桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その5) 「松江に於ける八雲の私生活」の「京店と北堀時代」(そのⅠ) イントロダクション・〔住居〕・〔衣服調度〕
[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]
京店と北堀時代
八雲は明治二十四午二月京店に移居し、住居すること四月餘であつた。しかして節子夫人を娶つた後、京店借宅の狹隘なのを厭い、同年五月北堀町根岸邸に移轉した。根岸邸にあること七ヵ月間、同年十一月十五日この邸に辭別して熊本市に向つて出發した。
[やぶちゃん注:ここにある、京店の移転に就いての現行の事実との齟齬は、先行する『(その2) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅠ)』の冒頭で既に注してあるので、見られたい。同じく、根岸邸への移転もまた、現在の事実とは、全く、異なる。恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の銭本健二・小泉凡編になる「年譜」に拠れば、根岸邸への転居は明治二四(一八九一)年六月二十二日である。明治二四(一八九一)年の当該部を引く。『六月二十二日(月)、士族屋敷、根岸千夫(たてお)』(ママ。正しくは「干夫」である。八雲会が管理されている「小泉八雲記念館」が、この旧旧居なのである。同館公式サイトのこちらのページを見られたい)『方(北堀町三一五番地)に、セツ、女中の高木ヤオ(高木令太郎の娘)、一匹の子猫とともに転居する。借家賃は三円【小泉セツ(一九六〇)】。正午、中学校に人力車をまわして西田千太郎を迎え、西洋料理をもてなす【西田(一九七六)一一三】。』とある。なお、松江に別れを告げ、熊本へ出発した年日時は問題ない。
なお、このページには、金津氏の切り絵が左下方にある。爪除け(下駄の前に掛ける雨カバー)附きの高下駄が左に、右に洋靴(踵部分が厚く、さらにその上部も高く足首までカバーされた雪用の革靴と思われる)があり、二つの間(下駄先左と革靴右端が重なっている)に「髙足駄」と「靴」の切り絵が二つの絵を繋いである。例の「金津滋研究」のページにも載る。]
八雲が京店に於て節子夫人と結婚して以來熊本に向けて出發當日まで、八雲に側近した高木八百刀自(當時六十七歲)について八雲の私生活の全貌を聽くため、昭和十五年(西曆一九四○年)四月二十八日より七月二十一日に至る三囘、髙木八百刀自並びに附添いとして同刀自の嫁女、同姓登志夫人を拙宅に招待し、左の問答をなした。
〔桑原〕 本日は遠路特にご老體のところ、私の熱意に動かされてご來駕を得たことは非常に感謝する次第であります。八雲先生の私的生活に就いて詳細を承りたいのですが、記事の都介上、特に京店時代のことは、お話し中にその時々ご注意を頂くことにして、先ず根岸邸に於ける生活樣式をお伺い致します。なお便宣上住居、衣服調度、食事、習癖、雜事の順序で伺います。
〔高木〕 何分五十餘年の昔のことでありまして、八雲先生が段々高名になられますに從い、常時の思い出を今日連れて來ました嫁などにも話していましたので、私の記憶の混雜していることなどは、この嫁に先年聽かしたところをもつて注意して貰うことにしてお話し致したいく存じます。
〔住 居〕
〔桑原〕 八雲先生は富田旅館より明治二十四年二月京店にご移轉になりましたが、その家は今の何處の邊に當りますか。
〔高木〕 私の奉公致した時の八雲先生のお宅は、末次町通り卽ち京店の御掛屋(兩替店)の地內で、織原と申す人の借家でありまして、その位置は京店の本通りより左方御掛屋地內に入り、その前を左に行つた所卽ち湖水べりの家でありました。私が行つた時には、節子夫人ご結婚後間もない私の十八歲の時でした。
〔桑原〕 貴女は先生が根岸邸に移居された明治二十四年五月より約七カ月間同邸に居られたと承けたまりますが、先生のご居間、書齋等はどんな風でしたか。
[やぶちゃん注:この桑原氏の問いに着目されたい。彼は、それぞれの移転時期を確認するためではなく、京店の織原所有借家の位置と、根岸邸の居間や書斎の様子を答えるように仕向けていることに注意されたい。則ち、桑原羊次郞氏が、富田旅館時代の富田ツネさんから聴いた二回の転居の「時期」のことを信じ切って、ゼロから再確認することを省略したことが、極めて残念に感じられてならない。これは、独立した時期聴取ではない。こうした質問をされた際、八百さんは、枕に振られた年号を正しいかどうかと明確に確認し得るだろうか? 私は現在六十八歳だが、こうした第三者として、過去のことを問われた場合、この前振りの年号や月を、即座に、「間違っている」と指摘出来るとは思われないし、寧ろ、『うん、その頃だったかな。』と聴き流して、後の主問の方を、しっかり思い出して答えようとすることは、火を見るよりも明らかである。高木八百さんの年齢、さらに八百さんが以前に小泉八雲に就いて話した嫁の、より若い登志さんも同席であった以上、京店や根岸邸への転居が異なることは、或いは、まず、明確に検証する聴き取りが出来たのではないか? という気が強くしてならないのである。本書が『問題がある』という言い方がされるのは、主に聴き取った時制の問題が、後に明らかになった事実と齟齬するものがあるからに他ならないからであり、作者の恣意的な解釈や、小泉八雲やセツさんへの物言いにプライベートな微妙な問題があるからではない、と私には思われるからである。セツさんや一雄氏が本書を読んで不満や怒りを持ったから問題があるという情緒的短絡的風評は、事実誤認も甚だしい。小泉八雲の正確な時間的経緯を、時代時代の中で正確なものにしてゆく作業と、一部の「小泉八雲研究家」が評価しないという事実とは、全く以って、これ、別問題である。そうした過程の中の一つの道標として、本書は非常に価値ある作品である、と、私は断言出来るのである。
なお、このページの左下方には、まさしく、先の『(その4) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅢ)』で語られた八雲が愛した「〆飾り」(これは間違いなく〆飾りである)の金津氏の切り絵がある。やはり、先のページに描かれたものは、「〆飾り」ではないのだ。松江の方の御教授を、更に乞うものである。]
〔高木〕 先生の書齋は北向きの前に池のある六疊敷(口繪圖面を參照[やぶちゃん注:ここ。])でありまして、中央の九疊の間はご居間兼客間でお寢み[やぶちゃん注:「おやすみ」。]になつたのもこの部屋でした。奥樣のご居間は北向の書齋の東際[やぶちゃん注:「ひがしきは(きわ)」。]の五疊半敷で、また、私の女中部屋は湯殿の側の二疊の部屋でした。
〔桑原〕 根岸邸の模樣はすべてそのままよく保存してあると聞いていますが、風呂場はただ今の風呂場と違いますか。臺所ではどうですか。
〔高木〕 風呂の場所も臺所も少しもかわりません。ただ昔は風呂桶が小判形の木製でありましたが、ただ今は鐵の五右衞風呂となつており、その他一切かわらないと存じます。
〔衣 服 調 度〕
〔桑原〕 先生が學校へおいでの時は洋服でしたか、根岸君の著書には、學校より歸宅後は直ぐ和服に着かえられたとありますがどうでしたか。
〔高木〕 富田旅館や、熊本、東京でのお住居[やぶちゃん注:「すまひ(すまい)」と読んでおく。]の時のことは知りませんが、時候が寒い時は勿論ご歸宅になりましても、そのまま洋服で椅子に掛けておいでのことが度々ありまして、また洋服ですわつておいでたこともありましたので、和服ばかりではありませんでした。
日々お召しになつたのは鼠色の洋服でした。夏服は白洋服でしたがその素地[やぶちゃん注:「そぢ(そじ)」。]は覺えません。先生は和服も一通りはお持ちで、たとえば單物[やぶちゃん注:「ひとへもの(ひとえもの)」。]と袷衣綿入[やぶちゃん注:「あはせわたいれ(あわせわたいれ)」。]とか、また紋付羽織[やぶちゃん注:「もんつきはおり」。]とか袴[やぶちゃん注:「はかま」。]とか一晴れ着の衣服は一通りご所持でした。
〔桑原〕 先生の帽子はどんな色でしたか。そうして足袋[やぶちゃん注:「たび」。]ははかれましたか。
〔高木〕 先生の帽子は茶色の中折帽[やぶちゃん注:「なかをればう(なかおれぼう)」。]で、足袋は白足袋でしたが、これは家庭內のことで、外出には靴ばきでした。
〔桑原〕 先生は寒中外套と襟卷を用いられましたか。また暑中は蚊帳[やぶちゃん注:「かや」。]の外に蚊遣線香[やぶちゃん注:「かやりせんかう(かやりせんこう)」。]のようなものを用いられましたか。
〔高木〕 先生は外套も襟卷もありませんでした。
[やぶちゃん注:このページには、左下方に金津氏の「てつびん」と、ひらがなを内側左上方に切り絵した、八角形の枠の中に把手・取り手蓋・注ぎ口附きの茶碗二つ合わせたような楕円型鉄瓶を切り入れたものがある。]
〔註〕小泉節子夫人・「思ひ出の記」小泉八雲第二四八頁の一駒[やぶちゃん注:「ひとこま」。]に[やぶちゃん注:ここの後から丸括弧まで引用。]出雲の冬の寒さには隨分困りました。學校では冬になりましても、大きい火鉢が一つ敎場に出る位のもので[やぶちゃん注:以下から、このページの最終行までは、植字工のミスで一字下げになっていない。]す。寒がりのヘルンは西田さんに授業中、寒さに困る事を話しますと、それならば外套を着て[やぶちゃん注:「きて」。]いて授業をなさいとのことでした。この時一着のオヴアーコートを持つていましたが、それは船頭の着るのだといつていましたが、それを着ていたのです。好みはあつたのですが、服裝などはその通り無雜作でかまいませんでした。(以上思ひ出の記)高木八百刀自の話と矛盾する如く見える。八百刀自は二月より十一月まで奉公していられたが、今八雲の外套は思ひだせぬといつた。
[やぶちゃん注:この「思ひ出の記」は、ページ数から、国立国会図書館デジタルコレクションの田部隆次著「小泉八雲」(大正三(一九一四)年早稲田大学出版部刊)のここであることが判った。当該段落の内に部分的にカットされている箇所があること、表記に違いがあることから、改めて全段落を引用しておく。
*
出雲は面白くてヘルンの氣に入つたのですが、西印度のやうな熱い處に慣れたものですから、出雲の冬の寒さには隨分困りました。その頃の松江にはストーヴと申すものがありませんでした。學校では冬になりましても、大きい火鉢が一つ敎場に出る位のものです。寒がりのヘルンは西田さんに授業中、寒さに困る事を話しますと、それならば外套を着ていて授業をなさいとの事でした。この時一着のオヴアーコートを持つて居ましたが、それは船頭の着るのだと云つて居ましたが、それを着て居たのです。好みはあつたのですが、服裝などはその通り無雜作でかまい[やぶちゃん注:ママ。]ませんでした。
*]
〔桑原〕 先生の部屋に寒中の暖房裝置はありましたか。
〔高木〕 先生は二三月中は京店の宅でありましたが、ただ火鉢が一つあつたばかりで餘程寒氣には閉口しておられました。根岸邸では、五月頃よりでしたから先生の部屋に火鉢が一つあつたばかりでした。
[やぶちゃん注:私は、本当に高木八百さんが本当に「根岸邸では、五月頃よりでしたから」と言ったのかどうか、やや疑問がある。しかし、或いは、彼女が、桑原氏が質問で言った『明治二十四年五月より約七カ月間同邸に居られたと承けたまりますが』を受けて『五月頃よりでしたから』と応じたのだ、とも言えるかも知れない。考えてみるがよい。現在、小泉八雲とセツさんの結婚した日が、今、以て、判然としない理由の一つに、セツさんが旧暦で言ったする説があるのだ。ここで問題にされているのは、八百さん自身の話ではない、女中としての彼女に既に稀有の帰化した大作家のことを聴かれているのだから、事実は、六月だったけれど、五月と言い合わせた可能性は、十二分にあるのだ。いや、実際、八百さんは、正しく「六月頃よりでしたから」と言ったのだが、桑原氏が『「五月」の言い間違いであろう』と考えて「修正」した可能性もあるのである。しかし、この「変更」が事実だったとしても、桑原氏の贋造や嘘なのではなく――八百さんの記憶違い――として、「訂正」したものと採るべきことであり、桑原氏に責めは、私は、「ない」と考えるものである。
こうしたことを、論って、桑原氏のこの本を誹謗する輩(やから)には、
「じゃあ、お前が! タイム・マシンで戻って! 再度、調べ直して来いよ!!!」
と指弾したいのだ!
――桑原氏の富田カネさんと、この八百さんへの、頗る貴重なインタビューは、誰もしなかった、稀有の偉業である――
と、私は、叫びたいのである!]
〔桑原〕 先生は學校においでの時に手鞄をお持ちでしたか。
〔高木〕 手鞄は全然お持ちでありませんでした。何時も外出には日本の風呂敷でした。
〔桑原〕 ただ今八雲記念館にある椅子とテーブルはその當時よりありましたか。
〔高木〕 あの分をご使用になつていたのに間違いはありません。當時電燈がなかつたため、書生ランプで今記念館に陳列してある分に間違いありません。
[やぶちゃん注:「書生ランプ」まともな記載は、ネットでは見当たない。グーグルのAIの答えは、『「書生ランプ」とは、学生(書生)が読書や勉強のために使う、手元を照らすタイプの卓上照明を指し、一般的には石油ランプや、現代ではデスクライト(ブックライト)を指すことが多いですが、明治・大正時代の「ガス灯」や「石油ランプ」を指す場合もあり、レトロな雰囲気の小型照明全般を指すこともあります。昔の「書生」が使ったような、携帯可能で、温かみのある光(電球色など)を放つものがイメージされます。』とあった。AIよ! よく勉強した! 褒めて遣わす! なお、「八雲記念館 小泉八雲のランプ」のフレーズで調べたが、画像その他は掛かってこなかった。
なお、この見開きページの左丁の左下には、金津氏の二枚目の洋椅子の切り絵図がある。右側中央に「椅子」の文字が附けてある。]
〔桑原〕 先生は和服姿で外出されたときゝますが、その時には靴の外に下駄とか木履[やぶちゃん注:「きぐつ」。]とかお用いになつたことはありませんでしたか。
〔高木〕 私が京店時代に奉公して以來先生は決して日本式の履物ははかれませんでした。外出には何時も靴でした。
〔桑原〕 根岸氏の「松江に於ける小泉八雲」第三十七頁によれば「先生は鼻緖をゆるめた竹の庭下駄をはいてこの庭を逍遙された。竹の庭下駄とは、太い竹を縱に半分に割り、それに蔓の鼻緖を立てたもの」とありますが、先生が松江到着當時、富田旅館滯在中、純粹の日本生活がたいとの執心により、日本下駄を試みられたが遂に不成功に終わつたとは、これまた同書第十七頁に「白足袋の上に下駄を履くのが大仕事で、家內總掛りであつた。しかし履いても直ぐ脫げるので、履き物は止むを得ず靴に變えられた」と記せられているのに對照すると、前後矛盾するように見えて、割り竹の下駄をはかれたとは私は全く信用が出來ませんがどうでしたか。
[やぶちゃん注:『根岸氏の「松江に於ける小泉八雲」』この作者は、小泉八雲が最後に松江で借りた根岸邸の当時の家主で郡長でもあった根岸干夫(たてお)の子息で、八雲の教え子にして、次の当主となった根岸磐井(元治元(一八六四)年~明治四四(一九一一)年)である。日本銀行勤務中、小泉八雲の「知られぬ日本の面影」に自邸が描かれていることを知り、故郷に戻って旧居を守り、後の小泉八雲記念館設立にも貢献した人物である。当該書は、国立国会図書館デジタルコレクションの「出雲に於ける小泉八雲」(再版・八雲會昭和六(一九三一)年刊:★やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションでは、前年の初版(横書)版があるが、ここでは、桑原氏の引用している部分の一部が確認出来ないので注意!)で確認出来る(但し、ノンブルは変わっているので役に立たない)。桑原氏が最初に指示しているのは、ここ(左ページ「39」の八行の部分(但し、『先生は鼻緖を緩めた竹の庭下駄を穿いて此庭を逍遙された。』の表記である)と、そのページの最後の『(註)』の内容を合成したものである(但し、『竹の庭下駄とは太い竹を縱に半分に割り夫れに蔓の鼻緖を立てたもの。』の表記である)。後に指示しているのは、ここ(左ページ「17」の後ろから四行目)である(但し、『白足袋の上に下駄を穿くのが大仕事で家內總掛りであつた。併し穿いても直ぐ脫げるので、履きものは止むを得ず靴に變へられた」』の表記である)。因みに、この根岸磐井氏の「松江に於ける小泉八雲」も、そのうち、是非、電子化したい著作である。]
〔高木〕 八雲先生が松江滯在中、そのような下駄をはかれたことは決してありません。殊更割竹の下駄なぞは、日本人でも老人なぞはあぶないようなものです。これはたしかに誤傳であります。
[やぶちゃん注:「割竹の下駄」私は、正に、太い竹を縦に半分に割ったものに緒を附けただけのシンプルなものを、幼少の頃、母の故郷で見たことがある。ネット検索では出てこないのだが⋯⋯。]
〔桑原〕 それでは先生が根岸邸の庭を逍遙された時は靴ばきでありましたか。
〔高木〕 先生は靴も下駄もはかず、全く靴下ばかりで砂の上や飛石の上を逍遙されました。しかし根岸邸の前庭[やぶちゃん注:「まへには(まえにわ)」。]は荒島砂と申して大粒の大豆か小豆位の砂で、また後庭[やぶちゃん注:前に合わせて「おくには」と当て訓しておく。]は今こそ土庭[やぶちゃん注:「つちには(つちには)」。]ですが、當時は前面に一寸位の黑の玉砂利[やぶちゃん注:「たまじやり(たまじゃり)」。]が敷[やぶちゃん注:「しき」。]つめてありましたから、そのまま庭から座敷にあがられても、靴下で座敷を汚す[やぶちゃん注:「よごす」。]等のことはありませんでした。八雲自身の著書にも「庭には大きな樹はない。靑い石か一面に敷いてあつて中央に小池がある」と記している。
[やぶちゃん注:この最後の一文は、どうみても、高木さんの肉声ではない。恐らく、桑原氏が以下の註として書いたものを、うっかり、ここに配してしまったものと考えられる。]
〔註一〕 著者はこの庭の砂に就き、最近根岸邸に至り、主婦に尋ねたところ同樣のことを伺つた。
〔註二〕 小泉一雄君の「父八雲を憶ふ」第二八七頁の一齣に燒津の濱で海にはいる僅かな道も、柔かな古布で草履を作つて貰い云々とあるのによつて察するに、先生は終生日本式の履物を使用し得ないことは明らかである。
[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』である当該書『父「八雲」を憶ふ』(小泉一雄著・昭和六(一九三一)年警醒社刊)の当該ページはここ。「四 海へ」の一齣。右丁の「二八八」ページの一行目以下にある。興味深い小泉八雲の身体(足)に就いてハンディに就いての記載があるので、前のページの段落開始箇所から、総てを引用する(小泉一雄氏の著作は既にパブリック・ドメインである)。
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父は兩足の中指と藥指が重り合つた儘膠著してゐました。これは幼少の頃爪先の尖(とが)つた貴族的な靴のみを履かせられた結果だと申して、先の尖(とが)つた洒落靴のことを「野蠻の履物」といつて呪つてゐました。それ故父は先の幅廣な兵隊靴然たる靴を常に履いてヲました。縱ひフロツクの場合と雖もこれを履いて平然たるものでした。此の黑の兵隊靴然たる編上が二足ある他靴の持合せはなかつたのです。子供等にも下駄や草履を奬勵して、なるべく靴を履かせぬように仕向けました。足は頗る達者で二三里を步く位何とも思はぬ父でしたけれど、その足の裏は私等子供よりも遙かに柔かく、裸足で濱邊を步く事などはとても出來ぬ人でした。砂地が無く小石計りである燒津の濱では海へ這入るのにも小石を踏むで行く僅[やぶちゃん注:「わづか」。]の間が父に取つてはなかなかに苦痛でした。これを見兼ねて乙吉さんがなるべく柔かな古布を選び、それで草鞋[やぶちゃん注:「わらぢ」。]を編んで海岸行の時は父に履かせてくれました。而も海へ這入る時と海から上る時とには必ず父の手を執つて案內してくれました。
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ここに出てくる「乙吉さん」は、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」の私の冒頭注を見られたい。]
〔桑原〕 ついでに伺いますが、節子さんが結婚後はどんな服裝で、どんな髮でしたか。
〔高木〕 節子さんは終始日本服で、髷は丸髷で、實に立派な奧樣振りで大層先生の氣に入つでおりました。
〔桑原〕 八雲先生宅には、日本の日用家具はどんな風でした。
〔高木〕 食器、御膳、煎茶器、土瓶、鐵瓶その他日本家庭に必要な調度は一切揃つておりました。これは奧樣が日本人で、日本人の來客もありよく調つておりました。
〔桑原〕 先生の寢具はベツトでしたか。
〔高木〕 先生は日本式というので敷布團を澤山重ねてお寢みでした。

