阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「臼祖母巖」
[やぶちゃん注:底本はここから。段落を成形し、句読点を附加した。標題は、珍しく「臼祖母」の部分のみに『うすばゝ』(この場合は「うすばば」と読まないとおかしい)のルビがある。「巖」は、本文内容を考えるに、「いはほ」ではなく、「いは」と読むと推定した。]
「臼祖母巖(うすばゝ《いは》)」 志駄郡《しだのこほり》瀨戶新屋村[やぶちゃん注:旧志太郡内で、現在の藤枝市瀬戸新屋(グーグル・マップ・データ)であるが、実際には、現在の藤枝市南駿河台3丁目13-4の南向いのここ(グーグル・マップ・データ航空写真拡大)で、ストーリートビューのここ。後注も参照のこと。]にあり。傳云《つたへいふ》、
「當村鏡池《かがみいけ》は小池也。傍《かたはら》に巨巖《きよがん》あり、『臼祖母岩《うすばばいは》』と號《なづ》く。其形《そのかた》ち、人の口を開くに似たり。もし、此石に足をふるゝ者あれば、必《かならず》、瘧疾《ぎやくしつ/おこり》を患《わづら》ふ、云云《うんぬん》。」。
毒石《どくせき》にや。
[やぶちゃん注:この石、現存する。場所であるが、個人サイトと思しい「志太の石碑・石仏めぐり」の「祠」の「うすんばあさん(姥神様) 子供の咳病平癒に霊験あらたかとされた巨岩と黒松」が、詳しい(国立国会図書館デジタルコレクションのリンクも完備している。但し、二〇二〇年二月で更新がないので、保存された方が無難である)。そこに、
《引用開始》
姥神様の祠の後ろに大きなくぼみがある岩が鎮座しており、そのかたわらに石祠と杉と黒松が立っています。この岩が姥神様こと「うすんばあさん」の御神体で、黒松は2代目の御神木です。うすんばあさんとは、「臼のばあさん」が訛ったもので、岩のくぼんだ形が臼に似ているためそう呼ばれていました。江戸時代に編まれた『駿河記』などには「臼祖母巌」として取り上げられています。
元は現在調整池となっている烏帽子山北側の山沿いにありましたが、昭和50年(1975年)頃に始まった駿河台の宅地造成のため現在地に移転しました。旧地にあった頃には、先代の御神木黒松が岩をまたいで生えており、これらを一体のものとして祀っていたそうです。また、この前に「姥の鏡田」という清水が湧く水田がありました。
旧地にあった先代の御神木黒松は、樹齢350年以上・樹高21mほどという立派なものでしたが、戦後間もなく火災にあい被害を受けてしまったそうです。現在地に移転する際に先代御神木の一部をとって移したものが、現在の御神木です。
うすんばあさんは子供の咳に霊験があるとされ、足蹴にする者があれば必ず瘧疾(熱病)を患うともいわれていました。かつては多くの参詣者があり、近隣だけでなく遠州からわざわざ訪れる人もいたそうです。満願のお礼参りには竹筒に入れた酒を供えました。例祭日は4月3日とのことです。
うすんばあさんが咳にご利益があるとされた由来は不明ですが、『駿河記』には「其形人の口を開きたるに似たり」とあり、案外そんなところから連想されてご利益が生まれたのかもしれないと想像しました。
説明看板によると、旧地は調整池のほとりにそのまま残っているということです。しかし、調整池へ下りる道が封鎖されているため、おそらく立入禁止と思われます。なお、昭和59年(1984年)発行のゼンリン住宅地図には、この調整池に「姥ヶ池」というキャプションが付いていました。
説明看板の設置者が瀬戸新屋町内会なのは、うすんばあさんの旧地が元は瀬戸新屋地内だったためと思われます。現在も南駿河台の南側に瀬戸新屋の飛地がありますが、昭和の初め頃には現・緑の丘付近と烏帽子山の東麓から富洞院あたりまでが瀬戸新屋に含まれていました。
《引用終了》
さても、同ページの下方のゼンリン地図等が機能しないので、グーグル・マップ・データで調べたところ、サイト主が述べておられる『うすんばあさんの旧地』の『調整池のほとり』というのは、現在の航空写真では、ここの、地番「14」が打たれてある箇所で、私がストーリートビューのここの南東直近であることが判った。その後者の画像を見ると、現在の「うすんばあさん」の社には、角のフェンスが外されてあり、参拝することが出来るようになっていることが判るのである。
なお、現在の「うすんばあさん」という呼び名は、推定だが、江戸後期から近代の庶民の呼称と思われる。その辺りを伺えるのが、リンクが機能する国立国会図書館デジタルコレクションの靜岡縣志太郡役所編になる「靜岡縣志太郡誌」(大正五(一九一六)年刊)の、ここの『【姥神御神木】(靑島村)』の項である。当該部を起こす(字空け・字配等は再現していない)。
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【姥神御神木】(靑島村)
所在地 瀨戶字壠川。
地上五尺の周圍 一丈五寸。
大約の樹高 十二間。
大約の樹齡 三百五十年。
傳說記錄の大要
往古より姥神御神木と稱し、巨巖を踏跨て[やぶちゃん注:「ふみまたぎて」。]樹に別に御神体[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]なく、只この巨巖と大松とを以て御神体とするが如し。巖は正面中央窪くして。其の形臼に似たるを以て、「臼ンバーサン」と云ふ。駿國雜志には、臼祖母巖とあるは此巖の如し。前に水田あり、內に形圓き[やぶちゃん注:「まろき」。]荒田あり、芦生立て[やぶちゃん注:「おひたちて」。]、古來之を御鏡田[やぶちゃん注:「おんかがみだ」。]と稱す。此の姥神は、小兒の咳疾(俗にシーラシヤアキと云ふ)に靈驗ありとて、近鄕は勿論、遠く遠州地方より參詣者多し。中古[やぶちゃん注:これは、日本文学史のそれではなく、漠然に「その時代からある程度隔たった昔・なかむかし」の意。]迄は每年三月三日祭典を行ひしも、今は祭典を行はず。立願果しに竹の筒に酒を入れて供ふること昔と同じ。
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「瘧疾」厳密には「わらはやみ」=マラリアを指すが、この場合は、流行性感冒等を広く指しているように思われる。]

