立原道造草稿詩篇 (何かが掌を⋯⋯)
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]
(何かが掌を⋯⋯)
何かが掌をおいてゆくと
この悲しみが僕らにのこる
僕は何を信じよう
こんなに爐が赤く燃えてゐると
僕の頰もこんなに赤く燃えてゐると
どうして僕はお前に知らせられよう
お前の指はつめたくすきとほり
僕のたよりをあそこで待つてゐるのに
僕にはそれが見えるのに
[やぶちゃん注:注記には、『第一聯は物語「間奏曲」(昭和9年3月制作・第三巻所収)に採用。』とあった。その「間奏曲」は同巻のここからで、当該箇所はここ。表記に違いがあるので、参考のために、前後の部分を入れて電子化しておく。
*
彼の過去とすこしも似てゐないこの部屋の秩序。――煤けた壁と、丸太のまゝむき出しにさう高くない天井と、部屋の一隅に金具の錆びた暖爐と。そこには彼らしいものは何一つありはしなかつた。こはれかゝつた椅子や木のテーブルの彫りつけてあるハアトの型だの頭文字は彼のものではありはしなかつた。それなのに彼の考へに戾つて來る昔の部屋は何だろう。
⋯⋯別れた日にあの部屋の卓子の上には書きさしの詩があつた。
君が掌をおいて行くと
このかなしみが僕らにのこる
僕は何を信じよう
こんなエレジイの一片があれにはたしかに書いてあつた。あれは一體どうしたかしら。出來てはゐなかつたがもうそのつゞきを書くことは出來ない。目にはありあり見えてゐてもその部屋は彼からずつととほいのだ。
二度と歸れないといふ考へは村の旅行でもちつとも信じられなかつた。この部屋にゐる自分にはそれがすこしは信じられることだけれど、あのときはまるきり信じられなかつた。
*
この引用内の「卓子」は「テーブル」と読んでいよう。]

