェームズの長女。父ジェームズより二十歲年下。]の住むメイヨー州コングの町で、従兄たちと三四七エーカーの農園で遊んだ様子が、「ひまわり」(『怪談』)という作品で、ウェールズに場所を移し変えて語られている。「夏の日の夢」(『東の国から』)の追憶の場面の多くは、エルウッド夫人を中心としている[9444]【ケナード(一九一二)三三――三四、四一】ともいわれ、また地中海を母とともに渡った時の原風景ともいう。そして長い冬の雰囲気は、大叔母の厳格きわめる宗教的訓練と合わせて、恐怖の叫びと嫌悪に満ちていた。「カズン・ジェーン」と呼ばれた少女の生と死は、ハーンの体験の一つの極となる(「私の守護天使」、「偶像崇拝」、「本意なき精霊たち」)。「一八五八年から母のことはきいていない」[9002]。

   《引用終了》

『「ひまわり」(『怪談』)』原題“ HI-MAWARI ”は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の十六話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。私の「小泉八雲 日廻り (田部隆次譯)」を見られたい。

『「夏の日の夢」(『東の国から』)』来日後の第二作品集「東の國から」(原題は“ OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)本篇「夏の日の夢」(原題“ THE DREAM OF A SUMMER DAY ”。「或る夏の日の夢」)は、本書が初出ではなく、これ以前の明治二七(一八九四)年七月二十八日発行の英字新聞『ジャパニーズ・ウィークリー・メイル』紙( Japanese Weekly Mail )に投稿したものである。私の『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集「東の國から」(正字正仮名版)始動/ 献辞・田部隆次譯「夏の日の夢」』を見られたい。

「私の守護天使」と「偶像崇拝」は、国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集 第十二卷」(昭和二(一九二七)年第一書房刊)のここの「自傳斷片」で、二篇を田部隆次氏の訳で続けて視認出来る。

一八五九年(八雲九歳) 冒頭に『大叔母ブレナンが生活の中心をダブリンのアパー・リーソン通り七三番地に移す』とあり、その後に、のちに大変なことになる大叔母ブレナンの相続関係の記載が載るが、引用が膨大になるので略す。

 ここで一八六三年(八雲十三歳)まで飛ばすと、八雲は『九月九日』、『ダラム市近郊のウショー』(Ushaw)『にある聖カスバート校』(St Cuthbert's College)『に入学する。聖職教育を目的とし、当時三百人の生徒が在学していた』。『ハーンはその厳正な宗教教育に反発し、聖書の真理に疑問を投げかけ、告解で女性の誘惑を求めていると語り、ギリシアや北欧神話を題材にした文学を愛読するなど、活発な生徒として自由な精神を養った』とある。

 一八六四年(八雲十四歳)の十一月一日の記事を部分引用する。『学校の教科はラテン語中心で、わずかなギリシア語、英語、そして知識中心の古代史、地理数学であった。ラテン語、ギリシア語、数学が不得手で、フランス語も後年の翻訳を予想させるものはなかったが、英語は三年間クラスのトップクラスだった』とあり、『学校ではいつも「パディ」と呼ばれていた。家族のこと、住まいのことを語りたがらなかった。「彼は後になると旧家のあいだもウショーを去ることは決してなかった」』とし、『集団的ゲームに関心をしめさなかった』とある。

 一八六五年(八雲十五歳)には、『「少年の頃、芝生に横になり、夏の青空を見上げて、その中に溶け込み、その一部になりたかった。こんな空想には汎神論の愚劣と邪悪を説いた宗教主任教師に意図せざる責任があると思う。私はこの時、弱冠十五歳にして汎神論者となった。私の想像は私を誘って大空を遊び場とするだけではなく、空そのものになりたかった」(「偶像礼拝」)』と八雲の言葉のみが、ある。この「偶像礼拝」は、一八五八年の箇所で示したものと同名であるが、これ、何度読み返しても、以上の引用と一致するような文章部が、全く見出せない。実は私は恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』(全十五巻)を所持していないので、何んとも、答えようがない。取り敢えず、先程、古書店に、急遽、全巻揃いを購入契約した。入手後に確認して追記をするので、今少し、お待ちあれかし。【2016年1月30日追記】同著作集を入手したが、豈図らんや、全く、解決に至らなかった。私は、複数のプロジェクトを並行して作業しており、これに何時までも熟考する暇がない、向後も、気にかけては、おく。何か、御存知の方は、是非、御教授下さると、助かる。

 一八六六年(八雲十六歳)には、『九月、第三学年への進級に失敗する。寄宿舎、教室、図書室その他、学校生活すべてにわたって友人たちから隔てられる。』とあり、この年、『「ジャイアンツ・ストライド」と呼ばれるゲームで、飛んできたロープの結び目で左眼を打つ(友達の拳ともいう)』とある。この“giants stride”とは、私の鎌倉市立玉縄小学校にもあった「回転遊木(かいてんゆうぼく)」と呼んでいた「回旋塔」で、それは円形のグリッドであったが、ここで言うのは、繩或いは鎖が上からぶら下がっていて、そこに吊り輪があり、それを摑んで複数の者が回転する遊戯である。英文サイト“ Sweet Americana Sweethearts ”の“The Giant Stride by Shanna Hatfield)がよい。例画像四種の最後の二枚が、最も近いものである。この遊技は、少なくとも本邦では、現在、危険な遊具として禁止され、まず、見ることは、ない。事実、私の小学校では、私が五、六年の時、幼稚園児の女の子が、これにぶら下がっている最中、中央の回転軸塔が根元から折れ、遊具全体の下敷きとなって亡くなっている。新聞に、優しかった亀井教頭先生が警官か記者に説明している写真と記事が、新聞の湘南版のページに載っていたのを強く記憶している。続けると、『ダブリンで手術をするが』、『失敗し、左眼を失明する』』とあり、『「私は左眼を失って恐ろしく醜くなっています」』と書簡で述懐している。これが、後天的な身体的ハンディとして彼の生涯の心傷(トラウマ)として沈殿したことは言うまでもない。なお、この年の『十一月二十一日』、『父チャールズがマラリアを病んで除隊し、インドより帰国する途中、スエズ運河を通過』中、『船上で死去』し、『水葬される』とあった。ともかくも、八雲のウィキにある通り、『父親には』終始、『嫌悪感を、母親には生涯に渡って思慕の念を抱いていたという』とあるのは、全くの真実である。謂わば、これこそが、彼が背負った最大の心傷として、生涯を貫き刺したのである。なお、ここに本文ウィキの『1866年 まだ片目を失明して間もない16歳頃の写真』というキャプションのあるものを、以下に掲げておく。無論、パブリック・ドメインである。

   

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 一八六七年(八雲十七歳)九月、大叔母ブレナンが、『ほとんど全部の資産を』突如、失ってしまう。八雲曰く、『「私の親戚の一人の相場師のために金持ちから貧乏になって」』、『「ロンドンの』『冒険家に破産された」』、『財産も没収された」』『と記しているように、ハーンはこの間の経過をくわしく知っていた』とある。

 さればこそ、同年『十月二十八日』、『聖カスパート校を学期中途』の『人文学の第三学期』に『退学』している。八雲曰く、『「カトリックの学校(複数形)で数年たいへん不幸な日を送った」』と回想し、『「英国の学校は乱暴で諸運教育にふさわしくない。頑固な宗教的保守主義が無益な修業を課す」』と述べている。この後に編者の長い補論がある。引用しないが、是非、読まれたい。

 以下、年譜は細かに続くが、ここは、八雲のウィキの『フランスの神学校で教育を受け、この時期にフランス語が得意になる。アイルランドに戻り、イギリスで3番目に歴史が長い名門大学 ダラム大学』(Durham University)『で教育を受けた後、1869年に渡米』したという引用で、ここの注を閉じる。ともかくも、彼は、心的には、この時点で、すっかり独りぼっちのVagabond (フランス語:音写「ヴァガボン」:放浪者)となってしまうのである。

 

 三十八歲の時ハ-パー書肆の文學寄書家として西印度マルチニーク島に航し、一たんニユーヨークに歸つたが、翌明治二十三年三月(西曆一八九〇年)四十一歲の時同書肆の依囑によつて東洋の日本に向い、四月十三日橫濱に上陸した。八月の末松江に着き、松江中學の敎師となり、その翌年二月頃小泉節子と結婚してはじめて家庭の人となつた。斯くて明治二十四年十一月、松江中學校敎師を辭して熊本第五高等學校に轉任し、ついで明治二十七年十月熊本高等學校を辭して神戶クロニツクル社記者となり、翌年の秋歸化して小泉家入夫[やぶちゃん注:「にふふ(にゆうふ)」。]の手續を完了して小泉八雲となつた。明治二十九年八月東京文科大學講師となり、明治三十六年三月まで敎鞭をとり、明治三十七年四月旱稻田大學に轉職したが、同年九月二十六日、心臟麻痺のため五十五歲をもつて東京府下豊多摩郡西大久保村二六五番地の寓居に歿した。墓は東京市外雜司ヶ谷墓地にある。戒名は正覺院殿淨華八雲居士である。

[やぶちゃん注:以下は、前注の終わりと同じく、簡便にするために、本邦の小泉八雲のウィキと、英文の“Lafcadio Hearn”のそれを参考に、恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の「年譜」で補足して箇条型で示す。私が日本語を文を加工したので、引用符は、一部を除いて、その「年譜」からの引用以外には、附さない。

一八六九年(十九歳) リヴァプールからアメリカ合衆国のニュー・ヨークへ移民船で渡り、シンシナティに行く。そこで『印刷やヘンリー・ワトキンを知り、仕事を教えられ、やっと夢を織る場所が与えられる。公立図書館で毎日のように本を読』むようになる。書簡に拠れば、『「暇を見ては本を読み、物語を書きました。書いた作品はもうとうにつぶれた安っぽい週刊誌に載りました。原稿料は一度ももらえませんでした」』とあり、『「十九歳から二十一歳までのあいだ、懐かしい『ボストン・インベスティゲーター』』(“ Boston Investigator ”)『に寄稿していた」』とあり、物書きとしての小泉八雲のルーツは、ここにあるようである。

一八七〇年(二十歳) 『この頃、シンシナティのユニテリアン』協会(the American Unitarian Associationのユニタリアニズム(Unitarianism)とは、キリスト教の正統派の教義の中心とされる「三位一体(父と子と聖霊)」の教理を否定し、神の唯一性を強調する主義の総称を指し、イエス・キリストを宗教指導者として認めるが、彼の神としての超越性は否定する思想で、一般のキリスト教会は「異端」とする。同協会は一七九六年に、イギリスからアメリカに移住したジョゼフ・プリーストリーが、ペンシルバニア州フィラデルフィアで知識人十二人を指導して最初のそれを創設した。後、一九六一年に「アメリカ・ユニテリアン協会」は「アメリカ・ユニヴァーサリスト教会」と合併、「ユニテリアン・ユニヴァーサリスト協会」を設立している)『の牧師トマス・ヴィーカーズの指摘秘書として、周三ドルの報酬で』、『おそらくフランス語の翻訳の仕事をする』とあり、また、この年には、『ボストンの週刊誌「ボストン・インベスティゲイター」に「フィアット・ルクス」(「光あれ」の意)の筆名で投稿する。』とある。

一八七一年(二十一歳) 『一月十三日』、大叔母『サラ・ブレナンが卒中でトレモアで死去する。「私は五〇〇ポンドの年金を遺言書で受け取ることにあっていた。⋯⋯』が、しかし、ブレナンが信頼していた遺産相続を担当した人物からは、手紙で、『私に送るものがたくさんあるなどと言い、自分が唯一の遺言執行人になったと言いながら、遺言書につては一言も触れていなかった。⋯⋯手紙を書いたが、たぶん不興をかったのであろう、二度と連絡はなかった』』と書簡にある。八雲は受けるべき正当なものを総て横領されたのであった。この年、とある『印刷所で通信係をする』とある。

一八七二年(二十二歳) 『この年の初め頃、「シンシナティ・トレード・リスト」誌』(“ Cincinnati Daily Enquirer”)『の創刊に当たって共同所有者兼編集者』の『編集助手となる』とある。八雲はこの時知るまでもないが、『五月二十五日』、『母ローザがコルフ島の国立精神病院に入院する。その死まで退院することはなかった』とある。『夏頃』、ある『出版者の植字工兼校正係となる』とあり、それによって『その地方の印刷業組合の一員に加えられていた』とある。『十一月、「シンシナティ・インクワイヤラー」紙の編集室を訪ね、主筆ジョン・A・コッカレルに会う。持ち込み原稿に金を払うこともあると言われ、編集者の机に現行を置くと草々に立ち去ったという』(コッカレル自身の一八九六年の書籍に拠る)とあり、『以後、同誌の有力な寄稿者となる』とあり、最後に、現在、分かっている同紙に彼が執筆した記事の数が、この年から一八七五年六月までで三分割で記されており、それは計二百五十三篇に登ることが判る。まさに本格的な「物書きハーン」となっていたのである。

一八七三年(二十三歳) 『九月以降、不定期的であるが、文学の新刊書評、美術の展覧会評を書くようになる』とある。また、『この年の終わり頃、自由恋愛の㸃商社ヴィクトリア・ウッドフルに共鳴する。十二月には神霊術への関心を深め、N・B・ウルフ博士『現代神霊術の驚くべき事実』を読み、占星術師ラファエ夫人などいかがわしい占師の詐術を実見し、あばくようになる』とあり、また、『カトリックの活動が社会問題化する中で、宣教師たちの活動を冷たい眼で見ていた』と記す。

一八七四年(二十四歳) 『この年の初め頃、インクワイアラー社に正式社員となり』、先の『校正係をやめる。コッカレルの事務所に机を与えられる』とあり、また、『この頃、競争紙「ガゼット」の記者ヘンリー・E・クレイビール炉の交友がはじまる。また、フランス文学の翻訳に没頭し、視力が一層弱くなる』と記す。また、この年の中『頃、墓地や骸骨など、恐怖趣味に関する探訪を試みる。また、画家の友人フランク・デュベネックの誘いによって、女性の裸体美、理想美を求めて』、『アトリにでかけ、モデル嬢を文章でデッサン』したりしている。『十一月七日』、猟奇的な殺人事件『「タン・ヤード事件」』が起こり、『友人と』『ともに現場へ駆けつけたハーンの記事は、その恐るべき事件の詳細を描ききって、センセーションをひき起こし、記者としての名を確立する』とある。この事件は、「小泉八雲記念館」のInstagramのここで、解説を見ることが出来る。なお、本文に出る

「鞣皮所の殺人」(なめしがはじよのさつじん(なめしがわのさつじん))

というのが、この「タン・ヤード事件」の記事で、「年譜」の下段(八雲の著作欄)に、初回が十一月九日掲載の『「皮革制作所殺人事件」』以下に連載された記事名が確認出来る。

一八七五年(二十五歳) 『下宿で料理人をしていた』アルシア・マティ・フォリー(Alethea "Mattie" Fole)『と結婚を考えるようになる』。彼女は『一八五四年二月四日、ケンタッキー州メイスヴィルで白人農場主と奴隷女』性『のあいだに生まれ』た。『一八六八年八月』に『男児』『を出産』しており、相手は『スコットランド人という』。以下、彼女及びハーンの関係について、十六項目もの証言が載っている。しかし、オハイオ州では、当時、黒人との結婚は違法であった。二人の正式な結婚届け出が受理された形跡はない。結婚式は、最初に頼んだ牧師から拒絶され、次に依頼した黒人牧師が司式を行った。しかし、『二人の同棲生活は数カ月で破綻』した。マティとの結婚も一因となり、ハーンは『七月、インクワイアラー社を退社する』(英文ウィキでは「解雇される」とある)。『八月』、インクワイアラー社のライバル会社だった『「シンシナティ・コマーシャル」紙』(“ Cincinnati Commercial ”)『に寄稿を』始めて、『十二月から翌年の三月までのあいだに、同誌の正規の記者になる。』末尾に、一八七五年九月から一八七八年四月までの寄稿数が記されており、合計百六十四篇である。また、『他に風刺画の挿絵多数』と付記されてある。なお、本文に出る、

「都市の鳥目觀」

というのは、「年譜」の下段に一八七五年五月二十六日に『「尖塔に登って」』とある記事が、それであることが判った。それが判明したのは、国立国会図書館デジタルコレクションで検索を繰り返す中で見出した小泉八雲著・佐藤春夫譯「尖塔登攀記 小泉八雲初期文集」(白水社昭和九(一九三四)年刊)の中の表題作名に拠ってで、★ここから、読むことが出来る。これも、と言うより、一冊総てを、後に電子化注したく思っている。

一八七六年(二十六歳) 『四月下旬のある日、パーティで地元の医師の妻エレン・R・フリーマンと会い、エレンの息子が集めている考古学の蒐集品の展示会についての記事を書くことを依頼される。このことをきっかけに親密な手紙のやりとりがはじまり、贈り者をしたり自宅に誘うなど、夫人の積極的な愛情がハーンにそそがれる。ハーンは適当な距離を置きながらも、深みにはまることを避けつづけるが、十月頃、藤Kなら送られた写真に対して、ハーンが残酷な批評をしたことから、ハーン宛の手紙がすべて送り返され、二人の交際は終わった』とある。この年の記事はこれのみである。

一八七七年(二十七歳) 「年譜」冒頭に、『夜業の合間に、一律商業図書館にこもってゴーチェの物語の翻訳をはじめる』とある。而して『この秋、マティとの関係が破局を迎える』として、経過が記されてあり、『マティはハーンを捨てて町を出、ハーンもその留守にこの街を出る決心をして、十月のある日、コマーシャル社を退職』した。その後、シンシナティの公害による目への悪影響を避け、ニューオーリンズへ向かった。「年譜」では、その途中のメンフィスでの記載が、かなり語られてある。ニューオーリンズ着は十一月十二日で、その後、なかなか就職活動が上手くいかなかった。

一八七八年(二十八歳) 『ニューオリンズの伝説の教父アントワーヌの聖なる棕櫚(しゅろ)の樹の発見、クレオールの俗謡の収集と翻訳、そして旧市街の人々の生活を描くことに熱中し、東洋や西欧の物語の翻訳、創作にいそしんでいたが、デング熱(骨痛熱)にかかる。そして、三月、四月と不本意な政治的記事を書いて、かろうじて食いつないでいう。体が衰弱し、視力がひとく衰えてくる。』とあり、続いて、『「石のような盲目」にたって、金もなく、友もなく、医者に運ばれた。友はただ一つ』、『回転拳銃だけで、医者が治療に失敗したら使うつもりだったという』と凄絶な記載がある。『四月、「コマーシャル」』紙』『の通信員を辞める』が、事実としては、『稿料の遅れのことから、激しいやるとりののち』、『解雇された』のであった。病気の方は、「瓢簞から駒」で、『五月』、『骨痛熱にかかったことで黄熱病はまぬがれ』、マラリアもドイツ人の薬剤師にゴマ油をどっさり飲ませられて治り、骨痛熱の再発にはレモン汁をすすって耐えぬく』『など、荒っぽい治療で病気を克服して』いった、とある。しかし、五月から六月に至り、『困窮の極』み『に到る』とあって、書簡には「『二日に一度くらい五セントの食事――明はどこに宿をとらせてもらおうかと案じ煩うこともあるぐらいだ」』と記している。辛くも、『六月十五日』、知人の世話で『ニューオリンズ・アイテム社』(日刊紙“ Daily City Item ” を発行)『で副編集者の職を得る』とあり、仕事は『一日三時間、事務所につめて、記事を書き、校正をする、後は自由な時間という職場』で、『ハーンにとって天国であった』とある。

一八七九年(二十九歳) 『「アイテム」』社『で副編集者として健筆をふるうにつれ、ハーンの力量は認められるが』、『負担も多くな』った。昇給したものの、『勤務時間は』十『七時間にも及ぶようにな』った。彼には『新聞記者以外によって生活の安定を得たいという思いは、貧窮の最中の前年二月頃からあった。そこで、彼は、皮算用で、百ドルの貯金を目論み、『三月二日』、『なんでも五セントのレストラン「不景気屋」を開店する』に至った。経営するも、見事に失敗、『三月二十三日』には『閉店する。』但し、『相棒が売り上げ金を逃げ出したからである』とは、ある。この後に、編者による彼のクレオール文化関連等の論考がある。非常に鋭いものである。是非、見られたい。

一八八〇年(三十歳)の「年譜」の最後に『五月以後、ハーンは「アイテム」紙だけではなく』、同地の『「デモクラット」紙』(日刊紙“ Times Democrat ”)にも投稿をはじめている。ハーンの記者としての評判が高く、一つの新聞にとどめえなかったとも言える。しかしそれではなく、ニューオリンズにおける新聞界再編の動きがはじまっていて、ハーンもその動きに乗っていたと考えられる。「デモクラット」紙の記事は、いずれもフランス文学の翻訳か「海外情報」のコラム名によるはなやかな新しい文学の紹介である。」とある。

一八八一年(三十一歳) 『十二月二十八日』、『「タイムズ」紙と「デモクラット」紙の合併が発表される』とあり、八雲は『「タイムズ・デモクラット」の文藝部長として、日曜版を中心に執筆する』とあり、最後に一八八二年から一八九四年十月までの彼の寄稿数がか示されており、その総計は、実に四百九十三篇である。

一八八二年(三十二歳) 「年譜」冒頭に『ハーンの関心が東洋関係の神話や文学に集中されるようになる。』とある。『十一月、東洋の伝説集(後の『飛花落葉集』)をスクリプナー、オズグッド者に出版を依頼する』とある。『十二月』本邦のウィキでは、ここに、『この時期の彼の主な記事は』、『ニューオーリンズのクレオール文化、ブードゥー教など』であったとする。また、この年、彼にとって後半生に於いて重要な人物となる才媛との邂逅があった。『この冬、エリザベス・ビスランド』(Elizabeth Bisland :後に結婚し、Wetmore 姓を名乗る)『を知る。「死んだ恋人」を読んで心を引かれ、ジャーナストを志してニュー』・『オリンズにやってきた十八歳の才気ある美少女は、その時「タイムズ・デモクラット」の婦人記者であった』とあるのが、その人である。彼女については、邦文ウィキを参照されたい。以下、一年、飛ばす。

一八八四年(三十四歳) 「年譜」冒頭に、『この年から八六年までの三年間は、これまで培ってきた才能が一斉に開花し出し、民俗学という広大な分野を与えられて、その主題も生きてくる。だんだんと新聞を翻訳発表の場に利用し、まとまったテーマはゆっくりと時間をかけて、雑誌に発表するようになるが、その前の最も充実した一時期である。六月の『飛花落葉集』の出版』(オズクッド社刊)『は一つの目標を達成し』、メキシコ湾にある『グランド島での』八月末から一ヶ月余りに亙った『夢のような休暇ののち、ハーンは創作のなかに大きく踏み込んでゆく。まさに転換の年である』とある。

一八八五年(二十五歳) 「年譜」冒頭に、『一月から二月にかけて、ハーバー社のために』ニュー・オーリンズで開催された万国『博覧会の記事を書くことに忙殺される。特に日本館の美術および教育に関する展示品七〇四点が興味を引き』、『医学者高峰譲吉と出会い』、『日本政府から派遣されていた』農商務省官僚『服部一三と緊密な交渉かった』とある。本邦のウィキは、これを前年の項に記しており、誤りである。この年の四月から五月上旬にかけて、友人とフロリダ旅行に出たが、『旅行中』、『マラリアにかかり、帰宅後』、『発熱して、二週間』、病床に臥す。この時、看護して呉れた人々の中に『洗濯女のルイーズ・ロッシュ』がいたが、五月の項の終わりに、八雲は『博覧会の時に見た日本を取材してみたい思いがあり』(☜重要!)、『一方で、民族音楽の宝庫である西インド諸島への憧れ』『が交錯する』とあり、それについて、先の看護してくれた『ルイーズ・ロッシュは豊かな民謡の伝承者であった』とあるのも、見逃せない。

一八八六年(二十六歳) 「年譜」冒頭に『この年は『チタ』の執筆に集中した年であり、その創作にかえる意欲が高揚した気分をもたらし、新聞への寄稿も充実安定している』と記す。「チタ」は‘ Chita: A Memory of Last Island ’(彼が推敲に拘った結果、大きくズレ込み、一八八八年四月刊行となった)で、後年、多くの作品とカップリングされ、「仏領西インドの二年間」(‘ Two Years in the French West Indies ’: 一八九〇年刊)の中に組み入れられた。

一八八七年(三十七歳) 「年譜」に『二月、新聞記者生活をやめ、ハーバー社の寄稿者として作家生活に入る決心をする』とある。『六月五日』、『シンシナティ時代の記者仲間テニュスン、そしてビスランドに会』い、『成長したビスランドの美しさに魅了され』たとある。『七月上旬の日曜日〔十日か〕、夜明けにイースト・リヴァ四九埠頭から、バラクータ号でトリニダットに向け』、第一回目の西インド諸島への旅に『出発する』。その後、多島海の島々を廻り、『サン・ピエール』(Saint-Pierreここ。グーグル・マップ・データ)『に腰を据える。青い海、美しい混血の娘、夢のような町で過ごす。トリニダットでは、クーリーの村の娘たちがするような腕環を銀細工師に造らせ、ビスランドへの贈り物にする』とある。彼のビスランドへの恋情は、モノホンと言う感じが、既に、する。九月中旬、ニュー・ヨークに着く。九月末、一回目の『西インド諸島旅行の原稿が七〇〇ドルで売れ、これをもって、すぐにサン・ピエールに引き返す支度にかかる』とあり、『前の旅では』、『行く先々で写真を買わなければならなかったこと、混血の人々の分類、特にその髪型に関心をもっていたことから、カメラの必要を考え、一〇六ドルを出して』『「ディクラティブ」という当時の最高級品』を『購入する』とある。『十月二日』、再び『バラクータ号に乗船、サン・ピエールに向かう。会わずに出発するハーンをなじるビスランドに、署名の別れの手紙を書くが、最後まで会うことはしなかった』とある。彼女の方も、まんざらではない感じがするが、寧ろ、八雲の素直でない様子には、私は、女性に対する根本的な、ある種のアンビバレントなものを強く感じる。十二月の記載に、大枚を払った『カメラを十分に使いこなせず、とうとう地元の写真屋と契約する。カヌーと少年の話、高地の墓、熱帯の森と神社』(信仰の聖なる建造物とでもしないと、激しい違和感がある)『など、興味を引く題材を小品に仕上げようとする』とある。最後の部分で、編者が、滞在中の彼の女性関係について纏めている。『マルティニーク滞在中のハーンの身近にある女性の姿を伝えているのは、モン・ルージュに移ってから』津人『宛に書かれた十二月五日の手紙である。――私には、町に一人の「肉体美」(ドドン)』(現地語であろう)『がいるので、女はいらないと書いている』とし、最後に、『ハーンが借りた山小屋の老主人カプレスには、ハーンに山を案内してくれた背の高い息子イエベと、オレンジの肌の娘アドウがいた。この娘や、下宿先の娘などとの恋愛説もあるが、これらの女性たちは、ハーンの身辺を知る身近な人々であったと理解するだけで十分だろう。』と締め括っている。因みに、私の所持する恒文社版平井呈一「小泉八雲作品集」(全十二冊・一九六四年~一九六七年・所持するのは総て初版である)の「仏領西インドの二年間 上」(全原題は‘ Two Years in the French West Indies ’)の「洗濯女」の一節に、『背の高いカプレス』が、洗濯に来た十八、九の娘たちに、いたずら半分に声をかけるシークエンスがある。この『カプレス』は青年と思われるが、実際には、カプレスの子イエベがモデルであろう。小泉八雲は、来日後の作品でも、わざと実際の名前を、別な名や性別に書き換える傾向が、随所に見受けられる。それは、実在のモデルを判らなくして、特定されないようにする優しい配慮の働きでもあるのである。さて、西インド諸島滞在は、翌々年の四月まで続いた。

一八八九年(三十九歳) 二月に「ユーマ」(‘ Youma, the Story of a West-Indian Slave ’)を脱稿している。「年譜」に拠れば、『五月一日』、『ニュー』・『ヨーク行きの船に載る』とあり、同月五日にはアメリカに着いていた。『十月中旬、ビスランドの自宅』『で弟妹と一緒に夕食をとる。ビスランドへの恋心がつのる。』とある。以下、余りにも注が長くなったので、ウィキの「小泉八雲」の年譜で簡略化する(注記号はカットした)。

一八九〇・明治二十三年(四十歳) 『ネリー・ブライと世界一周旅行の世界記録を無理やり競わされた女性ジャーナリストのエリザベス・ビスランド(アメリカ合衆国でのハーンの公式伝記の著者)から旅行の帰国報告を受けた際に、いかに日本は清潔で美しく人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったかを聞き、ハーンが生涯を通し憧れ続けた女性でもあり、年下ながら優秀なジャーナリストとして尊敬していたビスランドの発言に激しく心を動かされ、急遽日本に行くことを決意する。なお、来日の動機は、このころ英訳された古事記に描かれた日本に惹かれたとの説もある』。『ハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバーに立ち寄り、44日横浜港に着く。その直後、トラブルにより契約を破棄する。横浜では、1887年にハーンが『ハーパース・バザー』に発表した「Rabyah's Last Ride」の熱烈な読者だった在日英国人学校ビクトリア・パブリック・スクール校長のチャールズ・ハワード・ヒントンがハーンを家に招き』、『同校での教職も与えたが、ヒントンの妻がハーンの隻眼を嫌がり決別する。なお、ヒントンの妻のマリーは、数学者ジョージ・ブールと』、『やはり』、『数学者のマリー・エベレスト・ブール(エベレスト山の由来となったジョージ・エベレストの姪)との間の娘である。このときのハーンの教え子にエドワード・B・クラークがいる』。『7月、アメリカ合衆国で知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)の斡旋で、島根県尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に任じられる』。『830日、松江到着』。

一八九一・明治二十四年(四十一歳) 『1月』、『一人住まいのハーンの家に、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子(186824 - 1932218日)が住み込み女中として雇われる。二人はすぐに惹かれあい結婚する。同じく旧松江藩士であった根岸干夫が簸川』(ひかわ)『郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する(1940年、国の史跡に指定)』。『11月、チェンバレンの紹介で、熊本市の第五高等中学校(熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師となる。長男・一雄誕生。熊本転居当時の家は保存会が解体修理を行い、小泉八雲熊本旧宅として復原され、熊本市指定の文化財とされた』。

一八九四年・明治二十七年(四十四歳) 十月、『神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する』。

一八九六年・明治二十九年(四十六歳) 『東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職』。『日本に帰化し』(「小泉八雲」として入籍したのは二月十日)、『「小泉八雲」と名乗る。秋に牛込区市谷富久町(現・新宿区)に転居する(1902年の春まで在住)』。

一八九七年・明治三十年(四十七歳) 『 二男・巌』(いわお)、『誕生』。

一八九九年・明治三十二年(四十九歳) 『清』(きよし)、『誕生』。

一九〇一年 ・明治三十四年(五十一歳) 『妻セツの養家である稲垣家を二男・巌に継がせるため、巌を義母・トミの養子にする』。

一九〇二年・明治三十五年(五十二歳) 三月十九日、『西大久保の家に転居する』。

一九〇三年・明治三十六年(五十三歳) 『東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)、長女・寿々子誕生』。

一九〇四年・明治三十七年(五十四歳) 三月、『早稲田大学の講師を務め』たが、同年

九月二十六日、『狭心症により』、『東京の自宅にて死去、満』五十四『歳没。戒名は』「正覺院殿淨華八雲居士」。『墓は東京の雑司ヶ谷霊園』にある。私は、神奈川県高等学校国語教諭を拝命した翌日、雑司ヶ谷の夫婦塚に墓参に行っている。]

 

 節子夫人との間にて一雄、巖、淸、鈴の三男一女あり、日本のために書いた著書は十一種の多きに及び、大正四年日本に盡した功勞によつて從四位を追贈された。

[やぶちゃん注:「大正四年」一九一五年。]

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥附。上中央に金津氏の切り絵があるが、私には如何なる意匠であるのか判らない。当初、家紋のように見えたが、しっくりくるものがない。小泉家の家紋は「鷺紋」であるが、全然違う。見た限りでは、非常にデフォルメされた花瓶かとも思った。左右に大小の葉が四葉、突き出ているからである。しかし、その上の花らしきものは、私には、凡そ、如何なる種であるか判らなかった。識者の御教授を乞うものである。]

 

 

 50.00

昭和25年5月25日印刷・昭和25年6月1日発行・昭和27年5月1日第2版

昭和28年10月 1 日第3版 ・ 著者 桑原羊次郞・發行者 三宅美代治 (松江市

殿町383)  ・印刷者 宮井一雄(松江市殿町383) ・印刷並發行所 山陰新報

   社(松江市殿町383)・定價1册50円・送料8円

 

[やぶちゃん注:最上部の金額は、上記の金津氏の切り絵と同じ紺色で印刷されており、奥附は赤である。奥附の上方の三行は左右が均等貼付で、最終行のみが左合わせになっている。ブラウザでは、上手く原本通りに合わせるのが面倒なので、以上の見せかけ配置とした。

 最後に――ここで私が注した来日以前の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の半生の年譜は、恒文社「ラフカディオ・ハーン著作集」の年譜を引きながら、ネット上で、記事として読めるものとしては、かなり、しっかりとしたものにした積りである。総て、視認でパッチワークしたので、誤りがあるかも知れない。おかしな箇所を発見された方はお教え下さい。

2026/01/27

立原道造草稿詩篇 謎々

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  謎々

 

天使が 僕に謎をかける

⦅右が明るくなつたり

 左が明るくなつたりするものなあに?

⦅ランプの傘――僕が答へる

 森の外側 たそがれ時の 窓硝子

⦅いいえ みんなちがひます

 私の齲齒なのです と

さうして彼は口をあけてみせる

すると なかには

寢坊のすきな中學生がゐる

 

[やぶちゃん注:「齲齒」は音では「うし」であるが、無論、「むしば」と読みたい。]

立原道造草稿詩篇 唄

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。而して、決定稿である詩集『日曜日』は、既にブログで2016年6月13日に「日曜日 (全)   立原道造」として電子化注してあるので、そこから、冒頭の箇所を転写して示しておいた。但し、決定稿では、単に「洋燈」に「ランプ」のルビが打たれている以外は同じである。

 

  唄

 

裸の小鳥と月あかり

郵便切手とうろこ雲

引出しの中にかたつむり

草の上にはふうりんさう

 

太陽と彼の黑ん坊

帆前船と彼の洋燈

昔の繪の中に薔薇の花

 

僕は ひとりで

夜が ひろがる

 

【決定稿】

 

  唄

 

裸の小鳥と月あかり

郵便切手とうろこ雲

引出しの中にかたつむり

影の上にはふうりんさう

 

太陽と彼の帆前船

黑ん坊と彼の洋燈(ランプ)

昔の繪の中に薔薇の花

 

僕は ひとりで

夜が ひろがる

 

[やぶちゃん注:「ふうりんさう」私は、「風鈴草」と言うと、うっかり、偏愛する

双子葉植物綱キキョウ目キキョウ科ホタルブクロ(蛍袋/火垂る袋)属ホタルブクロ Campanula punctata var. punctata

を想起してしまう植物に弱い人種であるが、辞書では、本邦では、

キク亜綱マツムシソウ目オミナエシ科カノコソウ(鹿の子草・纈草)属カノコソウ Valeriana fauriei

とする。しかし、この植物は、私には、それを連想するべくもない。而して、現行では、「風鈴草」は、植物学上は、地中海沿岸地方に原産する植物から改良された観賞用植物であるカンパニュラ属 Campanula の名で呼ぶ、

ホタルブクロ属フウリンソウ(風鈴草)Campanula  medium

を指示する。ウィキの「カンパニュラ」の「栽培種」によれば、『この仲間では最もポピュラーな植物。草丈2mくらいになる二年草だが、秋まきで翌春開花する一年草に改良された品種もある。花色には青紫・藤色・ピンク・白などがあり、上手に育てると、花径10cm近い花が数十輪咲く。標準和名は「フウリンソウ」だが、園芸上は「ツリガネソウ(釣鐘草)」と呼ぶことが多い。』とある。

「太陽と彼の黑ん坊」言わずもがなであるが、まず、後に並置されるフレーズから考えて、「黑ん坊」は「太陽」に対する光らない「月」の換喩であろう。]

立原道造草稿詩篇 (風が⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。初期形と注記に従い、修正前の原型も示した。しかし、この注記を見るに、【修正形】の内容は、全く同じであるから、取り敢えず、「1」のパートが存在しないものとして起こした。ただ、だったら、「1」がなく、「2」の本文だけが、記されてあるという注記を附すのが普通であるのにそれがないのは、或いは、「1」「2」が存在し、編集者が「2」パートの部分をうっかり、修正形と同じものを誤って記した可能性を排除出来ない(既に先行するもの中に注の誤りを私は発見している)。而して、決定稿である詩集『日曜日』は、既にブログで2016年6月13日に「日曜日 (全)   立原道造」として電子化注してあるので、そこから、冒頭の箇所を転写して示しておいた。

 

【初期形】

 

≪小鳥屋の店で 日が暮れる

≪果物屋の店で 夜になる

≪郵便局で あかりがともる

風が時間を知らせて步く 方々に

 

 

【修正形】

 

  (風が⋯⋯)

 

    1

 

風が お客に買ひに來る

 

けれどもみんなどこかへ行つたので

花が 店番をしてゐます

 

 

    2

 

≪小鳥屋の店で 日が暮れる

≪果物屋の店で 夜になる

≪郵便局で あかりがともる

風が時間を知らせて步く 方々に

 

 

【決定稿】

 

 

  風が‥‥

 

《郵便局で 日が暮れる

《果物屋の店で 燈がともる

 

風が時間を知らせて步く 方々に

 

 

[やぶちゃん注:修正形の「1」の冒頭のフレーズ「風が お客に買ひに來る」は、如何にも、意味が採れず、誰もが躓くであろう。不審である。

2026/01/26

立原道造草稿詩篇 田舍で

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  田舍で

 

    I

 

日曜日の落葉は自轉車に乘つてゐる

 

 

    II

 

朝の月が煙草を吸つてゐる

 

 

    III

 

日向に僕が眠つてゐる

いつまでも陽はかぎらない

         (幼年)

 

2026/01/25

立原道造草稿詩篇 古典的な夜

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。同全集の「第六卷 雜纂」のここを元に、初期形を示した。初期形は無題である。]

 

【初期形】

 

  (ためらひながら⋯⋯)

 

ためらひながら月が魔法使の身振りで光をひろげる、眠つた花の平和の上に、小鳥は時々眼をさます、巢のなかで飛ぶ眞似をするために。(それは夢が重い手を彼等におくからだ。)希臘の彫刻よりも美しい風が吹きすぎる。雲が地上におりて來る。

 時間はとまることなく步いて、そして見つける、すべての綠色は菫色であることを、

 

 

【改稿】

 

  古典的な夜

 

いつもの仕方で氣むづかしい夜が落ちた。⋯⋯

 

月がためらひながら魔法使ひの身振りで光をひろげる、眠つた花たちの眠りの上に。小鳥はときどき眼をさます、巢のなかで飛ぶ眞似をするために。(それは夢が重い手を彼等におくからだ。)希臘の彫刻よりも美しい風が吹きすぎる。雲が地上におりて來る。時間はとまることなく步いてそして見つける。すべての綠色は菫色であることを。

 

 誰の夢にも句讀點はない。

 

[やぶちゃん注:「希臘」読み方であるが、私の立原道造の電子化で、一件、確認出来た。「もし鳥だつたら」の冒頭で、『もし鳥だつたなら、ギリシヤの柱のてつぺんで、朝日の歌をうたはう。橄欖(オリーブ)に包まれた神殿に隅まで明るい朝日、そのなかで、死ぬまで心をはりつめて。』とあった。従って、ここは「ギリシヤ」と読んでおく。

立原道造草稿詩篇 チユーリツプは

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『*第一、第二詩はそれぞれノート中に初稿(ほぼ同文)を持つが、第二詩が、左面第二行目より起句されえいるので、一連の組詩と見做した。』とあり、さらに、『*第一詩は⑴ノートの中の下書き、⑵本稿、⑶詩集『日曜日』跋文の順に変化する。因みに本稿では詩集に採用の印らしく、緑色鉛筆の丸印がある。「彼」を「彼女」に修正。』とあった。同全集の「第六卷 雜纂」のここを元に、初期形を示した。

 当初、ノートの初稿の「彼」は自身のことかも知れないと考えたが、二行目は改稿と同じく「僕」を用いていることから、編者の誤字とする変更を受け入れることとした。

 なお、詩集『日曜日』は、既にブログで2016年6月13日に「日曜日 (全)   立原道造」として電子化注してあるので、そこから、跋文相当の箇所を転写して示しておいた。

 

【初期形[やぶちゃん注:ノートの順列のままで示した。]】

 

  成 長

 

僕の部屋よ お前は誰より

いちばん僕を愛してゐる

けれどこの窓を入つて來られるのは北風だけだ。

 

     ◇

 

僕の年齡は僕をひきとめない

夜になると僕はお前のランプにさようならする

 

     ◇

 

僕の手は僕の形をしてゐなけれいけない

いつも

僕の部屋へ入つて來られるのは 北風だけだ

 

  •  

 

チユーリツプは咲いたが、彼女は笑つてゐない、

風俗のおかしさ、花笑ひと僕は紙に書く

 

 

【改稿】

 

  チユーリツプは

 

チユーリツプは咲いたが彼女は笑つてゐない⋯⋯

風俗のおかしみ ⦅花笑ふ⦆と僕は紙に書きつける

 

   ☆

 

けちん坊の海と格鬪せよ

これは僕の受け取つた命令だ

 

   ☆

 

僕の手は僕の形をしてゐなければいけない いつも!

 

 

【詩集『日曜日』の最後に配された「跋⋯⋯」の詩形】

 

  跋(ばつ)⋯⋯

 

      チユウリツプは咲いたが

      彼女は笑つてゐない

      風俗のをかしみ

      《花笑ふ》と

      僕は紙に書きつける

             ⋯⋯畢(をはり)

 

[やぶちゃん注:本来、詩集『日曜日』のそれは、字配とポイント落ちがあるが、今回は、字下げのみを施しておいた。]

立原道造草稿詩篇 成長

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。それにある同全集の「第六卷 雜纂」のここを元に、初期形を示した。]

 

【初期形】

 

  成 長

 

僕の部屋よ お前は誰より

いちばん僕を愛してゐる

けれどこの窓を入つて來られるのは北風だけだ。

 

     ◇

 

僕の年齡は僕をひきとめない

夜になると僕はお前のランプにさよならする

 

     ◇

 

僕の手は僕の形をしてゐなければならない

いつも

僕の部屋へ入つて來られるのは 北風だけだ

 

 

【改稿形】

 

  成 長

 

僕の部屋よ お前は誰より

いちばん僕を愛してゐる

けれどこの窓を入つて來られるのは北風だけだ

僕の年齡は僕をひきとめない

夜になると いつも僕は

お前のランプにさよならする

 

立原道造草稿詩篇 (四月の空は⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。それにある同全集の「第六卷 雜纂」のここを元に、初期形「田舍」を示した。]

 

【初期形】

 

  田 舍

 

四月の空は

ひばり色

ハンケチ程の

雲がある

 

 

【改稿形】

 

  (四月の空は⋯⋯)

 

四月の空は

雲雀色

 

ハンカチ程の雲がある

2026/01/24

立原道造草稿詩篇 (飛びながら小鳥が⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。それにある同全集の「第六卷 雜纂」のここを元に、初期形を示した。]

 

【初期形】

 

  (飛びながら小鳥が⋯⋯)

 

飛びながら小鳥が見る馬の形は僕たちの知つてゐるそれとまるでちがふ それは時計の代りをするのだ 小鳥は程よい時間を見はからつて枝におりてやすむ

 

 

【改稿】

 

  (飛びながら小鳥が⋯⋯)

 

飛びながら小鳥が見る樹の形は僕たちの知つてゐるそれとまるでちがう それは彼等の日時計なのだ 小鳥たちは程よい時間を見はからつて枝におりて休息する

 

 

[やぶちゃん注:【初期形】の「馬」はママ。しかし、「馬」ではどうも以下に繋がらない。実は「木」の崩し字は、時に、下方で下手に崩れると「馬」の崩しに似てくるから、この「馬」は「木」であり、編集部が判読を誤ったと私は判断する。]

立原道造草稿詩篇 一日

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。それにある同全集の「第六卷 雜纂」のここを元に、初期形を示した。]

 

【初期形】

 

  一 日

 

    ①

空氣にふれてゐる僕の顏、僕の掌の面積 一日の僕の仕事⋯⋯

    ③

千の後悔が、手をおいた。はげしい疲勞が僕を切る。僕を支へる僕の形。僕を立ち去る僕の形。

 

 

【改稿】

 

  一 日

 

     i

空氣に觸れてゐる僕の顏 僕の掌の面積 一日の僕の仕事

 

 

     ii

 

望遠鏡をあてて 僕がゐる

望遠鏡をあてて 僕は苦しい

 

 

     iii

 

脱いだ着物はきたなかつた

脫いだ着物は僕を眞似る 風のやうに見えない空氣と摑みあふ風のやうに

 

 

     iv

 

聞きなれた聲が何か言つてゐる 千の後悔 僕の不幸はけれど小さい

 

 

[やぶちゃん注:初期形の「③」はママ。]

立原道造草稿詩篇 夜曲

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  夜 曲

 

魚よ クラゲよ 花たちよ

液體空氣の海のなかで

ぼくは身投げをしました

これから仲よく致しませう

 

2026/01/23

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その8) 「京店と北堀時代」(そのⅣ) 〔交友〕

[やぶちゃん注:底本では、ここの右丁最終行から。]

 

       〔交    友〕

〔桑原〕 根岸邸で先生は來客の時は酒を酌みかわし、流行の改良節を唄われて興に入られたと書物にありますが、それはほんとうでしたか。

[やぶちゃん注:「改良節」花酒爺氏のブログ「歌謡遺産 歌のギャラリー」の「改良節」に、『明治二十年代、時の新語「改良」を冠して』、『はやった演歌・俗謡をいう』。『当時、西を向いても東を見ても斬新を誇示する改良だらけであった。その風潮がいかにすさまじかったか』は、『ここでは割愛するが、『団団(まるまる)珍聞』明治二十一年一月十四日号の投書紹介記事が伝えている。歌謡界とて』、『その例に洩れなかったのである』。『ちなみに流行には』、『お堅い箏曲ですら「改良唱歌」という名目のもとに、何曲も新作されたほど派生唄乱造時代であった』とあった。『【例歌】』の冒頭の『改良節』『土取利行』の『弾き唄い』とある歌詞は、

   *

♪野蛮の眠りの覚めない人は、自由のラッパで起こしたい、開化の朝日は輝くぞ、さましておくれよ長の夢、ヤツテケモツテケ改良せえ改良せえ。

♪思ふ一念岩をも通す、軒のしずくを見やしやんせ、国民一致の力なら、条約改正何のその、鷲でも獅子でも鯨でも、すこしも恐るゝ事はない、ヤツテケモツテケ改良せえ改良せえ。

   *

とあった。この標題の「改良節」はリンクが張られており、「YouTube」のototatchinuru18氏の「改良節・久田鬼石(詞曲)/土取利行(唄・演奏)」で、唄と歌詞(画像)が視聴出来る。そこの解説には、『改良節(詞曲:久田鬼石) 土取利行(唄・三味線・太鼓)

「ダイナマイト節」と同様、壮士演歌草創期の唄で、久田鬼石の作。「夜が明けたとか、目をさませとかしきりにいっているのは、一に民衆の自覚如何にかかっているとうったえたわけだろう。まことに初歩的教訓である。作者久田鬼石はみちばたの教師といったところだが、後年教育界に入ったと云うのもむべなるかなと思う」添田知道』とあった。

「流行の改良節を唄われて興に入られたと書物にあります」複数、確認出来る。まず、直記載で伝聞でないものとしては(以下は、総て国立国会図書館デジタルコレクションの当該部へのリンクである)、「小泉八雲全集第一卷」(第一書房昭和一二(一九三七)年刊)の『月報』の冒頭にある根岸磐井氏の「松江における小泉八雲」の、居間の項(以下全文)で、

   *

 玄關を上つて行けば南に面した四疊があつて其北側に拾疊の間がある。此れは先生の居室で居ながら三方に庭が見えると悅ばれた處である。先生は常に窓際近く座を占めて、蟬の聲に耳を傾けたり庭を眺めながら夫人と歡談し或は來客に應接し、時には所謂「お友達」と酒を酌み交しつつ拳や歌に興ぜられ、自らも當時流行の俗歌「改良節」を唄はれたこともあつた。

   *

とある。次に、以上より前の、雑誌『住宅と庭園 新年號』(第三卷第一號・昭和一一(一九三六)年発行)の藤島亥治郞「小泉八雲の松江の家」の「4」の根岸邸の借宅の客間に就いての記載(右丁中段の後ろから四行目より)に、『八雲はこの間を居間兼客間とし、三方に岩が見えると悅び、「お友達」と酒を酌み拳や歌に興じ、時には當時流行の改良節を唄ひ、澤山の煙管を座右に置いて取り換へ取り換へ之を吸つたと云はれる』とあった。

 正直、前者の根岸氏のそれは、先に引用して考証した如く、事実ではない内容が現に見受けられ、信用出来ない。また、藤島氏の記載も、『月報』以前に根岸氏が同内容を書いたものに基づくと考えて間違いない。

 なお、私の目が止まったものに、岡戶武平(をかどぶへい)氏の講談社の『日本小說新書』(叢書名の「小說」に注意)の「小泉八雲」(昭和一八(一九四三)年講談社刊)の「第三章 出雲の神」の「二」の、ここ(左丁二行目)に出るものがあった。当該段落のみ引用する。

   *

 一たん消した臺ランプをもう一度點けて、枕もとへ近づけた。まだ、夜更(よふ)けに間があるとみえて、大橋を渡る人の足音がからころと聞こえたり、船着場(ふなつきば)にもやつてゐる船の上から改良節が聞えたり、和多見の遊廓からにぎやかな三味線の音と、それに合せて歌う安來節が聞えて來りした。[やぶちゃん注:「和多見の遊廓」現在の和多見町の売布(めふ)神社の西側にあった。]

   *

この本の末尾の『覺書』の最後に岡戶氏は、『○本篇中に引用(いんよう)した八雲の原著中にある文章は、すべて小泉八雲全集(第一書房版)から收錄(しうろく)した。但し、原文に倣(なら)つて作者が創作したものも多少はある。以上。』と記しておられる。――私は、この創作映像部にこそ、「はった!」と横手を打ったのである!

――小泉八雲が、京店の桑原氏邸の借宅で、大橋川から聴こえてくる「改良節」を聴くともなく聴いていた――という「事実伝聞」こそが、この「誤りの伝説」へと変形したものであろう――

と直感したのである。異論のあられる方は、何時でも相手になる。

〔高木〕 私の知る限りでは、來客は極めて少なく、從つて生徒さんなぞの遊びに見えました時には、酒を出すということは極めて少なく、當時同邸訪問の御方は敎師では西田千太郞樣この方が一番比較的に多くありましたが、西田先生にすら會つて酒食を供したことはない位に存じています。何分先生の御用は大槪學校で辯じたものでしよう。

 生徒さんでは、今私が思い出すのは、小豆澤八三郞さんというお方でした。

 先生が自宅で酒興中に、改良節を唄われたというのは間違いでしよう。それは生徒さんに改良節や日本歌謡を唄わせて喜んで聽かれたことの間違でありましよう。

[やぶちゃん注:「當時同邸訪問の御方は敎師では西田千太郞樣この方が一番比較的に多くありましたが、西田先生にすら會つて酒食を供したことはない位に存じています」この事実は、一応、八雲の家では酒の饗応は、まず、なかった、という推定箇所は正しいと思われる。但し、銭本健二・小泉凡編「年譜」の明治二三(一八九〇)年十月二十一日(火曜)に『学校の帰途、西田千太郎宅に立ち寄り、酒飯のもてなしを受ける』とあり、西田の誘いで、西田宅で饗応を受けた事実は、ある、のである。西田(彼は松江中学の教頭・校長代理であった)は、しかし、この直後に喀血している。僅か六日後の十月二十七日(月曜)、八雲は、『喀血して伏している西田千太郎を、人力車で見舞い行く』とあるからである。

〔桑原〕 外國人が根岸邸を訪問したことはありませんでしたか。大學敎授の獨逸人でフロレンツと申す人が、先生を尋ねた時、先生がこれを宣敎師と誤つて面會を謝絕した所が、段々フロレンツ敎授の說明で敎授が親日家で日本語、日本文學に造詣深い人だということがわかり、座敷に通し終日談話されたと或る本にありますが、御記憶はありませんか。

〔高木〕 先生はまことに交際ぎらいなお方でした。內外人共にあまり面會はありませんでした。別して外國人には一切あわれなかつたようでした。

 しかしただ今外國人のことを伺いまして、よくよく囘想致しますと、一度そんなことがありました。あの外國人さんがその先生であつたかもしれません。初めは先生が斷然謝絕せよとのことでことわりましたが、後で玄關で先生とその外国人とがお話しがあり、御居間に通してお話がはずみ、それから御兩人で大社參拜にお出掛けになつたように存じます。

[やぶちゃん注:「大學敎授の獨逸人でフロレンツと申す人」「お雇い外国人」として来日したドイツの言語学者・日本学者・文学者であったカール・アドルフ・フローレンツ(Karl Adolf Florenz 一八六五年~一九三九年:小泉八雲より十五年下)。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『テューリンゲン州のエアフルトに生まれた。1883年から1886年までライプツィヒ大学でドイツ語学、比較言語学、東洋諸言語を学び、中国語とサンスクリットをゲオルク・フォン・デア・ガーベレンツ』(Hans Georg Conon von der Gabelentz:一八四〇年~一八九三年)『に師事した。博士の学位を得た後、ベルリン大学で井上哲次郎』(安政二(一八五六)年~昭和一九(一九四四)年):哲学者。号は巽軒(そんけん)。筑前の医家の生まれ。東大卒業後、明治一五(一八八二)年(この年に共同執筆で刊行した「新體詩抄」で『新体詩運動』の一詩人としても本邦の近代詩に名を残した)から大正一二(一九二三)年、母校で哲学を講じた。一八八四年から一八九〇年、ドイツに留学し(ハイデルベルク大学・ライプツィヒ大学・ベルリン大学)、帰国後は『ドイツ観念論』の紹介に努め、『円融実在論(現象即実在論)』を説いて東西思想の統一を試みた。また、「教育勅語」の権威を背景に、キリスト教を攻撃し、天皇制国家主義のイデオローグとして重きをなした]『に日本語を学び、このときに有賀長雄』(万延元(一八六〇)年~大正一〇(一九二一)年:法学者・社会学者。専門は国際法)『の面識を得ている』。『日本政府の招聘により』明治二二(一八八九)年『に東京帝国大学に雇われ』、『ドイツ文学及びドイツ語の教鞭を執り、後にはドイツ文献学や比較言語学も教えた。また、同時期に』「日本書紀」『や日本の古典文学をドイツ語に翻訳したり、日本文化を研究する等、日本とドイツの関係を向上させた』。明治三二(一八九九)『年に東京帝国大学はフローレンツに外国人として初めて文学博士の学位を贈っ』ている。大正三(一九一七)年『に任期満了となり』、『帰国した。帰国後はハンブルク植民地研究所(ハンブルク大学の前身の一つ)の日本研究の教授として』一九三五『年まで教鞭を執った』。『主な著作物』として、‘ Geschichte der japanischen Litteratur ’(「日本文学史」一九〇六年)、‘ Dichtergrüsse aus dem Osten : japanische Dichtungen ’(「東の国からの詩の挨拶」一八九四年:ドイツ語に翻訳された分類式日本詩歌集で、三島蕉窓・鈴木華邨・新井芳宗・梶田半古・枝貞彦画の『ちりめん本』(この「ちりめん本」には小泉八雲も後期に作品を執筆している)で、好評を博し、英訳本も出た)。

「宣敎師と誤つて面會を謝絕した」ご存知とは思うが、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は徹底したキリスト教嫌いであった。ハーンのフル・ネイムは“ Patrick Lafcadio Hearn ”であるが、ファースト・ネイムのアイルランドの守護聖人聖パトリック(ラテン語:Sanctus Patricius /アイルランド語:Naomh Pádraig/英語:Saint Patrick) に因んだそれを、八雲は終生、サインに用いなかった。

 フローレンツの小泉八雲面会は、銭本健二・小泉凡編「年譜」に拠れば、明治二四(一八九一)年七月の以下に記載がある(参考文献割注部は殆んどの方に無意味であるが、そのまま写した)。

   《引用開始》

 七月八日(水)正午、東京帝国大学文科大学教師のドイツ人、カール・フローレンツが汽船米子丸にて松江に到着し、ただちにハーン宅に投宿する【広瀬(一九七六)一五八】。西田千太郎が、フローレンツに面会のために訪問する【西田(一九七六)一一四】。

 七月九日(木)、「山陰新聞」に、フローレンツが来松し、ハーン宅に投宿の記事が掲載される【広瀬(一九七六)一五八】。

 七月十日(金)、午前中、フローレンツをともない中学校へ行き、西田千太郎と会談する。午後、西田千太郎をハーン宅に招き、晩餐をもてなし、快談して時を過ごす【西田(一九七六)一一五】。

 七月十一日(土)、西田千太郎がフローレンツを迎えに来る【同書、一一五】。教育会で西田千太郎の通訳によるフローレンツの講演を聴き、その後、フローレンツ、西田らと師範学校女子部の生徒と歓談する【板東(一九八六b)一七八―七九】。さらに中原倶楽部で教育会の主催により、フローレンツ、中山弥一郎、西田千太郎らとともに賓客として招かれ、饗応を受ける【西田(一九七六)一一五】

 七月十三日(月)、フローレンツが師範学校女子部の生徒に書籍を贈ることを希望しているので、その件で相談があるとのハーンからの手紙[9137]に応じ、夜、西田千太郎が書籍商を伴って訪問する。シャンペンを飲み、夜半になって西田千太郎が帰宅する【同書、一一五】。

   《引用終了》

以上の後の七月十五日分はフローレンツに触れていないのでカットする。

   《引用開始》

七月十六日(木)、西田千太郎が訪れ、フローレンツと三人で松江城の天守閣に登り市内を散歩する。望湖楼でフローレンツの饗応を受ける。

   《引用終了》

二日分を同前の理由でカットする。

   《引用開始》

七月二十二日(水)、西田千太郎がフローレンツに出雲音図の写し、出雲言葉を集めたものなどを渡すために訪問するが、同氏は大社に行って不在。西田に昼食をもてなす【西田(一九七六)一一五―一六】

七月二十四日(金)、午後、フローレンツが大社より帰る。同氏の西田千太郎、斎藤熊太郎、木村牧(中学校長)に帰松と別れの挨拶をするために出かけるが、最初に立ち寄った斎藤宅で料理屋に案内されてもてなしを受け、帰宅は十二時半から午前一時頃となる[91―40]。

七月二十五日(土)、西田千太郎がフローレンツに会うために訪問する。フローレンツと西田と一緒に松崎水亭(中原町)に行き、フローレンツが米子へ出発するのを西田とともに見送る【同書、一一六】。

   《引用終了》

「御兩人で大社參拜にお出掛けになつたように存じます」これは以上の年譜から、誤記憶である。

立原道造草稿詩篇 正午

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。注記に『ノート中のに原型を持つ』とあった。同全集の「第六卷 雜纂」のここを元に、初期形を示した。初稿は無題。]

 

【初稿】

 

鷄よ

お腹がすくと

お前は自分のかげを食べてしまう

自分の時計を持たない まちがへた時間にうたひだす

 

 

【第二稿】

 

  正 午

 

鷄よ お腹がすくと

お前は自分のかげを食べてしまう

だからかげは先刻より長くない

お前をなぞつてすこしある

 

[やぶちゃん注: 「しまう」は、二箇所とも、ママ。]

立原道造草稿詩篇 夕方

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  夕 方

 

町にピアノが沈んでゐる

 

立原道造草稿詩篇 或る――

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  或る――

 

右の眼が帽子をかぶつて

どこかへ行つてしまつた

その後に茸が生えてゐる

 

2026/01/22

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その7) 「京店と北堀時代」(そのⅢ) 〔習癖〕

[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]

 

       〔習    癖〕

〔桑原〕 先生は每日大槪何時に御起牀で何時頃御寢みになりました。

〔高木〕 先生は每日午前八時頃に御起牀で洗面はいつも臺所でした。お寢みは每晩十時頃でそれまでは書齋で何かお書きになつていました。

〔桑原〕 學校への御出勤は每日何時頃でいつ頃にお歸りでしたか。

〔高木〕 先生は每日大槪午前八、九時頃お出かけで、二時間位の御授業であつたように存じますので、晝までで大槪御歸邸でありました。

〔桑原〕 先生が煙草ずきの癖は周知ですが、その外に常人にない癖はありませんでしたか。

〔高木〕 別段他に癖と申してはありませんが、一つもつとも先生の嫌いなことは、割木をた時の煙は非常にお嫌いでした。そのために炊事は一切割木を用いませんで、すべて木炭を使いました。朝の牛乳を温めますにも勿諭炭火で、先生のお目覺め前に温ておきます。また午飯夕飯も他所より取寄せましたのも、實は先生が焚火を好まなかつたためであります。ただ寒中は炭火で室內を暖めました。

〔桑原〕 每日の風呂も炭火でしたか。

〔高木〕 勿論炭火です。先生の風呂は每日のことで、極めて微温湯で、かつ入浴時間が極めて早くいわゆる烏の行水でした。

[やぶちゃん注:このページの左下には、金津氏の、八雲の裸足の足を、かなり歯の高い、太い緖に嵌めた切り絵があり、右下の下駄の後ろの歯の後部に「足駄」と文字を切ったものが添えてある。]

〔桑原〕 「松江に於ける小泉八雲」中に、先生は煙草の火がなくなつた時は伺時も江之島土產の法螺貝を吹いて合圖をされたとありますが、どうでしたか。

〔高木〕 これはたしかに東京住居の時との混線でありまして、松江では奧樣の江之島土產の法螺貝なぞ見たこともなく、また奥樣が江之島においでのこともありませんでした。

[やぶちゃん注:当該書は、先に注で示した国立国会図書館デジタルコレクションの「出雲に於ける小泉八雲」(再版・八雲會昭和六(一九三一)年刊)の誤りで、ここの「煙草」で、確認出来る。「煙草」のここ(左ページにある段落)からで、

   *

 煙草盆は陽が消ゑ[やぶちゃん注:ママ。]易いからと云ふので夏も火鉢を用ゐられた。先生の座右器具の中に一つの大なる法螺貝がある。此れは夫人の江の島土產であつた。先生は「私の肺は强いから斯んな太い音が出る」と云つて頰を膨らして面白がつて吹かれる。そして之を吹くのが大層樂みであつた。夫人は煙草の火を絕やさぬやう常に注意を怠られななかつたが、若しも偶々火がなくなりでもすると、時こそ到れと豫ての約束に隨ひ、長く大きく波を打たせるやうにして吹かれる。そして火の消へ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]た時は兎に角、消へ掛けた時にもブーブー鳴り出す。平素家中は息つまるやう靜肅に保たれて居る處へ、夜間など突拍子な音が遽に[やぶちゃん注:「にはかに」。]鳴響くので、「夫れ貝が鳴る」と皆の頰に微笑が漂ふ。

   *

が当該部で、更に、後の「松江に保存されてゐる遺品」にも、ここ(左丁八~九行目)に、

   *

法螺貝。江ノ島土產で、煙草の火のなくなつたとき女中を呼ぶのに用ゐられたが、先生は之を吹くのが大層樂みであつた。

   *

とある。確かに、小泉八雲が来日した直後の明治二三(一八九〇)年四月上旬に、鎌倉・江の島を巡っており、来日してから書いた名作 ‘ Glimpses of unfamiliar japan ’に“ Chapter Four A Pilgrimage to Enoshima ”があり、当該訳は、私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」の、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一二)~(一五)』の「一五」から、「一六」と、「一七」「一八」、そして、「一九」が江ノ島パートであるので、見られたい。私は、鎌倉及びその周縁の研究をしているが、特に江ノ島については、最も一家言ある江ノ島通であり、また、私の青春の思い出の地でもある。

八雲の当該本文には法螺貝は出てこないが、八雲がこの時、江ノ島内の土産物屋で売られていた法螺貝を購入した可能性は高いとは、断言出来る。だが、それは「可能性」でしかない。――しかし、以上の根岸磐井の語りは、全く信じられない。高木さんが、法螺貝の奇体な響きを全く記憶していないというのは、八雲が、かの根岸邸の借宅で、それを吹いたことはないことを明確に示している。高木さんの言うように、セツさんは、少なくとも、江ノ島に婚姻直後から熊本へ移るまでの間に、江ノ島に旅した事実はない。恐らく、後に、遺品として松江に八雲所蔵の江ノ島の法螺貝が齎されたことと、セツさん以下、御子息らの東京での法螺貝吹きの話を聴き、根岸の借宅で法螺貝を吹いたという、まさに「法螺話」を面白可笑しく創作したとしか、私には思えないのである。

 いや!

 真相の決定打は、小泉八雲の研究者なら、誰もが、読んでいるはずの、セツさんの「思ひ出の記」で、とっくの昔に、この根岸氏の大嘘はカタがついていなくては、凡そ、おかしいのである!

 国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集 別册」(昭和一二(一九三七)年第一書房刊)の当該部を引用する。

   *

 書齋のテーブルの上に、法螺貝が置いてありました。私が江の島に子供を連れて參りました時、大層大きいのを、おみやげに買って歸つたのでございます。ヘルンがこれを吹きますと、太い好い音が出ました。『私の肺が强いから、このような音』といつて喜びました。『面白い音です』と言つて、頰をふくらまして、而白がつて吹きました。それから煙草の火のなくなつた時に、この法螺貝を吹くと云ふ約束を致しました。火がないと、これをポオー、ウオーと云ふやうに、大きく波をうたせるようにして、長く吹くのです。さう致しますと、臺所までも聞えるのです。內を極靜かにして、コツトリとも音をさせぬやうにして居るところです。そこへこの法螺貝の音です。夜などは殊に面白いのでございます。私は煙草の火は絕やさないやうに、注意をしてゐましたが、自分で吹きたいものですから、少しでも消えるとすぐ喜んで吹きました。如何に面白いと云ふので、書齋の近くに持つて參つて居りましても、吹いてゐるのでございます。この音が致しますと、女中までが「それ、貝がなります」と云つて笑ひました。

   *

 一言、言っておく。桑原氏の本書を「問題がある」とする「小泉八雲研究家」がいると言い、今も、その亡霊が、この優れた関係当事者へのインタビューをメインとする貴重な秀作を不当に棄損している。創作だらけの根岸氏の作品をさておいて、である。そこには、多くのアカデミストの疾患である、私が最も嫌悪する民間研究者の業績を「知って知らんぷりする」のと同様の腐ったキナ臭さを感じるのである。

〔桑原〕 先生が書齋で起稿に沒頭しおられる時は、その室には奧樣でも決して入ることは出來ず、先生より何か合圖があるまでは誰れも這入る[やぶちゃん注:「はいる」。漢字「這」は、この場合、当て字である。]ことは全く出來なかつたと傳えますが、そんなに嚴重でしたか。

〔高木〕 これは熊本や東京時代、御子供樣、御兩親樣にて家族が澤山御同居時代のことかも知れませんが、松江では先生方御兩人と私の三人暮しで、先生の御勉强中には奧樣も私も何かなし差控えて容易に御書齋に入らなんだ程度でありました。

〔桑原〕 先生は南國に生れた人で、暑中などでも久しく庭に御出でても平氣だつたと聞きますが、どうでしたか。

〔高木〕 先生は暑氣ということは決して苦になさらず、お好きでした。太陽直射の下で、庭の飛石や荒砂の上で大の字なりに仰向けになつて平臥しておいでのことは每々[やぶちゃん注:「まいまい」。]でした。それ程日光はおすきでした。

 

立原道造草稿詩篇 朝

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  朝

 

早起の太陽や風に氣に入られるために町の四つ角で 花々が時計の代りをする

 

――どこのうちでも手紙ををよんでる時間です⋯⋯

 

立原道造草稿詩篇 正 午

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。而してそこに、『ノート中の「正午」(ほぼ同文)を初稿とする。』とあったので、それ(第六巻のここ)を前に配した。]

 

【初稿】

 

  正 午

 

日向の猫は眼を閉じる

それは彼女が靑空をきらひだからだ

そしていつの間にか眠つてしまう

 

 

【第二稿】

 

  正 午

 

日向の猫は 眼をとぢる

それは彼女が靑空をきらひだからだ

そしていつの間にか眠つてしまう

 

立原道造草稿詩篇 春

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  春

 

いつも大切にポケツトの中にしまつておく時間が見えなくなつてゐたので友達のところへ借りに行くと友達が時間を貸してくれた

それは古ぼけてゐたのでその日から僕は憂鬱になつた

 

2026/01/21

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その6) 「京店と北堀時代」(そのⅡ) 〔食事と嗜好品〕

[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]

 

       〔食事と嗜好品〕

 

〔桑原〕 先生の食事について伺いますが、朝晝晚の三食のお献立につき覺えておられることをお話し下さいませ。

[やぶちゃん注:このパートの左下には、金津氏の、書見台が切り絵で描かれてある。恐らく木製の二つの太い脚を持つ一体型の台(中央に穴が空いている)の上に本を載せるための左右に開いた薄い板(材質は不明。中央は凹んで居るものであろう)あり、そこに本が開いて置かれてある。その板の右手の下から、やや太い金属と思われるものが波打って手前にくねくねと延びており、その頭に球状(恐らく木製)の開いたページを押さえるものが附属しているものである。このような書見台は、私は見たことがないが、西洋式のものと推定はされるものである。]

〔高木〕 先ず朝食のことを申しますと、朝は牛乳二合と生卵五個が先生の常食でありました。午飯は市内殿町の今の曰本銀行支店のある所に昔[やぶちゃん注:読点が欲しい。]曳野旅館、當時はこれをしやれて曳野ホテルと申しておりましたが、この旅館より先生夫夫婦の食事を每日運びました。その献立は何んとかいうような特別の註文はなく、しかし先生は多く煮〆物[やぶちゃん注:「にしめもの」。]を愛せられ、また卵を使つた日本料理なぞがお嗜き[やぶちゃん注:「おすき」。]でした。

 夕飯は必らず洋食でありまして、まず珈琲、パンなどを加えて五品[やぶちゃん注:「ごしな」。]位の料理でありまして、その一皿は必らずビフテキでした。この洋食は松江市材木町の西洋料班店魚才こと鐮田才次より取寄せました。

[やぶちゃん注:「市內殿町」「殿町」は「とのまち」と読む。現在の松江市殿町。塩見縄手の向かい、松江城址から、現在の島根県庁の南側の京橋川まで。「ひなたGIS」の戦前の地図の中央にある銀行記号がそれであろう。

「曳野旅館」「YAHOOJAPANニュース」の株式会社プレジデント社の「PRESIDENT Online」の本年一月十六日配信の『23歳とは思えない妻・セツの我慢強さ…「ばけばけ」と全然違う、小泉八雲の"わがまま放題"な新婚生活の中身』に、本書を紹介された上で、『昼食は、曳野旅館から毎日届けられた。この旅館は、現在は市の複合施設「カラコロ工房」(旧日本銀行松江支店)が建っている場所にあった。』とあったので、前注の通り、殿町のここに存在したことが確認出来た。]

〔桑原〕 先生はお酒を召上りましたか、日本酒ですか、洋酒でしたか。

〔高木〕 先生は夕食後には必らず朝日ビールを二本づゝ飮まれました。そのビールは當時松江大橋詰の山口卯兵衞藥店だけににあつたかと思います。始終朝日ビールを何ダースか買置きまして每晩差上げました。

 先生のお肴は實に妙なものでして、每晚朝朝日ビール二本それをお飮みになりますと、必らずその後で、今は松江に見當りよせんが黃金牡丹と申しまして、卵黃製で黃色の花辯の中央が紅色になつていました。誠に柔らかい菓子を五六個食べられました。結局ビールのお肴が菓子という譯です。大體先生は菓子は何んでも食べられました。

[やぶちゃん注:「アサヒビール」「アサヒグループホールディングス」公式サイト内の「歴史・沿革」に拠れば、明治二二(一八八九)年十一月に『朝日麦酒株式会社(現アサヒグループホールディングス株式会社)の前身である大阪麦酒会社設立』とし、『日本麦酒醸造会社、札幌麦酒会社も相前後して創立され、日本のビール産業の興隆期を迎える』とあって、『鳥井駒吉、社長に就任』とする。一八九一年十月、『吹田村醸造所(現アサヒビール吹田工場)竣工』があり、翌一八九二年五月に『「アサヒビール」発売』とあって、そこに『「アサヒビール」の発売広告』の写真があり、そこのラ楕円ベルには、最上部に右から左に『アサヒビール』とカタカナ書きで記されてある。小泉八雲が松江に着いたのは、明治二三(一八九〇)年八月三十日に松江着、根岸邸への転居は明治二四(一八九一)年六月二十二日であるから、九カ月を待って、初めて「アサヒビール」を飲んだことになる。但し、それ以前に、八雲が上陸した横浜や、神戸の外国人居留地からも舶来のビールの入手は可能ではあった。

〔桑原〕 先生は日本酒を家庭では常用されませんでしたか。

〔高木〕 日本酒は用いません。もし家庭で先生が日本泗を飮んだと記す書物があれば、それは日本人のお客の時に限ることなので、それも私の記憶ではまことに少ないことでした。大體に酒食を出したお客は餘りありませんでした。

〔桑原〕 先生は鮮魚の刺身を食べられたと聞きますが、それはほんとうですか。

〔高木〕 私の知る限りでは、先生は魚は煮付と燒魚何れも喜んで食べられましたが、刺身を上がつたことは餘りなかつたと思います。お嫌らいであつたのでしよう。

[やぶちゃん注:このページの左下には、金津氏の切り絵で急須(蓋の上を跨ぐ竹らしき取っ手附きである)の図がある(注ぎ口は右)。左内に「土びん」の文字が切られてはいっている。]

〔桑原〕 先生の煙草嗜き[やぶちゃん注:「すき・ずき」。]は有名なものですが、を巻煙草は吸いませんでしたか。

〔高木〕 先生の煙草は葉卷と日本の刻み煙草に限つていました。煙管は日本出來[やぶちゃん注:「でき/しゆつらい(しゅつらい)」。高木さんの直話であるので、私は「でき」と読みたい。]のもの三四十本ありまして、何れも[やぶちゃん注:「どれも・いずれも」。]羅宇[やぶちゃん注:「らう」。]の長いもので一、二囘吸うと直ちに他の煙管と取換えて吸われる癖でした。私がこの三四十本の煙管の掃除をやりましてこれを一つの箱に收めて置きました。ただ今八雲記念館にある煙管棚は、東京移轉後に出來たものかと思います。

〔桑原〕 先生は小鳥とか、犬猫とかを飼つておられましたか。

〔高木〕 先生は實に小蟲[やぶちゃん注:「こむし」。]すら愛護して無益に殺生することを好まれなかつたばかりでなく、無益の殺生に對しては非常に憤慨しておられましたことは全く事實です。先生は松江在住中には小鳥とか猫犬は飼われませんでした。ただ一度[やぶちゃん注:「いちど」。]時の島根縣知事の籠手田さんの御孃さんから鶯を一羽貰われましたことがありまして、その飼い方には少々困られていました。それはわれわれ曰本人が鶯に對して懷くやうな責重觀念が先生にはなかつたためでもあつたでしよう。その日その日の世話なち飼拵[やぶちゃん注:「かいごしらへ」。餌や水や鳥籠の清掃。]などは一切私がやりましたが、熊本へ出發以前にどこかお讓りになつたようです。

 この鶯について一つの思い出があります。それはこの鶯が餌を取換える時かに籠の口を開けた際に逃げ出しまして、先生は知事の令孃より貰つたものを逃したとて大いに殘念に思われました。ところが永年[やぶちゃん注:「ながねん」。]籠に飼馴して[やぶちゃん注:「かひならして(かいならして)」。]あつたと見えまして、その夕方幸い鳥籠の口が明いたままであつたので、鶯がチヤンと籠の中にいるではありゑせんか。先生も奧樣も非常にお喜びになつたことがありました。

〕 小泉八雲全集第三卷「神國の首都松江」の四に「ほー、け、けう!」と題して鶯を禮讃してあるが、八雲先生も鶯を珍重されたに違いないがただ飼養法に困られたものと見える。

[やぶちゃん注:「島根縣知事の籠手田さんの御孃さん」当時の島根県知事籠手田安定に就いては、初回で注をしてある。「御孃さん」は籠手田淑子(本名は「よし」であるが、公的記録や自称では「淑子」としたらしい)。生年は明治五(一九一六)年らしい(「人事電信錄」の記載)。とすれば、八雲と逢った時は、十八歳前後である(因みに、小泉セツさんは慶応四年二月四日(グレゴリオ暦一八六八年二月二十六日生まれ)である)。NHKドラマ「ばけばけ」では、恋のライバルとして登場したが、私は、小泉八雲の事績の中でも、個人的に全く興味を持ったことがない。従って、今までも、調べたこともない。現在でも、調べたい気持ちはサラサラ、ない。取り敢えず、ここで注せざるを得ないので、ざっと、彼女の記載のある記事を見渡してみたところ、「@Niftyニュース」の『だから小泉八雲は「知事のお嬢様」を選ばなかった⋯朝ドラ・セツの「恋敵」が起こした前代未聞のスキャンダル【2025年12月BEST】』が、『多くの私の記事の読者が、まあ、半分は理屈上では納得するに値する、一応は、豊富な記載内容では、あるな。本当か、どうかは判らぬが⋯⋯』とは感じたので、リンクを張っておく。引用はしない。それに不満なら、もっと面白おかしく、作られたドラマに深掘りしたい諸君を惹きつけるキワものは、わんさか、あろう。どうぞ、御勝手に捜されたい。

  犬は飼つておられませんでした。近所の犬が每々[やぶちゃん注:「まいまい」。]遊びに來る程度で、飼犬としては記憶がありません。

  猫は私が京店に奉公致していた頃に湖水べりで、近所の子供が小猫をいじめていたのを先生が見つけ、それを綿に包み懷に抱いて愛撫され、根岸邸移轉の節も、先生御夫婦と小猫とで引移りました。その後小猫がだんだん成長しましたが、先生の愛撫方は非常なものでした。それにもかゝわらず、ある日その猫がどんなはずみか先生の手をひつかきまして、先生は非常に不快の色を致されましたが、この小猫は嫌いだということになり中原町の某[やぶちゃん注:「なにがし」。]にやられました。こんな風で松江在住中には生き物はあまり飼われませんでした。

[やぶちゃん注:なお、このページの左下には、金津氏の、下方の両脚の間に雲形型のような切込みが入った、かなり立派な和膳の切り絵が描かれている。]

〔桑原〕 「松江に於ける小泉八雲」中に、女中が或る時庭の池で蛙釣をやり、かつて怒つたことのない先生を怒らせたことがありますが、そんなことがありましたか。

[やぶちゃん注:当該書は、先に注で示した国立国会図書館デジタルコレクションの「出雲に於ける小泉八雲」(再版・八雲會昭和六(一九三一)年刊)の誤りで、ここの「動植物への愛」で、確認出来る。冒頭の段落にも蛙を庇う話が出ており、以上の話は、第三段落目の三行目下方から次の行にかけて出現する。]

〔高木〕 それは全く違います。私の記憶では先生が池の中の蛙を釣り上げてはまた放して喜ばれていたことです。卽ち刻煙草を少し糸につけて池に放たれました。これは每々のことで、女中が叱られたことは釣り上げた蛙をどうかしたのでしようが、今記憶致しませぬ。

 

立原道造草稿詩篇 少女

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、これは『草稿消失 角川書店版第一巻』からのデータである。]

 

  少 女

 

朝早かつたので 電車のなかで パンの焦るにほひがしてゐる

 

立原道造草稿詩篇 本(ヴァリエーション一篇を含む)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここここ(ヴァリエーションを含む)で、底本の注記はここから視認出来る。而して、この篇の次の次に同じ「本」という別な篇が配置されてあるが、明らかに、本篇のヴァリエーションであり、注記でも後者の「本」(但し、これは注記で『草稿消失』で『角川書店版第一巻』からの転載であるとする記載がある)に就いて、この『「本」は前前項の同題詩の異文と考え』たとするので、私はここに並置した。]

 

  本

 

星や月のあかるい夜道だつた。往來で、僕は、一册の本を拾つた。ところがうちへ歸るまでに迂闊にも中に書かれたことを落してしまつた。それで、翌朝早く行つてみたら、道端のなかで女王樣や道化役者や行列が牝羊だの孔雀だのと一しよになつてきれいな空氣のなかでさわいでゐた。

 

 

【ヴァリエーション】

 

  本

 

星や月のにほひのするやうな、あかるい夜道だつたので、往來で、僕は一册の本を拾つた。見れば、表紙に

 

  《何もしなかつた男の話》

 

と書いてある。おや、これは空想の中で出來上つてゐる僕の本ぢやないかしら? それにしてどこかへんなところがある。⋯⋯

 とに角、うちへ持つて歸つてゆつくり見ようと思つたから、ポケツトにしまつた。

 

 さて、頁を繰ると、それは白紙だつた。きつと途中で中身だけ落した來たにちがひない。それでも、やつぱり現實では出來上つてゐない僕の本なのかな?⋯⋯

 僕は、きまりがわるくなつてそれを本箱に隱してしまつた。

 

[やぶちゃん注:前者は「不思議の国のアリス」あたりをモチーフとしているものであろうが、オリジナリティが弱く、思いつきの在り来たりの平板なファンタジーとしか感じられない。

 一方、ヴァリエーション版は、ファンタジー色は抑制され、自身の人生への無力感に関わる心傷を投影した「白紙」が、強く映像に浮かび上がっていて、よい。コーダもカフカ的なニュアンスを彷彿して、好ましい。

 但し、実は、これ、注記に、『「本」のヴァリエーションは物語「夜に就て」(昭和1012月制作想定・第三巻所収)の「Ⅲ」に見ることが出来る。しかし、草稿の性格から昭和8年春を遡ることはない。ただ「夜に就て」が昭和7年8月制作の「自作短篇」<ゴンゴン>』(未発見)の発展作品と考えられることから、本篇を「ゴンゴン」から派生した作品と考えることは出来よう。昭和7年8月制作の「オメガ島異聞」(未発見)が昭和12年以後制作の「オメガぶみ」に変容発展するように、立原には一度得た詩想を忍耐深く培養して新しい作品に変様』[やぶちゃん注:ママ。]『させる独特の創作意識があったように思われる。』とあった。「夜に就て」はここから視認でき、「Ⅳ」パートから成るもので、「Ⅲ」はここからである。「オメガぶみ」の方は、同巻のここからで、全十四パートからなる。私は、彼の詩篇は、粗方、読んできたが、「物語」というのは、殆んどまともに全篇を読んでいない(「鮎の歌」等、ダイジェストで一部は電子化注している)は以前。そのうち、本格的に電子化して見たく思った。]

2026/01/20

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その5) 「松江に於ける八雲の私生活」の「京店と北堀時代」(そのⅠ) イントロダクション・〔住居〕・〔衣服調度〕

[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]

 

        京店と北堀時代

 

 八雲は明治二十四午二月京店に移居し、住居すること四月餘であつた。しかして節子夫人を娶つた後、京店借宅の狹隘なのを厭い、同年五月北堀町根岸邸に移轉した。根岸邸にあること七ヵ月間、同年十一月十五日この邸に辭別して熊本市に向つて出發した。

[やぶちゃん注:ここにある、京店の移転に就いての現行の事実との齟齬は、先行する『(その2) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅠ)』の冒頭で既に注してあるので、見られたい。同じく、根岸邸への移転もまた、現在の事実とは、全く、異なる。恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の銭本健二・小泉凡編になる「年譜」に拠れば、根岸邸への転居は明治二四(一八九一)年六月二十二日である。明治二四(一八九一)年の当該部を引く。『六月二十二日(月)、士族屋敷、根岸千夫(たてお)』(ママ。正しくは「干夫」である。八雲会が管理されている「小泉八雲記念館」が、この旧旧居なのである。同館公式サイトのこちらのページを見られたい)『方(北堀町三一五番地)に、セツ、女中の高木ヤオ(高木令太郎の娘)、一匹の子猫とともに転居する。借家賃は三円【小泉セツ(一九六〇)】。正午、中学校に人力車をまわして西田千太郎を迎え、西洋料理をもてなす【西田(一九七六)一一三】。』とある。なお、松江に別れを告げ、熊本へ出発した年日時は問題ない。

 なお、このページには、金津氏の切り絵が左下方にある。爪除け(下駄の前に掛ける雨カバー)附きの高下駄が左に、右に洋靴(踵部分が厚く、さらにその上部も高く足首までカバーされた雪用の革靴と思われる)があり、二つの間(下駄先左と革靴右端が重なっている)に「髙足駄」と「靴」の切り絵が二つの絵を繋いである。例の「金津滋研究」のページにも載る。]

 八雲が京店に於て節子夫人と結婚して以來熊本に向けて出發當日まで、八雲に側近した高木八百刀自(當時六十七歲)について八雲の私生活の全貌を聽くため、昭和十五年(西曆一九四○年)四月二十八日より七月二十一日に至る三囘、髙木八百刀自並びに附添いとして同刀自の嫁女、同姓登志夫人を拙宅に招待し、左の問答をなした。

〔桑原〕 本日は遠路特にご老體のところ、私の熱意に動かされてご來駕を得たことは非常に感謝する次第であります。八雲先生の私的生活に就いて詳細を承りたいのですが、記事の都介上、特に京店時代のことは、お話し中にその時々ご注意を頂くことにして、先ず根岸邸に於ける生活樣式をお伺い致します。なお便宣上住居、衣服調度、食事、習癖、雜事の順序で伺います。

〔高木〕 何分五十餘年の昔のことでありまして、八雲先生が段々高名になられますに從い、常時の思い出を今日連れて來ました嫁などにも話していましたので、私の記憶の混雜していることなどは、この嫁に先年聽かしたところをもつて注意して貰うことにしてお話し致したいく存じます。

 

       〔住  居〕

 

〔桑原〕 八雲先生は富田旅館より明治二十四年二月京店にご移轉になりましたが、その家は今の何處の邊に當りますか。

〔高木〕 私の奉公致した時の八雲先生のお宅は、末次町通り卽ち京店の御掛屋(兩替店)の地內で、織原と申す人の借家でありまして、その位置は京店の本通りより左方御掛屋地內に入り、その前を左に行つた所卽ち湖水べりの家でありました。私が行つた時には、節子夫人ご結婚後間もない私の十八歲の時でした。

〔桑原〕 貴女は先生が根岸邸に移居された明治二十四年五月より約七カ月間同邸に居られたと承けたまりますが、先生のご居間、書齋等はどんな風でしたか。

[やぶちゃん注:この桑原氏の問いに着目されたい。彼は、それぞれの移転時期を確認するためではなく、京店の織原所有借家の位置と、根岸邸の居間や書斎の様子を答えるように仕向けていることに注意されたい。則ち、桑原羊次郞氏が、富田旅館時代の富田ツネさんから聴いた二回の転居の「時期」のことを信じ切って、ゼロから再確認することを省略したことが、極めて残念に感じられてならない。これは、独立した時期聴取ではない。こうした質問をされた際、八百さんは、枕に振られた年号を正しいかどうかと明確に確認し得るだろうか? 私は現在六十八歳だが、こうした第三者として、過去のことを問われた場合、この前振りの年号や月を、即座に、「間違っている」と指摘出来るとは思われないし、寧ろ、『うん、その頃だったかな。』と聴き流して、後の主問の方を、しっかり思い出して答えようとすることは、火を見るよりも明らかである。高木八百さんの年齢、さらに八百さんが以前に小泉八雲に就いて話した嫁の、より若い登志さんも同席であった以上、京店や根岸邸への転居が異なることは、或いは、まず、明確に検証する聴き取りが出来たのではないか? という気が強くしてならないのである。本書が『問題がある』という言い方がされるのは、主に聴き取った時制の問題が、後に明らかになった事実と齟齬するものがあるからに他ならないからであり、作者の恣意的な解釈や、小泉八雲やセツさんへの物言いにプライベートな微妙な問題があるからではない、と私には思われるからである。セツさんや一雄氏が本書を読んで不満や怒りを持ったから問題があるという情緒的短絡的風評は、事実誤認も甚だしい。小泉八雲の正確な時間的経緯を、時代時代の中で正確なものにしてゆく作業と、一部の「小泉八雲研究家」が評価しないという事実とは、全く以って、これ、別問題である。そうした過程の中の一つの道標として、本書は非常に価値ある作品である、と、私は断言出来るのである。

 なお、このページの左下方には、まさしく、先の『(その4) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅢ)』で語られた八雲が愛した「〆飾り」(これは間違いなく〆飾りである)の金津氏の切り絵がある。やはり、先のページに描かれたものは、「〆飾り」ではないのだ。松江の方の御教授を、更に乞うものである。

〔高木〕 先生の書齋は北向きの前に池のある六疊敷(口繪圖面を參照[やぶちゃん注:ここ。])でありまして、中央の九疊の間はご居間兼客間でお寢み[やぶちゃん注:「おやすみ」。]になつたのもこの部屋でした。奥樣のご居間は北向の書齋の東際[やぶちゃん注:「ひがしきは(きわ)」。]の五疊半敷で、また、私の女中部屋は湯殿の側の二疊の部屋でした。

〔桑原〕 根岸邸の模樣はすべてそのままよく保存してあると聞いていますが、風呂場はただ今の風呂場と違いますか。臺所ではどうですか。

〔高木〕 風呂の場所も臺所も少しもかわりません。ただ昔は風呂桶が小判形の木製でありましたが、ただ今は鐵の五右衞風呂となつており、その他一切かわらないと存じます。

 

       〔衣 服 調 度〕

 

〔桑原〕 先生が學校へおいでの時は洋服でしたか、根岸君の著書には、學校より歸宅後は直ぐ和服に着かえられたとありますがどうでしたか。

〔高木〕 富田旅館や、熊本、東京でのお住居[やぶちゃん注:「すまひ(すまい)」と読んでおく。]の時のことは知りませんが、時候が寒い時は勿論ご歸宅になりましても、そのまま洋服で椅子に掛けておいでのことが度々ありまして、また洋服ですわつておいでたこともありましたので、和服ばかりではありませんでした。

 日々お召しになつたのは鼠色の洋服でした。夏服は白洋服でしたがその素地[やぶちゃん注:「そぢ(そじ)」。]は覺えません。先生は和服も一通りはお持ちで、たとえば單物[やぶちゃん注:「ひとへもの(ひとえもの)」。]と袷衣綿入[やぶちゃん注:「あはせわたいれ(あわせわたいれ)」。]とか、また紋付羽織[やぶちゃん注:「もんつきはおり」。]とか袴[やぶちゃん注:「はかま」。]とか一晴れ着の衣服は一通りご所持でした。

〔桑原〕 先生の帽子はどんな色でしたか。そうして足袋[やぶちゃん注:「たび」。]ははかれましたか。

〔高木〕 先生の帽子は茶色の中折帽[やぶちゃん注:「なかをればう(なかおれぼう)」。]で、足袋は白足袋でしたが、これは家庭內のことで、外出には靴ばきでした。

〔桑原〕 先生は寒中外套と襟卷を用いられましたか。また暑中は蚊帳[やぶちゃん注:「かや」。]の外に蚊遣線香[やぶちゃん注:「かやりせんかう(かやりせんこう)」。]のようなものを用いられましたか。

〔高木〕 先生は外套も襟卷もありませんでした。

[やぶちゃん注:このページには、左下方に金津氏の「てつびん」と、ひらがなを内側左上方に切り絵した、八角形の枠の中に把手・取り手蓋・注ぎ口附きの茶碗二つ合わせたような楕円型鉄瓶を切り入れたものがある。]

〔註〕小泉節子夫人・「思ひ出の記」小泉八雲第二四八頁の一駒[やぶちゃん注:「ひとこま」。]に[やぶちゃん注:ここの後から丸括弧まで引用。]出雲の冬の寒さには隨分困りました。學校では冬になりましても、大きい火鉢が一つ敎場に出る位のもので[やぶちゃん注:以下から、このページの最終行までは、植字工のミスで一字下げになっていない。]す。寒がりのヘルンは西田さんに授業中、寒さに困る事を話しますと、それならば外套を着て[やぶちゃん注:「きて」。]いて授業をなさいとのことでした。この時一着のオヴアーコートを持つていましたが、それは船頭の着るのだといつていましたが、それを着ていたのです。好みはあつたのですが、服裝などはその通り無雜作でかまいませんでした。(以上思ひ出の記)高木八百刀自の話と矛盾する如く見える。八百刀自は二月より十一月まで奉公していられたが、今八雲の外套は思ひだせぬといつた。

[やぶちゃん注:この「思ひ出の記」は、ページ数から、国立国会図書館デジタルコレクションの田部隆次著「小泉八雲」(大正三(一九一四)年早稲田大学出版部刊)のここであることが判った。当該段落の内に部分的にカットされている箇所があること、表記に違いがあることから、改めて全段落を引用しておく。

   *

 出雲は面白くてヘルンの氣に入つたのですが、西印度のやうな熱い處に慣れたものですから、出雲の冬の寒さには隨分困りました。その頃の松江にはストーヴと申すものがありませんでした。學校では冬になりましても、大きい火鉢が一つ敎場に出る位のものです。寒がりのヘルンは西田さんに授業中、寒さに困る事を話しますと、それならば外套を着ていて授業をなさいとの事でした。この時一着のオヴアーコートを持つて居ましたが、それは船頭の着るのだと云つて居ましたが、それを着て居たのです。好みはあつたのですが、服裝などはその通り無雜作でかまい[やぶちゃん注:ママ。]ませんでした。

   *]

〔桑原〕 先生の部屋に寒中の暖房裝置はありましたか。

〔高木〕 先生は二三月中は京店の宅でありましたが、ただ火鉢が一つあつたばかりで餘程寒氣には閉口しておられました。根岸邸では、五月頃よりでしたから先生の部屋に火鉢が一つあつたばかりでした。

[やぶちゃん注:私は、本当に高木八百さんが本当に「根岸邸では、五月頃よりでしたから」と言ったのかどうか、やや疑問がある。しかし、或いは、彼女が、桑原氏が質問で言った『明治二十四年五月より約七カ月間同邸に居られたと承けたまりますが』を受けて『五月頃よりでしたから』と応じたのだ、とも言えるかも知れない。考えてみるがよい。現在、小泉八雲とセツさんの結婚した日が、今、以て、判然としない理由の一つに、セツさんが旧暦で言ったする説があるのだ。ここで問題にされているのは、八百さん自身の話ではない、女中としての彼女に既に稀有の帰化した大作家のことを聴かれているのだから、事実は、六月だったけれど、五月と言い合わせた可能性は、十二分にあるのだ。いや、実際、八百さんは、正しく「六月頃よりでしたから」と言ったのだが、桑原氏が『「五月」の言い間違いであろう』と考えて「修正」した可能性もあるのである。しかし、この「変更」が事実だったとしても、桑原氏の贋造や嘘なのではなく――八百さんの記憶違い――として、「訂正」したものと採るべきことであり、桑原氏に責めは、私は、「ない」と考えるものである。

 こうしたことを、論って、桑原氏のこの本を誹謗する輩(やから)には、

「じゃあ、お前が! タイム・マシンで戻って! 再度、調べ直して来いよ!!!」

と指弾したいのだ!

――桑原氏の富田カネさんと、この八百さんへの、頗る貴重なインタビューは、誰もしなかった、稀有の偉業である――

と、私は、叫びたいのである!

〔桑原〕 先生は學校においでの時に手鞄をお持ちでしたか。

〔高木〕 手鞄は全然お持ちでありませんでした。何時も外出には日本の風呂敷でした。

〔桑原〕 ただ今八雲記念館にある椅子とテーブルはその當時よりありましたか。

〔高木〕 あの分をご使用になつていたのに間違いはありません。當時電燈がなかつたため、書生ランプで今記念館に陳列してある分に間違いありません。

[やぶちゃん注:「書生ランプ」まともな記載は、ネットでは見当たない。グーグルのAIの答えは、『「書生ランプ」とは、学生(書生)が読書や勉強のために使う、手元を照らすタイプの卓上照明を指し、一般的には石油ランプや、現代ではデスクライト(ブックライト)を指すことが多いですが、明治・大正時代の「ガス灯」や「石油ランプ」を指す場合もあり、レトロな雰囲気の小型照明全般を指すこともあります。昔の「書生」が使ったような、携帯可能で、温かみのある光(電球色など)を放つものがイメージされます。』とあった。AIよ! よく勉強した! 褒めて遣わす! なお、「八雲記念館 小泉八雲のランプ」のフレーズで調べたが、画像その他は掛かってこなかった。

 なお、この見開きページの左丁の左下には、金津氏の二枚目の洋椅子の切り絵図がある。右側中央に「椅子」の文字が附けてある。]

〔桑原〕 先生は和服姿で外出されたときゝますが、その時には靴の外に下駄とか木履[やぶちゃん注:「きぐつ」。]とかお用いになつたことはありませんでしたか。

〔高木〕 私が京店時代に奉公して以來先生は決して日本式の履物ははかれませんでした。外出には何時も靴でした。

〔桑原〕 根岸氏の「松江に於ける小泉八雲」第三十七頁によれば「先生は鼻緖をゆるめた竹の庭下駄をはいてこの庭を逍遙された。竹の庭下駄とは、太い竹を縱に半分に割り、それに蔓の鼻緖を立てたもの」とありますが、先生が松江到着當時、富田旅館滯在中、純粹の日本生活がたいとの執心により、日本下駄を試みられたが遂に不成功に終わつたとは、これまた同書第十七頁に「白足袋の上に下駄を履くのが大仕事で、家內總掛りであつた。しかし履いても直ぐ脫げるので、履き物は止むを得ず靴に變えられた」と記せられているのに對照すると、前後矛盾するように見えて、割り竹の下駄をはかれたとは私は全く信用が出來ませんがどうでしたか。

[やぶちゃん注:『根岸氏の「松江に於ける小泉八雲」』この作者は、小泉八雲が最後に松江で借りた根岸邸の当時の家主で郡長でもあった根岸干夫(たてお)の子息で、八雲の教え子にして、次の当主となった根岸磐井(元治元(一八六四)年~明治四四(一九一一)年)である。日本銀行勤務中、小泉八雲の「知られぬ日本の面影」に自邸が描かれていることを知り、故郷に戻って旧居を守り、後の小泉八雲記念館設立にも貢献した人物である。当該書は、国立国会図書館デジタルコレクションの「出雲に於ける小泉八雲」(再版・八雲會昭和六(一九三一)年刊:★やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションでは、前年の初版(横書)版があるが、ここでは、桑原氏の引用している部分の一部が確認出来ないので注意!)で確認出来る(但し、ノンブルは変わっているので役に立たない)。桑原氏が最初に指示しているのは、ここ(左ページ「39」の八行の部分(但し、『先生は鼻緖を緩めた竹の庭下駄を穿いて此庭を逍遙された。』の表記である)と、そのページの最後の『(註)』の内容を合成したものである(但し、『竹の庭下駄とは太い竹を縱に半分に割り夫れに蔓の鼻緖を立てたもの。』の表記である)。後に指示しているのは、ここ(左ページ「17」の後ろから四行目)である(但し、『白足袋の上に下駄を穿くのが大仕事で家內總掛りであつた。併し穿いても直ぐ脫げるので、履きものは止むを得ず靴に變へられた」』の表記である)。因みに、この根岸磐井氏の「松江に於ける小泉八雲」も、そのうち、是非、電子化したい著作である。]

〔高木〕 八雲先生が松江滯在中、そのような下駄をはかれたことは決してありません。殊更割竹の下駄なぞは、日本人でも老人なぞはあぶないようなものです。これはたしかに誤傳であります。

[やぶちゃん注:「割竹の下駄」私は、正に、太い竹を縦に半分に割ったものに緒を附けただけのシンプルなものを、幼少の頃、母の故郷で見たことがある。ネット検索では出てこないのだが⋯⋯。]

〔桑原〕 それでは先生が根岸邸の庭を逍遙された時は靴ばきでありましたか。

〔高木〕 先生は靴も下駄もはかず、全く靴下ばかりで砂の上や飛石の上を逍遙されました。しかし根岸邸の前庭[やぶちゃん注:「まへには(まえにわ)」。]は荒島砂と申して大粒の大豆か小豆位の砂で、また後庭[やぶちゃん注:前に合わせて「おくには」と当て訓しておく。]は今こそ土庭[やぶちゃん注:「つちには(つちには)」。]ですが、當時は前面に一寸位の黑の玉砂利[やぶちゃん注:「たまじやり(たまじゃり)」。]が敷[やぶちゃん注:「しき」。]つめてありましたから、そのまま庭から座敷にあがられても、靴下で座敷を汚す[やぶちゃん注:「よごす」。]等のことはありませんでした。八雲自身の著書にも「庭には大きな樹はない。靑い石か一面に敷いてあつて中央に小池がある」と記している。

[やぶちゃん注:この最後の一文は、どうみても、高木さんの肉声ではない。恐らく、桑原氏が以下の註として書いたものを、うっかり、ここに配してしまったものと考えられる。

註一〕 著者はこの庭の砂に就き、最近根岸邸に至り、主婦に尋ねたところ同樣のことを伺つた。

註二〕 小泉一雄君の「父八雲を憶ふ」第二八七頁の一齣に燒津の濱で海にはいる僅かな道も、柔かな古布で草履を作つて貰い云々とあるのによつて察するに、先生は終生日本式の履物を使用し得ないことは明らかである。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』である当該書『父「八雲」を憶ふ』(小泉一雄著・昭和六(一九三一)年警醒社刊)の当該ページはここ。「四 海へ」の一齣。右丁の「二八八」ページの一行目以下にある。興味深い小泉八雲の身体(足)に就いてハンディに就いての記載があるので、前のページの段落開始箇所から、総てを引用する(小泉一雄氏の著作は既にパブリック・ドメインである)。

   *

 父は兩足の中指と藥指が重り合つた儘膠著してゐました。これは幼少の頃爪先の尖(とが)つた貴族的な靴のみを履かせられた結果だと申して、先の尖(とが)つた洒落靴のことを「野蠻の履物」といつて呪つてゐました。それ故父は先の幅廣な兵隊靴然たる靴を常に履いてヲました。縱ひフロツクの場合と雖もこれを履いて平然たるものでした。此の黑の兵隊靴然たる編上が二足ある他靴の持合せはなかつたのです。子供等にも下駄や草履を奬勵して、なるべく靴を履かせぬように仕向けました。足は頗る達者で二三里を步く位何とも思はぬ父でしたけれど、その足の裏は私等子供よりも遙かに柔かく、裸足で濱邊を步く事などはとても出來ぬ人でした。砂地が無く小石計りである燒津の濱では海へ這入るのにも小石を踏むで行く僅[やぶちゃん注:「わづか」。]の間が父に取つてはなかなかに苦痛でした。これを見兼ねて乙吉さんがなるべく柔かな古布を選び、それで草鞋[やぶちゃん注:「わらぢ」。]を編んで海岸行の時は父に履かせてくれました。而も海へ這入る時と海から上る時とには必ず父の手を執つて案內してくれました。

   *

ここに出てくる「乙吉さん」は、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」の私の冒頭注を見られたい。]

〔桑原〕 ついでに伺いますが、節子さんが結婚後はどんな服裝で、どんな髮でしたか。

〔高木〕 節子さんは終始日本服で、髷は丸髷で、實に立派な奧樣振りで大層先生の氣に入つでおりました。

〔桑原〕 八雲先生宅には、日本の日用家具はどんな風でした。

〔高木〕 食器、御膳、煎茶器、土瓶、鐵瓶その他日本家庭に必要な調度は一切揃つておりました。これは奧樣が日本人で、日本人の來客もありよく調つておりました。

〔桑原〕 先生の寢具はベツトでしたか。

〔高木〕 先生は日本式というので敷布團を澤山重ねてお寢みでした。

 

2026/01/19

立原道造草稿詩篇 午後

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。なお、これ以降は、前の「(少年が⋯⋯)」の最後に附した注を、必ず、読まれたい。]

 

  午 後

 

 陽は淡く雲を通して、その雲には風が絕え間なく鳴つてゐた。かげは乾いた土に衰へた僕を作る。

 ふと――どこかで海草のにほひがする!

 立ちどまつて、その奇妙な新鮮さに、注意深く嗅がうと、試みた。再び僕は知ることが出來ない。

 街道を、物憂い牛車が近づて來た。

 ――步きはじめねばならない。

 

 もうたそがれは近いだらう。

 

[やぶちゃん注:以下、概ね、ネイティヴでない読者のために注した。

「陽」「ひ」。

「海草」「かいさう」だが、厳密には「海草」は海産種子植物の被子植物門単子葉植物綱 Monocotyledoneae の種のみ示す(代表的な種はオモダカ(沢瀉・澤瀉・面高)目アマモ(甘藻)科アマモ属アマモ Zostera marina :別名リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ(龍宮の乙姫の元結の切り外し))から、「海藻」とする方がよい。

「牛車」「ぎうしや」。凡そ古語の「ぎつしや(ぎっしゃ)」と物知り顔に読んだら、風流どころか、噴飯物である。]

立原道造草稿詩篇 (少年が⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。なお、この詩篇は、前回、述べた通り、昭和七年八月二十八日付の堀辰雄宛書簡のここで、全文を紹介しているが、それは、明らかに後半に異同があることから(これは底本の注記の中で『「少年が」(異文)』とし、独立注の箇所でも、『*前項の堀辰雄宛書簡に無題異文を紹介している。作品の完成度から異文の改作詩であろう。』とある。この見解は肯んじられるので、後に書簡版異文を後に置いた。但し、書簡版の頭の一字下げは、書簡内記載のために生じたルーティンと判断して、再現せず、引き上げた。]

 

  (少年が⋯⋯)

 

少年がきれいな空氣と風景を磨いてゐる。忘却。忘却のなかを海がある。少年が樹木のやうに倒れる。そのとき、古い空間のにほひが、僕を不幸にする。

 

 

【書簡版異文】

 

少年がきれいな空氣と風景を磨いてゐる。忘却。忘却のなかに海がある。少年が樹木のやうに倒れる。そのとき、古い空間のにほひが、ざわめきながら、僕を不幸にする。

 

[やぶちゃん注:この詩篇を以って、このパートの〔AIIIグループ〕は終わっている。なお、この続く後でも、編者は注記で、別原稿であるのに、『〔A・○グループ〕』という同一の表記を用いているが、これは、読者には、甚だ、混乱を招く。そこで、このグループ名は以下では使用せず、そこから必要と判断した場合(詩篇の内容に関わるもののみ)は「以下のパートは」という形で注記することとするので、必ず、注記リンクを確認されるようにされたい。 

 

立原道造草稿詩篇 公園

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  公 園

   ――或る夜に就いて

 

夾竹桃の花が咲いてゐる。⋯⋯⋯それにサアチライトが靑く木の間を明るく、僕の右の胸の童話よ。僕は、不器用に步く。すると、ベンチに腰かけた僕が、笑ひ出す。

 

[やぶちゃん注:「迷子」の注に示した通り、この「公園」は昭和七年八月二十八日付の堀辰雄宛書簡のここで、全文を紹介している。但し、厳密に言えば、

①副題位置が誌題の下にある。

②詩篇本文の冒頭が一字下げである。

③リーダの数が異なり、九点ではなく、六点である。

④最終のフレーズの二箇所の読点が存在しない。

という相違があるので、以下に示しておく。書簡内記載であるため、引用詩は全体が一字下げになっているのは、再現していない。

   *

 

  公 園――或る夜に就いて

 

 夾竹桃の花が咲いてゐる。⋯⋯それにサアチライトが靑く木の間を明るく、僕の右の胸の童話よ。僕は、不器用に步く。すると、ベンチに腰かけた僕が笑ひ出す。

 

   *]

2026/01/18

立原道造草稿詩篇 休暇

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  休 暇

 

僕が靑空の地圖を讀んでゐると⋯⋯⋯母が不意にやつて來て白い雲を指さす。それはひとつの小さな魚の形の天使だつた。⦅僕はアラスカへでも行つちまひたい⦆母は僕の傍で海のやうな息をしてる。

 

[やぶちゃん注:「傍」私は「かたはら」と読みたい。

 なお、注記には、『『昭和八年ノート』五月下旬の頁に「休暇(改作)」を持つ。』とあり、さらに原題は「ヴアカンス」とある。前記は、底本全集の「第六巻 雜纂」のここにある。起こしておく。

   *

   休暇(改作)

 母が不意にやつて來て、立つてゐる僕に空の雲を指さす。雲は空をゆつくり流れてゐる、母は僕のそばで海のやうな息をしてゐる。

   *]

立原道造草稿詩篇 流れ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  流 れ

 

モーターの響をこえて風は人の夢を運ぶ⋯⋯⋯谷間に咲いた百合は白いといふがこの底をなんびき魚は泳いだかしら。花は咲き花は散り、靑い光線(ひすぢ)のなか、紫陽花、りんだう、萬年草のたぐひ。とほい思ひ出のやうに。風はひとの夢を追ふ。

 

[やぶちゃん注:「モーター」以下から、湖水(「谷間」云々の謂いから推定)のモーター・ボートのそれであろう。但し、実際の湖水を推定することは、出来ない。冒頭注で示した堀辰雄宛書簡で、立原は冒頭部で、『この夏は、たうとう東京でぼんやり過してしまひました、佛䌫西語などをすこしやつてもたりして、田舍へも行きたいと思ひましたけれど、結局どこへも行かずしまひでございました。頭のなかで、よい景色のことばかり考へて居りました。そいて、何だかそれが、僕に一番気に入る方法だと、新字ながら⋯⋯』とあることから、私は、これは、空想上の湖水であったと考えた方がよいと考える。]

立原道造草稿詩篇 迷子

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。なお、そこには、ここからの詩群に就いて、『〔AIIIグループ〕は散文詩群で、そのうちの「公園」「少年が」(異文)を昭和7年8月28日付・堀辰雄宛書簡で紹介していることに拠り、8月下旬と想定する。排列は堀宛書簡にある二篇で締めくくった。』とある。この書簡は、同じく国立国会図書館デジタルコレクションの同全集の第五巻のここ(左丁の下段から始まる「二二」)から、確認出来る。]

 

  迷 子

 

この世の中の小鳥は小鳥でなかつたさういふ或る晩よ⋯⋯⋯僕は口笛を吹くことを忘れる。だから世界は遠すぎる。夜も、戀人たちも。薔薇色の星も。ああ、僕の手に死の型錄だけがが殘つてゐる。

 

[やぶちゃん注:「型錄」これは、「カタログ」(目録)を意味する“ catalog[アメリカ英語]/ catalogue[イギリス英語]”に当て漢字した当て字である。恐らく立原も「カタログ」と読んでいる。但し、この頃、フランス語をやり始めており(次の「流れ」の私の注を参照されたい)、フランス語では“catalogue”であるから、それを心内では呟いていたかも知れぬ。]

立原道造草稿詩篇 (夜が すれちがひながら⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。なお、そこのある〔AIIグループ〕は、この詩篇を以って終わっている。]

 

  (夜が すれちがひながら⋯⋯)

 

夜が すれちがひながら

小さな傷をつけてゆく

ちようど死の記號のやうに

ぼくの腿に 胸の骨に

 

[やぶちゃん注:「腿」もも。]

 

 

2026/01/17

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その9) / 鱶鰭の說~(図版4)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。この図版は、かなり美麗で、清拭は楽であった。

 

【図版4】

 

Fuka4

 

 

■「ヨシキリザメ」

[やぶちゃん注:これは、

メジロザメ目メジロザメ科ヨシキリザメ属ヨシキリザメ Prionace glauca

であるが、吻部が丸くなっているのが、甚だ、気になる。通常は、もっと尖った鋭角である。上方から背面部を撮った画像がなかなか見当たらなかったが、同種の英文ウィキで見つけた。これである。まさに見事な尖塔状に見える。しかし、学名でグーグル画像を掛けて調べた際、こんな吻部が丸くなったように見える遺体があった(上)。これは二メートル強で、右眼にメカジキの嘴(くちばし)が刺さっていた、とある。しかし、吻部は頭部を右から撮ったもの(下)は、戦闘部に損壊はないのである。則ち、尖って見えるものの、個体によっては、上からみると、こういう風に見えるとも言えるのだろう。ただ、この図の吻部の先端は白くなっているから、或いは、漁獲後に時間が経って、先頭部が崩れた個体であるとも言えるかも知れない。そうした推測をすると、左胸鰭の後部が奇妙な形になっているのも、そうした他種から、生きている時に攻撃を受けて、食いちぎられたものの、治癒した痕と考えると、これ、納得出来るのである。とすれば、先頭部も死後の脱落ではなく、その襲撃の際に、吻部上部も食われるも、「鼻無し」で生き延びていた、「勇士」であったのかも知れない。黙禱――

 

■「シロザメ」

[やぶちゃん注:左上部の切り取った鱶鰭の右にあるキャプション。]

 「一名、シロフカ。」

[やぶちゃん注:左下部のキャプション。]

[やぶちゃん注:これ、右のヨシキリザメと尾を除いてそっくりに見えるのだが、これは文字通りの、

メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus

である。而して、英文サイトのこの画像を見られたい。

立原道造草稿詩篇 蚊が鳴いてゐる

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。なお、前掲の〔A・IIグループ〕は、ここで終っている。

 

  蚊が鳴いてゐる

 

蚊が鳴いてゐる

夜更けの

靑いインキ

白いチクタク

 

[やぶちゃん注:「チクタク」は「チックタック」で、恐らくは、英語の擬音語の、“ticktack”、或いは、 “tick tack”が元で、時計等の一定間隔で刻む短く規則的な音のオノマトペイア(語源は古代ギリシア語の「オノマトペイア」(ラテン文字転写:onomatopoiia)とされ、「言葉を創ること」・「名づけること」を意味する。フランス語の“onomatopée”(オノマトペ)を経由して、日本語の外来語となったもの)であろう。複数の辞書、及び、ネット記載を見ると、“tick”で名詞・動詞として、「カチカチという音」・「心臓」(俗語)・「時計の針がカチカチと音を立てる・時を刻む」があるが、これは、擬音から格上げされた用法ではないか、と私には思われた。英語辞書サイトの“ticktack”のページには、一五四〇年から一九五〇年頃が起原とされるが、私には、時計以前の、広く、「カチカチ・コチコチ」というリズムを持ったぶつかる自然界の音の擬音としてあったのではないか、と感じられてならないのである。]

2026/01/16

立原道造草稿詩篇 Hに

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来、この「H」について、『金田久子のことと思われる』とある。id:tegusux氏のブログ「驚愕!透明なる幻影の言語をたずねてパート2」の「立原道造ノート① 近現代詩人論のための備忘録」に、道造が『昭和三年(一九二八年)十四歳』の年譜に『同級生金田敬の妹久子(小学校六年生)を識り、ひそかに思慕をよせるようになる。』とある女性である。]

 

  H

 

風が暴れてゐる 思ひ出のひとよ

もう秋近い窓をしめ

今日 僕は本に向ふ

たのしく 思ひ出のひとよ

 

 

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その8) / 鱶鰭の說~(図版3)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。今回はここの左ページから。この図版のうち、「めしろさめ」の体側左の中央前部の縦の白い貫く線状部分が、如何にも、図を汚しているので、特異的に、目立たぬように、適当と思われる自然感覚になるように、黒で潰してある。

 

【図版3】

 

Fuka3

 

 

■「かはきさめ」

[やぶちゃん注:以下は、上部にあるキャプション。位置が、甚だ、悪い。あたかも、二番目の図の一段目に続くようにしか、見えないからである。

 「大なる物、二丈。

  子のうちは、二、三

  尺にして、『白目鱣《しろめざめ》』といふ。」

[やぶちゃん注:これは、背鰭の形状に、甚だ、問題があるものの、デフォルメしてしまったととって、明らかに、

ネズミザメ目ネズミザメ科アオザメ属アオザメ Isurus oxyrinchus

である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見ると、「地方名・市場名」に『カワキ』があり、採集場所として『神奈川県江ノ島』とする。また、ブログ「(株)小田原魚市場」の「小田原地魚広辞苑」に、『カワキ アオザメのこと』とある。「かはき」「カワキ」の漢字表記は、国立国会図書館デジタルコレクションで調べてみたが、漢字表記は見当たらなかった。情報を求む。

「白目鱣《しろめざめ》」実は、この「鱣」を「ざめ」(鮫)としたのは、私の推定乍ら、勝手な読みであって、この「鱣」には、その訓は存在しない。この漢語「鱣」は音「テン・セン・ゼン」で、「廣漢和辭典」に拠れば、「テン」と読む場合は、第一義は「鯉の一種」とし、第二義は「大魚の名」で『かじき』(海産の条鰭綱アジ目ギンカガミ亜目Menoideiのギンカガミ科Menidae・メカジキ科Xiphiidae・マカジキ科Istiophoridaeの三種から成る)『に似て短く、肉は黄色』とあり、「セン・ゼン」で、「魚の名」とし、『うなぎに似た淡水魚。うみへび」とする。しかし、「辞典オンライン 漢和辞典」では、音「テン・セン」のみで、前者は『鯉(こい)の一種』、或いは、『ちょうざめ。魚の名。チョウザメ科』(硬骨魚綱条鰭亜綱軟質下綱チョウザメ目チョウザメ科 Acipenseridae)『の海魚」とし、「セン」では『たうなぎ。魚の名。タウナギ科の淡水魚。』(=条鰭綱タウナギ目タウナギ科タウナギ属タウナギ Monopterus albus )と異なる。孰れにせよ、「サメ」という意味はないのであるが、そう読まないと、話しが合わないので、敢えて「ざめ=さめ」とした。異論があれば、相手になる。

 

■「ほねなしふか」

 「一《いつ》に『わにふか』。

  長《ながさ》、凡《およそ》、五、六尺。

[やぶちゃん注:以下は、図を挟んだ左側のオプション。]

  肉、味、美にして

  『ふか中《ちゆう》の上品』とす。」

[やぶちゃん注:これは、図から、

テンジクザメ(天竺鮫)目オオセ(大瀬)科オオセ属オオセ Orectolobus japonicus

である。しかも、前の「図版2」の図よりも、体表のヴァラエティに富んだ模様が描かれてあり、甚だ、グッドである!

「わにふか」「わに」は本邦の古語で、「鮫(さめ)」を指し、「ふか」は同じく「鮫」、或いは、鮫の中でも大形の種群を指す「鱶(ふか)」である。日本語サイト「SUGA MARINE MECHANIC LLC. aquatic pro」の「オオセ Orectolobus japonicus にはYouTubeの動画もあるゾ!)、『オオセは平らな体と幅広い頭部、そして口のまわりに多数の皮弁(ひべん)があるのが特徴的なサメです。 サメと言うと、中層を泳ぎ回っているイメージがありますが、オオセは海底にじっとしていることの多いサメです。 動かない姿は岩や海藻と見分けがつきにくく、自然の中では非常に目立ちません』。『「オオセ」という名前は「大瀬(深い海)」に由来するとも、地方名から付けられたとも言われますが、詳細はわかりません。 英名は「wobbegong(ウォビゴン)」で、オーストラリア周辺の近縁種にも同じ系統の名前が使われています。 じっとしている姿からは想像しにくいですが、素早く餌に噛みつくことができる捕食者です』。『一般には食用にはされませんが、地方によっては煮付けや干物などで利用されることもあり、美味とされています。 なお、鋭い歯を持ち、近づいたり触れたりすると咬まれる危険もあるため、観察にはそれなりの注意が必要です』とあった。何より、このキャプションにピッタンコのページであった!

 取り敢えず、何時もお世話になる「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページもリンクさせておく。「味わい」に『鱗は包丁が入らないくらい硬い。骨も軟骨魚類にしては硬い』が、その堅い『鱗の下には』、『厚みのあるゼラチン質の層があ』るとある。これが、冒頭の異名「ほねなし」=「骨無し」の由縁と採れる。

 なお、私は、オオセを食ったことがないのだが、このページの料理の画像と解説を見ていると、是が非でも、どこかで食べたくなること、請け合いじゃ!!!

 

■「めしろさめ」

[やぶちゃん注:これは、

軟骨魚綱メジロザメ(目白鮫)目メジロザメ科メジロザメ属Carcharhinusに属する十四種の総称

であるが、特に名にし負う種である、

メジロザメ Carcharhinus plumbeus 

である。詳しくは、「鱶鰭の說(その1)」の私の注を見よ。]

 

■「まめしろ」

 「大隅、「まのくり」。

  長《ながさ》、凡《およそ》、

  七、八寸。」

[やぶちゃん注:これは、「東京大学総合研究博物館 標本資料報告 第132号  The University Museum, The University of Tokyo Material Reports No. 132  東京大学総合研究博物館動物部門所蔵 魚類標本リスト(3) Catalogue of fish collection deposited in the Department of Zoology, The University Museum, The University of Tokyo Vol. 3  和田英敏・小枝圭太・上島 励」著のリストPDF)から「マノクリ」で見つけ出した。

メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ(星鮫)属ホシザメ Mustelus manazo

である。

立原道造草稿詩篇 出發

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  出發

 

小さな鞄を作りながら

雲は躊躇する 忘れ物をする

⦅僕の天使はまだかしら⋯⋯⦆

やがてその雲は待ちくたびれる

 

 

[やぶちゃん注:並置復元修正版。]

 

 出發

 

小さな荷物を作りながら

雲は躊躇する 忘れ物に氣づく

⦅おや僕の天使はまだかしら⦆

やがてその雲は待ちくたびれる

 

[やぶちゃん注:この詩稿に就いては、注記に『本稿は一部に並記を持つ。』として、『全文「小さな荷物を作りながら/雲は躊躇する 忘れ物に氣づく/⦅おや僕の天使はまだかしら/やがてその雲は待ちくたびれる』(二重丸括弧の「閉じる」がないのはママ)とある。以上は、その並記の別案を独立させて後ろに電子化した。但し、二重丸括弧の「閉じる」がないのを、校訂本文に従い、修正しておいた。]

立原道造草稿詩篇 淸 閑

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  淸 閑

 

硝子窓の向うに

曇り空 あゝ明るく

脚をのべ 細い脛よ 僕は

壁にもたれて 爪をきる

 

立原道造草稿詩篇 路

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。標題は「みち」と読んでおく。]

 

  路

 

步きつづけてゐて

樂しくなつた

そのとき――

自動車が追ひ越して行つた

 

2026/01/15

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その4) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅢ) / 「富田旅館時代」~了

[やぶちゃん注:底本では、ここの右丁四行目から。]

 

〔桑原〕 これまでの書物には、八雲先生と小泉節子さんの結婚はお宅であつたと書いてありますが、最近西田精博士の說によれば、京店の織原の借家時代とのことですが、どれがほんとうですか。

[やぶちゃん注:「京店」「きやうみせ(きょうみせ)」と読む。ここ以下、少々、私自身の意識の中での迂遠にして神経症的な注にお付き合い戴きたい(特異的に段落を作る)。

 私は、小泉八雲を偏愛すること、人後に落ちないが、鳥取・島根に旅したのは、十五年前、八雲が優れた紀行を残した隠岐(私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (一)』以下、全三十五回の長篇)に三泊で行ったきりで、一昨年の十二月上旬に連れ合いがセットした紅葉狩のツアーで行ったのが、初めてであった。されば、松江は、驚いたことに、コースで松江城に登るだけのタイトな状況で、甚だ悲しいことに、八雲の松江の足跡を辿ることは、殆んど、出来なかった(但し、初日の鳥取では、八雲がセツさんと新婚旅行に行った海岸沿いの景色や神社を訪ね、八雲が感動した海に対した墓地群を遠見乍ら、堪能出来たことは素晴らしかった)。されば、松江市内のことにも、全く冥い。されば、この「京店」を冠した地区名も、躓いた。

 まず、ツネさんの語りから、松江の特定の商店を多く持つ広域の街区を指す呼称であることは判った。しかし、その由来は、ゼロから調べねばならなかった。

 ともかく、グーグル・マップ・データを見てみた。旧富田旅館の北直近の東西に走る「松江京店商店街」がある。

 が、ふと、見ると、西の方にある南北の細い道路に「京屋小路」とあった。

 さて。ここで、ちょっと戸惑った。

 現在の小路(しょうじ:松江市では「こうじ」ではなく、「しょうじ」と読むのが一般的のようである。新しい小路名でも「しょうじ」と読んでいるものがある。「しょうじ」の読みは、特異的なものではないが、私は鎌倉及びその周辺の郷土史研究をしているが、「せうじ」「せうろ」の呼称を史料等で見聞したことはない。但し、直近の、安来港に面した明治期の商家や小路(しょうじ)といった古い町並みが残る安来市安来町の新町にも同様の呼称があることが、「山陰中央新報デジタル」の記事(ブログ「建築・まちづくり通信」の画像で確認出来た)「京屋小路」(きょうやしょうじ)の解説碑から、宍道湖湖岸に南に走るものを「京屋小路(きょうやしょうじ)」と呼称している。そのサイド・パネルの解説碑の画像から起こすと、

『ここから今夜小路(こんやしょうじ)から、反対側の南の宍道湖岸に至る通りが京屋小路です。江戸時代に塩で財を成した豪商京屋萬五郎の大店』(一般的な江戸時代の呼称で「おほだな(おおだな)」「おほみせ(おおみせ)」があるが、私は前者に馴染んでいる)『に接していたことから、小路の名となりました』。『湖岸の京屋灘座敷(現在』の『ふこく生命ビル』』(ここ)『は、伊能忠敬が文化3(1806)年』、『松江地方測量のため、1カ月間逗留(とうりゅう)し、療養しながら測量の基地とした場所でもあります。』とあった。

 「京店」とこの「京屋小路」の関連性はあるのか? それが気になったのだが、しかし、この小路は、どうみても、位置的に「京店」とは、イコールではあり得ないと感じた。

 ここでツネさんの言っている「京店」は、前に地図リンクした東西に走り、しかも、大橋川河岸の部分までの幅の広い地域を呼ぶものと推定される。それは、「富田旅館」から、直ぐ東側の地にハーンと節子は借家に移っているのを、富田ツネさんが、そこを「京店」と呼んでいるからである。

 而して、『松江の地域情報サイト「まいぷれ」』の「松江京店商店街協同組合」同組合本部は、ここ。富田旅館があったところにより近い)の解説に(行換えを詰めた)、『約60店舗のお店からなる京店商店街』で、『100年以上続く老舗』とし、『茶人として名高い不昧公好みを受け継ぐ菓子店』、『和食・洋食・中華などの飲食店』、『オシャレなブティックや美容室』、『めのう、八雲塗りの漆器・陶器、安来鋼の刃物店』があり、『頑固な店主の話を聞いたり、かわいい小物を手にとったり』、『色々な楽しみ方ができる京店商店街』と紹介し、『【京店商店街の始まり・歴史】』の項には、『1724年』(享保九(一七二四)年)、『五代松江藩主「松平宣維」に公家の息女「岩姫」が降嫁された際に、京の都を懐かしみ京風の町並みを作ったのが』、『京店の始まりと言われています』(☜)。『現在は「星ふる街・恋する街 京店商店街」をコンセプトに、まちづくりをしています。時代の流れとともに京店商店街は大きく変わりましたが「歴史・伝統・文化を感じるまち」ということは、これからも大切にしていきます』とあるのである。

 そこで、ネット検索をした結果、サイト「しまね地域資料リポジトリ」の『松江城研究4』(松江市・二〇二二年三月発行・PDFでダウンロード可能)の中の、大矢幸雄氏の「城下町松江の近代都市化に向けて-江戸時代後期から明治時代初期までの動向-」を見たところ、その「( 3 )武家地の細分化と町人地の繁栄」の「②初期町人層の交代と商業機能の集積」を読んで、やっと、私のモヤモヤがすっきりした。以下、部分引用する(太字・下線は私が附した)。なお、以下の引用文に出る「白潟」「町」・「白潟本町」は現在の、大橋川を挟んだ、現在の松江大橋を渡った右岸部分の白潟本町(しらかたほんまち)を指す。

   《引用開始》

 開府当初の「堀尾期給帳」(東大史料編纂所「山路文書」)には、家臣の武士名とともに扶持を与えられた町人、京屋万五郎、近江屋与左衛門、平田屋五兵衛、魚屋権六、難波屋庄介、桶屋善三郎、目代市右衛門(鶴屋か)宍道鉄屋久左衛門などとともに、鉄砲鍛冶屋の国友藤介をはじめ多数の細工人、大工、船頭等の名が記されている。これらは松江藩に抱えられた御用商人や職人たちと推定される。こうした城下町成立期の担い手であった御用商人・職人たちは「寛永期には遠隔地の地名が目を引くが、元禄期には商品名や領内の地域名を屋号にしているのが多い」として、城下町の経済的位置が変化していることを推測している(松本2013174)。

 元禄年間(1688-1703)「末次本町絵図」には兵庫屋、京屋、大和屋など近畿方面に縁をもつと思われる屋号が確認できるが、狭い範囲の町人地を描いた絵図のためか在郷町人と推定できる屋号は沢屋のみである。この絵図とほぼ同時期の「白潟火事図面」(延宝4 年(1676))には中世からの居住者森脇甚右衛門とともに鶴屋与兵衛、伊予屋、備前屋、尾張屋などの他国商人のほか、屋号に「櫛や、のこや、茶や、薬や、から物や、布や」と職種や商品名のついた屋号があり、開府当初からの町人層が17世紀末頃になお末次・白潟両町に居住していたと推定される。

   《引用終了》

飛んで、「⑤多様な町で構成される末次町人地」の冒頭部(注記記号は原本を見られたい)。

   《引用開始》

 末次町人地(一部を含む)を描いた絵図は翻刻図・原図・貼図を含めて4 枚確認している(表2)。

元禄年間(1688-1703)の「末次町屋図」は末次本町・京店付近を中心に描かれており、上述したように他国に縁をもつと思われる新屋(鶴屋)、大和屋、京屋、兵庫屋などの屋敷があり、沢屋など在郷町人の屋敷もある。本町角には町役の大目代・大年寄を勤める新屋伝右衛門(瀧川家)の屋敷があり、兵庫屋、虎屋とともに300坪を超える屋敷である。居宅は通りの南側に多く、北側は貸家(表借家)が多いなどの特徴があるが、総じて末次本町の中心地や代表的な商人の屋敷面積は白潟本町と比較して狭い。

   《引用開始》

以上の太字・下線部分に着目されたい。

★塩で財を成した豪商京屋萬五郎は、確かに、江戸時代の開府後の松江城の城下町成立期に大店「京屋灘座敷」を建て、名を馳せた。既に、その頃には、あの「小路」(しょうじ)は、末次町界隈で既に「京屋小路(きやうやしやうじ)」と呼ばれていたかも知れぬ。あってもおかしくはない。しかし、

それが、広域の「京店」の発祥ではなかった

のである。あくまで、『松江の地域情報サイト「まいぷれ」』の「松江京店商店街協同組合」の解説にある通り、

◎『1724年』(享保九(一七二四)年)、『五代松江藩主「松平宣維」に公家の息女「岩姫」が降嫁された際に、京の都を懐かしみ京風の町並みを作ったのが』、『京店の始まりと言われてい』るというのが

◎「松江人の認識」

なのである。

 さらに言えば、京屋萬五郎が以下に豪勢な屋敷を作っても――彼京屋萬五郎は、大矢幸雄氏の論文が、二度、示す通り、「松江人」ではなかった――のであり、

◎「松江人」でない異邦人の屋敷の屋号「京屋」が「京店」になることは――絶対に――ない――

と、私は、断言するものである。『そんな、狭小なことを松江人がするか?』と言う人がいるかも知れぬ。しかし、江戸時代に国外からやって来た人々は、どんなに優秀で財を成しても、詰まるところ

――「松江人」ではない――異邦人=‘ L'Étranger ’(レトランジェ)――

なのである。

そうだ!⋯⋯

ラフカディオ・ハーンが異邦人であったように!⋯⋯

⋯⋯既に述べた通り、小泉八雲が松江を去ったのは――「寒さ」ゆえ――ではなかったのだ!――異邦人を妻としたセツさんに対する当時の「松江人」の「洋妾(ラシャメン)」という偏見に対して――セツは勿論――八雲自身が――どうしても耐えられなかった――からなのである!⋯⋯⋯⋯

 さても。私の以上の検証と見解に異義がおありになれば、何時でも相手になろう。私は、鎌倉の荏柄天神の敷地内で生まれた「鎌倉人」であるが、練馬の大泉学園、富山の高岡市伏木、渋谷区東山を経て、また、鎌倉に戻った。しかし、自らを「鎌倉人」と自覚したことは、人生の中で一度も――ない。私もまた――魂のレトランジェ――である。

 長々と私のグダグダに附き合って下さった読者には、御礼申し上げるものである。

「西田精博士」西田千太郎の弟。ウィキの「西田千太郎」によれば、明治一〇(一八七七)年生まれで、昭和一九(一九四四)年逝去。『東京帝国大学工科大学土木工学科卒業、九州帝国大学教授、工学博士、各地の上下水道の調査設計に尽力』したとある。

「織原の借家時代」既出の銭本健二・小泉凡編「年譜」によれば、明治二三(一八九〇)年の項に、

   《引用開始》

 十月下旬に――十一月中旬、京店(きょうみせ)織原方の離れ座敷に(末次本町)に転居する。[9033][やぶちゃん注:同著作集の書簡番号。]は、十一月中旬(日)の一畑参詣の少し前に書かれたものと推定され、同書簡には、もはや旅館ではなく、湖水に臨んだきれいな家の持ち主だとある。ただし、十一月十八日の「山陰新聞」には、ハーンの「僑寓、縁取町富田屋の娘⋯⋯」とあり、この時点でまだ富田屋に寄留していたことを伝えている。

   《引用終了》]

〔富田〕 それは京店の借家時代に間違ありません。實は京店の借家に先生一人置くという譯には行かず、お信と今の臨水亭の出口の安藤と申す散髮屋の娘のお萬と申すものと二人を女中として附けておき、三度のお食事は總て私方より運びました。

[やぶちゃん注:このページの左下には、切り絵でしっかりした西洋椅子が描かれ、中央上部に「椅子」と彫られてある。ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載っている。

「それは京店の借家時代に間違ありません」国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』の「国文学年次別論文集 近代4 昭和五五(一九八〇)年」(学術文献普及会編集・一九八二年朋文出版刊)の勝部良子氏の論文「小泉八雲小論 ―小泉節子との結婚を考える―」(『園田学園女子大学国文学科報』第一巻・三月発行)の中で、本書のこの前後の質問・応答部が引用された後に(但し、漢字は総て新字となっている)、

   《引用開始》

 桑原氏は、この富田ツネの証言をある程度確実性のあるものとして、前記のように結婚を明治二十四年二月頃と訂正、明記したのであろう。

 ところが富田ツネは、『富田旅館ニ於ケル小泉八雲先生』という小冊子の中では、「先生が結論されたのは二十三年の十二月」だと言っているのである。この小冊子は、藤井準一郎氏が昭和十一年一月に富田ツネとその主人富田太平から聞き書きをとったものである。現在富田家に保存されてある。

 どちらも八雲松江在住当時から五十六年以上もたってからの懐古談であるから、信憑性に欠けるのは致し方ないことであろう。

   《引用終了》

とあり、この直後に、本書「松江に於ける八雲の私生活」の内容は、『興味本位で、記述に誤りが多いとして、この書に言及したり、資料としてとり上げることを避けている八雲研究家もいる。(『小泉八雲と松江)』八五頁)』と記している。この論文は、小泉八雲とセツの結婚は何時かという、諸研究家の考証を集めている点で、この発表時時点では、よく拾っており、手頃なものではある。さても、私は、長谷川洋二氏の「小泉八雲の妻」の「三 ハーンとセツの結婚の実情」の中の「媒酌人と結婚の時期」の――『結婚の日付』の新暦・旧暦の違いとされる内容(69ページ)こそが――最もスマートにして、妙な勘ぐりのない、納得し得る唯一の答えである――と昔から考えて来ている。是非、長谷川氏をお読みあれかし。因みに、ウィキの「小泉八雲」には、明治二四(一八九一)年一月、『一人住まいのハーンの家に、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子』『が』、『住み込み女中として雇われる』。『二人はすぐに惹かれあい』、『結婚する』とあり、また、ウィキの「小泉節子」には、『同居して約半年を経た』明治二十四年七『月に、ハーンは同僚の英語教師西田千太郎』『と出雲大社近くの稲佐の浜を訪れ』、『約半月』、『滞在したが、ハーンは』二『日目には』、『節子を呼びよせて』、『仲よく一緒に行動しており』、『「住み込み女中」という扱いではなかった。また』、八月十一日『にハーンが友人に出した手紙には』、『節子との結婚を報じている』とある。これでいい、これで。

「臨水亭」当時、ここあった料亭。「百年料亭ネットワーク」の「島根県松江市 臨水亭 不昧公が通った名店 〝宍道湖七珍〟が自慢」の記事に、『明治23』(一八九〇)『年創業。島根県松江市と出雲市にまたがる宍道湖に面している。庭園越しに宍道湖を眺め、スズキやウナギ、シジミといった「宍道湖七珍」を一堂に味わうことができる』。『スズキを出雲和紙に包んで蒸し焼きにする「スズキの奉書焼き」を復活させた店として、島根県の郷土料理を松江で最初に広めた店としても名高い同店。老舗ながらも、ランチは2500円から、夜は6000円~2万円で懐石料理を楽しむことができる。松江の伝統文化を守り継ぐ一方、大広間を使ったジャズコンサートの実施や特産のシジミを使ったカレーなど新しい試みも行っており、「伝統」を守りながらも「新しさ」を融合させた松江の魅力を広く発信している料亭だ。今後も茶の文化や江戸時代からの歴史を取り入れた、新たな取り組みを展開していく』。『建物は、松江藩の御用商人の邸宅を料亭にしたもので、江戸時代は松平家によって藩の御用地として使われていたとされる。2階の大広間の欄間に白菊や雁のくぎ隠しの彫金、庭園には、殿様が立ったまま手を清めることができるよう設計された腰高のつくばいなど、歴史の面影が随所に。茶人で食通としても知られる出雲松江藩の第7代藩主、不昧公こと松平治郷がよく訪れ、正月には必ず立ち寄ったと伝えられている』。『また、近くには国宝・松江城をはじめ、北側湖畔に面した温泉地「松江しんじ湖温泉」や、文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)もこよなく愛し、日本夕日百選の一つである宍道湖に沈む夕日など見どころも豊富だ』とあるが、既に、二〇一九年に破産し、現在、閉業している。このページは保存しておいた方がよいようだ。

 ところが先生にどこか士族のお孃樣を奥樣にお世話したいというお話しが西田先生よりありまして、色々物色した末に、お信の友達に小泉節子さんという士族のお孃樣があり、このお方がよかろうということになり、私もそれがよかろうと同意を致しまして、私方より先生に紹介しました。ご同棲の翌日、私ははじめて京店のお宅に伺いますと、節子樣の手足が華奢でなく、これは士族のお娘樣ではないと先生は大不機嫌で、私に向つて節子は百姓の娘だ、手足が太い、おツネさんは自分を欺す[やぶちゃん注:「だます」。]、士族でないと、度々の小言でありましたので、これには私も閉口致しまして種々[やぶちゃん注:「いろいろ」。]辯明しましても、先生はなかなか聽き入れませんでしたが。しかし士族の名家のお孃さんに間違ありませんので間もなく萬事目出度く納まりました。

〕 節子夫人の手足の發達していたのは、少女時代から父の機業場[やぶちゃん注:「はたをりば(はたおりば)」。]で勞働されためだと思われる。節子夫人が機業場で一女子として働かれたことは、小泉一雄著「父八雲を憶ふ」第三二四頁による。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』である当該書『父「八雲」を憶ふ』(小泉一雄著・昭和六(一九三一)年警醒社刊)の当該ページをリンクしておく。右丁の「三二四」ページの最終行にある。]

 西田先生が表面の媒酌人となつているかも知れませんが實際を申せばお信の世話でした。節子さんは私方にその以前おいでたこともなく、私は御婚禮の翌朝京店にまいつて、初めて節子さまにお會い致して、その後信がお世話したに違いはありません。八雲先生は二月までは私方においででしたから、御結婚は明治二十四年の二月末あたりに間違はありません。それから女中さんが一人見えましたので、お信は私方に歸えりお萬さんはことわりました。

[やぶちゃん注:長谷川氏の「小泉八雲の妻」の「小泉八雲略年譜」の『一八九一(明治二十四) 四十一歳(セツ二十三歳)』に『二月頃、セツがハーンの家に入り、後に結婚するに至ったと思われる。』とあるのと一致する。]

 序に申しておきますが、先生は明治二十四年の正月は私方にてお迎えになり、廻禮には日本式で出かけるというので、新調の紋付、羽織、嘉平次の袴、白足袋、日より下駄と云う出立ちで人力車で巡廻するというのでありました。はじめは世問並に兩下駄を用意するはずでありましたけれども、私はとても高下駄(あしだ)[やぶちゃん注:「(あしだ)」はルビではない。本文である。]では先生はあるけまいと思い、目より下駄を買つておきました。しかるにいざ出發という時、玄關先で下駄をはかせてあげましたが、先生が歩こうとて一足あげられると下駄が拔け落ちて。始末がわるく、結極一間[やぶちゃん注:「いつけん(いっけん)」。]もよう歩けませんので、先生は大不機嫌でありましたが致し方がなく、車夫は催促するし、やむを得ず靴ばきで出られました。

[やぶちゃん注:「嘉平次の袴」嘉平次平(かへいじひら)の袴。明治中期に埼玉県入間郡の藤本嘉平次が創作したところから、この名が付いた。縦糸に座繰糸(ざぐりいと:幕末から明治まで日本で行われた繰糸(そうし)法。鍋で繭を煮て、糸を手繰(たぐ)り、抱き合わさせた生糸を、歯車仕掛けで回転する枠に巻き取ったもの。江戸時代の手引の約二倍の能率を上げたが、器械製糸に押されて衰退した)、横糸に品質の劣る糸を使って織った男物の袴地(はかまじ)。単に「嘉平次」とも言う。画像を探したが、見当たらなかった。

「高下駄(あしだ)」「高下駄」は「たかげた」で、「歯の高い下駄」を言う。「あしだ」はその別称で、感じは「足駄」である。]

 先生は正月の〆飾りが気に入りまして、一月末までその儘にしてくれと賴まれ、餘程永く懸けて先生を喜ばしたことなど懷かしい思い出であります。

〕八雲は富田旅館より郵便局舊官舍、次に油孫の舊宅に移轉し、最後に根岸邸に移轉したとの說があるがこれは誤りで、富田旅館より織原の貸家、最後に根岸邸に移住したことが明瞭となつた。

[やぶちゃん注:【2026年1月20日:追記】たまたま、京店のヘルン旧居をネット上で調べていたところ、「八雲会」の「八雲会の本」の年刊雑誌『へるん』の第59号(2022年刊)のページを見てみたところ、『II ヘルンゆかりの人々・ゆかりの地』に押田良樹氏の『ヘルン第二の住まい—「諸説」に終止符を—』という記事を発見、検索したところ、幸いにも、PDFで入手することが出来た。本書の以上の記載もあった。最後に、決定された――織原氏所有の八雲の借宅位置が示されれてあるのみ、是非、見られたい。その地図に従って、グーグル・マップの航空写真で調べたところ、★この中央の路地の東側に南北に長い住居があるが、ここが、京店の旧八雲の借宅があったところ★である。私が想定していた位置より、松江大橋を越えた、旧富田旅館より、かなり西よりであった。因みに、前で考証した、嘗つて「京屋小路」にあった豪商京屋萬五郎の大店「京屋灘座敷」(※航空写真でここ)と極めて似ているように見えるが、そこは、西に百メートル強離れた別な場所であるので、注意されたい。

 なお、この左下には、切り絵があるが、当初、松江の正月の〆飾りなのかと思ったが、どう考えても、そうは見えない(そのようなものが調べても見当たらなかった)。水面の波か、雲状紋を感じさせる装飾を施した紙燈籠を、横倒しにしたように見える物で、全く、この手の物に就いては、私にはお手上げである。「ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載らない。識者の御教授を乞うものである。【二〇二六年四月十二日追記】本日、未知の方から、この、私が、「描いた対象が何であるか判らない」と投げてしまった切り絵について、メールを頂戴した。しかも、この方の姻族の中には、『学生時代、小泉八雲に習った事がある』方がいらっしゃる由をお伝え下さり、私の注をお読みになって、その方の奥方と御母堂に、「この挿絵について何が描かれててあるのか?」を訊ねてみられたところ、『二人の答えは花器なのではないかとの事でした。』とあって、『とりあえず、何かヒントになればとメールしました。』とのことであった。私の一つ年上の連れ合いに見て貰ったところ(ヒントを与えずに黙って見せた)、やはり、「これは花器だと思う。水紋があるから。」と答えた。――ともかくも、御連絡を下さった方と御家族の方々に心から感謝申し上げるものである。或いは、追加の御報告が到来するかも知れない。その時は、ここで更に追加報告をする。

〔桑原〕 あなた方は八雲先生と七月間も一緖においでたのでしたが、大體に先生はどんな人だとお考えでしたか、一般的にお話し下さいませ。

〔富田〕 先生は實際に日本を愛しておられました。また非常に情深い人でありました。先生が私方にお着きになりまして間もなく、女中お信が時々眼が痛み且つ眇目[やぶちゃん注:「すがめ」。]であつたのに同情されて、自ら醫者を訪問して自費で療治を賴まれましたことや、荒川さんが日本の藝術家の常として生活の不如意なのに同情して、四斗樽を贈つてこれを慰められましたことがあります。また神社佛閣を崇敬して、何圓、何十圓の寄附をされました。何れも同情の現われでありましよう。

 また民謠、童話、盆踊等に深く興味をお持ちで、度々それを聽いて深く感動されたように見受けました。私方の前通りに往來する金魚賣り、花賣り、鮮魚賣り等の呼聲なども、何時も先生は耳をすまして聽いておられました。神社、佛閣、傳說地というものは隨分澤山見物に行かれましたが、同行は大概西田先生でありました。

 宿でも學校よりお歸りになると、例の浴衣に着換えて何か絶えず書き物をなさつておりました。隨分書換えをなさる方で、書換えの紙片が澤山ありましたけれど、あれ程の偉いお方とは知りませんから、その反古[やぶちゃん注:「ほご」。]は皆捨ててしまいまして、今は一枚も殘ついぇおりません。またご鄕里の寫眞や繪ハガキもトランクの中に一束もありましたが、ご所望すれば頂戴も出來ましたのに、何にも先生より貰つておかなかつたことを私共は、今に殘念に思つております。

 以上で、先生のことを書いたこれ迄の害物に漏れているのではないかと思うことを全部御話し申した積りでございます。

〔桑原〕 まことに本日は突然お邪魔を致し、あなた方ご兩人お揃いの席で、五十年も前のことを互にその記恒を織りまぜてお聽かせ下さつたことに對して、私は深甚の敬意と感謝を表する次第であります。なお、ご兩人の寫眞をいたゞきとう存じます。

2026/01/14

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」の続きを昨日から公開しようと思っているのだが⋯⋯

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」の続きを昨日から公開しようと思っているのだが、文中に出る「京店」(きょうみせ)という地域の歴史的検証をするのに、非常に時間が掛かっている。私は、自分がよく判らないことがあると、とことん、やらないと気が済まないためである。今、暫く、待たれたい。

『柴田宵曲 續妖異博物館 「卒塔婆の血」』を大改訂した

『柴田宵曲 續妖異博物館 「卒塔婆の血」』

2017年の古い記事であるが、「✖」でフォローして下さっているタチアナ@TatjanaMadurezさんから、「不詳」としていた注部分の情報を昨日受け、未明に起き、やっと修正した。昨日、夕方、追記注を添えようと思ったのだが、Unicode導入以前のものであったから、全体の正字不全が気になり、さらに、引用した古文作品の句読点が、どうも気に入らず、二時間ばかりやらかし、それでも終わらず、例によって、午前二時に起きて、やっと、思う通りに、やり終えた。

2026/01/13

立原道造草稿詩篇 コツプ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  コツプ

 

すかして見ると町がある

夕日の空のにほふ小さな町

傳書鳩たちが風に飛び

風にゆられて虹もある

 

[やぶちゃん注:注記に、『昭和七』(一九三二)『年』八『月』三十一『日・畠山重政宛書簡に「四行詩篇」中の一つとして紹介、制作時付記「一九三七・八・一〇」を持つ。』とあるのだが、この「一九三七」というのは、どう考えてもおかしいので、底本の「立原道造全集」の「第二卷」の当該書簡を見たところ、当該部には(右丁下段)、『一九三二、八、一〇』となっていた。誤記か誤植である。

立原道造草稿詩篇 夕方

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  夕方

 

もう夜なのかといつて

瘠せた電車が

町を駈けまはる

おまへは魚のやうに遲く

 

立原道造草稿詩篇 問答

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。ここから、注記で言う〔A・IIグループ〕となる。引用すると、『〔A・IIグループ〕は詩集『さふらん』所収作品の初』(はじめ)『、二稿(八篇)を含む四行詩群で、詩群内の序列は、原型の「詩歌」発表が最も早い「問答』を頭とし、他を季節感に排列した。制作時は『さふらん』収録作品に拠り、〔A・I 〕に続き7、8月と推定する。』とある。詩集「さふらん」は未完詩集。私のさふらん (全)   立原道造」を見られたい。

 

  問 答

 

何しに僕は生きてゐるのかと

或る夜更けに

一本のマツチと

はなしをする

 

[やぶちゃん注:注記によれば、歌誌『詩歌』(十三卷第二號)の『昭和七』(一九三二)二『月号発表の口語歌の四行詩化作品』とある。調べたところ、坪井秀人氏の論文「立原道造  ―<零>の詩法―」(『名古屋大学国語国文学』二〇二三年九月発行・「名古屋大学学術機関リポジトリ」のここでダウンロード可能・PDF)で、同誌の初出形を確認出来た。二首並列なので、そのまま示す。

   *

 何しに僕は生きてゐるのかと或る夜更に一本のマッチと會話(はなし)をする

 人々は誰も僕に觸れて來ない!遠くに夕方を歌ふ子供たちがゐて

   *

まず、第一首は以上の詩とは異なる箇所がある。「夜更け」が「夜更」、「マツチ」が「マッチ」、「話」が「會話」であってルビで二字に対して「はなし」と振っている点である。第二首は、「!」は左方向に斜めとなっている。坪井氏も辛口に『いずれも彼の作歌活動のピークである昭和七年のもの。若い立原には酷だが、多かれ少なかれここに見られるような幼稚さと甘えとが彼の短歌に一貫している』と述べておられる。序でに、この二首に並べて、全くの同時期の『校友會雜誌』第三三三號・昭和七年二月掲載の一首も示す。

   *

 靑空は靑空だけのもの。泣いても笑つてもくれやしない。すきとほつてる

   *

参考までに、この後に引かれる二首も紹介しておく。

   *

 行くての道、ばらばらとなり。月、そののめに、靑いばかり。

 花はらはら咲いて、靑空、木の間に光つた。夏、近づいた風のにほひ

   *

前者は『詩歌』の第十三卷第五號(昭和七年五月)で、後者も同雑誌の第六號(昭和七年六月)に載ったものである。

 なお、私は生理的に短歌が極めて嫌いであるからして、敢えて、注で、先行作品を示した。

立原道造草稿詩篇 單語

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。なお、そこで解説している〔A・𝙸グループ〕 はここまでである。改稿部があるので、原形をまず、示し、修正を後にする。]

 

【初出形】

 

  單 語

 

乳母車のなかの赤ん坊

にほひあらせいとう

トランプよ 童話よ

ボン・ソアル⋯⋯⋯

入道雲が空でキスをする

 

 

【修正形】

 

  單 語

 

乳母車のなかの赤ん坊

にほひあらせいとう

トランプよ 童話よ

ボン・ソアル⋯⋯⋯

入道雲がキスをする

 

[やぶちゃん注:「にほひあらせいとう」アブラナ目アブラナ科エゾスズシロ(エリシマム)属品種ニオイアラセイトウ(匂紫羅欄花)Erysimum × cheiri(シノニム: Erysimum cheiri )。Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「ニオイアラセイトウ 匂紫羅欄花」のページに拠れば、花期は四~七月で、高さは十五~八十センチメートル。二年草、又は、亜低木であり、『外来種』で『ギリシャ原産』とあり、『キアラセイトウともいわれるが、多数の園芸品種があり、花色は多い。花に強い芳香があるのが特徴』。『葉の毛状突起は2岐、まれに先に少数の3岐の星状毛が混じる。茎は直立、不分枝又は上部で分枝、亜低木のときは基部が木質になり』、『根生葉は2年草のときはロゼットになり、果時までに枯れ、茎葉に似る。茎葉は葉柄がある。葉身は倒卵形~倒披針形、長さ422㎝×幅312㎜、基部はくさび形~漸尖形、縁は全縁~波状縁。総状花序は果時にかなり長くなる。果時の花柄は散開状斜上~斜上し、細く、果実より狭く、長』さ『713㎜。咢片は長円形、長さ610㎜、側対の基部に袋が無く又はわずかに有る。花弁は橙色、黄色、褐色、赤色、紫色、又は白色、広倒卵形~ほぼ円形、長さ2035㎜×幅 510㎜、爪部は長さ712㎜、先は円形。中央の花糸は長さ79㎜。葯は線形、長さ2.53.5㎜。果実は斜上、狭線形、真っすぐ、でこぼこにならず、長さ310㎝× 幅27㎜、広い隔壁がある(latiseptate)』(ラティセプテート:隔壁に平行に扁平なもの)『か円柱形、柄は無い。バルブは明瞭に中脈があり、外側に軟毛があり、毛状突起は2岐、内側は無毛。胚珠は子房に3244個。花柱は円筒形又は類円錐形、細く、長さ0.54㎜、軟毛がある。柱頭は強く2裂し、裂片は幅よりかなり長い。種子は卵形、長さ24㎜×幅1.53㎜、翼は連続又は上部につく。2n=12。』とある。リンク先の花の写真を見られたい。

「ボン・ソアル」Bonsoir。フランス語で「(夕刻から寝るまでの間の挨拶である)今晩は・さようなら・お休みなさい」。]

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その3) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅡ)

[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁四行目から。]

 

〔桑原〕 先生が市內寺町の龍昌寺にある石地藏尊の彫刻に感服し、その彫刻者は當地の有名な彫刻家荒川龜齊通稱重之輔の作だということがわかり、龜齊を招請して先生がもてなされたということですがどんな風でしたか。

[やぶちゃん注:「龍昌寺」現在の松江市寺町(てらまち)にある曹洞宗の白雲山龍昌寺(りゅうしょうじ:旧富田旅館の大橋川を挟んだ対岸直近に当たる。グーグル・マップで同寺の敷地内にある「小泉八雲ゆかりの羅漢像」をポイントした)。「曹洞宗 島根県第二宗務所」公式サイト内の同寺の解説が、非常に詳しい。冒頭の足利時代から江戸時代までの経緯と、秘仏である宍道湖から出た観音像の解説は、各自でお読み頂き、ハーン関連の手前から引く。『毎月17日が観音様の功徳をたたえる観音講の日である。大正はじめから昭和はじめにかけては、観音供養が最も盛んに行われた。のぼりや五色の吹き流しがはためく境内には、近郷近在からの参拝客があふれ、沿道には露店がずらりと立ち並んだという』。『そのころ、かつて荒川亀斎に刻ませた観音木像五体を寺に置き、その木像をくじ引きで当てた講員が家に持ち帰り、向こう一年間安置し、家運の繁栄を祈った』。『ラフカディオ・ハーンが、初めてこの寺を訪れたのは、松江赴任翌月の明治23928日であった。ハーンは庫裡前に立つ石地蔵に目をとめると、しばらくは立ち去ろうともしなかった』。『人の霊魂を浄土に導き、とりわけこどもには慈愛を注ぐという地蔵のいつくしみの表情が、高さ1メートルばかりの石像に、見事に刻まれていたからである』(私は、八雲はこの記憶のない母ローザ・カシマチの面影を感じていたものではないか、と思う)。『当時、松江市田町(のち白潟本町に転住)で瑪瑙(めのう)商を営んでいた長岡九右衛門が、全年8月に亡くなった娘の菩提を弔って、墓石がわりに建立したものであった』。『長岡家は代々、玉石の細工師で、亀斎が彫刻に用いる瑪瑙、水晶を調達していたので、亀斎はよく同家に出入りし、九右衛門やその子茂一郎とも親しかった』。『たまたま、地蔵が石工によって刻まれているのを知った亀斎が、「自分にやらせてくれ」と、顔の部分だけノミをふるったと伝えられている』。『この地蔵は昭和20年ごろまであったが、松江地方を襲った台風で、東部』(ママ。頭部の誤植)『が欠け落ちたので、同234年ごろ亀斎地蔵の写真を参考に、和田見町の石屋で刻んだのが』、『いま』、『ある地蔵である』。『初代地蔵が機縁となって、ハーンは同僚西田千太郎の案内で、横浜町の亀斎宅を訪れ、その腕前と名人気質に傾倒した。ハーンは龍昌寺にある地蔵様と同じような彫り物を期待して、亀斎に彫刻を頼み、黒柿を使って高さ30センチばかりのが出来上がったが、これはあまり気に入らなかったという』。『龍昌寺門内の道路わきに、聖者十八羅漢の石像が、不動明王石像を囲んでおかれて居る。ハーンはこの羅漢の作りにも関心して、訪れるたびに前にたたずんだという』。『昭和6年、松江を訪れた民芸運動の創始者柳宗悦も、この羅漢を見て「すばらしい出来栄えだ。なかでも二体がよく手元に置きたいくらいだ」と語っている』。『龍昌寺の過去帳に「当寺の羅漢は、天明6年(1786年)7月に建立を思い立った。しかし公儀から差し止めがかかった。石屋夫右衛門の作である」と書かれている』。『松江の石屋仲間では別に、「松江から江戸へ出て修行した石工江戸勝の作である」との言い伝えがある。夫右衛門と江戸勝が同一人であったか、どうか明らかではない』。『不動明王は霊験あらたかな仏として信仰され、不動明王が好まれるというおもちゃの刀を供えて願い事をする人が跡を絶たない』。『本堂正面の延命地蔵は名工石谷為七の作と伝えられている』とあった。なお、先の地図の左のサイド・パネルのここで、不動像の背後に羅漢像の写真を見ることができ、また、個人ブログと思われる「お寺の風景と陶芸」の「龍昌寺 (島根県松江市) 小泉八雲ゆかり」」に添えられたこの画像では、前の写真の向かって左側の羅漢像の九体を確認出来る。更に、寺の名は記されていないが、寺町と石仏の話が、私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (四)』の中に、以下のように出てくる。

   *

 天神町と並行に寺町が走つてゐる。この町の東側には寺院がずらりと並んでゐる――瓦を戴ける御所風の土塀で固めた表側に、一定の間隔を置いては、堂々人を驚かすやうな山門がある。この長く續いた塀の上へ高く聳えてゐるのは、立派な反(そり)を打つた、重々しい輪廓をしてゐる灰靑色の屋根である。こ〻では凡ての宗派が仲よくして隣合つてゐる――日蓮宗、眞言宗、禪宗、天台宗、それから眞宗までも。眞宗は神さまを拜ませないので、出雲ではあまり行はれない。寺の境內の後には墓地があつて、その東にまた他の寺々があり、その先きにもまたある――佛敎建築の集團が、小園細屋と交つて、廢巷斷路の迷宮をなしてゐる。

 今日も寺院を訪ねたり、金の後光を負ふて金蓮華の夢中に安坐せる古い佛像を眺めたり、珍らしい御守を買つたり、墓地の彫像を調べたりして、例の通り數時間を有益に費した。墓地では來てみる價値のある、夢をみてゐるやうな觀音や、徴笑を含んだ地藏を殆どいつも發見する。

   *

この「徴笑を含んだ地藏」が龍昌寺のものであることは、間違いあるまい。

「荒川龜齊通稱重之輔」(あらかわきさい 文政一〇(一八二七)年~明治三九(一九〇六)年)は、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『島根県松江市横浜町出身の彫刻家で』、『名は明生、通称は重之輔』(じゅうのすけ)。『木彫りの彫刻等が有名であるが、機械器具の発明家でもある』。『幼少期から彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家だった。彫刻だけでなく、日本画、国学、書道、金工などを幅広く身につけた。1893年』(明治二六年)の『シカゴ万博に「稲田姫像」を出品して優等賞、1900年パリ万博に「征韓図」を出品して銅牌を受賞した。1890年小泉八雲と出会い、その後も交流が長く続いた』。菩提寺である松江市新町(しんまち)の『洞光寺に葬られた』とある。寺はここで、龍昌寺の南方で、近い。また、「小泉八雲記念館」公式サイトの「企画展 八雲が愛した日本の美 彫刻家 荒川亀斎と小泉八雲」には、『荒川亀斎(初代)は1827425日、松江の雑賀横浜にて木工職人荒川茂蔵の子として誕生しました。名は明生、通称名は重之輔。亀斎は幼少の頃より彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家でした』。『18908月に松江に赴任した小泉八雲は、散歩中に出会ったあるお寺の石地蔵に魅了されます。それは寺町の龍昌寺にある慈愛に満ちた地蔵で、八雲はすぐにその作者を尋ね、「荒川亀斎」という名を知りました。翌日、さっそく亀斎の工房を訪ねた折、その腕前と名人気質に惚れ込み、二人は美術論をかわし』、『意気投合したといいます(山陰新聞)。その後も、八雲は』、『亀斎に作品を注文し、この彫刻家を世に紹介しようと、いわゆる作家のプロデュースを買って出ます。二人の関係は、八雲の著作や親友で島根県尋常中学校の教頭西田千太郎の日記と西田宛書簡、当時の山陰新聞などで、その交流を垣間見ることができます』。『中でも、亀斎が八雲に見せた「気楽坊人形」は、作品「英語教師の日記から」(『知られぬ日本の面影』所収)に詳しく紹介されています。』(私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語敎師の日記から (十六)』を見られたい)『これを見て大変よろこんだ八雲のもとに、亀斎は「気楽坊」を模した人形を作成し贈呈しました(小泉八雲記念館蔵)。また、八雲は、1893年のシカゴ万博への出品を勧め、アドバイスもしています。この万博で「稲田姫像」(出雲大社蔵)が優等賞を獲得し、亀斎は彫刻家として不動の地位を築きました』とある。]

〔富田〕 先生が荒川さんと西田、中山の兩先生を私方の二階へ招待して日本料埋のご馳走をなさつた事がありましたが、その時に、先生は私共に向つて「日本では客座敷で御客及び亭主のすわる席次があるようだが亭主として自分はどこへすわるのが本當か」と尋ねて西田先生が「あなたは入口に近いところにおすわりなさい」といわれそこにおすわりでした。さて先生は日本流に箸を使いたいにも自由にならず、例によつて握り箸で、ちようど日本の三、四歲の子供のように子供のようにして馳走を上りましたが、その上り方がまことに妙でして初めに吸物を握り箸で片付けて椀を膳の外にやり、次ぎ次ぎのご馳走も、食べては直ぐさま皿でも椀でも膳の外に並べなさるため、後では膳の上には何物もないこととなりました。他の人々は日本流に吸物、燒物、酢の物、剌身とどれも少しづつ食べてその間に酒を飮んでお出ででありましたが、何分先生は近眼でその邊がわからず、少ししてから先生も氣がついて大笑いになつたことがありました。なおその後先生は荒川さんに高さ七寸許りの木彫の笑顏の童子を彫らせて大切にして眺めておいででした。

〔桑原〕 先生はお宿の二階八疊と二疊の二間を居間としておられたようですが、冬期の暖房方法はどうなさいましたか。

〔富田〕 先生は大の寒さ嫌いでして、松江の事はなんでもかんでも氣に入りましたが、雪の降ることはまことにお嫌いでした。私方には當時ストーブは勿論なく、先生は炬燵は嫌いでしたから、ただ數個の火鉢に取圍まれておられましたが、それでも寒氣が餘程身に浸んで困られたものと察せられました。

〔桑原〕 先生は冬期感冒に罹られたことなどはありませんでしたか。先生が一度胃膓病に罹られ、田野醫師が見舞われたと或る本にありますがほんとうですか。

[やぶちゃん注:「田野醫師」「山陰中央新報デジタル」の「さんいん偉人学」の「島根県近代医学の草分け 田野 俊貞(松江市で医院開業)」「医学教育や衛生普及に尽力」に以下のようにある(読みが丸括弧で本文に切れ切れにあるので、必要と判断したものを一フレーズで使用し、それ以外はカットさせて頂いた)。

   《引用開始》

 田野俊貞(たのとしさだ)(1855~1910年)[やぶちゃん注:安政二年~明治四三年。]は、松江市で医院を開業しながら医学生の教育や公衆衛生の普及に尽力し、島根県や松江市医師会のリーダーを務めるなど「島根県近代医学の草分け」と呼ばれています。

 俊貞は現在の栃木県足利市の庄屋(江戸時代の村役人)の家に生まれました。13歳の時から翻訳書で西洋医学を研究し1871(明治4)年、東京大学医学部の前身である大学東校(とうこう)に学びます。

 77(同10)年、名古屋市の愛知県病院(現在の名古屋大学医学部)に勤務。ドイツ語が得意で、外国人医師の通訳も務めました。

 後に外務大臣や逓信(現郵政など)大臣兼鉄道院総裁など国政で活躍し、山陰本線の開設に尽力した後藤新平が医師として勤務しており、俊貞は生涯、親交を結びます。

 栃木県栃木病院長などを経て84(同17)年、島根県に採用され、島根県医学校と県松江病院(松江赤十字病院の前身)が開設されると病院長に就任します。この学校と病院は、西洋医学を学ぶ医師の養成機関でした。

 しかし、県の財政難などによって松江病院が廃止されると86(同19)年に松江市苧町(おまち)[やぶちゃん注:旧富田旅館の西直近のここ。]で田野医院を開業し、間もなくして旧苧町病院の土地、建物を買い受けて医院を拡張しました。

 その後、籠手田安定(こてだやすさだ)県知事の許可を受けて解剖を公開します。

 1907(同40)年に松江市医師会が設立され、俊貞は副会長に選ばれました。09(同42)年に島根県医師会が設立されると、副会長に選任され島根県医学界の発展に尽くします。

 また、長崎で自ら被爆しながら被爆者の治療に生涯を捧げた永井隆の父親寛(のぶる)が田野医院で修業し、医師に合格しています。隆はこの病院の一室で08(同41)年に産声をあげます。隆が被爆後も病床から手紙のやりとりをするなど、親交がありました。

 文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とも親交があり、松江市の水道設置に貢献(こうけん)したスコットランド生まれの技師バルトンの招請にも努力しました。

 医学界で一層の活躍が期待される中、俊貞は10(同43)年、55歳で病死します。

 旧田野医院(田野家住宅)は、洋風建築の様式を兼ね備えた木造2階建て。松江市内で最古級の病院建築の遺構で、島根県の近代医学の草創期を支えました。この建物は2013(平成25)年、所有者から松江市へ寄付され14(同26)年、市有形文化財に指定されました。

   《引用終了》]

〔富田〕 先生は極めて壯健なお方でして、私方におられた間に病氣をなされたことは一度もなく、衛生には餘程平常心を留めておられました。從つてお醫者のお出でたことはありません。一例を申すと外出よりご歸宿の時も、宿でお書き物のすんだ後でも、必ず手を洗い含嗽[やぶちゃん注:「うがい」。]をなさいました。

〔桑原〕 先生のお食事はどんな風でしたか。

〔富田〕 先生は朝は牛乳と數個の生卵で濟まされました。晝と晚との二食はお剌身、煮付、酢の物、燒魚等なんでもお上りでした。例の握り箸で召上りますので、魚の骨は取つて置きました。その食べ方は妙なもので、まず膳の上にある副食物卽ちお菜の方から、それを一皿一皿次ぎ次ぎと悉く平げてそれから卷鮨とかご飯だけを食うというやりかたでした。煎茶も飮まれましたが何時も大槪は水を飮まれました。先生は乾物でも干魚でも萬事好き嫌いと云うことは餘りありませんでしたが、ただ糸蒟蒻だけは嫌いで「私の國コンナ蟲いてそれを思い出すからいやだ」といつて食べられませんでした。

 生卵は一度に八、九個も食べられました。また酒は晝と晩日本酒一本(一号八勺入)を飮んでおられまして、洋酒を注文したことは覺えません。珈琲も飮まれせんでしたが、ただ煙草だけは大好物でして、葉卷と刻煙草[やぶちゃん注:「きざみたばこ」。]は絶えず吸つておられました。刻煙草は日本の煙管[やぶちゃん注:「きせる」。]を使うのですが、その數がだんだんふえて數十本となり、掃除は大槪お信が引受けていました。葉卷は橫濱から大箱のものを取寄せておられました。

[やぶちゃん注:実は、ここ(「15」ページ)より二ページ前の「13」ページ下方には、金津氏の切り絵で、皿に載った食パン半斤、スプーン附きの把手のあるスープか、コーヒー・カップらしきもの(受け皿附き)があり(個人的にはカップが広過ぎで、内径幅から前者にしか私には見えないのだが)、その左下には、ミルク入れらしく見える物がある。しかし、例えば、以上の記載とも、当該位置の記載とも、全く合わない代物で、ちょっと頭を傾げるを得ない。なお、この切り絵は、ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載らない。その代り、これまた、この「15」ページには、左から右上方に向かって、木製(総て檜製か)の把手の突き上げた手桶・風呂椅子・湯桶が切り絵が配されてある(手桶と湯桶の箍(たが)は総て太い繩である)。これは、前掲ブログにある。これは、本文の少し先で、桑原氏が富田ツネにハーンが就寝・入浴する際のことを問うたところでエピソードが書かれる。

「私の國コンナ蟲いてそれを思い出すからいやだ」ここで言う「蟲」に就いては、サイト「マグミクス」の「卵の食べ方がほぼロッキーだった『ばけばけ』ヘブンの朝食 史実を見るとそんなに「盛ってない」かも」に、『ちなみに、糸こんにゃくが虫に見えて食べられないというのも、実際のエピソードに基づいています。ヘブンは「私の国にこういう虫が!」と言っていましたが、実際は1887年から2年間滞在した西インド諸島の仏領マルティニーク』(アンティル・クレオール語:MatinikMatnik・フランス語:Martinique)『島』(ここ)『にいた虫を思い出していたそうです。』と記されてあった。これは、直ちに、平井呈一氏の「仏領西インドの二年間」の「下」で一章を作る「ムカデ」を想起させる。当該原本の当該篇は、「Internet archive」のここから視認出来る(‘ Two Years In The French West Indies ’の“BÊTE-NI-PIÉ.”)。また、日本語訳は国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集 第二巻」昭和六(一九三一)年第一書房刊(保護期間満了)の「佛領西印度の二年間」(大谷正信譯)の、ここの「百足蟲」で読める。但し、マルティニーク島に棲息するムカデが如何なる種なのかは、調べ得なかった。⋯⋯いんにゃ! しかし!⋯⋯ムカデと糸蒟蒻は――似てないぞッツ!?!――ハーン先生!!!

 先生は橫濱で卷鮨をあがつたことがあつて、それが餘程うまかつたと見えて、私方へお出での日より、每日のように晝晩共に必らず、巻鮨をさしあげましたが、後ではお飽きになり、普通のご飯を上げました、またフライ・エツグスの製り方は先生に敎わり每々差上げました。

〔桑原〕 洋食屋は當時鎌田才次と申すものが一軒ありましたが、先生は鎌田より洋食をとつて召し上つたことがありましたか。

〔富田〕 洋食は一切上らなかつたので鎌田から洋食を取寄せた覺えはありません。一切和食でした。從つてナイフやフオークをお用い[やぶちゃん注:「おもちい」。尊敬語。]のことはありませんでした。

〔桑原〕 先生は宿で牛肉は上りませんでしたか。

〔富田〕 宿の老人が牛は四ツ足と申して、昔から室の內に入れることを嫌いますので、先生も納得して牛肉は家の內に入れませんでした。

〔桑原〕 先生の宿泊料は當時いくら位でありましたか。

〔富田〕 先生來着當時の通辯眞鍋さんとの談判でございましたが、荒方[やぶちゃん注:「あらかた」。「だいたい」の意。]の約定は、朝は牛乳と卵、晝と晩とは卷鮨に副食物の賄[やぶちゃん注:「まかなひ(まかない)」。]で、一切をこめて一日が金參拾錢であつたと思います。當時の三十錢は今日相場にしては少なくとも十倍の三圓に當ります。今日と比較しますと萬事物價の相違はただただ驚くばかりであります。

[やぶちゃん注:以上の「參拾錢」だが、「Yahoo!JAPAN 知恵袋」の『朝ドラ「ばけばけ」の時代、10円は今の価値で幾らになりますか?』に対し、「閻魔の代理」さんが、答えているのが、よい。部分引用する。

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部の改行を続けた。]

小泉八雲が来日したのは明治23年です。そのころの人々の給料をウェブサイトで調べてみました。当時はインフレが著しかったようで、5年もすると給料が上がっていたようです。

明治23年当時

巡査初任給 月額6円(5年後には8円)

小学校教員初任給 月額5円(5年後には8円)

東京の大工(割と高給) 日給50銭(5年後には54銭)

小泉八雲(松江中学講師)月給100円(相当な高給)

★ここから推測すると、明治23年時点の人々の給料を現代の金額に換算するにはおおむね4万倍ぐらいするのが適当で、5年後の明治28年時点の給料を現代に換算すると3万倍ぐらいするのが適当だと判断します。つまり当時の10円は明治23年ならば40万円、同28年ならば30万円ぐらいが目安ではないかと考えます。

   《引用終了》

なお、この「17」ページには、金津氏の絵馬型のが、切り絵で載る。上方左右に、形の異なる菊花様のものが配され下方には、ひらがなの「め」を右、左でその反転したものが描かれている。私は、神社の、この手のものには全く疎いので、こう説明するしかない。ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載っているので、この装飾の意味が判る御仁は、是非とも解説して戴けると、非常に助かる。]

〔桑原〕 八雲先生が借りておられたあの廣大な根岸邸の家賃が、僅か月三圓半と伺いますから當時は萬事安かつたものです。就眠とか入浴というようなことはどうでしたか。

〔富田〕 寢具はベツトがありませんので、布團を高く重ねてこれを代用し暑い時は蚊帳[やぶちゃん注:「かや」。]を釣りましたが、先生が初めての時は立つたままで蚊帳に出入りされましたのにはおかしくもあり驚きもしました。

 毎日入浴されましたが、風呂から出られますといつも冷水にかかられました。湯は微温が好きでしたが、或る日湯加減の特別熱かつた時に「地獄」「地獄」と叫ばれたことは今に一口話[やぶちゃん注:「ひとくちばなし」。]になつています。

 先生が便所に行かれる光景がこれまた實に奇觀でありまして、便所へ何時もの如く葉卷をくわええ行かれるのはよいとして、どういうものか帽子を冠つて[やぶちゃん注:「かぶつて」。]入られました。

 先生は洋傘やスケツキは持つておられなかつたのでご使用のことはありません。雨降りの時は人力車を呼んで行かれました。ネクタイは非常に狹い黑いリポンか紐に限られていました。

 

2026/01/12

アルゼンチンで私の鈴木しづ子の俳句と批評が引用された書籍が完成!+ブログ・アクセス2600000突破記念

地球の反対で素敵な若い女性で博士号を持つ人に私の「鈴木しづ子」の電子化注が役に立った。私が遂に、はっきりとしたユビキタスの一人として真の「知的 Homo sapiens 」となった瞬間であった。Facebookで鈴木しづ子論の梗概と私への謝辞を贈られた。そのスペイン語と英文で書かれた文を以下に転載する。私の姓名のリンクは私のFacebookである。なお、昨夜、私のブログが、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、二百六十万アクセスを突破した記念ともする。


   *


Los haikus de Shizuko son una puerta abierta al final del pasillo: te dejan entrar sin invitación a una casa sin presencias. Allí, todas las cosas delatan el relato de una morada. Hay una figura implícita: alguien ha estado allí, ha ordenado su intimidad en el espacio y ahora es una ausencia revelada en la disposición de los objetos. Un caqui mordido, platos sin lavar y flores sin arreglar. Cosas así dan cuenta de las desventuras de un amor, de un sufrimiento, del frío que destempla a los cuerpos amanecidos después de largas noches de baile y Neverland.

Entre las líneas de ese relato de las cosas hay otro: una especie de pulso que sugiere la continuidad vital de una ausencia concreta. Un tipo de ausencia que ha resultado imprescindible para resistir a su tiempo. Pam Pam pareciera ser el reverso de La presa de Ōe: debe olvidarse de sí misma para sobrevivir al círculo que la observa, que la toca y la consume. Un yo desvanecido tras los ojos de una mujer que persiste en el precarizado trabajo sexual por tan solo dos huevos hervidos que le garanticen una noche más en la vida.

***

Shizuko’s haiku are like an open door at the end of a hallway: they allow you to enter, uninvited, into a house without presences. There, every object betrays the story of a dwelling. There is an implicit figure: someone has been there, has arranged their intimacy within the space, and is now an absence revealed through the disposition of things. A bitten persimmon, unwashed dishes, flowers left untended. Such things bear witness to the misfortunes of love, to suffering, to the cold that unsettles bodies at dawn after long nights of dancing and Neverland.

Between the lines of this narrative of things, there is another pulse: a kind of rhythm that suggests the vital continuity of a specific absence. A type of absence that has proven essential in order to endure its time. Pam Pam seems to be the reverse of Ōe’s The Catch: she must forget herself in order to survive the circle that watches her, touches her, and consumes her. A self dissolved behind the eyes of a woman who persists in precarious sex work for nothing more than two boiled eggs that might guarantee her one more night of life.

***

I would like to thank 藪野直史 for providing me with the original haiku and their critical commentary, which were essential for the translation of the essay I have written.

   *

2026/01/11

立原道造草稿詩篇 眞晝

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]

 

【初期形】

  眞晝

七月の微風は

水繪具の朱のにほひ

 

うるんで碧い少年の視線を

人工的に雲ある空を

しづかに晝が流れて行く

 

 

【修正形】

   眞晝

七月は

水繪具のヴアミリオンのにほひ

 

うるんで碧い少年の視線を

人工的に雲ある空を

しづかに晝が流れて行く

 

[やぶちゃん注:「ヴアミリオン」“Vermilion”は「etymonline」に拠れば、『「鮮やかな赤色、朱色の色合い」を意味するこの言葉は、14世紀中頃に中世英語や古フランス語のvermailvermeilから来ています。これらは11世紀の古フランス語で「鮮やかな赤、緋色、クリムゾン」を指していました。さらに遡ると、後期ラテン語のvermiculus「小さな虫」、特にクリムゾン染料が得られるコチニール虫を指していました(kermesと比較)。古典ラテン語では「昆虫の幼虫、イモムシ、ウジ」を意味し、vermis「虫」の縮小形(vermi-を参照)です』。『名詞として英語に取り入れられたのは1590年代で、「鮮やかな赤色、朱色の色合い」を指します』とし、『13世紀後半、vermiloun「辰砂、自然に存在する硫化水銀; 粉末にした辰砂から作られる赤い染料」は、アングロ・フレンチおよび古フレンチのvermeillon「赤鉛、辰砂、(化粧品)ルージュ」(12世紀)から派生し、vermeilvermeilを参照)。形容詞としては「辰砂の色のもの」として、1580年代に使用された。』とあった。英文の色見本・色コードのサイトの当該ページをリンクしておく。なお、解説中の『コチニール虫』とは、英語の“Cochineal”で、有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ(介殻虫)上科 Coccoideaコチニールカイガラムシ科コチニールカイガラムシ属コチニールカイガラムシ Dactylopius coccus を指す。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『アメリカ大陸原産で、特にメキシコ原産とされる。別名、エンジムシ(臙脂虫)』。『メスの成虫の体長は3ミリメートルほど。オスはその約半分』である。『メスは無翅で褐色の貝殻状をしており、ウチワサボテン属のサボテンに寄生して枝に固着している。一方、オスには翅があり敏捷に動く』。『なお、一部の文献で同じ「エンジムシ(臙脂虫)」の名でコチニールカイガラムシとラックカイガラムシ(東南アジア原産)』(カイガラムシ科ケリア属ラックカイガラムシ Laccifer lacca のオス)『を混同していると指摘されており』、『区別が必要とされる』。『染料として利用するのはメスである。古くはマヤやアステカ、インカ帝国などで養殖され、染色用の染料に使われてきた。野生のサボテンに寄生しているものを箒(ほうき)、刷毛(はけ)、ブラシなどで布の上に落として収集していたが、乾期と雨期がある地方では』、『雨期に収穫量が減少するため』、『人工飼育されるようになった』。『虫体に含まれる色素成分の含有量が多いため、今日色素利用されるカイガラムシの中ではもっともよく利用され、メキシコ、ペルー、南スペイン、カナリア諸島などで養殖され、染色用色素や食品着色料、化粧品などに用いられている。また1718世紀には人気の医薬品(ダフィーのエリクサー)』(“Daffy's Elixir”:当該ウィキに拠れば、『元々は胃薬として開発され、時代が下るにつれて万能薬として扱われた薬品のこと。18世紀から 19世紀にかけてイギリス、アメリカで人気の治療薬であった』。『1647年にレスターシャー州レッドマイルの牧師トーマス・ダフィーによって発明されたとされている。ダフィーはそれをエリクサー・サルティス(健康のエリクサー)と名付け、万能薬として宣伝した』。『「The true Daffy's Elixir」に記載されている初期のレシピ によるとアニス 、ブランデー、コチニールカイガラムシ、センナ、 マンニトール、パセリの種、レーズン、ルバーブ、サフラン、 リコリスなどが記載されている』とある。より詳しくは引用先を見よ)『にも用いられた』とある。

●なお、この詩の、標題「眞晝」と「七月は」「水繪具のヴアミリオンのにほひ」から、』『「眞晝」が「匂ふ」』という表現を見出せるが、このフレーズが、ちょっと気になって調べたところ、サイト「吉本隆明の183講演」の「芥川・堀・立原の話」の「12 生活的な感性から断ち切られた無限定な時間性」の部分で、立原の詩(「萱草に寄す」で知られた一篇、「SONATINE No.2」の第一篇の原詩「虹とひとと」の第三連。リンクは私の原詩の電子化注)

また風が吹いてゐる また雲がながれてゐる

明るい青い暑い空に 何のかはりもなかつたやうに

小鳥のうたがひびいてゐる 花のいろがにほつてゐる

を引いて、

   《引用開始》

 この場合の「花のいろがにほつてゐる」っていう使い方は、いずれも色を意味していることが分かると思います。だから、これはいわば〈匂い〉っていう言葉が意味する概念の非常に、日本語でいえば、元のところまで遡る、そういう感性で、〈匂い〉っていう言葉がひとりでに使われていることがわかります。

 これは、半分はたとえば、『古今集』の影響をそれとなく感覚的に受けたから、そういう言葉の使い方をしているってことがひとつあるでしょうけど、もうひとつはたぶん、立原道造の資質の中から、本質的に出てきた使い方だっていうふうに思います。つまり、これは、立原道造の資質のなかに、それは、こういう使い方をするものがあるんだっていうふうに考えたほうがいいのだと思います。

 それから、このあとには

 

誰からも見られてゐない確信と

やがて 悔いへの誘ひと-

その時 真昼が

匂ふやうであつた

 

 っていう表現があります。この「真昼が匂ふやうであつた」っていう表現自体は、すでに『新古今集』の中自体にもないものなんです。

 もし、そういう言い方をすることができるとすれば、それは、立原道造の発明した使い方だ、〈匂い〉っていう言葉の使い方だっていうことがわかります。つまり、「真昼が匂ふやうであつた」っていう感受性の仕方と、こういう言葉の使い方っていうことは、立原道造の発明にかかわる、つまり、独創にかかわるものだっていうふうに考えることができると思います。言い換えれば、そういう使い方で表現される、ある感性っていうものは、立原道造の詩を立原道造の詩にさせているものだって考えることができると思います。

 それは何なのでしょうか、たぶんそれは、時間っていう概念がひとつだと思います。つまり、時間っていう概念が立原道造のなかで、非常に重要な問題なんだっていうことがひとつあると思います。

 その時間っていう概念がどのように立原道造の中で重要になっているのかっていうと、それは、時間が一種の無限性というようなもの、あるいは、無限定といってもいいんですけど、無限定性あるいは無限性というようなものとして、時間が考えられていたっていうふうにいうことができるのではないかと思います。

 なぜそれでは、立原道造のなかで時間というものが無限定性、あるいは無限性っていうものとして感じられていたかといいますと、もしも詩の中に、あるいは、生涯の中に、詩の感性の想像力の中に、生活の匂い、あるいは、生きた生活の匂いとか、そういうものが、なんらかの意味で介入していくとすれば、生きた生活、あるいは、生きている人間、具体的な人間というのの時間性は、かならず生まれたときから死ぬまでのあるひとつの曲線がありまして、その曲線のなかで生き死にするわけで、限定された時間が必ずあり、時間が限定されるにつれて、いわば子どもの時は、4歳の時は4歳の感受性、4歳の生き方、15歳の時は15歳の生き方、30の時は30の生き方というように、そこに具体的な生き方の肉体といいましょうか、肉っていうものが時間の中にちゃんとくっついて、そして、ある時間、時間がひとつの曲線を描いて、生から死へっていうふうに流れていくっていうのが、たぶん、生身の人間の生活みたいなものは、詩の感性のなかに入っていく場合の時間の取り方だっていうふうに思います。

 そこで、たぶん立原道造の場合には、死が初めから匂っているように、初めから存在しているように、もう生が死の後に存在しているというようなかたちで、いわば生活的な問題から、感性から断ち切られたところで、立原道造の感覚っていうものが展開されているっていうこと、そのことがたぶん、立原道造の時間性っていうものを無限定にしている、あるいは、無限性にしている要素なんだと思います。そこが立原道造の詩人としての本質っていうことにつながっていく要素なんだっていうふうに考えることができると思います。

   《引用終了》

とあるのを見つけた(以下、『それから、もうひとつあります。』と、さらに続くが、長くなるので、各自で読まれたい。

 さても。この吉本の『立原道造の発明した使い方だ、〈匂い〉っていう言葉の使い方だ』という断定には首を傾げた。私自身、そのような認識を持ったことがないからである。無論、私自身、近代文学の時系列の中で、道造以前に、そのようなリリック・フレーズをいないことを検証したわけではない。しかし、正直、私は、諸手を挙げて、これに肯んずることは出来ないのである。ただ、私は、個人的に吉本が生理的に嫌いであるから(私は、彼の詩をいいと思ったことは全く、なく、評論に至っては強い嫌悪を感ずる人種である)、ただの非論理的反抗に過ぎないと過されて構わない。ともかくも、私の偏愛する三名を三題噺しにしているこの講演自体全体が、聊か、胡散臭い教祖の「有難い」説教のように感じただけである。以上。

2026/01/10

『小泉八雲 「蜻蛉」のその「二」・「三」  (大谷正信譯)』の「太巢」なる俳人に就いて重要な注を追記した

『小泉八雲 「蜻蛉」のその「二」・「三」  (大谷正信譯)』の「太巢」なる俳人に就いて、重要な疑問注を追記したので、是非、見られたい。簡単に言うと、「太巢」は高井几董の別号であるという言説への疑義である。御情報を乞うている関係上、特にポストした。

立原道造草稿詩篇 小曲

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  小 曲

 

――母サン、雨ネ

 

夜が、しつとり濡れて

窓に、女の子の手がある

 

立原道造草稿詩篇 午睡

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。而して、この草稿は、注記で、全文が書き直されていることが記されてあり、抹消されたものであろう初期詩形が活字化されてある。そこで、まず、元の詩を電子化し、次いで、改訂版を示す。注記には初期形は『(行頭は揃って天ツキ)』』とあったので、それも附加した。「天ツキ」に就いては、先行する「(計算ちがひが⋯⋯)」の冒頭注を見られたい。]

 

【初期形】

 

  午 睡

 

┣僕は何遍も見た その夢を

┣その夢のなかでは

┣僕は三角だつた 海だつた

┣靑い小旗がピストルだつた

┣きつとまちがへてた單語よ

┣僕はわるく眠りつつあつた

 

 

【修正形】

 

  午 睡

 

夢のなかで

僕は三角だつた 海だつた

小さな旗がピストルだつた

きつと僕のまちがへていゐる單語よ

僕はわるく眠りつつあつた

 

立原道造草稿詩篇 へんな出發

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  へんな出發

 

鏡の顏があくびをする

不器用なしのカリカチヤア

午後二時の時計よ

星のやうに サヨナラ

もう僕は出かけるのだ

 

[やぶちゃん注:「カリカチヤア」(英・仏:caricature(英(カリカチュア)・仏(カリカチュール)/伊:caricatura(カリカトゥーラ)/独:Karikatur(カリカトゥラ))とは、誇張的表現による社会風刺・寓意・滑稽などを目的として描かれた画像の総称。古代エジプトの擬人化した鳥獣画などを起源とするが、特に十七世紀以降、版画技術や印刷術の普及に伴って、広く行われ、政治的にも利用されるようになった。ジャック・カロ、ゴヤ、ドーミエ、ホガースらが、その鋭い風刺で知られる(解説部分は平凡社「百科事典マイペディア」を主文として使用した。]

2026/01/09

立原道造草稿詩篇 夏

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  夏

 

 白い往來 白い帽子

    抱へて
詩の本を   行くひと

  どこかの庭で

  ダリヤと向日葵

  眞晝の風が吹いてゐる

      衞生的な青空

        古風な雲

 

[やぶちゃん注:原稿を見ないと判らないが、二行目の「抱へて」は三行目の三文字空白の右手に添えたものであろうという気がするので行間を詰めた。]

立原道造草稿詩篇 (計算ちがひが⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。注記には『抹消は第三行全文。原文「眞夏の景色⋯⋯往來⋯⋯空」(行頭は天ツキ)』とある。「天ツキ」とは、校正記号で、「頭揃え」を意味する。則ち、『字下げを「トル」』(=天ツキ)際に使う記号「」である(本文では赤ではないと推定した)。抹消部を再現して電子化する。]

 

 

  (計算ちがひが⋯⋯

計算ちがひが苦くする

空氣が一ぱいつまつてしまふ

眞夏の景色⋯⋯⋯⋯

古い手紙

    埃まみれの心臟

やがて僕は 失ふだらう

 

[やぶちゃん注:「注記」に、『作品の排列に当たって、詩型の特徴に撚り、𝙸・II・IIIの三グループに大別した。』とあり、以下、底本は、このグループ順で並んでいる。その『〔A・𝙸グループ〕はフォルマリスムの実験的傾向を持つ作品群で、詩群内の序列もその傾向の著しいものから排列し、「お時計の中には」の傾向に続くものとして第一群とした。制作時は作品の季節感に拠り、昭和7年7月頃と想定する。』とあった。「フォルマリスム 」は 「ロシア・フォルマリズム」で(ロシア語:Русский формализм /英語:Russian formalizm)で、小学館「日本国語大辞典」に拠れば、『一九一〇年代から二〇年代末にかけて、ロシアの文学研究者や言語研究者によって推進された文学・芸術運動。文学作品の自律性を強調し、言語表現の方法と構造の面からの作品解明を目指した。構造主義や文化記号論の先駆と目される。』とある。

「苦くする」は「くるしくする」であろう。]

立原道造草稿詩篇始動 / (お時計の中には⋯⋯)

[やぶちゃん注:本日、たまたま、何気なく――全く、殆んど意味もなく――国立国会図書館デジタルコレクションで立川道造で検索したところが!――今日! まさに今日!――一九七二年角川書店刊「立原道造全集 第二巻 Ⅱ詩集」が『送信サービスで閲覧可能』(他の巻も!!!)となって、視認出来ることが判明した!!! 以前、図書館で借りて、未電子化の詩篇を電子化したいと考えながら、諸プロジェクトを広げてしまった結果、やらず仕舞いで居たのだったが⋯⋯私は――『⋯⋯道造の魂が! 私にそっと囁いたに違いない!』と独りごちたのであった。さればこそ、これを底本として、私が未だ電子化していない彼の草稿詩篇を起動することとした。

 本篇は底本の『前期草稿詩篇』パート(推定で昭和七(一九三二)年から昭和一〇(一九三五)年の草稿で、全二百三十六篇)のここで、底本の注記はここ(左丁317ページ下段)で視認出来る。詩は無題のものもあるので、一応、仮題として最初の部分を、底本を真似つつ、二字下げ・丸括弧入りで、六点リーダを添えて示した。底本では標題はポイント上げであるが、当該原稿を見ていないが、所持している彼の詩稿・草稿画像を見るに、立原は同じ大きさで書いている可能性が高いと考え、同ポイントとした。無論、底本同様に正字正仮名である。注は、比較的知られた語であっても、若い読者や、ネイティヴでない方を想定して、附してある箇所がある。なお、この詩篇や注記その他は、総てが、タイピングで起こすことになるので、短くても、相応に時間が掛かることを、ご理解頂きたい。また、私は踊り字「〱」「〲」が生理的に嫌いであり、人生で一度も使ったことがなく、横書きでは奇体なだけでもあるから、総て正字化した。

 なお、私は、二〇一六年に、所持する一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編:杉浦氏は本底本の編集者の一人である)の「エチュード」と編者が題したパートにある、全二十七篇をランダムに電子化注しているのだが、これらは、本底本の「前記草稿詩篇」から、杉浦氏が『気のままに選び出したもの』とあるものであった。Unicode導入以前の仕儀で、正字不全があるが、これらを削除するのは、過去の私自身の意識を蔑ろにする気がして、個人的に忍びない。されば、一部を除き、それらをなるべく生かして、ブラッシュ・アップしたく思っている。

 「何で、『立原道造前期草稿詩篇』としないのか?」と言われる方へ言っておく。恐らく、この電子化注の中で、私は、それを語り出すであろうが、端的に言っておくと――立原道造は僅か二十五年足らずで夭折した。私は、底本全集の「前期」と「後期」に「草稿詩篇」を分離する意義を全く感じないからである。個人的に、若くして全霊を詩にかけて、白玉楼中の人となった彼に「前期」と名打つのは、非常に抵抗があるのである。されば、それは附していない。

 本篇の執筆想定は、注記に筆跡と使用されたインクから、『「卽興」および「一年を顧みて」『昭和7』(一九三二)『3月執筆想定・第六巻所収』(『雜纂』篇。ここと、ここで、視認出来る)『に類似点を求め得る』とし、『上限を』(根拠が示されてある)『昭和6年12月以後とし、下限を』(根拠が示されてある)『昭和7年3月以前と想定する』とある。]

 

  (お時計の中には⋯⋯)

お時計の中にはニハトリが住まない

お魚の內臟に燐寸で靑く燈を點けろ

圓周率を數へるために鼠を飼ひます

ピーターさんは海へ泳ぎに出かける

繪の描けない草は大體花を持たない

都會の電燈の色はボンヤリしてます

馬の足音に驚くのは垣根のバラです

手品をつかはない太陽はまんまるい

腹痛にきく藥はライオンの尻尾です

白い公園の白い噴水と白い馬が白い

都會の少女の肢はスツキリしてます

飛行機が墜落するので花は咲かない

ピーターさんの妹が山へ登りました

靑い空は粉々になつて碎けてしまふ

そこで月が胡桃の一つに化けました

お時計の中にはニハトリが住んでる

 

[やぶちゃん注:「燐寸」恐らくは「マツチ(マッチ)」と読んでいる。

「ピーターさん」不詳。

「描けない」音数律からは、私は「かけない」と読む。

「肢」「あし」であろう。]

立原道造の魂が僕にそっと囁いた!♡!⋯⋯⋯⋯

たまたま、今日、何気なく、立原道造の書籍を国立国会図書館デジタルコレクションで調べた――と!?!――と⋯⋯ところが!――今日! まさに今日!――一九七二年角川書店刊「立原道造全集 第二巻 Ⅱ詩集」が『送信サービスで閲覧可能』となって、視認出来ることが判明した!!! 以前、図書館で借りて、未電子化の詩篇を電子化したいと考えながら、諸プロジェクトを広げてしまった結果、やらず仕舞いで居たのだったが、⋯⋯⋯⋯


道造の魂が! 私にそっと囁いたに違いない!

よし! やるぞ! 「前記草稿詩篇」!!!!!!!!

(リンクは当該目次)

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その7) / 鱶鰭の說~(図版2)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]

 

【図版2】

 

Fka2

 

 

■「つのふか」

 「一名、つのめざめ。」

[やぶちゃん注:【図版1】で考証したツノザメ目ツノザメ科ツノザメ属 Squalus であるが、腹部右下からの煽り風で描かれ、一見、目が可愛く、マスコットのようにデフォルメされているような錯覚を受けてしまう。そのため、どうも、比定に困難を感ずる。先では、

トガリツノザメ(尖角鮫)Squalus japonicus

としたが、一応、ここでは、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」が掲載する五種を並べて考証する。順列は、同図鑑の、ここの「ツノザメ目」に従がった。

アブラツノザメはここで、アブラツノザメ(油角鮫)Squalus suckleyi 

トガリツノザメはここで、トガリツノザメ(尖角鮫)Squalus japonicus

ツマリツノザメはここで、ツマリツノザメ(短角鮫)Squalus brevirostris

ヒレタカツノザメはここで、ヒレタカツノザメ(鰭高角鮫)Squalus formosus

フトツノザメはここで、フトツノザメ(太角鮫)Squalus mitsukurii

さて、この内、⑤のフトツノザメは、解説の「基本情報」に『本州以南に生息する。やや小型のサメである。刺網や深場の釣りで揚がる。この背鰭に棘(角)があるサメの中でもアブラツノザメは認知度も高く、東北・関東を中心に利用されているが。本種は漁獲量が少なく知名度が低い』とあり、「珍魚度」にも、『底曳き網や釣りなどで揚がるが、量的に少なく、流通しないのでがんばって探さないと手に入らない』とし、「水産基本情報」でも、『市場での評価』に、『ほぼ流通しない。一定の評価はない』とあることから、まず、最初に除外してよいと思われる。同様に、④ヒレタカツノザメの記載も、「生息域」には、『水深180-790m』。『千葉県銚子〜九州南岸の大平洋沿岸、沖縄島以南の琉球列島、東シナ海大陸棚縁辺〜斜面域』で、『台湾、オーストラリア南西岸』としつつ、やはり、「基本情報」には、『学名が2017年に確定したもので、漁獲されての情報などはまったくない。』とあるだけで、以下、白紙なのである。されば、これも除外する。

 而して、残る三種の、それぞれの画像をじっくりと見て、この図のように見えるものはどれか、と考えたところ、私は、

★『これ、圧倒的に③のツマリツノザメだべッツ!!!』

と、強く感じたのであった。

頭部の腹側が他の種に比べて、圧倒的に膨らんでいるから

である。そのツマリツノザメの解説を示すと、『1m TL 前後になる。背鰭前端から吻までが短い。目も吻に近く体高がある。』「生息域」には、『水深100-640mの海底、海底付近』。『青森県八戸、千葉県銚子から九州南岸の大平洋沿岸、玄界灘、沖縄島以南の琉球列島、東シナ海縁辺〜斜面域、九州〜パラオ海嶺』及び『朝鮮半島全沿岸、黄海、中国の東シナ海・南シナ海、西沙諸島』とある。但し、それ以外の、記述が、全くないのが、果して、明治時代に、漁獲されたかどうかが、ちょっと心許ないのでは、ある。

残るは、①アブラツノザメと、②トガリツノザメとなるが、

後者のトガリツノザメは、解説に、『日本の沿岸域に多い小型のサメ。量がまとまらないので流通はしない。』とし、『ツノザメ科全般に言えることだが』、『味がいいので、食用としている可能性は高い』(最後は将来性記載である)とあり、『市場』にも『流通しない。』と断じているので、これも、ご退場願ってよいと思う。

★而して、アブラツノザメであるが、これは、結論を言うと、有力な対抗候補である。

解説を引く。『北半球の寒帯から温帯域にいる中型の鮫。国内では主に北海道・東北太平洋側で水揚げされている。北海道、青森県などでは釣りなどで盛んに漁獲している。サメ類ではもっとも漁獲量が多い』。『浜で皮を剥き、頭と内臓を取り去る。これを棒ザメという』。『関東にもたくさん送られてきており、古くは棒ザメで作るサメの煮つけは都内でもよく食べられていた。都内では定番的大衆魚だったが、やや「お高い」といったもの。例えば「もうか(ネズミザメ)」と比べると贅沢なものであった』。『また』、『栃木県、茨城県・群馬県の一部では日常的にも、年取魚(正月用の魚)としても人気がある。新潟県上越市でもよく食べられている』。『今でも根強い人気があるが、棒ザメを切身として売る店も、買う人も減少傾向にある。非常に味がよく万人向きの食材、もっと人気が出てもいい』。『練り製品の原材料ともなり、すり身としては高価である。また近年高鮮度化も進められている』とあり、「珍魚度」に『青森県などでは漁業対象となっているので、珍しい魚ではない。ただし』、『産地で皮を剥かれることが多いので、丸のまま手に入れるのは』、『とても難しい。』と括っておられる。「主な産地」は『青森県、北海道、宮城県、福島県など。東北北海道』とする。さらに、「歴史・ことわざ・雑学など」の項に、『ぼうざめ 〈江戸にて一種ぼうざめと云有〉『物類称呼』(越谷吾山著 安永4/1775 解説/杉本つとむ 八坂書房 1976)』とあって、江戸時代に既にして、流通していたこと、別コラムの『正岡子規、水戸紀行の「鮫の煮たると」』で、『正岡子規の実に写実的な表現でみる千葉の食』の項で、ぼうずコンニャク氏は『常磐線開通前の水戸街道小金駅あたりで正岡子規が食べたサメは沖合いにいるネズミザメではなく、より岸近くにいるアブラツノザメと考えるべきだと思っている』と述べられ、さらに、続く、『鮫煮つけは非常に味がいい。正岡子規はなにを食べたのか?』で、食べた料理法まで推理されているのである。

さらに、有力候補度がズン! と高まるのは、異名である。

『ケセンズノ ケセンヅノ[気仙角]』『宮城県気仙沼、東京都 参考『日本産魚名大辞典』(日本魚類学会編 三省堂)』、『ツノザメ』『富山県黒部市生地 参考『日本産魚名大辞典』(日本魚類学会編 三省堂)』の、本図の名称の類似、或いは、相同性である。

 結論を示す。

☆第一候補は、論理的に圧倒的にアブラツノザメ

であるが、画像に拘ると、私は、

☆第二候補として、フォルムからツマリツノザメ

を外すことが出来ない

としておく。

 

■「ほしふか」

 「一名、ほしさめ。」

[やぶちゃん注:これは、文句無しで、

ネズミザメ上目メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属ホシザメ Mustelus manazo

である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクしておく。]

 

■「をにうちふり」

 「九刕大隅」

 「「をにうちふか」」

 「凡《およそ》、長《ながさ》、二尺。」

[やぶちゃん注:これは、頭部の形状から、

板鰓亜綱テンジクザメ(天竺鮫)目オオセ(大瀬)科オオセ属オオセ Orectolobus japonicus

である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクしておく。]

 

■「あをふか」

 「長《ながさ》、凡《およそ》、壹𠀋。

  大なるは、二、三𠀋に至り、

  一《いつ》に、「荒(あら)ふか」といふ。

  歯、なし。人を、とりくらふ。」

[やぶちゃん注:これは、文字通り、

ネズミザメ目ネズミザメ科アオザメ属アオザメ Isurus oxyrinchus

である。「人を捕り食らう」とあるが、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、この断定は、問題があるようである。ここは、本文注では外していたので、その「危険性」の項を引用する(注記号はカットした)。『気性が荒く、人に対しては危険な種とされているが、今までにこのサメが起こした事故はあまり報告されていない。生息域が主に外洋ということで、人と接触することがあまりないためであるとされる』。『20101130日から121日の2日間にかけて、エジプトの紅海において海水浴客3人がサメに襲撃される事件が発生。このうち1人が足と腕を噛みつかれ、片腕を失った。近くの海域でヨゴレと共にアオザメが捕獲されたことから、犯人は当初アオザメとされた。サメが捕獲されたことから、地元当局は海の遊泳禁止措置を解除した。しかし、その後ドイツ人の海水浴客がサメに襲われて死亡する襲撃事件が起きており、襲撃したサメは別の種類と見られている』。『日本国内では1951年(昭和26年)6月、熊野灘の定置網にかかった全長約5 mのアオザメから少年の腐乱死体が見つかった例がある。また1979年(昭和54年)1111日には、宮崎県串間市都井岬沖約67 kmの日向灘で、貨物船「明和」(4457重量トン)が時化により沈没した際、漂流中の乗組員が救助隊の目前でアオザメとみられる大型のサメ(推定体長約3 m)に食い殺されるという事故も発生している。2004年(平成16年)715日には和歌山県すさみ町沖の枯木灘で、夜間集魚灯を点けてアカイカ釣りをしていた遊漁船に体長3.5 m、体重350 kgのアオザメが飛び込み、釣り客が胸や頭をサメの尾鰭で強く叩かれて胸骨骨折などの重傷を負う事故が発生している。すさみ町立エビとカニの水族館館長によれば、アオザメは黒潮が接近している枯木灘ではよく見られるが、船に飛び込む事故は聞いたことがないという』とある。一応、英文の同種のウィキ“Shortfin mako shark”の‘Attacks on humans’ (「人間への攻撃」)の項を見たが、『ISAF』(International Shark Attack File:国際的なサメによるヒト襲撃情報のデータベース。詳しくは当該邦文ウィキを見られたい)『の統計によると、1980年から2024年の間にアオザメによる人間への襲撃は10件発生しており、そのうち3件は死亡に至った。また、ボートによる襲撃も20件発生している。アオザメによる襲撃の多くは、嫌がらせや釣り糸にかかったことが原因で引き起こされたと考えられている。アオザメに遭遇したダイバーは、襲われる前にアオザメが8の字を描いて口を開けて近づくことに気づいている。最近の襲撃は2024330日にカボ・サン・ルーカスで発生したが、死亡には至らなかった。サメはシュノーケリングをしているグループを襲い、ある男性はサメが他の人に危害を加える前に格闘しなければならなかった。』と、ある。孰れにしても――アオザメは絶対的な「人食いサメ」ではない――と結論出来るものと思われる。

 

■「へらさめ」

[やぶちゃん注:本文には、この名では、出現していない。小学館「日本大百科全書」の「ヘラザメ へらざめ/篦鮫」から引用する。『軟骨魚綱メジロザメ目の科や属の総称、またはその1種の名称。ヘラザメ科Pentanchidaeは第1背びれが腹びれ上方またはその後方に位置すること、臀(しり)びれがあること、口が目の前端の下に位置すること、頭蓋骨』『の眼窩』『上部に庇(ひさし)がないことなどが』、『特徴で、ヘラザメ属 Apristurus 、ナガサキトラザメ属 Halaelurus 、ヤモリザメ属 Galeus など11属からなる。そのうち、ヘラザメ属は吻(ふん)が扁平』『で、臀びれと尾びれが接することが特徴で、約40種からなり、日本近海には約9種が知られている』。『種としてのヘラザメ A. platyrhynchus(英名spatula-snout catshark)は第1背びれが腹びれ基底より後ろから始まること、胸びれと腹びれの間が短いこと、臀びれ基底が非常に長いことなどで特徴づけられる。深海性で、大きくても全長1メートル程度で、生殖方法は短期型単卵生である。トロール網などでときに大量に漁獲され、練り製品の原料などにされる。南日本から、台湾、フィリピン、オーストラリアなどの海域に分布する。国際自然保護連合(IUCN)のレッド・リストでは、低懸念(LC)とされている(20219月時点)。』とあった。しかし、この小型のサメから、果して輸出向けの鱶鰭が製造出来たのであろうか? やや疑問である。識者の御教授を乞うものである。

2026/01/08

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その2) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅠ)

[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]

 

    松江に於ける八雲の私生活

 

      富田旅館時代

 

 明治二十三年(西曆一八九〇年)八月二十五、六日の頃小泉八雲は橫濱より松江に到着直ちに富田旅館に入り、明治二十四年(西曆一八九一年)二月に至るまで七ヵ月間同旅館に滯在し、同月松江末次本町卽ち京店織原氏の貸屋に移轉した。

[やぶちゃん注:本書の年譜的記載は、例えば、私の所持する内で、最も完備している恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の銭本健二・小泉凡編になる「年譜」と対照すると、かなり大きく異なる部分が、有意にある。その辺りは、必要と考える限り、逐一、示すように心掛ける。さても、初っ端から、事実と齟齬する記載が連続する。そこでは、『八月三十日(土)、午後四時、松江着。大橋川北岸の末次本町四一番地(東本町一町目一番地)』ここ。グーグル・マップ・データ。無指示の場合は同じ)『にある富田旅館に投宿する。』とあり(これは以下の富田旅館の女将の証言でも、日付が誤っているので注意されたい。そこまで繰り返しはしない)、『ハーンは、二回の八畳と二畳の部屋を使用することになり、女将のお常と女中のお信(島根県能義郡出身、池田ノブ)が主として身辺の世話にあたった。なお、同所に十月下旬まで寄留する』とあり、同年十月の記載の最後に、『十月下旬――十一月中旬、京店(きょうみせ)織原方の離れ座敷(末次本町)』(ここ。富田旅館の西隣りの直近である)『に転居する』とあり、当時の彼の『書簡には、もはや旅館ではなく、湖水に臨んだきれいな家の持ち主だとある』「ひなたGISの末次本町もリンクさせておく。戦前の地図によって、宍道湖大橋もなく、まさに宍道湖を直に見通せる位置にあったことが、よく判る)。『但し、十一月十八日の「山陰新聞」には、ハーンの「僑寓、縁取町富田屋の娘⋯⋯」とあり、この時点でまだ富田屋に寄留していたことを伝えている』とあり、未だ、この時期の住所移動時期は、今も明確には判っていないようである。また、『十一月中旬(日)、富田屋の女将お常と眼の悪いお信を伴って、一畑薬師』(いちばたやくし:一畑薬師は臨済宗総本山醫王山一畑寺(いちばたし)。平安時代に遡る言い伝えで、眼病平癒のあらたかな寺院として知られる。ここ)『に参拝する』とある。]

 富田旅館に滞在中の八雲の日常私生活を検討するため、予は昭和十五年(西曆一九四〇年)六月十五日富田旅館に富田ツネ刀自及び令息卯吉氏を訪問し、予と三人鼎座してツネ刀自より當時の實況を聽取した。

[やぶちゃん注:「鼎座」「ていざ」。「鼎」(かなへ(かなえ))の足のように、三人の者が向かいあってすわること。「鼎」は音「テイ」で、古代中国に於いて飲食物を煮るのに用いた金属製の容器。二つの耳と三本の足を持つ。古くは土器であり、飲食物を煮るだけに用いたが、後、祭祀用となった。特に夏の禹王(うおう)が九ヶ国の銅を集めて「九鼎」(きゅうけい)を作ってから、王位・帝位を表わすようになった。祭器としては、本邦では訓で「かなえ」と呼ぶことが多い。]

 なおツネ刀自は、八雲が松江在住中の記事を誌せる諸書中に、必らず現われている所の當時の富田旅館の女主人で、最も多く八雲に親炙した人であることを附言しておく。

 以下は、予がツネ刀自に對してなした問答筆記である。

[やぶちゃん注:富田ツネさんは、恐らく著作権上の問題ないと推測するが、令息卯吉氏については、判らない。しかし、これは、桑原氏の聴き取りによる桑原の記載記事であり、著作権侵害には当たらないと私は考える。実際、私は、二〇二一年一月二十三日に『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』を電子化注しているが、冒頭注で、この座談に出席している人物の内、二名の没年が『判らないので、彼の発言部は著作権に抵触する可能性がないとは言えない(他の人物はパブリック・ドメイン)。そうである事実を示して指摘されたならば、彼ら二人の発言部は省略する。』と記して公開したが、五年ばかり経ったが、誰一人、それを指摘された通知を受けていない。これに就いても、万一、「卯吉氏がパブリック・ドメインではないから、インタビュー記事もダメである。」という指摘があれば、当該証明法規及び公的な没年証明書を添えて通知頂ければ、彼の回答部分のみをカットする用意はある。]

〔桑原〕 なるべく既に世に發表されていない點を主に伺いたいと思いますが、八雲が富田旅館滯在中にお信さんという女中がいて、八雲先生の世話をなし、八雲先生はお信さんの眼病を自費で療治せしめたと聞きますが、そのお信さんはどんな來歷の人でしたか、まだ存生ですか。

〔富田〕 お信は出雲國能義郡廣瀨町の池田というものの子でありましたが、兩親に早くより死別し、その祖母にあたる人が、お信の七歲の時にその弟と二人を連れて、少しのゆかりを賴つて私方に參り、お信は女中代りとして手傳を致しまして、八雲先生の見えた時お信は十五、六歲の時でした。先生の御世話は萬事私とお信とが致しました。先生は大層お信を可愛がつて英語をお敎えなさいました。そしてお信はかわいそうに二十三歲でなくなりました。

〔桑原〕 八雲先生が松江到着後直ちに富田旅館に入られた時の模樣を伺いたいと思います。

〔富田〕 先生が明治二十三年八月二十五、六日頃、私方に溫到着の時は早速お風呂をたて、お湯から上られた時に白浴衣を出しましたところが、それが大層氣に入りまして、白浴衣のまゝで二階の八疊一の間に、ちようど日本人のように、膝をキチンと曲げておすわりでした。

 先生の御到着前に、縣廰より椅子テーブルを澤山借りまして、お役人方の出張を待ちましたが、縣のお方々は、西洋人に面會するというので洋服でお出でたようでしたが、先生は西洋人としては身長の低い五尺二三寸[やぶちゃん注:一・五八~一・六一メートル。]位、頭髮は灰黑色、鼻の下には髭をはやし鼻は高い方で、背を屈がめて座布團にすわり、浴衣を着ては葉卷を口にしておられる樣子が、西洋人のような日本人のような恰好で、何とも如れぬおかしさを覺えました。私共には言語がまるでわからなかつたが、聲の樣子は餘り高い方ではなく聊か錆び聲で、時々高聲に笑われました。縣廰の役人方がこれを取圍むようにして椅子に腰かけていられました體裁は、ちようど役人が罪人でも調べるような恰好でまことに珍風景でありました。

 その後先生はこの浴衣が氣に入りまして、宿においでる間は、何時も浴衣で、外出は洋服でした。餘り浴衣が汚れましたために、紺飛白の單衣物[やぶちゃん注:「ひとへもの(ひとえもの)」。]を作つて上げたことがありました。

[やぶちゃん注:「紺飛白」「こんがすり」。紺地に白い「かすり」のある模様。また、その木綿織物。「紺絣」とも書く。

 なお、底本では、ここの左下には、金津滋氏の、小泉八雲のであろう、右手が、箸をムンずと箸を握っている切り絵がある。左下方付着する形で「握箸」と漢字も添えて彫ってある。ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」を見られたい。]

〔桑原〕 宿屋の皆さんと先生の間の意志の交換と申しますか、談話はどんな風でしたか。言語がわからないので、互に御困りのことでしたろう。

〔富田〕 私どもは全く英語がわからず、先生も日本語はわからずまことに困りました。中學校の西田千太郞先生や中山彌一郞先生が御來訪の節は、まことに何かと便利で色々先生のお望みのことを伺つて置きましたけれども、突發のことがある時は、先生は英和字書を何時も離さずに持つておられましたために、一々字引をひいての話で用を達しまして、實に不便極まるるので、每々[やぶちゃん注:ここは会話であるから「つねづね」であろう。]間違いがありましたので大笑い致しました。

 先生ご來松[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「らいまつ」で「松江に来られること」である。]の當時は、橫濱より眞鍋晃という書生さんを通辯としてつれておいででしたが、その通辯が餘り上手とは見えませんでした。ところが或る日眞鍋さんを尋ねて女の人が橫濱より參り、何かそこに事情があつたと見えて、大に[やぶちゃん注:「おほいに(おおいに)」。]先生のご機嫌を損じて、間もなく眞鍋氏は解雇せられて橫濱に歸られました。

 眞鍋さんがいました時のことですが、先生が每晩のように、天神社內や和多見の賣布神社等の盆踊りを見においでの時は、何時も[やぶちゃん注:私は「いつも」と読みたい。]眞鍋さんと手前の主人太平、或いはお信の二人がおともでありました。何分太平も宅の用事が忙しい時にも先生は一向おかまいなくおともを仰せつかるので、少々後では閉口していました。先生は天神境內に行かれる時は何時も附近の井戸水を釣瓶吞み[やぶちゃん注:「つるべのみ」。釣瓶桶から、直接、飲むこと。]にして喜んでおられました。

〔註〕 眞鍋晃は、八雲全集第三編第四十一頁の記事によれば、八雲先生が橫濱附近の某寺訪問の際、同寺の書生であつて、英語を解しいいため[やぶちゃん注:ママ。「解していたため」の誤植であろう。]、それが緣故となり、八雲先生の通辯として隨行したものである。

[やぶちゃん注:この注は、底本では、ポイント落ちで、全体が一字下げであるが、ブラウザの不具合を考え、同ポイントで引き上げてある。以下の〔註〕も同じ処理をした。

「西田千太郞」(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)は教育者。心理学及び教育学を専攻したが、郷里島根県松江で母校松江中学の教師を務め、この明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと親交を結んだ(当時は同校教頭兼英語教師であった)。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郎日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に惜しくも三十六の若さで、結核で亡くなった(主文は「講談社「日本人名大辞典」に拠ったが、一部は、私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (九)』の訳者註から増補しておいた)。異例の出雲大社昇殿も彼の仲介で実現したもので、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)にとって、まさに本邦来日後の日本人の中でも、最も大切な親友であった。

「中山彌一郞」『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語敎師の日記から (二)』の私の注を引く。西田とともに松江時代に懇意にしていた人物で、ヘルンの「島根縣敎育會」での講演(第二回「西印度雜話」明治二四(一八九一)年二月十四日開催)で彼は通訳をしており(第百五十四回「広島ラフカディオ・ハーンの会」ニュース(二〇一三年六月発行)のデータに拠る。【2026年1月8日追記】現在、リンク先は機能していない)、ハーンと同じく中学と師範学校の英語教師で生徒監(現行の学級担任の謂いであろう)もしており、後には神戸や商館に勤めたと、根本重煕氏の「小泉八雲のことども(続き)」(『中日本自動車短期大学論叢』第十三号・一九八三年・PDF)にある。「住吉神社」公式サイト内の『月刊「すみよし」』のこちらの風呂鞏(ふろたかし)氏の『小泉八雲と語学教育(二)』には、彼とは『神戸時代まで交際を続けた』とある(ハーンは明治二七(一八九四)年十一月に第五高等学校英語教師の契約切れとともに著作に専念するために神戸市の「神戶クロニクル社」に就職して神戸に転居、二年後の明治二十九年八月に東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職するまで、神戸に住んだ)。] 

「眞鍋晃」小泉八雲の最初の纏まった作品「知られぬ日本の面影」の「第一章 私の極東に於ける第一日」に登場する、横浜で初めて訪れた寺で出逢った若い修学僧で学生である。初登場は『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (七)』である。これ以降、彼はハーンの奇特な通訳兼案内役として鎌倉・江ノ島や横浜等の名所を巡ることとなったウィキの「日本の面影」によれば、山田太一脚本の「日本の面影」のドラマでは、『「西欧文化を学びたい」という理由でハーンの通約兼世話係となり、松江まで付き添うが、日本の伝統文化に関心を寄せるハーンと意識がすれ違い、半年で横浜に帰った。のちに海軍中尉となり、帝大講師となっていたハーンと東京で偶然再会』したという設定になっている(但し、これが事実かどうかは私は検証していない)。第三章の「お地藏さま」の「二」の冒頭で、ハーンは彼のことを、『愉快な靑年である。鬚のない滑かな顏、淸らかな靑銅色の皮膚、それに紺色の蓬髪は、目元まで額に垂れてゐるので、濶袖の長い衣を著てゐると、殆ど日本の若い娘の姿に見える』と、その美少年振りが描かれている(「濶袖」は「ひろそで」と読み、和服の袖口を縫わずに全部開けてあるもの。どてらの袖のようなタイプ)。

なお、この前の

『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (六) ――ハーンが最初に行った寺を推定同定する――』

から、ちゃんと、見られたい。而して、是非!

「教え子の情報から再考証!――小泉八雲が来日最初に訪れた寺は横浜市神奈川区高島台にある旧アメリカ領事館が置かれた本覚寺ではなかったか?!――」

も見られたい。そして!

「★ラフカディオ・ハーンが最初に訪れたと推理する本覚寺を早速教え子が写真で撮って来てくれた!!!★」

も見て、チョーダイね!!! 言っとくと、銭本健二・小泉凡編「年譜」でも、この寺は特定されていないんだよ!!!

 さて。実は、

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は松江に横浜から赴任するに際して、この眞鍋晃が通訳としてずっと同行している

のである。しかし、この赴任の道中のエピソード(鳥取県下市(しもいち)での盆踊り見学が、よく知られている)等では、後代の映像イメージ等では、眞鍋の影は微塵も想定映像としては表現されていないのだが、ハーンはちゃんと、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊 (一)』の中で、眞鍋を描いている。

 いや、実は、その後も、ここにある通り、松江に留まって、

重要な出雲大社昇殿の時も、同行しており、八雲への解説役も、彼がメインであった

のである。それは、「小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿」の「(二)」「(四)」「(五)」「(六)」「(七)」「(九)」を読めば、一目瞭然なのである。ところが⋯⋯まさに「ところが」なのである⋯⋯(次の注に続く)

「ところが或る日眞鍋さんを尋ねて女の人が橫濱より參り、何かそこに事精があつたと見えて、大に先生のご機嫌を損じて、間もなく眞鍋氏は解雇せられて橫濱に歸られました」この事実を確認する資料は、ネット上では、見出せない。私が、新たに見出したものは、中島淑恵氏の論文「ラフカディオ・ハーンと医薬―癒しと救い  ① 一畑薬師のこと」(『薬学図書館』(643))所収・二〇一九年発行・PDF)の文中の『「杵築」の記述はこのあと,アキラとの神仏に関する問答に発展し,仏の数が限りなくあること,神道に至っては八百万の神がいることが議論される。』の注(『4)』)に『真鍋 晃.横浜の寺で出会った学僧で,英語に堪能.来日直後のハーンの通訳を務め,松江にも同行.松江滞在の半年間ほどをともに過ごす.』とあるものと、国立国会図書館デジタルコレクションで『送信サービスで閲覧可能』で見つけた、『人文論究』( 61(4)20122)・関西学院大学人文学会発行)の永田雄次郎氏の「ラフカディオ・ハーンと石仏の美――横浜から熊本までの時」、ここと、ここと、ここである(本登録でないと閲覧は出来ない)。引用すると、『従来の研究所では、その経歴は不明とされる。その意味では、ハーン研究史上、「謎の人物」として第一に教えられるかも知れない』として、以下で「アキラ」の表記で、作品中の小泉八雲と彼の語りから、彼の人間像を解説しておられる。而して、最後の箇所で、『板東浩司は、不確かな推定としながらも、一八九〇年中旬に真鍋晃は松江を去るとしている』。『その理由も不明であるが、この地のハーンの通訳で、彼を理解しようとしていた松江尋常中学校教頭である西田千太郎』『の存在が浮かんでくる。』とされ、『アキラ以上に英語に通じていたであろう西田はハーンの終生の友となる。アキラも横浜の寺を近々出て行くと「極東第一日」ですでに言っている。この両者の事情が、アキラをして松江を去らせる要因となったのでのでは、ないだろうか。ハーンがアキラの人柄に疑いを持ち解雇したとの説もある』。『だが、ハーンは次のようにも語っている。そこにはアキラへのハーンの愛情を見ることであろう。』とされ、八雲の訳を示しておられる。これは、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (一)』の冒頭相当であるから、そちらで示す。冒頭表題も添えた。

   *

       一 一八九一年七月二十日 杵築にて

 晃は最早私と共には居ない。彼は佛敎雜誌を發行するため、神聖な佛敎の都なる京都ヘ行つた。それで私は迷ひ子になつたやうな氣がする――彼は神道のことを何も知らないから、出雲ではあまり役に立つまいと、彼が再三斷言したけれども。

   *

以下、引用に戻す。『時の経過の内に、ハーンの語る思いはいかなるものか、真偽の問題は多少存していようとも、この文学者の寂しさを滲ませた告白は真実であると信じてみたいのである。横浜、鎌倉の寺院、さらには松江までの道を同行したアキラである。これまで日本で仏教美術などを実体験する時、必ずと言ってよいほど、その脇に立っていたアキラは、ここでハーンの前から完全に姿を消したのである。彼こそは、松江での別れの時まで、石仏を眺めるハーンの眼にもっとも近く立ち、品の良い英語で語りかけた青年であったに違いなかろう。』とある。

 私は、この永田氏の見解に、非常に賛同し、感動もした。

 而して、中島氏の『松江滞在の半年間ほどをともに過ごす』とあるのは、銭本健二・小泉凡編「年譜」が、来松から、半月ほど後の、明治二三(一八九〇)年の九月十四日(日)の出雲大社昇殿の翌日の、『九月十五日(月)、松江に帰る。千家家日記には、この日にハーンと真鍋晃が参詣したことが記されており、したがって、ふたたび参詣をしたのち、帰松の途についたことも考えられる』とあるのを最後に、真鍋晃の記載が、載っていないことから、『半年』というのは、ちょっと不審なのである。何故と言うと、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (一)』で、私が強い疑義を感じて、注をした通り、小泉八雲の、このクレジットには問題があり、『文学的な虚構が施されている可能性が極めて高い』と述べたからである。されば、私は、真鍋の在松は、半年より、もっと短かったのではなるまいか? と考えているのである。

 なお、富田ツネさんのスキャンダラスな内容は、作り話には見えない。しかし、或いは、これ、真鍋に一方的に思いを凝らしてしまった女性が、突如、彼を訪ねてきたのではなかったか? 女性たちは、当然、「かんぐる」ことで、噂を起こしたに違いない。真鍋は、そうした「濡れ衣」を説明しようとすれば、するほど、こうした「かんぐり」は、いや増しになるのが常である。真鍋の真面目な気質から見て、事実を詳細に語って弁解することはあり得ないと思われる。されば、日本語が判らない八雲も、「カタラレナイというのは、イケナイことだ!」と早合点したとも思われなくもないのである。向後も、真鍋についての考証は継続する。

「天神社」現在の島根県松江市天神町(てんじんまち)にある白潟天満宮(しらかたてんまんぐう)のことか。現在の同天満宮の夏の大祭では、盆踊りはないようであるが、江戸時代、松江城下では盆踊りが禁止されていた経緯があるから、当時、行っていたと考えても、逆に、よいように思われる。

「和多見の賣布神社」「めふじんじや(めふじんじゃ)」と読む。現在の島根県松江市和多見町(わだみちょう)の賣布神社。ここ

「眞鍋晃は、八雲全集第三編第四十一頁の記事によれば、⋯⋯」国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集」(大正一五(一九二六)年第一書房刊)の当該ページはここ。私電子化注は、ここ。]

2026/01/07

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その6) / 鱶鰭の說~(図版1)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。以下、全部で十三枚の図版がある。例によって、汚損はかなり拘って清拭した。しかし、以下の第1図版は、捕獲後のサメの個体図であり、本体の黒い部分の中にある白点は、ほぼスレであるとは考えられるものの、では、塗り潰していいかというと、大いに、疑問を感じた。魚体の膨らみを表わすために、電燈や太陽光等で光っている感じを出して、立体感を示そうとしているとも採れなくはないからである。されば、その塗り潰しは、一切、やめた。また、三番目の個体のように、腹部の白い箇所に生じている黑色の斜線は、無論、印刷上のスレであるのだが、描いた人物が、そこにやはり膨らみのニュアンスを示すために、黒い点を添えていることは明らかであるからして、この斜線をすべて白くすることは、激しく躊躇せざるを得なかったから、やはり手を加えていない。]

 

【図版1】

Fka1

 

■「尾長《をなが》ぶか」

 「一名、をなかさめ。」

[やぶちゃん注:二行目は、原図では、「一名」が、右手にあり、「をなかさめ」と判じた部分が左側にある。当初、「一名を、なかさめ」だろうかと思ったものの、種同定の過程で、以上に読み変えた。而して、この二番めの表記は「をながさめ」の濁点落ちと考えた。そもそも、この極めて特異的に尾が上方にすっくと突き出るもので、生物学上はサメ全般に普通に見られる尾鰭の上葉部が長くなっていて、それを「異尾」と呼ぶが、この形状は、取り分け、他のサメ類とは、群を抜いて突き上がっており、明らかに、

ネズミザメ上目ネズミザメ目オナガザメ科オナガザメ属 Thresher(同科は一属のみで、三種を含む)

であると断定出来る。ウィキの「オナガザメ」に拠れば、『オナガザメ属では上葉の伸長がとりわけ著しく、胴体とほぼ同じ長さかそれ以上になる。尾の付け根の筋肉が発達しており、マグロやカジキ、サバなどを切り裂いたり気絶したところで食す』とある通りのハデさを示しているである。同属三種は以下で、総て本邦に分布する(世界分布は当該ウィキを見よ)。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の各種のページを示す。

ニタリAlopias pelagicus (「似たり」で、「由来・語源」に『オナガザメ(真オナガ)に似ているから』とある)

ハチワレAlopias superciliosus(「鉢割れ」で、「由来・語源」に『頭部に筋状のくぼみがあるため』)

マオナガAlopias vulpinus (「真尾長」で、「由来・語源」に『模式標本のオナガザメであるためだと思われる。それで「真」をつけた。「尾長鮫」は神奈川県三崎での呼び名からで、見た目通り』とある。

以上の「ハチワレ」のリンク先は、尾が見えないので、まず、学名で「グーグル画像検索」をリンクしておくが、比較し易いように、同様に、ニタリのそれも、マオナガのそれも示しておこう。⋯⋯この三種、かなり似てはいる⋯⋯しかし⋯⋯よく見ると、マオナガのは前の二種に比べると、頭部がスマートな鋭角ではなく、下顎から腹部にかけてが、相対的に太くなっているのが判る。本図でも、そこがまさにそうなっている。決定打は、別名「をなかさめ」であった。「マオナガ」の「地方名・市場名」に、『ヲナガ オナガ』とあって、採集『場所』を『福島県小名浜、東京、神奈川県三崎、富山県新湊・四方・生地、三重県・和歌山県紀州、高知』とし『参考『紀州魚譜』(宇井縫蔵)』とするのである。されば、これは「マオナガ」で間違いないと考えるものである。

 

■「けんさめ」

 「大隅「けんのくり」」

[やぶちゃん注:以下、図の左側のキャプション。]

 「大なるものなるもの、三、四尺。

  色、黑く、口、小さく、歯、細く、

  耳、あり。此《この》ふか、害を

  なさす[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]。

  従来、膽《きも》、疳《かん》・目病《めのやまひ》に用ふ。」

[やぶちゃん注:これは、全体のスマートさと、特に吻から頭部に至る箇所が、これまた、スラりとして長いことから、ツノザメ目ツノザメ科ツノザメ属 Squalus と踏んだ。さらに検討するに、

トガリツノザメ(尖角鮫)Squalus japonicus

であろう。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見よ。他に、

ヒレタカツノザメ(鰭高角鮫)Squalus formosus (同前の同種のページは、ここ

フトツノザメ(太角鮫)Squalus mitsukurii(同前の同種のページは、ここ

がいるが、全体のフォルムを比較すると、今一である。なお、民間処方らしき記載があるが、確認出来なかった。]

 

■「しろふか」「しろさめ」

[やぶちゃん注:名から、

メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus

と思ったものの、全体にふくぶくしくて、ちょっと迷った。しかし、漁獲後、時間が経って、不腐敗が起こっている個体なのかも知れない。]

 

■「しゆもく」

 「西國にて、ねんぶつふかといふ。

  土佐にて、かせふかといふ。

  長《ながさ》、一𠀋餘《よ》に至る。」

[やぶちゃん注:傍線は画像では、右附き。さて、私の「かせふか」に疑問を抱く方がいると思う。『「かせふく」にしか見えない』と。しかし、下手な崩し字では、「か」の字の崩しが、「く」に見えることは、往々にあるのである(私は図書館司書資格を所持するが、「資料特論」の講義で、散々、地下文書判読で悩まされた)。信じられない方は、「人文学オープンデータ共同利用センター」の『「か」(U+304B) 日本古典籍くずし字データセット』の、そうさなぁ、『源氏物語 (485)』(「源氏物語」の例は二つあるので、その数字ものを見よ)の例えば、上から二段目の二つ目などで、右払いの時計回りの曲げが緩いものは、明らかに「く」のように見えることがお判りであろう。これは写本者によるもので、微かでも、よく見ると、時計回りは微かに見えるが、これが地下文書では、ただの「く」二しか見えないものが、しばしば見られるのである。河原田氏は、草書の達人でも何でもないから、こう書くことは、幾らもあろうと思うのである。しかも、ここは「かせふく」では意味不明だが、「かせふか」なら、バッチ・グーなのである。

 これは、百パーセント、

ネズミザメ上目メジロザメ目シュモクザメ科シュモクザメ属シロシュモクザメ Sphyrna zygaena

である。生体では、腹部は白いが、この図は鰭の様子から、斜め左上方から背部を描いたものと推察される。サイト“Mexican Fish”の“Smooth Hammerhead“、”Smooth Hammerhead, Sphyrna zygaenaの最初の画像を見られたい。概ね、一致を見ることが納得されるであろう。而して、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見て戴きたい。まず、その「代表的な呼び名」に★『シュモクザメ』とあり、「地方名・市場名」には、ズバり、★『ネンブツブカ』があり、「場所」は★『鹿児島』とある。他に、★『ネンブツ』があり、「場所」は★『玄海、佐賀、熊本県天草』とあって、以上は、本キャプションに『西國』と一致する。他に『ネンブツザメ』があり、「場所」は『茨城県大津』とあった。次に、問題の『カセフカ』であるが、やはり、「地方名・市場名」には、ズバり、★『カセブカ』が挙がっており、「場所」は『和歌山県白崎、大阪、広島県、山口県下関』とある最後に、★『高知県』とあるのだから、誰も文句は言うまいよ。]

2026/01/05

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その1) 目次その他・「序」(米空軍少佐 エモリー・L・タアリー)・「自序」・「緖言」

[やぶちゃん注:本オリジナル電子化は、底本を国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』(本登録をしないと見ることは出来ない)である桑原羊次郞 著の「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊)の画像に拠り、基本、視認してタイピングして作成する。以下の没年で判る通り、本書はパブリック・ドメインである。底本が、以上の『送信サービスで閲覧可能』扱いとなっているのは、挿絵を描いておられる松江市出身の染色工芸家であられた金津滋(かなつしげる 大正一二(一九二三)年~平成八(一九九六)年)氏が著作権継続であるためと推定される(金津氏の事跡については、当該ウィキを見られたい)。従って、本書の本文を電子化することは、何ら、問題はない。無論、随所にある金津氏の作品の画像は、非常に味わいのあるものであるが、一切、画像としては使用出来ないので、当該箇所は、私が、注で解説した。

 作者桑原羊次郞(くわばらようじろう:慶応四(一八六八)年~昭和三〇(一九五五)年)氏は、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『明治後期から昭和前期にかけての美術工芸研究家、社会事業家、政治家(衆議院議員)。号は双蛙(そうあ)』。『肉筆浮世絵コレクター、装剣金工研究家として知られる』。明治四三(一九一〇)『年の日英博覧会では日本美術部門委員を務めた』。『代々』、『松江藩両替商を務めた「桑屋太助」本家の6代目・愛三郎の次男(第4子)として生まれた。明治9年(1876年)より内村友輔(鱸香)の私塾「相長舎」に通う。明治14年(1881年)5月、本町小学校上等科を卒業し、同年9月に松江中学校へ入学した。在籍当時の松江中学校長は渡辺譲で、初等中学科での同級生には桂田猪熊・林玉之助・小倉寛一郎・成相伴之丞・森田龍次郎がいた』。『明治18年(1885年)7月に中学を卒業した後、上京して神田錦町に新設された英吉利法律学校に入学する。在籍当時の校長は創立者の一人である増島六一郎で、講師には菊池武夫・岡村輝彦・奥田義人・土方寧・平沼騏一郎・馬場愿治らがいた。また、後に外務大臣となる小村寿太郎が「英国法律」を講義していた。明治22年(1889年)9月、英語法学科の第1期生として特別認可部を卒業した』。『明治22年(1889年)、桑原本家7代目を継いでいた兄・猪太郎が27歳で病死したため、急遽松江に帰郷して本家8代目の家督を相続することになった。翌明治23年(1890年)、佐々木佐吉郎・諏訪部彦次郎らとともに私立松江法律学校を殿町に創立し、支持を仰いだ岡崎運兵衛が名誉校長に、羊次郎が校主兼講師となったが、明治24年(1891年)、羊次郎が渡米の意志を持って再び上京すると、同校はこの留守中に廃校となった』。『明治24年(1891年)、上京した羊次郎は菊池武夫、小村寿太郎宅を訪問し、アメリカ留学について助言を得た。同年10月、横浜港から出発して渡米し、ミシガン大学では同校卒業生並の待遇で大学院に入学、明治25年(1892年)6月「マスター・オブ・ロース」(Master of Laws:法学修士)の学位を得た』。『再び松江に帰郷し、明治27年(1894年)8月、松江商業会議所の特別会員に当選した。明治28年(1895年)10月、織原万次郎・山本誠兵衛・清原宗太郎とともに松江電灯株式会社発電所を殿町に設立。明治29年(1896年)1月には松江銀行監査役に当選、明治31年(1898年)1月同行取締役に就任した』。『大正6年(1917年)4月に、第13回衆議院議員総選挙で島根県松江市から選出された岡崎運兵衛が、大正8年(1919年)12月に死去したことに伴い、大正9年(1920年)1月に行われた補欠選挙で当選して』、『衆議院議員となり、憲政会に所属して1期在任した』。『以降、小泉八雲記念館、私立松江図書館(現島根県立図書館)、中央大学島根学員会の創設に携わる』。『昭和30年(1955年)逝去。旧蔵書や自著からなる「桑原文庫」が島根大学附属図書館にある』とある。以下、「著作」は引用元で見られたい。

 さて。私は、小泉八雲を小学生の時から、偏愛してきた八雲フリークである。さればこそ、二〇二〇年一月十五日にブログ・カテゴリ「小泉八雲」で、彼の来日後の作品集全十二冊総てのオリジナル電子化注を完遂している(日本語で、来日以降の八雲の作品総てを読めるのは、私のブログ・サイトだけである)。しかし、私は、実は、文学分野の評論――というか「評論家」なるものを、常に、どこか、胡散臭いものと感じている人種でもあるのである。さればこそ、最も愛する芥川龍之介に関するもの以外を除いて、文学評論の書籍を余り読んでいないし、蔵書でも相対的に少ない。而して、小泉八雲関連のものでも、尊敬する平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集に付随しているセツ夫人や長男一雄氏のものさえ、二十代の時に読んだきりであり(そこには実は桑原氏の本書に対する批判が載っているのだが、すっかり失念していた)も、ちゃんとしたものでは、以下に述べる長谷川洋二氏の「小泉八雲の妻」ぐらいしか読んでいない。その中で、本書については、知ってはいた(後述する)のだが、つい先日、「ばけばけ」が話題になっている中で、たまたまFacebookのある投稿で、本書の《鶯のエピソード》の部分(本底本のここの右丁の最終段落である)が写真で載っていたのを見て、それを読んで、俄然、惹かれ、この仕儀に至ったのであった。

 ところが、ここ数日、ネットを調べていると、本書については、例えば、ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」を見て、まず、びっくりした。そこでは、本書の金津氏の挿画が、しっかり画像で載っているのである。いやいや、それは、当然なのであった。このブログ主は金津滋のお孫さんなのであった! 底本のものよりも、遙かに美麗なので、是非見られたい!⋯⋯いや⋯⋯しかし、そこで、ブログ主は、

『本書の内容はいささか問題ありとされているため、内容に触れることは避ける。』

と書いておられたのである。

⋯⋯その瞬間! 思い出したのである!

⋯⋯長谷川洋二氏の「小泉八雲の妻」の一節を!

 幸いなことに、やはり、国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』のここで、一九八八年松江今井書店刊の当該箇所(『㈠ 実情解明の試み』の冒頭に「旧来の説明」以下)を見ることが出来る。――因みに、この長谷川氏の御本は、作者から献本されたもので、実は、長谷川氏は、私が最初に国語教師として勤務した神奈川県立柏陽高等学校で、同僚(担当は世界史)であったのである。――

 さて、そのここで、本書名が出て、その条の最終段落で、『しかし、二人の結婚に関する、この富田ツネの長男の証言は、後述の通り、事実関係に矛盾があり、その信憑性(しんぴょうせい)が疑われた。そしてセツとハーンの長男である一雄は、ハーン生誕百年の昭和二十五年に出版された『父小泉八雲』の中で、桑原羊次郎を無責任と非難し、改めて、西田千太郎を『両親の媒酌人』と呼び、二人は明治二十三年十二月に結婚したと書いたのである。桑原羊次郎一旦(いったん)封じられた。』とあるのである。

 しかし、長谷川氏は、その、続く『新しい解釈』で、鮮やかにその後の新事実が語られるのである!⋯⋯さても⋯⋯ここ以降は、是非、最近、新版となって書店に並んでいるので、是非、御購入戴いて、お読みあれかし!

 而して、ますます、私の中で、「このオリジナル電子化注は、せずんば、あらず!」と響いたのであった。

 なお、本書は、その奥附に(赤字で記されてある)、

『昭和25年5月25日印刷・昭和25年6月1日発行・昭和27年5月1日第2版昭和2810月1日第3版・著者桑原羊次郞・發行者 三宅美代治(松江市殿町383)・印刷者 宮井一雄(松江市殿町383)・印刷並發行所 山陰新報社(松江市殿町383)・定價1册50円・惣領8円』とあり、初版も既に敗戦後なのであるが、実は、以下の「序」文の最後のクレジットは、『昭和十五年六月二十三日』とあるので判るように、当初の企画は戦前であったことが判る。従って、以下の本文も戦前に元原稿が出来ていたと考えてよく、従って、元原稿は、当然、歴史的仮名遣で正字であったのである。また、初版の頃も、未だ活版植字の移行期であり、しかも、初版の原印版を、後も使用し続けたらしく、漢字は旧字体が多く見られ(同じ漢字でも、新字や異体字の混淆が甚だしい。しかし、それもUnicodeで表記出来るものは、完全に再現しておいた)、歴史的仮名遣の一部が残っているものが、かなり散見されるのだが、忠実に電子化するので、基本的に、そうした時代の匂いを味わいながら、読まれたい。若い読者が、激しく躓くところ以外には、ママ注記は、なるべく、しないつもりではある。而して、読みを添える場合は、歴史的仮名遣と現代仮名遣の二種を附すこととする。それが作者への、せめてもの親切心の表明と考えるからである。

 さらに言っておくが、私はドラマ「ばけばけ」に《便乗して、この電子化を手掛けているのではない》ことを明言しておく。私は無論、毎日のそれを、見ている。テレビ視聴は、それだけ、である。私は現在、ブログ・サイトに於いて、複数の電子化注プロジェクトを行っており、さらに、国内だけでなく、外国の日本文学の院生や研究者からの問い合わせや助言で、非常に忙しい日々を暮らしている。されば、テレビは「ばけばけ」だけを、録画で、昼食時に見ているだけである。さらに、《同ドラマの激しい脚色にも一家言ある人種――あまりに事実と異なる部分に対して――ある者であり、ドラマにすっかり惹かれている視聴者にとっては、聴きたくない事実をも注で語ることを辞さない》ことをも御理解戴いた上で、この電子化注を読まれるように、切に願うものである。

 

 

[やぶちゃん注:表紙。]

 

 

松江に於ける

 

 

 

[やぶちゃん注:中央に切り紙風の黒い円の中に八雲の真右からの顔。]

 

 

[やぶちゃん注:。]

 

松江に於ける

 

 

 

[やぶちゃん注:中央に切り紙風の四つ角を内側に窪ませた中に、上に首の先と煙管(きせる)の羅宇(らう:吸い口部分)、下に同じ煙管の首の根本と雁首(がんくび:火皿(ほざら))の図。]

 

〔島 根 叢 書〕

― ⑪ ―

 

1 9 5 0

 

[やぶちゃん注:「目次」。ここの右丁。下方に中央に、「扉」とは異なる煙管の切り紙風の図がある(三本から成るもので、上に大きな太い全景、中央左に異なるものの吸い口部分、下に別な短い小さなもののほぼ全景)。中央に朱印の国立国会図書館蔵書印(年月日は『52, 9. 16』。国立国会図書館所蔵記号番号が左上(手書き)・下中央(スタンプ)が打たれてある(記号番号は異なる)。リーダーとノンブルは省略した。「目次」・「裝𤲿・カット」はゴシック。]

 

   目  次

序     文   エモリー・L・タアリー

自     序

緖     言

八雲の私生活

 富 田 旅 館 時代

 京店と北堀時代

 住     居

 衣 服 調 度

 食 事 と 嗜 好 品

 習     癖

 交     友

 雑     事

小泉八雲略傳

     裝𤲿・カツト  金 津  滋

 

[やぶちゃん注:写真ページの一枚目(写真ページは総て印画紙。画像も恐らく著作権満了と思われるが、万一の場合を考えて、示さない)。ここの左丁。上左半分に小泉八雲の知られた右からの楕円形縦のポートレイト写真。以下は、その写真の左下のキャプション(縦書)。]

 

 ヘルンの肖像

 

[やぶちゃん注:以上の下半分。横長の写真一葉。恐らく、記念写真葉書かとも思われる。以下、その写真の右請上のキャプション(横書・左から右へ。最後の鈎括弧無しはママ)。]

 

 史 蹟  「小泉八雲旧居」松江市北堀町(全景)

 

[やぶちゃん注:ここの右丁。写真二枚。上と下の写真へのキャプション(左下方にある)。一行字数を合わせた。]

 

 上 八雲遺愛の品々。トラン

   ク、机、椅子、ランプ、

   ペン皿、火鉢、キセル等

   八雲記念館(八雲旧居隣

   接)内に陳列。

 

 下 八雲遺愛のルリヤナギ、

   旧居玄関入口。

 

[やぶちゃん後注:以上の「ルリヤナギ」というのは、漢字で「瑠璃柳」=ナス科ナス属ナス科ナス属 Solanum melanoxylonsynonymSolanum glaucophyllum )。小低木で、ヤナギに似た葉と星形の花を咲かせ、切り花にも好まれる。暖かな地方では花の後に瑠璃色の実がなる。]

 

[やぶちゃん注:ここの左丁。写真三枚。それらの写真へのキャプション(右中央にある。同前)。モノクロームであが、かなり上手く撮られてある。]

 

 上 八雲の居間より根岸邸前庭を望む。

 

 中 根岸邸前庭より八雲の居間を望む。

 

 下 八雲の居間より書斎を通して蓮池を望む。

 

[やぶちゃん後注:「根岸邸」八雲が住んだ屋敷は、江戸後期の松江藩士であった根岸家の武家屋敷であった。]

 

[やぶちゃん注:写真ページの最後。ここの右丁。手書き(作者不詳)であるが、よく書けている(全体は枠ではなく、塀である。左上納に勝手口がある。方位指示附きで、『正門』・『土蔵』『四・五坪』・『物置』『六坪』・母屋の各部屋の詳細配置(各部屋の畳帖数明示)が描かれ、庭も池らしきものもある。図に右下方に『建坪四七・七五坪』とある。非常に見易いので、地図内の細かなキャプションの全部までは電子化しない。以下は図の下方にキャプション(印刷)のみ示す。]

 

 小泉八雲舊居平面圖。松江市北堀町に現存、

 昭和15年8月史蹟の指定を受く。

 

 

     

 

 ラフカデイオ・ハーンのこれらのささやかな追憶を世の人々に保存して來た桑原氏の先見に對してこの著書の讀者は最大の感謝を感じているに違いない。

 短期間ではあつたがハーンの松江在住に際して彼にかしずいた二人の婦人の記憶をひき出した、これらの小さなそして非常に新しいスケツチは無限の價値を持つものであり、またハーンと彼を深く愛する歸依者たちとの間をつなぐなお一つのリンクを形ずくる[やぶちゃん注:ママ。]ものである。

 ハーンは松江とその善良な人々に屬する愛を決して失わず、たえず彼の妻に對して松江ヘの歸還を許容するようにと、熱心に求めた。しかし大都市の魅力を節をとりこにした。そして短い来訪を除外しては彼は再び愛する出雲へ歸ることができなかつた。

 もし彼が松江を離れなかつたとしたら、またもし彼が松江に歸えることを許されていたとしたら、彼の世界はたしかにより豐かなものになつていたであろう。なぜなら彼が〝古日本〟の小片を學んでから後は再び妖幻なタツチを得ることはできなかつたからである。

 松江時代はいくつかの理由からハーンの日本生活に於ける最重要なものであつたといえる。ここで彼は彼の妻節に會い、彼の友にしてまたよきアドバイザーであつた西田千太郞、彼にとつて貴重な文學的アシスタントであつた大谷正信、そして古日本の最後の姿に際會したのだ。

 ここで彼は自身を特異な生活の樣式に適應させ、また出雲傳說へふみ入れさせていつた。また彼は彼自身を家長とするサムライ家族たらんとする考えを確立させた。そして彼こそはあるがままの日本の生活を實際に見得るものとして三浦按針(ウイリアム・アダムス)以來の最初の西歐人であると感じたのである。

 彼の憩いの小さな夢は、寒い松江の冬のきびしい刺戟によつて空しくもうちくだかれ、彼をしてこの仙境を永遠に去らしめてしまつた。それは玉手箱の中をのぞき見た時突如として仙境から現實にひきもどされたあの浦島太郞に似ていた。

 桑原氏のこの示唆に富んだ著書にふくまれている事件や常識では吹き出してしまうようなナンセンスの數々は、ハーンの松江時代の幸福を形ずくつた生活の小片である。これらのことがらから現實にはあり得ない夢幻の世界が作られまた彼の現實からの開離[やぶちゃん注:ママ。「乖離」。]は、彼に關して起つた事柄について、愉快にも理解の手のとどかなかつたことによるところ少し[やぶちゃん注:「すくなし」。]としなかつたのである。

 家族圏內に起きた多くの危機に際してハーンと節の間に緩衝を用意した西田千太郞の思慮と氣轉、この小さなプロフエツサーを幸福にならしめるために籠手田知事によつて與えられた敎訓はイルージヨンを保存する上に大きな効果となつている。

 一九四九年六月、松江を訪れる機會があつたので私はこの美しい土地へのハーンの感情を諒解できるのである。私はあえていうがこの美しい土地は戰爭にもかかわらず殆ど變つていない。停車場と電車線――その何れもが都市のプロパーには入つていないが――[やぶちゃん注:助詞「が」が欲しい。]出來た以外にはハーンが彼の夢幻の世界を破壞することを恐れていた工業主義のタッチは少ない。實際自轉車があり、少々の自動車があるが、カランコロンの下駄の音が昔のままに大橋の上や露路に響いている。

 私の訪問は短時間であつたが、變化に富んだ宍道湖やあらゆる方角に峨々たる地平を劃す靑い山脈の見通しにハーンが感じたと同じノスタルジヤを私も感じた。人が桑原氏の作品を讀む時「知られざる日本の面影」の記憶の薄らがぬ人々を同樣のノスタルジヤがひきつけるであろうと信ずるものである。

   一九四九年七月二十日 東京にて

     米空軍少佐 ヱモリー・L・タアリー

 

[やぶちゃん注:原文を書いた「米空軍少佐」である「ヱモリー・L・タアリー」という人物は、かなり探してみたが、見出すことが出来なかった。識者の御教授を乞うものである。にしても、全体に、極めて好意的な、素敵な献辞である。一九四九年時で少佐であったということから、既に亡くなられており、著作権満了であろうと推定するが、万一、著作権が継続していることが判ったら、カットする用意はある。但し、これは、桑原氏の訳者権が第一にあるのであればこそ、カットする必要は、私は、無い、と考えるものである。

「彼の憩いの小さな夢は、寒い松江の冬のきびしい刺戟によつて空しくもうちくだかれ、彼をしてこの仙境を永遠に去らしめてしまつた」現在、小泉八雲(当時はラフカディオ・ハーン)が松江を去って、熊本五高のお雇い教師となったのは、実際には、妻の節さんを見る当時の松江の人々の偏見に満ちたそれに、八雲が堪えられなかったからであることが、明らかになっている。繊細な小泉八雲なればこそ、である。

「西田千太郞」(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)は教育者。郷里島根県で母校松江中学の教師を務め、この明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと親交を結んだ(当時は同校教頭であった)。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郎日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に惜しくも三十六の若さで亡くなった(「講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「大谷正信」英文学者大谷正信(明治八(一八七五)年〜昭和八(一九三三)年)。松江市生まれ。松江中学のハーンの教え子で、東京帝大英文科入学後もハーンの資料収集係を勤め、後に金沢の四高の教授などを勤めた(室生犀星は彼の弟子とされる)。また、京都三高在学中に虚子や碧梧桐の影響から句作を始めて子規庵句会に参加、繞石(ぎょうせき)の俳号で子規派俳人として知られる。

「籠手田知事」(天保一一(一八四〇)年~明治三二(一八九九)年)。元平戸藩士で剣術家としても知られた。維新後は明治元(一八六八)年の大津県判事試補就任に始まり、大津県大参事・滋賀県権令・滋賀県令・元老院議官を経て、明治一八(一八八五)年九月四日に島根県令(県知事)となっている(翌明治十九年七月十九日に「県令」から「知事」に呼称が変更された。島根県知事退任は明治二四(一八九一)年四月九日)。ハーンと籠手田の接触は早く、同年の六月頃であることが、個人サイト「わにの昼寝」の「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)」(リンク先の少し下の記事)の以下の記載で判明した。ハーンは日本到着(四月四日)の三ヶ月後には、『東京で』、『当時』、『島根県知事であった籠手田安定(こてだやすさだ)と、島根県尋常中学校および師範学校の英語教師となる契約を結んだ。当時としては破格の月給』百円で、『ハーンを雇い入れた知事の籠手田安定は、殖産や教育に力を入れ、わらじ履きで県内を巡視し、人情味豊かな知事として知られていた』とあるからである。続いて籠手田は新潟県知事・滋賀県知事を歴任、最後は貴族院議員となっている。なお、ウィキの「籠手田安定」も参照されたい。ハーンが一目で惹かれた古武士のような肖像写真が見られる。

「プロパー」 ‘proper’は、形容詞で「その分野に本来的で固有な」の意。この訳では、準名詞的用法で、当時の「現代風の要素を代表するもの」の謂いである。但し、「戦後の松江にあっては、それらは既に当たり前の対象であって、当たらなくなっているが、」というヱモリー少佐の印象表現である。

「知られざる日本の面影」小泉八雲が日本来日後、最初に纏まって書いた作品“ Glimpses of Unfamiliar Japan ”。私が最初にブログ・カテゴリ「小泉八雲」で本格的に電子化注したのも、この作品である。そこでは、主訳者であった落合貞三郎氏によって「知られぬ日本の面影」と訳されてある。]

 

 

[やぶちゃん注:以下。「自序」。「出版に當つて」はゴシック。署名は底本では、二字上げインデントである。]

 

   自 序

 

 私は松江人である。八雲が松江に來た明治二十三年は私の松江歸住中の時代で、私の師友である西田千太郞氏が松江市上、つとに八雲と共に徘徊しておられるのに遭遇したことがあり、その都度西田氏と挨拶を交換すると同時に、ただ八雲に目禮をなすまでの程度で、私は直接に交渉を有するものではない。

 明治四十三年(西曆一九一〇年)私は日英博覽會美術部擔任者としてロンドンにあり早やくも八雲の盛名を聽いた。その後欧米を歷遊して大正二年(西曆一九一三年)歸國に至る間、歐米到るところに於て八雲の文名の甚だ高いのに驚嘆した。

 當地出身友人法學博士岸淸一君もまたしばしば歐米に旅行して八雲の文名の高いのに驚愕した一人で、私は歸國後同博士とはかつて八雲顯彰のことに努めんことを約した。幸い私は鄕里松江にあつた關係上、大正四年(西曆一九一五年)松江市に於て知人數人と相謀り、八雲會を創設して今日に至つた。私は以上の如き因緣によつて今囘八雲の松江に於ける私生活を委細に檢討し、その全貌を後世に傳えて八雲傅記に數頁を加えんと欲するものである。

 要するに私は本書に於て、八雲が斯くの如く考えていたということをいうのではない。八雲は斯くの如き私生活をしていたというのである。けだし私は一文豪の全人格はその著書と書簡を精しく檢討するだけではなく、赤裸々な些細な私生活を透してこれを觀察するのでなければ決してこれを把握することが出來ないと信ずるからである。

   昭和十五年六月二十三日

           雙蛙 桑 原 羊 次 郞

[やぶちゃん注:「雙蛙」「さうあ(そうあ)」。彼の雅号。「Web NDL Authorities」の彼のページで確認した。]

 

 出版に當つて 私が本稿を完稿したのは實に十年以前で、當時既にヘルン先生に關して識者の注意があつたことは勿論であるが、今日の如く盛んではなかつた。しかし本年はヘルン先生百年祭の計畫があり、その生涯を映𤲿化する盛擧あり、國會もこの計畫に賛同するとの決議をなしたと聞く。けだしヘルン先生顯彰運動はその最高潮に達したかの感があるので、これを好期とする本書の出版は最も時機を得たものと思う。こゝにいささかその來由を述べるものである。

   昭和二十五年四月

          八十三翁 桑 原 羊 次 郞 再 識

[やぶちゃん注:「出版に當つて」はゴシック。
「法學博士岸淸一」(きしせいいち 慶応三(一八六七)年~昭和八(一九三三)年)は弁護士・法学博士。島根県生まれ。東京帝大卒。スポーツの振興に努め、大日本体育協会会長・国際オリンピック委員となる。没後、その功労を記念して「岸体育館が建てられた」。貴族院議員(以上の主文は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 

 

[やぶちゃん注:以下、「緖言」。『ハン』はママ。『』『』『』『四』はゴシック。セツ夫人の「思ひ出の記」の引用は、全体が一字下げで、行末は最後まであるが、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を減じた。]

 

   緖 言

 

 小泉八雲(ラフカデイオ・ハン)――松江ではヘルンと稱す――は、曰本に來朝以來、橫濱、松江、熊本、神戶、東京と五度その居所を換えているが、各地に於ける八雲の業績とその著書、あるいは彼の沒後に現われた八雲書簡集などについては既に發表された著書も少なくなく屈指にいとまあらずというてよい。しかして私はこれらについて何等の文的學論評をなすものではない。

[やぶちゃん注:「文的學論評」何となく奇妙な熟語である。思うに、「文學的論評」の誤植であろうかと思うのだが、第三版まで修正されていないというのも異様ではある。一応、そのままに示した。]

 私はただ八雲がその生活中最も愛着した松江僑居中に於ける日常私生活を詳記したもののの甚だ少ないことを遺憾とするものである。試みにその參考として左記諸書を引照する。

[やぶちゃん注:「僑居」歴史的仮名遣「けうきよ」(きょうきょ)で、「仮に住むこと・その住(す)まい・仮ずまい・寓居(ぐうきょ)」。]

 、「小泉八雲」

  田部隆次著、早稻田大學から大正三年(西曆一九一四年)四月十八日發行。

[やぶちゃん注:「田部隆次」(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)は英文学者。富山県生まれで、東京帝国大学英文科でハーンに学び、後にはハーン研究と翻訳で知られた。富山高等学校(現在の富山大学)にハーンの蔵書を寄贈、「ヘルン文庫」を作った。女子学習院教授を勤めた。

 なお、この著作は、国立国会図書館デジタルコレクションのここで、誰もが、読むことが出来る。]

 、「思い出の記」

  前記田部氏著書に掲載されている小泉夫人節子の記述である。

[やぶちゃん注:正しくは「思ひ出の記」である。小泉セツ(慶応四年二月四日(一八六八年二月二十六日)~昭和七(一九三二)年二月十八日)は当該ウィキに拠れば、『戸籍上の名前は小泉セツだが、本人は節子の名を好んだ』とある。解説にある通り、この作品は前の田部隆次「小泉八雲」の『第十一章 思ひ出の記』で『小泉節子』名義で、初めて活字化された。]

 、「松江に於ける小泉八雲」

 根岸磐井著、松江市八雲會から昭和五年(西曆一九三〇年)十二月二十日會行。

[やぶちゃん注:「根岸磐井」(ねぎしはんせい/いはゐ 元治元(一九六四)年~平成五(一九九三)年)は小泉八雲旧居当主にして、小泉八雲の教え子。「國指定史跡 小泉八雲旧居]公式サイト内の「小泉八雲旧居について」の「小泉八雲と根岸家」に拠れば、『この屋敷は、松江藩士・根岸家の武家屋敷でした。八雲が松江にいた当時、家主の根岸干夫(たてお)は郡長として転勤していたため』、『この家は空いており、庭のある侍の屋敷に住みたいと希望する八雲に貸すことになりました。八雲が気に入った旧居の庭は、根岸家によって1868(明治元)年に造られたものです』。『また干夫の長男である磐井(いわい)は島根県尋常中学校、熊本第五高等中学校、東京帝国大学で八雲の指導を受けた教え子でした。東京帝国大学卒業後、磐井は日本銀行に勤務していましたが、八雲が愛した旧居を保存するために1913(大正2)年に松江に帰り、1920(大正9)年から屋敷の一部を公開しました。その後、記念館設立などにも尽力しました』。『旧居は代々根岸家によって保存され、2018(平成30)年に松江市の所有となった後も、その意思を継いで大切に保存されています』とある。]

 四、「父八雲を憶ふ」

  小泉一雄著、警醒社から昭和六年(西曆一九三一年)七月十五日發行。

[やぶちゃん注:「小泉一雄」(明治二六(一八九三)年~昭和四〇(一九六五)年)は東京生まれで、小泉八雲の長男にして文筆家。早大卒業後、拓殖大教務部、横浜グランドホテルに勤務。後、父の遺稿の整理・書簡集の編集などに携わった(ここまでは講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。著作「父小泉八雲」もある。この「父八雲を憶ふ」の初版は国立国会図書館デジタルコレクションのここで、『送信サービスで閲覧可能』で見ることが出来る。]

 これらの既刊四書を熟讀して、松江市に於ける八雲の日常私生活を調査すれば、四書ともにこれを全く記していないというわけではないが、往々遺漏するものがあり、誤傳と見るベきものもあり、また矛盾と見るべきものがあつて何れも甚だ不備簡略に過ぎている。これこそ私をして訂正もしくは詳述して置くことの必要を感じさせた所以である。

[やぶちゃん注:ここより以下の内容は、本書の本文に語られる内容をダイジェストしているものであるので、人物・通称地名等の注はそちらでしっかりやることとし、難読かと思われるものは、調べて、読みだけは割注したが、基本、注は附さない。

 中でもその最も著しい誤傳と見るぺき一例は、これまでの諸書がすべて一致して八雲の結婚は明治二十三年十二月とも他旅館に於て擧行されたとなしていることである。しかし本年(西曆一九四〇年)六月十七日附八雲の親友西田千太郞氏の令弟、元九州帝國大学敎授西田精[やぶちゃん注:恐らく「せい」。ここPDF)の写真に添えられた自筆英文サインのイニシャルから推定。]博士の書簡によれば、博士が度々令兄の使者として京店裏[やぶちゃん注:「きやうみせうら」。根拠は本文で示す。]の八雲借宅(明治二十四年(西曆一八九一年)二月富田旅館からこの借宅に移居す)を訪問した時は、まだ節子夫人を見かけず、その後間もなく同宅に於て節子夫人と結婚式を擧げられたため、明治二十三年十二月に結婚したとの記事は何れも誤傳であると斷定したことである。その他八雲が根岸邸住居時代に、割竹の庭下駄をはいて愉快に庭園を散步したなどとの記事は、私をして大疑問を發せしめた事項で、その他これらに類似した諸點を解決すると同時に、その日常私的生活の全貌を詳記しておくことの決して無駄ではないことを信ずるものである。

 この目的を注するために最も緊要かつ適切な方法は、八雲が松江住居中、彼に最も接近した即ち朝夕八雲に親灸した人々を探し出して、その實見談を聽取することで、私はこの方法以外他によりよき方法のあるとは考えられないのである。

 そこで私はまず根岸磐井氏未亡人菖蒲[やぶちゃん注:「アヤメ」である。先の「國指定史跡 小泉八雲旧居]公式サイト内の「小泉八雲旧居について」の写真のキャプションにあった。]及び同氏令妹岸崎豐子の二女史を訪問して、八雲に親近した人々のうち今なお生存している人はないかと質したところ、幸いにも兩女史から節子夫人の「思ひ出の記」の中の次の一文中に見える、

 「この末次の離れ座敷(京店の偕宅)は湖に臨んでいま
  したので湖上の眺望が殊に美しく氣に入りました。し
  かし私と一緖(八雲の結婚)になりましたので、ここ
  では不便が多いというので、二十四年の夏のはじめに
  北堀(根岸宅)というところの士族屋敷に移りまして
  一家を持ちました。私共と女中と小猫とで引越しまし
  た。」

[やぶちゃん注:この当該部は、先の田部隆次「小泉八雲」の「第十一章 思ひ出の記」のここ(二行目以下)。但し、二つの段落になっている(後者は冒頭のみ)ものを接合して部分引用してある。]

 と記載してあるこの女中というのが、小泉氏の親戚高木苓太郞[やぶちゃん注:恐らく「りやうたらう(りょうたろう)」。]氏の一女、卽ち高木八百刀自で當年六十七歲を以て今なお健在でいられるのを紹介され、これについで更に驚くべき新發見の人物は往年八雲が富田旅館[やぶちゃん注:「とみたりよくわん(とみたりょかん)」。大森拓也氏のサイト「朝ドラマニア」の『ばけばけ』旅館の主人・花田平太(生瀬勝久)のモデルは誰?小泉八雲が宿泊した「富田旅館」の史実]に拠る。]滯在中、もつぱら八雲を世話した旅館主の妻ツネ刀自當時三十二歲で今なお八十三歲の高齡で富田別莊に隱棲していられるのを見出したことである。

[やぶちゃん注:「刀自」「とじ」と読む。女性に対する古風な尊称。現代でも旧家の女性に対して使われる。古代の后妃(こうひ)の称号の一つである夫人(ぶにん)も和訓は「オホトジ」である。戸主=トヌシの約か、ともいうが、不詳。七~八世紀の石碑・墓誌に豪族層女性の尊称として見え、「万葉集」にも「妣刀自(ははとじ)」等の例がある。「さまざまなレベルの人間集団を統率する女性」が、原義か。族刀自(ぞくくとじ)的なものから、家刀自(いえとじ)へと推移するが、古代には里刀自や寺刀自もおり、後世のような主婦的存在に限られていない。後宮(こうきゅう)の下級女官(にょかん)にも刀自がいた。以上は小学館「日本大百科全書」を主文に使用した。]

 斯くの如き好奇緣に惠まれた私は、天惠ともいうべきこの好機逸すべからずと、從来世人が閉却している富田ツネ、高木八百[やぶちゃん注:恐らく「やほ(やお)」。]兩刀自に面接して、この記錄を作成し得たことを最も喜びとするものである。

 なお本書中〔註〕とあるのは私がこの聽取書を完了した後に加えたものである。

   昭和十五年六月二十三日

 

          雙 蛙 桑 原 羊 次 郞 識

 

2026/01/04

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その5) / 鱶鰭の說~本文了

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。

 以下、全部で十三枚の図版がある。お待ちあれ。]

 

 鱶を捕獲するは、各地、異同ありと雖ども、九州地方の仕方を、よろし、とす。故に茲(こヽ)に其方法を擧(あぐ)れば、繩釣(なわつり[やぶちゃん注:ママ。以下、時に、このままで振る。])にして、其繩の長さは三百六十丈[やぶちゃん注:一・〇九一キロメートル。]、これに通例十一個(か)の鈎(はり)を連垂(れんすい)し、其鈎と鈎との間(あいだ)は各(おのおの)二十四丈[やぶちゃん注:七十二・七二メートル。]を隔(へだ)て、繩の兩端(りやうたん)には周圍三尺五寸[やぶちゃん注:一・〇六メートル。]、長(なが[やぶちゃん注:ママ。])壹尺五寸[やぶちゃん注:四十五センチメートル。]の浮樽(うきだる)を繫(つな)ぎ、繩(なは)は直(すぐ)に錨(いかり)に聯接(れんせつ)す。其(それ)に用(もちゐ[やぶちゃん注:ママ。])る餌(ゑ)は、量目(りやう《もく》)二貫目[やぶちゃん注:七・五キログラム。]許(ばかり)の鰤(ぶり)を十一に切り、每鈎(はりごとに[やぶちゃん注:「に」はルビにある。])、餌(ゑ)を揷(さ)し、漸次(ぜんじ)、繩を埀(た)る。而(しかう)して、朝(あさ)に收(をさ)むるを、『朝繩(あさなわ)』といひ、夕(ゆふべ)に收(をさむ)るを『夕繩(ゆふなわ)』といふ。『おろかぶか』の如きは、釣りて、船に近(ちかづ)きたる時、懸鈎(かけはり)二本を用ひて、口唇(くちびる)に、かけて、捕り、又、『探釣(さぐりつり)』といふもの、あり。其鈎(そのはり)は、長(ながさ)壹尺三寸[やぶちゃん注:三十九・四センチメートル。]、量目九十目[やぶちゃん注:三百三十七・五グラム。]あり。鰤の頭部を餌(じ)となし、艫邊(ろへん)に提下(ていか)し、其緍(そのいと)[やぶちゃん注:この「緍」は音「ビン・ミン」で、訓は「いと」・「さし」。意味は「糸・釣り糸」の他、「さし」と読んで「銭(ぜに)さし」、所謂、「銭の穴に通して銭をまとめる紐」として知られ、別に「繩」の意でも使う。この場合は、読みの「いと」よりも、「さし」、それも「太いさし」で、「繩」をイメージした方が実像に相応しい。]を舟中に繫きつけ[やぶちゃん注:「き」はママ。]、漁人(ぎよ《じん》)、これに枕(まくら)して、鱶の、餌にふるヽを待ち、其響きに應(おふ)して[やぶちゃん注:読み・清音孰れもママ。]、急ぎ、緍(いと)を曳く。時に當り、蟻は、其餌(そのじ)を逐(おふ)て、水面(すいめん)に、出づ。此(この)とき、銛(もり)を擲(なげう)ちて、衝(つ)き捕(と)るもの、とす。

[やぶちゃん注:「鰤」出世魚として知られる条鰭綱スズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata は、一年で三十二センチメートル前後で、以降、二年で五十センチ前後、三年で六十五〜七十、四年で七十五前後、五年を経ると八十センチメートルを超える。通常の大型個体は全長ほぼ一メートルで、体重八キログラム程度であるが、最大全長一・五メートルで、体重四十キログラムの捕獲記録がある(以上は「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の当該種のページと、当該ウィキを参考にした)。

「おろかぶか」国立国会図書館デジタルコレクションで検索したところ、「オロカザメ」の名で、昭和三(一九二八)年度の「水產試驗報告」(臺灣總督府水產試驗場編・臺灣總督府水產試驗場刊・発行は昭和五年)の本文のここで、使用されていることを確認したが、それを見ても、現在の和名の何に該当するか判らなかった。私は、鱶鰭の上級品となるものであって良く漁獲されるもの、さらに、以上の通り、捕獲する漁具のサイズが非常に大掛かりであることから――ヨシキリザメか、或いは、ネズミザメか――と踏んだ。サイズからは、前者が全長が三・八メートル、後者が三メートル超えであるから、前者に分(ぶ)がある。ところが、異名を見てみると、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のネズミザメの冒頭の「代表的な呼び名」に『モウカザメ』があり、これは「オロカザメ」に、かなり似ているように見えてくる。しかも、そこの記載をさらに見ると、表記は「もうか」「もーか」ともあるのである。一方、同サイトのヨシキリザメのページを見るに、地方名として「バカ」(『神奈川県国府津』)がある。鱶鰭としては、断然、ヨシキリザメである。決定打はネズミザメの方の「歴史・ことわざ・雑学など」の項には、『その昔はマグロ漁などにまざる厄介ものであった』とあって、急激に候補性が落ちた。されば、私は、

「おろかぶか」はメジロザメ目メジロザメ科ヨシキリザメ属ヨシキリザメ Prionace glauca の失われた異名である

と断ずることとした。異論のあられる方は、議論しましょう。]

 

 鱶鰭を乾製するには、簀(す)の上に並べて、晴日(せい《じつ》)に晒(さら)すに過(すぎ)ざれども、其鰭、新鮮のものを、よろし、とす。故に、日數を經(ふ)るものは、色澤、次第に、劣れり、とす。又、雨天の時は、焙爐(ほいろ)にかけて、乾かすを、よし、とす。

 

 淸國の販路に於ても、各地方・需用者の嗜好、一《いつ》ならず。湖北省は、『堆翅(たいし)』・『白皮(はくひ)』・『力墨(りよくぼく)』を欲(ほつ)し、其需用、中數(ちゆうすう)なり[やぶちゃん注:この「中數」というのは、「中核を為すメイン」の意であろう。]。湖南省は、『皮力(ひりよく)』・『堆翅』を欲し、需用、中數なり。江西省は、白・黑ともに欲し、需用、大數(たいすう)なり。河南省は、『堆翅』・『皮力』を欲し、需用、大なり。陝西省は、『堆翅』のみを欲すれども、需用、中數なり[やぶちゃん注:高額なんために、それを買わない者も有意に多い、ということであろう。]。四川省は『堆翅』を欲し、需用、大數なり。外崇(ぐわいすう)・慶州【崇慶州カ。】・資州(ししう)・錦州(しんしう)・茂州(もしう)・西陽州(せいようしう)の如きは、『堆翅』を欲し、需用、廣大なり。是を以て見れば、『堆翅』、卽ち、絲製(いとせい)を望むもの、多きに居(を)れり。本邦の如きも。宜(よろ)しく『堆翅』を製して輸出せば、利益を增加すること、少々に、あらざるべし。

[やぶちゃん注:いちいち、製品名の注をするのは、もう、疲弊しているので、やる気が起こらなない。ただ、非常に(しかも! 本書全体に関わる!)参考になるものを、国立国会図書館デジタルコレクションで見出した! 「通商彙纂 第6巻」(明治一九(一八八六)年/外務省通商局編纂のものを、一九八八年に不二出版が刊行したもの。本底本と同年!)の中の、「◎清國天津市塲海產物景況 (十九年八月二十八日在天津帝國療治舘報告)」で、その次のコマの四行目以下に、

   *

  • 鱶鰭(淸稱魚翅(イユイチー))黑白ノ二種ノモノ消費尤モ多シ何種ヲ問ハス肉厚ク翅ノ多キモノヲ貴フ翅根ニ多ク肉アリテ徒ラニ不用ノ斤量ヲ增スハ支那人ノ喜ハサル所ナリ

台灣產ハ味極メテ佳ニシテ煮後膨張シテ雪ノ如シ【一百斤ニ付百十両位ナリ】其評判極メテ宜シケレ𪜈價ノ貴キヨリシテ需用少シ

目下相塲白鱶鰭六十兩黑鱶鰭四十兩【一副百斤ニ就テノ價ナリ一副トハ頰後ノ兩邊ニアル翅二枚ヲ云フ背上ノ魚尾ヲ算セズ】ナリ

南方ヨリ輸入スル堆翅(トイチー)ト稱スルモノアリ。是レハ鰭ヲ割キ一煮シタル後晒シタルモノナリ其消費高極メテ少ナク一定ノ相塲ナシ

輸入年額外國ヨリ白鱶鰭二萬六千三百四十一両黑鱶鰭二萬二千六百三十両支那諸港ヨリ白鱶鰭六千四百六十四両黑鱶鰭二千四百四十六両ナリ

   *

他に、この記事には、既に終わった「鰑」・「昆布」・「刻昆布」・「鮑」といった項目があるのである! その内、これらを既注に追加しようと考えている。暫くお待ちあれかし。]

 

 夫れ、本邦は、內(うち)には、四周(ししう)の海(かい)に、鱶魚(ふかぎよ)、群泳し、外(そと)には、四億萬人(しおくまんにん)の鱶鰭需用者あるも、鱶漁(ふかぎよ)を營むもの、甚(はなはだ)、少(すくな)く、東北[やぶちゃん注:これは、本邦に東北地方のこととしか読めない。だからこそ、最後の二文の憤懣が、いや高になるのである。]・淸國の如きは、鱶を漁捕(ぎよほ)するも、貴重なる鰭を廢棄して、顧みず。故に、本邦鱶鰭の輸出は、甚(はなはだ)、多からずして、明治十七年の輸出高は、僅(わづか)に、二十四萬二千〇二十九斤、此代《このしろ》、價《あたひ》、七萬〇〇五十壹圓餘(よ)に過ず。宜しく、當業者(たうぎやうしや)は鑑(かんがみ)ずんば、あるべからず。

2026/01/03

桑原羊次郎「松江に於ける八雲の私生活」のタイピング開始

本日、桑原羊次郎「松江に於ける八雲の私生活」のタイピングを開始した。

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その4)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]

 

 本邦より、これを輸出したるは、長崎に淸國互市(ごし)[やぶちゃん注:「互市」の「市」は「売り買い」の意で、これで「売買交易を行うこと」、即ち、「貿易」の意である。]を開きし頃にして、「華蠻交易洽聞錄(くわばんこうえきがうもんろく)」に、貞享(ていきやう[やぶちゃん注:ママ。「ぢやうきやう」が正しい。])・元祿年間、長崎より輸出したることを載せ、又、「經濟祕書」にも、安永九年に、外國渡航船貿易品中(ちう)に、『鱶鰭』の目(もく)、あり。又、琉球よりは、淸曆康煕年間以來、年々、福州に輸出したること、琉球藩の舊記に見へ[やぶちゃん注:ママ。]、爾來(じらい)、絕へず[やぶちゃん注:ママ。]、長崎・那霸兩港より輸出したるも、東國にては、之を知るもの、なし。只(たヾ)、江戶にありし長崎會所(ながさきくわいしよ)にて、取集(とりあつ)め、輸出したり。當時、日本橋の魚商(ぎよしよう[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。])は、日々(ひヾ)、鬻(ひさ)ぐ鮫の鰭を、切り溜(た)め置き、會所に送りたり。該(がい)會所にては、壹貫目にて、僅(わづか)に銀六匁【今の十錢位】を以て買收せしは、文政年間のことなりし。然(しか)るに、年、移り、物、變り、嘉永年代に至り、外國貿易の途(みち)、開け、市場を橫濵に設(もう[やぶちゃん注:ママ。])くるや、魚商の中(うち)に、始めて鱶鰭の、淸國の貿易に適(てき)するを知りたるもの、あり。茲(こヽ)に於て、鱶の鰭を切取(きりと)るや、之を、船に載せ、橫濵に送り、淸國人に賣込(うりこ)むの業(ぎやう)を始めたり。當時、橫濵に於て、淸國貿易を專業としたる問屋(といや)は、僅(わづか)に三家(さんけ)ありしのみ。即ち、太田町《おほたまち》四丁目濵田屋元吉・本町中井某《ぼう》、及ひ[やぶちゃん注:ママ。]、同所水島屋某のみ、なりき。去(さ)れども、公(をほやけ[やぶちゃん注:ママ。])に賣込問屋(うりこみとひや)と稱せしは、中井・水島の、二戶《にこ》なり。凡そ、此頃の取引品は、生鰭(なまひれ)なるが故に、其運送と云ひ、品物(ひんぶつ)の處置(しよち)と云ひ、頗(すこぶ)る不便たりしか[やぶちゃん注:「が」の誤植。]、半ケ年(はん《か》ねん)の經驗により、遂(つい[やぶちゃん注:ママ。])に、乾燥するの利あるを知り、爾後(じご)は、直(たゞ)に、乾製(かんせい)し、之を、橫濵に販賣するに至れり。是(これ)、東國商人(とうこくしやうにん)か[やぶちゃん注:「が」の誤植。]鱶鰭を製造するの來歷なり。本邦在留の淸國人、及び、上海(シヤンハイ)等にて、鱶鰭を賣買するや、背鰭(せびれ)一枚、胸鰭(むなびれ)一對、尾鰭(をひれ)一枚、合せて四枚を揃へたるを、具備の品(しな)とし、價(あたひ)も、交(まじ)り品(しな)に比すれば、增加することは、廣業商會等(とう)の、每(つね)にいふ所なり。四枚壹揃(しまいひとそろへ)のもの、壹斤(いつきん)の價(あたへ)、壹圓五拾錢なれば、不揃(ふぞろへ)の下等品(かとうひん)は、四拾錢なり。平常(ふだん)の相庭(さうば)[やぶちゃん注:ママ。後注参照。]は軀(み)の長(ながさ)、六、七尺の鱶なれば、其乾鰭(ほしひれ)六拾枚にて、百斤の量あり、とし、又、『白(しろ)』と稱する最上品は、約百斤五十圓に賣却せらるヽも、『簀(よし)』と稱する品(しな)は、下等にして、貳拾貳圓に過(すぎ)ず。然(しか)るに、備具(びぐ)せざる鰭は、假令(たとへ)、『白』の最上品(さいじやうひん)にても、尾鰭(をひれ)のみなれば、僅(わづか)に四圓に止(とヾ)まれり。故(ゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に、壹揃(ひとそろへ)となすも、一《ひとつ》の要點なり。

[やぶちゃん注:「華蠻交易洽聞錄(くわばんこうえきがうもんろく)」編者不明で寛政七(一七九五)年(徳川家斉の治世)の序を持つ。ネットでは、そこまでしか判らなかった。

「貞享」(じょうきょう)「・元祿年間」一六八四年から一七〇四年まで。綱吉の治世。

「經濟祕書」「河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その12)」で既出既注。

「安永九年」一七八〇年。徳川家治の治世。

「康煕年間」一六六二年から一七二二年。

「江戶にありし長崎會所」老婆心ながら、これは、「江戸時代にあった」の意である。一応、当該ウィキをリンクさせておく。

「文政年間」一八一八年から一八三一年まで。徳川家斉の治世。

「嘉永年代」一八四八年から一八五五年まで。徳川家慶・徳川家定の治世。

「太田町《おほたまち》四丁目」現在の神奈川県横浜市中区太田町(おおたまち)。実は、底本では、ここ以下はベタで、

『太田町四丁目濵田屋元吉本町中井某及ひ同所水島屋某のみなりき』

である。私は、まず、最初の『濵田屋元吉』を「屋号+名前」と採った。何故なら、「元吉本町」という地名は、過去に於いても横浜には存在しないからであり、更に、後の二人には、わざわざ「某」を添えていることから、そう採ったのである。

「本町」所謂、横浜馴染みの者なら、ピンとくるのであるが、これは、「元町」の誤記ではあるまいか? 「三井住友トラスト不動産株式会社」公式サイト内の「写真でひもとく街のなりたち」の「神奈川県 横浜」の「横浜の商業地」の『日本人の貿易商の店舗が軒を連ねた「本町通り」』に、『開港当初の横浜・関内では、「神奈川運上所」(「横浜税関」の前身)が置かれていた現在の「日本大通り」を境に、桜木町寄りが日本人居住地、元町寄りが外国人居留地として割り当てられていた。日本人居住地の「本町通り」には、絹織物商の「椎野正兵衛商店」など、貿易商の店舗が軒を連ねた』とある。

「賣込問屋(うりこみとひや)」小学館「日本国語大辞典」に、『うりこみ‐といや‥とひや【売込問屋】』は『地方の生産者から買いつけた商品(おもに生糸)を輸出商や卸売商人に売る仲次ぎの問屋。』とある。

「廣業商會」『河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その13)』の私の注の冒頭を見られたい。]

2026/01/02

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その3)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]

 

 鱶鰭は熱湯をかけ、外皮(そとかわ[やぶちゃん注:ママ。])を去りて、絲狀(しやう)とし、美なること銀絲(ぎん)の若(ごと)し。これに、黃白の二種ありて、黃色(こうしよく)のものは、『きんひれ』、又、『きんすぢ』にて、「肇慶府志(《てう》けいふし)」の『金絲菜(きんしさい)』なり。白色のものは『ぎんひれ』、又、『ぎんすぢ』にて「廣東新語(かんとんしんご)」の『銀絲菜』なり。

[やぶちゃん注:「肇慶府志」明の陸鏊等纂のもの(一六四〇年刊)と、清代の「道光肇慶府志」があるが、「中國哲學書電子化計劃」で二種とも見たが、見当たらない。しかし、「美味求眞」(貴族院議員・衆議院議員を務めた、美食家としても知られた木下謙次郎が大正一四(一九二五)年に刊行した書)を現代語訳した「美味求真(びみぐしん)」のサイトの「第八章 魚類篇」トの「●鮫(さめ)」の項に、『魚翅は『閩書』には「鯊翅」とあり、『日本雜事詩』には「鯊魚翅」と述べられている。黄色と白色の二色であり、透き通って光がある。長さは36cm位で、頭が尖っていて針のようであり、食べると硬いが脆く味は淡白である。黄色のものは日本では金針、金スジ、金ビレ等と言われており、中国の『肇慶府志』にある「金絲菜」とはこの事である。白色のものは日本では「銀針」、別名で「銀ビレ」などと言われていて、これは『廣東新語』にある「銀絲菜」のことである。』あるとあるから、確かに載っているのだろうとは思う。識者の御教授を乞うものである。

「廣東新語」全二十八巻。広東地方の百科全書。これは、「中國哲學書電子化計劃」で「卷二十二 鱗語」で見出せた。以下。

   *

鯋有犁頭鯋、劍鯋、斑點鯋、虎鹿鋸鯋,背鬣而腹翅,大者丈餘。皮有沙,圓細如珠,可以治木發光潤。海水將潮,天將雨,毛皆起溼,雖千里外不爽。一名潮鯉,腹中有兩洞,以貯水養子。子必二,皆從胎生,朝出口,暮則入臍。其肉淡而鬆,以翅作銀絲菜,稱珍品。

   *]

 

淸國人が鱶鰭を食するの法は、先づ、乾鰭を溫湯(をんとう)に浸すこと、兩三日、柔(やわら)くを見て、外皮(そとかわ[やぶちゃん注:ママ。])を去り、筋(すじ[やぶちゃん注:ママ。])のみとなして、直ちに割烹に供(きやう)し、或は、此筋(このうsぢ)のみを乾(かはか)し、貯(たくは)へ置き、再び水に浸し、鷄肉(けいにく)の角切(すみきり)を油炒(あぶらいり)にしたるを、煑(に)だしとなし、水・酒、等分、醬油二分《ぶ》程、淡鹽梅(うすあんばい)にして、惟茸・葱等(とう)を混(こん)じ、煮(に)て、碗に盛るに、鰭を上(うへ)にす。これを『魚翅湯(ユーツータン)』といふ。此他(このた)、『紅燉魚翅(カウロンユツイ)』、『淸湯魚翅(ヘツサイユツイ)』、『白菜魚翅(ヘツアサイユツイ)』、『蟹粉魚翅(カイブンユツイ)』、『金銀魚翅(キンギンユツイ)』、『爛糊魚趨(ランコユツイ)』、『西滷魚翅(ツアユハユツイ)』、『魚翅球(ユツータウ)』、等の割烹(かつぽう)ありて、何(いづ)れも、厚待(ごちそう)の上割烹(じやうりやうり)とす。

[やぶちゃん注:「魚翅湯(ユーツータン)」サイト「わが街とくさんネット」の『東京 「赤坂四川飯店」陳建一監修 魚翅湯(ユイツータン)ふかひれスープ』のページに、画像があり(拡大可能)、『ふかひれ、たけのこ、しいたけを具材に使用し』、『鶏ガラスープにオイスターソース、香味油などで仕上げた濃厚でコクのあるふかひれ入りスープです』とある。

「紅燉魚翅(カウロンユツイ)」YouTubeの「中華一筋」の「【ふかひれ姿煮】 中華仕込みから仕上げ ≪紅焼排翅≫ Boiled shark fin with Brown sauce.」を見られたい。正直、これが、最も見る価値がある。

「淸湯魚翅(ヘツサイユツイ)」「百度百科」の「清汤鱼翅」を見られたい。『浙江料理を代表する料理の一つ』とあり、『その歴史は明代にまで遡り、フカヒレが料理に使われていたことから始まり、清代には宴会の重要な料理となっていた』とある。

「白菜魚翅(ヘツアサイユツイ)」中国語の「楊桃美食網」の「白菜魚翅羹(1)」を見よ。リンク先は台湾のもの。

「蟹粉魚翅(カイブンユツイ)」本邦のブログで、小薇さんの「シャウ・ウェイの幸せ中国料理」に『●蟹粉上湯魚翅皇(上海蟹入りふかひれの上湯姿煮込み、伊府麺添え)』とある。

「金銀魚翅(キンギンユツイ)」適切な記事が見当たらない。AIの答えを引く。正しいかどうかは判らない。『「金銀魚翅(Jīnyín yúchì)」は、中国料理におけるフカヒレの姿煮の一種を指します』。『金銀』は『料理の盛り付けや食材の色合い(黄金色と白)を例えた表現です。通常、濃厚な黄色のスープ(上湯や金湯)と、フカヒレの透明感のある質感を指します』。『この料理は、特製の濃厚な鶏』の『出汁』(だし)『スープで』、『フカヒレをじっくり』と『煮込んだ高級メニューとして知られています。伝統的な広東料理の献立などでよく見られる名称です』とあった。

「爛糊魚翅(ランコユツイ)」不詳。中文サイトでも見出せない。

「西滷魚翅(ツアユハユツイ)」不詳。中文サイトでも見出せない。「滷」の字は、中文サイトを見るに、「にがり」を意味するようだ。

「魚翅球(ユツータウ)」「百度百科」の「绣球鱼翅」が近いか。そこには、『四川の伝統料理』とし、『主に水で戻した鱶鰭と鶏の胸肉を使用し、ハム・糸瓜(へちま)や、卵を挙げたり炒めたりして薄いシート状に加工したクレープ上にしたものなどの副菜を添えて製したものである。出来上がったものは、刺繡した(「绣」)球状のような見た目となり、澄んだスープと、爽やかで香り高い味わいが特徴である。夏の宴会のメイン料理として、よく出される。』とあった。]

 

 鱶鰭は高價のものゆゑ、官菜(くわんさい/ごしきりやうり)に供して、家常菜(かじやうさい)に用ひずといへども、其需用高(じゆようだか)、頗る多量にして、海外より淸國に輸人する額は、一歲《いつさい》、凡(をほよそ)、三千担(たん)、其中(そのうち)漢口(ハンカウ)のみの銷路(せうろ)高《だか》、三、四百担に及び、明治十八年の價格平均は、百斤白鰭(しろひれ)、貳拾五、六兩、黑鰭(くろひれ)、貳拾兩なり。

[やぶちゃん注:「担」東洋文庫版の後注に、『後出』(「(六)寒天の說」の終わりの方の、ここの左丁の三行目の割注を指す)『によれば、一担は一六貫九九匁六分九厘八四とされる。一貫は三・七五キログラムなので、一担は約六四キログラムである。』とある。]

 

 前條淸國に輸入する蟻鰭、臺灣・新嘉波(シンガポール)、及び、印度9いんど)・布哇(はワイ[やぶちゃん注:ママ。])、並(ならび)に、本邦等にして、他邦のものは、背鰭(せひれ)、多く、胸鰭(むねひれ)、少く、而して、其鰭にハ、些少(すこし)の肉骨(にくほね)をも附着せず。其品位は、本邦產に優(まさ)り、殊に、品位を數等に分(わか)ち、各(おのおの)、標號(しるし)あり。印度、及び、新嘉波等(とう)より輸入する『黃玉剪(こうぎやうせん[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])』、『黃玉古(こうぎよくきつ)』、等(とう)の如きは、表面、淡靑色(うすあをいろ)に白色(しろいろ)を帶びて、裏面(りめん)、淡黃色(うすきいろ)にして、光澤あり。故に、百斤の價(あたひ)、六拾八、九兩の高價(かうか)なり、とす。又、同(どう)地方產にして、『隔紫貳沙(かくしじしや)』・『正中皮(せいちうひ)』・『板皮力(はんぴりやく)』・『上吉三沙(しやうさんしや)』・『貳沙(にしや)』等(とう)と稱するものも。何れも、表裏(ひやうり)、光澤ありて、良好なり。此中には、西洋に產するものも、あり。臺灣產(たいわんさん)にて『六港玉古(ろくかうぎよくきつ)』、寗波(ニンポー)[やぶちゃん注:「寗」は「寧」の異体字。]產にて『沙婆(しやば)』、廣東(カントン)產にて『老勾(らうこう)』と稱するものも、上好(じやうかう)にして、本邦產には、かヽる品位は、なし。然(しか)れども、是等の種類、なきに非らず。乾製法の不良なると、善惡(ぜんあく)の差等(とう)を分(わか)たす[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]、混交するによれり、とす。

[やぶちゃん注:面倒なので、漢名の確認はしない。悪しからず。次の段落のものも同じ。]

 

 鱶鰭は、自然の儘、乾かして販賣するのみにあらず。外皮(そとかわ[やぶちゃん注:ママ。])を去り、筋(すぢ)のみとせる者をも、商品とせり。是を『堆翅(タイツー)』といふ。價(あたへ[やぶちゃん注:ママ。])、殊(こと)に貴(たつと)く[やぶちゃん注:ママ。]、其品位に差等(とう)を分(わか)ち、『廣東堆翅(カントンたいし)』・『月翅(げつし)』・『雙椎翅(さうたいし)』・『單堆趨(たんたいし)』・『臺灣月翅(たいわんげつし)』等(とう)の標號(しるし)あり。之れに反し、本邦より輸入するものは、皆、肉骨(にくほね)を附着せしむるの弊(へい)あるのみならす[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]、善惡を混交して品位を分たず。本邦人は肉骨を付け、又、水に浸して、斤量を增し、利するところあるが如く、誤認し、爲めに、忌厭(きゑん[やぶちゃん注:ママ。])せられ、百斤の高にて、拾五、六兩の差を生じ、損失するに至れり。製產者の最も注意すべき要點なり、とす。

 

 本邦にて、鮫類の肉を、魚糕(かまぼこ)に用ひて、缺く可らざるものとし、或は燒き、或は煮、或は䀋(しほ)にし、或は、乾かし置き、食用とせしも、鰭を用ひしことは、甚(はなはだ)、少なし。山陰中納言の料理書に『さしみ』の『けん』に『しらが』と稱し、『ふかひれ』を用ふるを、當流の祕傳とす、とあるのみ。東國の人は、殊更に、知らずと雖ども、寬政年間、出版したる「淸俗紀聞」に、魚翅(ぎよし)、割烹(かつぽう)の仕方を、のせたり。

[やぶちゃん注:「山陰中納言の料理書」東洋文庫版の後注に、『四条中納言藤原山陰(八二四-八八)が創姶した料理作法についての書『四条流包丁書』(『群書類従』、巻第三六五)のこと。四条流は、藤原山陰が、光孝天皇の命により新たな庖丁式(料理作法)を定めたことに由来すると伝えられ、室町時代に『四条流包丁書』がまとめられた。』とあり、ネットでも、平安前期の公卿で、藤原高房の三男であった四条中納言藤原朝臣山陰(やまかげ 天長元(八二四)年~仁和四(八八八)年)が鯉を庖丁したことから、「四條流庖丁書」という伝本が生まれたとあるのだが、彼のウィキには、『四条流庖丁式の創始者と長く認識されてきたが、山蔭自身が庖丁式を執り行った事績・記録は無い。庖丁式の初見については、白河天皇』(保延二(一一三六)年)『に藤原家成が御前で鯉庖丁をして見せたことが記録(古今著聞集)されている』とあるばかりで、他には、『十九奉幣社のひとつ吉田神社』『と総持寺(西国三十三所二十二番札所)』、『さらに新長谷寺(真如堂内)(洛陽三十三所観音霊場五番札所)を建立・創建して』おり、『吉田神社の末社である山蔭神社に庖丁の神、料理・飲食の祖神として祀られている』とは、ある。

「淸俗紀聞」当該ウィキに『江戸時代の寛政年間に当時の長崎奉行の中川忠英を中心に編纂された公的な紀聞で、清王朝の乾隆年間の華東~華南沿岸部の風俗が絵図を交えて詳細に記されている。この清俗紀聞の最大の特徴として、各巻とも文と絵とが』、『ほぼ等量に割り当てられるなど、絵図の占める割合が極めて高いことが挙げられる』とある。詳しくはそちらを見られたい。]

2026/01/01

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その2)――本年の「書初め」――

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。]

 

「新撰字鏡(しんせんじきやう)」は『鮐(たい)』・『𩺬(つい)』・『鮰(ゑん[やぶちゃん注:ママ。音は「カイ」である。])の三字を『佐女(さめ)』と訓じ、「本艸倭名(ほんざうわみやう)」は『鮫(こう)、一名(いちみやう)、䱜魚(さくぎよ)』、又、『魦(しや)』を『佐女(さめ)』と訓ず。而して、二書ともに「ふか」を載せず。「延喜式」には、『鮫楚割(さめのすはり)』・『鮫皮(さめかわ[やぶちゃん注:ママ。])』・『鮫䐹、(さめのほじヽ)』・『沙魚皮(さめのかは)』・「鮐魚皮(さめのかは)」等を載せて、是亦、『ふか』を載せず。「倭名鈔」に始めて、「辨色立成(べんしきりつせい)」の『鮝魚(しやうぎよ)』を和名(わみやう)『布可(ふか)』と訓じ、別に『佐女』を載せたり。然(しか)れども。古(いにしへ)は、「さめ」と「ふか」との區別、分明ならず。而(しかう)して「塵添壒嚢抄(ぢんてんがいのうせう)」に『鰧(しやう)』を「ふか」とし、「本朝食鑑」は『鱶(やう)』を『ふか』と訓ず。「康煕字典」によれば、『鱶』は『鮝(しやう)』と同じとし、又、『鮝は乾魚(かんぎよ)なり』とありて、『ふか』の名にあらず。「本艸綱目」には『鮫(さめ)一名(《いち》みやう)錯魚(さくぎよ)』とし、「本艸綱目拾遺」に『鮫(さめ)、一名は鯊魚(しやぎよ)、亦、魦(さめ)に作る』とあり。「閩書」にハ『魦魚(さぎよ)一名鰒(ふく)、一名䱜(さく)、一名鯧(さく[やぶちゃん注:ママ。音は「シヤウ(ショウ)」。])、一名鰡(りう)とし、黃鯊(こうしや/はたざめ)、犁頭(れいとうしや/かいめぶか)、雙髻鯊(さうけいしや/しゆもくざめ)等(とう)の種類を載(の)するも、鱶(ふか)の字を、見ず。然(しか)れども、邦俗、從來、「鱶(やう)」の字を用ひ來(きた)るにより、其鰭(そのひれ)を鱶鰭(ふかひれ)と稱せり。而(しかう)して、淸俗は「魚翅(ぎよし)」と稱し、「英華字典」には『鯊翅(しやし)』とし、又、『白魚翅(はくぎよし)』、『黑魚翅(こくぎよし)』の二類に分(わか)ち、「支那貿易品解說」は『魦翅(さし)』とし、『白魚翅』・『黑魚翅』の二類に分ちしこと、前(ぜん)に同じ。

[やぶちゃん注:「新撰字鏡」「鮑」で一度、特定フレーズの注の中でしているが、かなり前のパートでやった書籍も多いので、この際、総て、再掲することとする。平安時代の漢和字書。全十二巻。僧の昌住(しょうじゅう)著とされるが、事績は不詳。昌泰年間(八九八年~九〇一年)に成立。漢字二万余字を偏・旁などによって百六十部に分け、字音・字義・和訓を付したもので、現存する最古の漢和字書である。一説に寛平四(八九二)年に三巻本が完成したとされるが、原本や写本は伝わっていない。その三巻本を元に増補した十二巻本が同年間に完成したとされ、写本が現存する。この十二巻本には約二万千字を収録する。

「鮐(たい)」平安時代漢字字書総合データベース編纂委員会編の「HDIC Viewer」のここで、『魚部第八十七』に『同字。勅丈反。壽也、老也。佐女。』とあったのを確認した。但し、次の注を見よ。なお、「廣漢和辭典」では、この漢字は、音「タイ・イ」で、第一義は『ふぐ』(=魚のフグ)で、第二義は『おいる【おゆ】。としより。』とあるだけで、サメの意味はない。

「𩺬(つい)」同前(部門も同じ)で、『鮐𩺬』『同字。勅丈反。壽也、老也。佐女。』とある。但し、「国書データベース」の画像で調べたところが、ここ(左丁上段後ろから四行目)に、

   *

𩺬【同勑文  反壽也老也佐女】[やぶちゃん注:「佐」は「グリフゥキ」のこれだが、表示出来ないので、かく、した。]

   *

で、こちらが正しい。なお、「𩺬」の漢語は、中文サイト「漢典」では『一种鳝鱼』とあり、これは中国で好まれる、お馴染みのタウナギ(田鰻・鱓・鱔・鱔魚:条鰭綱タウナギ目タウナギ科タウナギ属タウナギ Monopterus albus )の一種という意味だろう。従って、漢語にはサメの意味は、やはり、ない。なお、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『ミトコンドリアDNAの塩基配列に基づく研究によれば、タウナギは少なくとも中国および(九州以北の)日本に分布するもの、南西諸島に分布するもの、そして東南アジアに分布するもの、という3つの集団に分けられ、それぞれは互いに遺伝的に異なっていることから、独立した「種」であると考えられる。これらの内訳をみると、日本に分布するものは中国に分布するものと同じ系統に含まれるため、中国大陸から人為的に移入されたものである可能性が高いとされる。実際、1900年前後に朝鮮半島から奈良県に持ち込まれたという記録もある。なお、台湾には東南アジアの系統のものと中国・日本の系統のものがともに分布しており、いずれも人為的移入によるものかは定かでない』。『南西諸島に分布する個体群は、東南アジアのものとも』、『中国・日本のものとも異なる系統に属している。このため、中国・日本の系統からは570万年以上前に分岐したと推定される。したがって人為的移入は考えにくく、琉球には固有の在来タウナギ類が生息しているということになる ため、保護の必要性が指摘されている』とあるから、これらは、独立した種に分類される可能性が大である。

「鮰(ゑん[やぶちゃん注:ママ。音は「カイ」である。])」前のデータベースでは、掛かってこなかったので、「国書データベース」の画像で調べたところ、ここ(左丁下段後ろから二行目に、『※』(「※」は「𮫬」+(「グリフウィキ」のこれの中の部分のみを右90°回転させたような字体)として『左女』と確認した。而して、この漢字も調べてみたところ、「百度百科」に『鮠鱼的别称 [ Leiocassis longirostris ]』(学名は斜体に変更した)とあった。この学名は、何時もお世話になる鈴木雅大氏の「生きもの好きの語る自然誌」の本種のページで、『条鰭綱(Class Actinopteri),新鰭亜綱(Subclass Neopterygii),真骨下綱(Infraclass Teleostei),アロワナ巨区(Megacohort Osteoglossocephalai),ニシン上区(Supercohort Clupeocephala),骨鰾区(Cohort Otocephala),骨鰾亜区(Subcohort Ostariophysi),骨鰾節(Section Otophysa),ナマズ上目(Superorder Siluriphysae),ナマズ目(Order Siluriformes),ナマズ亜目(Suborder Siluroidei),ギギ上科(Superfamily Bagroidea),ギギ科(Family Bagridae),レイオカシス属(Genus Leiocassis)』の『イノシシギギ(猪義義,猪鱨,英名:Chinese longsnout catfishLeiocassis longirostris (Bleeker, 1864)』であることが判った。『中国北部と韓国の河川に分布しています』とあった。やはり、この漢語もサメの意味はないことが判明した。

「本艸倭名」深根輔仁(ふかねのすけひと)の撰になる日本現存最古の薬物辞典(本草書)。「輔仁本草」(ほにんほんぞう)などの異名がある。当該ウィキによれば、『本書は醍醐天皇に侍医・権医博士として仕えた深根輔仁により』、『延喜』一八(九一八)年に『に編纂された。唐の』「新修本草」(高宗が蘇敬らに書かせた中国最古の勅撰本本草書。陶弘景の「神農本草經集注」(しんのうほんぞうきょうしっちゅう)を増訂したもの)を『範に取り、その他漢籍医学・薬学書に書かれた薬物に倭名を当てはめ、日本での産出の有無及び産地を記している。当時の学問水準』の限界のため、『比定の誤りなどが見られるが、平安初期以前の薬物の和名を』、『ことごとく記載しており』、且つ、『来歴も明らかで、本拠地である中国にも無い』所謂、『逸文が大量に含まれ、散逸医学文献の旧態を知る上で』も、『また』、『中国伝統医学の源を探る上でも貴重な資料である』。本書は、後の『丹波康頼の』知られた「医心方」にも『引用されるなど』、『後世の医学・博物学に影響を与えた。また、平安時代前期の国語学史の研究の上でも貴重な資料である』。後、永らく、『不明になっていたが、江戸幕府の医家多紀元簡が紅葉山文庫より上下』二『巻全』十八『編の古写本を発見し』、『再び世に伝えられるようになった。多紀元簡により発見された古写本の現時点の所在は不明であるが、多紀が寛政』八(一七九六)年に『校訂を行って刊行し』、六『年後に民間にも出された版本が存在する他、古写本を影写した森立之の蔵本が台湾の国立故宮博物院に現存する』とある。

「䱜魚(さくぎよ)」この漢語は、「廣漢和辭典」で、『さめ』としてあるので、日中通意である。

「魦(しや)」同前で、第二義に『さめ。ふかざめ。』とあり、日中ともにサメである。

『而して、二書ともに「ふか」を載せず』私は「サメ」と「フカ」は同義と考えている。それを支持する内容は、例えば、幾つかの真摯な考証によれば、「有限会社 環境産業」公式サイトの「スタッフブログ」の「鮫(サメ)と鱶(フカ)の違いとは?」である。他にもそれを支持する内容のものは散見する。しかし、decodecochibita氏のブログの「釣り人語源考 フカ」は、なかなかに含蓄のある歴史的考証をされており、白眉である。引用したいが、かなり長いので控えるが、是非、一読されんことをお薦めする。

『「倭名鈔」に始めて、「辨色立成(べんしきりつせい)」の『鮝魚(しやうぎよ)』を和名(わみやう)『布可(ふか)』と訓じ、別に『佐女』を載せたり』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板本を元に推定訓読する。まず、「卷十九」の「鱗介部第三十・竜魚類第二百三十六」のここの「鮝魚」。

   *

鮝魚(フカ) 「辨色立成」に云はく、『鮝魚は【「布可(ふか)」。「居」「媛」の反。今、案ずるに、未だ詳(つまびらか)ならず。】』≪と≫。

   *

次に、ここの、「佐女」相当の「鮫」。

   *

鮫  「陸詞切韻」に云はく、『鮫【音「交」。和名「佐米」。】]魚皮に文(もん)有り、以つて、刀劔(たうけん)を飾(かざ)る者なり。』≪と≫。「兼名苑」に云はく、『一名、𩶅𩸹【「低」「迷」の二音。】。』≪と≫。「本草」に云はく、『一名は䱜魚【上は「食」「各」の反。】。』≪と≫。「拾遺」に云はく、『一名は「鯊魚(さぎよ)【上の音「沙」。字、亦、「魦」に作る。】」』≪と≫。

   *

「𩸹」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、かく、した。この「辨色立成」は、「倭名抄」の中にしか見えないことから、奈良時代(八世紀)の成立とされる和訓を有する本邦の漢和辞書とされるものである。

「塵添壒嚢抄」単に「壒囊抄(鈔)」とも呼ぶ。十五世紀の室町時代に行誉らによって撰せられた百科辞書・古辞書。同書の記載は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの活字本の、巻一の「五十九」条の、ここの右ページ六行目の中央部に『鰧(ふか)』とある。

「本朝食鑑」私の『博物学古記録翻刻訳注■12「本朝食鑑第十二巻」に現われたる海鼠の記載』の私の冒頭注を見られたい。ブログ・カテゴリ『人見必大「本朝食鑑」より水族の部』もあるのだが、二〇一五年でペンディングしたまま、放置状態である(字起こしが、恐ろしく大変なため)。国立国会図書館デジタルコレクションの元禄一〇 (一六九七)年板本の「鱶」の項の割注に『訓布加』とある。

「康煕字典」中国の代表的字典。一七一六年に、清の張玉書(一六四二年~一七一一年)らが、康煕帝の勅を奉じて編纂したもの。「說文解字」「玉篇」を底本とし、諸書を校合し、十二集に分け、集ごとに三子巻(上・中・下)に細分し、全部で百十九部に分けてある。巻首に総目・検字・弁似・等韻が各一巻、巻末に補遺と備考各一巻を付す。親字四万七千三十五字、古代の異体字千九百九十五字を収める(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「鮝は乾魚(かんぎよ)なり」「鮝」は魚種を指すのではなく、「乾した魚」である、の意。

『「本艸綱目」には『鮫(さめ)一名(《いち》みやう)錯魚(さくぎよ)』とし』これは、河原田の誤記である。「漢籍リポジトリ」の「卷四十四」の「鱗之三魚類三十一種」の、ガイド・ナンバー[104-42b] の「鮫魚【唐本草】」の冒頭の「釋名」の始めから二つ目に、『䱜魚【鵲錯二音】』とあるからである。

「本艸綱目拾遺」清の一八〇〇年頃に趙学敏が撰した「本草綱目」の誤りを正し、そこに漏れていた薬物を追加したもの。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南產志」。一六〇八年成立。

「黃鯊(こうしや/はたざめ)」軟骨魚綱カスザメ目カスザメ科カスザメ属カスザメ Squatina japonica のこと。当該ウィキに拠れば、『本州東岸から台湾、日本海南部・黄海・東シナ海・台湾海峡で見られる』とある。

「犁頭(れいとうしや/かいめぶか)」「雙髻鯊(さうけいしや/しゆもくざめ)」孰れも、メジロザメ目シュモクザメ科 Sphyrnidaeのシュモクザメの総称である。孰れも、漢字表記から、ピンとくる。

「英華字典」ウィリアム・ロプシャイド(William Lobscheid)が編した‘ English and Chinese dictionary ’(一八四七年~一八四八年)かと思われる。「Internet archive」で、後の版(1856-1944)だが、見つけた。ここの左丁の右の中央上方。

   *

Shark, n. A common shark, carchrias,沙魚,,

 魦; another species, 烏翼鯊 ; another species,

 齊頭鯊 ; cestracion zebra ,  貓兒鯊; rhinobatus,

 犁頭鯊 ; the hammer-headed shark, sphyrna zygena,

 公子帽鯊 ; shark’s fins, 鯊翅; white shark’s fins,

 白魚翅 ; black shark’s fine, 黑魚翅 ; shark’s skin,

 used for shagreen, 鯊魚皮 ; a greedy, artful fellow,

 貪猾嘅人.

   *

・この一行目の“ carchrias ”は、狭義には、典型的でミズワニ科唯一の現生種である軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ミズワニ科 Pseudocarchariidaeミズワニ属ミズワニ Pseudocarcharias kamoharai を指し、英名“Crocodile shark”(辞書では「サンド・シャーク」とある。詳しくは当該ウィキを見られたいが、そこに『世界中の暖かい海の表層から水深590 mまで生息する』とある)とある。但し、ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias の種小名とも一致するので、ここでは、後者「ホホジロザメ」の意を採るのが正しいと思われる。

・三行目の“ cestracion zebra ”は、ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属シマネコザメ(縞猫鮫)Heterodontus zebra 指す。当該ウィキを見られたい。なお、「維基百科」の同種のページでは、現行の中文名は「狭鯊」で、異名を「斑紋異齒鮫」・「斑紋異齒鯊」、俗名に「角鯊」・「虎沙」があるとする。

・三行目の“ rhinobatus ”は、サメではなく、ノコギリエイ目 Rhinopristiformes サカタザメ科サカタザメ属 Rhinobatos を指す。体盤がエイのように縦に扁するものの、有意に左右に大きくは突き出ず、スマートな三角形のギターのような形をするので、サメの仲間と間違えても、違和感はない。

・最後の「貪猾嘅人」は「貪婪な人」の意の換喩。

「『白魚翅(はくぎよし)』、『黑魚翅(こくぎよし)』の二類に分ち」「熊谷茂 丸光製麺・社長ブログ」の「フカヒレに使うサメの種類」の「(3)フカヒレに使われるサメの種類とは?」で、『「フカヒレ」と一言で言っても、サメの種類、色や形、産地によっても実に様々。その数は40種類以上にも細かく分類されていて、値段も細かく決まっています』。『中華料理ではよく使用される魚翅(ユイチー)と呼ばれる乾燥させたフカのヒレは、色によって「白いフカヒレ」と「黒いフカヒレ」に大別されますが、「白いフカヒレ」の方が珍重されます』。『「白」のヒレは「白魚翅(パイチー)」と呼ばれ、メジロザメ、ツマグロ、ヒラガシラ、シュモクザメ、オナガザメなどのフカヒレが原料となります』。『一方』、『「黒」のヒレは「黒魚翅(ヘイチー)」と呼ばれ、ネズミザメ、アオザメ、ヨシキリザメ、ネコザメなどのフカヒレが主な原料です。このようにフカヒレは種類ごとに名前を付けて区別されますが、最も高価なフカヒレは「メジロザメのフカヒレ」で、ヨシキリザメの何倍もの価格で取引されます。』とあった。

「支那貿易品解說」国立国会図書館デジタルコレクションのここにある、竹内成章編訳・ 中川喜重/校・明治一八(一八八五)年序の、それであろう。]

迎春

人生、今まで酩酊して鈍行電車にずっと乗って来たのだが、ここに来て、光子ロケットに搭乗し、見たことのない世界に親しむようになり、新しい人々とも出逢うこととなった。限られた脳活性の限り、一層、精進することをここに約束する。

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