河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注中卷(六)寒天の說(その7)
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]
寒天を海外に輸出するは、貞享年間[やぶちゃん注:一六八四年から一六八八年まで。徳川綱吉の治世。]、長崎に試賣(しばい)せしよりはじまり、逐年(ちくねん)[やぶちゃん注:「年々」「毎年毎年」。]、淸國人の購求(こうきう)する所となり、漸次(ぜんじ)、產出・輸出共に增加し、文政二年[やぶちゃん注:一八一九年。家斉の治世。]、諸株(しよかぶ)設立の時に至(いたつ)て、寒天株(かんてんかぶ)を六拾三株(かぶ)と定め、一釜(ひとかま)を『一株(ひとかぶ)』と稱し、一株に付(つき)、冥加金(みやうがきん)として金(きん)二分(ぶん)【今の五十錢なり。】)を收む。大坂大町三町人(おほざか《おほまちさんちやうにん》)の一《いつ》なる尼崎又右衞門《あまがさきまたゑもん》、之(これ)が取締(とりしまり)をなす。尤(もつとも)、輸出は『細寒天(ふさかんてん)』のみにて、『角寒天(かくかんてん)』は、内國用のみなりし。然(しか)るに、「內國の需用、增すを以て、支那輸出を減少するの憂(うれひ)なきに非ず。」とて、文政四年、內國用も尼崎(あまがさき)に取締を爲(な)さしめ、製造者(せいざうしや)原草買入高(げんさうかいいれだか[やぶちゃん注:ママ。])の八分五厘は支那向(しなむき)細寒天となし、一分五厘は、内國用角寒天となすことと、せり。然(しか)るに、文政十年より內國用、愈(いよいよ)、增加せしに因(よ)り、止むを得ず、角寒天製造二十株を增し、天保年間[やぶちゃん注:一八三一年から一八四五年まで。家斉・家慶の治世。]には、三十餘株を增すに至(いた)り。而(しか)して、年々、細寒天二十萬斤[やぶちゃん注:百二十トン。]を長崎奉行へ回送せり。此頃、大坂にて、大根屋小十郞(だいこんや《こじふらう》)は細寒天問屋(ふさかんてんとひや)を、中村治兵衞《なかむらぢへゑ》は角寒天問屋(かくかんてんとひや)を始め、各(おのおの)、盛んに營業せり。此時、淸國輸出細寒天の價《か》は三十斤[やぶちゃん注:十八キログラム。]入《いり》壹個に付(つき)、百二十五匁《もんめ》[やぶちゃん注:四百六十八・七五グラム。]とす。天保三年の頃に至(いたつ)ては、角寒天製造者も、一切、他(た)に消費せずして、總て、右二人へ賣渡(うりわた)すことと、なれり。其後(そのご)、弘化三年[やぶちゃん注:一八四六年。]に至(いたつ)て、丹波桑田郡(たんばくわだこほり)にて、二十釜を設立す。之(これ)を『紀州製(きしうせい)』と唱(とな)へ、製品は、直(すぐ)に、長崎に回送せり。然(しか)るに、元治元年[やぶちゃん注:一八六四年。]の頃に至(いたつ)ては、大坂にて、問屋數(とひやしき)を增して、八戶(《はち》こ)とし、製造家、攝(せつヽ)・丹(たんば)二州(にしう)にて、三十餘(よ)釜に定め【一釜に付、原草二千貫目と定む。】、其餘(そのよ)を休業(きうげう)せしむ。明治元年[やぶちゃん注:一八六八年。]に至り、諸株、廢(はい)せられたるのみならず、通商司(つうしやうし)より、資本を貸與(たいよ)せしかば、一時(いちじ)に增加し、九十餘釜となり、爾後(じご)、益(ますます)、增進して、同四年には四百五十餘釜に及びたりしが、亦(また)、六年より貨資(たいし)を廢せられたるにより、隨(したがつ)て、減少し、一時(いちじ)、衰微せしが、又、十三、四年頃より、大(おほい)に回復し、十六年には、攝州島上(せつしうしまがみ[やぶちゃん注:ママ。調べるに、正しくは「しまかみ」で清音である。])・島下(しましも)の二郡(にぐん)のみにて、六百八、九十釜に及べり。
[やぶちゃん注:「大坂大町三町人(おほざか《おほまちさんちやうにん》)の一《いつ》なる尼崎又右衞門《あまがさきまたゑもん》」所持する平凡社「世界大百科事典」の「尼崎又右衛門 あまがさきまたえもん」を引用する。太字は私が附した。『江戸時代の大坂城出入御用町人。初代吉次は摂津小清水の城主篠原右京亮の子といい,尼崎に生まれたため,大坂に出て尼崎屋又次郎と称した。1634年(寛永11)2代清孝の』時、『苗字を許されて尼崎又右衛門と称し,以後』、『代々』、『尼崎又右衛門を襲名した。4代茂孝の』時、『帯刀も許され,延宝年間(1673‐81)に新剣先船』(小学館「日本国語大辞典」の『けんさき‐ぶね』『剣先船・劒鋒舟』に拠れば、『「けんざきぶね」とも』読み、『大坂、大和川水域で、近世初頭以後使用された川船』(かはぶね)『大和川は大和、河内、摂津の重要交通路で、河内平野を北流して淀川に合流していたが、近世初期、その川底が浅くなり、上荷船の運航が困難になったため、浅い喫水の船が要求されて出現したもの。舳先を剣先のようにとがらせた細長く平たい船型(長さ四五尺余、深さ一・四尺)なのでこの名がある。正保三年(一六四六)上荷船茶船仲間が幕府から許可された二一一艘を古剣先船、延宝三年(一六七五)大坂の尼崎安清が許可された同人所有の一〇〇艘を新剣先船、また貞享三年(一六八六)大和川沿岸の村民が許可された七八艘を在郷剣先船と称し、合計三八九艘が就航して大和川流域の商品流通に大きな役割を果たした。宝永年間(一七〇四‐一一)に、大和川が大坂湾に直に注ぐように改修されたあとも用いられた。けんさき。』とあったものと同じであろう)『100隻を建造して,大和川の舟運に乗り出し,次いで元禄年間(1688‐1704)には尼崎新田を開発,さらに文化年間(1804‐18)には寒天一手取締りの特権を得た。初代が徳川家康に物資を供給して,その覇権確立を助けたため,同じく徳川氏と縁故のあった寺島藤右衛門家,山村与助家とともに,つねに城中に出入りし,江戸から到来の奉書を開封言上したほか,諸役人会合の席には必ず列座,城代・定番の指揮を受けて所用を弁じ』、『〈三町人〉と称された。惣年寄・町年寄の上位の格式であった。』とあった。
「丹波桑田郡(たんばくわだこほり)」丹波国の旧郡。現行の京都府、及び、大阪府に跨る。旧郡域に就いては、ウィキの「桑田郡」を見られたい。
「通商司」東洋文庫版後注に、『明冶政府の経済官庁(一八六九-七六三)。貿易事務管理機構として機能したほか、商業、金融、海運、物価調整、産業貿易関係法の立案など、幅広い業務も担った。』とある。
「攝州島上(せつしうしまがみ)・島下(しましも)の二郡(にぐん)」それぞれの現行の地区(孰れも大阪府内)は、「島上郡」のウィキ、及び、「島下郡」のウィキを見られたい。]
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