本日はお雛祭りのため これにて閉店
十九回目の連れ合いの女友達(御一人を除いて私の嘗つての元同僚だった知人たち)四人に拠る十九回目の私の家でのお雛祭りのため、これにて閉店。
私は幼稚園の頃から、お雛さまが大好きである。例の、連れ合い(名古屋出身)の古い大きな五段・御殿附きの鄙人形(十二畳の四分一弱を占拠する)を一日かけて、一昨昨日に飾り上げた。今回は、人形の綻びも手前で修復したので、最も美しい見栄えとなった――
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十九回目の連れ合いの女友達(御一人を除いて私の嘗つての元同僚だった知人たち)四人に拠る十九回目の私の家でのお雛祭りのため、これにて閉店。
私は幼稚園の頃から、お雛さまが大好きである。例の、連れ合い(名古屋出身)の古い大きな五段・御殿附きの鄙人形(十二畳の四分一弱を占拠する)を一日かけて、一昨昨日に飾り上げた。今回は、人形の綻びも手前で修復したので、最も美しい見栄えとなった――
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに示された言い方を、やや厳密に言い換えると、既に先行して電子化した「(僕の口ぐせによると⋯⋯)」の第一聯の部分、
*
僕の口ぐせによると
僕はいつでも困つてゐた
そんな筈はないんだが
*
が、本詩の第二聯の冒頭に、そのまま使用されており、さらに、第四聯は、やはり先行する「(昨夜は おそく⋯⋯)」の、最初のソリッドな四つの聯、
*
昨夜は おそく
步いて町を步いて歸つたが
あかりは僕のそばにゐた
あかりは僕からとほかつた
ひとつの窓はとぢられて
あまりおそいこの時刻には
誰も顏を出してゐなかつた
誰にも歌をうたはせないために
だけれど僕はすこしうたつてみた
それはたいへんまずかつた
僕はあはてて歸つて行つた
昨夜は おそく步いたが
あれはたしかにわるかつた
僕の脊中はだいぶくらかつた
*
が初稿である(「まずい」はママ)。以上のように、先行する詩の一部を改稿して援用しているため、今までもように【初稿】として示すことが出来ないので、前注で示しておいた。
なお、標題の中の「マドリガル」は先行する「秋のマドリガル」で既注。]
鉛筆のマドリガル
夕方くらくて町で人かげを見た 僕はまちがへた
長いこと お前がこゝで待つてゐたと ほんとだらうか。
☆
僕の口ぐせによると
僕はいつでも困つてゐた
そんな筈はないんだが
(からつぽの帽子を机にのせて
僕はしばらくぼんやりする)
窓はすばらしい天氣だつたが
もし僕がそこへ出て行くなら
あの靑空はきれいすぎるだらう
(出かける仕度をしたつきり
机の上に頰杖をついてゐる)
どうしていつもかうなんだらう
☆
幾日も會はないまゝに 或る日は思ひ 思はぬまゝに
僕は裏切つた 僕を お前を それから僕を
どうしたらよいか知らないくせに ぢつとしてゐた
ずるかつた――お前は待つてゐた きつと
☆
昨夜は おそく
步いて 町を歸つたが
ひとつの窓はとぢられて
誰も顏を出してゐなかつた
僕に歌をうたはせないために
だけれど僕はすこしうたつてみた
それはたいへんまづかつた
僕はあはてて歸つて行つた
昨夜はおそく 步いたが
あれはたしかにわるかつた
あかりは僕からとほかつた
僕の脊中はくらかつた
☆
ねむがりの僕が或る晩おそく散步に出かけたら
それきりなのさ 僕は橋の上でぼんやり水を見てゐた
それから水の上に長いかげを搖らしてあかりがゐた――それつきりなのさ
[やぶちゃん注:「幾日も會はないまゝに 或る日は思ひ 思はぬまゝに」「幾日も會はないまゝに 或る日は思ひ 或る日は思はぬまゝに」の省略表現。
「それから水の上に長いかげを搖らしてあかりがゐた」「ゐた」は擬人法。]
[やぶちゃん注:底本はここから。段落を成形し、句読点を附加した。「□□」の欠字は、底本では長方形で凡そ二字分。]
「大蛇」 志駄郡《しだのこほり》[やぶちゃん注:前項と同じく、「志太郡」が正しい。]瀨戶新屋村[やぶちゃん注:現在の藤枝市南部の、藤枝駅の北西直近にある瀬戸新屋(グーグル・マップ・データ)。]にあり。傳云《つたへいふ》、
「當村鳥帽子山[やぶちゃん注:「ひなたGIS」で確認出来る。現代の瀬戸新屋直近の北西に烏帽子山がある。]の後《うしろ》、一の谷・二の谷・三の谷と稱する地、あり。一の谷と二の谷の際《きは》に小瀧《こたき》ありて、旱魃にも、水、かれず。傍《かたはら》に洞《ほら》あり。
或時、里童《さとわらは》兩三人、夏草刈《なつくさがり》に此谷に至るに、洞中《ほらうち》に鼾《いびき》の音《おと》す。其響《ひびき》、雷《かみなり》の如し。草刈等、怖《おそれ》て、走り去る。
後《のち》、茲《ここ》に遊べる小童《こわらは》、同郡《こほり》水上村□□山萬福寺【曹洞。】に集《あつま》り居《をり》て、此事を語る。
住僧【姓名を失す。】云《いはく》、
「是は、巨蟒《うはばみ》の巢窟成《なる》べし。斯《かく》の如きものは、後歲《こうさい》、必《かならず》、災《わざはひ》を、なさん。既に先證《せんしやう》あり。我に一法《いつはふ》、あり。」
とて、不動尊の前に幣《ぬさ》を建《たて》、一七日《いちしちにち》[やぶちゃん注:七日間。]、修法《しゆほふ》し、彼《かの》幣を、一の谷の洞口《ほらぐち》に押立《おしたて》て、去る。
然《しか》るに、一夜、風雨、甚《はなはだ》、强く、一の谷、山、崩る[やぶちゃん注:「こと」が欲しい。]數十間《すじつけん》[やぶちゃん注:一間は十八・一八メートルであるから、六掛けで百九メートル。現在は同山の北東部は宅地化しているものの、「ひなたGIS」の戦前の地図を見るに、旧烏帽子山背後に、その程度の崩壊が起こったとしても違和感はない。]、小瀧水《こたきみづ》、燥《かはき》て、落ちず。
此時、蛇《じや》、他《ほか》に去る。
是《これ》、近歲《きんさい》の事也《なり》。云云《うんぬん》。」。
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]
卑怯の歌
雨に濡れて立つてゐる あれは人だ
あれはかなしんでゐるが出たらめだ
傘を曲げマントをとほしづぶづぶに雨
寒さが骨に滲み 足がたはみたはみ
脣を嚙んでゐるだらう だがあれは歌ふ
誰も憎まない歌を その裏切りを
風が雨を橫に倒す 頰が濡れた 顏が
流れたまゝ 雫は人に日が暮れた
あれはかなしんでゐるが だめだ
あれはあゝしてやがては朝を見るだらう
[やぶちゃん注:第四聯の最後の「雫は人に日が暮れた」は論理的な構文としては、躓く。しかし、この躓きは、私の場合、本詩篇の救いのないブルージィな雰囲気の中で、最も、直感的に瞬時に感受し得た。この一篇、道造の詩の中でも、救いのないブラックな作品と感じる。いや、だから、好きだ。何故か?⋯⋯これはまさに⋯⋯この私自身の半生への⋯⋯突き出された「宣告」だからである⋯⋯]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。表題は「たそがれのうた」と読みたい。]
黃昏の歌
日が暮れかゝると かうであつた
窓で白い顏の人が 星の形した棒で
くらがりを測つてゐた 低い聲で
はてしない數字の群を 讀んでゐた
町は靄のなか あかりはともり
まじめくさつ顏の 水平は自轉車で
子供用のの靑塗りの 低い自轉車で
とほくの壁から 姿を消し
母たちが戶口に立つと 呼び交しながら
子供の群は どこかに逃れ
旗の手を町の夕燒を しづかに休め
日が暮れかゝると かうだつた
[やぶちゃん注:「旗の手」は、この詩の全シチュエーションが、軽井沢をロケーションとしているものではないかと私には直に思われ、さすればこそ、これは、今の「旧軽井沢銀座通り」の商店の幟(のぼり)であろうと、全く、躓かずに、想起出来た。異論がある方は、御意見を乞うものである。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]
歸りの電車を待つ間
町外れの停車場で立つてゐると
そばを通つて行くものがあり それが呟いた
僕はその言葉をきかなかつたけれど
あれは多分は雨風だつたらう
あれの聲は低かつた それにあはてゝ立ち去つた
言葉をすつかり忘れたけれど
あれは僕に敎へたのだらう
お前は人に裏切られたのだと
お前はそれに氣がつかないと
僕は濡れて立つてゐた(電車はなかなか來なかつた)
僕は脣を嚙みながら 誰も憎まない歌をうたつてゐた
雨風はまた僕のそばに來ないやうに
雨風は心に怒りを沸かせないやうに
あゝ 卑怯者
靑い電車は見事であつた
[やぶちゃん注:この詩、立川道造の詩として、多くの人に読んで貰いたい一篇として、ここにちゃんと電子化し得たことを幸いに思うものである。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。「物尺」は「ものさし」と読む。一般には漢字熟語では(辞書に於いては)、「物差」「物指」が普通である。老婆心乍ら、「糎」は「センチ」。「洋燈」は「ランプ」と読んでいよう。「慌しく」は「あわただしく」。]
物尺の歌
暮れかゝる室內に測るのであつた
机は七五糎 洋燈は四〇糎 花は三糎
もう目盛は蒼い夕闇の色にかくれてゐた。
だのに慌しく 呟きながら讀むのであつた
ペン軸は二〇糎 本箱は九糎 窓は一六三糎
はてしない數字の群がりを このにせの大きさを
物尺の冷えた膚にしつかり指で抑へてゐた
(物尺は暗がりで星形の棒となるのであつた)
椅子は九一糎 僕は五糎
いつまでも いつまでも 三二糎
[やぶちゃん注:この詩、妙に⋯⋯孤独に⋯⋯好きだ⋯⋯⋯⋯。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、これは、「(床屋は⋯⋯)」に始まった詩群の最終詩で、『原記は表題代りに☆印を置く。』とし、『なお本詩群は前項詩群と同面にあって、下から上への逆方向に書かれているので独立の詩群とした。また、最終詩句「お祭りはをはつた」は本詩群に対して丁字型に書かれている。』とある。而して、終わりに、『この「包装紙」詩群は書体から見るに、時間を置いて制作されたものではなく、即興的に一気に書かれたと思われる。』と後記してある。この最後の意見は、この詩群全体を読んでも、納得出来る見解と言える。
なお、実は、本底本は、基本を、詩篇本文を印刷一字下げで活字化しており、二行になる場合、編者が、はっきりと二行書きにして、一行目から続く場合には、前後の開始位置から一字上に記す体裁を採用している。しかし、例えば、この詩群のように、あらゆる方向からランダムに書かれている詩稿の場合、そうした厳密な書式が、容易に判然と出来るとは、私は、全く思っていない。また、そうした全集編集の中で、そうした規定を持たせることが、道造の意志とは全く以って無関係であると私は判断し、今まで、そうした規定を無視して電子化している。しかし、ここでは、途中で、一箇所だけ、そうした特異的操作が行われている関係上、そこを除き、他の部分を一字下げで示すこととした。]
(もつとたのしくて⋯⋯)
もつとたのしくてよいでせう
明るい色に塗りませう
わるい筆だがかまはずに
もつとたのしく描きませう
これはお前の似顏です
似てない姿がとりえです
☆
二十一歲の下手な繪描きは
木曜日每に水彩畫をこしらへ
そのあとですつかり困つた あまり下手であつたであつたから 彼は何かを諦めてしまつたやうなかなしみであつた 雨が降つえも繪を描いて
木曜日の晩每くらい町を步いてゐた
☆
お祭がをはつた
[やぶちゃん注:⋯⋯道造よ⋯⋯最後の台詞⋯⋯いいね⋯⋯僕のブログの合言葉⋯⋯君の好きなフランス語⋯⋯“ La fête est finie. ”⋯⋯⋯⋯]
連れ合いは、ここのところ、音声訳のボランティアの主力メンバーになってしまい、忙しくなり、先週の河津桜リベンジの彼女の撮った写真が、今日になって、やっと手に入った(私は携帯で写真を撮ることは全く無い)ので、以下に掲げる。

[やぶちゃん注:草体の根に繋がる上部地下茎から上の草体図の上に、明らかに異なる種の二つの根茎部の二図。形状から、右が、後で示すメインのオタネニンジン(=チョウセンインジン)でよいとして、左は本邦でお馴染みのニンジン、或いは、野生種のノラニンジンの属性を残し持っている品種であろうか、と推定しておく。但し、良安の評言の部分を見ても、現在の通常種である普通のニンジンへの言及は、殆んどゼロである。]
にんじん 人薓 人䘖
海腴 神草
人參 黃參 地精
鬼葢 土精
ジン スヱン 皺面還丹
[やぶちゃん字注:「𮑵」原本では、「氵」+(「𮑵」―「氵」)であるが、この字形を用いた。「面」は中央の「はしご」状の部分の上部が欠落した「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、通常の「面」とした。]
本綱人參爲藥切要與甘草同功有人參𠙚上有紫氣揺
[やぶちゃん字注:「揺」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、通常の「揺」に代えた。]
光星散而爲人參實神草也根有手足靣目如人者爲神
生上黨【今潞州也】山谷及遼東【髙麗乃朝鮮也】者爲最上春生苗多於
深山背陰近椵樹【似桐甚大】下濕潤𠙚初生小者三四寸許一
椏五葉四五年後生兩椏五葉未有花莖至十年後生三
椏年深者生四椏各五葉中心生一莖俗名之百尺杵三
四月有花細小如粟蕊如絲紫白色秋後結子或七八枚
如大豆生青熟紅自落
朝鮮人參猶來中國互市亦可收子於十月下種如種菜
法秋冬采者堅實春夏采者虛軟非地產虛實也僞者皆
以沙參薺苨桔梗采根造作亂之【沙參體虛無心而味淡荷芭體虛無心而味甘桔梗體堅有心而味苦人參體實有心而甘微苦】近有以人參先浸取汁自啜乃
晒乾復售謂之湯參不任用
人參生時背陽故頻見風日則昜蛀納新噐中入細辛與
參相間收之宻封可經年不壞一法用淋過竃灰晒乾鑵
收亦可
凡用時宜隔紙焙之【熟用則氣温生用則氣凉】並忌鐵噐伏苓爲之使
反藜蘆畏五靈脂惡皂莢黒豆【人參可去蘆不去則令人吐蘆者頭耑莖之根】
得升麻則補上焦之元氣瀉肺中之火
得茯苓則補下焦之元氣瀉腎中之火
得黃茋甘草則除大熟瀉陰火補元氣
得麥門冬則生脉 得乾薑則補氣
凡血脫者用人參益氣則血自生藥品之聖也
△按人參可用不可用之病症本草諸家之辨論區區也
共不可徧執今時亦然焉一槪有泥其功不詳虛實而
[やぶちゃん字注:「槪」は原本では、「槪」の(つくり)の下に、さらに「木」のある字体であるが、こんな異体字は見当たらないので、かく、した。]
動則人參多入用者稱之人參醫師
凡人靣白或黃或青黧悴者皆脾肺腎不足可用也靣
赤或黒者氣壯神強不可用也
凡脉之浮而芤濡虛大遲緩無力沉而◦遲◦濇◦弱◦細◦結◦代
無力者皆虛而不足可用也若◦弦◦長◦緊◦實◦滑◦數有力者
[やぶちゃん注:「◦」は今でいう「・」相当の記号である。訓読では、それに代える。]
皆火鬱內實不可用也蓋此說可以爲的𢴃也
朝鮮人參 朝鮮北韃靼南境有大山名白頭山自然生
人參爲最上其葉花與和人參相似而實異初青熟赤
圓如南天實其根似胡蘿萄而白色使甘草汁蒸乾黃
色亦益其味頭𨕙有橫文體重實而中亦潤黃者爲上
經年者大愈佳似人形者亦百斤中有一二本此雖有
神而不甚佳出於咸鏡道者潤白透通爲極上最鮮
判事人參 是亦白頭山之產出於韃靼而未知修治良
方故功稍劣
蝦手人參 右同蓋韃靼土地水不清毒多故其富儫者
[やぶちゃん字注:「儫」「豪」の異体字。]
常浸人參於井中用其水更採出人參販之故帶飴色
而尾耑曲似蝦形所謂湯人參之類乎
唐人參 卽中𬜻之產山西之潞安【古之上黨】北京之永平雲
南之姚安共爲上而下種植成故功不如朝鮮自然生
者其大者俗呼曰唐大
小人參 非大人參中擇出者而本自一種小者其根長
一二寸許猶罌粟與美人草近年不來俗以尾人參稱
小人參者非也
凡大人參老者則大而功勝嫩者小而力劣焉體輕虛色
枯白者俗謂浮虛人參無効
*
にんじん 人薓(《にん》じん) 人䘖《にんがん》
海腴《かいゆ》 神草《しんさう》
人參 黃參《わうじん》 地精《ちせい》
鬼葢《きがい》 土精《どせい》
ジン スヱン 皺面還丹《しゆうめんかんたん》
「本綱」に曰はく、『人參は、藥《やく》の切要《せつえう》[やぶちゃん注:極めて重要な対象であること。]と爲す。甘草《かんざう》と功を同《おなじう》す。人參、有る𠙚《ところ》、上に、紫《むらさき》の氣、有り、揺光星《やうくわうせい》の≪光≫、散じて、人參と爲《な》る。實《まこと》に神草《しんさう》なり。根に、手・足・靣《おもて》・目《め》、有《あり》て、人のごとくなる者を『神《しん》』と爲《なし》、上黨《じやうたう》【今の潞州《ろしう》[やぶちゃん注:現在の山西省長治市潞州区。ここ(グーグル・マップ・データ)。]なり。】の山谷、及《および》、遼東《りやうとう》【髙麗。乃《すなはち》、朝鮮なり。】の者、最上と爲《なす》。春、苗《なへ》を生ず。深山の背陰《はいいん》[やぶちゃん注:北向きの日陰。]椵樹《かじゆ》【桐に似て、甚だしく、大なり。】に近き下(ほとり)≪の≫、濕潤の𠙚《ところ》に多し。初生、小《ちさ》き者、三、四寸許《ばかり》。一椏《ひとまた》≪に≫五葉。四、五年にして、後《のち》、兩椏《ふたまた》五葉を生ず。未だ、花・莖、有らず。十年後《のち》に至《いたり》て、三椏《みつまた》を生ず。年《とし》深き者は、四椏《よつまた》を生ず。各(《おの》おの[やぶちゃん注:原本ではルビがない代わりに、送り仮名に踊り字「〱」がある。])、五葉≪を≫中心に、一莖《いつけい》を生ず。俗に、之を、「百尺杵《ひやくしやくしよ》」と名《なづ》く。三、四月、花、有り、細小にして、粟《あは》のごとく、蕊《しべ》、絲《いと》のごとし。紫白色。秋の後《のち》、子《み》を結ぶ。或《あるひ》は、七、八枚《たり》。大豆のごとく、生《わかき》は青く、熟《じゆくせ》ば、紅《くれなゐ》にして自《おのづから》落《おつ。》』≪と≫。
『朝鮮人參《は》、猶《なほ》、中國に來《きたり》て、互市《ごし》す[やぶちゃん注:「互市」は中国諸王朝と北辺・西辺諸国との陸上貿易を指す語。後注参照。]、亦、可なり。子《み》を十月に收め、種《たね》を下《おろ》し、菜《な》を種《うう》る法《はう》のごとくにして、秋・冬、采《と》る者≪は≫、堅《けん》にして實《じつ》し。≪對して、≫春・夏、采る者≪は≫、虛にして軟《やは》らかなり。地產の虛・實には、非《あら》≪ざる≫なり。僞《いつは》る者、皆、沙參《しやじん》・薺苨《せいねい》・桔梗《ききやう》を以《もつ》て、根を采り、造り作(な)し、之≪を≫亂《みだ》す≪ものなり≫【沙參は、體《たい》、虛《きよ》、無心《むしん》にして、味、淡《あはし》。荷芭は、體、虛、無心にして、味、甘《あまし》。桔梗は、體、堅《けん》、心、有りて、味、苦《にがし》。人參は、體、實《じつ》にして、心、有りて、甘《あまく》、微《やや》苦《にがし》。】。近《ちか》ごろ、人參を以て、先《ま》づ、浸《ひた》して、汁を取り、自《みづから》啜《すゝ》り、乃《の》ち、晒乾《さらしほ》して、復た、售(う)る。之を「湯參《たうじん》」と謂ふ≪も≫、用に任《た》へず。』≪と≫。
『人參、生《しやう》ずる時、陽《やう》を背《そむ》く[やぶちゃん注:太陽の光りを嫌って背を向ける。]。故《ゆゑ》、頻《しき》りに、風・日を見る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。ここは「強い風・過剰な太陽光を受けた際には」の意。]、則《すなはち》、蛀(むしいり)、昜《やす》し。新≪しき≫噐《うつは》の中《うち》に納め、細辛《さいしん》と參《じん》[やぶちゃん注:「人參」。]とを、相間(あひはさみ)に[やぶちゃん注:細辛の間に人参を挟み込んで。]、之を收《をさ》め、宻封して、年を經て、壞《くわ》≪れ≫ざる一法≪として≫、淋過《りんくわ》≪し≫たる竃《かまど》の灰[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、『水をそそぎ』、濾『過』(ろか)『した竃(かまど)の灰』とある。後注を見よ。]を用《もちひ》て、晒乾《さらしほし》、鑵《くわん》に收《をさむ》るも亦、可なり。』≪と≫。
『凡《およそ》、用《もちふ》る時、宜《よろしく》、紙を隔《へだて》て、之≪を≫焙るべし【熟して用れば、則ち、氣、温《おん》なり。生《なま》にて用れば、則ち、氣、凉《れう》なり。】。並《ならび》に[やぶちゃん注:孰れの場合でも。]、鐵噐を忌む。伏苓《ぶくりやう》、之《これ》が、使《し》[やぶちゃん注:既に何度も出た「引薬」の意。反応を効果的に進めるための補助薬。]たり。藜蘆《れいろ》に反《はん》し、五靈脂《ごれいし》を畏《おそ》れ、皂莢《さうきやう》・黒豆《くろまめ》を惡《い》む。【人參、「蘆(ろ)」を去るべし。則ち、人をして吐かしむ。「蘆」とは、頭《かしら》の耑莖《たんけい》の根[やぶちゃん注:頭の端の茎の根。]≪なり≫。】』≪と≫。
『升麻《しやうま》を得れば、則《すなはち》、上焦の元氣を補ひ、肺中の火《くわ》を瀉《しや》す。』≪と≫。
『茯苓を得れば、則、下焦の元氣を補ひ、腎中の火を瀉す。』≪と≫。
『黃茋・甘草を得れば、則、大熟を除き、陰火を瀉し、元氣を補ふ。』≪と≫。
『麥門冬を得れば、則、脉《みやく》を生ず。』≪と≫。『乾薑《かんきやう》を得れば、則、氣を補す。』≪と≫。
『凡《およそ》、血脫(《ち》たり)[やぶちゃん注:出血が続いている患者のこと。]の者には、人參を用て、氣を益する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則、血、自《おのづか》ら、生《しやう》ず。「藥品の聖《せい》」なり。』≪と≫。
△按ずるに、人參、用ふべきと、用ふべからざるの病症、本草諸家の辨論、區區(まちまち)なり。共《とも》に、徧執《へんしふ》すべからず。今時《こんじ》も亦、然《しか》り。一槪に、其《その》功に泥(なづ)んで、虛實を詳《つまびらか》にせずして、動(やゝも)すれば、則《すなはち》、人參、多く入用《いれもちひ》る者、有《あり》。之を「人參醫師《にんじんいし》」と稱す。
凡そ、人の靣《おもて》、白く、或《あるい》は、黃《き》、或は、青黧(《あを》ぐろ)く悴(かじ)けたる者[やぶちゃん注:生気がなくなって如何にも衰える者。]、皆、脾・肺・腎、不足なり。用《もちふ》べきなり。靣、赤、或は、黒き者は、氣、壯(さか)んに、神《しん》[やぶちゃん注:神経。]、強く、用ふべからざるなり。
凡そ、脉《みやく》の浮《ふ》にして、芤《こう》[やぶちゃん注:東洋文庫版訳の割注に『脈は浮』(ふ)『か』、『沈』(ちん)『で中ほどは空虚』とある。]・濡《じゆ》[やぶちゃん注:同前で『(細くて弱い)』とある。]・虛大・遲緩、力《ちから》無く、沉《ぢん》にして、遲《おそし》・濇《しぶる》・弱《よはし》・細《ほそし》・結《むすぼほる/むすぼる[やぶちゃん注:結滞すること。]》・代《とどこほる》≪容態《ようだい》にて≫、力《ちから》、無き者は皆、虛にして、不足なり。用《もちふ》べしなり。若《も》し、弦《つよきはる》・長《ながし》・緊《きつし》・實《つよし》・滑《なめらか》・數(さく)[やぶちゃん注:]≪にして≫、力《ちから》、有る者は、皆、火鬱內實《くわうつないじつ》なり[やぶちゃん注:AIのものしか出てこないのだが、取り敢えず、掲げておく。漢方に於いて、ストレスなどで生じた熱(「火」)が体「内」に籠もり(「鬱」)、それが消化器や体幹に実熱(「実」証の熱)として溜まっている状態を指す。イライラ・怒りっぽい・逆上(のぼ)せ・顔面紅潮・便秘・口腔内の苦みなどの熱症状が強く出るもの。後注で再検証する。]。用≪ふ≫べからざるなり。蓋し、此說、以て、的𢴃《てききよ》[やぶちゃん注:「極めて的(まと)を得たもの。]と爲《なす》べし。
朝鮮人參 朝鮮の北、韃靼(だつたん)の南境《みなみさかひ》に、大山《おほやま》、有り、「白頭山(はくとう《さん》)」と名《なづ》く。自然と、人參を生ず。最上なり。其の葉と花は、和人參《わにんじん》と相《あひ》似て、實(み)は、異《こと》なり。初《はじめ》は青く、熟≪せば≫、赤《あか》≪く≫圓《まろ》≪く≫、南天の實《み》のごとし。其《その》根、胡蘿萄(にんじん)に似て、白色。甘草の汁をして、蒸乾《むしほ》≪せば≫、黃色ならしめ、亦、益《えき》す。其味、頭《かしら》の𨕙(めぐ)り、橫文《わうもん》、有り。體《たい》、重く、實《じつ》≪に≫して、中《なか》も亦、潤《うるほひ》黃《き》なる者を、上《じやう》と爲《なす。》年を經る者は、大にして、愈(《いよ》いよ[やぶちゃん注:送り仮名に踊り字「〱」がある。])、佳《よ》し。人の形に似たる者も亦、百斤[やぶちゃん注:六十キログラム。]中、一、二本、有り。此《これ》、「神《しん》」[やぶちゃん注:極めて珍しいもの。]、有《ある》と雖も、而≪れども≫、甚だ≪には≫佳《か》ならず。咸鏡道(かがんどう[やぶちゃん注:ママ。])より出《いづ》者は、潤《うるほひ》≪て≫白《しろく》、透通(すきとほ)り、極上と爲《なす》。最《もつとも》、鮮(すくな)し。
判事(ハンス)人參 是《これ》も亦、白頭山の產にして、韃靼より出《いづ》る。而≪れども≫、未だ、修治の良方を知らず。故《ゆゑ》に、功、稍《やや》、劣れり。
蝦手(えびで)人參 右に同じ。蓋し、韃靼の土地は、水、清《きよ》からず、毒、多し。故《ゆゑ》、其《その》富儫《ふがう》の者は、常に、人參を井中《ゐちゆう》に浸《ひた》し、其水を用ふ。更に、人參を採出《とりいだ》≪し≫、之を、販(う)る。故《ゆゑ》、飴色(あめ《いろ》)を帶《おび》て、尾の耑(はし)、曲(まが)り、蝦の形に似たり。所謂《いはゆ》る、「湯人參」の類《たぐひ》か。
唐人參《たうにんじん》 卽ち、中𬜻の產。山西(サンスイ)の潞安《ろあん》【古への上黨《じやうたう》。】北京(ポツキン)の永平(ヨンピン)、雲南(イユンナン)の姚安(テウアン)、共(とも)に、上と爲《なし》て、種を下《くだ》し、植成《しよくせい》す。故に、功、朝鮮の自然生《じねんしやう》の者に、如《し》かず。其《その》大なる者、俗、呼《よん》で、「唐大《たうだい》」と曰ふ。
小人參《しやうにんじん》 大人參の中より擇出《えらびいだ》し者に≪は≫非ずして、本《もと》、自《おのづか》ら一種の小《ちさ》き者≪なり≫。其《その》根、長さ、一、二寸許《ばかり》。猶《なほ》、罌粟(けし)と美人草《びじんさう》と≪の≫ごとし。近年、來らず。俗、「尾人參(ひげ《にんじん》)」を以て、「小人參《しやうにんじん》」と稱《しやう》≪するは≫、非なり。
凡そ、「大人參」≪の≫老する者は、則《すなはち》、大にして、功、勝《まさ》れり。嫩(わか)き者は、小にして、力《ちから》、劣る。體《からだ》、輕虛《けいきよ》にして、色、枯白《こはく》[やぶちゃん注:ひねこびて白くなったもの。]なる者を、俗、「浮虛人參(ぶく《にんじん》)」と謂《いふ》≪も≫、効、無し。
[やぶちゃん注:一向に、「漢籍リポジトリ」の一月からの不通が回復しないので、仕方がないから、「維基文庫」の「本草綱目」の「草之一 卷十二上 山草類上【三十一種】」に当たることにした。しかし、これが不本意なのは、原本画像が並置されていないことと、活字起こしが必ずしも信用出来ないからである。
まず、本篇は、明らかに、薬用を主眼とした「人參」であるから、所謂、チョウセンニンジン(朝鮮人蔘)であって、その主解説の種は、本邦でお馴染みのセリ目セリ科ニンジン属ニンジン(ノラニンジン:野良人参/野生種)Daucus carota亜種ニンジンDaucus carota subsp. sativus ではなく、
セリ目ウコギ科トチバニンジン(栃葉人参)属オタネニンジン(御種人蔘)Panax ginseng
である。平凡社「世界大百科事典」(初版)の「チョウセンニンジン(朝鮮人参)」」から引く(コンマは読点に代えた)。『根を薬用とすることで著名なウコギ科の多年草。ヤクヨウニンジン(薬用人参)とも呼ばれ、江戸幕府の薬園に栽培したのでオタネニンジン(御種人参)ともいう。また単にニンジンともいうが、野菜のニンジン(人参)とはまったく別種である。年数を経たものは草丈約60cmとなり、茎の頂部に長い葉柄をもち、5小葉からなる掌状葉を4~6枚輪生する。夏季、茎頂から1本の細長い花茎をのばし、先端の散形花序に淡黄緑色の小さい花をつける。秋季に、小さい球形の果実が赤色に熟する。根は年々ゆっくりと肥大し、発芽後数年を経過した株では、長さ10~20cm、太さ2~3cmに肥大する。先は指ほどの太さで数本に分岐し、この形が人間の体に似るので人参という。中国東北地方や朝鮮に分布するが、薬用植物として栽培もされる。野生のものは生長が遅く、成分が強いとされ、高価なものである。古くは、根の形が人体に似たものほど薬効が高いとされ珍重された』。『また』、『日本での栽培は、享保年間(1716‐36)に始まり、長野、島根、福島などで良品を産出する。栽培は冷涼で湿潤、かつ弱光条件を好むので、東西に畝を作り、覆いをして北側だけをあけて、陽光を調節する。11月に種子をまくか、別途に苗を養成して移植する。播種(はしゅ)後4年ないし7年で収穫する。洗って細根をとりさり、そのまま、あるいは漂白し、乾燥したものが白参(はくじん)で、白っぽい色をしている。掘ってからよく洗い、細根をとりさって蒸して、天日あるいは弱い火力乾燥をしたものが茶色の紅参である。このほか糖液につけてから乾燥した糖参などいろいろな調製法がある』。以下、「薬用」の項。『人参は毒性がほとんどなく、万病に効果があるとされる。根にはサポニン、配糖体であるギンセノサイド類、ステロイド、ビタミン B 群、コリンなどが含まれる。他の生薬と配合して滋養、強壮、強心、強精、健胃、鎮静薬として賞用され、新陳代謝機能の低下に賦活薬として用いる。含有エタノールエキスは副腎皮質機能を強化し、大脳皮質を刺激してコリン作動性を増強し、血圧降下、呼吸促進、インシュリン作用増強、赤血球数やヘモグロビン増加の効果がある。またギンセノサイド類には DNA 合成促進作用、中枢抑制作用、中枢興奮作用、溶血防御作用、溶血作用など、ときによって相反する薬効を示す諸物質が含まれる。アメリカ東部産のアメリカニンジン P.quinquefolia L.(英名 American ginseng)も薬用に利用され、チョウセンニンジンに劣らない薬効があるとされ、広東人参(洋参)と呼ばれる。また三七人参』(サンシチニンジン)『は P. notoginseng (Burk.) F. H. Chen の地下部で、主として止血、鎮痛、消炎、近年は強心、肝疾患などに、竹節人参はトチバニンジン P.japonicum C. A. Mey. の根茎で、去痰、解熱、健胃に用いられる』。以下、「歴史」の項。『朝鮮では高麗人参ともいう。日本の正倉院の宝物にも見えるように、古来、不老長寿、万病の薬として漢方では最高の位置を占めた。朝鮮の特産物として人参は王室への進上物や中国への貢納には』、『必ず』、『含められ、また日朝貿易でも主力商品となり』、時『には対外交易において銀貨の代用物とされた。朝鮮では採取量がふえるにつれて、山中に自生する人参の枯渇が心配され、人工栽培が14世紀末には開城で本格化したことが、李時珍』の「本草綱目」『などに記載されている。以来、開城人参が有名になった。一度栽培した土地では地味が消耗するため、数十年』、『人参栽培はできない。今日では開城のほか、江華島や忠清南道錦山などで大量に栽培され、海外への輸出も多い。栽培種の達参(ポサム)より』、『自生の山参(サンサム)のほうが』、『はるかに貴重とされているが、山参を見つけるのは難しく、親の病を治すための山参採りの孝行話は古くから数多い。山参採取を業とする人々はシムマニとよばれ、身を浄めて入山し、隠語を使い合って山参を探す。両江道、平安道、江原道などでは今日でも山参採取が続けられている』。『日本でも江戸時代には朝鮮人参の需要が高まり、人工栽培も行われ、また』、『人参の専売権をもつ人参座』(にんじんざ)『が成立した。人参は高価であったため、近世には〈人参飲んで首くくる〉という成句が、身分不相応な出費のために身を滅ぼすことのたとえにされたほどである』。『日本で朝鮮人参の栽培が初めて成功したのは1728年(享保13)、日光今市の御薬園においてであったという』(「国指定名勝会津松平氏庭園 御薬園」公式サイトの「御薬園の始まりと歴史」に拠れば、この年に、『対馬藩が献上した60粒余を日光山に栽培したのが成功し、種子が実りました。そのため日光山麓今市市に栽培場をつくらせるようになりました』とあった)『その後の発展には本草学者田村藍水の努力が特筆される。37年(元文2)、幕府より種子を拝領して試植して以来、彼は《人参譜》《人参耕作記》《参製秘録》などを著してその普及に寄与した。国産物の薬効に対する疑問には、藍水の弟子平賀源内の編になる《物類品賦(ひんしつ)》に反論が見える。広東人参も47年(延享4)以降、清国商人の手で到来していた。これは実は、1710年代にイエズス会士ラフィトー J. F. Lafitau(1681‐1740)がカナダで発見したアメリカニンジンが、フランス東インド会社によって中国広東に輸出されたものであった。フランス本国でも』、『このころには朝鮮人参(その大半はおそらくアメリカニンジン)が知られていたようで、《百科全書》に L. C. de ジョクールが1項をさいて論じているほか、ginseng の語は62年』、『アカデミー・フランセーズによって公認されている』。『なお』、『薬効高く形が人間に似る朝鮮人参には、中国では古来さまざまな伝説が語られているが、特に《大唐三蔵取経詩話》や明刊本《西遊記》に見える人参、人参果を、西洋での類似の妖草マンドラゴラ伝説のアラブを介した東漸と関連づける説(中野美代子《孫悟空の誕生》1980ほか)は傾聴に値しよう』とある。また、当該ウィキ(標題は「オタネニンジン」)で補完すると(注記号はカットした)、「名称」の項に、『本種は元来「人蔘」と称され、中国、朝鮮半島、および日本で旧くから広く知られる薬草であった。枝分かれした根茎の形からヒトの姿が類推されて名称の由来とされる』。『10世紀前半の「和名類聚鈔」の『巻20「草類」に、人参に関して和名が「加乃仁介 久佐」(カノニケ草)と記される』とある。
ここで、同書の「卷二十」の「草木部第三十二」の「草類第二百四十二」のそれを、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七 (一六六七)年板の当該部で視認して、推定訓読すると(標題下のものはルビの右/左)、
*
人參(カノニケクサ/クマノイ) 「本草」に云はく、『「人參《にんじん》」、一名は「神草《しんさう》」【和名、「加乃仁介久佐《かのにけくさ》」。一名、「久末乃伊《くまのい》」。】』≪と≫。
*
ここに出る「くまのい」という和訓は、お馴染みの「熊の膽(胆)」で、クマの胆汁を乾燥したものを指す語で、古くより、中国で用いられ、本邦でも、飛鳥時代から利用されてきた経緯から、「神効を持つ霊薬」として並称され、名も転用したものと思われる。ウィキに戻す。
*
『朝鮮語では漢字語の「인삼」を多用し、特に貴重な野生物を「山蔘」(산삼)と称する。別の固有語名称で「シム」(심)もあるが、現代朝鮮語では職業「山蔘採取者」の意味で「シンマニ(朝鮮語版)」(심마니)、感嘆詞で「良いものを見つけた」の意味で「シンバッタ」(심봤다!)、などが僅かに残る。中国東北部では「木槌」「洗濯棒」の意味で「棒槌」(bàngchuí)と称する』。「御種の由来」の項。『「御種人蔘」が冠する「御種」(おたね)は由来が諸説伝わる』。
・『江戸時代の3代将軍徳川家光の時代に、関東地方の日光で栽培に成功し、江戸幕府が各藩に「種子」を与えて「御種人参」と称した』。
・『江戸幕府の8代将軍徳川吉宗が対馬藩に命じて朝鮮半島で種子と苗を入手させ、試植、栽培して』、『結実後に各地の大名に種子を分け与えて栽培を奨励し、これを敬って「御種人参」と称した』。
さても、『日本国内で栽培成功以前の「人蔘」は、朝鮮半島から輸入した』。以下、「人蔘とニンジン」の項。『元来「人蔘」は本種』オタメニンジン『を指したが、江戸時代以降に舶来野菜として広まったセリ科の根菜“胡蘿蔔”(こらふ、現代のニンジン』(セリ目セリ科ニンジン属ニンジン(ノラニンジン)Daucus carota 亜種ニンジン Daucus carota subsp. sativus )『は、本種と同じく肥大化した根茎を使用するため、類似視して「せりにんじん」など称した』。『「せりにんじん」は時代が進むと基本野菜として広く普及し、「にんじん」と称する事例が多くなった。時代とともに医学が西洋化すると』、『本種の使用例は減少し、日本語で「人蔘」は「せりにんじん」を指すことが一般となった』。『のちに区別を明らかにするため、本種は明示的に拡張した「朝鮮人蔘」と称することが一般となった(レトロニム)。』(retronym[:ある語の意味が、時代とともに拡張・変化した場合に、古い意味の範囲を特定的に表わすために、後から考案された語のことを指す語)。『戦後に日本の人蔘取扱業者は、輸入元の大韓民国で忌避される「朝鮮」を避けて「薬用人蔘」と称したが、後年に「薬用」は薬機法に抵触すると行政指導を受けて「高麗人蔘」へ切り替えた』とある。
最後に、例によって、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイト内の「生薬の玉手箱 | 人参(ニンジン)」(起原は、オタネニンジン Panax ginseng C.A.Meyer (ウコギ科 Araliaceae)の根とする)をシメとして引用して総論を終わる。
《引用開始》
人参は中国医学の中で最も有名な生薬といっても過言ではないでしょう。世界中にジンセンの名前で知れわたっています。
人参は『神農本草経』の上品に収載され、古来補薬として珍重されてきました。もとは朝鮮民族の薬物であって、陶弘景も高麗のものが最も品質が良いと記載しています。このようないきさつから、中国では古来品不足であったことが考えられ、根の形が似ている多くの偽物が出回っていたようです。宋代の『図経本草』にも4種類の異なった図が描かれ、それぞれ科も異なるまったく違った植物と思われます。その中で品質が良いとされている上黨(今の山西省路安)産の人参(路州人参)の図が正品であるオタネニンジンを描いたものと判断されますが、現在ではその地には産しません。
偽物が多かったためか、人参には興味ある真偽鑑別法が記載されています。『図経本草』に「言い伝えによると、上黨の人参を試すには二人の人間を同時に走らせ、一人には人参を口に含ませ、そうして3〜5里も走ると人参を口に含まなかったものは必ず大きく喘ぐが、含んでいた者の気息はごく自然である。これが真物の人参である」というものです。
人参は日本でも古くから有名であったようで、江戸時代には病身の親のために身売りしてまで入手したという話はよく耳にします。人参はそれほど優れた効果があったものと考えられますが、近年ではそうした劇的な効果があったということを聞きません。人参の化学成分や薬理学的な研究は世界中でなされていて、おそらくあらゆる生薬の中で飛び抜けて報告数が多いのではないかと思われますが、未だにそれらしい有効成分が見つかってはいないようです。現代人は昔に比べると栄養状態が良くなり、以前のような人参適応者がいなくなってしまったことが理由であるとする考え方もありますが、ただ、以前すばらしい薬効があるとされていた人参はまぎれもなく野生人参で、今われわれが使用している人参はまぎれもない栽培人参である事実を忘れてはならないでしょう。
現在わが国では福島県、長野県、島根県などでオタネニンジンの栽培をしていますが、近年は安価な中国産に押されぎみで、産地は価格の低迷にあえいでいるようです。一方、産地では品質に関しては分岐せずにすっと伸びた胴長のものが好まれていますが、これは紅参として輸出する際の規格に左右されているのであって、薬効の多少とは関係がありません。実際、形が悪くてもより大きなものほど単位重量あたりのエキス含量は多い傾向にあるようです。以前はヒトの形をしたものに神効があると信じられてきましたが、今ではそのようなものは加工面で嫌われています。これも時代の流れでしょうか。現在市場では栽培年数の長くて大型のものが良質品として取り扱われています。
また加工面では、そのまま乾燥した「生晒参」(生干し人参)、軽く湯通しして外皮を剥ぎ取って乾燥した「白参」、内部の色が変色するまで湯通しした「御種人参」、長時間蒸してから乾燥した「紅参」などがあり、日本薬局方では前3者を「人参」とし、「紅参」と区別しています。その他、中国では氷砂糖汁に漬けた後に乾燥した「糖参」があります。
今や野生人参を入手することはきわめて困難になっていますので、研究はおろか少量を服用することすら困難ですが、人参は昔からすばらしい薬物とされてきただけに、さらなる薬効と品質に関する研究が進むことを私たちも期待しています。
人参は中国医学の中で最も有名な生薬といっても過言ではないでしょう。世界中にジンセンの名前で知れわたっています。
人参は『神農本草経』の上品に収載され、古来補薬として珍重されてきました。もとは朝鮮民族の薬物であって、陶弘景も高麗のものが最も品質が良いと記載しています。このようないきさつから、中国では古来品不足であったことが考えられ、根の形が似ている多くの偽物が出回っていたようです。宋代の『図経本草』にも4種類の異なった図が描かれ、それぞれ科も異なるまったく違った植物と思われます。その中で品質が良いとされている上黨(今の山西省路安)産の人参(路州人参)の図が正品であるオタネニンジンを描いたものと判断されますが、現在ではその地には産しません。
偽物が多かったためか、人参には興味ある真偽鑑別法が記載されています。『図経本草』に「言い伝えによると、上黨の人参を試すには二人の人間を同時に走らせ、一人には人参を口に含ませ、そうして3〜5里も走ると人参を口に含まなかったものは必ず大きく喘ぐが、含んでいた者の気息はごく自然である。これが真物の人参である」というものです。
人参は日本でも古くから有名であったようで、江戸時代には病身の親のために身売りしてまで入手したという話はよく耳にします。人参はそれほど優れた効果があったものと考えられますが、近年ではそうした劇的な効果があったということを聞きません。人参の化学成分や薬理学的な研究は世界中でなされていて、おそらくあらゆる生薬の中で飛び抜けて報告数が多いのではないかと思われますが、未だにそれらしい有効成分が見つかってはいないようです。現代人は昔に比べると栄養状態が良くなり、以前のような人参適応者がいなくなってしまったことが理由であるとする考え方もありますが、ただ、以前すばらしい薬効があるとされていた人参はまぎれもなく野生人参で、今われわれが使用している人参はまぎれもない栽培人参である事実を忘れてはならないでしょう。
現在わが国では福島県、長野県、島根県などでオタネニンジンの栽培をしていますが、近年は安価な中国産に押されぎみで、産地は価格の低迷にあえいでいるようです。一方、産地では品質に関しては分岐せずにすっと伸びた胴長のものが好まれていますが、これは紅参として輸出する際の規格に左右されているのであって、薬効の多少とは関係がありません。実際、形が悪くてもより大きなものほど単位重量あたりのエキス含量は多い傾向にあるようです。以前はヒトの形をしたものに神効があると信じられてきましたが、今ではそのようなものは加工面で嫌われています。これも時代の流れでしょうか。現在市場では栽培年数の長くて大型のものが良質品として取り扱われています。
また加工面では、そのまま乾燥した「生晒参」(生干し人参)、軽く湯通しして外皮を剥ぎ取って乾燥した「白参」、内部の色が変色するまで湯通しした「御種人参」、長時間蒸してから乾燥した「紅参」などがあり、日本薬局方では前3者を「人参」とし、「紅参」と区別しています。その他、中国では氷砂糖汁に漬けた後に乾燥した「糖参」があります。
今や野生人参を入手することはきわめて困難になっていますので、研究はおろか少量を服用することすら困難ですが、人参は昔からすばらしい薬物とされてきただけに、さらなる薬効と品質に関する研究が進むことを私たちも期待しています。
《引用終了》
なお、「本草綱目」からの引用は、「草之一」の「人參」(リンク先は「維基文庫」の当該項)のパッチワークである。
「人薓(《にん》じん)」「廣漢和辭典」の「薓」の「解字」に拠れば、この「𣺎」という漢字は、『次第に増し加わるの意。年とともに根が成長する野菜』、旧の広義での『にんじん』のこととする。
「人䘖《にんがん》」東洋文庫訳では、『人銜(にんがん)』となっており、「維基文庫」でも『人銜』である。これは「神農本草經」の上品に収載されてあり、『人參、一名人銜、一名、鬼蓋』とあった。しかし、やはり、原本で確認しないで、良安や彫師の誤りとするわけには行かない。そこで、本邦の板本であるが、
「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」の寛文一二(一六七二)年刊の当該部
で検証した。やってよかった!
そこでは――慥かに――「人䘖」――となっていたのである!
而して、この「䘖」は「銜」の異体字であり、この漢字は、第一義が、馬の口に含ませて手綱を附ける金具である「くつばみ」「はみ」である。これは、「世田谷区」公式サイト内の「喜多見中通遺跡出土馬具(ばぐ)」に模式図があるが、左右に丸い輪が附いたものであり、
この半分を(朝鮮)人参の根の形に擬えたものではないか?
と私は判断する。
「海腴《かいゆ》」中文の「漢典」の「海腴」に『人参的别称』とし、使用例として、宋の蘇軾の詩「人參」から『玄泉倾海腴 白露洒天醴』が引用されていた。
「鬼葢《きがい》」前の前で注した通り、「神農本草經」で「人參」の別名である。ひねこびた奇体(≒「鬼」)な「葢」(ふた)のようなもので、想像を絶する神効(≒「鬼」)があるものという意味か。
「皺面還丹《しゆうめんかんたん》」意味を明らかにする記事を見出せなかったが、「『皺』だらけの人のような『面』(つら)をした根であるが、法術の仙『丹』に匹敵する神効を有するという意味に採ることが出来よう。
「甘草《かんざう》」先行する「甘草」を見よ。
「人參、有る𠙚《ところ》、上に、紫《むらさき》の氣、有り、揺光星《やうくわうせい》の≪光≫、散じて、人參と爲《な》る」「東洋文庫訳」では、『人参のある処では上に紫の気があり、揺光(ようこう)星(北斗七星の中の第七星)の光が散じて人参となる、という。』とある。
「椵樹《かじゆ》【桐に似て、甚だしく、大なり。】」「卷第八十七 山果類 櫠椵」を見られたい。そこで、さんざん、考証しても、種に辿りつかなかった。
「互市《ごし》」当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『互市(ごし)とは、中国の歴代王朝が国境地点にもうけた公認の対外交易場である。またここから転じて、明朝後期から清朝期にかけての、中国の対外貿易システムを指すこともある』。『漢代には、互市で南越や匈奴、鮮卑』(せんぴ:紀元前三世紀から中国北部と東北部に存在した騎馬民族。五胡十六国時代・南北朝時代には、大移動で南下し、華北の国々を征服、中国に前燕・北魏などの王朝を建てた)『と交易を行っていたことが確認されている。唐代では、対外貿易を行う海港を市舶とし、港における互市を管理させた』。『明朝は当初、海禁政策を取り、朝貢によらない私貿易を厳禁した。日明貿易で行われた勘合貿易は、中国側にとっては朝貢貿易の一環であった。しかし16世紀後半になると』、『後期倭寇により海禁政策は行き詰まり、朝貢によらない私貿易を容認した。これは次の清朝にも引き継がれ、朝貢体制の外側に、外交を伴わない形での互市体制が作られることになる。江戸時代の日本も互市体制のもとで清朝側と貿易を行った』。但し、『清朝は海禁を完全に解いて自由貿易を認めたわけではなく、様々な規制を設けて管理しようとした。その一つが』、『欧米との貿易を広州のみに絞った広東貿易体制である。だが』、『こうした規制の試みはアヘン戦争の敗戦とその結果の南京条約により、放棄されていった』とある。以下、「清代に互市が行われた主な地点」として、キャフタ(ロシア連邦を構成するブリヤート共和国の都市。ここ(グーグル・マップ・データ))・上海(江海関)・寧波(浙海関)・厦門(閩海関)・広州(粤海関)がリストされてある。
「薺苨《せいねい》」多年草本のキキョウ目キキョウ科ツリガネニンジン属ソバナ(岨菜・蕎麦菜・杣菜) Adenophora remotiflora 。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『和名は「杣菜(そまな)」と漢字で書かれ、杣は木こりのことを指した言葉で、山道に生える菜の意味がある』。『日本では本州、四国、九州に、アジアでは朝鮮半島、中国に分布する。平地沿いの低山から山地の草原や林内、林縁、沢沿いなどの、やや湿った傾斜地などに、大小の集団を作って自生する』。『茎は』、『やや傾斜して直立し、高さは40 - 100センチメートル』『ほどになり、中空で折ると白い乳液が出る。乳液はキキョウほど強くはない。葉は茎に互生し、茎の下部につく葉には葉柄がある。葉柄のつく葉の形は広卵形で、花がつく茎の上部は広披針形になり、いずれも葉の先は尖り』、『基部はほぼ円形、縁は』、『はっきりした鋭い鋸歯状がある。ほとんど無毛で、若葉のときは強い光沢がある』。『花期は夏(8 - 9月ごろ)。枝の先が分かれて青紫色の円錐状に近い鐘形の花を』、『やや』、『まばらに咲かせる。大きい株になると』、『枝を数段に互生させ、多数の花をつける。花の』萼『片は披針状で全縁。雌しべは突出する。花冠の先は5裂し、先端は少し反り返る』。『春の出たばかりの黄色味を帯びている若い芽は、山菜として食用にされる。採取時期は関西以西が4月、関東地方が4 - 5月、東北・中部の寒冷地は5月ごろとされ、根元から摘んで採取する。さっと茹でて』、『水にさらし、おひたし、酢の物、ごま・酢味噌などの和え物などにし、生のまま天ぷら、汁の実にする。クセがほぼないため』、『さまざまな料理に使える。歯切れがよく』、『美味であり、飢饉の時には』、『蕎麦の代用品として主食同様に用いられたと推測される。花』も『軽く茹でて』、『酢の物にできる』とあった。
「細辛《さいしん》」双子葉植物綱コショウ目ウマノスズクサ(馬の鈴草)科カンアオイ(寒葵)属ウスバサイシン(薄葉細辛)Asarum sieboldii 、又は、オクエゾサイシン(奥蝦夷細辛)変種ケイリンサイシン(鶏林細辛)Asarum heterotropoides var. mandshuricum (後者は中国には分布しない)の根及び根茎を基原とするもので、漢方薬品メーカー「つむら」の公式サイト「Kampo View」の「細辛」に拠れば、『主として、胸部、横隔膜のあたりに病邪のとどまっているもの、水毒(水分の偏在)を治す』とある。
「淋過《りんくわ》≪し≫たる竃《かまど》の灰」この科学的な機序に就いては、石川英輔氏のエッセイ「土に還る(3)灰の行方」(PDF)に詳しいので、見られたい。
「藜蘆《れいろ》」先行する「草類 藥品(5) 藥七情」の当該注を見られたい。
「五靈脂《ごれいし》」既注だが、再掲しておく。中国に棲息する哺乳綱齧歯目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista の糞を基原とした生薬。「金澤 中屋彦十郎藥局」公式サイト内のこちらによれば、『成分としてはビタミンA類、その他で』、『炒りながら』、『酢や酒を加え、乾燥したものがよく用いられる』。『かつては解毒薬として蛇、ムカデ、サソリ等に咬まれたときに外用した』とある。
「皂莢《さうきやう》」「卷第八十三 喬木類 皂莢」の私の注を見よ。
「升麻《しやうま》」キンポウゲ目キンポウゲ科サラシナショウマ属サラシナショウマ Cimicifuga simplex の根茎を天日乾燥させたもの。ウィキの「サラシナショウマ」によれば、これは、『発汗、解熱、解毒、胃液・腸液の分泌を促して胃炎、腸炎、消化不良に効果があるとされ』、各種『漢方処方に配剤されている』とあり、さらに、『民間では』、一『日量』二『グラムの升麻を煎じて、うがいに用いられる』とする。さらに、『なお、本種に似たものや、混同されて生薬として用いられたものなど、幅広い植物にショウマの名が用いられている』とある。最後の部分は、ウィキの「ショウマ(植物の名)」も参照されたい。
「上焦」漢方で六腑の一つとして措定される架空の臓器部分を言う「三焦」の一つ。「上焦」・「中焦」・「下焦」の三つからなり、「上焦」は「心臓の下、胃の上にあって飲食物を胃の中へ入れる器官」とされ、「中焦」は「胃の中脘(ちゅうかん:本来は当該部のツボ名)にあって消化器官」とされ、「下焦」は「膀胱の上にあって排泄をつかさどる器官」とされる。因みに、所謂、「病い、膏肓に入る。」の諺の「膏肓」とは、この「三焦」を指し、これらが人体の内、最も奥に存在し、漢方の処方も、そこを原因とする病いの場合、うまく届けることが困難であることから、医師も「匙を投げる」部位なのである。
「茯苓」先行する「茯苓」を見よ
「黃茋」これは、「黃芪(わうぎ)」とも書く。マメ目マメ科ゲンゲ属キバナオウギ Astragalus membranaceus の根を基原とする生薬。当該ウィキによれば、『止汗、強壮、利尿作用、血圧降下等の作用がある』とある。
「麥門冬」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科 Ophiopogonae 連ジャノヒゲ属ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus の根の生薬名。現行では、これで「バクモンドウ」と濁る。鎮咳・強壮などに用いる。
「乾薑《かんきやう》」「卷第九十二之本 目録 草類 藥品(1)」の私の注を見られたい。
「韃靼(だつたん)」タタール。蒙古系部族の一つ。八世紀に東蒙古にあらわれ、モンゴル帝国に併合された。宋では、蒙古を「黒韃靼」、オングート(同じくモンゴル帝国以前から元代にかけて存在した遊牧民族)を「白韃靼」と称し、明では、元滅亡後、北に逃れた蒙古民族を「韃靼」と呼んでいた。
「白頭山(はくとう《さん》)」白頭山(ペクトゥサン)は、朝鮮民主主義人民共和国の両江道と、中華人民共和国の吉林省の国境地帯にある標高二千七百四十四メートルの火山。別名を「長白山(ちょうはくさん)」とも言う。天池の両側に、朝鮮半島と中国東北部の最高峰がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。抗日ゲリラの拠点であったことから、革命の聖地とされる。
「判事(ハンス)人參」良安の言い方からみて、全く同一種であるようには読めないが、ネットで検索しても、出てこないから、正体は判らない。「国書データベース」の「和漢人參考」という本の、ここで、見つけた。謙齋の著で、滕(とう)玄順の補になる、文化九(一八一二)年板(浪華加賀屋善蔵)のもので、印記があり、旧蔵者の一人は、かの、森鴎外であった。その内容を見ると、これがあった。漢文(訓点附属)のまま、以下に示して、お茶を濁すこととした(「𧢲」「⻆」は「角」の異体字)。
*
判事
西章云是レ人參也和俗稱二半事ト一舶上謂二羊𧢲參ト一【非二白條參ノ羊⻆參一也】形色最モ美ナリ黃潤明亮雖ㇾ可ㇾ充二上黨參ニモ一氣味俱ニ薄不ㇾ如二朝鮮ニ一或ハ呼二朝鮮新山ト一是レ商人人僞稱
*
「蝦手(えびで)人參」小学館「日本国語大辞典」に拠れば、読みは、『えびで‐の‐にんじん』で、漢字表記は『海老手人参』とあり、『朝鮮半島の白頭山に産するチョウセンニンジン。あめ色を帯び、曲がった形がエビに似ているのでいう。朝鮮人参。』とあり、初出例として、浄瑠璃の「博多小女郞波枕」(享保三(一七一八)年)の「上」から、『仕合すれび気の薬、海老(ヱビ)での人参(ニンジン)五箱で卅斤』を引いている。しかし、本「和漢三才図会」の全巻成立は正徳二(一七一二)年であるから、初出例としては、本書の方が百科事典でもあるから、正当に優に先行するものである。
「湯人參」「日本薬学会」公式サイトの「薬学用語解説」の「人参湯類 にんじんとうるい Ninjinto group」に、『漢方処方の分類で、「人参(にんじん)」を主薬とする処方群である。人参は健胃、強壮作用、免疫賦活作用などを有し、虚証の治療に重要な生薬であり、人参湯類の使用目標は「胃腸の気を補い、消化機能低下や冷えを改善するもの」と、共通している。代表的な処方である人参湯は、胃腸虚弱、冷え性、食欲不振、嘔吐、胃痛などに用いる。また、口中に薄い唾液がたまって気持ちが悪い場合にも用いられる。大建中湯(だいけんちゅうとう)は、血流を増し、消化管を刺激し、体を温め、消化管の緊張を調節するなどの作用があり、冷えによる腹痛、腹部膨満感がある場合に用いる。また、開腹手術後の腸閉塞(イレウス)の予防を目的として頻用されている。四君子湯(しくんしとう)は、胃腸虚弱で胃内停水があり、食欲不振で虚証で気力・体力が衰えた場合に用いる。六君子湯(りっくんしとう)は、四君子湯に陳皮(ちんぴ)と半夏(はんげ)を加えたものであり、応用範囲は四君子湯よりも広く、胃のもたれやうつ症状のある人に用いる。茯苓飲(ぶくりょういん)は、吐き気や胸やけ、げっぷ、食欲不振などの症状があり、胃腸内にたまったガスを容易に排出できない場合に用いる。』とあったが、この類いであろうか。
「唐人參《たうにんじん》」小学館「日本国語大辞典」に、『唐人参』に、『中国産の人参で朝鮮人参の類。』とし、初出例に雑俳の「うたゝね」(元禄七(一六九四)年)から、『客は聟唐人参の引肴』を引いてある。
「山西(サンスイ)」(拼音:以下同じ)Shānxī で、音写で「シァン シィー」である。
「潞安《ろあん》【古への上黨《じやうたう》。】」現在の山西省長治市(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)の内。
「北京(ポツキン)」Běijīngで、音写は「ペイジン」。当該ウィキの「北京の読み方」に拠れば(注記記号はカットした)、『日本では一般的に「ペキン」と読む。この読みは中国南部の方言の唐音に由来する歴史的な読み方である。1906年制定の郵政式アルファベット表記でもPekingと表記されている。 中国の共通語である普通話では、Zh-Beijing.ogg Běijīngと発音し、カタカナに転記すると「ペイチン」。英語では Beijing と表記し、 [beɪˈdʒɪŋ] 「ベイジン」と発音している。国連や北京市の公式サイトにおいても、Beijing を英語の名称として採用している。ただ』、『以前は英語圏でもPeking「ピーキン」という表記を多用していたこともあり、北京大学を英語で Peking University と表記するなど、その名残を残している』とあり、別に、『江戸時代の書物(江原某『長崎虫眼鏡』など)では、「北京」のふりがなは「ほつきん(発音はホッキン)」となっている。幸田露伴の小説「運命」では読みを漢音で「ほくけい」としている。諸橋轍次「大漢和辞典」では「ほくけい」「ぺきん」の二つの読みを併記している。「ほっけい」とも言う。』とあった。
「永平(ヨンピン)」Yǒngpíngで、音写は「イォンピィン」。現在の北京市永平小区の内か。
「雲南(イユンナン)」Yúnnánで、音写は「ユインナァン」。
「姚安(テウアン)」Yáoānで、音写は「ィアォ」。現在の雲南省楚雄イ族自治州にある姚安県(ようあんけん)。ここ。
「小人參《しやうにんじん》 大人參の中より擇出《えらびいだ》し者に≪は≫非ずして、本《もと》、自《おのづか》ら一種の小《ちさ》き者≪なり≫。其《その》根、長さ、一、二寸許《ばかり》。」実は、次の項目が「髭人參」で、そこに『小人參』を俗称としてある。そちらで、細かに考証するが、今、即席に調べてみた限りでは、良安が「自ら一種の小き者」と言っているような、独立種ではないようである。則ち、チョウセンニンジンの細い根を除去した製品であり、単に処理工程がことなるだけの、同種の加工品を指しているものを指すものと断言してよい。
「猶《なほ》、罌粟(けし)と美人草《びじんさう》と≪の≫ごとし。」東洋文庫訳では、この箇所に訳者の割注があり、『(巻百三穀類、罌子粟および麗春花の項を見よ)』とある。しかし、その指示した巻は、実に本植物部プロジェクトの終わりから一つ前の巻なのである。しかも、二種(並んではいる)について、ここで、注釈をすることになると、またまた、膨大な時間と労力が必要になる。そこまでやることは、私には、たまらんチンの100乗で、無理である。そこで、取り敢えず、当該の二種の部分を、国立国会図書館デジタルコレクションで指示するに、留める。雑駁に言ってしまうと――同属ながら――似て非なるもの――なんである。「罌子粟」(こ奴は、キンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum言わずもがなの阿片(アヘン)の元であり、本文内で「阿片」が小項目として記されてある)はここで、「美人草」(こちらは、可憐な「虞美人草」=であるケシ属ヒナゲシ Papaver rhoeas )はここである。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、『原記は表題代りに☆印を置く。』とし、『第一詩は後出「鉛筆のマドリガル」の第四詩の初稿。』とある。この「鉛筆のマドリガル」は、五コマ後のここから、視認出来る。]
(昨夜は おそく⋯⋯)
昨夜は おそく
步いて町を步いて歸つたが
あかりは僕のそばにゐた
あかりは僕からとほかつた
ひとつの窓はとぢられて
あまりおそいこの時刻には
誰も顏を出してゐなかつた
誰にも歌をうたはせないために
だけれど僕はすこしうたつてみた
それはたいへんまずかつた
僕はあはてて歸つて行つた
昨夜は おそく步いたが
あれはたしかにわるかつた
僕の脊中はだいぶくらかつた
☆
窓には雲が 次から次へと
僕には歌が⋯⋯
それから今日は日がくれた
それから夜はでかけよう
もし中世の城であるならば
葡萄の葉かげで月かげで
僕はもつとうたふにちがひないが
僕はひとり步くきりだ
[やぶちゃん注:「まずい」はママ。歴史的仮名遣は「まづい」。
個人的には第一聯の二行目「步いて町を步いて歸つたが」の一行が躓く。私なら、「步いて 町を步いて歸つたが」とする。「步いて」のリフレインを自然なスラーとするには、それしかない、と、私は感ずるのである。いや、或いは、『道造は、そのように字空けをしているのではないか?』という編者の判読の誤りが、強く感じられるのである。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、『原記は表題代りに☆印を置く。』とし、『第四詩は後出「秋の歌」の初稿。』とある。この「秋の歌」は、七コマ後のここから、視認出来る。]
(あの家では⋯⋯)
あの家では
子供が七歲と四歲だつたから
ブランコやスベリ臺もいるだらう
それから親たちには快いあかりと窓と
僕はすばらしい食堂を作つて上げよう
彼たちは每日あつまつてたのしい日暮れを
すごすやうに
僕はすばらしい家を作つてあげよう
☆
柱のそばで眼ばたきなんかしたつてだめだよ
ちやんと知つてるんだ
けふは僕は意地わるなんだ
いいさ いいさ もう行かないよ
僕はちやんときまつてるんだ
☆
借りた本は返しませう
汚さないやうにして お前の部屋に
ちひさいあかりは消しませう
それから僕は眠りませう お前の所に行くのです
☆
あたらしい金ボタンをつけた大學生は誰よりもたのしかつた
ポケツトに薔薇のやうなハンカチなんてそれは昔のならはしだつた
彼はそのまゝ胸をおこして步きさへすれば
秋晴れの午后なんか誰よりすばらしい姿に見えた
[やぶちゃん注:この四聯で続く一連の詩群と判断した編者に、私は、ここでは、納得出来る。ここには、幼児期から東京帝国大学工学部建築学科に入学するまでの道造の道程が、別にそれを傍観する第三者の建築士となって、彼の思い出の走馬燈として描かれていると感じとれるからである。
道造は大正三(一九一四)年七月三十日生まれで、弟達夫は大正五年四月二十六日に誕生しており(実は道造誕生の前年一月に長男一郎が三歳で亡くなっている)、「子供が七歲と四歲だつたから」というのは、道造と達夫の年齢差が一致するのである(年齢は数え)。なお、大正八(一九一九)年、道造六歳の八月二十二日に父貞次郎が三十七の若さで亡くなっており(死因不詳)、参照した底本全集「第六卷 雜纂」の大正六年の年譜を見たところ、珍しく、母とめさんの記載があったので以下に引用する。父なき後、『道造を女手一つで育てた母とめは、「立原によく似た知的で背の高い、黒っぽいものをよく着」(大和勇三「立原道造の思い出」)ているようなひとであった。』とあった。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、『原記は表題代りに☆印を置く。』とし、『第一、二詩は後出「鉛筆のマドリガル」の第二詩の初稿。』とある。この「鉛筆のマドリガル」は、七コマ後のここから、視認出来る。]
(僕の口ぐせによると⋯⋯)
僕の口ぐせによると
僕はいつでも困つてゐた
そんな筈はないんだが
☆
からつぽな帽子を机の上にのせて
僕はしばらくぼんやりしてゐる
窓はすばらしい天氣だつたが
もし僕がそこへ出て行つたなら
あの靑空は
出かける仕度をしたまゝ遠慮して
机の上に頰杖をついてゐる
どうして僕はだめなんだらうと
☆
木の葉が散つて來るのを見ると
それからあまりお天氣がよすぎると
だめな雨が靴の穴からしみ込むと
だから 僕は困つてばかりゐた
[やぶちゃん注:最終聯の四行は、全体が連続した意味を成すに至っておらず、前の部分とのジョイントもあまり良くない。思うに、「木の葉が散つて來るのを見ると」、「それからあまりお天氣がよすぎると」、「だめな雨が靴の穴からしみ込むと」の三行は、並置された候補三種である可能性が高いように感ずる。しかし、どれを採っても、今一つ、この聯内でのジョイント自身も上手くなく、冒頭から読んでいて、読者の殆んどは、この最終聯で澱(よど)みを感じないでは、いられない。寧ろ、最終行の頭の「だから 」を除去して読むと、そうした停滞感は、遙かに除去され、全体の詩としての完成度は上がるように私には思われる。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、このパート(「(床屋は⋯⋯)」から「(もつとたのしくて⋯⋯)」までの五篇)は、原稿の判読が、かなり難しく、そのため、編者によって、やや恣意的に活字化されていることが判る。一部を引く。『用紙は本郷白山上の南天堂書店の包装紙で』、『本文は四ツ折にした各面に方向を違えて書かれている。連続関係についての編者の推定を避け、アトランダムに各面ごとに置いた。☆印ごとに一篇として読んでもいいであろう。』(☜注目!)『最後』に置いた詩の最終詩句『「お祭りはをはつた」の詩句は同一面上の「昨日は おそく」「もつとたのしくて」と別方向に他の文字より大きく』書かれて『あって、これが総題とも考えられる。いずれにせよ』、『これらの詩群は後出の作品の参考のために加えた。制作時は』「(もつとたのしくて⋯⋯)」『の第二詩の「二十一歲」に拠り』、『昭和9』(一九三四)『年、更に』「(あの家では⋯⋯)」『の第四詩の「秋晴れ」に拠って9月頃と想定する。』とある。本篇「(床屋は⋯⋯)」の編者注には、『原記は☆印を第一詩の第四行上部に置いているので、詩群の最初とした。』とあり、さらに『第一詩は後出「鐘」の初稿。』とあるが、これは、調べてみたところが、底本の五コマ後の「鏡」の★編者の誤植★であることが判明した。リンク先を見られたい。]
(床屋は⋯⋯)
床屋は
頭の上に
シヤボンで
駝鳥や塔を作つてくれる
不意に軽くなつた僕よ
すこし步きにくい あまりきれいな歌になつたから
僕にはまづしげに生えた汚いひげが似あふんだが
☆
机の寸法を測つてからその上に本をのせてよんだ
この本には 澤山の文句がある 僕は おぼえない
(それからお前に會つたとき きかせるためにばかり 僕はおぼえる)
[やぶちゃん注:さて、この詩、虚心になって考えても、「☆」印の前後では、リリックとしての聯関性が、全く感じられない。されば、これは、独立した二篇と採るのが至当であると私は強く感じる。されば、仕切り直して、以下のように分離し、標題も独立させて示すこととした。私の恣意的な処置なので、比較出来るように、☆印を除去して罫線を引き、さらに、太字とした。異論がある方とは、何時でも議論しましょうぞ。]
(床屋は⋯⋯)
床屋は
頭の上に
シヤボンで
駝鳥や塔を作つてくれる
不意に軽くなつた僕よ
すこし步きにくい あまりきれいな歌になつたから
僕にはまづしげに生えた汚いひげが似あふんだが
(机の寸法を⋯⋯)
机の寸法を測つてからその上に本をのせてよんだ
この本には 澤山の文句がある 僕は おぼえない
(それからお前に會つたとき きかせるためにばかり 僕はおぼえる)
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、第三聯目が大きく削除されて、決定稿では一行だけが残っていることが示されている。されば、【初稿】として全篇を復元した。]
【初稿】
(僕に まだしあはせも⋯⋯)
僕に まだしあはせも不幸もなかつた頃
(まちがへてはいけない それでもすべてはあつたのだ)
僕は 每晩出かけて行つた 町のあかりを算へるために
夜は方々からひろがり 空のてつぺんまでくらくなり
あのはてないなかで 一體いくつ燈がともつたらう
僕はとうとう知らないまゝに
むだに算へた
それから僕はあのなかにやつとひとつのかなしみを見つけた
だがもう一度 いはなくてはならぬだらう そのかなしみもうそだつた
☆
おまへはブリキの光るのを見たことがあるか
夜だ あかりの下で
人は あれをまでかなしいものだといつた
ほんとだらうか
☆
町に沿つて たとへば古いかなしみのやうに 足音は
規則正しく踏までてゐた このつかれた響のみ算へるために僕は每晩出かけたか
[やぶちゃん注:「とうとう」注記では、後の「とう」は踊り字「〱」であるが、ママである。歴史的仮名遣では「到頭」であるから「たうとう」でないとおかしい。]
【決定草稿】
(僕に まだしあはせも⋯⋯)
僕に まだしあはせも不幸もなかつた頃
(まちがへてはいけない それでもすべてはあつたのだ)
僕は 每晩出かけて行つた 町のあかりを算へるために
夜は方々からひろがり 空のてつぺんまでくらくなり
あのはてないなかで 一體いくつ燈がともつたらう
それから僕はあのなかにやつとひとつのかなしみを見つけた
☆
おまへはブリキの光るのを見たことがあるか
夜だ あかりの下で
人は あれをまでかなしいものだといつた
ほんとだらうか
☆
町に沿つて たとへば古いかなしみのやうに 足音は
規則正しく踏までてゐた このつかれた響のみ算へるために僕は每晩出かけたか
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]
秋のマドリガル
僕はお前をくららと呼ばう
お前は田舍のあの村の郵便函
お化粧もせずにあの新物店(みせ)の軒(のき)にゐた
手紙をいれに晝の日傘をさして
別莊のお孃さんが來ると ポストは怠け
僕はお前をくららと呼ばう
いろいろなことの思ひ出のために
そして僕の手紙をお前に 僕に
この夏の遠かつた雲に
秋 町で誰かの歸りを待ち侘びてゐたと
きつとそればかりをに認(したた)めよう
お前は 多分あの人だ
くららは靑い谷間で古い世紀を織つてゐた あれはお前だ
[やぶちゃん注:「マドリガル」(英語:madrigal)イタリアのマドリガーレ(madrigale:古くは、十四世紀のイタリアで栄えた詩形式及びこれに基づく多声楽曲であるが、これは直に廃れ、後にそれらとは全く無関係に同名称で十五世紀から十六世紀にかけてイタリアで発展した、主として無伴奏の重唱による芸術的な多声歌曲をも指すようになった。後者は「ルネサンス・マドリガーレ」とも呼ぶ)、及び、その影響を受けてエリザベス朝(一五五八年~一六〇三年)のイギリスその他の国で成立した歌曲の総称。ここはルネサンス・マドリガーレ及び最後のものを指すと考えてよい。ウィキの「マドリガーレ」によれば、『詩節が無く』、『リフレインも無い自由詩を用い、テキストの抑揚に併せてメロディーが作られた。感情表現を豊かにするためにポリフォニーやモテットの様式、模倣対位法、半音階法、二重合唱法などあらゆる音楽形式が採られ、多くの作曲家が作品を作った』。十七世紀に入ると、『カンタータに取って代わられたが、その後も幾人かの作曲家がこの形式の作品を残している』とし、「イングリッシュ・マドリガル」は『エリザベス朝イングランドの宮廷作曲家達によって、イタリアの形式を真似て作られたが、イタリア』のそれほどには『複雑で無く』、『和声を主体にした曲が多い』とある。
「くらら」注記に『立原の愛読したフランシス・ジャムFrancis Jammes 1868―1938. の』詩集『 “De l’Angelus de l’aube à l’Angelus du soir. 1898”「暁の鐘から夕の鐘まで」中の“J’aime dans les temps”⋯⋯(僕は愛するあの時の⋯)に歌われた少女クララ・デレブウズ』Clara d'Ellébeuse『に拠ると思われる。』とある。フランス語の「ウィキソース」のここで、全篇が原語で読める。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]
曙
パンザの家にゐたが或る日疲れて僕は夢を見た
らんかんに
やんまがとまり
耳の海鳴り
山鳩の脊に
水車ひねもす糸を紡ぎ⋯⋯
夜が崩れた(膝までしか合はない寸法)窓のすべては僞りの花で飾られた
ぼんやり歪んだ地平線に 誰かはしやがんでゐた 人はまちがひをして その景色を眺めるだらうか それとも彼は知らなかつたのだらうか
風が吹いて王となつた 果して僕は夢を見た
[やぶちゃん注:「パンザ」不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの底本の全集全巻で検索したが、この詩篇の七十四篇後の無題の「(やつと欲しいものが⋯⋯)」の最後に「パンザよ」と呼び掛けるのが見出せただけであった。思うに、これは、ドン・キホーテの従士で、無学ではあるが、諺を得意とする世故に長けた農民サンチョパンザを捩った綽名であろうとは思う。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。「峽」はネイティヴでない読者のために言っておくと、道造は、諸作品を鑑みるに、訓で「かい」と読んでいよう。「山と山とに挟まれた所」を指す。音では「ケフ(キョウ)」、訓では、別に「はざま」(挾間)とも読めるが、音は道造の詩語としてはあり得ず、「はざま」では、印象がダルになり、リズムも良くない。]
峽の歌
光りながら消える水は
小さな渦卷きだ あれは白だ
空は靑く透いてその流れに
葉の姿を映してゐた
水を見てゐたのは誰だらう
お前だつたか 僕だつたか
消えながら光る水は
小さな淀みだ あれは靑だ
雲は白く透いてその飛沫(しぶき)に
鳥の形を映してゐた
水を見てゐたのは誰だらう
お前だつたか 僕だつたか
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、ここ以降のものは、『下限は』昭和9年『9月と推定』している。また、本「林道」については、『昭和9年11月発表の「村ぐらし」の初稿。』とし、さらに、『元気表題は「林道・靜晝(眞晝)」。「林道」のみを赤鉛筆で囲っているので、それを表題とした。』とある。無論、それでよいと思うが、個人的には、道造が標題を迷った過程を再現したく思い、その部分を復元したいと思った。但し、赤で枠は出来ないので、「林道」自体を赤字とした。後に注記が示した決定稿は、既に私が電子化注した「村ぐらし 立原道造」がある。編者中村真一郎氏の注に、本篇は昭和九(一九三四)年『七月堀辰雄とともに追分に滞在した体験に基づく』とある。但し、リンク先は中村氏に拠って、読みが歴史的仮名遣で打たれている。されば、底本同全集の「第一卷 詩集I」の当該部で、確認し、全く読みはないことが確認出来たので、読みはカットした。さても、この「村ぐらし」は、私が、道造の詩の中でも、特に偏愛する一篇である。未読の方は、是非、全篇を読まれたい、ちゃんと、声を出して⋯⋯。]
林道・靜晝(眞晝)
さびしい山道を息をはずませのぼつたことがあつた。道で會つたのは蟲捕りの道具を持つた老人であつた。彼は遠眼鏡(えんがんきやう)をあてて麓(ふもと)の高原を眺めてゐた。もつとのぼると峽(かひ)があつた。木の葉が、雲の形を透(す)いてゐた。その下の流れで足を洗つた。すると氣分がよかつた。草原に似た麓の林に、光る屋根が見えてゐた。またおなじ林道をくだつた。もう誰にも會はなかつた。しばらくすると村で鳴く鷄(にはとり)を聞いた。はるかな思ひがわき、すぐに消え、ただせかせかと道をくだつた。長かつた。
[やぶちゃん注:想定題候補の「靜晝」というのは、名詞として音読みするしかない。「せいちう」としか読めない。道造が標題として「ひるしづか」と読ませるなら、必ず、送り仮名を打つから、あり得ない。意味は「静かな昼」の意だが、見慣れない熟語で、音声も好かない。かと言って、「眞晝」という副題では、日中光が強いイメージによって、詩の内容が壊れる。さればこそ、「林道」は至当な選択である。]
【完成稿「村ぐらし」の当該部分】
せかせか林道をのぼつたら、蟲捕り道具を持つた老人に會つた。彼は遠眼鏡をあてて麓の高原を眺めてゐた。もつとのぼると峽があつた。木の葉が、雲の形を透いてゐた。その下の流れで足を洗つた。すると氣分がよかつた。草原に似た麓の林に、光る屋根が見えてゐた。またおなじ林道をくだつた。もう誰にも會はなかつた。しばらくすると村で鳴く鷄を聞いた。はるかな思ひがわき、すぐに消え、ただせかせかと道をくだつた。長かつた。
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『昭和9年8月19日付・杉浦明平宛書簡に第三聯を一行書きで紹介している。』とあった。「第五卷 書翰」の当該箇所を見ると(ここの左下段最終行から)、一行内の字間が存在しておらず、「通り」が「とほり」と平仮名表記になっており、最後を六点リーダになっているので、これは、初稿(部分)である可能性が高いと判断し、【書簡より】として、そのまま前に掲げた。]
【書簡より】
*** <手紙> 秋袖口につめたい風がじやれ このさびしい追分け道で每日山羊が啼いてゐます 每日人がとほります 古びた次の村にまで⋯⋯
【草稿】
手紙
僕は 地球をあこがれてゐた
だのにそれが村外れの木ばかり照らす
いちばん不幸な太陽でした
おまへを待つて部屋にゐたから
これでそれでもさうなのでせうか
秋 袖口につめたい風がじやれ
このさびしい追分け道で
每日 山羊が啼いてゐます
每日 人が通ります 古びた次の村にまで
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]
肉親
どうかして向う側へ行つてみたいとその人は言つてゐた。部屋のこちらできいてゐるとうすぐらいランプの下でがやがやしているのがわかるのです。誰でもさうなのでせうが、その人はいつでもこちらの部屋にゐて目をひらゐたりとぢたりして椅子の上にゐた。向う側へ行つてみたいと考へてゐたのです。
或るとき、やはり椅子の上にゐたけれど、その向う側のがやがやしたざはめきにまじつてひとが泣いてゐる聲がすゝり泣きみたいな節まはしできこえた。きつと水がこぼれてゐるのですう。それで、あかりを消しすつかり窓をとざし、長いこと考へえゐました。
その人は向う側にも母がゐて子供たちのために羽ばたいたり、泣いたするのだと。
あくる日、靴をきれいにみがいて、靑空の下で散步しました。
[やぶちゃん注:最終行の行頭からの開始はママ。この散文詩の中に道造個人の両親に対する特異感情を分析しようとしても、私は、あまり成果を得られないと思っている(道造は、大正三(一九一四)年七月三十日生まれで、立原貞治郎・とめ夫妻の次男として東京市日本橋区橘町(現在の中央区東日本橋)に生まれた。家では、荷造用木箱製造を営んでいた。長男の一郎は前年に数え三歳で没していた。大正八(一九一九)年(年)、貞治郎が亡くなり、五歳で立原家の家督を継いでいる。母については、既に注で述べてある)。本篇は、道造の、所謂、「物語」の一つのシークエンスとして書き綴った試験的な断片であろうと推定される。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに拠れば、『原型はノート中にある(無題一篇。異文)』とある。「第六卷 雜纂」のここのそれを、【初稿】として示す。但し、この初稿は、八行であるが、二フレーズが平衡に二行配置されて、頭に二行に亙って丸括弧が、その上に、一つ、配されてある。ここでは、「┌」「└」を当てておいた。初稿は無題で以上のような特異記載であるので、無題のままで、示さなかった。]
【初稿】
┌誰かゞ步く
└誰かゞ急ぐ
┌何も知らない
└休んでゐよう
┌草原のそれも
└ちひさな樹かげ
┌風が吹く
└葉がうたふ
【決定草稿】
(誰かゞ步く⋯⋯)
誰かゞ步く 誰かゞいそぐ
何も知らない 休んでゐよう
草原それもちひさな樹かげ
風吹く 葉がうたふ
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに拠れば、『原型はノート中にある(無題二篇。異文)』とある。「第六卷 雜纂」のここからのそれを、【初稿】として示す。但し、次の草稿「さがすのはよさう」は、この初稿の二篇のモチーフをチョイスして、独立したものと明らかに採れるので、特異的にカップリングした。]
【初稿】
(もうそばにゐないぼく⋯⋯)
もうそばにゐないぼく
ひねくれた古靴よ
おまへは村外れの木ばかり照らす
いちばん不幸な太陽だつた
さがすのはよさう
天が 小さな部屋を與へたから
ほんのしばらく
光つて消えるこの空を眺めよう そこから
かなしい色をうつすぼくの眼に
うその山羊の脊骨よ
さがすのはよさう
もうそばにゐないぼく
おまへひとりが取り殘されて
【決定草稿】
(もう傍にゐないぼく⋯⋯)
もう傍にゐないぼく
ひねくれた古靴よ
おまへは 村外れの木ばかり照らす
いちばん不幸な太陽でした
さがすのはよさう
もう傍にゐないぼく
尖つた山羊の脊骨でした
藪にかくれた小徑でした
おまへは⋯⋯
もう傍にゐないぼく捨てゝ行かう
[やぶちゃん注:決定草稿の「傍」は初稿に従い、「そば」と読んでおく。]
(さがすのはよさう⋯⋯)
さがすのはよさう
天が小さな部屋を與へたから
ほんのしばらく 光つて消える
この空を眺めてゐよう そこから
かなしい色をうつす僕の眼に⋯⋯
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに拠れば、『第一行原記「消えさうな 村のひるすぎ」』とあり、編者はそれを、「村のひるさがり」と変えてある。「すぎ」に傍線が引かれているから、道造は表現に不適切なものと認識し、編者が勝手に「さがり」と変えたとしか考えられないが、これは、僭越以外の何物でもない。先行する別ヴァージョンが存在するのなら、文句はないが、そういう記事もない。私は、認めない。原記で示す。]
晝
消えさうな 村のひるすぎ
櫓の下で白い犬が待つてゐる
僕だらうか 風だらうか
搖れながら 搖れながら⋯⋯
[やぶちゃん注:「櫓」「火(ひ)の見櫓(みやぐら)」のことであろう。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに拠れば、この「神牧場・I」から「誰かゞ步く」までの七篇は、原稿の筆跡・紙の通性から同時期の創作であり、また、大部分が初稿を『昭和九年夏ノート』に載せることから、『制作時は同年8月中、下旬と想定する』とある。なお、この「神津牧場」は、初稿である『昭和九年夏ノート』の冒頭(「第六卷 雜纂」のここ)では、三篇(ローマ数字でパートが分かれる)が「神津牧場」のセットで一緒に記されているので、纏めて示すこととした。【決定草稿】は「I」は初稿と同文で、「II」・「III」は改作されてある。特に「II」は大きく異なる。なお、「II」の標題の「塲」はママである。]
【初稿】
神津牧場
I
馴染まないランプのあかり ぼくの心
窓から 雲が流れこむ
牛が鳴いたら 牛が鳴いたら
膝かゝへ 眼をとぢる 眼をひらく
II
降りこめて ぬかるんだ道を
すねて牛がとまる
牛追ひがそれを叱りつける
またのろくさと步きだすまで
III
旅の窓
雲ぎれが運ぶ
靑い空
【決定草稿】
神津牧場・I
馴染まないランプのあかり ぼくの心
窓から 雲が流れこむ
牛が鳴いたら 牛が鳴いたら
膝かゝへ 眼をとぢる 眼をひらく
神津牧塲・II
おまへなかに牛が溶け
ぼくのまはりにおまへが溶ける
不思議な術を知つてゐる霧よ
おまへといつしよにさはいでゐたのは誰だらう
神津牧場・III
旅の窓⋯⋯
雲ぎれが運ぶ
靑い空
遠い山
[やぶちゃん注:「神津牧場」群馬県甘楽郡(かんらぐん)下仁田町(しもにたまち)南野牧(みなみのまき:グーグル・マップ・データ)。県境を越えるが、軽井沢に近い。私も、既に述べた通り、小学生の時に軽井沢に避暑した際に遊び、今も、大きなジャージー種の牛の写真を撮って、今も持っている。当該ウィキに拠れば、『長野県北佐久郡志賀村(現在の佐久市志賀)出身の神津邦太郎で』、明治二〇(一八八七)年十二『月に開設された』。大正一〇(一九二一)年『に実業家田中銀之助に譲渡され』、昭和一〇(一九三五)年『に明治製菓(後に明治乳業)に経営権が渡った』。『その後』、昭和二〇(一九四五)年四月『に牧場を買い取った生糸商・石橋治郎八の篤志寄付を受け』、『財団法人化され』、後の二〇一三年四月一日、『公益認定を受け』、『公益財団法人神津牧場となっ』て、現在に至っている。同牧場公式サイトの『神津牧場「はじめて物語」』以下が、非常に良い。ご覧あれ。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに『「i」「ii」はそれぞれ一枚に書かれている。』とある。しかし、底本の行空けには、そうしたニュアンスが反映されていない行空けになっていしまっている。そこで、私が行空け数を変化させておいた。]
初夏
i
燕から薔薇の花へ
――ちいさな手紙
四つ角で電車の車掌と自動車の運轉手が會ひました
そこで帽子をとると二人は挨拶しました。〝今日は〟つて⋯⋯
しばらくして別れたのですが そのときはもうそよ風が吹いてゐました
薔薇の花から燕へ
――その返事
それからわたしは咲きました
お手紙ありがたう おまへは摘むでせう 服の飾りにするために わたしの輕い花びらを
ii
こんなお天氣のよい朝は
日除屋さんを呼んで來よう
風がシヤボンを塗りました
僕ら一しよに話をするために
《まだバラは咲きません
《眞珠色の靄つてほんとですね
それから僕らは出かけます
空は大きな日除です
[やぶちゃん注:「《」の「閉じる」がない用法はママ。
「日除屋さん」「ひよけやさん」。]
*
これより、昨年、たった一輪しか見られなかった河津桜をリベンジするために――これより閉店敬白
立原道造草稿詩篇 病
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、『昭和9年4月20日付、國友則房宛書簡(第五巻所収)中に「未定稿(詩集《風景詩集》より)として異文がある。』とあるので、当該箇所を視認して、起こした。本草稿は昭和九(一九三四)年四月から五月頃と想定されているので、國友宛の方を【初稿】と措定して、前に置いた。完成度から見て、この措定は間違っていないと思う。]
【初稿】
《病》
背中の破れた木曜日よ
僕が 死に挨拶したばつかりに
死の友だちは僕を嫉(ソネ)んで意地惡をする
(夜は黑い掌で金曜日にしてしまふ)
僕は熱を出すだらう
未定稿(詩集《風景詩集》より)
【決定草稿】
病
背中の破れた木曜日よ
僕が死に挨拶したばつかりに
死の友だちは僕を嫉んで意地惡をする
僕は熱を出すだろう
金曜日のやつて來るのを眺めながら
それから僕はうは言をいふだらう
曆が僕を裏切りはしないかと
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、別な用紙に初稿があり、本篇の第三聯以降が異なるとして、その異文部分のみを引用している。そこで、それに則り、【初稿】として示し、その後に、この【決定草稿】を示す。また、注の最後には、『物語「Ⅱ雲の女・詩人の出發のこと」の冒頭詩は本篇のヴァリエーションと考えられる。』とあったので、これを、【ヴァリエーション・物語「Ⅱ 雲の女・詩人の出發のこと」の冒頭詩】として、同全集の「第三卷 物語」の当該部を視認して示した。なお、最後のそれは、詩篇から一行空けで、『⋯⋯呟きながら、詩人は步いてゐる。』の独立行で始まっている。]
詩人がうたふ「春の唄」
町中の窓のところに
色鉛筆を削りながら
口笛吹き吹き風が行く
もう忘れてしまふ あの日向を
さあ出かけよう 笑ひながら マントを脫がう
けむつた春に挨拶するために
さあ出かけよう 笑ひながら
[やぶちゃん注:「日向」は「ひなた」と訓じていよう。]
【決定草稿】
詩人がうたふ「春の唄」
土曜日に切花持つて
帽子の庇ひからして
春は遊びにやつて來る
もう忘れてしまふ 北風を
町中の窓のところに
色鉛筆を削りながら
口笛吹き吹き風が行く
もう忘れてしまふ あの日向を
さあ出かけよう
おもいマントは脫ぎすてよう
けむつた春に挨拶するために
[やぶちゃん注:「庇」「ひさし」。]
【ヴァリエーション・物語「Ⅱ 雲の女・詩人の出發のこと」の冒頭詩】
土曜日の春は春のうちでいちばんよい春だ
みんなであそびにやつて來る
けむつた帽子に挨拶するために
それからあとは忘れてしまふ
もう唄なんか忘れてしまふ
[やぶちゃん注:この物語「Ⅱ 雲の女・詩人の出發のこと」は同巻巻末の注記によれば、昭和九(一九三四)年三~四月制作の作品である。一方、先行する二稿は、注記によって、同じ昭和九年三月頃に想定されてある。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、先の草稿で組詩の「冬」の二稿、とある。]
冬
僕のマントは肩がすこしやぶけてゐる。步いてゐると、太陽がそこへとまつて、蝶のやうに僕の身體を覗きこむ。僕の部屋の小さな季節のにほひがありはしないかと。だが、そのせいか、
夜、寢間着に着換へながら、僕はいつでも日なたの町の風のにほひを思ひ出す。
[やぶちゃん注:「寢間着」は「ねまき」であるが、パジャマを想起してよいであろう。ブログ「ジャパンナレッジ」の「知識の泉」の小学館「日本国語大辞典」第二版の編者であられる神永曉(かみながさとる)氏の『 第291回 「寝巻」と「寝間着」』の解説が、流石に凄い! 全文を引用したいが、気が引けるので、ポイント部分を引用すると、但し、『この表記は当て字で、「寝巻」が本来の表記だったと思われる。室町時代の国語辞書『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』にも「寐巻 ネマキ」とある。「寐(び)」は、ねる、ねむるの意である』。『「ねまき」の語源はよくわからないのだが、江戸時代の国語辞書『俚言集覧(りげんしゅうらん)』に「寝纏の義」とあるように、寝るときに体に巻きつける衣類という意味があったのかもしれない』。『「寝間着」のほうは比較的新しい表記で、おそらく「寝間(=寝室)」で着用する衣類という意識で生まれたものであろう。古い用例はあまり見られずほとんどが明治以降のものである』。『たとえば、樋口一葉の『にごりえ』(1895年)の中にも、「これは此子の寝間着の袷(あわせ)、はらがけと三尺(さんじゃく)だけ貰って行まする」とある。「袷」は裏地のついている衣服のことで、貧しさゆえ就寝時に着る物はこれしかなかったのかもしれない』。『「寝巻」と「寝間着」の使い分けは厳密にはないと思われるが、「寝巻」は一般に浴衣(ゆかた)の形式の和服のものをいい、「寝間着」のほうはもっと広く室内着のようなものも含めて呼んでいるかもしれない』。『さらに表記に関して細かなことを言えば、「寝巻」だと語の構成は「ネ・マキ」だが、「寝間着」では、「ネマ・キ」になってしまう。また、「寝間着」の読みは「ネマギ」になる方が自然かもしれない。』とあった。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、直前の「(大きな空洞の⋯⋯)」と同じ紙に記されている、とある。内容的にも親和性がある。]
夕暮の雲に
まちがへたまゝの散步道
消えてしまつたとほい後悔
あゝ けふも
おまへが誘ふそらだのみ
[やぶちゃん注:「そらだのみ」ネイティブでない読者のために注すると、「空賴み」で「頼みにならないことを頼みに思わせること・あてにならない期待をさせること」の意で、古語であり、平安時代中期に既に使われている。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこには、『表題に拠り、『散步詩集』に収録されるべき「悲歌」のヴァリエーションと考えられる。』とある。現在知られている彼の『散步詩集』は、私の「散步詩集 (全) 立原道造」を見て戴ければ判るが、「悲歌」という詩篇は存在しない。
さて、読者の中には、この「散步詩集」が出版社から発行された詩集であると勘違いしている読者がいるかも知れないが、リンク先の私の冒頭注で示した通り、『底本の杉浦氏の解説によれば、原本は手書きで昭和七(一九三二)年から翌年の、第一高等学校時代(満十七から十九歳)にかけて詠まれた詩篇で、『発行所人魚書房と記して、友人に贈ったもの』とある』とある通り、これは、道造が手作りで作成した私家版なのである(私は、幸い、先年、連れ合いの療養がてら、軽井沢に遊んだ際、「軽井沢高原文庫」で現物を見ることが出来た)。「立原道造記念会」公式サイト内の「風のたより No.4:立原道造作品・本文復刻『散歩詩集』の紹介」を見られたいが(復刻版画像他有り)、『復刻版『散歩詩集』(神保家所蔵本)の原本は、1933』(昭和8)『年の夏に制作されたもので、形状は、一枚漉耳付鳥の子紙に濃淡8色で手書きされ、4詩10葉が未綴のまま耳付和紙の畳紙に収められています。ただし、目次に記載されている第五詩「悲歌」の本文が欠けています。』と、この「悲歌」の脱落が解説されている。而して、本底本の『散步詩集』の「編注」の『『散步詩集』 神保幸太郎所蔵本』(ここと、ここ)を見ると、同詩集には、『目次として青、赤、緑、黄、黒色絵具で右より、「散步詩集/内容・見出し/魚の話/村の詩・朝・晝・夕/食後/日課/悲歌」と縱に列記した一葉』があるとあり、そこでは、『制作時』(これは詩の創作ではなく、手作り詩集の制作の意である)『は昭和9年1月4日付、杉浦明平宛書簡に拠り、昭和8年12月下旬と想定する』とある。さらに、『なお神保本とは別に、テキストと同じ用紙で絵入りの「村の詩・朝」「同・夕」および後出「草稿篇」の「口笛を吹いている散步者よ」と「噴水」が立原家に遺っている。』とある。そうして、問題の「悲歌」について、『本テキストの構成は目次に詩五篇を示しているが、どうしてか「悲歌」の本文を欠いている。これを埋めるものとして、「散步」と用紙・体裁から「口笛を吹いてゐる散步者よ」』(「立原道造草稿詩篇 口笛を吹いてゐる散步者よ」を見よ)『をそれと考えることが出来ないわけではないが、決定的裏付けが見当らず、ただここで言えることは後出「草稿篇の「悲歌 第三』(ここの以下がそれ)『のモチーフに関わるものであろうということだけである。』とあるのである。]
悲 歌 第三
人間はときどき死んでゐたり食事をしたりした。ランプをつけるとそのあかりの下でたのしさうにほゝゑみあつたり編物をしたりした。
僕はいつか以前にひとりの少女を知つてゐた。その人は脣といふもので何かやさしい言葉をつぶやいた。それから僕によいものをたくさん與へた。あゝ、いま僕はおぼえてゐる。その少女は人間だつたと。
[やぶちゃん注:「ひとりの少女」これは、金田久子である。底本同全集第六巻の「年譜」に拠れば、道造満十四歳(彼は大正三(一九一四)年七月三十日生まれ)の昭和三(一九二八)年十一月三日に『初めて』『同級生金田敬の家を訪ねて、金田の妹久子(小学校六年生)を知り、ひそかな思慕を寄せるようになる。』とある女性である。昭和四年の項に、『この夏ころから、翌五年にかけての一時期、級友金田敬らと麻雀に熱中する。と同時に金田の妹、久子に対する思慕の情がいよいよ高まる。「をとめあり。/麻雀の牌もて坐り居し/かの姿をば我は忘れず」(「葛飾衆」)。』とあり、昭和五年三月二十九日の条に『金田敬の家を訪問。久子か顔を見せなかったので失望する。』とし、同年六月の条に、『十二日、久子に京都で買った絵封筒を送る。十八日、久子から礼状をもらう。』、同『十月、〈久子への愛〉を記念する自選第一詩集『水晶簾』は、前年の十二月ごろから執筆され、このころまで書きつがれたものと思われる。所収作品は、総じて白秋の影響下に成った詩群である。』とある。これは、同全集第六巻の『「水晶簾」詩稿 山木祥彥自選第一詩集 昭和四年十二月――五年十月頃』がある。「山木祥彥」は一高時代に短歌を投稿する際に使用していた雅号である。それに先立つ、『自選 葛飾集 山木祥彥自選第一詩集 昭和三年十二月――昭和四年十一月頃』の『葛飾集 (昭和四年二月より八月に至る歌)』のここに、久子を詠み込んだ、
*
片戀は夜明淋しき
夢に見し久子の面影
頭にさやか。
*
があり、「葛飾以後」のここに、
*
○心より久子を慕ふ我が心
常に夢みむ。――
いかなる夜にも。
*
と、ここに、
*
ゆくりなく
久子とあひしかへりには
中空の月のかげさやか。
*
と、ここに、
*
戀すてふ我名は悲し。
我が思ふ久子も知らず
ひとり苦しむ。
*
がある。他にも、彼女を詠み込んだ詩篇があるが、正直、私には、面白みも何もないので(そもそも私は短歌が嫌いなので、以上も拾うのが苦痛であった)、見たい方は、御自分で検索に「久子」「ひさこ」を掛けて見られたい。悪しからず。この一篇に、朝三時から六時間ばかり、やり続けてしまった。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]
室內
貝殼のなかで
窓ばかり思ひ呆け けふ一日
くらしてしまつた
あかりをともすと
ほら 指先でおまへが眼ばたきをしてゐる
《マンマン! いいばんよ
誰か窓でしやべつて行く
本の頁に
ほら おまへがのこした指紋がその言葉をきいてゐる
[やぶちゃん注:第二連の「《」の「閉じる」がないのはママ。
「思ひ呆け」これは「おもひほうける」と読み、歴史的仮名遣でも、かく、読む。
「眼ばたき」は「まばたき」であるが、一般には、「瞬き」で「まばたき」と表記するのが普通であり、かく表記するのは、通用表現ではない。
「マンマン」これはフランス語の「母」=“maman”の音写である。道造は、この頃、独自にフランス語の勉強をしていた。ただ、フランス語のそれは音写としては、現行では、圧倒的にアルベール・カミュ(Albert Camus 一九一三年~一九六〇年)の「異邦人」(‘ L'Étranger’ )冒頭の“Aujourd'hui, maman est morte.”(「今日(きょう)、ママンが死んだ。」)で人口に親炙している。但し、同作は一九四二(昭和一七)年五月十九日に発表した作品であり、道造の没後三年後のことである。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに記された編者の独立詩篇とした推定を、良し、とした。但し、前の「(かなしみは⋯⋯)」の詩篇との饐えた臭いの通性から、詩篇的イメージに強い関連性を嗅ぎとるものでは、ある。]
(とほい外國の⋯⋯)
とほい外國の樂屋町をさまよひ步いて、或る日僕は不思議な香料や屍の腐る藥のにほひを嗅ぎまはつた。
僕の靴はすりきれて底がやぶれた。行きつくとぼうぼうとした海があつた。僕は口笛を吹きながら身を投げた。一しよにだらしない形の形の綠色の魚が沈んだ。
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。
((かなしみは⋯⋯))
(かなしみはなかつたさうな)
葬列のやうにはれやかに
町すぎるよろこびに群たちだ!
あまりを消せよ 窓をとざせ
おまへの部屋で その薄明(うすらあかり)は
おまへに 眼鏡をかけさせる
おまへは見るだらう 圓い頭を
おまへの名を呟いた人生を
(かなしみはなかつたさうな)
日が暮れれば靄がひろがり
日なたには雜草がしげり
みんな正しい一日だつたと
おまへは信じるがいい。
(もう かなしみはなかつたさうな)
[やぶちゃん注:私は、一読、偏愛するベルギーの画家ジェームズ・アンソール(James Ensor 一八六〇年~一九四九年)の死の匂いを漂わせた仮面たちの絵を思い出させた。御存知ない方に、グーグル画像検索“james ensor paintings mask”をリンクさせておく。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、『生年を一歳とする数え方では、立原の二十歳は昭和8年(一高在学最終学年)に当たる。』とある。則ち、この底本の前記草稿詩篇の底本の順列は、必ずしも時系列に従っては、いないのである。これは、読者は、道造が軽井沢体験をしているか、未体験であるかの違いが、問題になることに、注意されたいということである。但し、「立原道造記念会」公式サイト内の「立原道造略年譜」に拠れば、彼が軽井沢に初めて滞在したのは、昭和九(一九三四)年の『夏、初めて軽井沢を訪問し、以後、毎夏、信濃追分の油屋に滞在する。』とある。しかし、実は、同年の、その項の前に、『東京帝国大学工学部建築学科入学。自宅の居室を屋根裏部屋に移す。」とあるのが、本詩篇に関わって、私には強く着目されるのである。則ち、この詩篇の「この部屋」というのが、素直に読んだ時、強い違和感を与えるからである。彼が、それまでの家の自室から、別なところに「部屋」を「屋根裏部屋」に移した後であったとすると、その違和感が、完全に解消される、と、私は感じるからである。寧ろ、「二十歲」は、近現代の成人としてのそれであり、以上の編者のように、これを数え年の意味ではない、母から距離を置いた――一己の存在のニュアンスで用いているのだ――と採るべきではなかろうか? 識者の御叱正を俟つものである。]
二十歲
或るとき僕がかなしさうな顏をするから母はこの部屋へはいつて來る。すると僕は見てしまふ、母の顏にある耳や脣を。⋯⋯いつか母はもうゐない。この部屋に母のにほひをのこしなながら、影法師を忘れながら、もう大丈夫といふやうに。けれど、母よ。いま僕が見てゐるのは、あなたのために形のわからなくなつたそのかなしみと、書き損じたまゝくらした他人(ひと)のくらし! あなたはそれなのに安心してランプのかげに僕の着物をお裁縫する。
[やぶちゃん注:個人的には、標題の「二十歲」は「はたち」と読みたい。
「母」すでに注で述べたが、道造は、母とめさんの存命のうちに、結核で逝去している。道造が母を詩篇で語る際、ある種の有意な翳りが含められてあるが、それが、如何なる道造の内心にある母存在(母意識)と、どのような関係するのかは、私自身、道造の父母についての評論を全く読んでいないので、不明である。悪しからず。因みに、底本全集第六巻の詳細な「年譜」を見ても、そうした記載は、私には読み込めなかった。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、原稿は『《ハガキ判耳付局紙》』(「はがきはん/みみつき/きょくし」と読む)に書かれてある、とある。
この「ハガキ判耳付」とは「手漉き和紙耳付き楮葉書」を指し、この場合の「耳」とは、表現の印象とは異なり、機械的に切ったような直線の「耳」ではない、裁断していないそのままの紙端のことを指す。最後の「局紙」は、明治八(一八七五)年に製紙部門である大蔵省抄紙局(おおくらしょうしょうしきょく:現在は「財務省国立印刷局」)に八名の紙漉き工が技術指導に招かれ、研究の結果、新技法による紙幣用紙の製造に成功した。則ち、この抄紙「局」が新たに開発した「紙」を指す。紙質が緻密で、印刷適性と耐久性に優れ、紙幣や株券として高い評価を得ていた高級紙を指す。
以下、『昭和9年10月制作の物語「メリノの歌 第一章」の結びに採用。』とあり、『第一枚目は第二聯で終る。三聯の一行アキは「メリノの歌」に従った。』とある。則ち、底本の行空きは、草稿とは異なるものであることが判明するので、それを、草稿では、復元することとした。
最後に、『ブルー一色で絵と本文を書いている。形態から『散步詩集』制作時と同時と想定される。ここの置いたのは前項「日課」』(私が電子化注した前回の「日課」である)『と同じ理由に拠る。』とあった。されば、絵は画像を見られない分、より原文に近づけるため、【草稿】では、文字をブルーにすることとした。
而して、「メリノの歌」の「第一章」の結びを「決定稿」と捉え、適切と思われる同箇所を最後に示すこととした。底本は、同全集の第二巻「物語」の「メリノの歌」のここである。同「メリノの歌」全篇は、ここから。]
【草稿】
【決定稿(「メリノの歌」の「第一章」の末部分)】
メリノは黒い帽子をかぶつてゐた。それが突然、彼に似合つて見えだした。彼は冬のマントにしづかにしつかり身を包むと、講演に出かけて行つた。
あゝ、こゝでなら、誰でもたのしく日をおくれる。芝生の向うにあかるい建物が、その上に小さな貝殼を浮べたまゝ、誰でもその雲を見さへすれば、あゝたのしく日をおくれる!
メリノは何も見なかつた。ベンチの固い木の上の腰かけたきり、しづかな息をついてゐた。ときどき眼をとぢたりひらいたりした。すると、彼には、心の奥から、今のかなしみとすこしも關係のない消えさうな音樂がひゞくのだつた。
噴 水 の 歌
⦅僕がひとりで噴水を見てゐると
誰かが やつぱりそばにゐる
明るい空が水の上で搖れながら
それで 顏を見合はせて
僕たちはつい一しよに笑つてしまふ
色のついた空が
搖れながら 噴水の頂上で
いつの間にか雲のやうに散つてゐる
僕がひとりで噴水を見てゐると
[やぶちゃん注:標題「噴 水 の 歌」のポイント落ちはママ。詩の冒頭の「⦅」の閉じるがないのはママ。
因みに⋯⋯この電子化を⋯⋯僕の満六十九歳の記念とする⋯⋯]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、特殊な書き方の共通性から、昭和八(一九一三)年十二月の直前に想定される詩篇であり、前の「よい本を讀んだ晩」から「だめな男」の詩群の『中間に置かれるべきであるが』、編集上の規定である『用紙分類上、ここ置いた』とある。さらに、『テキストは一部の一字アキの場所に小鳥や草花の絵を入れているが、印刷実現が困難なので』、『除き、編者の判断により適当に一字アキとした。』とある。また、本草稿は『『散步詩集』中の「日課」の二稿』で、『初稿は『昭和八年ノート』の7月20~28日の詩群中の「日課」』であるとあった。そこで、まず、ノートのそれを同全集第六巻の「雜纂」の当該部の「日課」を【初稿】とし、次に本草稿を【改稿草稿】とし(草稿の画像がないので、私も適当に冒頭の「葉」の字を大きくしただけである)。最後に決定稿である『散步詩集』(リンク先は私の電子化注)の「日課」の当該部を配しておいた。但し、リンク先のそれは、編者杉浦明平氏によって「囀り」にルビが振られているため、底本の全集の当該部で確認し、カットしておいた。なお、この推定時期は、まさに初めて軽井沢に避暑した時期であるから、ここに描かれる自然や村落は、そこである。]
【初稿】
日 課
たそがれ色をしたはがきに、人の寂しい營みを筆で染めては互に知らせあつた。
そして僕はかう書くのがおきまりだつた。――ぼくはたのしい、故もなくぼくはたのしい。と。
きれいな草原があつてそこにはいつもよい日かげができ、蟲などもゐず、小鳥たちの程よい音樂まである。僕はたびたびそこへ行つてた。きつと靑い空や雲の色がうつつて、それで僕はかう書くのがおきまりだつた――ぼくはたのしい、故もなしにぼくはたのしい、と。
【決定草稿】
日 課
葉書に ひとの營みを 筆で染めては 互に知らせあつた。そして僕はかう書くの
がおきまりだつた。僕はたのしい、故もなくたのしい と。
空の下にきれいな草原があつて 明るい日かげに浸され 小鳥たちの囀りを通してとほい靑く住んだ色が覗かれる。僕はたびたびそこへ行つて短い夢を見たり ものの本を讀んだりして 每日の午后を くらした。
郵便配達のこの村に來る時刻で ある
僕の寢そべつてゐる頭のあたりに 百合が咲いてゐる時刻である。
【決定稿『散步詩集』中の「日課」の部分】
日課
葉書にひとの營みを筆で染めては互に知らせあつた
そして僕はかう書くのがおきまりだつた 僕はたの
しい故もなく僕はたのしいと
空の下にきれいな草原があつて明るい日かげに浸さ
れ小鳥たちの囀りの枝葉模樣をとほしてとほい靑く
澄んだ色が覗かれる 僕はたびたびそこへ行つて短
い夢を見たりものの本を讀んだりして每日の午後を
くらした 僕の寢そべつてゐる頭のあたりに百合が
咲いてゐる時刻である
郵便〒配達のこの村に來る時刻である
きつとこの空の色や雲の形がうつつて それでかう
書くのがおきまりだつた 僕はたのしい故もなしに
僕はたのしいと
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]
冬
僕のマントは肩がすこしやぶけてゐる
步いてゐると 太陽が
そこへとまつて 蝶のやうに
身體のなかを覗きこむ
★
穴のあいた靴は重い かなしみのやうに
僕は步きながらそれを見るのがきらひですだからいつも 梢の先の雲や小鳥を眺めては 僕はひとりで散步する
★
疲れて歸つた部屋に ランプのかげで
レモンがしぼんでゐた
★
僕のシヤツは日なたの町の風のにほひを持つてゐる 胡桃色の今日の風の
[やぶちゃん注:第二聯の二行目の「僕は步きながらそれを見るのがきらひですだからいつも」の「きらひです」の後に一字空けがないはママである。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]
(何かが掌を⋯⋯)
何かが掌をおいてゆくと
この悲しみが僕らにのこる
僕は何を信じよう
こんなに爐が赤く燃えてゐると
僕の頰もこんなに赤く燃えてゐると
どうして僕はお前に知らせられよう
お前の指はつめたくすきとほり
僕のたよりをあそこで待つてゐるのに
僕にはそれが見えるのに
[やぶちゃん注:注記には、『第一聯は物語「間奏曲」(昭和9年3月制作・第三巻所収)に採用。』とあった。その「間奏曲」は同巻のここからで、当該箇所はここ。表記に違いがあるので、参考のために、前後の部分を入れて電子化しておく。
*
彼の過去とすこしも似てゐないこの部屋の秩序。――煤けた壁と、丸太のまゝむき出しにさう高くない天井と、部屋の一隅に金具の錆びた暖爐と。そこには彼らしいものは何一つありはしなかつた。こはれかゝつた椅子や木のテーブルの彫りつけてあるハアトの型だの頭文字は彼のものではありはしなかつた。それなのに彼の考へに戾つて來る昔の部屋は何だろう。
⋯⋯別れた日にあの部屋の卓子の上には書きさしの詩があつた。
君が掌をおいて行くと
このかなしみが僕らにのこる
僕は何を信じよう
こんなエレジイの一片があれにはたしかに書いてあつた。あれは一體どうしたかしら。出來てはゐなかつたがもうそのつゞきを書くことは出來ない。目にはありあり見えてゐてもその部屋は彼からずつととほいのだ。
二度と歸れないといふ考へは村の旅行でもちつとも信じられなかつた。この部屋にゐる自分にはそれがすこしは信じられることだけれど、あのときはまるきり信じられなかつた。
*
この引用内の「卓子」は「テーブル」と読んでいよう。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。]
(六)寒天の說
寒天は本邦にて、菓子職(くわししよく)、及び、割烹家(りやうりか)の用に供し、缺く可らざるの品(しな)たり。加之(しかのみならず)、海外へ輸出する水產物の中(うち)にて、重要のものとす。此品(このしな)は、石花菜(てんくさ)を煮て、凝(こヾら)せし瓊脂(ところてん)を寒天(かんてん)に曝(さら)して、凍(こヾら)せたるものなり。
[やぶちゃん注:「石花菜(てんくさ)」アーケプラスチダ界 Archaeplastida 紅色植物門紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae に属する海藻類の総称。私の電子化注では、複数あるが、まんず、かなりの拘りで注をやらかした「大和本草卷之八 草之四 海藻類 心太 (ココロフト=トコロテン)」がよいであろう。転写すると、膨大になるので、リンクに留める。]
「漢語抄」・「和名抄」に『大凝菜(こヽろふと)』あり。「本朝式」にハ、『凝海藻(ぎやうかいさう)を『古留毛波(こるもは)』と訓ず。「延喜式」に、上總(かずさ)より『凝海藻(ぎやうかいさう/こるもは)』、阿波より『凝海菜(ぎやうかいさう/こるもは)を貢獻す』とあり。又、同書、「主計式諸國輸調(かぞへしきしよこくゆてう)」に『凝海藻(ぎやうかいさう)を奉(さヽ)げたる事、每國(まいこく)四十斤(しじうきん)[やぶちゃん注:二十四キログラム。]、内膳の所須月科(いかよるつき)四斤八兩(しきんはちりやう)』とあり。「賦役令(ふやくれい)」の輸雜物(ゆざうぶつ)の部にも、『凝海藻(こるもは)一百二十斤[やぶちゃん注:七十二キログラム。]』を載(のせ)たり。然(しか)るに、「大和本草」に『石花菜(せつくわさい)』、今、按ずるに『心太(こヽろぶと)』なるべし。『國俗、『ところてん』と稱す。』とありて、寬永の頃には、『ところてん』の名も、ありて、此漢名に充(あて)たり。是より、さき、慶長・元和の頃には、是等の稱なかりしと見へ[やぶちゃん注:ママ。]、「多識篇」には、『石花菜は南蠻美留(なんばんみる)なり。』と、せり。此他(このた)、貞享(ていけう[やぶちゃん注:ママ。「じやうきやう」が正しい。])以後の書には、『石花菜』を『こヽろぶと』又は『ところてんくさ』と訓せり。「書言字考」・「和漢三才圖會」の『石花菜』の部に『小凝菜(こヾりくさ)』の名を載せたれども、是は「漢語抄」の『小凝菜(せうぎやうさい)』、「崔氏食經(さいししよくきやう)」の『海髮(かいはつ)』にして、「倭名鈔」に『以木須(いきす)』と訓じ、「延喜式」に、志摩より貢獻する所の別物のものなり。而して、近世に至りて、一般に、『石花菜』の字を用ひ、俗に『天草(てんくさ)』、『寒天草(かんてんぐさ)』と稱し、又、『ぶとさう』・『ぶとのり』といふ地方もあり。また「和名鈔」に、俗に『心(しん)』・『太(たい)』の二字を用ひ、『古々呂布止(こヽろぶと)』と、いひ、「庭訓往來(ていきんわうらい)」にも、『西山(にしやま)の心太(こヽろぶと)』とあるを、『こヽろたい』、又、『こヽろてい』と訓し、『こゝろてん』『ところてん』と轉訛(てんくわ)したり。此『ところてん」を畧して『てん』といふより、『寒天』、或(あるい[やぶちゃん注:ママ。])は『干天』の名あるに至れり。然(しか)るに、これに充つる漢字なきにより『凍瓊脂(とうけいし)』と名づけたるは、「製品圖說」を編むの時に、あるなり。但し、淸俗は『洋菜(ヤンツアイ)』と稱せり。
[やぶちゃん注:『「漢語抄」・「和名抄」に『大凝菜(こヽろふと)』あり』これの「漢名抄」は「和名類聚鈔」の孫引きである。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の「卷十七」の「菜蔬部第二十七」・「海菜類第二百二十六」の当該部を視認して、推定訓読して示す。
*
大凝菜(コヽロフト) 「本朝式」に云《い》はく、「凝海藻は【「古留毛波(こるもは)」。俗に、「心太」二字を用ひて、「古々呂布止」と云ふ。】、「楊氏漢語抄(やうしかんごしやう)」に云はく、『大凝菜』。」と。
*
而して、「漢語抄」は、ここに出た「楊氏漢語抄」で、別名「桑家漢語抄」(そうかかんごしょう)とも言い、奈良時代(八世紀)の成立とされる漢語辞書であるが、散佚して残っておらず、「和名類聚鈔」等に逸文で残るのみである。
「本朝式」「延喜式」に同じ。当該ウィキによれば、延喜五(九〇五)年に醍醐天皇の命により、藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は』、彼の弟『藤原忠平が編纂に当たった』。後、「弘仁式」・「貞觀式」(じょうがんしき)と、『その後の式を取捨編集し』、延長五(九二七)年に完成した』。『その後』、『改訂を重ね、康保』四(九六七)年『より施行された』とある。
「主計式諸國輸調」「延喜式」の巻二十一から二十三に該当する箇所で、「主計寮」(国の組織の財政・税収を担当)が管轄した部署を指し、諸国の調・庸・中男作物(ちゅうなんさくもつ:令制で、中男(「養老令」で十七歳以上二十歳以下の男子を指す。「大宝令」では「少丁」(しょうてい)と称した)に課した租税。養老元(七一七)年以降、調副物及び中男の「調」を廃止して、中男の「雑徭」(ぞうよう:令で定められた歳役のほかに、国司によって公民に課せられた労役。年齢を分けて、土木工事などに従わせたもの)により、中央官司や封主の必要物品を調達させた)などの物品貢納に関する規定を記した重要部分。国家的な食料や特産品の生産・物流・保管に関する古代法典の基礎史料。
「内膳」内膳司。宮内省に属し、天皇などの食事の調理・毒味などを司った。奉膳(ぶぜん)二名・典膳六名・令史一名・膳部四十名などから構成された。長官である奉膳には高橋・安曇両氏がなり、二氏以外の長官の場合は内膳正(ないぜんのかみ)と称した。
「所須月科(いかよるつき)」一ヶ月に必須な資材料。
「四斤八兩」二・五五キログラム。
「賦役令(ふやくれい)」東洋文庫版では、校訂者によって『〔『令義解』第二巻〕』という挿入附注がある。
『「大和本草」に『石花菜(せつくわさい)』、今、按ずるに『心太(こヽろぶと)』なるべし。『國俗、『ところてん』と稱す。』とあり』先に紹介した「大和本草卷之八 草之四 海藻類 心太 (ココロフト=トコロテン)」を見よ。
「多識篇」本草辞書。林羅山編。全五巻。明の林兆珂が「詩経」中の動植物を分類して注を施した「多識篇」に倣ったもので、「本草綱目」から物の名を抜き出し、万葉仮名で和訓を施したもの。「羅山林先生文集」の「多識編跋」に、「壬子之歲本草綱目を拔き寫して附するに國訓を以てす」とあり、慶長一七(一六一二)年の著述であることが判る。配列は「水部門」から「蔴苧(おま)門」までの部門別。版本に寛永七(一六三〇)年古活字版さ三巻本があるが、翌寛永八年に、諸漢籍から、異名を抜き出して追加し、万葉仮名に片仮名ルビを施し、五巻に仕立て直した整版が出た。以上は国立国会図書館デジタルコレクションの解題・抄録に拠ったが、そこには、当館本は慶安』二年(一六四九)『版で、寛永』八『年版の覆せ彫りである。本草学者白井光太郎の「白井氏蔵書」の印記あり』とあり、当該部はここの六行目で、「菜部」第二に配されてある。推定訓読すると(「留」の字は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、近い異体字である「畱」で示した。「異名」は黒地で白抜きだが、太字に換えた。また、注意されたいのは、「瓜」は漢字の「うり」ではなく、「爪」の異体字であることである。
*
石花菜【今、案《あんず》るに「菜南蛮美畱」。】異名璚枝(キツシ) 雞瓜菜(ケツ《サウナ》)
*
「貞享」一六八四年から一六八八年まで。徳川綱吉の治世。
「書言字考」近世の節用集(室町から昭和初期にかけて出版された日本の用字集・国語辞典の一種。「せっちょうしゅう」とも読む。漢字熟語を多数収録して読み仮名を付ける形式を採る)の一つである「書言字考節用集(しょげんじこうせつようしゅう)」のことか。辞書で十巻十三冊。槙島昭武(生没年未詳:江戸前中期の国学者で軍記作家。江戸の人。有職故実や古典に詳しく、享保一一 (一七二六) 年に「關八州古戰錄」を著わしている。著作は他に「北越軍談」など)著。享保二(一七一七)年刊。漢字を見出しとし、片仮名で傍訓を付す。配列は語を意味分類し、さらに語頭の一文字をいろは順にしてある。近世語研究に有益な書。
『「和漢三才圖會」の『石花菜』の部に『小凝菜(こヾりくさ)』の名を載せたれども、是は「漢語抄」の『小凝菜(せうぎやうさい)』、「崔氏食經(さいししよくきやう)」の『海髮(かいはつ)』にして、「倭名鈔」に『以木須(いきす)』と訓じ、「延喜式」に、志摩より貢獻する所の別物のものなり』私のサイト版の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「ところてん 石花菜」を見よ。しかし、そこでは、私は、この部分を問題としていない。近いうちに、補注する。なお、ここで河原田氏が「別物」と指摘する種は、現在の「イギス」で、
紅藻綱スギノリ目イバラノリ科イバラノリ属カズノイバラ(鹿角茨) Hypnea cervicornis
を指す。★而して、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見ても、本種を「寒天」に加工するという記載は、ない。河原田氏の指摘は正しい。珍しく(失礼)、河原田氏の考証が冴える!
「『ぶとさう』・『ぶとのり』」孰れも、ネット及び国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても出てこないが、「太藻・太草」・「太海苔」と想起は出来る。
「製品圖說」東洋文庫版の編者注に、『『日本製品図説』のこと。明治六年(一八七三)のウィーン万国博覧会、明治九年(一八七六)のフィラデルフィア万国博覧会等、開国後の国際情勢に沿って、『日本製品図説』(内務省蔵板)は、明冶一〇年、高井鋭一の編輯、山中市兵衛緒言、小田行蔵参訂、狩野雅信絵写で出版された。』とあった。
「凍瓊脂(とうけいし)」「大阪医科薬科大学」公式サイト内の「高槻 寒天雑話 其の三【2015年6月8日】高槻 寒天雑話 其の一」に、『寒天発明の経緯はどのような根拠をもって語り継がれているのでしょうか。寒天ハンドブックによれば、「凍(こおり)瓊脂(ところてん)の説(桂香亮著、大日本水産会報告書)」に以下の記述があり、「年一年より盛大に至りし元治初年頃より世の変遷に依り大に盛衰ありと雖も美濃長右衛門なる者は今(明治6年)に於いてこの業を営めり・・・」とあることから、明治6』(一八七三)『年頃に美濃家を訪ねて古文書などを調査しての記述であると思われるので、信憑性が高いとしています。』として、引用がある。これは、全体が講座での講演が元で、全五回に分かれており、非常に有益な内容である。さて、引用を調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの「大日本水產會報告・第十六」(大日本水產會発行・明治一六(一八八三)年六月刊/本登録でないとアクセス出来ないので注意)のここで、当該部を見出せたので、そこから正規表現で引用する。
*
沿革
夫れ凍瓊脂製造の濫觴と唱へ來るや明曆年間島津大隅守幕府へ參勤の途次山城國紀伊郡伏水驛御駕籠町(美濃長左衞門十一世の祖)美濃太郞左衞門なる者方へ休泊ありたりき一日 太郞左衞門石花菜を煮詰め以て膳部の一味に供し其殘余を棄却せしに沍天嚴寒[やぶちゃん注:上記引用では、講演者による『コテンゲンカン』と読みがある。])の候忽[やぶちゃん注:同前で『タチマチ』と読みがある。]氷結しては宛も干物の如き凝質に化せり於是太郞左衞門甚奇異の想ひを起こし百方工夫を運らし形狀(長方形)を作爲し以て瓊脂[やぶちゃん注:底本では、「瓊」の字の(へん)が「月」になっているが、表示出来ない。これは上記引用では「瓊」となっており、これは原著の誤植と断じて、訂した。]の干物と名く食物の一部に置くと云ふ降て[やぶちゃん注:「くだりて」。]萬治年間歸化の僧隱元なる者寒中に製するを以て之を寒天と稱すと云ふ爾來諸國へ販賣し(現今支那に多く輸出す)明和年間迄ハ伏水特有の名產たりしが是より經年同業者增加し遂に二十戶余に及ひ[やぶちゃん注:ママ。]攝、丹地方に廣まる年一年より盛大に至りしが元治初年頃より世の變遷に依り大に盛衰ありと雖も美濃長右衞門なる者は今に於いてこの業を營めり而して我京都府管內即ち城丹二國にて製造する高左の如し但五十年を平均にし其槪略を擧ぐ
山城製造高凡十余萬斤
此代價凡金壹萬余圓
丹波國製造高凡二十余萬斤
此代價凡金三萬余圓
製造法
元種石花菜を淸川に線滌し日光に晒すこと凡一週間にして後之を石臼に入れ水に浸して搗くこと三四百杵(石花菜の善惡に依りて杵數の不同あり)搗終て之を大籠に入れ又水に浸し大杓を以て之を攪拌し[やぶちゃん注:妙な切れ方であるが、ここで、製造法は終わっており、以下、突如、明治元年から八年までの国外への輸出額・代価の話に移っている。]
*
「洋菜(ヤンツアイ)」白水社「中国語辞典」に、「洋菜」があり、『yángcài』(イァン・ツァィ)で、『⦅通称⦆名詞 寒天.≒琼脂,石花胶,洋粉⦅通称⦆.』とあった。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこには、『「ゆめみこ」(昭和11年3月刊)発表の「切拔畫」(第一巻所収)の初稿。』とあった。そこで、同全集の『第一卷 詩集I』の当該部を【決定稿】として示した。なお標題は「きりぬきゑ」であろう。なお、『ひめみこ』は短歌雑誌で、道造が第一高等学校に入学した昭和五(一九三一)年、そこで出会った知友松永茂雄が主宰した「ユメミコ会」に立原も参加していた。この雑誌は「新古今和歌集」の再評価をした歌誌として知られ、道造は同科刕の幾つかを現代語訳してもいる。]
切拔畫
日が落ちると 空は着物を脫いで
鳩の時計に《もう夜》とそつと敎へる
ランプから 小さな星が飛び出して
町の部屋たちをめいめいに光らせる
⦅僕の部屋よ おやすみ⦆といひながら
もう子供はひとりづゝ消えて行つた
夜といふのは このはなしです
このかなしみは僕をよろこばす
[やぶちゃん注:二箇所の括弧の使用した表記タイプが、各個で異なるのはママ。発している対象存在(前者は「空」、後者は幻想の「子供」たち)が異なるものだから、論理的には、納得出来る。しかし、初読時には、殆んどの読者は、「何故? 括弧が違うのだろう?」という物理的な反射的停滞が起こってしまうのは明白であり、詩を味わう上では、失敗であると私は思う。]
【決定稿】
切拔畫
日が落ちたので 空は着物を脫ぐと
鳩の時計に⦅もう夜よ⦆とそつと敎へる
ランプから 小さな星がとびだして
めいめいに町の部屋たちを光らせる
⦅僕の部屋よ おやすみ!⦆と
子供はひとりづゝ消えて行つた――
夜といふのはこのはなしです
このかなしみは僕をよろこばす
[やぶちゃん注:初稿の持っていた問題部分が、綺麗に変更されていて、よい。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。
なお、この詩篇の前にある「(かなしみは⋯⋯)」は(ここ)、本ブログ・カテゴリ「立原道造」のここで、既に電子化してある。これは、同カテゴリを創始するきっかけ(創始は当該詩篇電子化の二日後)となったものであるため、追記を添えて、そのままにしておいた。私の偏愛する一篇であるので、必ず、見られたい。]
眠りのなかで
窓から 月がさしてゐた
部屋はぢいつとやすんでゐた
(さうだつた 僕はそれを知つてゐる)
あかりのかげで小鳥が羽搏いてゐた
そこには花粉がキラキラ散つてゐた
さうして 黑い帽子に額をかくし
僕は やさしい顏をしてゐた
僕は 何だか夢を見てゐた
(僕はそれを知つてゐる)
[やぶちゃん注:「ぢいつと」小学館「日本国語大辞典」に拠れば、仮名遣『いは、古くは「じっと」が多く、江戸期から明治にかけて「ぢっと」も多くなる。』とあった。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、ここからの草稿は、昭和八(一九三三)年十一月から翌年の一月頃と想定されるとあった。本詩篇に就いては、『題のみが鉛筆書きで、恐らく跡から付けられたものであろう』とあった。]
よい本を讀んだ晩
ほらね あそこにも日があたつてゐる白い壁
何だか ちらちら搖れてゐる かげろふ
あゝ 明るい過去(持てあましてゐたのに)
お魚のやうにだまつて木が立つてゐる
やさしい生涯の花が咲いてゐる
僕はふるさとへ歸つて行かうね
さうして夜は ランプの下で 笛を吹かうよ
あゝ 明るい未來(持てあましてゐたのに)
何だか ちらちら搖れてゐる かげろふ
川がひとすぢ流れてゐる もう原つぱの夕燒
[やぶちゃん注:「ふるさと」道造は東京都中央区生まれであるが、彼の語る、この「ふるさと」は、そことは思われない。と言って、軽井沢に初めて馴染んだのは、大学在学中の昭和九(一九三四)年七、八月のことであり、そこを比定するわけにも、ゆかない。最も確実ものとしては、「立原道造記念会」公式サイト内の「立原道造略年譜」にある、大一三(一九二四)年十月の項に、『この夏から一高卒業まで、御岳山での避暑をほぼ恒例とする。』とあるのが、ロケ地の有力候補となろう。]
されば、この「ふるさと」とは、詩人が想起した「こころのふるさと」ととるべきものであると、私は思う。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこには、『『散步詩集』中の「村の詩・晝」の初稿。二稿はノート用方眼紙に「晝」と題して飾り字風にペンで本文を筆記してゐる。』として、全文が載り、最後に『(『散步詩集』直前の制作と想定)』とあった。これは、調べてみると、底本の全集の本文としては、正式に載らず、こうした注記内で示していることが、他で(本底本の前の、ここの左丁の上段の「村の詩 朝・晝・夕」の注記)も確認出来た。そこで、これを【二稿】として、再現しておいた。決定稿である『散步詩集』中の「村の詩・晝」は、私の「散步詩集 (全) 立原道造」から、当該部分を含む三連から成る「村の話 朝・晝・夕」の全部を抜粋して最後に置いた。また、注記には、最後に『二稿の第三、四行は物語「夏の死」中に採用している。』とあった。私は、道造の創作物語・小説を電子化していないので、底本の同全集の「第三卷 物語」の「夏の死」の当該箇所(ここ。右丁の後ろから七・八行目)をリンクするに留める。]
【初稿】
(クリスマスのおぢいさん⋯⋯)
クリスマスのおぢいさん
この村の郵便配達
ポオルは咳をしてゐます
ヸルジニイは花を摘んでます
【二稿】
晝
この村の郵便配達
ポオルは咳をしてゐる
ヸルジニイは花を摘んでます。きつと大きな花束に出來るでせう
この景色を小さな箱に入れませう
【決定稿『散步詩集』中の「村の詩 朝・晝・夕」部分】
村の話 朝・晝・夕
村の入口で太陽は目ざまし時計
百姓たちは顏を洗ひに出かける
泉はとくべつ上きげん
よい天氣がつづきます
郵便配達がやつて來る
ポオルは咳をしてゐる
ヸルジニイは花を摘んでます
きつと大きな花束になるでせう
この景色は僕の手箱にしまひませう
虹を見てゐる娘たちよ
もう洗濯はすみました
眞白い雲はおとなしく
船よりもゆつくりと
村の水たまりにさよならをする
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]
ポオルとヸルジニイ
殖民地の空 掌の貝殼!
ポオルとヸルジニイも死ぬでせう
支那の易者が言ひました
黑ん坊は パンを食べ
つぐみは 彼らの巢に眠り
岩の上に 虹がある
さて 足音をしのばせませう
二人の子供は死にました
あまりにひどい夕立だつたから
[やぶちゃん注:「ポオルとヸルジニイ」フランスの植物学者で、作家でもあったジャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピエール(Jacques-Henri Bernardin de Saint-Pierre 一七三七年~一八一四年)が、一七八七年に発表した悲恋小説“ Paul et Virginie ”(現行では一般に「ポールとヴィルジニー」と音写される)。彼が読んだのは生田春月訳(大正六(一九一七)年刊)の「ポオルとヸルジニイ」か、昭和九(一九三四)年岩波文庫刊木村太郎訳の「ポオルとヴィルジニイ」ででもあろうか(リンクは国立国会図書館デジタルコレクション。視認出来る。書名表記から見て生田訳であろう)。嘗ては、よく読まれた恋愛小説で、私も十代の終りに読んだが、最早、その内容も、すっかり忘れてしまっていた。因みに、道造は、この作品が好きだったようで、「鮎の歌 立原道造 (Ⅳ)」と、「散步詩集 (全) 立原道造」でも触れている。なお、注記には、『立原は昭和8年の夏季休暇中、原文で読むことに努めている』とあった。因みに、昭和八(一九三三)年時、道造は第一高等学校理科甲類の最終学年であった。彼は、天文学を志して進学したのだったが、翌年、東京帝国大学工学部建築学科へ入学したのであった。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]
季節
⋯⋯いつのま間にか、秋がそつと卓子の上にのつかつてゐる。そのまはりにのみ夕燒がしてゐる。瘠せた樹木がゆつくり煙草を吸つてゐる。仔犬がミルクを嘗めてゐる。
僕は外へ出たがらない。けれど、
田舍の町へ、森の中の村へ葉書する。
僕には、秋が九月にはじまる、と。
さうして夜は六時にはじまる、と。
だが――。
この黃昏は、曆と時計のいたづらぢやないかしら。
[やぶちゃん注:「卓子」「テーブル」と読んでいよう。但し、私がブログ・カテゴリ「立原道造」で電子化注したものには、「卓子」の漢字も、「テーブル」も使用されていないので、正確な表記は判らない。作家によっては、「テエブル」と表記する場合があるからである。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。この図版の鱶鰭は幾つかの図に縦・横の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りした。なお、これを以って、「鱶鰭の說」を終わる。主に図の補正に、甚だ、時間を食ってしまった(延べ四十四日)が、やって見れば、相応に、いい仕事が出来たと私は思っている。まず、この図を、大真面目に人力で清拭しようという閑人は、僕の後には、恐らく出てこないだろうから、である。]
【図版13】
■「つまくろふか四枚揃鰭」
[やぶちゃん注:ページ上方の総標題。まず、第一に言っておかなくてはならないのは、これは、現代の種である、
✕軟骨魚綱メジロザメ目メジロザメ科メジロザメ属ツマグロ(端黒)Carcharhinus melanopterus ではない
ことである。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。この種は、『インド太平洋熱帯域のサンゴ礁で最も豊富なサメの一つで、主に浅瀬に生息する』。『インド太平洋熱帯・亜熱帯域全域の沿岸で見られ』、『インド洋西部では南アフリカから紅海、マダガスカル・モーリシャス・セイシェル。東部ではインドから東南アジア、スリランカ・アンダマン諸島・モルディブ。太平洋では、中国南部・フィリピンからインドネシア・オーストラリア北部・ニューカレドニアに加え、マーシャル諸島・ギルバート諸島・ソシエテ諸島・ハワイ諸島・トゥアモトゥ諸島のような多数の海洋島にも分布する。いくつかの資料とは矛盾するが、日本からの確実な記録はなく』(☜★)、『日本産とされる標本は実際には台湾産のようであると考えられてきたが、2017年に八重山諸島の西表島から得られた標本をもとに初めて日本での生息が確認された。2019年に黒島研究所も同諸島に属する黒島で夏に幼魚が多く捕獲されていることを確認し』、『標識調査を行っていることを発表した』という記載で明白々である。しかし、ネット上の記事で、この正体を、素人が容易に知り得る記事は、殆んど、ないのである。
では、明治一九(一八八六)年刊の本書に出現した、この正体は何か? それは、私が、本邦の江戸、及び、近代の魚類の異名を確認するに、最も信頼しており、検索も容易な国立国会図書館デジタルコレクションの宇井縫藏氏の著になる「紀州魚譜」(昭和八(一九三二)年淀屋書店出版部刊・三版)のここの右丁の、
『ヒロアンコウザメ 廣鮟鱇鮫 Scoliodon laticaudus (Müller & Henle.)』
で、明らかである(この本を知ったのは、ブログ・カテゴリ『「畔田翠山「水族志」」』の注作業で、である)。そこでは、宇井先生は、
『〔方言〕 ツマグロ(田邊・串本・䀋屋・和歌浦)、ハタグロ(太地)』
とされてある。而して、この「まくろふか」とは、現在の、
メジロザメ目メジロザメ科トガリアンコウザメ属トガリアンコウザメ Scoliodon macrorhynchos の異名
なのである。漢字名は「尖り鮟鱇鮫」である。この学名は、以下で引用するウィキの「トガリアンコウザメ」の学名(シノニムを含む。なお、そこでは、宇井先生の示した Scoliodon laticaudus Müller & Henle, 1838 をトップに掲げている)と一致しないが、サイト「川のさかな情報館」の「トガリアンコウザメ属」で確認したものを示した。但し、そこには最後に、『なお,実際に日本に本種が分布するかは不明である.生息水深はよくわかっていない(Weigmann 2016)』と附記がある)。
以下、ウィキの「トガリアンコウザメ」から引く(注記号はカットした)。『インド洋・西太平洋の熱帯に生息し、大きな群れを作る。体長72cmで平たい吻が特徴。餌は小魚や無脊椎動物。魚類の中では最も発達した胎生。雌は毎年、6か月の妊娠期間を経て6-18匹の仔を産む。人には無害。漁業上の重要種で、IUCNは保全状況を準絶滅危惧としている』。『1838年、ドイツの生物学者ヨハネス・ペーター・ミュラーとヤーコプ・ヘンレによってSystematische Beschreibung der Plagiostomenに記載された。ホロタイプはフンボルト博物館所蔵の42cmの剥製と推定される[2]。属名Scoliodonは古代ギリシャ語skolex(ミミズ)、odon(歯)、種小名laticaudusはラテン語latus(幅広い)、cauda(尾)に由来する』。『形態系統学・分子系統学のデータからは、本種はヒラガシラ属』( Rhizoprionodon :「平頭」)『と共にメジロザメ科の基底群を構成するとされる。さらに、解剖学的な類似は、始新世中期』『に他種から分岐したシュモクザメとの類縁も示唆している。2012年の分子系統解析では、ヒラガシラ属とともにトガリメザメとの類縁関係が示唆された』。『形態』は、『体は小さくずんぐりしており、幅広い頭と非常に平たいシャベル型の吻を持つ。眼と鼻孔は小さい。口角は眼のかなり後方に至り、溝は』、『あまり』、『ない。上顎歯列25-33、下顎歯列24-34。個々の歯は鋸歯のない、細く剣状で斜めの尖頭を持つ。胸鰭は短くて幅広く、第一背鰭は胸鰭より腹鰭に近い。第二背鰭は臀鰭よりかなり小さく、背鰭間に隆起はない。背面はブロンズグレー、腹面は白。鰭の色は体より暗い。最大74cmだが、不確実な記録では1.2mというものもある』。『インド太平洋西部に分布し、タンザニアから南アジアで見られる。深度10-13mの沿岸の岩礁底に生息する。かつては東南アジア・ジャワ島・ボルネオ島・台湾・日本など西部太平洋海域にまで生息するとされたが、2010年の研究結果より、同海域に住む個体群はボルネオトガリアンコウザメであると確認された。近縁のボルネオトガリアンコウザメはマレーシア・スマトラ島・ボルネオ島の河川下流域からも報告があるが、塩分濃度のデータがないため』、『オオメジロザメのように淡水に耐えられるのかは不明である』。『個体数が多い所では、よく大きな揃った群れを作る。餌は主にアンチョビ・サイウオ科・ハゼ・テナガミズテングなどの小型硬骨魚。時折』、『エビ・カニ・コウイカ・シャコなども食べる』。『条虫Ruhnkecestus latipi 、回虫の幼生などの寄生虫が知られる』。『排卵時の卵は直径1mm程度で、直径3mm程度から栄養を母体に頼るようになる。胎盤との結合は卵黄嚢から形成され、特異な柱状構造とガス交換を行う毛細血管網・長い付属物を持つ。胎盤組織は"trophonematous cup"という構造物で子宮壁に接し、母体の血流から栄養が送りこまれる。これは魚類での胎盤性胎生として最も発達したものである』。『雌は年に一度繁殖する。妊娠期間は6か月で出生時は12-15cm。産仔数6-18。雄は24-36cm、雌は33-35cmで性成熟し、それに達するまでに6か月-2年かかると推定されている。寿命は雄で5年、雌で6年』。『人には無害である。刺し網・延縄・底引き網・罠・トロール網・釣りなどで零細・商業漁業共に広く捕獲されている。肉は他魚の釣り餌として、鰭はふかひれとして、粗は魚粉として用いられる。また、肉を氷酢酸で処理し』、『粉末状ゲルとすることで、サプリメント・生分解性フィルム、ソーセージの皮などにも用いられる』。『重要種だが』、『漁業統計データは』、『ない。1996年の報告では、中国市場で、また』、『北オーストラリア漁業で見られる最も一般的なサメだった。インド・パキスタンでも大量に漁獲され、インドのある都市では1979-1981年にかけて年平均823t漁獲されていた。カリマンタン島などで刺し網により混獲もされている。繁殖周期が短く多少の漁獲圧には耐えられるが、繁殖力自体は低いためIUCNは保全状況を準絶滅危惧としている。沿岸性のため、沿岸の開発による影響も無視できない』とあった。]
■「明治十六年
水産博覽會の時、
『廣業商會』出品。」
[やぶちゃん注:これは、図の中央に配されてあるキャプション。
「廣業商會」ずっと前の「河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その13)」の最初の注で解説しておいた。]
■「鱶鰭『つまくろふか』背鰭」
「肥前國《ひぜんのくに》平戸産。」
■「『つまくろふか』胸鰭・左」
「一尺。」
「中央、五寸二分。」
[やぶちゃん注:これは、左側の胸鰭で、まさに裏側の感じが、今までの図中、もっとも正確に描かれている。
「一尺」は、左胸鰭の前方部分に書かれているが、わざわざ、図の中に破線で十字型の指示線が引かれてあるので、ここは、そのスケールであると採っておく。]
■「『つまくろふか』
胸鰭・右」
「一尺。」
[やぶちゃん注:ここにも破線で十字型の指示線が引かれているが、左上から右下に降ろしてあるそれは、前図と異なって、腹部に近い位置に下がっている。しかし、この線の方のキャプションは、ない。この胸鰭の根に近いスケールを書き忘れたものと思われる。]
■「つまくろふか」
「尾鰭。」
「背骨、末《すゑ》。」
[やぶちゃん注:キャプションは逆立ちして記してある。]
「壹尺壹寸。」
「二尺壹寸。」
[やぶちゃん注:これは、同種の複数の実体画像を見るに、これは、背骨の終わりの部分を含んだ尾鰭の切断部を描いたもので、右側が正体位の下方に相当するものと考えられる。]
■「靑ふか」
「背鰭。」
「二個。青。」
[やぶちゃん注:何故か、唐突に、ここにネズミザメ目ネズミザメ科アオザメ属アオザメ Isurus oxyrinchus の胸鰭が置かれてある。意味不明。最後の「二個青」もわからんちん。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。この図版の鱶鰭は一図に縦の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りした。この図版は優れもので、
ネズミザメ目ネズミザメ科アオザメ属アオザメ Isurus oxyrinchus
を例に挙げて、各鱶鰭の等級を、ヴィジュアルに判り易く、子細にビシッと解説している。これを本文で文章に拠って示したとすると、恐らく私は、永久にそれを理解し得なかったと断言出来るのである。逆に、この図のキャプションを判り易く電子化するのは、なかなか大変であった。]
【図版12】
■「あをふか」
[やぶちゃん注:まず、図の上方にアオザメの全体が描かれあり、それぞれの鰭に「鱶鰭」としての等級号がキャプションされている。ここでは、漫然に各「號」を時計回りや同逆回りに列挙しても、判り難い。そこで、以下、等級を降順に示し、その「ひれ」が、どの部位であるかを説明してゆくこととした。]
「壹號《いちがう》」
「壹號」
[やぶちゃん注:これは、二箇所にあるので注意が必要。
一つは、サメの腹部の中央の下の「腹びれ」(二対)を指示している。但し、図の関係上、反対側(右手)のそれは、描かれていない。
一方、サメの腹部の後部の下の「尾びれ」の根から後方に下がっている「尾びれ」の部分のみを指示している。]
「二號《にがう》」
「貳號《にがう》」
[やぶちゃん注:これも、二箇所にあるので注意が必要。
一つは、サメの頭部の終わりの直後に下がっている「胸びれ」(二対)を指示している。但し、図の関係上、反対側(右手)のそれは、描かれていない。
一方、差別化して呉れている「貳號」のそれは、サメの背部頭部の少し後ろにある正統の「背びれ」を指示している。]
「三號」
「三號」
[やぶちゃん注:これは、二箇所にあるので注意が必要。一つは、腹の最も後部の下に一つだけある「尻びれ」を指示している。
一方、サメの背部の「尾びれ」の前方ある「背びれ」の後ろにある「第二背びれ」を指示している。]
「四號」
[やぶちゃん注:これは、尾鰭の内、前の「壹號」相当の後方から分岐して上部に伸びている「尾びれ」部分を指示している。
私には、どの「ひれ」が上品なのかは、よく判らないが、調べたところ、先般、紹介した「フカヒレと中華食材の専門卸 中華・高橋」公式サイト内の「フカヒレ散翅(ほぐし)ふかふか散翅」のページの「部位」が簡潔にして判りが良いと感じたので、見られたい。]
■「甲 毎尾込《まいをこ》ミ
日本産 百斤五十両」
「肉骨ヲ去ル。」
■「乙 毎尾込《まいをこみ》
百斤三十四両」
「肉骨、付《つき》。」
「此《この》甲・乙二鰭ハ、精粗《せいそ》を示
すも、此《これ》にて甲圖ハ、肉付《にくつき》
を、切棄《きりすて》たるも、此《この》乙圖ハ
肉付を着《つ》けたるも、此《これ》なり。
必《かなら》ず、肉付を切棄《きりすつ》るを、「よ
ろし」とす。」
[やぶちゃん注:図中央の二つの「鱶鰭」製品「甲」「乙」二図のキャプション。最後の解説は、図のやや左上方に附した、二図の解説文。この「甲」「乙」は単に図に附したものではなく、製品の良し悪し(無論、「甲」が上)の等級を示していることは、解説文から明らかである。なお、この二図の形状と、「毎尾込」という謂いから、この図は最高級の「壹號」相当である「腹びれ」の図であり、それに同一の「壹號」である「尻びれ」を、それに合わせて「込み」で、最上級商品として売ったことを意味していよう。
さればこそ、この「両」というのは、清国の当時の通貨単位である。「銀錠」と呼ばれる銀の塊の質量を測り、それに基づいて貨幣としての価値を決定したところの、「銀両」=「テール」と呼ばれるものである。「百斤」は六十キログラムであるから、肉・骨を除去した「甲」は、「乙」一・四七倍の値段である。
以下、最下段の文字表。]
■「鱶鰭」
「毎尾分にて、
『拾斤』と見る
内譯《うちわけ》。」
「第 一 号 貳 斤 毎斤、代、四匁五分。」
「第 二 号 五 斤 仝《どう》 三 匁。」
「第 三 号 壹 斤 仝 二 匁。」
「第 四 号 貳 斤 仝 壹匁五分。」
「合《あはせて》、每《まい》百斤、代、二十九両。」
「伹《ただし》、毎尾分《まいをぶん》ハ、
銀、毎尾分ハ、銀貳両九匁ノ割《わり》。」
[やぶちゃん注:事実上の清が支払った金額が、当時や現在に換算して幾らに相当するかは、悪いが、知りたいあなたが、調べて戴きたい。そこまで、オンブニダッコはする気は、ない。悪しからず。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。この図版(これ以降は、「図版12」を除き、総てが、鱶鰭の製品用に切り取ったものである)の鱶鰭は幾つかの図に縦・横の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りした。特に下方に配された竹籠には、致命的な橫白線が入っていたので、自然に見えるように、かなり気を使って補正した。恐らく、原版と比較しない限りは、気づかれないであろうと存ずる。なお、ここは、「いてう」なるサメの鰭の四図と、それらから裁断した製品二種の加工品を入れた竹籠が下方に描かれてある。なお、今回は、左右上下の二重罫線を、総て、かットした。罫線があると、その内外の汚損を清拭うのに、倍近い時間が掛かるからであった。残りも、同様に処理することとする。]
【図版11】
■「いてう」「尾鰭。」
「對島國《つしまのくに》産。」
「百六十目。壹斤《いつきん》、
價《あたひ》五十五錢。」
「長《ながさ》、壹尺壹寸。」
「八寸。」
[やぶちゃん注:最後の「八寸」は尾鰭の下の短い方の下方の先端までの長さを指す。
この「いてう」については、既に、「鱶鰭の說(その1)」の「いつちやう」の私の注で考証してある。そこでは、
ネズミザメ目ネズミザメ科ホホ(ホオ)ジロザメ属ホホ(ホオ)ジロザメ Carcharodon carcharias
と、
メジロザメ目メジロザメ科イタチザメ属イタチザメ Galeocerdo cuvier
を挙げておいたが、鱶鰭の高級品となると、圧倒的に後者であることが、ウィキの「イタチザメ」の記載で明確に記されてあるので、決まりであり、対馬産であることも、分布から問題ない。
「百六十目」「目」は「匁(もんめ)」に同じであるから、六百グラムである。
「壹斤」同じく六百グラム。]
■「仝《どう》 胸鰭、二《ふたつ》ノ一《ひとつ》。
「裏。」
「全形、七寸。」
「四寸五分。」
[やぶちゃん注:敢えて、「全形」と頭に附けているのが、気になる。今までのものでは、鰭の前方の曲線にスケールのみが記されてあったからである。私が考えたのは、この場合は、附け根の切り口から、鰭の先端までの直線でスケールを示しているのではあるまいか、という気がした。しかし、左の中央にある、同一個体の反対の胸鰭の図には、前方の曲線の中央に、ただ「七寸」とある。されば、この「全形」には拘る必要は、ない、ように感じられた。]
■「仝。
背鰭。」
「淡黑色《たんこくしよく》
の者。」
[やぶちゃん注:この左部分の背部の断面がよく判るように描いてある。今までの図ではなかった立体的に捉えることが出来る描き方で、よい。特に、背鰭を支えている細かな軟骨群が綺麗に周回していることが判るのである。]
■「仝。
胸鰭 二ノ一。」
「表。」
「七寸。」
■「きんひれ」
「ぎんひれ」
[やぶちゃん注:これは、「金鰭」「銀鰭」で、「フカヒレと中華食材の専門卸 中華・高橋」公式サイト内の「フカヒレ散翅(ほぐし)ふかふか散翅」のページの画像と解説で納得出来た。そこに「広東式散翅」とあり、『金糸と金糸の間のゼラチン質を丁寧に取り除いていますので、すっきりとした料理に最適です。』とあり、「上海式散翅」には、『金糸と金糸の間のゼラチン質を適度に残しているので白湯などを使った濃厚な料理に最適です。』とあって、まさに前者が「金鰭」で、後者が「銀鰭」であると思う。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。この図版(これ以降は、「図版12」を除き、総てが、鱶鰭の製品用に切り取ったものである)の鱶鰭は幾つかの図に縦・横の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りした。なお、このページの鱶鰭四個体は、総て、一頭のサメから切り出したものである。]
【図版10】
■「やじふか」 「上等品。」
「一名、そこふか。」
「一尺四寸。」
「尾鰭一枚。」
[やぶちゃん注:「やじふか」「そこふか」これは、何度も出ている、
軟骨魚綱メジロザメ(目白鮫)目メジロザメ科メジロザメ属メジロザメ(別名ヤジブカ:こちらを正式和名とする記載もあるが、「BISMaL」が『メジロザメ/ヤジブカ』とするのに従った。後者の由来は、調べた限りでは、「親父鱶(おやじぶか)」の縮約のようである) Carcharhinus plumbeus
である。但し、「そこふか」という異名は、ネット上にも、国立国会図書館デジタルコレクションでも確認出来なかった。しかし、メジロザメは、基本的に海底附近で生活しており、「底鱶」(推定)という異名は、自然ではある。
「一尺四寸」四十二・四センチメートル。これは、メジロザメの尾鰭の長い上部の、その上方部のスケールである。]
■「尾鰭の切らざるもの。」
「壹尺六寸。」
「壹尺三寸五分」
[やぶちゃん注:前者が、右の上方の縁(へり)の長さで、後者が左の下方の縁の長さということになるが、両者の長さが、センチメートル換算で七センチ六ミリしか違わないというのは、メジロザメの尾鰭の形状から、尾鰭を切っていないそのままのものと言っていることから、これは、絶対にあり得ないのである。メジロザメの尾鰭は前の図で見た通り、遙かにずっと長いのである! 不審である。当初、尻鰭の誤りかと思ったが、形状が違い過ぎる。識者の御教授を乞うものである。]
■「背鰭一枚。」
「六寸五分。」
「九寸五分。」
[やぶちゃん注:数値は、前者は、体部に接続していた箇所の切り取った部分のスケールで、右下方にひっくり返って斜めに下から書かれてある。後者は図の上方で、この部分が背鰭の前方部である。スケールは左から右に書かれてある。]
■「胸鰭。」
「二枚の一。」
「六寸。」
「壹尺壹寸五分。」
[やぶちゃん注:下方の腹部からかなり乱暴に切り出したその傷の様子と、鰭の後方(図では右手に当たる)の鰭の薄くなっている感じから見て、恐らく、左の胸鰭を引っ繰り返して描いたものと推定する。数値は、前者が、腹部に着いていた部分の長さで、後者は胸鰭の前方部の長さである。]
■「肥前國《ひぜんのくに》
東松浦郡《ひがしまつうらのこほり》
呼子《よぶこ》産。」
[やぶちゃん注:これは、本図版の左部分の罫線(底本画像では、ご覧の通り、「のど」の部分が真っ黒になって罫線が消えて存在しない)の右に沿って、上下に一行で書かれてある。則ち、前の前の「背鰭一枚」の図の左端にある。
「肥前國東松浦郡呼子」現在の佐賀県唐津市呼子町。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]
或る朝
目がさめると、どうも具合がへんなんで、右の眼をとぢると、そこにある景色は、僕の眠つた部屋とすこしちがつてゐる。第一、窓の外の空はきれいすぎるし、それに天井には並の反射が搖れてゐる。だが、左の眼をとぢると、やつぱりいつもの着物だとか壁にぶら下つた僕の描いた鷄と向日葵の繪だとかよく見えるのである。よくよくへんなので、もう一ぺん右の眼をとぢたら、今度は、僕の身體が自然に天井の方へ浮き上がつてしまつた。それで、僕は、まだ眠りが半部のこつてゐるんぢやないないかしらと思ひながら、仕方なしに起きあがつたのである。
戦前に逆戻りした日本に完全に失望した――
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。この図版(これ以降は、「図版12」を除き、総てが、鱶鰭の製品用に切り取ったものである)の鱶鰭は幾つかの図に縦・横の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りした。なお、このページの図は、総てが、同一個体から採った鰭である。しかし、サメの種を示す解説が全く含まれていないので、種は判らない。私はサメ類には全くの素人であり、鰭の形から種同定をすることは不可能である。或いは、種を名指すことが可能な方が、おられるかも知れない。御教授戴けると、幸いである。]
【図版9】
■「尾鰭」
「肥前國《ひぜんのくに》
北松浦郡《きたまつうらのこほり》
小値賀海《おぢかうみ》産。」
「壹尺三寸五分。」
[やぶちゃん注:図の右側に、尾鰭の長い上部の先端からの尾鰭付け根部分の切り口までのサイズ。凡そ四十一センチメートル弱。]
「八寸。」
[やぶちゃん注:図の尾鰭付け根部分の切り口の下に、切断された部分のサイズ。二十四・二センチメートル。]
「表面、灰色なり。」
「明治十六年水産博覽會
の時、尼野栄太郞、出品。」
[やぶちゃん注:出品者の姓の「尼」の字は、「匕」が「七」の「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、「尼」とした。
「北松浦郡小値賀海」長崎県の五島列島北部の、小値賀島と周辺の島々を行政区域とする長崎県北松浦郡(きたまつうらぐん)小値賀町(おぢかちょう)周辺の海を指していよう。「小値賀海」という呼称は、ネットには掛かってこない。
なお、冒頭注でああは言ったが、個人的には、この尾鰭の形状からは、メジロザメ(目白鮫)目メジロザメ科メジロザメ属メジロザメ(別名ヤジブカ:こちらを正式和名とする記載もあるが、「BISMaL」が『メジロザメ/ヤジブカ』とするのに従った)ではないかと内心は思っている。]
■「胸鰭」
「二枚の一。」
■「同」
[やぶちゃん注:明らかに左の胸鰭であるので(従って、正面は裏側である)、左下の図を、ここに配した。]
■「背鰭」
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]
日曜日
散步する人は手にシグナルを持つてゐる
「秋」は雲の手巾をポケツトにいれてゐる
[やぶちゃん注:「手巾」私のブログ・カテゴリ「立原道造」には、現在、二百四十二篇の作品を電子化しているが、詩句の中に使用されるものは、「ハンカチ」が五作品、「ハンケチ」が一作品である。この内、後者は現在進行中の前期草稿篇の「(四月の空は⋯⋯)」の【初期形】での使用で、【改稿形】で「ハンカチ」に書き変えてある。従って、「ハンカチ」の読みの可能性が強いと判断する。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。この図版(これ以降は、「図版12」を除き、総てが、鱶鰭の製品用に切り取ったものである)の鱶鰭は幾つかの図に縦・横の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りした。なお、このページの図は、上部の二個体の右から左、次いで中部の一個体、最後に下部の右から左の順で示した。キャプションの内、左中央の内容は、私は、左下段の図に対する解説であると採った。さらに、ここでは、右下一個体を除いてサメの種を示す解説が全く含まれていないので、種は判らない。私はサメ類には全くの素人であり、鰭の形から種同定をすることは不可能である。或いは、種を名指すことが可能な方が、おられるかも知れない。御教授戴けると、幸いである。]
【図版8】
■「鯊鰭《ふかひれ》四枚揃」
「明治十六年、水産博覽會へ、
東京・小田原町、林清吉、出品。」
[やぶちゃん注:「鯊鰭《ふかひれ》」本パートの最初の「鱶鰭の說(その1)」は、昨年末に公開したものだから、既に私の注を忘れている読者も多かろうから、部分再掲しておく。
*
「鯊(ふか)」漢字は誤りではない。「鯊」は本邦では、通常、「はぜ」(=脊索動物門脊椎動物亜門条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科 Gobiidaeの類の総称)と読むことが一般的であるが、漢語としては、第二義で「さめ」(無論、和語)、或いは、「ふか」(=サメ類(軟骨魚綱板鰓亜綱 Elasmobranchii)の特に大きいものの俗称だが、「さめ」と同義としても用いるケースは多い。学術的な言い分けではない。
*
「東京・小田原町」江戸時代の日本橋北詰めで、現在の日本橋室町一丁目附近で、江戸では、後に日本橋魚河岸となり、魚市場の賑わいで知られ、後に築地に移転した。「中央区観光協会特派員ブログ」の『江戸日本橋の「小田原」って?』で、江戸時代の配置図(電子的に新規整序されたもの)と現在の地図が配置されており、ビジュアルに確認出来る。
なお、この「明治十六年、水産博覽會へ」「出品」が、以下の四図の鰭にも適用されるのかどうかは、判らない。しかし、であれば、それ以外のキャプションの始めに、前に同じであることを示すキャプションが示されねばおかしいから、私は、そうは理解しない。]
■「胸鰭二枚」
「壱枚を略す。」
「一四枚の一《ひとつ》。」
■「尾鰭」
「四枚の一。」
[やぶちゃん注:以下は、図の下方から右上方に、四十五度傾斜で、斜めに、逆立ちで書かれてある。]
「背骨の際《きは》より、切放《きりはな》ちたる切口《きりくち》。」
[やぶちゃん注:「尾鰭」の下には、薄く「四一」の字が確認出来る。思うに、「四」枚の「一」と書いたが、それでは意味が通らない上に、下の空隙が狭いので、消し、左行で、かく、書き換えたもの、と推理する。]
■「白鱶鰭《しろふかひれ》」
「長門國《ながとのくに》
厚狹郡《あさ/あづさのこほり》
埴村(はづ《そん》)。」
[やぶちゃん注:この村の名のルビは誤りである。「はぶそん」が正しい。「そん」の音読みは、ウィキの「埴生」(はぶ)の「近現代」の「行政区域の変遷」の記載に拠った。但し、「そん」であれば、河原田氏は「はづそん」とルビすると推定されるから、彼は「はづそん」と読んでいる思われる。
さて。ここでは、唯一、「白鱶」と表記しているから、これのみ、
メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus
に同定出来る。]
■「此《この》壱鰭《いちひれ》ハ、尾の下部に
ある分岐にして、脊骨《せぼね》
の末《すゑ》、眞《まこと》の尾と
切放《きりはな》つなり。」
[やぶちゃん注:本来の尾鰭の一部を切り離して加工したものであって、完全なる尾鰭ではないことを注意喚起しているのである。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『原型はノートの』昭和七(一九三二)年の『9月5日のページの「秋」。』とし、同全集「第六卷 雜纂」のここからである。初稿は「☆」を入れた二パートになっている。]
【初稿】
秋
パン屋の店先に
黑犬とパン屋の主人がゐる
ポストがある ポストは赤い
僕は身輕に町に浮かんでゐた
蜃氣樓のなかの人のやうに――
魔術は四つ角がしてくれる
冬へ電報を打たねばならない
そろそろ靑空がこはれはじめると
☆
硝子屋が町を通りますから
靜かに眠つていらつしやい
【決定草稿】
秋
パン屋の店先に黑犬とパン屋の主人がゐる。ポストがある。ポストは赤い。
僕は、間ちがへて身輕に町に浮かんでゐた――蜃氣樓のなかの人のやうに。ありありと時間が見える。⦅冬へ電報を打たねばならない⦆町の靑い空を硝子屋が町を通りすぎる。この手品はそのせゐだ。
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『原型はノートの』昭和七(一九三二)年の『8月6~14日中の「蟲の午後」。』とし、同全集「第六卷 雜纂」のこれである。さらに、『原記は「六章」となっているが、同一の書き方による短詩が七篇あるので、立原の誤記と考え改めた。即ち、第一枚目第二行に総題「蟲の午後 六章」があり、詩題は第四行目に記している。そして第二枚目かた第八枚目まではすべて第三行目に詩題を置き、書体も同じである。』とある。編者の修正を採用した。]
【原型】
蟲の午後
螢
陽氣な螢は赤い襟卷をして けれどお前のマント
それは年よりじみる程お前黑すぎる
蟻
足の多すぎた牡牛に似てゐる黑い顎 黑い頰 黑い角
虻
お前のよんでゐる法律の本
ときどき大工たちのやうにお前は空と喧嘩することもある
蛇
原つぱの中の急行列車!
かまきり
これは原つぱの作曲家
草色のフロツクコートを 澄まして
未來派の散步をする
どうしてなかなか紳士です
ばつた
原つぱの艷歌師 ヴアイオリンの𥡴古
お前が一番音樂はまづいやうです
虻
ひとりで本を讀んでゐたら 誰かがはなしながらやつて來る おや ききおぼえのある聲 ふりかへつてみれば 何だ お前ぢやないか
蜂
《白い壁 蜜と花粉 東風と朝の雲
居心地のよい住居です》
そんな貸家にお前は住んでゐる
[やぶちゃん注:「東風」は「ひがしかぜ」でよい。「こち」では、この場合、前の二つの対句のリズムを乱す。]
蜂
或る日帽子のなかに ひつそり蜂が死んでゐた それがあんまりきれいだつたので 僕にはこの帽子が僕のものでないやうな氣がした
【草稿決定稿】
蟲の午後 七章
蛇
原つぱの中の急行列車!
僕を連れて
叢の郵便局へ⋯⋯
虻
しよつちゆう讀んでゐる法律の本
ときどき大工たちのやうに喧嘩することもある
蟻
黑い顎
黑い角
お前の顏が
黑い牡牛に似てみえる
蜂
《白い壁
蜜と花粉
この百合の花が
けふの私のすまひです》
螢
螢は赤い襟卷をして
けれどお前のマント
としよりじみて見える程
それはお前に黑すぎる
蛾
霧のなかには古い心が住む
うつとりと夜の灯をともすな
灯のそばにおとぎ話がやつて來る
おとぎ話は黑い蛾である
[やぶちゃん注:「灯」の読みは、全体の音律から考えて、間違いなく「ひ」である。]
かまきり
これは原つぱの作曲家
草色のフロツクコートに 澄まして
未來派風の散步をする
どうしてなかなか紳士です
[やぶちゃん注:これは、まず、ジュール・ルナールの「博物誌」(Jules Renard “ Histoires Naturelles ”:私の最新版の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文)』をリンクしておく)が念頭にあろうかと思われるであろう。道造は、フランス語も勉強し始めていた時期であり、彼が、原文(かなり平易なフランス語である)で読んだであろうという推測は、別段、無理はない。しかし、私は、彼が親しくして貰っていた堀辰雄の師匠である芥川龍之介の、もろに「博物誌」を真似た、「動物園」(大正九(一九二〇)年一月、及び、十月発行の雑誌『サンエス』に分割掲載され、後に『夜來の花』に所収された。リンク先は私のサイト版である)をお手本にしたものとする方が、正確であると考える。道造は芥川龍之介を愛読してもいたからである。芥川の「動物園」は、私は、如何にもの「博物誌」の引き写し部分等、複雑な心境になる小品であり、芥川の作品の中では、特異的に高く評価しないものでは、ある。されば、道造のこれは、カリカチュアとして面白いには面ものの、龍之介のそれよりも、さらに、やはり、高くは、買えない。彼自身も、そうした後ろめたさがあったからか、実際の発表詩群には、含まれていない。但し、【初稿】の最後の「蜂」は、道造らしい、いい一篇と評価するものである。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『初稿はノートの』昭和七(一九三二)年の『8月1日のページの「一日」(ほぼ同文)で、本稿を二稿とし、『散步詩集』中の「一日」となる。』とあり、初稿は同全集「第六卷 雜纂」のこれである。それを【初稿】とし、而して、決定稿の『散步詩集』(全)(二〇一六年六月十三日電子化注済み。但し、Unicode導入前で正字不全があるので、引用では、修正した。また、底本ではポイントの操作がなされてあるので、見かけ上で似たような形に変えてある。必ず、リンク先の注を見られたい。正確な字配は、同全集の「第二卷」の当該部もリンクさせておく。それに拠って、旧電子化物には、編者のルビ挿入があることが判ったので、そこで今一度、検証して、直した)中の「一日」の当該部分を最後に示した。「一日」は、「ひとひ」でもいいが、私は、「いちにち」と読みたくなる。お好きな方で、どうぞ。]
【初稿】
一日
そこはよい見晴らしであつたから、靑空の一ところをくりぬいて皿をつくり
僕たちは雲のふらいなどを料理し
用意して來たパン、果物の類を食べ
景色を眺めてはたのしい食欲を充した
日かげには大きな百合の花が咲いてゐて
その花粉と蜜は僕たちの調味料だつた
さてこのささやかな食事のあとで
きれいな草原にねころぶと
僕の切り拔いた後に晝の月があつた
それをあなたはハンカチに包んで
大切さうにうちへ土產にした
[やぶちゃん注:「一ところ」私は「ひとつところ」と読みたい。
「ふらい」底本では、傍点「﹅﹅﹅」であるが、太字とした。
「類」私は「たぐひ」と読みたい。
「充した」「みたした」。]
【決定草稿】
一日
そこはよい見晴らしであつたから、靑空の一ところをくり拔いて皿をつくり、僕たちは雲のフライなどを料理し、麺麭、果物の類を食べ、景色を眺めてはたのしい食欲を充した。日かげに大きな百合の花が咲いてゐて、その花粉と蜜は僕たちの調味料であつた。
さて、このさゝやかな食事のあとで、きれいな草原にねころぶと、僕の切り拔いたあとに晝間の月があつた。それを、あなたはハンカチに包んで大切さうにうちへ土產にした。⋯⋯
【『散步詩集』の決定稿部分】
食後
そこはよい見晴らしであつたから靑空の一とこ
ろをくり拔いて人たちは皿をつくり雲のフ
ライなどを料理し麺麭・果物の類を食べたのしい食
欲をみたした日かげに大きな百合の花が咲いてゐて
その花粉と蜜は人たちの調味料だつたさてこのささ
やかな食事の後できれいな草原に寢ころぶと人の切
り拔いたあとの空には白く晝間の月があつた
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『『初稿はノートの』昭和七(一九三二)年の『8月1日のページの「《忘却》」(異文)。』とあり、それは同全集「第六卷 雜纂」のこれである。それを【初稿】として示すこととした。]
【初稿】
忘却
每日の霧のなかで僕の見るものといつては隣りの杉の木と僕の掌と小鳥たちの聲、蝶の羽根やガラスのびんが見えることもある。ときどき花火があがつたり、時計が鳴つたりする。カレンダアはびしよぬれで、いつの間にか羅馬數字の七月がどこかへ行つてしまつてゐる。濡れたカレンダアからいつの間にかVが立ち去つた。
【決定草稿】
惡い季節
每日の霧のなかに僕の見るものといつては隣りの杉の木と僕の掌と小鳥たちの聲ときどき花火があがり時計が鳴る蛾の羽根やガラスの壜がすき通り濡れたカレンダアからいつの間にか算用數字の七月が立ち去つた
[やぶちゃん注:実に素敵だ! 彼にタルコフスキイの‘Солярис’を見せてやりたかった!!!]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『初稿はノートの』昭和七(一九三二)年の『7月30日のページの「《峠》」(異文)。』とあり、それは同全集「第六卷 雜纂」のこれである。それを【初稿】として示すこととした。]
【初稿】
《峠》
谺は僕を呼んだ。僕は母を呼んだのに。この白い驛標はどこの家庭への距離も知らせない。
山峽の間から煙があがる(のぼる)。それが僕に時間を告げる。人たちが洋燈(ランプ)の下に明るい夜を作るため、一しよう(せはしく/今忙しく)懸命働く時間を、――
もう僕は雲のやうに自由でない。その雲さへ、蜩の聲に乘り、ああ、せかせかと空を立ち去る!
[やぶちゃん注:「谺」こだま。
「驛標」「えきひやう(えきひょう)」。鉄道駅のホームなどに設置されている駅名が書かれた案内標識のこと。これは、言うまでもなく、雲の換喩である。だから、そこには文字がないのである。
「一しよう(せはしく/今忙しく)懸命」これは「一生懸命」。但し、歴史的仮名遣は「いつしやう」でなくてはならない。因みに、これも言うまでもなく、「一生懸命」は誤った慣用語で、「一所懸命」が正しく、であれば、「一しよ」が正しい。]
【草稿決定稿】
峠
谺は僕を呼んだ。僕は母を呼んだのに。
この白い道しるべはどこの家庭への距離も知らせない。
まだかげらぬとほい平野よ、そして麓の小さな村々。
峽間から煙があがる。それが僕に時間を告げる。人たちが洋燈の下に明るい夜を作るためいま忙しい時間を。
もう僕の時間は雲のやうに自由でないだらう。
その雲たちさへ蜩の聲に乘り、あゝ、せかせかと空を立ち去る!
[やぶちゃん注:草稿決定稿は、遙かに意識的な粉飾部が削がれ、空漠の遠景がくっきりと描かれている。私は、この決定草稿を読んだ瞬間に、ALSで、大震災の後、たった独り、江ノ島を見下ろす峠にあった真っ暗な未明の病室で亡くなった私の母を思い出した⋯⋯涙が落ちた⋯⋯⋯⋯。――但し――総ての所持する彼の本の年譜を見ても、彼の母親が、彼の生前に亡くなったとする記事が、存在しない。底本の全集の年譜も確認したが、やはり、なかった。則ち、この詩は、生きている実母への郷愁であることが判った。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『ノートの』昭和七(一九三二)年の『7月28日の頁の「夜」(異文)を原型に持つ。』とあり、それは同全集「第二卷 詩集II」のこれである。それを【初稿】として示すこととした。]
【初稿】
夜
睡眠者は彼のまはりにZを撒き散らす。
(昔の頃の活動の漫畫。)そして、彼の夢のなかで、坂が傾いて、陽があたつてゐる。
夜は、まるく刳り拔かれ、そこに、蛾や、蜻蛉が集まつてゐる。そのあたりに、別の夢がひろい海と貝殼をひろげてゐる。
がやがやとはなし聲が聞えてゐる。
【決定草稿】
夜
眠りと夢がしづかに嚙み合つてゐる。齒車のやうに。
銅の坂が傾いて、陽があたつてゐる。
その傍に、牢屋がひろげられ、貝殼たちが海の深みへ滑つて行く。
がやがやと人の聲がする、薔薇の茂みのかげからのやうに。
[やぶちゃん注:初稿について。
「睡眠者は彼のまはりにZを撒き散らす。」は「(昔の頃の活動の漫畫。)」で判る通り、舶来のアニメーションの中で、英語の鼾(いびき)を指す擬音表現“ Z-Z-Z! Z-Z-Z!⋯⋯ ”を指している。
「蜻蛉」は、若い読者や、ネイティヴでない読者の方のために附しておくと、この場合の読みは、「とんぼ」ではなく、「かげらふ(かげろう)」と読み、昆虫綱有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea上目カゲロウ(蜉蝣)目Ephemeroptera に属する多くの種群を指す。生物学的に、より細かい記載は、私の「生物學講話 丘淺次郞 第十九章 個體の死(4) 三 壽 命」の私の注を見られたい。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『初稿はノートの』昭和七(一九三二)年の『7月20~28日のページの詩群中にある、』とし、それは同全集「第二卷 詩集II」のこれである。さらに『初稿の詩句との関連に拠り、二稿と判断されるものがあ』るとして、全文引用がされてある。どうも、これは、同全集では、それを活字化されていないものであるからこそ、ここにわざと引いているのだと理解した。そこで、それを【第二稿】として示すこととした。前二稿は無題である。]
【初稿】
風景さへ僕には信じられなかつた。肋骨に指をしづかに觸れては、散步に出かける時間ををはかつた。それは、森のなかに誰でもがする一つの風習である。(だつた)。僕は衰へたかげを、作りなほさうとつとめて、このはかない營みにさへ心を喜びを見つける。そしていつか僕は日每の曆さへ信じなくなつてゐた。
【第二稿】
肋骨に指をしづかに觸れては散步の時間を知る。森のなかのひとつの習はしだ。
風車を廻す風たちの速さで日蔭のそこここを步きまはる。
人々は每日の曆をもう信じない。
【決定草稿】
散步
肋骨に指をしづかに觸れては散步の時間を知る。
風車をまはす風たちの速さで村のそこここを步きまはる。
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『初稿はノートの』昭和八(一九三三)年の『7月20~28日のページの詩群中にあり(無題・異文)で、本稿は二稿で、ハガキ判耳付局紙』(「抄紙局製の紙」の意。ミツマタを原料とする、丈夫で、艶のある上質の紙。明治八(一八七五)年に大蔵省抄紙局が設けられ、明治一八(一八八五)年頃、手漉き紙として作られたが、後に機械漉きとなり、今日では、財務省印刷局の他に民間でも製紙され、証券・株券・賞状・辞令用紙などに用いられる。以上は所持する小学館「日本国語大辞典」(初版)、及び、「デジタル大辞泉」をカップリングした)『に水彩で風景画を描き、本文を赤で筆記したものを決定稿とする。決定稿については詩集『日曜日』の解説で触れた。本篇と異なるところは、第二行の「あなた」を「君」と修正し、句読点を持たない点である。』とある。しかし、同全集の「第二卷 詩集II」の解説を見ると、これは、「日曜日」のそれには、なく、続く『『散步詩集』 神保光太郞所蔵本』のここにある(下段)。そこには、『*本テキストの構成は目次に詩五篇を示しているが、どうしてか「悲歌」の本文を欠いている。これを埋めるものとして、書名の「散步」と用紙・体裁から「口笛をふいてゐる散步者よ」をそれと考えることが出来ないわけではないが、決定的裏付けが見当らず、ただここで言えることは後出「草稿篇」の「悲歌 第三」のモチーフに関わるものであろうということだけである。従って本集の目次に「悲歌」は挙げなかった。』(以下略)とある。「悲歌 第三」は、同全集第二卷の、ここで、視認出来る。しかし、ここで言っている『「草稿篇」の「悲歌 第三」のモチーフに関わるものであろうということ』とある。しかし、私が馬鹿なのか、この解説、全く理解出来ない。暫く、再考したく思う。ともかくも、冒頭にあるノートのそれを【初期形1】・【初期形2】の二つを示し(ここと、恐らくここ。孰れも無題)、【決定草稿】を示す。]
【初期形1】
口笛を吹いてゐる散步者よ
あなたは立り去りうたが殘る
この森の小鳥の聲とまじらずに
この森の木のかえのそこここに
やがてこのならはしが 僕に
口笛と小鳥たちとをわからなくする(?)
[やぶちゃん注:傍線は底本では右傍線。]
【初期形2】
口笛を吹いて家に帰る
[やぶちゃん注:「帰」の字体はママ。]
【決定草稿】
口笛を吹いてゐる散步者よ
口笛を吹いてゐる散步者よ
あなたは立り去りうたがのこる
この森の小鳥の聲とまじらずに
この森の木のかげのあちこちに。
やがてこのならはしが 僕に
口笛と小鳥たちとをまちがひさせる。
今朝、Facebookのグループ‘La senda del haiku’に招待され、入会した。先月、私の鈴木しづ子の資料がアルゼンチンのコルトバ大学院から出版された書籍で紹介されたことに関連してのことである。スペイン語は出来ないが、俳句に興味のある世界中の方の疑問や資料紹介要請に応じられれば、幸いである。ユビキタス、万歳!!!
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。この図版(これ以降は、「図版12」を除き、総てが、鱶鰭の製品用に切り取ったものである)の鱶鰭は幾つかの図に縦の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りした。]
【図版7】
■「よしさめ四枚一揃《よんまいひとそろへ》」
「よしざめ。五枚の一脊鰭《いちせびれ》。」
「一尺二寸。」
[やぶちゃん注:これは、★標題の四枚全てではなく、この背鰭一枚一図のみである。それ以外の以下の図は、ちょっと見難いもので、一纏めの同個体から採った五枚物の「セット物」の図が、右下一枚と、中央に二枚であるので、注意されたい。なお、「よしさめ」と「よしざめ」の表記の混淆はママである。されば、これは、「よしさめ」「よしざめ」から「葦鮫」で、漢字で「葦切鮫」と書く、鱶鰭の高級品としても知られる、
メジロザメ目メジロザメ科ヨシキリザメ属ヨシキリザメ Prionace glauca
であるとしてよかろう。]
■「よしさめ。五枚の一《ひとつ》。」
「長崎の名「いちやう」。尾鰭。」
「よしさめ。五枚の一。」
「胸鰭。二《ふたつ》の一。」
「八寸。」
[やぶちゃん注:右下の図の右側にあるキャプションと、中央上方の図の右手のキャプション。ここは、恐らく左の胸鰭であり、鰭のカーブした前方部のスケールである。因みに、スケールは、いちいち換算すると、面倒なので、自分で計算されたい。一尺はセンチメートルで三十・三、一寸は同三・〇三、一分(ぶ)は同〇・三である。]
「四寸。」
[やぶちゃん注:同前の図の下方の図。同前図の体部に接続していた切り口の箇所(右側)のスケール。]
「よしざめ。五枚の一。」
「胸鰭。二の一。」
「八寸二分。」
[やぶちゃん注:胸鰭(表面の漢字から、恐らく右胸のそれ)の前部のスケール。次は、中央下のキャプションで、図はその上にある。]
「よしさめ五枚ハ、長﨑廣業商會支店
より、十六年、水産博覽會種出品なり。
但《ただし》、一枚を欠く。」
[やぶちゃん注:ということは、ここの図は三枚しかないので、残る現存した一枚は図には出していないということにある。どうも、このページの図は、ちょっと正確に理解するのに、思いの外、時間が掛かってしまった。
さて、問題は、種である。河原田氏が、ここに並べる以上、同じく、
メジロザメ目メジロザメ科ヨシキリザメ属ヨシキリザメ Prionace glauca
であろうと思ったが、一応、調べてみる必要があると考え、国立国会図書館デジタルコレクションで「よしざめ」で検索したところ、孫福正編「鄕土の生物方言調査」(昭和八(一九三三)年宇治山田市敎育會刊)のここに『よしざめ』の項があり、『あぶらざめ』の方言とし、『北日本にのみ產す』とあった。これは、
ツノザメ目ツノザメ科ツノザメ属アブラツノザメ Squalus suckleyi
であるのだが、この種が、鱶鰭の高級品として扱われるというのは、ちょっと私にはクエスチョンであった。アブラツノザメの鱶鰭は、よく知られた種としてのブランドである。私は、断然、前と同じくヨシキリザメに比定するものである。]
■「尾長鰭二枚」
「十六年、水産博覽會、筑前福岡
伊﨑浦《いざきうら》、村田治六、出品。」
[やぶちゃん注:左の二つの図。以上は左中央部に解説されたもの。]
「脊鰭。」
[やぶちゃん注:これは右の胸鰭である。]
「胸鰭。」
「壹尺三寸。」
「六寸。」
[やぶちゃん注:スケールは前者が胸鰭の前部の長さ。こちらは同前で右胸鰭ということになろう。
「筑前福岡伊﨑浦」これは、現在の福岡市中央区伊崎、及び、その東にある西公園に相当する。現在は干拓により、海浜ではないが、「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、しっかりと「伊崎浦」となっている。
さて、「尾長」であるが、これは、
ネズミザメ目オナガザメ科オナガザメ属マオナガ(真尾長/オナガザメ) Alopias vulpinus
である。BISMaLの同種の和名は、マオナガのみである。現行では、同種の胸鰭は鱶鰭として加工されているが、前鰭以外に、背鰭も出るものの、それも使用出来ようから、問題なし、と私は認識する。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『第一行は』昭和八(一九三三)年の『ノートの中の1、2月制作の「〈夕方〉」(異文)を、第二、三行は同じく「新月のメモ」』(実際には『☽月のメモ』の表記である。不親切である)『(異文)を原型に持つ。』として指示する。これは、同全集の「第六卷 雜纂」のここ(83ページ)と、少し後のここ(88ページ)に当該する。そこで、この二つに分離された原型を仮に前者を「原型α」(題名を含めて五行詩)、後者を「原型β」としてカップリングして【原型α+β】として示し(内部で別々であることが判るようにした)、草稿の一篇を【改稿草稿】として示した。]
【原型α+β】
【*原型α】
<夕方>
夕方の空は
空にひろげた
佛蘭西の旗
色褪せる
【*原型β】
☽月のメモ
1、夕燒の空で書き損じた積分記號
2、月の一片を薄く切る
3、⋯⋯⋯⋯
【改稿草稿】
(☆夕方の空は⋯⋯)
☆夕方の空は空にひろげた佛蘭西の國旗
☆月の一片を薄く切る
☆夕方の空で書き損じた積分記號
☆月が僕よりも瘠せてゐる
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに、ノートの「學校1」・「學校2」の原型を『(異文)』として指示するが、実際に同全集の「第六卷 雜纂」を見ると、ここの最終行(ここにあるのは標題『學校――』のみ)からで、次のページには、『1』『2』『3』がある。従って、この三パートから成る全部を「原型」と見做し、初めに起こし、草稿の二篇を、後に一緒にして配した。]
【原型】
學校――
1
彼等のテニスは上手にシヤンパンをぬかない
生徒たちの裸の腕を 赤土のコートを
太陽がよごしてゐる
2
學校の時計よ お前は
早くまはつたり遲くまはつたりする
このお前のわるいくせが
ときどき生徒を怠け者にする
3
ここでは僕たちは生徒たちだ
【改稿草稿】
學 校 1
彼等のテニスは上手にシヤンパンをぬかない
生徒たちの裸の腕を 赤土のコートを 太陽がよごしてゐる
學校 2
學校の時計よ お前は
早くまはつたり遲くまはつてみたりする
このお前のわるいくせが
ときどき生徒を怠け者にする
[やぶちゃん注:⋯⋯道造よ⋯⋯男はね、年を重ねると⋯⋯早く廻ったり、遅く廻ったりするどころか⋯⋯タイム・マシンの如く⋯⋯初恋や、その後の学び場で逢った恋人たちとの時間を巻き戻して⋯⋯毎日毎日、反芻するようになるんだよ⋯⋯私が、そうだからね⋯⋯⋯⋯]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『昭和7年8月31日付・畠山重政宛書簡に紹介の「―或る詩」を原型とする。そこでは第二聯の第一、二行が「⋯⋯一月過ぎて。/(ガラスに映る、死の姿)」とあるが、この詩句の改作に拠り本稿の制作時を8年春と推定する。』とある。これは、このパートの注記の冒頭に、現行草稿の解説に使用原稿紙を『江川書房製四百字詰草稿』とし、『物語「短篇二つ」(第三巻所収)中の昭和8年春頃と想定する「日曜日」(江川書房製同種草稿)の初期書体との酷似に拠って』『区分した』とするのに基づく解説である。また、『*第一聯第一行 ママ〈埃りが黃かつた〉』とある。以上から、底本全集の「第五卷 書翰」のここを視認し、「原型」を示した。それは、その長い書簡のパート記号『III』の冒頭おかれているのであるが、その一行目に七字下げで『―或る詩』とあって始まり、『III』はこの詩とクレジットのみで終わっている。この『―或る詩』という表現は、一見、書簡の本文(「或る詩をお目にかけます。」の意)であるかのように見えるのであるが、この有意な字空けを見るに、未だ標題は附していない「無題」というニュアンスを感じさせるから、それを添えておいた。無論、クレジットも添えた。]
【原型】
――或る詩
プラツトフオームで、手をふつた。それから、埃りが黃かつた。尾灯(テールライト)は赤かつた。
(それが君との別れだつた。)
⋯⋯一月すぎて、
(ガラスに映る、死の姿。)
今度は僕が出發だ。見送る誰もなく。時間が廻つてゐる。身體の內部よ、ハガキよ、睡眠よ。
⦅サヨナラ⋯⋯オワカレダ
空が動き出す、不器用な足取りで。
暫くすれば、僕は去るであらう。
暫くすれば、僕は去るであらう。
(一九三二・八・一四)
[やぶちゃん注:第一連の「黃かつた」はママ。私は「きいろかった」と読んでしまうが、或いは道造は「きかった」「きいかった」と読んでいるのかも知れない。第二連の「一月」は「ひとつき」とも「いちがつ」とも読めるが、改稿版は「一年」であるから、第一連の時制からの有意な時間的経過があるからこその「今度は僕が出發だ」の台詞となり、何より「時間が廻つてゐる」という謂いからも、後者の「(翌年の)一月」であってこそ、腑に落ちる構造にはなっている。しかし、必ずしも、それが絶対正解ではあるまい。この原型では、僅か「ひとつき」であっても、作者の心理的変容は自らの「出發」をたった「ひとつき」で決意させるものであったのだろう。さればこそ、ここは、当初は「ひとつき」であったと私は読む。寧ろ、そこに作者の、やるせない孤独な「出發」が示されるとも言えるからである。改稿では、そうした有意な「一年」という時間をしっかりと提示してこそ、読者には、論理的にも納得させるに効果的であると考えたのでは、あるまいか。それを受けて、改稿では「春の空」に変えたのであろう。しかし、「死の姿」の凄絶感の方が「出發」の覚悟をよく示す点で、私は、こちらを支持するものではある。第三連の「⦅」の「⦆」が最後にないのは、ママである。]
【改稿形】
病
プラツトフオームで手をふつた それから埃りが黃かつた 尾灯(テール・ライト)は赤かつた
(それが君との別れだつた。)
⋯⋯一年すぎて
(ガラスに映る 春の空)
今度は とほう出發だ 見送る誰もなく 時計のなかで時計が廻つてゐる
言葉――千度それは囁かれる
さよなら ハガキよ 睡眠よ
暫くすれば 僕は去るであらう
暫くすれば 僕は去るであらう
[やぶちゃん注:決定稿の方が、「死の姿」の直截的な翳(かげ)が消失した結果、全体のリズムは、時計の音のように単調に字背で聴こえて、ブルージーな統一した詩想とはなっている。確かに、後者は抒情詩として、洗練されては、いる。しかし、私の好みとしては、粗削りの原型の方が、圧倒的に好きである。知られたダンディな詩人道造ではない、粗野な彼の心傷を確かに感じられるからである。
なお、「病」とあり、原型で「死の姿」と出るが、彼が結核に感染しているのが、はっきりと自覚し得るのは、昭和一三(一九三八)年以降のことであるから、この「病」「死の姿」はそれを指すものではない。但し、彼は、旧制中学時代の十四歳の時に、当時の「精神衰弱」に罹患したとされ、病跡学的には心身症に罹患していたと言った見解も見られる。私は嘗つて『日本病跡学雑誌』をずっと購読しており、そこで、立原道造関連のそれらを、複数、所持している。興味のある方は、「つくばリポジトリ」のここで、木山祐子氏の博士論文「立原道造の病跡学的研究 : 結核患者としての側面」(二〇一八年発行・PDF)がダウンロード出来るので見られたい。纏まっていて、非常によい。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『テキストは題名の位置(第二行目)に☆印を置いている。』とあるが、原稿を見ないと、『第二行目』の意味が採れない。或いは題名は二行に分けて書かれているということか。不親切である。]
絕望が僕を摑んだ
絕望が僕を摑んだ⋯⋯四つの壁、四つの入口、四つの窓。僕は無暗に書いた、手さぐりで。僕の書いた字はすぐに讀めなくなる。僕はあはてだす。
――善と惡。惡と善。
僕の行つた惡と僕の怠つた善!
風はとほいが、嘗つてあつたやうに、歌はたのしくない。砂の上の文字。心は小さい、風はとほい。
これから先僕はうたふかうたはぬかどちらかにすぎないだらう!
過去が僕をたじろかせるだけなのだ。
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。この図版(これ以降は、「図版12」を除き、総てが、鱶鰭の製品用に切り取ったものである)の鱶鰭は殆んどに縦と横の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りしようとしたが、縦は何とか出来たが、横の直線のそれは、黒でかなり潰してみると、見るからに私が施したことが判ってしまい、不自然になると私には思われたので、涙を呑んで、ごく一部に留めた。]
【図版6】
■「目白さめ」「鰭。」「『ひらかしら』といふ。」
「目白鮫四枚揃《よんまいそろへ》。」。
「胸鰭。」
「同上。」
「同背鰭。」
「同尾鰭。」
[やぶちゃん注:上から下へ全四図。第二図は、「同上」として、形状と図の様子から、上の裏の図である。文字通り、前の図版5に出た、
メジロザメ(目白鮫)目メジロザメ科メジロザメ属メメジロザメ Carcharhinus plumbeus
である。
しかし、二つ目の「同上」の図の鰭に、右の鰭の先端部から、左の下方の鰭の根の端まで、「−−−−−−−−−−−−−−−」の破線が引かれてあるのに着目されたい。これについて
――その対象「鱶鰭」を加工する際の本格的な乾燥処理法前の最も重要な鰭の基部の背の部分の肉を除去する作業についての注意書き解説――
が、
★このページの左端にある
のである。そこには、
★「− − − − − − − − − − 印《しるし》より、肉付《にくつき》を、能《よく》、切り捨て、乾《ほ》すべし。此肉を、捨てされ[やぶちゃん注:ママ。打消の「ざれ」である。]ば、則ち、蟲喰《むしくひ》となりて、大《おほい》に品位を落《おと》せり。」
とあるのである。なお、「蟲」の字は、スレが激しいため、画像調整を行っても、全く判らなかった。痕跡から推理して「蟲」とした。別な字を比定出来る方は御教授下さると嬉しい。
■「五物《いつつもの》揃《そろひ》の鰭」
「腹、左右≪の≫鰭≪の≫一《ひとつ》。」
「はら鰭《びれ》。」
「左右≪の≫胸鰭(わきひれ)≪の≫二《ふたつ》の一《ひとつ》。」
「二≪つの≫背鰭《せびれ》≪の≫一枚。」
「一《ひとつ》の背鰭≪の≫一枚。」
[やぶちゃん注:種名がないが、右の一列と大差ない形状であるので、同じくメジロザメとしてよいだろう。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。この図版(これ以降は、「図版12」を除き、総てが、鱶鰭を切り出した部分図である。但し、製品としての乾燥を行う前の図であるので注意されたい)の鱶鰭は殆んどに縦の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りしておいた。]
【図版5】
■「䑕ふか」
「背鰭。」
[やぶちゃん注:これは、
ネズミザメ目ネズミザメ科ネズミザメ属ネズミザメ Lamna ditropis
である。]
■「ふか」
「䑕」「尾鰭。」
[やぶちゃん注:同前。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「地方名・市場名」に、『ネズミ』・『ネズミザメ』とし、『青森県八戸、福島県、福井県敦賀市、東京』を挙げてある。]
■「青ふか」
「胸鰭。」
[やぶちゃん注:これは、
ネズミザメ目ネズミザメ科アオザメ属アオザメ Isurus oxyrinchus
である。]
■「めじろ」
「胸鰭。左。」
[やぶちゃん注:本文で注したように、これは、
メジロザメ(目白鮫)目メジロザメ科メジロザメ属メジロザメ Carcharhinus plumbeus (別名ヤジブカ:こちらを正式和名とする記載もあるが、「BISMaL」が『メジロザメ/ヤジブカ』とするのに従った)
である。]
■「めじろ」
「胸鰭。右。」
[やぶちゃん注:同前の右胸鰭。但し、となると、「裏返し」にして描いてあることになる。生体画像を見ると、胸鰭の下の方の色は、上側が青いのに対し、白いが、恐らく「鱶鰭」に加工するために切り出し、時間が経ったものの色は、表と大差ないもの変ずるのであろうか。私はそうした加工前の現物の加工過程前の画像を見たことはないのだが、ちょっとクエスチョンな感じはする。]
■「青ふか」
「尾鰭。」
[やぶちゃん注:三つ前と同前。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。「黃昏」の読みであるが、私が、私のブログ・カテゴリ「立原道造」で電子化した作品の中で(現在二百二十五件)、「黃昏」を詩篇内で用いたものを総て確認したが、ルビがないものが殆んどで、而して、二篇で「たそがれ」をルビしている。音の「くわうこん(こうこん)」を用いているものは一つもない。ひらがなの「たそがれ」は多く用いている。されば、これは「たそがれ」と読むべきである。]
黃昏
一日の最後の光線が庭にさよならする
灯りがはいる 窓を閉める
僕の生活が見つからなくなる 僕のなかで動いて
ゐる幾人もの微小な僕 ひとりの僕は僕の脊中を 僕
の掌を僕の脣を 彼等は互に彼等を知らない
僕は眼をとぢる
まだ暮れない地平に靑い旗がある
[やぶちゃん注:この第二連は、底本では二行で書かれてあり、二行目は一字下げになっている。この一字空けは、フレーズ中の一字空欄ではあり得ない(それをそのまま字空けとすると、その部分は「ひとりの 僕は僕の脊中を」となって、リズムが崩れるから、絶対に違うのである)。しかし、私のブログ・ブラウザでは、下手をすると、読者が判読を誤る形で勝手に改行されてしまうので、ブラウザで字のポイントをやや上げた表示にしても、おかしくならないように、三行に変えておいた。]