立原道造草稿詩篇 峠
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『初稿はノートの』昭和七(一九三二)年の『7月30日のページの「《峠》」(異文)。』とあり、それは同全集「第六卷 雜纂」のこれである。それを【初稿】として示すこととした。]
【初稿】
《峠》
谺は僕を呼んだ。僕は母を呼んだのに。この白い驛標はどこの家庭への距離も知らせない。
山峽の間から煙があがる(のぼる)。それが僕に時間を告げる。人たちが洋燈(ランプ)の下に明るい夜を作るため、一しよう(せはしく/今忙しく)懸命働く時間を、――
もう僕は雲のやうに自由でない。その雲さへ、蜩の聲に乘り、ああ、せかせかと空を立ち去る!
[やぶちゃん注:「谺」こだま。
「驛標」「えきひやう(えきひょう)」。鉄道駅のホームなどに設置されている駅名が書かれた案内標識のこと。これは、言うまでもなく、雲の換喩である。だから、そこには文字がないのである。
「一しよう(せはしく/今忙しく)懸命」これは「一生懸命」。但し、歴史的仮名遣は「いつしやう」でなくてはならない。因みに、これも言うまでもなく、「一生懸命」は誤った慣用語で、「一所懸命」が正しく、であれば、「一しよ」が正しい。]
【草稿決定稿】
峠
谺は僕を呼んだ。僕は母を呼んだのに。
この白い道しるべはどこの家庭への距離も知らせない。
まだかげらぬとほい平野よ、そして麓の小さな村々。
峽間から煙があがる。それが僕に時間を告げる。人たちが洋燈の下に明るい夜を作るためいま忙しい時間を。
もう僕の時間は雲のやうに自由でないだらう。
その雲たちさへ蜩の聲に乘り、あゝ、せかせかと空を立ち去る!
[やぶちゃん注:草稿決定稿は、遙かに意識的な粉飾部が削がれ、空漠の遠景がくっきりと描かれている。私は、この決定草稿を読んだ瞬間に、ALSで、大震災の後、たった独り、江ノ島を見下ろす峠にあった真っ暗な未明の病室で亡くなった私の母を思い出した……涙が落ちた…………。――但し――総ての所持する彼の本の年譜を見ても、彼の母親が、彼の生前に亡くなったとする記事が、存在しない。底本の全集の年譜も確認したが、やはり、なかった。則ち、この詩は、生きている実母への郷愁であることが判った。]

