桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その8) 「京店と北堀時代」(そのⅣ) 〔交友〕
[やぶちゃん注:底本では、ここの右丁最終行から。]
〔交 友〕
〔桑原〕 根岸邸で先生は來客の時は酒を酌みかわし、流行の改良節を唄われて興に入られたと書物にありますが、それはほんとうでしたか。
[やぶちゃん注:「改良節」花酒爺氏のブログ「歌謡遺産 歌のギャラリー」の「改良節」に、『明治二十年代、時の新語「改良」を冠して』、『はやった演歌・俗謡をいう』。『当時、西を向いても東を見ても斬新を誇示する改良だらけであった。その風潮がいかにすさまじかったか』は、『ここでは割愛するが、『団団(まるまる)珍聞』明治二十一年一月十四日号の投書紹介記事が伝えている。歌謡界とて』、『その例に洩れなかったのである』。『ちなみに流行には』、『お堅い箏曲ですら「改良唱歌」という名目のもとに、何曲も新作されたほど派生唄乱造時代であった』とあった。『【例歌】』の冒頭の『改良節』『土取利行』の『弾き唄い』とある歌詞は、
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♪野蛮の眠りの覚めない人は、自由のラッパで起こしたい、開化の朝日は輝くぞ、さましておくれよ長の夢、ヤツテケモツテケ改良せえ改良せえ。
♪思ふ一念岩をも通す、軒のしずくを見やしやんせ、国民一致の力なら、条約改正何のその、鷲でも獅子でも鯨でも、すこしも恐るゝ事はない、ヤツテケモツテケ改良せえ改良せえ。
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とあった。この標題の「改良節」はリンクが張られており、「YouTube」のototatchinuru18氏の「改良節・久田鬼石(詞曲)/土取利行(唄・演奏)」で、唄と歌詞(画像)が視聴出来る。そこの解説には、『改良節(詞曲:久田鬼石) 土取利行(唄・三味線・太鼓)
「ダイナマイト節」と同様、壮士演歌草創期の唄で、久田鬼石の作。「夜が明けたとか、目をさませとかしきりにいっているのは、一に民衆の自覚如何にかかっているとうったえたわけだろう。まことに初歩的教訓である。作者久田鬼石はみちばたの教師といったところだが、後年教育界に入ったと云うのもむべなるかなと思う」添田知道』とあった。
「流行の改良節を唄われて興に入られたと書物にあります」複数、確認出来る。まず、直記載で伝聞でないものとしては(以下は、総て国立国会図書館デジタルコレクションの当該部へのリンクである)、「小泉八雲全集第一卷」(第一書房昭和一二(一九三七)年刊)の『月報』の冒頭にある根岸磐井氏の「松江における小泉八雲」の、「居間」の項(以下全文)で、
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玄關を上つて行けば南に面した四疊があつて其北側に拾疊の間がある。此れは先生の居室で居ながら三方に庭が見えると悅ばれた處である。先生は常に窓際近く座を占めて、蟬の聲に耳を傾けたり庭を眺めながら夫人と歡談し或は來客に應接し、時には所謂「お友達」と酒を酌み交しつつ拳や歌に興ぜられ、自らも當時流行の俗歌「改良節」を唄はれたこともあつた。
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とある。次に、以上より前の、雑誌『住宅と庭園 新年號』(第三卷第一號・昭和一一(一九三六)年発行)の藤島亥治郞「小泉八雲の松江の家」の「4」の根岸邸の借宅の客間に就いての記載(右丁中段の後ろから四行目より)に、『八雲はこの間を居間兼客間とし、三方に岩が見えると悅び、「お友達」と酒を酌み拳や歌に興じ、時には當時流行の改良節を唄ひ、澤山の煙管を座右に置いて取り換へ取り換へ之を吸つたと云はれる』とあった。
正直、前者の根岸氏のそれは、先に引用して考証した如く、事実ではない内容が現に見受けられ、信用出来ない。また、藤島氏の記載も、『月報』以前に根岸氏が同内容を書いたものに基づくと考えて間違いない。
なお、私の目が止まったものに、岡戶武平(をかどぶへい)氏の講談社の『日本小說新書』(叢書名の「小說」に注意)の「小泉八雲」(昭和一八(一九四三)年講談社刊)の「第三章 出雲の神」の「二」の、ここ(左丁二行目)に出るものがあった。当該段落のみ引用する。
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一たん消した臺ランプをもう一度點けて、枕もとへ近づけた。まだ、夜更(よふ)けに間があるとみえて、大橋を渡る人の足音がからころと聞こえたり、船着場(ふなつきば)にもやつてゐる船の上から改良節が聞えたり、和多見の遊廓からにぎやかな三味線の音と、それに合せて歌う安來節が聞えて來りした。[やぶちゃん注:「和多見の遊廓」現在の和多見町の売布(めふ)神社の西側にあった。]
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この本の末尾の『覺書』の最後に岡戶氏は、『○本篇中に引用(いんよう)した八雲の原著中にある文章は、すべて小泉八雲全集(第一書房版)から收錄(しうろく)した。但し、原文に倣(なら)つて作者が創作したものも多少はある。以上。』と記しておられる。――私は、この創作映像部にこそ、「はった!」と横手を打ったのである!
――小泉八雲が、京店の桑原氏邸の借宅で、大橋川から聴こえてくる「改良節」を聴くともなく聴いていた――という「事実伝聞」こそが、この「誤りの伝説」へと変形したものであろう――
と直感したのである。異論のあられる方は、何時でも相手になる。]
〔高木〕 私の知る限りでは、來客は極めて少なく、從つて生徒さんなぞの遊びに見えました時には、酒を出すということは極めて少なく、當時同邸訪問の御方は敎師では西田千太郞樣この方が一番比較的に多くありましたが、西田先生にすら會つて酒食を供したことはない位に存じています。何分先生の御用は大槪學校で辯じたものでしよう。
生徒さんでは、今私が思い出すのは、小豆澤八三郞さんというお方でした。
先生が自宅で酒興中に、改良節を唄われたというのは間違いでしよう。それは生徒さんに改良節や日本歌謡を唄わせて喜んで聽かれたことの間違でありましよう。
[やぶちゃん注:「當時同邸訪問の御方は敎師では西田千太郞樣この方が一番比較的に多くありましたが、西田先生にすら會つて酒食を供したことはない位に存じています」この事実は、一応、八雲の家では酒の饗応は、まず、なかった、という推定箇所は正しいと思われる。但し、銭本健二・小泉凡編「年譜」の明治二三(一八九〇)年十月二十一日(火曜)に『学校の帰途、西田千太郎宅に立ち寄り、酒飯のもてなしを受ける』とあり、西田の誘いで、西田宅で饗応を受けた事実は、ある、のである。西田(彼は松江中学の教頭・校長代理であった)は、しかし、この直後に喀血している。僅か六日後の十月二十七日(月曜)、八雲は、『喀血して伏している西田千太郎を、人力車で見舞い行く』とあるからである。]
〔桑原〕 外國人が根岸邸を訪問したことはありませんでしたか。大學敎授の獨逸人でフロレンツと申す人が、先生を尋ねた時、先生がこれを宣敎師と誤つて面會を謝絕した所が、段々フロレンツ敎授の說明で敎授が親日家で日本語、日本文學に造詣深い人だということがわかり、座敷に通し終日談話されたと或る本にありますが、御記憶はありませんか。
〔高木〕 先生はまことに交際ぎらいなお方でした。內外人共にあまり面會はありませんでした。別して外國人には一切あわれなかつたようでした。
しかしただ今外國人のことを伺いまして、よくよく囘想致しますと、一度そんなことがありました。あの外國人さんがその先生であつたかもしれません。初めは先生が斷然謝絕せよとのことでことわりましたが、後で玄關で先生とその外国人とがお話しがあり、御居間に通してお話がはずみ、それから御兩人で大社參拜にお出掛けになつたように存じます。
[やぶちゃん注:「大學敎授の獨逸人でフロレンツと申す人」「お雇い外国人」として来日したドイツの言語学者・日本学者・文学者であったカール・アドルフ・フローレンツ(Karl Adolf Florenz 一八六五年~一九三九年:小泉八雲より十五年下)。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『テューリンゲン州のエアフルトに生まれた。1883年から1886年までライプツィヒ大学でドイツ語学、比較言語学、東洋諸言語を学び、中国語とサンスクリットをゲオルク・フォン・デア・ガーベレンツ』(Hans Georg Conon von der Gabelentz:一八四〇年~一八九三年)『に師事した。博士の学位を得た後、ベルリン大学で井上哲次郎』(安政二(一八五六)年~昭和一九(一九四四)年):哲学者。号は巽軒(そんけん)。筑前の医家の生まれ。東大卒業後、明治一五(一八八二)年(この年に共同執筆で刊行した「新體詩抄」で『新体詩運動』の一詩人としても本邦の近代詩に名を残した)から大正一二(一九二三)年、母校で哲学を講じた。一八八四年から一八九〇年、ドイツに留学し(ハイデルベルク大学・ライプツィヒ大学・ベルリン大学)、帰国後は『ドイツ観念論』の紹介に努め、『円融実在論(現象即実在論)』を説いて東西思想の統一を試みた。また、「教育勅語」の権威を背景に、キリスト教を攻撃し、天皇制国家主義のイデオローグとして重きをなした]『に日本語を学び、このときに有賀長雄』(万延元(一八六〇)年~大正一〇(一九二一)年:法学者・社会学者。専門は国際法)『の面識を得ている』。『日本政府の招聘により』明治二二(一八八九)年『に東京帝国大学に雇われ』、『ドイツ文学及びドイツ語の教鞭を執り、後にはドイツ文献学や比較言語学も教えた。また、同時期に』「日本書紀」『や日本の古典文学をドイツ語に翻訳したり、日本文化を研究する等、日本とドイツの関係を向上させた』。明治三二(一八九九)『年に東京帝国大学はフローレンツに外国人として初めて文学博士の学位を贈っ』ている。大正三(一九一七)年『に任期満了となり』、『帰国した。帰国後はハンブルク植民地研究所(ハンブルク大学の前身の一つ)の日本研究の教授として』一九三五『年まで教鞭を執った』。『主な著作物』として、‘ Geschichte der japanischen Litteratur ’(「日本文学史」一九〇六年)、‘ Dichtergrüsse aus dem Osten : japanische Dichtungen ’(「東の国からの詩の挨拶」一八九四年:ドイツ語に翻訳された分類式日本詩歌集で、三島蕉窓・鈴木華邨・新井芳宗・梶田半古・枝貞彦画の『ちりめん本』(この「ちりめん本」には小泉八雲も後期に作品を執筆している)で、好評を博し、英訳本も出た)。
「宣敎師と誤つて面會を謝絕した」ご存知とは思うが、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は徹底したキリスト教嫌いであった。ハーンのフル・ネイムは“ Patrick Lafcadio Hearn ”であるが、ファースト・ネイムのアイルランドの守護聖人聖パトリック(ラテン語::Sanctus Patricius /アイルランド語:Naomh Pádraig/英語:Saint Patrick) に因んだそれを、八雲は終生、サインに用いなかった。
フローレンツの小泉八雲面会は、銭本健二・小泉凡編「年譜」に拠れば、明治二四(一八九一)年七月の以下に記載がある(参考文献割注部は殆んどの方に無意味であるが、そのまま写した)。
《引用開始》
七月八日(水)正午、東京帝国大学文科大学教師のドイツ人、カール・フローレンツが汽船米子丸にて松江に到着し、ただちにハーン宅に投宿する【広瀬(一九七六)一五八】。西田千太郎が、フローレンツに面会のために訪問する【西田(一九七六)一一四】。
七月九日(木)、「山陰新聞」に、フローレンツが来松し、ハーン宅に投宿の記事が掲載される【広瀬(一九七六)一五八】。
七月十日(金)、午前中、フローレンツをともない中学校へ行き、西田千太郎と会談する。午後、西田千太郎をハーン宅に招き、晩餐をもてなし、快談して時を過ごす【西田(一九七六)一一五】。
七月十一日(土)、西田千太郎がフローレンツを迎えに来る【同書、一一五】。教育会で西田千太郎の通訳によるフローレンツの講演を聴き、その後、フローレンツ、西田らと師範学校女子部の生徒と歓談する【板東(一九八六b)一七八―七九】。さらに中原倶楽部で教育会の主催により、フローレンツ、中山弥一郎、西田千太郎らとともに賓客として招かれ、饗応を受ける【西田(一九七六)一一五】
七月十三日(月)、フローレンツが師範学校女子部の生徒に書籍を贈ることを希望しているので、その件で相談があるとのハーンからの手紙[91―37]に応じ、夜、西田千太郎が書籍商を伴って訪問する。シャンペンを飲み、夜半になって西田千太郎が帰宅する【同書、一一五】。
《引用終了》
以上の後の七月十五日分はフローレンツに触れていないのでカットする。
《引用開始》
七月十六日(木)、西田千太郎が訪れ、フローレンツと三人で松江城の天守閣に登り市内を散歩する。望湖楼でフローレンツの饗応を受ける。
《引用終了》
二日分を同前の理由でカットする。
《引用開始》
七月二十二日(水)、西田千太郎がフローレンツに出雲音図の写し、出雲言葉を集めたものなどを渡すために訪問するが、同氏は大社に行って不在。西田に昼食をもてなす【西田(一九七六)一一五―一六】
七月二十四日(金)、午後、フローレンツが大社より帰る。同氏の西田千太郎、斎藤熊太郎、木村牧(中学校長)に帰松と別れの挨拶をするために出かけるが、最初に立ち寄った斎藤宅で料理屋に案内されてもてなしを受け、帰宅は十二時半から午前一時頃となる[91―40]。
七月二十五日(土)、西田千太郎がフローレンツに会うために訪問する。フローレンツと西田と一緒に松崎水亭(中原町)に行き、フローレンツが米子へ出発するのを西田とともに見送る【同書、一一六】。
《引用終了》
「御兩人で大社參拜にお出掛けになつたように存じます」これは以上の年譜から、誤記憶である。]

