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2026/01/29

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その9) 「京店と北堀時代」(そのⅤ) 〔雜事〕・「小泉八雲略傳」・奥附 / 桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」~了

[やぶちゃん注:底本では、ここの右丁最終行から。]

 

       〔雜    事〕

 

〔桑原〕 八雲先生の御手醫者は誰れでしたか。

[やぶちゃん注:「御手醫者」「おていしや(おていしゃ)」は「お抱え医師・出入り医者」のこと。主に江戸時代に用いられた語である。]

〔高木〕 先生も奥樣も極めて壯健で、一同もお醫者の見舞はありませんでした。

〔桑原〕 先生と奧樣と御同棲當時は談話が和英チヤンポンで隨分滑稽なことがあつたろうと想像しますが、御記憶のことはありませんでしたか。

〔高木〕 先生は何時も和英對譯の字引をお持ちでして、それでどうかこうか用事が片付きました。しかし間違いは每々のことでして、込み入つた用談は、大槪西田先生がお立ち合いのようでした。

〔桑原〕 八雲先生は自分が眼が惡く、その平癒囘復を祈るため先生自身が、每月一畑藥師に月詣りをされたという珍聞を聞きますが、それはほんとうでしたか。

〔高木〕 先生が一畑藥師に參詣されましたことは、富田旅館時代に一度あつたと聞きますが、その後はありません。しかし先生の眼のために月詣りには私の母が先生の代參として月一度は必らず參詣致しました。勿論これは奥樣の御指示でした。

〔桑原〕 先生の日常生活は極めて規則正しく、時間勵行であつたように聞きますが、どんな風でした。

[やぶちゃん注:「勵行」は「れいかう(れいこう)」で、「決めたこと・決められたことをその通りに実行すること」を言う。]

〔高木〕 先生の時間勵行と几帳面なことは、まことに間違いないことでありました。その一例を今思い出しましたから申しましよう。

 何日頃かはつきり致しませんが、或る日、私がお風呂の焚き付けを始めていました際、フト私は每晩定刻に先生に差上げます朝日ビールの殘りが殆んどなくなつていたことを思出しました。ところが早や時間がないためにこれは大變なことをしたと狼狽し、私は風呂焚きの際とて跣足[やぶちゃん注:「はだし」。]でオマケに尻はしおりながらその儘で駈出して[やぶちゃん注:「かけだして」。]、大橋詰の山口藥店まで約十町許りを往復して、呼吸も絕えだえで漸く時間通りに先生に朝日ビールを差上げることが出來ました。これとても別段先生より叱られるのが恐ろしいという意味は少しもなく、ただ當時先生の過程萬事が時間勵行に仕付られていた習慣から、我知らず飛び出した次第で、途中行遇う人々が私のこの風體[やぶちゃん注:「ふうてい」。]を何んと見たであろうかと、後年この事を子供等に話しまして笑いましたことでした。

[やぶちゃん注:「尻はしおり」「尻端折(しりはしを(しりはしおり)」で、現行は「しりはしょり・しりっぱしょり・しりばしょり」と表記・発音することが一般的である。走るために着物の裾を捲(まく)り上げ、帯の後ろに挟んで留めることを指す。]

(桑原) 先生の文章は何れも苦心推敲の末で、度々書直しをされたと伺いますが、定めて澤山の書損い[やぶちゃん注:「かきぞこなひ(かきぞこない)」。]があつたと思いますが、その反古はどうなりましたか。

[やぶちゃん注:「反古」この聴き取りが行われた時代では「ほぐ」が普通である。漢字は「反故」とも書き、「書・画などを書き損じて不用となった紙」を指す。但し、「ほご・ほうご・ほうぐ」とも呼んだり、書いたりした。しかし、「コトバンク」の「精選版 日本国語大辞典」の「反故の語誌」に拠れば(私の所持する「日本国語大辞典」は初版で、この記載はない)、

   《引用開始》

1 )奈良期に「本古紙」〔正倉院文書‐天平宝字四年(七六〇)六月二五日・奉造丈六観世音菩薩料雑物請用帳〕、「本久紙」〔正倉院文書‐天平宝字六年(七六二)石山院牒〕の表記で見えるのが古い。また、「霊異記‐下」には「本垢」とあり、当初の語形はホゴ・ホグ、あるいはホンク(グ)であったと考えられる。

(2)平安期の仮名文では「ほく」と表記されることもあるが、ホンクの撥音無表記とも見られる。「色葉字類抄」には「反故 ホク 俗ホンコ」とあり、鎌倉時代においては、複数の語形があったこと、正俗の意識があったことなどが分かる。

(3)「日葡辞書」の「Fongo(ホンゴ)」の項に「Fôgu(ホウグ)と発音される」との説明があるところから、中世末期においてはホウグが優勢であり、近世になってからもホウゴ・ホンゴ・ホゴ・ホング・ホグなどとともに主要な語形として用いられている。

   《引用終了》

とある。別の項で、同辞典に、

   《引用開始》

「反故」「反古」を表わす語形は数が多く、そのいくつかは同時代に並行して用いられている。ホグ・ホゴの語形も古くからあったが、特に近代になって有力となった。明治・大正期の国語辞書の多くは、「ほぐ」を主、「ほご」を従として項目を立てており、「ほご」の語形が一般的になったのは比較的最近のことである。

   《引用終了》

とあったことから、私は「ほぐ」を採用した。]

〔高木〕 每朝先生の書齋の反古籠を掃除すると、澤山の書き損ないの反古がありましたが、それは皆な每日の風呂焚きなどに使いまして。一枚も殘りませんでした。

〔桑原〕 先生は奧樣と每日二人連れで外出されましたか。

〔高木〕 海水浴場のような所へは何時も御同行でした。また買物には大慨御一緖でした。しかし神社、佛閣、舊蹟、名所と申す所へは、西田先生の御同行の方が多かつたように思います。

〔桑原〕 これでまず私が考えていたことは八百さんより大槪伺つた積りですが、次に登志さんに伺いますが、何か平素お母さんが茶飮み話に當時の珍話をなさつたことで今日伺うた外に何にか御氣付のことはありませんか。

〔高木登志〕 ただ今母より申上ました外には、別段心當ることはありませんがただ一つ母よりきゝましたことに、或る時白魚の吸物を召上がつた時、フト先生は椀の蓋を開けたまゝ靜かに耳を傾けておられましたが、奧樣に向つて、「この魚泣く」と申されました。奧樣はそれは魚が泣くのではありません。入れ物が漆器で、餘り熱い汁を入れたためで、どうかすると、こんな音がするものですと說明され、先生もようやく納得され、あとで皆々大笑いになつたことがあつたとのことでした。

[やぶちゃん注:「白魚」は、この場合は「しろうを(しおうお)」と読み、条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinaeシロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii である。これは、語り出すと、エンドレスになるので、まず、私の「大和本草卷之十三 魚之上 麵條魚(しろうを) (シロウオ)」を見て戴き、それで、理解された上で、「日本山海名産図会 第四巻 白魚」の本文(作者に誤認箇所があるので注意されたい)を通読され、誤認を指弾した私の迂遠な注を見られたい。]

〔桑原〕 白魚が泣いたと先生がいぶかつた話は、過日岸崎豐子さんにも伺いました。また豐子さんが、家族と共に年を鰹て自宅に歸られたちようどその日に、八雲先生が熊本より上京の途中に松江に立寄り、西田先生と共に松江の舊居を懷かしみ、訪問されたことなども伺いましたが、これらは既に或る人の著書に出ていますので私はただ今は伺いませんでした。

[やぶちゃん注:「岸崎豐子」いろいろと、ネット及び国立国会図書館デジタルコレクションで検索したが、遂に、この人物の正体や記事に行き当たることはなかった。識者の御教授を乞うものである。

〔高木〕 ただ今登志が申したことも實際ありました。しかしこの外に何分五十年の昔のことで忘れたことも澤山ありましようが、兎に角自分の覺えていたことは、御尋ねのついでに皆申上げました。マーこの上は私には種切れと申す次第であります。

〔桑原〕 お二人にはまことに長時間御迷惑をかけました。どうも松江時代の八雲先生の私生活の記錄というものが、簡略に過ぎたり、間違つているように私は氣がついて伺つた次第ですが、お蔭でいろいろの點がはつきり致しました。誠に有難うございました。厚く御禮申上げます。

 

[やぶちゃん注:これを以って、本書の本文は終わっている。

 以下、添えられた「小泉八雲畧傳」である。底本では、ここから。順に言うと、人名の日本語音写表記に、まず、問題がある。続く、生地の島の名も同じく問題があり、さらに、その領有国も誤っていたりする大きな誤りがあるので、注意されたい。そうした誤りは、後注で示す。

 

 

   小 泉 八 雲 畧 傳

 

 小泉八雲は西曆一八五○年(嘉永三年)六月二十七日ギリシヤの一島サンタ・マウラ(リユウカデイヤ)に生れた。父はアイルランドの軍醫少佐チヤールスブツシュ・ハン、母はローザ・テシマである。三歲の時父母に伴われてアイルランドのダブリン府に歸つたが、その翌年父母合意の離緣となり、母はギリシヤに歸つた。その後八雲は大叔母の手に養育され、十七歲の時またも不幸にも父に死別し、ついで大叔母なる人も破產してしまつた。幼時は家庭に學び、十四歲で英國ダルハムのアシヨウ・カレツヂに入學し、その後フランスのイーヴトーに於ける學校に轉じたが、二十歲の時米國に向つて流浪の旅に上り、まずシンシナチーに着き、ここでは一面非常な生活苦と鬪い、一面苦學を積んだ。二十五歲の時はじめて新聞記者となり「鞣皮所の殺人」「都市の鳥目觀」を書いてようやく時の人に認められた。二十八歲で南部ニユー・オルレアンズに移り、ここでも新聞社に勤めて「チタ・ラスト島の話」という創作によつてあまねく文名を認められるに至つた。

[やぶちゃん注:「ギリシヤの一島サンタ・マウラ(リユウカデイヤ)」ウィキの「レフカダ島」に拠れば、『レフカダ島 (レフカダとう、ギリシア語: Λευκάδα / Lefkada、ギリシア語発音: [le̞fˈkaða])は、イオニア海(地中海の一部)に位置するギリシャ領の島。地理的・行政的なイオニア諸島地方に属する。最大の都市はレフカダ (Lefkada (city)) 』で、『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はこの島の出身であり、「ラフカディオ」の名はこの島の名から採られている』とし、注に『「ラフカディオ・ハーン」の名で知られているが、本名は「パトリック・ラフカディオ・ハーン」であり、「ラフカディオ」(レフカズィオス=レフカダ島の)はミドルネームである』とある。『ギリシャ共和国西部、行政的なイオニア諸島地方(ペリフェリア)のほぼ中央部に所在する、イオニア諸島では4番目に大きな島で』、『北西方向に』、『やや離れてケルキラ島・パクシ島があり、南にケファロニア島とイタキ島がある。島の北東端に、島で最大の都市であるレフカダの市街が位置しており、狭い水路によって本土と区切られている。本土とは土手道と浮き橋によってつながっている』。『島の南端にはレフカタス岬がある』とする。但し、『1797年、ナポレオン』Ⅰ『世によってヴェネツィア共和国は終焉を迎え、レフカダ島を含むイオニア諸島はフランス領イオニア諸島となった。1799年にはロシア海軍が諸島を占領し、1800年にロシアとオスマン帝国が設立した共同保護国・七島連合共和国(イオニア七島連邦国)の一部となった。1807年のティルジット条約によってイオニア諸島はフランス帝国の支配下に戻されたが、1809年以降イギリスの攻勢にさらされた。レフカダ島は1810年、イギリスによって占領されている。1815年の第二次パリ条約によって、イギリスの保護国としてイオニア諸島合衆国(United States of the Ionian Islands, Ηνωμένον Κράτος των Ιονίων Νήσων)が樹立され、レフカダ島もその一部となった』とあり、『186462日にイオニア諸島はギリシャ王国に引き渡された』とあり、小泉八雲が生まれた時、レフカダ島はイギリス領であったのである。しかし、笠原氏の本書が刊行された時点では、ギリシャ王国であり、一九二四年に一度、共和国となったが、一九三五年の王制復活を経て、一九七三年に現在の共和国となった経緯があるので、まず、本文の「ギリシヤの一島」という謂いは、本書刊行時点に於ける言い方としては、誤りではない。

「父はアイルランドの軍醫少佐チヤールスブツシュ・ハン」(Charles Bush Hearnチャールズ・ブッシュ・ハーンここは恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の銭本健二・小泉凡編になる「年譜」の音写を採用した。なお、私は、今まで、出生から来日までのラフカディオ・ハーンについて、注したことがない。されば、以下、この年譜を大いに引用させて戴くこととなったことをお断りしておく。なお、私が示す時はは当時の本名の「ハーン」ではなく、一貫して「八雲」とすることとした)は、同年譜に、彼は『アングロ・アイリッシュの旧家の出で、ダニエル・ジェームズ・ハーンの長男として、一一八一八年にアイルランドに生まれ』、小泉八雲が生まれた『当時』は『ギリシヤ駐在の第四』十『五ノッティガム歩兵連隊の軍医補であった』とあり、八雲の書簡記載の中に、『英国七』十『六連隊の軍医少佐であったというハーンの記憶』『は、父の弟ロバートとの混同による』とあった。

「母はローザ・テシマ」(Rosa Antoniou Cassimati:ローザ・アントニオ・カシマチ/音写は同前。セカンド・ネームの英文転写したものは、中国語の「維基百科」の「小泉八雲」にあるものに従った)。同年譜に、彼女は『セリゴ島(現地呼称キシラ)の旧家の出で、父アントニーの娘として、一八二三年に生まれる』とあり、以下、『ハーン誕生にいたる両親の関係』が年譜式に続く。一八五〇年『十月』に、父チャールズ・ブッシュ・ハーンが『英領西インド諸島への赴任を命じられ、ドミニカに到着する。数カ月の後、グラナダに転属する。ハーンは父が西インド諸島にいたことは、一八九一年に異母妹アトキンソンと文通をするまでは知らず、そこにいた時、前に見たことがあるという奇妙な霊感「既視感」』(フランス語: déjà-vu:デジャ・ヴュ)『に襲われたという』。『この間、ローザとハーンはサンタ・モウラで暮らす。「そういうわたくしに、ある場所と、ある不思議な時の記憶がある……」ではじまる「夏の日の夢」(『東の国から』)の美しい追憶部分で、「むかし、遠い遠い日のこと、山の奥の峯と峯のあいだの峡谷に、浄らかな日をおくっていたころ」と回想されているのは、この頃のことである。』とある。これは、私の『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集「東の國から」(正字正仮名版)始動/ 献辞・田部隆次譯「夏の日の夢」』の「四」の途中で語られる以下である。

   *

 私は或場所と不思議な時の事を覺えて居る、そこでは日と月は今よりもつと大きく、もつと明るかつた。この世の事か、いつか前の世の事か、私には分らない。ただ私はその空は遙かにもつと靑く、そして地に近かつた事、――赤道の裏の方へ走る汽船の帆柱の上に近いと思はれる程であつた事を知つて居る。海は生きてゐて、いつも話をした、――そして風が觸れると私は嬉しさに叫んだ。以前山の間に住んでゐた聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]日に、一二度私は同じ風の吹いて居る事をただ暫らく夢想した事がある、――しかしそれはただ記憶であつた。

   *

 年譜に拠れば、翌一八五二年の項に、『ローザとハーンをダブリンに送り届ける仕儀は、父チャールズの『二人の弟、特にパリに住』んでいた三男の『画家リチャードが』その『最終的役割を受け持った』とあり、同年『八月一日(日)午前七時、リチャードに伴われて、母と子』は『ハーン家に到着』した。『当時のハーン家は、ダブリンの北部の高級住宅地ロウアー・ガーディナー通り四八番地にあり、チャールズの母エリザベスが娘ジェーン夫婦と住んでいた』とある。しかし、この年譜の最後には、母子のダブリンへの移転に就いて、『歓迎の気持ちとうらはらに、当時のアイルランドにおける厳しいカトリック教徒とプロテスタントの宗教的・政治的対立は、プロテスタント旧家としてのハーン家にカトリックに近いギリシア正教を信ずるローザが同居することが、だんだん難しくなる不二木を生み出した』とある。

 翌一八五三の『十月八日(土)、』父『チャールズが』勤務地であったグラナダから『ダブリンに到着する』とあり、その後に、八雲の書簡からの引用があり、『「乳が連隊とともに帰還した時、父が私を一緒に馬の背に乗せてくれたことを私は憶えています。赤いコートと縞入りのズボンの多数の士官と一緒の晩餐の席、子供の私は食卓の下を這いまわって軍人さんの脚をつねてまわった」』とある。しかし、翌日の条に、『ハーン家において再会した一家が食卓を囲』んだが、早速、『その夜、チャールズとローザのあいだに激しいあらそいがあった』(父チャールズの妹(三女)スーザンの日記に拠るとする注記がある)とある。この年の最後に、『暗い北海の風土を嫌い、英語もたどたどしいローザは精神が不安定となり、時に激しい発作にかられて二階から身を投げようとしたり、子供に当たったり、暗く沈むことが多くなった。チャールズはボートベロー兵舎近くの村ダンドラムに母子を住まわせた』。『小泉セツは後年、E・ウェットモア夫人』(エリザベス・ビズランド・ウェットモア (Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年)はアメリカの著名なジャーナリスト・編集者で、ニューオーリンズで新聞社『ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット』( New Orleans Times Democrat )に勤めた際、既に記者メリカ在住中の小泉八雲と知り合い、以降、生涯、親交を結び、八雲の没後には、英語による伝記を執筆したことでも知られる。詳しくは、当該ウィキを見られたい)『に、生前のハーンの言葉を次のように伝えている。「私、四歳[やぶちゃん注:恐らく数えで答えている。]の時でしたと思います。ある日、大層いたずら致しました。ママさん立腹で、私の顏を打ちました。その時、私ママさんの顔をよく見ました。髪の毛の黒い、大きな黒い眼でした。日本人のような小さい女、ママさんを覚えたようです」』とある。なお、小泉八雲ははっきりした母ローザの面立ちの記憶を持っていなかった。この回想は、そうした一瞬のカットの瞬時映像のそれである。実際、後の八雲は、親族とは殆んど関係を持たなかったが、翌年に生まれる八雲の実弟に手紙して、何とかして母の写真を探し出して貰うことを頼んでいる。実は――怒った母の黒い眼の映像だけ――が彼の唯一の「母の記憶」であったのである。

 而して、翌一八五四年四月二十一日、チャールズは「クリミア戦争」に従軍したが、その時、『ローザは懐妊していた』のであった。そして、『初夏、』ローザは『ハーンを』を可愛がって呉れた親族の女性『ブレナンの援助でセリゴ島に帰』った。ローザは、その島で八月十二日に、八雲の実弟ダニエル・ジャームズ・ハーンが生まれた。同年末尾には、『ローザには子供を見棄てるつもりはなかった。ハーンは弟ジェームスに手紙を書いて、「母に対する不実な言葉を信じてはいけない。母はできるだけ君を愛したのだ。どうしようもなかったのだ」と慰めている』とある。

 一八五五年は解説のみであるが、小泉八雲の生活史の中でも最も重要な箇所であるので、前掲年譜から全文を引く。

   《引用開始》

一八五五年(安政二年)五歳

 父母と離れて、大叔母ブレナン[やぶちゃん注:父の母エリザベスの妹で、カトリックに改宗した未亡人サラ・ホームズ・ブレナン(Sarah Holmes Brenane)。]のもとで生活をする。繊細で、神経質な幼年時代を回想して、後年まで強い印象を残しているのは、恐怖の体験であった。「私が子供の時、悪夢が私にとっては実際の形状と明瞭さを帯びて現われた」[93106]。夢魔の恐怖は後に、自伝的断片「夢魔の感触」「(『明暗』)で詳細に語られる。夜の世界は十歳の頃までつづく。

 また楽しい想い出として、「ブレーネン大叔母の許に居た間は年々誕生日には御馳走され、蠟燭を立てて祝って貰った。それで六月二十七日が自分の誕生日である事をよく記憶している。誕生日がすむと間もなく、海岸へ大叔母に連れて行かれるのが例であった」【小泉一雄(一九五〇)九一―九二】。海岸はウォーターフォード州のトレモアや、ウェールズのバンゴー、そして叔母キャサリン・エルウッド夫人の住むメイヨー州ラウ・コリップ地方であった。「私は少年の頃に人々から『君は会場に乗り出すことはできない、そんなひどい近眼では……』と忠告されて、大いにだだをこねて泣き叫んだ」[9520]。

   《引用終了》

ここに出た『自伝的断片「夢魔の感触」「(『明暗』)」とは、一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された来日後の第七作品集“ SHADOWINGS (名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ・第二パート“ JAPANESE STUDIES (「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“ FANTASIES の第五話目に配された作品で、原題は“ NIGHTMARE-TOUCH (「夢魔の接触」)である。私の「小泉八雲 夢魔觸 (岡田哲藏譯)」を見られたい。但し、この岡田氏の訳は佶屈聱牙で、今一つ、好きになれない。なお、以上に出る重要な大叔母は、八雲の祖父の妻で、姻族に当たるので、同年譜の下方に出る『ラフカディオ・ハーン系図』には載らない。

 続く一九五六年(八雲六歳)では、父チャールズがダブリンに帰宅し、その途中、彼は、嘗つての恋人(未亡人)に偶然、逢った。この女性はアリシア・ゴスリン・クロフォードという名で、ギリシャに行く前、彼が求婚したものの、相手の両親が反対したために諦めた人物であった。されば、彼は、再び、『彼女との結婚を求めて、ローザとの離婚をはかることになる。大叔母はこれに反対した。この頃、父に連れられて、「髪の毛がきらきら光った、全身白いドレスをまとった」「天使のように美しい」婦人に会った時の思い出が』書簡にあるとし、『クロフォードの意地の一人ウェザオール夫人は、この頃会ったハーンの様子について、「長く細い黒髪を顔の両側に垂らし、飛び出た近視の眼をして、夢見るような放心した表情をして、人形をしっかり握っていた」という』とある。

 翌一八五七年(八雲七歲)の一月一日、『新離婚・結婚訴訟法が発効し、離婚申し立てが容易にな』り、『これにもとづいて、チャールズによって』ローザとの『結婚無効の申し立てがなされ、受理される』とあり、七月十八日、チャールズは先に示したアリシアと結婚している。結婚式の『証人の一人は弟リチャードである』とある。そこに、『ハーンはリチャードについて、「大きなひげをはやしていたこと、つげのこまをくれたこと、大叔母が彼のパリでの生活ぶりを嫌っていたこと」を憶えている』とある。リチャードは画家であった。『大叔母はローザとの離婚を怒り、チャールズを遺産相続人からはずし、彼への貸金(六〇〇ポンド以上)を返済させた』とあり、それに続いて、『七月、トレモアの海岸で夏を過ごしている時、海岸であったのが、父を見た最後である。障害で五度会っただけという』とあり、その後の、八月四日の記事の後に、八雲の母のことが記されてある。『〔ローザはセリゴで船会社オーストリア・ロイドの代理人であったジョン・カバリーニと結婚する。〕』とあった。ここには、まだ、八雲が憶えている話が載るのだが、先に進まないので、涙を呑んで、やめることとした。

 一八五八年(八雲八歳)の項の第二段落。

   《引用開始》

 ハーンの学校前の少年時代は、夏の明るい幸福感に満ちた短い日々と、冬の暗い恐怖につつまれた長い夜々の交代であった。家族じゅうでウェールズのバンゴーで過ごし、はなやかな避暑地の社交のなかで可愛がられ、カーナボンの城を訪れ、時にはコイント出の乳母と二人きりで、東洋の珍品あふれた航海者の別邸で過ごしたこともあった[9475]。また叔母やキャサリン・エルウッド[やぶちゃん注:祖父ダニエル・ジェームズの長女。父ジェームズより二十歲年下。]の住むメイヨー州コングの町で、従兄たちと三四七エーカーの農園で遊んだ様子が、「ひまわり」(『怪談』)という作品で、ウェールズに場所を移し変えて語られている。「夏の日の夢」(『東の国から』)の追憶の場面の多くは、エルウッド夫人を中心としている[9444]【ケナード(一九一二)三三――三四、四一】ともいわれ、また地中海を母とともに渡った時の原風景ともいう。そして長い冬の雰囲気は、大叔母の厳格きわめる宗教的訓練と合わせて、恐怖の叫びと嫌悪に満ちていた。「カズン・ジェーン」と呼ばれた少女の生と死は、ハーンの体験の一つの極となる(「私の守護天使」、「偶像崇拝」、「本意なき精霊たち」)。「一八五八年から母のことはきいていない」[9002]。

   《引用終了》

『「ひまわり」(『怪談』)』原題“ HI-MAWARI ”は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の十六話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。私の「小泉八雲 日廻り (田部隆次譯)」を見られたい。

『「夏の日の夢」(『東の国から』)』来日後の第二作品集「東の國から」(原題は“ OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)本篇「夏の日の夢」(原題“ THE DREAM OF A SUMMER DAY ”。「或る夏の日の夢」)は、本書が初出ではなく、これ以前の明治二七(一八九四)年七月二十八日発行の英字新聞『ジャパニーズ・ウィークリー・メイル』紙( Japanese Weekly Mail )に投稿したものである。私の『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集「東の國から」(正字正仮名版)始動/ 献辞・田部隆次譯「夏の日の夢」』を見られたい。

「私の守護天使」と「偶像崇拝」は、国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集 第十二卷」(昭和二(一九二七)年第一書房刊)のここの「自傳斷片」で、二篇を田部隆次氏の訳で続けて視認出来る。

一八五九年(八雲九歳) 冒頭に『大叔母ブレナンが生活の中心をダブリンのアパー・リーソン通り七三番地に移す』とあり、その後に、のちに大変なことになる大叔母ブレナンの相続関係の記載が載るが、引用が膨大になるので略す。

 ここで一八六三年(八雲十三歳)まで飛ばすと、八雲は『九月九日』、『ダラム市近郊のウショー』(Ushaw)『にある聖カスバート校』(St Cuthbert's College)『に入学する。聖職教育を目的とし、当時三百人の生徒が在学していた』。『ハーンはその厳正な宗教教育に反発し、聖書の真理に疑問を投げかけ、告解で女性の誘惑を求めていると語り、ギリシアや北欧神話を題材にした文学を愛読するなど、活発な生徒として自由な精神を養った』とある。

 一八六四年(八雲十四歳)の十一月一日の記事を部分引用する。『学校の教科はラテン語中心で、わずかなギリシア語、英語、そして知識中心の古代史、地理数学であった。ラテン語、ギリシア語、数学が不得手で、フランス語も後年の翻訳を予想させるものはなかったが、英語は三年間クラスのトップクラスだった』とあり、『学校ではいつも「パディ」と呼ばれていた。家族のこと、住まいのことを語りたがらなかった。「彼は後になると旧家のあいだもウショーを去ることは決してなかった」』とし、『集団的ゲームに関心をしめさなかった』とある。

 一八六五年(八雲十五歳)には、『「少年の頃、芝生に横になり、夏の青空を見上げて、その中に溶け込み、その一部になりたかった。こんな空想には汎神論の愚劣と邪悪を説いた宗教主任教師に意図せざる責任があると思う。私はこの時、弱冠十五歳にして汎神論者となった。私の想像は私を誘って大空を遊び場とするだけではなく、空そのものになりたかった」(「偶像礼拝」)』と八雲の言葉のみが、ある。この「偶像礼拝」は、一八五八年の箇所で示したものと同名であるが、これ、何度読み返しても、以上の引用と一致するような文章部が、全く見出せない。実は私は恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』(全十五巻)を所持していないので、何んとも、答えようがない。取り敢えず、先程、古書店に、急遽、全巻揃いを購入契約した。入手後に確認して追記をするので、今少し、お待ちあれかし。【2016年1月30日追記】同著作集を入手したが、豈図らんや、全く、解決に至らなかった。私は、複数のプロジェクトを並行して作業しており、これに何時までも熟考する暇がない、向後も、気にかけては、おく。何か、御存知の方は、是非、御教授下さると、助かる。

 一八六六年(八雲十六歳)には、『九月、第三学年への進級に失敗する。寄宿舎、教室、図書室その他、学校生活すべてにわたって友人たちから隔てられる。』とあり、この年、『「ジャイアンツ・ストライド」と呼ばれるゲームで、飛んできたロープの結び目で左眼を打つ(友達の拳ともいう)』とある。この“giants stride”とは、私の鎌倉市立玉縄小学校にもあった「回転遊木(かいてんゆうぼく)」と呼んでいた「回旋塔」で、それは円形のグリッドであったが、ここで言うのは、繩或いは鎖が上からぶら下がっていて、そこに吊り輪があり、それを摑んで複数の者が回転する遊戯である。英文サイト“ Sweet Americana Sweethearts ”の“The Giant Stride by Shanna Hatfield)がよい。例画像四種の最後の二枚が、最も近いものである。この遊技は、少なくとも本邦では、現在、危険な遊具として禁止され、まず、見ることは、ない。事実、私の小学校では、私が五、六年の時、幼稚園児の女の子が、これにぶら下がっている最中、中央の回転軸塔が根元から折れ、遊具全体の下敷きとなって亡くなっている。新聞に、優しかった亀井教頭先生が警官か記者に説明している写真と記事が、新聞の湘南版のページに載っていたのを強く記憶している。続けると、『ダブリンで手術をするが』、『失敗し、左眼を失明する』』とあり、『「私は左眼を失って恐ろしく醜くなっています」』と書簡で述懐している。これが、後天的な身体的ハンディとして彼の生涯の心傷(トラウマ)として沈殿したことは言うまでもない。なお、この年の『十一月二十一日』、『父チャールズがマラリアを病んで除隊し、インドより帰国する途中、スエズ運河を通過』中、『船上で死去』し、『水葬される』とあった。ともかくも、八雲のウィキにある通り、『父親には』終始、『嫌悪感を、母親には生涯に渡って思慕の念を抱いていたという』とあるのは、全くの真実である。謂わば、これこそが、彼が背負った最大の心傷として、生涯を貫き刺したのである。なお、ここに本文ウィキの『1866年 まだ片目を失明して間もない16歳頃の写真』というキャプションのあるものを、以下に掲げておく。無論、パブリック・ドメインである。

   

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 一八六七年(八雲十七歳)九月、大叔母ブレナンが、『ほとんど全部の資産を』突如、失ってしまう。八雲曰く、『「私の親戚の一人の相場師のために金持ちから貧乏になって」』、『「ロンドンの』『冒険家に破産された」』、『財産も没収された」』『と記しているように、ハーンはこの間の経過をくわしく知っていた』とある。

 さればこそ、同年『十月二十八日』、『聖カスパート校を学期中途』の『人文学の第三学期』に『退学』している。八雲曰く、『「カトリックの学校(複数形)で数年たいへん不幸な日を送った」』と回想し、『「英国の学校は乱暴で諸運教育にふさわしくない。頑固な宗教的保守主義が無益な修業を課す」』と述べている。この後に編者の長い補論がある。引用しないが、是非、読まれたい。

 以下、年譜は細かに続くが、ここは、八雲のウィキの『フランスの神学校で教育を受け、この時期にフランス語が得意になる。アイルランドに戻り、イギリスで3番目に歴史が長い名門大学 ダラム大学』(Durham University)『で教育を受けた後、1869年に渡米』したという引用で、ここの注を閉じる。ともかくも、彼は、心的には、この時点で、すっかり独りぼっちのVagabond (フランス語:音写「ヴァガボン」:放浪者)となってしまうのである。

 

 三十八歲の時ハ-パー書肆の文學寄書家として西印度マルチニーク島に航し、一たんニユーヨークに歸つたが、翌明治二十三年三月(西曆一八九〇年)四十一歲の時同書肆の依囑によつて東洋の日本に向い、四月十三日橫濱に上陸した。八月の末松江に着き、松江中學の敎師となり、その翌年二月頃小泉節子と結婚してはじめて家庭の人となつた。斯くて明治二十四年十一月、松江中學校敎師を辭して熊本第五高等學校に轉任し、ついで明治二十七年十月熊本高等學校を辭して神戶クロニツクル社記者となり、翌年の秋歸化して小泉家入夫[やぶちゃん注:「にふふ(にゆうふ)」。]の手續を完了して小泉八雲となつた。明治二十九年八月東京文科大學講師となり、明治三十六年三月まで敎鞭をとり、明治三十七年四月旱稻田大學に轉職したが、同年九月二十六日、心臟麻痺のため五十五歲をもつて東京府下豊多摩郡西大久保村二六五番地の寓居に歿した。墓は東京市外雜司ヶ谷墓地にある。戒名は正覺院殿淨華八雲居士である。

[やぶちゃん注:以下は、前注の終わりと同じく、簡便にするために、本邦の小泉八雲のウィキと、英文の“Lafcadio Hearn”のそれを参考に、恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の「年譜」で補足して箇条型で示す。私が日本語を文を加工したので、引用符は、一部を除いて、その「年譜」からの引用以外には、附さない。

一八六九年(十九歳) リヴァプールからアメリカ合衆国のニュー・ヨークへ移民船で渡り、シンシナティに行く。そこで『印刷やヘンリー・ワトキンを知り、仕事を教えられ、やっと夢を織る場所が与えられる。公立図書館で毎日のように本を読』むようになる。書簡に拠れば、『「暇を見ては本を読み、物語を書きました。書いた作品はもうとうにつぶれた安っぽい週刊誌に載りました。原稿料は一度ももらえませんでした」』とあり、『「十九歳から二十一歳までのあいだ、懐かしい『ボストン・インベスティゲーター』』(“ Boston Investigator ”)『に寄稿していた」』とあり、物書きとしての小泉八雲のルーツは、ここにあるようである。

一八七〇年(二十歳) 『この頃、シンシナティのユニテリアン』協会(the American Unitarian Associationのユニタリアニズム(Unitarianism)とは、キリスト教の正統派の教義の中心とされる「三位一体(父と子と聖霊)」の教理を否定し、神の唯一性を強調する主義の総称を指し、イエス・キリストを宗教指導者として認めるが、彼の神としての超越性は否定する思想で、一般のキリスト教会は「異端」とする。同協会は一七九六年に、イギリスからアメリカに移住したジョゼフ・プリーストリーが、ペンシルバニア州フィラデルフィアで知識人十二人を指導して最初のそれを創設した。後、一九六一年に「アメリカ・ユニテリアン協会」は「アメリカ・ユニヴァーサリスト教会」と合併、「ユニテリアン・ユニヴァーサリスト協会」を設立している)『の牧師トマス・ヴィーカーズの指摘秘書として、周三ドルの報酬で』、『おそらくフランス語の翻訳の仕事をする』とあり、また、この年には、『ボストンの週刊誌「ボストン・インベスティゲイター」に「フィアット・ルクス」(「光あれ」の意)の筆名で投稿する。』とある。

一八七一年(二十一歳) 『一月十三日』、大叔母『サラ・ブレナンが卒中でトレモアで死去する。「私は五〇〇ポンドの年金を遺言書で受け取ることにあっていた。⋯⋯』が、しかし、ブレナンが信頼していた遺産相続を担当した人物からは、手紙で、『私に送るものがたくさんあるなどと言い、自分が唯一の遺言執行人になったと言いながら、遺言書につては一言も触れていなかった。⋯⋯手紙を書いたが、たぶん不興をかったのであろう、二度と連絡はなかった』』と書簡にある。八雲は受けるべき正当なものを総て横領されたのであった。この年、とある『印刷所で通信係をする』とある。

一八七二年(二十二歳) 『この年の初め頃、「シンシナティ・トレード・リスト」誌』(“ Cincinnati Daily Enquirer”)『の創刊に当たって共同所有者兼編集者』の『編集助手となる』とある。八雲はこの時知るまでもないが、『五月二十五日』、『母ローザがコルフ島の国立精神病院に入院する。その死まで退院することはなかった』とある。『夏頃』、ある『出版者の植字工兼校正係となる』とあり、それによって『その地方の印刷業組合の一員に加えられていた』とある。『十一月、「シンシナティ・インクワイヤラー」紙の編集室を訪ね、主筆ジョン・A・コッカレルに会う。持ち込み原稿に金を払うこともあると言われ、編集者の机に現行を置くと草々に立ち去ったという』(コッカレル自身の一八九六年の書籍に拠る)とあり、『以後、同誌の有力な寄稿者となる』とあり、最後に、現在、分かっている同紙に彼が執筆した記事の数が、この年から一八七五年六月までで三分割で記されており、それは計二百五十三篇に登ることが判る。まさに本格的な「物書きハーン」となっていたのである。

一八七三年(二十三歳) 『九月以降、不定期的であるが、文学の新刊書評、美術の展覧会評を書くようになる』とある。また、『この年の終わり頃、自由恋愛の㸃商社ヴィクトリア・ウッドフルに共鳴する。十二月には神霊術への関心を深め、N・B・ウルフ博士『現代神霊術の驚くべき事実』を読み、占星術師ラファエ夫人などいかがわしい占師の詐術を実見し、あばくようになる』とあり、また、『カトリックの活動が社会問題化する中で、宣教師たちの活動を冷たい眼で見ていた』と記す。

一八七四年(二十四歳) 『この年の初め頃、インクワイアラー社に正式社員となり』、先の『校正係をやめる。コッカレルの事務所に机を与えられる』とあり、また、『この頃、競争紙「ガゼット」の記者ヘンリー・E・クレイビール炉の交友がはじまる。また、フランス文学の翻訳に没頭し、視力が一層弱くなる』と記す。また、この年の中『頃、墓地や骸骨など、恐怖趣味に関する探訪を試みる。また、画家の友人フランク・デュベネックの誘いによって、女性の裸体美、理想美を求めて』、『アトリにでかけ、モデル嬢を文章でデッサン』したりしている。『十一月七日』、猟奇的な殺人事件『「タン・ヤード事件」』が起こり、『友人と』『ともに現場へ駆けつけたハーンの記事は、その恐るべき事件の詳細を描ききって、センセーションをひき起こし、記者としての名を確立する』とある。この事件は、「小泉八雲記念館」のInstagramのここで、解説を見ることが出来る。なお、本文に出る

「鞣皮所の殺人」(なめしがはじよのさつじん(なめしがわのさつじん))

というのが、この「タン・ヤード事件」の記事で、「年譜」の下段(八雲の著作欄)に、初回が十一月九日掲載の『「皮革制作所殺人事件」』以下に連載された記事名が確認出来る。

一八七五年(二十五歳) 『下宿で料理人をしていた』アルシア・マティ・フォリー(Alethea "Mattie" Fole)『と結婚を考えるようになる』。彼女は『一八五四年二月四日、ケンタッキー州メイスヴィルで白人農場主と奴隷女』性『のあいだに生まれ』た。『一八六八年八月』に『男児』『を出産』しており、相手は『スコットランド人という』。以下、彼女及びハーンの関係について、十六項目もの証言が載っている。しかし、オハイオ州では、当時、黒人との結婚は違法であった。二人の正式な結婚届け出が受理された形跡はない。結婚式は、最初に頼んだ牧師から拒絶され、次に依頼した黒人牧師が司式を行った。しかし、『二人の同棲生活は数カ月で破綻』した。マティとの結婚も一因となり、ハーンは『七月、インクワイアラー社を退社する』(英文ウィキでは「解雇される」とある)。『八月』、インクワイアラー社のライバル会社だった『「シンシナティ・コマーシャル」紙』(“ Cincinnati Commercial ”)『に寄稿を』始めて、『十二月から翌年の三月までのあいだに、同誌の正規の記者になる。』末尾に、一八七五年九月から一八七八年四月までの寄稿数が記されており、合計百六十四篇である。また、『他に風刺画の挿絵多数』と付記されてある。なお、本文に出る、

「都市の鳥目觀」

というのは、「年譜」の下段に一八七五年五月二十六日に『「尖塔に登って」』とある記事が、それであることが判った。それが判明したのは、国立国会図書館デジタルコレクションで検索を繰り返す中で見出した小泉八雲著・佐藤春夫譯「尖塔登攀記 小泉八雲初期文集」(白水社昭和九(一九三四)年刊)の中の表題作名に拠ってで、★ここから、読むことが出来る。これも、と言うより、一冊総てを、後に電子化注したく思っている。

一八七六年(二十六歳) 『四月下旬のある日、パーティで地元の医師の妻エレン・R・フリーマンと会い、エレンの息子が集めている考古学の蒐集品の展示会についての記事を書くことを依頼される。このことをきっかけに親密な手紙のやりとりがはじまり、贈り者をしたり自宅に誘うなど、夫人の積極的な愛情がハーンにそそがれる。ハーンは適当な距離を置きながらも、深みにはまることを避けつづけるが、十月頃、藤Kなら送られた写真に対して、ハーンが残酷な批評をしたことから、ハーン宛の手紙がすべて送り返され、二人の交際は終わった』とある。この年の記事はこれのみである。

一八七七年(二十七歳) 「年譜」冒頭に、『夜業の合間に、一律商業図書館にこもってゴーチェの物語の翻訳をはじめる』とある。而して『この秋、マティとの関係が破局を迎える』として、経過が記されてあり、『マティはハーンを捨てて町を出、ハーンもその留守にこの街を出る決心をして、十月のある日、コマーシャル社を退職』した。その後、シンシナティの公害による目への悪影響を避け、ニューオーリンズへ向かった。「年譜」では、その途中のメンフィスでの記載が、かなり語られてある。ニューオーリンズ着は十一月十二日で、その後、なかなか就職活動が上手くいかなかった。

一八七八年(二十八歳) 『ニューオリンズの伝説の教父アントワーヌの聖なる棕櫚(しゅろ)の樹の発見、クレオールの俗謡の収集と翻訳、そして旧市街の人々の生活を描くことに熱中し、東洋や西欧の物語の翻訳、創作にいそしんでいたが、デング熱(骨痛熱)にかかる。そして、三月、四月と不本意な政治的記事を書いて、かろうじて食いつないでいう。体が衰弱し、視力がひとく衰えてくる。』とあり、続いて、『「石のような盲目」にたって、金もなく、友もなく、医者に運ばれた。友はただ一つ』、『回転拳銃だけで、医者が治療に失敗したら使うつもりだったという』と凄絶な記載がある。『四月、「コマーシャル」』紙』『の通信員を辞める』が、事実としては、『稿料の遅れのことから、激しいやるとりののち』、『解雇された』のであった。病気の方は、「瓢簞から駒」で、『五月』、『骨痛熱にかかったことで黄熱病はまぬがれ』、マラリアもドイツ人の薬剤師にゴマ油をどっさり飲ませられて治り、骨痛熱の再発にはレモン汁をすすって耐えぬく』『など、荒っぽい治療で病気を克服して』いった、とある。しかし、五月から六月に至り、『困窮の極』み『に到る』とあって、書簡には「『二日に一度くらい五セントの食事――明はどこに宿をとらせてもらおうかと案じ煩うこともあるぐらいだ」』と記している。辛くも、『六月十五日』、知人の世話で『ニューオリンズ・アイテム社』(日刊紙“ Daily City Item ” を発行)『で副編集者の職を得る』とあり、仕事は『一日三時間、事務所につめて、記事を書き、校正をする、後は自由な時間という職場』で、『ハーンにとって天国であった』とある。

一八七九年(二十九歳) 『「アイテム」』社『で副編集者として健筆をふるうにつれ、ハーンの力量は認められるが』、『負担も多くな』った。昇給したものの、『勤務時間は』十『七時間にも及ぶようにな』った。彼には『新聞記者以外によって生活の安定を得たいという思いは、貧窮の最中の前年二月頃からあった。そこで、彼は、皮算用で、百ドルの貯金を目論み、『三月二日』、『なんでも五セントのレストラン「不景気屋」を開店する』に至った。経営するも、見事に失敗、『三月二十三日』には『閉店する。』但し、『相棒が売り上げ金を逃げ出したからである』とは、ある。この後に、編者による彼のクレオール文化関連等の論考がある。非常に鋭いものである。是非、見られたい。

一八八〇年(三十歳)の「年譜」の最後に『五月以後、ハーンは「アイテム」紙だけではなく』、同地の『「デモクラット」紙』(日刊紙“ Times Democrat ”)にも投稿をはじめている。ハーンの記者としての評判が高く、一つの新聞にとどめえなかったとも言える。しかしそれではなく、ニューオリンズにおける新聞界再編の動きがはじまっていて、ハーンもその動きに乗っていたと考えられる。「デモクラット」紙の記事は、いずれもフランス文学の翻訳か「海外情報」のコラム名によるはなやかな新しい文学の紹介である。」とある。

一八八一年(三十一歳) 『十二月二十八日』、『「タイムズ」紙と「デモクラット」紙の合併が発表される』とあり、八雲は『「タイムズ・デモクラット」の文藝部長として、日曜版を中心に執筆する』とあり、最後に一八八二年から一八九四年十月までの彼の寄稿数がか示されており、その総計は、実に四百九十三篇である。

一八八二年(三十二歳) 「年譜」冒頭に『ハーンの関心が東洋関係の神話や文学に集中されるようになる。』とある。『十一月、東洋の伝説集(後の『飛花落葉集』)をスクリプナー、オズグッド者に出版を依頼する』とある。『十二月』本邦のウィキでは、ここに、『この時期の彼の主な記事は』、『ニューオーリンズのクレオール文化、ブードゥー教など』であったとする。また、この年、彼にとって後半生に於いて重要な人物となる才媛との邂逅があった。『この冬、エリザベス・ビスランド』(Elizabeth Bisland :後に結婚し、Wetmore 姓を名乗る)『を知る。「死んだ恋人」を読んで心を引かれ、ジャーナストを志してニュー』・『オリンズにやってきた十八歳の才気ある美少女は、その時「タイムズ・デモクラット」の婦人記者であった』とあるのが、その人である。彼女については、邦文ウィキを参照されたい。以下、一年、飛ばす。

一八八四年(三十四歳) 「年譜」冒頭に、『この年から八六年までの三年間は、これまで培ってきた才能が一斉に開花し出し、民俗学という広大な分野を与えられて、その主題も生きてくる。だんだんと新聞を翻訳発表の場に利用し、まとまったテーマはゆっくりと時間をかけて、雑誌に発表するようになるが、その前の最も充実した一時期である。六月の『飛花落葉集』の出版』(オズクッド社刊)『は一つの目標を達成し』、メキシコ湾にある『グランド島での』八月末から一ヶ月余りに亙った『夢のような休暇ののち、ハーンは創作のなかに大きく踏み込んでゆく。まさに転換の年である』とある。

一八八五年(二十五歳) 「年譜」冒頭に、『一月から二月にかけて、ハーバー社のために』ニュー・オーリンズで開催された万国『博覧会の記事を書くことに忙殺される。特に日本館の美術および教育に関する展示品七〇四点が興味を引き』、『医学者高峰譲吉と出会い』、『日本政府から派遣されていた』農商務省官僚『服部一三と緊密な交渉かった』とある。本邦のウィキは、これを前年の項に記しており、誤りである。この年の四月から五月上旬にかけて、友人とフロリダ旅行に出たが、『旅行中』、『マラリアにかかり、帰宅後』、『発熱して、二週間』、病床に臥す。この時、看護して呉れた人々の中に『洗濯女のルイーズ・ロッシュ』がいたが、五月の項の終わりに、八雲は『博覧会の時に見た日本を取材してみたい思いがあり』(☜重要!)、『一方で、民族音楽の宝庫である西インド諸島への憧れ』『が交錯する』とあり、それについて、先の看護してくれた『ルイーズ・ロッシュは豊かな民謡の伝承者であった』とあるのも、見逃せない。

一八八六年(二十六歳) 「年譜」冒頭に『この年は『チタ』の執筆に集中した年であり、その創作にかえる意欲が高揚した気分をもたらし、新聞への寄稿も充実安定している』と記す。「チタ」は‘ Chita: A Memory of Last Island ’(彼が推敲に拘った結果、大きくズレ込み、一八八八年四月刊行となった)で、後年、多くの作品とカップリングされ、「仏領西インドの二年間」(‘ Two Years in the French West Indies ’: 一八九〇年刊)の中に組み入れられた。

一八八七年(三十七歳) 「年譜」に『二月、新聞記者生活をやめ、ハーバー社の寄稿者として作家生活に入る決心をする』とある。『六月五日』、『シンシナティ時代の記者仲間テニュスン、そしてビスランドに会』い、『成長したビスランドの美しさに魅了され』たとある。『七月上旬の日曜日〔十日か〕、夜明けにイースト・リヴァ四九埠頭から、バラクータ号でトリニダットに向け』、第一回目の西インド諸島への旅に『出発する』。その後、多島海の島々を廻り、『サン・ピエール』(Saint-Pierreここ。グーグル・マップ・データ)『に腰を据える。青い海、美しい混血の娘、夢のような町で過ごす。トリニダットでは、クーリーの村の娘たちがするような腕環を銀細工師に造らせ、ビスランドへの贈り物にする』とある。彼のビスランドへの恋情は、モノホンと言う感じが、既に、する。九月中旬、ニュー・ヨークに着く。九月末、一回目の『西インド諸島旅行の原稿が七〇〇ドルで売れ、これをもって、すぐにサン・ピエールに引き返す支度にかかる』とあり、『前の旅では』、『行く先々で写真を買わなければならなかったこと、混血の人々の分類、特にその髪型に関心をもっていたことから、カメラの必要を考え、一〇六ドルを出して』『「ディクラティブ」という当時の最高級品』を『購入する』とある。『十月二日』、再び『バラクータ号に乗船、サン・ピエールに向かう。会わずに出発するハーンをなじるビスランドに、署名の別れの手紙を書くが、最後まで会うことはしなかった』とある。彼女の方も、まんざらではない感じがするが、寧ろ、八雲の素直でない様子には、私は、女性に対する根本的な、ある種のアンビバレントなものを強く感じる。十二月の記載に、大枚を払った『カメラを十分に使いこなせず、とうとう地元の写真屋と契約する。カヌーと少年の話、高地の墓、熱帯の森と神社』(信仰の聖なる建造物とでもしないと、激しい違和感がある)『など、興味を引く題材を小品に仕上げようとする』とある。最後の部分で、編者が、滞在中の彼の女性関係について纏めている。『マルティニーク滞在中のハーンの身近にある女性の姿を伝えているのは、モン・ルージュに移ってから』津人『宛に書かれた十二月五日の手紙である。――私には、町に一人の「肉体美」(ドドン)』(現地語であろう)『がいるので、女はいらないと書いている』とし、最後に、『ハーンが借りた山小屋の老主人カプレスには、ハーンに山を案内してくれた背の高い息子イエベと、オレンジの肌の娘アドウがいた。この娘や、下宿先の娘などとの恋愛説もあるが、これらの女性たちは、ハーンの身辺を知る身近な人々であったと理解するだけで十分だろう。』と締め括っている。因みに、私の所持する恒文社版平井呈一「小泉八雲作品集」(全十二冊・一九六四年~一九六七年・所持するのは総て初版である)の「仏領西インドの二年間 上」(全原題は‘ Two Years in the French West Indies ’)の「洗濯女」の一節に、『背の高いカプレス』が、洗濯に来た十八、九の娘たちに、いたずら半分に声をかけるシークエンスがある。この『カプレス』は青年と思われるが、実際には、カプレスの子イエベがモデルであろう。小泉八雲は、来日後の作品でも、わざと実際の名前を、別な名や性別に書き換える傾向が、随所に見受けられる。それは、実在のモデルを判らなくして、特定されないようにする優しい配慮の働きでもあるのである。さて、西インド諸島滞在は、翌々年の四月まで続いた。

一八八九年(三十九歳) 二月に「ユーマ」(‘ Youma, the Story of a West-Indian Slave ’)を脱稿している。「年譜」に拠れば、『五月一日』、『ニュー』・『ヨーク行きの船に載る』とあり、同月五日にはアメリカに着いていた。『十月中旬、ビスランドの自宅』『で弟妹と一緒に夕食をとる。ビスランドへの恋心がつのる。』とある。以下、余りにも注が長くなったので、ウィキの「小泉八雲」の年譜で簡略化する(注記号はカットした)。

一八九〇・明治二十三年(四十歳) 『ネリー・ブライと世界一周旅行の世界記録を無理やり競わされた女性ジャーナリストのエリザベス・ビスランド(アメリカ合衆国でのハーンの公式伝記の著者)から旅行の帰国報告を受けた際に、いかに日本は清潔で美しく人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったかを聞き、ハーンが生涯を通し憧れ続けた女性でもあり、年下ながら優秀なジャーナリストとして尊敬していたビスランドの発言に激しく心を動かされ、急遽日本に行くことを決意する。なお、来日の動機は、このころ英訳された古事記に描かれた日本に惹かれたとの説もある』。『ハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバーに立ち寄り、44日横浜港に着く。その直後、トラブルにより契約を破棄する。横浜では、1887年にハーンが『ハーパース・バザー』に発表した「Rabyah's Last Ride」の熱烈な読者だった在日英国人学校ビクトリア・パブリック・スクール校長のチャールズ・ハワード・ヒントンがハーンを家に招き』、『同校での教職も与えたが、ヒントンの妻がハーンの隻眼を嫌がり決別する。なお、ヒントンの妻のマリーは、数学者ジョージ・ブールと』、『やはり』、『数学者のマリー・エベレスト・ブール(エベレスト山の由来となったジョージ・エベレストの姪)との間の娘である。このときのハーンの教え子にエドワード・B・クラークがいる』。『7月、アメリカ合衆国で知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)の斡旋で、島根県尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に任じられる』。『830日、松江到着』。

一八九一・明治二十四年(四十一歳) 『1月』、『一人住まいのハーンの家に、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子(186824 - 1932218日)が住み込み女中として雇われる。二人はすぐに惹かれあい結婚する。同じく旧松江藩士であった根岸干夫が簸川』(ひかわ)『郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する(1940年、国の史跡に指定)』。『11月、チェンバレンの紹介で、熊本市の第五高等中学校(熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師となる。長男・一雄誕生。熊本転居当時の家は保存会が解体修理を行い、小泉八雲熊本旧宅として復原され、熊本市指定の文化財とされた』。

一八九四年・明治二十七年(四十四歳) 十月、『神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する』。

一八九六年・明治二十九年(四十六歳) 『東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職』。『日本に帰化し』(「小泉八雲」として入籍したのは二月十日)、『「小泉八雲」と名乗る。秋に牛込区市谷富久町(現・新宿区)に転居する(1902年の春まで在住)』。

一八九七年・明治三十年(四十七歳) 『 二男・巌』(いわお)、『誕生』。

一八九九年・明治三十二年(四十九歳) 『清』(きよし)、『誕生』。

一九〇一年 ・明治三十四年(五十一歳) 『妻セツの養家である稲垣家を二男・巌に継がせるため、巌を義母・トミの養子にする』。

一九〇二年・明治三十五年(五十二歳) 三月十九日、『西大久保の家に転居する』。

一九〇三年・明治三十六年(五十三歳) 『東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)、長女・寿々子誕生』。

一九〇四年・明治三十七年(五十四歳) 三月、『早稲田大学の講師を務め』たが、同年

九月二十六日、『狭心症により』、『東京の自宅にて死去、満』五十四『歳没。戒名は』「正覺院殿淨華八雲居士」。『墓は東京の雑司ヶ谷霊園』にある。私は、神奈川県高等学校国語教諭を拝命した翌日、雑司ヶ谷の夫婦塚に墓参に行っている。]

 

 節子夫人との間にて一雄、巖、淸、鈴の三男一女あり、日本のために書いた著書は十一種の多きに及び、大正四年日本に盡した功勞によつて從四位を追贈された。

[やぶちゃん注:「大正四年」一九一五年。]

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥附。上中央に金津氏の切り絵があるが、私には如何なる意匠であるのか判らない。当初、家紋のように見えたが、しっくりくるものがない。小泉家の家紋は「鷺紋」であるが、全然違う。見た限りでは、非常にデフォルメされた花瓶かとも思った。左右に大小の葉が四葉、突き出ているからである。しかし、その上の花らしきものは、私には、凡そ、如何なる種であるか判らなかった。識者の御教授を乞うものである。]

 

 

 50.00

昭和25年5月25日印刷・昭和25年6月1日発行・昭和27年5月1日第2版

昭和28年10月 1 日第3版 ・ 著者 桑原羊次郞・發行者 三宅美代治 (松江市

殿町383)  ・印刷者 宮井一雄(松江市殿町383) ・印刷並發行所 山陰新報

   社(松江市殿町383)・定價1册50円・送料8円

 

[やぶちゃん注:最上部の金額は、上記の金津氏の切り絵と同じ紺色で印刷されており、奥附は赤である。奥附の上方の三行は左右が均等貼付で、最終行のみが左合わせになっている。ブラウザでは、上手く原本通りに合わせるのが面倒なので、以上の見せかけ配置とした。

 最後に――ここで私が注した来日以前の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の半生の年譜は、恒文社「ラフカディオ・ハーン著作集」の年譜を引きながら、ネット上で、記事として読めるものとしては、かなり、しっかりとしたものにした積りである。総て、視認でパッチワークしたので、誤りがあるかも知れない。おかしな箇所を発見された方はお教え下さい。

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