桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その1) 目次その他・「序」(米空軍少佐 エモリー・L・タアリー)・「自序」・「緖言」
[やぶちゃん注:本オリジナル電子化は、底本を国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』(本登録をしないと見ることは出来ない)である桑原羊次郞 著の「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊)の画像に拠り、基本、視認してタイピングして作成する。以下の没年で判る通り、本書はパブリック・ドメインである。底本が、以上の『送信サービスで閲覧可能』扱いとなっているのは、挿絵を描いておられる松江市出身の染色工芸家であられた金津滋(かなつしげる 大正一二(一九二三)年~平成八(一九九六)年)氏が著作権継続であるためと推定される(金津氏の事跡については、当該ウィキを見られたい)。従って、本書の本文を電子化することは、何ら、問題はない。無論、随所にある金津氏の作品の画像は、非常に味わいのあるものであるが、一切、画像としては使用出来ないので、当該箇所は、私が、注で解説した。
作者桑原羊次郞(くわばらようじろう:慶応四(一八六八)年~昭和三〇(一九五五)年)氏は、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『明治後期から昭和前期にかけての美術工芸研究家、社会事業家、政治家(衆議院議員)。号は双蛙(そうあ)』。『肉筆浮世絵コレクター、装剣金工研究家として知られる』。明治四三(一九一〇)『年の日英博覧会では日本美術部門委員を務めた』。『代々』、『松江藩両替商を務めた「桑屋太助」本家の6代目・愛三郎の次男(第4子)として生まれた。明治9年(1876年)より内村友輔(鱸香)の私塾「相長舎」に通う。明治14年(1881年)5月、本町小学校上等科を卒業し、同年9月に松江中学校へ入学した。在籍当時の松江中学校長は渡辺譲で、初等中学科での同級生には桂田猪熊・林玉之助・小倉寛一郎・成相伴之丞・森田龍次郎がいた』。『明治18年(1885年)7月に中学を卒業した後、上京して神田錦町に新設された英吉利法律学校に入学する。在籍当時の校長は創立者の一人である増島六一郎で、講師には菊池武夫・岡村輝彦・奥田義人・土方寧・平沼騏一郎・馬場愿治らがいた。また、後に外務大臣となる小村寿太郎が「英国法律」を講義していた。明治22年(1889年)9月、英語法学科の第1期生として特別認可部を卒業した』。『明治22年(1889年)、桑原本家7代目を継いでいた兄・猪太郎が27歳で病死したため、急遽松江に帰郷して本家8代目の家督を相続することになった。翌明治23年(1890年)、佐々木佐吉郎・諏訪部彦次郎らとともに私立松江法律学校を殿町に創立し、支持を仰いだ岡崎運兵衛が名誉校長に、羊次郎が校主兼講師となったが、明治24年(1891年)、羊次郎が渡米の意志を持って再び上京すると、同校はこの留守中に廃校となった』。『明治24年(1891年)、上京した羊次郎は菊池武夫、小村寿太郎宅を訪問し、アメリカ留学について助言を得た。同年10月、横浜港から出発して渡米し、ミシガン大学では同校卒業生並の待遇で大学院に入学、明治25年(1892年)6月「マスター・オブ・ロース」(Master of Laws:法学修士)の学位を得た』。『再び松江に帰郷し、明治27年(1894年)8月、松江商業会議所の特別会員に当選した。明治28年(1895年)10月、織原万次郎・山本誠兵衛・清原宗太郎とともに松江電灯株式会社発電所を殿町に設立。明治29年(1896年)1月には松江銀行監査役に当選、明治31年(1898年)1月同行取締役に就任した』。『大正6年(1917年)4月に、第13回衆議院議員総選挙で島根県松江市から選出された岡崎運兵衛が、大正8年(1919年)12月に死去したことに伴い、大正9年(1920年)1月に行われた補欠選挙で当選して』、『衆議院議員となり、憲政会に所属して1期在任した』。『以降、小泉八雲記念館、私立松江図書館(現島根県立図書館)、中央大学島根学員会の創設に携わる』。『昭和30年(1955年)逝去。旧蔵書や自著からなる「桑原文庫」が島根大学附属図書館にある』とある。以下、「著作」は引用元で見られたい。
さて。私は、小泉八雲を小学生の時から、偏愛してきた八雲フリークである。さればこそ、二〇二〇年一月十五日にブログ・カテゴリ「小泉八雲」で、彼の来日後の作品集全十二冊総てのオリジナル電子化注を完遂している(日本語で、来日以降の八雲の作品総てを読めるのは、私のブログ・サイトだけである)。しかし、私は、実は、文学分野の評論――というか「評論家」なるものを、常に、どこか、胡散臭いものと感じている人種でもあるのである。さればこそ、最も愛する芥川龍之介に関するもの以外を除いて、文学評論の書籍を余り読んでいないし、蔵書でも相対的に少ない。而して、小泉八雲関連のものでも、尊敬する平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集に付随しているセツ夫人や長男一雄氏のものさえ、二十代の時に読んだきりであり(そこには実は桑原氏の本書に対する批判が載っているのだが、すっかり失念していた)も、ちゃんとしたものでは、以下に述べる長谷川洋二氏の「小泉八雲の妻」ぐらいしか読んでいない。その中で、本書については、知ってはいた(後述する)のだが、つい先日、「ばけばけ」が話題になっている中で、たまたまFacebookのある投稿で、本書の《鶯のエピソード》の部分(本底本のここの右丁の最終段落である)が写真で載っていたのを見て、それを読んで、俄然、惹かれ、この仕儀に至ったのであった。
ところが、ここ数日、ネットを調べていると、本書については、例えば、ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」を見て、まず、びっくりした。そこでは、本書の金津氏の挿画が、しっかり画像で載っているのである。いやいや、それは、当然なのであった。このブログ主は金津滋のお孫さんなのであった! 底本のものよりも、遙かに美麗なので、是非見られたい!……いや……しかし、そこで、ブログ主は、
『本書の内容はいささか問題ありとされているため、内容に触れることは避ける。』
と書いておられたのである。
……その瞬間! 思い出したのである!
……長谷川洋二氏の「小泉八雲の妻」の一節を!
幸いなことに、やはり、国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』のここで、一九八八年松江今井書店刊の当該箇所(『㈠ 実情解明の試み』の冒頭に「旧来の説明」以下)を見ることが出来る。――因みに、この長谷川氏の御本は、作者から献本されたもので、実は、長谷川氏は、私が最初に国語教師として勤務した神奈川県立柏陽高等学校で、同僚(担当は世界史)であったのである。――
さて、そのここで、本書名が出て、その条の最終段落で、『しかし、二人の結婚に関する、この富田ツネの長男の証言は、後述の通り、事実関係に矛盾があり、その信憑性(しんぴょうせい)が疑われた。そしてセツとハーンの長男である一雄は、ハーン生誕百年の昭和二十五年に出版された『父小泉八雲』の中で、桑原羊次郎を無責任と非難し、改めて、西田千太郎を『両親の媒酌人』と呼び、二人は明治二十三年十二月に結婚したと書いたのである。桑原羊次郎一旦(いったん)封じられた。』とあるのである。
しかし、長谷川氏は、その、続く『新しい解釈』で、鮮やかにその後の新事実が語られるのである!……さても……ここ以降は、是非、最近、新版となって書店に並んでいるので、是非、御購入戴いて、お読みあれかし!
而して、ますます、私の中で、「このオリジナル電子化注は、せずんば、あらず!」と響いたのであった。
なお、本書は、その奥附に(赤字で記されてある)、
『昭和25年5月25日印刷・昭和25年6月1日発行・昭和27年5月1日第2版昭和28年10月1日第3版・著者桑原羊次郞・發行者 三宅美代治(松江市殿町383)・印刷者 宮井一雄(松江市殿町383)・印刷並發行所 山陰新報社(松江市殿町383)・定價1册50円・惣領8円』とあり、初版も既に敗戦後なのであるが、実は、以下の「序」文の最後のクレジットは、『昭和十五年六月二十三日』とあるので判るように、当初の企画は戦前であったことが判る。従って、以下の本文も戦前に元原稿が出来ていたと考えてよく、従って、元原稿は、当然、歴史的仮名遣で正字であったのである。また、初版の頃も、未だ活版植字の移行期であり、しかも、初版の原印版を、後も使用し続けたらしく、漢字は旧字体が多く見られ、歴史的仮名遣の一部が残っているものが、かなり散見されるのだが、忠実に電子化するので、基本的に、そうした時代の匂いを味わいながら、読まれたい。若い読者が、激しく躓くところ以外には、ママ注記は、なるべく、しないつもりではある。而して、読みを添える場合は、歴史的仮名遣と現代仮名遣の二種を附すこととする。それが作者への、せめてもの親切心の表明と考えるからである。
さらに言っておくが、私はドラマ「ばけばけ」に《便乗して、この電子化を手掛けているのではない》ことを明言しておく。私は無論、毎日のそれを、見ている。テレビ視聴は、それだけ、である。私は現在、ブログ・サイトに於いて、複数の電子化注プロジェクトを行っており、さらに、国内だけでなく、外国の日本文学の院生や研究者からの問い合わせや助言で、非常に忙しい日々を暮らしている。されば、テレビは「ばけばけ」だけを、録画で、昼食時に見ているだけである。さらに、《同ドラマの激しい脚色にも一家言ある人種――あまりに事実と異なる部分に対して――ある者であり、ドラマにすっかり惹かれている視聴者にとっては、聴きたくない事実をも注で語ることを辞さない》ことをも御理解戴いた上で、この電子化注を読まれるように、切に願うものである。]
[やぶちゃん注:表紙。]
松江に於ける
八 雲 の 私 生 活
桑 原 羊 次 郞 著
[やぶちゃん注:中央に切り紙風の黒い円の中に八雲の真右からの顔。]
山 陰 新 報 社 刊
[やぶちゃん注:扉。]
松江に於ける
八 雲 の 私 生 活
桑 原 羊 次 郞 著
[やぶちゃん注:中央に切り紙風の四つ角を内側に窪ませた中に、上に首の先と煙管(きせる)の羅宇(らう:吸い口部分)、下に同じ煙管の首の根本と雁首(がんくび:火皿(ほざら))の図。]
〔島 根 叢 書〕
― ⑪ ―
1 9 5 0
[やぶちゃん注:「目次」。ここの右丁。下方に中央に、「扉」とは異なる煙管の切り紙風の図がある(三本から成るもので、上に大きな太い全景、中央左に異なるものの吸い口部分、下に別な短い小さなもののほぼ全景)。中央に朱印の国立国会図書館蔵書印(年月日は『52, 9. 16』。国立国会図書館所蔵記号番号が左上(手書き)・下中央(スタンプ)が打たれてある(記号番号は異なる)。リーダーとノンブルは省略した。「目次」・「裝𤲿・カット」はゴシック。]
目 次
序 文 エモリー・L・タアリー
自 序
緖 言
八雲の私生活
富 田 旅 館 時代
京店と北堀時代
住 居
衣 服 調 度
食 事 と 嗜 好 品
習 癖
交 友
雑 事
小泉八雲略傳
裝𤲿・カツト 金 津 滋
[やぶちゃん注:写真ページの一枚目(写真ページは総て印画紙。画像も恐らく著作権満了と思われるが、万一の場合を考えて、示さない)。ここの左丁。上左半分に小泉八雲の知られた右からの楕円形縦のポートレイト写真。以下は、その写真の左下のキャプション(縦書)。]
ヘルンの肖像
[やぶちゃん注:以上の下半分。横長の写真一葉。恐らく、記念写真葉書かとも思われる。以下、その写真の右請上のキャプション(横書・左から右へ。最後の鈎括弧無しはママ)。]
史 蹟 「小泉八雲旧居」松江市北堀町(全景)
[やぶちゃん注:ここの右丁。写真二枚。上と下の写真へのキャプション(左下方にある)。一行字数を合わせた。]
上 八雲遺愛の品々。トラン
ク、机、椅子、ランプ、
ペン皿、火鉢、キセル等
八雲記念館(八雲旧居隣
接)内に陳列。
下 八雲遺愛のルリヤナギ、
旧居玄関入口。
[やぶちゃん後注:以上の「ルリヤナギ」というのは、漢字で「瑠璃柳」=ナス科ナス属ナス科ナス属 Solanum melanoxylon (synonym:Solanum glaucophyllum )。小低木で、ヤナギに似た葉と星形の花を咲かせ、切り花にも好まれる。暖かな地方では花の後に瑠璃色の実がなる。]
[やぶちゃん注:ここの左丁。写真三枚。それらの写真へのキャプション(右中央にある。同前)。モノクロームであが、かなり上手く撮られてある。]
上 八雲の居間より根岸邸前庭を望む。
中 根岸邸前庭より八雲の居間を望む。
下 八雲の居間より書斎を通して蓮池を望む。
[やぶちゃん後注:「根岸邸」八雲が住んだ屋敷は、江戸後期の松江藩士であった根岸家の武家屋敷であった。]
[やぶちゃん注:写真ページの最後。ここの右丁。手書き(作者不詳)であるが、よく書けている(全体は枠ではなく、塀である。左上納に勝手口がある。方位指示附きで、『正門』・『土蔵』『四・五坪』・『物置』『六坪』・母屋の各部屋の詳細配置(各部屋の畳帖数明示)が描かれ、庭も池らしきものもある。図に右下方に『建坪四七・七五坪』とある。非常に見易いので、地図内の細かなキャプションの全部までは電子化しない。以下は図の下方にキャプション(印刷)のみ示す。]
小泉八雲舊居平面圖。松江市北堀町に現存、
昭和15年8月史蹟の指定を受く。
序
ラフカデイオ・ハーンのこれらのささやかな追憶を世の人々に保存して來た桑原氏の先見に對してこの著書の讀者は最大の感謝を感じているに違いない。
短期間ではあつたがハーンの松江在住に際して彼にかしずいた二人の婦人の記憶をひき出した、これらの小さなそして非常に新しいスケツチは無限の價値を持つものであり、またハーンと彼を深く愛する歸依者たちとの間をつなぐなお一つのリンクを形ずくる[やぶちゃん注:ママ。]ものである。
ハーンは松江とその善良な人々に屬する愛を決して失わず、たえず彼の妻に對して松江ヘの歸還を許容するようにと、熱心に求めた。しかし大都市の魅力を節をとりこにした。そして短い来訪を除外しては彼は再び愛する出雲へ歸ることができなかつた。
もし彼が松江を離れなかつたとしたら、またもし彼が松江に歸えることを許されていたとしたら、彼の世界はたしかにより豐かなものになつていたであろう。なぜなら彼が〝古日本〟の小片を學んでから後は再び妖幻なタツチを得ることはできなかつたからである。
松江時代はいくつかの理由からハーンの日本生活に於ける最重要なものであつたといえる。ここで彼は彼の妻節に會い、彼の友にしてまたよきアドバイザーであつた西田千太郞、彼にとつて貴重な文學的アシスタントであつた大谷正信、そして古日本の最後の姿に際會したのだ。
ここで彼は自身を特異な生活の樣式に適應させ、また出雲傳說へふみ入れさせていつた。また彼は彼自身を家長とするサムライ家族たらんとする考えを確立させた。そして彼こそはあるがままの日本の生活を實際に見得るものとして三浦按針(ウイリアム・アダムス)以來の最初の西歐人であると感じたのである。
彼の憩いの小さな夢は、寒い松江の冬のきびしい刺戟によつて空しくもうちくだかれ、彼をしてこの仙境を永遠に去らしめてしまつた。それは玉手箱の中をのぞき見た時突如として仙境から現實にひきもどされたあの浦島太郞に似ていた。
桑原氏のこの示唆に富んだ著書にふくまれている事件や常識では吹き出してしまうようなナンセンスの數々は、ハーンの松江時代の幸福を形ずくつた生活の小片である。これらのことがらから現實にはあり得ない夢幻の世界が作られまた彼の現實からの開離[やぶちゃん注:ママ。「乖離」。]は、彼に關して起つた事柄について、愉快にも理解の手のとどかなかつたことによるところ少し[やぶちゃん注:「すくなし」。]としなかつたのである。
家族圏內に起きた多くの危機に際してハーンと節の間に緩衝を用意した西田千太郞の思慮と氣轉、この小さなプロフエツサーを幸福にならしめるために籠手田知事によつて與えられた敎訓はイルージヨンを保存する上に大きな効果となつている。
一九四九年六月、松江を訪れる機會があつたので私はこの美しい土地へのハーンの感情を諒解できるのである。私はあえていうがこの美しい土地は戰爭にもかかわらず殆ど變つていない。停車場と電車線――その何れもが都市のプロパーには入つていないが――[やぶちゃん注:助詞「が」が欲しい。]出來た以外にはハーンが彼の夢幻の世界を破壞することを恐れていた工業主義のタッチは少ない。實際自轉車があり、少々の自動車があるが、カランコロンの下駄の音が昔のままに大橋の上や露路に響いている。
私の訪問は短時間であつたが、變化に富んだ宍道湖やあらゆる方角に峨々たる地平を劃す靑い山脈の見通しにハーンが感じたと同じノスタルジヤを私も感じた。人が桑原氏の作品を讀む時「知られざる日本の面影」の記憶の薄らがぬ人々を同樣のノスタルジヤがひきつけるであろうと信ずるものである。
一九四九年七月二十日 東京にて
米空軍少佐 ヱモリー・L・タアリー
[やぶちゃん注:原文を書いた「米空軍少佐」である「ヱモリー・L・タアリー」という人物は、かなり探してみたが、見出すことが出来なかった。識者の御教授を乞うものである。にしても、全体に、極めて好意的な、素敵な献辞である。一九四九年時で少佐であったということから、既に亡くなられており、著作権満了であろうと推定するが、万一、著作権が継続していることが判ったら、カットする用意はある。但し、これは、桑原氏の訳者権が第一にあるのであればこそ、カットする必要は、私は、無い、と考えるものである。
「彼の憩いの小さな夢は、寒い松江の冬のきびしい刺戟によつて空しくもうちくだかれ、彼をしてこの仙境を永遠に去らしめてしまつた」現在、小泉八雲(当時はラフカディオ・ハーン)が松江を去って、熊本五高のお雇い教師となったのは、実際には、妻の節さんを見る当時の松江の人々の偏見に満ちたそれに、八雲が堪えられなかったからであることが、明らかになっている。繊細な小泉八雲なればこそ、である。
「西田千太郞」(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)は教育者。郷里島根県で母校松江中学の教師を務め、この明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと親交を結んだ(当時は同校教頭であった)。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郎日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に惜しくも三十六の若さで亡くなった(「講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
「大谷正信」英文学者大谷正信(明治八(一八七五)年〜昭和八(一九三三)年)。松江市生まれ。松江中学のハーンの教え子で、東京帝大英文科入学後もハーンの資料収集係を勤め、後に金沢の四高の教授などを勤めた(室生犀星は彼の弟子とされる)。また、京都三高在学中に虚子や碧梧桐の影響から句作を始めて子規庵句会に参加、繞石(ぎょうせき)の俳号で子規派俳人として知られる。
「籠手田知事」(天保一一(一八四〇)年~明治三二(一八九九)年)。元平戸藩士で剣術家としても知られた。維新後は明治元(一八六八)年の大津県判事試補就任に始まり、大津県大参事・滋賀県権令・滋賀県令・元老院議官を経て、明治一八(一八八五)年九月四日に島根県令(県知事)となっている(翌明治十九年七月十九日に「県令」から「知事」に呼称が変更された。島根県知事退任は明治二四(一八九一)年四月九日)。ハーンと籠手田の接触は早く、同年の六月頃であることが、個人サイト「わにの昼寝」の「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)」(リンク先の少し下の記事)の以下の記載で判明した。ハーンは日本到着(四月四日)の三ヶ月後には、『東京で』、『当時』、『島根県知事であった籠手田安定(こてだやすさだ)と、島根県尋常中学校および師範学校の英語教師となる契約を結んだ。当時としては破格の月給』百円で、『ハーンを雇い入れた知事の籠手田安定は、殖産や教育に力を入れ、わらじ履きで県内を巡視し、人情味豊かな知事として知られていた』とあるからである。続いて籠手田は新潟県知事・滋賀県知事を歴任、最後は貴族院議員となっている。なお、ウィキの「籠手田安定」も参照されたい。ハーンが一目で惹かれた古武士のような肖像写真が見られる。
「プロパー」 ‘proper’は、形容詞で「その分野に本来的で固有な」の意。この訳では、準名詞的用法で、当時の「現代風の要素を代表するもの」の謂いである。但し、「戦後の松江にあっては、それらは既に当たり前の対象であって、当たらなくなっているが、」というヱモリー少佐の印象表現である。
「知られざる日本の面影」小泉八雲が日本来日後、最初に纏まって書いた作品“ Glimpses of Unfamiliar Japan ”。私が最初にブログ・カテゴリ「小泉八雲」で本格的に電子化注したのも、この作品である。そこでは、主訳者であった落合貞三郎氏によって「知られぬ日本の面影」と訳されてある。]
[やぶちゃん注:以下。「自序」。「出版に當つて」はゴシック。署名は底本では、二字上げインデントである。]
自 序
私は松江人である。八雲が松江に來た明治二十三年は私の松江歸住中の時代で、私の師友である西田千太郞氏が松江市上、つとに八雲と共に徘徊しておられるのに遭遇したことがあり、その都度西田氏と挨拶を交換すると同時に、ただ八雲に目禮をなすまでの程度で、私は直接に交渉を有するものではない。
明治四十三年(西曆一九一〇年)私は日英博覽會美術部擔任者としてロンドンにあり早やくも八雲の盛名を聽いた。その後欧米を歷遊して大正二年(西曆一九一三年)歸國に至る間、歐米到るところに於て八雲の文名の甚だ高いのに驚嘆した。
當地出身友人法學博士岸淸一君もまたしばしば歐米に旅行して八雲の文名の高いのに驚愕した一人で、私は歸國後同博士とはかつて八雲顯彰のことに努めんことを約した。幸い私は鄕里松江にあつた關係上、大正四年(西曆一九一五年)松江市に於て知人數人と相謀り、八雲會を創設して今日に至つた。私は以上の如き因緣によつて今囘八雲の松江に於ける私生活を委細に檢討し、その全貌を後世に傳えて八雲傅記に數頁を加えんと欲するものである。
要するに私は本書に於て、八雲が斯くの如く考えていたということをいうのではない。八雲は斯くの如き私生活をしていたというのである。けだし私は一文豪の全人格はその著書と書簡を精しく檢討するだけではなく、赤裸々な些細な私生活を透してこれを觀察するのでなければ決してこれを把握することが出來ないと信ずるからである。
昭和十五年六月二十三日
雙蛙 桑 原 羊 次 郞
[やぶちゃん注:「雙蛙」「さうあ(そうあ)」。彼の雅号。「Web NDL Authorities」の彼のページで確認した。]
出版に當つて 私が本稿を完稿したのは實に十年以前で、當時既にヘルン先生に關して識者の注意があつたことは勿論であるが、今日の如く盛んではなかつた。しかし本年はヘルン先生百年祭の計畫があり、その生涯を映𤲿化する盛擧あり、國會もこの計畫に賛同するとの決議をなしたと聞く。けだしヘルン先生顯彰運動はその最高潮に達したかの感があるので、これを好期とする本書の出版は最も時機を得たものと思う。こゝにいささかその來由を述べるものである。
昭和二十五年四月
八十三翁 桑 原 羊 次 郞 再 識
[やぶちゃん注:「出版に當つて」はゴシック。
「法學博士岸淸一」(きしせいいち 慶応三(一八六七)年~昭和八(一九三三)年)は弁護士・法学博士。島根県生まれ。東京帝大卒。スポーツの振興に努め、大日本体育協会会長・国際オリンピック委員となる。没後、その功労を記念して「岸体育館が建てられた」。貴族院議員(以上の主文は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]
[やぶちゃん注:以下、「緖言」。『ハン』はママ。『一』『二』『三』『四』はゴシック。セツ夫人の「思ひ出の記」の引用は、全体が一字下げで、行末は最後まであるが、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を減じた。]
緖 言
小泉八雲(ラフカデイオ・ハン)――松江ではヘルンと稱す――は、曰本に來朝以來、橫濱、松江、熊本、神戶、東京と五度その居所を換えているが、各地に於ける八雲の業績とその著書、あるいは彼の沒後に現われた八雲書簡集などについては既に發表された著書も少なくなく屈指にいとまあらずというてよい。しかして私はこれらについて何等の文的學論評をなすものではない。
[やぶちゃん注:「文的學論評」何となく奇妙な熟語である。思うに、「文學的論評」の誤植であろうかと思うのだが、第三版まで修正されていないというのも異様ではある。一応、そのままに示した。]
私はただ八雲がその生活中最も愛着した松江僑居中に於ける日常私生活を詳記したもののの甚だ少ないことを遺憾とするものである。試みにその參考として左記諸書を引照する。
[やぶちゃん注:「僑居」歴史的仮名遣「けうきよ」(きょうきょ)で、「仮に住むこと・その住(す)まい・仮ずまい・寓居(ぐうきょ)」。]
一、「小泉八雲」
田部隆次著、早稻田大學から大正三年(西曆一九一四年)四月十八日發行。
[やぶちゃん注:「田部隆次」(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)は英文学者。富山県生まれで、東京帝国大学英文科でハーンに学び、後にはハーン研究と翻訳で知られた。富山高等学校(現在の富山大学)にハーンの蔵書を寄贈、「ヘルン文庫」を作った。女子学習院教授を勤めた。
なお、この著作は、国立国会図書館デジタルコレクションのここで、誰もが、読むことが出来る。]
二、「思い出の記」
前記田部氏著書に掲載されている小泉夫人節子の記述である。
[やぶちゃん注:正しくは「思ひ出の記」である。小泉セツ(慶応四年二月四日(一八六八年二月二十六日)~昭和七(一九三二)年二月十八日)は当該ウィキに拠れば、『戸籍上の名前は小泉セツだが、本人は節子の名を好んだ』とある。解説にある通り、この作品は前の田部隆次「小泉八雲」の『第十一章 思ひ出の記』で『小泉節子』名義で、初めて活字化された。]
三、「松江に於ける小泉八雲」
根岸磐井著、松江市八雲會から昭和五年(西曆一九三〇年)十二月二十日會行。
[やぶちゃん注:「根岸磐井」(ねぎしはんせい/いはゐ 元治元(一九六四)年~平成五(一九九三)年)は小泉八雲旧居当主にして、小泉八雲の教え子。「國指定史跡 小泉八雲旧居]公式サイト内の「小泉八雲旧居について」の「小泉八雲と根岸家」に拠れば、『この屋敷は、松江藩士・根岸家の武家屋敷でした。八雲が松江にいた当時、家主の根岸干夫(たてお)は郡長として転勤していたため』、『この家は空いており、庭のある侍の屋敷に住みたいと希望する八雲に貸すことになりました。八雲が気に入った旧居の庭は、根岸家によって1868(明治元)年に造られたものです』。『また干夫の長男である磐井(いわい)は島根県尋常中学校、熊本第五高等中学校、東京帝国大学で八雲の指導を受けた教え子でした。東京帝国大学卒業後、磐井は日本銀行に勤務していましたが、八雲が愛した旧居を保存するために1913(大正2)年に松江に帰り、1920(大正9)年から屋敷の一部を公開しました。その後、記念館設立などにも尽力しました』。『旧居は代々根岸家によって保存され、2018(平成30)年に松江市の所有となった後も、その意思を継いで大切に保存されています』とある。]
四、「父八雲を憶ふ」
小泉一雄著、警醒社から昭和六年(西曆一九三一年)七月十五日發行。
[やぶちゃん注:「小泉一雄」(明治二六(一八九三)年~昭和四〇(一九六五)年)は東京生まれで、小泉八雲の長男にして文筆家。早大卒業後、拓殖大教務部、横浜グランドホテルに勤務。後、父の遺稿の整理・書簡集の編集などに携わった(ここまでは講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。著作「父小泉八雲」もある。この「父八雲を憶ふ」の初版は国立国会図書館デジタルコレクションのここで、『送信サービスで閲覧可能』で見ることが出来る。]
これらの既刊四書を熟讀して、松江市に於ける八雲の日常私生活を調査すれば、四書ともにこれを全く記していないというわけではないが、往々遺漏するものがあり、誤傳と見るベきものもあり、また矛盾と見るべきものがあつて何れも甚だ不備簡略に過ぎている。これこそ私をして訂正もしくは詳述して置くことの必要を感じさせた所以である。
[やぶちゃん注:ここより以下の内容は、本書の本文に語られる内容をダイジェストしているものであるので、人物・通称地名等の注はそちらでしっかりやることとし、難読かと思われるものは、調べて、読みだけは割注したが、基本、注は附さない。]
中でもその最も著しい誤傳と見るぺき一例は、これまでの諸書がすべて一致して八雲の結婚は明治二十三年十二月とも他旅館に於て擧行されたとなしていることである。しかし本年(西曆一九四〇年)六月十七日附八雲の親友西田千太郞氏の令弟、元九州帝國大学敎授西田精[やぶちゃん注:恐らく「せい」。ここ(PDF)の写真に添えられた自筆英文サインのイニシャルから推定。]博士の書簡によれば、博士が度々令兄の使者として京店裏[やぶちゃん注:「きやうみせうら」。根拠は本文で示す。]の八雲借宅(明治二十四年(西曆一八九一年)二月富田旅館からこの借宅に移居す)を訪問した時は、まだ節子夫人を見かけず、その後間もなく同宅に於て節子夫人と結婚式を擧げられたため、明治二十三年十二月に結婚したとの記事は何れも誤傳であると斷定したことである。その他八雲が根岸邸住居時代に、割竹の庭下駄をはいて愉快に庭園を散步したなどとの記事は、私をして大疑問を發せしめた事項で、その他これらに類似した諸點を解決すると同時に、その日常私的生活の全貌を詳記しておくことの決して無駄ではないことを信ずるものである。
この目的を注するために最も緊要かつ適切な方法は、八雲が松江住居中、彼に最も接近した即ち朝夕八雲に親灸した人々を探し出して、その實見談を聽取することで、私はこの方法以外他によりよき方法のあるとは考えられないのである。
そこで私はまず根岸磐井氏未亡人菖蒲[やぶちゃん注:「アヤメ」である。先の「國指定史跡 小泉八雲旧居]公式サイト内の「小泉八雲旧居について」の写真のキャプションにあった。]及び同氏令妹岸崎豐子の二女史を訪問して、八雲に親近した人々のうち今なお生存している人はないかと質したところ、幸いにも兩女史から節子夫人の「思ひ出の記」の中の次の一文中に見える、
「この末次の離れ座敷(京店の偕宅)は湖に臨んでいま
したので湖上の眺望が殊に美しく氣に入りました。し
かし私と一緖(八雲の結婚)になりましたので、ここ
では不便が多いというので、二十四年の夏のはじめに
北堀(根岸宅)というところの士族屋敷に移りまして
一家を持ちました。私共と女中と小猫とで引越しまし
た。」
[やぶちゃん注:この当該部は、先の田部隆次「小泉八雲」の「第十一章 思ひ出の記」のここ(二行目以下)。但し、二つの段落になっている(後者は冒頭のみ)ものを接合して部分引用してある。]
と記載してあるこの女中というのが、小泉氏の親戚高木苓太郞[やぶちゃん注:恐らく「りやうたらう(りょうたろう)」。]氏の一女、卽ち高木八百刀自で當年六十七歲を以て今なお健在でいられるのを紹介され、これについで更に驚くべき新發見の人物は往年八雲が富田旅館[やぶちゃん注:「とみたりよくわん(とみたりょかん)」。大森拓也氏のサイト「朝ドラマニア」の『ばけばけ』旅館の主人・花田平太(生瀬勝久)のモデルは誰?小泉八雲が宿泊した「富田旅館」の史実]に拠る。]滯在中、もつぱら八雲を世話した旅館主の妻ツネ刀自當時三十二歲で今なお八十三歲の高齡で富田別莊に隱棲していられるのを見出したことである。
[やぶちゃん注:「刀自」「とじ」と読む。女性に対する古風な尊称。現代でも旧家の女性に対して使われる。古代の后妃(こうひ)の称号の一つである夫人(ぶにん)も和訓は「オホトジ」である。戸主=トヌシの約か、ともいうが、不詳。七~八世紀の石碑・墓誌に豪族層女性の尊称として見え、「万葉集」にも「妣刀自(ははとじ)」等の例がある。「さまざまなレベルの人間集団を統率する女性」が、原義か。族刀自(ぞくくとじ)的なものから、家刀自(いえとじ)へと推移するが、古代には里刀自や寺刀自もおり、後世のような主婦的存在に限られていない。後宮(こうきゅう)の下級女官(にょかん)にも刀自がいた。以上は小学館「日本大百科全書」を主文に使用した。]
斯くの如き好奇緣に惠まれた私は、天惠ともいうべきこの好機逸すべからずと、從来世人が閉却している富田ツネ、高木八百[やぶちゃん注:恐らく「やほ(やお)」。]兩刀自に面接して、この記錄を作成し得たことを最も喜びとするものである。
なお本書中〔註〕とあるのは私がこの聽取書を完了した後に加えたものである。
昭和十五年六月二十三日
雙 蛙 桑 原 羊 次 郞 識
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