立原道造草稿詩篇 (あの家では……)
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、『原記は表題代りに☆印を置く。』とし、『第四詩は後出「秋の歌」の初稿。』とある。この「秋の歌」は、七コマ後のここから、視認出来る。]
(あの家では……)
あの家では
子供が七歲と四歲だつたから
ブランコやスベリ臺もいるだらう
それから親たちには快いあかりと窓と
僕はすばらしい食堂を作つて上げよう
彼たちは每日あつまつてたのしい日暮れを
すごすやうに
僕はすばらしい家を作つてあげよう
☆
柱のそばで眼ばたきなんかしたつてだめだよ
ちやんと知つてるんだ
けふは僕は意地わるなんだ
いいさ いいさ もう行かないよ
僕はちやんときまつてるんだ
☆
借りた本は返しませう
汚さないやうにして お前の部屋に
ちひさいあかりは消しませう
それから僕は眠りませう お前の所に行くのです
☆
あたらしい金ボタンをつけた大學生は誰よりもたのしかつた
ポケツトに薔薇のやうなハンカチなんてそれは昔のならはしだつた
彼はそのまゝ胸をおこして步きさへすれば
秋晴れの午后なんか誰よりすばらしい姿に見えた
[やぶちゃん注:この四聯で続く一連の詩群と判断した編者に、私は、ここでは、納得出来る。ここには、幼児期から東京帝国大学工学部建築学科に入学するまでの道造の道程が、別にそれを傍観する第三者の建築士となって、彼の思い出の走馬燈として描かれていると感じとれるからである。
道造は大正三(一九一四)年七月三十日生まれで、弟達夫は大正五年四月二十六日に誕生しており(実は道造誕生の前年一月に長男一郎が三歳で亡くなっている)、「子供が七歲と四歲だつたから」というのは、道造と達夫の年齢差が一致するのである(年齢は数え)。なお、大正八(一九一九)年、道造六歳の八月二十二日に父貞次郎が三十七の若さで亡くなっており(死因不詳)、参照した底本全集「第六卷 雜纂」の大正六年の年譜を見たところ、珍しく、母とめさんの記載があったので以下に引用する。父なき後、『道造を女手一つで育てた母とめは、「立原によく似た知的で背の高い、黒っぽいものをよく着」(大和勇三「立原道造の思い出」)ているようなひとであった。』とあった。]

