桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その6) 「京店と北堀時代」(そのⅡ) 〔食事と嗜好品〕
[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]
〔食事と嗜好品〕
〔桑原〕 先生の食事について伺いますが、朝晝晚の三食のお献立につき覺えておられることをお話し下さいませ。
[やぶちゃん注:このパートの左下には、金津氏の、書見台が切り絵で描かれてある。恐らく木製の二つの太い脚を持つ一体型の台(中央に穴が空いている)の上に本を載せるための左右に開いた薄い板(材質は不明。中央は凹んで居るものであろう)あり、そこに本が開いて置かれてある。その板の右手の下から、やや太い金属と思われるものが波打って手前にくねくねと延びており、その頭に球状(恐らく木製)の開いたページを押さえるものが附属しているものである。このような書見台は、私は見たことがないが、西洋式のものと推定はされるものである。]
〔高木〕 先ず朝食のことを申しますと、朝は牛乳二合と生卵五個が先生の常食でありました。午飯は市内殿町の今の曰本銀行支店のある所に昔[やぶちゃん注:読点が欲しい。]曳野旅館、當時はこれをしやれて曳野ホテルと申しておりましたが、この旅館より先生夫夫婦の食事を每日運びました。その献立は何んとかいうような特別の註文はなく、しかし先生は多く煮〆物[やぶちゃん注:「にしめもの」。]を愛せられ、また卵を使つた日本料理なぞがお嗜き[やぶちゃん注:「おすき」。]でした。
夕飯は必らず洋食でありまして、まず珈琲、パンなどを加えて五品[やぶちゃん注:「ごしな」。]位の料理でありまして、その一皿は必らずビフテキでした。この洋食は松江市材木町の西洋料班店魚才こと鐮田才次より取寄せました。
[やぶちゃん注:「市內殿町」「殿町」は「とのまち」と読む。現在の松江市殿町。塩見縄手の向かい、松江城址から、現在の島根県庁の南側の京橋川まで。「ひなたGIS」の戦前の地図の中央にある銀行記号がそれであろう。
「曳野旅館」「YAHOO! JAPANニュース」の株式会社プレジデント社の「PRESIDENT Online」の本年一月十六日配信の『23歳とは思えない妻・セツの我慢強さ…「ばけばけ」と全然違う、小泉八雲の"わがまま放題"な新婚生活の中身』に、本書を紹介された上で、『昼食は、曳野旅館から毎日届けられた。この旅館は、現在は市の複合施設「カラコロ工房」(旧日本銀行松江支店)が建っている場所にあった。』とあったので、前注の通り、殿町のここに存在したことが確認出来た。]
〔桑原〕 先生はお酒を召上りましたか、日本酒ですか、洋酒でしたか。
〔高木〕 先生は夕食後には必らず朝日ビールを二本づゝ飮まれました。そのビールは當時松江大橋詰の山口卯兵衞藥店だけににあつたかと思います。始終朝日ビールを何ダースか買置きまして每晩差上げました。
先生のお肴は實に妙なものでして、每晚朝朝日ビール二本それをお飮みになりますと、必らずその後で、今は松江に見當りよせんが黃金牡丹と申しまして、卵黃製で黃色の花辯の中央が紅色になつていました。誠に柔らかい菓子を五六個食べられました。結局ビールのお肴が菓子という譯です。大體先生は菓子は何んでも食べられました。
[やぶちゃん注:「アサヒビール」「アサヒグループホールディングス」公式サイト内の「歴史・沿革」に拠れば、明治二二(一八八九)年十一月に『朝日麦酒株式会社(現アサヒグループホールディングス株式会社)の前身である大阪麦酒会社設立』とし、『日本麦酒醸造会社、札幌麦酒会社も相前後して創立され、日本のビール産業の興隆期を迎える』とあって、『鳥井駒吉、社長に就任』とする。一八九一年十月、『吹田村醸造所(現アサヒビール吹田工場)竣工』があり、翌一八九二年五月に『「アサヒビール」発売』とあって、そこに『「アサヒビール」の発売広告』の写真があり、そこのラ楕円ベルには、最上部に右から左に『アサヒビール』とカタカナ書きで記されてある。小泉八雲が松江に着いたのは、明治二三(一八九〇)年八月三十日に松江着、根岸邸への転居は明治二四(一八九一)年六月二十二日であるから、九カ月を待って、初めて「アサヒビール」を飲んだことになる。但し、それ以前に、八雲が上陸した横浜や、神戸の外国人居留地からも舶来のビールの入手は可能ではあった。]
〔桑原〕 先生は日本酒を家庭では常用されませんでしたか。
〔高木〕 日本酒は用いません。もし家庭で先生が日本泗を飮んだと記す書物があれば、それは日本人のお客の時に限ることなので、それも私の記憶ではまことに少ないことでした。大體に酒食を出したお客は餘りありませんでした。
〔桑原〕 先生は鮮魚の刺身を食べられたと聞きますが、それはほんとうですか。
〔高木〕 私の知る限りでは、先生は魚は煮付と燒魚何れも喜んで食べられましたが、刺身を上がつたことは餘りなかつたと思います。お嫌らいであつたのでしよう。
[やぶちゃん注:このページの左下には、金津氏の切り絵で急須(蓋の上を跨ぐ竹らしき取っ手附きである)の図がある(注ぎ口は右)。左内に「土びん」の文字が切られてはいっている。]
〔桑原〕 先生の煙草嗜き[やぶちゃん注:「すき・ずき」。]は有名なものですが、を巻煙草は吸いませんでしたか。
〔高木〕 先生の煙草は葉卷と日本の刻み煙草に限つていました。煙管は日本出來[やぶちゃん注:「でき/しゆつらい(しゅつらい)」。高木さんの直話であるので、私は「でき」と読みたい。]のもの三四十本ありまして、何れも[やぶちゃん注:「どれも・いずれも」。]羅宇[やぶちゃん注:「らう」。]の長いもので一、二囘吸うと直ちに他の煙管と取換えて吸われる癖でした。私がこの三四十本の煙管の掃除をやりましてこれを一つの箱に收めて置きました。ただ今八雲記念館にある煙管棚は、東京移轉後に出來たものかと思います。
〔桑原〕 先生は小鳥とか、犬猫とかを飼つておられましたか。
〔高木〕 先生は實に小蟲[やぶちゃん注:「こむし」。]すら愛護して無益に殺生することを好まれなかつたばかりでなく、無益の殺生に對しては非常に憤慨しておられましたことは全く事實です。先生は松江在住中には小鳥とか猫犬は飼われませんでした。ただ一度[やぶちゃん注:「いちど」。]時の島根縣知事の籠手田さんの御孃さんから鶯を一羽貰われましたことがありまして、その飼い方には少々困られていました。それはわれわれ曰本人が鶯に對して懷くやうな責重觀念が先生にはなかつたためでもあつたでしよう。その日その日の世話なち飼拵[やぶちゃん注:「かいごしらへ」。餌や水や鳥籠の清掃。]などは一切私がやりましたが、熊本へ出發以前にどこかお讓りになつたようです。
この鶯について一つの思い出があります。それはこの鶯が餌を取換える時かに籠の口を開けた際に逃げ出しまして、先生は知事の令孃より貰つたものを逃したとて大いに殘念に思われました。ところが永年[やぶちゃん注:「ながねん」。]籠に飼馴して[やぶちゃん注:「かひならして(かいならして)」。]あつたと見えまして、その夕方幸い鳥籠の口が明いたままであつたので、鶯がチヤンと籠の中にいるではありゑせんか。先生も奧樣も非常にお喜びになつたことがありました。
〔註〕 小泉八雲全集第三卷「神國の首都松江」の四に「ほー、け、けう!」と題して鶯を禮讃してあるが、八雲先生も鶯を珍重されたに違いないがただ飼養法に困られたものと見える。
[やぶちゃん注:「島根縣知事の籠手田さんの御孃さん」当時の島根県知事籠手田安定に就いては、初回で注をしてある。「御孃さん」は籠手田淑子(本名は「よし」であるが、公的記録や自称では「淑子」としたらしい)。生年は明治五(一九一六)年らしい(「人事電信錄」の記載)。とすれば、八雲と逢った時は、十八歳前後である(因みに、小泉セツさんは慶応四年二月四日(グレゴリオ暦一八六八年二月二十六日生まれ)である)。NHKドラマ「ばけばけ」では、恋のライバルとして登場したが、私は、小泉八雲の事績の中でも、個人的に全く興味を持ったことがない。従って、今までも、調べたこともない。現在でも、調べたい気持ちはサラサラ、ない。取り敢えず、ここで注せざるを得ないので、ざっと、彼女の記載のある記事を見渡してみたところ、「@Niftyニュース」の『だから小泉八雲は「知事のお嬢様」を選ばなかった⋯朝ドラ・セツの「恋敵」が起こした前代未聞のスキャンダル【2025年12月BEST】』が、『多くの私の記事の読者が、まあ、半分は理屈上では納得するに値する、一応は、豊富な記載内容では、あるな。本当か、どうかは判らぬが⋯⋯』とは感じたので、リンクを張っておく。引用はしない。それに不満なら、もっと面白おかしく、作られたドラマに深掘りしたい諸君を惹きつけるキワものは、わんさか、あろう。どうぞ、御勝手に捜されたい。]
犬は飼つておられませんでした。近所の犬が每々[やぶちゃん注:「まいまい」。]遊びに來る程度で、飼犬としては記憶がありません。
猫は私が京店に奉公致していた頃に湖水べりで、近所の子供が小猫をいじめていたのを先生が見つけ、それを綿に包み懷に抱いて愛撫され、根岸邸移轉の節も、先生御夫婦と小猫とで引移りました。その後小猫がだんだん成長しましたが、先生の愛撫方は非常なものでした。それにもかゝわらず、ある日その猫がどんなはずみか先生の手をひつかきまして、先生は非常に不快の色を致されましたが、この小猫は嫌いだということになり中原町の某[やぶちゃん注:「なにがし」。]にやられました。こんな風で松江在住中には生き物はあまり飼われませんでした。
[やぶちゃん注:なお、このページの左下には、金津氏の、下方の両脚の間に雲形型のような切込みが入った、かなり立派な和膳の切り絵が描かれている。]
〔桑原〕 「松江に於ける小泉八雲」中に、女中が或る時庭の池で蛙釣をやり、かつて怒つたことのない先生を怒らせたことがありますが、そんなことがありましたか。
[やぶちゃん注:当該書は、先に注で示した国立国会図書館デジタルコレクションの「出雲に於ける小泉八雲」(再版・八雲會昭和六(一九三一)年刊)の誤りで、ここの「動植物への愛」で、確認出来る。冒頭の段落にも蛙を庇う話が出ており、以上の話は、第三段落目の三行目下方から次の行にかけて出現する。]
〔高木〕 それは全く違います。私の記憶では先生が池の中の蛙を釣り上げてはまた放して喜ばれていたことです。卽ち刻煙草を少し糸につけて池に放たれました。これは每々のことで、女中が叱られたことは釣り上げた蛙をどうかしたのでしようが、今記憶致しませぬ。

