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2026/03/31

立原道造草稿詩篇 優しき歌 (添え題:「光のなかで」)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこには、『同奥書きに「優しき歌――樹木の影に」初稿および無題下書き「太陽は空の中心にかかる」を持つ。『優しき歌Ⅱ』を集中制作していた昭和13年夏の作品と想定する。』とある。「優しき歌」の「樹木の影に」の決定稿は、以前に電子化したものがここにあるが、底本が不全なものである(前に言った通り、膨大な作品の一部であって、全部を書き換えることは、今は出来ない。悪しからず)。なお、「太陽は空の中心にかかる」の下書きは、底本全集の「第六卷 雜纂」のここで視認出来る(この「下書き」類は、以前に言ったように電子化するつもりである)。

 この草稿は、以前に、ここで電子化したが、それは、私の「優しき歌」群の参考のために杉浦氏の編になる岩波文庫「立原道造詩集」から恣意的に電子化したものであるので、今のところは、取り敢えず、ダブったそのままに残しておく。]

 

  優しき歌

     光のなかで

 

風は あちらの梢で

僕を招いてゐるが 僕は

ここを離れずにゐる

裸の眼にうつる靑い空と白い雲と⋯⋯

 

僕は いまからは 明るい

太陽と光とばかりを

とらへようとおもふ

影のなかに ながいこと ひとりでゐたが

 

おまへを おもふと 僕は

たしかに つよく 力にみちて來る

 

ここのせまい身のまはりが

こんなにひろく豐かになる

 

しかし それは飾られたのではない

僕らの心が 耐へて さうなるのだ

 

立原道造草稿詩篇 (私のかへつて來るのは⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこには、『草稿消失(無題)』とあり、本底本に先行する旧『角川書店版第五巻』とし、『第三聯の行組みに疑問があるが、そのままとした。とある。以下、『*第二詩はザラ紙初稿を持つ。』とするが、その初稿は最早、上記通り、存在しないのだから、恐らく、前の全集担当編者のそうしたメモが残っているのであろう。]

 

  (私のかへつて來るのは⋯⋯)

私のかへつて來るのは いつもここだ

古ぼけた鐡製のベツドが隅にある

固い木の椅子が三つほど散らばつてゐる

天井の低い 狹くるしい ここだ

 

ランプよ おまへのために

私の夜は 明るい夜になる そして

湯沸しをうたはせてゐる ちひさい炭火よ

おまへのために 私の部屋は すべてが休息する

 

──私は けふも 見知らない友を呼びながら

歩き疲れて かへつて來た 街のなかを 私は けふも 疑つてゐた そして激しく

渇いてゐた⋯⋯

 

窓のない 壁ばかりの部屋だが 優しいが

すつかり容子をかへてくれた⋯⋯私が步くと

ここでは 私の步みのままに 光と影すら 搖れてまざりあふのだ

 

[やぶちゃん注:嘗つて、昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」を用いて電子化してあったが、それは、勝手に編者が、いらん読みを附してあったし、私は特に注も附していなかったので、それを削除し、仕切り直しした。

 編者の言っておられるのは、恐らく二行目で文章を形容詞でぶち切り、「渇いてゐた⋯⋯」として終わっているのが、気になったのであろう。確かに、道造の組み方としては、躓く妙なブレイクである。個人的には、旧編者の判読したものであろうが、実際には、

   *

──私は けふも 見知らない友を呼びながら

歩き疲れて かへつて來た 街のなかを

私は けふも 疑つてゐた そして

激しく 渇いてゐた⋯⋯

   *

と、道造は行組みしたのではなかったか? と疑っている。異論があれば、お教え戴ければ幸いである。

立原道造草稿詩篇 一日

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。そこには、『署名入』で『初題「窓にて・I」』とり、以下、『*第二詩はザラ紙初稿を持つ。』とするが、その初稿は示されていない。『*第三詩は草稿裏に無題の初稿を持つ。』とあるが、同前。本草稿は『*遺稿と註されて「革新」昭和14年8月号に発表された。「革新」は革新社発行の綜合月刊雑誌(田所太郎編集)。』とあり、最後に『◎以上の三篇』(草稿「夕映の中に」・「夜 泉のほとりに」を指すので注意)『は角川書店版第五巻』(これは、戦後すぐの方ではなく、一九五九年の方の本底本の旧版を指す。ここから)『の配列に従った。』とある。

 さて、私は本草稿篇を二〇一五年九月に、一度、電子化注しているが、底本を、当時の国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を用いており、これは、底本の表記に許し難い多くの問題があり、特に本詩篇に就いては、およそ残しておくことは出来ないと判断して削除し、新たに、ここで決定版として再校正して公開することとした。そこでは、私の注も附してあったが、それらも総て再考し、ここで書き直した。

 なお、この前の「夕映の中に」「夜 泉のほとりに」の二篇は、既に二〇一五年に電子化注したものがあるので、そちらを底本変更、或いは、本底本で校正をして正規表現に直した。

 

    一日

私をささへて 黑い花があつた

私は それを 摘みとつた

祕密な白い液の重い滴りが

莖の色を 蒼ざめさせた 

 

私の眼ざしは 枯れはじめた

私の饒舌は 息切れはじめた

黃昏は あちらの方で 一日を

心にもなく美しく化粧する と 私にはおもはれた 

 

それが なぜ なのだらう?

窓の內側に燈がともつてゐて

ひそかな聲が呼んでゐるとき

多くの人が家もなく 急いでゐるのは! 

 

私らが ひとつの橋で 明日

あり得ること 空しい問ひは

いつまでものこり そのままにそれは

問ひただしてやまないのだ 

 

贋貨が通用しない日々はない

凋んだ花が 夜のうちに 生きかへるだらう

しかし 私は それを摘みとつた

私をささへて 黑い花があつた⋯⋯

 

    ⁂

  

雪が霽れて――空には 鳩らが低く

飛んでゐる 曇つた空に⋯⋯風景よ

ときに おまへは 忘却であり

おまへは 美しい追憶である 

 

おまへの灰色は 鳩らと共に

灰色であり むしろ 慰め!だ

ためらひながら ひとつの情緖の

こころよく 訪れるときに―― 

 

おまへとの一日が たとひ無限を

あこがれないものであらうとも

僕らのフーゲが むしろくらく低く

寂寥のみの場所の あらうとも 

 

風景よ おまへは自らの光をねがふ

雪のあとの夕べのしづかさに住んで

 

    ⁂

 

かつて私は Lyra をとり奏で

一日を 黃昏まで

うたひくらした日があつた

みづからの歌に聞き恍れながら 

 

私の咽喉は金屬の

笛のやうに澄んでゐた

夢多かつた むなしい弱年の一日よ

私はいまは 夢で夢を描かうとする 

 

身ぶりにまで 高まつたこの界ひに

しつかりと土の上に 私はいまは

架けようとする もつと大きなものを 

 

怒りと 一層激しい諦めで

眺められる あのひとつのものを

私が 靜かな測定器であるやうに

 

 

[やぶちゃん注:先行する未発表のグループの未定稿詩篇五篇の最後に置かれたやや長い一篇である。

第二聯三行目「黃昏」(後の聯のものも同じ)は道造の使用法から「たそがれ」と訓読みしていると断ずる。

第三聯二行目「燈」新潮社「日本詩人全集」第二十八巻は「あかり」とルビを振る。私は音数律から「ひ」の可能性を除去出来ないので、留保する。

第五聯一行目「贋貨」後続の諸詩集は「にせがね」とルビする。私もそれを採る。

第七聯三行目「情緖」中村真一郎編「立原道造詩集」(角川文庫)は「じょうちょ」とルビする。「じやうちよ」であるが、これは「じやうしよ」の慣用読みであるから、私は断然、留保する。

第八聯三行目「フーゲ」これは音楽用語の「フーガ」(英語“fugue”、或いは、元はラテン語由来のイタリア語“fuga”で「遁走」の意)のドイツ語“Fuge”の音写「フーゲ」であろう(道造の第一外国語はドイツ語である)。複数の声部に於いてある主題の反復、及び、模倣(応答)が交互に現れる対位法(Kontrapunkt :ドイツ語)による多声音楽の書法形式で、特定の調に転調しながら展開される。

第十聯一行目「Lyra」頭が大文字になっているところから、これもドイツ語と採る。音写は「リューラ」で、狭義には「古代ギリシャに於いて用いられた竪琴(通常は七弦)」を指す。共鳴胴に立てた二本の支柱に横木を渡して弦を張ったものである。リラ。同語が、星座の「琴座」を指すことからもわかるように、あの、「竪琴(たてごと)」である。

同四行目「恍れながら」は「ほれながら」と訓じていよう。

第十二連一行目「界ひ」は老婆心乍ら、「さかひ」と訓じる。]

2026/03/30

立原道造草稿詩篇 (とほく とほく⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇は、変則的で、実は、前の「徑の曲りで」の注記の最後の、ここの左のコマの上段四行以降に、原稿の裏に「徑の曲りで」が記され、その表面(おもてめん)の方に、詩篇が書かれてあり、それを編者である堀內氏が『棄てられた不明詩の断片である』とするものが、紹介されている。それを、独立草稿と断じて、以下に示すこととした。恐らく、今まで殆んど知られていない草稿である。但し、これを以って全く「徑の曲りで」の制作時期と一致するとは言い難い。表に書いているからには、「徑の曲りで」よりも以前に詠まれたもの考えるのが、自然であろうと思う。]

 

  (とほく とほく⋯⋯)

 

とほく とほく ひろがつてゆく

花は もう しほれることなく

あたらしく生き 時は ながれてながら

もう朽ちゆくものもない⋯⋯すべては解けて 色だ!

 

立原道造草稿詩篇 徑の曲りで

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこに、『裏書き一枚』とし、『下方に「Ⅴ また落葉林で」の無題初稿』(私の「また落葉林で   立原道造」を見よ。但し、既に述べた通り、表記は問題がある)『を持つことから『優しき歌Ⅱ』第一回清書の直後に制作と想定する。』とあった。なお、表題の「徑」であるが、「みち」と「こみち」の訓があるが、道造は「こみち」の場合は、「小徑」と表記するので(例えば、ここ)、「みち」と読んでおく。ただ、小さな最後の改行「⋯⋯」はママ。私のミス・タイプではない。]

 

  徑の曲りで

 

ほてつた 私の耳に

もう秋! おだやかな 陽氣な 陽ざしが

林のなかに ささやいてゐる

蜂蜜のやうに 澄んで⋯⋯

 

私らは 步いて行く⋯⋯風が

鳴つてゐる 木の葉が

光つてゐる――見おぼえののあるやうに

とほくの方で あちらの方で

 

花の名 鳥の名は 私らの

心のなかで またくりかへしては告げられる

もう見られないものまでも

 

昨日 ふたたびあたらしく はじまつた

しかし それが こんなにたよりないのだらうか

⋯⋯

2026/03/29

立原道造草稿詩篇 夢のあと

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこに、『『優しき歌II』第一回清書の際(昭和13年8月)に破棄されたもので、「III さびしき野」の第四聯につづけて書かれている。』とあり、更に大事な注が以下のように続く。『現代「Ⅳ 甲斐なき思ひ」を消して改題。従来の「優しき歌Ⅳ ヴアリエイシヨン」なる副題は、編者の付けたものなので除いた。』とあった。私は、ずっと以前に、「夢のあと――優しき歌Ⅳ ヴァリエイション   立原道造」として本詩篇を、昭和四三(一九六八)年新潮社刊「日本詩人全集」第二十八巻の「立原道造」(中村真一郎編)を用いて電子化注してあるが、而して、これの底本は、角川書店旧全集のここが、それなのである(神保光太郎編)。こうした事実は、殆んど知られていないことであるから、以前のものも、「夢のあと――優しき歌Ⅳ ヴァリエイション   立原道造 【このダッシュ以下は道造が打ったものではない!】」と改題して残すこととした。

 「優しき歌」の全篇は、分割で既にずっと以前に電子化しているものの、ちょっと確認しただけでも、傍点が「‥‥」になっており、修正が必要だが、膨大な量なので、今回は、そこまでやる余裕がない。悪しからず。

★なお、この前の「晩春」「窓邊に凭りて」の二篇は、既に二〇一五年に電子化注したものがあるので、そちらを底本変更、或いは、本底本で校正をして正規表現に直した。結果、孰れも私の注も、今回、大幅に追記してあるため、私の草稿詩篇を順に読まれている方は、そちらを見られることを、強く、お薦めする。★

 

  夢のあと

 

嘗てを

けふと

區別する

光のなかで

 

おまへの心は

うたふ 花だつた

おまへの心は

咲く 小鳥だつた

 

むしろ しめつた 春の風の

かへつて來るときには

忘れるがいい

 

ほほゑみが 淡く 描いた

さざなみを いつかは 時が

消して行つた 嘗てのやうに!

 

2026/03/28

立原道造草稿詩篇 (私の 貧しさは⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこに、『草稿無題。堀辰雄?の「昭和十三年一月」のメモがある。』とあった。

 さても、実は、これ、二〇一五年九月に、ここで、電子化注している。しかし、それは、旧角川書店版全集の、ここに基づいたものであり、本底本の物が正しい。ただ、そういう書誌学的な不全が、長く後の詩集・選集に影響を及ぼしている例として、敢えて残すこととした(標題で判るようにしておき、この投稿が正規版であるとするリンクも附した)。カットしたくないのは、私が、最後に注で、この詩篇への感懐も述べているからでもある。

 

  (私の貧しさは⋯⋯)

 

私の 貧しさは 暗い淚をたれ

ひつそりと 建物の壁に沿つて 步く

風が 私の髮を かきみだしてゐる

怒つたやうに⋯⋯

 

不意に 明るい場所へ 出るので

影は 濃く 風が にほひはじめる

日向の色に 私の心は耐へかねない

しづかに 聲を立て むせび泣く

 

そして どこからか 老いた

母の うたふ聲が 私を立ちどまらせる

眠らせようとでも するやうに

 

明るい晝なのに 何かしら眠りが

私のうちを ゆきすぎる⋯⋯ああ

この疲れに 私の步みは すでに馴れはじめた

 

立原道造草稿詩篇 ひとり林に⋯⋯

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこに、『「火山灰ノート」に書き込み、同ノート中の「追憶」(昭和12年4月発表)の前に位置することと、「眞冬のかたみに」の別稿でることで同年早春の制作と想定する。』とある。「火山灰ノート」の方を見ると、全体に有意な違いが複数あることが判った。されば、これを【初稿】と見做し、前に添えた。また、「眞冬のかたみに」は別稿とあるものの、【最終決定稿】と見做して、取り敢えず、後に置いた。その底本はここである。

 実は、私は、『カテゴリ「立原道造」創始 /「ひとり林に‥‥」(草稿) 及び その決定稿「眞冬のかたみに」 並びに 別篇「ひとり林に‥‥」』(二〇一五年九月十五日投稿)で本草稿篇を電子化注してある。但し、そこでは、国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊『飛鳥新書』立原道造「詩集 優しき歌」の「III」のここの画像を底本としており、今回の底本とは微妙な違いがあることと、リンク先は私のブログ・カテゴリ「立原道造」の初回投稿であることから、正規表現不全等を修正して、そのまま投稿を生かすこととする。

 太字は、底本では傍点「﹅」である。

 

【初稿】

 

  ひとり林に⋯⋯

 

山のみねの いただきの ぎざぎざの上に

あるのは 靑く淡い色 あれは空⋯⋯

空のかげに かがやく日 空のおくに

ながれる雲⋯⋯私はおもふ 空のあちらを

 

夏の日に 咲いてゐた 百合の花も ゆふすげも

薊の花も かたい雪の底に かくれてゐる

みどりの草も いまはなく 梢の影が

葵色の こまかい線を 編んでゐる

 

ふと 過ぎる⋯⋯あれは頰白 あれは鶸

透いた林のあちらには 山のみねのぎざぎざが

ながめてゐる 私を 私たちを 村を――

 

すべてに 休みがある ふかい息をつきながら

耳からとほく 風と風とが ささやきかはしてゐる

――ああ この眞白い野に 蝶を飛ばせよ!

 

 

【草稿】

 

  (ひとり林に⋯⋯)

 

山のみねのいただきのぎざぎざの上に

あるのは 靑く淡い色 あれは空⋯⋯

空のかげに かがやく日 空のおくに

ながれる雲⋯⋯私はおもふ 空のあちらを

 

夏の日に 咲いてゐた 百合の花も ゆふすげも

薊の花も かたい雪の底に かくれてゐる

みどりの草も いまはなく 梢の影が

葵色のこまかい線を 編んでゐる

 

ふと 過ぎる⋯⋯あれは頰白 あれは鶸!

透いた林のあちらには 山のみねのぎざぎざが

ながめてゐる 私を 私たちを 村を――

 

すべてに 休みがある ふかい息をつきながら

耳からとほく 風と風とが ささやきかはしてゐる

――ああ この眞白い野に 蝶を飛ばせよ!⋯⋯

 

 

【最終決定稿】

 

    眞冬のかたみに⋯⋯

       Heinrich Vogeler gewidmet

 

追ひもせずに 追はれもせずに 枯木のかげに

立つて 見つめてゐる まつ白い雪の

おもてに ながされた 私の影を――

(かなしく 靑い形は 見えて來る)

 

私はきいてゐる さう! たしかに

私は きいてゐる その影の うたつてゐるのを⋯⋯

それは淚ぐんだ鼻聲に かへらない

昔の過ぎた夏花のしらべを うたふ 

 

⦅あれは頰白 あれは鶸 あれは 樅の樹 あれは

私⋯⋯私は鶸 私は 樅の樹⋯⋯⦆ こたへもなしに

私と影とは 眺めあふ いつかもそれはさうだつたやうに 

 

影は きいてゐる 私の心に うたふのを

ひとすぢの 古い小川のさやぎのやうに

溢れる泪の うたふのを⋯⋯雪のおもてに―― 

 

 

[やぶちゃん注:「鶸」は簡単には注が出来ない。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶸(ひわどり) (カワラヒワ・マヒワ)」を参照されたい。但し、軽井沢と時期から、スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科カワラヒワ(河原鶸)属カワラヒワ亜種カワラヒワ(或いは亜種コカワラヒワ)Carduelis sinica minor の可能性が最も高いと思われる。]

立原道造草稿詩篇 黃昏に

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこに、『副題により昭和12年1月15日付・田中一三宛書簡に示された物語集『鮎の歌』プランの小曲ではなかろうか。草稿には堀辰雄らしい筆蹟の「昭和十三年?」のメモがある。』とし、『物語「花散る里」もFrau R.KITA に捧げられている。』とある。また、『「落葉林で」の同聯と同意反復である。』とする。同全集の「第五卷 書翰」のここの書簡番号「三五四」で、当該箇所は次のコマの下段の段落の六行目の『IVが「小曲」』とあるのを指す。このプランの話は、部分だけ引用しても、十全に理解出来ないので、書簡全文を見られることを望む。物語「花散る里」は既に「花散る里   立原道造」で電子化注してある。

 なお、本篇は、以前に「黃昏に   立原道造」として電子化注してあるが、これは、底本が特殊なもので(国立国会図書館の旧近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の当該詩篇)、検証すると、第三聯の「脊」、第四聯のリーダに異同があることが判ったので、ここで再掲する。なお、そちらの私の注も参照されたい。なお、注記に出た「落葉林で」は、上記「黃昏に   立原道造」の私の注の中で引用してある。

 

    黃昏に

       FRAU R. KITA GEWIDMET

 

 すべては 徒勞だつた と

告げる光のなかで 私は また

おまへの名を 言はねばならない

たそがれに 

 

信じられたものは 美しかつた

だが傷ついた いくつかの

風景 それらは すでに

とほくに のこされるばかりだらう

 

私は 身を 木の幹に凭せてゐる

おまへは だまつて 脊を向けてゐる

夕陽のなかに 鳩が 飛んでゐる 

 

私らは 別れよう⋯⋯別れることが

私らの めぐりあひであつた あの日のやうに

いまも また雲が空の高くを ながれてゐる

 

 

[やぶちゃん注:標題の「黃昏」は私は「たそがれ」と読みたい。因みに、所持する杉浦氏の「立原道造詩集」(一九八八年岩波文庫刊)でも「たそがれ」と振っておられる。]

つげ義春氏の逝去を悼む

本未明、ネットを見、つげ義春氏が三月三日に亡くなっていたことを知った。 私は、高校教師時代の後半、現代文の授業で、何度も、偏愛するつげ氏の「海辺の叙景」を総て印刷し、表現朗読をした後、シークエンスの心理分析を行った。国語教師で、こういうことをした方は、そう多くはあるまいと思う。思いの外、女子生徒が非常に感動し、「作品集を貸して欲しい」と言ってきたのだが、これには、かなり困った。同時期のつげ氏の作品には、かなり頻繁にセクシャルなコマが頻発するものが、複数あったからである。そこで、問題のある作品には廻した襷を掛け、「閲覧は自己責任で」と記し、保護者には必ず、そのままで渡し、「海辺の叙景」を読んで貰うように、と貸したものだった。幸い、苦情は皆無ではあったが。

その後、管理主義に急速に変質した職場に嫌気がさしていた私は、最後の授業では、念願だった浦沢直樹氏の「プルートゥ」の「ノース2号の巻」を個人授業した(当日夜のブログ「浦沢直樹 プルートゥ ノース2号の巻 個人授業」)。⋯⋯昨今、漂白された教科書は勿論、選択制となり、本邦の近代小説を全く読まずに卒業する生徒も出現する恐るべき現状が出現している。若き国語教師よ、自分が心から感動した対象を教材にされんことを切に望むものである。




立原道造草稿詩篇 田中一三に

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから(次のコマまで)視認出来る。それに拠れば、『菊判朱筆入校正ゲラ四枚』とし、『第一詩の後半より第三の終りまでの初稿は松屋製四百字詰草稿』『四枚であり、裏面に「未成年」とメモがある。恐らく「未成年」』(同人誌『僞畫』を解体し、新たに道造らが、昭和一二(一九三七)年に発行した同人誌であったが、九号で終刊した)『の復刊のためと思うが、ゲラの組付けの特徴を立原の関係同人誌に見ることができない。』とし、『*第三詩の題名である俳句』(「時雨ふる京の泊りは墓どなり」)『は、昭和111029日付・小場晴夫書簡にあり、同年10月3日付および1224日付・田中一三宛書簡により、同年12月の制作と想定する。』とあった。最初の小場宛書簡は、同全集の「第五 書翰」のここ(書簡番号「三一五」・巻頭)で視認でき、後の田中宛の二通は、ここ(同「三〇五」)と、ここ(同「三四二」)からである。前者では、冒頭、田中が『四季』用の詩二篇を送ってくれたことと、「未成年」用に詩を送ってくれたこと、及び、『未成年』用に道造に贈ったソネットを『(立原君に)としてあつた』ことへの謝辞がある。まさに本詩篇が、直(じき)に、その後に、その返礼としてのものとなっていることが判り、後者では、メランコリーな述懐が全体を支配しつつ、中盤で、『けふ僕は町に赤い蠟燭を買ひに行かうとおもつてゐます。そしてロオマの人びとのうたをきき、そして明りの下で詩をひとつ書く――』とある辺りに、本詩篇への創造のニュアンスがあるか。

 さらに、注釈は、『1 「抒情の手」に倣ひて』に関して、これが道造の盟友であった五つ上の津村信夫の詩であることが示され、その詩の全文が示されてある。

 津村信夫(明治四二(一九〇九)年~昭和一九(一九四四)年)は兵庫県出身の詩人。慶大卒。室生犀星に師事し、昭和九(一九三四)年に第二次『四季』創刊に道造(五つ年下)とともに参加。「愛する神の歌」「父のゐる庭」「或る遍歷から」などを発表し、随筆集「戶隱の繪本」を刊行している。三十六歳で難病のアディソン病(慢性副腎皮質不全症)で早逝した。兄の秀夫は映画評論家として知られる。

 国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、まず、戦前の津村の詩集で確認出来たが、一部の印刷の行組みがおかしいので、使用を諦め、死後の昭和二三(一九四八)年八代書店刊の「さらば夏の光よ 津村信夫詩集」の当該詩篇を視認して、以下に示す。

   *

 

  抒情の手

    夏のいやはての日娘たちが私に歌つてくれた。

 

美しい日和は あと幾日つづくだらう。夏の終り、日のをはり。

 

人は去る、私達のさしのべた手、優雅に、又うち戰き、人は去る、またの日の想ひのなかで。

 

空なる馬のいななき、うち振るたて髮に、「秋の歌」が聞えるやう。

 

美しい日和は、ほんたうに幾日つづくだらう。

美しい日和はこと切れた、私達の胸ぬちで。

 

それを信じないのはお前だけだ。

それを知らないのはお前のみだ。

 

   *

 さて。実は、私は本草稿を既に杉浦明平氏の編になる「立原道造詩集」で、「田中一三に   立原道造」で、二〇一六年六月に電子化注・恣意的正字化している。但し、そこでは杉浦氏が、読みを附加してあり、「1」の第四聯では「!」の後に字空けを施してある。そこで、ここでは、再度、別個に、完全な正規表現で以下に示すこととする。なお、「田中一三」は「たなかかずみ」と読む。リンク先に彼の経歴も添えてある。また、恐らく、私の読者の殆んどが躓くであろう、「若王子」・「時雨ふる京の泊りは墓どなり」等に就いては、リンク先で、私が注をしてある。差別化するために、ここでは繰り返さない。

 詩篇中の傍点「﹅」は太字とした。「小竹(ささ)」のルビ二字へのそれである。]

 

  田中一三に

 

  1 「抒情の手」に倣ひて

 

おそらく ただあの夕やけだけ

私たちの歷史のなかでひときは映えるであらう

それは「さいはひ」の日々のなかにひとこまの

美しいかがやかしい色どりとして

 

それは果敢ない私たちの冒險を誘ひ

きらびやかに また冴え冴えと

運命なしにいつまでも空にとどまるかのやうな⋯⋯

 高原の夏のをはり 日のをはり

 

私たちの若さ 私たちの哀歌――しかし

それはうつろふ束の間の激しい夢ではなかつたか

靜かに殘される時のなかに おそらく あの夕やけすら!

 

信じてはならない 美しい日和はこときれたとは

告げてはならない さらば われらの强き光よ!とは

――いつまでここに立ちつくしてゐる私たちだらうか?

 

  2

 

降るやうな光のなかで おまへと並んで

その日はぼんやりと步きつづけた

落葉する櫻並木のアーチの下を

ながれる靑い疏水のほとりを

 

若王子 若王子 とほい都の町はづれ

だれを忘れようとて

來た旅だつたか――

心はかろく 步きつづけた

 

ああ その日! 私と並んで

⦅⋯⋯口笛もやめゆつくりと

花を踏んで步いて行つた⋯⋯⦆と

 

水に浮んで流れた日々を

とほい昔ではないやうに 私の耳に

優しい言葉でおまへはうたひ教へてくれた

 

  3 「時雨ふる京の泊りは墓どなり」

 

秋雨や秋晴れやいろいろな氣候を

心のなかにこつそりと用意して

そしてそれをひとつづつためして

靑い空に鳶の輪を描かしてみたり

 

小竹(ささ)の搖れる東窓に手紙をしたためたり

小夜更けて降りはじめたしめやかな音に

思ひまうけないほどすなほに驚いたり

⋯⋯曆と繪圖とをいつか心のなかに疊みこんで

 

そしていつの間にか おまへとも

その都とも 別れてもう歸つて來てゐる

ぢきに忘れるだらうと をりをりその日々を思ひ出しながら

 

それは不思議にうるほうてゐて

私の心の奧に遊び恍(ほ)うけた落着きが

私の場所できれいに汚れを洗つてさはやかにすぎるのだ

 

2026/03/27

立原道造草稿詩篇 夜でない夜に (恣意的に【発表決定篇】として「豫後」を後に示した)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『草稿消失。角川書店版第五巻』とし、『「豫後」(昭和1111月発表)の異文。』とある。

 さて。実は、この「夜でない夜に」と、決定稿「豫後」の孰れも、以前に電子化注している。それは、二篇ともに、昭和四三(一九六八)年新潮社刊「日本詩人全集」第二十八巻の「立原道造」(中村真一郎編)を底本として、恣意的に正字化したものである。

 ところが、その私の「豫後」は、今回、検証するために見た本底本(同一巻)の当該部と比べると――行配置が全く異なっている――のに、驚天動地であった。

 そこで、以上のリンク先で、旧角川書店刊「立原道造全集」、及び、現在の底本のものを比較・検証をし、二篇とも、読者が判るように全面変更と注記を、早朝から五時間以上かけてリニューアルした。そちらの私の注で、読者には判るように解説してあるので、そちらの二篇を見られたい。

 正直、大変な作業であったが、満足している。

 而して、この際、本篇「夜でない夜に」を別稿ではなく、初期草稿と見做し、【決定稿】として「豫後」を後に添える形で、ここでは、電子化することとする。私が推定した旧角川版の原稿の行組みの「豫後」は、私には違和感があるので示さない。先の「豫後」の注で、それを示してあるので見られたい。

 私の書誌学的判断に疑義がある方は、何時でも相手になる。私は、この由々しきテクスト問題を、ネット上で公開している人、語っている人は、いないと思う。

 

  夜でない夜に

 

私の影が どこにもうつらない場所で

私は光を見つめてゐる それは淡い

月の光か 星の光か――私に分らない

一面に うすい闇のやうに私をひたして 

 

私は次々に 記憶に呼ぶ

私の場所を捨てた人びとか

それが私の晝だつたらうか

あれらの死んだ人たち それからまた去らせたひと! 

 

だれもゐない しかし 私は いまは

なぜ ひとりではゐないのだらう? 私に分らない

生々しい傷口と歎きと私と―― 

 

激しい闇と光とに飢え渇きながら

うすらあかりのやうに影をさへとどめぬ夜に

なぜ 遺された私とはつながりもない光と一しよに? 

 

 

【発表決定篇】

 

  豫後

 

私の影がどこにもうつらない場所で

私は光を見つめてゐる それは淡い

月の光か――私に分らない

一面にうすい闇のやうに私を圍んで

私は次々に思ひ出してゐる

私の場所を捨てた人たちを(それは私の晝であつたか)

つまり死んで行つた人など それからまた

つれなく立ち去つた人など 思ひ出してゐる

だれもゐない しかし私は いまは

なぜ ひとりではゐないのだらう?私に分らない

生々しい傷口と欺きと私と 私の場所でない場所に

激しい闇と光とに飢え渇きながら それは淡い

一面にうすらあかりのやうに影をさへとどめぬ場所に

なぜ 遺された私とはつながりもない光といつしよに?

 

立原道造草稿詩篇 夏の旅

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『「工藝史槪說ノート」の書入れ』で、『副題により「民謠」(昭和1010月発表)とつながり、同時に拾遺詩「夏の旅」(昭和1011月発表)のヴァリェーションと考え、制作は同年秋と想定する。』とある。既に、「民謠」はここで、「夏の旅」はここで、電子化注しているが、孰れも、本底本の当該詩篇を視認したところ(「民謠」はここ、「夏の旅」はここ)、どちらも問題があったので、今回は、二つとも、全面的に仕切り直した。但し、注の中のリンク先のものは、一部、検証し切れていないので、注意されたい。

 なお、添え題中の「エリザ」については、「民謠」の私の注で、『「エリザ」』『中村氏の注によれば、これは「SONATINE No.1」冒頭の「はじめてのものに」の「エリーザベト」で中村氏が注している『ドイツの作家』『シュトルム』『の小説「みずうみ」の女主人公の名、めぐりあった少女をなぞらえたもの』の『エリザベートか?』と注する。』としてある。]

 

  夏の旅

    ――エリザの記念(かたみ)に――

 

   1

 

砂ほこりの道だつた 暑い日であつた

僕はときどき 道の傍の石にやすまなくてはならなかつた

とほくまで景色は澄んでゐる

 

僕が おまへといつしよにのこして來た

あの活火山の煙が見えてゐた とほかつた

しづかな雲が捲いて來たがすぐに消えてしまつた

あの山の爆發するのが不意によく見えた

 

   2

 

湖には舟が浮いてゐる

誰をのせて?

さざなみだけ それつきり

おまへひとりで

何しに來たか

靑い空が 八ケ岳が

僕を叱つてゐるやうだ

 

底がをはつたらおまへに告げよう

湖の水は黑くつめたかつた

夜になつて 宿のあかり

いくつか點をつらねて ゆらいでゐた

 

   3

 

その小さい湖のほとりでも

僕が考へてゐたのはおまへのことばかりだつた

水面(みづ)に搖れてゐた

おまへの方に向つてうたつてゐた

 

 

[やぶちゃん注:言うまでもないと思うが、最終の第三聯の「水面」の二字へのルビが「みづ」なのである。私のミス・タイプではない。]

2026/03/26

立原道造草稿詩篇 (海よ⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『草稿消失(無題)・角川書店版第五巻』とし、『主題は「燕の歌(二)」に近いが、作者の位置〈高原〉により昭和10年夏の制作と想定する。』とある。「燕の歌(二)」は三つ前の草稿を指す。底本全集の「第六卷 雜纂」の鈴木亨氏の手になる素晴らしい「年譜」(評論附年譜と言うべきもの)の昭和一〇(一九三五)年八月のパートを見られたい(ここの左丁下段中央)。道造が、この夏、軽井沢の油屋に止宿していることが判る。特に、年譜の下段後ろから四行目以降を見られたい。そこで鈴木氏は、この軽井沢追分滞在中にものした道造のソネットについて、詳細に語られ(次のコマの右上段後ろから九行目)、『これら「風に寄せて」』(私のものでは、古い「風に寄せて   立原道造    (同題異篇二曲)」を参照)『以下の諸作は、すべて追分での〈村ぐらし〉は、ソネット詩人としての立原の発足を記念するものであったといえよう。』と述べておられるのである。

 

  (海よ⋯⋯)

 

海よ

日はかがやいて波はにほふ

まぶしい海の たよりをおくれ

硝子とエメラルドの碎け散る朝の風を

帆前船を走らせる おまへの風を

 

さうして 僕はここ 高原の叢で

パンパス草の潮に溺れ とほい魚の匂を

嗅がう

貝殼を 砂の香を 人の膚にきらめく虹を

 

海よ 小さな泡の呟きよ

空よりもなほ靑く

 

空よりもなほ高く

まぶしい海の たよりをおくれ

 

 

[やぶちゃん注:「パンパス草」「ぱんぱすさう」と読んでいよう。ブラジル・アルゼンチン・チリなどの南米大陸の草原(パンパ・パンパス/ケチュア語(南アメリカで話される言語グループ名)Pampa /英語 Pampas )に植生する単子葉植物綱イネ目イネ科 Danthonioideae 亜科 Danthonieae 連                  シロガネヨシ(白銀葦)属シロガネヨシ Cortaderia selloana当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『英名からパンパスグラスとも呼ばれる』。『高さ2-3m程度と大きく成長し、細長い葉が根元から密生して伸びる。葉は縁が鋭い』。『8-10月にかけて、垂直に立ち上がった茎に長さ50-70cmの羽毛のような花穂をつける。雄株と雌株があり、雄株の花穂は細長いのに対し、雌株は幅広く綿毛を持つ。色はややピンクがかった白銀色である。種類によっては矮性のものや、穂の色が紫色のものもある』。『各国で観賞用に栽培され、日本には明治時代に入ってきた』。『大きく成長し、花穂をつけた姿は見栄えがするので、公園・花壇の植栽や道路分離帯の緑化などに用いられる。また、花穂は活花やドライフラワーに使われる』。『ススキに似た外見の割に高く育つため「お化けススキ」という俗称もある』。『栽培には日当たりのよい場所を選ぶ。葉はススキと同様に皮膚を切りやすく、手入れや伐採時には手足を保護できる服装が望ましい。育成には手間がかからないが、寒さにはやや弱く、葉が茶色になる。ただし、関東地方までなら全体が枯れることはまずなく、翌春に新しい葉が出てくる。主に株分けで増やす。これは、穂の形状に個体差が出やすいので、同じ株から増やしたほうが』、『群生した時に揃うためでもある』とあった。

「潮」ここは「うしほ」ではなく、「しほ」であろう。

「魚」私は「うを」と読む。]

2026/03/25

立原道造草稿詩篇 夜の歌

[やぶちゃん注:本篇は、かなりボリュームがある。底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『第二詩が「一日は⋯⋯」(昭和10年5月発表)のVIIIと同詩により、その頃の別稿と想定する。』とあった。発表詩「一日は⋯⋯」は、既に一日は⋯⋯   立原道造」で電子化している。今回、底本同全集で検証し、補正した。

 なお、第三聯の一行目の「ほんとう」はママである。第四聯冒頭行の「という」もママ。

 また、第六聯(一行のみで聯となっている)の「エレギイ」は注記に『Elegie (独)』(ドイツ語)『悲歌、哀歌。』とある。私などは、初回、通読した際には、てっきり、前の「太陽の」から、英語の“energy”(エネジィ)・ドイツ語の“Energie”(エネジィ)とばかり思っていた。彼がドイツ語を選んだのは、建築学(「バウハウス(Bauhaus)」が有名)のためというより、実は、リルケを始めとするドイツの詩人・小説家を偏愛していたからである。

 

  夜の歌

 

私は薔薇や月光を歌ふことが出來ない

それはあまりに掌の上で小さいから

そのかはり私は歌ふことが出來る 私を

私の向うにあるお前を 大きな夜を

 

   *

 

しづかにあかりを消して目をとぢてゐた

おきき――

私の身體の奥で羽搏いてゐるものがゐた

或る夜 それは窓に靑い月を目あてに

たうたう長い旅に出てしまつた⋯⋯

今 羽搏いてゐるのは

あれはうそなのだよ

 

   *

 

昔昔 まだ夜がほんとうに生れた頃

人は誰でも夜とは仲のよい友だちだつた

その頃は日が暮れても 十分に暗くなるわけにはいかなかつた

ところどころ薄明りのたそがれがのこちてゐるのだ

每晩每晩 夜のなかをさがし步いて

たそがれを見つけると そこに椅子をおいて煙草を吸つてゐた

だが何としても昔と今とはちがふのだ

その頃人は誰でも夜とは仲のよい友だちだつた

 

   *

 

夜がともしてゐる林檎の花

花のなかで眠つてゐる黃蜂

――そんな繪のついた一册の本を

出來るだけ暗い洋燈(ランプ)の下で見ること

 

   *

 

夜がなぜ人から欲しがられるやうになつたか 僕にはどうもわからない

一體あんまりいらないものの多いなかで

あの大きな黑い外套(マント)は何だらう

昔 すばらしい魔法があつた頃

役立たずの蠟燭が明るい焰で燃えることに退屈したために

いつそ暗い夜にかはつたのだといふこともきいたけれど

それなら人からなぜあんなに欲しがられるやうになつたのだらう

 

   *

 

愚かな太陽のエレギイ!

 

   *

 

窓というものは 夜 あかりをつけるためにあるものだつた

人はめいめいの影繪を映したり

或るときは外に立つて自分のゐない自分の部屋を眺める

 

   *

 

夜はおなじことを繰り返して飽きなかつた

僕は沈む太陽にきいてみた お前はどこへ行くのかと

 

   *

 

夜と星とが知り合ひになつた晩のことを

是非知りたいなら

向うはいろいろなこと知つてたため

黑い脊中でものを考へるくせがついた

 

   *

 

ピアノのそばに蠟燭をともして坐ると

昔詩人のうたつたピアノの町から

人のささやく聲や食事の音が聞えるといふ

 

   *

 

人を待つてゐた 私の部屋で

ちいさなあかりを一つつけて

私は きちんと坐つてゐた

 

足音ばかりが 行き來した

―― ―― ―― ――

 

たうとう人は來なかつた

そして夜明けが 平(たひら)な顏で

染めだした 空の隅を窓で

 

   *

 

夜が一つだけ殘つた 掌の柩のはてに

花咲いて

 

立原道造草稿詩篇 旅裝

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『草稿消失・角川書店版第五巻』とある。これは同全集の古い全集版の「第五卷 優しき歌」(一九五九年刊)のここを元にしたことを指す。而して、『題名、主題により「旅裝」(昭和10年4月発表)の別稿と想定する。』とあったが、正確には、これは、一九七一年版「第五卷」の編者注のここ(右丁上段ほぼ中央)によって『「四季」第7号 昭和10年5月号(4月20日刊)』であった。その発表決定版は、既に、2016年6月7日にここで電子化注してある。

 そうして、実は、私は既に、2015年10月10日にブログで昭和四三(一九六八)年新潮社刊「日本詩人全集」第二十八巻の「立原道造」(中村真一郎編)に載る本草稿を、ここで、草稿とは知らずに、恣意的に正字化して公開しているのである。しかし、そちらを削除するのは、情報が少ない中、一所懸命に道造の詩を電子化した頃の思い出の一つであるから、特異的に、削除は、しないこととした。そちらでは、中村氏の附加ルビを生かしておいた。

 

  旅裝

 

小さな旅と知りながら

心のこる部屋 

 

インクや本や時計よ

時計は一時でとまつてゐる 

 

皿やナイフや花甁よ

花はあした涸れるだらう

 

さうして僕は汽車にのるだらう

田舍の道に人は見るだらう 

 

ひとりの僕がかなしげに眼をつむるのを

思ひ出よ 僕の夢よ 

 

僕はすべてを忘れるだらう そのとき

僕は思ふだらう もうみんななくしたと 

 

立原道造草稿詩篇 燕の歌(二) (恣意的に発表された正編正規版「燕の歌」を頭に添えた)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『題名(二)により「燕の歌」(昭和10年2月発表)の続稿と思われる。ここに現われる〈海〉は昭和9年8月22日。渥美半島折立の杉浦訪問時の印象に基づくものであろう。筆蹟等により昭和10年春の制作と想定する。』とあり、また、『〔資料〕昭和9年12月27日付・杉浦明平宛書簡。』とする。この書簡は、ここの「八二」番の書簡である。なお、「燕の歌」は既にここで公開している。今回、検証し、一部を修正し、不詳としていた標題の添え文の正体を明らかにしておいた。「折立」(おりたち)に就いては、「立原道造草稿詩篇 折立」で既注済み。

 さて。而して、発表された「燕の歌」を再読してこの詩を続けて詠むに、この「燕の歌(二)」は――続編として遜色が全く、ない――と感じる。従って、ここでは、掟破りは重々承知だが、頭に、正規発表版「燕の歌」を添えることとする(二篇の間に「*」を挿入した)。私の所感に不同意であれば、飛ばして読まずに鑑賞されよ。悪しからず、だ!

 

  燕の歌

   春來にけらし春よ春

    まだ白雪の積れども

          ――草枕

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる

とほい村よ

 

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き

山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた

やさしい朝でいつぱいであつた―― 

 

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら

とほい村よ 

 

僕はちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると 

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を 望みと夢は靑くてはてなかつたと 

 

 

   *

 

 

  燕の歌(二)

 

朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

私の羽根はもうくたびれた

海よ お前の掌は私を止らせてくれはしない

 

私はいつか信じてゐた 北の村には

昔の私が待つてゐると さうかしら

海よ お前は敎へてくれ きつと知つてゐるから

お前の身體が北の岸に觸れる村で

昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ

 

私の旅はもう長い 私の羽根はくたびれた

海よ お前は波立ち呟いてゐる

 

夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

敎へてくれ 北の村で昔の私がやさしい朝と一しよに

私の着くのを待つてゐると敎へてくれ

お前は波立ち呟いてゐる それが私には

何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ

 

私の羽根はもうくたびれた

私はどこへ行くのだらう 海よ

お前は大きく お前はむごく意地惡だ

 

[やぶちゃん注:「ぎぼうしゆ」単子葉植物綱キジカクシ(雉隠)目キジカクシ科リュウゼツラン(竜舌蘭)亜科ギボウシ(擬宝珠)属 Hosta の複数の種を指すが、恐らくは、オオバギボウシ変種オオバギボウシ Hosta sieboldiana var. sieboldiana であろう。山岳部の顧問をしていた頃は、よく見た。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「すげ」これは「花」と言っていることから「ゆふすげ」である。道造の好きな花で、私も好き。「ゆふすげ」は「夕菅」で、単子葉植物綱キジカクシ(雉隠)目ワスレグサ(忘れ草=カンゾウ(萱草))科ワスレグサ亜科ワスレグサ属ウコンカンゾウ(鬱金萱草)変種ユウスゲ Hemerocallis citrina var. vespertina 学名画像検索をリンクさせておく。単に「すげ」と言ったのは、彼の中の音数律の関係でカットしたものと思われる。]

2026/03/24

立原道造草稿詩篇 小さな墓石の上に

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『主題により「小さな墓石の上に」(昭和10年1月発表)の異文と想定する。』とある。決定稿は私の「小さな墓の上に   立原道造」であるが、今回、検証したところ、底本としたものが、致命的な操作をしていたことが発覚したので、修正した。――なお、決定稿と比べると――天と地の差がある。無論、決定稿が――断然――限りなく――哀しく素敵だ――

 

  小さな墓石の上に

 

 いろいろなことが書きたかつた それをたつた一人の人に讀ませたかつた すなほな物語に就て

 

    *

 

掌から粉雪が降つた

あれきり

木枯しともう歸らなかつた

僕の曆と悲しみをそつとお前に彫りつけよう 白い骨に

 

    *

 

しづかに移る道のかげが

あの日 僕を步ませた

木立に透いて 白い雲が浮いてゐた

もう明るい歌はなかつたが

その小さな墓石の上に はてない空が

きつとお前の僕にあてたことづけだつた

 

    *

 

たのしかつた日曜日をさがしに行かう

見つかつたら もう默つて生きてゐよう

 

立原道造草稿詩篇 BALLADE

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『『曉と夕の詩』の「小譚詩」の原型である。』とし、『草稿は』前の『「八月の歌」と同種同筆蹟のもので、制作時は昭和9年初秋と想定する。』とある。本篇の決定作たる「小譚詩」は、私の「小譚詩   立原道造」を見られたい。今回、表記を検証して補正しておいた。いや! この草稿は。ほぼ決定作と等しいものとして、既に出来上がっていたことが判るのである。

 因みに、この「BALLADE」は、フランス語「バラッド」と採るべきであろう。道造は詩人たらんとしてより、早くに、フランス語を独学していた。平凡社「世界大百科事典」の「バラード」から引くと、『中世ラテン語のバラーレ ballare(踊る)に由来することが示すように,元来は南仏プロバンスに起源をもち』、『ロマンス語圏に広まった舞踏歌,すなわち輪舞の際に踊り手自身によって歌われたリフレインつきの有節歌謡をさした(プロバンス語ballada,イタリア語 ballata)。これが吟遊詩人トルバドゥールによって芸術的に洗練され,14世紀に北フランスで厳格な形式をそなえた抒情詩の一形態となった。それは典型的には,8音綴詩句8行または10音綴詩句10行から成る同じ構造の3詩節(couplets)にその半分の行数の1反歌(envoi)がついたもので,各詩節および反歌の最終行は同一詩句のくりかえし(リフレイン)であり,各詩節の脚韻の踏み方は同一(8行では3種,10行では4種)で,反歌の脚韻は詩節後半のそれと同じである。この詩型は1516世紀に盛んに用いられた(ピザン,』ヴィヨン『(フランス),ダンテ,カバルカンティ(イタリア)など)が,19世紀以降また取りあげられるところとなった(コペ,リシュパン(フランス),カルドゥッチ(イタリア),オースティン,スウィンバーン(イギリス)など)』。『バラードという語は,以上のように狭く厳密な詩型をいう一方で,近代以降』、普通『には広く物語詩(譚詩)一般をさすものとされるが,この用法はロマンス語から18世紀になって英語に入ったバラードballad の語と結びついている。すなわち』、『はじめはやはり〈踊りの際に歌われた歌謡〉を意味していたものが,やがて〈民謡〉を広くさすようになり,イギリスの民謡が多く物語的であったことから,〈物語詩〉一般をいうようになったものである』(以下略)とある。この解説を読み乍ら、ふと⋯⋯まさに、道造は詩から物語へと進み、その途上で夭折したと言える⋯⋯緻密な理性を持っていた彼が、そこから、小説家となっていたら、どんな作品を書いただろう⋯⋯そんなことを、ふと、思うた⋯⋯。
【追記】読者の御一人が

『緻密な理性を持っていた彼が、そこから、小説家となっていたら、」読みたいですが、それはそれで哀しい未来があったかもしれません。緻密な理性を持っていた彼が、そこから、小説家となっていたら、」読みたいですが、それはそれで哀しい未来があったかもしれません。』

とお伝え下さいました。そこで、私は、私がここで、かく、言った意味を反芻し、以下のように答えた。

私が、感想を以上でぶっきっらぼうに截ち切ったのも、まさに、そこにあります。――彼は、失恋に終わった実恋愛を、透き通った自然を背景として、叙情豊かに詩や物語に詠じきった真の抒情詩人であった。しかし、堀辰雄のような事実を巧みに綺麗に組み換ええ仕上げた恋愛小説を書くことは、出来ない――というより、心情として拒否するに違いない。では、芥川龍之介のような緻密に計算された疑似心理小説染みた切れ味鋭いストーリーテラーになれるかというと、これは、絶対にありえない。彼には、そんな「作り物」は脳内で設計図は描けても、それを小説に書こうとは、絶対に拒否するからです。書けたとしても、芥川の私小説紛いの「保吉物」のようなものに留まるでしょう。それもつまらない。則ち、結果して、道造は、夭折して、透明な恋愛詩群・物語のみを私たちに残し、永遠の恋愛抒情詩人として私たちを幸せにして呉れ続けているのだ――と言う感懐が、私の本音なのであります。

と。これで、私の憂鬱は完成した――という気になったことを告白しておく。

 

  BALLADE

 

一人はあかりをつけることが出來た

そのそばで本をよむのは別の人だつた

しづかな部屋だから 低い聲が

それが隅の方にまでよく聞えた(みんなはきいていた)

 

一人はあかりを消すことが出來た

そのそばで眠るのは別の人だつた

絲紡ぎの女が子守唄をうたつてきかせた

それが窓の外にまでよく聞えた(みんなはきいてゐた)

 

幾晩も幾晩もおなじやうにすごした

風が吹いて塔の上で鷄が知らせた

兵士は旗を持て 驢馬は鈴を鳴らせ

 

それから朝が來た ほんとの朝が來た

また夜が來た あたらしい夜が來た

その部屋にはもう誰もゐなかつた

 

立原道造草稿詩篇 八月の歌

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『菊判自筆校正ゲラ六枚』とし、『掲載誌不明。署名入・二百字詰草稿』『七枚があり、初題「追分村・八月」。』とあり、さらに、『昭和9年8月19日付・杉浦明平宛書簡に「一手紙」が一行書きであるうえ、この夏の制作に「四行詩いくつか」と告げてをり』(ママ)『、「昭和9年ノート」に「花」「晩夏」の初稿を持つ。「村ぐらし」』(私の「村ぐらし」はこちら)『と同期制作と想定する。』とある。指摘している書簡は、ここ(同全集「第五卷 書翰」)で視認出来るが、『「四行詩いくつか」』は左丁下段九行目にあり、『「一手紙」が一行書きである』とするのは、厳密には字空けが異なり、以下である。

   ※

  *** 〈手紙〉 秋袖口につめたい風がじやれ このさびしい追分け道で每日山羊が啼いてゐます 每日人がとほります 古びた次の村にまで⋯⋯

   ※

これは、書翰書き込みであるから、本草稿の初稿とするのは、無理があるので、以上の紹介に留める。

 また、『「昭和9年ノート」に「花」「晩夏」の初稿を持つ。』というのは、同全集の「第六卷 雜纂」のここ(左丁終りに連続する)で視認出来るので、本草稿のそれぞれのパートの初稿として、先に電子化することとした。

 なお、決定稿の標題後の長いポイント落ちの前書き(八行)は、ブログ・ブラウザの不具合が生ずるので、一行字数を減らしてある。下線は、底本では傍点「﹅」である。太字「下リ」「上リ」(「リ」はカタカナ)は実際に太字である。「一しよう懸命」の「しよう」はママ。

 

【「花」パートの初稿】

 

  花

 

窓ひらいた家に凭れ

人が本を讀んでゐる

麥藁帽子 壁の百合の花

その顏に蝶が飛んでゐる

 

[やぶちゃん注:決定草稿とは、行空き・字空き以外に、最終行の「その顏に」が、「その額に」と決定的に異なる。]

 

 

【「晩夏」パートの初稿】

 

  晩夏

 

僕は僕

花は花

塀の白壁に人がゐる

雲のこちらに風がまた 雲が⋯⋯

 

[やぶちゃん注:決定草稿とは、行空き以外に、「僕は僕/花は花」に対して、跨って鍵括弧が附されていないこと、三行目の二文節「人がゐる」がないこと、最終行に字空け二箇所があり、後者の空けた位置が異なることが、違う。]

 

 

【決定草稿】

 

  八月の歌

    ――追分村――

      その村にはゆふすげといふ黃いろな花

     が落葉松の林のなかに、三時すぎると明

     るくともつた。僕はそれを折つて歸るの

     であつた。或るときは、あくる日の手紙

     の押花に、或るときは、今は墓碑に泡雲

     幻夢童女といふ淡い名をとゞめた、見知

     らない少女のために。

      僕は每日小さな丘に綴つてゐた。夕暮、

     村外れの追分け道で、かほり易い空の色

     を眺めた。

 

  一  手紙

 

秋 袖口につめたい風がじやれ

 

このさびしい追分け道で

 

每日 山羊が啼いてゐます

 

每日 人が通ります 古びた次の村にまで

 

  二  花

 

窓ひらいた家に 凭れ

 

人が本を讀んでゐる

 

麥藁帽子 壁の百合の花

 

その額に蝶が飛んでゐる

 

  三  汽車の歌

 

上り列車は三日月ぐらゐの小さな明りを一列につないで

 

あれはくたびれた足どりを一しよう懸命だつた

 

そのあと暗くなつてから 下リはキラキラと走つてしまつた

 

上リの息は僕たちをすこしだけかなしく心配にした あの小刻みな喘ぎ

 

  四 水車小屋

 

ひとつだけ水車のある村外れ

 

その小屋のそばで 靑い葡萄棚の下に

 

鷄の家族が あそんでゐる

 

空の靑い日はしづかな道ばたに

 

  五 晩夏

 

「僕は僕

 

花は花」

 

塀の白壁に

 

雲のこちらに 風が また雲が⋯⋯

 

 

[やぶちゃん注:「泡雲幻夢童女」に就いては、「村ぐらし   立原道造」の私の注を参照されたい。]

立原道造草稿詩篇 (荒物屋の軒先で⋯⋯) / 底本「後期草稿詩篇」電子化注始動

[やぶちゃん注:底本は、今まで通りの、国立国会図書館デジタルコレクションであるが、「後期草稿詩篇」パートは、一九七一年角川書店刊「立原道造全集 第一卷 詩集I」(本登録をしないと閲覧出来ない『送信サービスで閲覧可能』である)のここからである。

 本篇は底本の『後期草稿詩篇』パート(推定で昭和九(一九三四)年九月から昭和一三(一九三八)年九月から十月、或いは、その直後に至る草稿で、全四十三篇である。道造は翌昭和十四年三月十九日、結核で逝去した)を視認して電子化注する。

 但し、私は二〇一六年に、所持する昭和四三(一九六八)年新潮社刊「日本詩人全集」第二十八巻の「立原道造」(中村真一郎編)所収のもの、及び、一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編:杉浦氏は本底本の編集者の一人であるが、全集の前期及び後期草稿詩篇の編者は彼ではなく、堀內達夫氏(彼は正確には「編集」者ではなく「資料擔當」者である)である。この草稿の前期・後期の問題に就いては、「立原道造草稿詩篇 傳說」の冒頭注で私の推理を述べてある)の「後期草稿詩篇」三十三篇を、孰れも、恣意的に漢字を正字化して、本ブログ・カテゴリ「立原道造」で公開している。しかし、Unicode導入以前であり、正字不全もある。しかし、それらを総て削除して仕切り直すのは、忍びない(それらは私の忘れ難い昔のそれぞれ感性と微妙にリンクしているからである)。されば、それらは、逐一、対照検証して、修正して、残すこととする。無論、検証確認を新たに示し、以上の旧記事のリンクを張って、順に読めるようにするので、お許しあれ。

 凡例は「前期草稿詩篇」起動の際に示したものと同じである。

 本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、解説の冒頭に『*草稿無題。』とあるが、早速、話しが違う! これ、「前期草稿詩篇」の解説の表記法が違うのだ。そちらでは、詩篇の柱の下方に無題の場合は、一マス空けて『無題』と記してあるが、それがなく、こちらは、柱から改行した各詩篇解説の頭にあるのである。全集として、こういうのは、非常に困る!

 引用に戻る。『「村ぐらし」「八月の歌」の原型であり、政策は昭和9年9月頃と想定する。』とある。「村ぐらし」はこちら(先ほど、全集で再校正し、大幅に修正した)、後者の「八月の歌」は次の草稿詩篇である。]

 

  (荒物屋の軒先で⋯⋯)

 

 荒物屋の軒先でお化粧してゐないこの村のポスト 手紙をいれに日傘をさしてお孃さんが來ると ポストは怠け者らしく口をひらく お孃さんは急にかなしくなつて ひつそりした街道を歸つて行く

      ☆

 三時過ぎると

 咲く花がある

 これは黃い花だつたので

 人がゆふすげと呼んだ

      ☆

 この村にお孃さんたちはすこしゐて 夕方 黃いろな帶を占めてゐる

      ☆

 水車小屋がひとつだけある村

 その小屋のそばには 靑い葡萄棚の下で 鷄の家族があそんでゐる

 だれも半月ばかり氣がつかない

      ☆

 石尊に近よれば石尊は大きな山

 麓から見れば石尊はちつぽけな山

 淺間は ぽかんと煙を吐く山

     ☆

 落葉松の散步道の終りはいつも小さな墓地だつた お女郞の墓はかなしげに身を屈め 子供のあげた花を持つてゐる

     ☆

 空の靑い日はしづかな道

     ☆

 秋 袖口につめたい風がじやれ

 このさびしい追分け道で

 每日 山羊が啼いてゐます

 每日 人が通ります 古びた次の村にまで

     ☆

 手紙をこんな風に書く 郵便配達は自轉車でパンや本を運んでくれる代りに 午睡の夢にこんな手紙を讀んでしまふ あくる日 僕は それに氣づいて うちからの返事を貰ひながらどぎまぎする

     ☆

 上り列車は三日月ぐらゐの小さな明りを一列につないでゐる

 あれはくたびれた足どりで一しよう懸命 下り列車はもう暗くなつてからキラキラと走つしまふ 上り列車は僕たちをすこしだけかなしくしたり心配させたりする

     ☆

 この村で 村はづれは落葉松の林に消え もひとつの村はづれでいつも赤いパラソルをさしておいらん草がゐる その間を行つたり來たりするうちに日が暮れる

 

 

[やぶちゃん注:「ゆふすげ」道造の好きな花で、私も好き。「ゆふすげ」は「夕菅」で、単子葉植物綱キジカクシ(雉隠)目ワスレグサ(忘れ草=カンゾウ(萱草))科ワスレグサ亜科ワスレグサ属ウコンカンゾウ(鬱金萱草)変種ユウスゲ Hemerocallis citrina var. vespertina 学名画像検索をリンクさせておく。

「石尊山」「せきそんさん」。標高千六百六十七メートル。浅間山の南に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「おいらん草」「おいらんさう」と読む。ツツジ目ハナシノブ(花忍)科フロックス属クサキョウチクトウ Phlox paniculata 。漢字表記は「草夾竹桃」であるが、リンドウ目キョウチクトウ科 Apocynaceaとは全く関係はない。北アメリカ原産。詳しくは、当該ウィキを見られたい。学名と「赤い」のフレーズ画像検索をリンクさせておく。]

2026/03/23

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注中卷(六)寒天の說(その3)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]

 

 夫(そ)れ、石花菜は、海中の巖石に生ずる藻類(さうるい)にして、一根(いつこん)より、數十本を出(だ)して、多くの枝を分(わか)ち、紅白(こうはく/うすあかいろ)、黃・紫綠(しりよく/むらさきみどり)の數色あれども、槪(おほむ)ね、紫色(ししよく)にして、其(その)長さ、三、四寸より、七、八寸に至る。其品(そのひん)、位數(いすう)等(とう)あり。『大《おほ》ふさ』・『ながまるすぢ』を上品とし、『あらつち』、之に次き[やぶちゃん注:ママ。濁点落ち。]、『姥草(うばくさ)ハ、扁平にて、下品とす。紀伊にて『鬼草』、一《いつ》に『おにもくさ』、又、『ひらもくさ』と唱(となふ)るものは、形、平たくして、堅く、煮て溶(とけ)ること、遲し。故に、最も下等とす。採收季節は、各地、差異ありと雖も、槪(おほむ)ね、三月より十月に至る。早きに失すれば、嫩(もろ)く、晚(をそ[やぶちゃん注:ママ。])きに失すれば、萎(しぼ)むの憂(うれひ)あり。採收方に三《みつつ》あり。一《いつ》は、海に入りて搔採(かきと)り、一は、器具を用ひて、搔き揚げ、一は、波浪の爲(た)め、海岸に打寄せたるを拾ふ。其器具は、『天突(てんつき)』・『じよれん』・『のふと搔(かき)』・『てんとり鎌(かま)』・『がんがりまんぐわ』・『小たけ網』・『木製二股(もくせいふたまた)かき』・『てんとりあみ』等(とう)なり。然(しか)れども、『がんがり』は、木の枠に鐵、又は、竹の櫛齒狀(くしはぜう)のものを着(つけ)たるものなれば、根部(ねぶ)を、悉(ことごと)く、拔き採(とる)より、「蕃殖(はんしよく)を妨(さまたぐ)るの憂(うれい[やぶちゃん注:ママ。]あり。」とて廢(はい)せし地方も、あり。乾燥法も亦、大切のことにて、伊豆產の如きは、品質、志摩產に劣らさる[やぶちゃん注:「ざる」の誤り。]も、採撰(さいせん)の粗(そ)なるのみならず、乾燥不充分にして、雜物(そうぶつ[やぶちゃん注:ママ。「ざふもつ」が正しい。]を交(まじ)ふるの弊習(へいしう)あり。志摩產は、他物(たぶつ)を混(こん)ぜず、精選するを以て、世に名聲を博し、大坂市價(おほざかしか)の基本となせり。

[やぶちゃん注:ここに出る等級として出てくる多くの名は、しかし、どうも、同一種ではないことが、いろいろな寒天に関して纏められた複数の書籍を比較管見した結果、明らかになってきた。参考にしたのは、国立国会図書館デジタルコレクションの下島勇馬著「冬期副業寒天製造法」(『通俗工藝叢書』第三編/大正六(一九一七)年有隣堂書店刊)の「第二章 原料」である。十四ページあるが、部分引用しても意味がないので、時間が掛かるが、全文を起こす。但し、総ルビ(漢数字を除く)であるが、必要と判断したものだけを出す。頭注もあるが、出さない。ポイントの違い・字空け等も殆んど再現していない(太字は再現した)。読点が少なくて読み難いと判断して、増補し、当時の組版の制限から、行末に禁則処理を出来ないため、句読点がない箇所にも句読点を追加した。標本図があるが、手書きであるので、これも省略するが、図指示の部分にリンクをした。但し、生物学的学名は随時、段落後に注する(前掲したものも再掲した。何故なら、「淸國輸出日本水產圖說」の「寒天の說」本文では、現在の細分種名が正確に書かれていないからである。その学名は「BISMaL」のものを採用した。漢字表記は私が所持する複数の海藻書から信頼出来るものを附した。一部、割注も入れた。なお、本書は、「ログインなしで閲覧可能」で、誰もが見ることが出来る。

   *

      第二章 原  料

寒心天(ところてん)製造の原料は、總て海藻類に仰ぐものにして元來是等海藻類は其組織成分として體中(たいちう)に糊質分(こしつぶん)に含有する者多きを以て本性分(ほんせいぶん)あるものは皆總て原料となし得るものにして、現今利用されつゝあるは、テングサ類、ツノマタ、オゴノリ、イギス、エゴノリ、トサカノリ、トリアシ等(とう)を主(おも)なるものとす。

[やぶちゃん注:「テングサ類」広義には、アーケプラスチダ界Archaeplastida紅色植物門紅藻綱テングサ(天草)目テングサ科 Gelidiaceaeの海藻。狭義に一般的に代表種として「テングサ」と呼ぶのは、テングサ属マクサ(真草) Gelidium elegans ではある。しかし、以下で作者が示す三種は、現在では、テングサ属ではないものが含まれる(後注を見よ)。

「ツノマタ」紅色植物門(後は前に出した同タクソンは、以下、略す)スギノリ(杉海苔)目スギノリ科ツノマタ(角叉)属ツノマタChondrus ocellatus

「オゴノリ」オゴノリ(海髮苔・於胡苔)目オゴノリ科オゴノリ属Gracilaria vermiculophylla

「イギス」イギス(海髪)目イギス科イギス属イギス Ceramium kondoi

「エゴノリ」イギス科エゴノリ(恵胡苔)属エゴノリCampylaephora hypnaeoides

「トサカノリ」スギノリ(杉苔)目ミリン(味醂)科トサカノリ(鶏冠苔)属トサカノリ Meristotheca papulosa

「トリアシ」テングサ属ユイキリ(結い切り)Gelidium yoshidae の異名「鶏の足」の縮約異名。

       ()てんぐさ類

一、テングサ第一圖) 別名トコロテングサ(心太草(ところてんぐさ))、カハテン、キヌモグサ、マグサ、ツトグサ、マルブサ、アラツチ、ナガマルスジ、キヌクサ、イソクサ

本草は其名の如く原料として最も多量に使用せられ、漢名を石花菜と稱して古(いにしへ)に於ては主(おも)に本藻より製造せられ今日に於ても原料中最優(さいいう)なるものとして尊重せらる。其(その)生ずるや、干潮線以下の岩石に密生するものにして、海深(かいしん)五尋[やぶちゃん注:約十・九一メートル。]より、九尋[やぶちゃん注:約十六・四メートル。]に至る閒に多く成長し、時には、十四、五尋[やぶちゃん注:約二十五・五~二十三・三メートル。]の深(ふかさ)に繁茂する事あれども、北海道に於ては、四、五尋の深所(しんしよ)に盛(さかん)に成育するを普通とす。蓋し、水溫の相異は。如上の結果を見るに至れるなり。其形狀、基部は福平にして、細く、兩緣より、細繊(さいせん)なる多數の枝を出す事、密にして、羽狀(うじやう)をなす、叉、此枝より、不規則なる羽狀小枝を分岐す。根は、系狀に、莖は一所(いつしよ)に數(すう)十茎(けい)を叢生(そうせい)し、其丈(たけ)、四、五寸[やぶちゃん注:約十二・一~十五・二センチメートル。]より長きは、七、八寸[やぶちゃん注:約二十一・二~二十四・二四センチメートル。]に至る、又、巾は、廣きも、五、六厘[やぶちゃん注:約一・五~一・八センチメートル。]より一分(ぶ)[やぶちゃん注:四センチメートル。]を出(いで)ずして、極めて細く、色は、紅紫色(こうししよく)を普通とすれども、紅紫、黃綠等(とう)あり[やぶちゃん注:ママ。後の「紅紫」はダブるので、以下の記載から、例えば、「薄紅紫」・「暗紅紫」等の誤記か誤植である。]。一般に、テングサは其產地を異にすると共に、其色澤、形狀に差を生ずるものにして、本邦南海に產するものは、細く、且、黃色(こうしよく)なるも、北海道方面に產するものは、紫黑色にして其巾(はゞ)も廣きを見る。又、同一の地にても、生育の位置、時期等により、多夕の差あるを見る。總て、本藻は、空間に、採集して乾燥する時は、深紅紫色となり、光澤を增し、彈力性に富むに至るものなり。而して、通例、製造地にて呼ぶテングサの中には、次の三品種の別あるものにして、植物學上、同一のテングサ科に屬すと雖も、決して、同一のものに非ざるり。今、其名稱、及び、相違の主(おも)なる點を、次に記さん。

二、ヒゲモグサ(第二圖) 至る所の沿海、五、六尺[やぶちゃん注:一・五二~一・八二メートル。]以下の深所に生育し、一名オホブサヒゲグサとも呼ぶ。枝條繊維(しでうせんゐ)、伸長して、比狀、鬚髯(すうぜん[やぶちゃん注:ママ。「すぜん」「しゆぜん(しゅぜん)」が正しい。])の如きより、此名あり。扁壓(へんあつ)して線狀をなし、頂末(ちやうまつ)の小枝(せうし)は對生し、稀に大なる線狀を、なし、長さ、八、九寸より、一尺二寸に至る、[やぶちゃん注:読点はママ。]製造原料として優れるものなり。

[やぶちゃん注:「ヒゲモグサ」これは、国国立国会図書館デジタルコレクションの「大阪工業試印驗所報告 第十一回第十四号 寒天ニ關スル硏究(第二報) 寒天製造用海藻類ノ成分 寒天質ノ試驗法(其一)」(昭和五(一九三〇)年工政會出版部発行)の「寒天製造用海藻類ニ就テ」のここで(学名の種小名が斜体でなく、頭が大文字であり、後で示すのと一部の綴りが違い、命名者名も微妙に違うのはママ)、

   *

4ひげもぐさ 學名 Grelidium Linovides Kütz

  別名 ひげくさ

  てんぐさニ似タル形狀ヲ有シ五乃至十尋ノ深所ニ生ジ全長八寸乃至一尺以上ニ及ブモノナリ。安房、志摩、阿波ニ產出セラル。

   *

とあるのが、本種である。何時もお世話になっている鈴木雅大氏の「生きもの好きの語る自然誌」の「キヌクサ Gelidium linoidesの学名と酷似するので、間違いない。そちらに拠れば、これは(マサゴシバリ亜綱 Rhodymeniophycidae の漢字表記は同サイトのここで確認した))、

紅藻植物門真正紅藻亜門真正紅藻綱マサゴシバリ(真砂縛り)亜綱テングサ目テングサ科テングサ属キヌクサ(絹草)Gelidium linoides Kützing 1868

で間違いない。

三、ヲニグサ第三圖) 各地至る所の沿海に生じ、其枝條は、甚だ、硬くして末端は左右に枝を分ち、形狀、大にして、中筋(ちうきん)を生じ、枝條の羽狀に分岐すると、互生に生ずるものとありて、七不規則に、色は暗綠叉は暗紫色をなし、質硬く常に淺所の岩上に平臥(へいぐわ)して生育し、直立する事無く、原料としてはテングサ中、劣等なるものなり。

[やぶちゃん注:これは、

テングサ属オニクサ(鬼草)Gelidium japonicum

である。鈴木氏の「生きもの好きの語る自然誌」の「オニクサ Gelidium japonicumのページに、膨大な写真及び動画(撮影地:兵庫県 洲本市 由良(淡路島):他では同種の動画は見られないので必見!)があるので、是非、見られたい。]

四、ヒラクサ第四圖) 本藻も又、質、硬くして、形狀は扁平に廣く、兩端は、薄く、羽狀に分岐して、主枝(しゆし)は、中央部に筯を生ず。硬質なるより、原料としては、中等品なれども、製造に當り、步留(ぶどま)り多きより、他の優良藻(いうりやうも)と共に混(こん)じて、用ひらる。

[やぶちゃん注:これは、

テングサ科ヒラクサ(平草)属ヒラクサ Ptilophora subcostata

である。私が最も重宝させて戴いている田中次郎先生の著になる「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)に拠れば、種名の『学名の由来』は『準(ある程度)+中肋のある』とあり、キャプションには『マクサに似るが、触るとかなりかたい。もっとも大きくなるテングサ類』とあり、『分布』は『日本沿岸中部・南部』とし、『生育場所』は『潮下帯の深所』、『高さ20~30㎝、枝の幅5㎜』で、『ヒラクサ属Ptilophoraは「やわらかい+持つ」の意。日本には2種が知られる。本種は、深い場所にしばしば生育し、潜水するともっともよく目につく海藻である。平たいからだをもつ。枝の中央部が少し膨らむ場合があることが学名の由来となっている。しかし中肋と判断できるはっきりした構造はない。テングサ類のなかでは。もっとも大型になる種。藻体の質はかたい。付着根はとても太い繊維からなる。』とある。]

五、テングサの産地[やぶちゃん注:「産」が新字なのはママ。] 既述のテングサの產地は本邦海岸至る所にありと雖も、伊豆七島、安房、志摩、日向、能登、越後、北見等に產し、中にも靜岡、三重、千葉、和歌山、島根の諸縣、特に多く、就中(なかんづく)、伊豆神洋島(しんやうじま)[やぶちゃん注:こんな島はない。「神津島」の誤記である。]、三宅島產、及(および)、紀伊產を優良品とす。本藻は原料として最も多く使用せられ、其產額百萬貫[やぶちゃん注:三百七十五キログラム。]に近く、價格、亦、四十萬圓に近し。今、最近の產額を見(みる)に、八十三萬九千八百十六貫[やぶちゃん注:三百十四万九千三百十キロゴラム。]にして、此價格三十八萬一千五百七十一圓なる事、既に揭載せる表の如し[やぶちゃん注:この表は、ここから視認出来る。]。

六、テングサの繁殖法 海藻類の多少は、直接、本業の隆盛如何に關するものなる故、是が繁殖の方法を知るは、叉、餘事に非ずと云ふべし。テングサは無性生殖、有性生殖の二法によりて繁殖を營むものにして、前者は其枝表(しひやう)に四分胞子(《し》ぶんほうし)なる物を生じ、此各個體は枝條より分離して、他物(たぶつ)に適宜寄着して、玆(こゝ)に母體と同樣なる成長を遂ぐるに至るものなり。有性生殖にありては、其精子、成熟するに及ぴて雄(おす)生殖器より出でゝ、波に動搖されつゝ、雌の卵細胞に達し、玆に、受胎作用を起して、新胞子を生ず。次に、是等の胞子は、數多(あまた)相集りて、囊果(のうくわ)と呼ぶ囊狀の器管中に藏(ぞう)せられ、各(かく)胞子は新(あらた)に發芽して、玆に母體となるに至る。而して、此二者の繁殖時期は春期三、四月の候と、秋期八、九月の二期あれども、春季は無性生殖に依るもの多く、秋期は有性生殖に依るもの多きを見る。而して、其春季に蕃殖(はんしよく)せしものは、五、六月頃、老成せしもの、脫落して、幼者(えうしや)、是に換り、此ものは、七、八月頃に至りて、成熟すると共に、幼者、是に換りて、翌年、三、四月の候に成熟するものなり、故に、是が採集に當りては、其成熟、及。脫落の時期を知る事、必要なりとす。

(二)ツノマタ (第五圖) 別名カパノリ、カイソ、タンバ

本藻は、干潮線に近き所の岩上に群生し、少しく波荒き場所を好む。其根は圓盤狀をなして、岩石に固く附着し、形狀、扁平にして、巾、廣く、叉狀に分岐して、其項端(ちやうたん)[やぶちゃん注:漢字は「頂端」の誤植。以下でも、これが続く。]は圓形をなすを見る。長さ、四、五寸、巾、四、五分にして、色は紅綠色を呈し、成長するや、體(たい)の項部(ちやうぶ)、複叉(ふくさ)狀、叉は、不規則なる分岐をなすに至る。其繁殖法も亦、テングサの如く四分胞子(《し》ぶんほうし)、及、囊果(のうくわ)に依るものにして、是等は、葉面(えうめん)に、卵形、叉は、蛇の目狀の斑點となりて表(あらは)れ、成熟するや、是より、胞子は飛散す。通例、ツノマタと總稱すれども、此の海藻には、數多(あまた)の種類ありて、コトヂツノマタ、ギンナンソウ、ヒラコトヂ、ソラキウツノマタ、オホバノツノマタ等(とう)、是なり。是等のツノマタは、總て、糊料(これう)として、左官用(さかんよう)に用ひらるゝ事、多く、地方によりては、蒟蒻狀となして、食用に供する地あり、と、聞く。產地は廣くして、東海道沿岸、及、陸前地方に多く、相模、安房、上總、遠江、伊豆、常陸、磐城の氣仙沼等に產す。原料としては、劣等なるものにして、使用せらるゝ事、少(すこ)し、是、質、粗剛(そがう)にして、容易に煮熟(しやじゆく)して、溶解せられざるが、爲(た)めなり。

[やぶちゃん注:これ以降の種名は太字になっていない。まず、この「ツノマタ」は既注の、

真性紅藻亜綱スギノリ(杉苔)目スギノリ科ツノマタ(角叉)属ツノマタ Chondrus ocellatus

である。前掲の田中先生の「日本の海藻 基本284」に拠れば、種小名は『蛇の目模様の』で、キャプションには『平たいものから鶏冠状のものまで形もさまざまである。』とあり、『分布』は『日本各地』とし、『生育場所』は『潮間帯下部~潮下帯』、『大きさ』は『高さ10~15㎝』で、『潮間帯下部に生育代表的な紅藻である。体色は七変化。緑、青、紫、赤などの色合いのものがある。基本的には広い枝が二叉分岐する。枝はねじれることが多い。高血圧などの民間薬の原藻としても知られる。カラギーナン寒天』(カラギナンは紅藻類から抽出される多糖類の呼称で、カラギナンはその構造の違いから κ(カッパ)カラギナン・ι(イオタ)カラギナン・λ(ラムダ)カラギナンの三種に分かれる。当初は「アイリッシュ・モス(Irish moss)」という紅藻類の海藻のみが、カラギナンの原料に用いられていたが、後の、多様な紅藻類から抽出されるようになった。「カラギナン」という名は、古くからアイリッシュ・モスを利用してきたアイルランドの“Carragheen”という街の名に因んだものようである。現在でも「カラギナン」のことを“Irish moss extract”と呼ぶことがある。カラギーナンは基本的には、ガラクトース(Galactose)基に硫酸基が附いた構造をしており、同じく紅藻類から作られる通常の「寒天」とは、硫酸基の含有量の相違によるものと謂われている。寒天よりもカラギーナンは多量の硫酸基を含有している。以上はサイト「食品開発ラボ」の「カラギナンとは~基礎から徹底解説」に拠った)『としても食されることが多い。』とある。続く以下の種を示す。

「コトヂツノマタ」はツノマタ属コトヂツノマタChondrus elatus

「ギンナンソウ」小学館「日本大百科全書」の「ギンナンソウ ぎんなんそう / 銀杏草」に拠れば、『紅藻植物、スギノリ科の海藻の一群をさす。東北地方、北海道の沿岸に産し、藻体の煮だし液が土壁、漆食(しっくい)などの粘着糊料(こりょう)に使われた。革膜質で、上部が二又に分岐する葉状型となる海藻で、アカバギンナンソウとクロバギンナンソウとがあったが、研究が進み、アカバギンナンソウ(別名ウスバギンナンソウ、ホトケノミミ』(「仏の耳」)『)はRhodoglossum japonicum Mikamiであり、クロバギンナンソウ(別名アツバギンナンソウ)は新しくエゾツノマタChondrus yendoi Yamada et Mikamiとする説が出され、採用されている。糊料としての用途は衰え、食用にされることが多い。』とあった。現在、流通では、単に「銀杏草」(或いは採集地の名前を冠す)として、味噌汁の具等として販売されている。サイト「北海道へ行こう!」の「ほとけのみみ?稚内銀杏草(ぎんなんそう)を美味しくお召し上がりいただくために(レシピ・食べ方)」が採取からリピシまで、写真があるので見られたい。学名は、

スギノリ目スギノリ科アカバギンナンソウ(赤葉銀杏藻)属アカバギンナンソウ Mazzaella japonica

であるが、他に、以上に引用した通り、アカバギンナンソウに非常に似た、属レベルで異なった別種に分離された、

スギノリ科ツノマタ属クロハギンナンソウ(黒葉銀杏藻)Chondrus yendoi

を別に挙げねばならない。別に「エゾツノマタ」の異名がある。後者に就いては、鈴木氏の「生きもの好きの語る自然誌」の「クロハギンナンソウ Chondrus yendoi」のページが画像も豊富で、よい。そこで鈴木氏も、『クロハギンナンソウ( Chondrus yendoi )は,東北地方太平洋沿岸以北で良くみられる海藻ですが,アカバギンナンソウ( Mazzaella japonica )との区別にしばしば頭を悩ませます。アカバギンナンソウとは生殖器官の構造が異なり,分類学上は属のレベルで異なりますが,見た目はとても良く似ています。ツノマタ属の例に漏れず,外部形態が激しく変化するため確実とは言えませんが,アカバギンナンソウと比べて分枝が少ないこと,色が黄色っぽいことなどによって区別しています。色は重要な特徴ですが,押し葉標本にすると褪せてしまうため,生育時の写真を撮影し,残しておく必要があるでしょう。』とあった。流通では、アカバギンナンソウと区別した記載は認められないが、信頼出来る記載に拠れば、『若いものは食用になる』とあったから、大きくなると、硬くなって食用には向かなくなると推定される。

「ヒラコトヂ」これは、

ツノマタ属ヒラコトジ(平琴柱)Chondrus pinnulatus

である(「コトヂ」は歴史的仮名遣である)。前掲の田中先生の「日本の海藻 基本284」に拠れば、種小名は『羽状の』で、キャプションには『細い枝が不規則に出ている。』とあり、『分布』は『日本沿岸北部』とし、『生育場所』は『潮下帯』、『大きさ』は『高さ15~20㎝』で、『分布は日本の北部が中心であるが駿河』『でも生育が見られた。このような分布の例は、瀬戸内海や伊勢湾などの内湾で見られる。冬に水温が低くなるとことが理由のひとつである。からだはかたくしなやかで、二叉分岐して平面的に広がる。太い枝から不規則に細かい枝が多数出る。ツノマタ、マルバツノマタ』(丸葉角叉: Chondrus nipponicus )『に似るが、茎や枝は平たく、枝の先はとがる。』とあった。

「ソラキウツノマタ」✕いろいろ調べたが、国立国会図書館デジタルコレクションでも、この書にしかヒットせず、不詳である。識者の御教授を乞う。

「オホバノツノマタ」(大葉角叉) Chondrus giganteus 。]

) オゴノリ(第六圖) 別名ウゴノリ、オゴ、ウゴ

本藻は靜溫(せいをん)なる內灣、及、河口等の淺所(せんしよ)に生育し、岩石、介殼片(かいこくへん)等(とう)に着生し、其丈(そのたけ)、一尺より長きは、三、四尺に及ぶ。枝條は圓柱狀にして、極めて細く、直徑三厘[やぶちゃん注:二・七センチメートル。]內外にて、不規則なる叉狀線、又は、羽狀線をなし、表面、滑澤(こつたく)に、質は柔軟にして、色は深褐色をなせり。囊果(のうくわ)は、枝の表面に半球狀の疣狀(いうじやう)隆起をなして生じ、是より、胞子の飛散するを見る。又、食用に供し、糊料[やぶちゃん注:底本は「湖料」。誤植と断じ、訂した。]、漉布糊(すきふのり)等(とう)にも用ひらる。產地は東海道沿岸、及、瀨戶內海に多く、モヅサと供ひて產する事、多し。粘力、强くして、製造の步留(ぶどま)り多きを、利ありとすれども、其品質、惡しきより、多く使用する時は、製品を劣惡ならしめ、惡臭を附するの恐れ多き爲め、信州諏訪水產組合にては、使用を禁ず。

[やぶちゃん注:これは、刺身のツマとしてよく知られており、私も好物である、

紅色植物門紅藻綱オゴノリ(於胡海苔・海髪)目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla に代表されるオゴノリ科Gracilariaceae のオゴノリ類

である。本邦産だけでも、

オオオゴノリ Gracilaria gigas

ミゾオゴノリ Gracilaria incurvata

フシクレオゴノリ Gracilaria salicornia

シラモ Gracilaria bursa-pastoris

カバノリ Gracilaria textorii

シンカイカバノリ Gracilaria sublittoralis 

等、実に二十種が知られている。★なお、生食で、中毒症状を呈し、死亡例も、複数あることは、あまり知られていないので、注意が必要である。★それに就いては、「大和本草卷之八 草之四 ナゴヤ (オゴノリ)」(「ナゴヤ」はオゴノリ類の九州での方言)の私の注で、中毒・死亡例の推定機序を述べてあるので、御存知ない方は、必ず、見られたい。

「漉布糊(すきふのり)」和紙の漉き工程で使用するものであろう。]

)イギス (第七圖) 別名ヱギス、イギリス、オキテン

本藻は干潮線以下に於て生育し、枝條、圓柱狀をなし、質は柔軟にして粘滑に、下方には、小枝(せうし)、輪生し、全體は、不規則なる叉狀に分枝せる枝條、廣まりて不定なる塊狀をなし、先端は尖りて、內曲(ないきよく)するものあり、全體に環紋(くわんもん)あるを見る。他の多くの海藻上に着生し、其色、暗紅紫色を帶(おべ)り。本藻は、味噌、洒精に漬けて、食用となす。又、イギス蒟蒻(こんにやく)なるものは、酢、又は、米泔汁(こめとぎじる)を加へ、煮て、溶解せしめ、是を凝固せしものなり。其外、酢、味噌として食用になす等(とう)、其用途、廣し。本邦に廣く歲出すれども、兵庫縣產を以て、最も優良なり、とす。

[やぶちゃん注:これは、解説から見て、

マサゴシバリ亜綱イギス目イギス科イギス連エゴノリ属イギス(海髪)Ceramium kondoi

である。前掲の田中先生の「日本の海藻 基本284」に拠れば、種小名は『人名にちなむ』とあり、調べたところ、発見者の姓が近藤であったことに拠る(学名規則に姓名が母音で終わる場合は「i」を語尾に追加せねばならない)。『分布』は『日本各地』とし、『生育場所』は『潮下帯』、『大きさ』は『高さ20~30㎝』で、『潮下帯のホンダワラ類などの海藻の上に生育する。エゴノリ』(既注)『やアミクサ』(イギス連エゴノリ属アミクサ(網草)Campylaephora boydenii )『と同様な場所に生育する。類似種とは、枝が三叉状に分岐する特徴で区別される。』(☜重要!)『また、エゴノリのように他の海藻にからみつく鉤状の枝葉できない。山陰』(さんいん)『や瀬戸内海地方で食されるイギス豆腐はとみに有名である。』とある。藻体画像と分類学では、やはり、鈴木氏の「生きもの好きの語る自然誌」の「イギス Campylaephora kondoi」のページが画像も豊富で、よい。そこで鈴木氏が、『分類に関するメモ:イギスは,Ceramium属の1種として記載されました。Barros-Barreto et al. (2023) は,イギスをCeramium属からエゴノリ属(Campylaephora)に移しました』とあるのに注目せねばならない。

 さて、田中先生が最後に述べておられる「イギス豆腐」に就いて、当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『いぎす豆腐(いぎすどうふ)とは、愛媛県今治市を中心とした瀬戸内海地方に伝わる郷土料理。愛媛県の越智地方・今治地方で、夏の風物詩としてお盆や法事の際に食される。見た目は高野豆腐に似る』。『紅藻の一種であるいぎす草(Ceramium kondoi Yendo)』(学名に注目! これは正しく、種としての「イギス」である)『と生大豆の粉を出汁で煮溶かし、寒天のように固めた料理である。いぎす豆腐には具入りと具なしがある。具入りはエビや枝豆などを入れ、華やかな見た目になる。家庭によって具とする食材は様々である。具なしは醤油や辛子味噌をつけて食べる』。『長崎県の島原半島の郷土料理である』「いぎりす」の異名は『いぎす豆腐に由来するとされる』とある。「イギス豆腐」に就いては、「農林水産省」公式サイト内の「いぎす豆腐 愛媛県」を見られたい(種名を示さない。なお、私は食したことがない。四国には足を踏んだだけで、高知に至っては、唯一の未踏県である)。なお、この注をするのに際し、私のサイト版「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「いぎす 海髪」の種同定に誤りがあったので、修正した。お暇な方は、ご覧あれかし。]

)ヱゴノリ(第八圖) 別名ヱゴ、オキウト、麒麟菜(漢名)[やぶちゃん注:丸括弧閉じるがないので、補った。]

本藻は四、乃至、五尋の海底の岩石に多く附着して生育し、大なる塊狀をなし、枝條は圓柱狀にして、多枝(たし)を分岐し、互に各枝(かくし)、卷き合ひて、其區別、困難なり。各枝の先端は、卷き、肥大にして、彎曲(わんきよく)せり、而して此部に四分胞子(《し》ぶんはうし)を附着す。食用にも供せらる。產地は九州近海に最も多く、又、陸中以南、及、越後以西の海岸に生じ、肥後、明石、三河、江の島、安房、松島、凾館、釧路の厚岸、出雲、能登、佐渡等(とう)、主(おも)なる產地にして、原料として良品なるを以て、テングサに次ぎて、廣く貴重され、其使用料も從(したがつ)て多額なりとす。

[やぶちゃん注:これは、「おきゅうと」の原料として知られる(ご存知ない方は当該ウィキを見られたい)、

イギス目イギス科イギス連エゴノリ属エゴノリ(恵胡海苔)Campylaephora hypnaeoides

である。田中先生の「日本の海藻 基本284」に拠れば、種小名は『ハイゴケ(蘚類)に似た』とあり(マゴケ(真苔)植物門マゴケ綱ハイゴケ目ハイゴケ科ハイゴケ属ハイゴケ Hypnum plumaeforme 当該ウィキの画像。似てるとは思えないな)、『分布』は『日本各地』とし、『生育場所』は『潮下帯』、『大きさ』は『高さ20~30㎝、枝の直径1mm』で、『類樹種』は『アミクサ、イギス』とあり、『エゴノリ属』の属名『は「曲がったもの+もつ」の意。日本には3種が知られる。本種の和名は九州地方の方言による。細い円柱状のからだをもつ。アミクサ、イギスとともにホンダワラ類などの他の海藻の上に付着することが多い。カギイバラノリ』(スギノリ目イバラノリ(茨苔)科イバラノリ属カギイバラノリ(鉤茨苔)Hypnea japonica )『と同じような鉤状の枝で他の海藻にからみついている。この鉤状の枝を持つことで類似種のイギス、アミクサと区別できる。寒天原藻として重要。イギス類とオゴノリを、糊分の強い順に並べるとエゴノリ、オゴノリ、イギスの順であり、エゴノリが一番かたい。枝はもろい。』とあった。]

)トリアシ(第九圖) 別名スヾクサ、セラサ

本海藻の枝條は瞰軸的(かんじくてき)に成長す。卽ち、海綿質を有せる圓盤體(ゑんばんたい)、相重(あひかさな)りて、一條の中軸に貫(つらぬか)れたる貫錢(くわんせん)狀をなし、其表面は粗糙(そざう)[やぶちゃん注:「ざらざらとして粗いこと」。]にして、長さ、七、八寸より一尺に至る。其色、枝條に紫色の輪を無數に篏(は)めたるが如くにて、其形狀、宛然(さながら)、鳥の足の如くなるより、此名あり。四分胞子は、各圓盤體の緣邊(えんぺん)より生ずる微細(こまか[やぶちゃん注:二字へのルビ。])なる小羽中(せいうちう)にあり。又、其枝條の表面に凸凹(とつあふ)あるにより、土砂、海綿、石灰質の海藻を附着する事、多し。原料としては、其質、剛硬(かたき[やぶちゃん注:二字への略訓的なルビ。])に失するの缺點あり。產地は太平洋に面する國に多く、下總、安房、相模、伊豆、志摩、紀伊、阿波、土佐、日向等(とう)を主產地とす。

[やぶちゃん注:これは、少し手間取った。現代の正式和名が以上と異なっていたためである。国立国会図書館デジタルコレクションの大島勝太郞著「海藻と漁村」(一九四九年目黒書店刊)のここで、「トリノアシ」を正式名とし、学名は『Acanthopeltis japonica』となっている(斜体でないのはママ)。異名に「ユイキリ」「スズクサ」とあった。これは、現在の、

テングサ属ユイキリ(結い切り)Acanthopeltis japonica

である。但し、以上の学名はBISMaL」のものであって、鈴木氏の「生きもの好きの語る自然誌」の同種のページのタイトルは、

ユイキリ Gelidium yoshidae

となっている。以下、正式には、『Gelidium yoshidae G.H.Boo & R.Terada in Boo et al. 2016: 368.』で、以下に『分類に関するメモ』として、『ユイキリは,ユイキリ属(Acanthopeltis)の1種としてテングサ属(Gelidium)と区別されていましたが,Boo et al. (2016)は,遺伝子解析を基にユイキリ属をテングサ属に含めました。ユイキリをテングサ属に移すに当たり,オニクサ(G. japonicum)の後続同名になるのを避けるため,新名G. yoshidaeを提唱しました。』とあったから、最後のものが、ユイキリの最新の学名である。

田中先生の「日本の海藻 基本284」に拠れば、『分布』は『日本中部・南部』で、『生育場所』は『潮下帯』。『大きさ』は『長さ10~20cm』、『解説』に前者の学名について、『 Acanthopeltis は「棘のある+楯」の意。日本特産種で、日本では2種が知られる』とあるが、調べてみても、この二種の違いは判らなかった。『和名は、枝を糸で切り結んでいる様による。別名の「トリノアシ(鳥の足)」は、本種の枝の外形がニワトリの足のすねに似ているから。からだは円柱状、二叉分岐し、老成するにつれてその間に海綿動物が多量に着生するために、体色は白く、円筒状の枝となることが多い。外洋に面した水深2~10mに多く、太平洋沿岸では千葉県から九州までいたる地方に生育する。密生して生育し、大量に浜に打ち上げられることも多い。テングサ類のひとつだが、その寒天原藻としての品質は他のテングサ類に劣る。』とある。]

)トサカノリ(第十圖) 鷄冠菜、紅菜、鳳美菜(はうびさい)(漢名)

本藻は、形狀、扁小にして、叉狀、及、羽狀等に分裂し、又、綠緣邊より、副枝を出(いだ)す事、あり。各節(かくせつ)の表面、及、綠邊には無數の突器(とつき)ありて、子嚢を附着し、其四分胞子は、表面に、散じて附着せり。暖地に生ずる者は、大にして、オヽトサカと呼ばる。日光に曝露(ばくろ)する時は、白色に變ずるより、陰乾(かげぼし)となる。淸國(しんこく)にては、五色菜として珍重せらると云ふ。

[やぶちゃん注:これは、

ミリン(味醂)科トサカノリ(鶏冠海苔)属トサカノリ Meristotheca papulosa

である。但し、以上の学名はBISMaL」のものであって、鈴木氏の「生きもの好きの語る自然誌」の同種のページのタイトルは、

トサカノリ Meristotheca japonica

となっている。そして、以下に、「分類に関するメモ:トサカノリは,"Meristotheca papulosa"に充てられてきましたが,Yang et al. (2023) は,日本産種をM. papulosaとは別種として区別し,M. japonicaに充てました。」とある。前注と同じで、こちらが最新の学名である。田中先生の「日本の海藻 基本284」に拠れば、『分布』は『日本各地』で、『生育場所』は『潮下帯』。『大きさ』は『長さ20~50cm』、『解説』に学名の属名について、『 Meristotheca は「分かれた+莢(さや)」の意。日本では2種が知られる』とあるが、調べてみても、前と同様、この二種の違いは判らなかった。『本種は枝の先端の枝分かれ形が、ニワトリの鶏冠のようなのでこの名がある。平面的に広がる肉質のからだは、成長すると折れやすい。成長すると瘤(こぶ)状の突起がたくさん出る。老成した個体と若い個体では形態がいちじるしく異なることがある。鶏冠を連想させる形態は若い時期のものである。生体は紅色であるが、熱湯を通せば、赤い色素が変成して、葉緑素の色が緑色として残る。さらにそれを水にさらすと、すべての色素が溶け出して白くなる。これらの乾燥させたものを組み合わせて、「赤トサカ」、「青トサカ」、「白トサカ」の海藻サラダ3点セットとして売られている。その食感と味は海藻サラダの絶品といってもよい。』(私も諸手を挙げて賛同する!)『煮出して冷やしてかためたものは、「トサカコンニャク」と呼ばれて食用になっている。』とあった。]

以上の海藻類は、現今、專ら、使用せらるゝものなれども、將來、一層、善良なる原料も發見せらるゝ事もあるべく、主產地なる長野縣下に於ては、大正二年度より、各原料の試驗に從事しつゝあれば、他日、是が成績に就き詳記する事とすべし。

   *

★以上を以って、ほぼ四日と半日をかけて、底本では全くと言っていいほど、示されない「寒天」の材料となる種を、知られたものは、一部を除いて、示すことが出来たと考えている。★

「『大《おほ》ふさ』・『ながまるすぢ』を上品とし、『あらつち』、之に次き、『姥草(うばくさ)』ハ、扁平にて、下品とす。」これはテングサ類の素材の上等物から下等物の呼称のようである。

「紀伊にて『鬼草(おにくさ)』、一《いつ》に『おにもくさ』、又、『ひらもくさ』と唱(となふ)るものは、形、平たくして、堅く、煮て溶(とけ)ること、遲し。故に、最も下等とす」これは、前の引用で注した、テングサ属オニクサ(鬼草)Gelidium japonicum である。

「海に入りて搔採(かきと)り、」これ以降は、先に引用した「冬期副業寒天製造法」の「第二章 原料」に続く、「第三章 原料の採集法」を見られたい。十全に視認でき、特に注を附すもない平易な内容なので、見られたい。「)蜑女(あま)」相当である。また、「()潜水器」も含まれる。

「一は、器具を用ひて、搔き揚げ」当該部は「(二)ドレツヂ(drag)」(英語表記はママ。正しくは“dredge”である。)を見よ。

「一は、波浪の爲(た)め、海岸に打寄せたるを拾ふ」今も普通に行われる海岸での打ち上げられたもの、或いは、岸辺・浜辺直近で浅い所の波に漂流するものを、素手で収穫する方法である。同前の章末の「()漂着藻採集(へうちやくさうさいしふ)」を見られたい。

「天突(てんつき)」不審。これは、寒天原藻を刈り取る道具ではなく、最後に処理した心天(ところてん)の塊を突いて細長く切り出す特殊な道具である「心太突き」だからである。河原田氏が、うっかりと入れてしまったのではあるまいか。福岡県遠賀郡水巻町(みずまきまち:ここ。グーグル・マップ・データ)の「水巻町歴史資料館」の「ところ天突き」を見られたい。私は、どこかの資料館で手にとったことはあるが、実際に突き出したことはない。

「じよれん」「鋤簾」で現代仮名遣では「じょれん」。対象物を掻き寄せる道具。長い柄の先に、浅い歯を刻んだ板・鉄又は竹を、箕()のように編んだものを取り付けたもの。鋤簾鍬(じょれんぐわ)。「コトバンク」のここで図画像が見られる。

「のふと搔(かき)」不詳。「野太搔き」か。前者よりもがっちりとした鋤簾のようなものか。識者の御教授を乞う。

「てんとり鎌(かま)」不詳。「ところてん」の「てん」で原藻を「獲る」「鎌」状の道具か。同前。

「がんがりまんぐわ」不詳。冬の原藻を刈る「寒刈(かんが)り」用に特化した「馬鍬」(まぐわ→(音変化で「まんぐわ」ともなる):牛馬に牽かせて水田の土を掻き馴らす農具。長さ一メートルほどの横の柄に、刃を櫛状に取り付けたもの)か。「第三章 原料の採集法」の「(三)アンガ」に、『此法は北海道に主として行るゝ方法にして、幅五寸內外の刷毛形をなせる板に、長さ五寸幅四五分なる頭部に尖れる釘狀(ていじやう)の扁(ひらた)き柄を附して採取するものなり。通例三四尋の淺所(せんしよ)に行(おこなは)る。蓋し寒冷なる爲め蜑女(あま)に依る事困難なるより、自然本器をしようするものならん。』とあるのは、先に示した私の発想と一致し、「まんぐわ」もぴったりである。

「小たけ網」不詳。「小竹網」か。同前。

「木製二股(もくせいふたまた)かき」不詳。「木製の二股掻き」か。竹で編んだ二股になったものを舟で牽き、そこに原藻を掻き集めるものか。同前。

「てんとりあみ」「ところてん」の原藻を採取する「採り網」か。同前。]

2026/03/22

「BISMaL- ビスマル -Biological Information System for Marine Life」の和名のミスを通報した

現在、『河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(六)寒天の說(その3)』の注をしているのだが、多数ある寒天とする海藻を、同定比定している最中、最も信頼出来るものとして「BISMaL- ビスマル -Biological Information System for Marine Life」を使っているのだが、ある属和名が、ミスとしか思われないものを発見したので、昨日、午前中にメールした。

   *
私は、個人で文学・博物学の諸電子化注を作成している者です。
現在、ブログで「淸國輸出日本水產圖說」の「寒天の說」を電子化注しておりますが、その注をしている最中、BISMaLで学名を参考にしているのですが、「ヒラクサ」を検索したところ、
以下の分類ツリーの属和名が「ヒサクサ属」となっています。
これは「ヒラクサ属」の誤植ではないでしょうか?
他の信頼出来るデータを見ても、「ヒラクサ属」です。 
以下に画面(https://www.godac.jamstec.go.jp/bismal/j/view/9021276)から、当該箇所以下をペーストしておきます。
   *
Genus Ptilophora Kützing, 1847 ヒサクサ属 非表示
Species Ptilophora irregularis (Akatsuka & Masaki) Norris, 1987 ナガヒラクサ
Species Ptilophora subcostata (Okamura) Norris, 1987 ヒラクサ
Genus Yatabella ヤタベグサ属
   *
さても先ほど土曜なのに、返信があった。以下。
   *
ご指摘の通り、誤りのようです。
再度文献等々を確認し、和名ほかの修正を行います。
ご連絡いただきまして、ありがとうございました。
引き続き、BISMaLをご活用いただけますと、ありがたく思います。
海洋研究開発機構
BISMaL運用チーム
2026年3月21日土曜日 9:14:55 UTC+9 Yabuno Tadashi:
   *
私の指摘は正しかった。

2026/03/18

立原道造草稿詩篇 一日 / 底本「前期草稿詩篇」電子化注~了

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『制作時は昭和10年9月執筆の『スケツチ・ブツクI』中に「Ⅱ」の初稿があることに拠り、同年9月と想定する。』とあった。されば、その「スケツチ・ブツク1」(「第四卷 評論・ノート・翻譯」のここであるが、冒頭を見ると、ナンバーは「I」ではなく、「1」である)のものを【初稿】と見做し、冒頭に出した。決定稿は、各パート内で、有意に行空け(二行空けもある)が行われており、それを、無論、再現してある。

 なお、本篇を以って、底本の「前期草稿詩篇」の電子化を終了した。]

 

【初稿】

 

  (屋根の尖りの⋯⋯)

 

屋根の尖りの甍に腰をおろし

空はあさみどりすみわたつてゐたが

村を眺めくらしたことがあつた

せきれいは私と並んで尾をたたき

家々は鳴りをひそめて炊煙(けむり)をあげた

あかねさす日の終り子供らは小學唱歌をうたひ

雲は滲んで燈がついた

 

 

[やぶちゃん注:「燈」は決定草稿のルビに従い、「あかり」と読んでおく。]

 

 

【決定草稿】

 

  一日

 

     I

 

河口に幼い春の日が暮れて

 

白い船が水脈をひき 何艘も歸つて來た

 

旗は吹く風にひるがへつた

 

 

水が騷いでいりまじり

 

岸から波は離れて行つた(岸邊の傳馬に焚火の焰が搖れてゐた)

 

    Ⅱ

 

屋根の尖つた甍に腰おろし

 

空はすみわたつてゐたが

 

村を眺めくらしたことがあつた

 

せきれいは私と並び 尾をたたき

 

家々は鳴りをひそめて炊煙(けむり)をあげた

 

 

茜さす日のをはり 子供らは小學唱歌をうたひ

 

雲は滲むで 燈(あかり)がともつた

 

 

[やぶちゃん注:「水脈」は「みを(みお)」と読みたい。

「傳馬」「てんま」。「傳馬船」(てんません)で、本船に搭載して、岸との連絡や荷物の積み降ろしに使用する木造の小船の名。近世では、二百石以上の荷船は、総て搭載していたが、大きさは、本船の積石数の二十分の一から、四十分の一程度であった。「橋船」とも呼んだ(以上は小学館「日本国語大辞典」の記載を主文とした)。

   *

 注記では、最後に担当者であった堀內達夫氏の解説があるが、その最後で、『これだけの数の草稿が、清書同様に書かれていることは、『昭和八年ノート』の例をとっても不自然なことで、恐らく下書きのノートや草稿が書かれていたと想像するが、現段階では未詳である。』とある。これは、道造が結核で亡くなったことと関係するものと思われる。結核患者の持ち物は、一般に、死後、感染予防のために焼却されたからである。因みに言っておくが、私は、一歳半で結核性左肩関節カリエスに罹病し(母は近所に開放性療養していた若い女性が、私を可愛がって呉れたが、その人から感染したと思う、と言っていた)、四歳半まで、ギブスを装着していた。当時、流行りだった赤塚不二夫の「おそ松くん」のイヤミの「シェー!」が流行っていた。幼稚園生だった私は、一日中、「シェー!」をしている哀しい少年だった⋯⋯⋯⋯閑話休題。引用に戻る。道造自身がノートの昭和一〇(一九三五)年四月十八日『の項に「每日のやうに、書き損し」(「じ」の誤り。ここの右丁の「4・18」を見よ)『の詩稿、手紙などを燒いた」としるしている。後期』(別巻の「後期草稿詩篇」相当時期を指す)『の場合にも昭和』一二(一九三七)年十一月十九日、『信濃追分滞在中に宿舎油屋の火災に遭い身辺のもの凡てを焼失している。』と終わっている。⋯⋯私は、さればこそ、道造の草稿を電子化し、非力ながら、ユビキタスによって、立原道造の詩想を未来に繋げたく思うのである。]

道   黑田三郞

   道   黑田三郞
 
 道はどこへでも通じてゐる 美しい伯母樣の家へゆく道 海へゆく道 刑務所へゆく道 
どこへも通じてゐない道なんてあるのだらうか
 それなのに いつも道は僕の部屋から僕の部屋に通じてゐるだけなのである 群衆の中を步きつかれて 少年は歸つてくる

[やぶちゃん注:未成年以来の偏愛する一篇であるが、今回、国立国会図書館デジタルコレクションの黑田氏の「失はれた墓碑銘 第二詩集」(一九五五年昭森社刊/正仮名・漢字新字体)を参考にし(ここ)、さらに、末尾の黑田氏の「あとがき」を見たところ、「道」は戦前の雑誌に発表した、という下りがあったことから、完全な正字正仮名に修正した。本詩篇は本ブログでは、初めて公開した。]

立原道造草稿詩篇 林空

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。「林空」は「はやしぞら」と読みたい。]

 

  林空

   ゆふすげの花はせつない眼ばたきのやうに

                   ――丸山薰

 

せつない眼ばたきといはれた花を、その黃いろな一輪をともした叢の靑空に、僕はたたずんで聞く。梢を移る鳥たちの聲を、風に似た汽車のとほい笛を。⋯⋯あゝ、明るい晝間。埃のする冬の日向に、もう一度聞く。それから物音から氣位高く。見馴れないものたちはすぐに立ち去り、あの黃色な一輪を手に持つたまま。僕はもう一度聞く。⋯⋯ふと掠めた栗鼠のかげり。そのまま過ぎた日日のうたを。

 

 

[やぶちゃん注:注記に、『表題に添えた丸山薰の詩は「峠」、『文藝』昭和9年9月号発表。昭和10年5月5日付、第一書房刊第二詩集『鶴の葬式』所収。』として以下に全文を示す。「海の詩人」として知られる丸山は、私の好きな詩人の一人である。ここは国立国会図書館デジタルコレクションの当該詩集のここを視認して示す。傍点「﹅」は太字に換えた。

   *

 

 峠

 

機關車は警笛鳴らし

齒ぐるまの喘ぐ軋り嚙まれて

あの高原への九十九折を登るとき

佇み見送る勾配標のかげから

ゆふすげの花はせつない眼ばたきのやうに

トンネルのアーチのむかふに小さくなり

近より迫る嶺々の尖りは

夕ぐれの陰翳(かげり)を濃く喚び交はす

窓邊のぼくの顏も淡いランプの影の一つになつて

かなしく遠い谿の斜面を步いてゐる

 

   *

・「九十九折」「つづらをり(つづらおり)」と読む。「葛折・九折」とも書く。 「葛(つづら)の蔓(つる)が何度も折れ曲がって伸びているさま」から、「くねくねと幾重にも曲がりくねって続く坂道」を指す語。

・「ゆふすげ」は前の「夏」の頭注を見られたい。

 言わずもがなであるが、この詩自体が、軽井沢へ向かう旧信越本線の最後の登りがシチュエーションである(私は大学時代に実家へ帰るのに、しばしば使った懐かしい路線であった)。道造の詩は、確信犯で、素敵な、嫉妬をさえ感ずる薰への相聞歌となっている。

立原道造草稿詩篇 夏

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、この「夏」と「林空」の二篇は、『制作時は昭和10年5月24日付・丸山薰宛書簡に、「林空」』(「はやしぞら」と読んでおく)『に添えた丸山の詩に就いて、「『夏』の百合の花『峠』のゆふすげの花など、まづしい室內の飾りに手折つて」(「たをつて」)『花甁にさしませう。その下で僕もたくさんよい詩を書きたいと思ひます。」と述べていることに拠り、6月頃と想定する。』とある。当該書簡は同全集の「第六卷 書翰」のここ(右丁上段の『一〇一』。実際の書簡では、「夏」・「峠」は通常の鍵括弧である)。「ゆふすげ」は「夕菅」で、単子葉植物綱キジカクシ(雉隠)目ワスレグサ(忘れ草=カンゾウ(萱草))科ワスレグサ亜科ワスレグサ属ウコンカンゾウ(鬱金萱草)変種ユウスゲ(夕菅) Hemerocallis citrina var. vespertina 。]

 

  夏

 

泉に映るだうだんつつじ

それから あれは樺の木

 

飛沫を透いて靑い空 雲のかげ

子供は水に石を投げ込む

 

消える物音 あれは木靈

子供はかぞへる 水の輪を

 

數へきらないうちに 林のかげ

木を傳つて歸へつて來る

子供はかぞへる その木靈を

 

 

[やぶちゃん注:「だうだんつつじ」ツツジ目ツツジ科ドウダンツツジ(満天星)亜科ドウダンツツジ属ドウダンツツジ Enkianthus perulatus但し、歴史的仮名遣でも「どうだんつつじ」であるから、道造の表記は誤りである。元は「燈台躑躅」(とうだいつつじ)で、枝の分枝する形が、昔の「結び灯台」(昔の灯明台の一つ。三本の棒支柱を組み合わせて、真ん中から、やや、上で結び、上下を開いて安定させ、その開いた頭部に油火の皿を載せるもの)に似ていることからで、「とうだい」の音が転じて「どうだん」になったとされる。但し、本邦での慣用漢字表記は「満天星」で、当該ウィキに拠れば、『これは花を満天に喩えたものであり、和製の表記であるとされる』とある。私の好きな花である。嘗つて、秘かに愛していた女性が教えて呉れたのを思い出す。

「木靈」老婆心乍ら、「こだま」と読む。]

2026/03/17

立原道造草稿詩篇 (林のなかに⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (林のなかに⋯⋯)

 

林のなかにぎぼうしゆが眞白い花を咲いたとか

冬のさなかに きたけれども

夢みる心に疲れてゐたのか その鼻さへも目には浮ばず

なにかこせこせ悲しい顏つきの白茶けたあの鼠ばかりが

壁をやぶいて すきとほつた眼でぢつと見てゐた

こんな僕ではなかつたとぢつと考へてみるけれども

ああ その花さへも目には浮ばず

 

 

[やぶちゃん注:昭和十年、及び、それ以前でも冬に軽井沢に行った形跡は年譜上は、ないので、不審。

「ぎぼうしゆ」単子葉植物綱キジカクシ(雉隠)目キジカクシ科リュウゼツラン(竜舌蘭)亜科ギボウシ(擬宝珠)属 Hosta の複数の種を指すが、恐らくは、オオバギボウシ変種オオバギボウシ Hosta sieboldiana var. sieboldiana であろう。山岳部の顧問をしていた頃は、よく見た。詳しくは当該ウィキを見られたい。しかし、開花は夏で、冬に咲くのは、トンデモない狂い咲きである。

「なにかこせこせ悲しい顏つきの白茶けたあの鼠ばかりが」「壁をやぶいて すきとほつた眼でぢつと見てゐた」これは、家鼠の内の、哺乳綱ネズミ目ネズミ上科ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミ Mus musculus である。]

立原道造草稿詩篇 (かつてひとりが⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (かつてひとりが⋯⋯)

 

かつてひとりがいはなかつたか

お前はもうゆるされてゐないと。

それは冬のうすい日のさす午後だつた

いつまでもそのやうにひとりは

水に映つたかげをたのしんでゐた

それから顏をあげていはなかつたか

お前に歌ふすべはなからうと。

それは突然に來た不思議であつたか

もう知る者はないだらうか――。

私は池のほとりに歸つて來る

それから尋ねる 答を貰ふために

私は空を眺めたる水を眺めたりする

それから呟く 何事もなかつたと

自分でもうそだと知りながら それだけのことを。

 

立原道造草稿詩篇 (それは雨の⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこに、『消去された』『第三聯がある。』としてそれが記されてあったので、それで【初稿】を復元した。]

 

【初稿】

 

  (それは雨の⋯⋯)

 

それは雨のはげしい夜だつた

私たちは火鉢のそばでその物音に

もう話のなくなつた耳を借してゐた

一つも聞き洩らすことのないやうに

 

雨が何を語つたか 私たちが何を語つたか

誰もがそれを忘れてゐた ふだんのやうに

長い長いしづかさだつた

 

おそらくあの夜 空に消えた千の雨粒

私たちは光りながら死ぬのだらうと

誰が誰に小聲で語つたのだらうか

 

 

【決定草稿】

 

  (それは雨の⋯⋯)

 

それは雨のはげしい夜だつた

私たちは火鉢のそばでその物音に

もう話のなくなつた耳を借してゐた

一つも聞き洩らすことのないやうに

 

雨が何を語つたか 私たちが何を語つたか

誰もがそれを忘れてゐた ふだんのやうに

長い長いしづかさだつた

 

おそらくあの夜 空に消えた千の雨粒

私たちは光りながら死ぬのだらうと

誰が誰に小聲で語つたのだらうか

 

 

[やぶちゃん注:恐らく、初稿に第三聯は削除線が三行に亙ってあり、新たに書き直したものなのであろうが、結果して、最初の一行の「おそらくあの夜」を「おそらく あの夜」としただけであったということになる。]

立原道造草稿詩篇 (大きな町の上に⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこに、第十一行目の初稿が記されてあるので、それで復元した。]

 

【初稿】

 

  (大きな町の上に⋯⋯)

 

大きな町の上に空があり

かかはりもなく雲と雲はしづかに

風に送られ日暮れの色をうべてゐた

僕は見てゐた

(ああ 僕は人を呼んでゐる)

鳶色に紫まぜた靄が包んで行くと

あかりがひとつひとつともり きらめき

もう町の騷ぎを聞かなかつた

(ひとりぐらしを平和がささへる)

どこへ走つて行つたか

うすい色の空の上に白かつた

ああ さがしたが 町中一面に

じれつたくなり月が光を增して行つた

 

 

【決定草稿】

 

  (大きな町の上に⋯⋯)

 

大きな町の上に空があり

かかはりもなく雲と雲はしづかに

風に送られ日暮れの色をうべてゐた

僕は見てゐた

(ああ 僕は人を呼んでゐる)

鳶色に紫まぜた靄が包んで行くと

あかりがひとつひとつともり きらめき

もう町の騷ぎを聞かなかつた

(ひとりぐらしを平和がささへる)

どこへ走つて行つたか

うすい色の月が光を增して行つた

 

立原道造草稿詩篇 峠

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  峠

 

叢に風が明るく 空が澄むと

 

花を摘みながら 峠にのぼる

 

峠は 赤茶の火山に向いてゐるが

 

火山は靑空にぴつたりと觸れ遠い煙を吐いてゐる

 

それが實にしづかに誰にも信じられない

 

 

[やぶちゃん注:「峠」は、恐らく碓氷峠であろう。但し、本詩群の想定時期は昭和一〇(一九三五)年の四~五月であり、年譜を見るに、この頃、道造は軽井沢にはいないから、前年の夏の体験を回想したものと思われる。因みに、「火山は靑空にぴつたりと觸れ遠い煙を吐いてゐる」とあるが、実は、この昭和一〇年八月五日に浅間山が爆発しており、道造は追分におり、初めて立ち合っている。]

立原道造草稿詩篇 脫殼

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  脫殼

 

 これは何だらうと手にとると、靑い海の形をしてゐた。しばらくじつと眺めたが、どうしてもわからなかつた。そばにゐた友だちにたづねれば、友だちはやはり手にとつて、しばらく考へてゐた。

 

 あくる日、砂濱に寢ころんで、昨日のことを思ひだした。突然にわかつたことは、海の脫殼を拾つたことだつた。あのとき捨ててしまつたのが急に殘念でたまらなかつた。

 

 

[やぶちゃん注:「脫殼」「ぬけがら」。]

立原道造草稿詩篇 春  【「春」の裏側に書かれた全くの別草稿】(母は呼びつづけた⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこには、裏面に鉛筆書きの下書き「子供はとうとう」』(後の「とう」は踊り字「〱」。なお、ママである。「とうとう」は厳密には歴史的仮名遣では「たうとう」である)『(無題・第六巻所収)がある。』とある。私は、同全集の「草稿詩篇」と「下書き」の区別が、どうしても納得出来ないでいる。「草稿詩篇」の「後期」は、概ね、杉浦明平編の「立原道造詩集」を元に電子化しているので、その検証を終わったら、「下書き」の部分も電子化しようとは思っている。しかし、ここで、敢えて注で、裏に書かれているとされてしまうと、同時期に書かれた「草稿」と私は見做す。されば、特異的に、それ(「第六卷 雜纂」の「下書き草稿篇」のここの右丁上段)を【「春」の裏側に書かれた全くの別草稿】として、「春」の後に四行空けて、電子化して添えることとする。「とうとう」は、そのまま用いた。――但し、堀內氏の注記載は、おかしい。リンク先を見て貰えば判るが、これは、無題であり、「子供はとうとう」ではない。そちらでは、冒頭の「母は呼びつづけた」を仮題としている。私はそれを仮題とする。

 

  春

 

願ひに近く 僕は不確かに

明日の來るのを待つてゐる

もうそれは僕に手をのばす

 

風は季節のやうに美しい

うたはない者はゐなかつたか

僕は 聞く 風が頰を吹いて行く

僕は 笑ひながらやさしくなる

 

明日は旅に立ち 僕は

山の向うに越えて行く

もうそれは僕に花を散らす

花びらを手に拾ふと

僕は 明日が來るのを知つてゐる

 

 

 

 

【「春」の裏側に書かれた全くの別草稿】

 

 (母は呼びつづけた⋯⋯)

 

 母は呼びつづけた。坊やおあしを持つてゐるかいと。

 子供はとほく返事した、持つてるよ。母は何度もききあやまつた。彼女は呼ぶのをやめなかつた。

 子供はとうとう母のそばに來た。

 母は彼にいくらかの金を與へた。そしてまた安心したやうに幼い女の子ともとの道を歸つて行つた。

 もう晝の色はうすぐらくなつてゐた。花のにほひが、水つぽくあたりにまざつてゐた。

 子供のラツパの音がまた聞こえた。

 私はベンチを立ち去つた。

 

 子供が母に養はれてゐること程かなしいことはないだらうか。或る日私は、講演のベンチに坐つてゐた。それはもう日のおちたあとあつたか、また晝間にやうだつた。私はラツパの音をきいてゐた。それが何だか私は知らなかつた。

 草の芽を手で持つて、その音をきいてゐた。幼い女の子を連れて、母が私の前を通つた。彼女はしきりに子の名を呼んでゐた。

 とラツパの聲がやんだ。

立原道造草稿詩篇 季節

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  季節

 

春になると

人はおもてに出る

荒れた芝生にまりを投げ

犬とあそぶ

いいにほひがする

 

夜になると

あかりをつけてはなしをする

靄がおりたといひ

しづかに本を讀むことがある

 

立原道造草稿詩篇 鏡の歌

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  鏡の歌

 

はやい速さできれぎれの光に襲はれ

僕は風のやうにおし流される

ほんとうの近くに僕は僕にも捕へられず

僕は捕へられてゐる 光と一しよに

線をみだした闇の向うに

 

何もかもはてしなく終りを知らず

選ぶことなく疲れは疲れを 花は花を

やがてしづかに一刻に支へられ

光の奥に光よりもかがやき

僕はすべてを見つめはじめる

 

立原道造草稿詩篇 もし鳥だつたなら

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  もし鳥だつたなら

 

 もし鳥だつたなら、ギリシヤの柱のてつぺんで、朝日の歌をうたはう。橄欖に包まれた神殿に隅まで明るい朝日、そのなかで死ぬまで心をはりつめて。

 もし鳥だつたなら、そのとき靑空に落ちて行くだらう。言葉だけたよつてそんな一生の終りにさへ自分は近くゐるのだと、考へられるから。さうして鳥の形をした雲になり、またあたらしい歌をうたはう。

 もし鳥だつたなら、ああ、日每に千の歌をかへてうたはう。朝日の歌を。朝日は翼を磨いてゐる、もう僕は後悔の鳥ではない。ギリシヤの柱に、きらきらする歌をうたはう。

 

立原道造草稿詩篇 少年の日

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それによれば、第二聯の初稿が示されてある。確認するに、そこには右傍線が引かれているが、そこが、決定稿と異なっているから、この傍線は編者である堀內達夫氏が違っている箇所に打ったものと判断出来るので、傍線は示さない。それを【初稿】として復元した。]

 

【初稿】

 

  少年の日

 

望みのそばで 僕は不確かに

明日の來るのを待つてゐる

もうそれは僕に手をのばす かぞへきれないよろこびと

僕は聞く 風が頰を吹いて行く 風は季節のやうに美しい

 

旅に立つだらう 山を越えるだらう

僕はひとりでとほく行くだらう

もうそれは僕に花を散らす 花びらを手にとると

僕は明日を感じる 夕暮の木のやうに 僕は笑ひながらやさしくなる

 

 

【決定稿】

 

  少年の日

 

望みのそばで 僕は不確かに

明日の來るのを待つてゐる

もうそれは僕に手をのばす かぞへきれないよろこびと

僕は聞く 風が頰を吹いて行く 風は季節のやうに美しい

 

もう行くだらう 山を越えるだらう

僕はひとりでとほく行くだらう

もうそれは僕に花を散らす 花びらを手にとると

僕は明日を感じる 夕暮の木のやうに やさしく笑ひながら

 

立原道造草稿詩篇 少年

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  少年

 

祭りの外に生きてゐた

かぞへきれない明日と

僕は ひとりのなかにゐた

 

思ひ出すことをすこしだけしか持たなかつたら

うたつた歌はうたはれない歌を呼び

とほくには僕が生きられると思つてゐた

 

問をやめ目をとぢて窓もなく遠のくうすらあかりに

不確かに僕は捕へられてゐた

長いやさしい呟きだつた

 

立原道造草稿詩篇 鄕愁

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、この「鄕愁」から「(大きな町の上に⋯⋯)」までの九篇は、『制作時か昭和10年春頃制作の草稿詩「燕の歌🉂」(第一巻所収、編注P413 参照)を含むことに拠り』、『昭和10年4、5月頃と想定する。』とあり、その指示する箇所はここである。続いて、『これに属する他ジャンルの草稿は小品「出發」(対応分類記号d・第六巻所収)のみである。』とある。こちらは、これである。]

 

  鄕愁

 

明るい谷に僕は生れた

豹としぶきと樺の若葉が

十歲の僕の遊び場だつた

 

歸つて來てはいけなかつた

丸木橋で泡立つ流れに見とれたが

ああ何とボロなことだらう

 

僕は十歲でこはれてしまつた

生れた朝に死んでゐた

それ故僕はあはれな人間なのだ

 

岩よ しづかにしてゐてくれ

僕は今では遊ばないのだ

僕は水に彫らねばならぬ

 

谷が年より老ひぼれたのか

千年の雲は流れて歸らずと

これが僕の墓碑銘だ

 

 

[やぶちゃん注:「豹」に違和感がある。当初、石器時代に生まれた「僕」という空想かとも思ったが、詩の全体のニュアンスにそれを求めることは、出来にくい。敢えて言うなら、最終聯が、それらしく見えるかもしれないが、「千年」前では、豹はおらんし⋯⋯。或いは、例えば、「貓」(「猫」の異体字)判読の誤りかと思ったが、底本全集を横断検索した限りでは、彼は「貓」どころか、「猫」を詠んだものを全く見出せないし、「苗」は逆立ちしも、この崩し字にはならない。頼みの何時も使っている「くずし字検索」が繋がらない。万事休す。ただ、前注で示した同時期の「出發」を見ると、主人公「僕」は「鏡」とじゃれあっているシークエンスが延々と書かれている。『⋯⋯或いは、「豹」は「鏡」のひどい殴り書きを誤判読したのではないか?⋯⋯』と、ふと思った。識者の御意見を求むものである。

立原道造草稿詩篇 (くらい想念を⋯⋯)

立原道造草稿詩篇 (くらい想念を⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『モチーフは『ノート 昭和十年――十三年』の10年4月7日(第四巻P134)の「僕は暗い想念を輕蔑しながら僕の平和はぢきに暗くなる。」に対応するものと思われる。従って制作時は昭和10年4月と想定する。』とある。指示する箇所はここである。]

 

  (くらい想念を⋯⋯)

 

 くらい想念を輕蔑しながら、私の幸福と平和は、いつもくらい。くらい平和のなかで、私の笑ひはいつも瘠せてゐる。くらい幸福のなかで、私の歌はいつも折れてゐる。私は、それを信じない。私は、別なものにまで、あせつて行く。くらい想念を輕蔑しながら。

 

2026/03/16

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注中卷(六)寒天の說(その2)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。書名は、既に本電子化注で出たものは書名注を再掲しないつもりだったが、大分、時間が経過しているので、一部は再掲した。]

 

 「本草綱目」「閩書(みんしよ)」「廣東新語(カントンしんご)」其他の本草書、府縣志等(とう)にも、『石花菜(せつくわさい)』、一名、『瓊枝(けいし)』は沙石(させき)の間(あいひだ)に生じ、高(たかさ)二、三寸、珊瑚の如く紅白の二色(ふたいろ)ありて、枝上(えだのさき)に細齒(さいし)あり。一種、畧(ほゞ)、大にして、面(おもて)、鷄爪(けいさう)に似たるを『鷄脚菜(けいきやくさい)』といひ、白色(はくしよく)なるを『瓊枝(けいし)』といひ、紅色(こうしよく)なるを『草珊瑚(さうさんご)』と稱し、煮て、凝結(こゞら)せ、食する等(とう)を載せたるは、我が『ところてん』に疑ふ可らざるを以て、先哲は、之に充てたるなるへし[やぶちゃん注:ママ。]。而して、今、淸國產の『石花菜』を見るに、本邦の『つのまた』にて、『牛毛菜(ぎうもうさい)』が、本邦の『ところてんくさ』なり。茲(こゝ)に於て、又、疑(うたがひ)を生し[やぶちゃん注:ママ。]たりしが、「本草綱目拾遺」に、『麒麟菜(きりんさい)は瓊枝菜の類(るい)なり。一種、石花菜あり。又、細く、牛毛の如きものを牛毛(ぎうもう)とす。』。而して、淸國より來(きた)る『騏菜(きさい)』を見るに、『琉球角股(りうきうつのまた)』にして、三種を混稱することあるが如し。本草書・府縣志等(とう)各書に、夏月(かげつ)、煮沸(にわか)して、凝結せしめ、或は、膠凍(りやうとう[やぶちゃん注:ママ。「こうとう」が正しい。])となす、といひ、或は、『瓊脂(けいし)』と稱し、「本草綱目拾遺」には、『石花膏(せつくわこう)』等の製法ありて、薑酢(しやうがす)等(とう)を以て、廣く、食用に供することを載せたり。面して、現今、藻(くさ)のまゝ、本邦よりも輸出し、之を賣買するには、皆、『石花菜』の稱を以てせり。

[やぶちゃん注:「本草綱目」今年正月からアクセス不具合であった「漢籍リポジトリ」が回復したので、それで示すと、ここの「卷二十八」の「菜之三【蓏菜類一十一種 內附一種】」で、ガイド・ナンバー[071-22b]の五行目以下。一部に手を加えた。

   *

石花菜【食鑑】

 釋名璚枝【時珍曰並以形名也】

 集解【時珍曰石花菜生南海沙石間高二三寸狀如珊瑚有紅白二色枝上有細齒以沸湯泡去砂屑沃以薑醋食之甚脆其根埋沙中可再生枝也一種稍粗而似雞爪者謂之雞脚菜味更佳二物久浸皆化成膠凍也郭璞海賦所謂水物則玉珧海月土肉石華卽此物也】

 氣味甘鹹大寒滑無毒主治去上焦浮熱發下部虛

 寒【寗原】

   *

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南產志」(みん(「びん」とも読む)しょなんざんし)。一六〇八年成立。「中國哲學書電子化計劃」の「閩書」で「明府」で検索すると、結果して、「石介屬判」に、

石花菜生海礁上性寒夏月煮之成凍

   *

とあった。

「廣東新語」全二十八巻。広東地方の百科全書。これは、「中國哲學書電子化計劃」で「卷五 石語」にあるのだが、これ、ちゃんと読めたわけではないが、このパート、どうも珊瑚類、或いは、類似した石灰質を含んだ海藻類に就いて述べているように思われ、当該部は、そのまま示すと、

   *

青花明顯,如石花菜者,石工稱為芊紋,品中中◦

   *

とあるだけで、これは当該対象の性質の比喩として述べているに過ぎず、「石花菜」そのものを記載しているのではないから、資料になり得ないものと判断した。

「鷄爪(けいさう)」ニワトリの蹴爪(けづめ)。

「つのまた」紅藻植物門紅藻綱真性紅藻亜綱スギノリ目スギノリ科ツノマタ属ツノマタ Chondrus ocellatus「大和本草卷之八 草之四 鹿角菜(ツノマタ)及び海藻総論後記」の私の「鹿角菜(ツノマタ)」の注を参照されたい。

「『牛毛菜(ぎうもうさい)』が、本邦の『ところてんくさ』なり」「百度百科」の「牛毛菜」に学名を

『石花菜( Gelidium amansiiLamouroux Lamouroux,1813)』

とするが、これは、本邦の、

紅藻植物門真正紅藻亜門真正紅藻綱マサゴシバリ(真砂縛り)亜綱テングサ目テングサ科テングサ属マクサ(真草)Gelidium elegans Kützing 1868

のシノニムである(鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」の「マクサ Gelidium elegans で確認した)。

「本草綱目拾遺」淸の本草家趙学敏が、一八〇〇年頃に「本草綱目」の誤りを正したもの。当該部は、「維基文庫」のここで、以下のように出る。一部の漢字に手を入れ、半角字空けを詰めた。

   *

諸蔬部

麒麟菜

出海濱石上,亦如枝菜之類,瓊州府海濱亦產。周海山煌琉璃國志載:雞脚菜、麒麟菜,皆生海邊沙地上,又名鹿角菜。今人蔬食中多用之,煮食亦酥脆,又可煮化爲膏,切片食。綱目鹿角菜云:甘大寒滑。陳芝山食物宜忌云:微鹹性平,大有消痰功用。瀕湖反引孟洗一說,以爲有微毒,不可久食,能發痼疾;且其主治,只載下食風氣,小兒骨蒸,治丹石熱結,解面毒,何昧其功用乃爾耶,兹特表之;朱排山《柑園小識》:石花菜生海中沙石間,高二、三寸,狀如珊瑚,有紅、白二種,洗去沙土,煮化凝成膏,糟醬俱佳。又有細如牛毛者,呼牛毛石花,味稍劣。郭璞海賦所謂土肉石華是也。味鹹性平,消痰如神,能化一切痰結痞積痔毒。敏按:盛京志龍須菜生于東南海濱石上,叢生,狀如柳根,長者至尺余,白色,以醋浸食,亦佳蔬也,土人呼爲麒麟菜,出金州海邊。鹿角菜生東南海中,大如鐵線,分丫如鹿角,紫黃色,乾之爲海錯,水洗醋拌,則如新味,今金州海邊有之,據志則似一類二種也。石花膏毛世洪養生集:治辛苦勞碌之人,或嗜酒多欲,忽生外痔,發作疼痛,步履難移。服此,或大便瀉一遍,或不瀉,亦卽止痛,可以行走;再用搽洗等藥,自能斷根。用麒麟菜洗去灰一兩,用天泉水煮烊,和白糖五錢食之。此方乃李治運臬司傳靈隱寺僧。杭人蕭成子患此症,僧往候,授以此方,服之隨愈。予記之,後治數人多效。

   *

「琉球角股(りうきうつのまた)」これは、

スギノリ目ミリン(漢字表記は「味醂」のようである)科キリンサイ(麒麟菜)属キリンサイ Eucheuma denticulatum

の異名である。平凡社「世界大百科事典」に拠れば、『熱帯および亜熱帯に多く生育する海藻で,1020cmの大きさの軟骨質のミリン科の紅藻。体は初め』、『円柱状であるが,後に不規則に分枝し,あたかも潮間帯の岩上にうずくまるような形状を呈し,また体の周囲には多数のいぼ状突起をもつ。世界各地の熱帯および亜熱帯海域に分布する。日本では太平洋沿岸の四国以南に知られる。近縁の種にカタメンキリンサイE.gelatinae J.Ag.,オオキリンサイE.striatum Schmitz,トゲキリンサイE.serra J.Ag.などがある。いずれも暖海に生育し,寒天の原藻となる。潮間帯に網を水平に張った施設をつくり,ここにキリンサイ類を生育させて養殖が行われる。養殖はフィリピンでとくに盛んである。』とある。

「膠凍」これは中国語で、対象物を水で煮、ペースト状にし、自然冷却してゼリー状にすることを言う。浙江省の製法であるようだ(「維基百科」の「膠凍(浙江食品)」を参照した)。]

立原道造草稿詩篇 (私のいのちは⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

   (私のいのちは⋯⋯)

 

私のいのちは、何の歌

夜もなく たそがれもなく

 

風は蓬に 吹くものを

よろこびが もしあるならば

 

花咲くままに 思ひ出よ

いりまじり おまヘの心に

 

立原道造草稿詩篇 (ピアノの町に⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (ピアノの町に⋯⋯)

 

ピアノの町にホテルがあつた

その部屋で僕は退屈な午後を持つた

 

窓をひらくと 白と黑とはいりまじり

つめたい位の眺めには歌もないのだ

 

僕は紅茶をすすり昔の詩人の眺めたピアノの町とのちがひやうを思ひ

しばらくしてそれが何んともいへず癪にさはつたのだ

 

眠ると たそがれがあつた

靄のかげで一群の音がなかを逃げて行つた

 

 

[やぶちゃん注:「ピアノの町」そうそうないから、すぐ判ると思ったが、底本の全集を「ピアノ」で検索して見ても、この「ピアノの町」が判らない。識者の御教授を乞う。]

立原道造草稿詩篇 黃昏

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。一行ずつ、行間が置かれてあるのは、ママ。]

 

  黃昏

 

町の空を空が包んで

 

町はあかりを胸からともす

 

くつきりときらめいて

 

小さいが たしかに

 

滲まない旗が搖れえゐる

 

旗はあかりより暗いのだ

 

立原道造草稿詩篇 (一人の人を⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、最終聯に抹消した行があるとして、それを起こしてある。されば、【初稿】として復元した。]

 

【初稿】

 

  (一人の人を⋯⋯)

 

 一人の人を蝶のやうな姿で見つけることが易しかつた。町ではどんなこともそのやうであつた。だが、蝶といつても白い蝶なのだ。その人は僕からとほく行つても光ることが出來た。

 

     *

 

 もう何度おなじ道を步いたのだらう

 あかりの數はいくつあるのだらう

 僕の頭のなかには小さな時計があつて

 ゼンマイをかけるのを待遠しがつてゐるのだらう

 

     *

 

 燃えさしの焚火のあたりで

 誰か意地惡な人のやうに

 僕は風に出遇つた 風は遠い寒さをさがしてゐる

 

     *

 

 眠ると たそがれがあつた

 硝子のやぶれに似てゐる空よ

 おまへの向うに夜がともつた

 

 

【決定草稿】

 

 

  (一人の人を⋯⋯)

 

 一人の人を蝶のやうな姿で見つけることが易しかつた。町ではどんなこともそのやうであつた。だが、蝶といつても白い蝶なのだ。その人は僕からとほく行つても光ることが出來た。

 

     *

 

 もう何度おなじ道を步いたのだらう

 あかりの數はいくつあるのだらう

 僕の頭のなかには小さな時計があつて

 ゼンマイをかけるのを待遠しがつてゐるのだらう

 

     *

 

 燃えさしの焚火のあたりで

 誰か意地惡な人のやうに

 僕は風に出遇つた 風は遠い寒さをさがしてゐる

 

     *

 

 眠ると たそがれがあつた

 おまへの向うに夜がともつた

 

立原道造草稿詩篇 朝へ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。聯の間が、底本では、明らかに、倍、空いている。再現した。]

 

  朝へ

 

 夜には幾つの墓があつたのだらうか。その前に跪いて黑い外套の靑年が、嘗て愛した少年の思ひ出に、暗い祈りを祈つてゐたと。

 

 

 夜つぴて護つた僕の眠りを、夢を、僕は返さう。そしてたづねよう、あれは僕ではなかつたかと。

 

 

 星は消されて行つた。一つびとつ蕾のまま。

 星はもう消されて行つた。

 

 

[やぶちゃん注:「夜つぴて」若い読者のために注しておく。「よつぴて(よっぴて)」と読む。これは「夜一夜」(よひとよ)が変化した語で、意味は「夜もすがら・一晩中ずっと・夜通(よどお)し」である。「よひとよ」の用例は平安時代まで遡(さかのぼ)り、「よつぴとよ(よっぴとよ)」「よつぴとよ(よっぴとよ)」は室町時代に、変形型の「よひとい」は戦国時代に用例がある。「よつぴて(よっぴて)」は最も新しく、江戸時代の前中期には使われていた(以上は小学館「日本国語大辞典」の諸項目を参考にした)。

「一つびとつ」「ひとつびとつ」は連濁に過ぎないが、現在は、高齢の方しか使わないであろうが、私の偏愛する泉鏡花は、作品中で、しばしば用いている。]

立原道造草稿詩篇 (疲れの外に身を投げて⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (疲れの外に身を投げて⋯⋯)

 

疲れの外に身を投げて あんなにまづしげに

少女が歌を踊つてゐる あんなにたのしげに

 

ときどき疲れて 人々が拍手する

この人たちにも かなしいことがあるのだろう

 

ときどき搖れて 人々が笑ひあふ

この人たちにも まづしい明日があるんだらう

 

それだのに それだのに

その下手な音樂までが何とたのしさうなのだ

 

ほんの一とき ほんの一とき

それだけの笑ひがいつまでも人の心をたのしくしたら

 

かげりだした舞臺にあれがのこつたら

 

立原道造草稿詩篇 曆

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  曆

 

 消える音樂のなかで、爐が燃えてゐた。文字のない一刻の語らひと、椅子に凭れて拾つた夢と、脊中の蠟の翼をつけてもう歸らない。僕はそれを隨分あつたと思ふ。

 銀と鋏と繪本の空の春の日は、窓に身體をおいて、たのしかつた。あたらしい家には白い大理石のギリシヤの柱を、僕は過ぎた日々の寺の拱廊を、美しい線で描いてゐた。

 夏には雲があつたと、人はそれをいふ。あの雲に落葉松の林を透かし、移る僕のかげを見た樹の間の道は、あれは長く遠かつたと思ふ。僕はほんとにひとりであつた。

 一年、終りに人はそれを短いといふ。そして僕はさう思ふ。

 

 

[やぶちゃん注:「拱廊」「きようらう(きょうろう)」と読む。明治以降、「アーケード」=arcadeの訳語として用いられるようになった。しかし、仏教寺院に、しばしば、対称形に造られる回廊を指す語として、私などには親しい。寧ろ、それを「(回り)廊下」等と呼ぶのは不快であるから、この道造の用法は非常に好印象を受ける。

「落葉松」ごく若い読者とネイティヴでない方のために注すると、「からまつ」と読む。裸子植物門マツ綱マツ目マツ科カラマツ属カラマツ Larix kaempferi である。当該ウィキを引くと、『日本特産種で』『本州』・『宮城県の蔵王山(北限)から石川県・岐阜県の白山(西限)』・『静岡県(南限)にかけて自然分布』し、『日本のほぼ中央部に分布の中心を持ち、多くは火山性土壌の山地に』植生する。『天然分布地は限られ、天然林は長野県内を中心に浅間山、草津白根山、八ヶ岳、甲武信ヶ岳などの各山々の周辺、また飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈などの日本アルプス周辺などで見つかっている』という限定的に自然植生する事実は、あまり周知されているものとは思わないので、敢えて注した。

   *

⋯⋯それにしても⋯⋯道造、満二十歳⋯⋯新進気鋭の詩人としてデビューもした⋯⋯結局、片思いに終わることになる關鮎子への懸恋(けんれん)も体験した⋯⋯だが⋯⋯その彼が、この一篇を吐露する⋯⋯イカロスの失墜をさえ、己れに比さないほどの憂鬱は、なんだ!?!⋯⋯あたかも、後の夭折を予言するような、これは!⋯⋯これは、詩人のこれ見よがしのポーズでは――ない。すでに述べたが、道造には、やはり、若い頃から、何らかの強迫性神経症症状、或いは、軽い双極性障害(躁鬱病)を持っていたことが、強く疑われるのである。]

2026/03/15

立原道造草稿詩篇 鄕愁

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  鄕愁

 

    A

南國のとある百姓家の庭に祭があつた 賑やかな一刻のその思ひ出を 燕が 海をこえ運んで來た 窓で燕はうたひ 私はをとめたちのロンドの列に姿を知らない夢を見た 燕は空高く歸るとも 傷ついた窗にロンドの歌は おそらく 思ひ出よ おまヘを待つことだらう

    B

明るい時の向うから 搖れて來る 風 一枚の海を お前の遠い帆を 風よ

僕に持つて來い 僕は虹と雲のなか お前のうたふ 歌の調に身をまかす

    C

朝日は緣の壁に窓を切つてゐた 細いきづなをからませて 甍は空移る雲にすばやくかげをかへてゐた 林のなかのその一軒は 思ひ出よ 雪が降り積み蔽ひかくしたのだらうか 一すぢの淡い煙を色どつたきり 浮び來るまま 窓に凭る人の心を知らせない

 

 

[やぶちゃん注:「A」と「C」パートは改行はない。しかし、「B」パートの一行目は、底本を見るに、下方が、三字分、空いていることが判る。従って、次の二行目が改行していると認識出来るのである。]

立原道造草稿詩篇 池のほとり

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこには、『初稿題は「池のほとりに」』で、『初稿には多くの推敲の跡が見られる。』として、初稿の推敲決定稿が記されてある。それを用いて、【初稿決定稿】として復元した。そのブレイクの記号は「・」であるが、【決定草稿】の「●」に換え、また、それは、行頭にあるのだが、同じく【決定草稿】と同じく、三字、下げた。なお、ネイティヴでない読者のために言っておくと、「家鴨」は「あひる」と読む。]

 

【初稿決定稿】

 

  池のほとりに

 

水に抱かれて昼の鯉よ

眠れ眠れ 搖らがぬままに

  •  

鳥と羽が重さを比べあつた

水の底にまで沈まうと――家鴨はばかだ。

  •  

柳に風が搖れてゐた 柳は少女に似てゐるから。髮を編んで垂れてときどき影を映して。

柳に驢馬をつながう。

  •  

風が波を作つて逃げる 波が追ふ――一しきり、藻のざはめき

しづまると、雲が浮く、音もなく。

  •  

波のかけらに太陽は千もゐる。

粉々に、お前はあぶくの上にも休む。

 

 

【決定草稿】

 

  池のほとり

 

水に抱かれて、晝の鯉よ、眠れ。

  •  

鳥の羽毛が重さをくらべあつた、水の底にまで沈まうと。――家鴨はばかだ。

柳に風が搖れてゐた。柳は少女に似てゐるから。髮を編んで、ときどき影を映して。柳に驢馬をつながう。

  •  

風が、波を作つて逃げる。

波が追ふ。一しきり、藻のざはめき。

しづまると、雲が行く、音もなく。

  •  

波にかけらに太陽は千もある。

粉々に、おまへはあぶくの上にも休む。

 

立原道造草稿詩篇 折立

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、添え辞の「S・M」について、親友である『杉浦明平のこと』とし、『折立は杉浦の故郷、愛知県渥美郡渥美町折立。』とある。現在の愛知県田原市折立町(おりたち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ずっと前に電子化したものは、注がいい加減(「折立」を不詳とした)であったことから、除去した。]

 

   折立

    S・Mに――

 

 喜ぶことだけが出來た一ときの夜のあかりに、お前の搖れた顏は白く消えて行つた。そのあとまた躊らつて歸つて來たが、あれは何であつたらう。

 

 ときどき深い所から聞馴れた音樂が耳に幾度もつぶやいた。僕は身をやさしく任せ、諦めてゐた。おそらくいちばん美し日々のために。僕の長い行末のために。

 

 嘗て、夏へ、それからの思ひ出へ、あの靜かな海の上のたそがれを捧げた。あの日にお前と僕は失はれたと。

 

 

[やぶちゃん注:「躊らつて」「ためらつて(ためらって)」。]

立原道造草稿詩篇 巢立ち

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『立原は、堀辰雄・丸山薫・三好達治編輯、昭和9年10月創刊の月刊雑誌「四季」に参加、12月号に「村ぐらし」「詩は」を発表して詩壇に登場した。その志すところに就いて昭和10年2月13日付・國友則房宛書簡に「未成年の時代に、三好・丸山をこえて、室生・萩原以來の日本詩の展開を示す者は、國共・立原でなくてはならぬ」」と述べている。』とあった。底本の同全集の「第五卷 書翰」の、ここの「八八」書簡で、当該の強烈な自信に満ちた箇所は、次のコマの右丁の「*」の後の文中に出現する。

 なお、引用中に出る「村ぐらし」、及び、「詩は」の詩篇は二〇一六年に、それぞれ、ブログで電子化注してあるので、見られたい。

 

  巢立ち

    ――堀辰雄氏に

 

誰と私は似てゐるのだらう

そしてそれは何の知らせだらう

私はいつかよく知つてゐた そのことを

だがもし思ひ出すならば⋯⋯

 

私は持つことの出來ただけの不幸を

そのかはりに かがやきとあの平和を

そして あかりの消える夜の一ときに

しづかにあれに捧げよう あれを立ち去らう

 

もう私はすつかりひとりだ

私みづから私は風に濡れてゐる

 

立原道造草稿詩篇 (書くことは⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『昭和10年1月8日付・杉浦明平宛書簡中に「書くといふことは何であつたか。」という自省の言葉がある。』とあった。ここである。]

 

  (書くことは⋯⋯)

 

書くことは何があつたか

 

宵 私はあかりを消して目をとぢる

過ぎて行くいくつかの言葉のはてに

私は音もなく身を橫へる かすかな息をかぞへながら

 

書くことは何があつたか

かうして私はたづねて見る

答もなく 夢もなく

眠りが部屋を訪ねる

すると私はもう一度 吐息のやうにして尋ねてみる

 

 

[やぶちゃん注:「橫へる」「よこたへる」。]

立原道造草稿詩篇 (いつそインキと紙が⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (いつそインキと紙が⋯⋯)

 

いつそインキと紙がなくなれば

ほんとをいつたら言葉がなくなれば

僕にはどんなにしづかなことだらう

 

それはすこし困るかしら

いやいやそんなことはないにちがひない

見振りと手振りと顏つきで

それから眼もあることだから

どうにかかうにか用だけは足して行く

 

一體僕が理窟を言つたり詩を書いたり

手紙を書いたりするのはよくないことだ

 

ところで心配してくれる人にはいふが

お前さんたちには言葉も文字もあつた方がよい

そして僕に歌をきかせたり手紙を書いてよこしたり

まあそんな風に 慰めてくれるのだ

 

ああさうしたら僕にはどんなに

生きることがしづかなことだらう

ほんとをいつたら ついでに

夢も望みも幻もすつかりなくなれば

 

立原道造草稿詩篇 (僕のなかを掠めるものは⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (僕のなかを掠めるものは⋯⋯)

 

 僕のなかを掠めるものは、いつもとどまれ。おまへはうたへ。骨よ、頰よ、散り挫け。おのれを飾れ。僕の歌よ、おまへは息をつまらせて、明るい時の下で死ね。

 空より花は散るがよい。くやしみは僕を燃すがよい。だが、歌、おまへはうたへ。瘠せた心は乾枯らびた。言葉よ、立ち去れ。僕の歌よ、のこれ。おまへは僕を嚙みつくし、腦天の上でへどを吐け。

 昔、みれんは船に乘り、湖水にランプを浮べたが、あれは僕ではないだらう。僕よ、傷よ。お前は船につながれて、藻草をわけて沈んだが。かたちよ、かたちよ、立ち去れ。おまへを捨てろ。

 落ちる日、飛べ。かがやかしい愚かな小鳥、おまへの千のいのちのために。星へ、骨へ、後悔よ、羽ばたけ。僕を掠めて飛ぶものはいつまでもかがやけ。おまへはうたへ。

 

 

[やぶちゃん注:「散り挫け」「ちりくじけ」。「骨」と「頰」よ、自らの肉体を「弱らせ、衰えさせよ!」の意。

「乾枯らびた」「ひからびた」。]

立原道造草稿詩篇 (枯木は悲しく⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (枯木は悲しく⋯⋯)

 

 枯木は悲しく風に枯れ

 氷柱(つらら)は冷たく月に映り

 

 この對句を、僕はたいへん美しいものに思ひ、口ずさんでゐた所、きいた一人の男が言つた。それは駄じやれだ、やめろやめろ、と。そこで僕は考へなければならなかつた。僕が美しいと思ふものはすべてそんなのだらうかと。危險なことであつた。僕は美しさにあこがれながら美しさに見捨てられ、思ひつきのなかにあせつてゐなくてはならぬなら、僕は自分をどうしたらよいか。危險なことであつたが、僕はもう落ちてゐた。僕は石の上で寒かつた。

 

立原道造草稿詩篇 (終ることのない生涯を⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (終ることのない生涯を⋯⋯)

 

 終ることのない生涯を、一人の男が空想した。平野はそのはてに乳色にしめつた靄を包んでゐた。その上に靑くなつてゐるのは空の晝間の明るさだつた。やがてはそのなかに空想が消えて行くだらう。

 

 風がそよいで一面に草の葉の音をかがやかせる。もう一度、もう一度⋯⋯

 

 いつまでもそのやうに、平野は天と靜かな交はりを營んでゐた。

 

立原道造草稿詩篇 傳說

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、この草稿は『口語詩群で』、『制作時は昭和9年12月頃制作の草稿詩「小さな墓石の上に」と10年3、4月頃制作の草稿詩「夜の歌」(いづれも第一巻所収。編註P413参照)を含むことにことに拠り、ほぼこの二詩の制作期間中と想定する。なおこれに属する他ジャンルの草稿はない。』とする。なお、本底本の「前期草稿詩篇」パートの残りの原稿群は、五つである。

 以上の注記を読んで、強い違和感を感じるのは、この本「前期草稿詩篇」パートの草稿詩「小さな墓石の上に」と草稿詩「夜の歌」は、巻数の違いで判る通り、同全集第一巻(1971年刊)の「後期草稿詩篇」に収録されていることである(ここから)。しかも、本「前期草稿詩篇」は、これで終るのではなく、五群が控えているのである。本全集第二巻(1972年刊)の「前期草稿詩篇」の方を見ると、その編注末尾(奥付前の末尾)を見ると、そこには、編者名を『堀內 達夫』とある(厳密には彼は「編集」者ではなく、「資料擔當」者となっている。第二巻のここを見られたい)。恐らく、全集編輯の配列作業の関係上、巻数の順列と、この草稿詩篇の順列には、物理的齟齬が生じているのである。

 則ち、本全集の前期と後期の草稿パートは編者堀內氏に拠って――整然と時制上の分離をしている訳ではない――ことが判るのである。そして、思うに、堀內氏の全草稿の編輯も、先に「後期」が執筆され、「前期」が、その後に執筆されたと考えるのが、自然であろう。

 そこで、ふと思い出したことがあるのである。私は、二〇一六年に一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦民平編)を底本に草稿篇を電子化注したのだが、実は、その「後期草稿詩篇」パートに就いての「解説」の最後に、理由を述べずに、『本書では一九三五年作の一〇編を省略。』と終えておられるのである。因みに、杉浦氏は同全集の編輯者の一人である。そして、堀内氏はというと、実は、編集者ではなく、「資料擔當」となっているのである全集第二巻扉裏を見よ)。

 思うに、道造の親友でもあった杉浦氏は、本全集での草稿篇は実際には自身で担当したかったのではあるまいか? 実際に杉浦氏所蔵の草稿が使用されているのだから、私は、そう思うのである。作業上、堀内氏の担当となったが、ここからは私の推理に過ぎないが、

――そもそも、杉浦氏は「前期」・「後期」という分け方自体に賛成ではなかったのではないか?

 道造が本格的な詩作へと進んだのは、その端緒は、昭和四(一九二九)年十五歳の九月、北原白秋を訪問ではあろうが、その頃は短歌がメインであり、実際の本格的な狭義の現代詩を始めるのは、昭和七年以降であって、昭和一四(一九三九)年三月二十九日に二十四で亡くなるまで、

――凡そ六年余り

なのである。個人的には、前後期の分離なしで、草稿詩篇を纏めて味読したかった、というのが、私の希望である。次回の全集では、そうした編輯を切に望むものである。

 なお、以上の杉浦氏がカットしたとする「十篇」――しかし、底本全集では九篇しかないのだが――その九篇は、この「前期草稿詩篇」パートの電子化注を終えた後に、「後期草稿詩篇」を元に電子化する。

 

  傳說

 

 おとなしいたつたひとつの夢だつたが、それを語ろうとした人は、いつでも素直な言葉をなくしてしまつた。

 もう幾千年になるだらう。

 夕暮に步いた人が、やがてその夢を拾つた。それは灰色にすつかりあせばんで。

 

 道ばたで、一夜、語り明かしたが、語り明かしたが、悲しみのままに歌ふすべもない。

 

2026/03/14

境涯から生れる俳句 杉田久女

[やぶちゃん注:二〇二四年二月を最後に、長く電子化注をサボっていたが、以前から、電子化したく思っていたのを、すっかり忘れていたので、急遽、公開することとした。底本は今まで通り、所持する一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、この俳話は特殊なもので、昭和九(一九三四)年八月十一日に小倉放送(ラジオ)で放送されたものである。恐らく、原稿が存在し、全集編者である久女の長女昌子(俳人石昌子(いしまさこ))さんが、全集の「俳論・俳話」に組み入れたものと推定される。表記は新字正仮名であるが、放送された時代を考え、敢えて殆んどの漢字を正字に換えた。なお、冒頭に『(前略)』とあるのは、その内容は不詳であるが、カットした。また、詳細注を附すのには、時間が掛かり、他にも同時進行で別なプロジェクトもあるので、取り敢えず、本文を、本日、電子化し、後日、注を追加することとする。但し、私が全く知らない俳人名、及び、知られた俳号の別号があるので、それは、適当と判断した段落の後に注を附した。なお、ネィティヴでない読者などに難読と判断したところには、《 》で読みを独自に歴史的仮名遣で附した。踊り字「〱」は、私が、個人的に嫌いなので、正字に直した。傍点「﹅」は下線にした。

 なお、以下の久女に現説に対してではなく、現在も、しばしば使われる――この「境涯の俳人」或いは「境涯俳句」という謂い方――には、個人的にある種の強い違和感を持っている。それに就いては、サイトの『拙攷 「イコンとしての杖――富田木歩偶感――」藪野唯至』(『俳句界』第百七十八号二〇一一年五月号「魅惑の俳人㉜ 冨田木歩」所収/藪野唯至名義で執筆し、掲載されたものの原型)で論じているので、未読の方は、是非、読まれたい。

 最後に。この録音が残っていたならなあ、と残念しきりの私であった。

 

  境涯から生れる俳句

 

 技巧の勝つた面白い句とか、淸新な近代味のすぐれた句とかさういふ俳句にも價値のある事は勿論でありますが、宮部寸七《すなお》翁さんの、

  己れにて絕ゆる命や墓參り

  ひそやかに晝行水ややみほうけ

といふ樣な、自分の血と肉と全人格をつぎこんだ句になりますと、時代の波にも流行にも洗ひ消されぬ、ほんとの人間魂の聲が、嚴肅な人生の一斷面として、私達の魂に强くひゞいて、くるのであります。

 自分の死後墓參りしてくれる一人の子供もない、家內もない、自分一代で血統は絕えてしまふのだといふ事を痛感し乍ら祖先のお墓參りをしたり、ひそひそと行水してゐる病みほうけた姿なりがうかんで來ます。自分の病弱な姿をじっと[やぶちゃん注:促音表記はママ。]みつめて。

 俳句もこゝ迄しつかりと自分をつかみ、墓石に彫りこむ樣、十七字に全部をきざみこんでおけば、よし寸七翁さんの血統は一代で絕えてしまつても、其句集一卷丈《だけ》で寸七翁さんは永久に生きてゐると言つてもよいと存じます。

[やぶちゃん注:「宮部寸七翁」(明治二〇(一八八七)年~大正一五(一九二六)年)は明治・大正期のジャーナリストにして俳人。熊本県下益城(しもましき)郡杉上村(すぎがみむら:現在の熊本市南区城南町。「ひなたGIS」の戦前の地図で「杉上村」が確認出来る)出身。本名は宮部俊夫。別号に峻峰がある。農家の一人息子として生まれる。早稲田大学政経学部卒業後、九州新聞(現在の熊本日日新聞)記者となり、峻峰の号で活躍するが、同社のストライキ事件に巻き込まれ、退社。大正元年、『肥後靑年俱樂部』を組織した。九州立憲新聞経営を経て、叔父の三隅雲濤が経営する博多毎日新聞編集長となる。大正五年、結核を発病した。同時期に句作を始め、『ホトトギス』などに投句した。熊本俳壇に現れた女流俳人斎藤破魔子(後の中村汀女)と親交を持ち、指導した。死後四年経った昭和四(一九二九)年に吉岡禅寺洞によって「寸七翁句集」が編まれている(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」の記載を主文とした)。]

 こゝまでくればもう俳句も言葉の遊びや、ひまつぶしではなく、議論や理屈をとびこえて、宗敎的な安心立命があると存じます。

  親に師にせめて仕へん盆三日  星布女《せいふめ》

 此句も何でもない句の樣でありますが、常に忙しくて佛づとめも疎かになり勝ちの身も、せめてお盆の三日間丈は亡き親や師の恩をなつかしく偲び乍ら、生きた人にお仕へ申す樣に魂祭りしませうといふ意味で、故人を偲び、昔の恩をしのぶといふ氣持は、古風ながら奧床しい女らしい感じがにじみ出して居ります。

 之も星布尼の夫も子もない境涯から一層痛切に故人を慕ひしのぶ心持が、ふかく此一句に流れてゐるのだと思ひます。

  面影もこもりて蓮の莟かな  りん女

 これは日田《ひた》の長野野紅《ながのやこう》の妻りん女《じよ》の句で、幼い子を亡くした時の句でありますが、蓮の莟にこめて亡き子の面影を描いてゐます。これによく似た句に、

  とんぼ釣りけふはどこ迄いつたやら  千代女

といふ名高い句がありますが、蜻蛉釣《とんぼつり》をしながら、死出《しで》の山路《やまぢ》を越えてたつたひとり、けふはどこ迄步いて行つたやらと、亡き子の面影を描き追ひ求めてゐる千代女の深い悲しみが蜻蛉つりのまぼろしの一句に象徵されてゐます。

 一人子を亡くした母のなげきは、時代の隔りをとび飛んで私達のむねにひゞいてまゐりますし、夫を亡くし子を亡くした不幸の中にも、ひたすら俳句を慰めんとして力强く生きて行つた千代女の一生を私は昔の女ながらえらい、と存じます。

 これらは皆くらい方の人生の姿をうたつた俳句でありますが、明るい方の例でいひますと、

  蓮の香に俥《くるま》ゆるめし薄月夜  ゐの吉

 久保博士は朝夕大學通ひの手俥の上で好きな俳句を作るのが何より樂《たのし》みで、自分は自動車を使はない、といふ意味を前に、話された事がありますが、此句も其博士の實生活から生れ出た句で、俥をゆるめて蓮の匂つて來る濠《ほり》ばたの淡月夜《あはづきよ》に浸つてゐる所に、作者の姿なり、感興なりがはつきり浮んで來ます。此俥ゆるめし所に面白味があるのでありまして、

  蓮さくや曉かけて月の蚊帳《かや》  より江

 此句と讀み合せて味つて見ますと、いかにも博士御夫婦の高雅な趣味生活が繪卷のやうにうかび上つてゐります。之も机上で作りあげた句ではなく實際に、月の蚊帳に目がさめて、蓮の花の美しさにふれ、一方は蓮の香りに打興じて月をめでるといふ環境から生れた句である所に氣品の高い力强さがあふれてゐます。

[やぶちゃん注:「ゐの吉」「久保博士」「より江」「博士御夫婦」「ゐの吉」「久保博士」は日本の医学者で、歌人・俳人でもあった医学博士久保猪之吉(明治七(一八七四)年~昭和一四(一九三九)年)。日本国最初の耳鼻咽喉科学講座を開設した耳鼻咽喉科学の先駆者にして京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学/現在の九州大学)教授。当該ウィキがあり、そこに『歌人としては、落合直文に師事し』、明治三一(一八九八)年に『尾上柴舟らと「いかづち会」を結成した。その後は俳句を始め、高浜虚子に師事する』とある。一方、「より江」「博士御夫婦」は、久保氏の細君であられた久保より江(明治一七(一八八四)年~昭和一六(一九四一)年)で俳人。彼女も独立したウィキがあり、『鉱山技師の父・宮本正良と母ヤスの長女として、愛媛県松山市に生まれ』た。明治二八(一八九五)年、『松山時代の夏目漱石が下宿し、正岡子規が寄宿していた「愚陀仏庵」の持ち主が』、『より江の母方の祖父・上野義方であったことから、当時』十二『歳の少女であったより江は、若くして漱石や子規と面識を持ち、可愛がられたという』。『漱石の』「吾輩は猫である」『に登場する女学生・雪江は、より江をモデルにしたとされる』とあった。]

 同じ蓮の句でも、りん女の子供を亡くした時の暗い句とは違ひまして、此二句にはいかにもゆつたりとした美しい曉方《あかつきがた》の月の光りと、蓮の花の感じがおだやかに浮んでゐます。ここらも作者の境涯の差から自然違つた明暗の俳句を生み出してゐるのでありまして、一方には、實生活から遊離した美しい藝術的な香氣があり、寸七翁さんの句などには生活卽藝術と中しませうか、眞劍な赤裸々な人間の叫び、が切々とうかがはれます。

  手花火の子等に浦波ふけにけり 多佳女《たかぢよ》

 このなだらかな調べの中には、生活の苦とか、寸七翁さんあたりの句にある樣な悲痛な魂の叫びとかいふ樣なものはなく、櫓山莊のバルコニーか芝生で手花火に打興じてゐる子供らに崖下の波の音も次第にふけわたり、手花火の靑や赤に照し出される子供達の頭や、それを見守る母の姿までも繪の如くうき上つて來ますし、更けゆく波の音とたのしいだんらん、なごやかな山莊の空氣を此句は詩の樣に私達に傳へてくれます。

[やぶちゃん注:「多佳女」橋本多佳子の別号。

「櫓山莊」私の『橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年 櫓山日記』の私の注を見られたい。]

  松落葉しきりに降るよキャンプ村 立子

 愉快なキャンプ村といふものから、ただ松落葉がしきりにふつてくるといふ事柄だけをよんでゐるのでありますが、その何となく打興じ心をどる有樣が輕快によまれてゐるので、登山なり、キャンプなり、さうした愉快な一時的な環境といふものに、よむものゝ氣もちも明るくひきつけられてゆくのであります。それにキャンプ生活[やぶちゃん注:拗音表記はママ。]といふ材料が新らしいので、ここにもうら盆とか七夕とかいふ古典趣味と違つた近代生活の明朗さがにじみでてゐます。

  汗ばみて香水の香のよくにほふ 汀女

 これも句意は明瞭でありますが、汗ばんできて香水がにほふといふところに、近代的な嗅覺、汗ばんだ肌の感覺がよまれてあります。ラグビーや映畫、ガソリンガール等いろいろな素材の淸新さと、表現の自由さは、明日をめざす新人達の喜び步む道でありまして、ここにも歐米風が、私達の呼吸する環境の空氣にも思想にも、浸潤してゐる事がうら書され、そこに星布尼や千代女の句の姿と、時代なり生活、環境、頭惱のへだたりなりが、はっきり區別されてゐます。

  月見草に食卓なりて母未し 靜の女《しづのぢよ》

 此句は留守してゐる子達が食卓をととのへて母の歸りをしきりに待つてゐるが、母の歸りは遲い。月見草は淡い黃色をぽつかり夕闇に咲きそめてゐる。一方終日の務めにうみ疲れた母は、子供達の許へ歸りをいそぎつゝある、其徑《みち》すがらにも月見草が咲いてゐるかもしれない。

 之も漫然と月見草を描いた句ではなく、每日每日起る事柄なり感じなりを月見草と結びつけてよんだ句で、やはりしづのさんの目下の僞らぬ環境から流れ出した俳句であります。

[やぶちゃん注:「靜の女」竹下しづの女のこと。]

 か樣《やう》に同じ母の句でも千代女の蜻蛉釣の句と、月見草を中心とした母子の句、手花火の山莊の團欒の句と皆違つた環境を取扱つてゐますが、どの句も皆體驗なり實際の境涯から生れた句ばかりであります。

 最後に私の句作の例をひいて申上げて見ませう。私は女中が居りませんので、每朝早く起きて御飯を焚きます。其時手帳を懷に入れて薪をくべ乍ら俳句を作つたり句の調《しらべ》を舌頭にのせて推敲いたします。又時には御飯がふく迄箒《はうき》を持つて門先へ出て見ますと、まだ人通りもない道端には夜明に降つた雨がいつぱい草むらにたまつて、そこら中に螢草《ほたるぐさ》の瑠璃色が咲きむれたりしてゐます。私は箒の手を休めて露草《つゆくさ》の前にじつと跼(かが)んでみとれます。

 もう御飯がぷうぷう噴《ふ》き上つてゐるだらうといふ事も忘れて尙ぶらく門邊《かどべ》を步き𢌞りつゝ草をぬいたり、露草を折つたり、朝顏を眺めたり、かういふ時にすらすらと俳句が頭から流れ出しますので早速懷から手帳を出して一句を認めます。

  露草や飯ふくまでの門步き 久女

 幸ひに御飯もこげず一句を得た時の喜びは大きうございます。私はまた水を汲む時だの、晚方風呂を焚く時、御茶碗を洗ひ乍らも俳句を作ります。又時には忙しい一日をさいて遠賀《をんが》や田舍にひとりでぶらぶら出かけます。

 こんな風に自分の生活の中から、境涯から、詩を見つけ出して俳句を作るといふ事は忙しい御婦人にもそんなにむつかしい事ではなからうと思ひます。

 俳句がたゞ言葉の遊びや閑《ひま》つぶしの遊び丈《だけ》のものではなく每日移り替る人生の姿、樂しい事や悲しい心地を僞らぬ人間生活の記錄として描き出す民衆詩である事を申上げて終りと致します。

立原道造草稿詩篇 (しあはせな一日は⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、初稿は大きく違う。以下、それに従って、【初稿】を復元した。]

 

【初稿】

 

  (しあはせな一日は⋯⋯)

 

しあはせな一日は幾つあつたらう

誰にきいても それは多く限りないと

 

日の終り 疲れた橋に身は凭れ

指折りかぞへてみるならば

 

靄のなかにともる燈は煌めいて

夜待つ部屋に住む人々は

 

人の數の千倍のしあはせが

一人のためにあるのだと

 

やさしい調べで繰返してゐた

 

 

【決定草稿】

 

  (しあはせな一日は⋯⋯)

 

しあはせな一日は幾つあつたらう

日の終り 疲れた橋に身を凭れ

かぞへてゐれば

 

靄のなかにともる燈は煌めいて

人の數の千倍のしあはせが

一人のためにあるのだと

 

やさしい調べで繰返してゐた

 

 

[やぶちゃん注:初稿が、他者の心を介入させていて、作者自身の瞑想が邪魔されてしまっている。決定稿では、リルケ的な確信の真理に昇華しており、よく出来ている。]

立原道造草稿詩篇 (やつと欲しいものが⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (やつと欲しいものが⋯⋯)

 

やつと欲しいものがわかりだした

平和と淸潔とがいりようなのだ

 

おしやべりよ つぶやきよ

お前たちはとほくへ行け

 

これから精出して 僕は

靑空に 秩序を積み上げるのだ

 

驢馬よ パンザよ さあ

欲しいものはすぐそこにある

 

 

[やぶちゃん注:先行する「曙」にも登場している人名(恐らく綽名)であるが、不詳。]

立原道造草稿詩篇 驢馬の歌

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  驢馬の歌

 

悲しいまでに遠く見てうるんだ眼をお前は人からひた隱してゐた

 

町の夜に降る間近かな靄の息づかひを

その果てにうらがなしい潮鳴を二人して聞いてゐた

 

    ⁂

 

あれはいぶかしい朝であつた

明るい空に蔽はれたボロの町並で

お前ろ僕とが驢馬の營みをした

或るときは幸福と呼ばれたものを

 

眠る前 僕はお前の眼を見た

それから夢に

あの朝にお前と僕は失はれたと

 

 

[やぶちゃん注:この詩、私には、遠い昔の記憶が蘇る一篇である。

「潮鳴」ネイティヴでない方、若い方のために言っておくと、「しほなり(しおなり)」と読み、「遠くから聞こえる潮(うしお)の寄せては返す音」を言う。]

立原道造草稿詩篇 (僕は三文詩人に⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (僕は三文詩人に⋯⋯)

 

僕は三文詩人になりたくないのだ

あらゆる感傷と言ひまはしを捨て

誰でもの胸へ ほんとうのことを叩きこみたい

それが千人のほんとうでなく

僕だけのほんとうであつたら

結局 三文詩人の一人にすぎないのだ

 

立原道造草稿詩篇 うつりかはり

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、この「うつりかはり」から「(しあはせな一日は⋯⋯)」の五篇の制作時は、昭和一〇(一九三五)年二月頃と想定されてある。]

 

  うつりかはり

 

僕は季節をまだよく知らないと ほんとうに時時さう思ふ

冬の向うに春がある 花が咲き 樹の下に人が立ちどまる

さうかしら これはまちがひだと 僕はすこし考へこむ

 

手にとつてよく眺めると 僕の知つてゐる冬の終りの日に

しづかな風が吹いてゐる それが何と昨日に似てゐるのだ

秋かしら またその風が枝を吹いて葉を枯らす

僕は重いマントを脫ぎすてる また明日から着るやうに

 

それから僕はかう思ふ 早くものがわかりたいと

秋は秋 春は春 冬の向うにあるものはたつたひとつ

僕はそれがほんとうにはつきりと知りたいと

 

2026/03/13

立原道造草稿詩篇 窓

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  窓

 

 しづかな夜、窓をのぞくと世界地圖だけが壁であかるい電氣にかゞやかしかつた。机の上は片づいてゐて、何も見えない。ことによつたらと思つて見るのだが、朱の紐があるやうで、小さな鍵があるやうで、やつぱり何もないらしかつた。それともいつもせかせかその窓のぞいてゆくせいかしら。別の窓では人が椅子を運んでゐるのが見えたりするのだが⋯⋯。

 

立原道造草稿詩篇 ある人は

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  ある人は

 

ある人はうつくしい窓を持ち

椅子に凭れて眺めるといふが

僕の窓には黑ずんだ埃ばかり

 

高井空を流れる雲の せめてあのあたりの

靑い色をと思ふのだが

いつかほ日にはそれさへ曇天の灰色だつた

 

いつそ潮風でも吹いて來て

海がひろがつてくれればいい

この窓から ヨツトに乘るんだ

 

立原道造草稿詩篇 序曲

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  序曲

 

林檎の木の詩人がゐた

旅で消える鐘の音を聞きそれをうたつた

頬をほてらせた少女がたのしい氣持できいてゐた

 

詩人はそれきり歸らなかつた

村の入口で少女は木に凭れ

夕雲に靑い山を眺めてゐた

 

いつも夜ふけて 眠りのきれぎはに

林檎の花が咲いてゐた――

 

立原道造草稿詩篇 啞蟬の歌

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに附言の三好達治について、『月刊詩誌「四季」代表者の一人。立原が昭和9年10月「四季」創刊に参劃したのは、堀辰雄と、「未成年」を読んで感銘した三好の水推輓によるものである(三好達治「立原道造君」昭和14・5『文藝』)。』とある。標題中の「啞蟬」は「おしぜみ」と読み、「雌のセミ」を指す。]

 

  啞蟬の歌 

    ――三好達治氏に

 

 僕は もう歌はなくなつてゐた

 物のよろこびとかなしみを見わけることがなくなつてから 

明るい空ばかりを美しい色で描いて 

ああして 幾日が經つたらう

 

僕は もう歌はなくなつてゐた 

杉の梢も 楡の木も 學校歸りの子供らも 消えてばかりゐる雲も 

たつた一つのいのちのためには

 どれだけのかげが投げられたのだらう

 

立原道造草稿詩篇 詩

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『書体は』以上の文語調草稿群『に連続するが、印刷インクの淡緑色に拠って』『文縷した詩群であるが、これに属する他ジャンルの草稿に小品「時計――小春日和のエピソオド」(対応分類番号b・第六巻所収)がある。』とする。当該小品を指定第六巻でリンクしておく。『制作時は小品の副題にある「小春日和」に拠り』、『昭和9年11月頃と想定する』とあった。年譜に拠れば、この前月十五日附で第二次『四季』が創刊されており、同詩誌は三好達治・丸山薫・堀辰雄編集と銘打っているが、実際には立原も、それに参加している。また、この十月にはかねてより傾倒していた萩原朔太郎を世田谷の自宅に訪問している。]

 

  詩

 

紙を裏返すと 白かつた――

 

僕の頭のなかでは 幾行かの詩が

こせこせした積木細工であつた

とりどりに色がまはり 滑り

四角な旗がとほくまであるのだ

それが言葉かどうかわからないうちに

何か怒つたやうな聲がきこえた

幾行かの詩が 僕を捨てたらしい

 

紙を裏返すと 白かつた

 

2026/03/12

立原道造草稿詩篇 (幾度か人 別れ⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。これを以って、以上の文語調草稿群は終わっている。]

 

  (幾度か人 別れ⋯⋯)

 

幾度か人 別れ かなしみぬ

またあるときは よろこびぬ

 

    *

 

束の間の憤ほり 悲しみに似て力なし

しかはあれども この心を葬るすべなし

裏切られの我が命 すべなしとて一刻は

かくも過ぎぬべし しかはあれど又一刻は

 

    *

 

ひとりとざしてわが窓に

來ぬ人待てば一刻は

心痛みにすぎにけり

しかはあれどもわがいのち

ひとりとざしてありしかば

 

[やぶちゃん注:老婆心ながら、冒頭の「一度」は「ひとたび」と読む。]

立原道造草稿詩篇 (千萬無量のたまゆらに⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。この詩篇は、段落(「1」のみ二行組)行頭を一字下げてあるのを再現した。]

 

  (千萬無量のたまゆらに⋯⋯)

 

    1

 

 千萬無量のたまゆらに、わが庭とほく燃えいでて、花降るごとく雪は降る。⋯⋯

 やがて空には窓ひらき、あはれ手のべて人を呼ぶ。さはあれどもわが心。

 

    2

 

 しとしとしとと降る雨は雪にかはれどすべもなや、わが眼はかたくとざしたる、くらき思ひにふけりたる。

 

    3

 

 かく散らばやと飛ばばやと雪見てふとも思ひしが、あまり輕ければ、すべもなし。

 

 

[やぶちゃん注:「千萬無量」は「せんまんもりやう」或いは「せんばんみりやう」と読む。私は前者で読む。意味は「限りなく数が多いこと。はかり知れないこと。また、そのさま。」であるが、別に仏教用語ではないので注意されたい。]

2026/03/11

立原道造草稿詩篇 (わが歌は⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『テキストには第二、三行間に次の消去された一行がある。』として抹消フレーズが示されてある。そこで、【初稿】としてそれを復元した。]

 

【初稿】

 

  (わが歌は⋯⋯)

 

わが歌はよしや一日のわれを裏切るとも

はての日に黃金色の朝にかがやき

思ふことありなしとても歌のみは

高らかに翼うちふり飛ばばやと

願ひつつあれば げにおろかしく

この心たのしくなりておのづからほほ笑まれぬ

この心 わがやさしくなりてうたふとき

つねのごとく汚き壁かかりかがやける見ゆ

 

 

【決定草稿】

 

  (わが歌は⋯⋯)

 

わが歌はよしや一日のわれを裏切るとも

はての日に黃金色の朝にかがやき

高らかに翼うちふり飛ばばやと

願ひつつあれば げにおろかしく

この心たのしくなりておのづからほほ笑まれぬ

この心 わがやさしくなりてうたふとき

つねのごとく汚き壁かかりかがやける見ゆ

 

 

[やぶちゃん注:「一日」は「ひとひ」と読みたい。]

立原道造草稿詩篇 歌

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  歌

 

わが歌は泉に姿を映しぬ

よき少女等のするごとく

たのしかりしならん

 

心さかげども 明るき日は

小鳥の翼にやすみてあれば

 

わが歌は常に似ずやさしげに

高らかによろこびをうたひぬ

 

立原道造草稿詩篇 古調

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  古調

 

    1

 

聞きほうけて ひとりありき

そは古びたるわが身の歌なれば

そは常になくやさしき歌なれば

 

    2

 

明るさはわが傍に羽搏き

ひとときもやむことなく

ささやきぬ やすらかに

わがいのちかくあらばや

いつの日も かろやかに

 

    3

 

ふるさとはなくしすれどふと見出たる

この心かなし

昔かく人のうたひきといふ蓬・柑子・鷗はしらねどこの心たのし

 

    4

 

とぎれに思ひつる

そは何(なに)なりしか

かかるひととき

かすめゆく面影 しなびたる黃水仙

すべては消えるままに消えつつ

 

    5

 

ふたたび 唄飛ばずなりぬ

いつの日 歸るさだめならん

耳すまし きいてあれども

 

立原道造草稿詩篇 燈下愁曲

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、この「燈下愁曲」から「(幾度か人⋯⋯)」の六篇の『本草稿群』の印刷原紙は『濃厚緑色』で、『書蹟はブルー・ライト・インク』を使い、『極太ペン書きのやや角ばった書体で、表題を枡目より大きく書く特徴を持つ文語詩群である。』とあり、『なお書体、印刷インクなどの特徴で本用紙に属する他ジャンルの草稿は小品「雛のことや」(対応分類a・第六巻所収)のみである。』とある。「雛のことや」は「商品・感想草稿篇」の一篇。ここから視認出来る。なお、表題の後の前書きは、ポイント落ちで、三行であるが、ここでは、ブラウザの不具合を考えて、行を増やした。底本では、『みすぎよすぎに曲馬の群にまじりおのが哀しみをひさぐ男ありしが』(改行)『時に觸れ古き歌の調べを思ひふと汚れたる洋燈の傘に顏をよせつ』(改行)『何なりしかその心は知らねども』である。詠み難くなるだけなので、詩本文と同ポイントとし、行空けがないのも同様の理由で、空けた。

 

  燈下愁曲

 

      みすぎよすぎに曲馬の群にまじり

      おのが哀しみをひさぐ男ありしが

      時に觸れ古き歌の調べを思ひふと

      汚れたる洋燈の傘に顏をよせつ何

      なりしかその心は知らねども

 

やぶりすぎたこの頃なれど

つきつめてふりかへるともなく

すごしてあれば心はいたましく

ああ 古ぼけた緣の帽子を被り

あさましく人のまねして

浮かれたサーカスの音樂をきいて

綱をわたつたり 象に乘つたり

日がな一日くらしてはをれど

もしあの毒のやうな空のてつぺんから

滑つておちてゆくわが身ならば

やぶりすぎたこの頃なれど

ちらりと粉雪の身にしみて

ああ それかと泣くすべもないさうな

 

 

[やぶちゃん注:「緣」は「へり」。

この文語詩、正直言って、表現中の現代口語部分が、幾箇所か、躓きを感じて、気になる。私なら、こうする、というものを、以下に示す。前書きは問題ない。

   *

 

  燈下愁曲

 

      みすぎよすぎに曲馬の群にまじり

      おのが哀しみをひさぐ男ありしが

      時に觸れ古き歌の調べを思ひふと

      汚れたる洋燈の傘に顏をよせつ何

      なりしかその心は知らねども

 

やぶりすぎしこの頃なれど

つきつめてふりかへるともなく

すごしてあれば心はいたましく

ああ 古ぼけし緣の帽子を被り

あさましく人のまねして

浮かるるサーカスの音樂をききて

綱をわたり 象に乘りては

日がな一日くらしてはをれど

もしあの毒のやうな空のてつぺんから

滑つておちてゆくわが身ならば

やぶりすぎたこの頃なれど

ちらりと粉雪の身にしみて

ああ それかと泣くすべもないさうな

 

   *

御叱正を乞う。]

立原道造草稿詩篇 (ゆくての道⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『囲み罫を水色、その中央に水色と灰色で窓を描き、詩句は水色でその左右にある。』とある。]

 

  (ゆくての道⋯⋯)

 

ゆくての道 ばらばらとなり

月 しののめに 靑いばかり

 

2026/03/10

立原道造草稿詩篇 晩夏

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  晩夏

 

ひと目、山にて

白き驛標を見き。

 

薄れ陽、かすかに

死なまほしとはあらねども

空、とほく澄みたり。

 

[やぶちゃん注:「薄れ陽」ネィテヴでない読者のために、「うすれび」。注記に、『色の使用は前掲』「たそがれ」『と同じ。」とある。

立原道造草稿詩篇 たそがれ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、この「たそがれ」から「ゆくての道」の三篇が載るものは、『大体の用紙寸法は縦二六×横一八・五センチ。絵入り手製詩集らしく、桃色、水色、灰色の水彩絵具で囲みの子持ち罫、表題、ノンブル、插画、本文を筆記したもので、無綴三葉。扉や目次などを欠いているので完成本かどうかも未詳である。拠って草稿と見做し、次項の文語詩群の頭に置いた。昭和9年夏から冬にかけて、室生犀星の『故鄕圖繪集』『抒情小曲集』や萩原朔太郎の『氷島』などの文語詩集を愛読しており、また文語調の文章も杉浦明平宛の書簡に見られ、9月1日付で「文語のリズムは口語の貧困をかなしませます」と語っているが、これら文語詩の制作かそれに対する試作と思われる。制作時は9年冬頃と想定する。排列は原記ノンブル(時計文字)の順序に拠る。』とある。この「時計文字」とは、ローマ数字を指していよう。但し、時計では「IV」ではなく、「IIII」とするものが殆んどである。]

 

  たそがれ

 

換気筒も、雲も、齒車も

あはれ、みんな廻るなり。

煙のやうな、街のたそがれ。

 

 

[やぶちゃん注:「廻」の字体が「𢌞」ではないのはママ。注記に、『囲み罫は桃色、表題およびノンブルは水色、本文は灰色書き。』とある。]

立原道造草稿詩篇 枯木

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  枯木

 

衰へたかげにからんで

その濃い紫と 空色は

はじめての死に身をまかせ

暮れて行く風に身をまかせ

耳にうたつてゐたのだ

誰にもかなしいと聞える歌を

それはずるい枯木であつた

 

はじめは人がまちがへて枯木をかなしく思つたけれど

ああ それはずるいずるい噓つきだつた

 

[やぶちゃん注:この枯れ木の種が全く判らない。「濃い紫と」「空色」というのは、この枯れ木の表面上の色と読めるが、表面に蔓延った地衣類の色であろうとは思うものの、この表現だけでは、それらの候補種を挙げることも、植物には冥い私には、出来ない。識者の御教授を乞うものである。]

立原道造草稿詩篇 (だのに だのに と僕は⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (だのに だのに と僕は⋯⋯)

 

だのに だのに と僕は繰返す

あれから一年 短い日であつた

每日のやうに本の頁を切つてゐた

それにはやさしい言葉が書いてあつたから

 

窓の外にばかり咲く花 お前たち

部屋では何と枯れやすいのだらう

壷に凋れたとき 僕は人に片づけて貰はなければならなかつた

僕にはそれが出來なかつたから

 

もういらない うすら明るいかげ

もつと眩しい窓に行く 僕の眼は

お前の悲しい時が もう見えない

 

あれから一年 また會ふことはないだらう

花色のかげのなかに

ひとつともつて生きてゐよう

やさしい僕の眼 臆病な僕の眼 もう歌もなく

 

 

[やぶちゃん注:第一聯に就いては、若い普通の読者は正しく読める。寧ろ、したり顔した半可通の合理主義的読者は間違いなく誤読する。「每日のやうに本の頁を切つてゐた」というのは、本の小口の一方、或いは、三方を、化粧裁ちしないで製本されたもの言う「アンカット(uncut edge)本」を、ペーパー・ナイフで切って読んでいる――のではない――からである(アンカット本に関しての詳細は、当該ウィキが判り易い)。無論、誠実ゆえに、うっかりと、そう読み過した読者もいるだろう。しかし、それでは、この詩は、「詩」にならない、と、私は、断言する。――「每日のやうに」アンカット「本の頁を切つてゐた」。だって、「それにはやさしい言葉が書いてあつたから」だ。――という光景は、ただの愛書家(厳密には、真正の西洋の「愛書家」ではない。何故か? 西洋では、偏執的愛書家は、手に入れることが目的であり、その本を、一切、読まないからである)の、つまらぬ平板にして糞のような一コマでしかなく、「詩」にならないからである。ここで、詩人立原道造は、蔵書の中から、「やさしい言葉が書いてあつた」箇所=詩想に霊感を与えて呉れるフレーズを、鋏で切り取って集め、オリジナルなコレクションにする作業をしているのである。

2026/03/09

立原道造草稿詩篇 雨

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  雨

 

 軒先を拾つて步いた。麺麭屋では熱い竃のにほひが頰を打つた。僕の息にはこみあげる血がかすかな心配をまぜてゐた。麺麭屋では⋯⋯。

 

 洋燈に頰よせて、僕の脣は乾いてゐた。指を觸れると白く剝がれた。讀みさしの頁の上に散つた脣。

 

 雨は小止みなかつた。

 僕は耳をすました。人が泣いてゐた。母だつたのだらうか。

 

 しきりに泉が戀しかつた。額に暗い熱があつた。

 

 

[やぶちゃん注:「小止みなかつた」「小止み無い」は歴史的仮名遣では「をやみない」で、形容詞で、「少しの間もやむことなく続くさま・間断(かんだん)ない」の意。平安時代からあった古語である。今の若い年代の諸君は、あまり使わないであろうから、敢えて注した。]

立原道造草稿詩篇 (空つ風の高臺に⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (空つ風の高臺に⋯⋯)

 

空つ風の高臺に

かうして二人で立つてゐると

屋根の向うの夕燒に

小さく富士が見えてゐる

 

語らひは疲れの外に流れ去り

ただ眺めてゐる靄もない町の空

積み重なつた屋根の下に

煌めくままに燈がともり

 

[やぶちゃん注:「空つ風」の「つ」は古語の格助詞で、体言や形容詞の語幹に付いて、「所属・位置」を添える「~の・~にある」で、連体修飾語を作る。]

立原道造草稿詩篇 (春が來たなら⋯⋯)

立原道造草稿詩篇 (春が來たなら⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。

 さて。本詩の底本を見て戴きたい。そこでは、二行目が、

   *

本のかげに小さな椅子に腰かけて

   *

となっている。これは、流石に、驚いた。しかし、注記には、何も書かれていない。まず、躓き、しかし、一瞬、『春、極小の小人に変じた道造が、「本のかげに小さな椅子に腰かけて」⋯⋯とメルヘン風に詠み始めたものか?』と思ったのだが、しかし、以下を読んでも、そんなニュアンスは全く認められない。而して、この詩、以前に電子化した記憶が微かにあったので、調べたところ、二〇一六年六月に、所持する一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編)を元に、恣意的に正字化したものであるが、そこでは、

☆ちゃんと「木」になっている

のである。

 さて。杉浦明平氏は、本底本全集の編者の一人である。

 しかし、だ! 国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集」(角川書店版の旧版及び新版とも)を横断検索しても、

この草稿詩篇は、総てが、「本」になっている

のである!

 この原稿は底本の注記を見ても、喪失とは書かれていない。とすれば、

★杉浦氏が岩波文庫版「立原道造詩集」を編集され、原稿を再々度、確認されるまで、「木」の判読の誤り、或いは、旧全集から新全集まで、延々と続いた誤記或いは誤植であった

ということになるのである。或いは、失礼乍ら、

★旧全集のものを、再検証し切れずに、うっかり、そのまま――安易に――旧全集から移したものではないか?

と疑わざるを得ないのである。そう疑うのは、再検証して、やっぱり、「本」であったのなら、ここに、せめても、訂正注として、

――原記では、二行目冒頭の「木」は「本」であるが、「木」の誤記と認め、特異的に訂した。――

とされたはずだから、である。既に、杉浦氏は白玉楼中の人となられているから、判らない。或いは、新版の後刷には、それが語られてあるのかも知れない。

★無論、私は「木」と書き変えた。

 

  (春が來たなら⋯⋯)

 

春が來たなら 花が咲いたら

木のかげに小さな椅子に腰かけて

ずつと遠くを見てくらさう

そしてとしよりになるだらう

僕は何もかもわかつたやうに

灰の色をした靄のしめりの向うの方に

小さなやさしい笑顏を送らう

僕は餘計な歌はもう歌はない

手をのばしたらそつと花に觸れるだらう

 

春が來たなら ひとりだつたら

 

立原道造草稿詩篇 (日暮に近い部屋のなかで⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (日暮に近い部屋のなかで⋯⋯)

 

日暮に近い部屋のなかで、鉛筆が僕を傷つけた。色褪せた紙に、僕は詩を書いてゐた。亂れた心に復讐をするために。

 

僕が書ける日、平和は僕をとめた。

弱さがお前に書かすのだと、强くなれと。

詩が書けない日、言葉は僕を妨げた。

そこにお前はゐないのだと、町へ行けと。

 

夕日が窓を消えて行つた。

九つの星に僕はたづねよう。生きるといふことを。そのなかで歌ふことを。

 

 

[やぶちゃん注:この第一聯の表現には、道造のアンビバレンスな心理が反映されている。第二聯を読むなら、第一聯の、表面的には、「亂れた」僕の「心に復讐をするために」、「鉛筆が僕を傷つけた」と読めるのだが、実は、ここには、無意識裡に、道造自身が「亂れた心に復讐をするために」「僕は詩を書いてゐた」というニュアンスが読み解けるからである。傷心のロマンス詩人であると思われている立原道造は、実際には、詩を「亂れた心に復讐をするために」自虐的に「詩を書いてゐた」のではなかったか? 私はそれこそが、詩人立原道造の内実であったのではなかったか?

「九つの星」注記では、『占星術の九曜星』(くようせい/くようぼし:「くよう」は歴史的仮名遣では「くえう」)『か。』とする。小学館「日本国語大辞典」の「九曜」に拠れば、『日・月・火・水・木・金・土の七曜星に、羅睺(らご)星と計都(けいと)星を加えたもの。本来は、インドの天文学で九惑星として数えあげた名称で、日本には、密教の星辰信仰を介して知られるようになり、陰陽(おんよう)家が、人の生年月などに配当して運命を占った。九曜星(くようせい)。九曜の星。九星(きゅうせい)。』とする。道造は、建築家であるが、当初、第一高等学校理科甲類に進学した時は、天文学を志望していた。星に疎い私でさえ、九曜星は漢文と民俗学への興味から、よく知っていたから、確かに、「九つの星」と言えば、まず、それを想起はする。しかし、ここで道造が、九曜星を指しているというのは、どうも胡散臭い。日没後の星空を見上げた彼が、実際の九つの星を見上げて、かく、表現したとするのが自然である。但し、九つからなる星座は、存在しない。前後の草稿の並びから、これを昭和九年の晩秋と仮定すると、この時、彼は東京にいる。季節的に、はっきりと見える星座はオリオン座の七星であるが、晴天であれば、オリオンの内側に等級の低い星が見えるから、それを見上げたと仮定するのが、最も無難かと、素人の私は考えた。星に詳しい方のご意見を拝聴したい。]

立原道造草稿詩篇 踊子は

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこに、『原記最終行は消去されて次の言葉が続く。』として消去した一文が記されてあるので、それを【初稿】として復元した。]

 

【初稿】

 

  踊子は

 

踊子はなぜ踊るのか知らなつた。それはサアカスの音樂のなかの踊子だつた。動物のかはりに、積木のかはりに。

 

人たちは慰むことが出來た。束の間は笑ふことが出來た。

 

踊子は靴を鳴らした。月曜日に日曜日の着物を着てゐた。それから疲れた。

 

 

【決定草稿】

 

  踊子は

 

踊子はなぜ踊るのか知らなつた。それはサアカスの音樂のなかの踊子だつた。動物のかはりに、積木のかはりに。

 

人たちは慰むことが出來た。束の間は笑ふことが出來た。

 

踊子は靴を鳴らした。月曜日に日曜日の着物を着てゐた。

 

 

[やぶちゃん注:私は、この場に道造と一緒にいたデジャヴを持ってしまう人種である。さればこそ、私は、断然、初稿を支持する。]

2026/03/08

立原道造草稿詩篇 風琴を聞く女

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  風琴を聞く女

 

暮れやすい雨にあかりがともされて

一きは切ない心の歌をうたつたが

あの風琴は繰り返して飽きなかつた

おそらく故鄕の歌だつたのだらう

 

一輪に紅い花を凋れる前に髮にとめ

ぢつと眼をとぢてゐるその姿が

黑い上衣の襞に搖れて立ちあがつた

窓に凭ると眼は暗がりが映つた

 

呼びあつて風琴の歌はまた繰返した

この一日かうして終つたと

雫に濡れた窓に人の心が眞似をした

また一日かうして終つたと

 

立原道造草稿詩篇 船

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  船

 

湖に洋燈を浮べて夏の日を

つなぎとめたお前の心から

夢もなく滑つて行つたのは

つかの間の藻のいたづらら

 

お前はうつろ眼に

靑空を山々の形をうつし

溢れる思ひには身を任さなかつた

朽ちないまま 冷やかに

急流を行く日ばかり

はかない願ひにかぞへてゐた

 

立原道造草稿詩篇 昨日

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  昨日

 

消えた言葉は追ふのはよさう

消えた言葉は私のものだ

どこに どこに やさしい言葉

 

消えた言葉は空にゐる

一日 雲とうたつてゐるのは

どこに どこに 私の言葉

 

さがしに行つた人たちと

耳をすすますなら 私は行かう

 

消えた言葉は私のものだ

また 朝から日暮れまで

 

立原道造草稿詩篇 鴉の歌

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  鴉の歌

 

奪はれた日から 私はうたつた

私はここに立つてゐる そして汚れた

私は夕燒を呼んでゐる 今こそあれがいりようなのだ

 

私は夜と一しよにゐたい

木の風と 私はかくすものと

そして私は夜をにくまう あれは一面に黑いから

 

私は燒けて そこから生れる

夕燒ばかりがいりようなのだ

私は呼んでゐる 奪はれてはならない 私は呼んでゐる

 

[やぶちゃん注:今朝、未明に起きて、この詩について、既に二時間半の間、この第一聯の二行目の「汚れた」を「よごれた」と読むか、「けがれた」と読むかで、迷い続けた。最初、一行目を受けて、私は、無条件反射で、「けがれた」と読んだ。しかし、即時に、ふと、暗い書斎で(私の書斎の室内灯は八カ月前から豆電球を除いてショートしている。パソコン使用には問題がなく、机にあるスタンドで十分なので、直していない)、『道造が、いままで「けがれ」と読んだことがあったかな?』と頭を傾げたのだった。まず、私の「立原道造」(現在、三百三十八件。目ぼしい詩篇は概ね電子化したが、私は物語物は殆んど電子化していない)で調べると、「けがれ」は見当たらない。所持する幾つかの彼の詩集の中には、編者がルビを振ったものがあるが、それらにも、存在しなかった(ブログ記事の初期は、それらをほぼ、全部を電子化しているから、落ちはない)。次に、国立国会図書館デジタルコレクションにある全ての彼の全集で全文検索を「穢」の単漢字を調べたが、「穢」の使用は全くなかった。次に「けがれ」で調べたが。使用例はなかった。「汚」の漢字は、彼は好んで詩句に用いている。しかし、それらは殆んどが物理的・比喩的な用法での、「よごれる」の意の用法でしか見出せなかった。これを確認し終わった時に、山影から陽が射していた(道造好みの朝焼けであった)。以上から、私は、道造は「穢」の漢字、「けがれ」の文字を生理的に嫌っていたと断言してよいと思われる(全文検索には書翰も含まれる)。されば、この「そして汚れた」も「そして よごれた」と読んでよいと結論づけた。識者で、使用例があるとなれば、御教授戴きたい。

2026/03/07

立原道造草稿詩篇 雨

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来るが、そこには、『草稿消失 角川書店版第二巻』とあり、『全集に於ける隣接詩との関連に拠り、ここに置いた。』とある。旧全集(一九五八年版)の当該部は、ここである。]

 

  雨

 

雨といふに、飛行機がとぶ。

窓をあければ――

八つ手の若葉。

どこからか子供の聲がする。

 

立原道造草稿詩篇 窓

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこには、抹消した第二行と第三行の間にある一行が記されてあるので、それを【初稿】として復元した。]

 

【初稿】

 

  窓

 

坐つて 黙つてゐた

 

たつたひとりであつた

 

ほほ笑んだ顏ばかりであつた

 

空がかがやき雲が過ぎるとき

 

ちひさな 似た神々であつた

 

寢床まで月がさすことがあつた

 

風吹くな と祈つてゐた

 

 

【決定草稿】

 

 

  窓

 

坐つて 黙つてゐた

 

たつたひとりであつた

 

空がかがやき雲が過ぎるとき

 

ちひさな 似た神々であつた

 

寢床まで月がさすことがあつた

 

風吹くな と祈つてゐた

 

立原道造草稿詩篇 擒(とりこ)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  擒(とりこ)

 

風がとほくを過ぎるときに

 

身體をかたくして 僕は 手を垂れてゐる

 

家畜の眠りのまはりの洋のやうに

 

かすかな響が僕を包んだ――

 

 

[やぶちゃん注:「身體」は「しんたい」と読んでおく。道造なら、「からだ」と読ませるつもりであれば、必ず、ルビを振ると考えるからである。]

立原道造草稿詩篇 曇天

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年の『制作時付記を持つ』(月は表示なし)とある。]

 

  曇天

 

雨降るな

 

風吹くな

 

旅であらうに

 

龜よ 汝(おまへ)の脊に手をおきつ

 

道は遙かに白かろき

 

 

[やぶちゃん注:「おきつ」の「つ」は、古語の完了の助動詞の終止形で、所謂、通常、「⋯⋯つ、⋯⋯つ」の形で、「⋯⋯したり、⋯⋯したり」という複数の動作が並立的に行われるそれであるが、ここでは、後の動作が存在しない全くの破格法である。或いは、古語・現代語共通の「つつ」の後の「つ」を脱字してしまったものかも知れない。しかし、最終行の末文のフレーズ「白かろき」は明らかに擬古文であるから、詩人の亀に言いかけた一連のものであると読む以外にはおかしいから、前のこの「つ」も、古語の破格のそれであると読むのが、自然である。しかし、表現としては、ぎくしゃくしていて、全くのアウトである。

 さて。これと、直前の「天の誘ひ」の二篇は、道造としては、詩的実験を試みたものと思われる。「天の誘ひ」の漢文と最終行末尾の「歸らず」の擬古的手法といい、本篇の「つ」と「白かろき」の使用で、通性が強い。しかし、正直、この二篇は、道造の詩としては、異様で、失敗であると思う。

立原道造草稿詩篇 天の誘ひ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年十月の『制作時付記を持つ』とある。]

 

  天の誘ひ

 

それは哀しみに似てゐたが

 

人は知らぬ顏をして

 

日の暮れるのを待つてみた

 

――万事休矣

 

あたふたと旅仕度をした

 

かがやく雲と月は歸らず

 

 

[やぶちゃん注:「矣」は漢文の助字で置き字で読まない。全体は「ばんじきゆうす」(ばんじきゅうす)と読む。]

立原道造草稿詩篇 晩秋

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年十月の『制作時付記を持つ』とある。]

 

  晩秋

 

ゆく雲が何をうたつたか

 

おまへのあちらに人の世がある

 

本棚の隅に見つけた

 

歌は窓を破り逃げ去つた

 

もう誰とも會はなかつらう

 

立原道造草稿詩篇 黃昏へ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年十月の『制作時付記を持つ』とある。標題は「たそがれへ」と読みたい。]

 

  黃昏へ

 

茂みの小鳥は年老いた

 

緑は 空は 色移つた

 

誰がうたふだらうか けふ僕のよろこびを

 

歌は翼を日に煌かせ

 

弱年の掌を飛び去つた

 

立原道造草稿詩篇 落葉

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年十月の『制作時付記を持つ』とある。]

 

  落葉

 

踊子の掌に 光が

それが消えると

踊子の掌に 光が

 

その上に それが消え それがかげり

光のなかを 踊子が

そればかり そればかり

光のはてを 掌が

ただもう搖れざはめく掌を

光が 光が

 

立原道造草稿詩篇 十一月一日の朝

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年十月の『制作時記を持つ』とある。この詩、道造としてはやや珍しい文語表現の混じったものであるが、正直、いただけない。]

 

  十一月一日の朝

 

人は並木のかげを行き

吐く息は美しく頰を染め

そのあとを幾つも幾つも水玉が流れぬ

 

窓はすきとほり

笑はない子供等のそばに

雲がそれを眺めぬ⋯⋯

 

家鴨と鶴が飛び去れり

水音に池は濡れしが

誰もその低い呟きを聞かず

 

立原道造草稿詩篇 風の話

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  風の話

 

そんなことを言ふのはおかしかつた

僕らは まじめな顏で言ひあつてゐた

風が見えないことを

 

最初の子供は 風が埃のそばに見えることを言つた

誰にもその考へは氣にいらなかつた

 

次の子供は 風が枝のそばにばかり見えることを言つた

その子は木のぼりを考へた 葉がそよいだ

 

僕らはみんなで言ひあつた

そしてたいとう最後の子供が言つた

あれは見えなくてよいことを

 

 

[やぶちゃん注:これは少年期の道造の回想の再構築ではない。そこにいる「僕」は青年になった道造である。そうして、こうした道造マジックこそ、彼が真のpuer eternus――プエル・エテルヌスとして生きた詩人であることを証明する。虐められてばかりいた僕が、遂になれなれなかったプエル・エテルヌスに⋯⋯。]

立原道造草稿詩篇 夜

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこには、『第二聯の「――』を字空けで連投する『使用は、昭和10年3月の「枯木と風の歌」(第一巻所収)などにも見られる。』とある。この「枯木と風の歌」は、既に、二〇一五年十月六日に電子化してある。しかし、それは、底本として昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」を用いたのだったが、今回、調べたところ、この中村氏が拠ったものが、角川書店の旧全集(ここ〈一九五七年版〉/先行版はここ〈一九五〇年版〉)を底本にしたもので、そこでは、この第四聯の最終行が「 ⋯⋯ ⋯⋯ ⋯⋯」になっていたのであるが、後の新全集(一九七一年刊)を見たところ、当該部(ここ)は以上のように、「―― ―― ―― ―― ――」になっていることを発見した。されば、そこを修正し、中村氏がルビを振った部分四箇所もカットし、さらに、Unicode導入以前の仕事であるので、正字不全があったのも修正しておいたので、見られたい。因みに、この草稿の創作時期は、昭和九(一九三四)年に想定されている。]

 

  夜

 

僕にはどうしてもわからない

どうしてあんなにいそぐのか

そして或る時はしづかなのか

風のことが

 

窓をとざして

僕は聞いてゐる

さうして いつまでも

―― ―― ―― ―― ――

 

2026/03/06

立原道造草稿詩篇 海峽

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  海峽

 

搖れながら あかりは風に消えて行つた

窓の外に 船はどこにゐるのだらうか

 

女たちは抱きあつて 昨日を呼んでゐた

(朝になつたら あれは歸だらうか)

 

誰もが祈ることを思はなかつた

風が叫び返した 波は白く炎のやうに散つてゐた

 

骸骨は 崩れたらうか――

女たちは 泣くすべを呼びつづけた

 

立原道造草稿詩篇 旅

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  旅

 

海は燕の歌をきいた――

日がはじまり 碑がをはり かうして

越えてゐる私の羽根には力があるのだ

私は疲れた阿呆鳥とはちがふのだらう

私はいさましく越えて行く 私は信じてゐると⋯⋯

この小さな生物は海にいつかはその身を投げはしないか

 

海は絕えずうたつてゐた 呟きだつた

或る日 それは夏だつた

燕はたうとう海を越えきつた 海は忘れてゐた

白い波頭でその行方を見送りながら 繰返した

これはあまりに小さく 私はあまりに大きいと――

明るくはてしない晝であつた 似た雲があつた

 

立原道造草稿詩篇 白

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこには、『「――三四・九月」の制作時付記を持つ。』とある。]

 

  白

 

海への道だつた やさしいことだつた

しやべりながら はしやぎながら しづまりながら

それは明るい時だつた

 

おまへの耳に日が搖れ

濡れた木の間を光が洩れ

うすらいでゆく霧だつた 霧は空の色だつた

 

やさしいことだつた――

僕には夢があつた 笑ひがあつた

海には朝の船がとほい港に旅立つて行つた

 

 

[やぶちゃん注:道造の得意な過去形の失恋詩篇である。彼が詠む時、孰れも、気障を全く感じない。そこに私は惹かれる。私は多くの教え子の結婚式に招かれたが、そこでは、多くは、長い退屈な賛辞はせず、いろいろな詩を朗読した(私は国語教師時代、自ら『朗読七割、授業三割。』と嘯いていた)。数回、道造の詩も詠んだ。しかし、彼等は、それが、失恋の詩であることを知らなかった。道造の失恋詩には、失恋の持つ永遠の瞬間の至福があるからに他ならないのである。私も、この詩を、嘗つて愛した女性に贈ることとする。]

2026/03/05

立原道造草稿詩篇 夏へ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから、次のコマで視認出来る。そこには、『前掲』『鉛筆書き初稿「旅裝――K停車場で」』(ここは前の注記から正式な標題を示した)『とほぼ同文である。』とし、『昭和11年3月「ゆめみこ」発表の「夏へ」の原型。』とある。

★この注記中にある『ほぼ同文である』が気になる。「ほぼ」とあるのだから、違いがあるのである。しかし、底本全集には、いくら探しても、その鉛筆書きである初稿「旅裝――K停車場で」は、載っていないのである。恐らくは、標題(注記の殆んどでは、単に原題を「旅裝」のみとなっているのも、実は、甚だ、気になっているのである)・字配・表字(判読不能を含む)・「てにをは」の異体・誤字その他と有意な違いではないと判断されたものなのだろうが、やはり、気になるのである。因みに、調べてみたところ、『郷土作家研究』(通号二十八号・二〇〇三年七月発行)に載る野村聡氏の論文『立原道造「旅装」の考察--草稿詩との比較による解読の試み』に、その初稿が載るのではないかと思ったが、ネット上では直接の閲覧が出来ない(国立国会図書館に依頼すれば、閲覧可能だが、私は、現在、諸事多忙なれば、その余裕がない)。もし、私のブログの読者で、その論文を所持しておられる方が居られれば、その論文に原型が載っているのであれば、それを教えて下されば、誠に有難い。その関係上、最初に掲げたものを【草稿第二稿】とした。

☆本草稿を元にした発表された「夏へ」は、実は、私は、本全集の編輯者であられる杉浦民平氏の編になる岩波文庫版に載るものを、ここで、二〇一六年に公開しているのだが、恣意的に私が正字に直したものであり、改めて、ここで【雑誌『ひめみこ』掲載の決定稿】として、底本全集の「第一卷 詩集I」の「夏へ」を底本にして、改めて電子化した。但し、同巻の編者注に(ここの左丁下段三行目以降)、その発表されたものを、改めて、道造が手書き(推定)で、公開誌に訂正を入れたものが存在し、実は、同全集の本文は、編者によって、その訂正版で示されてあるのである。この「訂正」というのが、単なる雑誌編者の誤りなのか、発表後に道造が気に入らなくなって、発表誌に書き込んだものなのかは、その注記では明確ではない。そこで、最後に、【発表詩に後に自筆(推定)で書き変えた決定稿(推定)】として附すこととした。

 

【草稿第二稿】

 

  夏へ

 

ここにかうして待つてゐる 或る時の

僕の少年 僕の祕密

僕の知らない 誰かの出發

 

人はハンカチをふるだらう

すると窓からほほ笑むだらう

さうしてどこかに行くだらう

 

さう 僕は 帽子用意した

それから紙よりも白いシヤツを

さうしてさがしさがしに行くだらう

 

プラツトフオームで手をふつた 或る時の

僕の昨日 僕の少年

あの人のゐない 幾つも幾つもの出發

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、第三聯の頭の「さう」は、下の字空けからも判る通り、自分自身に改めて再確認をして、決意を示した「さう」(そう)である。]

 

 

【雑誌『ひめみこ』掲載の決定稿】

 

  夏へ

 

こゝにかうして待つてゐる、或る時の

僕の少年 僕の祕密⋯⋯

さうして僕の 知らない人の 誰かの出發

 

人は ハンカチをふつてゐる

人は お辭儀をする

さうしてどこかに行くだらう――

 

(さう 僕は 帽子用意した

それから紙よりも白いシヤツを

さうしてさがしさがしに行くだらう)

 

プラツト・フオームで手をふつた

或る時の

僕の昨日

僕の少年⋯⋯あれから

あの人だけゐない すぎた幾つもの出發

 

 

【発表詩に後に自筆(推定)で書き変えた決定稿(推定)】

 

  夏へ

 

こゝにかうして待つてゐる、或る時の

僕の少年 僕の祕密⋯⋯

さうして僕の 知らない人の

忘れた 誰かの とほい出發

 

人は ハンカチをふつてゐる

人は 窓からほほゑむ

人は お辭儀をする

さうしてどこかへ行くのだらう――

 

(さう 僕は 帽子を用意した

それから紙よりも白い肌衣を

さうしてさがしさがしに行くだらう)

 

プラツト・フオームで手をふつた 或る時の

僕の昨日、僕の少年⋯⋯あれから

あの人だけゐない すぎた幾つもの出發

 

2026/03/04

和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 目録・山草類 上卷・尾人參

 

Higeninjin

 

ひげにんじん 髭人參【俗稱】

       小人參【俗稱】

尾人參

       自此一種也俗

       以爲大人參之

       髭細根者非也

 

△按尾人參朝鮮中華共有之蔓生而與人參一類異種

 者也高一二寸葉似人參而小蔓出於莖布地至𠙚生

 根如草石蠺樣取其蔓根爲藥纖者似萆薢髭故名髭

[やぶちゃん注:「蠶」は、原本では「グリフウィキ」のこれ(上部の「天天」が「夫夫」)だが、表示出来ないので、正字で示した。]

 人參毎唐船皆將來之稱小人參性堅實其功勝於大

 人參之浮虛者

 

   *

 

ひげにんじん 髭人參【俗稱。】

       小人參《しやうにんじん》【俗稱。】

尾人參

       自《おのづか》ら、此れ、一種なり。俗、

       以《もつて》、「大人參の髭細根」と爲るは、

       非なり。

 

△按ずるに、尾人參は、朝鮮・中華、共に、之れ、有り。蔓生《つるせい》して、人參と一類異種なる者なり。高さ、一、二寸。葉、人參に似て、小《ちさ》く、蔓(つる)。莖より出《いで》て、地に布《し》き、至る𠙚に、根≪を≫生ず。「草石蠺(ちやうろぎ)」の樣《さま》のごとし。其蔓根《つるね》を取《とり》て、藥と爲《なす》。纖(ほそ)き者は、「萆薢(ところ)」の髭(ひげ)に似《にる》。故《ゆゑ》、「髭人參」と名《なづ》く。毎《まい》、唐船《たうせん》、皆、之《これ》、將《も》ち[やぶちゃん注:「將」の字には「持ち送る」の意がある。]來《きた》る。「小人參」と稱す。性、堅實にして、其功、「大人參」の浮虛《ふきよ》なる者に勝(《ま》さ)る。

 

[やぶちゃん注:本稿は、「本草綱目」に引用がない。そして、前回の「卷第九十二之本 山草類 上卷・人參」で予告した通り、良安が言っているような一類異種では、ない。

 「金澤 中屋彦十郞藥局」の「●髭人参(ひげにんじん、ヒゲニンジン)、毛人参(けにんじん、ケニンジン)」に拠れば(一部を太字にした)、『健康食品、髭人参は神農本草経の上品に収載され、古くからもっとも珍重された補剤です。その根が人の形ににているからつけられたといわれています』とあり、基原を前項と同じ『ウコギ科のオタネニンジン』=セリ目ウコギ科トチバニンジン(栃葉人参)属オタネニンジン(御種人蔘)Panax ginseng 『の細根を除いた根(白参、生干人参)。または』、『これを軽く湯通しして(御種人参、雲州仕立て)乾燥したもの。人参はその調整法により「白参」と「紅参」に大別できる。もっとも雲州仕立てのような中間型もある。白参は直参、半曲参、曲参にわけられる。日本産、開城人参などは直参、豊基人参は半曲参、錦山人参は曲参で、そのほか生産地により数種の形の人参がある。紅参は細根をつけたまま蒸しあげ乾燥したもの(日本産紅参)と、細根を除去し』、『圧力をかけて乾燥したもの(北鮮、韓国産紅参)とがある』。「産地」の項には、『日本(長野、福島、島根;栽培)、韓国、北朝鮮、中国、ロシア(栽培、野生品はきわめてすくない。)』とする。「成分」の項に、『精油0.05%(β-エレメン、パナキシノール、パナキシドール、ヘプタデカー1-エンー46ジインー39ジオール、サポニン配糖体約4%(ギンセノシドなど)、糖類約5%を含む)』とある。「処方例」として、『白虎加人参湯、生姜瀉心湯、小柴胡湯、人参養栄湯、理中丸など。』が挙げられてあり、「用法・用量」に『煎剤、丸剤、散剤。10.53.0グラム。』とする。そして、「同類生薬」として、『広東人参:アメリカニンジンの根を乾燥したもので、カナダ、北アメリカに産する。別名を「西洋参」「花旗参」などともいう、成分としてサポニン配糖体 5%、を含み、用途は人参と同様に用いる。』とし、さらに、『三七人参:サンシチニンジンの根を乾燥したもので、「田七人参」「田三七」などともいう。中国雲南省、広西壮族自治区およびベトナム北部に産する。成分としてサポニン配糖体38%を含み、その主成分はギンセノシドである。』とある。

 さて、この最後の二種については、前者が、

トチバニンジン属アメリカニンジン Panax quinquefolius

であるが、これは、当該ウィキに拠れば、『北アメリカ原産であ』るとあり、この種は「広東人参」の異名があるものの、これは、近代に『広州や香港を経由して』アメリカから『輸出されていたことに因む』ものである。同種の「維基百科」の「花旗参」の記載を見ても、近代以前に中国に持ち込まれたとする記載はないから、これは、良安がここで言っている「尾人參」では、あり得ない。

  しかし、後者は、

トチバニンジン属サンシチニンジン(三七人参)Panax notoginseng

という同属(=同属種)の別種である。「維基百科」の同種のページは単に「三七」である。本邦の当該ウィキに拠れば、『中国南部原産』とし、「別名」として、『田七人参(でんしちにんじん)』は『広西省の田陽』(ここ。グーグル・マップ・データ。次も同じ)や『田東』(ここ)『で産することから、「田」の字が冠される』とし、また、『金不換(きんふかん)』という別異名に就いては、『金に替えられないほど価値が高いという意味』とある。しかし、「歴史」の項に、『おそらく、原産地では古くからその薬効が知られていたものと思われるが、中国の医学に組み入れられた歴史は浅く、16世紀に李時珍が著した薬学書』「本草綱目」『が初出』とし、『別名「金不換」の通り、中国では長らく国外輸出が禁止されていたが、近年、日本をはじめ、世界各国に輸出されている』とあった。

 さても、「本草綱目」初出というのは、実に「草之一 卷十二上【山草類上三十一種】」の末尾に置かれていた。「維基文庫」のここである。以下に示すが、「維基文庫」版は正字では電子化されていない(誤字も多くある)ので、以下に、それを加工データにして、国立国会図書館デジタルコレクションの万曆一八(一五九〇)年序板の当該部で校訂して示すこととする。一部の表示出来ない異体字は、同字であることを確認の上、「維基文庫」の字を採用した。句読点は意味を採るのに有効なので、やはり採用した。なお、後者のデジコレの方には、追加部分がある。

   *

三七【綱目】

(釋名)山𣾰【綱目】金不換【時珍曰、彼人言其葉左三右四、故名三七、盖恐不然。或云本名山𣾰、謂其能合金瘡、如𣾰黏粘物也、此說近之。金不換、貴重之稱也。】

(集觧)時珍曰、生廣西、南丹諸州畨峒深山中、采根暴乾、黄黒色。團結者、狀畧似白及、長者、如老乾地黄、有節。味微甘而苦、頗似人參之味。或云、試法、以末糝豬血中、血化爲水者乃真。近傳一種草、春生苗、夏高三、四尺。葉佀[やぶちゃん注:「似」の異体字。]菊艾而勁厚、有龜岐尖。莖有赤稜。夏秋開黄花、蕊如金絲、盤紐可愛、而氣不香。花乾則吐絮如苦絮。根葉味甘。治金瘡折傷出血、及上下血病、甚效。云是三七、而根大如牛蒡根、與南中來者不類、恐是劉𭔃[やぶちゃん注:「寄」の異体字。]奴之属、甚易繁衍。

根(氣味)甘、微苦、温、無毒。(主治)止血散血定痛、金刃箭傷、跌撲杖瘡、血出不止者、嚼爛塗、或爲末摻之、其血卽止。亦主吐血衄血、下血血痢、崩中經水不止、産後惡血不下、血運血痛、赤目癰腫、虎咬蛇傷諸病(時珍)。

(發明)時珍曰、此藥近時始出、南人軍中用為金瘡要藥、云有竒[やぶちゃん注:「奇」の異体字。]功。又云、凡杖撲傷損、瘀血淋漓者、隨即嚼爛、罨之即止、靑腫者、即消散。若受杖時、先服一、二錢、則血不衝心、杖後、尤宜服之。産後服、亦良。大抵此薬氣温、味甘微苦、乃陽明、厥陰血分之薬、故能治一切血病、與麒麟竭、紫𨥑[やぶちゃん注:「礦」の異体字。]相同。

(附方)【新八】吐血衄血【山𣾰一錢、自嚼、米湯送下。或以五分、加入八核湯。 瀕湖集簡方】赤痢血痢【三七三銭、硏末、米泔水調服。卽愈。 同上。】大腸下血【三七硏末、同淡白酒調一、二銭服、三服可愈。加五分入四物湯、亦可。 同上。】婦人血崩【方同上。】產後血多【山𣾰硏末、米湯服一銭。 同上。】男婦赤眼【十分重者、以山𣾰根磨汁、塗四圍。甚妙。 同上。】無名癰腫【疼痛不止、山𣾰磨米醋調、塗即散。已破者、硏末乾塗。】虎咬蛇傷【山𣾰硏末、米飮服三銭、仍嚼塗之。 並同上。】。

葉(主治)折傷跌撲出血、傅之卽止、靑腫、經夜卽散、餘功同根【時珍。】。

   *

★則ち、良安は自身の持つ「本草綱目」で、これを見たはずなのだが、「和漢三才圖會」には、全文で「三七」を国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版を★全文検索しても

――影も形も――ない――

のである。この事実は、取りも直さず、

★✕以上の引用の如く――江戸中期に――このサンシチニンジンが本邦に輸出された可能性は――ない――✕★

と考えてよい、ということになる、と私は断定するものである。

 而して、ということは、

良安が言っている朝鮮・中華から齎されたそれは、オタネニンジン(チョウセンニンジン)の成長不全個体の製品である

と断定するものである。

「草石蠺(ちやうろぎ)」シソ目シソ科オドリコソウ亜科イヌゴマ属チョロギ Stachys sieboldii 。詳しくは、当該ウィキを見られたい。私は、秋田県の温泉で、同種の塊茎を塩漬けにしたものを食べて以来、好物となった。

「萆薢(ところ)」本邦では「野老」で「ところ」と読ませる。これは、ユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea の蔓性多年草の一群を指す。詳しくは、当該ウィキを見られたい。]

立原道造草稿詩篇 春風の歌 / 【私の独断でカップリングした同全集「下書き草稿篇」に配されてある詩篇】(海には波には⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから、次のコマで視認出来る。この原稿群は『一部の作品は』昭和九(一九三四)年『9、10月の制作時付記を持』つとする。この「春風の歌」は、この年の春の情景を謳っているが、まずは、この年の春の海浜での体験を詠んだものと採っておく。注記には、第二聯の初稿が記されているので、それを、【初稿】して電子化した。なお、私は「春風」は「はるかぜ」と読みたい。

 次に、注記には、この詩稿「春風」の草稿が書かれている原稿の『裏面に次の「夏へ」の鉛筆書き初稿「旅装――K停車場で」および無題詩断片(海には波は…第六巻所収)がある。』とあった。そこで、そちらを見たところ、それは「第六卷 雜纂」の「下書き草稿篇」のパートに入っていた。ここである。しかし、それは私には、この「春風の歌」と強い親和性があるものと読めた。そこで、私の独断で、この後に、それを、「春風の歌」とカップリングして、「(海には波は⋯⋯)」として掲げることとした。恐らく、私の読者は、この詩を、何故、「下書き草稿篇」に入れたのだろうと、訝る方もあろうと思う。私もそう思った。だから、ここに配することとした。取り敢えず、編者が最終巻の「下書き草稿篇」で前解説をしている箇所をリンクさせておく(下段に当該詩の解説がある)。

 

【初稿】

 

  春風の歌

 

私はいつか流れて行つた

繪のやうな綠のなかを

たつたひとつのの人の言葉を

運んで行くと 人は誰でも受け取つた

ありがたうとほほ笑みながら

 

夢から晝へ きらめく枝のなかを

私は 每日のやうに靑い空を

駈けてゐた 晝から夜へ

沈丁が咲いてゐた 麥がのびてゐた

私はいつかひとりだつた

 

 

【決定稿】

 

  春風の歌

 

私はいつか流れて行つた

繪のやうな綠のなかを

たつたひとつのの人の言葉を

運んで行くと 人は誰でも受け取つた

ありがたうとほほ笑みながら

 

夢から晝へ 駈けてゐた

私は 每日のやうに靑い空を

菜が咲いてゐた 川が溢れてゐた

私はいつかひとりだつた

 

 

[やぶちゃん注:個人的で恐縮だが、私は菜の花が頗る好きだ(もっと好きなのは紫雲英(ゲンゲ)だ)。だから、決定稿が好きだ。]

 

 

   ☆

 

 

【私の独断でカップリングした同全集「下書き草稿篇」に配されてある詩篇】

 

 

  (海には波は⋯⋯)

 

海には波は白く炎のやうに散つてゐた

すばやい虹の雲が走りすぎた

鷗が追つてゐた――

艪はあはただしく波を切り

舟は濡れた水脈をひいてゐた

 

 

[やぶちゃん注:「水脈」は、断然、「みを」と読む。]

2026/03/03

立原道造草稿詩篇 (かなしいまでに⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (かなしいまでに⋯⋯)

 

かなしいまでにとほくを見て

眼よ おまへは泪をひたかくしてゐた

 

明るい雲の流れる街に

ボロの軒下を拾つて步き

おまへはひとをさがしあぐんだ

つれなかつたひとを

 

耳よ おまへのなかに老いたかなしみが

潮騒をうたひ とほい靄の夜をささやいた

 

夕暮れて 夕暮れは汚れた城のやう

荒れた草生にひとを待つてゐた

おまへは 來ないひとを

足音を

 

ながいこと さうして私はさまよつた

驢馬の步みよりまだ愚かしく

私は さうして ほほゑむだ

 

耳よ 眼よ

私は さうして ほほゑむだ

かつて愛したものの形は消えるまで

 

 

[やぶちゃん注:やはり漢字の読みが気になる。「眼」は全体を読み終わると、「まなこ」では、音律が上手くなく、結果的に浮いてしまい、おかしい。これは「め」であろう。

「草生」は「くさふ」と読む。草原に同じい。]

立原道造草稿詩篇 (眼をつむり⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (眼をつむり⋯⋯)

 

眼をつむり それでも

葉の重なりが見えるのだ

暗いギザギザが消えないのだ。

人は己を 疲れたといひ 瘠せたといひ

それが己をイライラとさせ

己れの顏は汚れてしまふのだ。

闇のなかでおろおろとしてゐる顏

ギザギザの葉つぱに嚙みつかれ

どうすることもならない顏、

それでも己はしつこく眼をつむり

己の顏を瞶めてしまふのだ。

 

 

[やぶちゃん注:「己」(「己れ」も含む)は「おれ」と読んでいよう。

「瞶めて」「みつめて」。]

立原道造草稿詩篇 晩夏

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  晩夏

 

つめたい風が袖口をめぐつてゐた。僞はるために詩を書いた。秋とは何だつたらう。秋が來て、何をするのだつたらう。霧のふかい日がつづいた。明日ばかり算へてゐた。ギリシヤ神話をよんでゐた。門口で郵便配達に會釋をした。稀に旅人のやうに、道を瞶めてゐた。夢を見た。燈のまはりを蛾が羽ばたいてゐた。

 

[やぶちゃん注:妙に、漢字の読みが気になってしまった。「明日」は「あす」か? 「あした」か?⋯⋯「瞶めて」は「みつめて」で良かろう⋯⋯「燈」は「ひ」だろうな、「ともしび」では音数律に停滞が起きるからな⋯⋯――「明日」を国立国会図書館デジタルコレクションで底本の全集を横断して検索したが、どこにも道造はルビを振っていなかった。結論としては、「今日」は「けふ(きょう)」であるから、想定されるのは対応する「あす」だろうが、「霧のふかい日がつづいた。明日ばかり算へてゐた。」というフレーズを音声にしてみると、実は「あすばかりかぞえていた」という音律は――如何にも――微妙に――よろしくないことが判る。「あしたばかりかぞえていた」で初めてリズムが合うのである。私は詩語音声として「あした」を採るものである。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「臼祖母巖」

[やぶちゃん注:底本はここから。段落を成形し、句読点を附加した。標題は、珍しく「臼祖母」の部分のみに『うすばゝ』(この場合は「うすばば」と読まないとおかしい)のルビがある。「巖」は、本文内容を考えるに、「いはほ」ではなく、「いは」と読むと推定した。]

 

 「臼祖母巖(うすばゝ《いは》)」 志駄郡《しだのこほり》瀨戶新屋村[やぶちゃん注:旧志郡内で、現在の藤枝市瀬戸新屋(グーグル・マップ・データ)であるが、実際には、現在の藤枝市南駿河台3丁目13-4の南向いのここ(グーグル・マップ・データ航空写真拡大)で、ストーリートビューのここ。後注も参照のこと。]にあり。傳云《つたへいふ》、

「當村鏡池《かがみいけ》は小池也。傍《かたはら》に巨巖《きよがん》あり、『臼祖母岩《うすばばいは》』と號《なづ》く。其形《そのかた》ち、人の口を開くに似たり。もし、此石に足をふるゝ者あれば、必《かならず》、瘧疾《ぎやくしつ/おこり》を患《わづら》ふ、云云《うんぬん》。」。

 毒石《どくせき》にや。

 

[やぶちゃん注:この石、現存する。場所であるが、個人サイトと思しい「志太の石碑・石仏めぐり」の「祠」の「うすんばあさん(姥神様) 子供の咳病平癒に霊験あらたかとされた巨岩と黒松」が、詳しい(国立国会図書館デジタルコレクションのリンクも完備している。但し、二〇二〇年二月で更新がないので、保存された方が無難である)。そこに、

   《引用開始》

 姥神様の祠の後ろに大きなくぼみがある岩が鎮座しており、そのかたわらに石祠と杉と黒松が立っています。この岩が姥神様こと「うすんばあさん」の御神体で、黒松は2代目の御神木です。うすんばあさんとは、「臼のばあさん」が訛ったもので、岩のくぼんだ形が臼に似ているためそう呼ばれていました。江戸時代に編まれた『駿河記』などには「臼祖母巌」として取り上げられています。

 元は現在調整池となっている烏帽子山北側の山沿いにありましたが、昭和50年(1975年)頃に始まった駿河台の宅地造成のため現在地に移転しました。旧地にあった頃には、先代の御神木黒松が岩をまたいで生えており、これらを一体のものとして祀っていたそうです。また、この前に「姥の鏡田」という清水が湧く水田がありました。

 旧地にあった先代の御神木黒松は、樹齢350年以上・樹高21mほどという立派なものでしたが、戦後間もなく火災にあい被害を受けてしまったそうです。現在地に移転する際に先代御神木の一部をとって移したものが、現在の御神木です。

 うすんばあさんは子供の咳に霊験があるとされ、足蹴にする者があれば必ず瘧疾(熱病)を患うともいわれていました。かつては多くの参詣者があり、近隣だけでなく遠州からわざわざ訪れる人もいたそうです。満願のお礼参りには竹筒に入れた酒を供えました。例祭日は43日とのことです。

 うすんばあさんが咳にご利益があるとされた由来は不明ですが、『駿河記』には「其形人の口を開きたるに似たり」とあり、案外そんなところから連想されてご利益が生まれたのかもしれないと想像しました。

 説明看板によると、旧地は調整池のほとりにそのまま残っているということです。しかし、調整池へ下りる道が封鎖されているため、おそらく立入禁止と思われます。なお、昭和59年(1984年)発行のゼンリン住宅地図には、この調整池に「姥ヶ池」というキャプションが付いていました。

 説明看板の設置者が瀬戸新屋町内会なのは、うすんばあさんの旧地が元は瀬戸新屋地内だったためと思われます。現在も南駿河台の南側に瀬戸新屋の飛地がありますが、昭和の初め頃には現・緑の丘付近と烏帽子山の東麓から富洞院あたりまでが瀬戸新屋に含まれていました。

   《引用終了》

さても、同ページの下方のゼンリン地図等が機能しないので、グーグル・マップ・データで調べたところ、サイト主が述べておられる『うすんばあさんの旧地』の『調整池のほとり』というのは、現在の航空写真では、ここの、地番「14」が打たれてある箇所で、私がストーリートビューのここの南東直近であることが判った。その後者の画像を見ると、現在の「うすんばあさん」の社には、角のフェンスが外されてあり、参拝することが出来るようになっていることが判るのである。

 なお、現在の「うすんばあさん」という呼び名は、推定だが、江戸後期から近代の庶民の呼称と思われる。その辺りを伺えるのが、リンクが機能する国立国会図書館デジタルコレクションの靜岡縣志太郡役所編になる「靜岡縣志太郡誌」(大正五(一九一六)年刊)の、ここの『【姥神御神木】(靑島村)』の項である。当該部を起こす(字空け・字配等は再現していない)。

   *

【姥神御神木】(靑島村)

所在地     瀨戶字壠川。

地上五尺の周圍 一丈五寸。

大約の樹高   十二間。

大約の樹齡   三百五十年。

傳說記錄の大要

往古より姥神御神木と稱し、巨巖を踏跨て[やぶちゃん注:「ふみまたぎて」。]樹に別に御神体[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]なく、只この巨巖と大松とを以て御神体とするが如し。巖は正面中央窪くして。其の形臼に似たるを以て、「臼ンバーサン」と云ふ。駿國雜志には、臼祖母巖とあるは此巖の如し。前に水田あり、內に形圓き[やぶちゃん注:「まろき」。]荒田あり、芦生立て[やぶちゃん注:「おひたちて」。]、古來之を御鏡田[やぶちゃん注:「おんかがみだ」。]と稱す。此の姥神は、小兒の咳疾(俗にシーラシヤアキと云ふ)に靈驗ありとて、近鄕は勿論、遠く遠州地方より參詣者多し。中古[やぶちゃん注:これは、日本文学史のそれではなく、漠然に「その時代からある程度隔たった昔・なかむかし」の意。]迄は每年三月三日祭典を行ひしも、今は祭典を行はず。立願果しに竹の筒に酒を入れて供ふること昔と同じ。

   *

「瘧疾」厳密には「わらはやみ」=マラリアを指すが、この場合は、流行性感冒等を広く指しているように思われる。]

2026/03/02

立原道造草稿詩篇 食料品店で

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。その注記には、『原記には』『消去された第二聯がある(現第二聯は第三聯である)。』として、消去された文章が記されているので、まず、それを【初稿】として復元し、最後に【決定稿】を示すこととした。]

 

【初稿】

 

  食料品店で

 

壜の肩のところに扇風機が映つて、しづかにそれはまはつてゐた。僕はぼんやりと見てゐた、壜のなかにも風が吹いて、葡萄酒の波が立つのだと。

 

子供たちは日本の饅頭の山のまはりを、遊んでゐた。ぬすみぎいて、僕は、その子たちがお饅頭の插話を澤山知つてゐるのに感心した。幾つもの知らない花束を過ぎて行つた葬列。空腹の時刻。⋯⋯

 

僕は鑵詰の名を讀みながら、ポケツトのなかに銅貨を算へた。それから、美しい鑵詰の城を眺めてゐた。このなかには鰯の死骸があつてそれが銀色に光る美しい工たちなのだらうと。

 

 

[やぶちゃん注:「ぬすみぎいて」「竊(盗)み聴いて」。

「插話」「さうわ」。饅頭を素材にした昔話・民話のようなものを指していよう。

「幾つもの知らない花束を過ぎて行つた葬列」この一文は修飾関係が上手くない。]

 

 

【決定稿】

 

  食料品店で

 

壜の肩のところに扇風機が映つて、しづかにそれはまはつてゐた。僕はぼんやりと見てゐた、壜のなかにも風が吹いて、葡萄酒の波が立つのだと。

 

僕は鑵詰の名を讀みながら、ポケツトのなかに銅貨を算へた。それから、美しい鑵詰の城を眺めてゐた。このなかには鰯の死骸があつてそれが銀色に光る美しい工たちなのだらうと。

 

[やぶちゃん注:二篇を比べてみると、結果的に原第二聯を総て削除したのは、取り敢えずは、前の注で述べたように、使用語・表現にやや難があるから、正解では、あろう。しかし、「子供たち」を登場させなかった決定稿は、何か、やや暗いモノクロームの映像に道造が立って眺めるシークエンスに終始してしまっていて、残念な気もしてくる。なお、「扇風機」から、このロケーションは軽井沢と断じてよかろう。

立原道造草稿詩篇 電話の口笛

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。その注記には、最終行に消去された文章が記されているので、まず、それを【初稿】として復元し、最後に【決定稿】を示すこととした。]

 

【初稿】

 

  電話の口笛

 

 僕はむちやくちやに自動電話のなかにはいり、受話器を外し口笛を吹いてゐた。交換手が何度も然るのが聞えた。僕は平氣であつた。

 ある日、僕が用事があつて電話をかけた。なかなか出て來ない相手を待つてゐると、口笛がしよつちゆう聞えてゐた。僕は、僕が向うの電話口でまた出たらめにうたつてゐのだと思ひ出した。すると電話口で人を待つてゐる方のこちら側の僕がだんだん消えはじめた。やがて手に持つてゐたコーモリ傘と風爐敷包だけがそこに殘つた。

 

 

【決定稿】

 

  電話の口笛

 

 僕はむちやくちやに自動電話のなかにはいり、受話器を外し口笛を吹いてゐた。交換手が何度も然るのが聞えた。僕は平氣であつた。

 ある日、僕が用事があつて電話をかけた。なかなか出て來ない相手を待つてゐると、口笛がしよつちゆう聞えてゐた。僕は、僕が向うの電話口でまた出たらめにうたつてゐのだと思ひ出した。

 

立原道造草稿詩篇 初秋

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。表題は「しよしゆう」と読んでおく。底本全集で横断して調べたが、読みを附したものは見当たらなかった。]

 

  初秋

 

夜、窓をひらくと、あたらしい油繪具のにほひがぷんとした。近所に繪描きのアトリエなどある筈もないので不思議に思ふと、明るい月が隣の家の屋根に繪を描いてゐるのだ。仕事を邪魔してはわるからうと、窓をとぢてゐたら、やがて一なすりばかり、こつちの窓のガラスにも、水銀色を塗つて行つてくれた。それが、夜が更けて來ると、どうもレモンのやうなにほひがする。僕は頰に掌をあて、しづかな顏で嗅いでゐる。

 

立原道造草稿詩篇 (夜(や)ぶん、くらいあかりが⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (夜(や)ぶん、くらいあかりが⋯⋯)

 

夜(や)ぶん、くらいあかりがともると、僕は、ひとのところにばかり行つた。それは古びた宿の、昔は殿樣の部屋だつた。その部屋にもくらいあかりがともり、やたらに蟲が障子にぶつかつた。だのに僕はこゝでならちつとも哀しくないのだと信じた。僕はビスケツトばかり食べ、ひとが何か言つてくれるのを待つた。ひとは何も言はなかつた。

眠る時間が來るとお時儀をして歸つた。

 

床をのべて、そのなかに眼をとぢた。あかりはもうつけないで、季節はづれの蛙の聲に、一刻(とき)の汽車の唄に眼をとぢてゐた。

 

 

[やぶちゃん注:注記に、「古びた宿」について、『信濃追分の旧・脇本陣「油屋」のこと。』とある。ここである(グーグル・マップ・データ)。現在は、イベント会場「文化磁場油や」となっている。同サイトのこちらを見られたい。それに拠れば、『江戸時代は中山道・追分宿の脇本陣であり、昭和になってからは文士の宿(「油屋旅館」)として、多くの文士・知識人が訪れ、執筆した旅館でした。』とある。

「お時儀」注記に『ママ〈お時儀〉。』とある。確かに、小学館「日本国語大辞典」に『じ‐ぎ』に漢字表記を『辞宜・辞儀』とし、『① 挨拶(あいさつ)すること。頭を下げて礼をすること。また、その礼。おじぎ。』とし、初出例として『「Iiguiuo(ジギヲ)トトノエル」』とし「日葡辞書」(慶長八(一六〇三)年~同九年)を引く。続いて、『② (「時宜」「時儀」から転じた用法)遠慮すること。辞退すること。また、その遠慮。おじぎ。時宜。』とし、初出例として、『作右は母にじぎもなく、さいつさされつ式作法。』とし、浄瑠璃「心中万年草」元禄一四(一七一〇)年を挙げてある。しかし、道造が好んだ芥川龍之介の小説に「お時儀」があり、私には全く違和感はない。]

2026/03/01

立原道造草稿詩篇 旅情歌 I

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  旅情歌 I

 

マツチの箱にはコーモリ傘の繪が貼つてありました。

夜汽車のなかで――。

僕は、前に坐つた人の煙草を吸ふのをぼんやり眺めて居りました。

「これはもう、旅は終りに近く

窓に町があかりをつけて

暗い火かげをあはたゞしくちらつき⋯⋯」

僕は手帳に書きました、用事を思ひ出した人のやうに。

櫛いれてゐる少女が、ビスケツトを食べながら、窓ばかり眺めて居りました。

「あ、知らない人つきり、これはもう⋯⋯」

 

[やぶちゃん注:因みに、標題には「I」とあるが、II以降は存在しない。

注記には、「旅は終りに近く」に『昭和9年9月1日付・杉浦明平宛書簡中の「旅の終り」と呼応する。(8月22日、福江の杉浦家を訪問)。』とある。「福江」というのは、現在の田原市西部福江町(ふくえちょう)で、渥美半島の先に近い三河湾に面している(グーグル・マップ・データ。なお、独身時代の私は出不精で、殆んど一人旅をしたことが殆んどなかったが、二十六歳の時、伊良湖に遊んだことがある)。以上の書簡は、底本の全集の「第六卷 書翰」のここ(右ページ上段の後ろから七行目から下段にかけて)で、当該部を引用すると、頭には一字下げで「*」が附されて、以下、一字下げで以下が始まる(全体が一字下げ)。

    ※

旅の終り 樂しかつたね――ああほのとに樂しかつたよ。しづかな海の面、言葉は散りながら、とほくの島の燈臺になつたんぢや、ないかしら。――あんなに、ささやかな喜びが、まあ、こんなに大きく思はれる。僕は汽車にのりおくれ、のりおくれたばつかりに田舍町を散步した。だのに、其處には昨日の海はにほはずに、僕は窓から慌しく外を慌しく消える村々を眺める。それから、日暮れの一日おくれた海の面を。

   ※

また、同全集「第六卷 雜纂」の「年譜」を見るに、昭和九(一九三四)年満二十歳の『八月二十一日、追分』(軽井沢)『を発ち、上松(あげまつ)(長野県西筑摩郡植松町)におもむく。上松には生田勉が滞在中のはずであったが逢えず、空しくそこに一泊し、その足で愛知県渥美半島の福江(渥美郡渥美町福江)に杉浦民平を訪れて、二十三日帰京。

   ※

とあった。]

立原道造草稿詩篇 風

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  風

 

――僕は⋯⋯

果物屋なんかと

花屋なんかの

ある町を通つたら

なんでいつもはこんな不幸なんだか

あかりがつく時分は

もう次の町に行つてるんだ

赤ん坊が泣いてるんだ⋯⋯

 

早すぎる足 見えない足 風がガラスにきかせて行つた 窓がうたつた

 

町では誰も風や星の言葉に氣がつかないが

一人がいつでもかなしい氣持で聞いてやつてゐた

 

[やぶちゃん注:このイメージを軽井沢に比定しては、いけない。これらの詩群の創作時は、彼の軽井沢経験は、この年の夏であるからである。]

立原道造草稿詩篇 白痴

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、論拠はカットするが、「白痴」から「食料品店で」までの八篇が書かれたのは、『本用紙の使用上限を8月25日と想定し得、使用全期間を9月中と限定できると思われる』とある。]

 

  白痴

 

何が書かれてあつたのか

カーテンのなかのこと お前の寫眞

公園で 音樂をきいた 驢馬がいた

――ナスターシヤ みんなおこりぽかつたね

 

かなしみ 光がキラキラした あれは くらい海だつた――かなしみなどともういふな

齒のなかに 樺色の流れがある それつきり

またあとで 讀みなほさう

 

[やぶちゃん注:注記に、標題に就いて、『フョオドル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキイ(一八二一―一八八一)の長編小説『白痴』(一八七四)。ナスターシャ』(ナスターシヤ・フィリッポヴナ・バラシコーワ)『は』、『その女主人公。立原は昭和9年2月15日付國友則房』(底本では、「房」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので通常字で示した。なお、この頃は、満二十歳で、翌三月に一高を卒業している。)『宛書簡で読了のことを伝えている。』とあった。底本の同全集の「第六卷 書翰」のここで視認出来る(左の上段の中頃の部分)。但し、ここを読むと、道造はドストエフスキイの作品を最初に読んだのが、この「白痴」だったことが判る。また、「第六卷 雜纂」の年譜の当該部を見ると(年齢は数えで示されてある)、『このころ、チェホフの小説「決鬪」を読み』、『感動する』とあるが、この書簡の冒頭にも「決闘」を読んで『傑作だお思ふ』と述べている。私は、チェーホフよりも、遙かにドストエフスキイの方が好きだ。というより、チェーホフで感動した作品は、殆ど、ない。道造は、所謂、偏執的文体が嫌いだったと推定される。なお、同巻の注記に(ここの右ページ上段の後ろから三行目から下段にかけて)、道造が読んだ、「決鬪」は『小山内薫訳・昭和7年8月・春陽堂世界名作文庫刊。』と断定しており、「白痴」については、『大正以後の翻訳は米川正夫訳・昭和8年・全4冊・新潮文庫。』と記してある。私の所持する「ドストエフスキイ全集」も米川氏の全訳である。]

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