桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その7) 「京店と北堀時代」(そのⅢ) 〔習癖〕
[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]
〔習 癖〕
〔桑原〕 先生は每日大槪何時に御起牀で何時頃御寢みになりました。
〔高木〕 先生は每日午前八時頃に御起牀で洗面はいつも臺所でした。お寢みは每晩十時頃でそれまでは書齋で何かお書きになつていました。
〔桑原〕 學校への御出勤は每日何時頃でいつ頃にお歸りでしたか。
〔高木〕 先生は每日大槪午前八、九時頃お出かけで、二時間位の御授業であつたように存じますので、晝までで大槪御歸邸でありました。
〔桑原〕 先生が煙草ずきの癖は周知ですが、その外に常人にない癖はありませんでしたか。
〔高木〕 別段他に癖と申してはありませんが、一つもつとも先生の嫌いなことは、割木をた時の煙は非常にお嫌いでした。そのために炊事は一切割木を用いませんで、すべて木炭を使いました。朝の牛乳を温めますにも勿諭炭火で、先生のお目覺め前に温ておきます。また午飯夕飯も他所より取寄せましたのも、實は先生が焚火を好まなかつたためであります。ただ寒中は炭火で室內を暖めました。
〔桑原〕 每日の風呂も炭火でしたか。
〔高木〕 勿論炭火です。先生の風呂は每日のことで、極めて微温湯で、かつ入浴時間が極めて早くいわゆる烏の行水でした。
[やぶちゃん注:このページの左下には、金津氏の、八雲の裸足の足を、かなり歯の高い、太い緖に嵌めた切り絵があり、右下の下駄の後ろの歯の後部に「足駄」と文字を切ったものが添えてある。]
〔桑原〕 「松江に於ける小泉八雲」中に、先生は煙草の火がなくなつた時は伺時も江之島土產の法螺貝を吹いて合圖をされたとありますが、どうでしたか。
〔高木〕 これはたしかに東京住居の時との混線でありまして、松江では奧樣の江之島土產の法螺貝なぞ見たこともなく、また奥樣が江之島においでのこともありませんでした。
[やぶちゃん注:当該書は、先に注で示した国立国会図書館デジタルコレクションの「出雲に於ける小泉八雲」(再版・八雲會昭和六(一九三一)年刊)の誤りで、ここの「煙草」で、確認出来る。「煙草」のここ(左ページにある段落)からで、
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煙草盆は陽が消ゑ[やぶちゃん注:ママ。]易いからと云ふので夏も火鉢を用ゐられた。先生の座右器具の中に一つの大なる法螺貝がある。此れは夫人の江の島土產であつた。先生は「私の肺は强いから斯んな太い音が出る」と云つて頰を膨らして面白がつて吹かれる。そして之を吹くのが大層樂みであつた。夫人は煙草の火を絕やさぬやう常に注意を怠られななかつたが、若しも偶々火がなくなりでもすると、時こそ到れと豫ての約束に隨ひ、長く大きく波を打たせるやうにして吹かれる。そして火の消へ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]た時は兎に角、消へ掛けた時にもブーブー鳴り出す。平素家中は息つまるやう靜肅に保たれて居る處へ、夜間など突拍子な音が遽に[やぶちゃん注:「にはかに」。]鳴響くので、「夫れ貝が鳴る」と皆の頰に微笑が漂ふ。
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が当該部で、更に、後の「松江に保存されてゐる遺品」にも、ここ(左丁八~九行目)に、
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法螺貝。江ノ島土產で、煙草の火のなくなつたとき女中を呼ぶのに用ゐられたが、先生は之を吹くのが大層樂みであつた。
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とある。確かに、小泉八雲が来日した直後の明治二三(一八九〇)年四月上旬に、鎌倉・江の島を巡っており、来日してから書いた名作 ‘ Glimpses of unfamiliar japan ’に“ Chapter Four A Pilgrimage to Enoshima ”があり、当該訳は、私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」の、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一二)~(一五)』の「一五」から、「一六」と、「一七」、「一八」、そして、「一九」が江ノ島パートであるので、見られたい。私は、鎌倉及びその周縁の研究をしているが、特に江ノ島については、最も一家言ある江ノ島通であり、また、私の青春の思い出の地でもある。
八雲の当該本文には法螺貝は出てこないが、八雲がこの時、江ノ島内の土産物屋で売られていた法螺貝を購入した可能性は高いとは、断言出来る。だが、それは「可能性」でしかない。――しかし、以上の根岸磐井の語りは、全く信じられない。高木さんが、法螺貝の奇体な響きを全く記憶していないというのは、八雲が、かの根岸邸の借宅で、それを吹いたことはないことを明確に示している。高木さんの言うように、セツさんは、少なくとも、江ノ島に婚姻直後から熊本へ移るまでの間に、江ノ島に旅した事実はない。恐らく、後に、遺品として松江に八雲所蔵の江ノ島の法螺貝が齎されたことと、セツさん以下、御子息らの東京での法螺貝吹きの話を聴き、根岸の借宅で法螺貝を吹いたという、まさに「法螺話」を面白可笑しく創作したとしか、私には思えないのである。
いや!
真相の決定打は、小泉八雲の研究者なら、誰もが、読んでいるはずの、セツさんの「思ひ出の記」で、とっくの昔に、この根岸氏の大嘘はカタがついていなくては、凡そ、おかしいのである!
国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集 別册」(昭和一二(一九三七)年第一書房刊)の当該部を引用する。
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書齋のテーブルの上に、法螺貝が置いてありました。私が江の島に子供を連れて參りました時、大層大きいのを、おみやげに買って歸つたのでございます。ヘルンがこれを吹きますと、太い好い音が出ました。『私の肺が强いから、このような音』といつて喜びました。『面白い音です』と言つて、頰をふくらまして、而白がつて吹きました。それから煙草の火のなくなつた時に、この法螺貝を吹くと云ふ約束を致しました。火がないと、これをポオー、ウオーと云ふやうに、大きく波をうたせるようにして、長く吹くのです。さう致しますと、臺所までも聞えるのです。內を極靜かにして、コツトリとも音をさせぬやうにして居るところです。そこへこの法螺貝の音です。夜などは殊に面白いのでございます。私は煙草の火は絕やさないやうに、注意をしてゐましたが、自分で吹きたいものですから、少しでも消えるとすぐ喜んで吹きました。如何に面白いと云ふので、書齋の近くに持つて參つて居りましても、吹いてゐるのでございます。この音が致しますと、女中までが「それ、貝がなります」と云つて笑ひました。
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一言、言っておく。桑原氏の本書を「問題がある」とする「小泉八雲研究家」がいると言い、今も、その亡霊が、この優れた関係当事者へのインタビューをメインとする貴重な秀作を不当に棄損している。創作だらけの根岸氏の作品をさておいて、である。そこには、多くのアカデミストの疾患である、私が最も嫌悪する民間研究者の業績を「知って知らんぷりする」のと同様の腐ったキナ臭さを感じるのである。]
〔桑原〕 先生が書齋で起稿に沒頭しおられる時は、その室には奧樣でも決して入ることは出來ず、先生より何か合圖があるまでは誰れも這入る[やぶちゃん注:「はいる」。漢字「這」は、この場合、当て字である。]ことは全く出來なかつたと傳えますが、そんなに嚴重でしたか。
〔高木〕 これは熊本や東京時代、御子供樣、御兩親樣にて家族が澤山御同居時代のことかも知れませんが、松江では先生方御兩人と私の三人暮しで、先生の御勉强中には奧樣も私も何かなし差控えて容易に御書齋に入らなんだ程度でありました。
〔桑原〕 先生は南國に生れた人で、暑中などでも久しく庭に御出でても平氣だつたと聞きますが、どうでしたか。
〔高木〕 先生は暑氣ということは決して苦になさらず、お好きでした。太陽直射の下で、庭の飛石や荒砂の上で大の字なりに仰向けになつて平臥しておいでのことは每々[やぶちゃん注:「まいまい」。]でした。それ程日光はおすきでした。

