立原道造草稿詩篇 (だのに だのに と僕は⋯⋯)
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]
(だのに だのに と僕は⋯⋯)
だのに だのに と僕は繰返す
あれから一年 短い日であつた
每日のやうに本の頁を切つてゐた
それにはやさしい言葉が書いてあつたから
窓の外にばかり咲く花 お前たち
部屋では何と枯れやすいのだらう
壷に凋れたとき 僕は人に片づけて貰はなければならなかつた
僕にはそれが出來なかつたから
もういらない うすら明るいかげ
もつと眩しい窓に行く 僕の眼は
お前の悲しい時が もう見えない
あれから一年 また會ふことはないだらう
花色のかげのなかに
ひとつともつて生きてゐよう
やさしい僕の眼 臆病な僕の眼 もう歌もなく
[やぶちゃん注:第一聯に就いては、若い普通の読者は正しく読める。寧ろ、したり顔した半可通の合理主義的読者は間違いなく誤読する。「每日のやうに本の頁を切つてゐた」というのは、本の小口の一方、或いは、三方を、化粧裁ちしないで製本されたもの言う「アンカット(uncut edge)本」を、ペーパー・ナイフで切って読んでいる――のではない――からである(アンカット本に関しての詳細は、当該ウィキが判り易い)。無論、誠実ゆえに、うっかりと、そう読み過した読者もいるだろう。しかし、それでは、この詩は、「詩」にならない、と、私は、断言する。――「每日のやうに」アンカット「本の頁を切つてゐた」。だって、「それにはやさしい言葉が書いてあつたから」だ。――という光景は、ただの愛書家(厳密には、真正の西洋の「愛書家」ではない。何故か? 西洋では、偏執的愛書家は、手に入れることが目的であり、その本を、一切、読まないからである)の、つまらぬ平板にして糞のような一コマでしかなく、「詩」にならないからである。ここで、詩人立原道造は、蔵書の中から、「やさしい言葉が書いてあつた」箇所=詩想に霊感を与えて呉れるフレーズを、鋏で切り取って集め、オリジナルなコレクションにする作業をしているのである。]

