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2026/01/13

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その3) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅡ)

[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁四行目から。]

 

〔桑原〕 先生が市內寺町の龍昌寺にある石地藏尊の彫刻に感服し、その彫刻者は當地の有名な彫刻家荒川龜齊通稱重之輔の作だということがわかり、龜齊を招請して先生がもてなされたということですがどんな風でしたか。

[やぶちゃん注:「龍昌寺」現在の松江市寺町(てらまち)にある曹洞宗の白雲山龍昌寺(りゅうしょうじ:旧富田旅館の大橋川を挟んだ対岸直近に当たる。グーグル・マップで同寺の敷地内にある「小泉八雲ゆかりの羅漢像」をポイントした)。「曹洞宗 島根県第二宗務所」公式サイト内の同寺の解説が、非常に詳しい。冒頭の足利時代から江戸時代までの経緯と、秘仏である宍道湖から出た観音像の解説は、各自でお読み頂き、ハーン関連の手前から引く。『毎月17日が観音様の功徳をたたえる観音講の日である。大正はじめから昭和はじめにかけては、観音供養が最も盛んに行われた。のぼりや五色の吹き流しがはためく境内には、近郷近在からの参拝客があふれ、沿道には露店がずらりと立ち並んだという』。『そのころ、かつて荒川亀斎に刻ませた観音木像五体を寺に置き、その木像をくじ引きで当てた講員が家に持ち帰り、向こう一年間安置し、家運の繁栄を祈った』。『ラフカディオ・ハーンが、初めてこの寺を訪れたのは、松江赴任翌月の明治23928日であった。ハーンは庫裡前に立つ石地蔵に目をとめると、しばらくは立ち去ろうともしなかった』。『人の霊魂を浄土に導き、とりわけこどもには慈愛を注ぐという地蔵のいつくしみの表情が、高さ1メートルばかりの石像に、見事に刻まれていたからである』(私は、八雲はこの記憶のない母ローザ・カシマチの面影を感じていたものではないか、と思う)。『当時、松江市田町(のち白潟本町に転住)で瑪瑙(めのう)商を営んでいた長岡九右衛門が、全年8月に亡くなった娘の菩提を弔って、墓石がわりに建立したものであった』。『長岡家は代々、玉石の細工師で、亀斎が彫刻に用いる瑪瑙、水晶を調達していたので、亀斎はよく同家に出入りし、九右衛門やその子茂一郎とも親しかった』。『たまたま、地蔵が石工によって刻まれているのを知った亀斎が、「自分にやらせてくれ」と、顔の部分だけノミをふるったと伝えられている』。『この地蔵は昭和20年ごろまであったが、松江地方を襲った台風で、東部』(ママ。頭部の誤植)『が欠け落ちたので、同234年ごろ亀斎地蔵の写真を参考に、和田見町の石屋で刻んだのが』、『いま』、『ある地蔵である』。『初代地蔵が機縁となって、ハーンは同僚西田千太郎の案内で、横浜町の亀斎宅を訪れ、その腕前と名人気質に傾倒した。ハーンは龍昌寺にある地蔵様と同じような彫り物を期待して、亀斎に彫刻を頼み、黒柿を使って高さ30センチばかりのが出来上がったが、これはあまり気に入らなかったという』。『龍昌寺門内の道路わきに、聖者十八羅漢の石像が、不動明王石像を囲んでおかれて居る。ハーンはこの羅漢の作りにも関心して、訪れるたびに前にたたずんだという』。『昭和6年、松江を訪れた民芸運動の創始者柳宗悦も、この羅漢を見て「すばらしい出来栄えだ。なかでも二体がよく手元に置きたいくらいだ」と語っている』。『龍昌寺の過去帳に「当寺の羅漢は、天明6年(1786年)7月に建立を思い立った。しかし公儀から差し止めがかかった。石屋夫右衛門の作である」と書かれている』。『松江の石屋仲間では別に、「松江から江戸へ出て修行した石工江戸勝の作である」との言い伝えがある。夫右衛門と江戸勝が同一人であったか、どうか明らかではない』。『不動明王は霊験あらたかな仏として信仰され、不動明王が好まれるというおもちゃの刀を供えて願い事をする人が跡を絶たない』。『本堂正面の延命地蔵は名工石谷為七の作と伝えられている』とあった。なお、先の地図の左のサイド・パネルのここで、不動像の背後に羅漢像の写真を見ることができ、また、個人ブログと思われる「お寺の風景と陶芸」の「龍昌寺 (島根県松江市) 小泉八雲ゆかり」」に添えられたこの画像では、前の写真の向かって左側の羅漢像の九体を確認出来る。更に、寺の名は記されていないが、寺町と石仏の話が、私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (四)』の中に、以下のように出てくる。

   *

 天神町と並行に寺町が走つてゐる。この町の東側には寺院がずらりと並んでゐる――瓦を戴ける御所風の土塀で固めた表側に、一定の間隔を置いては、堂々人を驚かすやうな山門がある。この長く續いた塀の上へ高く聳えてゐるのは、立派な反(そり)を打つた、重々しい輪廓をしてゐる灰靑色の屋根である。こ〻では凡ての宗派が仲よくして隣合つてゐる――日蓮宗、眞言宗、禪宗、天台宗、それから眞宗までも。眞宗は神さまを拜ませないので、出雲ではあまり行はれない。寺の境內の後には墓地があつて、その東にまた他の寺々があり、その先きにもまたある――佛敎建築の集團が、小園細屋と交つて、廢巷斷路の迷宮をなしてゐる。

 今日も寺院を訪ねたり、金の後光を負ふて金蓮華の夢中に安坐せる古い佛像を眺めたり、珍らしい御守を買つたり、墓地の彫像を調べたりして、例の通り數時間を有益に費した。墓地では來てみる價値のある、夢をみてゐるやうな觀音や、徴笑を含んだ地藏を殆どいつも發見する。

   *

この「徴笑を含んだ地藏」が龍昌寺のものであることは、間違いあるまい。

「荒川龜齊通稱重之輔」(あらかわきさい 文政一〇(一八二七)年~明治三九(一九〇六)年)は、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『島根県松江市横浜町出身の彫刻家で』、『名は明生、通称は重之輔』(じゅうのすけ)。『木彫りの彫刻等が有名であるが、機械器具の発明家でもある』。『幼少期から彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家だった。彫刻だけでなく、日本画、国学、書道、金工などを幅広く身につけた。1893年』(明治二六年)の『シカゴ万博に「稲田姫像」を出品して優等賞、1900年パリ万博に「征韓図」を出品して銅牌を受賞した。1890年小泉八雲と出会い、その後も交流が長く続いた』。菩提寺である松江市新町(しんまち)の『洞光寺に葬られた』とある。寺はここで、龍昌寺の南方で、近い。また、「小泉八雲記念館」公式サイトの「企画展 八雲が愛した日本の美 彫刻家 荒川亀斎と小泉八雲」には、『荒川亀斎(初代)は1827425日、松江の雑賀横浜にて木工職人荒川茂蔵の子として誕生しました。名は明生、通称名は重之輔。亀斎は幼少の頃より彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家でした』。『18908月に松江に赴任した小泉八雲は、散歩中に出会ったあるお寺の石地蔵に魅了されます。それは寺町の龍昌寺にある慈愛に満ちた地蔵で、八雲はすぐにその作者を尋ね、「荒川亀斎」という名を知りました。翌日、さっそく亀斎の工房を訪ねた折、その腕前と名人気質に惚れ込み、二人は美術論をかわし』、『意気投合したといいます(山陰新聞)。その後も、八雲は』、『亀斎に作品を注文し、この彫刻家を世に紹介しようと、いわゆる作家のプロデュースを買って出ます。二人の関係は、八雲の著作や親友で島根県尋常中学校の教頭西田千太郎の日記と西田宛書簡、当時の山陰新聞などで、その交流を垣間見ることができます』。『中でも、亀斎が八雲に見せた「気楽坊人形」は、作品「英語教師の日記から」(『知られぬ日本の面影』所収)に詳しく紹介されています。』(私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語敎師の日記から (十六)』を見られたい)『これを見て大変よろこんだ八雲のもとに、亀斎は「気楽坊」を模した人形を作成し贈呈しました(小泉八雲記念館蔵)。また、八雲は、1893年のシカゴ万博への出品を勧め、アドバイスもしています。この万博で「稲田姫像」(出雲大社蔵)が優等賞を獲得し、亀斎は彫刻家として不動の地位を築きました』とある。]

〔富田〕 先生が荒川さんと西田、中山の兩先生を私方の二階へ招待して日本料埋のご馳走をなさつた事がありましたが、その時に、先生は私共に向つて「日本では客座敷で御客及び亭主のすわる席次があるようだが亭主として自分はどこへすわるのが本當か」と尋ねて西田先生が「あなたは入口に近いところにおすわりなさい」といわれそこにおすわりでした。さて先生は日本流に箸を使いたいにも自由にならず、例によつて握り箸で、ちようど日本の三、四歲の子供のように子供のようにして馳走を上りましたが、その上り方がまことに妙でして初めに吸物を握り箸で片付けて椀を膳の外にやり、次ぎ次ぎのご馳走も、食べては直ぐさま皿でも椀でも膳の外に並べなさるため、後では膳の上には何物もないこととなりました。他の人々は日本流に吸物、燒物、酢の物、剌身とどれも少しづつ食べてその間に酒を飮んでお出ででありましたが、何分先生は近眼でその邊がわからず、少ししてから先生も氣がついて大笑いになつたことがありました。なおその後先生は荒川さんに高さ七寸許りの木彫の笑顏の童子を彫らせて大切にして眺めておいででした。

〔桑原〕 先生はお宿の二階八疊と二疊の二間を居間としておられたようですが、冬期の暖房方法はどうなさいましたか。

〔富田〕 先生は大の寒さ嫌いでして、松江の事はなんでもかんでも氣に入りましたが、雪の降ることはまことにお嫌いでした。私方には當時ストーブは勿論なく、先生は炬燵は嫌いでしたから、ただ數個の火鉢に取圍まれておられましたが、それでも寒氣が餘程身に浸んで困られたものと察せられました。

〔桑原〕 先生は冬期感冒に罹られたことなどはありませんでしたか。先生が一度胃膓病に罹られ、田野醫師が見舞われたと或る本にありますがほんとうですか。

[やぶちゃん注:「田野醫師」「山陰中央新報デジタル」の「さんいん偉人学」の「島根県近代医学の草分け 田野 俊貞(松江市で医院開業)」「医学教育や衛生普及に尽力」に以下のようにある(読みが丸括弧で本文に切れ切れにあるので、必要と判断したものを一フレーズで使用し、それ以外はカットさせて頂いた)。

   《引用開始》

 田野俊貞(たのとしさだ)(1855~1910年)[やぶちゃん注:安政二年~明治四三年。]は、松江市で医院を開業しながら医学生の教育や公衆衛生の普及に尽力し、島根県や松江市医師会のリーダーを務めるなど「島根県近代医学の草分け」と呼ばれています。

 俊貞は現在の栃木県足利市の庄屋(江戸時代の村役人)の家に生まれました。13歳の時から翻訳書で西洋医学を研究し1871(明治4)年、東京大学医学部の前身である大学東校(とうこう)に学びます。

 77(同10)年、名古屋市の愛知県病院(現在の名古屋大学医学部)に勤務。ドイツ語が得意で、外国人医師の通訳も務めました。

 後に外務大臣や逓信(現郵政など)大臣兼鉄道院総裁など国政で活躍し、山陰本線の開設に尽力した後藤新平が医師として勤務しており、俊貞は生涯、親交を結びます。

 栃木県栃木病院長などを経て84(同17)年、島根県に採用され、島根県医学校と県松江病院(松江赤十字病院の前身)が開設されると病院長に就任します。この学校と病院は、西洋医学を学ぶ医師の養成機関でした。

 しかし、県の財政難などによって松江病院が廃止されると86(同19)年に松江市苧町(おまち)[やぶちゃん注:旧富田旅館の西直近のここ。]で田野医院を開業し、間もなくして旧苧町病院の土地、建物を買い受けて医院を拡張しました。

 その後、籠手田安定(こてだやすさだ)県知事の許可を受けて解剖を公開します。

 1907(同40)年に松江市医師会が設立され、俊貞は副会長に選ばれました。09(同42)年に島根県医師会が設立されると、副会長に選任され島根県医学界の発展に尽くします。

 また、長崎で自ら被爆しながら被爆者の治療に生涯を捧げた永井隆の父親寛(のぶる)が田野医院で修業し、医師に合格しています。隆はこの病院の一室で08(同41)年に産声をあげます。隆が被爆後も病床から手紙のやりとりをするなど、親交がありました。

 文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とも親交があり、松江市の水道設置に貢献(こうけん)したスコットランド生まれの技師バルトンの招請にも努力しました。

 医学界で一層の活躍が期待される中、俊貞は10(同43)年、55歳で病死します。

 旧田野医院(田野家住宅)は、洋風建築の様式を兼ね備えた木造2階建て。松江市内で最古級の病院建築の遺構で、島根県の近代医学の草創期を支えました。この建物は2013(平成25)年、所有者から松江市へ寄付され14(同26)年、市有形文化財に指定されました。

   《引用終了》]

〔富田〕 先生は極めて壯健なお方でして、私方におられた間に病氣をなされたことは一度もなく、衛生には餘程平常心を留めておられました。從つてお醫者のお出でたことはありません。一例を申すと外出よりご歸宿の時も、宿でお書き物のすんだ後でも、必ず手を洗い含嗽[やぶちゃん注:「うがい」。]をなさいました。

〔桑原〕 先生のお食事はどんな風でしたか。

〔富田〕 先生は朝は牛乳と數個の生卵で濟まされました。晝と晚との二食はお剌身、煮付、酢の物、燒魚等なんでもお上りでした。例の握り箸で召上りますので、魚の骨は取つて置きました。その食べ方は妙なもので、まず膳の上にある副食物卽ちお菜の方から、それを一皿一皿次ぎ次ぎと悉く平げてそれから卷鮨とかご飯だけを食うというやりかたでした。煎茶も飮まれましたが何時も大槪は水を飮まれました。先生は乾物でも干魚でも萬事好き嫌いと云うことは餘りありませんでしたが、ただ糸蒟蒻だけは嫌いで「私の國コンナ蟲いてそれを思い出すからいやだ」といつて食べられませんでした。

 生卵は一度に八、九個も食べられました。また酒は晝と晩日本酒一本(一号八勺入)を飮んでおられまして、洋酒を注文したことは覺えません。珈琲も飮まれせんでしたが、ただ煙草だけは大好物でして、葉卷と刻煙草[やぶちゃん注:「きざみたばこ」。]は絶えず吸つておられました。刻煙草は日本の煙管[やぶちゃん注:「きせる」。]を使うのですが、その數がだんだんふえて數十本となり、掃除は大槪お信が引受けていました。葉卷は橫濱から大箱のものを取寄せておられました。

[やぶちゃん注:実は、ここ(「15」ページ)より二ページ前の「13」ページ下方には、金津氏の切り絵で、皿に載った食パン半斤、スプーン附きの把手のあるスープか、コーヒー・カップらしきもの(受け皿附き)があり(個人的にはカップが広過ぎで、内径幅から前者にしか私には見えないのだが)、その左下には、ミルク入れらしく見える物がある。しかし、例えば、以上の記載とも、当該位置の記載とも、全く合わない代物で、ちょっと頭を傾げるを得ない。なお、この切り絵は、ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載らない。その代り、これまた、この「15」ページには、左から右上方に向かって、木製(総て檜製か)の把手の突き上げた手桶・風呂椅子・湯桶が切り絵が配されてある(手桶と湯桶の箍(たが)は総て太い繩である)。これは、前掲ブログにある。これは、本文の少し先で、桑原氏が富田ツネにハーンが就寝・入浴する際のことを問うたところでエピソードが書かれる。

「私の國コンナ蟲いてそれを思い出すからいやだ」ここで言う「蟲」に就いては、サイト「マグミクス」の「卵の食べ方がほぼロッキーだった『ばけばけ』ヘブンの朝食 史実を見るとそんなに「盛ってない」かも」に、『ちなみに、糸こんにゃくが虫に見えて食べられないというのも、実際のエピソードに基づいています。ヘブンは「私の国にこういう虫が!」と言っていましたが、実際は1887年から2年間滞在した西インド諸島の仏領マルティニーク』(アンティル・クレオール語:MatinikMatnik・フランス語:Martinique)『島』(ここ)『にいた虫を思い出していたそうです。』と記されてあった。これは、直ちに、平井呈一氏の「仏領西インドの二年間」の「下」で一章を作る「ムカデ」を想起させる。当該原本の当該篇は、「Internet archive」のここから視認出来る(‘ Two Years In The French West Indies ’の“BÊTE-NI-PIÉ.”)。また、日本語訳は国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集 第二巻」昭和六(一九三一)年第一書房刊(保護期間満了)の「佛領西印度の二年間」(大谷正信譯)の、ここの「百足蟲」で読める。但し、マルティニーク島に棲息するムカデが如何なる種なのかは、調べ得なかった。⋯⋯いんにゃ! しかし!⋯⋯ムカデと糸蒟蒻は――似てないぞッツ!?!――ハーン先生!!!

 先生は橫濱で卷鮨をあがつたことがあつて、それが餘程うまかつたと見えて、私方へお出での日より、每日のように晝晩共に必らず、巻鮨をさしあげましたが、後ではお飽きになり、普通のご飯を上げました、またフライ・エツグスの製り方は先生に敎わり每々差上げました。

〔桑原〕 洋食屋は當時鎌田才次と申すものが一軒ありましたが、先生は鎌田より洋食をとつて召し上つたことがありましたか。

〔富田〕 洋食は一切上らなかつたので鎌田から洋食を取寄せた覺えはありません。一切和食でした。從つてナイフやフオークをお用い[やぶちゃん注:「おもちい」。尊敬語。]のことはありませんでした。

〔桑原〕 先生は宿で牛肉は上りませんでしたか。

〔富田〕 宿の老人が牛は四ツ足と申して、昔から室の內に入れることを嫌いますので、先生も納得して牛肉は家の內に入れませんでした。

〔桑原〕 先生の宿泊料は當時いくら位でありましたか。

〔富田〕 先生來着當時の通辯眞鍋さんとの談判でございましたが、荒方[やぶちゃん注:「あらかた」。「だいたい」の意。]の約定は、朝は牛乳と卵、晝と晩とは卷鮨に副食物の賄[やぶちゃん注:「まかなひ(まかない)」。]で、一切をこめて一日が金參拾錢であつたと思います。當時の三十錢は今日相場にしては少なくとも十倍の三圓に當ります。今日と比較しますと萬事物價の相違はただただ驚くばかりであります。

[やぶちゃん注:以上の「參拾錢」だが、「Yahoo!JAPAN 知恵袋」の『朝ドラ「ばけばけ」の時代、10円は今の価値で幾らになりますか?』に対し、「閻魔の代理」さんが、答えているのが、よい。部分引用する。

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部の改行を続けた。]

小泉八雲が来日したのは明治23年です。そのころの人々の給料をウェブサイトで調べてみました。当時はインフレが著しかったようで、5年もすると給料が上がっていたようです。

明治23年当時

巡査初任給 月額6円(5年後には8円)

小学校教員初任給 月額5円(5年後には8円)

東京の大工(割と高給) 日給50銭(5年後には54銭)

小泉八雲(松江中学講師)月給100円(相当な高給)

★ここから推測すると、明治23年時点の人々の給料を現代の金額に換算するにはおおむね4万倍ぐらいするのが適当で、5年後の明治28年時点の給料を現代に換算すると3万倍ぐらいするのが適当だと判断します。つまり当時の10円は明治23年ならば40万円、同28年ならば30万円ぐらいが目安ではないかと考えます。

   《引用終了》

なお、この「17」ページには、金津氏の絵馬型のが、切り絵で載る。上方左右に、形の異なる菊花様のものが配され下方には、ひらがなの「め」を右、左でその反転したものが描かれている。私は、神社の、この手のものには全く疎いので、こう説明するしかない。ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載っているので、この装飾の意味が判る御仁は、是非とも解説して戴けると、非常に助かる。]

〔桑原〕 八雲先生が借りておられたあの廣大な根岸邸の家賃が、僅か月三圓半と伺いますから當時は萬事安かつたものです。就眠とか入浴というようなことはどうでしたか。

〔富田〕 寢具はベツトがありませんので、布團を高く重ねてこれを代用し暑い時は蚊帳[やぶちゃん注:「かや」。]を釣りましたが、先生が初めての時は立つたままで蚊帳に出入りされましたのにはおかしくもあり驚きもしました。

 毎日入浴されましたが、風呂から出られますといつも冷水にかかられました。湯は微温が好きでしたが、或る日湯加減の特別熱かつた時に「地獄」「地獄」と叫ばれたことは今に一口話[やぶちゃん注:「ひとくちばなし」。]になつています。

 先生が便所に行かれる光景がこれまた實に奇觀でありまして、便所へ何時もの如く葉卷をくわええ行かれるのはよいとして、どういうものか帽子を冠つて[やぶちゃん注:「かぶつて」。]入られました。

 先生は洋傘やスケツキは持つておられなかつたのでご使用のことはありません。雨降りの時は人力車を呼んで行かれました。ネクタイは非常に狹い黑いリポンか紐に限られていました。

 

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