立原道造草稿詩篇 (南國の空靑けれど⋯⋯) 絶筆3 / 立原道造草稿詩篇~了
[やぶちゃん注:本篇は、以前に、一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編)の「後期草稿詩篇」の最後に配されてあったものを、恣意的に漢字を正字化して電子化注したが、これが、事実上の道造の草稿絶筆に相当するものであることから、以前のものは削除し、改めて電子化することとした。杉浦氏の解説に、この「後期草稿詩篇」は昭和九(一九三四)年から没する前年昭和一三(一九三八)年の末までの詩篇を推定年代順に並べたとあり(但し、幾つかの詩篇は同氏の詩集ではカットされている)、堀内達夫氏の底本年譜によれば、道造は昭和一二(一九二七)年十一月二十四日に『南方の豊穣を夢見て長崎旅行に出発』、『途中、奈良、京都』、『舞鶴、松江、島根半島日ノ御碕、下関、若松と巡り』、『福岡、柳河』から『佐賀を経て、十二月四日、長崎』『に旅装を解くが』、二日後の『六日に結核喀血』を起こし、『十四日、帰京』している。本篇は、まさに短かった長崎での最後の旅の思い出に基づくものであろうと考えられる。同年十二月『二十四日、中野区江古田の東京市立症状所に入所、水戸部アサイが献身的に看護に当たった』が、翌昭和一四(一九三九)年『三月二十九日午前二時二十分、病態急変』、誰にも看取られることなく立原道造は永眠した。満二十四歳と八ヶ月であった(道造の生年は大正三(一九一四)年七月三十日)。
底本・凡例その他は、本パートの初回のこちらを見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、『草稿無題。鉛筆書き。』で、『以上三篇』(本篇と、前の「(灼ける熱情となつて⋯⋯)」と、「朝に」を指す)『のノート用紙裏に友人住所があり、旅信用と思われ、またその主題からも三篇とも長崎の絶筆詩と想定する。』とあった。]
(南國の空靑けれど⋯⋯)
南國の空靑けれど
淚あふれて やまず
道なかばにして 道を失ひしとき
ふるさと とほく あらはれぬ
辿り行きしは 雲よりも
はかなくて すべては夢にまぎれぬ
老いたる母の微笑のみ
わがすべての過失を償ひぬ
花なれと ねがひしや
鳥なれと ねがひしや
ひとりのみ なになすべきか
わが渇き 海飮み干しぬ
かなたには 帆前船 たそがれて
星ひとつ 空にかかる
[やぶちゃん注:古武士の時世のような擬古文様であるが、凄絶なニュアンスは、寧ろ、和らいで、今までの乙女の恋人を、一切、詠まず、「母の微笑のみ」を配したところに、道造の無限遠の優しさを強く感じさせる、一世一代の絶唱と言える。道造は――決して――絶望の中で孤独に亡くなったのでは――ない――既にして文字通り――白玉楼中の詩人として――時空を超えて――私たちに素敵な詩篇を永遠に詠唱して呉れているのである⋯⋯⋯⋯]

