立原道造草稿詩篇 一日 / 底本「前期草稿詩篇」電子化注~了
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、『制作時は昭和10年9月執筆の『スケツチ・ブツクI』中に「Ⅱ」の初稿があることに拠り、同年9月と想定する。』とあった。されば、その「スケツチ・ブツク1」(「第四卷 評論・ノート・翻譯」のここであるが、冒頭を見ると、ナンバーは「I」ではなく、「1」である)のものを【初稿】と見做し、冒頭に出した。決定稿は、各パート内で、有意に行空け(二行空けもある)が行われており、それを、無論、再現してある。
なお、本篇を以って、底本の「前期草稿詩篇」の電子化を終了した。]
【初稿】
(屋根の尖りの⋯⋯)
屋根の尖りの甍に腰をおろし
空はあさみどりすみわたつてゐたが
村を眺めくらしたことがあつた
せきれいは私と並んで尾をたたき
家々は鳴りをひそめて炊煙(けむり)をあげた
あかねさす日の終り子供らは小學唱歌をうたひ
雲は滲んで燈がついた
[やぶちゃん注:「燈」は決定草稿のルビに従い、「あかり」と読んでおく。]
【決定草稿】
一日
I
河口に幼い春の日が暮れて
白い船が水脈をひき 何艘も歸つて來た
旗は吹く風にひるがへつた
水が騷いでいりまじり
岸から波は離れて行つた(岸邊の傳馬に焚火の焰が搖れてゐた)
Ⅱ
屋根の尖つた甍に腰おろし
空はすみわたつてゐたが
村を眺めくらしたことがあつた
せきれいは私と並び 尾をたたき
家々は鳴りをひそめて炊煙(けむり)をあげた
茜さす日のをはり 子供らは小學唱歌をうたひ
雲は滲むで 燈(あかり)がともつた
[やぶちゃん注:「水脈」は「みを(みお)」と読みたい。
「傳馬」「てんま」。「傳馬船」(てんません)で、本船に搭載して、岸との連絡や荷物の積み降ろしに使用する木造の小船の名。近世では、二百石以上の荷船は、総て搭載していたが、大きさは、本船の積石数の二十分の一から、四十分の一程度であった。「橋船」とも呼んだ(以上は小学館「日本国語大辞典」の記載を主文とした)。
*
注記では、最後に担当者であった堀內達夫氏の解説があるが、その最後で、『これだけの数の草稿が、清書同様に書かれていることは、『昭和八年ノート』の例をとっても不自然なことで、恐らく下書きのノートや草稿が書かれていたと想像するが、現段階では未詳である。』とある。これは、道造が結核で亡くなったことと関係するものと思われる。結核患者の持ち物は、一般に、死後、感染予防のために焼却されたからである。因みに言っておくが、私は、一歳半で結核性左肩関節カリエスに罹病し(母は近所に開放性療養していた若い女性が、私を可愛がって呉れたが、その人から感染したと思う、と言っていた)、四歳半まで、ギブスを装着していた。当時、流行りだった赤塚不二夫の「おそ松くん」のイヤミの「シェー!」が流行っていた。幼稚園生だった私は、一日中、「シェー!」をしている哀しい少年だった⋯⋯⋯⋯閑話休題。引用に戻る。道造自身がノートの昭和一〇(一九三五)年四月十八日『の項に「每日のやうに、書き損し」(「じ」の誤り。ここの右丁の「4・18」を見よ)『の詩稿、手紙などを燒いた」としるしている。後期』(別巻の「後期草稿詩篇」相当時期を指す)『の場合にも昭和』一二(一九三七)年十一月十九日、『信濃追分滞在中に宿舎油屋の火災に遭い身辺のもの凡てを焼失している。』と終わっている。⋯⋯私は、さればこそ、道造の草稿を電子化し、非力ながら、ユビキタスによって、立原道造の詩想を未来に繋げたく思うのである。]
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