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2026/03/09

立原道造草稿詩篇 (空つ風の高臺に……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (空つ風の高臺に……)

 

空つ風の高臺に

かうして二人で立つてゐると

屋根の向うの夕燒に

小さく富士が見えてゐる

 

語らひは疲れの外に流れ去り

ただ眺めてゐる靄もない町の空

積み重なつた屋根の下に

煌めくままに燈がともり

 

立原道造草稿詩篇 (春が來たなら……)

立原道造草稿詩篇 (春が來たなら……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。

 さて。本詩の底本を見て戴きたい。そこでは、二行目が、

   *

本のかげに小さな椅子に腰かけて

   *

となっている。これは、流石に、驚いた。しかし、注記には、何も書かれていない。まず、躓き、しかし、一瞬、『春、極小の小人に変じた道造が、「本のかげに小さな椅子に腰かけて」……とメルヘン風に詠み始めたものか?』と思ったのだが、しかし、以下を読んでも、そんなニュアンスは全く認められない。而して、この詩、以前に電子化した記憶が微かにあったので、調べたところ、二〇一六年六月に、所持する一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編)を元に、恣意的に正字化したものであるが、そこでは、

☆ちゃんと「木」になっている

のである。

 さて。杉浦明平氏は、本底本全集の編者の一人である。しかも、本注記の末尾の担当編集委員自体が、杉浦氏自身が書かれているのである。

 しかし、だ! 国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集」(角川書店版の旧版及び新版とも)を横断検索しても、

この草稿詩篇は、総てが、「本」になっている

のである!

 この原稿は底本の注記を見ても、喪失とは書かれていない。とすれば、

★杉浦氏が岩波文庫版「立原道造詩集」を編集され、原稿を再々度、確認されるまで、「木」の判読の誤り、或いは、旧全集から新全集まで、延々と続いた誤植であった

ということになるのである。或いは、失礼乍ら、

★旧全集のものを、再検証し切れずに、うっかり、そのまま――安易に――旧全集から移したものではないか?

と疑わざるを得ないのである。そう疑うのは、再検証して、やっぱり、「本」であったのなら、ここに、せめても、訂正注として、

――原記では、二行目冒頭の「木」は「本」であるが、「木」の誤記と認め、特異的に訂した。――

とされたはずだから、である。既に、杉浦氏は白玉楼中の人となられているから、判らない。或いは、新版の後刷には、それが語られてあるのかも知れない。

★無論、私は「木」と書き変えた。

 

  (春が來たなら……)

 

春が來たなら 花が咲いたら

木のかげに小さな椅子に腰かけて

ずつと遠くを見てくらさう

そしてとしよりになるだらう

僕は何もかもわかつたやうに

灰の色をした靄のしめりの向うの方に

小さなやさしい笑顏を送らう

僕は餘計な歌はもう歌はない

手をのばしたらそつと花に觸れるだらう

 

春が來たなら ひとりだつたら

 

立原道造草稿詩篇 (日暮に近い部屋のなかで……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (日暮に近い部屋のなかで……)

 

日暮に近い部屋のなかで、鉛筆が僕を傷つけた。色褪せた紙に、僕は詩を書いてゐた。亂れた心に復讐をするために。

 

僕が書ける日、平和は僕をとめた。

弱さがお前に書かすのだと、强くなれと。

詩が書けない日、言葉は僕を妨げた。

そこにお前はゐないのだと、町へ行けと。

 

夕日が窓を消えて行つた。

九つの星に僕はたづねよう。生きるといふことを。そのなかで歌ふことを。

 

 

[やぶちゃん注:この第一聯の表現には、道造のアンビバレンスな心理が反映されている。第二聯を読むなら、第一聯の、表面的には、「亂れた」僕の「心に復讐をするために」、「鉛筆が僕を傷つけた」と読めるのだが、実は、ここには、無意識裡に、道造自身が「亂れた心に復讐をするために」「僕は詩を書いてゐた」というニュアンスが読み解けるからである。傷心のロマンス詩人であると思われている立原道造は、実際には、詩を「亂れた心に復讐をするために」自虐的に「詩を書いてゐた」のではなかったか? 私はそれこそが、詩人立原道造の内実であったのではなかったか?

「九つの星」注記では、『占星術の九曜星』(くようせい/くようぼし:「くよう」は歴史的仮名遣では「くえう」)『か。』とする。小学館「日本国語大辞典」の「九曜」に拠れば、『日・月・火・水・木・金・土の七曜星に、羅睺(らご)星と計都(けいと)星を加えたもの。本来は、インドの天文学で九惑星として数えあげた名称で、日本には、密教の星辰信仰を介して知られるようになり、陰陽(おんよう)家が、人の生年月などに配当して運命を占った。九曜星(くようせい)。九曜の星。九星(きゅうせい)。』とする。道造は、建築家であるが、当初、第一高等学校理科甲類に進学した時は、天文学を志望していた。星に疎い私でさえ、九曜星は漢文と民俗学への興味から、よく知っていたから、確かに、「九つの星」と言えば、まず、それを想起はする。しかし、ここで道造が、九曜星を指しているというのは、どうも胡散臭い。日没後の星空を見上げた彼が、実際の九つの星を見上げて、かく、表現したとするのが自然である。但し、九つからなる星座は、存在しない。前後の草稿の並びから、これを昭和九年の晩秋と仮定すると、この時、彼は東京にいる。季節的に、はっきりと見える星座はオリオン座の七星であるが、晴天であれば、オリオンの内側に等級の低い星が見えるから、それを見上げたと仮定するのが、最も無難かと、素人の私は考えた。星に詳しい方のご意見を拝聴したい。]

立原道造草稿詩篇 踊子は

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこに、『原記最終行は消去されて次の言葉が続く。』として消去した一文が記されてあるので、それを【初稿】として復元した。]

 

【初稿】

 

  踊子は

 

踊子はなぜ踊るのか知らなつた。それはサアカスの音樂のなかの踊子だつた。動物のかはりに、積木のかはりに。

 

人たちは慰むことが出來た。束の間は笑ふことが出來た。

 

踊子は靴を鳴らした。月曜日に日曜日の着物を着てゐた。それから疲れた。

 

 

【決定草稿】

 

  踊子は

 

踊子はなぜ踊るのか知らなつた。それはサアカスの音樂のなかの踊子だつた。動物のかはりに、積木のかはりに。

 

人たちは慰むことが出來た。束の間は笑ふことが出來た。

 

踊子は靴を鳴らした。月曜日に日曜日の着物を着てゐた。

 

 

[やぶちゃん注:私は、この場に道造と一緒にいたデジャヴを持ってしまう人種である。さればこそ、私は、断然、初稿を支持する。]

2026/03/08

立原道造草稿詩篇 風琴を聞く女

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  風琴を聞く女

 

暮れやすい雨にあかりがともされて

一きは切ない心の歌をうたつたが

あの風琴は繰り返して飽きなかつた

おそらく故鄕の歌だつたのだらう

 

一輪に紅い花を凋れる前に髮にとめ

ぢつと眼をとぢてゐるその姿が

黑い上衣の襞に搖れて立ちあがつた

窓に凭ると眼は暗がりが映つた

 

呼びあつて風琴の歌はまた繰返した

この一日かうして終つたと

雫に濡れた窓に人の心が眞似をした

また一日かうして終つたと

 

立原道造草稿詩篇 船

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  船

 

湖に洋燈を浮べて夏の日を

つなぎとめたお前の心から

夢もなく滑つて行つたのは

つかの間の藻のいたづらら

 

お前はうつろ眼に

靑空を山々の形をうつし

溢れる思ひには身を任さなかつた

朽ちないまま 冷やかに

急流を行く日ばかり

はかない願ひにかぞへてゐた

 

立原道造草稿詩篇 昨日

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  昨日

 

消えた言葉は追ふのはよさう

消えた言葉は私のものだ

どこに どこに やさしい言葉

 

消えた言葉は空にゐる

一日 雲とうたつてゐるのは

どこに どこに 私の言葉

 

さがしに行つた人たちと

耳をすすますなら 私は行かう

 

消えた言葉は私のものだ

また 朝から日暮れまで

 

立原道造草稿詩篇 鴉の歌

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  鴉の歌

 

奪はれた日から 私はうたつた

私はここに立つてゐる そして汚れた

私は夕燒を呼んでゐる 今こそあれがいりようなのだ

 

私は夜と一しよにゐたい

木の風と 私はかくすものと

そして私は夜をにくまう あれは一面に黑いから

 

私は燒けて そこから生れる

夕燒ばかりがいりようなのだ

私は呼んでゐる 奪はれてはならない 私は呼んでゐる

 

[やぶちゃん注:今朝、未明に起きて、この詩について、既に二時間半の間、この第一聯の二行目の「汚れた」を「よごれた」と読むか、「けがれた」と読むかで、迷い続けた。最初、一行目を受けて、私は、無条件反射で、「けがれた」と読んだ。しかし、即時に、ふと、暗い書斎で(私の書斎の室内灯は八カ月前から豆電球を除いてショートしている。パソコン使用には問題がなく、机にあるスタンドで十分なので、直していない)、『道造が、いままで「けがれ」と読んだことがあったかな?』と頭を傾げたのだった。まず、私の「立原道造」(現在、三百三十八件。目ぼしい詩篇は概ね電子化したが、私は物語物は殆んど電子化していない)で調べると、「けがれ」は見当たらない。所持する幾つかの彼の詩集の中には、編者がルビを振ったものがあるが、それらにも、存在しなかった(ブログ記事の初期は、それらをほぼ、全部を電子化しているから、落ちはない)。次に、国立国会図書館デジタルコレクションにある全ての彼の全集で全文検索を「穢」の単漢字を調べたが、「穢」の使用は全くなかった。次に「けがれ」で調べたが。使用例はなかった。「汚」の漢字は、彼は好んで詩句に用いている。しかし、それらは殆んどが物理的・比喩的な用法での、「よごれる」の意の用法でしか見出せなかった。これを確認し終わった時に、山影から陽が射していた(道造好みの朝焼けであった)。以上から、私は、道造は「穢」の漢字、「けがれ」の文字を生理的に嫌っていたと断言してよいと思われる(全文検索には書翰も含まれる)。されば、この「そして汚れた」も「そして よごれた」と読んでよいと結論づけた。識者で、使用例があるとなれば、御教授戴きたい。

2026/03/07

立原道造草稿詩篇 雨

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来るが、そこには、『草稿消失 角川書店版第二巻』とあり、『全集に於ける隣接詩との関連に拠り、ここに置いた。』とある。旧全集(一九五八年版)の当該部は、ここである。]

 

  雨

 

雨といふに、飛行機がとぶ。

窓をあければ――

八つ手の若葉。

どこからか子供の聲がする。

 

立原道造草稿詩篇 窓

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこには、抹消した第二行と第三行の間にある一行が記されてあるので、それを【初稿】として復元した。]

 

【初稿】

 

  窓

 

坐つて 黙つてゐた

 

たつたひとりであつた

 

ほほ笑んだ顏ばかりであつた

 

空がかがやき雲が過ぎるとき

 

ちひさな 似た神々であつた

 

寢床まで月がさすことがあつた

 

風吹くな と祈つてゐた

 

 

【決定草稿】

 

 

  窓

 

坐つて 黙つてゐた

 

たつたひとりであつた

 

空がかがやき雲が過ぎるとき

 

ちひさな 似た神々であつた

 

寢床まで月がさすことがあつた

 

風吹くな と祈つてゐた

 

立原道造草稿詩篇 擒(とりこ)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  擒(とりこ)

 

風がとほくを過ぎるときに

 

身體をかたくして 僕は 手を垂れてゐる

 

家畜の眠りのまはりの洋のやうに

 

かすかな響が僕を包んだ――

 

 

[やぶちゃん注:「身體」は「しんたい」と読んでおく。道造なら、「からだ」と読ませるつもりであれば、必ず、ルビを振ると考えるからである。]

立原道造草稿詩篇 曇天

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年の『制作時付記を持つ』(月は表示なし)とある。]

 

  曇天

 

雨降るな

 

風吹くな

 

旅であらうに

 

龜よ 汝(おまへ)の脊に手をおきつ

 

道は遙かに白かろき

 

 

[やぶちゃん注:「おきつ」の「つ」は、古語の完了の助動詞の終止形で、所謂、通常、「……つ、……つ」の形で、「……したり、……したり」という複数の動作が並立的に行われるそれであるが、ここでは、後の動作が存在しない全くの破格法である。或いは、古語・現代語共通の「つつ」の後の「つ」を脱字してしまったものかも知れない。しかし、最終行の末文のフレーズ「白かろき」は明らかに擬古文であるから、詩人の亀に言いかけた一連のものであると読む以外にはおかしいから、前のこの「つ」も、古語の破格のそれであると読むのが、自然である。しかし、表現としては、ぎくしゃくしていて、全くのアウトである。

 さて。これと、直前の「天の誘ひ」の二篇は、道造としては、詩的実験を試みたものと思われる。「天の誘ひ」の漢文と最終行末尾の「歸らず」の擬古的手法といい、本篇の「つ」と「白かろき」の使用で、通性が強い。しかし、正直、この二篇は、道造の詩としては、異様で、失敗であると思う。

立原道造草稿詩篇 天の誘ひ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年十月の『制作時付記を持つ』とある。]

 

  天の誘ひ

 

それは哀しみに似てゐたが

 

人は知らぬ顏をして

 

日の暮れるのを待つてみた

 

――万事休矣

 

あたふたと旅仕度をした

 

かがやく雲と月は歸らず

 

 

[やぶちゃん注:「矣」は漢文の助字で置き字で読まない。全体は「ばんじきゆうす」(ばんじきゅうす)と読む。]

立原道造草稿詩篇 晩秋

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年十月の『制作時付記を持つ』とある。]

 

  晩秋

 

ゆく雲が何をうたつたか

 

おまへのあちらに人の世がある

 

本棚の隅に見つけた

 

歌は窓を破り逃げ去つた

 

もう誰とも會はなかつらう

 

立原道造草稿詩篇 黃昏へ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年十月の『制作時付記を持つ』とある。標題は「たそがれへ」と読みたい。]

 

  黃昏へ

 

茂みの小鳥は年老いた

 

緑は 空は 色移つた

 

誰がうたふだらうか けふ僕のよろこびを

 

歌は翼を日に煌かせ

 

弱年の掌を飛び去つた

 

立原道造草稿詩篇 落葉

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年十月の『制作時付記を持つ』とある。]

 

  落葉

 

踊子の掌に 光が

それが消えると

踊子の掌に 光が

 

その上に それが消え それがかげり

光のなかを 踊子が

そればかり そればかり

光のはてを 掌が

ただもう搖れざはめく掌を

光が 光が

 

立原道造草稿詩篇 十一月一日の朝

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年十月の『制作時記を持つ』とある。この詩、道造としてはやや珍しい文語表現の混じったものであるが、正直、いただけない。]

 

  十一月一日の朝

 

人は並木のかげを行き

吐く息は美しく頰を染め

そのあとを幾つも幾つも水玉が流れぬ

 

窓はすきとほり

笑はない子供等のそばに

雲がそれを眺めぬ……

 

家鴨と鶴が飛び去れり

水音に池は濡れしが

誰もその低い呟きを聞かず

 

立原道造草稿詩篇 風の話

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  風の話

 

そんなことを言ふのはおかしかつた

僕らは まじめな顏で言ひあつてゐた

風が見えないことを

 

最初の子供は 風が埃のそばに見えることを言つた

誰にもその考へは氣にいらなかつた

 

次の子供は 風が枝のそばにばかり見えることを言つた

その子は木のぼりを考へた 葉がそよいだ

 

僕らはみんなで言ひあつた

そしてたいとう最後の子供が言つた

あれは見えなくてよいことを

 

 

[やぶちゃん注:これは少年期の道造の回想の再構築ではない。そこにいる「僕」は青年になった道造である。そうして、こうした道造マジックこそ、彼が真のpuer eternus――プエル・エテルヌスとして生きた詩人であることを証明する。虐められてばかりいた僕が、遂になれなれなかったプエル・エテルヌスに……。]

立原道造草稿詩篇 夜

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこには、『第二聯の「――』を字空けで連投する『使用は、昭和10年3月の「枯木と風の歌」(第一巻所収)などにも見られる。』とある。この「枯木と風の歌」は、既に、二〇一五年十月六日に電子化してある。しかし、それは、底本として昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」を用いたのだったが、今回、調べたところ、この中村氏が拠ったものが、角川書店の旧全集(ここ〈一九五七年版〉/先行版はここ〈一九五〇年版〉)を底本にしたもので、そこでは、この第四聯の最終行が「 …… …… ……」になっていたのであるが、後の新全集(一九七一年刊)を見たところ、当該部(ここ)は以上のように、「―― ―― ―― ―― ――」になっていることを発見した。されば、そこを修正し、中村氏がルビを振った部分四箇所もカットし、さらに、Unicode導入以前の仕事であるので、正字不全があったのも修正しておいたので、見られたい。因みに、この草稿の創作時期は、昭和九(一九三四)年に想定されている。]

 

  夜

 

僕にはどうしてもわからない

どうしてあんなにいそぐのか

そして或る時はしづかなのか

風のことが

 

窓をとざして

僕は聞いてゐる

さうして いつまでも

―― ―― ―― ―― ――

 

2026/03/06

立原道造草稿詩篇 海峽

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  海峽

 

搖れながら あかりは風に消えて行つた

窓の外に 船はどこにゐるのだらうか

 

女たちは抱きあつて 昨日を呼んでゐた

(朝になつたら あれは歸だらうか)

 

誰もが祈ることを思はなかつた

風が叫び返した 波は白く炎のやうに散つてゐた

 

骸骨は 崩れたらうか――

女たちは 泣くすべを呼びつづけた

 

立原道造草稿詩篇 旅

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  旅

 

海は燕の歌をきいた――

日がはじまり 碑がをはり かうして

越えてゐる私の羽根には力があるのだ

私は疲れた阿呆鳥とはちがふのだらう

私はいさましく越えて行く 私は信じてゐると……

この小さな生物は海にいつかはその身を投げはしないか

 

海は絕えずうたつてゐた 呟きだつた

或る日 それは夏だつた

燕はたうとう海を越えきつた 海は忘れてゐた

白い波頭でその行方を見送りながら 繰返した

これはあまりに小さく 私はあまりに大きいと――

明るくはてしない晝であつた 似た雲があつた

 

立原道造草稿詩篇 白

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこには、『「――三四・九月」の制作時付記を持つ。』とある。]

 

  白

 

海への道だつた やさしいことだつた

しやべりながら はしやぎながら しづまりながら

それは明るい時だつた

 

おまへの耳に日が搖れ

濡れた木の間を光が洩れ

うすらいでゆく霧だつた 霧は空の色だつた

 

やさしいことだつた――

僕には夢があつた 笑ひがあつた

海には朝の船がとほい港に旅立つて行つた

 

 

[やぶちゃん注:道造の得意な過去形の失恋詩篇である。彼が詠む時、孰れも、気障を全く感じない。そこに私は惹かれる。私は多くの教え子の結婚式に招かれたが、そこでは、多くは、長い退屈な賛辞はせず、いろいろな詩を朗読した(私は国語教師時代、自ら『朗読七割、授業三割。』と嘯いていた)。数回、道造の詩も詠んだ。しかし、彼等は、それが、失恋の詩であることを知らなかった。道造の失恋詩には、失恋の持つ永遠の瞬間の至福があるからに他ならないのである。私も、この詩を、嘗つて愛した女性に贈ることとする。]

2026/03/05

立原道造草稿詩篇 夏へ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから、次のコマで視認出来る。そこには、『前掲』『鉛筆書き初稿「旅裝――K停車場で」』(ここは前の注記から正式な標題を示した)『とほぼ同文である。』とし、『昭和11年3月「ゆめみこ」発表の「夏へ」の原型。』とある。

★この注記中にある『ほぼ同文である』が気になる。「ほぼ」とあるのだから、違いがあるのである。しかし、底本全集には、いくら探しても、その鉛筆書きである初稿「旅裝――K停車場で」は、載っていないのである。恐らくは、標題(注記の殆んどでは、単に原題を「旅裝」のみとなっているのも、実は、甚だ、気になっているのである)・字配・表字(判読不能を含む)・「てにをは」の異体・誤字その他と有意な違いではないと判断されたものなのだろうが、やはり、気になるのである。因みに、調べてみたところ、『郷土作家研究』(通号二十八号・二〇〇三年七月発行)に載る野村聡氏の論文『立原道造「旅装」の考察--草稿詩との比較による解読の試み』に、その初稿が載るのではないかと思ったが、ネット上では直接の閲覧が出来ない(国立国会図書館に依頼すれば、閲覧可能だが、私は、現在、諸事多忙なれば、その余裕がない)。もし、私のブログの読者で、その論文を所持しておられる方が居られれば、その論文に原型が載っているのであれば、それを教えて下されば、誠に有難い。その関係上、最初に掲げたものを【草稿第二稿】とした。

☆本草稿を元にした発表された「夏へ」は、実は、私は、本全集の編者であられる杉浦民平氏の編になる岩波文庫版に載るものを、ここで、二〇一六年に公開しているのだが、恣意的に私が正字に直したものであり、杉浦氏はルビを附加されておられるので、改めて、ここで【雑誌『ひめみこ』掲載の決定稿】として、底本全集の「第一卷 詩集I」の「夏へ」を底本にして、改めて電子化した。但し、同巻の編者注に(ここの左丁下段三行目以降)、その発表されたものを、改めて、道造が手書き(推定)で、公開誌に訂正を入れたものが存在し、実は、同全集の本文は、編者によって、その訂正版で示されてあるのである。この「訂正」というのが、単なる雑誌編者の誤りなのか、発表後に道造が気に入らなくなって、発表誌に書き込んだものなのかは、その注記では明確ではない。そこで、最後に、【発表詩に後に自筆(推定)で書き変えた決定稿(推定)】として附すこととした。

 

【草稿第二稿】

 

  夏へ

 

ここにかうして待つてゐる 或る時の

僕の少年 僕の祕密

僕の知らない 誰かの出發

 

人はハンカチをふるだらう

すると窓からほほ笑むだらう

さうしてどこかに行くだらう

 

さう 僕は 帽子用意した

それから紙よりも白いシヤツを

さうしてさがしさがしに行くだらう

 

プラツトフオームで手をふつた 或る時の

僕の昨日 僕の少年

あの人のゐない 幾つも幾つもの出發

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、第三聯の頭の「さう」は、下の字空けからも判る通り、自分自身に改めて再確認をして、決意を示した「さう」(そう)である。]

 

 

【雑誌『ひめみこ』掲載の決定稿】

 

  夏へ

 

こゝにかうして待つてゐる、或る時の

僕の少年 僕の祕密……

さうして僕の 知らない人の 誰かの出發

 

人は ハンカチをふつてゐる

人は お辭儀をする

さうしてどこかに行くだらう――

 

(さう 僕は 帽子用意した

それから紙よりも白いシヤツを

さうしてさがしさがしに行くだらう)

 

プラツト・フオームで手をふつた

或る時の

僕の昨日

僕の少年……あれから

あの人だけゐない すぎた幾つもの出發

 

 

【発表詩に後に自筆(推定)で書き変えた決定稿(推定)】

 

  夏へ

 

こゝにかうして待つてゐる、或る時の

僕の少年 僕の祕密……

さうして僕の 知らない人の

忘れた 誰かの とほい出發

 

人は ハンカチをふつてゐる

人は 窓からほほゑむ

人は お辭儀をする

さうしてどこかへ行くのだらう――

 

(さう 僕は 帽子を用意した

それから紙よりも白い肌衣を

さうしてさがしさがしに行くだらう)

 

プラツト・フオームで手をふつた 或る時の

僕の昨日、僕の少年……あれから

あの人だけゐない すぎた幾つもの出發

 

2026/03/04

和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 目録・山草類 上卷・尾人參

 

Higeninjin

 

ひげにんじん 髭人參【俗稱】

       小人參【俗稱】

尾人參

       自此一種也俗

       以爲大人參之

       髭細根者非也

 

△按尾人參朝鮮中華共有之蔓生而與人參一類異種

 者也高一二寸葉似人參而小蔓出於莖布地至𠙚生

 根如草石蠺樣取其蔓根爲藥纖者似萆薢髭故名髭

[やぶちゃん注:「蠶」は、原本では「グリフウィキ」のこれ(上部の「天天」が「夫夫」)だが、表示出来ないので、正字で示した。]

 人參毎唐船皆將來之稱小人參性堅實其功勝於大

 人參之浮虛者

 

   *

 

ひげにんじん 髭人參【俗稱。】

       小人參《しやうにんじん》【俗稱。】

尾人參

       自《おのづか》ら、此れ、一種なり。俗、

       以《もつて》、「大人參の髭細根」と爲るは、

       非なり。

 

△按ずるに、尾人參は、朝鮮・中華、共に、之れ、有り。蔓生《つるせい》して、人參と一類異種なる者なり。高さ、一、二寸。葉、人參に似て、小《ちさ》く、蔓(つる)。莖より出《いで》て、地に布《し》き、至る𠙚に、根≪を≫生ず。「草石蠺(ちやうろぎ)」の樣《さま》のごとし。其蔓根《つるね》を取《とり》て、藥と爲《なす》。纖(ほそ)き者は、「萆薢(ところ)」の髭(ひげ)に似《にる》。故《ゆゑ》、「髭人參」と名《なづ》く。毎《まい》、唐船《たうせん》、皆、之《これ》、將《も》ち[やぶちゃん注:「將」の字には「持ち送る」の意がある。]來《きた》る。「小人參」と稱す。性、堅實にして、其功、「大人參」の浮虛《ふきよ》なる者に勝(《ま》さ)る。

 

[やぶちゃん注:本稿は、「本草綱目」に引用がない。そして、前回の「卷第九十二之本 山草類 上卷・人參」で予告した通り、良安が言っているような一類異種では、ない。

 「金澤 中屋彦十郞藥局」の「●髭人参(ひげにんじん、ヒゲニンジン)、毛人参(けにんじん、ケニンジン)」に拠れば(一部を太字にした)、『健康食品、髭人参は神農本草経の上品に収載され、古くからもっとも珍重された補剤です。その根が人の形ににているからつけられたといわれています』とあり、基原を前項と同じ『ウコギ科のオタネニンジン』=セリ目ウコギ科トチバニンジン(栃葉人参)属オタネニンジン(御種人蔘)Panax ginseng 『の細根を除いた根(白参、生干人参)。または』、『これを軽く湯通しして(御種人参、雲州仕立て)乾燥したもの。人参はその調整法により「白参」と「紅参」に大別できる。もっとも雲州仕立てのような中間型もある。白参は直参、半曲参、曲参にわけられる。日本産、開城人参などは直参、豊基人参は半曲参、錦山人参は曲参で、そのほか生産地により数種の形の人参がある。紅参は細根をつけたまま蒸しあげ乾燥したもの(日本産紅参)と、細根を除去し』、『圧力をかけて乾燥したもの(北鮮、韓国産紅参)とがある』。「産地」の項には、『日本(長野、福島、島根;栽培)、韓国、北朝鮮、中国、ロシア(栽培、野生品はきわめてすくない。)』とする。「成分」の項に、『精油0.05%(β-エレメン、パナキシノール、パナキシドール、ヘプタデカー1-エンー46ジインー39ジオール、サポニン配糖体約4%(ギンセノシドなど)、糖類約5%を含む)』とある。「処方例」として、『白虎加人参湯、生姜瀉心湯、小柴胡湯、人参養栄湯、理中丸など。』が挙げられてあり、「用法・用量」に『煎剤、丸剤、散剤。10.53.0グラム。』とする。そして、「同類生薬」として、『広東人参:アメリカニンジンの根を乾燥したもので、カナダ、北アメリカに産する。別名を「西洋参」「花旗参」などともいう、成分としてサポニン配糖体 5%、を含み、用途は人参と同様に用いる。』とし、さらに、『三七人参:サンシチニンジンの根を乾燥したもので、「田七人参」「田三七」などともいう。中国雲南省、広西壮族自治区およびベトナム北部に産する。成分としてサポニン配糖体38%を含み、その主成分はギンセノシドである。』とある。

 さて、この最後の二種については、前者が、

トチバニンジン属アメリカニンジン Panax quinquefolius

であるが、これは、当該ウィキに拠れば、『北アメリカ原産であ』るとあり、この種は「広東人参」の異名があるものの、これは、近代に『広州や香港を経由して』アメリカから『輸出されていたことに因む』ものである。同種の「維基百科」の「花旗参」の記載を見ても、近代以前に中国に持ち込まれたとする記載はないから、これは、良安がここで言っている「尾人參」では、あり得ない。

  しかし、後者は、

トチバニンジン属サンシチニンジン(三七人参)Panax notoginseng

という同属(=同属種)の別種である。「維基百科」の同種のページは単に「三七」である。本邦の当該ウィキに拠れば、『中国南部原産』とし、「別名」として、『田七人参(でんしちにんじん)』は『広西省の田陽』(ここ。グーグル・マップ・データ。次も同じ)や『田東』(ここ)『で産することから、「田」の字が冠される』とし、また、『金不換(きんふかん)』という別異名に就いては、『金に替えられないほど価値が高いという意味』とある。しかし、「歴史」の項に、『おそらく、原産地では古くからその薬効が知られていたものと思われるが、中国の医学に組み入れられた歴史は浅く、16世紀に李時珍が著した薬学書』「本草綱目」『が初出』とし、『別名「金不換」の通り、中国では長らく国外輸出が禁止されていたが、近年、日本をはじめ、世界各国に輸出されている』とあった。

 さても、「本草綱目」初出というのは、実に「草之一 卷十二上【山草類上三十一種】」の末尾に置かれていた。「維基文庫」のここである。以下に示すが、「維基文庫」版は正字では電子化されていない(誤字も多くある)ので、以下に、それを加工データにして、国立国会図書館デジタルコレクションの万曆一八(一五九〇)年序板の当該部で校訂して示すこととする。一部の表示出来ない異体字は、同字であることを確認の上、「維基文庫」の字を採用した。句読点は意味を採るのに有効なので、やはり採用した。なお、後者のデジコレの方には、追加部分がある。

   *

三七【綱目】

(釋名)山𣾰【綱目】金不換【時珍曰、彼人言其葉左三右四、故名三七、盖恐不然。或云本名山𣾰、謂其能合金瘡、如𣾰黏粘物也、此說近之。金不換、貴重之稱也。】

(集觧)時珍曰、生廣西、南丹諸州畨峒深山中、采根暴乾、黄黒色。團結者、狀畧似白及、長者、如老乾地黄、有節。味微甘而苦、頗似人參之味。或云、試法、以末糝豬血中、血化爲水者乃真。近傳一種草、春生苗、夏高三、四尺。葉佀[やぶちゃん注:「似」の異体字。]菊艾而勁厚、有龜岐尖。莖有赤稜。夏秋開黄花、蕊如金絲、盤紐可愛、而氣不香。花乾則吐絮如苦絮。根葉味甘。治金瘡折傷出血、及上下血病、甚效。云是三七、而根大如牛蒡根、與南中來者不類、恐是劉𭔃[やぶちゃん注:「寄」の異体字。]奴之属、甚易繁衍。

根(氣味)甘、微苦、温、無毒。(主治)止血散血定痛、金刃箭傷、跌撲杖瘡、血出不止者、嚼爛塗、或爲末摻之、其血卽止。亦主吐血衄血、下血血痢、崩中經水不止、産後惡血不下、血運血痛、赤目癰腫、虎咬蛇傷諸病(時珍)。

(發明)時珍曰、此藥近時始出、南人軍中用為金瘡要藥、云有竒[やぶちゃん注:「奇」の異体字。]功。又云、凡杖撲傷損、瘀血淋漓者、隨即嚼爛、罨之即止、靑腫者、即消散。若受杖時、先服一、二錢、則血不衝心、杖後、尤宜服之。産後服、亦良。大抵此薬氣温、味甘微苦、乃陽明、厥陰血分之薬、故能治一切血病、與麒麟竭、紫𨥑[やぶちゃん注:「礦」の異体字。]相同。

(附方)【新八】吐血衄血【山𣾰一錢、自嚼、米湯送下。或以五分、加入八核湯。 瀕湖集簡方】赤痢血痢【三七三銭、硏末、米泔水調服。卽愈。 同上。】大腸下血【三七硏末、同淡白酒調一、二銭服、三服可愈。加五分入四物湯、亦可。 同上。】婦人血崩【方同上。】產後血多【山𣾰硏末、米湯服一銭。 同上。】男婦赤眼【十分重者、以山𣾰根磨汁、塗四圍。甚妙。 同上。】無名癰腫【疼痛不止、山𣾰磨米醋調、塗即散。已破者、硏末乾塗。】虎咬蛇傷【山𣾰硏末、米飮服三銭、仍嚼塗之。 並同上。】。

葉(主治)折傷跌撲出血、傅之卽止、靑腫、經夜卽散、餘功同根【時珍。】。

   *

★則ち、良安は自身の持つ「本草綱目」で、これを見たはずなのだが、「和漢三才圖會」には、全文で「三七」を国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版を★全文検索しても

――影も形も――ない――

のである。この事実は、取りも直さず、

★✕以上の引用の如く――江戸中期に――このサンシチニンジンが本邦に輸出された可能性は――ない――✕★

と考えてよい、ということになる、と私は断定するものである。

 而して、ということは、

良安が言っている朝鮮・中華から齎されたそれは、オタネニンジン(チョウセンニンジン)の成長不全個体の製品である

と断定するものである。

「草石蠺(ちやうろぎ)」シソ目シソ科オドリコソウ亜科イヌゴマ属チョロギ Stachys sieboldii 。詳しくは、当該ウィキを見られたい。私は、秋田県の温泉で、同種の塊茎を塩漬けにしたものを食べて以来、好物となった。

「萆薢(ところ)」本邦では「野老」で「ところ」と読ませる。これは、ユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea の蔓性多年草の一群を指す。詳しくは、当該ウィキを見られたい。]

立原道造草稿詩篇 春風の歌 / 【私の独断でカップリングした同全集「下書き草稿篇」に配されてある詩篇】(海には波には……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから、次のコマで視認出来る。この原稿群は『一部の作品は』昭和九(一九三四)年『9、10月の制作時付記を持』つとする。この「春風の歌」は、この年の春の情景を謳っているが、まずは、この年の春の海浜での体験を詠んだものと採っておく。注記には、第二聯の初稿が記されているので、それを、【初稿】して電子化した。なお、私は「春風」は「はるかぜ」と読みたい。

 次に、注記には、この詩稿「春風」の草稿が書かれている原稿の『裏面に次の「夏へ」の鉛筆書き初稿「旅装――K停車場で」および無題詩断片(海には波は…第六巻所収)がある。』とあった。そこで、そちらを見たところ、それは「第六卷 雜纂」の「下書き草稿篇」のパートに入っていた。ここである。しかし、それは私には、この「春風の歌」と強い親和性があるものと読めた。そこで、私の独断で、この後に、それを、「春風の歌」とカップリングして、「(海には波は……)」として掲げることとした。恐らく、私の読者は、この詩を、何故、「下書き草稿篇」に入れたのだろうと、訝る方もあろうと思う。私もそう思った。だから、ここに配することとした。取り敢えず、編者が最終巻の「下書き草稿篇」で前解説をしている箇所をリンクさせておく(下段に当該詩の解説がある)。

 

【初稿】

 

  春風の歌

 

私はいつか流れて行つた

繪のやうな綠のなかを

たつたひとつのの人の言葉を

運んで行くと 人は誰でも受け取つた

ありがたうとほほ笑みながら

 

夢から晝へ きらめく枝のなかを

私は 每日のやうに靑い空を

駈けてゐた 晝から夜へ

沈丁が咲いてゐた 麥がのびてゐた

私はいつかひとりだつた

 

 

【決定稿】

 

  春風の歌

 

私はいつか流れて行つた

繪のやうな綠のなかを

たつたひとつのの人の言葉を

運んで行くと 人は誰でも受け取つた

ありがたうとほほ笑みながら

 

夢から晝へ 駈けてゐた

私は 每日のやうに靑い空を

菜が咲いてゐた 川が溢れてゐた

私はいつかひとりだつた

 

 

[やぶちゃん注:個人的で恐縮だが、私は菜の花が頗る好きだ(もっと好きなのは紫雲英(ゲンゲ)だ)。だから、決定稿が好きだ。]

 

 

   ☆

 

 

【私の独断でカップリングした同全集「下書き草稿篇」に配されてある詩篇】

 

 

  (海には波は……)

 

海には波は白く炎のやうに散つてゐた

すばやい虹の雲が走りすぎた

鷗が追つてゐた――

艪はあはただしく波を切り

舟は濡れた水脈をひいてゐた

 

 

[やぶちゃん注:「水脈」は、断然、「みを」と読む。]

2026/03/03

立原道造草稿詩篇 (かなしいまでに……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (かなしいまでに……)

 

かなしいまでにとほくを見て

眼よ おまへは泪をひたかくしてゐた

 

明るい雲の流れる街に

ボロの軒下を拾つて步き

おまへはひとをさがしあぐんだ

つれなかつたひとを

 

耳よ おまへのなかに老いたかなしみが

潮騒をうたひ とほい靄の夜をささやいた

 

夕暮れて 夕暮れは汚れた城のやう

荒れた草生にひとを待つてゐた

おまへは 來ないひとを

足音を

 

ながいこと さうして私はさまよつた

驢馬の步みよりまだ愚かしく

私は さうして ほほゑむだ

 

耳よ 眼よ

私は さうして ほほゑむだ

かつて愛したものの形は消えるまで

 

 

[やぶちゃん注:やはり漢字の読みが気になる。「眼」は全体を読み終わると、「まなこ」では、音律が上手くなく、結果的に浮いてしまい、おかしい。これは「め」であろう。

「草生」は「くさふ」と読む。草原に同じい。]

立原道造草稿詩篇 (眼をつむり……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (眼をつむり……)

 

眼をつむり それでも

葉の重なりが見えるのだ

暗いギザギザが消えないのだ。

人は己を 疲れたといひ 瘠せたといひ

それが己をイライラとさせ

己れの顏は汚れてしまふのだ。

闇のなかでおろおろとしてゐる顏

ギザギザの葉つぱに嚙みつかれ

どうすることもならない顏、

それでも己はしつこく眼をつむり

己の顏を瞶めてしまふのだ。

 

 

[やぶちゃん注:「己」(「己れ」も含む)は「おれ」と読んでいよう。

「瞶めて」「みつめて」。]

立原道造草稿詩篇 晩夏

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  晩夏

 

つめたい風が袖口をめぐつてゐた。僞はるために詩を書いた。秋とは何だつたらう。秋が來て、何をするのだつたらう。霧のふかい日がつづいた。明日ばかり算へてゐた。ギリシヤ神話をよんでゐた。門口で郵便配達に會釋をした。稀に旅人のやうに、道を瞶めてゐた。夢を見た。燈のまはりを蛾が羽ばたいてゐた。

 

[やぶちゃん注:妙に、漢字の読みが気になってしまった。「明日」は「あす」か? 「あした」か?……「瞶めて」は「みつめて」で良かろう……「燈」は「ひ」だろうな、「ともしび」では音数律に停滞が起きるからな……――「明日」を国立国会図書館デジタルコレクションで底本の全集を横断して検索したが、どこにも道造はルビを振っていなかった。結論としては、「今日」は「けふ(きょう)」であるから、想定されるのは対応する「あす」だろうが、「霧のふかい日がつづいた。明日ばかり算へてゐた。」というフレーズを音声にしてみると、実は「あすばかりかぞえていた」という音律は――如何にも――微妙に――よろしくないことが判る。「あしたばかりかぞえていた」で初めてリズムが合うのである。私は詩語音声として「あした」を採るものである。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「臼祖母巖」

[やぶちゃん注:底本はここから。段落を成形し、句読点を附加した。標題は、珍しく「臼祖母」の部分のみに『うすばゝ』(この場合は「うすばば」と読まないとおかしい)のルビがある。「巖」は、本文内容を考えるに、「いはほ」ではなく、「いは」と読むと推定した。]

 

 「臼祖母巖(うすばゝ《いは》)」 志駄郡《しだのこほり》瀨戶新屋村[やぶちゃん注:旧志郡内で、現在の藤枝市瀬戸新屋(グーグル・マップ・データ)であるが、実際には、現在の藤枝市南駿河台3丁目13-4の南向いのここ(グーグル・マップ・データ航空写真拡大)で、ストーリートビューのここ。後注も参照のこと。]にあり。傳云《つたへいふ》、

「當村鏡池《かがみいけ》は小池也。傍《かたはら》に巨巖《きよがん》あり、『臼祖母岩《うすばばいは》』と號《なづ》く。其形《そのかた》ち、人の口を開くに似たり。もし、此石に足をふるゝ者あれば、必《かならず》、瘧疾《ぎやくしつ/おこり》を患《わづら》ふ、云云《うんぬん》。」。

 毒石《どくせき》にや。

 

[やぶちゃん注:この石、現存する。場所であるが、個人サイトと思しい「志太の石碑・石仏めぐり」の「祠」の「うすんばあさん(姥神様) 子供の咳病平癒に霊験あらたかとされた巨岩と黒松」が、詳しい(国立国会図書館デジタルコレクションのリンクも完備している。但し、二〇二〇年二月で更新がないので、保存された方が無難である)。そこに、

   《引用開始》

 姥神様の祠の後ろに大きなくぼみがある岩が鎮座しており、そのかたわらに石祠と杉と黒松が立っています。この岩が姥神様こと「うすんばあさん」の御神体で、黒松は2代目の御神木です。うすんばあさんとは、「臼のばあさん」が訛ったもので、岩のくぼんだ形が臼に似ているためそう呼ばれていました。江戸時代に編まれた『駿河記』などには「臼祖母巌」として取り上げられています。

 元は現在調整池となっている烏帽子山北側の山沿いにありましたが、昭和50年(1975年)頃に始まった駿河台の宅地造成のため現在地に移転しました。旧地にあった頃には、先代の御神木黒松が岩をまたいで生えており、これらを一体のものとして祀っていたそうです。また、この前に「姥の鏡田」という清水が湧く水田がありました。

 旧地にあった先代の御神木黒松は、樹齢350年以上・樹高21mほどという立派なものでしたが、戦後間もなく火災にあい被害を受けてしまったそうです。現在地に移転する際に先代御神木の一部をとって移したものが、現在の御神木です。

 うすんばあさんは子供の咳に霊験があるとされ、足蹴にする者があれば必ず瘧疾(熱病)を患うともいわれていました。かつては多くの参詣者があり、近隣だけでなく遠州からわざわざ訪れる人もいたそうです。満願のお礼参りには竹筒に入れた酒を供えました。例祭日は43日とのことです。

 うすんばあさんが咳にご利益があるとされた由来は不明ですが、『駿河記』には「其形人の口を開きたるに似たり」とあり、案外そんなところから連想されてご利益が生まれたのかもしれないと想像しました。

 説明看板によると、旧地は調整池のほとりにそのまま残っているということです。しかし、調整池へ下りる道が封鎖されているため、おそらく立入禁止と思われます。なお、昭和59年(1984年)発行のゼンリン住宅地図には、この調整池に「姥ヶ池」というキャプションが付いていました。

 説明看板の設置者が瀬戸新屋町内会なのは、うすんばあさんの旧地が元は瀬戸新屋地内だったためと思われます。現在も南駿河台の南側に瀬戸新屋の飛地がありますが、昭和の初め頃には現・緑の丘付近と烏帽子山の東麓から富洞院あたりまでが瀬戸新屋に含まれていました。

   《引用終了》

さても、同ページの下方のゼンリン地図等が機能しないので、グーグル・マップ・データで調べたところ、サイト主が述べておられる『うすんばあさんの旧地』の『調整池のほとり』というのは、現在の航空写真では、ここの、地番「14」が打たれてある箇所で、私がストーリートビューのここの南東直近であることが判った。その後者の画像を見ると、現在の「うすんばあさん」の社には、角のフェンスが外されてあり、参拝することが出来るようになっていることが判るのである。

 なお、現在の「うすんばあさん」という呼び名は、推定だが、江戸後期から近代の庶民の呼称と思われる。その辺りを伺えるのが、リンクが機能する国立国会図書館デジタルコレクションの靜岡縣志太郡役所編になる「靜岡縣志太郡誌」(大正五(一九一六)年刊)の、ここの『【姥神御神木】(靑島村)』の項である。当該部を起こす(字空け・字配等は再現していない)。

   *

【姥神御神木】(靑島村)

所在地     瀨戶字壠川。

地上五尺の周圍 一丈五寸。

大約の樹高   十二間。

大約の樹齡   三百五十年。

傳說記錄の大要

往古より姥神御神木と稱し、巨巖を踏跨て[やぶちゃん注:「ふみまたぎて」。]樹に別に御神体[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]なく、只この巨巖と大松とを以て御神体とするが如し。巖は正面中央窪くして。其の形臼に似たるを以て、「臼ンバーサン」と云ふ。駿國雜志には、臼祖母巖とあるは此巖の如し。前に水田あり、內に形圓き[やぶちゃん注:「まろき」。]荒田あり、芦生立て[やぶちゃん注:「おひたちて」。]、古來之を御鏡田[やぶちゃん注:「おんかがみだ」。]と稱す。此の姥神は、小兒の咳疾(俗にシーラシヤアキと云ふ)に靈驗ありとて、近鄕は勿論、遠く遠州地方より參詣者多し。中古[やぶちゃん注:これは、日本文学史のそれではなく、漠然に「その時代からある程度隔たった昔・なかむかし」の意。]迄は每年三月三日祭典を行ひしも、今は祭典を行はず。立願果しに竹の筒に酒を入れて供ふること昔と同じ。

   *

「瘧疾」厳密には「わらはやみ」=マラリアを指すが、この場合は、流行性感冒等を広く指しているように思われる。]

2026/03/02

立原道造草稿詩篇 食料品店で

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。その注記には、『原記には』『消去された第二聯がある(現第二聯は第三聯である)。』として、消去された文章が記されているので、まず、それを【初稿】として復元し、最後に【決定稿】を示すこととした。]

 

【初稿】

 

  食料品店で

 

壜の肩のところに扇風機が映つて、しづかにそれはまはつてゐた。僕はぼんやりと見てゐた、壜のなかにも風が吹いて、葡萄酒の波が立つのだと。

 

子供たちは日本の饅頭の山のまはりを、遊んでゐた。ぬすみぎいて、僕は、その子たちがお饅頭の插話を澤山知つてゐるのに感心した。幾つもの知らない花束を過ぎて行つた葬列。空腹の時刻。……

 

僕は鑵詰の名を讀みながら、ポケツトのなかに銅貨を算へた。それから、美しい鑵詰の城を眺めてゐた。このなかには鰯の死骸があつてそれが銀色に光る美しい工たちなのだらうと。

 

 

[やぶちゃん注:「ぬすみぎいて」「竊(盗)み聴いて」。

「插話」「さうわ」。饅頭を素材にした昔話・民話のようなものを指していよう。

「幾つもの知らない花束を過ぎて行つた葬列」この一文は修飾関係が上手くない。]

 

 

【決定稿】

 

  食料品店で

 

壜の肩のところに扇風機が映つて、しづかにそれはまはつてゐた。僕はぼんやりと見てゐた、壜のなかにも風が吹いて、葡萄酒の波が立つのだと。

 

僕は鑵詰の名を讀みながら、ポケツトのなかに銅貨を算へた。それから、美しい鑵詰の城を眺めてゐた。このなかには鰯の死骸があつてそれが銀色に光る美しい工たちなのだらうと。

 

[やぶちゃん注:二篇を比べてみると、結果的に原第二聯を総て削除したのは、取り敢えずは、前の注で述べたように、使用語・表現にやや難があるから、正解では、あろう。しかし、「子供たち」を登場させなかった決定稿は、何か、やや暗いモノクロームの映像に道造が立って眺めるシークエンスに終始してしまっていて、残念な気もしてくる。なお、「扇風機」から、このロケーションは軽井沢と断じてよかろう。

立原道造草稿詩篇 電話の口笛

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。その注記には、最終行に消去された文章が記されているので、まず、それを【初稿】として復元し、最後に【決定稿】を示すこととした。]

 

【初稿】

 

  電話の口笛

 

 僕はむちやくちやに自動電話のなかにはいり、受話器を外し口笛を吹いてゐた。交換手が何度も然るのが聞えた。僕は平氣であつた。

 ある日、僕が用事があつて電話をかけた。なかなか出て來ない相手を待つてゐると、口笛がしよつちゆう聞えてゐた。僕は、僕が向うの電話口でまた出たらめにうたつてゐのだと思ひ出した。すると電話口で人を待つてゐる方のこちら側の僕がだんだん消えはじめた。やがて手に持つてゐたコーモリ傘と風爐敷包だけがそこに殘つた。

 

 

【決定稿】

 

  電話の口笛

 

 僕はむちやくちやに自動電話のなかにはいり、受話器を外し口笛を吹いてゐた。交換手が何度も然るのが聞えた。僕は平氣であつた。

 ある日、僕が用事があつて電話をかけた。なかなか出て來ない相手を待つてゐると、口笛がしよつちゆう聞えてゐた。僕は、僕が向うの電話口でまた出たらめにうたつてゐのだと思ひ出した。

 

立原道造草稿詩篇 初秋

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。表題は「しよしゆう」と読んでおく。底本全集で横断して調べたが、読みを附したものは見当たらなかった。]

 

  初秋

 

夜、窓をひらくと、あたらしい油繪具のにほひがぷんとした。近所に繪描きのアトリエなどある筈もないので不思議に思ふと、明るい月が隣の家の屋根に繪を描いてゐるのだ。仕事を邪魔してはわるからうと、窓をとぢてゐたら、やがて一なすりばかり、こつちの窓のガラスにも、水銀色を塗つて行つてくれた。それが、夜が更けて來ると、どうもレモンのやうなにほひがする。僕は頰に掌をあて、しづかな顏で嗅いでゐる。

 

立原道造草稿詩篇 (夜(や)ぶん、くらいあかりが……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (夜(や)ぶん、くらいあかりが……)

 

夜(や)ぶん、くらいあかりがともると、僕は、ひとのところにばかり行つた。それは古びた宿の、昔は殿樣の部屋だつた。その部屋にもくらいあかりがともり、やたらに蟲が障子にぶつかつた。だのに僕はこゝでならちつとも哀しくないのだと信じた。僕はビスケツトばかり食べ、ひとが何か言つてくれるのを待つた。ひとは何も言はなかつた。

眠る時間が來るとお時儀をして歸つた。

 

床をのべて、そのなかに眼をとぢた。あかりはもうつけないで、季節はづれの蛙の聲に、一刻(とき)の汽車の唄に眼をとぢてゐた。

 

 

[やぶちゃん注:注記に、「古びた宿」について、『信濃追分の旧・脇本陣「油屋」のこと。』とある。ここである(グーグル・マップ・データ)。現在は、イベント会場「文化磁場油や」となっている。同サイトのこちらを見られたい。それに拠れば、『江戸時代は中山道・追分宿の脇本陣であり、昭和になってからは文士の宿(「油屋旅館」)として、多くの文士・知識人が訪れ、執筆した旅館でした。』とある。

「お時儀」注記に『ママ〈お時儀〉。』とある。確かに、小学館「日本国語大辞典」に『じ‐ぎ』に漢字表記を『辞宜・辞儀』とし、『① 挨拶(あいさつ)すること。頭を下げて礼をすること。また、その礼。おじぎ。』とし、初出例として『「Iiguiuo(ジギヲ)トトノエル」』とし「日葡辞書」(慶長八(一六〇三)年~同九年)を引く。続いて、『② (「時宜」「時儀」から転じた用法)遠慮すること。辞退すること。また、その遠慮。おじぎ。時宜。』とし、初出例として、『作右は母にじぎもなく、さいつさされつ式作法。』とし、浄瑠璃「心中万年草」元禄一四(一七一〇)年を挙げてある。しかし、道造が好んだ芥川龍之介の小説に「お時儀」があり、私には全く違和感はない。]

2026/03/01

立原道造草稿詩篇 旅情歌 I

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  旅情歌 I

 

マツチの箱にはコーモリ傘の繪が貼つてありました。

夜汽車のなかで――。

僕は、前に坐つた人の煙草を吸ふのをぼんやり眺めて居りました。

「これはもう、旅は終りに近く

窓に町があかりをつけて

暗い火かげをあはたゞしくちらつき……」

僕は手帳に書きました、用事を思ひ出した人のやうに。

櫛いれてゐる少女が、ビスケツトを食べながら、窓ばかり眺めて居りました。

「あ、知らない人つきり、これはもう……」

 

[やぶちゃん注:因みに、標題には「I」とあるが、II以降は存在しない。

注記には、「旅は終りに近く」に『昭和9年9月1日付・杉浦明平宛書簡中の「旅の終り」と呼応する。(8月22日、福江の杉浦家を訪問)。』とある。「福江」というのは、現在の田原市西部福江町(ふくえちょう)で、渥美半島の先に近い三河湾に面している(グーグル・マップ・データ。なお、独身時代の私は出不精で、殆んど一人旅をしたことが殆んどなかったが、二十六歳の時、伊良湖に遊んだことがある)。以上の書簡は、底本の全集の「第六卷 書翰」のここ(右ページ上段の後ろから七行目から下段にかけて)で、当該部を引用すると、頭には一字下げで「*」が附されて、以下、一字下げで以下が始まる(全体が一字下げ)。

    ※

旅の終り 樂しかつたね――ああほのとに樂しかつたよ。しづかな海の面、言葉は散りながら、とほくの島の燈臺になつたんぢや、ないかしら。――あんなに、ささやかな喜びが、まあ、こんなに大きく思はれる。僕は汽車にのりおくれ、のりおくれたばつかりに田舍町を散步した。だのに、其處には昨日の海はにほはずに、僕は窓から慌しく外を慌しく消える村々を眺める。それから、日暮れの一日おくれた海の面を。

   ※

また、同全集「第六卷 雜纂」の「年譜」を見るに、昭和九(一九三四)年満二十歳の『八月二十一日、追分』(軽井沢)『を発ち、上松(あげまつ)(長野県西筑摩郡植松町)におもむく。上松には生田勉が滞在中のはずであったが逢えず、空しくそこに一泊し、その足で愛知県渥美半島の福江(渥美郡渥美町福江)に杉浦民平を訪れて、二十三日帰京。

   ※

とあった。]

立原道造草稿詩篇 風

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  風

 

――僕は……

果物屋なんかと

花屋なんかの

ある町を通つたら

なんでいつもはこんな不幸なんだか

あかりがつく時分は

もう次の町に行つてるんだ

赤ん坊が泣いてるんだ……

 

早すぎる足 見えない足 風がガラスにきかせて行つた 窓がうたつた

 

町では誰も風や星の言葉に氣がつかないが

一人がいつでもかなしい氣持で聞いてやつてゐた

 

[やぶちゃん注:このイメージを軽井沢に比定しては、いけない。これらの詩群の創作時は、彼の軽井沢経験は、この年の夏であるからである。]

立原道造草稿詩篇 白痴

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、論拠はカットするが、「白痴」から「食料品店で」までの八篇が書かれたのは、『本用紙の使用上限を8月25日と想定し得、使用全期間を9月中と限定できると思われる』とある。]

 

  白痴

 

何が書かれてあつたのか

カーテンのなかのこと お前の寫眞

公園で 音樂をきいた 驢馬がいた

――ナスターシヤ みんなおこりぽかつたね

 

かなしみ 光がキラキラした あれは くらい海だつた――かなしみなどともういふな

齒のなかに 樺色の流れがある それつきり

またあとで 讀みなほさう

 

[やぶちゃん注:注記に、標題に就いて、『フョオドル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキイ(一八二一―一八八一)の長編小説『白痴』(一八七四)。ナスターシャ』(ナスターシヤ・フィリッポヴナ・バラシコーワ)『は』、『その女主人公。立原は昭和9年2月15日付國友則房』(底本では、「房」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので通常字で示した。なお、この頃は、満二十歳で、翌三月に一高を卒業している。)『宛書簡で読了のことを伝えている。』とあった。底本の同全集の「第六卷 書翰」のここで視認出来る(左の上段の中頃の部分)。但し、ここを読むと、道造はドストエフスキイの作品を最初に読んだのが、この「白痴」だったことが判る。また、「第六卷 雜纂」の年譜の当該部を見ると(年齢は数えで示されてある)、『このころ、チェホフの小説「決鬪」を読み』、『感動する』とあるが、この書簡の冒頭にも「決闘」を読んで『傑作だお思ふ』と述べている。私は、チェーホフよりも、遙かにドストエフスキイの方が好きだ。というより、チェーホフで感動した作品は、殆ど、ない。道造は、所謂、偏執的文体が嫌いだったと推定される。なお、同巻の注記に(ここの右ページ上段の後ろから三行目から下段にかけて)、道造が読んだ、「決鬪」は『小山内薫訳・昭和7年8月・春陽堂世界名作文庫刊。』と断定しており、「白痴」については、『大正以後の翻訳は米川正夫訳・昭和8年・全4冊・新潮文庫。』と記してある。私の所持する「ドストエフスキイ全集」も米川氏の全訳である。]

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