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2026/04/08

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「不動尊告夢」

[やぶちゃん注:底本はここから。やや長めなので、段落を成形し、句読点を附加・変更した。欠字「□□」は底本では長方形。本文に出る「鬼巖寺」は前項で既出既注。]

 

 「不動尊告夢」 志駄郡鬼岩寺村《きがんじむら》、楞嚴山《りやうがんさん》鬼岩寺にあり。傳云《つたへいふ》、

『當寺講堂本尊不動【興敎大師《かうぎやうだいし》の作。】は、永祿年中、武田信玄、當國亂入の時、兵火の爲に、諸堂、悉《ことごと》く、囘祿す。時に行方《ゆきがた》を失《しつ》す。寺僧、以て、「燒失す。」とす。

 然《しか》るに、當寺二十三世堅照上人、或夜、靈夢を見る。

 また、旦那村人《だんなむらびと》大楠六兵衞《おほぐすろくべゑ》と云《いふ》者、同夢を見たり。

 依《より》て、大楠、當寺に來り、上人に、「かく。」と語る。上人、夢の同じきを驚歎し、共に談合す。其靈夢の告《つげ》に曰《いはく》、

「今、甲州□□山大泉寺《だいせんじ》にあり。汝等、來《きたり》て、我を迎へよ。」

と。

 玆《ここ》に於て、二人、約して、甲州に赴く。

 途中、富士川の端《はた》に至る時、旅僧一人、甲州より來り、相共《あひとも》に茶店《ちやみせ》に憩《いこ》ふ。

 彼《かの》僧云《いはく》、

「我、負ふ所の不動尊は、靈夢の告に依《より》て、駿州藤枝の鬼岩寺に赴く也。云云《うんぬん》。」

 玆に於て、彌《いよいよ》、奇異の思《おもひ》をなし、堅照・大楠等《ら》、前條を以て、委《くはし》く告ぐ。

 彼僧、手をうつて、大《おほき》に驚き、明王《みやうをう》の靈驗を感歎す。

 因《より》て、尊像を堅照に渡して、甲州に歸る。

 二人は、富士川より歸り、佛體を講堂に安置せり。

 此負來《おひきた》る僧は大泉寺の僧也。云云。」。

 里人云《いふ》、

「永祿年中、囘祿のとき、武田信玄、此尊像と舍利塔を奪《うばひ》て、佛は、大泉寺に置き、舍利は卒後、勝賴、髙野山成慶院《せいけいゐん》に寄付す。延寶七年、同院より其內《そのうち》、三粒《みつぶ》を舍利塔に入《いれ》て、當寺に贈る。是、其塔臺《たうだい》の底に、「駿州鬼岩寺」の銘ある故《ゆゑ》也。星霜二百有餘年を經て、其《その》本《ほん》に歸る、一奇と云《いふ》べし。」。

 

[やぶちゃん注:「興敎大師」平安後期の真言宗新義派の開祖覺鎫上人(嘉保二(一〇九五)年~康治二(一一四三)年)の勅諡号。肥前の人。保安二(一一二一)年、仁和寺の寛助から密教灌頂を受ける。高野山に伝法院を建立して座主となり、金剛峯寺座主を兼ねたが、一門の反対に遭い、根来(ねごろ)の円明寺に移った。覚鑁が起こした密教事相の流派を「伝法院流」と称する。「密厳尊者」と呼ばれた。

「永祿年中、武田信玄、當國亂入の時」これは、所謂、信玄の駿河侵攻で、永禄一一(一五六八)年から元亀二(一五七一)年)まで発生した、甲斐国の戦国大名武田信玄による駿河国今川領や後北条氏領への軍事侵攻を指す。

「堅照上人」この話は、前項でリンクした「【良縁結び・恋愛成就お寺巡り】恋に仕事、人生も。所願なら静岡県藤枝の鬼岩寺をお参り。」の『5:「静照上人の大蛇退治」と武田信玄の火攻めに負けない「不動明王像と不動堂」の因縁』に、前史も含めて、ちょっと長いが、この話が詳細に書かれてあるので、そのまま引用する。

   《引用開始》

5:「静照上人の大蛇退治」と武田信玄の火攻めに負けない「不動明王像と不動堂」の因縁

-

5-1:時は過ぎて、平安末期の長安年間(1163~1164)。鬼岩寺の南方2.5キロ程の村の大池に大蛇(竜)が住みついていた。この大蛇は池の近くを通る人々を次々に飲み込んでしまうので、村人たちは困りはてていた。鬼岩寺の住職であった静照(菱和元年寂281)は、池のまわりの丘に7ヶ所の護摩壇を築き、天台宗三井寺開山智証大師円珍(814~892の刻んだ不動明王を祀り、大蛇退散の不動護摩の修法を行った。さしもの大蛇もその法力によって教化され封じ込まれ、広大な池の水も干上って陸地となり、後には田畑として利用されるようになった。

5-2:霊験あらたかなこの不動明王は、承安3年(1173)鬼岩寺境内に不動堂を築き安置した。人呼んで【池早不動】と称し、今でも多くの人々に篤く信仰されている。鬼岩寺の正面の不動堂に安置され、市の文化財に指定された本尊がこの【不動明王】である

5-3:永禄13年(1570)甲斐の武田信玄は駿河に攻め込み、駿府城を手に入れ、1月26日には花沢城を攻め滅ぼし、月末には田中城(藤枝の田中城跡)を攻略。この時武田軍は飽波神社、清水寺、東光寺、遍照光寺等の名だたる神社仏閣を焼き払った。(こういうことやちゃうから歴史上、結局大敗の武田軍、子々孫々まで罰当たります)その中に鬼岩寺もあり、本尊の聖観世音菩薩を除いて貴重な寺宝や記録が残らず焼失。

 

その際、不動堂に祀られていた不動明王は行方知れずになっていた。八方捜したが見つからず、焼失してしまったのではないかと半ば諦めていたが・・・、六十年程たった寛永年間(1624~1643)23世住職堅照上人がある夜夢を見た。その夢の中に例の不動明王があらわれ、「吾、甲斐国甲府大泉禅寺にあり。汝等来たり迎えよ。」と告げたのである。

 

翌朝、堅照が夢のことを思い出していると、鬼岩寺の檀那大井神社神主の大桶六兵衛があわてた様子で寺をたずねて来た。六兵衛は昨夜見た夢のことを堅照に告げた。不思議なことに全く同じ夢であった。そこで住職と六兵衛の2人は旅仕度を整え甲斐の国、大泉寺に向けて出発した。旅を続け、富士川のほとりの茶店に寄ると、一人の旅の僧が休んでいる。

 

何の気なしに、この僧と話しはじめ、夢のお告げのことを語ると、旅の僧は大変驚いた。旅の僧が言うのには、実は私はその大泉寺の使いの僧であり、同じように不動明王の夢のお告げにより、駿河国鬼岩寺へお不動様をお返しにあがる途中であるという。鬼岩寺堅照も六兵衛も霊験あらたかなお不動様に感謝しながら、不動明王をこしに載せて帰山した。60年ぶりに不動堂の本尊が鬼岩寺に帰山。その因縁と不思議さに、改めて念の凄さを教えてくれる由緒。

 

鬼岩寺の復興は慶長7年(1602)徳川幕府から12石の朱印領を賜り、伽藍が再興されてからである。現在の不動堂はこの時建立されたものである。

   《引用終了》

「甲州□□山大泉寺」現在の山梨県甲府市古府中町(こふちゅうまち)のここ(グーグル・マップ・データ)にある曹洞宗万年山大泉寺。事績は当該ウィキを見られたい。]

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